[抜書き] 「神と自然の景観論」

「神と自然の景観論」野本寛一・講談社学術文庫 2006年7月10日 第1刷


     島というものは、陸地から遮断されることによって聖地性を内在 させている。しかも、一色のリュウゴンサマの場合、太陰周期とい う自然のリズムを見すえて祭日が決定されているのである。
    (《諸言》P.3〜P.4)


     自然環境は人に害や畏怖を与えるものばかりでなく、人びとの生業や生活を 助成するものもある。自然は常に表裏の顔を持つ。氾濫する水は、別な場面で は農業用水であり、命の水でもある。洪水鎮撫の神に対して水分(みくまり) の神が座(ま)しますのである。船を悩ます潮流も、魚を運ぶ恵みの潮となる。 温泉は畏怖すべき火山のもたらす逆の恵みであった。
    (《諸言》P.6)


     十月二十九日、例祭終了後、落日の刻に御幣流し祭りが行なわれ る。御幣流しは神社の南側にある「大明神磐(いわ)」と呼ばれる 船型の巨岩の上で行われる。岩の先端に、海の彼方の七島を遥拝す る形に鳥居が建てられている。宮司・神饌持ち・氏子総代の行列が 砂浜を通って岩に到着し、一同整列する。献饌・祝詞奏上後、御幣 流しが始まる。御幣は1.5メートルほどの大幣で、宮司は御幣持 ちから一本ずつ御幣を受け取り、岩の先端で海の彼方に向かって深 々と礼をする。礼拝を終えると、手にした御幣をおもむろに海中に 投げ入れる。御幣は白紙をひらめかせながら水面に達し、潮にもま れ、泡だちながら沖へ沖へと流れてゆく。この地には「御幣西(お んべにし)」という言葉がある。御幣流しの日には西風が吹いて御 幣を島々に運んでくれるというのである。伊豆ではたしかにこのこ ろから西風が吹き始める。こうして7本目の御幣を投じ終える瞬間 に、落日が山蔭に消えていく。
    (《第一章 環境畏怖要因と信仰の生成》火達祭と御幣流し、P.19〜P.20)


     伊豆の語源については、「出づる湯」「湯出づる国」に由来する という説、あるいは、地形上の突出を意味する「出づ」からきたと いう説などがある。しかし、「伊豆」は「斎(い)つ」とみるべき であろう。「斎つ」は「斎つき」、すなわち神を祭ることであり、 「伊豆の高嶺」は「斎つの高嶺」、「伊豆の山」は「斎つの山」、 「伊豆の国」は「斎つの国」であった。「斎つ」はもとより「厳(い) つ」にも通じている。対馬一宮を祀る山が居津山(伊豆山)で、そ の社前の平地を居津原(いづばる)という。永留久恵氏も、この対 馬の居津山は神を斎き鎮める山だと述べている(『海神と天神−− 対馬の風土と神々』白水社)。同じ対馬の「厳原(いずはら)」も 同系の地名である。安芸と厳島(いつくしま)が「斎島(いつきし ま)」であることは言うまでもない。宮城県の伊豆沼、瀬戸内海の 斎島・斎灘、高知県幡多郡の伊豆田峠なども、神を祀るべき聖なる 場であった。
    (《第一章 環境畏怖要因と信仰の生成》「伊豆」地名の発生、P.22〜P.23)


     小池の描いた薙鎌の絵は、眼と嘴(くちばし)と衿毛(えりげ) 状のギザギザがあり、それはほぼ諏訪大社大祭の時に登場する薙鎌 と同じものであった。小池の書き残した事例からも鎌打ちの習俗が 境界と深くかかわっていることがわかるが、いったい何ゆえに鎌が 境界標示の呪具として使われたのだろうか。『改訂綜合日本民族語 彙』に、『滝畑旧事談』にもとづいて、「カマザイメン」という語 が収録されている。「鎌で境界を伐り分けること。大阪府の南部な どでカッペキヤマを両方から刈って一緒になるときつけた」とある。 たしかに裁面と鎌とのかかわりは深く、それゆえに境界と鎌が結び ついたと考えられなくもないが、境界の呪具としての鎌の根はさら に深いにちがいない。
    (《第一章 環境畏怖要因と信仰の生成》境界標示としての鎌打ち、P.42〜P.43)


