[抜書き] 『東北−つくられた異境』


『東北−つくられた異境』河西英通・中公新書1584
2001年4月25日発行
    目次   はじめに−−〈東北〉とはなにか   第一章 異境と桃源郷の間   第二章 「白河以北一山百文」   第三章 燃える東北主義   第四章 〈東北〉の生産   第五章 開発と差別   第六章 ナショナリズムとしての東北   終章 その先の〈東北〉へ   あとがき   主要参考文献  

     東北学の旗を掲げる民俗学者の赤坂憲雄(あかさかのりお)氏は、「『ひと つの日本』の呪縛をほどき、『いくつもの日本』を剥(む)き出しに露出させ てゆくとき、日本文化像それ自体が根底からの変容を強いられる」とのべ、切 り口となる東北を「特権的な知の戦いの現場」と位置づけています。また、赤 坂氏が創刊した雑誌『東北学』は、「ひとつの可能性の大地」として東北を位 置づけ、「ルネッサンスの拠点」としての東北を展望しています。
    (《はじめに−−〈東北〉とはなにか》P.A)


     そうした東北観を戊辰(ぼしん)戦争(一八六八〈慶応四〉年)が固定しま した。幕末維新期の東北を分析した田中秀和(たなかひでかず)氏は、戊辰戦 争によって、東北が蝦夷地同様の「未開」地として設定され、「未開」とは、「天皇を知らないことであり、天皇に刃向かうこと」だったと論じています。 基本的に、近代の北方社会において、「未開」とは異民族アイヌを指していた のに対して、戊辰戦争をへた近代において、「未開」とは異民族アイヌおよび 軍事的敗者(朝敵)=東北を指すこととなり、「非未開」=「開化」とは軍事 的勝者(官軍)=西南を意味したのです。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.10)


     若松県(現福島県会津地域):『東京日日新聞』「市中の家はもとより甚だ租にして汚穢(おわい)し、辻便所は漸(ようや)く止みたり」「最はや男 女入込の湯屋は無く成りたれども、甚だ不潔なるを如何(いかん)せん」と記 しています。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.12)


     奥羽越列藩同盟設立直後の六月には山口藩士の桜井慎平(さくらいしんぺい) から「奥羽之賊露西亜(ロシア)と声息(せいそく)を通じ応援之有無」につ いての書簡が届き、その懸念のないことが報じられますが、列藩同盟への国際 的支援の如何は、前述した『江湖新聞』のような社会的な関心を背景に、明治 国家中枢に位置する岩倉の危惧でもあったのです。 八月には議定の松平慶永(よしなが)(旧福井藩士)が「是迄江戸之豊年凶歳は奥羽の豊凶を以可知」と江戸(七月に東京と改称)と奥羽の経済的結合関係 を指摘して、現在、江戸之食糧米の多くを奥羽米に依存している状況を一刻も 早く改善しなければならない旨の書簡を寄せています。東北は東京のヒンター ラント(後背地)として存在していたのです。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.18)


     天皇巡幸の東北観
     なかでも福島県と岩手県は強烈でした。 福島県の人々は「牛馬ト寝ヲ同クシ」ており、 「殆ンド人類ノ養ヒニ非ル」生活をしており、岩手県も 「鶉衣(じゅんい)(やぶれ衣のこと)垢面(こうめん)汚穢厭ハ」ぬ暮らしであり、「蝦夷ト分チ難」いとされました。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.20〜21)


     一行は東北を同質で一様な世界としては認識せず、東北の潜在的な可能性を 指摘していました。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.22)


