[抜書き] 『暁の旅人』


『暁の旅人』吉村昭・講談社文庫
2008年8月12日第1刷発行

     アメリカ大陸からヨーロッパにひろがったとされる梅毒が、大陸から日本に侵入してきたのは永正九年(一五一二)で、免疫のない日本人の間に猛威をふるい、たちまち全国にひろがった。
    (『暁の旅人』P.82〜83)


     幕臣であったことが知れれば、たちまち引っ立てられ、斬殺される恐れもある。 一刻も猶予はならず、良順は門人たちと話し合ってとりあえず房州(千葉県)の佐倉にむかい、それから会津に行くことにきめた。
    (『暁の旅人』P.174)


     堀田十一万石の城下町佐倉に近づいた頃、小商いの家の前におかれた縁台に座っていた男が、立ち上がるのが見えた。 将軍家茂に随行して京におもむいた折、宿を借りた会津藩医南部精一であった。 南部は良順の請いに応じて西本願寺の新撰組屯所に毎日おもむき、病んだ隊士の治療にあたってくれた。
     思いがけぬ出合いに良順は、
     「なに故、ここに……」
     と、呆気にとられてたずねた。
     「藩主容保様は、江戸より会津におもどりになり、私もつき従う予定でおりましたが、重い病いにかかった者の治療で随行できず、江戸の藩邸ににおりました。これより会津に行くところです」
     と南部は答え、
     「松本殿は、どこへ参られるのですか」
     と、いぶかしそうにたずねた。
     「佐倉の順天堂におもむく途中です。佐倉で準備をととのえ、会津へ参って医療の面でお力になりたいと考え、門人をしたがえてここまで参りました。 私が会津へ行くことについては、どのように思われますか」
     良順は、南部の表情をうかがった。 徹底抗戦の意志をかためている会津藩では、自分たちがおもむくことは足手まといになり、迷惑かも知れない。
     良順の顔に視線を据えていた南部は、良順が言葉を切ると、
     「思いがけなぬお言葉。藩としてはこれ以上ない喜びです。なんという幸せでしょう。これより私が先導し、会津に参りましょう」
     と、満面の笑みの色をうかべて言った。
    (『暁の旅人』P.177〜178)


     良順は、負傷者の状況を説明し、早目に恢復させるには滋養のある食物をとらせなければならず、そのためには牛肉をあたえることが最も適していると強調した。 これについて老臣たちは、古くからの仕来りで牛の屠殺はもってのほかだと許可してくれない。 このような旧法を打破するためにも、藩主自ら日新館を訪ねて負傷者たちの状況を視察し、その折に牛一、ニ頭をひいて来て欲しい、と請願した。
     容保は、願い通りにする、と答えた。
    (『暁の旅人』P.192)


     会津の城下町は、戦況の急迫化にともなって混乱の度をふかめていた。
     仮病院の日新館には、薬種商の者たちが出入りして薬を搬入し、繃帯、ガーゼもおさめていた。 が、かれらは戦さに巻きこまれることをことを恐れて店を閉じ、家財を大八車にのせたりして家族とともに山間部にのがれていた。
    (『暁の旅人』P.196)


     まず、良順とその門人たちが会津藩のために尽力してくれたことに、容保は、言葉では言いつくせぬほど感謝していることを口にした。
     「事すでにここに至り、なすべき手立てもない事態になっております。われらは武士として奮戦し、それによる死ももとより望むところです。 貴殿たちは、医の道に仕える御身であり、長く生きながらえて病んだ者や傷ついた者を死からまぬがれさせる使命を負っておられる。 戦乱にまきこまれ、命を危うくさせるには忍びません」
    (『暁の旅人』P.200)


