[抜書き] 『宮本常一が見た日本』


『宮本常一が見た日本』佐野眞一・ちくま文庫
二〇一〇年五月十日 第1刷発行
    目次   プロローグ   第一章 旅する巨人を生んだ島   第二章 父から受けた十ヵ条   第三章 民俗学の誕生   第四章 旅のスタイル   第五章 海から見た日本   第六章 庶民へのアプローチ   第七章 食糧確保の使命   第八章 山河への憧憬   第九章 農業のプロとして   第十章 離島振興にかける   第十一章 記録する精神   第十二章 孤島のダイナミズム   第十三章 地域芸能への思い   第十四章 路上観察者の眼   第十五章 日本人が忘れたもの   第十六章 官僚たちが語る宮本常一   第十七章 宮本常一のメッセージ   −周防大島郷土大学特別講義   エピローグ   あとがき   文庫本あとがき   解説 橋口譲二   宮本常一略年譜

     郷土に生きる人びとの智恵を民俗学に生かし、それをなんとか他 の集落の人びとに伝えていくことはできないか。宮本はほとんど不 眠不休で学校近くの村々を歩き、そこで聞きとった話をガリ版に切 っては配布した。
    (《第四章 旅のスタイル》P.68)


     宮本が渋沢とはじめて会ってから三ヵ月後の昭和十年(一九三五) 年七月、宮本は柳田國男の還暦記念講演会に出席するため上京し、 そのあい間をぬって、アチック・ミューゼアムを訪れた。渋沢は宮 本をあたたかくもてなし、郷里の漁村生活誌をまとめることを強く すすめた。
    (《第四章 旅のスタイル》P.72)


     親交がますにつれ、宮本は渋沢の人間的大きさを知り、深く渋沢 に傾倒するようになった。
    「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくこ とだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしま う。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを 見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになるこ とだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、 そういうことはどんな場合にもつつしまるばならぬ。また人の邪魔 をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙っ てしかも人の気にならないようにそこにいることだ」
     渋沢が静かに語りかける言葉は、宮本の心に強くしみとおった。 渋沢の言葉は、父・善十郎の教えにも重なっているように思えた。
    (《第四章 旅のスタイル》P.73〜74)


     これは昭和一二年八月、『河内国瀧畑左近熊太翁旧事談』として、 やはりアチック・ミューゼアムから発行された。宮本はこの本にふ れて、 「一人一人の一見平凡に見える人にも、それぞれ耳をかたむ け、また心をとどろかすような歴史があるのである。そしてそれを 通して世の中の動きをとらえることもできるのではないかと思った」 と述べている。
    (《第四章 旅のスタイル》P.74)


     糸瀬さんの家にも高床式の倉がある。庭の隅にある倉庫に私を案 内した糸瀬さんは、〔きんぎりす〕と呼ばれる独特のカギで扉を開 け、宮本が糸瀬家に伝わる古文書を筆写したときの書きつけをみせ てくれた。大きめの木箱に厳重に保管された書きつけには、宮本独 特の小さな文字で、 「昭和二十五年八月四日拝見、漁業関係古文書 特に共有制度資料として尊重すべきも の」 と書かれていた。
    (《第五章 海から見た日本》P.102)


     宮本はガリ版で切られた同レポートのはしがきで次のように述べ ている。
     〈調査期間は昭和三十一年十一月五日より同月十三日までの九日 間にわたるものであるが、文字通り昼夜兼行一日十七時間労働に従 った……〉
     宮本のハードスケジュールは名倉でもかわらなかった。宮本の調 査に同行した者は、調査が終ると必ず体をこわして倒れた。それで も宮本の調査に同行する者があとをたたなかったのは、人の心をと ろかすような絶品の笑顔と卓絶した人間的魅力のせいだった。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.105)


     宮本の名倉調査に同行し、「名倉村 3部落について」を共同執筆した中田実氏(当時・名古屋大学医学部精神医学研究員)は、宮本の調査ぶりには本当に感心させられたという。
     「宮本さんの調査法は、学者などにありがちな「略奪型」ではありませんでした。 相手から話を引き出すだけではなく、相手のためになる話もする。 調査された方が勉強になるという理想的なものでした。 どこへ行っても、もっと話を聞かせてくれ、泊まっていけといわれるので、旅館なんかにはほとんど泊まったことがない、とおっしゃってました。 常に固有名詞を使って話されることにも感心しました」
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.108)