     七月六日に一行は盛岡に着きました。 盛岡の街は仙台よりも「金持も多く、家作(かさく)も立派」であり、行在所 (あんざいしょ)も岩倉・木戸らが泊まった旅館も、東京を出発してからの 「第一等」であったようです。翌七日は勧業場の物産陳列所で「下閉伊(しも へい)郡九戸(くのへ)郡の山中に住む、尤も貧窮なる者の衣服と食物」を見 ています。なぜ、そうしたものが出されたかはわかりません。衣服は「極めて 粗末なる麻布」でできた「百結(ひゃっけつ)の鶉衣」のようなもので、「実 に人間の肌に着べき物」ではなかったといいます。食物の方も、「栃の実又は 楢(なら)の実を搗(つき)砕きて湯を透し、薇(ぜんまい)の粉や稗(ひえ) などを雑(まぜ)て団子の如くしたる物」であり、まるで「鳥の糞」であり、 およそ「人間の口に入るべき物」ではなかったようです。
     岸田は「我三千万の兄弟の中に、斯(かか)る物を衣食としつる者」がいる と心を痛めましたが、その食物を口にした随行員がいました。木戸孝允(たか よし)です。木戸が団子を食べた瞬間、「此度の御巡幸は、親しく民の疾苦 (しっく)を問はせ玉ふ聖意たるを知るに余りありと、拝見の人々が、ひそか に袖を感涙に湿(しめし)ぬ」情景が作り出されたのです。
    (《第一章 異境と桃源郷の間》P.24〜25)


     蝦夷意識と後進感
     第一は蝦夷意識を含んだ後進感です。 一八七二(明治五)年四月の青森県役人杉山龍江(すぎやまりゅうこう)の 「奉請北巡建言」(宛先不明)は、「僻邑(へきゆう)ノ土人ハ殆ド蝦夷ニ近キ者甚虚説トセズ…… 最甚キニ至テハ聖上ハ何レノ地ニ在ルヤ朝廷ハ何レノ地ニ在ルヤヲ知ラザル者アリ」と管内の〈蝦夷〉ぶりを報じています。 杉山は幕末維新期の弘前藩で家老・権大参事の要職をつとめた人物でした。同 年五月に岩手県士族の河村敬一郎(かわむらけいいちろう)らが集議員宛に出 した「奥羽事情建白書」も奥羽地方は「国初以来王化(おうか)ニ帰セズ王沢 (おうたく)ニ沾(うるお)ハズ」、このまま旧慣弊習を脱しなければ、「遂 ニ蝦夷ノ名ヲ免ルヽ能ハズ」と蝦夷視する他者のまなざしを認めています。 「愚民ニ至テハ将軍アルヲ知テ天子アルヲ知ラズ」という理解は、杉山と同様 であり、戊辰戦争の結果生まれた「未開」とは「天皇を知らないことであり、 天皇に刃向かうこと」という「近代的未開」観にほかなりません。
    (《第二章 「白河以北一山百文」》P.38〜39)


     辺境感や後進感は根強く続きます。 一八八〇(明治一三)年七月の『東北教育新聞』(盛岡、岩手県立図書館蔵) に掲載された「東北地方ノ教育者ニ告グ」という論説は、東北人民が「野蛮視」 「奴隷視」されているのは、教育が普及していなかったからだとのべて、教育 者の奮起を求めています。(『東北教育新聞』の「東北」の範囲は、三陸両羽 および北海道です)。
     また、一八八一年、元老院に宛てて山形県の信太歌之助は、東北は資源豊富 な土地であるが、「西南諸州ニ較スレバ開進ニ後レ居民稀少ニシテ陋習脱スル ヲ得ズ」と後進性をのべ(「北京御創定之儀ニ付建言」)、福島県の佐藤佐中 らは若松について、「四方重山シテ古来ヨリ便利甚ダ少キノミナラズ八衢四達 (はっくしたつ)セズ国民四方ヘ交際薄ク人智モ亦タ随テ発達スル能ズ」と論 じて、若松「国民」の孤立性を自覚しています(「若松地方民情旨趣〔若松県 復活ノ儀〕」)。
     辺境・後進イメージは一刻も早く打破されねばなりませんでした。東北出身 で警視庁に勤務していた田辺実明は、一八八二年夏の東北巡察をふまえて、太 政大臣三条実美に向かい、東北の民衆と中央政府の関係はまるで植民地インド と宗主国イギリスの関係のようだと訴えています(「奥羽地方巡察員ヲ内密ニ 設置ノ儀」)。
    (《第二章 「白河以北一山百文」》P.40)


