[抜書き] 『海の祭礼』


『海の祭礼』吉村昭・文春文庫
2005年9月25日 第3刷



     宝永三年(一七〇六)、能登(のと)国生れの豪商村山伝兵衛松前藩から宗谷場所の漁場請負人に命じられ、宗谷の属島である利尻島もその支配下においた。 島にはアイヌしか住んでいなかったが、支配人、番人が常駐し、アイヌの採る魚介類を宗谷に送るようになった。 その後、安永三年(一七七四)、飛騨(ひだ)国出身の飛騨屋久兵衛が請負人になった。
     鳥獣、魚、野草を食物としていた島のアイヌたちの生活形態は、和人の進出によって根底からくずされ、生きるために従属しなければならず、請負人の利潤追求のため労働を強(し)いられるようになった。 さらにかれらに致命的な打撃をあたえたのは、天然痘の流行であった。 寛政十二年(一八〇〇)二月、長万部(おしゃまんべ)のアイヌが東蝦夷地の有珠(うす)に行って感染し、その地一帯に蔓延(まんえん)したのが最初であった。 その後、西蝦夷地にも流行がみられるようになり、享和三年(一八〇三)には利尻島と近くの礼文島で九十名が死亡した。 さらに二年後には、宗谷、手塩(てしお)地方でも二十余名が死に、その結果、文政五年(一八二二)の調べでは、利尻島のアイヌは、戸数二十八、男五十七、女五十九の計百十六名と激減していることがあきらかになった。
    (《海の祭礼》P.7〜8)


     幕府は、ロシア艦の来攻にそなえて奥羽諸藩に出兵を命じ、宗谷方面は会津藩兵の警備地域に指定された
     翌五年正月、千六百名の会津藩士は若松城を出立、松前その他に分駐し、四月十七日、梶原平馬が軍船六隻に五百八十七名を乗せて宗谷に到着した。 さらに梶原は、そのうちの二百四十一名をひきいて利尻島に上陸、配備についた。
     会津藩兵は、仮住宅を作り越冬にそなえた。 かれらは、冬の寒気と野菜不足による水腫病の恐ろしさを耳にしていた。前年に北辺に配備された諸藩の者のうけた被害はいちじるしく、国後(くなしり)、択捉島に越冬した南部藩士六十八名、宗谷の津軽藩士七十余名が死亡、ことに斜里に越冬した津軽藩士百名中生き残ったのはわずか十三名であった。
     冬がやってきて海は荒れ、航行は杜絶し、島は孤立した。 恐れていたことが現実になり、藩士はつぎつぎに水腫病で倒れ、多くの者が死亡した。
    (《海の祭礼》P.12)


     数日後、鰊が寄せてきたという報(しら)せが、見張りのアイヌから運上屋につたえられた。海面はざわめき、雄の放つ白子が昆布、若布(わかめ)をはじめとして海草に附着し、海は白濁した。
     図合船に六人、アイヌの舟に三人がそれぞれ乗り組み、岸をつぎつぎにはなれ、海中に網をおろした。 たちまちいずれの網にも鰊がなだれこんでふくれあがり、アイタたちは力をそろえてそれをあげる。 船上には鰊があふれるように盛りあがり、落ちこぼれた鰊の入っている網を船尾にくくりつけ、掛声をかけて櫂(かい)をあやつり、舟を岸につけ、鰊をあげるとふたたび網立て場へもどってゆく。
     浜では鰊を大きなモッコに入れ、男が二人でかついで女たちの待つ場所へ運ぶ。 女たちは、鰊を刀でひらき、数の子白子をかき出し、笹目と呼ばれる鰓(えら)を切り取る。 ひらいた鰊を男たちが二十尾ずつ紐に通して連とし、十連を一束にして天秤棒の前後につるし、干場に運び、横木にかけてゆく。
     女たちは数の子を大樽(おおだる)に入れ、白子、笹目を(むしろ)の上にひろげて干した。 数の子、白子は食用となり、笹目は肥料として送り出される。 鰊は干場で一昼夜風にさらした後、納屋に運びこんで三十余日陰干しされる。
     アイヌたちには、鰊六束、数の子、白子三樽、笹目六十樽でそれぞれ八升の米が報酬としてあたえられる定めになっていた。 海上には図合船、アイヌの舟が網立て場と岸の間を往き来し、浜では作業がくりひろげられ、運上屋の支配人、番人も浜につめていた。
     海が荒れると舟は出せず、女たちは、ふきのとうを採取する。 雪がとけて黒い地表が現われ、陽光をあびて水蒸気が一面にゆらいでいた。
     ようやく鰊の魚影が去ったころ、シャクをはじめとした野草が地表をおおうようになり、アイヌの女と子供たちはそれらを採取し、男たちは、干し上がった鰊の俵づめに働いていた。
    (《海の祭礼》P.15〜16)


