[抜書き] 『破獄』


『破獄』吉村昭・新潮文庫
平成二十一年六月五日 四十九刷

     昭和十八年四月十日、東京市と近郊の桜は満開になった。 花は、例年よりつきがよく風に散ることもなかったが、上野、愛宕山(あたごやま)をはじめ桜の名所に人の訪れはなく、自転車を走らせたり徒歩で往(ゆ)きかう者たちが、眼(め)をむけてすぎるだけであった。
    (『破獄』P.5)


     戦局の推移にともなって、食糧をはじめ日用必需品は配給制になっていたが、配給のとどこおる物が多く、経済統制は強化されていた。 商店はほとんど店をとじ、人びとは、軍需工場に通(かよ)って夜おそくまで働いていた。 そうした中で花見をする者などなく、桜の花は人の知らぬ間に散った。
    (『破獄』P.6)


     中旬以降、気象状況は不安定で急に気温が低下し、十八日の朝には珍しく霜がおり、手押しポンプの井戸の水が凍るという騒ぎがあった。 が、天候は回復し、二十一日には強い高気圧が張り出し、全国的に快晴になった。
    (『破獄』P.6〜7)


     昭和十三年六月、海軍省からの要請によって、網走(あばしり)刑務所に近い美幌(びほろ)ですすめられていた海軍の飛行場建設工事に千二百六十名の囚人が作業に従事し、工事を完了させていた。
     この成果に注目した海軍省は司法省に対して、翌十四年九月、日本の委任統治領であるマリアナ群島のテニヤン島、マーシャル群島のウォヂェ島の飛行場建設に二千名の囚人の派遣を求めた。
    (『破獄』P.29)

     司法省行政局では、二千名の囚人をそろえることは非常に困難であるとして難色をしめした。 また、囚人が刑務所以外で作業をするのは国内にかぎるという監獄法があり、法律的にもその実施は不可能であった。 が、この点については、島につけた船を囚人の宿舎とし、それを国内に見たてて毎日上陸して島の作業現場にかようなら違法ではあるまいという解釈を立て、戦時下の特例としてそれをみとめた。
    (『破獄』P.29)


     難問である囚人の選定について、囚人の中から希望者をつのったところ定員を上まわる二千六百六十六名が応募してきた。 思いがけぬ結果によろこんだ行政局では、審査をおこなって適格者二千名をえらび、南方赤誠隊という名称のものとに作業隊を編成した。
    (『破獄』P.29)


     所長は、佐久間の逃走が県民に不安をいだかせることを憂慮した。 司法省行政局では、逃走事故が戦時下の治安混乱をまねくおそれがあるとして防止に再三警告を発している。 全国刑務所所長合同会議でも、正木行政局長が特にその点について訓示したばかりで、所長としては、重大な過失を問われる立場に立たされていた。 逃走事故が発生したかぎり、治安の混乱をふせぐ適切な処置をとらねばならなかった。
    (『破獄』P.60)


     県警警察部長は、所長の意向をいれ、対策を協議した。 まず、佐久間の捜索は、刑務所員と警察署員のみにかぎり、各市町村に組織されている警防団、青年団、在郷軍人会などの協力をもとめぬことを決定した。 それらの組織を動員すれば、佐久間を発見できる確率は高いが、同時に脱獄が一般に広く知れわたり、恐惶(きょうこう)状態をひきおこすおそれもあった。 ついで、新聞に対する処置も決定した。 県内で新聞を発行している社は十一あったが、一県一紙の内務省指令によって前月末に秋田魁(あきたさきがけ)新報一社のみになっていた。 当然、秋田魁新報の記者は佐久間の脱獄を察知し、取材活動に入るだろうが、それについての記事は最小限度のものとするよう勧告することになった。
    (『破獄』P.60〜61)