     自己認識と内的認識
     東北人の自己認識にふれるとき、自己認識とは自己を語るが、必ずしも自己 に語りかけるわけではないことに気づきます。自己認識には、自己を見つめる 他者の眼差しを意識しつつ、ある時はそれに迎合・同調しながら、そしてある 時にはそれを増幅さえしながら、他者の認識に適合的な自己を構想する機能も あるのです。他者に寄り添う自己認識とでもいうべきでしょうか。その意味で、 自己認識と他者認識はつねに二律背反的な関係にあるわけではありません。他 者認識抜きには存在しない自己認識や、他者認識の裏返しの自己認識さえある といえます。東北に対する未開・後進イメージを受容することで、東北人は逆 に、東北の開発の必要性を強調し、日本社会のなかである種の特権的位置を主 張することさえできたのです。誤解を恐れずにいうならば、東北は「未開」で 「後進」でなければなりませんでした。「発展」と「繁栄」、そして「自由」 と「自立」のために−−。
    (《第二章 「白河以北一山百文」》P.46)


     『秋田日報』の希望
     第一維新である明治維新は西南人士が主体だったが、立憲制を完成させる第 二維新は東北人士が主体でなければならない、という主張です。この延長が翌 一八八三(明治一六)年の二月から四月にかけて連載された社説「日本ノ大勢 ヲ論ジテ東北ノ結合ヲ望ム」です。同社説は同じ「日本国民」であっても、 「南方諸州ノ人士」「東北奥羽ノ人間」「人種ヲ異ニセル」集団であり、 「並立共進スベカラザルモノ」だとのべる一方で、「天運ハ循環シテ南ヨリ北 ニ至ル」から、今後は東北の時代であり、国土の範囲が「南琉球ヲ限リ北千島 ヲ境トナス」に至った今日、東北地方が「日本ノ中央」であることは地図上に 明白だと論じています。
    (《第二章 「白河以北一山百文」》P.55)


     兆民は東海道線(一八八九年新橋−神戸間全通)には何度か乗ったことがあ りました。その印象を「山、河、懸崖、球湍(きゅうたん)(早瀬)、田、畑、 海、大廈(たいか)(大きな家)、高楼、凡そ此地球の表皮上に在る天功並に 人造の物体」がつぎからつぎに視界に飛び込んできて、飽きることがない、と のべています。それに比べて、東北は行けども行けども「唯田畑と林叢とを見 るのみ」だというのです。
     しかし、どうやら風景のせいばかりではありませんでした。この旅に兆民は 儀狄(ぎてき)」つまり酒を持参するのを忘れたからです。
    (《〈東北〉論コラム》P.60)


     東北民権運動の意地
     東北の自由民権運動を語るとき、必ず出てくる人物に福島県の河野広中(こ うのひろなか)がいます。東北民権運動のリーダーであった彼が一八七九(明 治一二)年に高知の立志社を訪れたときのことです。九月二七日に立志社副社 長の西山志澄(ゆきずみ)に会見した際、河野は「国会ニ代ルノ実」として、 「旧奥羽七国間ノ結合ヲ全シ漸次両野、総房、両毛ニ普及シ続テ北越ニ及ボシ ナバ速ニ全国一致ノ休戚ヲ作為スベシ」という構想を語りました。「旧奥羽七 国」とは陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城の旧「陸奥国」と羽後・羽前の旧「出 羽国」であり、加えて上野・下野・下総・上総、さらには北陸までをカバーし た連合体を国会の代替機関に考えていたことになります。ほぼ奥羽越列藩同盟 の範囲といってよいでしょう。
    (《第三章 燃える東北主義》P.64)


