[抜書き] 『日本中世の百姓と職能民』


『日本中世の百姓と職能民』網野善彦・平凡社ライブラリー
2008年10月10日 初版第3刷
    目次
    はじめに
    第一部 百姓
    第一部 百姓 1 「平民」について
    第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢
    第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)
    第一部 百姓 2 百姓の負担(3)公事(くじ)
    第一部 百姓 付論1 河音能平『中世封建制成立史論』をめぐって
    第一部 百姓 付論2 大山喬平『日本中世農村史の研究』をめぐって
    第二部 職能民
    第二部 職能民 1 「職人」
    第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制
    第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能
    第二部 職能民 4 神人・供御人(1)北陸の日吉神人(ひえじにん)
    第二部 職能民 4 神人・供御人(2)多武峯(とうのみね)の墓守
    第二部 職能民 4 神人・供御人(3)馬借(ばしゃく)と車借(しゃしゃく)
    第二部 職能民 5 職人の図像
    むすび
    あとがき
    平凡社ライブラリー版 あとがき
    初出一覧
    解説−人間解放の歴史認識−人の営みに寄り添って常識を超える 和崎春日


     「天下平民」などといわれるように、「平民」は「百姓」「公民」等と同様、一般の人民、庶民を意味することはいうまでもないが、ただ思いなしか、この言葉が使用されるのは、それと異なる他の性質・身分の人や集団との区別を示そうとする場合が多いように思われる。
    (《第一部 百姓 1 「平民」について》P.15)


     さきに、「平民」身分が、平安末期、課役免除の特権を保証された人々と区別されはじめたと述べたが、中世に入ると、それは特定の職能を通じて、神社などの権門に奉仕する職掌人・神人(じにん)・寄人などの人々−−別稿で供御人などを含むこうした人々を「職人」と総称してみたが、もしもこれが認められるならば、「職人」身分の人々との区別として確定していく。
    (《第一部 百姓 1 「平民」について》P.19)


     ただこのような全時代を通じての用例からみて、「平民」という言葉は「常民」などともいわれる日本の庶民を表現する言葉として、史料上に現われる語の中では最も適当、と私には思われた。 これまでの「百姓」をめぐる論議との重複をあえてして、本稿でとくにこの「平民」の語に即して贅言を費やしてきた理由の一つはそこにある。
    (《第一部 百姓 1 「平民」について》P.29)


     事実、古代・中世を通じてみて、「百姓」と「平民」とは、ほぼ重なるとはいえ、多少のずれがあるといわなければならない。 雑戸は「百姓」に入れてよいのではないかと思われるが、「平民」とは区別されているし、また、さきにあげた太良庄尻高名の人々も「百姓」とよばれているが、自らを「地下(じげ)平民」と異なる立場に位置づけているのである。 とすれば、「百姓」よりも、前述したように他の身分を意識して使われることの多い「平民」の方が、これまで百姓身分の特徴としてとらえられてきた点を、より正確に表現しうるのではないかと思われる。
    (《第一部 百姓 1 「平民」について》P.29)


     さらに、「百姓」という語が、実際には近世においても農民のみをさす言葉ではないにもかかわらず、われわれの「常識」の中には根深く農民そのものを意味する語として定着しており、そのうちに含まれる多様な非農業的生業に携わる人々を結果的に無視し去るうえで、一つの役割を果たしてきたことも見逃すことはできない。 私はこうした「常識」の克服こそ、当面、とくに重要な課題と考えるので、そうした意味からも、「平民」の語を積極的に使いたいと考える。
    (《第一部 百姓 1 「平民」について》P.29〜30)


     例えば永保二年(一〇八二)の山城国西院小泉荘内田地の「御年貢蒭」、応徳元年(一〇八四)、伊勢国川合荘田地の「所当年貢八丈絹」、同年の同じ荘で肆丈絹(しじょうきぬ)壱切を「年貢米内」として納めた勝源などの事例が、文書に現われる早い例であるが、寛治六年(一〇九二)正月十日、下野国薬師寺分田畠二百余町について「於年貢者、八丈絹幵駒共乃至以細布可進済者也」といわれている点にも注目する必要がある。 年貢が当初から必ずしも米でなかったことは、これによっても明らかであろう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.47〜48)


     この点について、さらに精密な研究を推し進め、令制の諸負担の官物への移行、官物から中世的な年貢体系が形成されてくる過程を具体的に明らかにしたのが、勝山清次、斉藤利男である。 まず勝山は紀伊国名草郡郡許院収納米帳における所進物品について具体的に分析し、官物が米・稲だけでなく麦・大小豆・紅花・(からむし)・胡麻油・絹・糸・綿・材木・塩などの多様な物品からなることからみて、公田官物には令制の租、地税化した正税利稲のみならず調、中男作物、交易雑物も含まれていることを明らかにした。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.51〜52)


    米を年貢とする荘の全くみられない国は、圧倒的に東国−東日本に多く、佐渡・隠岐などの島もその中に入れうるであろう。 そしてほとんど例外なしの尾張・美濃をはじめ常陸・下野が絹、駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・上総・信濃・陸奥・出羽が布を年貢としているように、綿・糸を含めて、東国諸国が専ら繊維製品を貢上していることは明白であろう。 それとともに、伊勢・丹後も絹・糸を年貢とする荘園が圧倒的に多く、若狭を除き、越中を含むさきの北陸道諸国も、米とほとんど並行して、絹、とくに綿を貢進していることにも目を向けておく必要があろう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.56〜57)


     もとより、平民百姓が年貢を「対捍(たいかん)」したと認定すれば、領主側は物理的な暴力を含むさまざまな圧迫、強制を加えたが、逆に領主側に「非法」ありと判断した場合、平民百姓たちがその支配を拒否して、「山林に交わり」逃散することは、当然の権利として、社会的にも、法的にも認められていたのである。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.70)


     とすれば、年貢を直ちに、私的土地所有者がその私的隷属民に対して強制を通じて収取し、その土地所有を実現した結果としての「地代」と規定するわけにはゆくまい。 たしかに、荘園支配者は自らその荘を質入・売却することもありえたので、そこに私的な土地所有としての荘園の一面が現われているが、「公田沽却(こきゃく)」は一方ではきびしく禁じられており、年貢の量・品目等についても、荘園支配者の恣意の働く余地は、きわめて限定されていたといわなくてはならないのである。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.70〜71)


     年貢の使途については、公事・夫役を含めて、今後さらに細かく追及される必要があるが、全体としてそれは、仏事・神事を含む年中行事の諸費用、及びそれを滞りなく行なうことを義務とする天皇・貴族・官人、将軍・上層武家、僧侶・神官等の生活を支えるためのものであったといってよかろう。 このような使途を考慮に入れると、年貢は一面では地代としての性格を潜在させ、他面では貢納物の性格を残しつつも、基本的には租税の一種とみることができる、と私は考える。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.71)


     それはさきにも述べたように、平民百姓にとって、共同体成員−自由民として自らの立場を保つための義務と意識されていたのであり、それ故に年貢は社会的に必要と認められた使途に用いられるべきもの、と考えられていたのである。 中世、近世を通じて、年貢減免の要求、その増微に対する闘争は、逃散・一揆等の形で頻々(ひんぴん)とおこっているが、「年貢廃棄」をスローガンに掲げた一揆は、私の知る限りで、ただの一回もないという事実は、年貢のこうした性格を如実に物語っているといえよう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.71)


     *43−東国に「軽物」といわれた繊維製品の年貢の多い理由は、これまで海上交通の未発達に求められてきたが、拙稿「中世前期の水上交通について」(『茨城県史研究』四三号、一九七九年)でふれたように、平安後期以降の東国の海上交通はかなり安定していたものとみなくてはならない
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(1)年貢》P.79)


