[抜書き] 『日本人はなにを食べてきたか?』


『日本人はなにを食べてきたか?』原田信夫・角川ソフィア文庫
平成二十二年一月二十五日 初版
    目次   序章 ”食”の重み   第一章 木の実の利用   第ニ章 米づくりと社会と文化と   第三章 ”聖”なる米の選択   第四章 農業と自然   第五章 ”穢”された肉   第六章 米への希求   第七章 料理と政治   第八章 米社会の完成   第九章 茶懐石の発展   第十章 ”遊び”と料理   第十一章 西洋料理のはじまり   第一二章 近代化と食糧制度   第一三章 ハンバーガーの登場   主要参考文献   あとがき   文庫版あとがき  

     こうした想像力には、なんらかの裏付けとなる根拠が必要で、こ れに大きな役割を果たすのが、民俗学をはじめとする文化人類学の 分野だと考えられる。ただ民俗学は、絶対年代どころか相対年代の 決定も難しく、時間の流れを基軸とする歴史学とは、本来的に相容 (あいい)れない部分が存在することも事実である。
    (《序章 ”食”の重み》P.12)


     しかし民俗学は生活史に問題関心が近く、文字を使用することが きわめて少なかった人々を主な対象とするところから、残されなか った文献や遺物が語ってくれるはずの歴史を繙(ひもと)くのには、 非常に示唆に富んだ学問といえよう。
    (《序章 ”食”の重み》P.12)


     遊牧社会では、衣類に動物性繊維が用いられ、住居のあり方も移 動に適合的なスタイルが選択された。また農耕社会では、衣類には 植物性繊維が重用され、集落の立地も農業との関係に左右された。 食の選択が衣や住を規定することになるが、たとえば農耕社会では が発達し、節目節目で季節感が強調されるなど、文化の様相も異 なる。さらには同じ農耕でも、コメやムギなど主要作物になにを選 択するかで、具体的な歴史の展開も異なることから、食物が社会に 占める意義には、きわめて大きいものがあるといえよう。
    (《序章 ”食”の重み》P.14)


     古い時代においては、特別な場合を除いて、一人で食事をすると いうことは、原則として行われなかった。小は家族の食事から、大 は国家的規模の饗宴(きょうえん)まで、さまざまな場所で共食が 行われた。共同で行なう食事には、食物の供給という本来の目的の ほかに、同じものを同じ場所で同時に食する行為を通して、人間と しての共同性を確認する、という意味が込められている。
    (《序章 ”食”の重み》P.15)


     さらに調味料に目を向ければ、ヨーロッパにおけるの発酵利用 に対して、対極の東南アジア・東アジアには、穀物・魚介の発酵を 利用する食事文化が生まれた。これは小魚や豆に塩を加えて発酵さ せた調味料をベースとするもので、東アジアに穀醤(こくしょう) 文化圏、東南アジアに魚醤(ぎょしょう)文化圏を成立させたので ある。巨視的にみれば、日本的な食生活は、こうした東アジアとい う地域環境のなかで、コメを主食とし魚を主な副食として、味噌 (みそ)や醤油(しょうゆ)などの穀醤を調味料とする体系を成立 させた、と考えてよいだろう。
    (《序章 ”食”の重み》P.20)


     もちろん北海道には、金属器は伝わったが稲作は普及せず、弥生 文化の圏内に入ることはなかった。すなわち北海道と沖縄は、弥生 時代から基本的に「日本」とは異なる道を歩みはじめた。つまりコ メを生産の主軸に据えた農耕を、社会の基礎に据えようとしたか否 かが、「日本」と北海道・沖縄という二つの地域の性格を分けたこ とになる。
    (《序章 ”食”の重み》P.22〜23)


     こうしてみると北と南では、「日本」を挟んで、類似性のある文 化が栄えたが、この二つの地域は、非常に古い交流の歴史をもって いる。
    (《序章 ”食”の重み》P.26)


     縄文と弥生の時代には、もちろん石器も併用されたが、土器の使 用がはじまった点に特徴があり、新石器時代に位置づけられる。土 器使用の最大のメリットは、長時間の加熱が容易になったことであ る。これは煮炊きだけでなく、熱を利用した効果的なアク抜きによ って、木の実など堅果類(けんかるい)の食用範囲が、一挙に拡大 されたことになる。とくに縄文時代は、氷河期が終って温暖化が進 んだため、さまざまな植物が繁茂したことも手伝って、植物性食料 が著しく増加した。
    (《第一章 木の実の利用》P.29)


     縄文早期は、紀元前八〇〇〇−四〇〇〇年の時代で、全面に縄文 を有する尖底深鉢(せんていふかばち)土器が南関東に出現し、以 後、早期中葉頃には、ほぼ日本列島全域に縄文の文様が広がる。こ の時代になると定住化が進み、台地部の突端などに数戸の小さな集 落を設けるようになり、やがて日常的な家族単位のゴミ捨て場であ る、小さな貝塚が出現するようになった。
    (《第一章 木の実の利用》P.31)


     続く縄文前期は、紀元前四〇〇〇−三〇〇〇年に相当するが、住 居も前代にくらべて大型化し、定住期間もかなり長くなったものと 思われる。早期には炉は屋内に存在しなかったが、前期になると屋 内の床面に炉が設けられ、煮沸用の土器として円筒形平底深鉢がつ くられるようになった。さらに前期中葉頃には浅鉢も出現して、煮 炊きのみならず盛りつけにもりようされるようになる。また彩色土 器も出現して保存などにも用いられ、土器の分化が進んで、食器と しての機能をもった土器が出現する。
    (《第一章 木の実の利用》P.31)


     紀元前三〇〇〇−二〇〇〇年にあたる縄文中期は、前期の展開をうけて縄文社会が飛躍的な発展を遂げた時代であった。 とくに住居には大きな変化があらわれ、中心に円形の空間を有し、その周囲に竪穴(たてあな)住居が環状に取り囲み、その周辺に食料保存用の貯蔵穴をもった大規模集落が形成されるようになる。 この時期には埋葬も行なわれ、祭祀(さいし)の場であると同時に墓地と推定される環状列石環状土籬(かんじょうどり)なども出現するが、中期の特色としては、葬送などのような人間の精神生活にかかわる遺構・遺物の存在があげられよう。
    (《第一章 木の実の利用》P.31〜32)


     縄文人は、クリクルミの保護・育成を行ない、ヒョウタンエ ゴマについても、半栽培的な行為を加えていたが、ここに実は重大 な問題が潜んでいる。すなわち、これらを生産活動とみなし、積極 的な評価を与えれば、農耕が行なわれていたことにかるからである。
    (《第一章 木の実の利用》P.38)