     無神経事件
     一八八八(明治二一)年七月、明治政府の『官報』は東北各県の現状を報ず る「府県事務並景況」を連載しましたが、二八日付の青森県記事に侮蔑的な表 現が見られました。「賭博犯ノ概況」欄には「僻陬ノ愚民」、「浮浪乞丐(き つかい)(こじき)ノ模様」欄には「愚民」、そして「演劇其他ノ諸興行ニ関 スル概況」欄には「本県の如き稍々無神経の人民」とあったのです。これらは 前後に掲載された隣接県の記事には見出すことのできない差別的表現であり、 とくに「無神経ノ人民」云々により全県的に鍋島幹(なべしまみき)知事への 辞職勧告運動、郡長・戸長の抗議辞職騒ぎがおこりました。世に言う「無神経 事件」です。
    (《第三章 燃える東北主義》P.75〜76)


     大同団結運動と日章旗
     当時、第二維新論それ自体は広く見られましたが、『東奥日報』の場合、憲 法発布・国会開設などの立憲体制を西南人士にとって代わり、われわれ東北人 士が主体的に担おうではないかと訴え、第二維新の推進主体として強烈に自己 を意識し、第二維新の必然性のなかに自己の歴史的使命を自覚した点に特徴が ありました。東北意識で裏打ちしながら、臣民意識を鼓舞したということもで きますし、東北意識は臣民意識を鼓舞することぬきには展開しえなかったとも いえます。両者は相対立するものではなかったのです。
     それゆえ、東北意識は割拠主義であってはなりませんでした。この点は一八 八九(明治二二)年三月に福島県で結成された会津独立党に対する評価に明ら かです。『東奥日報』は同党の結成を「大不適当」「有害物」と批判して、 「昔日は区々たる封域を以て国家とするも今日ハ日本全国ハ我が国家なり」と ナショナルな意識を対置したのです(一八八九・七・二〇、二一社説『旧会津 藩士に告ぐ』)。
    (《第三章 燃える東北主義》P.80〜81)


     循環する歴史
     なぜ、彼らはそう確信しえたのでしょう。それは、高揚した地方意識の背景 に「歴史は循環する」「苦あれば楽あり」という時間意識・秩序概念があった からです。第一回総選挙直後の一八九〇(明治二三)年七月二〇日の社説「多 幸人種」は象徴的にのべています。「専制政治の末路」に磐梯山(ばんだいさ ん)の噴火(一八八八年七月、死者四六一人)、熊本県の地震(一八八九年七 −八月、死者二〇人)、愛知県の暴風雨・津波(一八八九年九月、死者八九〇 人)、北陸の米騒動(一八八九年一〇月−一八九〇年六月)など全国各地で 「薄幸」が相次いだにもかかわらず、青森県では顕著な自然災害や社会的事件 はおこらなかった、青森県の幸運を祝福しようではないか、「喜悲盛衰の天運 は一定循環の軌道あり」、と。
    (《第三章 燃える東北主義》P.86)


     新潟は、「東北」と「北陸」、「東北」と「裏日本」が複合する世界でした。  『長岡郷友会雑誌』第二七号(一八九五年)「長岡人士ニ訴フ」は、「世人 或曰今後社会ノ上位ヲ占ムル者ハ必ズ東北ノ男子ナラント然レバ東北人士中望 ヲ属(しょく)ス可キ者ハ会津長岡トナス」というように、東北意識を明言し ています。
    (《〈東北〉論コラム》P.88)


     青少年たちのナショナリズム
     八戸青年会と同様に国家的価値を求めたのが、岩手県水沢の東北青年会です。 一八八九年七月に機関誌『文之華』第二号に載った胆沢学人(いざわがくじん) の「余輩の蒐集せんと欲する所のもの」は、ズバリ「一種無形体なる余輩国民 が専有物とも云ふべき日本魂」、「国民固有の日本魂」であると論じきってい ます。日清戦争時代はさらに国権主義的な動きが見られます。秋田県横手の秋 田少年雑誌社から一八九五(明治二八)年に創刊された『秋田少年雑誌』第二 号(秋田市立中央図書館明徳館所蔵)には中国を侮蔑する笑い話や「大勝利阿 房駄羅経(あほだらきょう)」などが見えるほか、創刊号所載の投稿に盗作が あるとして、「大和魂ヲ有スル日本男子」「帝国ノ一男子」にあるまじき態 度と非難する声が載っています。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.100)


