[抜書き] 『大本営が震えた日』


『大本営が震えた日』吉村昭・新潮文庫
平成十八年八月五日 四十五刷

目次
上海号に乗っていたもの
開戦指令書は敵地に
杉坂少佐の生死
墜落機の中の生存者
意外な友軍の行動
敵地をさまよう二人
斬首された杉坂少佐
イギリス司令部一電文の衝撃
郵船「竜田丸」の非常航海
南方派遣作戦の前夜
開戦前夜の隠密船団
宣戦布告前日の戦闘開始
タイ進駐の賭け
ピブン首相の失踪
失敗した辻参謀の謀略
北辺の隠密艦隊
真珠湾情報蒐集
「新高山登レ一二〇八」
これは演習ではない
あとがき
解説 泉三太郎


     各艦は、その周囲に集まり曳航(えいこう)作業を開始しワイヤーを艦底にとりつけることに成功したが、ワイヤーはたちまち切れ、遂に曳航は絶望的となった。
     その結果、海軍中枢(ちゅうすう)部は、その切断部を監視している巡洋艦「那智(なち)」に対し、
     「曳航ノ見込ミナケレバ適当ニ処分シ、沈下ヲ確認シタル上横須賀(よこすか)ニ回航セヨ」
     と指令した。
     「適当ニ処分シ、沈下ヲ確認シ……」とは、「初雪」切断部に対する砲撃命令以外のなにものでもなかった。
    (《開戦指令書は敵地に》P.43)


     密偵といっても、日本人である特殊情報班員たちが敵地に潜入することはほとんどない。 広東語特有の訛(なまり)、風俗、習慣その他から特殊情報班員が密偵としてはいりこんでも、その身分が発覚して捕えられてしまうおそれが多分にあったのだ。
     そうした事情から、密偵は、一人残らず中国人だった。 投降者、元警官、商人等経歴はさまざまで、中には女の密偵もまじっていた。 そしてその組織はかなり大きく、多い時では一〇〇名近い密偵が待機し、中国軍側領域に潜入してしきりに諜報活動をおこなっていた。
    (《杉坂少佐の生死》P.61)


     その一色中尉が、なぜ「上海号」に乗っていたのか、それは今もってつまびらかではない。 が一色中尉が逸木(いつき)機関と称される諜報機関の長であったことから察すると、「上海号」の機内に載っていた多量の重慶銀行発行の紙幣(法幣)の山と関連があったとしか思えない。
     重傷を負って救出された宮原大吉中尉は、身を守る貴重な物としてそれら紙幣の束を最期まで捨てなかったが、救出された後に、思いがけなくそれがすべて偽造紙幣であることを知らされた。
     それら偽造紙幣は、日本の印刷局をはじめ民間の新聞社印刷部、著名な印刷会社等でつくられ、中国大陸に多量に流されていた。 それらは、物資の大量購入に使用されると同時に、中国軍側領域の経済攪乱(かくらん)にも利用されていたのだ。
    (《斬首された杉坂少佐》P.138)


     軍隊は、連日列車でやってくるし、資材を運搬するトラックの動きも活発(かっぱつ)化している。 そして、船に乗せる生野菜の買占めが軍でおこなわれているらしく、市内での野菜の入手は困難となった。
     さらに市民を困らせたのは、水道の一部断水と時間給水であった。 それは、飲料水が、大量に船舶へ積みこまれている結果であった。
    (活発:「ハツ」の字はサンズイに發)
    (《斬首された杉坂少佐》P.142)


     が、八月二日、大本営の中枢(ちゅうすう)部に、大混乱がおこった。
     関東軍司令部と大本営陸軍部との間には、秘密電話が通じていたが、その日の夕方、関東軍司令部情報主任参謀甲谷悦雄中佐から、
     「緊急事態発生」
     が、電話で通報されてきたのだ。
     その内容は、それまで関東軍司令部の電報班で傍受されていた東部ソ連国境方面のソ連軍の交信が完全にとだえてしまったという。
     その不意の交信杜絶(とぜつ)は、日本陸軍兵力の大規模な移動がソ連側に確実にとらえられ、それに対処するためソ連軍が、完全な無線封止を命令したと想像された。 そしてその後につづくものは、ソ連軍の関東軍に対する奇襲先制攻撃の開始と判断された。
    (《イギリス司令部一電文の衝撃》P.152〜153)