     このように、「上分」が神仏に捧げられる負担であったことは、鎌倉幕府法追加法二三条に「神社仏寺之上分」といわれていることからみても間違いないといってよい。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.91)


     竹内理三は、かつて「上分」は古代の租に相当すると指摘したことがあるが、石母田正がいうように、「原田組」が「首長に対する恒例の初穂貢納」の慣行から発生したのだとすれば、この竹内の見解はいち早く、「上分」の本質を衝いたものということができる。 しかし「上分」は単に租だけではなく、さらに広く古代の贄まで含め、首長のみならず神仏−聖なる者への初尾貢献の慣習、自然からの最初の贈物は神自身のものとする、きわめて古くからの習俗に起源をもつとみなくてはなるまい。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.92)


     相田はこの文書を、南北朝時代を降らないものと判断したうえで、「高納とは積載貨物の分量に応じて、率分(りつぶん)の如く徴収したことから出て来たのであろう。この文書以外には未だその例を見ない、極めて稀な呼称の一つである」としている。
     そして相田は「那智山海上々分と冠している所から判断するに、船舶が海上を通過して那智山を拝む時報賽に供えた資財から起ったものと思はれる。 これは関所料発生の一の原因を見る上に重要な資料である」というきわめて的確な指摘をし、「安房国の須崎神社にては、近代まで海上に賽銭船を出して通過の船舶から報賽を受けてゐた」という興味深い事実を紹介しているのである。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.95)


     このように、金融の発生が、神物・仏物−神殿の神の物などの貸与に求められることは、恐らく世界の諸民族に共通していることと思われるが、日本の社会の場合、それが初尾、初穂として神仏に捧げられた「上分」を「資本」とする形で現われてくることに注目しておく必要があろう。
     しかもその貸与が「出挙」という形態をとっている点も重要であり、それは利子がなぜ発生してくるか、という問題を考えるうえにも、きわめて示唆するところ大といわなくてはならない。 出挙の原形が、初穂として神、首長に貢献され、聖なる場としての倉庫に納められた籾を、種籾として貸与し、収穫時に利分を付して返却させることにあるならば、それがしばしば五把の利−五割という一見きわめて高率の利率であっても、なんら不自然ではあるまい。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.100〜101)


    勝俣は市を「他界との境界領域としての神の示現する聖地」ととらえ、「そこに立てられた市での売買などの交換行為そのものが神々を喜ばせ、祀ることに通ずる」という観念のあったことを指摘している。 こうした市での交易における初尾貢納も、もとよりこのような市そのものの性格、売買自体の特質と関わっている。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.107)


    小田は、「後戸」−寺院の堂舎の本尊の背後に位置する空間は「聖なる秘所」であり、そこに仏物としての稲米が納められたとし、後戸及び「後戸の神」と出挙、金融が深く結びついていた、としている。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.109)


    例えば、石井進「「新しい歴史学」への模索」(『歴史と社会』二号)が言及している「人類最古の銀行、バビロニアのウルクの「赤い神殿」や、古代ギリシャのデルフォイの神殿の金融活動」を想起するだけでも、それは明らかといってよかろう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.112)


     また『古今著聞集』巻第十六、興言利口第二十五の「或僧一生不犯の尼に恋着し偽りて其の尼に仕えて思を遂ぐる事」で、三年間、機会を待った僧が思いを遂げたところ、途中で尼がにわかに「ひきはづして」持仏堂で鐘をならして祈念したのち、あらためて僧の思う通りとなった。 僧が尼の行為を質問したところ、尼は「その事也、是程によき事を、いかゞはわればかりにてはあるべき、上分仏にまいらせんとて、かねうちならしにまいりたりつるぞ」と答えた、とあるが、「一生不犯」であった尼の「初穂」を「上分」といったことを示している。 「初穂」が「上分」であったことを物語る好例であろう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(2)上分(じょうぶん)》P.114)


     「くうじ」ともいう。 本来は「おおやけのこと」、政務一般をさす言葉である。 「まつりごと」といわれたように、古代の宮廷の政務は、正月の節会(せちえ)から除夜の追儺(ついな)にいたるまでの一年間の季節の変化、自然の運行と結びついた儀式、年中行事を基本として行なわれた。 人事に関わる除目(じもく)、重事を決定し、訴訟を裁決する定(さだめ)もまたその一環であり、公事はこれらの儀式、行事の総称で、天皇はその主催者としての役割を果たしたのである。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(3)公事(くじ)》P.115)


     一方、個々の荘園・公領においては、預所・荘官・地頭が中心になって行う諸行事の費用が、百姓たちに対して雑公事として賦課された。 その一つは、正月の餅、五月五日の粽(ちまき)、盆のときの瓜やなすなどのように、年初・年末、節句、盆等の行事に必要なさまざまな品物であり、これらを政所に持参する百姓たちに対し、預所・地頭も酒や食事などをふるまうのがふつうであった。
     また、預所・荘官・地頭の直営地である正作での田植、草取、稲刈も平民百姓の賦役によって行なわれた。 多くの場合、三日が原則であり、本来、「大田」などとよばれた、共同体の中で重要な意味をもつ田地の耕作に起源をもつとみられるこの賦役のさいには、食料・酒が百姓たちに給付されたのである。  さらに、預所や地頭自身、あるいはその代官や使が、検注勧農収納等のために現地に下ってくるとき、 境まで出迎えて境迎三日厨を行ない、饗応するための費用、現地での生活、食事の世話や必要な品物を提供する厨雑事房仕、その上下向のさいの供をする迎夫送夫京上夫鎌倉夫などの夫役(ぶやく)も、平民百姓の負担する公事であったが、これも供給、「タテマツリモノ」などとよばれ、きわめて古くから行なわれてきた客人・貴人に対するもてなしの習俗を背景にした公事だったのである。
     このような、領主を中心として、百姓たちが費用を負担しつつ参加する行事は、これ以後も公事とよばれ、負担を公事物とよぶ用法も長くみられるが、十五世紀に入り、自治的な村、町が確立してくると、これらの行事もまた、村、町の成員自身によって行なわれるようになっていった。 江戸時代に入ってからも、こうした村の行事、あるいは共同の作業を「公事」とよび、これを負担する成員の家を「公事屋」という地域ももられるが、十六世紀ごろから、公事の用法は次第に変わってくる。
     その意味の一つに、『日葡辞書』にみられる「天然痘」があり、恐らく世間一般の人がみな一度は経過せざるをえない病である「天然痘」にかかることを「公事をする」といったのであろう。 これは、平民百姓としての義務であるとはいえ、決して楽なことではない「公事」に対する当時の人々の思いがよく現われている用法ということができる。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(3)公事(くじ)》P.118〜119)


     しかしこれはむしろ特異な用法であり、『今昔物語集』(巻第二第卅三)に「賢シ人、出テ公事共定メ申シテ」とあるのが、きわめて早い用例であるが、戦国期以降に多くみられる「公事」は、訴訟とその審理、裁判を意味するのがふつうで、江戸時代に入れば、この用法が一般的になっている。 「公事場」「公事出入」「公事方御定書」などは、みなこの意味の公事であるが、ここにいたって「公事」のとらえ方、「公」のあり方が大きく変化してきたといえよう。
     十五世紀以降、発展してきた村や町の自治的な機能は、江戸時代に入って広く定着し、さまざまな紛争は、村や町がその掟と慣習に基づいて、内部で処理する、「内済」ですますのがふつうであり、裁判権をもつ公権力、「公儀」の法廷にこうした紛争をもち出し、裁決を求めるのは、むしろ特別のことと意識されるようになってきたのである。 それゆえ、なにかというと紛争をおこしたがる坊主を、「公事坊主」といったような用法が近年まであったのであり、これは村や町などの共同体内部の問題を、外部に出すことを「おおやけ」にするという、現在でも広くみられる意識と深く関係している。
     かつては、ここでは共同体の成員、自由民としての立場を保つために、避け難い義務とみられていた「公事」が、ここでは共同体の外部の「公権力」と関わることを意味するようになってきたのであり、こうした「公事」の意味の変化の中に、日本の社会における「公」と「私」のあり方に関わる重要な問題があるということができよう。
    (《第一部 百姓 2 百姓の負担(3)公事(くじ)》P.119〜120)


