[抜書き] 『東と西の語る日本の歴史』


『東と西の語る日本の歴史』網野善彦・講談社学術文庫
2005年3月18日 第19刷
    目次
    学術文庫版まえがき
    一 はじめに
      くらしのなかの東と西    単一民族説への疑問    ゆがめられた日本史像    地域への視点   
    二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違
      二大方言の対立    人口の移動    習俗の相違    イエとムラ   
    三 考古学からみた東と西
      石器の語る東と西    縄文(じょうもん)の地域差    弥生(やよい)の東進と縄文の抵抗    古墳の拡大   
    四 古代の東国と西国(さいごく)
      大和と西日本    大和と東国−統合と自立−    「通説」への疑問    古代東国の役割    西の海と船、東の弓と馬    東国と東北の「蝦夷(えみし)」   
    五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」 (●「人」偏(ニンベン)に「就」)
      「海賊的武者」と西日本    「弓射騎兵型武者」と東日本    東国の製鉄   
    六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)
      「東国の乱」    西国の海賊    「本天皇」と新皇将門・海賊純友    東国人の二つの道−自立への志向−   
    七 源氏と平氏−−東北・東国戦争と西海の制覇−−
      「鼓を打ち、金を叩いて」    「亡弊の国」−東国の叛乱−    東北の国家−東北人の二つの道−    東北・東国戦争−東の源氏と東北の藤原氏−    「海賊的武者」の主−西の平氏−   
    八 東国国家と西国国家
      平氏と西国国家への道    西国国家の基盤−海の道−    海民の世界    西国国家の海洋的性格    源氏と東国自立路線    西国国家機構創出の試み    義仲と「北国政権」    東国国家の「日本国」支配   
    九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西
      「おやもうたれよ子もうたれよ」    荘園・公領の単位と規模    年貢−東の絹布、西の米−    東の畠作、西の水田   
    十 イエ的社会とムラ的社会
      東の豪族的武士と西の中小武士    人間・社会の関係−タテの論理とヨコの論理−    西の「機能国家」と東の「主従的国家」   
    十一 系図にみる東西
      女系系図の世界    男系系図の世界    東西、婚姻のかたち−統合と拒否−   
    十二 東は東、西は西
      東国自立への模索    東国の勝利と御成敗式目(ごせいばいしきもく)    二つの国家、二つの都    モンゴル襲来と東西関係   
    十三 東と西を結ぶもの
      東と西の交流    海の道    陸の道と山の道    東国武士の西国移住    諸地域の対立と連合−東国・九州と西国・東北−    東アジアのなかで   
    十四 東国と九州、西国と東北
      飛礫(つぶて)と騎馬武者    東国・尊氏(たかうじ)・九州−西国・後醍醐・東北    直義と尊氏・師直(もろなお)の対立    諸地域の出現−中国と四国−    山の民、海の民    日本海沿岸地域と「倭寇(わこう)」(12/10/05転記訂正)    東西の結びつきと対立   
    十五 東の文化と西の文化
      東国国家と日光    元号(げんごう)と叙位任官    祭祀・年中行事の体系    花押(かおう)の東西    「関東八州国家」と後北条氏    印判と書状の様式    東西の里制    東西、都市の形成−渡・津・泊・市・宿−    「職人」と地域の意識−東の馬・西の船−    天皇と頼朝−「由緒」と特権−    九州の「職人」と頼朝    西国と朝鮮半島    東国・西国戦争−関ケ原から「鎖国(さこく)」へ−    江戸時代の東と西    日本史学の二潮流    現代の東と西−新たな日本人像を求めて−   
    あとがき(原本)
    解説 山折哲雄
    索引


     まず「日本」「日本人」について、本書はまことに不用意な使い方をしている。 すでに周知のように、古代史研究者の大方の見方では、「日本」の国号が公式に定められたのは、「天皇」の称号と同様、七世紀末、浄御原令(きよみはらりょう)と考えられており、とすると、それ以前に「日本」も「日本人」も存在しなかったことは、最近、別の機会にしばしばのべてきたように明らかである。 「倭国(わこく)」と「日本国」とは異なり、「倭人」と「日本国」の人としての「日本人」とは重なる部分はあるとしても、本書でのべた「東国人」の大部分、とくに「東北人」は間違いなく「倭人」ではない。
    (《学術文庫版まえがき》P.4)


     さらにその呼称も、東北日本海沿岸地域の「らく」、加賀・能登・越中の「藤内」、山陰の「鉢屋」、近畿・瀬戸内海地域の「かわた」、関東の「林守」「野守」など、地域によってさまざまであった。 また、「非人」は本来、決して賤称ではなく、中世前期までは神人(じにん)の呼称を持って畏(おそ)れられる存在であり、やはり神仏の直属民であった「河原細工丸」に対する明確な差別的呼称として十三世紀末に初めて見られる「穢多(えた)」は、中世においては、京都周辺の一部に用いられるのみであったと考えられる。 十七世紀後半、江戸幕府が被差別部落を制度化したさいに「穢多」「非人」の呼称を用いたため、これが全国的なものと考えられてきたが、それが誤りであることはすでに明白といってよい。
    (《学術文庫版まえがき》P.7)


     くらしのなかの東と西
     もう一つ印象深いのは正月の魚である。 私は例によって鮭(さけ)を食べるものと思っていたところ、 遊びにきた近所の人に「なんであんたのところは鰤(ぶり)を食べんの」といわれ、 だいぶ以前に読んだ宮本常一(みやもとつねいち)氏の著書に、正月の祝いの魚に、サケやマスを用いる地域と、ブリを使う地域とがあり、それがほぼ東日本と西日本に対応している、とあったのをあらためて思い出した (宮本常一著作集24『食生活雑考』一九七七、未来社ほか)。 宮本氏はそのほかにも、醤油と味噌の関係や、餅(もち)の形の四角い東と丸い西などなど、大変面白い指摘をしているが、私はこのとき、名古屋はやはり西日本なのだなと考えた事を覚えている。
    (《一 はじめに》P.20〜21)


     二大方言の対立
     こうした東西方言の対立の歴史はきわめて古い。 すでに戦国時代、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)が「京へ筑紫(つくし)に坂東(ばんどう)さ」という地域的特徴をその日記に記したことは有名であるが、 ポルトガル生まれの耶蘇(やそ)会士ジョアン・ロドリゲスが著(あらわ)した『日本大文典』にも、三河(みかわ)から東の地方では物言いが荒く鋭いとか、さきの「白ウ」に対する「白ク」、「買(こ)ウタ」に対する「買(か)ッタ」など、東国方言の特徴に注目しているのである。 四百年も昔の言語の特徴が、現代まで生きつづけていることは、これによって明らかであるが、それは多少の違いはあれ、奈良時代、一千年以上前までさかのぼれる。 つまり『万葉集(まんようしゅう)』に収められた東歌(あずまうた)、防人歌(さきもりのうた)によってそれを知ることができるのである。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.36)


     大野氏は、当時アヅマとよばれていた東国を三つに分け、第一のアヅマを現在の関東・東北地方、すなわち箱根より東、第二のアヅマは甲斐(かい)・信濃(しなの)・駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(山梨・長野・静岡県)、第三のアヅマは飛騨(ひだ)・美濃(みの)・尾張(おわり)・三河(みかわ)(岐阜・愛知県)とする。 そして、「トリガナク」(鶏が鳴く)というアヅマの枕詞(まくらことば)自体、東国の発音が都と違っていたことを物語るが、第一のアヅマは「イヅチ」(何方)を「イヅシ○」とし、「ツキ」(月)を「ツク○」といい、命令形の下に「起キロ」のように「ロ」をつけるなど、濃厚な方言区画をなし、第二のアヅマも、命令形の「ロ」を使うだけで鳴く、「オモ」(面)を「オメ○」というように、エの母音とオの母音との区別が明瞭(めいりょう)を欠いていたと指摘(してき)している。 第三のアヅマについては資料はないが、東国的特色は多少とも存在したのであろう。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.36〜37)


     習俗の相違
     最近、日本人を水稲耕作(すいとうこうさく)民族とのみ考える通説に対し、 さまざまな角度からの疑問が提出されているが、 『イモと日本人』(一九七九、未来社)という興味深い著書を発表された坪井洋文(つぼいひろふみ)氏もその一人である。 坪井氏は正月に餅(もち)をつかず、むしろ餅を食べるのを忌避(きひ)する民俗−「餅なし正月」の民俗が広く各地に分布しているのに注目、それを詳(くわ)しく調査した結果、こうした正月を祝う人びとは、ソバ・アワ・マメなどの雑穀(ざっこく)、イモ・ダイコク・カブなどの畠作物(はたさくもつ)をその年の幸福や豊作の象徴としていた事実を明らかにし、その根底に焼畑農耕(やきはたのうこう)があったことを指摘した。 そしてサトイモ・ヤマイモを正月の行事の中心におく地域の分布を、本間(ほんま)トシ氏の分布図などによりながら分析、それをさきの大野氏の言語における東西の相違、さらに江坂輝弥(えさかてるや)氏の考古学の立場からみた東西の区分(『日本文化の起源』一九六七、講談社)などと重ね合わせ、とくにヤマイモを重んずる地域が、大野氏のいう第一、第二、第三のアヅマ−東日本に対応している点に注目している。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.41〜42)


     また民俗学と考古学とをつなぐユニークな研究を進めている木下忠(きのしたただし)氏は「縄文(じょうもん)と弥生(やよい)−二つの種族文化の重なり−」 (『埋甕(うずめがめ)−古代の出産習俗−』所収、一九八一、雄山閣)という興味深い論文の中で、産後の胎盤(たいばん)−エナの埋め方に、戸口に埋める習俗と、産室の床下・縁(えん)の下(した)に埋める風習とがある点に注目し、前者が縄文時代以来の習俗、後者が弥生時代の風習にその根をもち、とくに後者は血忌(い)みの民俗、お産や月経の穢(けが)れを恐れる習俗と深いつながりがあることを明らかにした。 そして、これらの習俗の分布を全国的に調査した結果、前者の習俗が南関東・長野を中心に東北・中部−東日本に分布するのに対し、後者は近畿(きんき)・中国・九州地方−西日本を広くおおっていることを指摘している。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.43)


     イエとムラ
     〈宮本常一氏の民俗学から〉
     このような個別研究が着実に進められることによって、東西の違いをはじめ、日本の諸地域の豊かな個性が明らかにされつつあるが、しかし東日本と西日本の民俗のさまざまな違いを、超人的ともいうべき精力的な全国の村々の調査、たやすく余人の追随(ついずい)を許さぬ鋭い観察力を通じて、たえず追求しつづけたのは、さきにもふれた宮本常一(みやもとつねいち)氏であった。 氏はついにこのテーマで一書をまとめることなく世を去ったが、膨大(ぼうだい)なその著作の随所(ずいしょ)でこの問題に言及している。

    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.44)