     作業が終わって、弁財船に鰊その他が積みこまれて宗谷を去ると、海鼠漁がはじめられた。海鼠は、腸をぬいて煮て乾燥し、煎海鼠(いりこ)にする。清国ではこれを食物、薬品用に珍重していたので、長崎から重要な輸出品の俵物として唐船で送り出されていた。幕府は増産にはげむよう布達を発し、箱館には長崎から俵物会所の役人が出張して、問屋に買入れをおこなわせ、長崎へ送っていた。
    (《海の祭礼》P.16)


     舟が一斉に出漁し、海鼠の多く棲息する海域に網をつぎつぎにおろした。 潮の良い折には一網で二、三十は入り、日に一人で二千ほどあげる舟もあった。 海鼠を満載した舟は運上屋のある本泊に来て、それらを浜にあげる。 運上屋の者が数を改め、五百を一単位にアイヌの腕に矢立で印をつける。アイヌは会所へ行って印をみせ、奨励の酒をうけるのが習わしであった。
    (《海の祭礼》P.16〜17)


     アイヌたちは海鼠をそれぞれ家へ持帰り、女たちが腸をぬいて大鍋で煮る。 それを長さ一尺の串(くし)に十ずつ通し、十本を一連にして晴天の日は戸外で、それ以外の日は囲炉裡(いろり)の上へつるして干し、煎海鼠にする。煎海鼠百につき米一升二合五勺が報酬としてあたえられた。
    (《海の祭礼》P.17)


     かれらは、故老から耳にした四十年前の文化四年(一八〇七)、大型のロシア艦二隻が島に来襲した時の話を思い起した。 それは島にとって最も恐ろしい出来事として語りつがれ、親は子供を叱る時にオロシヤ船に渡してしまうぞ、とおどすのが常であった。ロシア艦は、伊達屋の手船宜幸丸、幕府の官船万春丸、松前の商船誠龍丸の積荷をことごとく奪って船を焼きはらった。 その間、しばしば大筒が放たれて砲声がとどろき、アイヌたちは和人とともに生きた心地もなく山中にひそんでふるえていた。
    (《海の祭礼》P.23)


     白人とインディアンの対立は各地で紛争を続発させ、政府は強圧的な態度でのぞみ、居住地をさだめて、その地にインディアンを強制移住させた。 長い旅で多くの死者が出るなど悲惨な部族もあって、政府に対する憎悪は増した。 太平洋岸の地方でもインディアンは、白人と交易する上では穏和だったが、いったん白人が生活圏をひろげるためインディアンの領有地をおかす動きをしめすと、はげしく抵抗し、また白人の悪徳商人が詐欺行為をしばしばはたらいいたため対立は増した。
    (《海の祭礼》P.56)


     十七歳になっていたかれは体力に自信をもっていたので、肉体を駆使して船員として生活したいと考え、各国の船が出入りすると言われるニューヨークに行くべきだ、と考えた。 かれはふたたび船員として雇われ、メキシコ湾から大西洋に出て、ニューヨークにおもむいた。
     港湾作業などに従事して働き、「タスケ二号」という蒸気船に船員として乗組み、大西洋を横断、イギリスのロンドンについた。 その地で、初めて父あてに手紙を書いた。
    (《海の祭礼》P.62)