     しかし、それほど大本営を震撼(しんかん)させ対ソ開戦を決意させた事件も、あっけない解決をみた。
     たしかにソ連領内で交信が完全にとだえたのは事実だが、それはソ連の動きとは全く関係の無い単なる自然現象にすぎないものであった。
     つまりデリンジャー現象が発生し、ソ連領内の交信がすっかり乱れて杜絶したと同じような状態におちいっただけのことであった。
    (《イギリス司令部一電文の衝撃》P.156)


     寺内寿一大将を乗せた諏訪丸は、いずこともなく宇品港から姿を消したが、その丁度一年前の昭和十五年十二月頃、台北の台湾軍司令部内に、第八十二部隊と称する為体(えたい)の知れぬ機関が新設されていた。
     軍司令部内で、その部隊の目的を知っているものはごく限られた上層部だけであったが、部隊の中には、林義秀大佐をはじめ辻(つじ)政信中佐、江崎瞳生中佐ら陸軍作戦関係の著名な中堅幹部の顔も見えた。
    (《南方派遣作戦の前夜》P.192〜193)


     昭和十六年十二月三日午前三時三十分、マレー半島攻略作戦の任を帯びた第二十五軍司令官山下奉文(ともゆき)中将は、大本営に対し、
     「軍ハ、四日早朝満ヲ持シテ三亜ヲ進発ス。 将兵一同誓ツテ御期待ニ副(そ)ハンコトヲ期ス」
     という軍機電報を発した。
     遂に、マレー半島奇襲上陸を策す大作戦は、開始されたのだ。
    (《開戦前夜の隠密船団》P.208)


     そして、浅田も口をつぐんだ時、突然、ワニット商務長官が英語でしゃべりはじめた。 かれの顔は青ざめ、その言葉の語気はふるえていた。
     「日本軍のやりかたは、市井(しせい)無頼の徒と同じではないか。 なんの通告もなく、わが領土に侵犯してくるとはなにごとだ」
     そのまで言うと、ワニットは、激情の余り両眼から涙をあふれさせ、嗚咽(おえつ)した。
     部屋の中にいた者たちの間に、粛然とした空気が流れた。
    (《失敗した辻参謀の謀略》P.203)


     鈴木少佐は、実戦のパイロットだったが、昭和十一年末から一年間、軍令部でアメリカ関係の航空情報の蒐集(しゅうしゅう)に従事したことがある。 情報は、各国にはりめぐらされた諜報(ちょうほう)網から流れこんでくるが、アメリカ人、ソ連人からのものも多く、それらは東京中央郵便局の私書函(かん)あてに送られてきていた。
     その後、鈴木は、第三艦隊航空参謀として転属となったが、数カ月前再び不意に軍令部出仕として大本営海軍部員となった。
     鈴木にあたえられたのは、論功行賞関係の仕事だったが、その転属がなにかの偽装であることには薄々気づいていた。
     自分に課せられる任務は、いったいなんなのだろう。 アメリカとの外交交渉が難航している緊迫した気配の中で、鈴木は落着かない日々をすごしていた。
     鈴木少佐が情報担当の第三部長によばれたのは、それから一カ月ほどしてからであった。
     「重大任務をあたえる」
    (《北辺の隠密艦隊》P.327)


     その外交交渉の経過は、和戦いずれかをきめるきわめて重要な意味をもつものなので、東京通信隊からの連絡以外に、特にラジオの外地向け日本語放送がたくみに利用されていた。 その日本語放送では、放送終了後に、必ず「山川草木転荒涼(さんせんそうもくうたたこうりょう)……」の詩吟が朗々とうたわれていたが、もしもこの詩吟がうたわれない場合には、日米外交交渉が好転したことを意味するものとして、ただちに作戦を中止し引返すことにされていた。
    (《「新高山登レ一二〇八」》P.367)


