[抜書き]「民俗学の旅」

「民俗学の旅」宮本常一・講談社学術文庫 (9021)
はじめに/1家の歴史/2祖父/3父/4母/5私にとってのふるさと/6郵便局員時代/7小学校教員時代/8柳田、渋沢、沢田先生にあう/ 9アチック・ミューゼアムに入る/10民俗調査の旅/11戦時中の食料対策/12戦後の農漁村をあるく/13山村と離島/14学位ををもらう/15日本一長い食客/16雑文稼業/17若い人たち・未来/あとがき


     安下庄というのは私の村の西にある大きな村で、ここには金持ち もたんさん住んでいたが、貧乏人も多くて、貧しい者は近隣の村へ 物もらいに歩いていたといわれる。それを安下庄の烏といったそう である。その人たちを揶揄(やゆ)した唄であった。近隣の村を揶 揄する唄はこのほかにも多かった。
    (《2 祖父》P.20)


     その島末の者の親子がトウゴンタオの上まで来て、久賀の町の広 いのにおどろいて、
    「とと(父)とと、久賀は広いのう、日本ほどあろうか」と聞いた ら、親父が、
    「馬鹿、日本は久賀の倍ほどある」と言ったという笑話がある。
    (《2 祖父》P.22)


     小さいときからこの祖父につれられて山へいった。だから村の人 たちは私を祖父のドウランといった。ドウランは胴乱のことで煙草 を入れる木をくりぬいた器でキセルを入れた鞘(さや)につけ、そ の鞘を腰にさすとドウランは腰にぶらさがっている。刻み煙草を吸 うた時代に、男たちはこの胴乱をいつも腰にぶらさげていたもので、 わたしは祖父のドウランのようなものであった。しかし腰にぶらさ がって歩いたのではなく、田や畑へいくとき祖父はオイコを負うて いく。オイコというのは荷を負うために作った背負枠で、そのオイ コにデボ(藁を編んで作った籠様のもの)をのせ、私はデボに入れ られて祖父に背負われて山へいく。それが大変うれしかった。さて 畑へいっても友だちがいないから一人であそぶのだが、六、七歳の 頃からは畑の草ひきをさせられた。「一本でもいいからひいてくれ、 一本ひいたらそれだけわしの仕事が楽になる」それが祖父のことば であった。はじめは草ひきをやめてどこかへあそびにいくことが多 かったが、少し力を入れて仕事をすると祖父はすごく喜んでくれた。 そして小学校へいく前ごろには半日くらいはだまって草ひきをした り、そのほか祖父の手伝いをするようになっていた。そうしてよく 働いた夜は祖父から昔話を聞くことができた。祖父は話の宝庫のよ うな人であった。いったい祖父はそれを誰に聞いて覚えたのであろ うか。そのうえ、まえにも言ったように歌がうまかった。
    (《2 祖父》P.24)


     またフィジーから帰る途中台風にあって船が沈みそうになったと き、人びとは金毘羅(こんぴら)様に祈願して、もし生きて帰るこ とができたらはだし参りをしますからと誓ったのであるが、船が神 戸へつくと仲間の者はそれぞれ郷里へ帰ってしまった。しかし父は 神への約束をはたすために船で神戸から多度津(たどつ)へわたり、 衰弱しきっているので人力車で琴平(ことひら)までいって琴平宮 の石段の下でおめしてもらい、高い石段を這ってのぼっていったと いう。それほど苦しかったことはなかったと私に時おり話してくれ たが、それでも不思議に生きつづけることができた。神に頼むとい うことは、同時にそれほどの義務を負うことになる。だから神には 物を頼むものではない、できるだけ自分の力にたよるべきであると いうのが父の信念であった。だから神社や寺のまえを通るときには 頭をさげたが、神に祈願することは生涯しなかった。
     いま一つ、それまで貧しい家をたてなおすためにいろいろのこと をしたけれども何一つ成功しなかった。そうして傷付いて帰ってき たのは故里(ふるさと)で、故里は傷付いた者でも迎えてくれた。 その故里を健全にしていくことが何よりも重要なことではないかと 考えるようになった。それでそれ以後は郷里を出ていくことを考え なくなった。
    (《3 父》P.29〜P.30)