     船はアフリカへ荷を運んだが、帰路は黒人奴隷をアメリカに運ぶことを目的としていた。 奴隷は古くから売買の対象とされていたが、ヨーロッパでは人道的見地から廃止が叫ばれ、フランス革命戦争がナボレオンの没落によって終結した後、一八一五年にひらかれたウィーン会議で、黒人を奴隷として取引きするのを禁止した宣言が採択され、ヨーロッパ諸国はその方針にしたがっていた。 アメリカでも、独立戦争を通じて、平等、人道、自由を重んじる主義のもとに奴隷制度反対の声が高く、一七八七に制定された憲法に廃止を明記する動きがみられた。 これに対して、棉花(めんか)生産に奴隷を重要な労働力としていた南部諸州がはげしく反対し、そのため発効を二十年後とするとりきめがおこなわれ、一八〇八年から廃止が正式に決定していた。しかし、一八三〇年代から綿糸紡績がさかんになって綿糸、綿織物の輸出が増大し、棉花栽培のための黒人労働力の依存度がたかまったことから、奴隷受け入れは半ば公認されるようになっていた。 ウィーン会議の決定によって奴隷をアメリカに送りこむことは違法であったので、アメリカで取引きされる奴隷の価格は一人一千ドル以上に高騰した。 そのため、奴隷商人は、国際監視の眼をかすめて黒人を買い集め、船に押しこめてアメリカに送り、多額の利益を得ていた。
    (《海の祭礼》P.64)


     そのうちに、岩吉たちを眼にした人の口から、かれらの外観がレッド・リヴァの町につたわってきた。 三人の漂流民の眼が不思議なほど澄み皮膚が驚くほどなめらかで、髪、皮膚、瞳の色がインディアンに似ているという。
     マクドナルドは、その話に神秘的な感動をおぼえた。 かれは、インディアンの種族の間に、先祖がアジアからアラスカをへてアメリカ大陸にやってきたという伝説があるのを耳にしていた。古くはアジアと陸つづきで、人々は長い苦難の旅の末にアメリカ大陸へやってきたが、氷河の後退によって陸地は海に成、それで両者の間の連絡路は断たれたという。
    (《海の祭礼》P.69)


     これによって氏家は、村田伴作と連署して、
       覚
     一、鉄砲小筒 壱挺
       右者蝦夷地漂着異国人所持之武器取上置候ニ付 無(ニ)相違(一)御渡申候
       以上
       申九月
            村田伴作 印
            氏家丹右衛門 印
       白井達之進殿
       重山喜作殿
     ボート、船具その他についても同様の引渡書をしたため、白井に渡した。
    (《海の祭礼》P.159)


     森山は、マクドナルドに近づき、紙を渡した。 興奮をおさえきれず、その記録に感嘆したことをつたえるため、
     「Good」
     と言った。
     マクドナルドは、Goodとつぶやき、片手をあげて、少し待てという仕種をし、部屋の隅の机の前に行った。 そして、茶碗に入った水を硯にたらして墨をすり、羽ペンをこすりつけて、もどってきた。
     かれは、紙をひろげて、余白に Good と書き、あ? と言って、首をかしげた。
     森山は、Good というアメリカ語を日本語ではどのように言うかをたずねていると察し、長崎弁そのままに、
     「良(よ)か」
     と、答えた。
     「ヨーカ」
     マクドナルドはつぶやき、ペンを紙に走らせた。
     森山は、Youka という文字が記されるのを見た。
     かれは、不意に涙ぐみそうになった。 この異国人は、なぜかわからぬが熱心に日本語をおぼえようとし、それを記録している。
    (《海の祭礼》P.186〜187)


     かれらは、ブロムホフについて英語の手ほどきをうけ、文化七年一二月に由雄権之助(六次郎改め)が、「諳厄利亜語和解(あんげりあごわげ)」第一冊を、翌年二月に猪股伝次右衛門が第二冊、岩瀬弥十郎が第三冊を書き、それぞれ奉行所に差出し、褒美として銀五枚をあたえられた。 また、九月には、英語修業世話役の本木庄左衛門が、「諳厄利亜語興学小筌(しょうぜん)」十冊をまとめ、奉行所に提出して銀十枚の下賜をうけた。
    (《海の祭礼》P.206)


     役人の話によると、夜九ツ半(午前一時)ごろ、その牢に収容されている異国人たちが騒ぎ出したので、番人が制止した。 が、異国人たちがなにか言いながら牢内の奥を指さすので、牢格子の外の鞘土間(さやどま)の灯をたよりにうかがうと、牢内の奥の窓格子にかけた縄に首をかけて垂れている人の体を眼にした。 番人から報告をうけて駆けつけた牢役人が鞘土間から提灯をかざしてみると、たしかに一人が首をつっているのを確認したという。
    (《海の祭礼》P.238〜239)


