[抜書き]「宮本常一著作集 30 民俗のふるさと」

「宮本常一著作集 30 民俗のふるさと」宮本常一・未来社 (8062)
都会の中の田舎/町づくり/村と村/村の生活/村から町へ/
開拓のあゆみ/経営段階から見た村/隣村/町


     町づくり/町の芽/
     山の中の町
     五万分の一の地形図を見ているといろいろのことを教えられる。 中国地方の山中や三河(愛知)地方の山中のように比較的高い山の ない山中では村の家がばらばらに散在しているが、大体一二キロく らいの間隔をおいて人家の密集した集落があり、多くはそこへ町の 名がついている。たいていは谷間にあって大きい街道に沿っている。 そこには昔から商人が住んでいて、周囲の農家はそこへ買物に出た り、また物を売りにいったりした。同時にまたそこに住む仲買人た ちは農家でつくったものを買いあつめにもあるいたものである。そ れらの町と町との距離が一二キロ内外になっているのはおもしろい。 昔はどこへいくにもほとんど徒歩であった。そして一時間の歩行距 離は四キロである。一二キロのほぼ中間に住む人は、町までいくの に片道一時間半かかる。それを往復すれば三時間になる。買物など してくれば半日の仕事であり、用事が多ければ一日の工程になる。 ちょうどそれくらいのところに人はささやかな交易場をつくったの であった。しかしこのささやかな交易場だけでは事足りないので嫁 入支度をととのえるとか、りっぱな家財家具をととのえるとかいう ようなときにはさらにその向こうにある大きい町まで出掛けていっ た。自分で出かけなければ向うからきたものであるが、そうした遠 方交易には牛馬が利用されたものである。
    (《町づくり》P.51〜52)



     農民は多くの場合一カ所に定住して農耕にはげみ副業もおこなう。 その農民が遠い市場までその生産したものを売りにいったり、また 必要なものを買いに出ていたのではどうしてもそのために多くの労 力をくって生産は上がらないことになるので、交易や運搬はおのず から別の人があたることになる。これは山間その他辺僻な土地ほど その傾向がつよくなるのだが、一概にそうともいえない。宮城県地 方には「貧乏人が二〇軒あれば店屋が成りたつが、金持ちが二〇軒 あったのでは店屋がつぶれる」という諺(ことわざ)がある。貧乏 人の二〇軒は金に困っているときにはたいてい店屋から品物を借り てつかっておき、金のできたときに支払う。その方が少々高くつい ても便利なのである。だが金持ちは小さい店で物を借りることをし ないで遠くの大きな店へ買いにいくものだそうである。地方の小さ い町にはこうした原理にもとづいて発生し発達していったものもあ った。
    (《町づくり》P.54〜55)



     賃貸し屋あれこれ
     新潟県蒲原(かんばら)平野地方には貸鍬(くわ)の制度があった。 鍬を買うことすら困難な小作百姓たちは鍛冶屋から鍬を借りてつかう。 鍛冶屋は鍬一挺を米一升とか二升とかで貸し、秋になるとその米をあ つめにいく。また鍬がいたんだものは、先をとりかえたものと交換す る。こうして鍬を何百挺というほど持っていることによって鍛冶屋は 水田を二町歩も三町歩も耕作しているほどの米を得た。
     また山形県庄内(しょうない)地方には貸鍬のほかに、貸鎌(かま) や、貸鋤(すき)の制度もあったという。貧農にとってはそれによっ て搾取されることになるけれども一時に多くの現金を出さなくてもす むということで利用したのである。
    (《町づくり》P.55)