     父からよく言われたことは「先をいそぐことはない、あとからゆ っくりついていけ、それでも人の見のこしたことは多く、やらねば ならぬ仕事が一番多い」ということであった。後年渋沢敬三先生か らそのことについて、実践的に教えられることになる。
    (《3 父》P.32)


     これはずっと後年、戦争中のことであるが、家の南にある白木山 の上に高射砲隊が駐屯することになり、海軍の兵隊達が日曜になる と山を下って民家を宿にして一晩泊まっていった。私の家へもそう した兵隊たちが来て泊まっていった。母はそういう人たちの面倒を よく見ていた。そればかりでなく、その人たちが戦地へいくとかな らず蔭膳を供えた。食事のたびにお膳の上に写真をおき、その日自 分のたべるものとおなじものを茶碗や皿に盛っておく。その膳が四 つも五つもならんでいるのを見た。とくに戦地へいっている人の御 飯は山盛りになっていた。腹のへらぬような願いからであった。ま たお宮へ参るときは、私をはじめ、その人たちの写真を全部もって 参って無事であることを祈っていた。毎朝お宮へ参ることは若いと きから一日も欠かしたことがなかったが、どこかで苦戦していると か、勝利をあげたとかいう話を聞くと、別に武運長久祈願のために 参ったわけである。私の子供の頃、父が「そんなに神様に頼むと、 神様はうるさがりはしないか」と言ったら「千に一つ聞いて下さっ てもありがたい」と母は答えた。父からはよくひやかされていた。 「また来たかと神様は後ろを向いているだろう」と。すると母は 「なかなか物をきいて下さらんような神様の方がよい。ひょっとし たら聞いてくれるかもしれんと思うから参る。頼みさえすれば聞い てくだされる神様へなら参らぬ」と父に答えた。本当は自分の力一 杯を生きての願いであったのだ。
     おそらく私のふるさとの百姓の家庭は、こうした家が多かったの ではなかろうかと思う。あるいは日本中の多くの家庭がこういうも のではなかっただろうか。
    (《4 母》P.47〜P.48)


     平和で単調で、おなじような日が続いていく中に、こうして晴れ やかで胸をとどろかすような日がその単調な日の中にはめこまれて いて、そのことのゆえにみな日々を生き生きと暮らしつづけてきて いるといってよかった。しかもこのように胸をとどろかす日の行事 はそのほとんどが自分たちの手で演出されたもので今日のように大 きな町へ出かけていって、そこでいろいろのものを見たり、たべた りして遊んでくるというようなものではなく、一日の祭りのために 何十日というほど準備や練習を日常のいそがしい生活のなかで続け てきたのである。
     このような行事は昭和の初めまではつづいていた。それが大正の 終わり頃からおそってきた不況で、冗費を省くように政府から言わ れて生活の簡素化が問題になっていった。そのことから当然旧暦に よる行事はおこなわないようにとの達しがあり、昭和五年に病気の ために郷里へ療養にかすった頃には大正時代の行事は半分も残って いなかった。旧暦の行事は新暦でおこなってもどうも気分が出なか った。ということは祭りの多くは午後から夜へかけておこなわれ、 日がくれると月がのぼってくるというのが旧暦の行事の特色であっ たが、新暦では行事と月夜との関係がまるでなくなったためであろ う。
    (《5 私にとってのふるさと》P.57〜P.58)