     ところで、諏訪の薙鎌は、諏訪湖周辺の湿田に大量に入れた肥草、 すなわち刈敷の草刈りのために普及したものであったと推測される。 日向高千穂の刈干切りや伊豆地方で使われる草刈鎌も、長い柄と大 きな刃を持ったものである。藤森栄一は、諏訪市真志野にある習焼 (ならやけ)社という上社の有力摂社で江戸末期まで行なわれた 「野焼きの神事」について報告している(「縄文の焼畑」『藤森栄 一全集』第九巻、学生社)。藤森氏はこの神事を焼畑の遺風として いるが、それは焼畑ではなく、よい草を得るための野焼きであろう。 湖盆の南斜面の広大な草地で野焼きが行なわれ、そこに生えた草を 薙鎌で刈り、水田に入れていたのである。
    (《第一章 環境畏怖要因と信仰の生成》鎌のさまざまな力、P.48)


     ここで想起されるのは、若狭小浜の空印寺前の洞窟の入口に椿の 枝を挿し、そのなかに籠って八百歳で入常したという八百比丘尼 (びくに)の伝説である。その八百比丘尼の墓と称するものが鵜の 瀬から五〇〇メートルほど上流の下根来の地にある。「根来」のこ とを土地の人々は「ネゴリ」と発音する。「ネゴリ」は「ニゴリ」 すなわち「尼垢離(にごり)」に通じているのではあるまいか。鵜 の瀬の近くの白石神社境内には椿の古木が群生している。同じ下根 来地区内に、八百比丘尼の墓・鵜の瀬・椿群生地が集まっているの である。鵜の瀬の淵は、八百比丘尼の垢離取り場、すなわち禊の場 であり変若水を得る聖地であったことはたしかである。
     八百比丘尼は人魚の肉を食べたことによって永遠の命を得、常乙 女となる。ある国の食物を食することによってその国の者になると いう信仰原理は、伊奘冉(いざなみ)命の「黄泉(よも)つ戸喫 (へぐ)ひ」に通じている。人魚の肉は常世の食物だったのである。 常世と此の世を往来する「ツバメ」と同じ名をもつ常世の花、春の 木たる「ツバキ」を持って変若水と禊を勧める巡遊尼の信仰集団が かつて存在し、その祖とされたのが八百比丘尼であったと考えられ る。そして、若狭はその根拠地であり、遠敷川上流部は「変若水」 を得て「禊ぎ」を実修する聖地だったのではあるまいか。東大寺の 若狭井の背後には、若狭の土着的な常世信仰と変若水信仰があった ようにも考えられるのである。
    (《第二章 地形と信仰の生成》若狭の信仰土壌、P.76〜P.77)


