[抜書き] 『稲作の起源を探る』


『稲作の起源を探る』藤原宏志・岩波新書354
1998年4月20日第一刷発行
    目次   はじめに   1 プラント・オパール分析とは   2 弥生時代の水田稲作   3 焼畑の里を訪ねる   4 縄文農耕の可能性   5 稲作の発祥地を求めて   むすび   参考文献   あとがき  

     たとえば、最近の一万年における地球の気候変化をみると、一万〜七〇〇〇年前のあいだに急速に温暖化がすすみ、その後はゆるやかに冷涼化しつつあることが知られている。 大きな気候変化があれば、植生が変化するのはいうまでもない。 実際、後述する約八〇〇〇年前の中国浙江(せっこう)省の河姆渡(かもと)遺跡(北緯三〇度)は大量のイネ遺物が発見されたことで知られているが、現在、この地域にイネの野生種はない。 いまは温帯域で南九州より少し暖かい程度だが、ゾウやサイなど熱帯性動物の骨が発掘されていることなどからも、かつては熱帯域だったことがわかる。 動物相も植物相も八〇〇〇年前と現在では違っているのである。
    (《1 プラント・オパール分析とは》P.5)


     また、社会の変化が自然の植生を変えることもある。人間のつく りだした環境悪化により、絶滅の危機に瀕している生物は数千種に ものぼるといわれている。二〇〇〇年前の弥生社会と今日の日本社 会をくらべれば、両者が環境におよぼす程度の違いは歴然としてい る。社会の近代化にともない、多くの植物種が失われつつあるのだ。 社会が発展して国家の統治範囲が広がるにしたがい、多様な文化が 統治者の文化に画一化されるのは常である。
    (《1 プラント・オパール分析とは》P.5)


     存在を確かめる−定性分析
     植物種ごとに異なる機動細胞珪酸体がわかったところで、つぎに 問題になるのは、土中からプラント・オパールをとりだして分析し、 何の植物種であるか同定する手法の確立である。いわゆる定性分析 である。
     土壌中に含まれるプラント・オパールの量は土壌の種類により異 なっている。ある種のクロボク土(腐植質火山灰土という)のよう に有機物の多い土壌では、乾燥重量の五〇%がプラント・オパール で占められていて、この場合はそのまま観察できないことも無い。 だが、通常の土壌の場合、プラント・オパールの含有率(重量)は 数%である。プラント・オパールの密度が小さい場合は、何らかの 手段を講じないときわめて観察しにくい。また、粘土のような小さ な粒子がプラント・オパールに付着すると、プラント・オパールの かたちを細部にわたって観察しようとするとき、障害になる。プラ ント・オパールだけを純粋にとりだすこともできるが(単離)、技 術的に煩雑であり、大量の試料を処理するのは不可能である。した がって、試料中のプラント・オパール比率を高めることにより観察 効率を上げようとすることになる。これを試料濃縮法と呼び、物理 的濃縮光学的濃縮を組み合わせる方法がとられている。わたした ちが開拓した方法を含め、その方法の概要を紹介しよう。
    (《1 プラント・オパール分析とは》P.21)


     物理的濃縮法は土粒子を粒の大きさ(粒径)によって選別する手 法である。プラント・オパールの大きさは一〇〇〜一〇ミクロンの 範囲に入るので、100ミクロン以上と10ミクロン以下の粒子は 不要である。これをとりのぞくには、どうしたらいいか。静水中で 試料を沈下させ、粒径の大きさによってそのスピードが違うことを 利用して、分離するのである。たとえば、水の中で土を攪拌(かく はん)すると粘土はなかなか沈まないが、砂はすぐ沈んでしまう。 つまり、比重の同じ物質が水中で沈降するとき、大きな粒子は小さ な粒子より比表面積(単位重量あたりの表面積)が小さいため、水 の抵抗を受けにくくなり、小さな粒子より先に沈む。ストークスの 法則というものを利用すると、粒子の大きさによって、一分間に沈 降する距離を出すことができるから、プラント・オパールの大きさ である直径一〇〇〜10ミクロンの粒子を土壌試料から抽出するこ とができる。
    (《1 プラント・オパール分析とは》P.21〜22)


     光学的濃縮というのは、物理的濃縮のように不必要な粒子を機械 的にとりのぞくのではなく、光学的処理により、顕微鏡で観察した とき、よけいなものを見えなくする方法である(マスキング)。
    (《1 プラント・オパール分析とは》P.22)