     縄文農耕については、いくつかの立場からの発言があるが、考古 学内部でも、縄文中期における著しい社会発展は、焼畑農耕がはじ まったためではないか、と考える研究者もいた。その根拠として、 中期の遺跡から大量に発掘される打製石斧(せきふ)を、土掘りの 道具とみなし、イモ類の栽培の存在を想定したのである。もちろん 考古学の遺跡としての焼畑の検出は難しく、遺物としてもイモ類は 分解して出土することはない。火事などで炭化物となれば、イモ類 の遺体が残る可能性もあり、また焼畑についても、生物考古学によ る試みも行なわれててるが、決定的な証拠がないままで議論が行な われている。
    (《第一章 木の実の利用》P.39)


     日本各地には今日でも、焼畑や畑作にかかわる民俗を伝えている 村々があるが、これと同時もしくは先行する形で、水田稲作の技術 や民俗が定着していたのであれば、さまざまな民俗例や神話の解釈 などにも、無理が生じよう。またコメにしても、水田ばかりとはか ぎらず、畑地でも栽培は可能なわけで、もちろん焼畑で陸稲(おか ぼ)が栽培されていたとしても、理論的には不思議ではない。
    (《第一章 木の実の利用》P.40)


     こうした縄文農耕の可能性は、主に文化人類学者や民俗学者が主 張しているが、近年、考古学でもこれを裏付けるような遺物が発見 されている。すでに縄文前期や中期の遺跡から、ヒョウタンエゴ マシソマメ類・ゴボウソバなどの果皮や種子や花粉が検出さ れている。かつての考古学では、目に見える範囲の発掘にとどまる 場合が多かったが、最近では水選別法や花粉分析、プラント=オパ ール(イネ科の植物特有の珪酸(けいさん)が細胞に集積されたも の)分析などが行なわれている。
    (《第一章 木の実の利用》P.40〜41)


    ・・・しかし弥生時代には、それ以上に強く東アジア世界の影響を受け、水田稲作や金属器などの文化要素の移入、さらに渡来人の移住などといった、新しい展開がみられることになる。 こうした大陸との交流が盛んになったため、国際社会という枠組みのなかで、日本に新しい社会が誕生した、という点に留意する必要がある。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.45)


     まず社会をもっとも大きく変えた水田稲作であるが、すでに中国の揚子江(ようすこう)中流域や下流域では、紀元前約七〇〇〇年に最古の稲作文化がはじまり、同じく三〇〇〇年頃になるとコメの比重が増して水田稲作が盛んになったとされている。 最新の学説ではジャポニカ米の起源は揚子江下流域に求められており、この付近から日本に伝わったが、そのルートについては、朝鮮半島経由であることも、ほぼ確実とされている。 こうして北九州に入った稲作は、非常な勢いで日本全国に広がり、水田稲作が各地で試みられたが、気候の関係もあってか、西日本の地域でとくに著しい展開をみせることになる。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.45)


    弥生の農耕社会には、分業に基づいて階級が生まれ、その結果として小さな”クニ”が誕生し、それらが互いに戦争をはじめた、という大きな特色がある。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.47)


     一般に古墳時代とは、前方後円墳が出現した四世紀頃から、大和(やまと)政権が中央政権としてのかたちを整える以前の六世紀までを指す。 もちろん七世紀の飛鳥(あすか)時代に入っても、一部の地域では古墳がつくられ続けるが、これらは終末期古墳として、時代区分の問題とは分けて考えるべきであろう。 したがって、各地に巨大な古墳を築いて勢力を誇っていた王たちが、大和政権によってしだいに統一されていく過程の、約三〇〇年間を古墳時代と称している。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.52)


    おそらく天円地方、すなわち円は天神(てんじん)、方は地祇(ちぎ)の神々を祀(まつ)る、という中国思想の影響を強く受けて、王を神に近づけるための形を表現したものであろう。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.52)


    ・・・古墳時代になると、コメなどの調理法にも若干の変化が生じた。 それまでは住居の中央に炉を設け、甕(かめ)を用いて煮て炊いていたが、五世紀に出現した(かまど)は、六世紀には非常な勢いで普及した。 竈を壁際に備えることによって、住居空間の利用も変化したが、なによりも熱効率が高められ、燃料が節約されるほか、火の調節も楽になり、しかも短時間での調理が可能となった。 また(こしき)も登場し、コメを蒸すという調理法が採用されるようになる。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.57)


     古墳時代および飛鳥・奈良時代にかけての食品については、遺跡からの出土物や木簡さらには『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』『万葉集』などによって知ることができる。 穀物には、米のほかに粟(あわ)・稗(ひえ)・麦・黍(きび)・大豆(だいず)・小豆(あずき)・大角豆(ささげ)などがあり、野菜としては茄子(なす)・大根(だいこん)・芹(せり)・蕗(ふき)・蕪(かぶら)・萵苣(ちさ)・生姜(しょうが)などが知られる。 このほか芋や葛(くず)などの根茎類も大切な食料で、梅・桃・胡桃(くるみ)・柿・橘(たちばな)などの果実も用いられたらしい。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.57〜58)


     このうち野菜や根茎類は、汁物・羹(あつもの)・和(あ)え物・茹(ゆ)で物・漬け物などにして食べていた。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.58)


     ところで膳(ぜん)・椀(わん)・(はし)などの食器も、やはり中国の影響を受けてはいるが、日本風の適応を遂げて、生活のなかに定着していった。 とくに日本では、食器に対する個人所有の意識の強さが注目される。 世界史的にみても、それぞれの個人が定まった食器や箸を用いる、という例は非常に珍しい習慣であろう。 銘々(めいめい)膳は、古くは中国にも存在したらしいが、椅子(いす)と卓(じょく)を用いた中国では普及せずに、床面での生活が続いた朝鮮半島と日本とで、独自の発達をみたのである。
    (《第ニ章 米づくりと社会と文化と》P.59)


     まず食物の神として、『日本書紀』では、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を産み、さらに海神(わたつみのかみ)と山神(やまのかみ)を産んだとしている。 倉稲魂命は、文字からも明らかなように稲作の神を意味し、海神と山神は採集を含めた漁撈と狩猟を象徴するものと考えられる。 さらに同書には、これらの神々の系譜を引く保食神(うけもちのかみ)が、国に向かうと口から飯が出て、海に向かうと魚介、山に向かうと獣が出る、という話がある。 ここでいう国とは農作物を生産する場を指しており、これに海の幸と山の幸を加えて、古い時代の食生活が構成されていたことがわかる。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.62)


