[抜書き] 『馬・船・常民−東西交流の日本列島史』


『馬・船・常民−東西交流の日本列島史』
網野善彦/森浩一・講談社学術文庫
2003年7月18日 第7刷
    目次
    原本まえがき・・・網野善彦
    T 馬の活動と人間の争い
      一 東国の騎馬軍団
      二 東国の渡来人と馬文化
      三 東と西、馬と船
      四 隼人と馬
      五 犠牲獣と馬
      六 豪族・武士団の地域性
      七 楠本正成の背景
      八 弥生の高地性集落と中世の城
      九 海に向かう城
    U 海からの交流
      一 北陸・能登
      二 港を押さえた豪族・寺社
      三 商業活動と信仰
      四 隠岐と佐渡
      五 吉野ヶ里遺跡と神崎荘
      六 出雲と越
      七 海村の都市的性格
      八 瀬戸内海・伊予
      九 太平洋側の動き
      十 スケールの大きい海の交流
    V 歴史の原像
      一 鋳物と塩の交流
        1 鋳物師の活動
        2 塩の交易
      二 隠された女性の活躍
      三 名前と系図
      四 天皇と「日本」
        1 大王と天皇
        2 「日本(ひのもと)」
        3 天皇と国家
        4 アジール吉野
    原本あとがき・・・森浩一
    解説 岩田晶
    本書に引用した研究者略歴


      一 東国の騎馬軍団
    [森] 古墳時代を前期・中期・後期に分けた場合の後期古墳は、地域によっては七世紀にかなりくい込むところと、七世紀のごく初めで終わるところもありますけれども、だいたい盛んに古墳が造営されるのは六世紀代です。その後期古墳をみておりますと、近畿地方の場合は古墳にあまり武器は入れない。 非常にたくさんの刀や矛(ほこ)、今日では槍(やり)という言葉も使いますが、あるいは弓矢の矢、とくに鏃(やじり)(矢尻)などを墓にいれるのは、四世紀代の前期古墳に多い。 それから五世紀代の古墳も、刀や剣をたくさん入れます。 たとえば、私が戦後すぐに掘りました大阪府南河内郡美原(みはら)町の黒姫山古墳では、甲(よろい)と冑(かぶと)を二十四個ずつ石室に入れていました。 そういうように、非常に多いのは四世紀から五世紀、とくに五世紀の中期古墳なのですけれども、六世紀になると、多数の武器は入れない。 奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町の六世紀後半代の藤ノ木古墳のように六本の刀剣、刀五本と剣一本を入れていたというのは、近畿地方の後期古墳としては、武器が多い例になるわけです。
     そういう目でみると、関東地方の後期古墳は概して武器が多い。群馬、栃木、茨城、千葉あたりの古墳は多くの刀が副葬されているし、それ以外に馬具も入れています。 千葉県木更津市の金鈴塚(きんれいづか)古墳のように、藤ノ木古墳より少し年代が下がる古墳でも、たくさんの武器・武具・馬具を入れている。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.12〜13)


    [網野] それから、私は、なぜ防人(さきもり)を東国から動員したかが、いまでも不思議で仕方がないのです。 岸俊男さんが、白村江(はくすきのえ)の敗戦で西国の軍勢が大きな打撃をうけたので、東にしか頼る武力がなかったとおっしゃっていたと思いますが。 確かにそうしたことはあったのでしょうけれども、しかしなぜ、あえて東国から軍勢を動員して、長い距離をわざわざ九州や対馬まで旅をさせるようなことをやったのか。 また、東国人自身がなぜのような大きな負担をかなり長い間負い続けたのか、私は不思議で仕方がないのです。 単に、国家の強制力だけではこうしたことはできないと思いますね。 いずれにしても東国の軍事力、東国人の武力は、少なくとも、七世紀の後半から八世紀にかけて、蝦夷との対抗関係とは別に、畿内の勢力が重視していたことは明らかだと思います。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.16)


    [網野] 実際、将門の動きは常羽御厩(いくはのみまや)などのように、(うまや)やを基盤にしていますね。 厩には、牧と結びついた重要な意味があります。また後で話に出ると思いますけれども、馬を考える場合、「●馬(しゅうば)の党」もそうですが、とくに平安期以降は単に軍事的な面だけで考えるのではなくて、機動的な交通運輸手段との関係に目を向ける必要があります。 厩や牧は、軍事力としてだけでなく交通手段としての馬を養っているという点にもう一つの意味があるのです。 ですから将門の時期になると、厩と牧を基盤とした非常に機動的な騎馬軍団ができあがることになってくるわけです。
    (「●馬(しゅうば)の党」(●「人」偏(ニンベン)に「就」))
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.17)


     二 東国の渡来人と馬文化
    [森] まず馬の問題から少し話しますと、鳥居龍蔵先生が東京に住んでおられた頃に、関東の古代史についての短編をたくさん残しておられる。 そういうものが、それぞれ早い時点で『武蔵野とその周囲』(大正十三年)、『武蔵野及其有史以前』など、三、四冊の単行本にまとめられているのです。 今日の新聞のちょっとしたコラムぐらいの記事です。 そのなかに「武蔵野の高麗人(高句麗(こうくり))」という随筆があります。 それは、古代の武蔵野は、高句麗からやってきた人たちが文化の土台をなしているという非常に重要な論文です。 しかし、今日はそういうものをほとんど忘れてしまって、大和朝廷の一員であるという考えで、だいたい皆対応していますからね。 だから、明治の終わりから大正の初めの段階は、今とは比較にならないくらい発掘資料が少ない時代であったけれども、その時代でも鳥居先生などは非常に優れた見通しをもっておられた。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.19〜20)


    [森] 集落遺跡から、かなりの数の木製の鐙(あぶみ)木製の鞍が出るのです。 木製の鞍などは、時には半分に割れたものを、孔をあけて紐で綴(と)じてまた使っている。 そういう馬具を古墳に入れた場合は、腐ってしまい跡形もなく消えてしまうわけですね。 だから実際に日本の馬の文化というのは、急に現われて、急にすごい数がでまわる。 そして、中部から関東がその一つの大きな中心になっている。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.23)


    [森] 二戸(にのへ)、三戸(さんのへ)というのですね。
    [網野] ええ。 入間田さんは四門九戸(しかどくのへ)(開発にともない郡制成立以前の地域を九つに分け、山間部を東西南北の四つに分けた)という単位のあったことを論証されて、糠部(ぬかのぶ)郡(現在の岩手県北部から青森県東部半分)の駿馬にまつわるいろいろな問題を論文にまとめておられますが、そこで入間田さんは、馬が入ってきた道として北の道があるのではないかということを、ちょっと言っておられるのです。 実際には、なかなか論証できないでしょうけれども、「蝦夷」と言われていた東北の地域の世界に、意外に馬の文化があるということは、やはり見逃せないですね。 関東から、甲斐・信濃までの地域にも牧と馬の文化圏がある。 しかし、こうした東北までふくむ牧と馬の文化が果たして西からだけ入ってきたものと考えられるのか。 高句麗人の足跡が関東に点々とあることの意味についても同様です。 もちろん、西に入ってきた人たちを東に移したという記事も文献に出てきますけれども、果たしてそれだけで処理できる問題なのかどうか。 別の流入経路を考えることもできるのではないか。 これまで列島の外から文化が入ってくる道をもっぱら西からの道、とくに朝鮮半島の南部を経由して入ってくる道しか考えられてこなかったと思うのですが。 それとは違う文化の伝播経路がありうる、海を通じて、南からも北からも文化や人が入れるんですね。 これから、日本列島の社会・文化を考えていく場合、今までの固定観念を離れて、中国大陸、朝鮮半島だけでなく、東北アジアや東南アジアまで含めて、広く交流を考え比較をするような視野が必要なのではないかと思うのです。高句麗人が、関東にいたという鳥居さんの説はその意味でもとてもおもしろいと思います。 たとえば甲斐や信濃では馬刺(ばさし)を食べるわけですね。
    [森] 熊本とね。
    [網野] ええ。そういう意味で九州はおもしろいですね。九州にも牧がたくさんありますから。 しかし馬の刺身を食べることは、関西では多分考えられないと思います。 たしかに、家の中の厩(うまや)で飼って、一緒に寝起きほしている馬の肉は、なかなか食べられないと思います。 しかし野獣とは違うけれども、牧を跳ね回っているような馬だから、肉を食うということにも抵抗があまりないのだろうと思います。 馬刺は江戸では江戸時代から食べているわけで、「吉原へ行く前には蹴飛ばし屋に寄って」という小話を聞いたことがあります。そういう文化は西から入ってきて東に定着したというより、もっとずっと古い歴史の根をもっているのではないかと思うのです。 古代史の分野では、高句麗の問題はどう考えられているのですか。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.27〜29)


     三 東と西、馬と船
    [森] 僕は、信濃や甲斐の牧が大規模な馬の飼育に成功するまでのごく短期間は、河内を中心とした近畿の牧がそれなりに重要な役割をもっていたと思います。 そして信濃や東北などがどんどん馬を供給するようになったら、当然変質するだろうという見通しです。
     それで、たとえば即位前の継体天皇、つまり男大迹(おほど)王がまだ越前の三国(みくに)にいた時は、大和の方で天皇の血筋が絶えたということで男大迹王を呼びに行きますね。 僕は、天皇の血筋が絶えたというのはおかしいと思う。当時の天皇は一人で八人程度の妻をもっているから、一人で数十人の子供があるわけです。 そうすると、三代もたったら何百人もの天皇の血筋の人がいるはずだから、血筋が絶えたというのは、おかしい。やはり日本海文化の新しい国際感覚をもった人、つまり中国や朝鮮半島のことなどをよく知っている人で、しかも、中国といっても南朝依存ではなくて北朝、および高句麗などをも視野にいれた新しい国際感覚を身につけた日本海沿岸の支配者を、大和の、というより倭国全体の支配者に呼んだという意味だと思います。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.41〜42)


     四 隼人と馬
    [網野] おもしろいことに、摂津・河内に根拠地をもっている、渡辺党という武士団がありますね。 これは、最近亡くなった三浦圭一さんが着目されたのですが、この渡辺党の人が馬寮の官人になっている。 ですから、河内・攝津あたりの牧に関わりをもっていることは十分考えられます。 ところが、一方で渡辺党は河内の大江御厨(みくりや)という海民が所属している御厨の一部で、摂津の渡辺の惣官にもなっているのです。 有名な渡辺綱(つな)はその一族ですが、その根拠は大坂の渡辺橋辺なのでしょうか。
    [森] ええ。 地名は大川(おおかわ)、つまり古い淀川のほとりにまだ残っています。
    [網野] ですから、幹線交通路である淀川の拠点を押さえているわけです。渡辺党は、一字名の源氏ですけれども、九州の松浦党(まつらとう)も一字の実名を持つ源氏なんですね。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.49)


     五 犠牲獣と馬
    [森] 最近まで沖縄では、雄(おす)は山の中にいて雌だけを飼っていて、そして繁殖期には両方がくっついて増えるというような。だから、あんまり区別できないですね。
    [網野] 大林太良さんは、当時の人は豚を食べていたと言っておられました。猪飼は、豚を飼う人たちだったのではないかと思います。 本来的には食料としての豚は南、中部九州に源流があると聞いていますけれど、どうなのでしょう。
     国語学の専門家の佐竹昭広さんに聞いたのですが、豚−ぶた−という言葉の語源はまったくわからないらしいですね。 佐竹さんは、日本語については非常にすぐれた学者で博識な人ですけれども、豚だけはわからない。 もしかしたら倭語ではないのではないかとも言っていました。 西日本の古日本語とは違うのではないかということですが、それはともかく、猪飼に隼人的な性格があるということは、たいへんおもしろいですね。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.58)


    [森] 動物埴輪を見るとしましょう。 そうすると、が多いですね。 それからもきわめて多いし、も多いですね。それに対して、当時山の中にいたと思われるなんてほとんどない。 これは茨城県下で少し猿の埴輪が出ている程度でほとんどないんです。の埴輪もきわめて少ない。鹿の埴輪も少ないですね。 ないことはないですが、の埴輪にいたってはまったくない。だから、動物図鑑の縮図が動物埴輪ではなくて、ある特定の動物を集中して作っていますね。
    [網野] これは大事なことですよね。
    [森] そして、その特定の動物とは何かというと、『延喜式』などでみる、祭の時に犠牲として使う獣なんです。たとえば馬は、重要な祭祀の時によく殺す。 現在、考古学では、祭祀で殺したと思われる馬の骨はたくさんでています。 丁寧に頭を埋めている。 馬や牛が死んだ場合は、頭を割りまして、律令の規定にあるように脳などを抜くのです。 皮なめしに使うのです。 律令の規定に、必ず抜けと書かれている。 だから、病気や事故で死んだ馬の場合はそうして抜いているけれども、犠牲獣の場合はきれいに埋めてある。 全身骨格か、あるいは頭だけ埋めてある。『延喜式』でみると、馬と豚(猪)、それから鶏の三つは、祭の時の義性に捧げられている。 そういうものがやはり動物の埴輪として作られているのです。そうすると、馬の場合は、もちろん軍馬とか交通用の馬としての役割が多いけれども、そういう重要な祭の時、いざという時には神様に捧げなくてはいけないものである。 だから、豚ももちろん食べたり、いろんな利用法はあったでしょうが、それとは別に、神祭りで捧げる獣をキープする集団がいる。それが猪飼部であるとみています。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.58〜59)


     六 豪族・武士団の地域性
    [網野] ところが律令国家は、輸入された制度を、手直しをしながらにせよ、本気になってその支配下の地域に斉一的に及ぼそうとしていますから、とかく、そうした地域の独自なあり方が見失われがちになってしまうのです。 近代国家は別として、日本の歴史のなかで、本気になって、全国に統一的な制度を強力に及ぼそうとしたのは、律令国家だと思うんです。 今お話にでた国分寺の建立もそうですし、戸籍に百姓の名前を全部載せるなどというのも、ある意味では大変なことです。 道の場合にしても、本来は海の交通が日本列島の社会で大変に重要な意味をもっているにもかかわらず、陸上交通を軸にして、しかもまっすぐな道を作るなんていうことを本気でやっている。 防人にしても、常識的には無茶な話だと思うのですけれども、東国人を動員して九州まで動かしてこれを国境警備に配置してしまう。 こういうことを律令国家は本気になってやっているんです。 そうした国家の統一的制度のイメージで、荘園公領制や幕藩体制までふくめて考えてしまうような歴史のとらえ方が日本人のなかに非常に深く浸透している。 国家や政府ができると、日本全国、同じようにそれに支配されている、そういうものだと思いこんでしまっていた。 だから”日本人”などと気安くいいますけれども、じつはそのこと自体に大問題があるんです。森さんがおっしゃったように、国分寺といっても、各地域ではそれぞれにあり方は多様だし、それなりの地域の特色が必ず出ていると思います。 どこにでも寺を建てるわけではありませんから、それなりにその地域の聖地が選ばれたに相違ない。そうした視点から国分寺の建てられた場所自体を見直してみたらどうなるかということは、これからの大きな問題だと思うのです。
    [森] だから、表向きの口分田(くぶんでん)だけであれば、たとえその家族が多くて、奴婢もたくさんおって、奴婢にもそれなりの口分田をくれたとしても、とても大きな氏寺を維持したり、立派な古墳を造るような力はないはずなんです。 にもかかわらず、東大寺の大仏を造る時に、巨大な財物を寄付します。 越中国の豪族利波志留志(となみのしるし)の米五千斛(こく)とか物部子嶋(もののべのこじま)の銭一千貫、車十二両、牛六頭とか讃岐国美貴(みき)(三木)郡大領(たいりょう)の妻田中真人広虫女(まひとひろむしめ)の財産づくりのすごさは『日本霊異記』にありますね。 そのため、むごい死に方をしたため子供たちが残された財産のうち、牛七十頭、馬三十匹、墾田二十町、稲四千束を東大寺に寄進している。 各地の豪族も、どうしてこれだけの財物を集積できたのかと思うほど、いろんなものをもってきます。だから、表向きの律令制の規定で、戸籍も作ろう、国分寺も作ろう、直線道路も作ろうとした。 そして、かなりできた。 それと同時に、古墳時代以来の、ひょっとしたら弥生時代にその基礎があった地域もあると思いますけれども、在地の力はかなり残したのではないか。 その在地の力を相当残したことが、律令制のさまざまな施策が一応は成功した理由かもしれません。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.71〜72)