     そして、河音が「フォルク的世界における都市と農村との新しい交流関係」を示し、また「中世封建的支配秩序全体から自らを精神的に開放しようとする幻想」の熱狂的な現われを物語る、とした『梁塵秘抄』の今様を通して、果たしてわれわれは「農民」の声を聞くことができるのだろうか。 もちろん、農民と截然と分かつことはできないとしても、遊女傀儡子(くぐつ)、海人(あま)、樵夫(きこり)、鵜飼(うかい)、鷹飼(たかがい)等々、河音のいわゆる「周辺種族」に相当すると思われる非農業民の、素朴で力強く、しかも切実なその苦悩の声が、われわれの心に届いてくるのではなかろうか。 ときに、大江匡房のような人からは「雖逢行人旅客、不嫌一宵之佳会」といわれ、そうした「文明」の汚濁が彼等に及んでいたことは事実としても、こうした人々自身の生活のなかに入ってみれば、そこにはなお、未開で健康な、本源的な秩序が生き生きと命脈を保っていた、とみることはできないだろうか。 河音のいう「平等−正義」観の問題を、私はこのような方向でさぐってみたく思っている。
    (《第一部 百姓 付論1 河音能平『中世封建制成立史論』をめぐって》P.144〜145)


    ・・・大山はここでも同じく歴史地理学的な手法によりつつ、一井谷の村落と耕地を復原、「溜池をともなう灌排水設備の村落的規模による確保と整備を軸とした改良耕地の造成」(二四七頁)の様相を鮮やかに解明したのち、そうした村落を背景に鎌倉末期に成立した百姓請の分析を通じて、村落の共同体結合の強さ、共同体の機能の大きさを、まず強調している。
     この百姓請が、預所と対決した一井谷の百姓の場合に成立し、屈伏した西田井村で不成立に終わったことを、具体的な経過を通じて明らかにしたのち、預所を追放・失脚させた一井谷百姓の行動理念は、決して反荘園制的意識に基づくものでなく、荘園領主−百姓関係のあるべき理想像こそがこの抵抗を支えていた、と大山は指摘する。
     そのうえで、大山はこの百姓の動きを指導した沙汰人、貞清名主右馬允家安の人物像を浮き彫りにしたのであり、村落の小さな領主の顔をもち、家父長原理で結集する武力集団をもつ反面、抵抗する百姓の顔をあわせもつ家安の行動様式を見事に明らかにしたのである。 本書に収録するに当たって、大山がこの家安の節に「村落領主」という題を付したことからも知られるように、まさしくこれが大山の村落領主論の出発点であった。
     そして「むすび」で、畠地についてはともかく、田地所有における百姓の権利の不安定さを強調し、百姓の意識の変革、荘園領主による呪縛からの解放の道を探ることを課題としようとする大山の文章には、石母田の『中世的世界の形成』にも似た一種の高揚がみられるのであり、大山の理論体系は、いよいよその骨骼を固めはじめたのである。
    (《第一部 百姓 付論2 大山喬平『日本中世農村史の研究』をめぐって》P.164〜165)


     江戸時代、手工業者を指す語として広く用いられた「職人」という言葉が、どのような経緯を経て成立したかについては、意外に鮮明ではない。 すでに石田尚豊・町田和也も指摘しているように、『東北院歌合』から『七十一番職人歌合』に至る、いわゆる「職人歌合」の詞書についてみても、「職人」という言葉は現われないのであり、「道々の者」「諸職諸道」の語が使われている。 それ故、町田が「職人歌合」は「諸道歌合」とよぶべきであるとしているのは、決して理由のないことではない。
     しかし明らかに手工業者を指す「職人」の語の用例は、十三世紀後半から十四世紀にかけて、文献に現われる。 管見の限りでは『東宝記』(第二、仏宝)中の塔婆の項にみえる弘安八年(一二八五)に造り終えた塔の升形に書された修理(しゅうり/すり)大工鍛冶(かじ)大工鋳師大工瑩師大工丹塗大工塗師大工などの署名に「南方西間職人」とあるのが、 当時の書ならば、最も早い例であるが、「東寺執行日記」貞治三年(一三六四)四月十四日条「当寺番匠(ばんじょう)、鍛冶大仏師畳差以下職人」とあるのが、その確実な例で、これ以後こうした用例は、文書・記録に散見する。 恐らくこの用法は鎌倉末期に遡り、戦国期にはほぼ定着したものと思われる。 そしてこの場合の「職人」の「職」が平安末期以後、鋳物師(いもじ)がしばしば「所職の業能」とか「其職を停廃し」とかいい(『真継文書』)、大歌所十生(としょう)が「止むことなき厳重の職」「人数限りある職」(東洋文庫蔵『弁官補任紙背文書』)などといった時の「職」につながることは間違いない。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.182〜183)


     こうした職能の世襲の淵源は、恐らく律令制以前のいわゆる氏姓制度にまで遡りうると考えられ、日本列島西部の社会の体質に触れる問題がそこに横たわっているのであり、もしもこの志向が社会に貫徹したならば、まさしくカースト制に比べうるような事態が現われたに相違ない。 確かに江戸時代の家元制度や、被差別部落が制度として固定された事実などは、社会の中にこうした傾向が根強く作用していたことを物語っているが、先の多胡辰敬が一方では祖父の代から博奕をやめたことを強調している点からも知られるように、日本の場合、それが社会をまったくおおいきることはなかったのである。 そこには「芸能」をそれとして重んずる風潮の作用のみならず、東日本に西国 の王朝国家とは異なる型の国家が存在したこと、さらには再三にわたる動乱な ど、さまざまな要因が考えられなく手はならないが、これについてしすべて今 後の課題とするほかないので、ここでは、佐藤が先に「営利」といった「職」 の特質を、「職人」に即して、次に述べてみることとしたい。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.186〜187)


     佐藤は「職務の執行によって、予定された収益の取得が実現される」点を「営利」と表現したのであり、これは得分権としての「職」に相当するが、こうした「職」の体制の成立は、もとより体制そのものの力に多少とも依存しているにせよ、ともあれ自力で得分の取得をなしうる自立した同族集団の存在を前提としている。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.187)


     そして上級の「職」の場合、その得分は主として荘園・公領を基礎としており、「職人」の場合もさきに触れた通り、給免田がその一つの源泉になっていることは事実であるが、「道々の者」の給免田は、荘官・在庁官人に比べて狭小であり、職種によって、給田を与えられていない「職人」もあった。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.188)


     その職能に即した「営利」は、中世前期の「職人」の場合、やはり「諸道細工人等、身の芸能に就きて色々の私物を売買交易せしむるは、これ定例なり」(『真継文書』)などといわれたように、その「芸能」を通じて生産・入手した「私物」を売買交易することによって行なわれたのである。 こうした交易は、各地の市や「職人」自身の「売買屋」で行なわれたが、自らの「芸能」そのものを、注文主の作業場で行使することによって、「禄物」などを得るのも、広義の交易とみてよかろう。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.188〜189)


     そして、こうした活動形態に即して、中世前期の「職人」を広域的な遍歴を常態とするものと、注文主の職場での仕事をもっぱらにし、比較的限られた地域で活動するものとに、一応、大きく分類することができる。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.189)