     村と村をつなぐ信仰集団
     大阪平野、奈良盆地の村々は近世に入ると幕府領、旗本領、小大 名領が入り乱れて領有関係は実に複雑になってくる。だから隣村同 士でも領主のちがっていることがあり、はなはだしきは一村が二人 も三人もの領主によって支配されている例もみられた。それが村々 の共通意識を育てていくのに大きな障害になったにもかかわらず、 村人たちが利害をともにするような事件のおこったときは、すぐ連 合し、各村の庄屋連名で奉行所へ訴え出ている。これを国訴といっ た。そうした国訴を成立させたのはおたがいの間にすでに共通感情 が存在していたからであろう。
     これはひとり近畿諸村の先進地に見られたものばかりでなく、各 地にそれがあった。たとえば、牛馬が死んで新しい牛馬を買おうと するとき万人講(まんにんこう)をもよおして、その金をもとにし て買えばふたたび不幸をくりかえさないといわれている。万人の人 から死牛馬の供養塔のために金をうける 昔は一人一文、明治になっ てからは一人一銭であった。「万人講でございます」といって村々 をあるいて喜捨をうけ、その数が一万に達すると僧をまねいて牛馬 の供養をいとなみ、供養塔をたて、集った金に必要な金を加えて牛 馬を買う。この万人講の供養塔を徳島、岡山、大分などで見かけ、 同様の伝承をきいたから、もとは西日本にひろく分布していたので はないかと思われる。こうしたことが共同連帯感を生んでいくので ある。
    (《村と村》P.141〜142)



     牛馬の放牧、砂鉄の製錬よりはすこしおくれて、山間に住居をも とめて移動した人々に木地屋がある。木地屋というのは木で椀や膳 などの食器をつくる人々の仲間のことである。この人たちは多くろ くろを使用した。ろくろを使用して木を削るためには、鋭利な刃物 を必要とする。日本の鉄はマンガンを含んでいて、鉄の質が強靭で、 ろくろ細工に適していた。そのうえ、日本の山地には木工に適した とちぶななどの木が多かった。と同時に、多湿の国なのでうるし の利用にも適していた。このことから土器時代の次に木器時代がく る。弥生式土器の次に須恵器、土師器の時代がくるのだが、それか ら鎌倉時代に陶器がおこなわれるようになるまでの間、土器の空白 時代があるのは、木器が流行したためである。
     奈良時代から平安時代にかけて木器の製作がいかに盛んであった かをものがたるものに、大和十大寺の百万小塔がある。孝謙天皇 (在位七四九−七五六年)の頃につくられたものであるが、一カ寺 に一〇万基ずつを納めたもので、その小塔はいずれもろくろを用い てつくられた木製のものてある。これほどの塔をつくり得る工人が 当時すでに存在していたということは、山間において木器を製造す る人々がいかに多かったかという証拠になると思う。この人たちは 木器製造に適した木のあるところを見つけると、そこに住み、木を きり、ろくろを用いて食器をつくるとともに、付近の緩傾斜地を焼 いて、あわ、そば、ひえなどを作って食料にあて生活をたてた。中 部地方西部の岐阜、福井、近畿地方の滋賀、奈良、兵庫の山中には、 こうした木地屋の定住した村々が多く、それらはいずれも焼畑をお こなっているのである。山の中腹に点々と存在する集落にはそうし たものが多く、地図のうえでも一見してそれとわかる。
     このように日本の畑作の成立は、他のもっと重要な別の生産目的 で住みついた人々が食料を自給しようとしておこなったものがその 最初であったと思われるのである。
    (《開拓のあゆみ》P.214〜215)



     条里制  畑作が第二次目的によって発達していったのに対して、水田作は 米を作ることを主業とする人々によって発達していった。そして、 水田作の発達はきわめて急速にすすんでいったもののごとくである。
     大化の改新によってスタートした大々的な耕地整理事業、条里制 の分布をみていくと、北は仙台、山形付近から、南は鹿児島におよ び、多くの国府のあった付近にこれをみかける。そして最も広くお こなわれていたのは、滋賀、奈良、大阪、香川、佐賀、福岡、岐阜、 愛媛、福井、兵庫等であって、近畿を第一とし、北九州、四国北部、 中部西辺に密度が高い。すなわち、これらの地方において水田農業 はめざましい発達をとげていったのである。平安時代に書かれた 『和名抄』と昭和六年の統計にみえた田数とを比較すると、第1表 のようになる。
    (第1表 水田の増加)
     926年1931年
    丹波、丹後、山城27,383町41.874町
    和泉、河内、摂津28,432町36,716町
    大和17,905町33,382町
    近江33,402町67,908町
    越後14,997町179,286町
    日向4,800町47,463町
    越前、若狭15,143町55,672町
    豊前、筑前、筑後40,000町112,415町