    [網野] そうだと思います。 律令制は郡司クラスの地域の豪族、有力者の力に支えられていたのでしょうね。 たとえば国の倉にしても、はじめは郡の豪族の倉に大きな比重があったのだと思います。 ですから、やはり現地の実力者に支えられていたのが実態だと思うのですけれども、制度の上だけで見ますと、すべてがきちんと整えられているように見える。 実際これが大事な点だと思うのですが、律令国家は本気でやっているんです。 この本気さが、いったいどこから出てきたかが、実は大きな謎だと思うのですが、あまりこのときの支配者たちが本気でやっているものだから、まわりの人もその本気にひきずりこまれて(笑)、研究者自身も、この制度にひきずられていたといわざるをえないので、水田中心史観や、陸上交通中心史観や単一民族・単一国家論・島国論などは、もちろん近代国家の影響も大きいけれども、やはりこの国家の志向にひきずられた見方だと思います。そこから非常にたくさん見えない点ができてしまった。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.72〜73)


    [網野] たとえば百姓というと皆、農民だと思い込んでしまう。 この感覚ですね。 たしかに律令国家では百姓には公地−−水田を与えるわけで、そこから、すべての平民が水田耕作をしている農民と考えてしまう。 だから「班田農民」という学術用語ができて、いまでも通用していると思います。 しかし百姓という言葉には、本来は農民という意味は全く入っていないのです。 たくさんの姓を持つ平民という意味だと思うのですけれども、すべての百姓が水田耕作民、農民と思い込まされてしまっている。 実際には海民も山民もたくさんいたのです。 中世でも近世でも同じなので、やはり百姓の中には海民、山民、そして商人、廻船人などもいたわけで、決して農民だけではないんです。各地域がもっている本来の力の過小評価もこの思いこみと同じ根を持っていると思います。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.73〜74)


    [森] 高等学校の教科書などを見ると、国司があって、その次に郡司があるという上下の関係で教えられます。 しかし、よく考えてみると、国司というのは都から派遣され、数年で交替する。 つまり、その土地には、前提としてつながりのない人を派遣している。 それに対して、郡司は、そこに数百年来根をはった人たちであるわけです。 だから、実際の全国の政治支配では、ひょっとしたら郡司のほうが大きな役割をしていたのではないか。事実、「魏志倭人伝」のなかで、確実に北部九州の現在の土地と対応できる国を見たら、律令時代の一つの郡くらいが一つの国になっています。 伊都(いと)国は後の怡土(いと)郡で、ここには志摩(しま)郡と怡土郡の両方を含んでいたとしても、せいぜい一郡ないし二郡程度が倭人伝時代の一つの国ですね。 そういうのが自然のまとまりになりやすい。 だから、どうも郡司の力を、まだまだ評価できていないのかもわからない。
     そうすると、だいたい、岡山県の巨大古墳など特異な古墳を別にして、まあ、岡山県の巨大古墳というけれど、全部が例外ではなくて、岡山市の造山古墳と総社市の作山古墳の二つだけが巨大なんです。 だから、吉備だから数百年、いつもずばぬけた大型古墳ができたというわけではないんです。 そう見ていった場合、日本の各地域の盟主墳という言葉を僕らはよく使うのですけれども、地域で非常に大きな古墳を残したのは、国単位で見ないで郡単位で整理するほうが整理しやすいのではないかという気がしました。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.74〜75)


    [網野] この問題については、多少前のことになりますが、石母田正さん「第一次と第二次の生産関係」という巧みな規定をされています。 つまり、古代国家は、地域の首長を中心とした第一次の生産関係と、第二次的な律令制的生産関係の二重の生産関係に支えられているというわけです。 これを生産関係といえるかどうか、問題はあるでしょうが、そういう整理がなされているのです。 ですから郡司、在地首長、地域の首長の力に支えられなければ律令国家は成り立たないという点は、古代国家の共通認識になっていると思います。 そういう地域の力が古代末から中世にかけて、はっきりと時代の表面に出てくるのです。 『平家物語』のなかで、斎藤実盛(さねもり)が西国の武士と東国の武士を比較している有名な場面があります。 関東の武士は、「親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば、乗り越え乗り越え戦う」といわれているような騎馬軍団で、勇猛な戦い方をする。 これに対して西国の武士は、親が死ぬと、仏事をやって忌籠(いみごも)りをするから動けないというような悠長な戦い方しかできない。 これは今まで律令国家のもとで、「辺境」と見られてきた地域の中で育てられ蓄えられていた力がはじめて本格的に表に現れてきた動きと言えます。 しかし問題はこの時期よりもはるかに遡って考えなくてはならないのですから、畿内を中心にすべての文化が「地方」に広がったというこれまでの見方を、ひっくりかえして考えてみると、歴史の見方はたいへん大きく変ると思いますね。
    [森] たとえば五世紀、六世紀頃を例にとると、朝鮮半島で最大の古墳といっても、百十メートルクラスの双円墳が慶州に二つあるだけなんです。 百十メートルクラスの古墳といえば、日本列島の場合、それこそ南九州から東北に至るまで、あちらこちらに出てきます。 ですから日本の場合は決して、頭に浮かびがちな、大和なり河内なりにその時点での最高唯一の力があって、それ以外の地域ははるかにそれより劣るということは、古墳のあり方からはまったく言えないわけです。だから、どうしても大和朝廷を中心に考えている図式というのは、僕は古墳に即しても、なかなか合わないのではないかと思います。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.75〜76)


     七 楠本正成の背景
    [網野] このように舞台装置は完全にそろっているのですけれども、肝心の楠木氏が実はよくわからないのです。 楠木氏という武士を追いかけるためには、まず、苗字の地をはっきりさせなくてはならない。 楠木は地名だと思うのですが、正成の本拠といわれる水分(みくまり)あたりをふくめて、河内・和泉には、楠木という地名が見えないのです。 少なくとも五万分の一の地図には出てこないんです。 河内の小さい地名もまだ十分ではありませんが、少し調べてみましたけれども、やはりいまのところ見つかっていません。 とすると、楠木の地は河内、和泉以外に探さなければならなくなってきます。
     おもしろいのは、南方熊楠(みなかたくまぐす)がかねがね指摘をしていることですが、楠木という地名は、太平洋岸一帯に多い。幼名に宮楠とか楠千代のように楠をつけるのもこの辺ですね。岸俊男さんも、楠は聖木で、船を作ったのだといっておわれますが、そういうこととも関係して、楠木という地名は太平洋岸、尾張、伊勢、土佐に分布しています。 だから、そうした地域が苗字の地である可能性は大きいとはいえます。 とするといかにも楠木氏らしいので、その方が話はおもしろいのですけれども、じつは史料に即して見てみますと、楠木氏が最初に出てくる確実な史料は、建久元年(一一九〇)頼朝が初めて後白河に会うために上洛した時、東国を中心に各地の武士をひき連れて行きますが、頼朝の前後に三列に並んでいる随兵の中に楠木四郎という人がでてくる。 これが楠木氏の初見なのです。 この人と一緒に並んでいる武士の中に、忍(おし)という人がいます。 三列に並んでいる人たちは、それぞれ関係がある可能性が大きいのですが、林屋辰三郎さんは−−これが林屋さんらしい愉快な発想なのだけれども、忍と一緒だから楠木氏は忍者と関係があるといわれた(笑)。これは半分冗談でしょうけれども、しかし残念ながられはやはりおかしいので、忍という地名は、埼玉県行田市にある地名です。 武蔵の武士なのですが、とすると、楠木四郎も武蔵の武士である可能性が大きいことになります。 これが確実な史料の一つですね。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.80〜81)


     八 弥生の高地性集落と中世の城
    [網野] それは大いに考える必要がありますね。 室町以後の城を考える場合、そうした古くからの伝統を考慮しなくてはならないと思いますが、中世の城ができ始めるのは、やはり鎌倉末、南北朝期頃からですね。 鎌倉期には館の程度です。
     さきほども話にでた若狭の太良荘でも、「竹木を切り、城郭をかまえ」という史料がでてくるのは建武の頃です。太良荘の稲葉瓜生荘(うりゅうのしょう)の脇袋などに城ができるのですけれども、これはまだ簡単なもののようです。 山裾からちょっと上がったところに城がある。 小浜市の大森宏さんは若狭の城を調べまくっているのですが、稲葉には古墳があって、大森さんは、はじめのうち古墳はあるけれど、まさか城はないだろうと言っていたのです。 しかし、私は「城もあるんじゃないの」としきりに言ったら、本当に城と思われるような跡が稲葉に出てきたんです。 最近、大森さんが「あった、あった」と知らせて下さった。 ここには、地頭の館があったと思うのですが、さらに遡って若狭の最も有力な在庁稲葉(いなば)氏の苗字の地で、稲葉氏がそこに居館をもっていたと見られる場所です。 そのあとに若狭氏という島津氏の一族の東国人が地頭になって入ってくるのですが、建武の動乱のときには、まずここに城を作るのではないかと考えたわけです。 しかし古墳があるところに城があるというのは面白いですね。 これは偶然なのかどうなのかも考えてみる必要があります。 城を広い視野の中で見ると、あるいは関係があるかもしれないですね。グスク(沖縄方言で城)やチャシ(アイヌ語で城)は、城でもあるし、聖地でもあるし、墓でもあるし、いろいろな要素があるようです。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.91〜92)


    [網野] これまで中世の城については、軍事的な観点からしか考えてこなかったように思うので、それももちろん大事だけれど、やはり森さんのおっしゃるように弥生時代、古墳時代にまで遡ってそのあり方を考える必要があります。 城を備える場所は、ふつうの場所ではないと思います。 もちろん機能的にみて軍事的に合理的な場所がえらばれると思うけれども、それだけではないその地域の伝統があって、そこをおさえると、その地域の住民を支配する上にも重要な意味がある。 だからそこに城を作り構えるということもあるのではないかと思います。弥生時代の高地性遺跡も、ただ軍事的な意味だけで作られたものではないのではないでしょうか。なぜ高地という場所に、遺跡が残るのか。 そうした場の意味を考える必要があるのではないでしょうか。 そうしたことを考えていくと、南北朝以降にできる城の場自体の持つ意味との重なりもわかってくるのではないか。 時代は大きくはなれても、どこかで根がつながっている可能性は大いにありうるので、そうした場の特質を視野に入れる必要があると思います。
    [森] たしかに弥生時代の高地性遺跡は見晴らしがよくて、たとえば兵庫県芦屋市の六甲山脈の会下山(えげのやま)遺跡からは、和泉の主要な高地性遺跡の場所がずっと見えるとか、淡路もずっと見える。 非常に見晴らしがいいですね。そのかわり日常生活では水の便が悪い。弥生の時期ですから、まだ山頂に井戸はできないから、ずっと下の湧き水や谷川まで汲みに行かなくてはいけない。
    [網野] たいへんなことです。
    [森] ええ。ところが、その種の遺跡のど真ん中から銅鐸などが出ることがある。 大阪府高槻市の天神山遺跡などです。 だから、どうも単に防禦的な逃げ城的な性格だけではないなあという気はします。 そして、一部は中国の歴史書が「倭国の大乱」と言ったものに重なると思いますが、そういう緊張状態が終わると、わざわざその上に前方後円墳をこしらえる。 平野を見下ろす古墳前期の前方後円墳の発掘中に、だんだん弥生土器の破片が出はじめて、気がついたら竪穴住居の一角にあたっていたということもあります。 だから、聖地的な非常に重要なところだったから、後に古墳が築かれたり、式内社が祭られているような聖地になったのかと思います。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.92〜93)


     九 海に向かう城
    [網野] いいお話ですね。 あのへんは、まさしく熊野水軍の根拠地ですから、弥生時代も私は海、川の役割をもっと考える必要があるのではないかと思うのです。水田だけに注目していたのでは、大事なものが落ちてしまうのではないかと思います。
    [森] そうなんです。 だから、「倭国の大乱」にひっかけて説明できるものもあるし、それからはみだすものもあると思う。 そういう山城づくりの流行が入ってきたら、いろんなところが真似をします。 ただ、三重県側の熊野は、まだちょっと調査が進んでいないのかなあという気がします。
     おもしろいのは、熊野にはあれだけの信仰があるけれども、それに見合う古墳がほとんどない。熱田は神社のすぐ後が断夫山(だんぷやま)や白鳥古墳という大古墳でしょう。 それから伊勢は、伊勢神宮の周辺にわずかにあるんです。 とくに外宮の境内には巨大な横穴式石室がある。 そうすると太平洋側で熱田、伊勢、熊野、それから鹿島、香取を含めてもいいですけれども、だいたい有名な神社で古墳がともなわないのは熊野だけなんです。
    (《T 馬の活動と人間の争い》P.100)


     一 北陸・能登
    [網野] 森さんは日本海については熟知していらっしゃるでしょうが、僕は、ここ七年くらい奥能登の時国(ときくに)家の調査をやっておりまして、それで日本海についてもいろいろなことを知ることができました。 まず、能登には黒丸家や中谷家や南惣家(なんそうけ)など巨大な民家があちこちに残っているんです。 時国家も今は健太郎家(通称・上(かみ)時国家)と信弘家(通称・下(しも)時国家。以下通称に従う)に分かれていて、山ぞいに大きな家が二軒建っていますけれども、調べてみると、分立する前の時国家は町野川の河口にできたラグーン、つまり潟湖(せきこ)の近くの町野川沿いにあって、元禄八年(一六九五)の絵図や文書によると間口五〇メートル、坪数約三〇〇坪という巨大な家だったことがわかってきたわけです。 そのことを知ってから、奥能登は田畑が少なくて貧しいと言われているのに、どうしてこんなに巨大な家があちこちにあるのかな、という疑問を持つようになりました。
     それで、いろいろ調べているうちに、これは基本的に海と山の力だということが、非常にはっきりしてきました。 能登は日本海に飛び出た半島で、日本海の交通の一つの拠点になっており、とにかく時国家を中心に見ても、東に西に、船が活発に動いているし、人も動いている。 江戸初期の元和五年(一六一九)の文書(一八八ページ参照)で松前に時国家の船が行っていることがわかりますし、これはたぶん中世まで遡ると思うのです。 それから前にも話に出ました塩を山の木を使ってたくさん作っている。 その塩をもって、船が新潟、能代など、あちこちに行っている。もちろん、西の方にも動いていたと思います。 元和・寛永の頃にこうしたことを確認できるわけで、そういう海と山から得た富の力が驚くべき巨大な家を支えていたのではないかということです。
    (《U 海からの交流》P.104〜105)