     東北に稲作はあったか−−青森・垂柳遺跡の試掘に参加する
     弥生時代前期、九州北部に伝来した水田稲作技術は、遠賀(おん が)川式土器と呼ばれる弥生時代前期の土器とともに短期間で伊勢 湾付近まで東進し、弥生時代中期には現在の仙台市付近まで北上し たとするのが、従来の定説であった。文献が完備していたはずの延 暦一七年(七九八)の太政官符(だいじょうかんぷ)(律令国家の 行政文書の一)にさえ、九州に配置された俘囚(ふしゅう)(朝廷 の支配化に入り一般農民の生活に同化した蝦夷(えぞ))について 「恒に旧俗を存していまだ野心をあらためず、狩猟を業として養蚕 を知らず。加うるに居住定まらず、浮遊すること雲の如し」との記 載があって、八世紀の末にいたっても、蝦夷(えぞ)はまだ狩猟漁 業を生業としていて、農業養蚕を知らない状態であったことと記さ れており、東北以北に水田稲作が伝わるのは相当に遅いと考えられ ていた。
     これに対して、故伊東信夫氏(元東北大学)は、早くから、東北 地方における稲作の存在を主張していた。伊東氏はその証拠として、 東北地方の弥生時代遺跡から籾痕(もみこん)をともなう土器が出 土した遺跡(二七例)、焼米(炭化米)が出土した遺跡(三例)、 および籾痕土器と焼米が揃って出土した遺跡(二例)を挙げたが、 これに対しては、焼米や籾痕の出土がかるにしても、それらのコメ が交易によって東北に持ち込まれた可能性があるという反論もあっ た。
    伊東氏はこれに対してつぎのようにいう。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.54〜55)


     それまでの常識がくつがえる−−青森・垂柳遺跡の意義
     水田の区画規模を決める要因としては、地盤勾配作業体系土 地制度および用水の利便性が考えられるが、垂柳遺跡の東部と西部 の場合、地盤勾配はほとんどなく、また同時代の近接した遺構であ ることから作業体系の違いを想定するのは不自然である。おそらく、 用水条件か、あるいはなんらかの社会条件によったものと想定され るが、それは何なのだろうか。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.60〜61)


     なお、垂柳遺跡の弥生水田址で、とくに気づいたのはイヌビエの プラント・オパールがたいへん多いことであった。X区のY層では 一〇アールあたり五〇トン(これも土層の堆積期間中に生産された 総量)を越える地点もあって、イネの生産総量より多かった。ある いは、このイヌビエは収穫を目的に栽培管理されていたヒエだった のだろうか。
     東北地方のヒエ栽培は明治時代までつづいていたことが知られて いる。あとで述べる三内丸山(さんないまるやま)遺跡(縄文時代 前期)で発見されたイヌビエのプラント・オパールとも合わせ考え ると、興味深い。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.61〜62)


     遺跡から出土する農具の体系
     縄文時代晩期
       モロテグワ(諸手鍬)、クワ(鍬)、エブリ(柄 振 ●)、タテギネ(竪杵)。(●:木ヘンに八)
     弥生時代前期
       あらたにスキ(鋤)、マルグワ(丸鍬)、ヒラグ ワ(平鍬)、ミツマタグワ(三叉鍬)、ヒログワ(広鍬)、および ツチ(槌)、ウス(臼)がくわわる。
     弥生時代中期
       さらにマタスキ(叉鋤)、マドグワ(窓鍬)、フ タマタグワ(二叉鍬)、タゲタ(田下駄)、キホウチョウ(木包丁)、 ツチノコ(槌の子=子槌)、キヌタ(砧)があらわれる。
     つまり弥生時代の中期には、人力作業ではあるが、耕耘(こうう ん)具・田植え具・収穫具・調整具など、ほぼすべての水田農具が 顔をそろえ、水田稲作体系が整ったことを示している。これらの木 製農具は材料が鉄に変わっているが、その形状の基本は近代の水田 農具と同じである。水田稲作技術は、わが国へ伝えられたとき、す でに完成域に達していたのである。
     なお、木製農具の材料樹種をみると、弥生時代中期まではカシ・ クスノキなど一次林樹木が多く、弥生時代後期から古墳時代にかけ てはコナラ・クヌギなど二次林樹木が増える傾向が認められる。水 田開発がすすむ中で、平野の一次林が破壊されて二次林化するよう すを反映しているのであろう。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.67〜68)


     収穫法の変化
     弥生時代以前のイネ収穫法は石包丁木包丁による穂刈りであっ た。
     野生の植物は、同一株でもいっせいには出穂しない。 時期をずらして、つぎつぎに出穂する。 いっせいに穂を出せば、運悪く風水害などに遭遇したり鳥害を受けたりしたときに、 すべての種子が壊滅的打撃を受け、子孫を残すことができなくなる。 この危険を避けるため、野生植物は自然に出穂をずらす性質を備えたものだろう。 稲作の初期段階では、まだ野生の性質が残っており、出穂がずれるため、 登熟した穂から順次収穫するほうが理にかなっていた。 もし、野生の性質を残した植物を株刈りすれば、未熟な穂や出穂するまえの茎まで、 成熟した穂とともに刈りとってしまうことになる。 株刈りができるようになるのは、もちろん農具としての鉄製鎌の問題もあるが、 穂がいっせいに出る「作物」としての特性を備えた栽培種の出現を待たねばならない。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.68)


