[抜書き]「宮本常一著作集 13 民衆の文化」

「宮本常一著作集 13 民衆の文化」宮本常一・未来社 (8058)
民俗学より見た日本文化/民衆と文化/庶民の世界/村共同体/過疎と へき地教育/身辺の中にある歴史/年中行事その他

     こうしたおびただしい木地物ははじめ近畿地方を中心にして製作 せられたと思われるが、中世末ごろから、この仲間の移動がはげし くなり、東は岐阜・長野・愛知方面へ、西は兵庫・徳島・広島・山 口方面へまでひろがっていった。さらに近江の領主蒲生氏郷が会津 へ転封せられてから、近江東小椋の木地屋たちを会津地方へ連れて いったといわれ、その仲間はまた会津から東北全体へひろがってい ったのである。ということは、それほどまた木器の需要が大きくな ったことを意味するものである。
     木器はろくろをつかって円形の椀や皿などをつくる者のほかに、 ろくろを利用しないでつくる木器も多かった。杓子・柄杓・桶のよ うなものをはじめ、鍬柄その他農具などがある。こうした物を作る 仲間はろくろ木地師たちほど盛んに移動はしなかった。材質をえら ぶのにろくろ木地師たちほど苦労しなかったからである。
     杓子木地や鍬柄つくりの仲間は山中に入って、適当な木を見つけ ると、それを伐って仕事するのだが、それらを一々家まで持ってか えるのは大へんだから、多くは山小屋をつくってそこで起居し、仕 事が終ると製品をもって家へかえるのである。その間山中での食糧 を自給するために、山を焼いて畑とし、ヒエ・アワ・ダイズ・ソバ などをつくった。いわゆる焼畑である。
    したがって焼畑の多かった地方にはもとたいてい木地屋が入り込ん でいたところが少なくない。大和吉野地方・美濃奥・白山地方の村 々などそのよい例だが、その他の地方にもこの現象は見られた。や がて焼畑を定畑にひらき、そこに定住して村をつくった者も少なく なかったが、山の奥にまで人の住むようになったのは、日本の民衆 がおびただしい木器を使用し、それを供給するための職業がかつて この国に栄えていたことも大きい理由の一つである。
    (《三 庶民の世界》P.94)

     (イ) 第一、大阪府の地図を開いて河内平野の村々を見たとき、 誰でもまず村が集村になっていることに気付くであろう。
    村は古いものほど、集村の形をとっているので、逆にいえば、集村 の型で密集していればいるだけ、その村は古いということができる。 それは古い時代ほど、人間生活を脅す野獣の防禦をまず考えなけれ ばならなかったからである。そうとすれば、こんな平野の真中へ、 いったいどんな野獣が出たのであろうか。たとえば平安時代には大 和平野の村に狼がしきりに出ている。また今から100年か150 年前、家斉将軍の時代に、東京の東の小金ヶ原というところで猪狩 りをした記録が残っているが、一日でなんと千頭にのぼる猪をとっ ている。それほど、猪は関東平野を横行していたのであった。
    (《四 村共同体》P.130)数字は漢字表記を変更した。

     ところが、他から技術がもちこまれると、こういう体制はいつの 間にか崩れてゆく。豊後地方には手先の器用な人が多く、寺や神社 の建築などまで手がけて、豊後の番匠と呼ばれていたほどで、その 出かける範囲は中国西部から四国西北部・北九州にひろがり、大島 の人々もこれから学んだのであった。中部地方には飛騨の大工がい て、全国各地にひろがっている。飛騨の匠は一人ではなくて、そう した人々の群の総称なのであった。
     屋根葺も専門家ができてくる。安芸の屋根屋は高田郡山中から出 て熊本におよび、破風を持たない広島屋根を作っている。紀州の屋 根屋は希見峠の柱本の人々で、三重・奈良・大阪をはじめ、播磨の 加古川辺まで行っている。関東では会津の屋根屋が有名であった。  建築に専門家が出てくると、村の人びとはそうしたことをしない ですむので、手伝いの手がすいてくる。労力が少なくなり、手伝う ことが少なくなると、かえって義理が欠けるようになる。家は村の 公のものである、と考えられるからである。それで親戚の人びとが よって、働く大工のために大工振舞いをし、普請をしている家のた めに「普請見舞い」ということをする。元来日本人の食事は二食で あった。三食になったのは徳川時代に入ってからのことで、応仁の 乱以後、主食が欠乏し、人びとは野菜などを入れたものを食べるよ うになり、雑炊が始まった。しかし、それでは腹がへるので、二度 の食事を三度に食べるようになったことが、ヴィレラという宣教師 のヤソ会通信によって想像される。日本人の食事は元来、米を蒸し たもので、これをイイといい、炊いたものはイイではなくカユとい った。したがって今日の飯は、実はカタカユで、今日の粥はヒメカ ユである。それでこそ二食であったのであるが、大工は働くので、 これに中食を出した。
     すなわち大工振舞いであるが、これを新潟から福井へかけてはゴ チョウブルマイといっている。うける方からいえばゴチョウヨバレ で、大工のみが三食を食う特権階級であったから、ついに大工のこ とをもゴチョウというようになった。このゴチョウが午餉のことで あることは、柳田先生の説で明らかであるが、これを「牛腸」と漢 字で書いた姓がある。芝浦に海軍工廠ができたころ、芝浦橋へ新橋 からきた大工が下請の仕事をしていたが、そこに牛腸という姓の者 が何軒かあった。
    (《四 村共同体》P.162〜163)