     また保食神は、穢(けが)らわしい食物でもてなしたという理由で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の兄弟である月夜見尊(つくよみのみこと)に殺されるが、この時に死体から、牛や馬や蚕(かいこ)や米や雑穀を生じたとされている。 これは比較神話学では、殺された女神の死体から作物が生じる、というハイヌヴェレ型の神話と呼ばれるもので、東南アジアの焼畑農耕民の間に広くみられる典型的な神話パターンをなしている。 さらに同じ話が『古事記』にもみえることから、日本の古い時代においても、焼畑農耕が重要な位置を占めていたと推定される。 しかし、こうした雑穀栽培よりも、はるかにすぐれた稲作には、それ以上の地位が国家によって与えられた。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.62〜63)


     いずれにしても国家の最大の祭祀であった大嘗祭には、稲作の問題が複雑に絡んでおり、儀式の中心部分に米が位置していたことに疑いはない。 こうした践祚(せんそ)大嘗祭の原型は、天武・持統期にできあがったと考えられている。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.66)


    ・・・稲作に大きなウェイトをおいた古代国家は、農耕を推進させるとともに、米を財政の基礎に据えようとした。 ・・・米の収取は、先の祭祀とも関連する問題で、小国家単位で大化以前から行われていた。 おそらくはじめは、古墳時代以来の在地首長層が、春に稲種を農民に分け与え、秋の収穫時に新穀を献上させる、という農耕儀礼を司っていたものと思われる。 それが国家統一の過程で、在地における農耕儀礼の祭祀権が、国家レベルへと吸収され、天皇がこれを統括するようになった段階で、田祖としての米が、律令国家へと収納されるようになった、と考えられている。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.66〜67)


     七世紀中葉の大化改新(たいかのかいしん)によって、統一的な中央集権国家への意思を固めた古代国家は、土地制度として班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)を採用し、水田面積の計量単位を定めたり、戸籍をつくったりした。 大規模な税制改革であるが、これについて『日本書紀』は、これまでの労働力徴発方式をやめて、水田からの租税を基本とすることを明らかにしている。 この班田法は、中国の均田法(きんでんほう)を模したもので、班田農民への口分田(くぶんでん)の分与を前提としているが、大きく異なる点があった。 それは畑地の扱いで、中国では「田」といっても、畑地や開墾地を含むものであったのに対し、日本では「田」を水田のみに限定して用いたため、畑地はまったく除外されたのである。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.67)


     したがって律令国家が把握した耕地は水田だけで、未開地や畑地に対しては、いっさい規制が行なわれていなかった。 この伝統は、原則として中世を通じて生き続け、近世の開幕を告げる太閤検地(たいこうけんち)にいたって否定され、はじめて畑地の完全な把握が試みられた。 農耕国家を目指しながらも、古代・中世を通じて畑への統一的な賦課(ふか)は行なわれず、租税体系の基本は一貫して水田にあった、とみなすことが出来る。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.67)


     しかし八世紀前後においては、水田の造成や維持は在地首長層の主導で行なわれたため、農民の水田に対する権利は弱く、彼らは畑作あるいは狩猟・漁撈によって、食生活を補完していたものと思われる。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.67)


     こうして米を主税とする体制が成立して、水田開発を重視する政策が採用され、養老六年(七二二)には、良田一〇〇万町歩を開け、という開墾令が出された。 この法令は、人夫の食料と工事の費用は国家の負担とし、その指導には役人があたるというもので、たんなる奨励ではなく国家的な大事業として計画されている。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.68)


     この計画の背後には、班田の絶対的な不足があり、続いて翌年には有名な三世一身(さんぜいっしん)の法が定められた。 百万町歩開墾計画は、国家の事業として位置づけられたが、結局のところ具体性を欠き、方針だけで実施の主体が明確ではなく、実効は上がらなかった。 このため三世一身の法では、開発に際して国家的な援助を行なわない代わりに、開発実施者に一時的な所有を、代償として認めたのである。 しかしこの法令は、開墾地を班田に組み入れることを目的とした点で、公地公民を原則とする国家の理念としては正しかったが、所有の年限を区切ったため、現実には開墾の奨励に応ずるものが少なかった。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.68)


     さらに二〇年後の天平(てんぴょう)十五年(七四三)には、律令国家の原則と矛盾する側面をもった墾田永世(こんでんえいせい)私財法が出される。 三世一身の法では、所有の年限が限られていることから、農民の意欲が失せて、せっかく開いた水田を荒らしてしまうため、私財とすることを認めた。 これらは、基本的には班田収受を補完する役割を担い、とくに墾田永世私財法は、全国的な規模で水田面積を増大させる契機となった。 しかし、私財とすることを認めた点で、公地公民の原則に抵触し、荘園のような大土地所有を法的に認める結果となってしまったのである。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.68〜69)


     しかも、この法令には、開発者の地位や階級によって、墾田の占有面積が定められており、有利な立場にあった貴族や寺院などは、大規模な開墾を行なって、彼らの勢力を地方へ浸透させていった。 確かに古代の律令国家は、米を中心とする租税体系を確立させるとともに、班田確保のために水田開発に力を注いだ。 しかし実際には、水田の開発は溜池(ためいけ)の造成や水路の開削などを伴うため、開墾の主体となったのは、地方の首長層や中央の貴族と大寺院であった。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.69)


     むしろ、一般の農民にとっては、用排水路を必要としない畑地の開発のほうが容易であった。 このため古代国家は畑作も奨励したが、基本的には水田の不足を補うためのもので、飢饉(ききん)などの際に問題にされたにすぎなかった。 やはり律令国家が政策の基礎に置いたのは水田で、国家を主導した天皇や貴族、寺社の僧侶や神官、これを根底で支えた在地首長層は、租税として米を収取することを経済的な目標としていたのだ、といえよう。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.69〜70)


    肉食禁止令の翌年の天武天皇五年(六七六)には、日照りが続いて飢饉(ききん)に見舞われたことから、穢(けが)れを取り除くために、大祓(おおはらえ)を行なうと同時に放生(ほうしょう)を全国に命じて、捕獲した動物を山野河海に放している。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.75)


    たとえば、『続日本紀』天平九年(七三七)には、旱魃と疫病で、田の稲は育たず人々は苦しんだが、これに対して国家は、神祇(じんぎ)を祀っても効果がなく、天皇の不徳であることを認め、最終的な方策として殺生禁断を命じた。 これ以前の養老六年(七二二)の干害の時にも、同じように酒を止めて殺生を禁ずる旨の法令を出している。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.75)


     さらに天平勝宝四年(七五二)には、注目すべき殺生禁断令を発布した。 これは一月三日から十二月の三一日まで、いっさいの殺生を禁ずるというもので、これを守ると生活が成り立たないという漁民に対しては、一人に一日二升ずつの稲籾(いなもみ)を与える、としている。 この年には、奈良の大仏の開眼(かいげん)供養が行なわれる予定であり、仏教による鎮護国家を実現させるために、国家としての威信をかけた大事業の一環として、このような法令が出されたのである。 この殺生禁断令には、漁業に対する膨大な補償を覚悟してまでも、農業を社会の基礎に据える、という国家の強い意志が示されている。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.75〜76)