     雑誌『会津』
     明治一〇年代を通して、東北社会は明治国家に直面し、ナショナルな価値と しての「日本」を意識することににりました。それゆえ、明治二〇年代に入る と、あらためて東北をめぐる言説、すなわち東北論が大量に産まれてきます。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.101)


     雑誌『会津』
     数ある単行本を見る前に、戊辰戦争でもっともダメージを受けた会津で刊行 されていた『会津』(福島県若松町、会津社、福島県立図書館所蔵)に目を通 しておきましょう。同誌は一八九一(明治二四)年七月に、「会津は東北の雄 郷なり」と宣言した論説「会津発行に就て会津人士に訴ふ」を巻頭に創刊され ました。『会津』では第四号(同年八月二日)、第五号(八月九日)に掲載さ れた鈴木力(ちから)(天眼(てんがん)、二本松出身、のち『ニ六新報』主 筆)の特別寄書「東奥不振ノ原因一斑」がもっとも興味深い論旨を展開してい ます(第六号以下にも掲載されたが未見)。彼は明治後半には国家主義・国権 論者として活躍しますが、ここでの主張は明確です。東北人士の権威主義的態 度、自立性の欠如を克服せよというのです。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.101〜102)


     雑誌『会津』
     彼は「東奥人ガ自由改進ノ説等ニ心服シテ、政府改革ノ必要ヲ議スル」こと は誠に喜ばしいが、「我コソ自ラ任ジテ薩長取挫(とりく)ジキノ大将トナラ ント欲スル」ものはおらず、「只政党ノ先輩板垣大隈等ニ従テ、幾分ノ功ヲ立 テント言フニ過」ぎないのではないか、と嘆きます。九州改進派が自主独立の 精神に富んでいるのに対して、東北人士の依存的体質はおそらく「東奥ハ古来 曾テ治者ノ地位ニ立チシ事無キナリ、其人物ハ一人モ第一流ノ勝者タリシ事無 キナリ、即チ東奥ハ始終被治者劣敗者、失敗者ノ分際ヲ脱」したことがなかっ たからだろう、と厳しく自己を問いました。鈴木が他の論者ともっとも異なる のは、東北が進取の精神に欠けるのは「模範と伝説」を喪失したからではない か、と論じている点です。「模範と伝説」とは一体何だったのでしょう。彼は こうのべます。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.102)


     雑誌『会津』
      抑其祖先ノ風ヲ聞ヘテ、我モ亦斯ノ如キ事ヲ為サント発心シ、其同族ノ効績ヲ見テ模倣ノ心ヲ起スハ、人情ノ常ニシテ、模範ハ立志ノ原因トナリ、伝説ハ発奮ノ縁ヲ起スコト社会ノ状ナリ、故ニ最大ナル模範ト伝説トヲ有スル国土ハ、最大ナル人物ヲ発生ス可シ
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.103)


     雑誌『会津』
     失われた「模範と伝説」とは、「祖先の風」であり「同族の効績」のことでした。 鈴木は大きな「模範ト伝説」が大きな「人物」を生むと論じています。 彼が求めたのは、東北の輝かしい来歴であり、誇るべき記録でした。 それは客観的な歴史=ヒストリーであるというよりも、立志と発奮をおこすような物語=ストーリーでした。 と同時に、そのストーリーが東北全体をカバーすることで、現実の多様な東北社会が共通の過去を有する一つの「国土」として立ち上げられたのです。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.103)


     長田権治郎の『東北論』
     さて単行本を見ていきましょう。最初は一八九二(明治二五)年に出版され た長田権治(次)郎(偶得)の『東北論』(国立国会図書館所蔵)です。長田 は『維新豪傑の情事』(一九〇一年)、『徳川三百年史』(一九〇三年)、 『戦国時代の群雄』(一九一二年)ほかの史論を多数著していますが、詳しく は不明です。
    (《第四章 〈東北〉の生産》P.103〜104)