     前者の型の「職人」としては、別の機会に詳述したように、鋳物師檜物師(ひものし)・櫛造(くしづくり)・生魚商人から傀儡(くぐつ)・博打など多くの事例をあげることができよう。 商工未分離で、なお需要の少なかったこの時期には、多くの手工業者・芸能民は、自らの「芸能」そのもの、その製品を売買交易するため、五畿七道諸国を往反しなくてはならなかったのである。 もとよりその範囲は多様であり、廻船鋳物師のように、鍋・釜・鍬(くわ)・鋤(すき)などの製品や打鉄・熟鉄などの原料鉄をもち、畿内を起点に瀬戸内海を経て九州に、あるいは山陰・北陸に廻り、琵琶湖を経て淀川に入る広大な水域を変遷する集団もあるが、女性の多かった生魚商人の場合は、おそらく畿内とその周辺の範囲にとどまったであろう。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.189)


     こうした遍歴は、単に市場での交易だけでなく、鋳物師の場合、原料鉄をもち、遍歴先で小さな作業は行なったのではないかと思われる。 この点は貴族などの招きに応じて「芸能」を演ずる桂女・遊女・傀儡の場合も同じであった。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.189)


     一般的に「職人」は、年貢・公事などの平民に賦課(ふか)される課役の免除を保証されているが、このように遍歴を主とする「職人」にとって、関渡津泊における津料・関料などの交通税免除は、生活そのものの要求であった。 しかし、西国において、交通路に対する支配権を保持し、諸国往反の自由を保障しえたのは、中世前期には天皇であり、自ずとこうした「職人」たちは供御人(くごにん)の称号を与えられる事を求めたのである。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.189〜190)


     一方、番匠とともに姿を現わす鍛冶は、刀鍛冶ではなく、釘などを製作する鍛冶であるが、弘長三年(一二六三)大和の鍛冶本座が左右合わせて三十六人いたことを確認できるように(『醍醐寺聖教紙背文書』)、鋳物師よりも数が多く、また給免田を保証されている事例も、番匠とともに広く見出せるのである。 また、中世の平民百姓の財産目録をみると、鍋・釜・鋤・犂(すき)など、鋳物師の供給した鉄器のほか、鍬・金輪のように鍛冶が関わった可能性のあるものもみられるが、これも鋳物と考えられないわけではない。 とくにがまったく百姓の財産の中にみられない点に注目すべきで、鎌の消耗率の高さによるものとすれば、かなり日常的な鍛冶による供給を考慮に入れなければこの事実を理解することはできないであろう。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.191)


     周知のように、江戸時代、鋳物師が偽作された蔵入所牒、木地屋が偽綸旨をその特権の保証とし、前者が近衛(このえ)天皇、後者が惟喬(これたか)親王に、職能の起源を結びつけていること、 桂女が神功(じんぐう)皇后に、各地の被差別部落が醍醐天皇に関わる由緒書・巻物をもち伝えていることなど、近世の「職人」と天皇との関わりを示すさまざまな民俗は、もとより事実ではないが、まったく架空の創作ではなく、多くは中世後期に成立し、その根は中世前期にまで遡りうることを、知っておかなくてはならない(拙稿「中世文書に現われる「古代」の天皇」『史学雑誌』八五−一〇、前掲『日本中世の非農業民と天皇』所収)。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.193〜194)


     中世の「職人」の日常的・制度的な組織としては、まず「座」を考えるのがふつうである(豊田武『座の研究』吉川弘文館、一九八二年)。 しかし、さきの「職人」のニ形態に即してみると、単純にそれだけですませてよいかどうか疑問が残り、とくに後述する東国の問題を考慮すると「座」については、ひとまず西国に限定しておくのがよいと思われる。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.194)


     そのうえで、遍歴する「職人」について考えてみると、鋳物師の場合、平安末期から鎌倉初期にかけて、左右両方の灯炉供御人、東大寺鋳物師の三集団が、相次いで成立するが、この組織は「座」の形態をとっていない。 供御人の組織は、宮司側−−蔵人所側では蔵人所小舎人(ことねり)(鎌倉中期以降は小舎人の紀氏)が年預(ねんよ)となり、諸国に散在する鋳物師は番に結ばれて番頭に統轄され、その全体を左右両方の惣官が管轄し、年預に掌握される形をとっている。 東大寺鋳物師の場合、当初、年預の役割を果たしたのは勧進上人重源(ちょうげん)であったと思われるが、のちに左方供御人と融合してからは、年預紀氏・左方惣官の下に入ったと推定される。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.194)


     神人も同様で、祇園社に属した呉綿(くれわた)神人は沙汰者に統轄され、年預を世襲する執行一族によって支配されていた。 この神人が南北朝初期までに「本座」を構成し、康永二年(一三四三)、 同じ執行一族の別の人を年預とする「新座神人」と激しく争ったことはよく知られているが、その際本座側が「新座と号するは、その座、何れの所が。散在商売に於ては、何ぞ座号あるべけんや」と新座を非難している点に注目しなくてはならない(『八坂神社記録』)。 これについてはさまざまな議論があるが、先の鋳物師の事例を考慮すれば、この発言を通して、散在し、遍歴をもっぱらにする「職人」の座が成立しにくかったことを知る事ができる。 一方、新座側はこれに対して、「座と号するは、まったく商売の座に非ず、神人の通名なり」と反論しており、これは「座」の形をとらないとしても、鋳物師などの遍歴する「職人」−−供御人・神人の組織が、それ自体、座的性格をもっていたことを物語っているともいえよう。 とすれば、「座」を形成するか否かは、「職人」の組織の本質に関わることではなく、遍歴・散在の範囲の広狭によるとみることができる。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.196)


     以上のような「職人」の日常的・制度的な組織に対し、作業を行なう際の非日常的・一時的な組織については、大河直躬がすでに明らかにしている通り、建築工の場合、番匠=木工において、もっとも発達した形をみせる。 大工引頭(いんとう)・(おさ)・(つれ)の組織がそれで、壁塗・石造などは、引頭あるいは長を欠いた不完全な姿であったが、鋳物師の場合も同様に完全ではなかった。 寛元四年(一二四六)の高野山奥院大湯屋釜の鋳替にあたっては、惣大工に十人の列大工。弘安八年(一二八五)に完成した東寺塔婆の場合にも、大工・引頭がみられるのみである。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.197〜198)


     大河は、ツレが踊りや邦楽を演ずる集団に残っていると指摘し、手工業者だけでなく芸能民にもこの組織形態が及んでいたことを示唆しているが、こうした観点から「職人」に共通した作業組織を探り当てることも、今後の問題であろう。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.198)


     しかしこうした各種の「職人」を一つの工事・作業に組織する役割を果たした勧進上人については、急速に研究が進みつつある。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.198)


     勧進聖の活動は平安後期から各地に見出すことができるが、鎌倉時代に入ると、東大寺の重源、東寺の文覚(もんがく)、高野山の鑁阿(ばんな)など、その活動は大規模かつ積極的になってくる(五味文彦「永観と「中世」」『国立歴史民俗博物館研究報告』第二集、『院政期社会の研究』山川出版社、一九八四年、所収)。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.198)


     鎌倉前期、これらの上人たちは、実際に遍歴して勧進を行なうとともに、造営料国や荘園の経営・開発に力を注ぎ、修造費の調達をはかっているが、鎌倉後期になると、勧進の体制化ともいうべき関所設定による通行税の徴収、棟別銭の賦課などの新方式が、広く行なわれるようになった。 各寺院はこうした上人を、大勧進・勧進方としてその機構の中に位置付け、修造事業を行なわせたのである。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.198〜199)