     私は有真香小学校へ勤めるようになってもその付近を歩きまわっ た。歩いていると、そのあたりの川の橋の下にも莚掛(むしろが) けの小屋のあることを発見した。川も小さく、したがって河原も狭 いから、小屋の数は大てい二つ三つであったが、その小屋に住む乞 食と仲よくなった。そして乞食の生活について教えられた。乞食に はそれぞれ領域があった。乞食のもらいは葬式のときであり、その ほか法事があればかならずもらいにいった。また墓に供えたものも みんなもらって歩いた。そうしたものだけで一年中食いつなぐこと のできる範囲をそれぞれの領域とし、領域のいくつか集まった上に 頭の乞食がいる。その領域は、世襲されてゆくものでもあった。乞 食たちは自分の領域の墓地の掃除はひきうけていた。そのほかこま ごました慣習などについても聞いたが、乞食には乞食の社会がきち んと存在していることに大変おどろかされたのである。
    (《7 小学校教員時代》P.72)


     私自身にとって歩くというのはどういうことだったのか。歩くこ とが好きだったのである。歩いているといろいろのものを見、いろ いろのことを考える。喉がかわくと流れの水を飲み、腹がへると木 の実やたべられる植物をとってたべた。人にあえば挨拶をした。そ のまま通りすぎる人もあるが、たいてい五分なり十分なり立ち話を していく。それがたのしかった。その話というのはごくありふれた 世間話であった。要するに人にあい話をすることが好きだったのだ ろう。同時にまた人の営みを見るのが好きだった。山の中を歩いて いて小松山の中にはいると、かならず松の樹齢を見る。松は一年に 一節しかのびないから、大体の年数がわかる。和泉山地の松山には 百年をこえる木は少なかった。それではそれ以前は何が生えていた のだろうか。またなぜ伐ったのだろうかと考えて見る。松以外の木 のあるところではなぜそんな木があるのだろうかと思ってみる。人 はよく山地を自然だとというけれど、人の手の加わらない山地は和 泉地方にはほとんどなかった。そしてそこには自分たちの生活に役 立つ木を植えていたのだが、どんな生活に役立てたのであろう。木 を見あげながら小半時も考えてみることがあった。
    (《7 小学校教員時代》P.76)


     「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていく ことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてし まう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つ けてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。 人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そうい うことはどんな場合にもつつしまなければならぬ。また人の邪魔を してはいけない。自分がその場で必要をみとめられないときはだま ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」などという ことばは私の心に強くしみとおった。そしてそれを守ろうと思った が、なかなか実行できるものではなく、人の意識にのぼるような行 動をとることの方が多いのである。
     先生はまた「これだけのことは知っておくがよい」とて民俗学を はじめ、文化科学に関係のある、先生の知人の一人一人についての 人物評をして下さった。それは尊敬する人に対して偶像崇拝的にな ってはいけないということ、つまりいつも正しい価値評価をして一 歩退いて見ることの重要さを教えて下さったのである。
    (《9 アチック・ミューゼアムに入る》P.98)


     先生は私のために掛け軸の字を書いてくださった。その掛け軸は 戦災で消失してしまったので、そのことを報告すると、昭和三十一 年にまた書いて下さった。その軸はいまも郷里の家の机辺にかけて ある。それには、

      争先非吾事静照在忘求

    とある。このことは先生自身の心にきめた覚悟のようなものである と思うが、同時に私にもっとも強く要請された人間としての姿勢で あると思っている。
    (《9 アチック・ミューゼアムに入る》P.99)


     私には、私自信の欠点がわからぬではなかった。そしてこれまで うけた先生方からいろいろの批評をうけた。文学の先生は「ブレー キのきかない男だ」と言った。またある先生は「タガのしまらない 桶だ」とも言った。また哲学の先生は「キャラメルのような男だ」 と言った。上顎につけば上顎の型がつき、下顎につけば下顎の型が つくというのである。言いかえればしまりのない人間ということに なろう。論理性がなく、感激すると自他の区別がなくなる。アチッ クへはいって最初の旅から帰ってきて、旅の報告を三晩つづけてし たあとで渋沢先生から「やっと終ったか」と言われたとき、がっか りもし、またよく喋ったものだと思った。しかしそれをさえぎりも しないで相槌をうちながら聞いて下さったから私も喋ったのである。 それでもう少し手短かに話さなければいけないと思った。
    (《9 アチック・ミューゼアムに入る》P.101〜P.102)