     成田鉄四郎の『陸奥湾之将来』
     成田は運河開削調査のために、一八九一(明治二四)年九月と翌九二年一一 月の二回にわたり下北半島を踏査し、二回目の様子が『東奥日報』に雑報「山 雪湖風之記」(一一・三〇−一二・十七)として掲載されました。青森を出発 して、野辺地、有戸(ありと)、盛沼(もりぬま)、室久保(むろくぼ)をへ て、鷹架沼(たかほこぬま)の太平洋口にたどりついた成田は、「自然の太平 を楽」しむ、羨ましいほどの「太古の民」たちの行く末をこうのべています。 「運河開鑿事業ハ仮令(たと)ひ陸奥湾の発達青森県の便益とは云へ無邪気な る太古の民を義性にしてその平和安心を奪うこそ憐れなり、然れども生存競争 の趨勢ハ之れを致すことなれば是非もなき次第なり」
     鷹架村は戸数三〇あまり、「殆ど一人の知字漢なき結縄(けつじょう)の国」でしたが、「平和安穏」の地であり、都会の絶え間のない「鬱悒(うつゆう)」 とは無縁の世界でした。しかし、近代社会における「生存競争」は彼らの生活 を義性にせざるをえません。鷹架村は現在の上北(かみきた)郡六ヶ所村です。 六ヶ所村は一九七〇年台からの臨海工業地帯建設をめざす、むつ小川原(おが わら)開発計画や一九八〇年代からの核燃料再処理工場計画の中心地にあたり ます。巨大開発プロジェクトが今も地域民衆の生活と生業を破壊する「文明」 であることを忘れてはなりません。
    (《第五章 開発と差別》P.126)


     鉄道延長反対論
     東北の南端にも交通革命の波は及びました。 一八八八(明治二一)年、福島県の郡山(岩代国)から若松、新潟県の津川 (つがわ)を抜けて新潟港(越後国)まで鉄路で結ぼうとする岩越(がんえつ) 鉄道会社が設立されます。翌八九年には岩越鉄道期成会結成請願運動がおこり、 一八九一年に若松に事務所を置く岩越鉄道期成会が組織されます。すでに一八 八九年一二月には日鉄東北線の上野−仙台・塩竃間が開通し、九一年九月には 上野−青森間の全通がひかえていました。会津盆地を中心とした鉄道敷設運動 はこうした交通革命への対応だったのです。同年には若松−白河間の鉄道敷設 を求める会津鉄道期成会も若松で結成され、栃木県(下野国)の今市・日光か ら若松を経て新潟港を結ぶ野岩越(やがんえつ)鉄道敷設運動もおこりました。 会津地域の人々は鉄路の向こうを模索していたのです。
    (《第五章 開発と差別》P.129〜130)


     明確に岩越鉄道敷設を主張したのは創刊間もない雑誌『会津』でした。一八 九一年五月第一五号の論説「岩越鉄道期成会」はこうのべています。岩越鉄道 が開通したならば、北海道とくに小樽以北の「産資」は直接新潟港に運ばれ、 岩越鉄道を経由して、東北線に搬入されて、「内地の需要用」に供されるだろ う、これは函館−青森−荻浜(おぎのはま)(現宮城県石巻市)間の海路と東 北線を利用するより便利である、また、国防上も岩越鉄道を利用して仙台や東 京の師団とも北辺の防衛に対処できるだろうし、越後の産物も新潟−函館−荻 浜という海路を頼らずに、直接全国市場に結ばれるだろう、と。
    (《第五章 開発と差別》P.130)


     同論説は岩越鉄道がもつ国際的意義についてもふれ、シベリア鉄道開通後の 日本とロシア・ヨーロッパ市場との重要に環になるだろうと予想しています。 だから、岩越鉄道はたんなる「一地方の問題」ではなく、「実に必要なる国家 問題」でした。
    (《第五章 開発と差別》P.130)