     なお、すでに述べたが、穂刈りの場合、葉の大部分は水田に残さ れることになり、現在のような株刈りとなれば、葉の大部分が水田 外へ持ち出されることになって、水田に残されるイネのプラント・ オパール量に大きな差が生じる。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.68〜69)


     混作の理由
     宮崎県椎葉(しいば)村の焼畑でも、わざわざ熟期の違うヒエの 品種(シロビエオソビエ)を混ぜて蒔いている。このように、作 物の品種や種類を混ぜて栽培する方法は混作と呼ばれている。
    (《2 弥生時代の水田稲作》P.78〜79)


     はじめて焼畑を見る
     伝統的な日本の焼畑をこの目で見ることができたという感動、た しかにそれもあった。それ以上に、まったく予期せぬものをみた、 信じられないものを見たという驚きに似たものである。目前にたわ わに稔ったヒエ畑がある。肥料も農薬も使わず、潅水(かんすい) もせずに、この傾斜地で作物がこれほどまでに育つのだ。「焼畑= 原始農法=貧弱な生育」という教科書的な概念を持っていたわたし にとって、この光景は信じがたいものだった(ちなみに、「畑」は 火田、つまり焼畑をあらわし、「畠」は常畠=現在の畠を示す)。
     わたしは一農学徒として、最近の農業が肥料漬け、農薬漬けにな っており、このことが予想以上に有害な結果をもたらすのではない かという危機感を持つ者の一人である。にもかかわらず「作物とは 人間が肥培管理をしなければ育たないもの」というテーゼのまえに、 多肥料・多農薬農業を容認してきたきらいがなかったといえるだろ うか? また、作物を栽培するためには、傾斜地より平地のほうが 望ましいという漠然とした固定概念にとらわれてはいなかったとい えるだろうか。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.86〜87)


     江戸時代の記録
     わが国における焼畑の歴史がどこまでさかのぼるかという問題は ともかくとして、椎葉山周辺の焼畑に関する文献資料を概観してみ よう。焼畑がおこなわれるのは山林原野であり。税の対象になる耕 地(田・畠)ではない。そのため、現存する文献にはきわめて貧弱 な記載しか残されておらず、過去の焼畑面積を定量的に把握するこ とはほとんど不可能である。しかし、当時の焼畑の実体をうかがわ せる貴重な資料はある。
     天保一五年(一八四四)、賀来飛霞(かくひか)により記された、 椎葉山高千穂地方の薬用植物に関する記録『高千穂採薬紀(日向採 薬紀)』には、焼畑についてつぎのように記されている。
      山林を伐り払い、大木の株をニ三尺ずつ残してその上を伐り、 火を放ち、大木の焼け残りたるを株に横にころばし掛け、皆 (みな)階となし、上下するに便ならしむ。否ざれば山険にし て動作するべからず。如比(かくのごとく)なし、(あわ)・ (ひえ)を種(う)え、食とす。今日などは田地は絶えて見 ず。何(いず)れの山にても能(よ)く粟・稗を生すると云 (いう)。比跡の数年を経て、自然に茶樹を生すると云。実に しかるべし。一つ焼跡に数万本茶の生するを見たり。宛(あた か)も人工にて作りたる茶園のごとし。比跡は尚(なお)年を 経れば雑木繁茂し、茶の株もみえぬ様になる処(ところ)多し。 初(はじめ)より鎌をいれざる処は、松とがの類、白日を遮 (さえぎ)るほどに繁茂したり。連山大抵(たいてい)、焼き 種の跡を見る。蓆(むしろ)の新陳相交(あいまじ)わるが如 し。皆、焼痕の年数同じからなるに因(より)て也。
      (『高千穂採薬紀』巻のニ、沢武人編より引用)
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.88〜89)


     明治の記録
      焼畑は漸を追て廃する事
      焼畑の業たる、多くの労力を費やして、最も僅少の雑穀得るに 過ぎず。くわうるに、山林を傷害するものなれば、今日の時勢より みるは、或るは直に其(その)愚を笑うものあるべきも、該事業の 最も多く行わるる椎葉諸塚(もろづか)の如きは県下一ニに位せる 山地にして、焼畑極めて少く具民有たる山林は凡(すべ)て焼畑と やりおれり。仮に彼らに向て焼畑を禁止したりとせば、其結果は労 働を禁ずると同一にして、焼畑の事業に従事せざれば、他に殖利的 労働の途なく、遂に生活し能わざるに至らん。之れ今日に禁ぜずし て、漸を追て廃せんと欲する所以(ゆえん)なり。
      (知事諮問に対 し郡長答申書。西臼杵郡上野村役場記録より引用)