     山地の旅は心をしめつけるようなものがある。急傾斜に畑を拓き 家を建てている。それがまた分家を殖やすとなると、さらにその上 を拓いていく。大ていは焼畑(やきはた)をおこないつつ拓いたも ので、私の訪れた頃にはまだ盛んに焼畑がおこなわれていた。そう した山中に泥棒を泊める落し宿のたくさんあることも教えられた。 おそらく中世の生活のあり方をそのまま残しているのではないかと さえ思った。このような旅をして東京に帰ると三月になっていた。
    (《10 民俗調査の旅》P.114)


     新十津川は奈良県十津川から分村してきて開拓定住したものであ る。十津川は昭和十四年東京へ出るまえに歩いてみた。十津川は天 辻峠の南にあり、十津川の流域をその村域とする東西二八キロ、南 北五二キロ、村としては日本でもっとも大きかったが、山また山の かさなりあうところで、山腹の緩傾斜を拓いて焼畑を作り杣(そま) 仕事をおこなって生活をたててきた。ところが明治二十二年未曾有 の大豪雨にみまわれ、それが山をくずして湖をつくり、その湖の決 潰によって大洪水となり、
      流失家屋  二六七(戸)
      潰家    二五九
      半潰    一八四
      死亡 男   九〇(人)
         女   七八
      負傷     二〇
    の被害をうけた。そして被災者は三千余人の多きにのぼった。これ らの被災者は地元ではとうてい立ち直る見込みが立たないので北海 道移住を計画し、六百戸、二千六百九十一人が移住することになっ た。その第一回移民は十月十八日に郷里を出発し、第三回移民が小 樽についたのは十一月六日、移民全員が空知太屯田兵舎についたの は十一月十八日であったが、石狩平野はすでに雪に掩われていた。 雪の中で一冬をすごさねばならぬことは、食うもの着るものの不足 する被災者にとっては大きな苦痛であった。
    (《11 戦時中の食料対策》P.138〜P.139)


     小樽で二日をすごして函館に出ると、駅は本土へ帰る人たちで埋 められていた。私はもう乾パンを持っていなかった。町へ出てもた べるものを売っていなかった。時々イカの煮たのを売りにくる人が あった。高くはあったがすぐ売りきれた。中には何もたべないで我 慢している人が何人もいた。私も何もたべないで水だけで耐えてみ ようと思った。夜になると冷えてくる。立て膝を抱いて坐ったまま 小さくなって寝た。これを猿子眠という。山伏たちは山中修業のと きこうして眠る。こうすれば絶対風邪をひかないという。私もそれ を試みた。第一夜はこうして明けた。人びとは駅の近くから燃えそ うなものを見つけて持ってきては焚いた。そして第二夜が来た。
    (《11 戦時中の食料対策》P.141〜P.142)


