[抜書き] 「東北学/忘れられた東北」

「東北学/忘れられた東北」赤坂憲雄・講談社学術文庫
2009年1月8日 第1刷


    なぜ、東北なのか−−と、しばしば問われる。 答えに窮することは無い。幾通りかの答えは用意してある。 いくつかの偶然による促しがあり、あるいは、必然らしきものによる導きがあ った。
    【東北学】P.15


    わたし自身に許された時間と、失われてゆく東北の風景を辿るために猶予され た時間とが、ごく限られたものであることは、あまりに明らかであった。
    【東北学】P.22


    幸か不幸か、わたしは大学という制度のなかで、フィールド・ワーカーとなる ための訓練を受けてこなかった。それゆえ、みずからの流儀と作法で、自分だ けのフィールド・ワークや聞き書きの方法を創るしかなかった。思えば、民俗 学の先達たち、たとえば宮本常一が列島の村や町を歩きはじめたとき、聞き書 きのマニュアルなどあったはずはない。開き直りは承知のうえだ。
    【東北学】P.24


    開拓村の歴史はいずれも、たいへん激しい苦難の連続だが、そこには節目(ふ しめ)がある。畑作主体の農業をいくら続けても展望が開けてこない。追いつ められた人々が選択するのが、きまって稲作への転換である。
    【東北学】P.25


    しかし、稲を作る百姓が「常民」であり、その「常民」の固有信仰を探求する ことが「民俗学」の役割であるとは、とうてい思えない。
    【東北学】P.26


    夏場と冬場とでは、人々の行動半径、それゆえ、行動様式もまた大きく異なっ ているのである。一九九〇年代の現在においてすら、この状態である。一年の 半分近くも雪に埋もれて暮らした、かつての東北の「常民」たちが、西南日本 の「常民」たちとは異質な民族文化を育んできたことは、当然なことだった。 それにもかかわらず、異質な貌と背中合わせのように、日本列島の北辺の地と 沖縄を含めた南の地方とのあいだには、共通の民族文化が互いの存在は知らぬ まま見いだされる。昭和初年の柳田によって発見されたものは、まさに、この 列島の南/来たまた西/東において共通する基層文化であった。
    【東北学】P.29


     列島の山深い村々から、ことに東北から、ヒエやアワをつくる雑穀の村がし だいに姿を消していったのは、それほど遠い過去の話ではない。たとえば、山 形村で本格的に稲作がはじめられたのは、戦後も、一九六〇年代の高度経済成 長期以降のことであった。そうした雑穀の村の消滅は、じつは思いがけず大き な問題をその後景に沈めている。近代において、列島の村々の衰微は、もっと も都市から遠い山間僻地(へきち)からはじまった。山の民の暮らしは重層的 だった。焼畑や雑穀農耕、そして狩猟や採集などを多角的におこなう生業のか たちから、稲作への転換、いわば純農業化への流れのなかで、山に拠(よ)り、 山とともに生きてきた村々は根っこから揺らぎはじめ、衰微への道を辿ること になった。高度成長期とよばれた六〇年代から、およそ三十年ほど経て、山の 民の村はほとんどが根絶やしに解体されようとしている。山村とはかぎらず、 列島の村々はいま、あきらかに終焉の季節を迎えて、悶え、足掻(あが)いて いる。
    【東北学】P.41


     いずれにせよ、列島の常民たちの食の文化をささえてきた、縄文以来の雑穀 の歴史は、稲作中心の公けの歴史の陰に埋もれてゆこうとしている。稲をつく り、コメを食するのが日本人である−−−という、けっして歴史の現実に根ざ してはいない虚像が、どれほどわたしたちを呪縛し、列島の文化や歴史をみる 眼を曇らせてきたことか。稲作の周縁に、もうひとつの小さな民=常民の歴史 が沈められている。
    【東北学】P.43


     ブナの森がその謎の一端を解き明かしてくれる。 ブナの本拠地は、冷涼かつ雪の多い地方であった。 豊かな生活資源を無尽蔵(むじんぞう)といってよいほどに抱える、そうしたブナの森に囲まれた土地は、気候や風土の激しさはあるが、農耕を知らぬ人々にとっては、たいへん恵まれた暮らしやすい環境だった。 クリ・クルミ・トチの実や、きのこ・山菜などを季節にしたがって採集し、やまではクマ・カモシカ・ウサギなどの獣を追って狩をし、川ではサケやマスの漁をする。 縄文時代も末になれば、ヒエ・アワ・ソバなどを中心とした雑穀農耕がはじまったはずだ。 焼畑が森との共生関係を壊さぬように、周到におこなわれたことだろう。 牛馬の放牧もやがて開始される。 縄文時代のある時期には、東北こそが列島のもっとも文化的な先進地域であった、という。 豊かなブナの森が縄文人の暮らしをささえたのである。
    【東北学】P.47


