[抜書き] 『名君の碑(いしぶみ)』保科正之の生涯


『名君の碑(いしぶみ)』中村彰彦・文春文庫
保科正之の生涯
2005年4月25日第3刷
    目次   お静の方   幸松誕生   高遠まで   信濃さま   将軍家光   馬見ヶ崎川   異変は東西に   遺命忘るまじ   花ひらく日々   振袖火事   裏切り   道は一筋   天翔ける時   あとがき   解説 山内昌之  

     お静は嫂(あによめ)お光に頼んで板橋宿の古着屋へ同道しても らい、少し迷ったあげく小袖数枚をもとめた。季節と重ねて着た時 の色目とを考えて一番上にまとうことにしたのは、藤色の地に白い 勝虫(かつむし)文様を散らした小袖であった。
     勝虫とは、一般にゆうトンボのこと。その幼虫ヤゴの鎧武者のよ うな姿、あるいは小さな虫を捕らえて飛ぶトンボの力強さを愛(め) で、武家方でしトンボを勝虫と呼ぶ習慣がある。
    (《お静の方》P.15)


     お静の、大うばさまの給仕役としての心得は、つぎのようなこと どもだった。
     箸(はし)は杉の白箸ときまっていて、一度きりしか使用しては ならない。お鉢は黒塗り蒔絵(まきえ)に井桁(いげた)の紋つき の行器(ほかい)のみを用い、そのなかにしゃもじを入れっぱなし にしてはいけない。
    (《お静の方》P.16)


     この見性院は薙髪(ちはつ)した頭部を白い頭巾につつみ、いつ も墨染めの衣をまとっていたが、信玄の娘にふさわしくなかなか大 柄な女性であった。
    (《お静の方》P.19)


     晒木綿(さらしもめん)、無地の手ぬぐいに髪をつつんで丸桶の 湯舟に白い裸形を沈め、
     (なにもかんがえないように)
     と思いながら目をつむっていると、やがて板戸の外から声がかか った。
     「はい」
     と答え、檜の板の間に出たお静は栗の木の台に腰をかけた。
    (《お静の方》P.33)


     一月二十日、お江与の方は大奥で鏡びらきのお祝いをした。御対 面所に飾られていた鏡餅を斧で打ち割らせ、昼食の前に、
     「おゆるこ
     として食したのである。
     おゆることは、一般におしるこのこと。御台所は、黒塗りに金蒔 絵で鶴亀と松竹梅をあしらった器を用いるならわしがある。
    (《お静の方》P.52)


     それは、一種まぼろしのような光景だった。
     雑木林と竹薮の間をわけて自分たちの田畑へすすんだ兄弟は、注 意深く風向きを調べてから風上にまわりこみ、松明(たいまつ)の 火を枯れ草に近づける。枯れ草は煙とこうばしいような匂いをただ よわせながら、あちこちに炎の舌をのばしはじめた。
     やがてその炎は横に長く伸びて一本の赤い線となり、風下にむか ってゆっくりと波のようにすすみはじめる。その線のかなたにひろ がる黄ばんだ風景は、炎の波が通過したとたん墨を流したような真 っ黒な姿に変わってゆくのだった。
     色彩のこの急激な変化にお静はなぜか胸を打たれ、煙が目にしみ るのをこらえながら畦(あぜ)道にたたずんでいつまでも野焼きを 見つめていた。
    (《幸松誕生》P.75)


     お静がうれし涙にくもる瞳をまたたかせてお礼のことばを述べよ うとするうちに、嘉右衛門と助兵衛とは奇妙な儀式にとりかかった。
     正面から膝と膝とを近づけあったふたりは、まずそれぞれの腰か ら脇差を鞘ごと抜き取って膝の上にのせる。それから礼を交わし、
     「せい」
     と声を掛けあったふたりは、その脇差を右手につかんで激しく鍔 と鍔とを打ち付けた。
     金打(きんちょう)、であった。
    (《幸松誕生》P.99)


