[抜書き] 「日本の深層文化」


「日本の深層文化」森浩一・ちくま新書
二〇〇九年七月十日 第1刷発行

     古代の関東は麻の栽培と布作りが盛んで、ハタケをあらわす文字 を他地域よりも早く必要としたのであろう。
    因みに、(はたけ)も倭字ではあるが、の字よりおくれて飛騨 や信濃などの焼畑地帯で必要から生まれたのであろう。
    (《粟と禾》P.9)


     「春日野に 粟まけせりば 鹿待ちに つぎて行かましを 社し とどまる」

     意味は「(あなたが)春日野に粟を播いたなら、鹿の見張りにつ づけて行けるものを。そこにはすでに社がある」。
     細部の解釈はともかく、春日野のような野の地形が粟の栽培に適 しているとおもわれていたこと、粟畠を鹿が荒らすことがあるなど がこの歌からわかる。
    (《粟と禾》P.13)


     ・倭人伝の「種禾稲紵麻」
     「倭人伝」では、そのあとに倭人の習俗や生業をまとめているが、 まず倭の水人が魚や蛤(はまぐり)をとる沈没漁法(潜水漁法、い わゆるアマの技術)やそれとの関連での文身について述べている。 その次に服装のことにふれ、つづいて「種禾稲紵麻」「蚕桑緝績出 細紵●緜」とあって、武器のことにつづく。
    (《粟と禾》P.31〜32)(●:糸ヘンに兼)


     ・倭人伝の「種禾稲紵麻」
     これまで、ぼくの説明についてきてもらえたのであれば、ここで の問題点に気づくであろう。「禾稲と紵麻をうえている」と読むの が従来のほとんどの「倭人伝」研究で、禾稲(いね)と速断的読み がつけられていることすらある。だがこれは見事な間違いであり 「禾と稲と紵と麻」と読むべきではないかとふと疑問がわいた。
    (《粟と禾》P.32)


     ・倭人伝の「種禾稲紵麻」
     鋳方貞亮(いがたさだあき)(故人)という農業史の学者がおら れた。ぼくも何度か顔をあわせたが、ぼくはまだ若く対談の機会は なかった。
     鋳方さんの著書に『日本古代穀物史の研究』(一九七七年)があ る。この本の第一章「粟」のなかで、「倭人伝」の問題の個所にふ れ、「禾(あわ)と稲」と明快に判定されている。ただ残念なのは 「紵麻」についての言及のないことである。
    (《粟と禾》P.32)


     ・倭人伝の「種禾稲紵麻」
     ついでに書くと、現用の紵麻はカラムシやその織物のこと、だが 本来はだけでイチビやその織物のこと。はもちろん大麻のこと である。
    (《粟と禾》P.32)


     民俗学者の野本寛一さんは、沖縄から秋田、岩手までで具体的に 十八ヵ所での焼畑を表示している。それによると、焼畑は三年つづ けておこなうところや四年つづけるところが大半で、ごくわずか五 年次や六年次のところがある(「焼畑文化の形成」日本の古代10 『山人の生業』に所収)。
     焼畑では、年ごとの作物が異なることが多いが、十八ヵ所のうち 十六ヵ所でアワは作られていて、アワは焼畑の代表的作物だといっ てよかろう。
    (《粟と禾》P.36)


     ここでひとつメモしておこう。『紀』のこの個所の粟田と豆田を 「アワフ」「マメフ」の読みをつけることがある。そういえば、今 日でも芝生(シバフ)という言葉は使われている。『記』のイワレ 彦(神武(じんむ))の東遷の話のなかで、ヤマトの土豪をうつ時 の歌に「久米の子らの阿波布」の一節があって、阿波布は粟生とみ られている。ちなみに『紀』では「阿波赴」となっている。
    (《粟と禾》P.38)


     この回のシンポジウムで、鮨の研究者の日比野光敏氏から静岡県 葵区田代という山村に川魚のヤマメ(山女)を使った粟鮨(あわず し)のあることが紹介された。田代は静岡市とはいえ山梨県との境 に近いたいへんな山村である。
     ぼくはこの発表を聞いてすぐにシンポジウム後半の座談会でテー マの一つとして取りあげた。すると民俗学者の野本寛一氏も田代の 粟鮨を見ておられ、日本の深層文化につながる候補とすることに賛 成していただけた。(『日本の食文化に歴史を読む』中日出版社)。 稲作が普及する以前には粟を使った鮨が各地で作られていたのでは なかろうか。
    (《粟と禾》P.43)


