[抜書き]『保科正之』


『保科正之』中村彰彦・中公文庫
徳川将軍家を支えた会津藩主
2006年5月25日 初版発行
      目次  
はじめに  
第一章 家光の異母弟として   正之の出自   家光の忠長への怨情   正之への信頼と期待  
第ニ章 将軍家綱の輔弼役   「託孤の遺命」   慶安事件   正之の描く治世   家綱の資質   玉川上水開削の建議   明暦の大火   鎮火後の行動   私情を棄てた施策   江戸城再建   官位昇任辞退   「三大美事」  
第三章 高遠・山形・会津の藩政   江戸にあって藩政をおこなう   保科家の家臣団   家臣を見る目   白岩農民一揆の処置   会津入り   藩法と藩士の育成   社倉の創設   社倉制度の効用   政令に見る「足るを知る人」   会津藩士の心構え   幕末会津藩士に生きる家訓   正之を支えた人びと  
第四章 その私生活   秘されていた正之の出生   正之と妻と子   毒殺事件  
結び 今日の評価……あとがきに代えて   年譜・保科正之とその時代   参考文献   解説 山内昌之  

     もと江戸城本丸の北拮橋門(きたはねばしもん)寄りに建っていた天守閣は、五層五階地下一階の大建築物であった。 この天守閣が消失したのは、明暦三年(一六五七)一月十八日から二十日にかけて発生した「明暦の大火」(別称、振袖火事。以下、特に記さないかぎりカッコ内は筆者注)の際のこと。
     それからしばらく時が流れ、幕閣たちの間で天守閣の再建が検討された時、老中たちの上に立つ存在としてこの幕議に加わっていた会津藩主保科肥後守正之(ほしなひごのかみまさゆき)は主張した。
      「思うに天守閣と申すものは、戦国の世の織田右府(信長)の建てた安土城に始まると思われるが、これが軍用に多大な利点を発揮した例は史書に見えませぬ。いわば、ただ世間を観望いたすのに便利というだけの代物なれば、さようなものの再建に財力と人力とを費やすよりも、むしろ町屋の復旧に力を入れるべきでござろう」
     時の将軍家綱が率先してこれに賛成したので、ここに江戸城天守閣は再建されないことに定められた。 今日の皇居−旧江戸城に天守閣がないのも、三百数十年前に唱えられた保科正之のこの主張に基づいてのことなのである。
    (『はじめに』P.10〜11)


     保科正之に「大老」や「老中」、あるいは「若年寄」という職名、肩書は与えられなかったが、かれは将軍の実弟としてこの年以降幕政に参加するよう命じられたのである。
    (『第一章 家光の異母弟として/正之への信頼と期待』P.32)


     家光としては正之にはこれだけではまだ不足だと思ったらしく、寛永二十年七月にはかれを出羽山形二十万石から会津二十三万石、預り領五万石……実質二十八万石の大大名へと駆け上がらせた。
     なお『会津松平家譜』の伝える会津保科家の石高を合計すると表高二十三万石、実質三十万五千石余となってしまうが、ほとんどの会津関係史書は会津藩を表高二十三万石、預かり高五万石を表記しているので、本書もとりあえずこれに従うことにする。
     ではなぜ表高と預かり高とを合計し、一口に会津二八万石といわなかったのかといえば、これは当時二十五万石だった水戸藩とのかねあいからだ、というのが定説である。
     徳川第四位の会津保科家を二十八万石と規定してしまうと、同じく第三位の水戸藩の石高を上まることになってしまって都合が悪い。 だから預かり高の五万石は常に別記することにして、水戸藩の顔を立てたというわけである。
    (『第一章 家光の異母弟として/正之への信頼と期待』P.32〜33)


     並行して正之は、家を失った町方の者たちには救助金として合計十六万両を、旗本御家人たちにも作事料を与えようと考えた。 十六万両とは、間口一間につき三両一分という計算に基づいて算出した額である。
     そのあまりの巨額に驚いた閣老たちの中には、「それでは御金蔵がカラになってしまう」として反対する者もいた。
     対して正之が答えたところは、現代の官僚や政治家にも拳々服膺(けんけんふくよう)してほしいほど堂々たるものであった。
     かれはいった。
      惣(すべ)て官庫の貯蓄と云ふものは箇様(かよう)の時に下々へ施与し、土民を安堵せしむる為(た)めにして、(支出は)国家の大慶とする所なり、むざと積置(つみおき)しのみにては、一向蓄(たくわえ)なきと同然なり、当年の如き大火は古今不聞及(ききおよばざる)儀、早々(支出の命令を)発せらるヽ様致度(いたしたき)由、……(『千載之松』)
    (『第ニ章 将軍家綱の輔弼役/鎮火後の行動』P.68〜69)