     たとえば「常民の生活」(前掲『東日本と西日本』所収)東のイロリと西のカマド東の馬と西の牛背負子(オイコ)の東西の違い東のハカマと西のフンドシ東の湯と西の風呂(ふろ)などの違いを指摘し、「民族から見た日本の東と西」(宮本常一著作集3『風土と文化』所収、一九六七、未来社)では、盆(ぼん)に無縁仏(むえんぼとけ)をまつる風習が西日本に多く、鳥追(とりお)いの行事は東日本に分布するなどなど、さまざまな年中行事(ねんじゅうぎょうじ)の地域差を細かくたどっている。 そしてこうした研究が今後必要であることを強調しつつ、全体としてみると、西日本には官暦(かんれき)に準拠した行事が多く、東日本はそれほど官暦を重視していないとし、東西の民俗の差異を徐々(じょじょ)に消していったのが稲作の分布であり、さらに官暦の普及であったという注目すべき指摘をしているのである。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.44)


     またその遺著となった『絵巻物に見る日本庶民生活誌』(中公新書、一九八一)の中でも、お産のときに産屋(うぶや)をたてて産む民俗の広くみられる西日本とその例の少ない東日本海の彼方(かなた)に常世(とこよ)の世界を夢見る習俗をもつ西日本と、それの分布しない東日本などのことが言及されており、これはおそらく晩年の宮本氏のこの問題についての見通しを示唆(しさ)しているように思われる。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.45)


     しかし、こうしたさまざまの角度からの指摘の中で、宮本氏がもっとも力をこめて説かれてきたのは、東と西におけるイエとムラのあり方の相違であった、と私はうけとっている。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.45)


     イエについていえば、東日本は本家を中心とした同族関係が軸(じく)となっており、 一子相続の傾向が強く、二、三男は家からホマチ田などのわずかな田をもらって分家していくのに対し、 西日本では婚姻(こんいん)による家同士の結びつきが強く、百姓株(ひゃくしょうかぶ)も分割されたように分割相続がみられ、親が隠居(いんきょ)して長男に家を譲り、みずから土地をひらくことが多かったと指摘する。 また女性の立場に即してみると、東ではヨメは夫の親をいつも気にしなくてはならなかったのに対し、西ではヨメの立場はより自由で、主婦の役割が大きかったことを宮本氏は強調する。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.45)


     さらに神社のあり方についても、東では村の神社は粗末で、多くは村の勢力ある者に属する形をとっているのに対し、西では村の共同の神として、宮座(みやざ)の組織に支えられ、村人全体の力で維持されたとしている。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.45〜46)


     こうしたさまざまな違いは、結局、東日本が家父長制(かふちょうせい)的であり、男の戸主(こしゅ)の権力が強く、 親方、主(あるじ)を中心とする主従関係が発達したイエ中心の社会であるのに対し、西日本は母系(ぼけい)的であり、女性・主婦の地位が高く、イエよりもむしろムラ全体を重んじ、婚姻(こんいん)などによって結ばれた個々のイエの協力によって秩序(ちつじょ)が保たれた、ムラ中心の社会であることに起因すると、宮本氏は説いているのである(前掲、宮本常一著作集1、2、3、31など参照)。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.46)


     周防(すおう)大島−西国、瀬戸内の離島の出身である宮本氏は、この東と西のそれぞれの特徴のなかで、明らかに西のほうに肩をもち、武家的な東に対し、農耕社会的−農民的な西に共感を寄せており、領主による奴隷(どれい)あるいは農奴(のうど)の支配に力点をおいて、 日本の中世・近世をとらえようとする歴史家(たとえば石母田正(いしもたしょう)氏)にはきびしく批判的で、村の百姓(ひゃくしょう)のまとまりに社会の基礎を見いだす歴史家(たとえば清水三男(しみずみつお)氏)を高く評価する。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.46)


     とはいえ、ここに指摘された東と西の民俗、社会の違いは、もちろん細かくみればさまざまな問題があり、宮本氏自身も割り切ることには慎重(しんちょう)であるが、やはり両者の特色をじつによくとらえているといわなくてはならない。
    (《二 「ことば」と民俗−東と西の社会の相違》P.46〜47)


     石器の語る東と西
     日本の文化が縄文(じょうもん)時代からはじまるなどといわれていたのは、もう昔話で、いまでは大陸の一部であった日本列島上で人類の活動がみられはじめるのは、少なくとも三万年よりもはるかに以前の前期旧石器時代からはじまっていたことが確実といわれるほどになっている。 芹沢長介(せりざわちょうすけ)氏はそれから一万三千年前ころまでを後期旧石器時代と想定しているが、東日本と西日本の違いはすでに、二万−一万五千年前のころから明らかになっているというのである。
     芹沢氏によると、東北地方と中部地方の日本海側には、黒曜石(こくようせき)・硬質頁岩(けつがん)を素材とする細長く柳の形をした杉久保(すぎくぼ)型ナイフが見いだされ、 これは縦剥(たてそ)ぎの技法によって作られるのに対し、西日本の瀬戸内海を中心とした地域では、横剥(よこそ)ぎの方法で作成され、サヌカイトをおもな素材とする横長の国府(こう)型ナイフが分布しているという(『古代史発掘T 最古の狩人たち』一九七四、講談社)
     つまりナイフの型のうえでも、石器作成の技法においても、東と西にははっきりした違いがみられるわけである。
    (《三 考古学からみた東と西》P.52〜53)


     弥生(やよい)の東進と縄文の抵抗
     華北(かほく)から朝鮮半島をへて流入したとする説、華中(江南(こうなん))から朝鮮半島南部ほへたとする説、華南(かなん)を起源とする説など、なおその流入経路は定説をみていないが、紀元前二百年、もしくは紀元前三世紀後半の範囲内の時期にはじまるといわれる弥生時代の文化、水稲耕作(すいとうこうさく)の文化は、「北九州の一角に最初の水田がつくられてから」、おそらく数十年といわれるほどの短期間に、西日本一帯に伝播(でんぱ)する。 ところがそれは太平洋岸では名古屋、日本海岸では丹後(たんご)半島までひろがって、いったん停止してしまう。 それゆえ、弥生時代前期には、弥生文化の西日本と、縄文文化の東日本という、まことにいちじるしい違いが現れ、百年以上もつづいたこととなる。
    (《三 考古学からみた東と西》P.62〜63)


     それは北九州に入った感光性(かんこうせい)の強いイネの品種が、東日本には生育せず、東日本にそれが受け入れられるためには、感湿性(かんしつせい)の強い品種が現れなくてはならなかったともいわれるが、端的にいって、弥生文化の東進を阻(はば)んだのが、最高度の発展をみた狩猟(しゅりょう)・採集生活を基礎とする東日本の縄文文化の抵抗であったことは確実といわなくてはならない。
    (《三 考古学からみた東と西》P63.)


     古墳の拡大
     周知の通り、弥生時代の末期近くの三世紀後半に、近年まで議論百出といってもよい、邪馬台(やまたい)国が現れる。 この議論に立ち入る力は私にはまったくないが、石井良助(いしいりょうすけ)氏はその中で早くから、邪馬台国大和(やまと)説を主張しており、のちにもふれる論文「東国と西国−上代および上世における−」(『大化改新と鎌倉幕府の成立 増補版』所収、一九七二、創文社)で、女王国と対立抗争する狗奴(くぬ)国は毛野(けぬ)国であり、東国にはすでに北九州・機内(きない)とは異なる自立した政治勢力−−氏族連合があったとする。 当面する東と西の問題に関連させてみると、まことに興味深い説であり、毛野勢力の存在は後述するように間違いないことであろう。
    (《三 考古学からみた東と西》P.65〜66)


     しかし、考古学の最近の成果を集約した甘粕健(あまかすけん)氏によれば、三世紀後半から四世紀初めに、機内・瀬戸内海を中心とする西日本に出現した前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に代表される古墳(こふん)は、東部九州には及んでいるが、東日本に現れるのは、それよりも多少遅れるのである(「古墳の形成と技術の発達」岩波講座『日本歴史』1 原始および古代1所収、一九七五)。 しかも四世紀後半ごろの「すさまじい」といわれるほどの古墳文化の拡大にともない、定型化した大型の前方後円墳が、中部・関東はもとより、東北地方南部の会津(あいづ)地方にまで出現(甘粕健「古墳の出現と統一国家の形成」『図説日本の歴史』1所収、一九七四、集英社)北陸でも能登(のと)半島の基部、富山(とやま)平野に及び、五世紀に入るとさらに仙台平野から北上川(きたかみがわ)流域にまでひろがっていく。
    (《三 考古学からみた東と西》P.66)


     大和と東国−統合と自立−
     武蔵(むさし)国の叛乱(はんらん)に介入し、大和の王権と対立したという伝説や、蝦夷(えみし)との戦闘にともなう説話などで知られるこの勢力を、東国において「大和朝廷に対立する独立国」と評価するのは、石井良助(いしいりょうすけ)氏である。 前にあげた論稿(「東国と西国−上代および上世における−」前掲『大化改新と鎌倉幕府の成立』所収)の中で、 石井氏は『日本書紀(にほんしょき)』において毛野(けぬ)氏の租が崇神天皇(すじんてんのう)の皇子豊城命(とよきのみこと)とされ、 この人が王権を継承した弟活目命(いくめのみこと)(垂仁(すいにん)天皇)と並んで東国を治めたとされている点から、「太古における国土(統治権)の分割相続の慣習を想定する」とともに、こうした伝統が作り上げられた背景には、毛野氏が「大和朝廷に対する独立国家たるの地位を有した」事実が秘められているとし、さらに先述した狗奴(くぬ)国こそその前身とする。 そして、いわゆる「大化改新(たいかのかいしん)」はこの東国の独立国の併合にほかならないとみて、大化元年(六四五)八月に行なわれた「東国等国司(こくし)」の任命は、まさしく明治維新(めいじいしん)のさいの知事任命にほかならず、その後も東国には、しばらくの間「東国総領」がおかれたとしている。
    (《四 古代の東国と西国(さいごく)》P.71〜72)


     井上光貞氏が一九四九年に刊行された『日本古代史の諸問題』(思索社)に収められた「大和(やまと)国家の軍事的基礎」と題する著名な論文で、氏はいわば天皇の親衛軍(しんえいぐん)ともいうべき舎人(とねり)が、東国の国造(くにのみやっこ)の子弟から成(な)り、東国から貢進(こうしん)された人びとが多く、天皇に近侍(きんじ)する膳部(かしわでべ)についても同様な事実を見いだしうること、 天皇や皇子などを冠したその直属民、 名代(なしろ)・子代(こしろ)が東国に広く分布している点などをあげ、 大化直前の天皇の軍事的、経済的基礎は東国にあったと断じている。
    (《四 古代の東国と西国(さいごく)》P.72〜73)


     西の海と船、東の弓と馬
     西の船に対する東の馬、西船東馬ともいうべき東西の地域的特質は、すでに古代にある程度まででき上がっていたといわなくてはならない。
    (《四 古代の東国と西国(さいごく)》P.83)