     以上に述べたように元慶六年の勅はまさに、”野についての勅” であって、古代人、とくに平安京にいた為政者が平安京周辺の野だ けではなく、各地の野について強い関心をもっていたことがわかる。 ぼくは”野心”の語源は知らないけれども、古代人にとって野が多 くの幸(利益)をもたらす土地であることを今回改めて知った。稲 の収穫できる田とは違った利益を生む土地である。
    (《野の役割を見直す》P.52)


     雲林院でもう一つ記憶にあるのは、この寺の僧の素性(そせい) 法師である。宇多天皇の頃の僧である。歌人としても名をはせた。 紀貫之(きのつらゆき)が撰した『古今和歌集(こきんわかしゅう)』 に三十六首の歌がのせられている。巻第一の春の歌に「そせい法し」 の次の歌がある。

     みわたせば 柳桜を こきまぜて 宮こ(都)ぞ春の 錦なりける

    (《野の役割を見直す》P.58)


     高山(かぐやま)(香具山)と 耳梨山と あひしとき 立ちて 見に来し 印南国原(巻第一の十四)

     大意は”香具山と耳梨山が(畝傍山をめぐって)相争ったとき  立って見にきたという印南国原”であろう。
     このことについては『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の 揖保郡上岡(かみおか)の里の項に、”出雲国の阿菩(あぼ)の大 神が大倭(やまと)国の畝火(傍)、香山(香具山の古い表記)、 耳梨の三山が相闘ったとき、ここまで来たら闘いが止んだと聞き、 乗っていた船を覆(ふ)してそこに居ることにした。だから神阜 (かみおか)(岡)となづけた。阜の形が(船を)覆せたようであ る”とある。
    (《野の役割を見直す》P.59)


     平安時代の陸奥国といえば、”蝦夷(えみし)の地”で未開の地 とおもいこんでいる人がいる。ところが古代の歌や物語など文学の 世界では陸奥は人びとの憧れの地であった。憧れを旅で実地に確か めたのが西行法師(さいぎょうほうし)であり、時をへだてての松 尾芭蕉(まつおばしょう)であった。では専門家や人びとがもちや すい蝦夷観と文学にあらわれた陸奥への憧れのどちらが真実に近い かといえば、文学のほうに軍配があがるとぼくはみている。
     これはぼくの感想だけではなく、源順(したごう)が承平(じょ うへい)年間(九三一〜九三八)に撰した『和名抄』では、国ごと の田の面積が具体的に記されていて、第一が陸奥国の五万一千四百 町余りである。因みに第二が常陸国、第三が武蔵国で大和国を含む 畿内の五カ国の田は合計しても四万五千町余りにすぎない。さらに 陸奥国には奈良時代から砂金の産出もあって、平安貴族たちが陸奥 国に憧れた大きな理由は陸奥の経済的な豊かさにあったのである。
    (《野の役割を見直す》P.65)


     ここでいう「東」とは今日常識的に使われている関東だけではな く、遠江と信濃を結ぶ線より東で陸奥をも含んでいることがわかる。
     越後や出羽が見られないのは、その地域が日本海の航路で北陸と 結ばれる越の地域であるからであろう。「東」の地域は主に陸路で 結ばれる地域と意識されていたとみられる。
    (《野の役割を見直す・『万葉集』の東歌》P.67〜68)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     『万葉集』の武蔵国の歌での一番めの歌(三三七三)は布作りに ついての歌である。読み下して必要な個所は原文を示そう。

     多摩川(多麻川)に 曝(さら)す手作(弖豆久利) さらさら に 何ぞこの児に ここだ愛(かな)しき(可奈之伎)