     これらの「職人」の中にも、広く各地を遍歴する人々がいたに相違ないが、その東国における通行権を保証したのは、幕府であった。 延慶三年(一三一〇)甲斐国大善寺修造のための信濃国棟別十文銭の賦課は、朝廷側の関与なしに、幕府の命−−関東下知状(げちじょう)によって指令されている(『大善寺文書』)。 勧進の転嫁形態である棟別銭を賦課することは、勧進上人の遍歴を保証するのと同じ意味をもっており、これは幕府が東国における交通路の支配権を掌握していたことを明証している。 また、恐らく文永末年、幕府は西国の緒関・河手を停止しているが、そこでとくに「西国」と限定されているのは、東国における関所の寺社への寄進が鎌倉公方によってさかんに行なわれている事実も、この推測を支えるものといえよう。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.203〜204)


     前述したように、西国の「職人」がその職能・特権の起源を天皇に結び付けているのに対し、東国の「職人」が、頼朝とのつながりを強調するのは、やはりこうした事実の背景があったのである。
    (《第二部 職能民 1 「職人」》P.204)


     一 職能民の形成
     平民あるいは農業民と異質な人々に対し、多少とも意識的な目が向けられはじめるのは、八世紀まで遡ることができよう。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.214)


     『万葉集』に海人や遊行女婦などをよんだ和歌が多数現われるのも、その先 蹤といえようが、『日本霊異記』になると、すでに注目されている通り、乞食、 浮浪する沙弥(しゃみ)や尼をはじめ、寺の銭を借りて越前の敦賀津に行って 交易する人、大船に荷を乗せて津々で交易する商人(中巻第二七)、瓜売の男 (上巻第二一)、花売の女(中巻第二四)、さらに酒や米・銭を出挙(すいこ) する男女など、多彩な非農業的な生業に従事する人々が、平民身分から離脱し た人々とともに姿を現わす。 律令国家の原則から逸脱したこけらの人々を、著者景戒(きょうかい)が全体 として肯定的にとらえていることも、周知のことであるが、ただここにはまだ、 職能をそれとしてとらえる見方は固まっていないといってよい。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.214〜215)


     また、しばしば引かれる九世紀末の菅原道真の漢詩「寒草十首」は、川口久雄が「平安社会の職人尽しであり、貧窮問答歌ともいうべき秀作」と称賛しているように、走還人波来人老騾人夙孤人薬圃人駅亭人賃船人釣魚人売塩人採樵人をとりあげ、それぞれの人の寒気の中での貧窮の苦しさを、国守の目から同情をこめて描いている。 このうち、前四者は一般平民と異なる立場に置かれた人々、後六者は非農業的な生業に携わる人々であるが、全体としてみると、やはり平民を基準として、そこから外れた、あるいはそれとは異質な人々に着目する結果になっており、『日本霊異記』の著者の目に通ずるものをそこに読みとることができる。 そしてそれがおのずと、川口によって「職人尽し」といわれたような形になっている点に注目しておかなくてはならないので、職能民に対する後年の貴族社会の見方の源流の一つを、この辺に求めることも可能であろう。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.215)


     中世前期まで、山野河海のかなりの部分は、なお人力の全く及ばぬ「無所有」の自然の状態にあり、人間にとって、畏敬・畏怖するほかない世界として、その社会に力を及ぼしていた。 自然の力に人間はなおかなりの程度圧倒されていたのであり、ときに社会に及んでくる猛威に対して、人々は多分に呪術的な意味をもつ神仏の力に依存するほかなかったのである。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.238)


     そうした、いわば「聖なる世界」と人間の社会との接点、境界が、海については浦・浜、川については河原・中洲、山については山根、あるいは峠・坂であったが、そのような場がすでに中世前期までに、さきにあげたような市、津、泊、関、渡、また道路、橋、宿、墓所、祭庭などとして人間の社会活動の中に組み入れられていたことはいうまでもない。 しかし、これらの場には、なお「無所有」の自然、神仏の力が強く投影しており、定住地として確保された田畠、在家等の場とは明確にその性格を異にしていたのである。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.238)


     このような場に、それぞれの性格に即した神−市神関の神渡の神等が祀られ、しばしば多くの寺院が集中して建てられたことは、その特質を端的に示しており、すでに証明されている通り、そこは垣根などによって囲まれた空間とは異なり、「穢(けがれ)」の伝染しない空間だったのである。 人間の活動のテリトリーになり、その領有の下に置かれた山野河海も、これとほぼ同じ性格をもつ空間だったといってよい。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.238)


     職能民の主たる活動、その生業の営まれた空間は、まさしくこうした「聖な る場所」だったのであり、神仏の直属民として職能民がとらえられた理由の一 つはここに求めることができる。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.239)


     例えば、古代以来、「聖地」である山林で修行した人々が、山野のもつ霊力を身につけた人として、畏敬、畏怖されたように、中世に入っても山野で活動する山伏、野伏をはじめ狩猟民や樵夫、杣人(そまびと)、そこで果実を採集し、木器の原料、さらには銅、鉄、水銀等の金属を採取する山民的な人々は、一般の平民百姓にとって、たしかに「恐ろしや」という畏怖の感情をも交えて「異人」ととらえられたであろう。 河海の場合も同様であろう。 漁撈民、鵜飼、廻船人、船人をはじめ山とも結びついた筏師等、海民、川の民もまた、同じように「異人」とみられたと思われる。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.239)


     これらの人々の中には、中世前期、かなりの広域を遍歴し、交易に携わる人々が多かった。 また、手工業に携わる人々の一部−鋳物師、轆轤師などや、狭義の芸能民−遊女、傀儡、白拍子、呪術的宗教者−巫女なども、周知の通り遍歴民であったが、道や橋、市などを含め、その活動の場も、みな聖地性をもっていたのである。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.239)


     そして山野河海や道、市等に即した儀礼をもつこれらの人々は、津、泊、浦、浜、渡や坂、峠など、その拠点を通過する人々に、神への初尾、初穂の貢献を求め、ときに神になり代わって、それを強要することもあった。 「山立」やのちの海賊の警固料などは、まさしくそれであり、山野河海−「聖地」のタブーを身につけた人々として、これは当然の行為と考えられていたのである。
    (《第二部 職能民 2 職能民の存在形態−神人・供御人制》P.239〜240)


     「芸能」の意味
     「芸」「能」という言葉は、それぞれに奈良時代から用いられているが、おおよそ十一世紀以降、「芸能」という熟語となって社会に定着し、現在まで長く通用する語となっていった。 しかし少なくとも十四世紀以前までの「芸能」は、いまわれわれの使っている芸能の語よりも、はるかに広い意味をもっていた。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.258)


     そのことを示す事例は、『新猿楽記』から『普通唱導集』にいたるまで、数多くあげることができるが、鎌倉時代の末に成立した百科全書『二中歴』の中に収められた「一能歴」に列挙された多くの「芸能」は、最もよくその範囲を示している。 この書は平安末期の「掌中歴」「懐中歴」の二書に基づいて編せられており、この「一能歴」も「掌中歴」では「芸能歴」とされているので、ここに揚げられた三十五種も、十世紀から十一世紀までの人々にとっての「芸能」であったとみることができるが、それを分類してみると以下のようになる。

    @官人(かんにん)的な職能 管絃(かんげん)、武者(むしゃ)、明経(みょうぎょう)、明法(みょうぼう)、算道(さんどう)、近衛舎人(このえとねり)、楽人(がくにん)、舞人(まいびと)、鷹飼(たかがい)、鞠足(まりあし)
    A技術的な職能 絵師(えし)、細工(さいく)、仏師(ぶっし)、木工(こだくみ)
    B呪術的・宗教的な職能 陰陽師(おんみょうじ)、医師(くすし)、宿曜師(すくようじ)、禄命師(ろくめいし)、易筮(えきぜい)、相人(そうにん)、夢解(ゆめとき)、巫覡(ふげき)
    C遊戯・芸能的な職能 囲碁(いご)、双六(すごろく)、散楽(さんがく)、遊女(ゆうじょ)、傀儡子(くぐつ)、相撲(すまい)、呪師(じゅし)
    D常人と異質な状況 勢人(せいにん)、徳人(とくにん)、良吏(りょうり)、志癡(しち)、竊盗(せっとう)、私曲(しきょく)
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.258〜259)