     良順は、自分を見つめる本間の鋭い眼に恐れに似たものを感じた。 奥羽諸藩の中で、仙台、米沢の両大藩をはじめ優勢な新政府軍に及び腰の気配がある藩の中で、庄内藩は会津藩とともに徹底抗戦の姿勢をかたく守っている。
     たとえ容保のすすめがあったとしても、戦場から離脱する良順たちを許しがたい者と考えているようにも思える。
     しかし、自分たちは医師であり、生きながらえて傷者、病者の生命を守る義務がある。
     「上様から避難せよとのご命令。お言葉にしたがうとお答えした」
     良順は、本間の視線から眼をはなさずに言った。
     本間の眼の光がゆるみ、
     「そうでしたか。それはよかった。そうなされるがよい」
     と、表情をやわらげて言った。
     予想外の言葉に、良順は安堵したが、不審感もいだいた。
     本間は、表情をあらためると、
     「庄内に来ていただけませんか。私たちが御案内いたします」
     と、強い口調で言い、庄内藩で良順たちを喜んで迎え入れる理由を熱をこめて説いた。
    (『暁の旅人』P.203〜204)


     その夜は、寒沢(さぶさわ)の旅館に泊った。
    (『暁の旅人』P.234)


     城下町に、新しい衝撃が走った。 徹底抗戦をつづけていた会津藩の鶴ヶ城に、九月二十二日、遂に白旗がかかげられたという報が城下一円に流れた。 藩主容保は、重臣たちと城を出て、降伏状を薩摩藩の陣営に提出し、城下には死体が累々と横たわり、自刃した者も多いという。
     会津藩と同盟をむすんで徹底抗戦の姿勢をかためていた庄内藩は、鶴ヶ城の落城によって大勢は決したと判断し、五日後に降伏の手続きに入ったとこともつたえられた。
    (『暁の旅人』P.236)


     「返済ノ期限ハドウシタラヨイカ」
     と、たずねた。
     ピストリウスは笑い、
     「貴君ガソノ金ヲ欲シイト言ッタワケデハナク、私ガ友情ノ証トシテ渡シタダケダ。 返済ノ期日ハ貴君ノ意ニマカス。 返サナクテモ、ソレハソレデヨイ。 私ハ催促シナイ。快クソレヲ納メテクレレバヨイ」
     と、言った。
     良順は涙ぐみ、何度も頭をさげて感謝の言葉を口にし、商館を辞した。
    (『暁の旅人』P.260)


     軍医療の組織は定まり、医学校から名を改めていた大学東校の石黒忠悳(ただのり)を招いて軍医の充実をはかった。
     各藩から将兵が兵部省の傘下に入ってきていたが、軍医もそれに附属していた。 良順は、それらが軍医として適性であるかどうかを知るため、日本で初めての医師試験をおこなった。
     出題者は林と緒方で、各藩から軍医たちが多く集まってきて試験を受けた。 しかし、オランダに留学するなど西洋医学を身につけた二人の出題は高度で、合格する者は一人もなく、失望して三人が自殺したりした。
    (『暁の旅人』P.319)


     翌明治五年(一八七二)二月、兵部省は廃止され、軍制改革によって陸軍省と海軍省にわかれた。
     ・・・・
     その年、新橋、横浜間に鉄道が開通し、横浜の中心部にガス燈が点じられた。 また、十一月には太陰暦を廃して太陽暦が採用され、十二月三日を明治六年(一八七三)一月一日とすると布告された。
    (『暁の旅人』P.321〜322)


     明治八年(一八七五)六月、東京日日新聞に長男_太郎の記事がのっているのを眼にし、養父良甫や妻登喜にもその記事を見せて共に喜び合った。
     「留学生松本_太郎、独逸で化学上の発見」という見出しのもとに、
     「化学は欧州の諸大家すら尚その奥義を尽すこと能はずと言へり、然るを我那の生徒にして斯(か)の発見あるは皇朝の美事と云ふべし」
     と記し、日本から欧米に多くの留学生がおもむいているが、これらはいわゆる洋行帰りという箔をつけに行った者にすぎず、
     「松本氏の如きは、実に我那の傑出たる者なり」
     と、むすばれていた。
    (『暁の旅人』P.323〜324)


     これに倣(なら)うならば、『胡蝶の夢』は自分の理想を強引にでも進められる経営トップの視線で書かれた物語であり、『暁の旅人』は幕府という巨大組織の一員に過ぎない良順が、改革ブームの後押しを受けながら、少しずつ医療改革を行っていく物語といえるだろう。
    【解説:末國善己】
    (『暁の旅人』P.346〜347)