     それともう一つは、長年調査を一緒にやっている泉雅博さんがやはり「海と列島文化」の一巻『日本海と北国文化』の中の論文や『史学雑誌』(一〇一−一)の論文「近世北陸における無高民の存在形態」で具体的に明らかにしてくれた非常に重要なことがあるのです。 実はこれには私も非常にびっくりしましたので、あちこちで紹介しているんですが、これまでわれわれは水呑百姓というと、土地を持たない貧しい農民と考えていたわけですね。 能登・越中・加賀を含めて、加賀藩では、それを頭振(あたまふり)と呼んでいます。頭振は天領になると水呑と言い換えられていますので、まったく同じものと考えていいと思います。 要するに、無高、つまり石高・田畑をもっていない人の身分呼称なんです。能登の頭振も水呑と同じように非常に貧しい農民だと誰しも考えていたし、それが通説になっていたのです。 しかし泉さんがその論文で、具体的に明らかにしたいくつかの重要な事実があります。 一つは、享保二十年(一七三五)の奥能登ニ郡のすべての村の家数が、詳細に書き上げられた史料があって、村ごとに、百姓、頭振がそれぞれ何軒「藤内(とうない)」といわれた被差別民が何軒と、いわば身分構成のすべてが記載されています。 それを見ますと、頭振の多いところはほとんどが、海寄りの村なんですね。 とくに、その中で、現在でも町の様子をよく残している宇出津(うしつ)で、元和二年(一六一六)の頃に確認できる中洲にできた新町は九〇軒、全部が頭振なんです。 宇出津の本町は、鎌倉時代から文書に出てくる、奥能登の要津、港なんですけれども、ここも七〇パーセントが頭振です。 こういう具合にだいたい海寄りで、港として重要ではないかなと見られるところに頭振が集中している。 輪島も七一パーセント以上が頭振です。 それを具体的に時国家の近辺で調べてみますと、さきほどの潟に面していた港(皆戸(みなと))という集落があるのですが、そこに住んでいる人や関わりのあった人たちを逐一、文書から泉さんは洗いだされたのです。 そうした人の一人として、たとえば柴草屋太次兵衛(しばくさやたじべえ)という人がいる。この家は内浦の庵浦(いおりうら)にも根拠をもっている廻船人、大商人で、譜代下人という奉公人を二〇人以上ももっており、大きな船をニ、三隻もっている。ところがこの人が頭振といわれているのです。泉さんによるとこういう人が、港には何例も確認できるのです。 廻船人や商人は、土地はまったくもっていないので、藩の身分規定では、皆、水呑、頭振に数えられているのです。 藩の方も、もちろんそういう事情は知っていると思うのですけれども、年貢は石高にかけますから、石高、つまり田畑から年貢をとるのがいちばん安定しているので、古代以来の諸国家はみな、水田、土地に租税、年貢を賦課してきたわけですが、泉さんによると、輪島の場合、わずかな田畑に対する税率が八割八分になるのだそうです。 海村で土地は少ないけれども豊かなところの石高には免八つ八分、つまり八割八分の年貢をかけているんです。商業利潤があることを前提にして、田畑の良し悪しは別にして、税率をあげて、わずかな田畑からできるだけ年貢をたくさんとっているのです。つまり彼らは農業で食べているのではないということを、役人の方もわかっているから、こういうやり方をしているんですね。 しかし、現実にはこういう海村からは年貢がとりにくいから、結局、最終的に運上金、冥加金のような方法で税金をすくい上げるほかないのでしょう。こういう豊かな水呑もいたわけです。戦後しばらくの江戸時代史は、基本的に農業を中心に考えていましたから、村落研究の手法としては、一般的にまず検地帳や名寄帳を個々の百姓別に石高を集計して、石高二十石の人が何人、十石以下の人が何人、無高が何人ということを計算する。 そして無高やわずかな持高しかない百姓がたくさんいれば、そこは貧しい村だと考えてきた。そして時代とともに無高の水呑が増えたら、農民層が分解して地主制が成立してくると考えていたわけです。 もちろん最近の研究は大分変っているでしょうが、私自身も以前、そういうことをやっていたものだから、自己批判も含めて言うのだけれども、もちろんこういう仕事は大切だし、それによって、わかることはたくさんあります。 これからも大いにやった方がいいと思うけれども、水呑が多いから、すぐにその村は貧しいと捉えることは、決してできないのです。 大変豊かな廻船人が水呑になっているし、石高の少ない百姓とされているわけです。 ですからこれまで能登は田畑が少なくて、頭振が多いから貧しいなどといわれてきましたが、こういうイメージは、このことを考えますと、消し飛んでしまうのです。 近世史家ですでに気がついていた人がいたとしても、一般の人々のイメージを変える努力をこれまで余りしてこなかったのではないでしょうか。 泉さんの仕事は、はじめてそれを可能にしてくれたと思います。
    (《U 海からの交流》P.106〜110)


    [森] 小さな、一見何でもない漁村のように見えるけれども、前田領と天領が半分ずつあったんです。 それでは、なぜ特別な土地として見られていたかというと、やはりイルカだと思います。そして、そういうイルカは、肉は食べないこともないけれども、経済的な価値はイルカの脂にあって、それが大きな富の源泉になっている。そういう目で、もう一度縄文時代の真脇遺跡のイルカを見たら、あそこから出てくる縄文土器の内側に脂のようなものがべっとりついているんです。 最近残留脂肪の研究が発達してきて、その方法で調べたら、やっぱりイルカの脂であろうということになった。 僕はどういうふうにしてイルカの脂をとるかは知らないけれども、それを縄文土器に入れて、遠隔地との交易をしていたと思います。
    [網野] おもしろいですね。
    [森] だから、縄文時代と江戸時代はものすごく違うように印象づけられるけれどもこういう漁獲物の点では、基本的にはかわらないのです。 それを、いつまでもイルカの肉を食べていましたとだけ言っていると縄文時代が見えない。科学的にも、あの場合の縄文土器は、イルカ脂を運搬する、少なくとも入れておく容器です。 どこか遠隔地で脂のついた土器が出れば、運ばれたことは間違いないのですけれども、そうすると、真脇遺跡の場合は、住みついた土地で自給自足をやっているというのではなくて、非常に広い範囲の中での自分のところの土地や集団の特異性を前提にした生活をやっている。だから、真脇には糸魚川(いといがわ)市、青海(おうみ)町のあたりでとれる硬玉にヒスイの玉も入っていますし、少なくとも東は新潟あたり、西はおそらく若狭とか、そういう広がりの範囲内で支えられた生活を前提としている。 そういう交易が、能登の場合は縄文時代の頃から匂ってくるということです。
    (《U 海からの交流》P.113〜114)


    [網野] 江戸時代の文書にも寄鯨(よりくじら)の文書が出てきます。 寄鯨をめぐって、真脇とか小木(おぎ)が争っています。 寄鯨をひっぱってくる過程で、どちらが占有権を持っているのかが論点になっている。 こういう寄鯨だけでなく、能登の人たちは積極的に、日本海の鯨をとったようです。 宇出津の湾の両方の岬の先端に、さきほどの紀州の城山と同じような城があるんです。 これはこれから調べる必要があると思うのですけれども、これはやはり海の領主の海域ではないか。 そうだとすると鯨の山見所にもなります。
     国立歴史民俗博物館の千田嘉博さんが各地の城を調べているのですが、能登の城は、加賀とはあまり似ていなくて、むしろ青森の城と似ていると言っていますし、板碑(いたび)を研究している千々和到さんが、最近、東北に行っていろいろ調べたところ、北海道の板碑は、青森よりもむしろ能登や新潟の板碑に似ているといっています。 日本海の交通や交易にはこういう問題もあったと思います。
     縄文時代については、森さんにうかがいたいのだけれども、このあいだ千歳の空港の拡張工事の跡に行きました。 今、あそこを掘っているんです。 石狩川と津軽側へ流れる川の分水嶺のあるところで、江戸時代まで両方から川を上ってくる結節点の場所らしいですね。
    [森] 日本海からと太平洋からでしょう。
    [網野] そうですね。 だから江戸時代までの遺跡が積み重なっているそうですけれども、そこを掘っておられる方が箱に緑色の玉がびっしり詰っているのを見せて下さった。 それがみなヒスイなんです。 丸い小さな玉やハラミ形の勾玉(まがたま)のような形のものもあったのですが、「いつの物ですか」と聞いたら、たしか縄文中期か後期といわれていたと思います。 とにかく縄文時代で、分析によると、これは新潟のヒスイなのだ、と言っておられた。 長い期間にわたっているとしても、これだけの物がはるか前から日本海を渡って来ているわけですからね。海の流通は想像を絶する古い時代から広域的だったのだという強い印象を受けました。
    (《U 海からの交流》P.114〜116)


    [網野] さらに下って、十六世紀に入った頃の御賀尾浦の刀禰の家が差し押さえられているのですが、その財産目録は、大変なものです。 間違いなく輸入陶器の青皿・白皿を何十枚と持っているし、天目や染付、それに朱塗りの菓子鉢などの什器、家財道具をいっぱいもっているんです。 現在は、まったく小さな漁村で「陸の孤島」ですね。 私は常神半島の岬の先端まで行ってきましたが、曲がりくねった細い道で、車でもずいぶん時間がかかった。 現在の常識では辺鄙(へんぴ)ということになりますが、そこに大きな神社、常神社があったのにはおどろきました。 こういうことを見てみますと、今のわれわれのもっている感覚をよほど根本的にひっくり返さなければ、歴史はみえてこないわけです。 中世史はもちろん、近世史だってそうだと思います。 少なくとも前近代史については、確実に海を視野に入れないと理解できないですね。 近代史だって、まだまだこういう視点で見直すことが必要だと思います。 逆に言うと、現在どうしてこんなふうに見方が偏ってしまったのだろうということ自体が、大問題なのです。
    (《U 海からの交流》P.122)


    [網野] その点に関連して不思議なことに、さきほどいったように大変に豊かでお金を持っているにもかかわらず、能登の「頭振(あたまふり)」という言葉は、江戸時代の後半以降は、一般社会では一種の賤称になっているんです。 「あの人は水呑だ」というのは「あの人は貧乏だ」というのと同じような感覚で、「あの人は頭振だ」「こべふりだ」という言い方が社会的に通用しているんです。 とすると今問題にしているような、水田中心・陸上交通中心の、非常にゆがんだ歴史像ができる素地が、すでに江戸時代の後期にできあがっていたことになる。 「百姓」もいまでは賤称だとして、テレビや新聞はつかわないのだそうですが、これも百姓は農民という、これまた事実とちがう思いこみが背景にあります。 これは、本来支配者がそういう身分の区別をしたことに原因があるわけですから、はっきり言えば、これは国歌、支配者のイデオロギーが相当に深く日本人に浸透していて、いまもわれわれはそこからなかなか抜けきれていないということになります。 ですから、歴史家もこれまで、こうした事実にぶつかると、なにか別の論理を持ち出したり、それは例外的だといってごまかしてしまっていたと思いますが、この常識を根本的にひっくり返して見直したら、歴史像は大きく変わると思います。内陸部でも水呑が増えると貧しくなったと見られてきたけれども、極端な場合、農業以外の生業を専らやって、金持ちになったから水呑が増えてきたということもありうるわけですから、少なくとも能登についてはそういえます。
    (《U 海からの交流》P.122〜123)


     二 港を押さえた豪族・寺社

    [森] ただ『日本霊異記』を読んでいたら、大安寺のお金を借りて越前の敦賀の津へ行って商売をした楢磐島(ならのいわしま)の話がある。 だから、奈良時代頃から、大きな寺では金貸しをやるんでしょうかね。
    (《U 海からの交流》P.136)


     三 商業活動と信仰
    [網野] その通りです。 おもしろいことに、人に貸せるお金は、神や仏のものなんです。 仏や神のものならば、貸して利息がとれる。だから、意識的に銭を神仏のものにすることによって、それが自由に投資、貸借できるものになる。 資本にもなるのです。 だから、勧進という形態をとる必要がある。 しかしこの時期には寺をつくるため、たとえば東福寺とか瀬戸橋を造るためなどの公共的な名目にしないと、そういう企業活動はできないのですが、そういう形を意識的にとることによって、勧進聖は企業活動を積極的に行なっているわけです。
    (《U 海からの交流》P.136〜137)


    [森] 今年の二月八日に、三輪の恵比寿(えびす)の市を見に行ったんです。 そうすると、提灯がかかっていて、「日本最古市場」と書いてある。 それは、地元の意識では、海石榴市(つばきいち)とか大市です。箸墓を大市に造るという伝承が『日本書紀』にありますが、あれにつながると考えているのかもしれませんね。 今立っている市は十軒内外で、貧相なものだったけど、あそこも大和川水運のつきあたり、初瀬(はつせ)川です。
     伝説上の雄略天皇の都の初瀬の朝倉宮に関連があると予想されるもので、川ぞいで石垣が出たという話もあって船着き場かといわれているのですけれども、いずれにしても朝倉宮の場所は、ここだとは言えないんですけれども、だいたいの範囲はおさえられる。 そうすると、雄略の都ですね。 雄略は実在の可能性は高いと思いますが、やはり難波の津を終点とする大和川水運のもっとも奥、そして、そこから先は陸路で伊勢をとおり東国まで入れる。その時にちょっと考えたのは、ひょっとしたら、この土地の市というのは、本来は三輪の神にお供えするという性質のものでないか。 そして、その残った物を交換させてもらうというところから発達したのじゃないかと考えているのです。
    [網野] それはその通りです。 話が広がりすぎますが、市の立つ場所は、そういう原理を持っているんです。 物を普通の場所で交換すると贈答になりますから、商品としての交換にはなりません。 むしろ交換することによって、贈与互酬関係で人と人との間の結びつきが強くなってしまう。市庭(いちば)の立つところは、神仏に近い場所だから、そこで一度神仏に捧げた形にすると、誰のものでもなくなってしまうので商品になる。そこで初めて交易ができるわけです。 これが市の原理だと思います。 私流に言うと、物を「無縁」にしないと、商品の交換はできない。貨幣はもともとそういう性格を持っているのですが、「無縁」の銭にするから、資本になるし、企業活動に使えるわけです。 そう考えてみると、わりあいにうまく理解できます。 市の立つ場所、河原や中州、浜や堺です。 これはみな人間の世界と自然の世界の境目なんです。 だから、まず市神を祀って、交易をするわけです。 女性にからめてみれば歌垣はそういう場所で行なわれるのではないかと思うのです。
    (《U 海からの交流》P.137〜139)