    風景は土地に生きる人々のものではない、所詮は旅する者らのものだ。何度通 ったところで、風景は風景でしかないことは、むろん承知している。
    【東北学】P.49


    お山駆けは少年が大人になるための成年儀礼として、宗教の装いのもとにおこ なわれた。そうした山の信仰はきまって、たとえば早池峰山や岩木山のような 霊山を眺望することの出来る地域にかぎって、濃密な分布をしめす。遠野の周 辺でも、早池峰山が見えない地域には、とりたてて早池峰信仰もお山駆けの習 俗もみられないらしい。津軽の涯(は)ての竜飛(たっぴ)岬の稲荷の社で、 お山参詣の古い写真を見たときのことを思い出す。若い頃にお山参詣をしたと いう村の老人は、集落からは見えない岩木山が、舟で漕ぎだした海上からは見 えるのだと教えてくれた。山はひたすらに仰ぎみられる時間の堆積のなかに、 しだいに、ある宗教的な崇敬の結晶へと高められてゆく。そこにはたぶん、仏 教よりも深い信仰や習俗の時間が埋もれている。
    【東北学】P.58


    わたしの知るかぎりでは、こうした成年儀礼としてのお山駆けの習俗の舞台と なる山は、きまって修験道の影を負わされている。お山駆けは中世以来の修験 道の盛行が産み落とした信仰行事なのか、それとも、それ以前からの山の信仰 の古層のうえに修験道が乗っかるかたちでつくられた、いわば仏教以前の信仰 であり、習俗であったのか。
    【東北学】P.68


    縄文時代には、墓域と居住域とが大きな距離をおいて分離されず、むしろ両者 が緊密な一体性を有している場合がきわめて多い。それは、弥生時代の墓域が 居住域とはあきらかに隔てられた、森の向こうの別世界であったこととは、い ちじるしい対象性をなす。死者や死の穢れを集落の外部に排斥する思想は、縄 文にはない、弥生に始まったということだ。
    【東北学】P.84


     沢内村はかつては、一年のうち四、五ヵ月も深い雪に閉ざされる、隠れ里の 趣のある村だった。いまから二百三十年ほど前に、この地に罪あって配流され た宮古の儒者・高橋子績が著わした『沢内村風土記』には、「天牢雪獄(てん ろうせつごく)と謂ふべし。亦(また)上古の土窖(どこう)の住居を想像す べし」とみえる。
    【東北学】P.118


     ところで、東北一円の狩人たちは一般にマタギと称されている。このマタギ の語源については諸説がある。マタギは元はマタハギで、マタ=シナの木の皮 を剥いで布に織り縄になう山の民をマタギと呼んだとも、信州の山の民が使う マタツボという杖から来たとも、又(また)になった木の枝で獲物を追ったか ら、狩を又木と呼び、狩人をマタギと呼ぶようににったとも、はては山の峰を 跨いで歩くからマタギと称したとも、いう。アイヌ語に狩りを意味するマタク という言葉があることから、柳田は初期にはアイヌ文化との関わりに注目した が、のちにはアイヌ起源説を放棄する。四国の山中に同じ意味のマトギなる言 葉があるので、アイヌ語と速断するわけにはいかない、とされた。
    【東北学】P.126


    柳田の盟友ともいえる金田一京助が、マタギ言葉のなかから、アイヌ語と共通 する語彙を拾い出している。マタギ言葉/アイヌ語と並べてみる。

     犬(セッタ・シェダ/セタ)
     頭(ハッケ/パケ)
     水(ワッカ/ワッカ)
     雪(ワシ/ウパシ)
     木(ツクリ・ツクイ/チクニ)
     心臓(サンベ・サベ/シャンベ・サンベ)
     大(ホロ/ポロ)
     大水(ワッカホロ/ワッカポロ)

     ほかのアイヌ語研究者によっても、同様の試みはなされている。偶然といっ て片付けるには、その類似はあまりに生々しい。マタギ言葉は里では使用を禁 じられた、山のなかで狩りをするときにのみ許された神聖な山言葉であった。 アイヌが狩猟や採集を主とする生業をいとなむことは、あらためていうまでも あるまい。
    【東北学】P.127