     酒盛りは、もともと神の祭の時に行なわれたのである。宮座など では厳重な祭を終えた後、そのお下りの御神酒を頂いた。最初に、 酒が上座から順々に下へ流されて行って終るのを初献という。この 際、初献の肴がたいてい定まっている。そして一人一人飲むごとに 謡をうたうので、そうしたことをウタゲというが、古い酒盛りには かならず謡がついていた。謡の座で有名なものは春日神社の猿楽座 であるが、大和の天ノ川にもあり、河内の牧岡にもあって、座の人 たちが村の人たちの指導にあるいた。したがって、こういう酒盛り は厳重な秩序の下に行なわれたのであって、村々の祭にも謡がひろ まっていった。今日では、こうした儀式は結婚式のような厳重なも のにだけ残っている。女が謡うものに「ひらく」という古い調のも のがあるところもある。こうして一献二献とそれぞれ厳重に進んで 五献におよぶ。そして一献一献の肴がちがっていて、この肴を見た てることを「献立」というのである。盃も後にはカワラケから漆塗 の立派なものにまでなり、三々九度のように三ツ盃になったりした が、室町時代には、一献ごとに盃を改め、五献盃は五枚重ねであっ た。しかし、こうして五献を厳重にしていると夜明けになってしま うので、三献ぐらいを大きい盃でして、後は一人一人盃を持って勝 手にやるようになった。これを穏座(または隠座)というが、「オ ンザノハツモノ」が出るようになると座が乱れてしまう。世が移っ て、この穏座ばかりが酒盛りであるようになってしまった。
     五献を早くするために、関東では膳の上に五つの食器を出してお き、その小さなツボから皆がいっせいに飲むことをはじめた。この 際、左手前におかれた食器が一番後に用いられるわけであるが、こ れを一番よく飲む人にすすめるために、順序を飛ばして左の方から 始める。「左きき」という語はこれによるものといわれている。
     以上述べてきたのは、こうした古い記憶が私たちの日常生活中に、 いかに多く残っているかを考えて欲しいためであって、私たちは、 今もお互いが一杯をくみかわさないと親しみを覚え難いのである。
     酒は元来、女の人が作ったものである。宝島や大隈半島や、遠く 離れて東北地方でも聞いた話であるが、祭の前に女の人が酒を作る のであって、米を口の中で噛んで、唾液中の酵母によって酒を作る、 という原始的な方法であった。酒をカム、カモスというのも、こう いうことからいうのであって、女をオカミサンといっているのとも 考え合わされる。中国では杜氏のものが酒を作ったというが、日本 では刀自と書いて老女をさしているのも面白い。西宮では酒作りを トウジといっている。 ちゃんと坐って酒盛りをしていた時には、 刀自も酒席に出て、一献一献をついで行ったであろうが、それが乱 れて刀自は退き、遊女や芸者が出てきたが、そんな形で古い昔の姿 をとどめているのである。
    (《四 村共同体》P.164〜165)