     東国と東北の「蝦夷(えみし)」
     それはともあれ、八世紀末以降、東北の「蝦夷(えみし)」征討が、桓武(かんむ)天皇の朝廷の中心課題となるとともに、東国はまさしくそのための軍事基地となっていった。 延暦(えんりゃく)二年(七八三)六月、坂東(ばんどう)八国に命じて、郡司(ぐんじ)の子弟などの地方有力者や浪人などの軍士となるに十分な人びとに、弓馬・用兵の道を習わせ、延暦七年(七八八)三月には、「蝦夷」征討のため、翌年三月までに、東海・東山両道の坂東(ばんどう)諸国の歩騎五万人余を陸奥(むつ)の多賀城(たがじょう)に集めることとし、とくに歴戦のものや常陸(ひたち)の鹿島神饌(かしましんせん)、弓馬の道にたえうるものを動員した。 さらに同九年(七九〇)閏(うるう)三月にも、駿河(するが)以東の東海道、信濃(しなの)以東の東山道の諸国、つまり大野氏のいう「第二のアヅマ」、中世の東国にほぼ相当する国々に命じて、革甲(かわよろい)二千領を作らせ、翌年十月にも東海・東山道諸国に征箭(そや)三万余具の製造を指令、十一月には坂東諸国に、軍粮(ぐんろう)十二万余石を備えさせるなど、こうした例は枚挙(まいきょ)にいとまがないといってよい。
    (《四 古代の東国と西国(さいごく)》P.84〜85)


     「海賊的武者」と西日本
     九世紀半ば以降、しばらく平穏であった社会が西と東で再び動きはじめ、十世紀初頭の延喜(えんぎ)の改革をへて、ついにそれは承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(らん)となって爆発する。 この激動は律令国家(りつりょうこっか)に大きな転換を迫り、いわゆる王朝国家の段階に変質させていくのであるが、ここにいたって、いったんは一色にに染め上げられたかにみえた東と西の社会の特質が、ふたたび新たな姿ではっきりと表面に現れてくる。 そしてそれは、さきにふれたように、まさしく東は弓と馬、西は海と船によって特徴づけられる動きだったのである。
    (《五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」》P.88)


     九世紀前半、新羅は打ちつづく党争のなかで衰えつつあり、海辺には舟に乗って沿岸をあらし、日本や中国にまで出ていくものが現れた。 張弓福(ちょうきゅうふく)はその一人で、全羅道の莞島(かんとう)を拠点として沿海の舟人、海民を従えて中国・日本と貿易し、独自な勢力を築き、神武王(じんむおう)を上位につけた。 旗田巍(はただたかし)氏はこれを「海上の支配者」「海賊的首領」としている(岩波全書『朝鮮史』一九五一)が、こうした朝鮮半島の激動の波が西日本に及んできたのである。
    (《五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」》P.90)


     「弓射騎兵型武者」と東日本
     これに対し、同じ時期の東日本では、「俘囚(ふしゅう)」の乱が頻々(ひんぴん)とおこり、九世紀の末には、よく知られた「●馬(しゅうば)の党」(馬を雇う人びとの集団)が姿を現すのである。
    (《五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」 (●「人」偏(ニンベン)に「就」)》P.93)


     さきにものべた通り、帰伏(きふく)した「蝦夷(えみし)」−「俘囚」は、「一を以って千に当たる」といわれた精強な軍事力を利用すべく、各地に集団的に移住させられたが、九世紀半ば以降、とくに坂東(ばんどう)でその叛乱(はんらん)が再三にわたっておこった。 嘉祥(かしょう)元年(八四八)、上総(かずさ)で「俘囚丸子廻毛(まりこのつむじ)」などの叛乱があり、政府は上総・下総(しもうさ)・相模(さがみ)などの五国に命じてこれを討伐させ、貞観(じょうがん)十七年(875)五月には、下総の「俘囚」が叛(はん)して官寺を焼き良民を殺したのに対し、武蔵(むさし)・上総・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)などの国ぐにから兵三百人を発して鎮圧させている。
    (《五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」》P.93)


     しかしその三年後、元慶二年(八七八)、これに呼応するごとく、出羽(でわ)の「俘囚」が大叛乱をおこし、秋田城や郡の倉庫を焼くという、「元慶の乱」が勃発(ぼっぱつ)した。 秋田河北をみずからの地とすることを要求したこの叛乱軍の動きを通して、東北の北部に、かなり強固な「俘囚」自身の独自な政治的連合体が成立していたと考えなくてはならぬ、と高橋富雄氏は指摘している(前掲『蝦夷』)が、おのずと、陸奥(むつ)をはじめ坂東(ばんどう)から動員された政府軍との戦闘は長びき、翌年までかかってようやく妥協が成立したのである。
    (《五 「●馬(しゅうば)の党」と「海賊」》P.93〜94)


     「東国の乱」
     九世紀から十世紀の初頭にかけて、日本列島の東と西のそれぞれにおいて、不穏(ふおん)な動きがしだいにその規模を大きくしつつあった。
     東国では、寛平(かんぴょう)元年(八八九)、「東国賊首」「東国強盗首」、物部氏永(もののべのうじなが)らが蜂起(ほうき)し、その制圧には十年の年月を要したといわれており、延喜(えんぎ)元年(九〇一)には、朝廷が諸社に奉幣(ほうへい)しなくてはならぬほどの深刻さをもった大規模な群盗の蜂起、「東国の乱」が勃発した。
    (《六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)》P.99)


     西国の海賊
     西国でも、朝鮮半島から西日本にかけての海域では、不穏(ふおん)な事態がつづいていた。 とくに朝鮮半島における新羅(しらぎ)王朝末期の動乱は、海を通じて、西日本に直接的な影響を及ぼしている。
    (《六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)》P.100)


     東国人の二つの道−自立への志向−
     もちろん、畿内の朝廷に結びつき、天皇、摂関(せっかん)家などに屈従しつつ、みずからの実力を現地で養う道−将門(まさかど)の国家を崩壊させた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や平貞盛(たいらのさだもり)の選択した道のほうが、はるかに「現実的」であったことは間違いない。 とはいえ、巨大な圧力に抗し、それ以外の自立の道を選んだ人が現にあり、小さくともその方向が、ごく一時的にせよ、はっきりとした実を結んだという事実が、そうした「現実的」な道を決定的に相対化させた点にこそ、ことの重要さがある。
    (《六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)》P.108)


     それゆえ、これ以後長く、東国人の進路の前には、つねにこの二つの道−西につながる路線と東国自立路線との岐路(きろ)があり、東国人の指導者、支配者たちは、しばしばそのいずれを選択するかに悩み、また相互に対立しなくてはならなかったのであるが、しかしそうした選択の余地をはっきりとつくり出したのが、この内乱であったことを知らなくてはならない。
    (《六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)》P.108)


     そして将門自身は、伝承の世界のなかで、東国人にとっての英雄となっていった。 相馬(そうま)氏のように、将門にみずからの祖先を結びつけて系図を作る人びとが現れただけでなく、将門はときに白馬にまたがり、ときにこめかみを除き鉄の身体をもつ超人として現れ、その首は獄門にかけられてもなお行きつづけ、ついには身体を求めて飛行し、東国に帰って祀(まつ)られることとなっているのである(福田豊彦 前掲書)。 それが東国の自立を求める人びとの一つの精神的支柱となったことは疑いない。
    (《六 東の将門(まさかど)、西の純友(すみとも)》P.108〜109)


     「鼓を打ち、金を叩いて」
     西国の海賊はその後もたびたび蜂起(ほうき)をくり返した。 天元(てんげん)元年(九七八)三月、備前介(びぜんのすけ)が海賊のために殺され、同五年二月には、海賊が蜂起、「鼓を打ち、金(かね)を叩いて」瀬戸内海を往還する調庸を運ぶ船を襲うとの報があり、伊予国司(いよこくし)に追捕(ついぶ)を命じて、賊首能原兼信(よしはらかねのぶ)などを討っている。
    (《七 源氏と平氏−−東北・東国戦争と西海の制覇−−》P.111)


     「亡弊の国」−東国の叛乱−
     これに対して、東国は、このころ京都の貴族たちから「亡弊(ぼうへい)の国(くに)」といわれていた。 負担にたえない、租税(そぜい)を賦課(ふか)しえぬ地域と、貴族たちは考えるようになっていたので、上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏は、将門(まさかど)の乱(らん)以後、東国は事実上、律令国家(りつりょうこっか)−京の王朝から離脱しつつあったとみている(『日本中世政治史研究』一九七〇、塙書房)、まさしくその通りであろう。 将門を倒した平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫たちは、こうした状況のなかで、着々とこの地域に根を張っていったのである。
    (《七 源氏と平氏−−東北・東国戦争と西海の制覇−−》P.112)


     東北・東国戦争−東の源氏と東北の藤原氏−
     一方、源頼義(みなもとのよりよし)の子義家(よしいえ)はこの戦争で大いに武名をあげ、東国の地盤をいっそう固めたが、永保(えいほう)三年(一〇八三)、陸奥守(むつのかみ)となって奥州に赴任(ふにん)するや、清原氏の内訌(ないこう)に乗じて東北を征服しようとした。 ふたたび東北・東国戦争−後三年(ごさんねん)の役(えき)がここにおこったが、結局その企図は失敗、義家の力を借りて敵対者を討滅した藤原清衡(ふじわらのきよひら)が、清原氏にかわって東北の覇者(はしゃ)となり、以後、いわゆる奥州藤原氏四代の時代がはじまる。 清衡は本拠を平泉(ひらいずみ)に移し、中尊寺(ちゅうそんじ)を建立(こんりゅう)、京都の朝廷の中でとくに摂関家(せっかんけ)を接近しつつ、東北の支配を固めていった。
     高橋富雄氏「寛治偃武(かんじえんぶ)」といったように、これから一世紀に及ぶ「平泉の平和」がここにはじまる。 金(きん)と馬とを貢物(みつぎもの)として京に送りつつ、東北の国家はさらに強靭(きょうじん)に成長して行った。
    (《七 源氏と平氏−−東北・東国戦争と西海の制覇−−》P.119〜121)


     源氏と東国自立路線
     平氏軍を追ってさらに西上し、京都・福原(ふくはら)を衝(つ)こうとする頼朝は、三浦、千葉、上総など東国の諸豪族に引きとめられ、東国にとってすえし、常陸(ひたち)の佐竹氏を撃破、父祖のゆかりの地、鎌倉にその居を構えた。 すでに死んだはずの以仁王(もちひとおう)を「新皇」としていただく、自立した東国国家は、ここにふたたびその姿を現わした。
     しかし、この国家は京都の朝廷の元号(げんごう)を用いない。 翌年、京都では治承(じしょう)の元号が養和(ようわ)に改められるが、東国の頼朝(よりとも)支配下の地域では、依然として治承の元号が用いられ、それは治承五年から同七年までつづく。 暦日博士(れきじつはかせ)をおけなかった将門(まさかど)の国家とは異なり、この国家はまったく新たな、とはいえないとしても、独自な元号をもっていたのである。 この段階の頼朝は、東国の諸豪族の意に従い、東国自立路線に沿って、以後しばらく京都、西国の形勢をうかがいつつ、この国家の基礎を固めることにつとめていた。
    (《八 東国国家と西国国家》P.138〜139)


     荘園・公領の単位と規模
     〈名と地名〉
     こうした名(みよう)のあり方の東と西の違いは、現在の地名からも、はっきりとうかがうことができる。 名の名前は、その最初の開発者、あるいは請負人(うけおいにん)の名前が付されるが、平安(へいあん)後期以降、比較的早い時期に成立した名の場合、好字を選んだ仮名を付するのが一般的である。
     たとえば、今福、国富、稲積、稲富、福富などがそうした事例であり、これによって当時の人びとが何を希求していたかをよく知ることができる。 南方熊楠(みなかたくまぐす)氏は熊楠をはじめ、千代楠、宮楠など楠(くす)の字をつけた名前に注目し、それが紀伊(きい)・伊勢(いせ)・土佐(とさ)・尾張(おわり)など、太平洋に面した地域に分布していることから。船材となる楠を神木としてうやまう人びとの信仰を見いだしているが、名(みょう)の名前も民衆思想をさぐるうえで、非常に重要な史料となりうる。 尾張には松枝(まつえだ)、松武(まつたけ)、花長(はなおさ)、花正(はなまさ)のように「松」や「花」の字が用いられることが多いが、これもなにかの意味があると思われる。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.157)