    東北の鉱山の多くは、社会的に疎外され、追放されたさまざまな人々が潜伏す る場所であった。『院内銀山記』にいう、関ケ原の戦いに敗れた落武者たちが 鉱山に結びつく背景は、確実に存在したのである。そして、そこには西国を逐 (お)われたキリシタンたちが数多く含まれていた。
     中世前期には、山林はアジールであった。逃散(ちょうさん)した百姓が駆 け入り、また、下人(げにん)や所従(しょじゅう)といった身分の者らが逃 げ籠もるのが、山であり山林であった(網野善彦)『増補 無縁・公界・楽』)。 そうした山林のアジール性や聖地性はしだいに稀薄となり、国家や領域権力に よって囲い込まれてゆくが、鉱山はその特異な性格ゆえに、近世の初頭まで強 固なアジール性を保ちつづけた。
    【東北学】P.139〜140


    ネプタ喧嘩もすでに遠い昔語りとなり、勇壮な男たちの祭りといった雰囲気を 期待しては裏切られることになる。弘前ネプタもまた、都市の祭礼である。都 市の祭礼は時代の移りゆきにつれて、変容をとげる。それは承知している。が、 わたしのなかには奇妙な苛立(いらだ)ちがしだいに募った。
     いずれにせよ、神事(かみごと)からは遠くなり、その祭りの意味の地平が 見えにくくなった祭礼である。祭りを仮に身体にたとえれば、下肢の一部が肥 大化して、心臓や脳といった本体に当たる部分が忘却され、いつしか沈められ てしまった状態とでもいえるだろうか。
    【東北学】P.147


    壮麗の度を加えるにつれて、祭りの根っこは立ち枯れてゆく。見せる祭りとし ての自己確立の途(みち)は、そのままに空洞化の罠と背中合わせの危うさを 孕んでいる。
    【東北学】P.148


    マタギの里として知られる阿仁は、わたしにとって菅江真澄の名とともに親し く、また、アイヌ語地名が豊かに残る土地としても深い関心をそそられてきた。 その阿仁町の根子(ねつこ)集落で、わたしは思いがけず魚形文刻石に出会っ た。稲住温泉のいわゆる鮭石とよく似たものだが、刻まれた魚形はかなり小さ く、その数はたいへん多い。昭和二十九年に発見されたものだ。阿仁川の支流、 根子川のほとりにも、はるかな縄文時代、鮭をたいせつな食料資源として暮ら す人々が存在したのだろうか。
    【東北学】P.148


    「箕の定め」には、以下のような箕作りにかかわる村の掟ないし契約が書き留 められてある。次年子は往古より田畑が少なく、飯米にも不足する家がある。 鎮守権現様のお蔭で、当村にはたぐいまれなる箕作りの手職がある。これは年 貢上納の足(た)しにもなる稼業である。いにしえより、他村へ婿養子に行っ た者は、箕作りの仕事をしてはならないという定めがあるが、近頃、他村に出 た者が箕作りををしているという風聞がある。今後は、婿養子に行っても箕作 りをしないように、堅く取り決める。もし、この定めに背いたり、見聞きした ことを隠しておいた場合には、その職を取りあげ、箕作りはさせない。この件 について、村中誓紙(せいし)を交わし、箕の定めを取り結ぶことにした、と。
     箕作りの技術が他村に漏れることを厳しく戒めた掟である。もっとも警戒さ れたのは、婿養子として村を出た者がそこで箕作りをすることであった。次年 子ではかつて、この禁を破る者があれば、村に残る家族にたいして村八分をお こない、箕の製造を禁じたという。村の経済の根幹をなす箕作りを守るため に、その技術を村内の秘伝としてきたのである。
    【東北学】P.193


    しかし、ここに描かれた遊女の姿は、いかにも都の文人の嗜好(しこう)にぴ ったりの、都合のよすぎる代物だ。歌枕のまなざしである。西行と江口の遊女 の故事にならって、芭蕉がひき寄せた虚構の匂いが漂う。ここには遊女という 存在それ自体に向けての関心、あるいは、その身に宿るはずの、たとえば穢れ といった言葉では括りきれぬ人生への想像力などは、かけらも感じられない。 それはおよそ、もう一人の近世の旅人・菅江真澄の遊女の描き方とはかけ離れ た、対照的なものである。
    【東北学】P.203