    天平宝字二年(七五八)、国家は鹿や猪の貢納を禁じた殺生禁断令を出し、肉食の否定に対してみずから積極的に模範を示そうとした。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.76)


    類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』に収められた大同三年(八〇八)の太政官符(だいじょうかんぷ)では、改めてを飼うことが禁止されているが、親王や国家の高官については例外としている。
    (《第三章 ”聖”なる米の選択》P.76)


     中世には領主などの米の激しい収奪によって、結果的に中・下層の農民たちは、厳しい状況におかれていた。 ・・・古代の畑地は水田の不足を補うものにすぎなかったが、米を収奪される以上は、畑地が中・下層民にとって重要な位置を占めることになる。
    (《第四章 農業と自然》P.89)


    ・・・平安後期頃から、荘園領主は畑に対する調査を行い、鉄や絹などを徴収する場合もあり、水田の裏作の麦についても、これらを領主たちが狙っていたことは、すでに述べたとおりである。 中世後期においても、南北朝末期頃の成立と考えられる『庭訓往来(ていきんおうらい)』には、畑に関する記事があり、蕎麦(そば)・麦・大豆(だいず)・小豆(あずき)・大角豆(ささげ)・粟・黍(きび)・稗(ひえ)などといった作物がみえるが、畑の質に応じて年貢をかけるべきだ、としている点が注目される。
    (《第四章 農業と自然》P.89)


     おそらく中世を通じて、畑地に対する年貢の賦課(ふか)が、しだいに強化されていった、と考えてよいだろう。 そして近世に入る段階で、太閤検地(たいこうけんち)によって、水田とともに全国規模で畑地が調査され、領主による把握が実現する。 すでに戦国期には、商品流通の発展に支えられて、畑地における木綿(もめん)の栽培が展開するが、こうした畑地の新しい価値に対しても、中世の領主層は徐々に収奪の目を向け、みずからの経営の基盤の一部に取り込もうとした。 すなわち封建制の進展に伴い、領主層は水田のみならず、畑地の生産物に対しても収奪を強化していったのである。
    (《第四章 農業と自然》P.89)


     耕地である田畑と集落以外の大地にあたる山野河海も、もちろん人々の食生活にとって重要な位置を占めていた。 これらの地は、古くから共有が原則で、山の稜線(りょうせん)や峠やさらには河川などが、国郡や郷荘もしくは村落の境界線であった。 また一般的には山野は燃料となる(まき)や、肥料に用いる草灰などの供給地、河海は水上交通の要路などとして利用されていた。 生産の側面からは、山野河海は狩猟・漁撈の場であるばかりでなく、採集によって得られる山の幸・海の幸の恵みもまた、人々の食生活をより豊かなものにしていた、と考えられる。
    (《第四章 農業と自然》P.91)


     たとえば平安末期の歌謡を集めた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、山野からの、松茸(まつたけ)・平茸(ひらたけ)・滑薄(なめすすき)・蓮(はす)の種・芹(せり)・蓴菜(じゅんさい)・牛蒡(ごぼう)・濁活(うど)・蕨(わらび)・土筆(つくし)・山の芋・山葵(わさび)・根芹(ねぜり)など、といった食品が謡われており、河海に関しては、海老(えび)取りや小魚(ざこ)取りの人々をテーマとした歌謡も収められている。
    (《第四章 農業と自然》P.91)


     中世における災害や飢饉の実態については、今のところ全国の状況を見渡すことは不可能で、地域ごとの記録をみていくほかはない。 たとえば『吾妻鏡』には、しばしば鎌倉の地震の記事があり、約六〇年の間に七回、つまり一〇年に一度以上の割合で、大きな地震が起きたことになる。 そのつど堂塔や人家が崩壊し、ほかにも津波や山崩れ、台風などの災害が、幕府の中心地である鎌倉を襲っていたことがわかる。 また『会津塔寺村八幡宮長帳(あいづとうじむらはちまんぐうながちょう)』も、中世の陸奥(むつ)国会津地方(現・福島県)の長年にわたる記録であるが、これにも地震や洪水、旱魃(かんばつ)や飢饉・疫病などの記事が、かなり頻繁に登場する。
    (《第四章 農業と自然》P.93)


     さらに鎌倉新仏教の創始者の一人である日蓮(にちれん)は、信者に宛てた多くの手紙を残しているが、それらのなかで飢饉について触れている。 建治四年(一二七八)のものには、人肉を鹿などの肉に加えて売る者もいる、と記しており、弘安二年(一二八〇)にも、ほぼ同様な記述がある。
    (《第四章 農業と自然》P.95)


     災害や飢饉は、多くの餓死者や病人を出したが、そればかりか、これによって年貢などが支払えず、このために借銭して、結局は下人(げにん)的な位置へと身分を落とす農民も少なくなかった。 こうした実例は、『中山法華経寺文書』や『金沢文庫古文書』などの紙背文書から知ることができるが、これらの文書は、紙が貴重であったことも手伝って、たまたま裏面が経本に再利用されたため今日に伝えられたに過ぎず、そうした農民は、実際にはかなりの数にのぼった、と考えるべきだろう。
    (《第四章 農業と自然》P.96)


    小笠原(おがさわら)流の食礼の作法書である『食物服用之巻』には、猪の煮物は首の部分から食べるべきであるとか、獣肉の汁を飯にかけるのはよくなく、汁の中に飯を入れるようにすべきだ、といった記述がある。 これは儀式用ではなく、日常の礼法を記した書物であるため、獣肉を食べる際の作法が書き留められたわけで、実際には社会の上層でも、肉食が完全に否定されてはいなかったことになる。
    (《第五章 ”穢”された肉》P.100)


     なお当時の代表的な知識人であった大江匡房(おおえのまさふさ)の話を集めた『江談抄(ごうだんしょう)』では、肉を食べた者は宮殿には入れず、正月三が日に朝廷で行なわれる歯固めの儀式にも、鹿と猪のかわりに最近では雉(きじ)を使うようになった、と述べている。 匡房の考えでは、昔は鹿を食べることは禁忌ではなく、天皇も食べていたが、いつの頃からか鹿や猪の肉を忌むようになった、としている。 したがって、古くは天皇や貴族などの間でも、獣肉を食べることが否定されていたわけではなく、祭祀や儀式などの時期に、特別に禁止されただけのものであった。
    (《第五章 ”穢”された肉》P.104)