     北海道内の新聞は、昭和十七年十一月、戦時下の要請によって最も古い社歴をもつ北海タイムスを中心に十一社が統合し、札幌(さっぽろ)市に北海道新聞社が創立されていた。 網走町には、統合前の網走新報社がそのまま北海道新聞社支局として設置されていた。 支局員は、むろん佐久間清太郎の脱獄とその経過を知っていたが、事件の報道が道内の人心を動揺させるおそれがあるとされ、記事にすることは禁じられた。 新聞には戦況と軍需品や食糧などの増産にはげむ道民の姿などが紹介されているだけで、犯罪の記事はみられなかった。
    (『破獄』P.162)


     正木は、拘置所から司法省にもどる途中、焼死体の処理を囚人によっておこないたいと考えた。 囚人に船や兵器をつくらせるよりも、死体をあつかわせる方が、囚人たちに人間の生命の尊さを認識させ、厚生に役立つと思ったのである。
    (『破獄』P.170)


     かれは、本省にもどると、東京都防衛本部に死体処理の現状について問い合わせた。 防衛本部では前年の五月につくられた「罹災(りさい)死体処理要綱」にもとづいて、空襲によって総数一万名が死亡すると推定し、一万個の柩(ひつぎ)をつくり、二ヵ所の火葬場と十五ヵ所の仮埋葬場を指定していた。 しかし、三月九日夜半からの空襲は大規模で、十日夕方までの報告を集計すると死者は七万名に達し、さらにその数は増すことが予想された。 そのため柩を使うことを断念し、また身元や所持品の調査もはぶいて公園などに死体をあつめ、二百体から三百体を入れることのできる穴をほり、仮埋葬することになった。 その作業に手をつけていたのは軍隊、警察官、警防団員だが、人手が不足していて、ぜひ協力して欲しいという回答を得た。
    (『破獄』P.)


     正木は、東京造船部隊の根田部隊長に囚人を出役させるよう指示した。 これに対して、翌日、根田から、囚人たちが自発的に死体の取りかたづけをしたいという申出があったことがつたえられた。
    (『破獄』P.170〜171)


     根田は、百四十一名の囚人をえらんで、刑政憤激挺身隊(ていしんたい)を組織し、白い布に隊名を書いた隊旗をあたえた。 正木は、三月十三日朝、作業に出るかれらを東京拘置所の屋上にあつめ、
     「諸君は、今から罹災市民の死体埋葬の仕事に出発する。 これだけはお願いしておく。 決して死体を事務的にあつかわないで欲しい。 気の毒な人たちなのだ。 どうか自分の親が、子が、妻が、兄弟が被害をうけたと思い、顔をそむけることなく丁重にあつかってくれ。 これは人間としての最高の仕事なのだ」
     と訓示した。
    (『破獄』P.171)


     北海道の社会情勢は、はげしく揺れうごいていた。
     食糧不足は飢餓状態にまでおちこみ、都会の住民たちは列車に鈴なりになって農村地帯に買出しにゆく。
    が、得られる食糧はわずかで、それにいらだった人々が買出し部隊を組織して農村地帯に押しかけ、政府の保存食糧をおさめている倉庫を強制的にひらかせ、略奪(りゃくだつ)同様に食糧を持ち去る事件が続発した。 かれらの中には警察官すらまじっていた。
    (『破獄』P.209)


     食糧は政令で厳重に統制され、それを売り買いすることはもとより、持ち歩くことすら処罰の対象になっていた。 北海道庁警察部では、食糧の供出に応じない農家に強権発動をおこない、保有食糧を没収し、また、買出しをした人々からも容赦なく食糧をとりあげて罰を科した。 その年の四月には、米軍が救援食糧を緊急輸入して配給したが、それも食糧危機を救うには程遠い量であった。
    (『破獄』P.209)


    配給は芋澱粉(いもでんぷん)、どんぐりの粉などで、それも欠配つづきであった。
    (『破獄』P.223)




    【関連】
    [抜書き]『暁の旅人』 吉村昭(boso010_110520.htm)




    11/06/05・・・