     アメリカ、イギリスをはじめ各国の諜報(ちょうほう)機関は、必死になって日本がいつ戦争にふみきるかを探っている。 そうした中での水兵の東京見物は、開戦決意を偽装させるための恰好(かっこう)の要素と思われた。
     岩重は、練習生たちのペンネントを一斉につけかえさせるとともに、
     「水雷学校の練習生であることを決して口にしないように」
     と厳命した。 そして、岩重自身も、名刺に刷られた海軍水雷学校教官という文字を鋏(はさみ)できりとった。
     電車がやってきて、水兵は、整然と車内に乗りこんだ。 乗客たちは、多くの水兵たちの姿に驚いたらしく、呆(あき)れたようにその集団をながめていた。
     やがて電車は東京駅につくと、かれらは、隊列を組んで宮城前へとむかった。
     そこでは、同じように海兵団のペンネントをつけた砲術学校の練習生たち約五〇〇名が、教官境民蔵大尉に引率されて合流し、二重橋前で皇居を奉拝した。 その後、水雷学校、砲術学校の各練習生は、別々のコースをたどった。 それはむろん、東京都内に海兵団の乗組員があふれているような印象をあたえるための作為であった。
     水雷学校の練習生は、それから靖国(やすくに)神社、明治神宮にそれぞれ参拝し、官庁街を歩いて、正午近く有楽町の朝日新聞本社にはいった。
    (《これは演習ではない》P.386〜387)


     そうした国民感情を充分知っていたアメリカが、そのような全面屈伏を意味するような要求をつきつけたのは、日本との戦争をはっきりと決意したからにほかならなかった。 すでにハル長官は、陸海軍首脳者たちとの会談で、
     「日米交渉は終り、外務当局としてなすべきものはなにもなくなった。 今後は軍部の仕事である」
     と言明し、またハルノートの手交と同時に、全軍に対して重大警告が発せられた。
     スターク作戦部長は、太平洋、アジア両艦隊司令長官に対し、
     「本電報ハ戦争警告ト考エラレタイ。 太平洋ニオケル事態ノ安定ヲ目指シタ日米交渉ハ既ニ終リ、日本軍ノ侵略行為ガ数日内ニ予期サレル」
     という趣旨の緊急信を発した。
     また国防省命令として、特に、
     「米国ハ日本側カラ先ニ軍事行動ヲ起サセルコトヲ希望シテイル」
     という一文もつけ加えられていた。 その命令は、アメリカが戦争挑発者という汚名を避けようとしたと同時に、反戦気風のあるアメリカ国民に自発的に銃をとらせようと企てたからであった。
    (《これは演習ではない》P.390〜391)


     アメリカの軍首脳者たちは、ハワイの日本大使館から日本に向けてしきりと発せられていた諜報関係の暗号電報を傍受解読していたが、日本海軍がハワイを攻撃する公算はほとんどあるまいと判断していた。
    (《これは演習ではない》P.392)


     日本側からの最後通告は、ハワイ奇襲時の三十分前、つまり十二月七日午後一時(ワシントン時間)にアメリカ側へ手渡される手筈(てはず)になっていた。 その通告文は、十四部にわかれていた、長文のため前日からワシントンの日本大使館へ暗号電報で打電されていた。
     しかし、アメリカの情報部は、日本の外交暗号文の解読機「マジック」を早くから入手していて、その最後通告の内容をたちまち解読してしまった。 そして、それはルーズベルト大統領に手渡され、ただちに軍首脳部にも伝えられた。
    (《これは演習ではない》P.392〜393)


     日本時間十二月八日午前三時十九分、ハワイ奇襲にむかっていた第一次攻撃隊は、雲の切れ間から真珠湾を発見、「全軍突撃せよ」の「、……」のト連送を発信。 それは、攻撃部隊に受信された。
    (《これは演習ではない》P.393)