     第1表によってみると、近畿および北九州では、耕地の拡大は一 〇〇〇年の間に二倍内外ということになる。しかるに、全日本につ いてみると、一〇四万町歩が三〇〇万町歩に増加しているのである。 すなわち水田のみで三倍になっている。したがって、このような増 加は、平安時代以後においては、近畿、北九州以外の地において目 ざましかったことをものがたる。越後および日向などがそのよい例 であろう。つまり近畿、北九州の平坦部は、平安時代の中頃にはほ とんど水田化されてしまっていたとみられるのである。
     これらの水田は、養老律令(七一八年)によれば、六歳に達した 時、良民の男は二反、女はその三分の二を口分田として班給され、 死後はこれを収公し、また家人、奴婢は良民の三分の一を班給され るきまりであった。そして班田は六年毎におこなわれることになっ ていた。
     元来、一反は三六〇歩であり、一歩はほぼ一間四方。一歩にでき る米はもみにして一升を通常とし、玄米にして五合であった。五合 は通常大人一日の食料である。三六〇歩すなわち一反で一年の食料 を得ることになり、残り一反が自己の食料以外の再生産にまわされ ることになる。ただし、一人二反をあてたのは一人一年間の耕作能 力が二反内外であることを意味する。ところが、奴婢の耕地が三分 の一にすぎないということは、この原則にあわない。それは公田の ほかに存在する私田を耕作したものと思われる。万葉集にも「私田 を刈る」歌がみえている。「奴はあれど私田刈る」とあって、奴の いるような家では私田をもっていたことが推定される。つまり奴を もつような家では私田があるために、奴に対する班給がすくなかっ たのであろう。
     同時にまた奴の存在が、公田のほかに徐々に私田を拡大していく 動力になったものともみられるのである。
     そのはじめ、水田は水の十分な沼沢地にひらけていった。このこ とは、弥生式の水田遺跡が地下数メートルのところで発見されるこ とからでもわかる。それらの水田がやがて洪水によっておしながさ れた土砂の下にかくれてしまうような低地が、最初の耕地となって いる。そういうところでの耕作は全く容易ではなかった。登呂でも 山木でも、畔になるところには棒杭や板を並べて打ちこみ、それに よって畔の土をささえている。そうした田での稲作がどのようなも のであるかは想像にかたくない。今日でもなおそうした沼沢地の田 植を見かけることができるが、腹まで沈みこむような田の根付けは 容易でなかった。そうした田での作業に、身体がしずみこむことを 防ぐためには大きな四角な枠のある下駄をはかねばならなかった。 これを田下駄とも大足ともいっている。そして、この大足が伊豆山 木の遺跡からは三十数枚も出土していて、当時の湿田耕作の状態を しのぶことができる。
     耕地が沼沢を利用したことから、集落もいきおい低地に移ってく る。水田耕作を主とした村落は多くは水辺に成立している。そして、 それらの集落は、山木、登呂、唐古のように地底数メートルに埋没 し、その上に新しい耕地のひらけているものもあるが、そうでない 集落もすくなくない。たとえば、五万分の一地形図のうち、大和盆 地、大阪平野などのものをひらいて丹念に見ていくと、多くの集落 が条理に沿っている中に、条理に沿わないものがある。それが地形 による場合もあるが、そうとのみいえないものがすくなくない。こ のような村は、たいてい条理以前からの集落とみてさしつかえある まい。それが多く川のほとりなどにあるのは、水田が早くそういう ところにひらけたことをものがたる。しかもそういう村は、今日で はなんの特徴もないような平凡な集落である。ただ、こういう集落 には、多くの場合古い神社がある。延喜式神名帳にみえた式内社、 『六国史』に見えた国史現在社などである。そうした社でなくても 口碑の古い社が多い。
    (《開拓のあゆみ》P.215〜218)