     才・道・職
     「芸才」「才能」などの熟語によっても知られるように「才」は「芸能」と密接に結びついた語であった。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.262)


     『宇津保物語』の学問について論じた佐藤厚子は、当時の貴族の若人に求め られたのが「学問」にも「遊びの道」にも秀でた「身の才」であったと指摘しつつ、 一方で、嵯峨院巻や菊の宴巻のいわゆる重複部分にみられる「才名(ざえな)のり」の形式を借りた座興に言及している。 それは、人長の役をつとめる正頼が「仲純(なかずみ)、何の才か侍る」とよ びかけると、仲純が渡守(わたしもり)の才なん侍る」と応え、正頼「いで、 つかうまつれ」、仲純「風早(かぜはや)のよや」と応答する形式で展開し、 宴に集まった貴族たちはそこで、渡守のほかに、山伏筆結(ふでゆい)、和歌鍛冶渡聖(わたりひじり)、樵夫(きこり)、藁盗人(わらぬすびと)の「才」を演じているのである。 佐藤はこうした「才」を、『新猿楽記』の「所能」、『普通唱導集』の「芸能」に通ずるものとしているが、まさしくこれは「才」の意義を的確にいい当てたものといえよう。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.262)


     このように、『宇津保物語』のころの「才」は、『二中歴』の「芸能」と同様、「学生(がくしょう)」としての学問、貴族の身につけるべき「遊びの道」から、鍛冶、筆結などの手工業の技術、山伏、渡聖のような遍歴する宗教民、そして藁盗人にまで及んでおり、佐藤の指摘する通り、それは「広く物や事を作り出す」「特殊な能力」を意味する語であった。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.262)


     平安末期から鎌倉期を通じて、「芸能」の働きそのものをさす語として使われた「外才(げざい)」も、本来の「内財」に対する「外財」が、この「才」と結びつき、「外才」という熟語として定着していったものと思われる。 しかし「外才」の場合、「外」に力点が置かれ、「外材細工等の類」、「凡そ外才の者、僧綱に任ずるの初となす」のように、「才」の中でも宮廷の「才」と比べて、より低い「才」をさす意味で用いられることが多く、やがて卑賤視される鉱夫などをさす「下財」の語に転化していく一方、音の類似から「芸才」にその意味の一部を吸収され、やがてそれ自体の意義も不明になっていったのであるが、その本義が「才」に基づいていたことは明らかといえよう。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.263)


     また、さきにあげた「遊びの道」をはじめ、明法博士(みょうぼうはかせ)について「道の才」などといわれているように、「道」もまた、「芸」「能」「才」と切り離し難く結びついた語であった。 そしてこの場合も、「芸能」「才」と同様、「文道」「兵の道」明法道明経道管絃道などのような貴族・官人的な「芸能」に即した「道」のある一方で、螺鈿(らでん)道木工道漆工道などの工人の「道」があり、それらを総称して早くから「道々の細工」の用例がみえ、さらに獅子舞(ししまい)、山伏、そして博打にいたるまでのそれぞれの「道」まで含めて、「諸道」「道々の輩」などとよばれることもしばしばみられたのである。 ただ「外才」と同じく「道々の輩」「道々の者」という用法は鎌倉期以降、貴族・官人的な「芸能」からはなれ、工人、芸能民に即して用いられることが多くなっており、そこに時代の推移を読みとることができるとはいえ、「道」が日本の社会における「芸能」のあり方を考えるうえでのキーワードであることは間違いない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.263〜264)


     さらにもう一つ、「職」という語がある。 これについても、一方に「武職」のような用法があり、他方には鋳物師について、「その芸能を営む」と「その職に居る」という言葉がほぼ同じ意味に用いられている事実が確認できることなどから、「芸能」「才」と同じ方向で考えていくことができる。 鎌倉後期以降、商工民、芸能民を含む語として頻出しはじめる「職人」「諸職」などの「職」がこの流れを汲んでいることはいうまでもなかろう。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.264)


     しかし「職」の場合はこうした用法にとどまらず、元慶七年(八八三)十二 月二十五日の太政官符で、郡司について、「件の職を譲る者あり」といわれて いるのをはじめ、平安後期以降、官司に関わる預(あずかり)職年預(ねんよ)職国衙在庁(こくがざいちょう)の税所(さいしょ)職田所(たどころ)職、 荘園の預所(あずかりしょ)職下司(げし)職公文(くもん)職名主(みょうしゅ)職、さらには寺社の別当(べっとう)職、神主職、神人職にいたるまで、 広く国制的な意味をもつ用例があり、それは「日本所有権法史上の基本概念」といわれ、 しばしば日本中世社会の基本的骨格として「職の体系」と定式化されるほどの意味をもっているのである。 実際、鎌倉期以降の「職人」の用例は、さきの用法と並行しつつ、荘園などの名主、 荘官(しょうかん)、下司、公文、田所、惣追捕使(そうついぶし)、図師(ずし)などをさす場合がむしろ多いのであり、 「職」の意味する処は決して単純ではない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.264)


     律令国家による職能民の組織
     「芸能」「才」「道」に現われているような職能民のあり方の特質は、 日本列島に出現した最初の国家、律令国家による職能民の組織の仕方にまで遡らなくてはならない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.265)


     七世紀後半から八世紀のごく初頭に確立したこの国家は、なお未開で呪術的な色濃い社会に、 畿内を中心とした首長層によって受容された高度に文明的で合理的な律令を接合させた、 いわば早熟な国家であった。 すでに春秋時代から「士農工商」の四民の分業が形成されていた中国大陸の社 会とは比べものにならないほど未熟な社会的分業の状況に対処しなくてはなら なかったこの国家は、櫛木謙周が具体的に明らかにしたように、職能民を品部(しなべ)、雑戸(ざつこ)、 雑供戸(ざっくこ)として官司に組織するとともに、中国の場合とは大きく異なり、 例えば染師挑文師(あやのし)、画師典革(てんかく)、太宰大工(だざいだいく)等のような職能官人を採用し、職能の育成、伝習を行なわせたのである。 しかもそうした職能官人が、しばしば一方で、天皇直属の舎人の称号をもっていたという、櫛木の指摘にも注目しておかなくてはならない。 こうした職能民の中には、歌女(うため)、縫女(ぬいめ)のような女性までが含まれていたのであるが、後年の職能民と天皇との関わりは、ここにその淵源の一つを求めることができよう。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.265〜266)


     それとともに、本来、神に捧げる初尾(はつお)である贄(にえ)を天皇に貢献する、 畿内の網曳(あみひき)、江人(えひと)、鵜飼(うかい)などの雑供戸をはじめ、 諸国の贄人の集団があり、また、陵戸、神賤のような神や聖なるものの「奴婢(ぬひ)」があったことも見逃し難い。 雑供戸、陵戸などとして、一部、律令制に関わっているとはいえ、 基本的には令制の外に置かれていたこれらの人々、 とくに世俗の奴婢とはその実態が全く異なる「神の奴隷」ともいうべき人々のあり方については、 まだ十分に明らかにされているとはいえない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.266)


     しかし、恐らくこれは、「神聖王」ともいうべき、より未開な王権、国家に広く見出される「隷属」の形態の一種であり、この国家、天皇の未開な側面を端的に示すものと思われるが、それがやはり後の職能民のあり方を規定することになっているのである。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.266)


     天皇・神仏に直属する「道々の輩」
     このように、十一世紀以降、多様な職能民集団は各々の来歴、立場に応じて、天皇や神仏の直属民となり、その中の主だったものは供御人・神人・寄人などの称号を与えられて活動してたいのであるが、そこに、「芸能」「才」そして「道々の輩」に対する当時の社会のとらえ方の本質が端的に現われている。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.271)