     山林保護のために焼畑を禁止しようという知事の考えに対して、 性急にこれを禁止するのは実情にそぐわないという郡長の反論が記 されている。この書からも、椎葉諸塚地方の生活における焼畑の比 重がきわめて大きいものであったことがうかがわれる。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.91)


     標準的作業手順
     では、椎葉でおこなわれている焼畑とはどんにものなのか。標準 的な作業手順を示すと、つぎのようになる。
     (1)ヤボキリ(伐木)
     (2)ヒイレ(火入れ)
     (3)タネマキ(播種)
     (4)クサトリ(除草)
     (5)カリイレ(収穫)
     各条に詳細説明あり。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.92〜97)


     (1)ヤボキリ(伐木)
     現在、ヤボギリチェーンソーや動力刈払い機でおこなわれるが、 以前はノコギリナタが使われていた。そのまえ、すなわち、 鉄製の農具が伝えられるまえには石斧が使用されていたのであろう。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.93)


     (1)ヤボキリ(伐木)
     大きな樹があるときは伐り倒さず、樹の皮を環状に剥ぐ。こうす ると大木であっても、水分の補給が断たれるため、やがて枯死する。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.93)


     (1)ヤボキリ(伐木)
     伐り倒された木は翌年のヒイレまで、ひと冬寝かされる。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.93)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     ヒイレは八月初旬におこなわれる。この時期はもっとも陽の強い 時期であり、降雨があっとしてもすぐ乾くので、作業日程がたてや すい。前年に伐り倒された木は完全に枯乾しており、火を入れれば 一気に燃えあがる状態になっている。ヒイレの時期を八月にする大 きな理由はふたつある。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.93〜94)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     スズタケは八月頃には生い茂るから、このときがヒイレのチャン スなのである。スズタケは若芽の萌出のため、それまで蓄積してい た養分を使いきっているから、枯木とともに焼き払うと、ヒイレの あとの再生は困難になる。スズタケの性質をたくみに利用した生態 的除草法といってよい。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.94)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     椎葉での焼畑第一作はソバである。地力のもっとも充実している 焼畑初年は、できれば主食のヒエを作付けたいが、ヒエの播種適期 は五月の初旬であり、スズタケなどの処理との関係でヒエ作は無理 ということになる。そうすると、八月以降に播種して初霜の降りる 一〇月中旬までに収穫できる作物はソバしかない。ソバも八月初旬 には播かなければならないので、結局、ヒイレの時期は八月の初め に限定されてしまう。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.94)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     ヒイレはまず斜面の上端からはじめられる。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.94)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     ジョウズモノといわれる熟練者が斜面の中央に陣取り、枯木の乾 燥と火の燃え具合を見ながら左右の人に指図し、ころあいをみて、 斜面の下端にヒイレの合図を送る。下端に火が入ると火勢はいちだ んと強くなり、燃え残りの枯木を焼き尽くしてヒイレが終る。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.95)


     (2)ヒイレ(火入れ)
     このとき、カダチと呼ばれる延焼防止作業はおもしろい。・・・ 山火事が延焼する場合、地上部よりも地面を伝うほうが多く、また 始末も悪いのである。これを防ぐため、ベルトの中央に深さ一五〜 二〇センチ(腐植土を掘りのぞいて山の地肌が出るまで)、幅三〇 センチほどの溝を掘る。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.95)


     (3)タネマキ(播種)
     ソバはヒイレの残り火がまだくすぶっている間に、ソバ種を撒播 (さんぱ)し、その場でつくられたスズタケの帚で地表面の灰を掃 くようにして覆土する。
     ヒエ・アズキ・ダイズの播種も撒播であり、アジアで見られる突 き棒で穴を開け種子を落とす点播(てんぱ)とは違っている。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.96)


     (4)クサトリ(除草)
     畠や水田に生える雑草は作物と競合し、作物生育を阻害する。こ れらの雑草には本来自然の山野に自生する草種も含まれるが、とく に害をもたらす雑草は畠や水田にしか生えない特殊な草種が多い。 これらはその土地が長年にわたって圃場(ほじょう)という特殊な 環境におかれたことにより、その環境に適応して定着したものであ る。
     これに対して、焼畑に生えるのは、樹林に生える下草の仲間であ る。これらの野草は畠に生える雑草にくらべて駆除が容易であり、 除草労力も少なくてすむ。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.96)