     宮本は「調査地被害」(『朝日講座 探検と冒険7』朝日新聞社) という文章の中で、自分は調査するにあたって、 「調査という ものは地元から何かを奪ってくるのだから、必ずなんらかのお返し をする気持ちをもっていなければならない」 という師・渋沢敬三の 言葉を拳々服膺(けんけんふくよう)してきた、人文科学が訊問科 学になってはなんにもならない、と述べている。
     しかし、精神科医を総動員した名大調査全体の方向性は、皮肉な ことに「訊問科学」そのものだった。彼らは寺の一室に土地の古老 たちを集め、暗幕で仕切った部屋で一人一人に対し、夜中の三時、 四時までロールハッシャテストを繰り返した。いまなら人権問題に 発展することは間違いない危険な調査だった。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.108〜109)


     宮本は田口線の窓から何枚か沿線風景を撮っている。宮本の写真 の特徴は、調査地の写真だけではなく、そこに入るまでの車窓風景 を撮り、調査地を離れる写真で終っていることである。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.112)


     人っ子ひとりいない廃駅跡にただずんでいると、人間の営みのい とおしさとせつなさが、ふいに胸につきあげてきた。そして宮本は、 人間の営みのいとおしさとせつなさを求めて日本列島のすみずみま で旅したのではないかと思った。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.113)


     定食はウチワのように大きい五平餅で、そこにべったりと赤ミソ が塗ってあった。五平餅は信州のものであり、赤ミソは三河のもの である。この地域の食文化が信州と三河の食文化の移入によってつ くられてきたことが、わかったような気がした。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.113)


     宮本の物心両面にわたるパトロンだった渋沢敬三は、宮本くんが 歩いたあとを白地図の上に赤インクで印していくと、日本列島は真 っ赤になる、といったが、厳密にいえば、それは正確ではない。宮 本は日本の村という村を歩くことで、地域慣行の偏差を示す「文化 等高線」を自ずからの足の裏に刻んでいった。宮本の足跡は赤一色 ではなく、鮮紅色から薄紅色までのグラデーションで彩られていた。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.113〜114)


     宮本は万歳峠について次のように述べている。
     〈(万歳峠は)村から山をこえて田口の方へ出ていく峠のことで ある。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳 をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、 送られる方はすぐ谷のしげみの中に姿がかくれてしまう。そこで別 れ場所を峠の頂上より五丁あまり手まえの所にした。そこで、別れ の挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりなが ら、五丁あまりを歩いて峠の向こうへ下っていくのである。こうし て万歳峠が、峠の頂上から五丁手前に来たのは日露戦争の時からで あったという。まことにこまかな演出ぶりである。こうした事に村 共同の意識の反映をつよく見ることができる〉 (「村のよりあい」 『忘れられた日本人』)
     万歳峠の上に立って、いまきた田口の方を眺めてみた。たしかに そこが最も道路の見通しがきく。そこから五メートル上に行っても 下に行っても、もう眺望はきかない。目の前を走る車が通りすぎて から山のなかに消えるまでの秒数をはかってみると、約六十秒かか った。車の時速を六十キロとすると、一キロの計算である。人間の 歩行速度でいえば、約十五分である。村人たちは出征兵士を見送っ て、十五分も「万歳、万歳」と叫んでいたことがはっきりとわかっ た。
    (《第六章 庶民へのアプローチ》P.114〜115)


     私は今回の旅で、宮本が戦前歩いたコースと同じ道をできるだけ たどるつもりだった。そこで城戸から南下し、そのまま十津川には 向かわず、天辻トンネルを越えたところにある坂本の集落を西へ折 れ、中原川という小さな谷川に沿って野迫村に入った。大塔村の谷 底に位置する坂本のT字路には、昭和館という看板がかかった三階 建ての古い旅館があった。山間には稀な宏壮な建物である。だが、 客はひとりもいないようで、せせらぎの瀬音がうるさいほど聞こえ る谷川のほとりに、ひっそりと静まり返っていた。
    (《第八章 山河への憧憬》P.161)