     時代が下(くだ)ると、さきの太良荘の百姓名のように、武士の実名と同じく二字の名前がつけられるが、その場合もあまり数多くの字が使われるわけでなく、国、時、久、武、貞、宗など、ある程度、限定された字が用いられる。 こうした字の意味も追求してみる必要があるが、いずれにせよ、多少なれてくれば一見して名の名前ということがわかるのである。 また三郎丸、五郎丸のような仮名がつけられることもある。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.157)


     年貢−東の絹・布、西の米−
     これまで中世の年貢は、もっぱら米と考えられてきたが、それはまったく誤りであり、絹・布などの繊維製品をはじめ、金・鉄などの鉱産物、さらに合子(ごうし)や瓦(かわら)、炭(すみ)、薪(まき)、油などの加工品、牛・馬などの家畜までが年貢となっているのである。 ただそれが水田に賦課(ふか)される形で徴収されたために、従来、なんとなく米と考えられてきたのであるが、実際は「藪沢(そうたく)の土宜(どぎ)」−その地の特産物、「山野林の所出」が年貢として貢進されたのであった(拙著、岩波新書『日本中世の民衆像』一九八〇)
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.159)


     こうした見方からあらためて諸国の年貢品目を整理してみると、東国の年貢はほとんど例外なしに繊維製品であったことが明らかになってくる。 まず尾張(おわり)は絹(きぬ)と糸(いと)、三河(みかわ)は絹、美濃(みの)はすべて八丈絹、信濃(しなの)は白布(しらぬの)、遠江(とおとうみ)は若干(じゃっかん)の米の例があるが、布(ぬの)・絹、駿河(するが)も白布や絹、伊豆(いず)・甲斐(かい)も白布や絹、相模(さがみ)も布、武蔵(むさし)は絹と布、上総(かずさ)は綿(わた)・白布、下総(しもうさ)も絹と布、上野(こうずけ)も布、下野(つもつけ)は絹、陸奥(むつ)は当初金(きん)と馬(うま)だったが布になり、出羽(でわ)も絹にかわっている。北陸は後にふれるように米年貢(こめねんぐ)がかなりみられるが、越前(えちぜん)に若干綿がみられ、越中(えっちゅう)・越後(えちご)も綿が多い。
     このように、中世、越中・美濃・尾張以東の諸国の年貢は、絹・糸・綿・布などだったのである。 さらに伊勢でも絹がかなり見いだされるので、そこまで東にいれてよいかもしれない。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.160)


     東の畠作、西の水田
     大きくみれば、東国は畠作優位、西国は水田優位であったということができる。 とすればそれは、これまで種々のべてきたように、おそらくは弥生(やよい)時代にまでさかのぼる深い根をもつことができるのではなかろうか。
     日本の社会をもっぱら水稲耕作(すいとうこうさく)を基礎として成り立つと考え、日本人の生活が米を中心に営まれてきたとみる見方に立てば、この事実をもとにして、西国こそ米の生産力の高い先進的地域であり、東国は水田劣位の遅れた後進的な地域であったことを主張しうるであろう。 これが通説であり、水田を軸にしてみるかぎり、この主張を誤りとはいえない。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.164)


     しかしこうした水田中心の見方が、中世の年貢(ねんぐ)をすべて米とみてしまうようなドグマを長年横行させてきたことを考えるならば、そのままこの通説に同調することは危険といえよう。 実際、別の機会に詳しくのべたように、日本の庶民生活は決して米だけに支えられていたわけではなく、その日常はむしろ米以外の食物によって支えられていた。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.164)


     そして水田は年貢賦課(ふか)の基準となったことからも明らかなように、いちじるしく制度的な性格をもつ地種であり、機内(きない)で成立した大和(やまと)朝廷、律令制(りつりょうせい)の班田(はんでん)制に起源をもち、中世のこの制度−公田(くでん)制から近世の石高(こくだか)制にいたるまで、一貫して支配者の賦課(ふか)の基礎だったのである。 とすれば、さきの通説のような水田中心史観にそのまま従っていることは、おのずから支配者中心の史観に導かれざるをえないであろうし、さらに畿内(きない)中心史観に陥る危険をもつといわなくてはならない。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.164〜165)


     もとより東国が先進的であったなどというのではない。 ただ、こうした既成観念(きせいかんねん)を取り払ったうえで、その独自な個性に即して、それぞれの地域を理解することが大切であろう。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.165)


     すでに坪井洋文(つぼいひろふみ)氏民俗学の立場から、稲作民の民俗のみによって日本の民俗をとらえることの誤りを実証的な根拠をもって強調しているのであり(前掲「民族研究の現状と課題」)ゆがみのない日本史像は、民俗学や文化人類学、考古学、地理学、社会学などの緊密な協力をふまえた地域研究の作業を通して、はじめて本当に浮かび出てくるのではないか、と私は思うのである。
    (《九 荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の東と西》P.165)


     東の豪族的武士と西の中小武士
     こうした若狭(わかさ)の領主たちは、鎌倉幕府が成立するとともに、ほとんどが御家人(ごけにん)となる。 時貞がとりまとめて、建久(けんきゅう)七年(一一九六)に幕府に注進した御家人の交名(きょうみょう)(名簿(めいぶ))には、時貞自身およびその一族を含む三十三名の人びとがその名を連ねており、時貞の扱いは他の領主となんの変わりもなかったのである。
     九州を含む西国の領主たちは、みなこのような方式で、国ごとに、守護の立場に立つ人が国内の御家人となるべき人びとの名前を書き連ねた交名を幕府に注進・提出することによって、御家人の地位を得たのである。 それゆえ、西国御家人は主人である鎌倉殿−将軍に、会ったこともない人びとが大部分だったと思われる。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.169〜170)


     人間・社会の関係−タテの論理とヨコの論理−
     〈百姓の世界〉
     百姓(ひゃくしょう)の場合も同じであった。 東国から西国の荘・保などに地頭(じとう)として補任された東国御家人(ごけにん)は、わずかな罪にかこつけて百姓から科料をとり、それを弁済できないと、追放し、あるいは身代(みのしろ)としてこれを下人所従に与え、その支配下におこうとしたのである。
     東国御家人にとって、これは当然のことであった。 東国の領主たちの生活、支配の拠点は、その(やかた)−イエである。 そこは他人の侵入をいっさい許さぬ「聖域」であり、その中に入り住むものは、領主の意志のままにならなくてはならぬ下人(げにん)・所従であった。 館の周囲は堀之内(ほりのうち)、門田(かどた)、土居(どい)などといわれ、イエの延長であり、領主の直接農業経営を行なう手作地(てづくりち)の田畠(でんぱく)がそこにある。 下人・所従はこの田畠の耕作に当たった。 もちろん下人・所従のなかには、館周辺の家屋に住み、別の田畠を耕作するものもあるが、その田畠は領主の管理下にある。 しかし「在家(ざいけ)」に住む郷の百姓たちは、下人・所従のような不自由民ではなく、自由民−平民であった。
     ただ、さきにものべたように、東国の百姓たちは、みずから責任をもって請負・管理する特定の田畠−百姓名の田畠を保持していないのがふつうである。 種籾(たねもみ)や農業のために必要な費用−農料を与えられ、領主の割(わ)り充(あ)てる田畠を耕作するこれらの百姓は、領主の保護下におかれていた。 それは下人・所従に対する支配とは異なり、百姓の移動は年貢(ねんぐ)・公事を滞納しない限り自由であるが、郷の田畠を耕作し、その在家に居住する限り、百姓は領主のイエ支配の延長の下に組み入れられていたとみることができよう。 ただ、種子・農料を下し、郷の寺社では神事・仏事を行ない、百姓の耕作が平穏に行なわれるようにする義務を、領主は百姓たちに対して負っていたのである。 東国の郡・郷の管理は、領主のこうした支配力によって支えられていた。
     西国に地頭として補任された東国御家人は、そのような支配を西国でも実行しようとしたのである。 西国の荘・保・名は前述した通り、いくつかの均等な百姓名(ひゃくしょうみょう)によって構成されていた。 それは、一、二町から数町の田畠を請け負いうるだけの安定した力をもつ百姓が、数人から数十人いたことを示している。
     本百姓(ほんびゃくしょう)といわれたこうした百姓たちは、わずかな下人・所従をもち、脇百姓小百姓などといわれる人びとを従えていたが、個々の本百姓がこれら脇百姓を保護下においているというよりも、本百姓たちが全体として脇百姓に対する主導権をもっていたとみるほうが適当であろう。 いわば本百姓たちは「乙名(おとな)」であり「古老(ころう)」であった。 荘・保の寺社も、これらの人びとによって支えられていたと思われる。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.172〜174)


     いわば東国の社会は、領主のイエ支配を中心に、縦に百姓たちが領主と結びついた、家父長(かふちょう)的な性格の強い主従関係が基礎となっているのに対し、西国の場合は百姓の小さなイエが横に連合したムラ的な結合が発達している。 それがしばしば、荘・保の神社の宮座(みやざ)の組織に支えられているので、「座的結合」ともいわれるが、こうした百姓の結びつきが西国社会の基礎をなしていたのである。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.174〜175)


     〈堀之内と垣内〉
     東国には堀之内(ほりのうち)という地名が多い。  常陸(ひたち)を歩いていると、どの村(大字)に行っても、といってよいほど、いたるところで堀之内という地名にぶつかる。 西国にもないわけではないが、これほど多くないことは確実である。 中世の検注(けんちゅう)は馬に乗った検注使によって行なわれたが、その検注使が馬の鼻も向けないといわれたほど、堀之内は「聖域」とし扱われており、まぎれもない領主の拠点、イエ支配の根拠地であった。
     これに対し、西国には垣内(かいと)という地名が多い。 垣内もまた垣で囲まれた、他者の侵犯を許さぬ「聖なる地」であり、国家的な検田(けんでん)の外側におかれていた。 百姓はそこに畠地などをひらき、居住地としていったのである。 平安期からみられる垣内は、現在の集落とすぐに直結するとはいいがたいようであるが(水野章二「平安期の垣内」『史林』六五−三号、一九八二)、大和(やまと)においては中世を通じて進行する集村化の動きのなかで、垣内とよばれる環濠集落(かんごうしゅうらく)−ムラが出現してくるのである。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.175)


     このような堀之内と垣内の対応が、もしも事実として認められるならば、ここにもイエ的な東国とムラ的な西国との相違が現れているといってもよかろう。 そしてこの相違−−イエ的、家父長的、主従制的な東国と、ムラ的、年齢階梯(かいてい)的、座的な西国という相違が、さきの東国御家人と西国御家人のあり方の違いと、見事に照応することは、あらためていうまでもなかろう。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.176)