     大意は、”多摩川の水に曝している手作りの布がさらさらになる ように、どうしてこの児がこんなにかわいいのだろう”であろう。
     カラムシ(苧・紵)で作る布のことを『和名抄』では白糸布手 作布と説明しているから、カラムシなどの植物を材料として百姓の 家で織られた布が手作りとよばれていたことがわかる。
     カラムシについて苧と紵の二つの字があるのは、陸田に植えられ ているときの「苧」と、皮を剥いで繊維にしたときの「紵」の違い であろう。
    第一章で述べた禾と粟や稲と米の対比に似ている。
    (《野の役割を見直す》P.70〜71)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     第一章では倭地の農村での風景について、『魏志』倭人伝の記録 の「禾稲紵麻を種える」について、”アワ、イネ、カラムシ、アサ を種える”と読むべきことを述べた。倭人伝のころから陸田での主 要な作物の一つが布の材料としてのカラムシやアサだったのである。
    (《野の役割を見直す》P.71)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     あるときふと関東での石包丁の出土が極端に少ないことに気づい た。弥生遺跡の数は多いのに関東全体の石包丁の出土例を合計して もごく少ない。だんだん調べていくうちに奈良時代ごろの関東では 布作りが盛んなことがわかってきて、先ほどの『万葉集』の手作り の歌をも知るようになった。古墳時代や奈良時代になると、関東で も稲作と養蚕(絹づくり)もおこなわれるようになるが、平安時代 や鎌倉時代の荘園からの年貢でも関東は依然として布が多いことを 網野さんは指摘している。
    (《野の役割を見直す》P.72)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     奈良時代から平安時代の資料に商布とか商旅という言葉がしきり に使われている。古代の史料に調布とか庸布もあって、これは律令 制度下で負担する税としての調(ちょう)や庸(よう)で提出した 布のことである。東京都には調布市という地名が今日もある。
     史料では調布や庸布よりも商布のほうがはるかに多く使われてい る。勉強をするうちにわかってきたのは、律令制のもと交易つまり 商業活動によって国や都などの役所が入手し都へ送ったのが商布で あった。つまり商布というのは入手方法の違いであって、元をただ せば百姓の家で作られる手作りの布である。
    (《野の役割を見直す》P.72)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     『延喜式(えんぎしき)』民部の交易雑物の項をみると商布が多 いのは圧倒的に関東であり、第一は一万三〇〇〇段をだした武蔵国 で次が一万一〇五〇段をだした下総国であり、以下上野国、下野国、 相模国、安房国となる。関東のほかでは信濃、甲斐、駿河などの国 でもだしているが数量は相模国よりも少ない。なお商布の一段は二 丈六尺と政府は和銅(わどう)二年(709)に制定している (『続日本紀』)。一段は約八メートルあった。
     弥生時代以来の関東ではカラムシやアサを栽培する野がひろがっ ていて、百姓の家々ではこのような植物性の繊維をとって布に織り あげ、川で曝して仕上げそれを商旅とよばれる旅の商人が買い集め て都へ送っていたのであろう。
    (《野の役割を見直す》P.72〜73)


     ・武蔵野の手作りに布と商布
     このことに対応するように、奈良時代を中心とした時期の関東で は、糸を紡(つむ)ぐのに用いた紡錘車(ぼうすいしゃ)といわれ る石製品の出土がきわめて多く、しかもそこには所有者または使用 者とみられる名の字を刻んだり、時には信仰している仏の顔を線刻 したものもある。 因みに動物性繊維である蚕(かいこ)の繭(まゆ)から取る生糸 (絹)作りには紡錘車は使わない。このように考えてくるとよく比 喩的にいわれる”草深い関東”とは、一面にカラムシやアサが植栽 されていた風景をいったとみるのであれば、それなりに事実を述べ ていたことになる。カラムシやアサの茂る風景は見慣れない人の目 には草と映ったのであろう。
    (《野の役割を見直す》P.73)


     ・関東の女の力と防人の妻の歌
     以上のように伊波は商布を扱う商旅から身をおこしたが、伊波の 出世を支えたものは百姓が栽培したカラムシや麻で織った布であり、 その布を買い集めて都へ運搬することで富を築いた。
    (《野の役割を見直す》P.79)


     ・関東の女の力と防人の妻の歌
     ここからはぼくの推測になるが、伊波の故郷で布の買い集めや保 管、さらに都への運搬などの仕事を担当したのは伊波の妻であろう。 のちに述べるように関東の豪族の妻の力のすごさのわかる話も伝わ っているが、今日の商社にも似たような活動をすでにおこなってい たのである。
    (《野の役割を見直す》P.79)


     ・関東の女の力と防人の妻の歌
     関東での女の強さにくわえ教養のあったことがわかる例が『万葉 集』にある。巻第二〇に収められた十二首の歌である(四四一三〜 四四二四)。
    (《野の役割を見直す》P.79)


     ・東国と畿内の道
     関東で生産された大量の商布や貢納物としての調と庸の布その他 の品々はどのようなルート(道や路)で機内へ運ばれてきたのだろ うか。
     古代の東日本の流通網を大局的にみると日本海側では舟による海 上輸送が発達していた。日本海地域では縄文時代から舟の利用が発 達し、時代が下がった斎明(さいめい)天皇のときには越の国守だ った阿倍比羅夫(あべのひらふ)の大航海が『日本書紀』に記録さ れている。
    (《野の役割を見直す》P.80)