     深山幽谷の淵を覗(のぞ)くとき、人は身を硬直させるほどの戦 慄を覚える。そして、淵が神の座であり、淵を核とした一帯が聖な る空間であることを身をもって悟るのである。静岡県榛原(はいば ら)郡本川根町長島(現川根本町)の大石為一さん(明治三十六年 生まれ)は、次のような伝説を語ってくれた。
     −−昔、犬間(本川根町)のある男が、樫代峠を越えて大井川の 枝の枝にあたる栗代川へ魚をとりに出かけた。リュウゴンという大 きな淵で釣りをしていたところ、驚くほどの大アマゴが釣れた。男 は大よろこびでそのアマゴを背負って山道を帰った。しばらくする と、どこからともなく、「お前はなぜそんなかっこうでつれて行か れるのだ? 早く逃げて来い」という声が聞こえてきた。すると背 中のアマゴが、「逃げて行きたいが、この男は九寸五分の短刀を持 っているので危くて逃げられない」と答えた。するとまた不思議な 声が、「その九寸五分の短刀には一ヵ所刃こぼれしたところがある から、そこから逃げて来い」と語った。男が自分の短刀を確かめて みると、たしかに一ヵ所刃こぼれがあった。犬間の男は気味悪くな り、大アマゴをリュウゴンの淵に返して夢中で走った。途中、「魚 も淵に返したし、やれうれしいことだ」とつぶやいて一休みした。 そこを今でも「ウレシヤスンド」と呼んでいる。−−
     リュウゴンの淵は水神の座である。この伝説は、淵が水神の座で あるという内容を語るにとどまらず、淵がアマゴという魚の種の保 存にとって重要な場であったことを物語っている。この伝説は、リ ュウゴンの淵の魚をとることの禁忌を伝説という口頭伝承の形で地 域の人々に周知徹底させ、山の人々の重要な蛋白源の一つであるア マゴの種を守り、資源の保全を図っているのである。長野県下伊那 郡上(かみ)村(現飯田市)には天竜川の支流遠山川のそのまた支 流の本谷川が流れている。本谷川の奥には「仏淵」「武明淵」「義 次郎淵」など人の死を伝える淵が点在する。これらの淵も、かつて は渓流魚の種の保全にかかわる禁忌伝承を伝える淵が点在する。こ れらの淵も、かつては渓流魚の種の保存にかかわる禁忌伝承をまと っていた。淵は山川の生きものや霊の集まる場所であり、生態的に は水の生きものが種を守る聖域となっていたのである。
    (《第二章 地形と信仰の生成》淵の伝説、P.78〜P.79)


     ここで注目すべきは、社伝のなかに「田ヲ湿ス故ニ人民厚ク水霊 ヲ崇敬シ」と述べられていることである。浮布池と邇幣姫神社は静 間川の水源に当たるゆえに静間川流域の農民の信仰を集めたが、そ れはきわめて具体的であった。旱天(かんてん)に際して、流域の 農民たちが蓑笠姿で鍬(くわ)を担いでこの池につめかけたことが あったという。通称「池落し」と呼ばれる雨乞い行事である。鍬は 池を切るという所作の象徴で、水神を怒らせて雨を降らそうという ものである。それは、各地の雨乞いで、聖地に汚物を入れて水神を 怒らせる呪術と通じている。
     邇幣姫神社の宮司村田節夫氏によると、池落しの呪術が効かない 場合は、女の腰巻を持って三瓶山へ登って雨乞いをしたという。浮 布池と三瓶山は強く結びついていたのである。ちなみに、宮崎県椎 葉村と熊本県五家荘の間の一四八〇メートルの峠の脇に「お御池」 と呼ばれる聖池があり、奥椎葉の人々は雨乞いのために、生理の女 性を先頭に笛太鼓でこの池へむかったと伝えられる。
    (《第二章 地形と信仰の生成》石見の淵の浮布池、P.82〜P.83)


     静岡県小笠郡浜岡町佐倉(現御前崎市)に池宮神社と呼ばれる古 社がある。祭神は瀬織津比刀iせおりつひめ)神であるが、当社の 神体はその社名が示すとおり、「桜ヶ池」と呼ばれる池である。砂 丘地帯のなかにあるこの池は一種の砂丘堰止池である。東北西を照 葉樹の低山に囲まれ、南を砂丘で止められたものであるが、山や池 底が相良層群泥岩であるため、いかなる旱天にも水が減らぬ不思議 な池とされている。毎年九月二十三日に、この池に櫃(ひつ)入り の赤飯を沈納する「お櫃納め」の神事が行なわれる。それは、蛇身 と化して池中に住む師皇円阿闍梨に対して弟子の法然上人が櫃を納 めた故事によるものだと言われている(『日本の神々10・東海、 白水社』)。なお、池中に納められた櫃が数日後に信州の諏訪湖に 浮かぶという、桜ヶ池と諏訪湖の通底伝説もある。遠州と信州を結 ぶ通底伝説の基層には、古い塩の道がかかわっているものと考えら れる。
    (《第二章 地形と信仰の生成》遠州の桜ヶ池、P.88)