     お静からこの書状を見せられた助兵衛とお栄は、そろってほっと した表情になった。
     見性院・信松院姉妹をどこまで頼ってよいのかは、まだ見当もつ かない。とはいえ、これまでいっさいうしろ盾というものを持たな かったお静と神尾一族にとって、見性院からの返事はことわさにい う、
     「闇の夜道の松明(たいまつ)」
     にほかならなかった。
    (《幸松誕生》P.102)


     膝をすすめたお栄がその結び目をほどくと、なかからは畳紙(た とう)があらわれた。お栄が手早くその畳紙のひもを解くと、なか に入っていたのは男児用の紺地腰替わり振袖の熨斗目(のしめ)で あった。
    (《幸松誕生》P.115〜116)


     「保科(ほしな)」
     という家筋が、かつて武田信玄につかえた武将たちのうちにある。
     本貫の地は、信州高井郡川中島の保科の里。もともと諏訪神社に つかえていたことから(かみ)氏をなのっていたが、里の名をと って保科氏を称し、鎌倉時代に将軍頼朝に出仕して信濃源氏となっ た一族である。
    (《高遠まで》P.155)


     黒鍬者とは日ごろは江戸城内の除草や下水の見まわりなどにあた っているが、将軍が外出する場合には先触れ役や物資の運搬をつと める者たちのことをいう。土井利勝がこれら黒鍬者を使うと決めた ことにより、ようやく幸松一行は、将軍家ゆかりの者の旅という体 裁をととのえることが可能となったわけである。
    (《高遠まで》P.165)


     しかし、お静があれこれなだめても、
     「もしこの噂がまことなら、高遠の食事など口にするのは厭なこ とです」
     と答えて唇をきつく引きむすぶばかり。これは筋の通らぬことを 断じて嫌うその気性が、初めてあらわになった一瞬でもあった。
    (《高遠まで》P.170)


     保科正光とすれば、十一月十四日に幸松が高遠城にはすでに真田 左源太という養子がいると聞き、憤然として、
     「肥後守にそんな養子がいるのなら、われらが高遠城にゆくまで もない。母上、すぐ見性院のもとへ引き返しましょう」
     と叫んだという話はきわめて衝撃的であった。
     (いまだいとけなきお子にも似ない、このおっしゃりようはどう じゃ。後世畏(おそる)るべしとは、幸松さまのようなお子のこと をいうのであろう)
    (《高遠まで》P.174〜175)


     しかし幸松とその小姓たち、および共侍として高遠へ同行し、保 科家から禄を受けることになった野崎太左衛門以下の男たちには、 ひとつだけ保科家特有の作法を守ることが求められた。
     公の行事に出席する時以外は、足袋(たび)をはかずに一年中素 足ですごし、股引(ももひき)も着用しないこと。
     これは、底冷えのきびしい伊那谷の冬に堪えられるからだをふだ んから作っておく、という質実剛健の家風から生まれた作法らしか った。
    (《信濃さま》P.179)


     山坂がちの高遠からは、夏がきても残雪消えやらぬ日本有数の高 山の突兀(とつこつ)たる姿を西と南の空とに望むことができる。 木曽山脈と赤石山脈。
    (《信濃さま》P.198)


     「かしこまって候」
     と答えて行尊がいくさ評定(ひょうじょう)の席を立つと、つぎ に正俊は北原彦左衛門に村びとから力ある者百数十人を選び出し、 その者たちをつかって鉾持桟道の断崖上に石弓をもうけよ、と伝え たのだった。
    ・・・
     正近がそう説明して茶を喫すると、幸松が質問した。
     「待った。その鉾持桟道の断崖上にもうけた石弓とは、いったい どのようなものか」
     「はい。これは城壁や断崖の上に太綱によって巨岩、大木の類を 支えておき、機を見てその綱を切ってこれらを一時に落下させる仕 掛けのことを申すのです」
    (《信濃さま》P.211〜212)