     以下話題を文化の高さに絞る。 『延喜式』の主計式によると、上野国、下野国、相模国、上総国、 下総国、常陸国、武蔵国つまり安房国以外の関東のすべての国が中 男作物として紙を出している。中男作物とは十七歳から二十歳まで の男の調に相当する貢納物だが、紙の生産が盛んだったことがわか る。
     すでに延べたように関東ではカラムシや麻を使っての商布の生産 が盛んで、関東の力の基盤になっていた。も糸偏がつくように植 物の繊維を材料にしていた。ところで関東で作られた紙はどこで使 われていたのだろうか。そのことに関する次の史料をぼくは重視し ている。
     承和(じょうわ)元年(八三四)の五月十五日に次のような勅が だされている。「相模、上総、下総、常陸、上野、下野らの国司に、 力をあわせて一切経一部を写し取りて、来年九月以前に進じ奉らし める。その経は上野国緑野郡緑野寺(みどのでら)にある」(『続 日本後紀』)
    (《野の役割を見直す》P.94〜95)


     神坂では古代人が旅の安全を祈って山(峠)の神にささげた数々 の品が出土している。つまりは人々が幣(ぬさ)を”たむける” ところであって、そのような行為から”とうげ”という言葉が生ま れ字も創られるようになった。峠は国(倭)字で室町時代からあら われ、それまでは坂と意識していた。
    (《野の役割を見直す》P.101)


     ぼくが見た家の庭先に置かれた蜂洞はごく小規模なものだったが、 「暖かい岩陰か崖下などの日だまりに据え」るものもあるらしく、 副えられた写真には十数個の蜂洞が上下二列に並んでいた。
    (《野の役割を見直す》P.116)


     翌日、猪名県(いなのあがた)の佐伯部(さえきべ)が苞苴(つ と)(食品、とくに肉を藁などで包んだもの)を献上してきた。猪 名は大阪府と兵庫県境にある猪名川の両岸にまたがる地域で、ここ にも猪名野(為奈野)があった。
     天皇が膳夫(かしわで)(天皇の料理人)に”苞苴には何がはい っているのか”と聞くと”牡鹿です”と答えた。さらに”どこの鹿 か”と聞くと”菟餓野の鹿です”。
     天皇は皇后にいった。”自分は鹿の鳴声を聞いて心を慰めていた。 どうも佐伯部はその鹿を獲ったらしい。偶然の出来事とはいえ、恨 めしい”といって、佐伯部を皇居から遠ざけ、安芸国ほ移住させた。
    (《鹿と人》P.138〜139)


     猪は雑食で秋にはドングリの実を食べる。ヨーロッパでは、秋に なるとドングリのなっている樫の森へ豚を連れていって、木の実を ふんだんに食べさせ、冬に備えさせている絵画を見たことがある (『ベリー侯の豪華時●書』の十一月の絵)。 その豚の肉を人間が冬やそれ以降に食べるのだから、木の実が人間 の好む肉質に変化させるのである。一概にはいえないが、猪は山や 山麓など森のひろがる山地形が主要な生息地とみてよかろう。豚 (豕)は、猪を家畜化したものである。
    (《鹿と人》P.141)●(とう、示ヘンに壽)


     日本は一九四五年八月十五日に太平洋戦争で敗れた。ぼくは八月 まで学徒動員で、飛行機の部品を作る鋳物工場で働いていた。たし か春ごろだった。明石にあった本社工場がアメリカ軍の爆撃で壊滅 し、そのためぼくの行っている堺工場の生産体制が強化され、ぼく は夜間勤務になった。幸いなことに、昼間の時間が自由に使えたの で、ぼくは懸命に弥生遺跡や古墳の巡検に利用した。とにかく、明 日の命の保証のない時代、ぼくは必死だった。
    (《鹿と人》P.149)


     母が健在だったころ、一升瓶に油がいれてあって、ムカデを生捕 りにするとその瓶にいれ、次に咬まれるとその油をぬった。
    (《鹿と人》P.160)


     ・腰掛ける人と鹿
     腰掛といえば、現代人には身体を休めるためにある調度品とおも いこんでいるが、もし地上から一メートルも上で足を宙ぶらりにし て、しかも正しい姿勢を保ちつづけるとなると、休めるどころか苦 痛であろう。どうやに周囲の人たちから、よく見えるようにするた めの高い腰掛とみてよかろう。
    (《鹿と人》P.173)