     「鳥居峠」と呼ばれる峠がある。中山道の奈良井と藪原の間にあ る鳥居峠は木曾御嶽山の遥拝所で、御嶽信仰の石碑が林立している。 長野県の真田と群馬県の嬬恋(つまごい)方面とを結ぶ街道の国境 にも鳥居峠と呼ばれる峠がある。たしかに峠には鳥居があり、それ は北方にそびえる四阿(あずまや)山を拝する場であった。岡山県 真庭郡川上村(現真庭市)を通って大山(だいせん)に至る大山参 道の途中に「鳥居ダワ」という峠がある。「タワ」とはこの地方で 峠を意味する。鳥居ダワから眺望する大山は荘厳で、ここが遥拝所 となるのももっともだと思った。山梨県富士吉田市から忍草(しば くさ)へ越す鳥居地峠は富士山を遥拝する場所であった。「鳥居」 という名を持つ峠は、いずれも聖山を遥拝する地であり、かつては そこに鳥居が立ち、その場もまた聖地となっていたのである。
    (《第二章 地形と信仰の生成》峠と遥拝、P.104)


     「晴れ」と「褻(け)」という概念は時間にのみ適用されるもの ではない。峠という、「道の転折」「空間の転折」の場は、晴れの 空間、晴れの場の一つだと考えてよかろう。青雲の志を抱いて郷関 を出ずる若者は峠に立ち、峠の地蔵に手向けをし、我が故郷をふり 返り、これから歩を進める異郷の方角を希望と期待と不安の錯綜す る眼ざしで眺めた。
     明治三十三年、長野県遠山郷和田(現飯田市)の雑貨商の家に生 まれたきんゑさんは、大正八年十一月二十三日午前四時、住みなれ た和田の町をあとにした。県境でもある青崩(あおくずれ)峠を越 えて静岡県磐田郡水窪町(現浜松市)の鈴木屋旅館へ嫁ぐためであ る。同行の行列は、父の良之助と弟、樽かつぎ、水窪の世話人の六 人であった。嫁ぎ、子宝に恵まれ、日々多忙な褻の生活が続く。そ んななかで、年二度の里帰りが最大の楽しみだった。「出入り一週 間」と称し、行き帰りの日を入れて一週間の里帰りである。子を背 負い、手をひいて峠に向かう。「風が違いますよ。峠に立つと信州 の風が吹くんです」。−−青崩峠はきんゑさんにとって日常と非日 常の境界点であり、転折点であった。峠の地蔵に手向けをし、父母 の待つ実家に至って心安らぐ時を過す。そして、一週間後、再び峠 に立つ。さあ、また夫とともに日常の生活が始まる。きんゑさんは、 峠に立って心の切り換えをしたのである。日々の峠越えで荷を運ぶ ボッカや馬方も、峠の馬頭観音や峠神に手向けをし、峠の茶屋で一 息入れた。彼らにとっても峠は晴れの場であった。
     このようにかつて多くの日本人は、峠において心の切り換えをし た。いまや現代人は、かつての人びとが苦渋と汗とで越えた峠の下 のトンネルを瞬時にして自動車や列車で駆けぬけてしまう。それは、 不便な生活環境に耐えてきた地方の人びとにとって至福に近いこと だろう。しかし、そのことによって、空間における転折の感慨と思 考を失った日本人の風景観はまったく平板になり、それは日本人の 人生観や思想に淋しい影響を与えているのである。
    (《第二章 地形と信仰の生成》峠と「心の転折」、P.105〜P.106)