     戦後多くの学者たちは一つの社会の中での富の偏在を問題にした。 ブルジョアとプロレタリア、支配者と被支配者。そのような対比の もので多くのことが論ぜられたが、それにもまして地域的な富の偏 在を問題にしてよいのではないかと考えた。山村を歩き、漁村を歩 き、僻地を歩いてみると、そこに住む人たちは都市に住む人たち以 上に働いている。その生きざまは誠実にみちみちているのに貧しい。 それがそのまま放置されている。国がゆたかになるということは隅 々までゆたかになることでなければならない。
     それと同時に人びとがもっとかしこくならなければいけないと考 えた。それぞれの土地に生きている人たちはみなそれぞれにすぐれ た生き方をしているが、横へのひろがりがとぼしい。比較と選択す る技術にかけている。それにはみんなが文字を読み、文字を通して 未見の世界を知り、そこで何がおこなわれているか、われわれはそ こから何を学ばねばならぬかを考えねばならぬ。
     かしこくなるということは物を考える力を持つことであると思う。 物を考えるには考えるための材料がかければならぬ。それは周囲に あるものをよく理解し、同時に、もっと広い世界を知らなければな らぬ。そしてまず自分の周囲をどのようにするかをお互いに考える ようにしなければならない。そして自分の住む社会の中にリーダー を見出していき、その人を大切にするような社会を作っていくこと ではないかと思った。
     どのような村にも浦にもかならずすぐれた人がいる。しかし自分 たちの周囲にいる者に対してはそのすぐれた点よりも若干の欠点の ほうが目についてその人を尊重しないことが多い。だがそのような 人を大切にしてこそ地域の開発はすすめられてゆき、またお互いの 知識も充実していくのではないかと考えた。私の旅はそれ以後そう した人びとを見つけることも目的の一つにした。そして農業指導の 旅は昭和二十五年頃までは旅の日数の半ばをしめていた。その後も なおつづいているが、体力的におとろえてからはみずから鋤鍬を持 って働くことはほとんどなくなった。
    (《11 戦時中の食料対策》P.147〜P.149)


     当時、私の健康は決してよいものではなかった。たえず腹痛があ った。それは十二指腸潰瘍のためで、渋沢先生から「軟禁」を申し わたされていたのである。「いくら忠告しても言うことを聞かない のなら、君の生命の保証はできない」と言われたので、離島振興事 業の推進のむずかしさをお話した。すると「それは離島振興課を設 けることを考えるのがよい。それには理解のある経済企画庁長官の 出たとき、代議士の誰かに国会で離島問題について質問してもらい、 大臣の言質をとるようにすればよい」と教えて下さった。
     そこで機会を待っていると、世耕弘一氏が長官になった。正直で 直情的な人だから質問者がよければ離島振興課設置は可能になろう と渋沢先生のお話で、参議院議員の矢島三義氏に質問してもらった。 そして経済企画庁に離島課設置されることになった。昭和三十四年 七月のことで、そのとき私は事務局長をやめて、平の幹事になって いた。
    (《13 山村と離島》P.179〜P.180)


     このようなこともあって昭和三十六年頃から執筆活動によって生 活をたもつようになっていった。だからどこか一定のところへ就職 しなければならないこともなかったのであるが、渋沢先生には別の 考え方があった。「本当の仕事をするにはそれぞれ足場を持たねば ならぬ。人はどこかで足を地につけていなければならない。農民の 強さはしっかりと足を地につけているからである。よい仕事をして いる者もまたちゃんとした足場を持っている。私の祖父は二つの足 場をもった。実業界に対しては第一銀行を足場にした。社会事業に ついては東京養育院であった。そこから物を見、事をおこなった。 そしてこの二つの足場からは生涯はなれることがなかった。私には アチックがある。アチックから物を見る。アチック的な姿勢で物を 見る。君もまた足場を持たねばならぬし、君自身もこれまでアチッ クを足場にしてきた。だがアチックでは給料が払えぬ。そこで足場 になり生活もできる場所が必要になる。その足場がぐらつくようで はいけない。それには自由に活動のゆるされる研究所のようなとこ ろがあれば一番よい。自由業はいけない。自由のようで、人に利用 されるだけでいつの間にか自分のゆく道を見失う
     私の身の上のことになると、この話がよく出た。食うために書く のはよいが、ジャーナリズムにひきまわされてはいけない。それが 先生の言い分であった。
    (《16 雑文稼業》P.195〜P.196)