     ・人に恭順を誓う鹿
     滋賀県守山市新庄出土の銅鐸には、帯状に並んだ人と鹿があって、 接近する図柄では人を背後から描いている。つまり右に鹿、左手に 弓を持つ人がいる。その左にある図柄でも、人が左、鹿が右にあり、 鹿の背中に矢がささり、そのあとに二頭の鹿がつづく。これも狩猟 の図柄ではなかろう。なおどちらの図も、人の手が鹿の角にさわっ ている。
     人にとって鹿とは何だろう。たんに肉、骨や皮を食料や材料とし て提供するだけのものではなく、人びとが新たに開拓しようとする 土地、とくに野の先住者であった。弥生時代やその後の時代にも、 農地や居住地を拡大しようとする土地の原風景は野が多かった。そ の野を象徴する動物が鹿であり、時には野(土地)の神の象徴(化 身)ともみられたのであろう。倭人たちは、鹿を根絶(ねだや)し にするより共存する道をえらんだ。
    (《鹿と人》P.184〜185)


     よく知られたことだが、この風土記には当然最初の部分にあるは ずの明石郡の記述がなく、賀古郡から始まっている。賀古郡は、加 古郡とも賀胡郡とも書かれるが、発音はカコグン(コホリ)である。
     カコの地名に何か気付かなかったか。鹿児(子)である。カコか カノコともよばれ、小鹿の斑(まだら)の文様から今日でも、カノ コ編(あみ)、カノコ地、カノコ絞り、カノコ造り、カノコ餅など 日常生活でたくさん使われている。
    (《鹿と人》P.186〜187)


     ・八日市地方遺跡の土製人形と鹿
     この人形土製品は、頭、両手、両足を失っている。それは偶然で あろうか。縄文時代の土偶がしばしば手足などが故意に破損させら れている。それと通じるのではなかろうか。
     司祭者の運命は、物事がうまく運べばよいが、よくない結果とな ると生命があやうい。『三国志(さんごくし)』魏書東夷伝(ぎし ょとういでん)の夫余(ふよ)の条には、天候が不順で五穀がみの らないときには、その咎(とが)は王にあるとされ、王が殺される こともあるという。
    (《鹿と人》P.210)


     ・鹿に化けた諸県君牛
     その時、天皇は淡路島で遊猟をしていた。天皇が西のほうを見る と、数十の麋鹿(おおしか)が海に浮んでこちらへやって来る。天 皇はその麋鹿を家来に見にいかせた。すると鹿ではなく、人だった。 人が頭に鹿の角をつけ、鹿皮を着て、鹿に仮装していたのだった。 家来が確かめると、”自分は諸県君牛で、年をとって引退していた が、娘を貢上するためにやってきた”という。麋鹿は大きい鹿も馴 鹿(なれしか)ともいう。
     想像すると、髪長媛もその集団にいたのだから、やはり鹿の姿を していたのだろう。ぼくは長らくこの話の奇妙さが解けなかったが、 人間もより勢力のある集団に恭順を示すときには、鹿が恭順を示す ことをまねて、鹿の姿をするのであろう。
    (《鹿と人》P.222〜223)
    (●:麋の類字、まだれ 广(まだれ)に鹿と米)


     ・磐井の墓と石鹿
     この罪人は、解部によって死の判決をうけたとみられる。風土記 では、その偸人が、「生けりしとき、猪を偸んだ」とあるから、そ のように推測される。ところでは盗とは同じではない。偸は「人 のものをそっと移す」こと、結果的には盗と同じだが、ぼくには磐 井に属していた猪飼部が職務を怠慢にして、猪を逃がしたか何かの 不始末をおこしたとおもう。
    (《猪と猪飼部》P.229)


     ・犠牲としての猪と豕
     動物埴輪のうちで、古墳時代のほぼ最初からあるのは鶏の埴輪で ある。中期になると馬と猪の埴輪が加わりはじめ、後期には馬、猪、 鶏の埴輪が広い範囲で盛んに作られ、後期の末でおわる。そのあと も馬は土製の小さな馬(土馬)として、主に祭祀遺跡で使われる。
     水鳥、鷹、鹿、犬、猿の埴輪もあるけれども、普遍的に使われた わけではないし、魚とムササビやウサギの埴輪にいたってはさらに 珍しい。ではどうして馬、猪、鶏といった三種類の埴輪が多く作ら れたのであろうか。
     一つの理由は、これら三種類の動物は神にささげるための犠牲 (いけにえ・生贄)として用いられたからであろう。犠牲を神にさ さげるとは、血をだして殺すことをともなう。これは馬、猪、鶏だ けではなく、城の石垣、橋、堤などの工事にさいしては人が犠牲 (人身供犠(くぎ))となった話や伝説もある。結論を先にいえば、 猪の場合の猪飼部とは神への犠牲に用いる猪を飼育し、用意しつづ ける集団だったとぼくはみている。
    (《猪と猪飼部》P.236)