     秋田県由利郡鳥海町百宅(現由利本荘市)は古くからマタギの村 であった。百宅は鳥海山東麓の山中にある隔絶された盆地集落であ る。そこには見事な水田が開かれ、かつて聖人が「百戸を養いうる であろう」と称したところから、「百宅」という地名を得たという のも、もっともだと思われる。上百宅から鳥海山の主峰へ、あるい は百宅大森・兜山・三滝山などへ赴こうとする場合、どうしても越 さなければならない峠がある。それは上百宅と玉田渓谷との間にあ り、峠の地点には「ツナギ沢の山の神」が祭られている。上百宅か ら峠を見ると、山の神の社地に杉の古木が茂っているので一目でそ こが峠だと知れる。峠から眺める鳥海山は大きく、秋の落暉(らつ き)に映える姿はまさに荘厳である。
     百宅にはかつて三つのマタギ組があった。そして、そのおのおの が山の神を祭っていたのである。金次郎組は翁畑の山の神、小松組 (斎藤組)はボンデン野の山の神、文平組はツナギ沢の山の神を祭 った。ところが、ツナギ沢の山の神は百宅マタギ全員の山の神でも あった。ツナギ沢の山の神の祭日は六月十五日で、この日は村中の 者が山の神に参ってから家で酒を飲んだ。ツナギ沢の山の神は単に マタギだけの山の神ではなく、すべての村人たちの山の神でもあっ たのだ。
     百宅マタギは、鳥海山中腹の小松の岩小屋や、ニカブ山の小屋に 泊りこんで熊狩をした。熊が冬眠からさめて穴から出るのは春の土 用だと言い伝えられている。百宅マタギは、古くは春熊のために春 土用十日前に村を出発したという。まず、すべてのマタギ組がそろ ってツナギ沢の山の神に参拝し、神酒をいただいて、そこで「山分 け」をした。狩猟区域の分担を決めるのである。分担が決まると、 おのおの自分たちの分担する山に分かれて入ることになる。ツナギ 沢の山の神はその分散基点であった。マタギが「山ことば」を使う ことは広く知られている。百宅にもその山ことばがあった。火箸の ことを「テアカヅキ」、杓子のことを「カツソ」などと称し、こう したことばは里では使ってはいけないとされ、逆に山では里ことば を使ってはいけないとされた。初心者が山で里ことばを使うと、雪 中にもかかわらず垢離(こり)をとらされたという。
     百宅の場合、マタギたちは、ツナギ沢の山の神の境内へ入る前ま では里ことば、マタギ沢の山の神から奥は必ず山ことばを使わねば ならないことになっていた。猟を終えて家に帰る場合も、まずツナ ギ沢の山の神に獲物を供え、感謝の祈りをささげ、その境内をあと にしてはじめて里ことばを使うことが許された。百宅の場合、ツナ ギ沢の山の神が、里山と、神の支配する奥山との結界点になってい たのである。ツナギ沢の山の神は「女神」であり、彩色された清楚 な木像である。マタギが崇拝する山の神は女性である。山は動物た ちを生み、木の実を恵んでくれる。その山の神は農耕以前の「食」 をもたらす母なる神であった。
    (《第二章 地形と信仰の生成》「里ことば」から「山ことば」へ、P.106〜P.109)


     福島県南会津郡只見町田子倉地区はダムに沈んだムラである。田 子倉も古くはマタギ部落で、すぐれたマタギを輩出した。大塚方さ ん(明治二十九年生まれ)と正也さん(昭和二年生まれ)は二代続 きの熊狩の名人で、田子倉マタギの伝統を守りつづけている。正也 さんによると、水没した田子倉の村はずれには山神様(さんじんさ ま)があり、そこにはブナ(ぶな※木ヘンに無)の巨木があったと いう。田子倉マタギはみなこの山神様に参り、そこで「イクサ」 (狩猟作戦)をしてからおのおのの山へ入った。そして、注目すべ きことは、ここでも、このブナの巨木の山神様の地が、里ことばと 山ことばの境になっていたということである。
    (《第二章 地形と信仰の生成》「神の山」と「里の山」、P.109)