     その間、蝦夷の松前、箱館方面で、中川五郎治という元番人小頭が、西洋式種痘を実施していた。 五郎治は、文化四年(一八〇七)、択捉島に来襲したロシア艦に捕らえられ、シベリヤに連行された。 五年後にかれは日本へ送還されたが、シベリヤに抑留されている間に西洋式種痘法を見聞し、ロシアの種痘普及書も持ち帰った。 この書は、後に通詞の馬場佐十郎によって、「遁花秘訣(とんかひけつ)」と題して和訳された。
     文政七年(一八二四)、松前藩領で天然痘が流行し、五郎治は、天然痘にかかった牛から痘苗を得て種痘をおこない、その後も希望する者に接種をつづけた。 五郎治は、それから得る謝礼を重要な生活の資にし、秘伝として医師たちに伝授することをこばんだので、かれの死とともに痘苗も絶えた。
    (《海の祭礼》P.255)


     異国船の接近が例年になく多いことを深く憂えた老中首座の阿部正弘は、異国船対策について素直に意見を述べるよう各大名、奉行などにつたえた。 このような諮問は前例がなく、幕府の苦悩の大きさをしめすものであった。
     異国船に強い態度でのぞむべきだ、と強硬に主張したのは、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)であった。 異国船は、例外なくわが国を侮蔑する態度をとり、それを許せば国の威信にかかわると警告し、武力をもって追いはらうべきだ、と唱えた。 これに対して会津藩主松平容敬(かたたか)や伊豆代官江川太郎左衛門らは、異国の武力は強大であり、そのような対抗策をとることは大争乱のもとになる、と反論した。
    (《海の祭礼》P.300)


     そうした中で、浦賀奉行からの報告が幕府によせられた。 それによると、江戸湾を防備する砲台にすえられた大砲の砲弾は、わずか十六発にすぎず、実弾演習すらできぬ状態だという。 その上、奉行所に防備のために必要な金もなく、重装備をほどこした異国船と交戦することなど不可能だとつたえてきた。 幕府は、江戸湾の防備すらそのような状態では、徳川斉昭の主張する強硬論は実情にそぐわぬものと判断した。 その結果、異国船に対してはあくまでも武力行使を避け、沿岸防備の強化を急ぐべきだ、という結論に達し、それを各藩につたえた。 長崎奉行も、幕府の指令をうけて港湾防備の整備をすすめた。
    (《海の祭礼》P.301)


     日本に最も強い関心をいだいていたのは、ロシアであった。 カムチャッカ半島から沿海州にかけての港は、九月から翌年五月まで氷にとざされるという不利な条件にあったので、ロシアは、日本に根拠地を得ようと願っていた。 それには、まず言語の障害をとりのぞくことが先決だとして、船の難破によって日本からロシア領に漂着した者を教師とする日本語学校を開設した。 が、やがて、それらの漂民を日本に送還することによって日本との友好関係をむすぶのが得策だと考え、ロシアの遣日使節ラクスマンが、寛政四年(一七九二)、伊勢の漂民大黒屋光太夫(こうだゆう)ら三名をともなって根室に来航し、国交をもとめた。
    (《海の祭礼》P.320)


     しかし、イギリスが、アヘン戦争の勝利によって清国に多大な権益を得、他国もそれに追随するという情勢からみて、オランダは、各国の日本への接近が加速度的に増すことを予想した。 そして、強大な武力をもつ各国が、強引に日本に対して国交をせまる確率が高いと判断、やむなく日本が開国に応じた折には、オランダが主導権をにぎりたいと考えた。 そのため、八年前の弘化元年(一八四四)、国王ウィリアム二世が、開国をすすめる国書を幕府に提出した。この下書きは、日本に六年間滞在し、国禁をおかしたかどで国外追放をうけた元オランダ商館医官のフォン・シーボルトがまとめたものであった。
    (《海の祭礼》P.322)


