[抜書き] 『山伏』


『山伏』和歌森太郎・中公新書
2001年3月30日 復刻版再版
    目次
    まえがき
    T 山伏の印象
    U 山伏の起り
    V 中世山伏の活動
    W 峰入り修行
    X 山伏の組織化
    Y 定着山伏の実態
    付録 信仰対象の日本の山々
    参考文献


     彼らが里方(さとかた)に檀家を広く持つようになり、これをめぐって札(ふだ)をくばったり、護摩(ごま)をたいて真言の加持祈祷をすることにその仕事の半ばをさくようになってから、だんだんに衣装その他持物に至るまで華奢を好むようになったのである。 模様こそないけれども、色の染められた衣を着るようになったのは、そうした檀家めぐりに、彼らが重きをおくようになってからのことである。
    (《T 山伏の印象》P.6)


     明治維新以来、公には職業としての山伏は認められていないが、実際上は地方に帰農してしまった昔の山伏、あるいはその一党のものが、いまでもその宗教的修行のために組織的に団体をなして、何日かをかけて山に登るのである。 同じようなことが山形県下の出羽三山についてもある。 また一時、彼らの姿を見なくなった大分県下の国東(くにさき)半島においても、最近はこれが復興してきている。
    (《T 山伏の印象》P.6)


     こうした天狗のイメージと山伏のイメージとが結びついたのは、鎌倉時代のことである。 山伏は一般人がなし得ないような激しい荒行を積んで、まじないのすべてを会得し、里方(さとかた)の要求にこたえて、不思議な未来のことを予言したり、さきに死んだ人たちの思いをこの世にうつし出してみせたり、怪しいことばかりする。 おそらくは天狗が山伏に憑いているか、天狗が化けて山伏の姿になっているのではないかと思われたりした。
     しかも当時の山伏は、たしかに修行にも精魂をこめて当ったし、里に迎えられる人気も高く、尊敬されていたことから、とかく高慢で、うぬぼれる傾向があった。
    (《T 山伏の印象》P.10〜11)


     宗教的な性格がうすらいで俗っぽくなったといっても、戦国時代のあたりだと、各地の大名、豪族に贔屓(ひいき)されて、一種のスパイのような、密偵の役割を命じられたりして、かなり重宝がられたところもあった。 けれども、近世に入るとそのような必要もなくなり、山伏の迎えられる世界は、まったく封建的圧制のもとに苦しむ民衆の、不安な生活の場に限られるようになったのである。
    (《T 山伏の印象》P.13〜14)


     どこからともなく現われ、どこへともなく消え去っていくというふうな、出没自在の山伏の姿も中世のものである。 近世には村人のなかに不動明王の像を置いた堂などを持って定着し、民衆の病気をなおし、憑きものをおとしてやったり、個人や家の運勢を見てやったりというような仕事に専念するものになっていた。 だから、ところによっては、彼らが集団的一つの集落をなしていたところもある。
    (《T 山伏の印象》P.14)


     このように一部落をなすほど集まっていながら、おりおり旅に出て、他郷の民家に門付(かどづ)けするようにして、祈祷やまじないに当っていたのである。 佐渡の外海府(そとがいふ)あたりには能登の石動(いするぎ)山に根拠した山伏が近代までおとずれて家々をめぐり、祈祷をしてくれたものだが、この「能登坊さん」なるものは、かなり気味悪がられていた様子である。 しかし一般には、近世の彼らは民衆には親しみをもって尊敬されていた。
    (《T 山伏の印象》P.14)


     今日でも、神社の神主がどの地方のどの村のなかのどんな小さな神社にも付随して仕えているということはないのであって、むしろ村の氏神などには、だいたい神主がいないといわれるのが普通なくらいである。 いま言ったような神主化した山伏は、いくつかの神社をかけもちするものであった。
    (《T 山伏の印象》P.16)