     高遠城の高い城壁には、なんと無数の旗が翩翻(へんぽん)とひ るがえっているではないか。なかでも正俊の三男内藤源助の旗印で ある下がり藤の旗のぼりはあちらこちらに吹き流しのようにたなび いて、箕輪城内藤家からの援軍がいましも城から討って出るところ のようにしか見えない。
     (高遠城を守る兵はわずかに四、五百、という話はただの噂だっ たのか)
     小笠原勢のうちにはそのような思いが一気にひろがり、かれらは 追撃にあつるのをためらいはじめた。
     戦意あふれる軍勢の旗のぼりや旗指物は深く前にかたむき、戦意 なき軍勢のそれはうしろへのけぞりがちになる。
     旗色がいい、悪いといういいまわしもここからきているが、小笠 原勢は正俊の智略にまどわされ、緒戦を有利にすすめていたのに旗 色を悪くしてしまったのである。
    (《信濃さま》P.215)


     高遠から駿府へゆくには甲州街道の韮崎(にらさき)宿まで出て その五里南の鰍沢(かじかざわ)へ下り、さらに左手前方に富士の 峰を仰ぎながら身延(みのぶ)山道を南下して東海道の奥津(おき つ)宿へ出るのがよい。奥津から駿府へは、西へわずか四里足らず の道のりであった。
    (《信濃さま》P.240)


     保科家代々の政治は、税率を四公六民未満に押さえこんだゆるや かなものだった。
     しかも貢租の対象は、田畑からの収穫物のみ。今日の消費税のご とき余計な税はいっさい課さなかったし、藩主の狩場や御用林にお いてさえ、その下草は領民たちに刈り取り勝手にさせていた。
     これを、小事と見てはならない。この時代の肥料はまだ牛馬の糞 尿がおもだったから、牛馬の飼料となる青草がただで手に入るかど うかは、農民層には切実な問題であった。
    (《信濃さま》P.246)


     「おらが家で、そばを召しあがって下され」
     と呼びとめることすらあった。
     まだ干鰯(ほしか)が普及せず、かつお節も高価な時代だけに、 高遠の者たちは焼味噌を大根おろしの汁に溶いたそばつゆでそばを すするのが普通だった。
    (《信濃さま》P.247)


     江戸の日本橋と日光山とをむすぶ日光街道は、四十里半の道のり である。
     千住(せんじゅ)から宇都宮までは奥州街道とおなじ道をいうの だが、日光街道は宇都宮城下で奥州街道とわかれて西北へむかい、 野沢−徳次郎(とくじら)−大沢−今市−日光鉢石町と五つの宿場 をへて日光山に至る。
     ただし、この日光街道の本道とは別に日本橋から千住ではなく足 立郡の川口に出、戦国の世の末までは下総国(しもうさのくに)、 いまは武州に属する葛飾(かつしか)郡の幸手(さって)で本街道 に入る将軍専用の道があって、
     「御成(おなり)道
     といわれていた。
    (《将軍家光》P.265)


     登城した大名たちは、その家格によって詰めるべき部屋を指定さ れていた。
     徳川御三家は、西南にある白書院の北側の御三家の間(ま)。国 持ち大名たちは、南北に走る大廊下の南のつきあたりにある大広間、 というように。
     さらに時代が下ったあとは、松平一門あるいは徳川家の大番頭格 の井伊家など将軍の相談役をつとめる家筋は溜(たまり)の間詰め、 譜代大名たちは帝鑑(ていかん)の間詰め、譜代でも身代(しんだ い)の小さな者たちは菊の間詰め、あるいはその縁頬(えんぼう) 詰めなどと家格が細分化されることになる。
     縁頬詰めとは、ひらたくいえば菊の間にすら入れず、そのまわり をうろうろしていなければならない小大名のこと。
    (《将軍家光》P.269)