     アヘン戦争によって中国との貿易に絶対的な優位をしめていたイギリスは、中国にアヘン、綿製品を多量に輸出していた。 当然、イギリスは、近くにある日本にも大きな関心を寄せてはいたが、貿易の対象国としては興味をいだいてはいなかった。 オランダの対日貿易は、一時は多額の利益をあげていたが、幕府が金・銀の流出を制限するなどの政策をとったため利潤は減少し、貿易量もわずかなものになっていった。 それに日本の資源は乏しく魅力のあるものは見当らず、輸出市場としてほとんど価値がないことを知っていた。
     日本に比較して、中国ははるかに広大な領土をもち人口も多い。 未開発ではあるが、それだけに底知れぬ豊かな資源と富を内蔵した魅力あふれる大市場と解されていた。
     アメリカの考え方も、イギリスのそれとまったく同じであった。アメリカが太平洋航路開発を計画した目的は、中国との新しい道をひらくことにあった。もしもそれが実現すれば、中国との貿易は飛躍的に発展し、イギリスの地位にせまることも期待できた。 日本との貿易などは眼中になく、ただ、中国への航路の中継基地としての意味しかなかったのである。
    (《海の祭礼》P.341〜342)


     ペリーは、日本に赴く前に二つの計画を成功させておきたい、と考えていた。 それは、琉球と小笠原諸島の確保であった。
     かれは綿密な計画を立て、まず小笠原諸島が太平洋航路開発にきわめて重要な存在であるという結論をくだしていた。 その航路がひらかれた場合、カリフォルニアのサンフランシスコを出航した船は、まずハワイのホノルルに寄港する。 この間の距離は約二千百マイル(約三三八〇キロ)。 ホノルルから小笠原諸島の父島にある二見港までが三千三百マイル(約五三一〇キロ)。 二見港と中国の上海間は千八十マイル(約一七三八キロ)で、サンフランシスコと上海間を一日二百四十マイル(約三八六キロ)の速度で航行すれば、寄港日を入れても三十日ほどで達することができる。 ペリーは、小笠原諸島が太平洋航路にとってなくてはならなぬ寄港地である、と断定していた。
     ついで琉球だが、これも太平洋航路の寄港地としての意味があると同時に、軍事的に重要な地である、と考えた。
     ペリーは、捕鯨船を主としたアメリカ船が入ることのできる良港を日本側に要求するが、それを日本側が拒否した場合、一歩退いて琉球を占領すべきだ、と判断した。 琉球は、薩摩藩の圧制にあえいでいて、その圧力から解放させることを約束した住民を温かく遇せば、必ずアメリカの保護下に入るだろう、と信じた。 琉球に強力な基地をもうけ、そこを根拠地にして日本との交渉をつづければ、日本側もまちがいなく屈伏する、と考えたのである。
    (《海の祭礼》P.348〜349)


     「ミシシッピー号」の江戸湾侵入は、江戸の町々を、大混乱におとしいれていた。 幕府も、大森、羽田を萩藩、品川を福井藩、芝高輪を姫路藩、佃島(つくだじま)、鉄砲洲(てっぽうず)を徳島藩、深川を柳川藩などに警護することを命じ、アメリカ艦が江戸湾に入ってきた折にはそれら各藩の藩主が出馬することも定めた。 「ミシシッピー号」の江戸湾侵入で、町々では早半鐘(はやがね)が打たれ、一般の町民はもとより旗本までが家族を遠くの地に避難させ、それによって蓑(みの)、笠が売り切れた。また、米を買いこむ者が多かったので、米価が高騰し、武具屋、馬具屋にも武士が殺到して甲冑(かっちゅう)の値段は二、三倍にもはねあがった。海岸近くの町々では大八車に家財を載せて避難する者がつづき、その間を浦賀をはじめ各陣屋からの早馬が走った。
    (《海の祭礼》P.368)