     山伏が神主になったところでは、ことに関東、中でも東京都下の郡部では、これを別当と呼ぶふうがあった。 村の人々が別当さんと呼んでいる場合、普通にいう神主のことにちがいないのであるが、これをあえて寺院職制に現われるような別当ということばでよぶのは、多くは山伏から転じたものについてである。 これは神仏習合して、神社と寺院が密接な関係をとりつつ、共存していた時代からの名残りである。
    (《T 山伏の印象》P.16)


     同じような関係で、ところによっては神主を法印さんと呼んでいる場合がかなりある。 文字どおり法印とは元来、仏僧の位の一つであった。 それが中世末以来むやみに、ちょっとした仏教関係の功労で授けられるようになったものであり、下級の末輩にもその号が寄せられるようになった。 山伏もまた、しばしばそのように呼ばれるに至った。 寺院から見ればその神宮寺、神社から見ればその鎮守の寺というふうに、相互関係が緊密になっていたところでは、神社自体に特定の守り役をおかず、寺の法印に神社の当番を頼んでいたところがある。 これが別当のおこりであるけれども、今日の伝承では、なお、法印さんと呼ばれるもので神主化した山伏の例が多い。 山伏神楽のことを法印神楽と呼ぶことも、東北地方にしばしば知られるところである。
    (《T 山伏の印象》P.17)


     陰陽師は、実をいえば土御門(つちみかど)家などの支配をこうむるものであった。 山伏が、その支配の外にあって、盛んに陰陽道による招魂祭とか、鬼気(もののけ)祭とか、竈(かまど)祭夏越(なごし)祭、また厄神(やくがみ)祭とか火●(ひぶせ)祭などを行なっているのに対して、土御門家から咎めてきたこともあったけれども、幕府の寺社奉行などはそれに頓着なく放任していた。
    (●:ウ冠に”火”)
    (《T 山伏の印象》P.22)


     こうして山伏は、いよいよ祈祷を本領とする行者としてのタイプを固めていったのである。 したがって彼らの行なうものは、口寄せ巫女が行なうわざと同じに、はなはだ怪しげな人心を惑わす迷信であると見られた。 それでなくとも、神仏をはっきり分とうとする明治維新政府の忌諱するところとなり、山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治五年九月十五日付の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。 そうして、およそ十八万人もいた山伏たちは帰属を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあっのである。 こうして、今では大峰山や出羽三山に特別の信仰を寄せて、峰入り行事の型をもって山詣する在俗の信徒が山伏の姿をとるので、そのイメージをしのぶことができる程度である。
    (《T 山伏の印象》P.22〜23)


     天界には神がいる。 その神が人の世界に降臨するときには、まずもって山頂にその拠を占めると考えられた。 したがって、山の頂にはしばしば祭場が設けられた。 日本ような、どこの土地に立っても周りを見わたせば山が仰がれるといったような、列島の地形の上では、当然、山に対する関心がもたれやすいけれども、とりわけ農耕社会が発達してくると、そのために必要欠くべからざる灌漑用水の水源地としての山が、ありがたく思われてくる。
    (《U 山伏の起り》P.26)


     また『出雲風土記』に三つの例を見るように、神奈備山(かんなびやま)というものが出ている。 それはカンナビ、つまりカンナミカンナギ(神祗)の山である。 のちに神奈川の語源となった神奈備川というのも、神が流れおりてきた神聖な川という意味であった。 だから神奈備山というのも、神の籠っている山ということであった。 水分りの神の信仰にも関連するように、神奈備山は同時に神奈備川を流し落すところである。 だから山の神はまた川の神でもあったわけである。
    (《U 山伏の起り》P.32〜33)


     フタラサンという名は、もちろん観音の浄土補陀落から起ったもので、それまでは男体、女峰、太郎といったような親子神をもって、この山々をとらえただけであったが、補陀落の浄土とされるに到って、それを二荒(ふたら)と称するようになったのである。 しかし、平安の末あたり、この二荒を好字でないとして、音読みにする場合にニコウと読めるところから、日光と書き改めることになってきた。 この山に太陽信仰が寄せられていた昔の事情が、よみがえったともいえる。
    (《U 山伏の起り》P.42〜43)