     そして読者はこの違いが、本書の最初でのべた、民俗学・社会学などの成果に基(もと)づく、東日本と西日本の社会の相違と、ほとんどまったく一致していいることに気づかれたであろう。 まさしくその通りなのである。 現在の民俗・社会構造に見いだされる東西の相違は、間違いなく中世にまでさかのぼりうる。 とすれば、この差異は、少なくとも九百年以上はつづいたことになる。 おそらくそれは、古墳(こふん)・弥生(やよい)時代にさかのぼるであろう。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.176)


     これまでの通説では、西国における前述したような自立的な百姓(ひゃくしょう)の広範な存在、活発な百姓の抵抗を、さきの水田の生産力の高さと結びつけて、西国を先進的な社会と考え、百姓の自立性の弱くみえる東国を、遅れた後進的な社会とする見方が支配的であった。 しかし、もしそうならば、東国はついに九百年間も後進地域でありつづけたことになる。 私はこれは大変おかしなことだと思う。
     この相違は、むしろ東と西の社会の体質の違いと考えるほうが自然であろう。 そして東国は、西国とそのあり方は異なるとはいえ、東国なりの社会の発展をとげ、また百姓の抵抗もあったとするほうが、より事実に即した見方だと、私は考える。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.176〜177)


     〈職人の世界〉
     たとえば鋳物師(いもじ)は平安末期以来、燈炉供御人(とうろくごにん)といわれて、天皇の家政機関である蔵人所(くろうどどころ)に属し、河内(かわち)・和泉(いずみ)を中心に諸国に散在する鋳物師たちは番に編成され、番頭を通じて殿上(てんじょう)の燈炉を貢進(こうしん)していた。 また近江(おうみ)の堅田(かただ)には、鴨社(かもしゃ)の供祭人(ぐさいにん)となった漁撈民(ぎょろうみん)の集団が集住していたが、彼らもまた番を結び、鴨社に供祭魚を納めたのである。
     この堅田のように、「職人」の集住している場合には、彼らの祭る神社の「宮座(みやざ)」と、この番の組織とはほぼ重なっており、実際、こうした「職人」の組織自体が「座」とよばれることが多かった。 座のなかで、番頭は乙名(おとな)老衆(ろうしゅう)であり、老衆の序列は「掾iろう)」によってきまっていた。搦氈iろうじ)」−「らっし」がこれで、らちもない」という言葉は、「らっしもない」からきたことばなのである。 そしてこの組織−職能集団の内部でおこったもめごと、紛争(ふんそう)は、これら番頭(ばんとう)−老衆たちの指導のもとで、自治的に処理された。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.178〜179)


     もともと武士は、武を「芸能」とする職能民の集団であったといってよい。 「兵の道」についてはさきにのべたが、「弓箭(きゅうせん)の道」「弓馬の芸」などともいわれたように、武士はまさしく「道々(みちみち)の輩(ともがら)」の一種でもありえたのである。  事実、「職人」ということば自体、『沙汰未練書(さたみれんしょ)』という鎌倉幕府の法律書に「名主(みょうしゅ)、庄官(しょうかん)、下司(げし)、公文(くもん)、田所(たどころ)、惣追捕使以下職人等」とあるように、荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の荘官であり、多くは西国御家人となった武士たちに即して現れるのが早い用例であった。
    (《十 イエ的社会とムラ的社会》P.182)


     女系系図の世界
     〈松浦党〉
     また西北九州の五島(ごとう)列島から松浦(まつうら)郡にかけての多島海は、中世、海の武士団−海賊として有名な、いわゆる松浦党(まつらとう)の人びとの活動舞台であった。 この集団は、たとえば山代固(やましろがたし)、宇久厚(うくあつし)、佐志仰(さしあおぐ)などのような一字の実名をつける源氏の一族を主な構成員としており、南北朝末期のころ、下松浦の領主数十人の間で結ばれた一揆(いっき)契約に署名したのは、みな一字名の人びとであった。
     しかし、じつはこの人たちの中には、本来二字の実名をつけていた他姓(たせい)の人びと−たとえば五島の中通(なかどおり)島(中世では小値賀(おじが)島)の藤原(ふじわら)姓をもつ青方(あおかた)氏のような人も入っており、こうした人びとは、鎌倉時代、姻戚(いんせき)、養子などの関係を通じて松浦一族と深いつながりを結んだ結果、この一族の中にとりこまれ、結局、実名も一字名、姓(せい)も源氏を名のるようになったのである。 またそれだけでなく、松浦一族の諸流の間でも、宇久(うく)氏と佐志(さし)氏、有河(ありかわ)氏のように、やはり網の目のような姻戚関係がはりめぐらされていた。
    (《十一 系図にみる東西》P.193)


     東国自立への模索
     建久(けんきゅう)三年(一一九二)、後白河の死を待って、頼朝はようやく念願の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられた。 それはたしかに武家の棟梁(とうりょう)たるにもっともふさわしい職であり、東国における軍事的な権威を十分、飾るに足る地位であった。
    (《十二 東は東、西は西》P.211)


     翌年三月、後白河の一周忌があけるのを待ちかねたように、頼朝は武士たちを動員して大規模な狩猟(しゅりょう)を催した。 まず武蔵(むさし)国入間野(いるまの)で「追鳥狩(おいとりがり)」を行なった頼朝は、四月に入って下野(しもつけ)の那須野(なすの)で狩猟を催し、上野(こうずけ)をへて駿河(するが)に入る。 そして五月になると、十日以上にもわたって、富士野で壮大な巻狩(まきがり)をくりひろげたのである。
    (《十二 東は東、西は西》P.211)


     狩猟史と狩猟伝承について、前人未到の大きな成果をあげた千葉徳爾(ちばとくじ)氏は、この巻狩が、当時、国ごとに国司(こくし)や守護(しゅご)の行なった、国内巡視の意味をふくむ狩猟、大狩と同じく、その支配地域の巡察の意味をもち、頼朝はこのとき「国家統治の実質的責任者として」「今後の運勢とその資格とを神に問う」ために、狩猟を行なったので、とのべている(『狩猟伝承研究』一九六九、風間書房)。
    (《十二 東は東、西は西》P.211)


     まさしくその通りであり、予定された上野・信濃(しなの)での狩は確認できないが、頼朝はこのとき東国諸国を巡察し、東国武士を大規模に動員した巻狩を通じて、東国国家の首長(しゅちょう)としての彼の立場を、武士たちに確認させたのであった。
    (《十二 東は東、西は西》P.211)


     それだけではない。 天皇を頂点とする西国の朝廷で行なわれる年中行事とは別に、東国には将軍を頂点にもつ独特な年中行事の体系が形成された。正月の一日から三日まで、有力な御家人が将軍に祝の膳を奉(たてまつ)る椀飯(おうばん)の儀式をはでめ、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)や鎌倉の寺院における行事、将軍の伊豆山権現(ごんげん)(走湯山)、箱根権現、さらには三島神社などへの奉幣(ほうへい)、参詣(さんけい)などは、みな東国の独自な行事であった。そして三島神社によって発行され、東国では広く使用された三島暦(みしまごよみ)が生れたのも、こうした行事の体系の設立と無関係ではなかろう。
     多少のちのことであるが、それは京の暦としばしば食い違う東国の暦だったのである。暦日博士(れきじつはかせ)をおけなかったかつての将門(まさかど)の国家が、ついにみずからの下に陰陽(おんみょう)家・天文(てんもん)家をおき、暦をつくるこのような国家にまで成長した事実のもつ重みを、われわれは決して見落とすべきではなかろう。
    (《十二 東は東、西は西》P.218〜219)


     モンゴル襲来と東西関係
     しかしこの状況を、一挙に突きくずす大きな力が、海をこえて日本列島に押し寄せてきた。 二回にわたるモンゴルの襲来がもとよりそれで、この圧力に対処するため、東国国家はまず九州に、ついで西国(さいごく)全体にと、いやおうなしにその支配権をひろげていかざるをえなくなったのである。
    (《十二 東は東、西は西》P.225〜226)


     非御家人(ごけにん)を含むすべての武士の動員権、全国の寺社に対する異国降伏祈祷(きとう)の指令権などを幕府が掌握(しょうあく)したことは、すでによく知られているが(拙著『蒙古襲来』一九七四、小学館)、これに加えて、西国の交通路に対する支配にまで、幕府は手を伸ばしたのである。
    (《十二 東は東、西は西》P.226)


     おそらく文永(ぶんえい)十二年(建治元・一二七五の前半)、幕府は西国に新しい関(せき)を設け、また「河手(かわて)」といわれる交通税を徴収することを停止し、さらに門司(もじ)・赤間(あかま)などの所々の「関手(せきて)」−交通税も停(とど)める法令を発した。モンゴルの来襲にそなえ、軍勢や物資の移動を円滑にするのがその狙(ねら)いであったことは間違いないが、この法令は一時的なものでなく、鎌倉時代を通じてその効力をもちつづけ、「文永以後新関」は停止、という指令は、その後もたびたびくり返された(「大乗院文書」「祇園(ぎおん)社記録」)。
     もとよりこれによって西国国家の交通路・関所(せきしょ)に対する権限を完全に奪取したわけではないが、東国国家が西国の交通路についても支配権を行使するようになったことは事実とみてよかろう。
    (《十二 東は東、西は西》P.226)


     こうして東国国家を指導する北条氏は、みずからの墓穴(ぼけつ)を掘って滅んでいくのであるが、それはともかく、このような過程を通じて、東国国家と西国国家の、新たな形での合体が進行したかのごとくであり、外敵モンゴルに対して、「日本国」「神国」意識が、とくに寺社を中心に昂揚(こうよう)したようにみえることも、一面の事実である。
    (《十二 東は東、西は西》P.227)


     しかし、モンゴルに対して、頑強に抵抗した高麗(こうらい)の三別抄(さんべつしょう)について詳細に研究し、文永(ぶんえい)八年(一二七一)、朝廷に使を送ってきたのは、高麗王のそれではなく、ほかならぬ三別抄の牒状(ちょうじょう)であったことを、根本誠(ねもとまこと)石井正敏(いしいまさとし)両氏などとともに明らかにした村井章介(むらいしょうすけ)氏が、的確にのべているように、この「日本国」意識は、日蓮(にちれん)のそれを含めて、なお真に自覚的な民族意識とはとうていいいがたい。偶然の暴風雨がモンゴルによる国土蹂躙(じゅうりん)から日本列島の人びとを救った結果西国の人びとには「ムクリ、コクリ」というえたいのしれない外敵への恐怖感がのこり、東国の人びとにとっては、モンゴルの襲来自体、遠い世界の出来事として、おそらくはほとんど痕跡(こんせき)すら残さなかったと思われる。西国の民衆と東国の民衆との真の意味での融合(ゆうごう)は、もとよりここからは生れなかった(村井「高麗・三別抄の叛乱と蒙古来襲前夜の日本」(上)・(下)『歴史評論』三八三・三八四号、一九八二)。
    (《十二 東は東、西は西》P.227〜228)


     ただ、モンゴルに備えた警備のため、西国(九州・中国・四国)に所領をもつ東国御家人(ごけにん)が、かなりの数、西に下(くだ)り、その所領に土着したこと、前述したように交通路の障害が外敵に対処するために多少ともとり除かれたことは、東と西の交流を促進する一つの契機になったのも、否定できない。
    (《十二 東は東、西は西》P.228)