     〈苦労をし通しだったおばあさんである。それでいてついに故郷 で生涯を終ろうとするのは、故郷であれば最後まで人々が面倒を見 てくれる、どんなに働きがえらくてもやっぱり故郷は気安くてよい からだというのである。私はその思い出話をきいて胸のいたくなる のを覚えた〉
     宮本はなぜ、老婆の話を聞いて心を痛めたのだろうか。
     この当時、宮本は渋沢からアチック入りを強くすすめられていた が、まだふんぎりがつかないでいた。教員をやめて民俗学者として 本当に自立できるかどうかも自信がなかったし、収入の不安もあっ た。そのうえ、宮本は前年の暮れに結婚したばかりだった。
     自分の身に迫ったこうした状況が、故郷に戻った老婆の話を聞い て、宮本の胸にあらためてよみがえってきたのではなかったか。宮 本は目の前の老婆に年老いた故郷の母親を重ねていたに違いない。
    (《第八章 山河への憧憬》P.163)


     故郷の周防大島を除いて、宮本に一番縁の深かった島は佐渡であ る。十万点にのぼる宮本の膨大な写真をみても、佐渡の風物を撮っ た写真が群を抜いて多い。
     宮本が撮る写真の大きな特徴は、上から俯瞰する形で撮影したも のが多いことと、洗濯ものでも稲でも、干してあるものなら何でも 構わずという感じでカメラを向けていることである。佐渡の写真に はこの特徴が一番よく現れている。
    (《第九章 農業のプロとして》P.178)


     宮本が佐渡を撮影した写真で一番古いのは、このときのものであ る。最初に撮影されているのは新潟の駅前である。ガランとした駅 前広場にはほとんど人影がなく、右手にバスだけが写っている。そ の光景は、まるだ中国の「人民広場」を連想させる。
     つづいて、新潟港の風景があり、埠頭に立つ歴史学者の江上波夫 と渋沢敬三の姿が船の上から撮られている。次のカットは、テープ をもって見送る渋沢で、やはり船上から撮影されている。その後、 新潟漁協の建物や港内の浚渫写真がつづき、やがて佐渡の海岸段丘 の写真となる。最後は佐渡の表玄関の両津港と両津郵便局の写真で 終っている。カット数はわずかだが、これら一連の写真には、まだ みぬ土地を訪ねるという知的興奮と、旅というもののはじまりから 撮ろうとする宮本の記録精神がよく現れている。
    (《第九章 農業のプロとして》P.178〜179)


     宮本は佐渡紀行とは別のところで、洗濯物に関してこんなことを 述べている。
     〈干されているものを見ると手縫いのものはないようである。い つの間にかわれわれが身につける下着はすべて購入品にかわってし まった。昭和三〇年頃までは干されているものを見ると手縫いのも のが多かった。ミシンで縫ってあっても、自製のものが少なくなか った。つぎのあたったものを着なくなったのは昭和三五年頃が境で あった。そして多くの女性たちはあまりミシンをつかわなくなって 来た。その頃までいたるところに見られた洋裁塾や洋裁学校が姿を 消していった。
     そしてその頃から流行が、自主的な意志によっておこなわれるよ りも商業資本の企画によって左右されるようになって来る。今年は 何がはやるかということが、前もってわかることになった。いつの 間にか人間の意志がかすんだものになってゆきはじめた〉
    (「一枚 の写真から−−草屋根の意志」『空からの民俗学』岩波現代文庫)
    (《第九章 農業のプロとして》P.187)


     羽茂の共同選果場を案内してくれた元羽茂町職員の藤井三好氏は、 宮本の農業指導に随行した経験をもっている。
     「宮本さんは柿の栽培の技術的な面についてはあまりいいません でした。それよりも宮本さんは、人づくりができて、道づくりがで きて、はじめて産地づくりができる、ということをよくいっていま した。とにかく人づくりからはじめろ、というのが宮本さんの持論 であり、信念でした」
     藤井さんはそういって選果場のうしろを指さした。
     「みてください。このうしろには港があります。港につながる道 路があります。人はよく柿の生産高や生産額だけをいいますが、大 切なのは柿が港をつくり、道路をつくり、町をつくったことなんで す」
     私は藤井氏の話を聞いて、宮本が農業指導に歩いた精神の最も深 いところを理解できたように感じた。
    (《第九章 農業のプロとして》P.195)