     子どもの出産が近づいてきたとき、あるいは宮廷の女性たちの天皇や皇太子との関係がじゃまになったりするとき、一身の利益をはかるだけのことで、験者を招いて呪法を行なってもらうのであった。
     こうしたことは、真言宗や天台宗の加持祈祷を本領とする僧侶たちを、すこぶる優遇することになり、彼らの貴族宗教界における地位は確乎としてきた。 しかし真言師としての面目は、ただ仏教の経典に通じているというだけでは、信望を集め得なかった。 その修行の前歴に、山間において激しい修行をしたことが必要であった。 したがって、後を継ごうとするものは、競って山々の回峰修行、いわゆる抖●(とそう)頭陀(すだ))の行(ぎょう)にいそしむのであった。 そのために、地方の山々はほとんどすべて、そうした仏教者の踏み込むところとなっていった。
    (●:手偏に「數」)
    (《U 山伏の起り》P.48〜49)


     御嶽詣のためには、事前に五十日、あるいは百日もの精進をしなければならなかった。 古い日本の信仰では、神聖なところに接する前には、物忌潔斎を長くし、俗界から離れることが肝要であった。 それが藤原貴族たちにはよく守られていた様子がある。 禊祓(みそぎはらえ)をすることも当然のようになっていた。 文学の上にしばしば現われる「みたけさうじ」(御嶽精進)というものがそれである。
    (《U 山伏の起り》P.56〜57)


     中世の山伏は、飄然として人里を訪れ、宿を求めては奇怪な言動をなし、またどこへともなく去っていくという体のものであった。 山伏が魔法使いではないかということについて『足利季世記』のなかに、「京の管領、細川右京太夫政元は、四十のころまで女人禁制にて、魔法、飯綱の法、アタゴ(愛宕)の法を行ひ、さながら出家のごとく山伏のごとし」と見えるが、こうしたことは近世の初期でも見られたことで、『慶長見聞集』のなかには、江戸の町で正学坊という山伏が、口のうちで火を焚いて見せたという奇怪なことを実見した様子を記している。
     このように、山伏は単なる真言宗や天台宗の加持祈祷師とちがって、奇術めいたことまで可能な力をもっている。 したがって、忍者的な動きもできると見られていたのである。
    (《V 中世山伏の活動》P.70〜71)


     一般人の不可能を可能にしてくれるたいした人間であると、彼らは仰望されていた。 山伏はそうした呪術のために、道具を多く使うとか、経典を長く読むということをしなかった。 だいたい山伏の勤行(ごんぎょう)といえば、天台系の修験者ならば、懺法阿弥陀経がよめれば結構だとするのが常識だったらしく、『義経記』にも、北国落ちするにあたって、山伏に化けるにしてもどれほど用意をしたらよいか案ずるくだりのところに、そう記されている。
    (《V 中世山伏の活動》P.72)


     呪法はほとんどイラタカの数珠一つで、あとは指の結び合わせように従って、真言を唱えることでこれを果すのであった。 だから笈の中にもそうたくさんの道具があるわけではなく、いちおう小さな仏殿をしつらえるに足るものを用意していた。 やはり『義経記』の中に、山伏らしくするために、独鈷(どっこ)、花瓶(けびょう)、火舎(かしゃ)、閼伽杯(あかつき)つまり水入れを笈の中に入れたとある。
     求められて加持祈祷を行なう場合には、笈のなかからこれを出して飾り、イラタカの数珠という綾角のゴツゴツと突き出た数珠を使い分けながら、九字を切り、を結び、陀羅尼をとなえるのであった。 陀羅尼、つまり呪言としては、「オンアビラウンケンソワカ」といのがしばしば用いられていた言葉である。 狂言のなかでは、これをしいて訛った言い方で、「オンボロオン」と、半ばからかい気味な表現にしている。
    (《V 中世山伏の活動》P.72)