     (5)カリイレ(収穫)
     ソバの収穫は、鉄製の鎌で刈りとり束ねられる。その後、一・五 メートルほどに高切りされた木の幹に架干(かかん)されている。 ソバの根は浅く、手で引き抜いて束ねることもあるという。
     ヒエの収穫は鉄製の鎌で株刈りされている。これは昭和の初め、 和牛の舎飼いがおこなわれるようになり、ヒエの茎葉が牛の餌とし て利用されるようになってからである。それ以前はヒエチギリコガ タナで穂刈りされていた。このことは、株刈りして持ち帰ったヒエ を庭先で穂だけ摘み取る作業がいまでもおこなわれている事実をみ てもうなずける。
     マメ類の収穫は、現在も鎌は使われず、手で引き抜かれ、ソバと 同様に架干される。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.97)


     陸稲とは何か?
     水稲陸稲という用語がある。いうまでもなく水稲は水田でつく るイネ、陸稲は畠でつくるイネをさす。しかし、水稲も陸稲も、と もに栽培イネ(Oryza sativa)という種であり、本質的な違いはな い。近代育種により水田作向け品種として育成された品種群を水稲 と呼び、畠作向けにつくられた品種を陸稲と呼んでいるにすぎない。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.102)


     伝統技術保存のむずかしさ
     ところが、ヒイレの前におこなわれるカダチ作業のおり、椎葉で はやっていたミゾ掘りが、ここではおこなわれないことに気づいた。 ・・・あとで、村の人たちにカダチの方法について聞いてみると、 「歳とって、ミゾ掘るの忘れとったちゃが」という答えが返ってき たものである。
     椎葉のように、焼畑がとぎれることなく継承されているところで は、伝統技術は完全なかたちで残されている。しかし、須木村では、 数十年の中断があった。この中断はかつてノイネで生計を立ててい た人たちをして、その技術を忘れさせるほど大きなものだったので ある。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.104〜105)


     焼畑はなぜ衰退したのか?
     すでに述べたように、焼畑は自然生態系をたくみに利用した合理 的農法である。それではなぜ焼畑が衰退したのだろう。これには、 つぎの三つの理由があると思われる。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.110)


     焼畑はなぜ衰退したのか?
     (1 農産物の商品化
     経済の近代化により、農業も自給自足的経営から商品生産的経営 に移行せざるをえなくなった。近代的生活を営むためには現金収入 が不可欠である。現金を得るためには、売れる農産物をつくらなけ ればならない。つまり、焼畑は自給自足経済に対応した農法であっ たために、農産物が商品化する貨幣経済社会に適応できなくなった。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.110)


     焼畑はなぜ衰退したのか?
     (2 山林の私有化
     明治時代の中頃まで山林は公のものであり、それぞれの村で決め ごとをつくり、たがいにゆずりあいながら、焼畑地として山林を利 用してきた。山林の私有化が進行すると、その所有者以外の者が自 由に利用することはできなくなる。山林を私有するためには税を払 わねばならず、税を納めることのできる富者のみが山林地主になっ た。その結果、焼畑農耕民は生計の手段を奪われることになった。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.110〜111)


     焼畑はなぜ衰退したのか?
     (3 農業の機械化
     農業の近代化にともない農作業の機械化が急速に進行した。農業 機械は平地農業を前提につくられており、傾斜地の多い山林ではほ とんど使えない。手仕事の多い(焼畑作業には畜力も導入されてい ない)焼畑作業をつづけけることが困難になった。
    (《3 焼畑の里を訪ねる》P.111)


     ところが。栽培ヒエであっても、地力の低いところや連作した場 合は極端に生育が悪くなる。椎葉の焼畑で二年目のヒエ作が終わり、 三年目のアズキが播かれた畑に一部分だけヒエを播いてみた。つま り、ヒエの連作を試みたのである。結果は惨憺たるもので、ヒエの 草丈は成熟期でも二〇〜三〇センチ、小さいものでは五センチほど で種子が数粒ついていた。これほど極端な連作障害があらわれるの もめずらしい。
    (《4 縄文農耕の可能性》P.124)


     土器の場合も、もとになる土選びには細心の注意がはらわれるの だろうと思ったが、あてはずれであった。パキスタンの土器工房は 水田の横にあり、土器の原料土は水田の土なのである。しかし、よ く考えれば合理的である。水田土にはカオリナイトハロイサイト など、土器づくりに適した粘土が含まれている。彼ら土器職人は身 近な水田土を採ってきて、ていねいに粘土やシルトを水篩(みずふ るい)により選り出す。水篩というのは、前述した定量分析法でプ ラント・オパールを選り出す手法と、原理が同じである。
    (《4 縄文農耕の可能性》P.131)