     「宮本先生は誰でもその気にさせるそそのかしの天才だった」
     戦後、とりわけ昭和三〇年台から四〇年代にかけての宮本は「野 の学者」というよりは、「済民」という目標に向かってまっしぐら に進む比類なきアジテーターであり、傑出したオルガナイザーだっ た。しかし、それは宮本にとって、学問からの逸脱というよりは、 むしろ祖父以来「世間師(しょけんし)」を理想としてきた宮本の 本懐だったともいえる。
    (《第十章 離島振興にかける》P.200)


     鬼太鼓座創設当時からのメンバーで、いま鼓童代表となっている 大井良明氏によれば、よそからきた若者が畑野の町なかの民家を借 りて一日じゅう三味線の練習をしたり、真っ赤なジャージを着てラ ンニングしていた最初の頃は地元の人から白い眼でみられたが、地 域の子供たちとの交流を通じてぎくしゃくとした関係がじょじょに ほぐれていったという。
     「宮本先生はよく、これからは地方の文化の時代だ、きみたちは それを宣伝するチンドン屋になれ、といっていました。また、島の 中にいると島のなかしか見えなくなる、よそ者が評価する眼が必要 だともいっていました。宮本先生自身がそういう存在であろうとし た人だったんじゃないでしょうか」
    (《第十章 離島振興にかける》P.200)


     離島を考える宮本の思想の根底には、現在は遅れているとみなさ れている島々も、近代にはいって陸上交通網が整備されるまでは海 上交通の要衝として各地とつながり、高い文化をもっていたという 歴史的認識があった。
     その思いが、離島救済への素朴かつ過剰なまでの使命感となり、 宮本の文章を、平易でいて、それで深い味わいのある他の文章とは 違った、きわめて生硬な印象を残す文章にさせている。
    (《第十章 離島振興にかける》P.209)


      しかし、宮本の文章を仔細に読めば、島に港をつくり本土との 間に橋を架けることだけが望まれるのではなく、島の生産基盤を内 部からつくっていくことこそが肝要だといっていることがわかる。 道路にしても島の中央と直結するのではなく、辺鄙(へんぴ)な村 々を通る支線交通網を循環型の交通網にきりかえることが急務だと 主張している。また離島の重要な産業である観光も、土産物屋とバ ス会社だけを儲けさせる見せもの的なものを排し、島に住む人びと の自信を回復させるものでなければならないと説いている。
    (《第十章 離島振興にかける》P.209)


     宮本に生前十回以上会ったことがあるという石塚氏に宮本と角栄 の比較をきいてみた。
     「ウーン、むつかしい質問ですね。まあ、田中先生は道路行政一 本やりの先生でしたね。それに対し宮本先生は離島全体のことを考 え、辺鄙な村々の将来を考えた。たとえば赤泊で一番高いところに 登り、集落と集落が途絶していることを知った先生は、等高線百メ ートルのところに集落と集落を横につなぐ道路をつくれ、そうすれ ば各集落の産業振興がどれだけはかれるかわからない、とおっしゃ った。宮本先生は赤泊の将来のためにという小冊子まで書いてくれ ました。田中先生のような立派な碑も何もありませんが、私はいま でも宮本先生を、離島の神様だとおもっています」
    (《第十章 離島振興にかける》P.212)


     観文研の活動で、一番有名なのは、昭和四二(一九六七)年三月 から刊行がはじまり、昭和六三(一九八八)年一一月発行の二六三 号をもって終刊となった機関誌の「あるくみるきく」である。「あ るくみるきく」はいまでも企画の宝庫といわれ、編集者やテレビプ ロデューサーたちがひそかに利用している。
     観文研の事業には「あるくみるきく」の発行以外に、地方博物館 への設立協力、民具蒐集、地域開発へのコンサルティング、探検学 校の開設などがあり、観文研のスローガンにうたわれた「知的な旅 の創造」に関するおよそありとあらゆる分野の機能が備わっていた。
     映像の記録も観文研の重要な仕事だった。これは民族文化映像研 究所、通称民映研との共同作業によって行われた。宮本の色紙では じまる「日本の詩情」の製作に携わったのも現在民映研所長で、当 時フリーの記録映画作家として着実に力をつけていた姫田忠義氏だ った。
    (《第十三章 地域芸能への思い》P.257)