     呪法を行なうにあたって、まず自分の入峰修行の経歴がどんなものであるかを、誇らかに述べたてる。 夜叉明王や蔵王明王、あるいは不動明王、大威徳王といった密教の明王部の諸王を呼び出して、自分がいかに熱心な修行者であるかを伝える。 たとえば、大峰に入ること七度、那智の滝に打たれること三度、などと言いながら、この願行を成就させよと唱えるのであった。 その様子は『太平記』にくわしい。
    (《V 中世山伏の活動》P.73)


     山伏の袈裟は結袈裟(ゆいげさ)といわれたが、九条の衣を畳み刺して作ったものであり、したがって九界の衆生を結び合わせるものであると説明された。
    (《W 峰入り修行》P.93)


     中世には山伏が、いわば自由通行者とし各地方に往来できたことから、偽山伏も出たことは前に述べたが、そんな関係で山伏同士がすれちがった場合に、問答を交換することが行なわれた。 それぞれの立場とし行動に関して、どのような教義をはっきり言うことができるか、それを確かめ合うのであった。 したがって、山伏姿で落ちのびていった義経一行が、もし途中で本物の山伏に会って問いかけられたとき、各地の山のもつ仏教的な意味、あるいは山伏の礼儀などについて問われたら、このなかのだれがはっきり答えていけるがろうか、という心配を義経がしたように『義経記』には記されている。 その問われそうなことは、葛城、大峰、釈迦ヶ嶽のありさま、また蔵王権現の眷属神八大金剛童子、富士山についての教義上の観念であったということになっている。
     そんなことから、本来、説教ということにそれほど重きをおかなかった山伏も、中世の最期になると、かなり弁舌さわやかに滔々とまくしたてた。 『普通唱導集』にいわゆる「富楼那(ふるな)之弁舌」であり、「説教師」と紙一重の違いであった。 ちょうど『勧進帳』で弁慶が語るように、修験道の若干の教義を述べたてるようになったのである。 これを山伏説法といっていた。
    (《W 峰入り修行》P.96〜97)


     山伏相互のあいだに説法の交換が行なわれたほかに、出家の坊主とのあいだにも問答が行なわれ、伝説では、日蓮と甲州の金剛山胎蔵寺の辻房法師とのあいだに「山臥問答」が行なわれたと言われている。
     また、『甲州小室山伏問答記』という版本も江戸時代には出ている。 それは日蓮と山伏恵朝阿闍梨(あじゃり)との験比べを物語ったものである。 その伝えによれば、日蓮のほうが勝ったといわれている。 これはもちろん事実として問題にすることではないけれども、こうした宗論めいたことが、中世の末から江戸の初期にかけて行われたらしいのである。
     このような問答に現われてくる説法が母体となって、「山伏祭文」が現われたわけである。 祭文は神道や陰陽道において、神霊に対する捧げ文であって、神祭仏会(ぶつえ)の宗教的意義がどういうものかを説いたのが本来であろうが、当時はこれを聴聞する信者たちによく聞こえるように朗々と誦するのがつねになっていた。 しかもその誦し方には独特の曲調がともなっていた。 今も残る京都太秦(うずまさ)の広隆寺の牛祭祭文などは、その種の代表的なものである。 それは「謹請再拝謹啓」にはじまり、九月十二日摩多羅神(まだらじん)を敬いまつり、招福除災を請うについてはと、世界のあらゆる神々の神おろしを漸次していって懺悔を促し、天下安穏、寺家泰平、悪病退散を祈る趣旨をユーモアをまじえながら綴ったのである。
    (《W 峰入り修行》P.97〜98)


     祭文にも種々の名目のものがあり、やや珍しいものでは、武州文書に引かれた延文六年九月九日付の『市場祭文(いちばのさいもん)』などがある。 その祭文に、
      それ市といっぱ私のはかりごとにあらず
      伊勢天照大神、住吉大明神の
      御はかりごとなり
    と、いかにも山伏の言いそうな言い回しではじまることばが見える。
    (《W 峰入り修行》P.98〜99)