     あらためて周囲を見ると、自分たちの立っている道路が昨年と違 うことに気づいた。道路が拡幅されたのである。道路は排水のため、 周辺地より高く盛土される。盛土をするためには、どこかから土を 持ってこなければならない。日本であれば、近くの山を削ってダン プカーで運んでくる。ところが、デルタ地帯に山はない。盛土用の 土をどうするか? いたって簡単である。道路予定地の横を掘って、 その土を盛土に使えばよい。よそから運ぶ手間もかからないし、道 路の排水溝にもなる。それどころか、大きな道路であれば、横に舟 の通るクリークができる。陸路と水路が同時に造れるのだから合理 的である。
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.148〜149)


     実際に確認された水田遺構はどのようなものであったか。
     当初の予想に反し、小さな谷状の窪みに二〜四列にならんでおり、 ところどころに井戸状の溜め池が掘り込まれているというものであ った。水田の一つひとつは不定形であり、区画は小さい。
     遺跡の付近は平野であるといっても、雨水の流れにともなう土壌 浸食のため、溝状の低地が縦横に形成され、比高一メートル以下の 凹凸ができるのはふつうである。馬家浜文化期の水田は、高地を削 り低地に盛るという均平化(地ならし)作業をおこなわず、水の集 まる溝状低地に水田をつくったのである。すなわち、自然地形をそ のまま利用した水田であった。検出された水田のかたちは微地形に あわせてつくられており、方形を意識したようすはない。よく考え れば、水田が方形に区画されるのは平地をすきまなく効率的に利用 するためであり、傾斜地に水田をつくる場合はかならずしも方形に する必要はないわけだ。
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.155〜156)


     日本で発掘された古代水田はほとんど土盛り畦畔型であるが、草 鞋山遺跡の水田は掘り込み型である。それぞれの水田区画は地山に 掘り込まれているのである。
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.156)


     現在の水田稲作では苗代に種子を播き、三〇〜四〇日後、本田へ 移植(田植え)する。本田に直接種子を播く直播は、苗代で育苗す る手間をかけず、また労力のかかる田植えの必要がないため、むし ろ省力技術として近年見直されてきている。そのような利点がある にもかかわらず、水田稲作の主流が移植栽培であったのはなぜか。 ひとつは、気温の変化や病気に弱い幼苗期のイネの管理・保護であ り、いまひとつは雑草対策であった。
     直播では、作土のなかで越年した雑草の種子が、播かれたイネの 種子と同時に発芽をはじめる。生命力の旺盛な雑草の種子はイネよ り早く生長し、土中の栄養分も雑草に奪われてしまう。水田稲作は 「雑草との戦いである」といわれるゆえんである。移植栽培では生 長したイネの苗を本田に植えるため、種子の発芽からスタートする 雑草にくらべ、イネはアドヴァンテージをもらうことになる。いっ たん先行したイネは田面をみずからの茎葉で覆い、雑草の繁茂を抑 制する。移植法は、いわゆる雑草の生態的防除と呼ばれる合理的な 技術なのである。
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.159)


     イネ株をどう処理したか
     弥生時代の収穫法は穂刈り(穂摘み)であったとされている。そ う考えられる主な理由は、(1)石包丁が出土していること、(2) 当時のイネ品種がじゅうぶん訓化(くんか)されておらず、一株か ら出た稲穂の熟期がそろっていなかったであろうこと、(3)なに よりも穂刈りで収穫された穂束が出土していること(滋賀県大中 (だいなか)ノ湖(こ)遺跡、大阪府若江北(わかえきた)遺跡な ど)などであり、これについては疑いの余地がなさそうである。
     ところが、中国の新石器時代遺跡では、胎土に稲藁が混入されて いる土器や紅焼土(こうしょうど)と呼ばれる焼けた粘土塊(住居 の壁を焼き固めたものの破片といわれている)のなかに、明瞭な稲 藁が認められる(これらはプラント・オパール分析にとって格好の 試料である)。また、浙江省の河姆渡遺跡では、河姆渡文化期(約 八〇〇〇年前)の土層から数十センチの厚みで堆積した稲藁層が確 認されている。鉄製鎌の普及により株刈りがおこなわれる時代(日 本では古墳時代後半以降)になれば、稲藁の利用も可能になるが、 金属器の出現する時代よりざっと四〇〇〇年も前に、稲藁が利用さ れていた事実をどのように説明したらよいのだろうか?
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.161〜162)


     イネ株をどう処理したか
     この難問にヒントをくれたのは、さきのマコモ田であった。現在 のマコモ田はクリークの岸辺にあるため、超過湿の状態である。地 下水位の高いマコモ田の土は還元状態になり、メタンなどの有毒ガ スが発生するため、栽培されているマコモは秋になると根腐れ現象 が起こる。そのため、マコモの茎はイネよりはるかに大きく太いが、 手で引くと簡単に抜けてしまう。一方、馬家浜文化期の水田址をみ ると、低湿地に三〇センチも掘り込まれているため、ここで栽培さ れたイネはまちがいなく根腐れ状態になったはずである。そうする と、マコモと同じように、生きてはいるが、手で容易に引き抜くこ とができたと思われる。こうしてみると、収穫後、金属器はなくて もイネ株を引き抜き、土器や紅焼土のスサ材(壁土にまぜて亀裂を 防ぐつなぎとする繊維質の材料)として利用することができるわけ である。
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.162)