     幻の野岩越鉄道
     岩越鉄道は一八九二(明治二五)年六月公布の鉄道敷設法では「北越線及奥 羽線ノ連絡線」とされ、同年一一月には奥羽北越連絡鉄道線路修正請願事務所 から「帝都ト新潟間ニ於ケル脊髄」として栃木県今市−若松−新津−新潟を結 ぶ野岩越鉄道の敷設要求書が出されます。翌九三年には南会津郡を中心とする 野岩越鉄道会同盟も組織され、新潟県側とも折衝を重ね、同年一一月にはつぎ のような「野岩越線鉄道急設大旨」が発表されました。
    (《第五章 開発と差別》P.131)


     幻の野岩越鉄道
     野岩越鉄道は東京と新潟を結ぶ「東北ノ中央線」であり、日本鉄道日光線の 今市から鬼怒川沿いに若松まで北上し、そこから岩越鉄道で新潟に至るもので ある。すでに上野−直江津間の信越線(一九一四年に信越本線)が敷設されて おり、それを新潟まで延長する案もあるが、@信濃川の架橋工事が困難であるA水害の予防策の目処が立たないB信越線には険難な碓氷(うすい)峠があ るC新潟県民にとって、信越線の延長よりも、「河海水運ノ便」の方が重要 であるD野岩越鉄道にくらべて、直江津経由は距離が長過ぎる。また上越線 では急峻にすぎ、冬の交通も保障できない。岩越鉄道を本宮(もとみや)(福 島県)あるいは白河で東北線に結ぶ考えもあるが、これでは「東北ノ中央線」 にならない。以上のことから、東京−新潟間を結ぶ鉄道は岩越鉄道以外にあり えない。野岩越鉄道敷設後に本宮−米沢−新発田−新潟間鉄道と直江津−新潟 間鉄道が敷設されたならば、この「三大線」「鉄道運用の妙」は発揮される だろう。この「無比の好線路」が開通したならば、「関東会津越後、恰も歯唇 (ししん)の如」き関係になるだろう。
    (《第五章 開発と差別》P.132)


     幻の野岩越鉄道
     のちに社会通念となる「表日本」と「裏日本」を結ぶ不可欠な媒体として東 北(会津)が位置づけられていることがおわかりでしょう。それは一つの会津 魂でした。一八九四(明治二七)年一月に敷設請願のために有志が上京します が、野岩越鉄道会が「若シ岩越同盟会ノ下ニアリテ、独立セザルトキ」は右の ようなプランは挫折してしまうので、請願それ自体が「実に南会津郡が独立自 治の精神を天下に発表し、我が南会津郡あることを世人に知ら」せることにほ かなりませんでした。野岩越鉄道は岩越鉄道と真っ正面から競合すべき性格の 鉄道であり、万が一にも、岩越鉄道の附属物のようにみなされてはかなわない ということだったのです。
    (《第五章 開発と差別》P.132〜133)


     風俗としての凶作地帯
     日清戦争直後に三陸を襲った大津波は東北の悲劇性を全国にひろめましたが、 さらに決定的に劣悪なイメージを植え付けたのは連続した凶作です。一九〇二 (明治三五)年の凶作では、青森・岩手・宮城・福島各県の収量は平年の半分 程度でした。日本最初のグラフ雑誌『風俗画報』(一八八九年創刊)は救援活 動のさなかの一九〇三年三月に論説「東北の凶饉は国民の警戒」(第二六五号) を載せ、四方を海に囲まれている日本に住むわれわれにとって、飢饉は「外寇」 と同等の恐怖なのに、国防の強化は叫ばれても、飢饉対策は講じられようとし ない、とのべています。 しかし、その警告は聞かれることなく、一九〇五年にふたたび東北は大凶作に 見舞われました。この時の被害はさらに悪化し、宮城・岩手・福島の三県の収 穫量は平年作の一〜三割台にすぎませんでした。
    (《第五章 開発と差別》P.143〜144)


     大凶作に襲われた一九〇五年を境に、東北はそのアイデンティティを失いは じめ、東北という一体性が自明視されなくなります。ある意味で、東北社会の 動揺と分裂が自覚された時、「東北」というコトバが各地から名乗られてく るというべきかもしれません。
    (《第五章 開発と差別》P.149)