     この莫大な出費によって幕府の財政が大赤字になると知った勘定方は、譜代大名からの借米によって急場をしのぎたいと考え、閣老たちに諮(はか)った。 これにも正之は、断固反対を唱えた。
      公(正之)には是(これ)は然るべからずとて御得心なく、上下ともに専心倹約すべし但(ただ)し旗本の面々知行の内より免を借(かり)入るる程の儀ならば苦しからざるべしと仰(おおせ)らる依(より)て其年三月諸大名旗本の衆町中迄も、総(すべ)て倹約を専(もっぱ)らに仰付られ、献上の品々省かれ、老中諸役人への音信も被止(とどめられ)、衣類居宅の分量等、何(いず)れも奢侈(しゃし)にせざる様被定(さだめられ)たる由なり。(同)
    (『第ニ章 将軍家綱の輔弼役/鎮火後の行動』P.69)


     「中将(正之)様始め 奥様 御兄弟様御愁嘆なされ候」とは『家世実紀』の記述だが、注目すべきはこのあとの正之の言動である。
      翌日内藤出雲守(小姓組乗頭)為上使(じょうしとなりて)、吊(弔)問あり、 老中方も追々訪(おいおいおとの)しれしが、公には大火後上下安堵せず、実に大事の時なり、我等一子を喪ひたるは夫迄(それまで)の事なり、今大事に臨み一分の悲嘆に沈み、可籠居(こもりおるべき)時に非(あら)ず、忌(いみ)御免なされたならば、速かに出仕すべし、御執成頼入(おとりなしたのみい)る由仰せられ、頓(やが)て忌御免の上出仕なさる、……(『千載之松』)
     『家世実紀』巻之十七は、老中たちの弔問を二月七日のこととし、同日中に「忌御免」の上意を伝える使者が来たため、正之は早くも八日から登城した、と書いている。
     「此の時に臨みて私邸妻孥(さいど)を顧るに暇あらず」という正之のことばは、実に上辺だけのものではなく肺腑の言なのであった。
    (『第ニ章 将軍家綱の輔弼役/私情を棄てた施策』P.74〜75)


     もう一度、島原の乱の発生年月を思い出していただきたい。第一章に略述したようにその勃発は寛永十四年十月のことで、幕府がようやくこれを討伐しおえたのは同十五年二月二十九日……つまり、白岩農民一揆発生のわずか四ヵ月前のことであった。
     しかも白岩郷は、もともと庄内藩主酒井忠勝の弟忠重の領土であったのに、その圧政に堪りかねた農民たちが寛永十年に武装蜂起し、その結果天領に組みこまれたといういわくつきの土地であった。
     「西国に変あらば宜しく意を東国に注ぐべし」との家康の遺訓を奉じていた正之が、不退転の決意でこの一揆に立ちむかったことは、このような大状況をあわせ考えれば決してゆえなしとしないのである。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/白岩農民一揆の処置』P.114)


     若松城下の町屋の中心地は大町札(ふだ)の辻であり、若松から四方へ流れ出る諸街道の起点もこことされている。 入府からわずか四日後の八月一二日、早くも正之はここに最初の制札を掲げ、施政の方針を明らかにした。
      一、喧嘩口論の事、
      一、押買い狼藉ならびに博奕類の事、
      一、当所他国の者によらず切支丹の宿致すの事、付けたり何者たりといえども怪しき輩見遁し候事、
      一、山林、寺社、在家等へ乱入して竹木を伐採せしむる事、
      一、旅人を煩わせ往還を滞らしむる事、
        右違背の輩は速かに厳科に処すべき者也
      (『家世実紀』、寛永二十年八月一二日の項、読み下し筆者)
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/会津入り』P.118)


     ここに「厳科」ということばがあらわれるが、正之の参与した時代の幕政が武断主義から文治主義へと移行したように、かれは藩政を見るにおいては厳罰主義ではなく、孔孟の教えを奉じて徳をもって治めることを望んでいた。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/会津入り』P.118〜119)