     鉄舟和尚が貸してくれた『老子道徳経』の一節には、つぎのよう な文章があった。
     「みずから勝つ者は強く、足るを知る者は富む」
    (《将軍家光》P.273)


     品川宿付近の海に面した南側には、足もとまでひたひたと波を打 ち寄せる茫漠(ぼうばく)たる海原がひろがるばかり。芝から品川 へかけて西へ大きく湾曲する街道ぞいには片側町が発達しつつあっ たが、品川への入口右側には谷山(やつやま)と呼ばれる丘がとり とめもなく盛りあがっているだけだった。
     春には山桜につつまれ、南端に立てば眺望の一気にひらけるこの 丘の利用価値に最初に気づいたのは、室町時代の武将太田道灌だっ たろう。かれは江戸城までも見わたせる谷山南端の断崖上に館(た ち)をいとなみ、
     「品川館
     と名づけた。その一室で霊夢を見、あらたに造営したのが江戸城 の原型となる館だったともいう。
     ただし家康が江戸入りしたころもうこの館は朽ち果て、
     「御殿山(ごてんやま)」
     という地名にその名残(なごり)をとどめるだけになっていた。
    (《将軍家光》P.281)


     位階は養老二年(七一八)制定の養老律令により、親王は四階、 緒臣は三十階にわけられている。
     親王の四階とは、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで。上 品下品だなどという表現が今日もよくつかわれるのは、長くつづ いたこの位階制度と関係があろう。
     また緒臣の三十階とは、一位から三位までがそれぞれ正と従とに 二分されて、計六階。四位から八位までは正と従、および上と下と に四分されて計二十階。従三位(じゅさんみ)以上は公卿(くぎょ う)、正四位上から従五位下までは殿上人(てんじょうびと)と呼 ばれ、従五位下ですらない者はただの地下人(じげにん)、その地 下人が武士階級ならば地下侍という。
    (《馬見ヶ崎川》P.288〜289)


     正之から特に指名され、保科家からたのみの使者となったのは、 田中三郎兵衛。室町のころからの習慣にしたがい、三郎兵衛は濃い 縹(はなだ)色(藍色)の素襖(すおう)と小袴(こばかま)をま とい、頭には烏帽子をのせて磐城平藩邸へむかった。
    (《馬見ヶ崎川》P.315)


     「表道具七品
     と総称され、これだけは持参しなければならないとされているも のだけでも、長柄(ながえ)、薙刀(なぎなた)、女駕籠、挟箱、 お茶弁当、煙草盆、薬用茶碗の七種があり、これらや長持には両家 の紋が金蒔絵(まきえ)で描き出されていた。
    (《馬見ヶ崎川》P.317)


     町飛脚の制度ができるのは後年のことだが、大名家の国許と江戸 屋敷とはつねに文書によって連絡をとりあっている。
     「密事往復留め
     と総称される文書がそれで、領内が豊作か凶作かという大問題か ら公事(くじ)(訴訟)と公事奉行のその裁定、城下の珍談奇談、 家臣団の生死までが、細大洩らさずここに記されて藩主に報じられ るのである。
    (《馬見ヶ崎川》P.344)


     島原藩の表高は、四万三千石。なのに藩主長門守勝家の先代、重 政(しげまさ)の代に松倉家は十万石の大名たらんとする悲願を立 て、それにふさわしい家臣団を養うかたわら、三重五層の天守閣を もつ分不相応な島原城まで造営した。
     当然のことながら財政は窮迫の一途をたどる。もともと五公五民 ないし六公四民の高い年貢率だたにもかかわらず、勝家は出生税穴銭(埋葬税)、いろり税から煙草税牛のくびき税まで案出。は らえない者に対しては、水責め、蓑(みの)を着せて火をつける蓑 踊りなど、残忍きわまる責め苦を与えることも辞さなかった。
     もとをたどれば島原半島は、切支丹(きりしたん)大名でみずか らもプロタジオの洗礼名をもつ有馬晴信の領地だった。そのため土 着の者たちにも切支丹が多く、慶長十年(一六一二)に禁教令が出 されて以降は、指切り穴つるし木馬責め、雲仙の地獄湯への投 げこみなどによる殉教者が続出した。
     松倉家としては酷薄な刑罰をくわえることに慣れすぎていたわけ で、その手法を徴税にも応用しただけの話であったろうう。
    (《異変は東西に》P.370〜371)