     本山派の山伏たちを支配し、秩序づけるために、グループごとに役人のようなものを任じていった。 それが「先達年行事」の職である。 その任命は聖護院門跡からされるのである。
     先達年行事は諸国の(かすみ)ごとに置かれた。 霞というのは、今日でも東北地方になおはっきりと残っているが、要するに山伏の檀家区域ともいうべきものである。 これは仮住(かすみ)の意味だと説明されてきているが、ほんとうのところはわからない。 むしろ縄張りを引いたといったような意味として、もともとカスミという民俗語があったように見られる。
    (《X 山伏の組織化》P.110)


     このような年行事の上に、入峰を数回以上行なった練達の先達がいたのである。 そして年行事は一郡、二郡と、霞のうちの同行(どうぎょう)−−同行というのは山伏であり、また檀家の信者たちであるが、この同行を支配したのに対し、先達以上は一ヵ国、二ヵ国と霞同行を支配するとあるから、年行事の上級概念として先達があったのである。
    (《X 山伏の組織化》P.110)


     山伏を外部から見た史料は必ずしも多くはないし、またそれが非常に散在しているけれども、彼らの修行のプロセスや作法をこまかに規定した内側からの文献となると、江戸時代にはすこぶる多く作られている。 こうした教義書の類を見ると、しいて本山派は本山派として、当山派は当山派として、その独自な性格を打ち出そうとした様子がみえる。 同じような修行をするについても、本山派ではどういう、当山派ではこういう、というふうに、ちょっとしたところに区別を立てたのである。 サイトウ護摩にしても、本山派は採灯護摩、当山派では柴燈護摩と書いたりしている。
    (《X 山伏の組織化》P.118)


     だいたい修験道では、やたらにものを書いて伝えるとか、たくさんの解説書的なものを書き止めておくというようなことは避けた。 ほとんど口伝によるところが多かった。 つまり若い山伏たちに対して、先達が口ずから教義を授けるのであった。 いま見られる江戸時代にできた教義書は、「山伏」という語を分析して仏法の哲理で説くところからはじめて、開祖の伝承や修験道の修行過程についての口伝を筆者したものもあるし、また新たに江戸時代の山伏によって衒学的な筆をもてあそばれた結果のものである。 成文化した経典の中にも、随所にあとは師の口授に従うと述べているところが多い。
    (《X 山伏の組織化》P.118)


     戦国の時代には山伏の志願者もまた一段とふえてきた。 そのなかにはさまざまのタイプのものがいた。 頭髪の様子によって、長い髪を切り下げにした下山伏、それから上に束ねている摘山伏、頭をまったく剃った比丘形の山伏として剃山伏など、ひとしく山伏とはいっても、だいぶ様子のちがうものが混っていたのである。
    (《X 山伏の組織化》P.120)


     姿かたちの上から見た山伏のタイプは、右にあげた三つであるが、また身分上の差別もつけられていた。 たとえば、本山伏に対して晦日山伏というものがある。 新たに組織に加入して、祈祷などのことに従事したが、その労がいちじるしいものがあるから、抜擢して本山伏に準ずるものにするというようなことが見られた。
     しかし、だいたいは本山伏そのものについて、入峰の度合いかんによって区別をつけること前に述べたとおりである。 したがって、今にのこる教義、教則の類でも、日待月待庚申待の作法とかさまざまの加持祈祷−−除魔治病刀や馬の加持火伏せ金神除法虫ばらい盗賊よけ疱瘡のまじない狐退治蛇よけ止雨請雨月経加持安産夫婦離別の呪い等々の、総じてまじない作法などは江戸時代に書かれたけれども、峰中の修行についての教則は、中世末から本山、当山各派が整え出したようである。 そしてこれを役小角聖宝の撰だと称していた。 前に上げた十種の峰中儀礼はそれぞれの修行場のしつらえ、諸道具の配列を厳粛にし、荘厳な雰囲気で、深遠な観想へと導く手順を追うことに重きをおいたものである。
    (《X 山伏の組織化》P.122)


     山伏の身分は最高を大越家といい、次を大宿大先達正先達先達新先達度衆新客などの順次が、当山派にはできていった。
    (《X 山伏の組織化》P.125)