     旅をすすめれば旅に出たし、村落の共同調査をすすめれば共同し てそれをおこなった。考古学の発掘もやれば、各地の石仏の調査も やった。そしてみな凝り性で一つのことに取り組むと容易にそれか らはなれない。
     火宮の調査はそうした調査の一つであり、彼らは気のすむまでそ こにかよった。はかも、技術などの調査はインテンシブにならざる を得ない。すると、長い時日を必要とすることになる。
     佐渡小木町や福島県田島地方へ調査にはいっている仲間はもう十 年近くも現地へかよっているものがある。そうした調査のあり方に むしろ私自身が教えられることがきわめて大きい。そして若い人た ちの追求力におどろく。渋沢先生のよく言われたチームワークの見 事さに心をうたれることが多い。
     一つ一つの事象は綿密に見てゆけばその中に歴史があり、変遷が ある。とくに生産や生活の技術が明らかになってくる。今日までの 民俗学には推定が多かったように思う。多くの断片的な材料を集め て、こうだろう、ああだろうというような言いかたをしてきた。し かし技術などはインテンシブな調査を通してその系譜がたどれるの ではないかと思っている。
    (《17 若い人たち・未来》P.200〜P.201)


     文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩し てゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆき つつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それ が人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のよう に思いこんでしまう。そういうことへの疑問は、現実の社会のいろ いろのことにふれていると、おのずから感得できるものである。そ して生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどの ことができるのか、それをためしてみたくなる。ところが今の日本 ではそれすら容易にためすことができない。自分自身の本当の姿す ら容易に見つけることができないのである。
    (《17 若い人たち・未来》P.203)


    ・・・しかし一人なり二人で歩いていると、どうしても相手の社会 にとけこまねばならないので観察がおこり、相手に同化することに 務めるようになる。
     こうした若者たちの姿に文明社会のゆくべき道があるように思っ た。私もこうした仲間について昭和四十九年にアフリカのケニアと タンザニアを歩いた。仲間の伊藤幸司君の古オードバイの尻に乗っ て走りつづけたのであったが、時には私一人になることがある。こ とばはほとんど通じないけれど、それでいて困ることはなかった。 そこには敵になる人がいなかったからである。それ以上に、農耕社 会の持つ共通する文化について知ることができた。われわれの多く の旅は異質のものを求めようとしておこなわれるが、同質のものを 求める旅もあっていいのではなかろうか。はるかな遠い国と思って いたアフリカ社会が実は意外なほどわれわれに近い。
    (《17 若い人たち・未来》P.204)


     そんなとき、田耕君が私の家へやって来た。昭和四十四年十一月 頃であったと思う。田君はそのまえ、昭和三十四、五年頃に私を訪 ねてきたことがある。生まれは鹿児島だが、放浪生活をしていて、 秋田から私のところへ来たのであった。愉快な人で半日話していっ た。その後一度電話をかけて来たが、姿は見せなかった。その田君 がいま佐渡にいる。「佐渡は観光ブームで島の人が観光客に眼をう ばわれている。この島におこなわれている鬼太鼓(おんでこ)はも とすぐれたものであったが、今は衣装もよくなり、太鼓を打つ所作 もはなやかになっているが、太鼓を打つのに力がはいらず迫力のな いものになっている。もとの素朴な力強いものにしたいために鬼太 鼓座を作ることにしたので協力してほしい」と言う。地方に住む若 者たちが自身を失ってきつつあるときであったから協力を約した。 そこで田君は四十五年八月に佐渡でおんでこ(鬼太鼓)学校をひら くことにした。私はその講師として出かけていって若い人たちと四 日ほど行動をともにした。七日ほどの夏季学校だったのだが、参加 した者の何人かがおんでこ座に入座し、この集団は活気を持ってき た。私の願いは「佐渡という日本の片隅にいてもその芸能がすぐれ たものであれば、正しく評価されるであろう。都会だからすぐれて いる、田舎だから劣るという概念を、こうした運動を通じて破るこ とができてらどんなに地方の多くの人びとを勇気づけるであろう」 ということであった。
     おなじ頃のことである。青森県上北地方の農家の主婦の手紙を読 んだことがある。上北地方が開発されるということになって、その 計画図を見せてもらった。その地図には地元住民の知らぬ間にたく さんの赤線がひかれてそれによって開発がすすめられようとしてい た。そういうことが許されていいのか、自分たちが東京の町へ赤線 をひいて改造計画をたててもそれはゆるされるのかという意味のこ とが書いてあった。なぜ地方は中央の言いなりにならねばならぬの か、なぜ百姓はえらい人の言いなりにならねばならぬのか、という 主婦の訴えに対して正しく答えられるものがどれほどいるのだろう か。
     しかし地方の人たちが胸を張って中央の人たちと対等に話ができ るようになるためにはまず地方の人たちが自分の力を高め、それを 評価する力を持たねばならぬ。おんでこ座の人たちの活動は、そう いう問題につながるのではなかろうかと思った。そして期待した。
    (《17 若い人たち・未来》P.213〜P.215)