     しかし、あえて付言すれば、農耕が生業の主体になるためには、 水田の稲作技術が土地を「面」として利用出来る段階に到達するこ とが必要ではなかろうか?
    (《5 稲作の発祥地を求めて》P.169)


     オーストラリア先住民と魚釣り
     そのとき、そばにいた先住民の一人か「ヒロシ、そんなに釣って どうするんだ?」とけげんそうに声をかけてきた。一瞬、なんのこ とかわからなかったが、「そんなには食えないよ」という、次のこ とばで気がついた。彼ら先住民は食べるために釣るのである。遊び では釣らないのだ。彼らは生きるために、魚やワラビー(小型のカ ンガルー)などを獲るが、食べる以上には獲らない。必要以上に獲 っても腐るだけだが(冷蔵庫はないのだ)、獲らずに生かしておけ ば殖える。自然は冷蔵庫よりも優れものなのである。
     農耕民は秋に収穫した産物で翌年まで食いつなぐ。計画的に食べ なければ、年の中途で飢えることになる。蓄えることが生きること であり、美徳である。これに対して、採集狩猟民は蓄える必要がな いというより、余分なものを持てば移動の妨げになるだけなのだ。
     採集狩猟の生活と農耕の生活では基本的なものの考え方まで違う のである。
    (《むすび》P.177〜178)


     樹は山に生えるものであり、平野は草が生えるところと思われて はいないだろうか。自然のままだと、実は平野も森林なのである。 平野の水田地帯にポツンと森がある風景を思い出していただきたい。 いわゆる鎮守の森である。神域であるがゆえに人間の手がくわえら れず、森が残ったのである。実際、平野の下層土を分析すると、樹 木のプラント・オパール(機動細胞ではない)が大量に検出される。 これは、水田が造成される以前、ここが森林であったことを示して いる。つまり、日本列島にあった平野森林の大半は水田造成によっ て破壊されたのである。弥生時代の平野水田がたくさん発掘されて おり、その多くは洪水にともなう砂層で覆われている。このことは 弥生時代に洪水が頻発したことの証でもある。おそらく、平野森林 の破壊と無関係ではないだろう。それにもかかわらず、水田システ ムが持つ保水機能のゆえに、環境破壊の弊害を最小限にとどめる結 果になったのは幸運というほかない。
    (《むすび》P.179〜180)


     農耕社会の特徴は採集狩猟社会にくらべ、生産性が高く、計画性 をともなうことである。高い生産性は社会に余力をもたらし、計画 性は社会を組織化することにつながっていく。水田稲作技術の特質 は、水田という生産施設の特殊性に由来するつぎの諸項にある。
     (1)連作ができること
     (2)収量の安定
     (3)平野水系と集団作業
    (《むすび》P.181)


     (1)連作ができること
     同じ種類の一年生作物を同じ畑に作付けると、年々収量が減少す る現象(連作障害)が発生する。これに対して、水田では何年イネ を連作しても収量は減らない。
    (《むすび》P.181)


     (2)収量の安定
     湛水(たんすい)して栽培するので、干害(かんがい)の心配が なく、温度保持にも効果があり、雑草の生育を抑制する効果もある。 したがって、水田稲作は多収かつ安定した作柄を期待できる。
    (《むすび》P.181)


     (3)平野水系と集団作業
     水田は湛水するため傾斜地より平野部が適している。平野に水田 を拓き、川から水を引いて灌漑する。灌漑水のなかには養分が含ま れており、イネの生育を促進する。水田稲作は水田を造成したり、 水路を造らねばならず、どうしても集団作業が必要になる。また肥 培管理も水の供給が中心になり、たがいに相談したり協力したりし なければ、円滑におこなえない。
    (《むすび》P.181〜182)


     水田稲作は水路や畦畔などを備えた、典型的な施設農耕である。 また、弥生時代の水田稲作は土地を均(なら)し、平面として利用 するものだった。この段階に達した水田では、相当量の生産が期待 できる反面、これを造成するには、大変な時間と労力を要したはず である。しかも、水田は一度造成すれば半永久的に安定した生産が おこなえる。水田はいわば加工された土地(土地施設)であり、手 をくわえられない自然の土地とはまったく意味の違う土地なのだ。 「生産力の高い、奪う価値のある土地」なのである。焼畑と水田稲 作における土地利用のあり方は本質的に違っており、この違いが土 地に対する価値観の違いをもたらしている。焼畑の場合なら、土地 は命を懸けるほどのものではない。水田稲作の場合は大量殺戮を賭 しても奪う。あるいは守るべき対象になるのである。
    (《むすび》P.184)