     万次郎は、天保十二年(一八四一)、十四歳で土佐国宇佐浦の船に雇われて出漁中、遭難して無人の鳥島に漂着した。 半年後、沖を通りかかったアメリカ捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救出され、万次郎の快活で聡明な性格に好感をもった船長ホイットフィールドは、かれをアメリカに連れて行って学校に入れた。 万次郎は、英語に親しんで一般知識も得、長じて捕鯨に従事し、金鉱で働いて得た金を手にホノルルに渡った。 その後、幸運にも日本近海にむかう船に乗ることができ、琉球に上陸し、捕えられて鹿児島に送られた。 西洋文明に強い関心をもっていた薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は、万次郎からアメリカを中心とした欧米の事情聴取をおこない、藩の取り調べは五十日近くにも及んだ。
    (《海の祭礼》P.376)


     やがて、万次郎は、幕府の命令で長崎に送られ、あらためて聴取がおこなわれて「糺問書」「漂客談奇」が記録された。 そこには、アメリカの歴史、科学技術、風習などあらゆる分野のことが詳細につづられ、またかれの持ち帰ったワシントンの伝記や航海書、農業書なども注目された。
    (《海の祭礼》P.376)


     幕府は、前年の嘉永五年、万次郎を普請役格に採用し、江川太郎左衛門の手附(てつき)とした。 そして、ペリー艦隊の来航に接し、江戸に控えさせていたのである。
    (《海の祭礼》P.376)


     日本人の欧米に対する知識については、同行していたフランシス・ホークス牧師によって書かれた艦隊の公式記録に、「日本人自身は、実用科学の面では遅れているとはいえ、最高の教育を受けた人々は、文明国または先進国の科学の進歩についてかなりの知識を持っている」(「さむらいとヤンキー」フォスター・リーア・ダレス著・辰巳光世訳)とある。
    (《海の祭礼》P.376〜377)


     たしかに、日本の有識者は、欧米についての知識を持ち、科学技術についても実用化への意欲に燃えていた。 蒸気艦にしても、ペリー艦隊来航の四年前にあたる嘉永二年に、薩摩藩主島津斉彬が、オランダで出版された舶用蒸気機関の技術書を入手、蘭学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)に「水蒸船説略」と題して和訳させている。 そして、ペリー艦隊が浦賀に現われたころには、この技術書にもとづいてすでに蒸気機関の製造に取りくんでいた。 また、薩摩藩では、後に「昇平丸」と命名された洋式帆船も起工していたのである。
    (《海の祭礼》P.377)


     前年の六月にアメリカ艦隊が去ってから、幕府は、江戸湾の防備を積極的に推しすすめていた。 西洋兵術の知識をもっていた伊豆代官江川太郎左衛門の進言をいれて、品川の海に十一の台場構築計画をたて、八月から工事が開始された。 満潮時に一丈(三メートル強)以下の深さにしかならぬ位置に、五角または六角形の三百坪近い台場をきずくというものであった。
    (《海の祭礼》P.390)


     阿部正弘以下老中、若年寄が直接指揮をとり、泉岳寺、品川御殿山の土を船ではこび、埋立てた。そのため、東海道の高輪通りは通行禁止とし、脇道に迂回させた。 台場にすえる大筒は、川口宿(埼玉県川口市)の鋳物師(いもじ)につくらせようとしたが、諸大名からの大砲鋳造の依頼で余力がないため、江戸の浅草新堀町と小伝馬町の鋳物師を動員して鋳造(ちゅうぞう)にあたらせた。 台場の構築予算は、一つで五千両から一万二千両であったが、財政難であった幕府は、江戸、大阪の豪商や天領の富農たちから上納金を出させて補った。
    (《海の祭礼》P.390)


     台場は五つ完成したが、経費不足で他は中止になった。
    この台場は江戸の人心をしずめるのに効果はあったが、入念な計画による工事ではなかったので、その威力を期待することはできないことを、幕府も知っていた
    (《海の祭礼》P.390)


     幕府は、アメリカ艦隊の再来を各方面につたえた。
     江戸の町にも触れが出され、前回の場合は、アメリカ艦が江戸に近づいた折には、早半鐘(はやがね)を打ち鳴らしたが、それを早盤木(ばんぎ)にかえ、火事発生時に半鐘と太鼓を鳴らすように指示した。町奉行は、民心の動揺をいましめ、世情の混乱に乗じた物価高騰をおさえる処置もとった。また、浦賀方面に旅姿の武士がおびただしく入っているという情報をつかみ、単なる異国船見物ならばよいが、過激な攘夷論者であった場合、アメリカ側に対して思わぬ行動に出ることが予想され、不審な者は召捕るようにという指令も出した。
    (《海の祭礼》P.390〜391)