     児島山伏の上級にあったものは「五流」と称していた。 それは後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王が新熊野検校となり、承久二年の都の乱を避けて児島にきたり、尊滝院と称する坊を起して住みついたことに由来する。 ついで後鳥羽院の皇子の頼仁親王もここに流れてきた関係で、皇室との縁の深いところになったのである。 覚仁法親王のもとに頼仁親王の子どもが弟子となり、道乗僧正と称した。 以後その法跡が六人の子を通して分派したことになっている。 六人のうちの一人が尊滝院、あとの五人がそれぞれ五院の主となった。 それが「五流」である。
     その流れは皇孫が継承して守ってきた。 途中で門戸をひらいて他姓のものを入れたこともあるが、それでも五流の系統は、どこまでも皇族系統であることを主張しつづけていた。 建徳院尊滝院伝法院報恩院大法院吉祥院の六つの院に分かれていたその系統が、どうして五流といわれたのかは明らかではないが、尊滝院が最初の成立で別格扱いされたからであろう。 とにかくその五流だけは世間では公卿と称していた。 それぞれ長床の宿老がおり、大先達になっていたと言われる。
    (《X 山伏の組織化》P.125〜126)


     耶蘇会士フランシスコ・ザヴィエルがヤジローから聞いたとして報告している山伏は、「断食し、百日間貞潔を守って、それから山腹にある大森林に入り、多くの偶像のある隠棲所に寄って行をするので、山から種々の叫びや音が聞え、火焔がみえる。 懺悔者は、その森に七十五日間とどまり、毎日掌にのせうる以上の米を食べない。 三度以上水も飲まない。七十五日の終りに、さらに後方の荒山に集まる」といわれているが、これはヤジローの故郷の関係から考えて彦山山伏のことと考えられる。 やはりここにもすさまじい修行が行なわれていたのである。
    (《X 山伏の組織化》P.130)


     さらに入峰用の衣裳、道具類についてもこまかく規定され、本山派では十六の道具として、兜巾篠懸結袈裟法螺念珠すなわち数珠、肩合(かたあわせ)、金剛杖引敷(ひきしき)、脚絆火扇芝内(打)、走索(はしりなわ)、藁履(わらぐつ)を挙げている。 九州の彦山では火扇以下の四つをはぶいて十二の道具としている。
    (《X 山伏の組織化》P.130〜131)


     地方の道場で組織化された山伏の一人が、他の山岳道場を目指して修行にきて参加することも多かった。 その山伏たちは新客と呼ばれた。
     出羽三山、ことに羽黒山に拠った山伏なども、この時代に各地に檀那を求めて霞を張りつつあったが、東北地方の伊達氏、最上氏などが熊野信仰のあつかったことと関連して、この地方一般における熊野信仰の普及に貢献したので、しきりに熊野へ参詣していたし、大峰にまで入ることがあった。 また中央の大峰を中心とした修行場にもっぱら勤める山伏たちも、おりおり地方の山入りに下向していったものである。 狂言に書かれている山伏たちのなかには、このような下向道中の山伏が引き起した事件を題材としたものが多い。
    (《X 山伏の組織化》P.131)


     戦乱の世においては、寺々はその維持経営に何かと困難をおぼえがちであったから、寺僧たちのなかにも、たとえばのちの若衆組の源流をなす若衆組織を整えて、その任に当らせたところもあるが、また山伏衆にこれを委任したところもあるのである。
    (《X 山伏の組織化》P.136)


     根来(比)山や高野山においても、山伏方と学侶(学僧)との争いがしきりにあった。 ことに高野山では、秀吉の知遇を受けて、一山の沙汰権まで握った木食(もくじき)上人が山伏として行人方に属していたところから、彼らはさらに勢いづいたのである。
     木食はもと佐々木氏の家来であった。 出家して高野山に入り、木の実や果実を食べて米穀、野菜類をぜんぜんとらなかったので、木食上人といわれたのである。
    (《X 山伏の組織化》P.136)