     四 隠岐と佐渡
    [森] 隠岐とか佐渡というと大陸に近いという印象をもつ人がいるけれども、僕は隠岐や佐渡からはそう簡単に大陸には渡れないと思います。古代や中世はもとより、幕末にロシアの艦隊が来る時でも、基本的には沿岸航海ですから、漂流は別として小さな舟で佐渡や隠岐から大陸のどこかへ目的をもって行くというのはまず不可能であった。そういう意味で、古代から政治犯を佐渡や隠岐へ流すわけでしょう。 あそこへ流しておけば、大陸に渡って大陸の連中と組んで攻め帰ってくるということはないという安心のもとに佐渡や隠岐に流していると思うんですけれども、後醍醐天皇をどうして隠岐に流したかという問題は、普通、中世史ではどう説明しているのですか。
    [網野] そうですね。 僕は古代についてよくわかりませんが、対馬守は朝鮮によく渡っているんです。 平家の時代に、対馬守親光が高麗に渡って、虎退治をやって功をあげて帰ってきたという話もありますね。 対馬の場合は当然ながら朝鮮半島と、こういう交流があるわけです。
     しかし隠岐と佐渡については、おっしゃる通りでしょう。 ただ、中世においては、後醍醐を隠岐に流したのは、結果的にみると大誤算だった。 僕はやはりここには律令国家のイデオロギーが強く働いていたと思います。 律令貴族の意識は陸上交通中心ですから、陸の道を中心に考えてはるかに遠い所という意識で流罪を考えたのだと思います。 隠岐や佐渡もそれだと思います。 ところが、中世で大誤算となったのは、この時期の海上交通が、古代に比べて本州との関係では、非常に活発になっていた。隠岐国の守護は佐々木氏ですが、佐々木氏は隠岐の船所を押さえている。 出雲も佐々木氏なんです。 ですから、この両国の守護が佐々木氏がなっているということは、出雲と隠岐の間はツーカーの連絡があることが、当然前提とされているんです。 しかも、最終的には佐々木氏が後醍醐方に寝返ることになります。 これが幕府の大誤算の一つでしょう。 それから後醍醐の逃げこんだ場所は、伯耆(ほうき)名和湊です。 名和に御来屋(おくりや)という地名がありますが、これは今まで伊勢神宮の御厨(みくりや)だと言われていました。 たしかに久永(ひさなが)御厨というのが伯耆にあるので、その地名ではないかと言われていたのです。 ところが『玉葉』に伯耆国の御厨に関する記事があって、院がいろいろ関与している。 ですから私は、この御厨は天皇家の御厨ではないかと思います。天皇家の御厨は海の民の根拠地で、御厨には天皇家直属の海民、供御人がいたはずです。 だから御厨が後醍醐の逃げこむ湊になったのだと思います。 しかも、この時期の海民は当然、廻船人にもなっています。 名和湊に関わっていた名和氏については『太平記』に「有徳人(うとくにん)」といわれています。 裕福な人だったわけですが、佐藤進一さんがお書きになった「日本の歴史」九巻『南北朝の動乱』(中央公論社版)にも出てきますけれども、名和氏の旗印が帆かけ船だったといわれています。 後醍醐からもらったことになっているのです。 室町時代の記録『庶軒日録(しょけんにちろく)』には、名和長年が鰯(いわし)売りの商人だったともいわれている。これは、名和氏を馬鹿にした言い方なのですが、海民の根拠地の御厨に根拠を持つ鰯売りの商人が帆かけ船の旗印をもっているとしたら、日本海交易に名和氏が関わりをもっていたことは確実だといってよいと思います。 堺の千利休も魚売り、塩売りと関係しているのですからね。
     ですから後醍醐は名和湊に漂着したことになっているけれども、私は、予定の行動だと思います。 御厨に上陸して名和氏にたよることは最初から考えられていたことだと思います。 しかも、いまもいいました通り、名和氏は、このあたりの「有徳人」ということになっていますから、それも後醍醐はよく知っていたと思います。 こう考えると、隠岐に流すことは、政治的な意味はあっても、実際には支配者にとって決して安全ではなくなっているわけですね。 流罪が多少とも意味をもっているのは、せいぜいあのころまででおしまいなのではないでしょうか。 これ以後も一応形式的には流罪が行なわれていますが、南北朝期に佐々木道誉が妙法院宮の邸を焼打して、出羽に流されたとき、道誉は有名なバサラ大名で、流される道中に、遊女をつれて酒宴をひらいてドンチャン騒ぎをしながら流されていくという喜劇的なことになるわけです。 だいたい律令貴族は、最初はそうではなかったはずなのだけれども、海に対する感覚が、非常に鈍感になっているのですね。 しかも都を出るのを非常におそれ嫌っているのです。 ですから後醍醐についても、律令貴族の感覚で隠岐に流したのではないですか。幕府は海上交通支配を過信しており、佐々木氏を信用していたのでしょうが、それが失敗のもとになったと思います。
    (《U 海からの交流》P.141〜144)


     五 吉野ヶ里遺跡と神崎荘
     六 出雲と越

    [網野] 私は、たまたまその古志に去年行ったんです。古志の方から長い間常民文化研究所が古文書を借りっぱなしにしていました、それをお返しに行って、その方に案内していただいてあのあたりを少し見て歩いたんです。 しかし日本海、とくに山陰の近世の海上交通は余り研究されていないんです。 そのとき白壁の蔵を持っている大きな家がありましたが、あの家は昔、船を持っていたというお話をうかがいました。 やはり廻船です。 だから、出雲の古志のあたりは廻船の要地だったのではないでしょうか。
     出雲と能登の関係が深いことは、門脇禎二さんが強調されているようですが、能登の時国家の水手(かこ)にも、石見(いわみ)に郷里があって、佐渡に兄弟がいるという人がいて、佐渡の弟のところに行きたいから暇をくれという文書を時国家に出しています。 江戸初期のことです。 ですから石見、出雲の人の動きは、若狭を飛びこえて、能登にきている可能性は大きいと思います。
    [森] 『古事記』の冒頭に、有名な大国主命が越の沼河比売(ぬなかわひめ)のところまでよばいに行く話があります。 沼河比売が、最初の夜は家のなかに入れてくれなかったが、二日めに入れてくれて結婚が成立する。 今日でいう同居を前提にした結婚ではありませんけれども。ちょうどヒスイの原石の出る糸魚川市・青梅町のあたりに、沼河比売関係の地名や神社が集中しているわけです。 だから、実在の女性というよりも、何か硬玉ヒスイの象徴的な女神ではないかと言われています。
     いずれにしても、大国主命がそこまで行く。 それで、『出雲国風土記』では、二人の間に生れたのが港町の美保の神だという。 そうすると、先ほどの出雲市の古志町の話ではないけれども、遠隔地間の交流、そして場合によったら交易の拠点をもつとか、そういうことは、古代には当たり前のような気がしますから、もちろん神話の世界とはいえ、沼河比売の伝説にもなにかが反映しているとみているんです。 出雲には、硬玉ヒスイの勾玉のいいのがあるのです。 出雲大社の境内から出た勾玉は、大きさといい透明度といい、これは古い時代の硬玉ヒスイの王者だと思います。 そういういいのはあるのだけれども、数は少ないんです。 数は、日本海沿岸でも鳥取とか他のところがやや多い。 だから、いいものはあるけれども数が少ないというのが、伝説との対比でどうなるのかなあと考えているんです。
    (《U 海からの交流》P.154〜156)


     七 海村の都市的性格
     八 瀬戸内海・伊予

    [網野] おもしろいことは、伊予守左馬頭(さまのかみ)という奇妙な官職の組合せがあると思うんです。左馬頭は院の厩の別当を兼ねていて淀川沿いの牧をおさえているし、馬借・車借を支配している。 伊予守は瀬戸内海の入口をおさえているんです。ですから、この両方の官職を兼ねると、瀬戸内海の入口の淀川から瀬戸内海の出口まで押えることができた。ですから、平氏はもちろん両方押えたし、平清盛とせりあっていた源義朝が左馬頭。 それから頼朝に東国を押えられた義仲と伊代守になって西国の総地頭職をもらうわけです。 だから彼は、摂津から四国に渡ろうとして、暴風雨で追い返された。 もし義経が四国に渡っていたら、頼朝もそう簡単には義経をとらえられなかったと思います。
     ですから瀬戸内海の交通を考える時に、左馬頭と伊予守のように思いもよらぬ官職に注意する必要があります。 これは元来は院自体の問題なので白河院以後、院は瀬戸内海交通に非常に関心を持っていたと思います。 こういう具合に政治史を考える場合にも、海上交通を考慮に入れると、いろいろいな新しい問題が出てくる
    [森] たしか、『古事記』も『日本書紀』も、国生み神話のところで四国全体を言う時には「伊予の二名島」と呼んでいますね。 つまり、四国全体をあらわす言葉が伊予になっている。 これは、どういう理由かわからんのです。 讃岐も土佐も阿波も出てこないのです。 大きな前方後円墳でいうと、讃岐と阿波にあって伊予でははっきりしないのですけれども、神話上の重要性は伊予にあったわけです。
    [網野] 伊予は大国なんです。 伊予がどういう意味で大国になっているのかについても、考えなおしてみる必要がありますが、院政時代の貴族にとって伊予は垂涎の国だったようです。 ただ、この場合もただ水田が多いから大国だったのかどうかは問題で、やはり海も意味があるのではないかと思います。 実際伊代と淀川は、遠いようだけれども、近いんです。 純友の軍勢はすぐに淀川まで顔を出しますから、とくに日振島は北九州に近い。 だから、伊代は、北九州から瀬戸内海の交通を支配する時の要の意味をもっていたのではないかと思うのですが。
    (《U 海からの交流》P.164〜166)


    [森] ずっと新しい話だけれど、西園寺が城を構えていた宇和町(愛媛県東宇和郡)、江戸時代の名前は卯之町ですか。 あそこに江戸時代に高野長英なんかも一時住んでいました。 そして、長英を匿った二宮敬作という、ヨーロッパの人名辞典に初めて入った日本人もいるし、それからシーボルトの娘イネもあそこへ来ている。 だから、今日流に見たら、たいへん田舎と思うけれども、非常に国際性がある。
     考古学の方からいうと、あの僅かな盆地が弥生後期の銅矛の集中地帯なんです。 現地に行ってみたら、山の斜面のふもとにちょっとした湧き水があるんです。 その湧き水のぐるりで銅矛が出てくる。 現在残っているのは僅かなんですけれども、出土の記録全体をあわすと二十本くらいでている。 しかも、中国の北朝製かなあと思われる鏡があるんです。 日本の古墳からでる普通の鏡とは、少し文様構成の違う鏡が古墳から出ている。 愛媛というところは、大きな前方後円墳でいうと取るに足りないところなんです。 しかし、大きな前方後円墳でみると取るに足りないというと、朝鮮半島だって取るに足りないところになってしまう。 これは、大和にしか通じない物の見方になってしまいます。 だから、大きな前方後円墳がないというところは、意外とそういうものとは別の価値観をもっていた土地の可能性があるわけです。 だから、そういう意味で、僕は愛媛はおもしろい地域だと思います。 越智(おち)氏の正体を含めてですね。
    (《U 海からの交流》P.168)


     九 太平洋側の動き

    [網野] 最近、平泉の柳の御所の発掘がされていて、渥美や常滑(とこなめ)の焼物がたくさん出ているようです。 太平洋を通じての海上交易で、あれだけいろんなものがたくさん入っているとしたら、平泉の視野は南の方にも広がっていた可能性があります
    [森] 平泉の仏像が寄木造りになっている。なぜ寄木造りかというと、都で作って運搬をする時に、太平洋を使った水運で運搬していく時の便利のための一つの工夫である、という説明を前に読んだことがあるけれども、僕は、もし太平洋をずっと船で運搬して、北上川で運べたとしたら、一本造りでもいいと思うんです。 僕の考えは、やはり敦賀か小浜のあたりから船に載せて、そして酒田か鶴岡の近所で下ろしたんじゃないか。 『吾妻鑑』では、平泉の滅亡の時に、鶴岡のあたりに水軍が出てきますね。 そうすると、後は最上川ですね。 最上川は『延喜式』でも川船の配置されている有名な川ですから、最上川で運べるところまで運んで、あとは峠道を馬か牛の背中に載せて運んだのではないか。 そうした場合に、やはり寄木造りという工夫がいってのではないかと、前に考えたことがある。 そうすると、やっぱり平泉の場合も、太平洋だけでなく日本海との交易を考えねばならない。
    (《U 海からの交流》P.172〜173)


    [森] 遣唐使が中国へ行った時に、倭国が献上した大きなコハクと大きなメノウを、唐の皇帝が喜んだというのが『新唐書』に出ている。 そうすると、古墳時代の終わりの頃になると、今日的な流行が数千年の伝統をもつ硬玉ヒスイから、太平洋側のコハクに変わってくるわけです。 正倉院の鏡にもコハクを入れたのがある。 余談になりますが、あの鏡は、はめ込んだコハクの粒が大部分は落ちていたのを明治時代に修理したもので、どこのコハクかの判定はむずかしい。 そういうふうに、コハクの流通一つを考えても、東北地方からの太平洋ルートもかなり考えないと、これだけ大量のコハクの伝播はないだろうと思います。
     『日本書紀』でも安閑天皇の時に、伊甚屯倉(いじみのみやけ)をおいている。 千葉県の一宮町の近くです。 これが、おそらく玉の集散地としての屯倉ではないかと思います。 このとき膳臣(かしわでのおみ)大麻呂に命令して、上総に珠(たま)を求めしむという記事がありますから、日本海側だけじゃなくて、太平洋側についても海の利用が垣間(かいま)見えはする。
     久慈については、そういう大和朝廷の力が及んでいない所の物が利用できるはずがないなんて考える考古学者がいるわけれども、そんなもの、交易を考えたら当たり前のことで、政治的にそこまで押えていなくても、いくらでも交易で入手できます。 僕はむしろ、広く蝦夷といわれている人たちが久慈のコハクの開発に関与していて、それが後の蝦夷摂関家とのなどの交易ではないけれども、ある段階は蝦夷がコハクなどを押えていたのではないかと思います。
    (《U 海からの交流》P.184〜185)


     十 スケールの大きい海の交流
    [網野] 少し話は飛びますけれど、海の研究には難しさがあるんです。増田義郎さんから聞いた話だけれども、年代は下がりますが、一六一三年に、南アメリカのペルーのリマでスペイン人が人口調査をやっているのだそうです。 それによると当時リマには明らかに日本人が二〇人いたことがわかる。 中国人はもっとたくさんいたようですが、これはもちろん漂流ではないと思います。一六一三年というと、まだ支倉常長(はせくらつねなが)はメキシコに行っていません。田中勝助がメキシコに行ったのは一六一〇年です。 こういう実績があってはじめて、支倉や田中が行けたのだと思います。 考えてみれば、ルソンにも日本町ができているし、南の方の島をつぎつぎに渡って行けば、南アメリカに行けるわけです。 そのルートはまだはっきりはわかっていない。 けれども、海の交通はそこまでスケールが大きい。
    (《U 海からの交流》P.185)