     −−−もう二十五年も前、天草に天主教をひろめようとした南蛮 人の伴天連(ばてれん)(神父)にザビエルという者がいた。日本 を去る時、ザビエルは預言した。
     「これより二十五年後に、天にましますデウスが神童をこの地に 降(くだ)したまい、天主教を再興するであろう。その時にあたっ て東西の空は赤く燃え、枯れ木が花をつけるであろう」
     −−−それからちょうど二十五年後にあたる今年の秋口から、天 草の上空には天を焼いたような赤い雲がひろがるようになった。そ してついに、桜がそこここに狂い咲きしはじめた。
     −−−一方、天草の大矢野(おおやの)島の牢人益田甚兵衛には、 四郎というふしぎな力をもつ男の子がある。まだ十六歳の四郎は、 なにも学ぶ前から読み書きすることができた。
     それが近ごろは鳩を手にのせて卵を産ませ、その卵のなかから天 主教の経文を取り出してみせたりする。雀のとまった竹の枝を雀を 飛びたたせることなく手折ることもでき、海上を道をゆくがごとく に歩むこともできる。
     −−−ひと呼んで、天草四郎時貞。
    これぞザビエルの預言した神童であり、デウスの子ゼズキリシトの 生まれかわりに違いない。ならばいまこそ天主教再興の時、と信じ た隠れ切支丹がぞくぞくと集結したため、一揆は猖獗(しょうけつ) をきわめるに至ったのだ、……。
     「あの噂は、どこまでほんとうなのでしょうか」
     田中三郎兵衛が下城した正之に真顔でたずねた時、正之は即座に たしなめていた。
     「三郎兵衛」までが、かようならちもない噂を真に受けるとはの。 敵陣に間者(かんじゃ)を入れて流言蜚語を飛ばし、敵兵の間に疑 心暗鬼を生じさせるのはいくさの常道というものだ」
     「はい、たしかに」
     「さればこのような噂は、一揆勢にもあなどりがたい軍師がいる、 という見地から受け止めるべきことなのだ。『論語』にも、子、怪 力(かいりょく)乱神を語らず、とあるのを忘れてはならぬ」
    (《異変は東西に》P.372〜373)


     正之が忠勝に先導されて御座の間へ入室すると、家光はすでに上 段の間に絽の夏羽織をつけて出座していた。その家光は、待ちかね ていたように気早く告げた。
     「その方に三万石を加増し、奥州会津藩への転封(てんぽう)を 命じる。さよう心得よ」
     青天の霹靂(へきれき)、ということばがある。家光のことばは 正之にとって、まさに青天の霹靂であった。
     いつも落ちついている正之もさすがに返答に窮するうちに、家光 は笑みを浮かべてつづけた。
     「ほかに南会津から下野国(しもつけのくに)におよぶ南山(み なみやま)五万石あまりも預けようほどに、領国同様とみなすよう」  これは、会津保科家の表高は二十三万石とするが実質は二十八万 石とする、ということである。
    (《異変は東西に》P.414)


     江戸を去ること北へ六十五里、
     「鶴ヶ城」
     の名で知られる白亞の名城を象徴とする奥州会津四郡は、古来北 方の要地として栄えてきた。『古事記』によれば、崇神(すじん) 天皇の世に四方平定のため、四道(しどう)将軍といわれる武将た ちが各地へ派遣されたことがある。うち北陸から越後方面へむかっ た将軍は、大毘古命(おおびこのみこと)。東国へおもむいたのは、 その息子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。
     −−−大毘古命と建沼河別命は、相津(会津)でゆきあった。ゆ えにこの地を会津という。
     という地名起源説がここに語られるのは、会津地方がそのかみか ら奥州街道白河方面と越後方面との間にひろがる大集落として繁栄 していたことをうかがわせる。
    (《遺命忘るまじ》P.416)