     それではいよいよ、正之がもっとも正之らしさを発揮した民政の話に入ろう。
     その最初の特筆大書すべきは、領内各地に「社倉」を設置したことである。 社倉とは「飢饉のときなどに貧民を救うために設けた米倉」(『広漢和辞典』)のことで、中国では早くも隋の時代から置かれていたという。
     ・・・
     まだ貨幣経済が完全には浸透していなかっただけに、社倉米を与えることは災害見舞金(社倉金)の支給とイコールでもあったのである。
     ・・・
     借りた農民は年貢を納める時に利息分もともに納入すればよいのだが、その時期になっても利息分ばかりか年貢も払えない場合もある。
     ・・・
     無利息で社倉米を貸し出し、かつ年貢の徴収を二、三年待つ場合もあるというのだから、つねに凶作や飢饉を恐れている農民たちにとってこんなありがたい制度はなかった。 これこそ会津藩の民政、農政のもっとも重要な柱であって、会津藩の国力は、この社倉制度の導入によってますます強固なものになったといってよい。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/社倉の創設』P.125〜127)


     『会津松平家譜』寛文三年(一六六三)の項……。
      四月封内一万石の地毎に倉を造り、五斗入りの籾(もみ)二万三千俵を蓄えて凶荒に備ふ。後増して五万俵に至る。
     初め七千俵あまりから出発した社倉米は、十年後のこの年には二万三千俵、後年には五万俵と拡充の一途をたどったのである。 会津藩の本高は二十三万石だから、領内二十三ヵ所に社倉が置かれて農民たちの暮らしを安泰ならしめたことになる。
     この社倉制度が初めて役に立ったのは、同書寛文六年の項に、
      七月封内市中貧困なるを以て、米三千俵を賑貸(しんたい)す(施し貸す)。
     と書かれた時のことであったかと思われる。 つづけて同書寛文十二年の項に、注目すべき記述がある。
      十月是(これ)より先き封内の神社を検し、友松氏興、木村忠右衛門、服部安休に命じ、新社を毀(こぼ)ちて一祠に併(あわ)せ、正祠を定め淫祠を廃して其の址を田畝となし、其の貢米は社倉に納め、材木は造社の材に用ひ、余は之を売り其の銭穀を以て神社の修覆料に供す。
     この時封内にあった神社の数は「大小社凡(およ)そ千八百余座」、由緒ある古社は「内ニ百六十余座」、と引用文のつづきにあるから、差し引き千五百四十前後の神社が田んぼに変わった計算になる。 その総面積は分らないが、おそらく社倉米をより充実させるに充分な年貢米を徴収し得る、宏大な田んぼが出現したのであろう。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/社倉の創設』P.128〜129)


      (延宝三年〈一六七五〉乙卯) 二月牧野老之助(越後国長岡の城主〈割注〉)米穀を借らんことを請ふ、乃(すなわ)ち之を貸す。
     社倉米が五万俵になったのは正経の代だったことが分かるが、より注目したいのはこの社倉制度によって会津藩の国力が充実しているのに目をつけ、長岡藩七万四千石が借米を申しこんだことである。 右引用文のつづきには左のような長い注が付いている。
      〔昨年諸国飢饉し、越後国殊に甚だしく、餓死する者ニ万余人あり。会津も亦(また)凶荒にして米に乏し、然れども米二千俵、大豆千俵を貸す。〕
     飢饉の年にもかかわらず、他藩へ米二千俵、大豆千俵を貸すゆとりがあったところに正之の先見性が如実にあらわれている。 ちなみに長岡藩にようやく社倉が設置されたのは、幕末最終の時期、すなわち河井継之助(つぎのすけ)が家老に登用されてからのことになる。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/社倉制度の効用』P.132)


     つづけて、『会津松平家譜』巻四より会津藩第三世藩主となった正之の六男正容(まさかた)と社倉制度とのかかわりを見る。 なお、会津保科家が松平家と改姓したのもこの正容の時代のことであった。

      (正徳二年〈一七一一〉壬辰) 六月大将軍(家宣)正容に命じて、会津郡南山預地を返さしむ。

       社倉に麦を加へて蓄へしむ。

      同 三年癸巳二月 南山の郷頭(ごうがしら)五人江戸に至り、旧の如く会津に隷せられんことを乞ふ。 幕府之(を)許さず。正容之を論して帰らしむ。

      (享保二年〈一七一七〉)丁酉二月 蓄金及び社倉米を増さしむ。

      享保三年戊戌 此の年封内の民口を検す。凡そ十六万九千二百十七人。

      同 七年壬寅 六月登城し大将軍(吉宗)に燕室(えんしつ)(休息する部屋)に謁す。 (略)又(大将軍)曰く、会津社倉の法大(おおい)に善(よ)し。時を待ちて推行(実施)すべしと。 正容乃ち郡奉行に命じて益々社倉を保護せしむ。