    [森] 僕は、一五四三年種子島に鉄砲が着いたということを小学校の時から知っていた。 それを、偶然の事件だと思いこんでいたんです。 ところが、種子島に行ってみると、たくさんの中世の製鉄遺跡がある。 砂鉄だらけで、民芸品として名高い焼物の熊野焼、鉄分を含んでる真っ黒な焼き物で、持つとずっしり重い焼き物です。 九州全体で言っても、中世にあれだけ製鉄をやっているところといえば、菊池川の流域くらいで、そう何ヵ所もない。 数ヵ所でしょうね。 そうすると、辺鄙な島だと思うとたいへんな間違いで、中世には非常に製鉄の盛んな島なのです。 だから鉄砲が伝来しても、偶然漂流したのか、あるいはこの島をめがけてきたのかはともかくとして、あそこでまもなく日本人の身長に合わした銃、いわゆる種子島銃というものを作っています。 農具を作れる鍛冶屋さんなら、全国のたいていの村にいたと思うけれども、鉄砲を作れる、しかも日本人の身長にあわせた鉄砲に作り替える技術なんて、僕は、当時の日本列島でもそうどこにでもあったのではないと思います。 そういう意味で、もう一度、『新唐書』を見直すと、東海の嶼(しま)の中にヤク(邪古)タネ(多尼)ハヤ(波邪)の三つに、小王がいたと書いている。 屋久島と種子島と、それから隼人のことでしょう。小王がいて、織物の貿易に来ると書いてありました。 いつ頃の反映か、奈良時代のいつか、その前後かはわからないけれども、いずれにしても、律令時代の日本のはずです。 それでもヤク、タネ、ハヤの小王という言い方で、中国の歴史書はみている。 そうすると種子島なんて、面積でいうと、そんなにめだつ島ではなくお米の取れ高だけから見るととるに足りない島であっても、海上交通とか手工業生産、通商、その三つにウエイトをおいたら、非常におもしろいところだと思います。
    (《U 海からの交流》P.188〜190)


     日本列島で出ている最古の文字ということになると、種子島の広田遺跡で出ている貝札ですが、弥生時代後期の人骨にともなったペンダントにという字が書いてある。 発掘されたのが、この間亡くなった金関丈夫先生で、発掘のあと神田喜一郎先生とか書道史にくわしい先生に見せると、だいたい後漢末とか三国時代初期とおっしゃる。 そうすると、三国志』の呉の「孫権伝」のところに出てくる、例の始皇帝の時に派遣された徐福の子孫と称するのが、とどまって、たいへん繁栄して数万戸になっていると書いていますから、大変な人数になっている。 そして時々会稽(かいけい)のあたりまで貿易にやってくる。 そして、会稽東県の人も時々そっちに流されると書いています。 それが亶洲(たんしゅう)と書いてある。 最近では亶洲を種子島と考える人が多い。 済州島という人もいるけれども、その可能性は、地理的にいってもほとんどないと思います。
     そうすると、その山という字は仙人の仙の省略ですね。 鏡に書く時には、仙人は人偏(にんべん)をとって、だいたい山人と書いています。 東海の神仙世界の仙ではないかと思います。 あの字をどういう連中が書いたのか、それからあの貝札の風習が、どこへつながるのか、まだ大陸では源流が見つからないという問題はあるけれども、いずれにしても、日本列島で書いたと推定される最古の文字は、大和で出ているわけでも、博多ででいてるわけでもなく、種子島で出ている。 そうすると、鉄砲伝来の記事なんかでも、背景の読み方が違ってくるんです
    (《U 海からの交流》P.190〜191)


     一 鋳物と塩の交流
      1 鋳物師の活動

    [森] 場合によっては炭焼きもですね。
    [網野] ええ。 そのそばは、乙戸川が流れていて、この川の交通で原料を運び、製品を送ったのでしょう。鋳物は重いから、製品は馬では運べませんから、川で運んでいると思うので、能登の穴水も、そういう鋳物の積出港でしょう。
    [森] 僕は子供の時に河内の狭山(さやま)に十年間ほど住んでいたのです。 南海高野線の狭山駅に引込み線がある。 そこへ、無蓋貨車が時々入ってきて、一人か二人の男がスコップで一生懸命土を運んでいた。 子供の頃は、なんでわざわざ土を積むのかと思っていた。 ところが、だんだん考古学でいろんなものを読んだりしていると、狭山を含めて、西除川(にしよけがわ)と東除川の流域−−古代の丹比(たじひ)郡ですね。 当時は実際の鋳物師関係の遺跡の発掘はなかったので、各地に残っている釣鐘の銘文が史料だったけれども、全国的に河内国丹比郡黒山とか狭山とか、あるいは丹比とか、そういうところの藤原国安とか河内助安とかの鋳物師の名前がいっぱい出てくるんです。 それで、これはおかしいなということで、『大阪府史』を書く時に、もう一度調べ直すと、その貨車に積んでいたのは鋳物砂(土)だったのです。 そして、堺の鋳物屋さん達は丹比の土、ちょっと発音が変ってタンピの土と言っていました。 福岡あたりの鋳物屋さんは堺の土なんです。 積出港が堺です。 今で言うと一〇トンぐらいの小さな船に丹比の土を積んで、運んでいたから、九州では堺の土、その土がとれるのが、要するに丹比の南のつきあたりです。 羽曳野(はびきの)丘陵上の五軒家(富田林市)というところです。 最近は団地になってしまっていますが、昭和三十年代には、電話帳をみると、鋳物土屋というのがまだ数軒載ってたんです。 狭山にいた最後の頃は小さな土建屋さんに変わっていました。
    (《V 歴史の原像》P.197〜198)


    [網野] 伝承では、全国の鋳物師は河内から移動したということになっているわけです。 能登の中居鋳物師も、そういうことを言っています。 しかしこれには、根拠もあるので、弘長三年(一二六三)の蔵人所牒に移動の事実が出てくるんです。 当時鋳物師を統括していたのは蔵人所ですが、鋳物師の惣官は中原光氏という人で、この人が左方鋳物師を統括しているんです。 ところが、この頃、鋳物師どもが、関東、北陸に逃げ下って蔵人所に納めるべきものを納めないと光氏が嘆いています。 これは、写しですが、きちんとした様式の蔵人所牒にでてくるので事実だと思います。 そこでは、逃げ下るといわれていますが、これは移住ではないかと思います。
    [森] 穴水の中居には、現在は鋳物屋さんは一軒もないんですけれども、この前行った時に、そういう人の子孫が何をしているかというと、左官屋さんです。 上等の家を作る時の左官になっている。 そうすると、鋳型を作るという技術は、これは鋳物を作る大前提であって、よほど重要な技術なんです。 だから、そういう意味では、先ほどの土鋳物師も、鋳型作りと関係あるでしょう。 鋳型ができたら、後は金属をとかして、配合して流せばいいわけです。
    (《V 歴史の原像》P.200)


      2 塩の交易

    [網野] 伊勢神宮でも御塩殿で特別に塩を扱っていますが、塩の祭祀に関わる役割は十分考えてみる必要があると思います。 キヨメに使われる塩ですね。 ただ、塩は平安時代には俵で運んでいます。 塩の単位は二つあって、一つはです。 この場合も三斗俵や五斗俵があったようです。
    [森] 俵は米に多いのではないですか。 塩は、木簡では一斗、ニ斗もあり、調の規定では三斗だったと思います。 平城木簡でも、調の塩を三斗だしているのはかなりある。塩を俵にいれたかどうかですが、平城木簡に「讃岐国山田郡田井郷」とある裏に「風直佐留(かぜのあたいさる)三斗、御人八国(みひとのやくに)三斗扞一俵」としたのがあります。 屋島の周辺の土地で、おそらく二人分の調の塩を一つの俵づめにした珍しい例もあります。
    [網野] 木簡にでてくる調塩は三斗なんです。 ところが、封戸の負担、封物の中には、〉という単位もあるんです。 これは、たぶん堅塩の包みです。 あるいはこれが焼いて堅く固まった塩なのかもしれません。 少し時代が降って、平安時代の末から中世に入ると、〈俵〉が単位になります。 伊予の弓削島(ゆげのしま)荘の史料でみると大俵、中俵、小俵などがでてくるのです。 ですから、果から俵にかわりますが、平安末期に〈〉という単位もでてきます。 いずれにせよこれは塩の焼き方と関係があると思うのです。
    (《V 歴史の原像》P.208〜209)


    [網野] もう一つ、塩について考えておく必要があるのは、話が少し変わるけれども、交易の問題です。 僕は塩の交易は、縄文時代以来のことで、日本の商業の原点ではないかと思います。 塩を海辺から遠い内陸部まで運ぶのは、かなり早くからではないかと思います。 魚貝もそうですが、塩もたくさん作れば、かならず売らなくてはならない。 縄文時代でも、少なくとも土器製塩が行なわれるようになれば、塩は交易されていると思います。 だから商人の源流も塩商人、魚貝商人だとおもいます。
    [森] 『随書』「流求伝」では、木の糟(ふね)に海水を入れて、天日にさらしておくと塩ができると書いてありますね。 この方法は本州でもあったと思います。 だから、土器製塩だけにこだわりすぎはいけないけれども、土器製塩ということだけでみれば、霞ヶ浦では縄文晩期に何ヶ所も製塩をした遺跡がでてくるんです。 霞ヶ浦のあたりは、『常陸風土記』でも浮島というところは塩を焼いて生業にしていると書いています。 だから、塩作りというのは、今のところ、土器製塩だけをみれば、関東発祥ということになる。 そしてずっと西の方へひろがる。 今いちばん北は陸奥湾や松島湾ででています。 南は薩摩半島、阿多隼人の領域まである。 だから、ほぼ日本列島中で出ています。
    [網野] 塩や魚貝の交易から商業が始まったと考えると、海と商業、海民と商人という問題が出てきます。 実際日本のおもだった商人は、だいたい海民出身です。 伊勢商人も近江商人も紀州商人も、まず間違いなく、みな海の民ですね。縄文時代からたいへん話が飛んでしまうけれども、やはり近江商人は琵琶湖周辺の海の民が原点だと思います。 紀州商人も同様で田島佳也(よしや)さんが明らかにしているように、栖原浦(すはらうら)の海民出身の栖原屋は江戸時代を通じて、なんと北海道から樺太まで進出しているわけですから、海を通じて海民が広域的に動く伝統が、非常に古くからあることを考えておかないと、交通、商業の問題は決して理解できないと思います。 律令国家を作った陸上の道ももちろん大事ですけれども、これまではこういう陸の道だけで日本列島の交通を考えがちだったと思います。 たとえば、「歴史の道」の調査をずいぶん各県でやっておられて、非常におもしろい成果があがっているのだけれども、やはり、川の道、海の道は見落とされがちになっていると思います。海や川の道は後に何も残りませんからね。 陸の道だと、小さい道でも石像物が残ったりする。 海や川の道はそういうものがほとんどないから、みな忘れがちだけれど、これを視野に入れれば、新しいことがいろいろわかるのではないかと思います。
    (《V 歴史の原像》P.209〜210)


     二 隠された女性の活躍

    [網野] それから、さきほど水銀の話がでましたけれども、水銀は白粉の原料になるので、水銀供御人(くごにん)が中世にはいますが、この人たちは水銀を売っているだけではなくて、白粉(おしろい)売りなんです。 この白粉売りには女性がいたことは確実です。 十六世紀の『七十一番職人歌合』の絵を見ますと、だいたい女性の使う品物を売る女性は、遊女に似た姿をしていまして、白粉売り、扇売りとか、紅とき売りとか、みな眉を剃り落として、ぼうぼう眉、作り眉にしている遊女型の商人です。 こういう女性の商人が『七十一番職人歌合』にはたくさん出てきます。 そういう遊女タイプの商人だけではなくて頭に白い被り物をした女商人がでてきます。 米などの穀物や繊維製品など比較的軽い物を扱う商人は女性です
     こういう工合に女性の社会活動は、意外なほど活発です。だいたい女性が自分の独自な文字、文体をもって、自分の目で世の中の動きを見て、文学を書けるというのは簡単なことじゃないと思うんです。 世界でもあまり例がないのではないでしょうか。 平仮名は女性の文字という性格をはじめからもっています。 しかも女性が仮名文字を使って、女文という独自な文体で、しかも男の世界を自分の目で見て、『源氏物語』のような文学を書いたというのは大変なことだと思うのですが、日本の前近代の女性のあり方は、やはり相当なものだと思います。 社会的な地位が高いというだけでなく、自分の目をもっていて、文学を書いているということは重要ですね。 しかもたんに十世紀ころだけではなくて、十四世紀でも『とはずかたり』という女流の文学を生みだしています。 これは二条という女性の物語ですが、その男性遍歴が描かれていて、とくに亀山後深草、二人の上皇と一夜をすごしたという場面がでてくるのです。 仲が悪くなりはじめていた大覚寺統持明院統の上皇が、二条という女性をめぐって、微妙に争っているのですが、西園寺実兼(さねかね)とか、近衛家平(いえひら)とか著名な男性との関係を女性の立場から描いているのです。 二条は何人もの男と関係を持ちまして、後深草上皇の寵姫(ちょうき)なのですが、西園寺実兼の子供を生んでしまう。 それを死んだことにして、じつは実兼が育てたとか、天皇に関わるいろいろな男女関係の話がでてくるので、太平洋戦争中は公開されなかったんです。この作品が書かれたのは十四世紀です。 だから、少なくともそのころまでは、女性は自分の目を十分もっていた。 政治の面で見ても、薬子の乱までの後宮の女官は大変な力を持っているでしょう。 これ以後は、表舞台からひっこむけれども、実際には力を持ちつづけているし、平安末期から鎌倉初期には、北条政子伊賀局をはじめとして、女流政治家がたくさんいるわけですよ。 京都でも丹後局など権勢をふるった人が多い。 十四世紀には阿野簾子(れんし)という最近のNHKドラマでもさかんに登場する人がいるし、十五世紀には日野富子もでてきます。 こう考えてみると女性は政治や社会、商業や金融、さらに、文学でも、意外に活発に動いているし、大きな役割を果しています。 だから、さきほどの古代の六国史の記事のように、見方によっては、いろいろな新しい発見がでてくる可能性もまだ十分あると思います。
    (《V 歴史の原像》P.217〜218)


    [網野] そうですね。いま思いついたのですけれども、能登の時国家を調べていて、「あぜち」という習俗があることを知ったのですが、それと関係あるかもしれません。 北陸一帯に少なくとも江戸時代前期まで「あぜち」といわれる習慣があるのです。「あぜち」は「庵室」がなまってできた言葉ですが、隠居のことなのです。 自分の息子、嫡子が成人しますと、その嫡子、惣領に「主屋・面屋」(おもや)を譲って、他の子供を連れて、父親と母親が隠居して、別の家を作って外へ出てしまう。 それが庵室、「あぜち」なんです。 ところが、この「あぜち」がかなり権力・権威をもっているのです。 しかも、隠居の妻が「あぜちおかか」とよばれている。 これは、夫である隠居が死んでも、「あぜちおかか」が「おもや」の惣領に対して強い権威をもっているんです。 これを見ていて、私は院政の政治形態を思い出したんです。日本の政治形態をみると、隠居が権力をもつ場合が結構あります。 江戸時代の大御所と将軍太閤と関白、もう少し遡ると得宗(とくそう)と執権、それから院と天皇。 しかも、院の場合でも、女院が相当の権力をもっています。 私は能登の「あぜち」隠居の制度を調べているうちに、日本の民俗のなかに、こういう政治形態を生み出す土壌があるのではないか。 しかもそれは、たんに男の隠居だけではなくて、能登のように女性の隠居が権威をもつ伝統もあるのではないかと思うようになっているのです。 こういう問題まで視野をひろげてみますと、今までこのような女性の役割に目が向かなかったのは、私の持論になってしまうけれども、やはり律令国家の家父長制、男が戸主になるという中国大陸の国家の原理に、歴史家がひきずられていたからではないかと思います。 しかし律令国家はこの制度をやはり本気で実施している。 表は男、裏は女という原理です。 官人の世界でもそうなっている。 奈良時代にはまだこの制度が貫徹していないから、後宮の女性が政治に口をだしますが、九世紀から建前の上では、それはなくなりました。 この建前が、田地を課税の基礎にしたのと同じように、日本の国家の形態には一貫している。 建前の上ではあくまで男が優位ということになっているわけです。 武家の世界でも、建前はそうなっているけれども、かなり違ったところが見えますが、庶民の生活のなかではまだまだ女性は力があります。 能登の「あぜちおかか」はそのよい例で、脈々とそういう実態が、江戸時代でもかなり広く残っていると思います。
    (《V 歴史の原像》P.221〜222)