     東北の木地屋のメッカは会津である。会津地方の木地屋の歴史は、天正十八 (一五九〇)年の蒲生氏郷(がもううじさと)の入部にはじまるといわれるが、 それ以前にも別の系統の木地屋の活動はあったようだ。しかし、近世になると、 会津の木地屋は君ガ畑と蛭谷の支配下に入り、会津地方は東北一円においても っとも木地業の盛んな地域となった。この会津の北を限る山々を境として、異 質な木地屋の世界が拡がっていたことを、橋本鉄男が指摘している(「君ガ畑 と東北の氏子狩」)。川連の椀師・五器師たちはまさに、そうした近江から信 州、そして会津へと連なる君ガ畑・蛭谷系の木地屋とは別系統の職人集団とし て、この地に独自の歴史を織りあげていたのである。
    【東北学】P.220


     小椋一族はこのうちの信州系木地屋に含まれる。小椋家の先祖は近江小椋庄 を本貫の地として、その漂移の足跡は飛騨・会津・鳴子(なるご)・鬼首(お にこうべ)などを経て、皆瀬村まで辿ることができる。近江を出自とする木地 屋の正統の証ともいうべき御綸旨写しの正本を所蔵するのは、東北でわずか三 ヵ所といわれるが、皆瀬村の小倉家はそのひとつである(橋本鉄男・前掲論文)。 この地においては、初代の初右衛門から五代を数え、小椋久太郎さんにいたる。 現在の木地山には大正十(一九二一)年頃に移ってきた、という。初代から四 代の久四郎さんまでは、木地屋の本業である椀・木鉢・柄杓(ひしゃく)、ま た、こけし・こま・盆・だるま・ずぐり・針刺しなどを作っていたが、久四郎 さんの代には、本格的にこけし作りを手掛けるようになった。こけし専業への 転進は、昭和十年頃からのことで、久太郎さんは以来こけし職人として身を立 ててきた。
    【東北学】P.224〜225


     それにしても、皆瀬木地山に拠った小椋一族の歴史には、まさに漂白の山民 としての面影が色濃く透けてみえる。木地屋は山中に小屋を掛け、周辺の山の 木地に適した樹木を伐り尽すと、あらたに良材をもとめてほかの山に居を移す ことをつねとする人々であった。そうした居を移すことを「飛(とび)」と称 したが、木地屋と「飛」とは分かちがたく一体のものであった。それゆえに、 木地屋は漂移=「飛」の民としての貌を持つ。東北一円に拡がる木地屋の漂移 の跡を辿る作業をつうじて、中世から近世にいたる東北の歴史の隠された一面 があきらかにされるはずだ。
    【東北学】P.225


     ところで、中川重年(しげとし)の「ブナ帯における木地屋の世界」(『ブ ナ帯文化』所収)によれば、近畿・中国・四国・九州のほぼ全域において、ブ ナ林の分布と木地屋の集落は一致しているという。木地屋が利用した樹木は、 主にブナ帯に生えるブナ・トチノキ・クリなどであった。他方、中部以北こと に東北地方にあっては、ブナ林が木地屋集落の分布よりもはるかに広い。近世 以降の木地屋の移住は、西日本から原料となるブナ林の多い東北地方へとマク ロ的な移動がおこなわれた、と想像される。そして、東北の中でも北上山地な どに、木地屋の分布の比較的うすい地域がある。中川はその背景として、その 地域が古くから馬の放牧が盛んで、山に火入れをしたために生じた草原が拡が っていたこと、また、内陸性の気候がブナの生育に適していなかったことなど を指摘している。
    【東北学】P.225〜226


     木地屋の移住史とはいわば、縄文時代から数千年にわたって、東北の民と森 とのあいだに培(つちか)われてきた共生の歴史にたいする、異物にも似た風 景のひと齣であったかもしれない。むろん、木地屋たちはけっしてブナ林の皆 伐はしない。必要最小限の木だけを選んで伐採し、ときには植林もおこなった という。木地屋もまた、ブナの森と共生する山の民であったわけだ。それはし かし、あきらかに縄文以来の狩猟・採集の民と森との関係とは異質な原理につ らぬかれた、もうひとつの文化の様式である。
    【東北学】P.226