     さて、こうした新田の広さと新田村の戸数にはほぼバランスがと れている点において古代の条理村落と相似たものがあるが、条理村 落が一人平均二反を基準として成立していたのに対し、新田村では 一人当りの耕作面積が三反ないし五反になっている。これは一〇〇 〇年の間における農業技術の進歩をものがたるものであろう。つま り、農具の改良がもたらした耕作能力の増大が反映している。
    (《開拓のあゆみ》P.240)



     日本の農業は、除草農業だといわれている。種子をおろして収穫 するまでのあいだに、もっとも多く必要とする労力は除草作業であ る。最近は肥料や薬品のおかげで雑草をふせぐ力が非常に大きくな ったが、明治の終わり頃までは、田の草など四、五回とったもので ある。それも、田打車や八反取のような除草機のできるまでは、田 面を四つ這いになってとっていた。麦なども、四回の中耕除草はふ つうであった。とくに、夏の畑作は雑草が茂りやすかった。
     こうして、日本の農民は、作物を雑草から守るために懸命だった。 西日本では、種子をまきつけてから、そのあと収穫するまでのあい だの作業を、シゴまたはシュウリするといっているところが多いが、 シゴは古い文献によると守護と書かれている。つまり、作物を雑草 の害から守るための作業なのである。この言葉は、日本の農業の実 体を如実にものがたっている。また、シュウリは修理であろう。
     これはまた、農具の形態にもよくあらわれている。日本の農耕具 は向こうへ押すものは少なくて、手まえへ引くものが多い。備中鍬、 板鍬をはじめ、農家で持っている農耕具の大半はこうしたものであ り、それはもともと除草を主な目的としている。ヨーロッパでは、 犁やスコップやフォークのように、押したり突いたりするものが多 い。そこでは、除草よりも深耕が作物育成の大事な条件になってい る。しかし、日本のばあいは、深耕よりも除草が主になってくる。 そのうえ、一反あたりの投下労力も大きい。
     江戸時代の終わり頃、西日本で水田一反の稲作に投下された労力 は五〇人役内外とみられ、東日本でもほぼそれくらいになっている。 この一人役は、夜が明けてから日が暮れるまでのあいだである。こ のほかに、肥料にするための草刈があるから、この日数はもっとふ える。このようにして水田五反をつくるとすれば、最低二五〇日は 必要になり、裏作に麦をつくれば、また同じくらいの日数がかかる わけである。
     したがって、夫婦で朝から晩まではたらいても、五反以上の水田 を耕作することは困難になる。耕作のために一人一年二五〇日はた らいても、そのほかに薪取り、草刈、藁仕事などがあるので、三六 〇日を休みなしにはたらかねば経営はむずかしい。しかも、このよ うな経営は、たえず心をこまかにくばっていなければ成り立たない ものであって、他人を雇ってこれに任せたり、粗放なやり方をして いたのでは、反当り生産を大きくあげることはできない。こうした ことが、家族中心の小規模経営を生み出したものと思われる。
    (《経営段階から見た村》P.261〜263)



     日本の近代の林業は、農家を母体にして発達してきたものである。 山地は、明治の終わりまでは、薪炭や建築用材を採るために利用す るよりも、田畑の肥料にするための採草地か、または秣場、牧場な どに利用される面積のほうが大きかった。そして、そういう土地は 多く共有地か入会地になっていた。農民利用の山地や藩の用材林は、 明治に入ってたいてい国有林に編入されたものである。
    (《経営段階から見た村》P.263)
      秣(まぐさ)