     写真125は東京都青梅市の御嶽神社山中にある「天狗の腰掛杉」 と呼ばれるものである。腕を構えたような異様な枝ぶりが、腰掛を 連想させてのものであろう。写真127は静岡県小布杉(こぶすぎ) という山あいのムラから隣接する富沢へぬける峠にある杉であり、 125と類似の枝ぶりである。こうした異様な枝ぶりの樹木に特別 敏感なのは樹木を伐採搬出する山林労務にたずさわった人びとであ った。彼等の間ではけっして伐ってはいけない樹が、その形状など によって伝承されていたのである。以下は、静岡県の大井川・天竜 川流域で山仕事をした人々の伝承である。

      (1)窓木−−幹が途中で二分し、それがまた一つになったもの で、幹の途中に丸い穴が窓状にできた木(島田市・田中初 次郎さん・明治二十九年生まれ)。

      (2)帚木(ほうき)−−幹が途中で止まり、複数の枝がそこか ら帚の先のように出ている木(同)。

      (3)朝日通しのカマ枝をもつ木−−写真125のような枝の間 から朝日を拝することができる木(同)。

      (4)密着した二本の木が、木ずれを起こして鳴る状態にある木 (同)。なお、このような木の枝を少しだけ伐ると歯痛が 治ると伝える。

      (5)日ざしの松−−相生の松で、その間から朝日がさす木は山 の神様がとまる木だから伐ってはいけない(榛原郡川根町・ 藤田広次さん・明治四十年生まれ)。

      (6)山の神の依り木−−知らない山を伐採するときには神の依 りそうな木にヨキを入れてみて試す。ヨキがポロリと落ち る木は神様の木である(同)。

      (7)日通し−−幹の途中から二本の枝がU字状に出た木で、し かも、その二本の枝の間から朝日を拝むような木(榛原郡 本川根町犬間・菊田藤利さん・明治三十八年生まれ)。

      (8)東カマ枝西コズエ−−東側に出た主枝が枝先を再度幹につ けて半円状をなし、西側に出て主枝が高く伸び梢状をなし ている木(同)。

      (9)日通し−−幹の途中から二本の枝がU字状に出た木で、こ れが真東・真西に向いた木。太陽がこの木の叉の間を通る ような木(磐田郡佐久間町早瀬/現浜松市・桑野嘉一さん・ 明治三十六年生まれ)。


     このようにして伐採を忌まれ、免れた樹木は、年月を経ていよい よ異様になり、神座・神木として天寿を全うすることになる。こう した樹木を中心として山の神・峠の神・庚申(こうしん)などの森 が形成される場合があった。「聖樹と森の間」ともいうべき数本の 樹木の集合が、小さな聖域を形成する場合が以外に多いのである。 事例(4)の宿木(やどりぎ)や密着樹木の場合そうした「森以前」 の樹木群を形成する土壌となる。
    (《第三章 聖樹の風景と伝承》伐ってはいけない樹、P.191〜P.194)


     日本海ぞいの地を歩いていて椎の巨木にめぐりあい、意外な思い をしたことがある。その一つは若狭神宮寺境内の椎であり、いま一 つは新潟県弥彦神社神木の椎である。弥彦の御祭神が、携えてきた 椎の杖を地に挿し、「もしもこの地が自分の住むべき地ならば繁茂 せよ」と仰せられたところ、やがて芽を出して根を張り、巨木にな ったと伝えている。なお、この椎の木に関しては良寛作として「御 神木賛歌」が伝えられている。