     ところが昭和四十年から学校へ勤めることになり、夏・冬・春の 休み以外は旅がほとんどできなくなった。がかえって計画的に時間 をとることができるようになった。久賀で民具蒐集をはじめること に動きはじめたのは中年の人びとであった。これに呼応して老人ク ラブがたち上った。老人クラブにはまえからその動きがあった。若 い者も婦人会も参加し、まず家々に保存されている民具のすべてを 調査させてもらうことにした。調査が進んでいくにつれて、町家の 人びとは不要なものは差し上げてもよいというので、もらいうける ことにした。そして何千点というほどのものが集まったのである。 集まってみるとそこに久賀という町の性格がはっきり出てくる。昔 は勘(かん)場(代官所)がおかれて島の中心地であったが、問屋 町ではなく職人の町であった。そして家々にはそれぞれの性格があ った。この町の人たちが過去どのような道を歩き、それが今の生活 にどのように結びついているかがはっきりわかるのである。そして その技術を生かして町を築きあげてきたさまが実によくわかる。そ うしたことを踏まえて、町の人たちは歴史民俗資料館を作りあげて いった。
     そのようにして助言をしたり協力をしたりして民具の調査や蒐集 にかかわりあいを持ったところも十ヵ所あまりにのぼっている。土 地によっては民具を集めるということは逆効果をあげているところ の方が多い。少数の篤志家によって集められたり、昔の生活の消え るのを惜しんで集めたりしたものは、集められた物が少なかったり、 薄汚なかったりして、むしろ過去を矮小視(わいしょうし)させる ことになる。昔は貧しかったのだ、みじめだったのだと見る人をし て思いこませてしまう。民衆の持つエネルギーのすばらしさなど、 そこには完全に消えているのである。それが過去の本当の姿ではな い。そういう資料館はない方がよいと思っている。だといって、こ ういうことを地域社会の民衆運動にしていくことがどんなにむずか しいかをこれまでの体験を通して思い知らされている。全国各地に 今おびただしい歴史民俗資料館ができているのも補助金がもらえる から作ったのであって、そこへ古い道具類をならべると、もうそれ からは集めようともしなくなる。規模の大きいところを除いては、 資料館のできたその日から資料の化石化が進んでゆきはじめる。
    (《17 若い人たち・未来》P.217〜P.219)


     私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多く のものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道 程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろう か、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進 歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつ つあるものも多いのではないかと思う。失われるもがすべて不要で あり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、 退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでな く生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではない かと思うことがある。
     進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今 われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。 少なくとも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力 は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらが にぶっているように思うことが多い。 多くの人がいま忘れ去ろう としていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその 中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。 しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人 たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たち に多い。
    (《17 若い人たち・未来》P.233〜P.234)




    09/08/16

    【転記ミス訂正】15/03/06・・・