     こうして、この学問がようやく盛んとなってきた昭和の初年に、 たまたま左翼の学者たちで自分らの学問を反省し転向する人々が続 出したのであったが、これらの人々の中に、もう一度真剣になって 村里の生活を省み、新しい態度で村落社会を研究しようという機運 さえ動いてきた。こういう時に、柳田先生の指導によって、先生の もとに集った人々によって山村民俗の同時採集が行なわれ、まとめ られたのが『山村生活の研究』であった。これは、それまで行なわ れてきた学問の割拠的な、かつ利己的な方法を打破したもので、チ ームワークの学問を樹立すると共に、その寄与するものがいかに大 きなものであるかを示したのであった。共同研究の可能、すなわち 同一条件と同一方法とによって、同一の研究がなしとげられる可能 性を実証したものとしては、実に劃期的であった。
     一方、郷土研究や郷土教育が学校教育にも採択されたのであった が、当時の郷土研究は大きな誤りを犯していた。その一つの原因は、 郷土を郷土として孤立的に考えていたことである。郷土も有機的に 日本社会に連なっているかぎり、一つの郷土のみを切り離しては、 その研究は死んでしまうのである。たとえば、大和川附替えの文書 を見てゆくと、附替えに反対した村々の言い分は、河内平野では、 川が南から北へ流れるのは自然であって、自然の理に反したことを するのは土地を失ない、天地の理法に背くわけだというのである。 これに対して、下流地方では洪水の悩みから、おそらく附替えの嘆 願をしたに違いない。今までの郷土史家は、単に一ヵ所のみの資料 によって考察しており、その議論は一方的で偏見を養うにすぎなか った。年貢一つについても、庄屋には庄屋の言い分があり、領主に は領主の考え方がある。同じ郷土の中ですらもこうした一面がある のであるから、郷土を考察する場合には、あらゆる角度から、郷土 を全体的に見ることが大切なのである。いま仮に、ここに一枚の古 文書が出て来たとして、その村をこの文書だけで解釈しようとする のは、今日までの『古事記』『日本書紀』だけの検討に止まった日 本史研究と同じことになる。この村(長吉村)の古い文書を見ると、 村方からいえば、大阪のような都市は唾棄すべき人間の巣窟のよう にいわれている。しかし、村の人々が自分の土地を見棄ててしまわ なければならないほどに、農村が行きづまっていたのかもしれない のである。その証拠には、その唾棄すべき都市がぐんぐん大きくな っている事実である。このためには、郷土は一村だけで観察しては ならない。真の郷土教育は、郷土の一現象を捉えるだけではなく、 その背後にある大きな法則に気づかなければならない。そうしてこ の法則こそは、一般に通ずる道を村の人々に明らかにしてくれるの である。同じ歴史にしても、土橋氏の『河内先哲伝』は郷土史であ るが、松好氏の『新田の研究』は郷土史ではないのである。この区 別は普遍性があるかないかによって決定する。普遍性というのは、 法則の上に立脚するのであって、教育もまた、大きい理念と法則の 上に立脚せしめなければならないのである。しかもその大きい理念 と理法を見出す地盤になるものは、あくまでも郷土でなければなら ないと思うのである。
    (《四 村共同体》P.196〜198)

     平野地方にも親方はいた。その中には開墾によって地主になった 者も多い。姉家督、姉分家などの濃厚に出る山寄りの村からもっと 広々とした平坦地へ出た地方で、姉家督はかなりうすれている。た いていは米単作をおこなっている。そういうところには大きい川が 悠々と流れており、川が交通路として使用され、したがって河岸の 港には米その他の物資移出や生活必需品移入の問屋が発達していた。 北上川流域にはそういう川の港が10ヵ所以上もあり、阿武隈、最 上、雄物、米代などの流域にも川港は多く、そこの問屋はもと倉庫 業から発達していったものが多いが、それらが、貨幣や農民の生活 必需物資を持つことから、農民の土地をあつめていった。そして不 在地主ができ、また農民は自作から小作へと転落したものが多かっ た。拓くべき余地もないところだから人も無闇にふえては困るので、 産児制限も盛んにおこなわれたが、それでもなおふえていく子供の 処置にこまって、女の子は遊女などに売ることが多かったが、男の 子は年季奉公に売れらて(マゝ)いった。(※売られて)山形新庄 地方はとくに貧しいところがあったから、二、三男を関東の養蚕地 帯へ売ることが多く、七八歳から十二、三歳までの子供を、途中で にげないように数珠つなぎにして北から南へいく群を、春さきには よく見かけたという。たいていは四〇すぎの女がつれていた。この 女たちを福島県では最上婆といったという。最上は新庄地方の別名 である。それが明治の中頃まではおこなわれていたのである。
     山形県庄内平野でもこうした子供の処分に困って、酒田の沖の飛 島へ売ることが多かった。飛島はワカメやスルメの多くとれるとこ ろで、それを五月になると船につんで酒田へ来、庄内平野の村々へ 売りあるいた。この月をサツキ船といったが、庄内の村々の貧しい 家ではあまった子供を島民に託したのである。子供をつれてかえる のを人にみられてはわるいので、ワカメやスルメをいれてきた南京 袋に入れてかくして島へかえってきたので、これを南京小僧といっ たという。そのうちに北海道のニシン場へ多くの労力が吸収される ようになると、平野の余剰労力をのせた川崎船が北海道へ出向くよ うになって、飛島へやる南京小僧の数はへった。
    (《付一 身辺の中にある歴史》P.271〜272)

     これらの事実を通して今実に大きな人間の革命がおこりつつある と思うのは私一人であろうか。これから、二〇年、今の子供たちの 大人になってゆく時代の変化は、想像をこえるものがあるのではな いかと思っている。あるいはそうでないかもわからない。今から六 八年まえには西欧の影響によるあそびの仕方の変化をおそれて、古 いあそびを記録した。しかしあそびのあり方はそれほどかわらなか った。いまあり方が大きくかわろうとしている。いまいちどこまか に記録しておく必要はないものであろうか。
    (《付二 年中行事その他》P.321)