     父の景行天皇はヤマトタケルの武勇を認めつつもその存在を恐れ たとみられる節があって、次々に過酷な遠征に行く事を命じている。 まず九州の熊襲(くまそ)を撃ち、都へ帰るとすぐに蝦夷(えみし) のいる東国への遠征を命じた。常陸にヤマトタケル伝説が多くのこ るのは東国への遠征にともなって生まれたことになるのであろう。
     ここで注意したいのは蝦夷というと東北地方を連想する人もいる が、関東にもいたし、近畿の近江や播磨、さらに出雲や四国、九州 にもいた。蝦夷といって東北だけを連想するのは平安時代の歴史か らの解釈である。
    (《鯨と日本人》P.257)


     ・ヤマトと橿原遺跡のクジラの骨
     ヤマトタケルのヤマトについて一言述べる。
     普通ならばこのような「ヤマト」をいう場合には「大和」と書くがぼくは使わない。 「邪馬台国大和説」とか「大和朝廷」とよく専門家が使っているけれども、古典で見るかぎり「大和」の二字で奈良県(もしくはその一部)を表記しだすのは奈良時代の中ごろからでそれ以前にはない。 つまり邪馬台国の時代や古墳時代にはまだ「大和」という二字で書く地域名はなかったのである。
     歴史から真実をさぐろうとする場合、地名や人名などに厳密になることから出発すべきであろう。 そうはいっても『万葉集(まんようしゅう)』に大和は使われているという人がいるかも知れないが、注意が足りない。『万葉集』の原文でのヤマトは山跡とか倭あるいは大倭、さらには日本などであって大和はない(左註に一例だけあるが、いつついた註かは不明)。 万葉学者が歌を読み下すときに地名などを後世の言葉で書きかえることはかなり乱暴なこと。 歴史の改竄(かいざん)といわれてもやむをえまい。
    (《鯨と日本人》P.262〜263)


     ・神武が詠んだ久知良
     サメは古代にはワニとよばれた。島根県ではネコザメがサザエワ ニ、関東のホシザメも大阪ではホシブカ、島根や鳥取ではホシワニ である。
    (《鯨と日本人》P.266)


     ・神武が詠んだ久知良
     出雲地方の神話には稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)の話に も海のワニがでてくるし、『出雲風土記(いずものくにふどき)』 にも娘がワニに食われた語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の復讐 (ふくしゅう)話がでている。
    (《鯨と日本人》P.267)


     このように出雲地方ではサメのことをワニということは知ってい た。あるとき広島県三次市の小さな食堂に立寄った。三次市は中国 山地にある都市である。すると食堂の壁に「ワニ定食」とあるでは ないか。注文するとサメの刺身の定食で少々アンモニアの匂いがし た。
    (《鯨と日本人》P.267)


     それにしても日本海西部地域では海岸部よりも山に入った土地で 今日でもワニ(サメ)を食べることが続いている。このことも宇陀 でのクジラを考えるのに役立つだろう。要は身体を動かさずに書物 のうえでの知識だけで古典や史料にあたると、読めることまでが曇 ってしまう
    (《鯨と日本人》P.267)


     考えてみると都のあった京都はつい天皇や貴族たちの史料が多く また目立っているため、地域史として見ることが避けられてきた傾 向がある。
    (《鯨と日本人》P.272)


    すると以外にも室町時代の皇族や公卿たちはクジラを食べているこ とに気付いた。これは上層階級の人たちのあいだだけでクジラが食 べられていたのか、それとも町衆にもひろがっていたのかは今はわ からない。とにかく事実としては、室町時代には天皇、皇族、公卿、 さらに足利(あしかが)将軍たちがしばしばクジラを食べている。
     クジラを食べたことについての史料がかなり多いということはク ジラが珍しい食材であったため、少しを食べても日記にわざわざ書 きとめているという一面はある。
    (《鯨と日本人》P.272)









    11/01/16・・・11/01/30

    【転記ミス訂正】14/09/04・・・