     単一経営を主とした村
     日本の農村は、藩政時代にそのほとんどが家族的単一経営であっ たといってもよい。それも、食料生産を中心にした農業で、東日本 の低地帯では稲作一本、西日本では米麦二作、畑作地帯では麦、ア ワ、甘藷、キビ、ソバなど雑穀を多くつくった。
     ただ、近畿、瀬戸内海沿岸地方では、棉、甘藷、タバコ、菜種、 藍などの換金作物がつくられ、それにともなう加工工業が農村の兼 業として存在し、それがマニュファクチュアとして発達した場合に は雇用従業者が少なからず存在した。そういう村々は、日本全体か らみれば何ほどもなかった。明治一二年から二四、五年までのあい だ、日本の輸出品中もっとも大きかったのが米であり、およそ三〇 〇万石内外にのぼっているが、他の農業関係輸出品は、それよりず っとおちて生糸があり、その他はとるに足らないものであった点か らみても、日本の農業がいかに米作一本に偏っていたかを知ること ができる。これは、まったく封建政治のもたらしたものであるとい ってよく、それがながいあいだ日本の農業を停滞させてきたのであ る。食うものを持っているということが、人々を最低生活に甘んじ させ、年々おなじような作業のくりかえしが生活の根幹になってし まう。明治以降の農村は、そういうところから出発した。つまり、 日本農村のプリンシプルは、家族耕種単一経営にあったのである。 日本が二六〇年ものながいあいだ鎖国をつづけてこられたのも、そ のような農業が存在したからである。もし、日本の農民の大半が交 換を必要とする物質を生産していたならば、長年の鎖国は不可能で あったろう。元来、自給中心の経営は、農村の進歩を停滞させる。 進歩は、多くのばあい、生産物の交換のなかから生まれてくるが、 それは広い視野と客観的な消費価値の判断が必要だからである。数 学は、交換を必要とする社会に発達する。
    (《経営段階から見た村》P.267〜268)



     江戸時代、養蚕のやや進歩した関東地方の山麓台地地帯でも桑は 精々見付畑に植えられていた。見付畑というのはもっとも地力の低 い畑のことである。ところが明治に入って海外との交通がひらけ生 糸が重要な輸出品となるにおよんで、養蚕が急速にのびてきた。
     それ以前、世界第一の養蚕国であったフランスに蚕の微粒子病が 発生した。これにかかると蚕は黒くなって死ぬ。その蔓延は言語に 絶したもので、フランスの養蚕業は絶滅しようとした。当時この国 のすぐれた科学者ルイ・パストゥールはこの病気がバクテリアの繁 殖によっておこるものであることを顕微鏡検出によって知った。パ ストゥールは微粒子病を防ぐには、その菌のいない蚕種を利用する よりほかないと考え、日本の蚕に目をつけ、蚕種を日本から入れる ことにした。そのため生糸よりもまず蚕種紙の輸出がのびていった。 がそのような養蚕はフランスの微粒子病が征服されてしまうと成立 しなくなり、明治一五、六年頃には蚕種紙の輸出は絶えてしまった。 この打撃によって倒産した養蚕業は多いが、生糸をとる養蚕はしだい にのびていった。
    (《経営段階から見た村》P.283)



     江戸時代には一般農家は草葺のみを許されていた。町屋は板葺が 主であり、寺および武士の家は瓦葺を許されていた。そうした農家 がしだいに板葺や瓦葺にかわってきたのはまったく養蚕による貨幣 の浸透にあったといってよい。養蚕地帯の農家は多く瓦葺になって いるのである。ただそれだけではない。養蚕の盛んな埼玉、群馬、 長野、岐阜、山梨の山村地帯には大きな二階造りが多い。蚕室造り といっているが、いずれも養蚕のために造られたもので、蚕を飼う と、その上にあたっては広い場所を必要とした。そのために二階 造りとして二階を利用したものである。農民がこのような家をたて たのは養蚕の持つ企業性にあった。
    (《経営段階から見た村》P.284)
      蔟(まぶし)



     リンゴについで大きな生産額を示しているミカンは、その栽培の 歴史が四〇〇年ばかり以前にまでさかのぼる。そして初めは九州西 南部と大阪府、和歌山県が生産地であったが、明治の終りから静岡、 広島、愛媛、山口、大分などがのびてくる。さらに、昭和初期の不 況をさかいにして養蚕農家がぐんぐんミカンにきりかえてくる。ミ カンはリンゴとちがって成育に時間がかかり、生産によって黒字を 出すまでに植栽後一〇年を要する。この長い年月の苦労にたえてミ カンにきりかえたのは養蚕の体験を持っており、経営がどういうも のであるかということ、ミカンの植付が一つの投資であることをは っきり自覚していたからである。しかもあたらしくミカンの栽培に のり出した地域は急傾斜地が多く、永年作物を植えつけねば土砂肥 料の流亡が多く、地力の維持が困難であった。
    (《経営段階から見た村》P.289)