     宮本は対馬の調査で、かつて罪人を磔(はりつけ)にする仕事を していた人びとの集落を訪ねたとき、その途中で、斬首された罪人 の首を洗ったという伝説をもつせせらぎに口をつけてをのんだこ とがあった。首洗いの淵で土地の者ものまない水をよそ者が平気で 口をつけてのんだという噂は、たちまちその集落に伝わった。宮本 がその集落で心を開いて話を聞くことができたのも、宮本の態度が、 他の集落に対する態度と全然かわらなかったためだった。
    (《第十三章 地域芸能への思い》P.268〜269)


     宮本は、世の中が移りかわるということは、どうしても誰かが犠 牲にたたされるものである、何万、何十万という人びとがそれぞれ 悲痛な思いを胸にひめつつ、山を下りていった、山地を歩くたび、 山間にいても安穏に暮らせるような方法はなかったものだろうかと 考える、と述べたあと、この文章を次のように結んでいる。
     〈私はただ風景を風景として見るだけでなく、ひとつの風景を作 り出してきた人びとが、自然とどのようにかかわりあってきたかに 目をとめて見ていただきたいと思う。原始林を除いて、日本の山地 に人手の加わっていないところはひとつもないといっていい。それ はそこに生えている木の大きさを見てもわかる。何回も何回も伐り、 その後に生えた木で山はおおわれている。山地に時間は無為に流れ たのではなかった〉
    (《第十四章 路上観察者の眼》P.286〜287)


     宮本は昨今はやりの俗流「路上観察者」のように、新奇なものば かりに目をつけて読者の迎合をはかるヒマ人の好事家ではなかった。 また銀座通りを歩く人びとの髪型や服装などの観察を通して、都市 風俗の変遷を考察しようとした今和次郎のような「考現学者」とも 似て非なるものだった。宮本は「路上観察学」のディレッタンティ ズムとも、「考現学」のいかにも気の利いたペダンチックなものい いとも、無縁だった。何度もいうように、宮本は風景からその景観 をつくってきた人びとの意志を観察した。
    (《第十四章 路上観察者の眼》P.287)


     宮本は日本民族学のふるさとといわれる岩手県遠野市の田園風景 からも、柳田國男の『遠野物語』には決してでてこない解釈を展開 している。
    (《第十四章 路上観察者の眼》P.287)


     宮本はなによりも「世間師(しょけんし)」のまなざしで日本と いう国土をみつめ、そこに生きる人びとが少しでも暮らしやすくな るようにと心をくだきつづけた「経世済民」家だった。そこに自己 のアイデンティティを定めた宮本が、象牙の塔にこもる学者となら なかったことは、むしろ当然の帰結だった。
    (《第十六章 官僚たちが語る宮本常一》P.311)


     平野 阪神・淡路大震災では、共同体の差も歴然と出ましたね。 あのとき結局、六千数百人の方がお亡くなりになられたんですが、 ほとんどが家の下敷きだったんです。生き埋めになった人を引っ張 り出すには、一人に対して大人十人ぐらいの人手がいるんです。昼 夜交代で二十人。ざっと十万人のボランティアがいれば、あれほど の犠牲が出ずにすんだと思うんですが、神戸の場合、恐ろしいとい ってみな避難所に逃げこんでしまった。これに比べて淡路島の北淡 町の方は、生死はともなくその日のうちに全員引っ張り出せたんで す。あの町では、おばあちゃんがどこで寝ているかまで、隣近所の 全員が知っていますから。コミュニティの差というのは、有事の際 にはっきり現れるんですね。
    (《第十六章 官僚たちが語る宮本常一》P.315)