     その地形については、明治の会津人池内儀八が『会津史』という 労作中に郷土愛にあふれた名文を書いている。
     「会津四郡の境界は山岳囲繞(いじょう)し峰巒(ほうらん) (大小の連山)重畳し、積翠(せきすい)(青山)空に挿(はさ) みて風気勁(つよ)く、高山の雪四時皚々(がいがい)として気韻 高し。……其(その)中央は平坦にして沃野遠く連(つらな)り、 地味豊穣にして油々(ゆうゆう)たる稲田菜圃相開け、駅邑(えき ゆう)村里散布し、人煙甚(はなは)だ稠密(ちゅうみつ)なり」
    (《遺命忘るまじ》P.416〜417)


     山形に倍する要衝の地であり、奥州屈指の米どころでもある会津 は、中世以降つわものたちの時代に入るとさまざまな武将たちの去 来するところとなった。その名と、会津を去った理由はつぎのごと し。

     葦名(あしな)義広 天正十七年(一五八九)、出羽米沢の伊達 政宗に敗れて追放される。
     伊達政宗 同十八年、豊臣秀吉によって領土を没収される。
     蒲生氏郷(がもううじさと) 文禄四年(一五九五)、死亡。
     蒲生秀行 慶長三年(一五九八)、下野宇都宮へ移封される。
     上杉景勝(かげかつ) 同六年、米沢へ移封される。
     蒲生秀行 同十七年、死亡。
     蒲生忠郷 寛永四年(一六二七)、死亡。
     蒲生忠知(ただちか) 同年、伊予松山へ移封される。
     加藤嘉明 同八年、死亡。
     加藤明成 同二十年、封土返還。

     領主がかくも激しく交代することは、そのたびに年貢高や政令が 変わって領民たちが動揺するもととなる。
    (《遺命忘るまじ》P.417)


     その正之は八月二日に鶴ヶ城を受け取るや、山形で地方(じかた) 巧者ぶりを発揮した者たちに加藤家から引きついだ各郡ごとの物成 (ものなり)帳小物成帳の調査をはじめさせた。物成とは年貢米、 小物成とはそれ以外の雑税のことをいう。
    (《遺命忘るまじ》P.421〜422)


     加藤時代の会津四十万石が、保科時代を迎えると表高二十三万石 になった。なにかの席でこの話をしたところ、
     「会津では、そのころ急に米がとれなくなったのですか」
     と質問されて驚いたことがある。
     むろん、そうではない。
     明成のころの藩領は、延長年間(九二三〜九三一)の区分にした がっていえば、大沼郡・河沼郡・耶麻郡・会津郡のいわゆる会津四 郡と、安積(あさか)・磐瀬(いわせ)のニ郡とからなっていた。 正之転封と同時に後者が切り離されたため、会津は二十三万石とさ れたのである。
     しかし会津は、蒲生氏郷時代には百万石、上杉景勝時代には百二 十一万石。鶴ヶ城はその本城とされてきただけに、実によくできた 城であった。
    (《遺命忘るまじ》P.423)


     下座に指の長いきれいな手をついたおしほは、髪を根結いの垂髪 (たれがみ)にして下に羽二重、上に藤色の越後縮(ちぢみ)をか さね着していた。
    (《遺命忘るまじ》P.440)