     「柴燈」のサイトウにせよ、「採灯」のサイトウにせよ、本来の仏教上の言葉ではない。 これは民俗語としてのサイ(サエ)に由来する。 サエは遮る、境いを意味したが、境いの地にあって大きな火を焚く、いわゆるサイト焼きといわれる小正月の左義長(さぎちょう)のような行事を、密教の寺院内で行なう護摩壇の護摩木と結びつけて、山伏たちが独特な屋外行事として仕上げていったのである。 民俗としては道祖神まつりでもあったサイト焼きが、修験道にとり入れられて、重要な山伏行事と化したわけである。
    (《Y 定着山伏の実態》P.145)


     年貢以外の諸役が、戦国大名時代と違って赦免された様子は、関東、中部地方あたりの史料にはみえる。 しかしいっぽうでは、中世後期以来いちじるしかった山伏方の出家方に対する優越が、この機会にとりはらわれてしまった。 たとえば慶長十二年十二月八日ころ、かねて関東の山伏は毎年峰入りに際し「寺方」から役銭を徴収してきたのに、出家方の浦和玉蔵院看海が抵抗し、これは古来の法ではないかと訴えたのについて、幕府は出家方の言い分を当然として、以後、山伏の寺方への圧力を断ち、両方をそれぞれ政治的に取りしまるように導いていったのである。
    (《Y 定着山伏の実態》P.151〜152)


     修験道界が時の権力と結びついて、かえってその宗教的実践の停滞を招いた例は、日光においていちじるしい。 日光はかつて小田原北条氏に加担して、秀吉の弾圧をこうむったときには非常な荒廃ぶりであったが、天海がここに入り、東照宮の霊廟ができるに至って、日光の中心が輪王寺、二荒山神社をさしおいて東照宮に移ってしまったために、ここの修験道は活気を失ってしまったのである。
    (《Y 定着山伏の実態》P.165)


     実際、山伏は諸国をめぐったあとの新知識を村人に与え、寺子屋で子弟の教育に一役買うなど、私的指導者としての地位をもっていたが、そのほか村祈祷はむろんのこと、火伏、虫送り、厄神送りに、妻の巫女と協力して携わる。 したがって東北地方の山伏神楽、あるいは番楽、また湯立の祓の呪法から発展した神楽舞なども、独自の芸能として伝えることがあった。
    (《Y 定着山伏の実態》P.168)


     東北地方あたりでは、近世にも、山伏の師資相承による切紙作法が伝わっていて、その別伝と称する七ヵ条は、祈雨法飛行法剣渡法火生三昧法(火渡り)、陰形術法(身かくし)、湯立神楽不動金縛法は、とりわけ秘法とされていた。
    (《Y 定着山伏の実態》P.168)


     明治維新によって、その政府なりの合理主義が、このような山伏のあり方に対して、疑問を抱くことは当然であった。 神仏混淆というものを否定するのと合せて、文明開化の線からみれば、怪しき迷信を流布していると思われる山伏を廃絶せねばならないと思うのであった。 この政策が民衆の生活秩序意識や、やむにやまれずしてそうした山伏を頼りにしてきた態度を、ぜんぜん無視したものであったことはいうまでもない。
     山伏を否定するにしても、山伏と結びついてきた民衆の生活感情を、新しい国家体制、また文化政策の上で十分に吸い上げながら、なにか打ち出すべきであったのである。 しかし結果は神社の国家神道化による天皇制の強化をはかることですりかえられていった。
    (《Y 定着山伏の実態》P.173〜174)


     こうして公には山伏は明治五年九月以来いなくなったことになる。 山伏は真言、天台の両宗に所属させられるか、神官となるか、帰農させられた。 けれども、実際にはなお民衆の峰入り修行の指導者としての山伏に関してだけは存続しているし、そのもとで一般人のなかからも山伏姿をとって、山をかけめぐろうとするものも、なお若干続いているのである。 公には山伏でなくなったものを、やはり先達としてたのみ、村中の少年たちが、一種の成年式的な意味で霊山に参るふうも各地に伝承してきている。
    (《Y 定着山伏の実態》P.174)