     羯南・東北・郷土
     若き日の書簡につぎのように見えます。
     当地は深雪にて且つ厳寒其上無聊(ぶりょう)(たいくつ)……毎日書と酒 とに因て慰懐(いかい)罷在候。御憐笑是祈る。
    (《第六章 ナショナリズムとしての東北》P.157)


     「辺境」を見た人
     笹森儀助は弘化二(一八四五)年、弘前に生まれました。弘前藩目付役の子 であった儀助は一八七〇(明治三)年九月に藩庁権少属租税掛になって以来、 一八八一年暮れに中津軽郡長を辞職するまで県の役人を勤めました。その後、 弘前近郊の岩木山麓に農牧社を設立して牧場を経営しますが、やがてこれから も身をひきました。
    (《第六章 ナショナリズムとしての東北》P.163)


     「辺境」を見た人
     一八九一年春には西南日本を旅行して『貧旅行之記』を著し、翌九二年六月 から一〇月にかけては千島探検艦隊に同乗して、『千島探検』を刊行していま す。一八九三年五月には約半年間におよぶ沖縄探検を行い、その記録『南嶋探 検』は品川弥二郎(しながわやじろう)と井上毅(いのうえこわし)が序を寄 せて翌九四年に刊行されました。
     後年、柳田國男は『島の人生』(一九五一年)のなかで白野夏雲(しらのか うん)、田代安定とともに「島の三大旅行家」として笹森儀助の名前をあげま すが、彼の名前は沖縄の人々には中村十作(じっさく)(新潟県板倉出身)と ともに人頭税廃止に尽力したヤマトンチュウとして今なお深く刻み込まれてい ます。
    (《第六章 ナショナリズムとしての東北》P.165〜166)


     アイヌ政策の「厄介」さを強調しているとはいえ、儀助の主張には明治政府 の一連のアイタ同化政策への批判があり、その背景に前年の国内旅行で確認さ れた人々の生活をめぐる「天然ノ生理」という視点がありました。人々は「天 然ノ生理」にしたがってそれぞれの土地で生活を送るべきだという価値観です。 なにか人為的な操作をしたり、普遍的な政策を強要するのではなく、彼らの 「天然ノ生理」をより豊かに保障することこそが、権力者のなすべきことだっ たのです。
     儀助の基本的立場は、日本国家の「辺境」に位置する人々の生活は「天然ノ 生理」に根拠づけられており、それはなんら劣ったものや、差別されるもので はない、中央政府が行うべきことは「辺境」に住む人々が生来の生活をするこ とを保障し、彼らの生活が「天然ノ生理」にしたがってよりよくなるように援 助支援することでした。そこに「辺境」の開発と民力育成の必然性があったの です。
    (《第六章 ナショナリズムとしての東北》P.171〜172)


     人間実験
     はやくも二月六日の『東京朝日新聞』には「軍隊凍死者事件に就いて」とい う投書が掲載されています。投書の主は東京牛込(うしごめ)の読者であり、 今回の事故は「原来雪国以外の人士ハ雪中の行途困難のことハ夢想だも之を 知らず故に軽佻にも甚だ不周到の用意を以て雪中行軍を実施しるの結果当然」お こったまったくの人災であり、山口県出身の旅団長の責任は重大である、吹雪 さえなければ雪中行軍は成功していた、との談話は「無責任の痴言」であり、 「雪国衛戍(えいじゅ)(永く駐屯すること)の将官」としてはまったく許し 難い、「今の将官中同一無能の将官多くあるを以て斯る椿事を惹起した」ので あり、「世界無比の一大失体」だ、と陸軍中枢を激烈に批判しました。
    (《第六章 ナショナリズムとしての東北》P.175〜176)


     東北の時空を細かに分節化してとらえることで、青森・岩手・宮城・秋田・ 山形・福島の各県の一体性それ自体も自明のものとはみなされなくなるでしょ う。均質的な県域イメージや地域ナショナリズムは、さらなる「実地の生活」 「自分たちの過去」によって、細分化され、乗り越えられてゆくことでしょう。
    (《終章 その先の〈東北〉へ》P.197)















    11/02/05・・・