     おなじく二十三日の午前四つ刻(一〇時)。江戸城本丸白書院の 上段の間に出座した色白で小柄な竹千代は、将軍家の世つぎにしか 使用を許されない緋色地の水干(すいかん)姿だった。下段の間に 顔をむけて紅(もみ)の厚い座布団にちょこんと座ったこの五歳の 少年は、額に桃眉(ももまゆ)を描いてもらい、前髪以外はうしろ にたばねて童子用の金塗り紙の大元結(おおもとゆい)をかけてい た。
     それぞれの官位により、織文様絹裏の狩衣(かりぎぬ)、ないし 無文平絹の布衣(ほい)に風折烏帽子の正装で下座に息をひそめて いた大名たちは、その可愛らしいたまご形のおもざしを拝して一斉 に上体を折った。
     上段の前の裾に控えてそれと見定めた正之は、出番を伝えられる や最前列の酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱、阿部重次の閣老たちに 一礼した。そして掛緒(かけお)の冠と上は褐(かちん)色の地に 丁字唐草文様の袍(ほう)、下はあられ文様の表(うえ)の袴の背 後に長く裾(きょ)を引いた衣冠束帯に蒔絵の剣を佩用(はいよう)、 右手に笏(しゃく)をもった堂々たる姿を竹千代の真うしろへと運 んでいった。
    (《遺命忘るまじ》P.449)


     幕閣たちが一堂に会してからわずか二日後の二十九日のうちに残 党五十七人が網にかかり、三十日には髪を総髪にしている正雪の生 白い首が獄門台に架けられた。
     さらし首というと、現代人には残酷に感じられるかも知れない。
     しかしマス・メディアの発達していない時代にあっては、
     「実は、正雪はひそかに生きのびて同志たちの再糾合を図ってい る」
     などという噂が社会不安を煽らないようにするためにも、このよ うにして首謀者の死を視覚的に提示するのがもっとも有効な方法な のだ。
    (《花ひらく日々》P.481)


     −−−負わせ高の廃止を各村に通達したところ、農民たちは喜び のあまり隠田(おんでん)(検地の時、隠して届け出なかった田) のあることをつぎつぎに申告。今年からこれらの田からの年貢も納 められたため、二万石の減収どころかかえって三千石以上の増収に なりました。
    (《花ひらく日々》P.494)


     紅葉山文庫とは、家光が江戸城西の丸の紅葉山にもうけた書庫の こと、わが国における近代的図書館の先駆的存在であり、その蔵書 を見たい者たちは書物奉行を介して借り出すことができる。
    (《花ひらく日々》P.499)


     社倉制度の根本精神は、同胞愛の実現にある。社倉から生ずる利 子を他に転用するようでは、利息こそ安くとも藩は金貸し同然にな ってしまってこの精神にそぐわない。
     なお、会津藩の社倉制度がその後どのような規模になっていった かを眺めておくと、正之はさらに買い足しをつづけさせたため、十 年後の寛文三年(一六六三)には封内一万石の地ごとに社倉を建て、 籾二万三千俵を備蓄するに至った。
     このように社倉が充実した結果、以後会津藩では飢饉の年にも餓 死者を出すことはいっさいなくなった。そのため人口も増加の一途、 正之のお国御前おしほの方が松姫を産んだ慶安元年(一六四八)に 十一万人あまりだった会津藩の人口は、七十年後には十七万人近く に達することになる。
    (《花ひらく日々》P.509)


     一月十六日の四つ半刻(午前一一時)、南側に櫛比(しっぴ)す る中間長屋にむかって据えられたその山門をくぐったのは、白衣に 麻裃(あさがみしも)、顔を忌中笠に隠して位牌を抱いた男を先頭 とする葬列であった。
     棺桶とその先棒役、後棒役をはさみ、竹串の死花花(しかばな) をかかえて髪を忌み島田に結った女、飯持ち、火桶持ちなどからな るこの一行は、本堂の左手から背後の墓地へすすむと、墓穴の前で 最後の経をあげてもらうべく住職をまねいた。
    (《振袖火事》P.522)