       伊夜比古の 神のみ前の 椎の木は 幾世経つらむ 上つ枝は 照る日を隠し 中つ枝は 雲を遮り 下つ枝は 甍(いらか)に かかり 久方の 霜はおけども 永久に 風は吹けども 永久に

       神の御代より 斯くしこそ ありにけらしも 伊夜比古の 神 のみ前に 立てる 椎の木

     椎の木が神木として崇められたのは、その重々しい樹相と深く関 わることは確かであるが、いまひとつ、農耕以前から椎の木は豊か な実をつけ、人びとにそれを食料として与えたこともかかわってい る。奄美大島における椎の実の利用はみごとであった(拙著『生態 民俗学序説』白水社)
    (《第三章 聖樹の風景と伝承》重々しい樹相、P.197〜P.198)


     実を食用とする樹木ゆえに祭られ守られたものに栃の木がある。 写真134は静岡県磐田郡水窪町門桁(かどけた)(現浜松市)の ムラはずれの川端にある栃の巨木である。木の前に林立するのは、 この地でオタカラと呼ばれる御幣であり、しかも山の神に手向ける べき「山の神御幣」である。このことは、ムラびとたちがこの栃の 木を、山の神の座として認識してきたことをよく物語っている。
     注連縄の中央にくくりつけられているのは藁苞(わらづと)で、 この地では「ツトッコ」と呼ぶ。ツトッコのなかには、おのおの柿 の種、柿のヘタ、柿の実二分の一が入っている。ツトッコを供える のは一月十五日の小正月で、これは山の神に、すべての木の実がよ く生るようにという祈願をこめたものだという。
     一月十五日は成り木責めの日であり、一般には柿の木を叩く事例 が多いが、ここではこの日に栃の木に祈りをささげている。その中 心は、大量の実を恵む栃の木に栃の実の豊穣を願うことに置かれて いる。同じ水窪町押沢の平賀家で祭る山の神も栃の巨木である。か つて、栃の木を山の神の座として祭る例はけっして少なくなかった のである。
     135は鳥居峠にあり、昔、この栃のウロのなかに赤子が捨てら れていて、子宝に恵まれない村人がその子を育てて幸福になったこ とから、この土地の木の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるという言 い伝えがあるという。136のウロには、昔、旅の僧が殺されてつ めこまれていたという伝えがあり、この木のあるところを「坊主殺 し」と呼んでいる。
     栃はこのように巨木になり、大きなウロをもつものも多い。栃は コネ鉢の素材として好まれたが、一方、多量な実を結ぶことから、 伐ることを忌む傾向が強かった。水窪町には「栃を伐る馬鹿植える 馬鹿」という諺がある。すぐれた食料源たる栃の木を伐るのはもと より馬鹿だが、植えればすぐに実が生ると思うのも馬鹿だというの である。栃は三代経なければ大量の実を採ることはできないと伝え ている。信州秋山郷の男たちはコネ鉢作りを冬期の仕事としたが、 彼らは「栃の木をめぐるディレンマ」をもっていた。その結果、ム ラ里に近い栃の木を伐ることを禁じ、遠い山中に小屋がけをして栃 を伐り、コネ鉢を作ったのである。
     里近い栃の木は人びとに守り育てられてきたのであり、そこには 栃と人の共生環境があって、愛知県北設楽郡富山村(現豊根村)、 静岡県磐田郡佐久間町横吹(現浜松市)、同水窪町大野(同)など では、一月十五日の小正月の成り木責めに、山中の栃の木のもとま で出かけてこれを行なったという。写真134・135・136・ 137などはいずれも、栃と人の共生関係の証言者である。栃の実 の食料としての価値が相対的に後退し、栃の実の食習が消えるとと もに、栃の木は姿を消していった。「栃」の地名は、かつての栃と 人との関係を語る化石である。
    (《第三章 聖樹の風景と伝承》大量の実を恵む樹、P.197〜P.201)