     十五世紀以降の、例えば世阿弥の『花伝書(かでんしょ)』などにみられるような「芸能」を身につけるための修業の道筋は、まだここでは示されていない。 十四世紀以前の「芸能」「才」は、工人の技術をも含めて、大西広が広い目配りで蒐集したような、それにまつわる伝説でいろどられており、それ自体、神仏の選択、援助、示現(じげん)、神仏によって授けられた霊感、霊力によって得られるものととらえられていた。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.271)


     職能民自身もそのように「自覚」していたのであり、それ故、職能民は多様な意味での、自らの「芸能」の営みの初尾、初穂(はつほ)を、まず神仏に捧げたのである。 天皇に対して供御人の奉献した「上分」も、また全く同じ意味をもつものにほかならない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.271)


     広義の「芸能」であった交易=商業や出挙(すいこ)=金融も、神仏との関わりではじめて行なうことができた。 これについてはすでに別に詳述したので、ここでは立ち入らないが、贈与互酬による人と人、人と物の関係を断ち切る神仏と世俗との境界の場、市庭において、商品交換ははじめて可能だったのであり、金融もまた、神物としての初穂の貸与、出挙に源流をもつ神物・仏物である「上分物(じょうぶんもつ)」の貸与の形をとることによって、社会の承認を得ることができたのである。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.271〜272)


     さらに職能民の遍歴する山野河海、道路、津泊、浜浦が、市庭と同様の境界領域、私流にいえば、「無縁(むえん)」の場であったことも、その背景に置いて考えなくてはならない。 「道々の輩」、多様な遍歴する職能民を、天皇・神仏などの人の力をこえた存在に仕える「奴婢」、聖別された人々と社会がとらえ、王朝国家が十一世紀後半以降、これを神人・供御人制として制度化した理由は、おおよそこのようなところに求めることができよう。 そして、こうした「隷属」の仕方は、贄人・神賤の流れをくむものであり、その限りにおいて、この時期の天皇はなお神聖王としての一面をもっていたといわなければならない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.272)


     ただここで限定を付しておかなくてはならないのは、さきにもふれたように、これは日本列島の中で、畿内・西国−沖縄を除く西日本の社会における職能民に対する見方、制度であり、東国−北海道を除く東日本においては、こうした職能民のとらえ方は希薄のようで、神人・供御人制もほとんど作動しなかったという事実である。 職能の請負・世襲についても同様であり、荘園公領制における「職の体系」も、東国では実質的な意味をもっていない。
    (《第二部 職能民 3 中世遍歴民と芸能》P.272)


     二 北陸道諸国の大津神人
     〔越後〕建仁二年(一二〇二)六月日、日吉社大津左右神人等解は、「在国神人解」に応じ、越後国豊田荘地頭開瀬義盛の神人にたいする狼藉を激しく糾弾した。 それによると義盛は神人清正を搦(から)め取り、禁誡を加え、科料を行ない、住宅を封納し、所持する神物を追捕(ついぶ)しただけでなく、清正の私宅に嫡男開瀬太郎を据え、そのうえ「山王三聖御正躰」を奪って破損し、泥中に踏み入れ、三十余人の神人等を刃傷、凌轢(りょうれき)するという甚だしい濫妨(らんぼう)を行なった。 しかも義盛は神人を縄で縛り、「竹綱」を差して鎌倉に連行した、というのである。 この濫妨を列挙し、義盛が罪科に処されないならば神事を停めるという姿勢を示しつつ、「日本者神国也、神克護国之故也」と強調したこの解に、左方長者散位藤原有賢をはじめ筑前権介藤原則貞等七人の左方神人、右方長者散位文屋通貞をはじめ前右京進大江貞資等六人の右方神人は連署して本社にこれを進め、座主の政所を経て院に上奏してほしいと訴えた。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.296〜297)


     この訴訟の結果は不詳であるが、越後国に大津神人の「在国神人」が三十余人いたこと、「北陸道神人」とよばれる大津神人の組織があったこと、この人々がその私宅に「山王三聖御正躰」「神物」を保持していたことなどの興味深い事実を、この解によってよく知ることができる。 そして東大寺領であった豊田荘が、東と北を「佐々木河」で限られ、段別五斗の官物米、町別五両の綿を、越前の敦賀津に石別一斗の船賃で送進する荘園であったことからみて、この「在国」の大津神人が、現在の新潟東港を中心とする海辺の津・泊に根拠をもち、恐らくこうした年貢物の輸送にも携わった廻船人であったことは、前述した大津神人のあり方、後述する若狭の神人のあり方からみて、推定してまず間違いないと思われる。 しかし越後の大津神人は決して豊田荘のみにいたのではなかった。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.297〜298)


     仁治二年(一二四一)六月十日の法橋庄円奉書−−名越朝時書下は、越後府中の神人が神役に随(したが)わぬことを訴えた大津左右方神人長者等の申状をうけて、神人が社役を勤仕すべきこと、万雑公事は先例によるべきことを「越後守護中務大夫」に充てて命じている。 この長者等の申状に「在家注文」が副えられていた点からみて、神人の在家は平民百姓の在家と区別されており、社役も在家単位で賦課されたものと思われる。 そしてこのように、直江津を国津とする越後府中にも大津神人の在家があったことは、これを廻船人とするさきの推測をさらに強く支える事実で、大津神人の在国神人は越後各地の津・泊に散在し、廻船に従事していたとみてよかろう。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.298)


     ただ、こうした神人の社役懈怠(けたい)が長者等によって名越氏に訴えられたのは、名越氏が越後の国務、守護を併有していたこと、問題の神人の在家が府中に所在していたこと、神人の社役懈怠の一因に守護による「万雑公事」の賦課があったことなどに理由があるものと思われるが、これは一面で、大津神人の北陸道における組織が、国主、守護の保証を得ることによって成り立っていたことを示すものといわなくてはならない。 保元新制以後、神人交名(きょうみょう)を諸国に作成、注進させた公家、それを継承した鎌倉幕府による諸国神人の統制のあり方を、ここにうかがうことができる。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.298)


     〔越中〕『本朝世紀』久安五年(一一四九)三月二十日条によって、日吉社が越中国で神人を殺害した者を訴えていることを確認しうる。 この事実と、さきの保延の明法博士勘文に、日吉上分(じょうぶん)米を借りた「元越中国府官・田堵等」が見出されることをあわせてみれば、越中において大津神人が活動していたことは間違いないといってよかろう。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.299)


     〔能登〕建仁元年(一二〇一)七月二十五日、日吉神人が能登国目代の濫行を訴えていることからみて能登におけるその活動は明らかであるが、貞応三年(一二二四)十月一日の熊来(くまき)荘の立券文に、免在家として熊甲宮十九宇、賀茂宮神主一宇と並んで、日吉社右方神主一宇のあることに注目しておかなくてはならない。 この荘の中に多気志、長前、深浦、志賀浦など、「塩釜」をもつ浦があった点、この免在家が「神主」のそれといわれているとはいえ、「右方」という呼称から考えて大津神人とみられること等に着目すれば、この神主−−神人も越後の場合と同じく、廻船に関わりをもつ人と推定してよかろう。 また、荘園・公領の公的な文書に神人の在家が「免在家」として現われることも注意すべき事実といえよう。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.299)


     また、日吉社領に神人がつねにいたとは必ずしもいい難いが、文永十年(一二七三)十一月十四日の関東下知状に、日吉社領掘松(ほりまつ)荘の地頭が、領所下人が彼岸の日に漁をしたとしてその船を押え取ったといわれており、ここにも漁撈−−海と関わりのある神人のいた可能性は十分にあるといってよい。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.299)