     突然、ラジオから「軍艦マーチ」とともに臨時ニュースが日本国中に流れ出た。
     「大本営発表
     帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
     庶民の驚きは、大きかった。 かれらは、だれ一人として戦争発生を知らなかった。 知っていたのは、極くかぎられたわずかな作戦関係担当の高級軍人だけであった。
     陸海軍二三〇万、一般人八〇万のおびただしい死者をのみこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。 しかも、それは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ。
    (《これは演習ではない》P.396)


     杉坂共之少佐夫人にもお眼にかかったが、生存の望みを捨てかねておられた夫人にとって、私の調査結果は酷なものであったろう。 幸い夫人は詳細な事実を知って気持の整理がつきましたと仰言(おっしゃ)っておられたが、御遺族の気持を察すると居たたまれぬような気持になる。 杉坂氏をはじめ開戦という歴史のかげで歿(ぼっ)せられた多くの方々の霊に、心から哀悼の意を表する。
    (《あとがき》P.398)


     その日、日本中が茫然(ぼうぜん)自失しながら、敗戦の責任、ひいては開戦の責任を、誰がどのようにとることになるのだろうか、と考えていた。 それは天皇なのか、財閥なのか、政治家なのか、軍人なのか、それとも国民全般なのか。 しかし、見まわしたところ、すすんで責任をとろうとする者は一人もいなかった
     そのうちに「あの戦争は軍部が勝手にはじめたものだ」「すべては軍部にひきづられた結果なのだ」という声があちこちから出はじめた。 それは真実の一部であっても、決して事実そのものではなかったが、敗戦の責任をとりたくない、軍人以外の指導者にとっても、一般国民にとっても、都合のよい論理であったから、たちまちのうちに唱和者がふえはじめ、そして、軍人たちが恩給とひきかえに口を閉ざしてしまうと、いつのまにか、それは歴史上の定説となった。

    (《解説 泉三太郎》P.401)


     しかし、それで一件がすべて落着したほけではなかった。 大人たちは、自分たちのことにかまけていて、少年たちの存在を忘れていた。 大正末期から昭和初期に生れた少年たちは、生まれおち、もの心ついたときから、すでに戦争の中にいた。 彼らにとって、戦争は特別の事件ではなくて、戦争もまた生活の一部にすぎなかった。 敗戦のときハイティーンであったこれらの少年たちは、未成年であるが故(ゆえ)に戦争の当事者ではなく、責任を感じなければならない立場にはなかったから、かえって大人たちよりも素直に戦争のありようを覚えていた。 大人たちの昨日に変る今日の変身は、彼らの眼には、隠微な裏切りとうつった。
    (《解説 泉三太郎》P.402)


     世代間のそのような戦争認識のずれについて、吉村昭は「戦艦武蔵ノート」のなかで次のように述べている。
     「過ぎ去った戦争について、多くの著名な人々が、口々に公(おおや)けの場で述べている。 『戦争は、軍部がひき起した』……」(しかし)私のこの眼で見た日本の戦争は、全く種類の違ったものに見えた。 正直に言って、私は、それらの著名人の言葉を、かれら自身の保身の卑劣な言葉と観じた。 (うそ)ついてやがら−−私は、戦後最近に至るまで、胸の中でひそかにそんな言葉を吐き捨てるようにつぶやきつづけてきたのだ。……一言にして言えば、戦争中の私たちは、戦争を罪悪と思わなかったし、むしろ、戦争を嬉々と見物していた記憶しかない」
     敗戦の日、少年たち見物人の眼の前で、みごとな変身ぶりを見せた大人たち、しかもそこにいささかの羞恥(しゅうち)のそぶりも見せなかった大人たちの生態を通して、彼は、日本人という不思議な生物に対する暗い好奇心をあたため、それが彼の文学的支点のひとつとなった。
     「……戦時という異常な環境の中で、いつの間にか一つの巨大な権力化した怪物になっていた(その同じ人々が)今や平和の恵みを享受(きょうじゅ)」しようとしている人々の群にあざやかに変身した。……が、そうした変身の鮮やかさには、戦慄(せんりつ)すべき危険な要素がひそんでいないとは決していえない」

    (《解説 泉三太郎》P.403〜404)


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    12/02/17・・・12/02/18