     また法然の弟子であった親鸞は、こうした考え方を徹底させて浄土真宗を開き、有名な悪人正機(あくにんしょうき)説を唱えた。 唯円(ゆいえん)の編んだ『歎異抄(たんにしょう)』には、「善人が往生できるのに、悪人が往生できないはずはない」という親鸞の思想が説かれている。 この「悪人」をめぐっては、さまざまな議論があり、字面からは、たんに道徳的な意味で「善人」に対する存在と受け取られがちであるが、歴史学的にみればもう少し複雑な意味がある。 米を”聖”とし肉を”穢れ”とする社会の価値観からすれば、肉を得るために不可欠な殺生という行為は、”悪業”と認識されていた。 ここでいう「悪人」とは、そうした仕事に従事する漁師や河原者(かわらもの)などの賤民を指す、と考えるべきだろう。 同じく『歎異抄』では、「海や川で網を引き、釣りをして世を渡る人も、野山で鹿や猪を狩り鳥を取って生活する人」でも、”悪”が往生の障害になることはない、と強調している。
    (《第五章 ”穢”された肉》P.111〜112)


     いずれにしても南北朝の内乱を経る過程で、中世社会は大きく変化した。 飢饉(ききん)や凶作という現実はあったとしても、集約的な農業努力が続けられた結果、生産力は鎌倉期にくらべて非常に高いものとなった。 また流通・経済面でも著しい発展を遂げ、陸上交通や海上交通が発達して、全 国的な交易は非常に盛んになった。 南北朝期の『建武年間二条河原落書(にじょうがわららくしょ)』には、京都で各地方からの味覚が楽しまれている様子が記されている。 また室町初期の設立と思われる『庭訓往来(ていきんおうらい)』にも、「越後塩引(えちごしおびき)・隠岐鮑(おきあわび)・周防鯖(すおうさば)・近江鮒(おうみふな)・淀鯉(よどごい)……宇賀昆布(うがこんぶ)・松前鰊(まつまえにしん)・夷鮭(えぞさけ)」といった各地の特産品が数多く登場し、全国的な規模での商品流通網ができあがっていたことがうかがえる。 この南北朝末期から室町・戦国期にかけて、社会の基盤をなす村落の形態や組織などが固まり、古代的な要素は、かなり取り除かれるようになった。 中世後期には、今日の日本に連なる社会の原型や、いわゆる伝統文化が形成されたのだ、といえよう。
    (《第六章 米への希求》P.118〜119)


     「穢多」は中世に成立した用語で、その前身は古代の餌取(えとり)と考えられる。 一〇世紀前半に成立した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』では、「屠児(とじ)」の和名を「恵止利(えとり)」と読んでおり、殺生を行い、牛馬を殺して肉を売るもの、としている。 同時期の『延喜式(えんぎしき)』では、屠者(としゃ)が賀茂(かも)神社の南に住むことを禁じており、穢れとの関係で特別視されたことがうかがえる。
    (《第六章 米への希求》P.122)


     こうした村落の性格は、その祭祀組織である宮座のあり方に、明確に反映されている。 もともと宮座は、在地領主の発生と地域の開発に伴って成立したもので、平安末期にさかのぼるが、一般化するのは室町時代のことである。 これを構成していたのは、村々の上層農民で、村落内部における特権的な集団であった。 彼らは在地の剰余を蓄積しつつ村落を運営し、神社を中心とした集団を結成して、村落の祭祀を主導した。 この宮座内部には、年齢や家柄や経験などを基準とした身分秩序があり、これらは祭礼などの際に表面化し、改めて村落内の序列が確認された。 こうして中世後期の村落では、身分制的な秩序意識が、宮座を通じて形成されていったのである。
    (《第六章 米への希求》P.125〜126)


     また『延喜式』の神饌には、確かに水産物がしばしば登場するが、もっとも多いのは米であったことのほうが重用である。 むしろ同書には少ないながらも、鹿や猪などの干肉が、神饌として用いられている点に注目すべきであろう。 すでに平安初期には、米を中心とした価値観の体系が確立しており、前者が後者を圧倒していく過程の時代的な反映と考えられる。
    (《第六章 米への希求》P.128〜129)


     いっぽう中世後期には、食事回数も二食から三食制へと変化したものと思われる。 朝食と夕食に、昼食がいつ頃から加わるかは、非常に難しい問題で、階層などとも密接に関連する。 中世の日記や記録類には、しばしば「御ひる・中食・ヒルメシ」といった表現がみえ、実際には、かなり古い時期から、朝夕の二食以外にも、食事もしくは間食的なものがとられていたようである。 すでに鎌倉初期の有職故実(ゆうそくこじつ)書『禁秘抄』では、御膳のことは三度としている。
    (《第六章 米への希求》P.131)


     なかでも天皇の食膳を預る内膳司では、典膳(てんぜん)・膳部が調理し、これを奉膳(ぶぜん)が毒味をしたうえで、天皇に料理を進める、という分担が決められていた。 このため、実際の調理に携わる典膳が、もっとも重要な位置を占め、代々これを務めたのが公家の高橋氏であった。 『高橋氏文』逸文には、始祖にあたる磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)が、景行天皇に鰹(かつお)と白魚を捧げ、膾(なます)にしたり煮たり焼いたりした料理を供したことから、膳臣(かしわでのおみ)の姓を賜った、と記されている。 ほぼ同様な記事が『日本書紀』にもあり、一般に高橋氏は日本料理の祖とみなされている。 ただ宝亀六年(七七五)高橋氏は、月次祭(つきなみさい)の夜に行なわれる神今食(じんこんじき)の際に、神膳を捧げる役の順番をめぐって、海神(わたつみのかみ)を祖神として海人を支配する安曇(あずみ)氏と争っている。
    (《第七章 料理と政治》P.135)


     こうした食事作法は、大饗などの儀式の際に、整然と守られて、飲食の場を盛り上げたが、食事を演出する食器についても、さまざまな用途や目的に応じた形式が確立していた。 平安期には、金・銀・銅や陶磁器や漆器などの椀や鉢をはじめ、(さら)・高盤(たかばん)・高坏(たかつき)、酒を入れる提子(ひさげ)と銚子(ちょうし)、 金属製の箸(はし)や箸壷・箸箱・箸台、食物を乗せる折敷(おしき)・衝重(ついがさね)・懸盤(かけばん)などといった食事用具が発達し、 漆の蒔絵(まきえ)や彫刻が施されるなど、豪華な食器が儀式などの際に用いられた。 また先の包丁者の話からも明らかなように、切り方や並べ方を強調し、さらには厳しい作法や豪華な食器などによって、日本料理の特徴の一つである”見せる”という伝統が、公家の手によって、すでに平安期に成立していた、と考えてよいだろう。
    (《第七章 料理と政治》P.139)