     〈霞ヶ浦・北浦、利根川〉 親房(ちかふさ)の着いた霞(かすみ)ヶ浦(うら)、それに北浦、利根川などは、そうした内陸河川(かせん)の交通路にもつながっていた。 現在、霞ヶ浦の南辺、小野川の河口をはさんで対面する信太古渡(しだふっと)、河内(かっち)古渡には、頼朝(よりとも)・政子(まさこ)夫妻鹿島参詣(かしまさんけい)のために上陸したという伝承をもつ鎌倉河岸といわれる地名が残っている。 これに埼玉県北葛飾(かつしか)郡や東京の葛飾区の鎌倉、神田の鎌倉河岸などの地名をあわせ考えれば、ここに東京湾に流れこむ古利根川などの河川を通り、鎌倉に通ずる「水の鎌倉道」を想定することも可能となるのである。
     実際、南北朝期には、行徳(ぎょうとく)、猿俣(さるまた)、戸崎などにも関がおかれており、南関東の河川交通が非常にさかんであったことをよく物語っている。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.244)


     こうして、海の道は日本列島を一周する。今後、考古学の発掘がさらに進めば、その実態はもっと鮮明になるに相違ない。 これこそ、東と西を結ぶ中世最大のルートであり、さまざまな物資が運ばれただけでなく、さきにのべた鋳物師(いもじ)や石工(いしく)などの職人、勧進聖(かんじんひじり)などもこの道を通って遍歴(へんれき)した。 そして多くの情報が海を通じて日本列島全体に流れていったであろう。 それは東と西を結んだだけでなく、瀬戸内海地域、日本海沿海地域、黒潮によってはこばれる太平洋沿海地域のように、海を通じてつながる独特な地域をも形成させていった。 いずれにせよ、日本列島の各地がこれによって相互にいちじるしく近くなったことは間違いない。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.245〜246)


     東国武士の西国移住
     こうした交通路の発達を前提として、すでに河合正治(かわいまさはる)・新城常三(しんじょうつねぞう)氏などによって明らかにされているように、東国武士の西国移住がはじまるのである。 もちろんその動機に、東国における開発の行き詰まり、あるいは本領(ほんりょう)没収などがなかったわけではない。 さきにあげた「大中臣(おおなかとみ)氏略系図」(一九六ページ)にみえる中郡氏は、常陸(ひたち)の本領中郡荘を没収されてからは、出雲(いずも)の新恩地(しんおんち)にその活動の重点を移している。
     しかし、瀬野精一郎(せのせいいちろう)氏の指摘する通り、とくに、モンゴル襲来にともなう西国の防備強化の必要がこの動きを決定的に促進したことは間違いない。 文永(ぶんえい)八年(一二七一)、幕府は鎮西(ちんぜい)に所領をもつ東国御家人(ごけにん)に対し、モンゴルの来襲に備え、かつ領内の悪党を鎮(しず)めるために、所領に下向(げこう)すべきことを指令した。
     さらに文永十一年(一二七四)、安芸(あき)・石見(いわみ)。おそらくは山陰(さんいん)・山陽・南海道に地頭(じとう)職をもつ東国御家人に対しても、下向命令が下(くだ)り、建治(けんじ)二年(一二七六)、少し下(くだ)って正応(しょうおう)五年(一二九二)などにも、同様の命が発せられているのである。 この指令に従って、西国に移住した東国御家人は、とくに鎮西を中心に、かなりの数に及んだとみられる。
     ただ前にものべた通り、こうして西国(さいごく)に下った東国御家人は、すぐには現地の人と同化せず、しばらくは東国人同士の婚姻(こんいん)を好む傾向が明らかにみられるのであり、また東国の本領との結びつきも、決してたち切ろうとはしなかった。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.247〜248)


     東アジアのなかで
     朝鮮半島との関係も、もとより密接であった。鎮西(ちんぜい)の人で商売のために新羅(しらぎ)に渡り、虎に逢った人の話が、古く『今昔物語(こんじゃくものがたり)』にみられるが、文治(ぶんじ)元年(一一八五)、対馬守(つしまのかみ)源親光(ちかみつ)は、平氏(へいし)の攻撃を逃(のが)れるために高麗(こうらい)にわたり、虎を退治して高麗国王から賞せられたともいわれており(『吾妻鑑(あづまかがみ)』)、こうしたさまざまな形の交流は、記録に現われているよりも、はるかに頻繁(ひんぱん)だったに違いない。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.251)


     周防(すおう)の荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の単位に、牟礼令(むれのりょう)、仁井令(にいのりょう)、矢田令などのように「令(りょう)」といわれる単位が特徴的に見いだされる。 ふつうこれは領の省字だといわれているが、高麗の地方官が「守令」といわれたことを考えると、あるいはこれも朝鮮の影響かもしれない。山陰(さんいん)・北陸に、目にみえぬ朝鮮との交流があったことは、十分、想定できるからである。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.251〜252)


     田中健夫氏は前にもあげた近著『倭寇−海の歴史』で、進奉船といわれた薩摩(さつま)・筑前(ちくぜん)、とくに対馬(つしま)の船がしばしば高麗(こうらい)に現われている事実を指摘しているが、記録にはあまり現われないとはいえ、高麗から渡来する人も当然かなりいたであろう。 それがもつれて、武力衝突になることもあり、貞応(じょうおう)二年(一二二三)、金州を襲った倭(わ)船、嘉禄(かろく)二年(一二二六)の対馬や松浦党の巨済島(きょさいとう)での合戦、貞永(じょうえい)元年(一二三二)、肥前(ひぜん)鏡社の住人の高麗襲撃などの事件が記録されているが、こうした異常事態の背景には、日常的な交流が逆に考えられなくてはならない。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.252)


     実際、モンゴル襲来自体、大陸・半島と列島の間の交流の恒常化を前提にしなくては考えられぬ事件である。 弘安(こうあん)四年(一二八一)の元軍は、鋤(すき)・鍬(くわ)・日常用具をたずさえており、屯田(とんでん)軍として征服地を支配することが予定されていた。征服の成功後、海を隔てた列島の征服地を維持するだけの成算がモンゴルになければ、こうした計画は決して立てられなかったであろう。 そしてそうした恒常的な通交がもともとあったからこそ、モンゴル襲来後も、海をこえた交易は、むしろそれ以前にもましてさかんに行なわれたのであった。 三別抄(さんべつしょう)が日本の朝廷・武家に連帯を求めてきたという、さきの村井氏の指摘した事実についても同様である(二二八ページ)。 恒常的な交流がなければ、こうした発想自体が生まれえないであろう。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.252〜253)


     モンゴル襲来後、前述したように、とくに寺社の側からのさかんな発言を通じて、「日本国」意識「神国」意識が、それ以前より強まったこともたしかであり、朝鮮をはじめ、沖縄北海道など列島外の人びとを夷狄(いてき)視、蔑視(べっし)する見方が、それとともに多少とも浸透したことは事実である。 しかし、それは「日本民族」という意識などとはほど遠いものがあった。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.253)


     いまのべた通り、モンゴルと戦うために、日本との連携を求めた三別抄にみられるような「朝鮮民族」の意識と比べ、それははるかに未熟なものだったことは間違いない。 敗れたとはいえ、モンゴルと徹底的に戦った高麗(こうらい)に対し、暴風雨によって難をまぬがれた「幸い」が逆にこの結果を生んだのである。 つい四十年前まで、「神風(かみかぜ)」が吹くことを期待するようなおろかさをもちつづけた日本人の「民族意識」が、いかに根の浅いものであるかを徹底的に考えない限り、われわれは、最近の中国をはじめとする東アジア・南アジアの人びとからの批判のような、「恥知らずの民族」という汚名を、いつまでももちつづけなくてはならないことになろう。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.253)


     事実、さきにみたように、日本列島においては十四世紀に入ると、いわゆる「南北朝」の動乱がおこり、そのなかで東日本と西日本という地域の対立は、さらに東国・九州と西国・東北という対立として展開する一方で、朝鮮半島・中国大陸と沖縄・九州・西国・北陸・沿海(えんかい)州と北海道・東北など、周辺地域との新たな関係が生れてくるのである。
    (《十三 東と西を結ぶもの》P.253〜254)


     飛礫(つぶて)と騎馬武者

     十四世紀初頭の播磨(はりま)の悪党について『峰相記(みねあいき)』は、「異類異形ナルアリサマ人倫(じんりん)ニ異ナリ、 柿帷(かきかたびら)ヲ着テ、烏帽子(えぼし)袴(はかま)ヲ着ズ、人ニ面ヲ合セズ……柄鞘ハゲタル太刀(たち)ヲハキ、竹ナガヱ・サイ棒バカリニテ、鎧腹巻等ヲ着マデノ兵具(ひやうぐ)更ニ無シ」とのべ、それからニ、三十年後、「古キ馬ニ乗リ列レリ、五十騎・百騎打ツヾキ……兵具ノ類ヒ金銀ヲチリバメ、鎧腹巻テリカガヤク計也」となった悪党たちが、「矢倉ヲカキ、ハシリヲツカヒ、飛礫(つぶて)ヲナゲ……」猛威をふるうようになったとしている。
     山伏(やまぶし)、非人(ひにん)などの身につける柿色の帷(かたびら)を着て笠をかぶり、おそらく顔を白布でつつんだ悪党の姿は、「異形(いぎょう)」−この世ならぬ人の姿であり、それによって彼らは、世俗の縁にとらわれぬ行動の自由を確保したものと思われるが(勝俣鎮夫、岩波新書『一揆』一九八二。拙稿「蓑笠と柿帷−一揆の衣裳−」is総特集『色』ポーラ文化研究所、一九八二)、ここで目を向けておきたいのは、「サイ棒」、飛礫(つぶて)などの武器を駆使する悪党の「兵法」である。
     「サイ棒」は民俗的には「サイデン棒」「ザイフリ棒」などとよばれ、陽物を象徴すると推定される棒であり、一方では境に立てるサエ棒として使用されるとともに、他方では棒使いや棒術などの武術に発展し、長刀などにも通ずる武器であった。また飛礫は「印地打(いんじうち)」(図22)ともいわれ、破邪破魔(はじゃはま)の力をもつものとして、やはり根深い民俗を根底にもっているが、これも一方で「三丁つぶての紀平次大夫」(『保元物語(ほうげんものがたり)』)のような飛礫の名人を生み出すとともに「向へ礫、印地、云甲斐(かひ)なき辻冠者原、乞食法師ども」(『平家物語(へいけものがたり)』)「河原ゐんぢやとざまなる悪党の奴原」(『渋柿』)などといわれたように、悪党的な武器として用いられ、「印地(いんじ)の兵法」などを発展させていったのである。
    (《十四 東国と九州、西国と東北》P.255〜257)


     日本海沿岸地域と「倭寇(わこう)」 (12/10/05転記訂正)

     内乱はすでに日本列島内のみにとどまっていないのであるが、さらに注目すべきは、海をこえて朝鮮に渡った「倭寇」が数百艘(そう)の船団をなし、上陸しては騎馬集団となってかなりの奥地に入り、米穀などの食糧や人間を略奪(りゃくだつ)しただけでなく、才人禾尺(かしゃく)といわれ、芸能や皮革・柳器(りゅうき)の製作に従事した高麗(こうらい)の「賎民(せんみん)」たちとの共同行動を展開している事実である(田中健夫、前掲『倭寇』)。 懐良親王らの九州の軍事勢力が、こうした発想でその活動を半島にまでひろげたことは、やはりその背後に、半島と列島の海民の間に、記録に現れぬ密接な日常的交流があったと考えなくては、理解しがたいといわなくてはならない。
    (《十四 東国と九州、西国と東北》P.267〜268)