     中川によれば、アジアの諸地域において、ロクロを回す木地屋たちは、二次 林の樹木を素材として木器を作る。アジアの木地屋は照葉樹林帯に属している、 といえるだろうか。ブナ帯の自然林を利用する日本の渡り木地屋は、それゆえ、 むしろ例外的な存在であるらしい。
    【東北学】P.226


     近代の訪れとともに、中世以来の木地屋たちの漂移の歴史は終熄のときを迎 えた。木地屋は惟喬親王にまつわる貴種流離譚を携え、いわゆる御綸旨の威光 に守られながら、山林伐木の自由をみずからの職掌にかかわる特権として保持 してきた、渡り筋の集団であった。諸国の山林が国有林の名のもとに囲い込ま れてゆくなかで、木地屋はいつしか、漂移=「飛」をつねとする生活形態を放 棄せざるをえない状況へと追いつめられる。こけし職人という貎は、そうした 生業の場を近代国家によって奪われた木地屋たちが、追いつめられた末に択び とった仮の姿であった。
    【東北学】P.227


    山から間伐材を運び降ろし、炭を焼き、小屋を作り、ただ黙々と働く姿を見て いただけだった。寡黙(かもく)な東北人を絵に描いたような人だと、勝手に 思い込んでいた。しかし、八十七歳になる木藤古徳太郎さんは意外にも、驚く ほど豊かな語り部だった。記憶のひとつひとつが、細部にわたって鮮明で、む しろ饒舌(じょうぜつ)なほどにみずからの人生を語ってくれた。思えば、わ たしは「寡黙な東北人」などに会ったためしがない。相手と場を択ぶ、そして、 必要がなければ喋らない、ただそれだけのことなのだ。
    【東北学】P.232


     昭和四十年代になると、炭を焼く人は激減した。少ない需要に見合うだけの 数の炭焼きが残った。徳太郎さんは近辺の山で炭を焼いた。農協に集めて、東 京方面に出荷する。もはや山奥に居小屋を作って炭焼きをし、背負って下の道 まで降ろし、牛の背や馬車・ソリに乗せて町場へ運ぶ時代ではない。最近は、 道路ぶちに窯を作り、車で往復するようになった、そう、徳太郎さんは淡々と 喋った。炭焼きの風景も大きく変わった。それだけが抱きしめるべき、山の暮 らしの現実である。
    【東北学】P.236


     その縁起は、まさに諸国の木地屋が携えてきた典型的な惟喬親王(これたか しんのう)伝説である。君ガ畑の高松御所・金龍寺が発行元になっている。氏 子狩には名を留めぬ、この地方の木地屋集団ははたして、いつの時代に君ガ畑 の由緒書を手に入れ、近江系の木地屋となったのか。はじめて史料に現われる 寛文の頃か、それ以前の中世末期であったか、あるいは、はるかに後代のこと であったか。それを確かめる術はとりあえずはない。土地の伝承として、天正 年間(一五七三〜九二)の九戸(くのへ)の乱の征討に参加した蒲生氏郷(が もううじさと)が、この地方に漆工をともない漆器の製作を伝えたのが、会津 の系譜を引く浄法寺塗の起源であると語られていることにも、関心を惹かれる。 真偽のほどは知らず、ここにも近江系の木地屋の影が射している。むろん、会 津は近江系木地屋の東北における一大拠点であった。
    【東北学】P.243


     はるかな古代、東北の地に暮らした人々は、ヤマト王権の編んだ正史のなか では蝦夷(えみし)と呼ばれた。農耕にはしたがわず、弓矢をもって獣を狩り、 肉食をつねとしつつ、山奥深くの樹のもとに棲む人びとであった、と正史は蝦 夷の姿を伝えている。古代蝦夷をまったくの狩猟採集民とみなすことはできな い。また、アイヌの場合にも、かつて畑作農耕をおこなっていた痕跡が知られ るようになり、アイヌ=狩猟民族という手垢まみれの等式は、もはや自明には 成り立ちがたいものである。
    【東北学】P.252


     小国では狩猟をなりわいとする人々のなかに、自称としてのマタギという言 葉はなかった、と聞いた。福島の会津、長野の北部、新潟、山形の一部の地方 では、マタギは秋田の狩人をさす呼称で、自分たちをマタギとはいわない。山 人(ヤマド・ヤマンド・ヤマビト)と呼ぶ地域が多い。それがある時代から、 マタギという呼称が狩人一般の意に用いられるようになった、という。伝統的 なマタギ集落として知られる朝日村三面(みおもて)などでも、マタギという 自称はみられない(田口洋美『越後三面山人記』)。
    【東北学】P.252〜253