     先にもみた『庭訓往来(ていきんおうらい)』十月状返しには、大斎(おおとき)の食事として、 次のような精進料理の種類が登場する。 まず点心としては、水繊(すいせん)・温糟(うんそう)・鼈羹(べつかん)・ 猪羹(ちよかん)・驢腸羹(ろちようかん)・筝羊羹(しゆんようかん)・砂糖羊羹饂飩(うどん)・饅頭(まんぢゆう)・索麺(そうめん)・碁子麺(きしめん)・巻餅(けんひん)・温餅(うんひん)などがみえる。 さらに汁として、豆腐羹雪林菜・並ニ薯蕷(やまのいも)・豆腐笋羅葡(しゆんろふ) ・山葵寒汁(わさびのひやじる)などがあり、菜としては、繊羅葡(せんろふ)・ 煮染牛蒡(にじめのごぼう)・昆布烏頭布(うとめ)・荒布煮(あらめに)・ 黒煮蕗(くろにのふき)・(あさみ)・(かぶら)・酢漬茗荷(すつけのみようが)・ 薦子蒸物(こものこのむしもの)・茹物(ゆでもの)・茄子酢菜(なすのすさい)・胡瓜(きうり)・ 甘漬(あまつけ)・納豆煎豆(いりまめ)・(ををとち)・(ちしや)・ 薗豆(えんどう)・(せり)・(なづな)・差酢若布(さしすわかめ)・ 青苔(あおのり)・神馬藻曳干(ほだわらそうのひきほし)・ 甘苔塩苔酒煎松茸(さけいりのまつだけ)・平茸雁煎(ひらたけのがんいり)・鴨煎(かもいり)などがあげられている。
    (《第七章 料理と政治》P.141〜142)


     このうち点心は、明らかに中国の精進料理の一種で、鶏・鼈・驢・羊などの文字はみえるが、材料は動物の肉ではなく、穀類や野菜を使った料理に、これらの名称を付したにすぎない。 たとえば、日本風の料理である菜の雁煎鴨煎は、平茸を雁や鴨の肉に見立てたもので、いっさい肉が使われることはない。 むしろ野菜や穀類・海藻類を、肉に見立てるという努力に、肉食への願望を読みとることもできる。 おそらくは、殺生禁断の教えを忠実に守りつつも、これに近い味を楽しむために、精進料理が発達したのだ、といえよう。
    (《第七章 料理と政治》P.142)


     鎌倉幕府では正月の元旦から八日までと、一三・一五・一八日に、有力な御家人から将軍に●飯(おうばん)が進められ、また御家人にも振る舞われるという年中行事が行なわれた。 実はこの●飯も、もともとは公家社会で、恒例もしくは臨時の饗宴の際に、振る舞われる簡単な食膳を指すものであった。 おそらく武士が貴族に仕えていた頃に、公家から振る舞われたという習慣が、武家社会に定着して儀式化したものと思われる。
     この●飯の内容は、粗略なもので『吾妻鏡』治承五年(一一八一)正月元旦条によれば、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)が源頼朝に献じた●飯は、鯉一品にすぎなかった、という。
    (《第七章 料理と政治》P.146)(●:「土」偏に「完」)


     近世社会には、身分制的な秩序が中世以上に厳しく貫かれており、食生活についても身分に応じて、位階制的な規制が働いていた。 これは支配者である武家にも適応され、寛文三年(一六六三)には、武家諸法度(しょはっと)をうけて、諸大名に対し振舞膳(ふるまいぜん)に関する法令を発布している。
     これによれば、老中クラスの大名を招いた饗宴(きょうえん)では、三汁十菜と肴(さかな)五種、国持(くにもち)大名ならば、臨時の饗応の際にはニ汁七菜とし、石高の少ない大名の場合には、前々からの予定であっても、これを越えてはならない、という制限が加えられている。 なお後段(ごだん)や、吸い物・肴についても軽くすべきであり、家臣の振舞や寄合では、一汁五菜を出してはならない、としている。 また身分によって(ひのき)の木具を用いるか、塗膳(ぬりぜん)を用いるかを決めることなどが、詳しく定められている。
    (《第八章 米社会の完成》P.156)


     まず寛永二十年(一六四三)の土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)では、百姓はふだんは雑穀を食べるべきであるとし、米をむやみ勝手に食べてはいけないことが定められている。 さらに、饂飩(うどん)・切麦(きりむぎ)・索麺(そうめん)・蕎麦切(そばきり)・饅頭(まんじゅう)・豆腐についても、これらを各地でつくって売ることは、五穀の浪費になるので禁止する、といった旨が強調され、酒や煙草(たばこ)についても、厳しく禁じられている。
    (《第八章 米社会の完成》P.159)


     また中世後期から、唐法師(とぼし)・大唐米(だいとうまい)もしくは占城(チャンパ)米などと称されるインディカ型の赤米が、広く栽培されていたが、これらが近世中期には、ほとんど排除されるようになる。 これらのインディカ米は、ジャポニカ種とは味は異なるが、干害・水害に強く、早熟で肥料も少なくてすむ、という特徴があった。 このため農民の間で歓迎され、年貢にはジャポニカ米が用いられ、赤米が彼らの食用に供された。
     ところが元禄期頃になると、水田生産力が質的にも著しく向上し、商品としての米の価値が高まるにしたがって、農民たちもジャポニカ米に力を入れ、赤米の減少としう傾向が顕著となる。 こうした量的・質的な水田生産力の展開に支えられて、元禄期の都市部では、白米の常食化が進行し、白米病である脚気(かっけ)が江戸などで流行病となり、大きな社会問題にまでなっている。
    (《第八章 米社会の完成》P.161)


     とくに益軒は、農業労働に必要な牛馬を食用とすることに、強く反対しているが、野獣肉に関しては、肉の味や薬効の評価も高いことから、食べてよいとも記している。 なお儒学と医学を志した香川修徳(かがわしゅうとく)は、享保一六年(一七三一)に刊行した『一本堂薬選』では、古代に獣肉食が盛んであったことに注目している。 そして神道が肉食を禁じたのではなく、獣肉食を穢れとするのは仏教がもたらした弊害だとして、医学上の立場から肉食を奨励している。
    (《第八章 米社会の完成》P.167)


    中世では、というかたちでの寄合いがしばしば開かれ、その場で共食が行なわれていた。 『山上宗二記(やまのうえそうじき)』には、飯の食べ方というのは、一つの座をつくりあげるなかで味わうものである、といった旨の一節がある。 座を組んで催される茶の湯のような寄合いの芸能には、こうした共同精神が基本とされた。 もともと懐石が、はじめは会席と書かれたことの理由は、一座という共同性にあり、寄合って飲食を楽しむことが目的であった。
    (《第九章 茶懐石の発展》P.173〜174)