    [網野] 文字の問題についても、女性が自分の文字として、平仮名をもっているということは、強烈に江戸時代までつづいていて、女性が文字を書くことに何の抵抗ももっていないのです。 だから、江戸時代でも商人の女性や名主、庄屋、組頭など村役人の妻の女性は、みな文字を書けたと思います。 少し遡りますと、親鸞の妻の恵信尼は日記をつけていたんです。 十四世紀で女性の文学はなくなるけれども、女性の日記は江戸時代まであります。 十八世紀になると、女性の地位は、全体的にはさらに低下してくるけれども、女性の日記はやはりあります。
    [森] 考古学上では、片仮名−−片仮名といえるかどうか、後の片仮名に吸収されるもので、「」が出てきます。いちばん古いのは、藤原京から出てきた土器に「宇尼女(うねめ)ツ伎(き)」と、それぞれ一字一音で書いてありました。 いちばん古い片仮名が采女(うねめ)だから、これもはっきり女性です。 それから平仮名でいちばん古いのは、京都の嵯峨野の清涼寺の釈迦像のお腹のなかに、「然(ちょうねん)が中国でこしらえた有名な人間の内臓模型と一緒に、臍(へそ)の緒(お)書きがてている。 その臍の緒書きが平仮名です。 あれも、おそらくお母さんが書いたのだろうと推定されているから、片仮名も平仮名も、どちらもまぎれもなく女性が関係している。いろんな国の文字をみても、男性の字と女性の字の二種類が同じ国に併存するなんてないですそして男の方も、紀貫之じゃないけれども、僕らだって仮名がないと、こんなに早くメモはとれないですから、男性も女の文字を上手に使って気持ちをあらわすのに非常に得をしているんです。 漢字だけでは、とてもとても日本文化は発達しなかった。
    [網野] そうですね。 朝鮮でも、ハングルは最初はやはり裏の世界の文字らしいです。 日本の場合と似ているんです。 しかし、ハングルを使って女性が文学を書いたということは、ないらしい。 日本の場合は、女流文学がこれほど世界的に有名なのに、なぜ、女性が書いたのかを、もっといろいろな分野の学者が追究する必要があると思います。
     どうもこう考えていると、家父長制が日本で確立した時期は、本当にあるのかしら(
    (《V 歴史の原像》P.222〜224)


    [網野] 朝鮮半島にも、女性の支配者はありませんか。
    [森] 新羅には三人の女王がいますが、それほど力はないし、日本の場合は反復して出てくるでしょう。
    [網野] これは不思議なことです。 普通、女の天皇は中継ぎの天皇ともいわれていますし、事実、中継ぎでしょうけれども、いかに中継ぎでも、女性が皇帝や王の地位につくことを認める空気がなければ、実現しないと思います。 肥前の松浦党に、南北朝期、「女地頭」がしばしば現われたり、江戸初期の備中真鍋島に女の庄屋がてでくるのも同じ動きでしょう。 この「空気」がなんなのかを新しい角度から見直す必要があるのではないでしょうか。
     それから、さきほど話の出た、商業や金融に女性が非常に進出しているという問題は、女性の性そのものと関係していると思います。 延暦寺の山僧や神人、つまり仏や神に直属している人が、金融や商業に関わって、米や銭を豊かにもっているということにもつながる。 つまり、女性は、男のもたない力をもっている、少なくとも男を含む社会からはそう見られていた。 実際、女性には巫女(みこ)になりうる要素が非常に強いわけです。交易や金融は、みな神仏と関係がある。 人の力をこえた世界とのつながりで、はじめてできたわけですが、女性はそういう意味で神仏、聖なるものに近い存在と関係があるとみられていた。 だから、女性の商人や金融業者が出てくるのではないかと思うんです。 『日本霊異記』には女の花売りの商人がでてくるし、出挙(すいこ)をやっている田中真人(まひと)広虫女(ひろむしめ)も女性です。 ああいう女性がかなり古くからいるんです。 これは、女性の性−−ジェンダーとの関わりがある。 日本の社会の特質はそういう点にでているのではないかなと、思います。遊女も、社会的な地位は高かったですからね。
    (《V 歴史の原像》P.228〜229)


    「網野」 もう一つ突っ込んでいいますと、市庭(いちば)は、しばしば歌垣の場になるんです。 これは当然で、市庭では世俗の縁が切れるわけですから、そこでは男女は一人の男、一人の女になる。 だから、そこで男女が自由に交渉しても、それは世俗と無関係のことなのです。 筑波の歌垣の歌にあるように、男は夫のある女性に、女性は妻のある男と、自分の意思で自由に交渉できる。 実際、市庭とか祭の庭は、比較的最近までしばしばそういう場になっているんです。
    「森」 推古女帝海石榴市(つばきいち)別業(別荘)をもっていて、これを海石榴市宮といったそうで、そこに寵臣三輪君逆(みわのきみさかう)が、穴穂部皇子に追われたとき逃げこんだという事件があります。 寵臣と『日本書紀』がいっているぐらいですから、個人的に出入りしていたのかもしれない。
    「網野」 そういうことですね。 それから、中世ではよく寺社に参籠(さんろう)お籠(こも)りしますでしょう。 鎌倉時代には参籠中の男女を混在させてはならないという後宇多天皇の宣旨もでているわけですが、実際に、絵巻物をみていると、参籠の場所で男女が一緒に寝ているんです。 絵巻だから、絵に描いているので、明るいように見えるけれども、実際は真っ暗なはずです。 せいぜい灯明が灯っている程度の場所で参籠しているわけです。 しかもお籠りの場所は、神仏の場所だから市庭と同じなんです。 世俗の縁が切れている。 だからよく、子供が授かるようにと、神様にお願いしてお籠りしている時に子供が生まれたというのは、本当にあったと思うんです(笑)。 しかも、そういう場所で生まれた子供は、神様の子供仏様の申し子であると考えられていたわけで、こういう参籠が実際に、行われていたと思います。
    (《V 歴史の原像》P.230〜231)


    [森] ただ、たとえば遣唐使とか、遠くへ行く場合に女性は船に乗せないわけでしょ。 天明二年(一七八二)に伊勢から出航し、遭難のあとロシアをまわって帰国した大黒屋光太夫が船長をしていた神昌丸の十七人でも、男ばかりです。 そうすると、遠方へ行く時、女性をどの程度船に乗せたか。 日本でも最初に仏教を本格的にやろうという時に、司馬氏の娘嶋(しま)(善信尼)とか錦織(にしごり)氏の娘石女(いしめ)(恵善尼)など、いろんな家の十代の女性を五八八年(崇峻天皇元年)に百済まで派遣して、二年ほどして帰ってきて、桜井寺に住まわせている。 あの時は、彼女らは船に乗って行ったことになりますけれども、それは非常に数少ない例です。 だから日本の場合、女性の立場はアジアのなかでも非常に特異性があったけれども、異国など遠方には行けないという問題もあったんじゃないかと思います。
    [網野] これは難しい問題です。 遣唐使の段階になれば、これはやはり律令制イデオロギーに規制されているし、相手が唐帝国ですから公の旅や儀式の席に女性を連れて行くわけにはいかなかったと思います。現在も民俗のなかに、女性は船には絶対に乗せないというタブーがずいぶんあります。 これは、穢(けがれ)の問題とからんでいると思いますが、しかし逆に船玉(たなだま)様は完全に女性そのものでしょう。 これもおもしろいことだと思います。 それから、いわゆる家船の場合は、当然女性を連れています。 そして船の上で、普通の生活をしながら、長期にわたって船で遠くまで出かけていきます。 中世でも「海夫」の党、「一類(いちるい)」の中には女性もいたと思います。 こういうあり方が、恐らくは本来的で、海民の世界ではそれが普通だったのではないかと思うのですけれども、いつごろから女性を船に乗せない習俗がでてくるのか、その変化を考える必要がありますが、恐らく穢の問題と関係しています。穢に対する忌避が女性の社会的地位の低下の大きな要因の一つになっています。 その傾向が、十四、五世紀から強くなってくるので、遊女の社会的地位が転落するのも、これが基本的な要因だと思います。 それ以前の遊女は、社会的地位はかなり高いので、天皇や上皇の近くに出入りして天皇の子供を生んだり、勅撰集に和歌がのるようなこともあったわけです。 十五世紀以後に比べたら、格段に違います。 貴族が自分の母親は遊女の出だということを系図でも、公然と書いているし、遊女の子供でも、徳大寺実基(さねもと)は従一位太政大臣になっているわけですから、そういうことが見られなくなる時期が十四、五世紀です。 このころからセックスは汚れたものだというとらえ方、女性は男の穢をうけて子供を生むものだという見方が明らかに日本の社会に浸透してくる。 それが遊女の地位を低下させて、ついには遊女を遊廊に集めてしまうということになっていくのですが、こういう意識の変化と、女性を船に乗せなくなるということと、果して繋がりがあるのかないのか、その辺を民俗学の方で明らかにしてほしいと思います。
    (《V 歴史の原像》P.233〜236)


    [網野] ただ、平家の御座船には女官はたくさん乗っています。そんなにきびしいタブーがあったら、こんなことにはならないと思います。 平家が逃げた時、女官をみんな乗せて、船で逃げているわけです。
    [森] 家船の応用ではないですか。 大型家船の意識かもしれない。
    [網野] だから、瀬戸内海の家船漁民の感覚からいえば、当たり前なのでしょう。 那須与一の扇の的だってそうでしょう。 女官が船で招いているわけです。
    [森] だから瀬戸内海のような内海では、そのタブーには拘束されない。 たとえば、藤原純友の乱の時に最後の方で、海賊男二人、女二人を捕まえたという記事があります。 あれは、夫婦単位の海賊でしょう。 だから、どの程度が内海だからとして許容されていたのか、これはちょっと難しいところです。
    (《V 歴史の原像》P.236〜237)


    [森] 一つこのあいだから考えているのは、古い時代には、マグワイ(婚)の話はいっぱい出てくるわけです。 『日本書紀』でも描写はすごいですね。雄略天皇に、物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が「一宵にいくたび喚(め)しましたか」つまり一晩で何回やりましたかなんて聞いたら、天皇が「七回喚した」と答えたりして、そりゃあっけらかんとしている。 ところが『古事記』や『日本書紀』には、今日いうような結婚式の話ではないんです。 今日の結婚式では、どこのホテルでやったとか、何人招いたとかいうことが重要であって、いつマグワッタかなんて、冗談以外には聞けないです(笑)。 それを『日本書紀』なんかでは当然のこと、重要なこととして書いている。 そして、家来とかいろんな連中が集まって結婚そのものを祝う式とか集まりは出ないです。 結婚式というのは、いつ頃からあるんですか。
    [網野] 現在のような結婚式は、非常に新しいんじゃないですか。 だいたい平安時代でも、いわゆる所顕(ところあら)わしという儀式をやりますが、あれが結婚の承認の儀式だといわれています。
    [森] お葬式については、これは誄(しのびごと)を述べたり、大きな儀式をやっているけれども。 現在は、反対になってしまって、だんだん結婚式の時に包む祝いに比べたら、お葬式の香典の方はどんどん少額になっていっていますね。
     ボストン美術館がもっている奈良絵の絵巻物で、そんなに大きなものではないんですけれども、三井寺(みいでら)のあたりのことをかいたのがありますが、人間が猿の姿をした物語で、そのなかで長者の結婚式の場面がでていた記憶があるんですけれども、これは室町時代頃のものでしょうが、いずれにしても、古代社会で、今日のような結婚式、つまり親類縁者・家来などが集まって酒盛りをしたなんて記事を、僕はよう探せないんです。
    (《V 歴史の原像》P.237〜238)


    [網野] さっきちょっと話に出た『とはずかたり』の二条は、きちんとした貴族の娘なんですけれども、この作品の前半は彼女の男性遍歴なのです。 子供の頃から後深草にかわいがられているのですが、そこに西園寺実兼が忍んできて、その子供を生んでしまう。 それが後深草が通っている頃の子供なのですが、上皇の子供ではないわけです。 それでその子供が生まれると密かに西園寺実兼が子供を死んだことにして隠してしまうという話や、仁和寺の法親王で二条にすっかりのぼせ上って、気も狂わんばかりになって、祈祷(難字)の場所で彼女をむりやり、”マグワイ”にひきずりこんでしまうとか、前半はそういう話なんで二条はまだ何人もの男性と関わっている、亀山もその一人ですし、後深草はそのあっせんまでしている。
     よく天皇は三十何人もの女性がいて、五十人も子供を生ませているなどという話があるけれども、これはやはり男系のの意識で見ているからで二腹三腹の話ではないけれども、この二条をみているかぎりは、きわめて開放的、何人もの男性の子供を生んでいるわけです。 もちろん女性は五十人も子供を生むわけにはいきませんけれど、女系で系図を作ってみると全く違った風景が見えるはずです。 こういう状態の中での婚姻には、もちろん正式の手続きもありますけれども、ちょっと現代流の常識は適用しません。
    [森] 江戸時代はあったわけですね。
    [網野] ええ。 詳しくは知りませんけれども、これも男の家でやるか、女の家でやるかが問題です。 三日三晩の宴会をやるようなこともあったようで、やはり現在とは全然違ったやり方だと思います。
    [森] だから、よく六世紀頃の立派な古墳に、男女の人骨が合装されているような場合、現在の家族制度の上にたって、被葬者をわりだそうとするけれども、これはとんでもないことです
    [網野] たしかにそれは、危ないですね。
    [森] 天皇の場合でも、七人も八人も妃があっても、おそらく常時住んでいるのは、せいぜいそのうちの一人か二人が宮殿みたいなところ、またはその近くにいるわけで、その他の人は、実家の尾張氏の家にいたり、葛城(かつらぎ)氏の家にいたりして。 何回かのマグワイの後は、全然別のところにいた可能性があります
    [網野] 『とはずかたり』では、前斎宮(いつきのみや)が簡単に後深草に落ちてしまいます。 これは、考えてみると大変なことだと思いますが、後深草上皇が相手ですけれども、前斎宮があっという間に男を許してしまう。
    [森] 皇室に伝えられてきた絵巻で内容が内容なんで公開されないという有名な『小柴垣草子(こしばがきぞうし)』も斎王の恋愛物語でしょう。
    (《V 歴史の原像》P.239〜240)


    [森] そういう場合の性的経験とは別だということがあります。
    [網野] そうでしょう。
    [森] 飯豊青(いいとよあお)皇女という女帝に近い立場の人が、一度だけマグワイをした。ちゃんと『日本書紀』(清寧三年)には書いている。 「われ、女の道を知りぬ。 どうということはない」と書いている(笑)。 もう一生やらないと。 あれなんか、子供はいないし、「夫ありといえること未詳」としているけれども、性的経験はあった。まあ、『日本書紀』というのは、なんと正直に書きすぎるのかと思うほどおおらかですね(笑)
    (《V 歴史の原像》P.245〜246)