     東西の結びつきと対立

     甲斐の網野(あみの)氏についても同じことが考えられる。 私自身の家は江戸時代には百姓(ひゃくしょう)で、武士であった証拠はまったくないが、よく知られている恵林寺領(えりんじりょう)の検地(けんち)帳(永禄六年<一五六三>)には、網野を名字(みょうじ)とする人びとが見いだされる。
     一方、若狭(わかさ)国太良荘(たらのしょう)の日枝(ひえ)神社の梵鐘(ぼんしょう)の銘(めい)に、慶長(けいちょう)十七年(一六一二)、「時之御奉加、網野卜玄入道」という人が現れる。 この事実を丹後(たんご)の網野郷と結びつけると、一色(いっしき)氏の家臣となった丹後の網野氏が若狭に移って、一色氏没落後、武田氏の被官となり、甲斐(かい)にその一流が移ったとする推定も、まんざらありえないことではないと思われる。
    (《十四 東国と九州、西国と東北》P.273)


     それはともあれ、このように守護(しゅご)の家人(けにん)となった武士層の移動は、東西にわたってかなり活発であった。また熊野(くまの)の鈴木党の諸国への分散も有名なことで、海を通じての移動を含むこうした人的な交流によって、東西の結びつきがより緊密になったことは間違いないといえよう。
    (《十四 東国と九州、西国と東北》P.273)


     元号(げんごう)と叙位任官

     さきに、元号(げんごう)と叙位任官(じょいにんかん)は鎌倉期の東国国家も手を及ぼしえなかったとのべた。 これは現代でも同じで、元号と叙勲(じょくん)は天皇制の重要な支えとなっているが、この推定が認められるならば、改元については、この時期、たとえ短期間であっても、東国は完全に天皇の影響を離れたこととなる。 しかも、そこに日光がある役割を果したとみられる点に注目しておかなくてはなるまい。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.280)


     印判と書状の様式
     しかし興味深いことに、政治的にはまったく分解したこの時期においても、東日本の大名たちの間には間違いなく文化的な共通性があったのである。 日本の古文書学を初めて一個の独自な学問として体系化するとともに、地域社会の歴史にも深い関心をもつ相田ニ郎(あいだにろう)氏は、東日本の戦国大名たちの文書について、いくつかの顕著(けんちょ)な特徴を指摘している。
     その一つは、印判(いんばん)の使用である。 国内での通常の文書にはじめて印判を用いたのは今川氏であったが、その後、後北条(ごほうじょう)、里見、武田、上杉、伊達など、さきにあげた諸大名は、みな制札(せいさつ)天馬手形(てんまてがた)などの公式な文書に、さかんに印判を使った印判状を発給している。 そして西日本の大名にこの風のひろがるのは、信長・秀吉の勢威が近畿地方に及んでから以後のことであった(相田ニ郎著作集2『戦国大名の印章』一九七六、名著出版。『日本の古文書』上、一九四九、岩波書店)。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.285〜286)


     書札様文書(しょさつようもんじょ)−書状の様式、料紙(りょうし)折り方封式などについても、東日本の武人たちの間には独特な方式が行なわれていた。 まず、料紙に縦が長く、横の短いもの、竪切紙が使われることが多い。 また書状の本文を書き終わり、書き足りないことを書き加えるのを「追而書(おってがき)」といい、ふつうは、右端の余白、本文より下ったところに書き、順次行間に及ぶのであるが、東国では追而書のない場合、右端に「端書無之候」「端書無之」などと書くことがあり、追而書自体は、左の余白、差出所の上部、日付の上部、その前後から充所(あてどころ)の上部にかけて記す場合が多く見いだされる。 西国にはこうした例はないのである。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.287〜288)


     さらに、このような東国の書状は「横ノ内折式」といわれ、まず中間の一筋または二筋を内側に折り、横に細長くなったものを、さらに縦に細かく折って小さく折り重ねる方式でたたまれた。 そしてこの折りたたんだ書状を別の封紙で包む場合、また本紙自体を使って封をする場合も、この折り方をした書状は独特の方式による封が行われている。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.288)


     前者の場合は、封紙で本紙を包み、包んだ紙の上下を折り、折返した部分をそれぞれ紐(ひも)で結び、その紐の上、折返した裏面に封じ目を加える。 後者の場合には、二筋に内側に折り、それを中間で縦に二つに折ったのち、しだいに細かく左端へ向け裏側へ折り込んで左端で巻止め「ウハ書」を書いて封を加えた。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.288)


     このような横ノ内折式を用いた地域として、相田(あいだ)氏は奥羽(おうう)、関東八ヵ国、甲斐(かい)、伊豆(いず)、信濃(しなの)、越後(えちご)、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)などの東日本、上杉氏との関わりで飛騨(ひだ)、越中(えっちゅう)、越前(えちぜん)をあげ、西日本では九州の一角肥前(ひぜん)に例外的に見いだされるにすぎないと指摘し、「だいたい西国地方の文書は、旧来の礼法によく遵(したが)っていたのであるが、東国地方のものは旧来のものに反して、新しいものを用いる傾向が強かったのである。 旧来のものから論ずれば、新しいものであるが、また一面古い礼法の浸潤(しんじゅん)する程度が浅かったものとも考えられる。 かように浅かったから、そこから新しいものが生じやすかったものと思われる」という、東国と西国の、文化のあり方の差異をはっきりと意識した、的確な結論を下しているのである(「古文書料紙の横ノ内折とその封式とについて」前掲 相田ニ郎著作集1『日本古文書学の諸問題』所収)。
     戦前、一九四一年に発表されたこの相田氏の見解は、佐藤進一氏の鎌倉幕府=東国国家論とともに、厳密かつ学問的な根拠に基(もと)づいて、日本の東と西の違いを指摘した卓見(たっけん)といわなくてはならない。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.288〜289)


     東西、都市の形成−渡・津・泊・市・宿−

     たとえば、若狭(わかさ)の金屋(かなや)の地には、戦国期までに鋳物師(いもじ)たちが集住して鋳物師集落をなし、近江(おうみ)の鍛冶(かじ)屋の地には、やはり鍛冶が集まり住んでいる。 これは木地屋(きじや)檜物師(ひものし)陰陽師(おんみょうじ)など、他の職能民についてもみられるところで、宮本常一(みやもとつねいち)氏は農漁民の場合まで含めて、これを日本の村落の特徴としているが、むしろ、前述した西国の中世前期までの「職人」のあり方とつながる西国社会の特色とみるべきではないかと思われる。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.292)


     もとより、東国の場合にも都市の形成はみられた。 たとえば霞ヶ浦(かすみがうら)の南辺、小野川の入口に位置し、前述した「四十八津」の南津頭(みなみつがしら)の村となった古渡(ふっと)は、中世、浦渡宿(うらわたししゅく)といわれ、渡であるとともに宿であり、多くの小寺院が集まり、「宿中のおとな」の活動もみられる、多少とも自治的性格をもつ都市であった。 こうした東国の都市の実態は、これからの研究によって、さらに明らかになってくるであろうことは間違いない。 しかし、東国においては、西国のような同じ職種の「職人」の集落への集住という事態は、あまり見いだせないように思われるのである。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.292〜293)


     この点は、今後、さらに厳密に確かめていかなければならないが、「金屋」という地名は同じようにあり、鋳物師(いもじ)もいるとしても、そこを鋳物師集落とまではいえないように私には思える。 これは、中世前期の「職人」のあり方の東西の相違、座(ざ)を発達させた西と、親分・子分的関係の強い東との違いに関わりがあるのではなかろうか
    (《十五 東の文化と西の文化》P.293)


     むしろ逆に、東国で注目すべきは「宿」の広範な存在である。 常陸(ひたち)を歩いていると、ほとんどどこの集落にいっても、「宿」という地名にぶつかる。 それはやはり人家の集まっているところであるが、しばしばそのすぐそばに「館(たち)」という地名があり、また城跡などのあることが多いのである。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.293)


     こうした宿の淵源(えんげん)は『将門記(しょうもんき)』にみられる「服織宿(はとりのしゅく)」「鎌輪宿(かまわのしゅく)」などのような、館を中心とした集落にさかのぼり、常陸(ひたち)の大田文(おおたふみ)に郷名としてみられる鹿島(かしま)郡の下宿徳宿などをへて、戦国・江戸時代の宿につながるのではないかと思われる。 さきの浦渡宿や武蔵(むさし)の米川宿、陸奥(むつ)の河原宿などは、これらとはやや異なる事例であろうが、東国の宿の多くは、豪族(ごうぞく)・領主(りょうしゅ)の館・城と関わりをもっている点に特徴があり、東国の都市を考える場合、そうした視点が必要なのではあるまいか。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.293〜294)


     それゆえ、西国(さいごく)の場合、宿がしばしば被差別民とのつながりで理解され、事実、中世の非人は宿に属していたのであるが、西国・京都の組織が移入された鎌倉などは別として、東国の宿は多くの場合、まずそうした問題とは無関係と考えてよいのである。 同時にまた、さきの同業種の職人の集落集住に関わる東西の差異が事実として認められるならば、最近、注目を集めている江戸時代以降の被差別集落のあり方の、東日本と西日本の相違が、それに関係していることは、推定してまず間違いないと私は考える。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.294)


     こうした差別のあり方の東と西の差異はこれにとどまらない。たとえば東では問題にならぬ紺屋(こうや)が、西では青屋(あおや)として被差別民の中に入り、西ではそれ自体では問題とならない箕(み)作りが東では差別されるなど、文化や習俗のかなり根深いところに、なお解明されていない問題が多く残されているのである。 差別の問題を本当に克服するためには、機械的・公式的な方式ではなく、各地域の個性と実態に根ざした、きめ細かい研究に基(もと)づく努力が進められなくてはなるまい。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.294)


     天皇と頼朝−「由緒」と特権−
     こうした諸種の「職人」たちの特権−諸国を自由に通行・交易しうる特権が、鎌倉期から平安期にまでさかのぼることは、多くの場合、史実とみてよいが、室町記に入ると、それは多少とも伝説的になり、「職人」たちはその特権の由来、職能の起源を、特定の権威ある人物と結びつけて語る「由緒書(ゆいしょがき)」を作り、所持するようになりはじめる。 西国の場合、その人物は、ほとんどが神話・伝説上の人を含む天皇・皇后・皇子などであった。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.296)


     たとえば、さきの清水坂の非人−犬神人(いぬじにん)は、「延喜(えんぎ)御門」−醍醐(だいご)天皇によって自由通行の特権を保証されたとしており、それがいわゆる「河原巻物」につながっている。 また鋳物師(いもじ)が仁平(にんぺい)年中、近衛(このえ)天皇のとき、天皇の病いの原因となった「悪風」にも消えない鉄燈炉を献上したことに、その特権の起源があるとし、木地屋(きじや)が文徳(もんとく)天皇の皇子惟喬(これたか)親王に轆轤(ろくろ)を使う職能の淵源(えんげん)を見いだしていることも有名である
    (《十五 東の文化と西の文化》P.296〜297)