     そういう変化を見るのにもっともよいのはカキである。カキは古 くから日本全国につくられていた。そして畑作地であれば大ていの 家に一本のカキをもっていた。これはカキしぶが必要だったからで ある。古い時代にしぶは器物の耐久保存になくてはならぬものであ った。防虫防腐剤としての効果は大きく、どのような家でもしぶを たくわえていたのである。そのカキのしぶをとらないで「ちかごろ 熟させて食う者があるがけしからぬ」というお達しの出た例が広島 藩にみられた。ところが、明治になってからはカキはしぶをとるよ りも食べる目的がつよくなってきた。
    (《経営段階から見た村》P.291)



     こうして日本の農村は、(b)型複合経営によるものがもっとも 順調に発達しているのである。そしてそうした村では役場、組合、 学校を中心にしたコミュニティ・センターを持ち、そこには生活用 具を売る商店街ができている。村人はそこで生活物資をととのえる。 しかし生産品の販売先はそこではない。生産品は遠い消費地へむか っておくられ、その商店街はもはや市場としての機能は失なってい る。コミュニティ・センターが市場としての機能を失なっていると ころほど農村の近代化がすすんでいるといってよい。
    (《経営段階から見た村》P.294)



     一つの谷を口の方からだんだん奥へ開き進んでいった場合、親村 はたいてい谷口近くにあるもので、そこへ強いつながりをもち、親 村を取引先にしている。美濃揖斐川の上流などはそのよい例の一つ であろう。初めは夏の間だけ出作り地で過ごし、冬になると里へ帰 って来た。夏の間は山中に小学校まで移動して行った。それがしだ いに出作り地へ定住するようになったのである。
     白山を中心にして加賀、越前、美濃、飛騨の間にはこうした出作 り地定住の村がきわめて多い。そして白山登山の道にあたっている ところでは親村となっているものはもと山伏や御師だったものが多 い。奈良県吉野山中でもこのことはいえそうであるが、親村が山伏 になっている場合、親村が谷口にあるとはきまっていない。
     おなじような仲間によって一つの谷がだんだん奥までひらかれて いっている場合には、村と村との間は大へん仲がいいしおたがいの 村のことを知りあっているものである。秋田県仙北郡西木村の上檜 木内は南北三里ほどの間に一八〇戸の民家があるが、その一軒に泊 まって、主婦から谷の家々のうわさを聞かせてもらったことがある。 部落ごとの特徴やドブロクの味まで知っている。その一軒一軒を訪 れたことはないはずだが、まったく驚くほど詳しいのである。村を つないでいるきづなはそんなところにもあるようだ。
    (《隣村》P.296〜297)



     こうして町の発達にはいろいろの要素があり、村、町、市、宿、 駅、津、浦などのよび方はそのままその性格をあらわすものとして 意義ぶかいものがあったが、明治二一年市町村制の制定によって、 市、町、村の区別がもうけられ人口の多少によってこの三つのもの の区別の基準が一応定められる。したがっていままで町といわれて いたもので、それが村のなかに内包せられたものがきわめて多いし、 従来村とよばれていたもので町制を施工したものもまた多い。
     同時に法制上の村(または町)のなかに、旧来の村を部落の形で 内包したものが大半にのぼっている。こうした行政町村は通常役場 を持ち、学校を持ち、また協同組合などを持って、一つの自治的な 有機体をつくりあげている。それにともなって、役場、学校、組合 などの公共機関のあるところが村の中心となり、町村民はそこに向 かって集まる機会を多く持つようになり、商家も軒をつらねて新し くコミュニティ・センターが形成されてくる。
    (《町》P.325〜326)



    09/01/24

    14/05/30:転記ミス訂正