     あえて会津藩の人口と南山お預り領に関する記述とを混在させたのは、これも社倉制度と大いにかかわりがあると考えたからである。
     まず南山お預り領の民についていうと、この土地が会津藩から幕府に返されるということは、その民が天領の民となることを意味する。 一般に天領の民は年貢率も低く、諸藩の民よりも暮らしやすいとされているのに、この南山の者たちは代表である郷頭五人を江戸に送り、従来通り会津藩に帰属したいと直訴し、結果としてその希望を実現することに成功している。
     これはとりも直さず天領の民となることよりも、会津藩お預り領の民でありつづけた方が生活が安定すると、農民たちが認識していたからにほかならない。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/社倉制度の効用』P.132〜134)


     このような経緯から正之が推敲に推敲を重ねて作成し、大儒山崎闇斎にも添削を乞うて、寛文八年(一六六八)四月十一日に発表したのが「会津藩家訓(かきん)」十五ヵ条であった。
     これは、それからちょうど二百年後に勃発した戊辰戦争に会津藩が敗れ、明治新政府によって滅藩処分となる日まで、会津保科家(のち松平家)と会津藩士たちの精神的規範となっていたきわめて重要な文書である。 だから煩を厭わずに全文を掲げるが、『家世実紀』巻之三十一に記載されたのは漢文(白文)であるため、『会津若松史』第二巻にある読み下し文の方を引用する。

      一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく。列国の例を以て自ら処(お)るべからず。 若(も)し二心を懐(いだ)かば、則(すなわ)ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。
      一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本(もと)とすべし。上下の分を乱るべからず。
      一、兄を敬い弟を愛すべし。
      一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
      一、主を重んじ、法を畏(おそ)るべし。
      一、家中は風儀を励むべし。
      一、賄(まいない)を行ない、媚(こび)を求むべからず。
      一、面々依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
      一、士を選ぶには、便辟便佞(べんべきべんねい)の者(心のねじ曲った者)を取るべからず。
      一、賞罰は、家老の外、これに参加すべからず。 若(も)し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。
      一、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。
      一、政事は、利害を以(もっ)て道理を抂(ま)ぐべからず。 僉議(せんぎ)は、私意を挟(はさ)み人言を拒(ふさ)ぐべからず。 思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相(あい)争うと雖(いえど)も、我意を介すべからず。
      一、法を犯す者は、宥(ゆる)すべからず。
      一、社倉は民のためにこれを置く、永利のためのものなり。 歳饑(としう)えれば則ち発出(はっしゅつ)して、これを済(すく)うべし。 これを他用すべからず。
      一、若しその志を失ない、有楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴(いただ)き、土地を領せんや。 必らず上表蟄居(ちっきょ)すべし。

      右十五件の旨堅くこれを相守り、以往(以後)、以て同職の者に申し伝うべきものなり。

        寛文八年戊申四月十一日     会津中将[印]
                             家老中
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/会津藩士の心構え』P.143〜145)


     松平慶永(よしなが)がしきりに保科正之の名を持ち出して容保に京都守護職に就任するよう迫ったのは、慶永のうちに「正之=幕府に絶対忠実」という連想が働いていたためである。 それほどまでにこの家訓は、諸大名中にあまねく知られたものであったことが分かる。
     対して、この手紙を受け取った容保の反応はどうであったかというと、家老たちから「いまこの至難の局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもの」と諌められたにもかかわらず、もはや固辞しがたくなってこう答えた。
      そもそも我家には、宗家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある。(『京都守護職始末』)
     松平慶永の、「会津藩家訓」を持ち出しての説得工作はこうしてみごとに成功したのである。 また会津藩の家老たちとしても、容保がこの家訓の精神に殉じるとの覚悟を表明すれば、もはやかれを諌言することはできなかった。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/幕末会津藩士に生きる家訓』P.148〜149)


     関藤右衛門成義(なりよし) 慶長六年(一六〇一)〜寛文十二年(一六七二)
     ・・・
     ところが会津藩領のうち会津郡の南山は、「南山御蔵入り領」と呼ばれていたごとく、会津藩の本領ではなく、幕府からのお預かり領であった。 そのため南山の郷頭や肝煎(きもいり)には、自分たちは天領の民であるとうそぶいて役人を敬わず、衣服から飲食まで奢りの過ぎた者が多くて歴代の会津藩領主の悩みの種となってきた。
     ・・・
      然(しか)らば南山の当罰の是非を云ふことなくんば我三年の後、風を改め俗をかへ民をして直(なお)からしめん。(「会津干城伝」)
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/正之を支えた人びと』P.155)