     小島 それと同じような話では、過疎対策法が新法になったとき、 こんな話を聞きました。要するに、過疎市町村を減らそうとしたん です。が、「それじゃ困る」という大合唱が全国から湧き起こって、 結局増えてしまった。そのとき「過疎市町村になったのでありがたい」 とお祝いをした市町村がたくさんあったというのです。
     −− ・・・ 宮本の言葉に、サイガイをサイワイにし てはいけないという言葉がありますが、なぜ地方はそこまで誇りを なくしてしまったとお考えですか。
     小野寺 たしかに地方を活性化させるためには誇りが一 番大切です。誇りはもってはいるんです。けれど、その誇りが日本 列島全体のなかでどれぐらいなのか、世界の中でどのくらいなのか ということについては、いいきる自信がないんです。僕が屋久島で 地域づくりをやったとき、残念ながら一番効いたのは世界遺産への 登録だった。あんなのは手段だと思うんですが、世界は、富士山よ り屋久杉の方が日本を代表する自然だと認めた。それが屋久島の人 びとに大きな自信を与えたことは事実なんです。
    (《第十六章 官僚たちが語る宮本常一》P.332〜333)


     小島 地方の個性を発見するとは、一言でいえば一芸を伸ばすと いうことです。しかし、それは当該の住民からはなかなか難しい。 やっぱり外の目というか、そういう意味でも宮本常一的な人が必要 なんです。
     小野寺 国から県に出向した役人というのは、ちょっと宮本常一 に似てるんだな。ある種の地縁血縁関係のなかで地域の人がなかな かいえないことも「あの東京から来たおっちょこちょいの役人にな らいえる」となる。それで、そのおっちょこちょいに局面打開をさ せる。閉塞状態を打ち破るときにトリックスターが登場するように。
     西 ゴーンさんの日産改革みたいなものですね。日本人だと難し いが、外国人ならできる。
     −− たしかにそうなんです。宮本さん自身もどこかで自覚して いたと思うけど、トリックスターの役割を自分に課していたような ところがある。黒澤明の「七人の侍」じゃないけど、「勝ったのは 俺じゃなくて」みたいなところがあった。宮本常一はドン・キホー テ的に日本列島を攪拌していたんですね。
    (《第十六章 官僚たちが語る宮本常一》P.334)


     宮本常一の郷土大学は、昨今言われてるフリースクールやNPO の走りだったと思うんです。もちろん宮本常一はフリースクールと いう言葉も、NPOという言葉も知りません。しかしその時点で、 すでに宮本常一は今日あることを、ある程度予測できたと思うんで す。
     なぜ予測できたか。別に宮本常一が天才的な人間だったからでは ありません。宮本常一は決して天才でもなんでもありません。ごく 平凡な人間です。しかし彼は地球を四周するぐらいの、おびただし いを続けたわけです。そういうところで自分を鍛え上げていく。 「人というのはこういうときにこういう顔をするんだな」、あるい は「人というのはこういうときに困るんだな」ということを覚えて いったんです。それは彼が旅から培ったものだと思います。ゲーテ が旅について語った言葉の中で「人は自分の持っているものしか旅 から持ち帰れない」っていうのがあるんです。つまり、旅すれば何 もかも得られるということではない。自分の身の丈に合ったものし か持ち帰れないんです。だから思想の鍛錬であるとかが、絶えず必 要になってくるんです。単に北海道の隅から沖縄の隅まで行くので あれば、それは単なる旅行者にすぎない。しかし旅人というのはそ うじゃないんです。旅によって自分の思想なり練磨していく、そう いうことだと思うんです。宮本常一の旅に関しては、僕の本の中で も随分書いていますけど、彼は自分自身のことを「伝書鳩」にたと えたんです。岩手県のほうで農業技術、たとえばカボチャの作り方 で「ああ、こういう工夫があったんだ」と。そうすると次に訪ねる、 たとえば秋田県に行くと「実はいまごろ、どうやらこういう農業技 術があるよ」というふうに伝播して歩いた。こういうことは宮本常 一ぐらいしかやってこなかったと思います。
    (《第十七章 宮本常一のメッセージ/周防大島郷土大学特別講義》P.350)