     三 名前と系図

    [網野] 白鳥村主牛養のような書き方は、中世になってもなくなってしまうわけではありません。 江戸時代になっても、徳川家康、佐竹義篤(よしあつ)などの徳川や佐竹は、地名からくる苗字で、普通は、苗字と実名が使われています。 ところが、江戸時代、位階を天皇から与えられるときの公式の文書である位記や、官職をもらう時の口宣(くぜん)案などの文書には、決して徳川、佐竹とは書かないのです。 やはり、源朝臣家康という書き方になるわけです。 だから、古代の名前の書き方は、江戸時代まで続いていますが、これは天皇と関係があるのです。 天皇との関わりのある官位の授与に関してそういう形が残っている。 たとえば、豊臣という氏名(うじな)を秀吉がもらいます。 羽柴秀吉ですけれど、豊臣は氏名で、藤原や源・平に準ずる氏の名前なのですが、これは形式上にせよ、天皇からもらっているんです。 古代でも、『続日本記』などを見ていますと、自分の氏名を変える、たとえば土師氏が菅原氏に変える時には、天皇の許可を得なくてはならないので、氏名と姓は建前上にせよ天皇から与えられたことになっているわけです。
     これは古代史や、家族史を研究している義江明子さんや吉田孝さんなども言っておられることなのですけれども、氏の名前は、天皇という称号が確定したころ、つまり律令国家が確立した時点で、基本的に天皇から与えられる形になった。 そして変更には天皇の許可がいることになったと考えられる。とくに、戸籍を作って、この国家の支配下に入ったすべての人の氏名・姓名を全部書き上げるという大変なことを、律令国家は本気になってやろうとするわけですが、その時に、実名はもっていても、姓はもちろん氏の名ももっていない人たちがいっぱいいたはずなんです。 そういう人にもともかく氏名と名前をきめ、戸籍に書き上げるということをやっている。 その時点で、天皇から氏の名を与えられるという原則ができたのだと思うのですが、奴婢には姓はなかったようです。 逆にそれとともに天皇は氏名、姓を失うことになったのだといわれています。 これは現在でもそうです。 じつは皇太子が論文を書く時に、私はどういうふうに署名するのかについて密かなる興味を持っていたのです。 苗字がないから徳仁だけでは恰好がつかないでしょう。 そうしたら誰かが智恵をつけたのでしょうが、徳仁親王と署名していました。 たしか二本、論文があるのですけれども、どちらも徳仁親王となっています。 「親王」というのは本当は変です。 自分に称号、敬称を使うようなものです。
    [森] 字数だけ四つに合わせたわけですな。
    (《V 歴史の原像》P.248〜249)


    [網野] 姓も、もともとは、そういう擬制的な、「ウジ」のなかでの尊称だったろうと一般に言われているわけですけれども、それを律令国家が統一的な制度にして固定したことが、その後に甚大な影響を与えたのだと思います。今でも苗字探し、ルーツ探しをやって、系図をだぐって遡ると結局、天皇かその祖先神にたどりついてしまう。 そういう構造が、系図自体に組み込まれているのだと思います。 そのへんの問題を徹底的に解いておかないと、目にみえないところでの天皇の影響が残ってしまうと思います。
    [森] 高校の教科書などでは、古墳時代というので、古墳文化を教えて、その直後に氏姓制がでてきます。 そうすると、教わる方が高校の教科書の配列のとおりでいくと、何か古墳時代が氏姓制度のように思ってしまうわけです。 その社会には氏姓制というのがあったと教えないと、年代的に辻褄(つじつま)があわないわけです。 ところが、いろんな例を見ていても、たとえば葛城襲津彦(そつひこ)なんてでてくる場合でも、葛城地方にいる襲津彦という個人なのか、それとも葛城という、一応氏と呼べる集団の襲津彦なのか吉備臣尾代でも、どっちなのか。 そのへんが非常に問題です。 たしかに律令制の確立期には、吉備というのも、吉備真備のように氏の名にはなっているけれども。
    (《V 歴史の原像》P.251〜252)


    [網野] もう一つの類型の系図は若狭の一、二宮の禰宜(ねぎ)の系図で、これも十四世紀につくられた系図ですが、これは禰宜の血をひいたすべての者を書いているのですが、面白いことに女子の子孫まで追いかけて書いているんです。 普通の系図は男系の系図で、女子は出てきてもだれの妻になったとかが書いてある程度です。 大中臣氏の系図の場合も、女子はかなりでてくるけれども、女子の子孫は書いていないですね。 これが、東国的な系図なのですが、若狭の禰宜の系図は女子の子供、さらにその女子の子供まで書いている。 だから男女両系の系図になっていますし、姻戚の関係にあるたくさんの他の一族の系図がでてくることになります。 これが西国的な系図だと思います。 いずれにしてものちの家という単位とは違う、もう少し広い氏の一門、一族の単位があって、それは、大中臣とか笠氏とか源平藤橘の氏名でまとまっているわけですが、こうした氏が十四世紀くらいまでは意味をもっているのです。 ですから、百姓も正式の文書に連署する時には、小槻(おづき)重真とか、藤井宗氏とか氏名と実名を書いています。 もちろん僧侶や法名になれば、氏名は書きません。 僧禅勝とか沙弥法円のようになります。
    [森] それは何世紀頃ですか。
    [網野] 鎌倉時代は一般的にそうですが、十四世紀頃までです。この頃から、百姓の氏名は余り用いられなくなる。 それとともに実名も使われなくなって、孫三郎とか惣大夫などの仮名(けみょう)が使われるようになります。 武士の方も氏名にはあまり重点をおかなくなります。十四世紀以前は、移住した先の地名を苗字にすることが見られるのですが、十五世紀になると、どこかへ移住しても佐竹氏はそのまま佐竹氏を名乗っており、佐竹氏としてのある共通意識はもっていると思いますが、常陸の佐竹氏と和泉の佐竹氏との間には、同族意識はうすくなってきます。 ただ、そうなっても、武士は公式の場合になると、源朝臣某と名のる。 概説的に言うと、こんな状況のようです。
    (《V 歴史の原像》P.254〜256)


    [森] 今、ふと思い出したのは、推古天皇の時に、紀博世(きのひろよ)という、おそらく和歌山の豪族が伊予に来て、越智直(おちのあたえ)の娘と結婚したんです。 その子孫が、天智天皇のときの「庚午年籍(こうごねんじゃく)」では越智姓を名乗ったけれども、それは誤りだとして、延暦十年(七九一)に越智直広川らがもとの紀に改姓しています。 『続日本紀』の文書では”誤って母の姓に従った”と言っているけれども、母系で名乗る風習もあったのでしょう
     それから、僕の対象にしている古墳時代の氏の名で、たとえば秦氏秦氏というのは、全国ほとんどの国に居住していて、しかも最後まで秦を変えないわけです。 今、大阪で、十七、八世紀の住友の銅吹所の跡が発掘されているけれども、そこに盛んに銅の素材を送っているのは、若洲(若狭)秦與兵衛という人です。古代の秦氏のいくつかの職能、特技をあげると、一つは金属生産や加工の特技があります。 その特技を江戸時代まで伝えている。 途中で切れたかもしれませんが、そういう面と同時に、江戸時代になっても、古代以来の秦を名乗っている集団である。 それに対して、もう一つは、和珥(わに)氏に代表されるような氏。和珥氏は、近江から山城、大和北部に点在していた大きな集団で、岸俊男先生の有名な和珥氏の研究がありますけれども、和珥の某というのは、いないわけではないけれども少ないですね。 粟田であるとか小野、春日、柿本、真野、大宅など、さまざまに改姓するわけです。 秦氏は、滋賀県の愛知(えち)秦氏のように、上に地名をつけることはしますが、秦をすてない。秦氏という名前はずっと、場合によったら現在まで続いてくるようなものと、和珥氏というけれども、和珥を名乗るのは少ないというものの二種がある東漢(やまとのあや)氏もそうじゃないですか。漢の場合も、坂上とか文(ふみ)とか平田などの名前に分かれます。 今まで僕がちらっと見ているかぎりは、古代史の先生からはもう一つ明確な説明がなされていないんですね。 まだまだ氏の名前というのは、非常におもしろい問題があると思います。
    [網野] 今のお話の秦氏が、本当に若洲の秦氏ならば、私の知っているのは多烏(たがらす)の秦氏です。 前にも話に出た得宗の旗章をもっている秦氏です。 もしもそれが本当なら、江戸時代まで住友に銅を運んでいるとは、おどろきましたね。 もちろんそのほかにも若狭には秦氏がいたと思いますので、多烏とはかぎらないでしょうが、面白いお話です。 確かにおっしゃるとおり、秦氏は江戸時代になっても、氏の名前を変えていないです。 北陸を歩くと、秦さんという家が、若狭や越前にもありますし、能登にもあります。 出雲の方にもあったと思います。 秦氏という氏名を残しているんです。
    [森] 大阪の貝塚の郊外に半田という集落があります。 字は違うけれども、ハタと考えています。 そこのお寺に、永禄の年号のある五輪塔があって、その側面に片仮名でシ、別の面にコ、別の面にテと書いてあって、何かなと思っていたら、始皇帝なんです。 秦氏の場合は、先祖は秦(しん)の始皇帝だとの関係意識をもっています。 永禄の段階でもです。 そんなものを書いていますから、非常に先祖意識が強いですね。
    (《V 歴史の原像》P.257〜258)


    [森] もし。渡来人というのが、もちろん古い時代からあったでしょうけれども、弥生時代の渡来人は別にして、古墳時代の渡来人が五世紀くらいから大量に来ていたとして、そういう人たちが秦某と名乗っていたとすれば、氏の、集団の一つの呼び方の原理があるんだということです。 そういう大陸から移住してきた人のもっている氏の名にひきづられて、だんだん葛城とか吉野とか吉備とか紀伊などの地域名やそれ以外の氏の名前のできる起爆剤になった可能性があります。
    [網野] それ、おおいにありうると思います。 朝鮮半島の親族組織についてはよく知りませんけれども、中国の華北でしたら父系の宗族、クランにあたる氏族集団があるのですから、そういう人たちが実際に移住してくると、今まで氏の名をもっていなかった人たちも氏の名をつけ始めたということは、十分考えられるでしょう。
    (《V 歴史の原像》P.259〜260)


    [網野] 苗字のことについても研究すべきことは多いのですけれど、もう一つ面白いことだと思っているのは、いつごろから始まるか正確に調べていませんが、だいたい平安時代頃から実名のほかに、四郎三郎などの通称仮名(けみょう)が使われています。 実名は諱(いみな)といわれているように、そう簡単には名乗りません。 男女の場合ですと、互いに実名を名乗りあうことは、互いにゆるしあうことになる。 男が女性に名乗らせれば、女性が心をゆるしたことになる。 逆に実名を名乗ると、災いがおこる可能性もでてくるわけです。名簿(みょうぶ)を捧げて主従関係に入る時には、実名を書いて、主人となるべき人に渡すわけです。 この手続きで、主人に自分を捧げたことになる。 ですからこれが主従関係を結ぶ場合の重要な儀式になっています。 だから、実名は、簡単には使わないんです。 普段は、呼び名として、太郎三郎のような仮の名前で呼ぶ。 それが仮名です。
     ところが、十三世紀後半のころから、仮名に官職名がはいってきます。 例えば、若狭の浦、海村の多烏浦でみると、百姓のなかで多少地位の高い人たちが権守(ごんのかみ)とか、大夫(たゆう)などの仮名を名乗り始めています。 これは、勝手に名乗ったというだけではなくて、浦の中で、権守という仮名を名乗れる人は浦の主だった人たちなので、さきほど話に出た刀禰の秦氏は権守を名乗っています。もちろん、本当の官職ではありません百姓は受領名や官職名の知識をけっこう持っていたのです。 それで仮名にそれをつける。こういう仮名が十四世紀には広く社会に浸透していきまして、結局、十五世紀頃になると一般の百姓、平民は実名を名乗らなくなります。 氏名も、実名も、もってはいると思いますけれど、公式には名乗らなくなって、二郎三郎五郎大夫などの仮名だけを使うようになります。 それを江戸幕府が制度化して、百姓は実名、苗字、氏名を公式に名乗ってはいけないことになります。 ですから公的な文書に百姓、一般平民は実名を名乗れなくなるのです。 しかし実際には、時国家の場合でみても、苗字も実名も持っています。時国藤左衛門時広のように、持ってはいるけど、公的な文書には藤左衛門としか書けなくなります。 こういう百姓は江戸時代にはたくさんいたと思います。しかもその仮名には、江戸時代に入るとさきほどの官職名が一般的になってきます。 時国家でみると藤左衛門は左衛門尉(さえもんのじょう)からくる仮名ですが、江戸時代後期には右馬助(うまのすけ)とか右京祐(うきょうのすけ)という官職名そのものを仮名にしています関東では、「関東百官」といわれて、江戸時代の初期の関東の検地帳を見ますと、将監(しょうげん)右京左京右近左近掃部(かもん)主水(もんど)など百姓がみな官職名を名乗っています。 伝説では、将門(まさかど)が東国においた百官の流れをくむともいわれていますけれども、これはもちろん事実ではなくて、この傾向は全国的にみられる現象なんです。
     どうして百姓が仮名に官職名をつけ始めたかは、まだよくわかっていないんです。 律令国家の官職組織が崩れて、官職名が、社会のステイタスを示すシンボルになってきたのだと思います。 実際に官職の売買や偽の官位も現われてきますから、しかしこういう律令国家の残影が、ついこのあいだまで生きていたということは重要な問題です。 要するに、百姓、平民の仮名にまで、律令国家の影響が全国的に及んでいたことになります。 これはそうした知識が百姓にまで広く及んでいたことにもなるわけです。 日本の社会の中で名前の問題を考えるときに、大事なことだと思います。 ただ、こういう現象がなぜおこってくるのかについては、まだほとんど明らかにされていません。 苗字の問題もそうですけれども、この分野ではわからないことだらけだと思います。
    (《V 歴史の原像》P.262〜264)


    [森] 岸先生の仕事に、名前のなかに、たとえば猪麻呂(いまろ)とか子麻呂(ねまろ)とか動物の十二支に因んだ名前がどのくらい出るかという研究がありました。
     僕は、さっきのお話を聞いて、合戦の前に名乗りますね。 あれは、どの程度の名前を名乗るのか。 『万葉集』全体のなかで最初にでてくる雄略天皇の歌が、菜をつんでいる女の児に”告(の)らさね”つまり名をいいなさい、とかね。
    [網野] 全くそうだと思います。おまえが名前を名のれば、もうおれのものだということでしょう。戦争の時に名前を名乗るのは、合戦の場は、一種の聖なる場ですから、そこでは、名前を名乗らないと正統性を持つ戦いができない
    [森] 夜盗か海賊のたぐいになるんでしょう。
    (《V 歴史の原像》P.268)