     武蔵(むさし)八王子(現・東京都)出身の民政家・田中丘隅(きゅうぐう)が、享保六年(一七二一)に完成させた『民間省要』には、地方の貧しい食生活に関する記述がある。 水田をつくっている農民は、雑炊(ぞうすい)にして米を食べることもあるが、山間や畑地ばかりの村では、正月三が日といっても米を食べられないところも多く、粟(あわ)・稗(ひえ)・麦など雑穀に、菜や芋の葉などを入れて食べていた。 しかし元禄頃になると、町人たちの経済力は急速に増大し、衣食住においても富の限りを尽すようになる。 さらに最近では田舎にも、こうした風潮がおよびはじめ、下々の奉公人の食事もよくなり、この三〇年ほどの間に暮らし向きがすべて贅沢となった、と指摘している。
    (《第九章 茶懐石の発展》P.184〜185)


     こうした風潮のなかで、”遊び”の精神を保ちつつも、非常に高い教養に裏打ちされた料理本が刊行された。 天明二年(一七八二)に、大坂で出版された何必醇(かひつじゅん)の『豆腐百珍(とうふひゃくちん)』で、翌三年に続編が、さらに同四年には余禄が公刊されている。 正・続・余禄で、計三〇〇品におよぶ豆腐料理が紹介されているが、本書の特色の一つは、料理の素材を豆腐に絞り、さまざまな料理法のバリエーションを楽しむという点にあった。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.191)


     江戸に本格的な料理屋が出現しはじめるのは、料理本が本格的な展開をみせつつあった宝暦−天明期のことである。 文政五年(一八二二)の序文をもつ『明和誌』は、宝暦−明和(一七五一−一七七二)の頃を境に、江戸の風俗と様相が大きく変わったことを、豊富な事例をあげて証明しているが、料理屋については、江戸之あちこちに増えて、非常に繁盛している、と記している。 また山東京山(さんとうきょうざん)の『蜘蛛(くも)の糸巻』も、江戸の繁栄につれて料理屋が増加した、としたうえで、明和の頃の江戸の有名な高級料亭について論じている。 なかでも洲崎(すぞき)の升屋は、大名や藩の高級役人が出入りする料亭として知られ、中洲の樽三と並ぶ高級料亭であった。 しばしば升家に出入りしていた文人・大田南畝は、この二つの料理屋をモデルとした黄表紙『料理献立頭てん天口有(てんにくちあり)』を書いている。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.196)


     化政期の料理文化のあり方を象徴するものに、大飲大食の会がある。 文化一二年(一八一五)十月二一日、日光街道千住宿(せんじゅしゅく)の問屋場を務めた中屋六右衛門の還暦を祝い、江戸の酒客を招いて、大酒の会が催された。 この時の様子については、大田南畝が筆を執った「続水鳥記」に詳しく、これに谷文晁・文一親子合作のスケッチを付し、大窪詩仏が漢詩を寄せ、亀田鵬斎(かめだほうさい)と市河寛斎が序跋(じょばつ)を書いて一冊とした、『闘飲図巻』という本がつくられている。 この日、酒はふんだんに用意され、大きさごとに名前のついた盃で、酒量を競い合い、参加者は三、四升から七升五合(一三・五リットル)も飲んだようである。 会場には南畝の筆で「悪客(下戸(げこ)・理屈)は門に入ることを許さず」と書いた立て札を掛け、酒癖の悪い客は締め出されたため、愉快に酒を楽しんだ、という。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.199)


     化政期には多くの高級料亭が栄え、『貴賎(きせん)上下考』によれば、”誰々を食いに行く”というふうに、客が料理人の良し悪しを問題にしたため、料理屋は高給で料理人を雇っていたことがうかがわれる。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.200)


     西鶴の「浮世草子」にもあったように、古くから伊勢参りは盛んであったが、とくに化政期になると、各地の霊山や神社に、講(こう)を組んで参詣(さんけい)することが、しばしば行なわれるようになった。 これに伴って、旅行に出た人たちが旅日記を残しはじめる。 これは旅行の内容を、講中で次の順番を待っている人に伝える必要があったためで、いわば自前のガイドブックをつくったことになる。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.205)


     日本の料理文化は、近世後期、なかでも化政期に頂点に達し、爛熟(らんじゅく)を極めたが、人々すべての食生活が豊だったわけではない。 中世と同じように、飢饉(ききん)という食生活史上の大敵から逃れることは、非常に難しい問題であった。 のちの百珍ブームのきっかけとなった『豆腐百珍』が出版された天明二年(一七八二)は、その後数年にわたって続いた天明の飢饉のはじまった年でもあった。 有名なこの飢饉には、とくに東北地方で多くの人々が命を落とし、人肉までもが食べられたという記録も残っている。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.206)


    幕府は天明三年に、代用食品のつくり方を記した『藁餅(わらもち)製法書』を出したり、翌四年には本草学者に解毒(げどく)法を解説させた書類を、村々に触れ回したりして対策を講じた。 このうち藁餅は、米や麦や蕨(わらび)などの粉に、細かく切った藁を混ぜて食べ延ばすものであった。 しかし『天明救荒録』には、陸奥相馬(むつそうま)郡(現・福島県)で、ある農民がこれを試みたところ、藁を多く入れ過ぎて便秘になってしまい、一家五人が死んでしまった、という話が載せられている。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.206〜207)


    天明の飢饉を契機として、救荒食の研究が進み、たとえば、米沢藩では藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)の命によって、享和二年(一八〇二)に『かてもの』を刊行している。 いずれにしても東北農村の惨状には目を覆うものがあったが、大都市の上層階級には無縁の出来事にすぎなかった。 『老の長咄(ながばなし)』によれば、天明の飢饉の際に、ある高僧は、最近の百姓は贅沢になってきているから、こうした飢饉が何年か続いたほうがよい、と語ったという。 年貢としての作物を生産する農村と、それを食料として消費する都市との間には、矛盾に満ちた埋め難いギャップがあり、そうした義性に支えられて都市に料理文化が栄えたのである。
    (《第十章 ”遊び”と料理》P.207)


     明治維新の文明開化によって、肉食も解禁され西洋料理の移入がはじまり、牛鍋なども人気を呼んだが、人々の食生活は、やはり米飯を中心とするもので、米への執着には根強いものがあった。
    (《第十一章 西洋料理のはじまり》P.216)