    山梨県の中山湖周辺ではイチイを防風・防火の屋敷垣としている。この地に羽 「イチイの木は火がくると水を噴く」という言い伝えがある。
    (《第三章 聖樹の風景と伝承》ガジュマルその他、P.205)


     奈良県吉野郡吉野町山口の森口たまえさん(明治四十年生まれ) は自分のことを語るとき、「わがめらは」という実に古風な一人称 で語り起こす。彼女は、親から結婚を勧められた日のことを回想し て次のように語る。「女は買うてくれとは言われへん。遅(おそ) までおったら《残し木》と言われる」。−−−「残し木」とは「山 の残し木」とも言われ、山の裁面、即ち境界の木のことであった。 この地方の境界の木は杉が主で、檜の場合もあった。いつまでも伐 られることなく立ちつづける裁面の残し木によって、年をとっても 嫁がない女性を形容した時代があったのである。吉野の山が杉や檜 で埋めつくされる前、丈高い杉や檜は裁面木として守られ、人びと に親しまれてきたのであった。
     伊豆では裁面木に生長の早いマテバシイを使う。また、静岡県の 磐田原台地では、畑地の境界にクチナシを植える習慣があった。梔 (くちなし)は「口無し」に通ずるところから、ここに境界論争の 発生禁止の祈りがこめられたのである。山梨県南巨摩郡早川町奈良 田では、焼畑地の境界に河原から柳の苗をぬいてきて植える習慣が あった。このように人びとは、地方により場により、さまざまな形 で境の木を植えて育ててきたのであった。
    (《第四章 環境保全の民俗と伝承》「植えて育てる」民俗ガジュマルその他、P.217〜218)


     静岡県周知郡春野町川上(現浜松市)では、伐木の際に切り株に残す伐り残 しの尖った部分を「ヤリクチ」と称した。そして、そのヤリクチに小鳥が虫を 刺すとその木を伐った人が病気になると伝え、したがって木を伐るときにはき ちんと伐れと教えた。病気を癒すためには切り株に御幣を立てて祈れと言い、 大木を伐ったときにはその株に榊か樫の枝を挿しておけとも伝えた(高田格太 郎さん・明治三十四年生まれ)。ヤリクチは山に入る者に怪我をさせる危険性 があることから、このような伝承が発生したとも考えられるが、不完全な伐木 が木魂の鎮魂を妨げ、木魂の荒びをさそうという認識があったとも考えられよ う。
     山で働く人びとの、木魂・樹霊に対する畏怖の心情と謹しみの姿勢が、自然 に対する節操のタガになってきたことは確かである。
    (《第四章 環境保全の民俗と伝承》木魂への畏敬、P.221)



     遠ざかる神々の風景  いまはまだ、野本寛一論を書くには早すぎる。時は熟していない。この人は いまも、野や山や里を精力的に歩きつづけている。その歩行のゆく末すら、定 かではない。仕事の全貌となると、なおさらだ。だから、ここでは、あくまで 『神と自然の景観論』という著者のかたわらに踏みとどまり、呟きのいくつか を書き留めておくことができるだけだ。
     野本寛一さんはたぶん、もう一人の「旅する巨人」である。いつの日にか、 その旅の軌跡を丹念に辿りなおす者が現れたとき、この人が柳田国男や宮本常 一と並び賞されるべき旅の民俗学者であったことが、はじめて世に知られるこ とだろう。いまはただ、それをかすかな予感として書き付けておく。むろん、 肌触りは大いに異なる。たとえば、柳田や宮本がともに西の人であったことを 想起してみるのもいい。かれらの書いた東北は、どこかしら異郷の匂いを漂わ せてはいなかったか。野本さんの描く東北には、それがない。なぜなのか、気 に懸かってきた。・・・
    (P.272)

    《解説:赤坂憲雄》より。




    09/08/11・・・10/09/17