     当の一月十八日は、夜明けとともに凶々(まがまが)しいほどの 荒天となった。すでに八十日間、一滴の雨も降ってはいない。そこ へ江戸名物のからっ風が北西から吹きつけたため、黄塵が江戸の上 空をおおって朝日を遮断、日の出時がすぎたかどうかもわからない 異様な朝となったのである。
     町屋に住まう者たちは、軒や板戸をばらばらと打つ物音を聞いて 恵みの雨かと喜んだ。だがこれは砂まじりの黄塵の拭きつける音で、 高みからは笛を吹くような音が響いてくるばかりであった。
     まともに目をあけてはいられないし、五、六間先の物の色目も判 じられない。そのため、この日の江戸には道ゆく人影もほとんどな かった。
     それでも、風は息をする。
    (《振袖火事》P.525)


     この時幕閣たちが最優先事項とみなしたのは、精密な江戸図の作 製であった。逃げ道を失って焼死した者が多く出たのは、自分の生 活区域内を一歩出るとどの道がどこに通じているのかわからない、 という江戸っ子がほとんどだったからである。
     それは煎じつめれば、幕府自身が江戸図を作製して一般に流布さ せては幕府打倒を企む者たちが喜ぶだけだ、という発想をこれまで 払拭できずにいたためだった。
     いわばこの時代以前の絵図とは、すべて軍事目的のために作られ るものでしかなかった。幕府がすべての城持ち大名から城郭絵図を 差し出させ、無断で城を修築したなら即刻改易という断固たる態度 でのぞんできたのも、そのような見地に立ってのことにほかならな い。
    (《振袖火事》P.550)


     背後を両刀の女小姓たちに守られたそれは、全面に梨子地金蒔絵 (なしじきんまきえ)をほどこした長棒引戸の女駕籠であった。そ の金蒔絵の文様として、
     「上杉笹」
     として世に知られる笹紋角九曜紋とが散らされているのは、女 駕籠におさまっている女性が上杉家、保科家の双方にゆかりのある ことを示してあまりある。大名家の子女は、実家(さと)の輿入れ 先との家紋をこのようにあしらって表道具七品をあつらえてから嫁 ぐのである。
    (《裏切り》P.560)


     磔(はりつけ)は斬首とおなじく死罪の一種ではあるが、主殺し、 関所破りなどの重大犯罪にのみ適用される。父の罪が子におよぶの は、重罪については当人のみならず親類縁者の責任まで問うという 王朝時代以来の縁座刑の思想である。
    (《道は一筋》P.597)


     「その子が復仇を企むかも知れぬからと申して、あらかじめこれ を取りしまるにはおよばぬとそれがしは考えており申す。この身に なにか万一のことがござろうと、それはいうならば天命と申すもの。 天命であるならば、はじめから恐れてかかることもござりますまい て」
    (《道は一筋》P.598)


     機嫌よく応じた家綱にむかい、正之が口にしたのは、
     「元和偃武(げんなえんぶ)
     ということばであった。この熟語は、慶長二十年(一六一五)五 月の大坂夏の陣によって豊臣家が滅び、七月に元和と改元されて以 降ふっつりと戦乱が途絶え、太平の世がひらけた、という意味で用 いられる。
    (《道は一筋》P.628)


     一、九十以上の者へ、老養扶持を与えるべし。
     ニ、火葬ならびに産子(うぶこ)(新生児)を殺し候儀、よろし からざるむね教諭すべし。
     三、旅人など煩(わずら)い候節の取りあつかいを定め置くべし。
    (《道は一筋》P.636)


     そしてその覚悟のほどは、この年の四月十一日、ようやく十五ヵ 条からなる文章に定着された。
     「会津藩家訓(かきん)
     として、今日まで伝えられているものがこれである。
    (《天翔ける時》P.661)




    【関連】
    [抜書き]『保科正之』(boso010_110527.htm)




    11/03/04・・・11/03/06・・・11/05/27・・・11/06/17(誤転記訂正)・・・