     さらに狩猟民(しゅりょうみん)としてよく知られている各地のマタギも、さまざまな由緒書(ゆいしょがき)、秘伝の類を所持するが、その大部分は、形こそ多様であるとはいえ、ほとんどが建久(けんきゅう)四年(一一九三)五月の頼朝の富士の巻狩に、やはり決定的な意味をもたせているのである。 そのうち、福島県南会津(みなみあいづ)郡伊北村田子倉皆川甚平家に伝わる「山立(やまだち)根元卷」は、もっとも有名なもので、日光山と赤城(あかぎ)山との戦いの中で、日光山に味方して赤城明神(みょうじん)を討った万三郎為信の伝説からはじまり、末尾に近く、 この巻物をもつ者が行き向かったときには「一宿致させ申すべく候なり」という頼朝袖朱印(そでしゅいん)、北条時政(ほうじょうときまさ)奉書を置き、さらに最後に「山立壱巻所持の者は、国々関所渡船、遅滞なく相通すべき者なり」という、建久四年五月の高階俊行(たかしなとしゆき)署判の過所(かしょ)を記している
    (《十五 東の文化と西の文化》P.300)


     同じように、秋田県大館(おおだて)市の木次谷家に伝わる「免状証文之事」も、富士の巻狩のときに藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末孫(まっそん)定六というマタギが召し出され、巻物を頼朝から与えられたとのべているのである。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.300)


     前述したように、頼朝が東国国家の首長(しゅちょう)であることを顕示(けんじ)した富士の巻狩(まきがり)が、東国の人びとの意識にいかに強く刻印されていたかを、これらの職人の伝承はよく物語っているといえるであろうし、またマタギの伝承が、日光山の「神話」から発していることも、さきの日光山の東国における位置づけに関連して、とくに注目しておかなくてはならない(前掲、千葉徳爾『狩猟伝承研究』)。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.300〜301)


     前に石工(いしく)が宋(そう)から渡来してきたことにふれたが、信濃国高遠(たかとお)の石工が所持する由緒書、石破先祖根本之証」では、その職能の起源を中国の黄帝(こうてい)に求め、聖徳太子のときに唐(とう)・百済(くだら)から職人が渡ってきたとする。 このこと自体、唐からの移住民のあり方を考えるうえで非常に興味深いが、由緒書はそのうえで「石細工之職人は、日本ハ申すに及ばず、海上の嶋々岳々まで障(さは)りなく石細工の職、致すべき者なり、此御書頼朝公より給われり」とのべ、文治(ぶんじ)三年五月十一日の頼朝朱印状の形にしてしめくくられており、これもやはり東国職人の意識の中で作られたものと考えなくてはならない(金森敦子「江戸社会における石工の位置」『日本の石仏』八号、一九七八、木耳社)
    (《十五 東の文化と西の文化》P.301)


     九州の「職人」と頼朝
     東国と西国の意識の上での差異は、戦国期以降の職人の場合に即してみても、頼朝と天皇と、きわめて鮮やかといってよかろう。 東国国家の権威も、天皇にさほどひけをとらないだけのものをもっていたことは明らかであるが、注目すべきは、九州の職人に頼朝との関係を強調した由緒、伝承が多く伝わっていることである。
     北九州に伝来し、肥前(ひぜん)佐賀の小川正治(おがわまさはる)、肥州南郷善九郎の署判をもつ河原巻物は、神話から説きおこした長大なものであるが、末尾は、治承(じしょう)四年三月二十八日の頼朝判物の形となっており、マタギの場合も、阿蘇(あそ)地方に伝わった「狩之作法聞書」や、大分(おおいた)県直入郡九重町の時松家に伝来する「御定狩評定」などは、みな東国と同じく頼朝の巻狩に関連させて記されている(千葉「前掲書」)。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.301〜302)


     西国と朝鮮半島
     これに対し、西国と東北の関係は、この面ではたどることができないので、むしろ西国の場合は、朝鮮半島との関わりに注目すべきではないかと思われる。 かならずしも通例とはいいがたいが、大坂の被差別民(ひさべつみん)が神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓御征伐(さんかんごせいばつ)の砌(みぎり)」に供をし、かの地で獣肉を食物としたのが差別の起源になったという、大変深刻な意味をもつ伝承を伝えているが、きわめて屈折した、裏返った形であれ、これは西国と朝鮮との前述したような深い関係を背景にしているとみてもよいのではなかろうか。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.303)


     もとよりこの伝承はまったくの虚構であるが、最近刊行された安宇植(あんうしく)氏編訳『アリラン峠の旅人たち−聞き書朝鮮民衆の世界−』(一九八二、平凡社)を読んで、私はここに描かれる朝鮮の商人、被差別部落民、芸能民、大工(だいく)、鍛冶(かじ)などの「職人」のあり方が、日本のそれとあまりにもよく似ているのに驚かざるをえなかった。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.303)


     それだけではない。 西国を中心にひろがった飛礫(つぶて)のあり方にしても、正月十五日、五月五日、八月十五日などの行事となっている点で、日本と朝鮮の民俗は酷似しており(前掲、中沢厚『つぶて』)、さらに江守五夫(えもりいつお)氏が近年の調査の結果として提示しているように、西国−京都の公家(くげ)を中心として広く見いだされる「一時的訪婚(ほうこん)」−いわゆる「招婿婚(しょうせいこん)」についても、朝鮮の習俗との類似は明白である(「日本の婚姻成立儀礼の史的変遷と民族−韓国との対比において−」『千葉史学』創刊号、一九八二)。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.303〜304)


     双方にみられる、といわざるをえない狭量な「ナショナリズム」をこえて、日本列島−とくに西日本と、朝鮮半島の民俗、民衆生活の比較研究が、差別のあり方、被差別民の存在形態まで含めて、大胆かつ厳密に、もっともっと活発にならなくては、両民族自身のそれぞれの自己意識も、相互の真に深い連帯も生まれえないのではないかと私は考える。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.304)


     江戸時代の東と西
     いま、この時期に入ってからの、東日本と西日本の差異について、思いつく問題をニ、三あげてみるならば、まず、貫高(かんだか)と石高(こくだか)の問題が目に入ってくる。 それはむしろ戦国期の問題ともいえるので、東国の戦国大名は共通して貫高制をとっているのに対して、機内(きない)・近江(おうみ)などは石高、西国の大名は両方を併用しており、概(がい)して石高が優位であったといってもよいと思われる。
     おそらくこれは、前述した荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の年貢(ねんぐ)の、東国と西国の相違、非水田的な年貢、絹・布などの繊維製品が圧倒的であった東国と、米年貢(こめねんぐ)が比較的優位を占めていた西国との違いに関連している問題であろうが、当面、注目すべきは、関東においては江戸時代に入ってからも石高(こくだか)制が貫徹せず、武蔵(むさし)の毛塚村では、軍役夫金(ぐんやくふきん)や夫銭(ぶせん)の割付けに当たって、村高=石高を基準とせず、田畑の年貢収納高としての京銭高(きんせんだか)=銭高(ぜにだか)が基準とされているという事実である。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.306)


     現代の東と西−新たな日本人像を求めて−

     またもしも、戦後、日本列島が分割され、東日本と西日本が別個の国の占領下に入っていたら、果たしてどのような事態がおこっていたであろうか。 おそらく、かなり性格を異にする国家が成立していたことは確実であろう。 これは単なる想像ではなく、十分にありえたことで、朝鮮半島でおこっている事態は決して対岸の火事ではなかったのである。
    (《十五 東の文化と西の文化》P.312〜313)


     もちろん、朝鮮の場合と同様に、日本列島においても、統一を回復するための必死の努力と運動がおこったに違いない。しかしそのときに、おそらくまず間違いなしに多くの血を流して、あらためてみずからのものとした日本人像、日本民族の意識は、現在のような、ぼんやりとした薄っぺらなものとは、はるかに違ったものになっているに相違ない、と私は思う。 少なくとも、次代の世代を育てる教科書のなかで、天皇の死を「没」にかえてみたり、また中国・朝鮮に対する侵略を「進入」としたり、朝鮮人民の蜂起(ほうき)を「暴動」といいかえ、中国人・朝鮮人、さらには沖縄人に対する虐殺(ぎゃくさつ)を隠蔽(いんぺい)するような恥知らずなことは、絶対におこりえなかったであろう
    (《十五 東の文化と西の文化》P.313)


     つい横道にそれてしまったが、話をふたたび西国・東国の論にもどすことにしよう。 とくにその中世史の分野についていうと、まず東国の独自性を主張する一派は、在地領主の家父長的な支配を強調し、それにもとづく主従制原理につらぬかれた武家政権を軸に中世国家をとらえようとする。 いわゆる領主制論の一派であるが、その代表が竹内理三・石母田正・佐藤進一・石井進などの諸氏。 それにたいして座的な構成をもつムラ、村落の平民百姓を支配下におく荘園・公領の支配者、公家、寺社、武家などによって相互補完的に形成される権力として中世国家を理解しようとする反対派が存在する。 たとえば中村直勝・黒田俊雄・大山喬兵などの諸氏。 おおざっぱにいって東大派が東国自立性論、京大派が西国独自性論と分かれている。 この学説の対立が遠心分離機にかけたように鮮やかな学閥の色分けと重なっているところが、東西対抗の紅白歌合戦をみているようで興味を引くのだが、著者の網野氏もまた率直に「東国」派に所属すると名乗りをあげている。
    (《解説 山折哲雄》P.323)


     あげていけばこれ以外にも、東西を分かつ政治・文化的指標にはこと欠かない。 本文によってみていただくほかはないが、とくに〈東西の交流〉の諸現象についても著者が注意を喚起しているところは重要だろう。 物資をはじめ職人や芸能民の移動、山民・海民の横断的な活動、東西にわたる海上交通の拡大と対外貿易の進展などであるが、そのなかでやはり特筆すべきは、東国武士の西国移住という問題ではないだろうか。 ときあたかもモンゴルの襲来という国難が発生し、西国の防備を強化するため国家的な要請として東国武士に動員をかけたためであった。 それはおそらく東の言語や婚姻慣習が西に伝わる一因ともなったであろう。
    (《解説 山折哲雄》P.325〜326)


     これ以上、重ねることはないだろう。 一言ででいえば網野さんは、東と西の対抗関係のなかで日本の歴史を考えようとしている。 東の日本、西の日本のかもしだすさまざまな史的物産をくり出して、その特色・優劣を競わせようとしている あの「東西対抗」のストーリーである。 大相撲でも、呼出しが土俵にあがって「ひがァしィ……、にィしィ……」と声をはりあげる。 勝負のあと軍配をあげるのが行司である。 網野さんは本書において、その呼出しと行司の二役を演じているわけである。 歌舞伎の口上でも座長が「東西(とざい)、トーザイ」と観客に呼びかける。 それはほとんど日本全国のみなさま、みなさま方、という掛け声と変わらない。 拍手喝采が大向こうからかかる。 こたえられない瞬間だ。 それだけではない。 神社仏閣に行けば、入口のところに狛犬(こまいぬ)や仁王(におう)さんが東西にすえられている。 それぞれの口元が開閉の形になっている。 いわずとしれた阿吽(あうん)の呼吸で、いわば対抗者同士でエールを交換しているのである。
    (《解説 山折哲雄》P.326)