    [網野] それから戦国時代に系図を作るもう一つの大きな山があります。 『実隆公記』にも系図を写している記事がたくさんでてきますが、この時期になると、例えば、徳川氏が本来は松平氏なのに、新田氏の一族の得川(とくがわ)氏に結びつけているように、自分の系図を飾り立てる。 偽系図を作るという意識で作られたものが多いですね。 もう一つの山は、江戸中期くらいからだと思います。 この時期には、明らかに系図作りの専門家がいます。 たとえば前の話にでた、紀州の熊野神人の小山家も系図を持っていますが、江戸後期に儒者がきて、これを下野の小山(おやま)氏に結びつけて、南朝方であったことを強調した系図を作っているのですが、紀伊の小山氏と下野の小山氏との関係は実際にはよくわからないのです。 こういうう、かなり勉強をして、学問も身につけた系図作りがいて、これがあちこちで頼まれて、本当に昔からの歴史を持つ家柄の家の歴史を調べて作ったり、新しく成り上ってきたので恰好をつけなければならない家の系図を、適当に作って歩いているのではないかと思うのです。 そのへんのからくりが、少し最近わかりかけているんですが、これもまだこれからです。
    (《V 歴史の原像》P.270)


    [網野] 歴史家は無理もないと思うけれども、旧家に史料探訪に行きますと、自分の家にはこういう系図があると見せられることが多いんです。 ところが、見れば紙の質は新しい。 まあ、だいたい江戸時代のものじゃないかということになる。 はじめの方を見ると、清和天皇から始まっている。 最初は源氏の系図で、江戸に入ってからその家の記事が始まるという、だいたいそういう系図が多いんです。 こちらとしては、系図に書かれている年代より新しくても、本物の文書を見せて欲しい。 どんなくしゃくしゃなものでもいいわけですから、そこで、ああこれは大変だいじなものですから、大切にとっておかれたらいいでしょうと(笑)。 私どもがぜひ拝見したいのは、むしろくしゃくしゃになった古文書の方なので、それを見せていただきたいと言って古文書調べる。 もちろん、これは正道なんですけれども、脇へよけたその系図は、「偽物」だという意識でよけてしまうんです。 同じように職人の世界にも、いろいろな偽文書が伝わってきた。
    [森] 何とか親王からもらったっていうようなものですね。
    [網野] ええ、木地屋の場合、惟喬(これたか)親王に関係させた綸旨(りんじ)鋳物師の場合ですと、偽物の蔵人所牒を真継(まつぎ)家という下級の公家が作って、全国の鋳物師に配っているんです。 薄墨の紙を使いました。 ところが江戸時代の始め頃のこの偽文書の「原本」真継家に残っているのですが、この原本には天皇の御璽(ぎょじ)が捺(お)してある。 つまり天皇公認の偽文書の写しを配っているわけです。 こういう偽文書に結びついた職人の職能の起源に関する由緒書も、必ずといってよいほどあります。 こういう系譜史料も、あちこちに、いろいろなタイプのものがずいぶんたくさんあるわけです。 ところがこれも、さきほどの系図と同様、偽物だというので、歴史的な史料としての評価を下げてしまって、これまでほとんど研究してこなかったのです。 ところが、偽物はまちがいない偽物だけども、なぜ偽物の由緒書を作ったか、どういう経緯で偽文書が作られたか、系図にしても、どの時代に、どういう理由で、こういう偽系図を作ることになったのか。 そして、その系図の作り方にはどういう特徴があるのかという問題は、実はさきほどの苗字の問題や名前の問題、氏名の問題に深くむすびついているし、日本人の先祖志向の意識を考えるためにも、どうしても解決しなくてはならない大事な問題なんです。 ところが、これまでは「偽物」ということになると、そこで研究をやめてしまったわけです
    (《V 歴史の原像》P.271〜273)


    [森] 今のわれわれがもっている苗字というのは、明治初年に明治政府が苗字をつけるようにと決めたわけですか。
    [網野] これは古代と同じく戸籍です。 戸籍を作ることと名前の問題は密着しています。 壬申(じんしん)戸籍(明治五年)をつくる時に、皆、苗字をつけないといけないというので、苗字をつけたといわれていますが、江戸時代から苗字をつけた人もかなり多かったと思います。
    (《V 歴史の原像》P.277)


     四 天皇と「日本」

     1 大王と天皇

    [森] さきほど名前や氏の名と天皇との関係は、天皇の権力、権威が確立してくる段階と密接な関係があるということでしたが、その天皇の問題も、日本の一つの特徴だと思います。
     よく大王から天皇へという題で書物をお書きになる人がおられる。 まあ、そういう流れがあるというのは、ほのかにわかるわけですけれども、その場合、考古学者や古代史の学者たちは、大王というのが、ある段階では日本列島に一人しかいない。 後の天皇と同じ役割で、ただ呼び方が違うだけだという前提で臨んでおられます。 ところが、中国の漢代の銅の鏡に、大王と書いたものが若干あるんです。 その場合は、美人大王とを対句にしている。 美人というのは女の人を言うのではなくて、自分のお仕えしているよき人という意味です。 本来、大王という言葉には、日本の古代史の先生、あるいはそれに追随してしる考古学者の使い方である、唯一で最高の権力者という意味はないんです。 だから、ひょっとしたら、今の古代史や考古学が使っている大王というものに対する常識的な解釈が、僕は危ないのではないかと。 日本は非常に大きな古墳、つまり新羅の王陵級以上のものが南九州から東北まである。 大古墳でみても、大和だけに唯一の権力者なんていう図式は言えない、少なくとも言いにくいわけです。
    [網野] そうですね。 『今昔物語』(巻二五、第五)で、武蔵国の有力な豪族の平維茂(これとも)と藤原諸任(もろとう)の戦争を書いた話がありますが、その中に大君(おおきみ)という人がでてきます。 その大君は、大変、信望があって、なかなか頭のいい人で、勝った勝ったと言って、帰ってきた人を家に入れないんです。 あの男は必ず負けて滅びると言って、共倒れになるのをさけるのですが、結局その予言通りにその人は滅びてしまう。 私が非常におもしろいと思うのは、十一世紀頃の関東で、単純な権力者というだけではなくて、かなりの才知があり、権威をもつ大君といわれた人がでてくることです。 実名は出てこないんです。 ただ大君と呼ばれている。 字は大王ではないけれども、森さんがおっしゃったように、日本列島には大王は決して一人しかいなかったわけではない。 西では天皇の地位が一応安定した平安時代後期に、まだ関東には大君と呼ばれる人がいたことは間違いないことです。 古代では、天皇とは別の大王がでてくる事例はないのですか。
    [森] 『天寿国繍帳』のなかに、聖徳太子の后、橘大郎女のお父さんを「尾治(おわり)大王」と書いています。 これなんか、終末期古墳の時期に相当するのです。
    [網野]私は素人だけれど、額田王を、なぜオオキミというんですか(笑)
    [森] そうそう。 だから、ああいうのは、大王唯一説を唱える人は、柿本人麻呂のような歌人がおべんちゃらを使って大王を乱発したように考えるけれども、僕はその方が中国的な使い方で、自分のお仕えしているよき人という意味に使っているんで、別に例外とする必要はないわけです。 尾治大王なんて、天皇の称号が出てくると言われる七世紀頃のものでしょう。 しかも田舎で書いたのではなくて、斑鳩宮で言っているわけです。
     だから、そのへんの歴史的事実ではないが、何か一種のレールのようなものが、戦後そのまま敷かれてきた。 そのレールの部分は、こいつはもう前に敷かれたものだから、もう一度枕木をはずしてやり直そうということを、あまりやらない。 そこまでは事実なんだということで、あと古墳の年代がちょっと厳密になってきたとかいうことはさまざまあっても、根本のところを言わないと、学問にならないのではないかという気がします。
    (《V 歴史の原像》P.277〜280)


      2 「日本(ひのもと)」
    [森] 伊勢という土地ですけれども、一つは水銀の朱のとれるところです。 水銀の朱というのは、日本中どこでも採れるというものではなくて、もう一つの大きな産地は、徳島県の若杉山遺跡です。 これが、だいたい弥生時代の終わりか古墳時代の初め頃の、かなり大きな産地なんです。 邪馬台国説をいう人は、それがどっちに属していたかなんてよく言うけれども、交易を考えたら、邪馬台国にもあるいは敵対している国のどっちにも供給していた可能性があるんです。 とにかく、朱というのは非常に貴重なのです。 それが伊勢で採れる。 もっとも、伊勢の水銀朱の開発がいつからかということは、縄文時代のものは別にすると徳島の若杉山遺跡に対応できる年代のものが出てこないので、まだちょっとわからない。 奈良・平安には大規模なものであるということはわかります。
     それからもう一つは、志摩半島を中心にアワビがたくさん捕れる。どういうわけか、律令政府はアワビがたいへん好きです。 そして、大嘗祭(だいじょうさい)とかいろんな重要な祭りには、アワビやサザエ、特にアワビが第一で、なくてはならないもののようです。 もう一つの産地は、後に安房(あわ)の国に分かれる上総(かずさ)。上総ともでてくるし、安房ともでてくる。 そこのアワビです。
    (《V 歴史の原像》P.292)


    [網野] 伊勢に神宮を設定したのは、おそらく東の日の出る方向に、プラス価値を見る意識が働いていたと思います。 天皇号と墓の問題にも関係すると思うけれども、「日本」は東に動いていくんです。 中世後期の「日本将軍」は明らかに東北で、東北に「日本」が出てくる。
     平将門や頼朝を「日本大将軍」とよんだという伝説も、鎌倉後期には出てきます。 将門は、東国の畿内に対する自立性が、初めて形をなした東国国家の首長です。 将門については、『将門記』しかほとんど史料がないから、どこまで本当かという話もありますけれども、将門が「新皇」に即位します。 その時に彼を「新皇」にすると託宣をしたのは、八幡の神様なんです。 その八幡の託宣をうけて、なんと菅原道真が、位記(いき)を与えているんです。 天神様なんです。 これは新田一郎さんが明らかにしたことですけれども、東国、つまり鎌倉幕府を中心とした地域では、天照大神は起請文に名前を挙げないんです。 それがいちばんはっきりわかるのは、「貞永式目」つまり「御成敗式目」を作った時の起請文です。 式目は関東の「国家」としての独自性をはっきり示したものだと思いますが、これを作った時の評定衆の起請文には天照大神の名があがっていない。 そこにあげられているのは八幡と、北野天神なんです。 これは、確実に将門を意識しているのではないかと私は思います。 あとは、東国の神様で、箱根、三島、走湯(はしりゆ)山などです。 これらを挙げていますが、天照大神を挙げていないのです。 これをはじめとして、東国には起請文に天照大神を挙げない慣習があったようです。
    (《V 歴史の原像》P.294〜296)


    [網野] 道教の思想の中に、東の方向という意識があるというのはおもしろいです。 しかし、太陽信仰は、中国大陸にはあまりないのではないでしょうか。
    [森] 少ないでしょう。
    [網野] 東の方向は、やはり太陽なんでしょう。
    [森] 海東という言葉は、中国の銅鏡のなかにもでてきますから、それと、たしか聖徳太子の時の国書前文には、海西の菩薩天子。 あの時は海の西というのが、倭国の側から使われています。 だから、やはり南北の意識だけとは言い切れないと思います。  奥州の平泉の当時の政治、軍事勢力の実際の支配の及んでいたのは、どのくらいの範囲なのでしょうか。
    [網野] さあ、これはいろいろ議論があるけれど。
    [森] なんか奥州全体のように考えられがちです。
    [網野] いや、やはり基本になっているのは、奥七部と、出羽の山北でしょう。 要するに、東北の北部だと思います。 そこが根拠になっていて、あとになって陸奥国府や秋田城をおさえるのではないでしょうか。 だから、白河関から七ヶ浜までと言われるようになるのは、すこしおくれると思います。 もとはやはり奥七部が根拠。泰衡が逃げて行く時に、渡島に渡ろうとするんです。 だから、渡島、つまり北海道の南部は、確実に彼の意識のなかに入っていたんでしょう。
    (《V 歴史の原像》P.302〜303)


     3 天皇と国家
    [森] 『常陸国風土記』をみますと、景行天皇とか、ときにはヤマトタケルまで天皇と書いて、少なくとも『風土記』のうえでは、盛んにその土地をまわったことになっています。 ここは、たくさん海苔(のり)が乾してあるから、能理波麻(のりはま)と言って、それで乗浜という地名がついたとか、これは『常陸国風土記』だけじゃなくて、『播磨国風土記』も非常に強烈にいろんな天皇が登場する。 『出雲国風土記』には、ほとんど登場しないです。 そういう意味でも『出雲国風土記』はおもしろいけれども、実際に来たこともない天皇が、なんであんなにたくさん登場するのか。 もちろん、『常陸国風土記』の編集にあたった藤原宇合(うまかい)や、そういう都から来たごく少数の貴族が考えたかもしれないけれども、藤原宇合らが、いちいちそれぞれの場所で、ここも景行天皇がこんなことを言ったとか創作したとは思えない。 どうも、そういう作為ではなくて、何か八世紀の段階では、在地の人たちも、そういう他愛のない伝説を言っていたのではないかと思うんです
    (《V 歴史の原像》P.303〜304)


    [森] 日本史の教科書を執筆している大先生方は、統一が完成のところに来たら、ほっとするような書き方をしています。 戦国時代に分裂しているとか、なにか不安そうに書いている。 しかし、古墳時代を見ていると、これはもう全国に、大きな地域的な組織というのがいっぱいあるわけです。 それから、よく古墳時代は大和朝廷が統一しているなどという人がいるけれども、たとえば後漢の墓から出た実際の鉄の刀や剣などを集成しようとすると困るのです。 あまり埋めていない。 つまり、後漢という統一国家の場合は、そんな実際の武器などは簡単に皆に持たせていない。 ところが日本の古墳時代の場合なら、江戸時代の一つの村にあたる単位でも、たいていの有力な人は刀や弓は持っているわけでしょう。 終末期古墳になると、武器は少なくとも近畿では非常に少なくなってきます。 そうすると、やっぱり古墳時代は、地域地域が武力ももっているし、それぞれの政治組織ももっている。 大和は、それのいちばん大きなものでしょう。 まあ、ある時期の大和は、と言った方がいいかもしれません。
    (《V 歴史の原像》P.308)


     4 アジール吉野

    [森] 『新撰姓氏録』というのは、要するに先祖は皆男性の先祖を書いているわけです。 呉の孫権であるとか、秦の始皇帝であるとか。 ところが、吉野連(むらじ)だけが女の先祖になっているのです。 『新撰姓氏録』の稀な例外なんです。 だがやっぱり吉野は変った土地と意識され、普通なら男性に書き換えて揃えるのに、先祖があそこだけは水光姫水光神というのになっているんです。 観光地として知られている土地でも、このように歴史の謎がいっぱいあるのです。
    (《V 歴史の原像》P.311)








    【関連】
    [抜書き]「日本の深層文化」
    [抜書き]『日本中世の百姓と職能民』
    [抜書き]『東と西の語る日本の歴史』
    [抜書き]『「日本」とは何か』





    12/02/10・・・12/02/18・・・12/02/26・・・12/03/16・・・12/03/17・・・12/05/12・・・12/08/26・・・12/09/01・・・12/09/05・・・12/09/14・・・12/09/16・・・12/09/21・・・12/09/28・・・12/10/05・・・12/10/12・・・12/10/14・・・12/10/23・・・12/11/09・・・12/11/16・・・12/11/23(了)
    転記ミス訂正・14/05/25・14/06/10・14/06/20・・・15/04/17(真脇)・・・15/12/30(素峻天皇→崇峻天皇)