     米飯中心の伝統的な食事では、二合弱の米はほぼ一食分にしかすぎず、雑穀や芋・野菜などの混ぜ飯というかたちで摂取されることが多かったため、著しい米の輸入を行なわなくても、現実にはこと足りていたのである。 すなわち米は絶対的に不足しており、満足に主食を楽しむことは、大多数の国民には不可能であった。 副食に重きをおかない食事では、いきおい食味の中心は主食に求められることになるが、ほかの豆類や雑穀にくらべれば、米の味覚には格別なものがあった。 ハレの日の白米飯と餅(もち)とは、長い間人々の垂涎(すいぜん)の的であり、ジャポニカ米の慣れ親しんだ味覚を、思う存分楽しみたい、という国民の主食への願望には、非常に根強いものがあったのである。
    (《第十一章 西洋料理のはじまり》P.217)


     食事様式に関しては、それまで庶民の食生活に重要な位置を占めていた箱膳(はこぜん)が、しだいに姿を消して、代わりにチャブ台が登場するようになるのは、大正末期から昭和初期のことであった。 これはふだんはすずぐだけの箱膳の非衛生性という問題もあるが、食物の内容の変化も大きく、オカズの数が多くなって膳には乗り切らないことや、油を利用した料理が増えて食器をいちいち洗う必要がでてきたことなどが、その理由として考えられる。
    (《第一二章 近代化と食糧制度》P.226)


      また家族構成の変化もあって、大家族や使用人などの関係で、多くの人々が囲炉裏(いろり)の間などで食事をしていた時期と異なり、小家族化が進むと、小市民的な住居空間の象徴である茶の間には、チャブ台のほうが適合的であり、人数的にもふさわしかった。 こうしたことから、都市部から農村へと、食事様式が徐々に変化していったものと思われる。
    (《第一二章 近代化と食糧制度》P.226)


     柳田国男(やなぎたくにお)は、昭和五年(一九三〇)に『明治大正史 世相篇』を著し、「食物の個人自由」の章を設けたが、そのなかで、この時期の食生活の変化について、いくつかの鋭い観察を行なっている。 まず第一に、温かいものが多くなったこと、柔らかいものが好まれるようになったこと、味の甘いものが増えてきたこと、をあげているが、そのいっぽうで、食事の内容が家々で、少しずつ異なるようになってきたことを指摘している。
    (《第一二章 近代化と食糧制度》P.226)


     昭和二〇年(一九四五)、敗戦という事実によって、人々は価値観を根底から揺るがされ、ほとんど茫然(ぼうぜん)自失の状態にあったが、それ以上に日々の食糧確保が大きな問題となった。 空襲による生活・生産環境の破壊、軍人・民間人の引き揚げによる失業者の大量増加、昭和二〇年の凶作による食料不足、インフレの急激な進行などによって、国民生活は極度に逼迫(ひっぱく)した。 敗戦後の食糧不足は深刻を極めたが、戦時統制立法であった食糧管理制度は戦後も生き残り、これによって政府は食糧難を乗り越えようとしたのである。
    (《第一二章 近代化と食糧制度》P.228)


     翌二一年の勅令(ちょくれい)による食糧緊急措置令は、生産者が供出に応じない場合には、強権を発動できる権限を有したが、この食糧管理制度は、農民に対しては強制的な供出を可能とし、消費者にはヤミ取引を取り締まる根拠となった。 しかし配給ではギリギリの栄養水準を維持できるかも怪しく、敗戦からわずか二週間後の九月はじめには、有楽町や新橋・渋谷・新宿などの駅前に、ヤミ市が出現した。 ここで働く者は八万人を数えたといい、米の飯やスイトン、肉・玉子・リンゴ・トウモロコシなどの食料品をはじめ、衣類や日用雑貨など、一般には入手できないものが露天に並んだ。
    (《第一二章 近代化と食糧制度》P.228〜229)


     この高度経済成長は、たんに経済や政治のみならず、人々の生活にも深い影響を与え、日本社会は大きな変転を遂げることになった。 この時期の社会変動のなかで、もっとも大きな変化は、農村の過疎化と都市化の進展で、もちろん両者は表裏の関係にあった。 専業農家が著しく減少して、農業の解体現象がはじまり、人口は都市へと流入して、都市の中間層が急激に増大したのである。
    (《第一三章 ハンバーガーの登場》P.232〜233)


     また翌四五年(一九七〇)からは米の生産調整が実施され、米の減反と買い入れ制限がはじめられた。 さらに同四七年には市場メカニズムの導入が図られ、消費者米価の自由化が行なわれて、戦時立法としての食糧管理法はまったく空文化し、米の統制は実質的に廃止された。 米の過剰は、農業人口減にもかかわらず効率の高まった米生産と、徐々に食卓での重みを失っていく米消費との矛盾のあらわれであった。 しかし古代以来、実に長い時間をかけて切りひらかれ維持されてきた水田は、減反政策によって本来の機能を喪失し、農村の景観はしだいに荒れるに任されるようになった。
    (《第一三章 ハンバーガーの登場》P.236)


     こうして戦前には一人一石すなわち一六〇キロといわれていた、一人当たりの米の年間消費量は、ついに昭和六一年(一九八六)には七一キロにまで落ち込んでいる。 代わりに副食物が増えたが、これについても同六三年には、肉と魚の供給たんぱく質量が逆転して、中世後期以来の米と魚という日本食のイメージは、現実とはまったく異なるものとなりつつある。 明治維新から一二〇年の歳月を要し、昭和の終焉(しゅうえん)とほぼ時を同じくして、かつての米への憧憬(しょうけい)と肉への禁忌は、実生活上では完全に消滅したのである。
    (《第一三章 ハンバーガーの登場》P.236)


     いっぽう”列島改造”の新語を生んだ国土計画は、過疎・過密問題を克服せぬまま、農村景観を一変させたが、圃場(ほじょう)整備さらには減反(げんたん)や農薬使用によって、かつてのような自然採取による食糧補給はほとんど困難となった。 この時期を境として、動植物の生態系が大きく変化し、山菜採りや魚釣りは趣味の範囲にとどまり、先史時代以来の採取活動がまったく不可能となった。 地方ではさほど遠くない時代まで、山や川あるいは水田や沼など、身近なところにさまざまな食料があったが、これらはしだいに見向きもされなくなった。
    (《第一三章 ハンバーガーの登場》P.251〜252)




    【関連】
    [抜書き]『稲作の起源を探る』(boso010_110205.htm)
    [抜書き]『明治大正史世相篇』(柳田國男)





    11/03/06・・・11/06/04・・・11/06/10・・・11/06/11・・・11/06/12・・・11/06/17・・・11/06/26・・・11/07/02・・・11/07/03
    12/11/12 リンク追記。
    【転記ミス改訂】12/12/23・・・15/04/22・・・16/03/12(×采○菜)