      二 墓守の増加とその活動
     『略記』によると、多武峯墓守の数は十一世紀後半、藤原頼道の時代に、「東西諸郡御墓守員数百八十人」と、一躍、十倍に増加し、近衛基通が摂政であった一二世紀末には、「御墓守七百余人」とさらに激増、その増加はついに政治問題になるにいたっている。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.320)


     このような墓守の急増が、十世紀後半から、例えば『小石記』永観二年(九八四)十一月八日条や『御堂関白記』寛弘元年(一〇〇四)九月二十五日条などのように、記録等に頻出するようになる多武峯の墓山の鳴動、怪異、それに対する藤原氏の人々の畏敬、尊重を背景にしていることはいうまでもない。 こうした怪異が注進されると、藤原氏の貴族たちが物忌を行なっているのも、よく知られたことである。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.321)


     それとともに、九世紀半ば、嘉承元年(八四八)に峯にのぼり、貞観五年(八六三)の官符による「伐木・飼畜・埋屍」の厳制、同六年の四至確定、同七年の「供料田戸」の設定を経て検校となり、寛平六年(八九四)の詔で「師資相伝、可検校御墓守」とされた延安、そのあとをうけて、十世紀前半の天暦年間、仁王会、大師講などの法会を創始し、多武峯を延暦寺の末寺とした実性、さらに講堂をはじめ法華三昧堂等の堂塔を整えた増賀などの寄与により、多武峯が山門に結びついた強力な寺院として形をなしていったことも、墓守の増加に拍車をかけたとみてよかろう。 それは十一世紀後半ごろから、畿内を中心に進行する供御人、神人、寄人の急増と全く軌を一にする動向にほかならない。 そしてこのようにその数を増した墓守の活動は、このころから頻発しはじめる興福寺と多武峯の衝突の中で、にわかに顕著なものになってきたのである。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.321)


     これらの事実を前提に置いてみれば、応安七年(一三七四)十月十九日の後 円融天皇綸旨が、洛中苧(からむし)駄別課役についての「御厩方」の違乱に 関わる三条公時の訴えに対し、その妨を停止すべしと西園寺公永に命じている 一方で、庚暦元年二月三日の同天皇綸旨が同じく公永に充てて「七口万雑公事」 を免除し、他の妨なく領知を全うすべしとしているのは、いずれも院御厩別当 として「御厩方」を管掌する公永の立場を示すとともに、その下で商売課役を 賦課し、交易に携わっていた厩寄人の活動に関連して発せられたものであるこ とは確実といってよい。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.361〜362)


     以上によって、少なくとも十四世紀以降、「御牧住人」ともいわれ、天皇家・ 院・摂関家等の厩に属した居飼を含む厩寄人が、一方で関所料及び合物などの商品の交易に関して、 駄別課役を徴収するとともに、交易に携わり、 さらに商売課役の賦課を苧にまで及ぼそうとしていたことを知りえたのである が、これは馬借の活動そのものといって間違いないのではなかろうか。 たとえ、厩舎人・居飼と馬借とが完全に重ならないとしても、その間に不可分 の関係があったことは確実である。
    (《第二部 職能民 4 神人・供御人》P.363)


     実際、中世の百姓が田畠を耕作する農業民だけでなく、多様な生業に従事す る人々を相当の比重で含んでいた事は、前述したように田地に賦課された年貢 が米だけでなく、絹、布、塩等の多彩な物品であった事実によってみても、ま た、いま述べた通り、田堵、網人、海人が等しく「百姓」とされた点を考えて も明らかといえよう。 それ故、塩や鉄などを年貢としている百姓は、たとえ僅かな田畠を耕作してい たとしても、それは「副業」で、海民、製塩民、製鉄民ととらえる必要がある。
    (《むすび》P.400)


     それだけではない。 十一世紀後半から十三世紀前半にかけて確立する荘園公領制の個々の単位である荘、 保、郡などに対して行なわれた公的検注は、単に田地、畠地、在家のみにとどまらず、などの樹木、さらにはもその対象としていた。 そして桑・漆・柿はその本数が数えられ、桑には本別に桑代、漆・柿にもそれぞれ本別に現物の漆・柿が賦課され、栗は栗林として町反歩の面積が検注されて、反別の栗地子が徴収されていたのである。 おのずとこれらの樹木については、荘・郷などではそれぞれに検注取帳が作成されて目録にその結果が記載され、恐らく国衙にも、田地の大田文、畠地の畠文、在家の在家帳などのように、各々の台帳があったと推定される。
    (《むすび》P.400)


     従来、これらの樹木については、ほとんど注目されず、研究もきわめて少ないといってよいが、 による養蚕、綿の生産、漆を用いた漆器の製作、柿の果実、さらに柿しぶの利用、栗についても搗栗(かちぐり)などの堅果だけでなく、その材木としての活用など、百姓の生業・生活のうえできわめて重要な意味をもっていた。 就中、養蚕、糸・綿・絹の生産は、百姓の女性が独自に担っており、その売買、交易も女性によって行なわれたのである。 そして桑の栽植と養蚕、絹の生産は遅くとも弥生時代には確実に開始されたといわれている。 とすると中世にいたるまでに、列島の全域にわたって、ふつうの女性たち、百姓の女性たちは、すでに千五百年の長きに及ぶ技術の蓄積を身につけていたことになる。
    (《むすび》P.401)


     また、栗と漆の栽培と、栗の材木による家屋などの構築物の建造と漆器の大量な生産とが、縄文時代に遡ることは、近年の発掘成果によって証明されているが、そうだとすれば、中世の百姓によるその「在家」−屋敷などの建築や、漆の採取、それを用いた雑器の生産は、すでに五千年をこえるきわめて根深い技術的伝統に支えられていたのであり、柿の活用についても恐らく弥生時代までは遡ると思われる。
    (《むすび》P.401)


     「アジア的」社会では君主のみが自由だった。 とよく言われてきた。 「聖なるもの」への初穂料としての意味をもつ「上分」という負担は、それが収受された後も、神物・仏物という本来の特質に制約され続けたのであって、その使途はけっして支配者の恣意のままにならなかった。 網野は言う。 「人間はけっしてなの理由もなしにその労苦の結実を他者の手に渡しはしなかったのであり、支配者の手に渡った後も、かれらの生活を通して、支配者を縛りつづけていた」。 精度は、人々の「納得」の上に成り立つものであり、そう納得せしめた、普遍性を示す社会の仕組みの一端に人々がつながり続けている限り、支配者を縛り、律することもできる。 「平民」もまた「自由」なのだ。 「平民」は、目的語ではなく、主語なのである。
    (《解説−人間解放の歴史認識−人の営みに寄り添って常識を超える 和崎春日》P.424)


     日本中世で西国にあたる王朝国家において課役を免除されたものを「神人(じにん)」と呼んだが、この王直属の「神人」の地位に、日本列島の外から渡来、移住した「唐人」が続いている。 網野がすくいあげるこの事実の指摘は重い。 技術をもつ者は、どこに行っても食べていける。 職人のもつ外国人性は、とかく異人排斥の差別意識を生みやすいとされるものだが、それは「反発」「ねたみ」の結果とみるべきで、もとより唐人や交易がもつ異域性が「聖なる自然性」への崇敬とつながっているのである。 ここで、神仏の直属民としての「職能民」の位置づけが確認されるだろう。 また、王権にしてみても、多様な異なる文化や技術を取り込んでこそ、その組織は生産面でも軍事面でも、より強く大きいものになっていく。 王朝は、職能民を「聖なる者」として供御人に取り込むことによって、王家の家産経済の増大のみならず、天皇直属の軍事力の強化を図っていったのである。
    (《解説−人間解放の歴史認識−人の営みに寄り添って常識を超える 和崎春日》P.426)




    【関連】
    [抜書き]『東と西の語る日本の歴史』
    『馬・船・常民』・・・Coming sooner or later(^^;





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