     その生活は狩猟とかぎらず、焼畑や稲作を含む農耕、山菜やきのこの採集、 川魚、塩木や舟木作りなど、季節のめぐりに応じて、じつに多様な側面から成 り立っていた。マタギつまり狩人としての貌(かお)はあくまで一部であり、 それゆえ、山人(やまびと)という自称こそがかれらの暮らしの現実だったの である。狩猟の民なる先験的なイメージを、ひとたび捨ててかかるところから 出立しなければならないのだ。東北のマタギについても、あるいは縄文の東北 人(びと)やアイヌの人々についても、同様のことはいえる。
    【東北学】P.253


     それにしても、賢治は東北の思想である。あるいは、東北という思想の可能 性といってもよい。ポストモダンと称されるごとき底の知れた観念の戯れによ っては、けっして捕捉しえぬ、賢治のいる東北を語りたい。賢治のいる東北を 糧(かて)としながら、東北の思想へといたる道行きを辿りたい、と願う。
    【東北学】P.259


     『雪国の春』はそこかしこで、中世のなつかしい移民史を語りました。東北 に生きてある人々にたいして、北日本の兄弟たちよ、と熱いメッセージをこめ て呼びかけます。中世以来、稲を携えて北へ、北へと移住をくりかえしてきた 南の日本人の岐(わか)れ、それがいま東北に暮らす人々である、そう、柳田 は考えたのです。『雪国の春』は経世済民の人である柳田にとっては、疑いも なく東北救済の書でありました。疲弊(ひへい)し貧困にあえぐ遅れた東北を、 稲とその信仰に仲立ちされながら、いわば瑞穂の国の一部として抱き込むこと で救いとる、それが『雪国の春』の隠された企てでした。この柳田の東北論は しかし、すでに破綻しています。
    【東北学】P.264


     アイヌは狩猟民族であると一般に考えられていますが、その前身である擦文 文化が、むしろ雑穀農耕的な性格を強く持っていたことも知られるようになり ました。アイヌの人々は和人によって農耕を奪われた可能性がある、ともいわ れています。アイヌは稲の民としての日本人からすれば異族かもしれませんが、 古代蝦夷にとっても同様に、異族であったかといえば、いささか疑わしいので す。狩猟・採集そして雑穀的な農耕を生業とする点においても、むしろ連続す る側面が強いと思われます。アイヌが固有の種族=文化を形成する中世以前に は、北海道と東北北部とが共通の文化圏にあったということは、幾重にも示唆 的なことではないでしょうか。
    【東北学】P.271


     たとえば、柳田は昭和三、四年を境にして、日本文化/アイヌ文化のあいだ に厳しい切断線を引きました。東北に残る地名や信仰・習俗にたいしてアイヌ 文化がなんらかの影響をあたえた可能性を、ひとつひとつ否定してゆきました。 そうして果たされたアイヌ文化の祀(※ママ)り棄ての作業は、まったく徹底 したものでした。その柳田がしかし、ついに切断線を引くことにいくらかの躊 躇(ためらい)を見せたものが、たったひとつありました。花とイナウをめぐ る問題です。
    【東北学】P.271


     忘れられた東北を掘る旅は、いまはじまったばかりです。どこにいるとも知 れぬ君に宛てて書き出したつもりの手紙ですが、旅の途上の自己確認に終始し てしまったようです。ささやかな旅を続けながら、また宛て先のない手紙を書 くことにしましょう。あるいは、君もまた、どこか東北の地を一人歩きつづけ ているのかもしれません。
    【東北学】P.273



     一九九九年に創刊された雑誌『東北学』と『別冊東北学』、その後継誌であ る『季刊東北学』をはじめとして、創設以来、赤坂さんが所長を務める東北文 化研究センターによって企画された各種の実践的なプロジェクト、あるいは、 それぞれの地域の住民による内発的な動きを誘発しながら仕掛けられた地域誌 『津軽学』『盛岡学』『村山学』『会津学』『仙台学』の刊行など、 ここ十数年にわたる赤坂さんの活動を挙げ出すときりがない。
    《解説:三浦佑之》より。




    10/06/06・・・10/09/11・・・10/09/13抜書き者のタイプミス改訂(以降の改定も同じ)・・・12/08/3・・・12/09/04・・・14/06/12・・・16/04/16(転記誤字訂正)