     飯田兵左衛門重成(しげなり) 元和九年(一六二三)〜貞享三年(一六八六)
     ・・・公事奉行から南山御蔵入り領の郡奉行に登用されたこの人物は、性質が温和で慈愛あふれる人柄であった。
     その就任を知った南山の郷頭や肝煎たちが屋敷へ挨拶にくると、飯田は丁寧に挨拶を返した上に、酒食をもって彼らを饗応した。 そして、いったんかれらが宿舎にもどり、ふたたび帰郷の挨拶にまかり出ると、かれはこう答えた。
      其方共遠路を厭はず来(きた)り見ゆること誠に謝し難し、他日来らば公私に限らず町家に泊らず、我が所に来り止宿すべし、市中の旅宿は労費多し、必ず我が所に来るべし、約を違(たがえ)る事勿れと。(「会津干城伝」)
     かれは巡村に出て贈物を差し出されると、金銀、米銭、珍器、絹布のいずれも拒むことがなく、孝子や貞婦を賞することにも熱心で、郷頭たちとは分けへだてなく共に寝起きするのが常であった。
     そのためその屋敷には、郷頭たちばかりでなく神職・山伏・僧侶・婦女・児童まで泊りにくるようになり、南山の統治には何の問題も起こらなかった。 かれの恩恵に感謝した南山の者たちは、村ごとに壇を築いてその生魂を祀ったというから、飯田重成は村びとたちにとって神か仏のような存在だったのであろう。
     この飯田も関にならったのか、郡奉行から三年後に辞職を願い出、同時に正之に対して一巻の書を差し出した。 そこに記されていたのは、在任中に領民から受け取った贈物のリストであった。 物品はすべて金銭に換算された上に、巡村の際に地元側が負担すべき費用から差し引かれていて、飯田が一文たりとも私していないことは一目瞭然であった。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/正之を支えた人びと』P.156〜157)


     横田三友俊益(とします) 元和六年(一六二〇)〜元禄十五年(一七〇二)
     ・・・『土津霊神言行禄』の著者である。
     ・・・儒者として正之の侍講をつとめたかれは、寛文二年病気のため一度致仕。 同七年、ふたたび召し出されて侍講となるが、その間の同四年、若松に稽古堂を創設した。
     これは士分以外の者にも入学を許した郷校で、日本初の私立学校ともいわれている。 この稽古堂では田中正玄も学び、正之も援助を与えた。
    後世に創設された会津藩校日新館は、江戸時代最高の学力水準にあったというのが定説だが、その源流が稽古堂にあったことを考えれば、横田は会津藩に実に重要な影響を与えた人物といわねばならない。
    (『第三章 高遠・山形・会津の藩政/正之を支えた人びと』P.158〜159)


     正之には高遠時代に天竜川で水泳を学んだという話は伝わるものの、弓馬刀槍の稽古に熱中したり、若気の至りでやんちゃなことを仕出かして家臣たちを困らせたりした、というエピソードはまったくない。
     これも父の体温を知らず、信松院・見性院の死にはじまって一族の者たちとも次々に死別した結果、内省的な性格になっていったことを示しているように思われてならない。
    (『第四章 その私生活/正之と妻と子』P.180〜181)


     ・・・正之は幕末まではよく知られた人物だったと想定できる。
     しかし戊辰戦争に敗れた結果、会津藩は滅藩処分というもっとも苛酷な処遇を受けた。 明治二年九月、明治新政府は松平容保の長男容大(かたはる)に松平家の相続を許し、その断絶だけは回避してやったが、容大に与えられたのは下北半島を封土とする斗南(となみ)藩三万石に過ぎなかった。 同地に、移住した旧会津藩士とその家族たち約一万七千人は、「賊徒」「朝敵」とさげすまれながら食うや食わずの生活を送る羽目になったのである。
     同時に、猪苗代の土津神社に鎮まっていた保科正之の霊も、時代の波に翻弄される運命を辿った。
     慶応四年(一八六八、九月八日明治改元)八月二十二日、白河口からきた新政府軍が猪苗代を突破した時、会津藩は藩命によって支城亀ヶ城と土津神社を自焼させ、御神体を鶴ヶ城に遷座させていた。 旧会津藩士たちの斗南移住にしたがい、明治三年師走にはこの御神体も斗南に遷宮せざるを得なくなった。
     要するに正之の霊は、会津滅藩とともに下北半島の片隅に追いやられてしまったのである。
    (『結び 今日の評価……あとがきに代えて』P.202〜203)




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    [抜書き]『名君の碑(いしぶみ)』(boso010_110304.htm)




    11/05/27(整形未確認)・・・11/05/29(転記誤字訂正)・・・12/04/27(転記誤字訂正)・・・14/08/20(転記誤字訂正)