     文明の二本柱が沙漠化の原因に
     インダス文明遺跡が分布する地域はタール沙漠とその縁辺域であ る。最初から沙漠だったところに文明が栄えたわけではない。イン ダス時代は緑豊かな草原と森林に囲まれていたことが、当時のシー ル(一種の印章)に記された動物の種類から推定されている。豊か な環境が沙漠に変わったことが、おそらく文明を衰退させたのだ。
    (《むすび》P.187)


     文明の二本柱が沙漠化の原因に
     それでは、なぜ砂漠化が進行したのだろうか。気候の変化や地殻 変動の影響も無視できないが、やはり文明の影響が大きいと考えら れている。文明の影響、そのひとつはレンガである。レンガを焼く には燃料が不可欠である。石炭が発見される以前のことであるから、 燃料はしかない。現在、モエンジョ・ダロ遺跡やハラッパ遺跡の 周辺は沙漠であり、森林はない。大量のレンガや土器を焼いたため、 樹がなくなったのである。典型的ともいえる森林破壊が起こったの だ。
    (《むすび》P.187)


     文明の二本柱が沙漠化の原因に
     沙漠化を招いたもうひとつの原因は灌漑農耕である。インダス河 流域の中流にはソルト・レンジと呼ばれる岩塩層がある。数百メー トルの厚みを持つ岩塩層の上面は地表に露出しており、現在も岩塩 の露天掘りがおこなわれている。インダス河はこの岩塩層を貫いて 流下してくる。したがって、インダス河の水は塩を多く含む。日本 列島と異なり、この地域は年間降水量五〇〇ミリ以下という乾燥地 帯である。灌漑しなければ作物は育たない。灌漑された水は地下へ 浸透する間もなく塩を残して蒸発してしまう。塩分の多い灌漑水は 畠土に塩を運び、蓄積していく。その結果、畠の表面が白くなるほ ど塩がたまり、作物どころか、雑草も樹木も生育できなくなってし まう。雨が塩分を洗い流す日本のような多雨地帯では考えられない 現象である。インダス後期にイネがあらわれるのは、冬作のコムギ 収量低下を補うため、夏作のイネが導入されたことを示すものであ ろう。水田稲作であれば、水をためることにより、土の塩分を薄め ることができる。しかし、畠作にくらべて大量に水を利用する水田 作は、塩分の大量蓄積を招き、結果的には塩害を増大することにな った。
    (《むすび》P.187〜188)


     文明の二本柱が沙漠化の原因に
     インダス文明を支えた二本の柱、レンガと灌漑農耕は当時のハイ テク技術であり、文明の基盤であった。皮肉なことに、その二本柱 が文明の発展とともに文明自身を滅ぼす沙漠化の原因となったので ある。
    (《むすび》P.188)


     二十一世紀の中葉、世界人口は一〇〇億人を越えると予測されて いる。一〇〇億人の食糧をこの地球で生産することは決して容易で ない。自然に同化して生きる採集狩猟の生活が望ましいと思っても、 現実にはもう回帰不能である。二〇世紀文明は、化石燃料を中心に したエネルギーの大量消費にささえられている。消費されたエネル ギーは、その多くの部分が人間の生活・生存にとって有害な物質に 姿を変えていく。工業生産だけでなく、経済効率を優先する近代農 業もまた、エネルギーの浪費をおこなっている。たとえば、ハウス における野菜栽培では、一〇アールあたり成分窒素で一〇〇キロ施 肥されるのがめずらしくない。作物が吸収できる能力はたかだか数 キロである。吸収能力の一〇倍を越える施肥をすれば、吸収されな かった肥料分は地下水に溶けて流れるほかない。畠から流出した肥 料分は河川の富栄養化、すなわち河川汚濁の原因になる。なぜ、そ のように過剰な施肥をするのだろうか? 理由は消費者の嗜好にあ る。過剰養分下で作られた作物はモヤシ状態、つまり水分が多く、 柔らかく、うす味になる。こういう農産物を消費者が好むのが現実 である。一〇倍の肥料代を投じても、高価で売れれば採算がとれる から、生産者は多肥栽培にはしるのである。農薬や化学肥料の大量 施用が「両刃の剣」の凶に転じることは明白である。
    (《むすび》P.190)






    【関連】
    [抜書き]『日本人はなにを食べてきたか?』(boso010_110306.htm)





    11/02/06・・・

    【転記ミス訂正】14/07/07・・・15/04/16・・・