     ペリーの顔に、ふたたびきびしい表情がうかんだ。
     「サテ、貿易ノ件デアルガ、ナゼ承諾シナイノカ。 貿易ト言ウモノハ、互ニ有ル物、無イ物ヲ交換スルコトニヨッテ、大キナ利益ヲ得ルモノダ。 ソノタメ、各国間ノ貿易ハ盛ンニナル一方デ、コレニヨッテ国ノ富ハ増シ、国力モ強クナッテイル。 貴国モ貿易ニヨッテ、大キナ利益ヲ得ルベキダ。 決シテ不利益ニナルコトハナイ。 コレハ、ゼヒ承諾シテ欲シイ」
     林たちは、会議の焦点である第三の要求事項の通商問題を、ペリーが強い口調で発言したことに極度の緊張をしめした。
     林は、けわしい表情をしながら答えた。
     「たしかに、交易は、国に利益をあたえるものではありましょう。 しかし、元来、わが国は、自国に産出する物のみによって十分に足り、外国から物品を運び入れなくとも、少しも事欠くことはありませぬ。 それ故、交易はいたさぬ定めになっており、この国法をただちに廃することは到底できませぬ。使節がわが国に参られた御役目は、人命を重んじ船を安んじて航海させることにあり、それらの儀が、ここに解決いたしたのでありまする故、御役目は十二分に果せられたはずと存ずる交易の儀は、利益うんぬんのことであり、人命とは縁なきこと。 これで御談合はすべて相済み申したのではないか、と存ずる」
    (《海の祭礼》P.410)


     三月七日、アダムス参謀長の乗る「サラトガ号」が、条約文書と傷病者を乗せて中国へむけ出港、十三日、七隻の艦船は、江戸にむかって羽田沖まで進んだ。
     ペリーは、同乗していた森山に、前方にみえる羽田村の家並を江戸か、とたずねた。 それは漁師などの家々で、江戸の町は靄につつまれ眼になどできなかったが、森山は、江戸だ、と偽りの答えをし、岸に並ぶ漁船を、江戸にもやわれた舟の群だと言った。
     喜んだペリーは、士官たちと遠眼鏡を家並にむけ、
     私ハ、江戸ヲ見タ。コレデ思イ残スコトハナイ。 出帆シヨウ」
     と、言った。
    (《海の祭礼》P.426)


     十一月三日、玉泉寺を応接所として第一回の会議がひらかれ、森山は、副官兼通訳官のポシェットとオランダ語によって通訳をした。
     翌日五ツ(午前八時)、突然、強烈な地震が下田を襲った。 震源地は紀伊半島南端、推定マグニチュード八・四で、九州から東北地方まで被害は広範囲にわたり、津波が各地に押し寄せた。
     ことに下田の地震は激烈で、大津波にもおそわれ、全戸数八百五十六戸のうち全壊・流失八百十三戸、半壊二十五戸、死者も八十五名にのぼった。 高波が町に押し寄せて町は完全に壊滅し、筒井らは辛うじて高台に逃げた。
     港に停泊していた舟は陸に押しあげられたりくつがえったりし、「ディアナ号」も津波にもまれて座礁、大破した。
     この大災害で会談は中断し、十三日になってようやく再開された。 「ディアナ号」は修理の必要にせまられ、会議の席上で伊豆西海岸の戸田(へだ)村で修理することが決定し、十六日、戸田村へ舟にひかれて出港した。
     しかし、「ディアナ号」は、途中、大時化(しけ)にあって駿河国富士郡宮島村沖に流され、座礁、沈没した。
     プチャーチンは陸にあがり、五百八十六名の乗務員とともに沼津藩士上川伝一郎が一行に付きそい、心のこもった世話をした。
     戸田村では、伊豆代官江川太郎左衛門が、宿舎、食糧その他をととのえてプチャーチン一行を迎えた。 また普請役の森山栄之助も、下田から戸田村に出張、通訳を担当した。
    (《海の祭礼》P.432〜433)


     帰国の船をうしなったプチャーチンは、戸田村で洋船の建造をくわだてた。 秀(すぐ)れた日本の舟大工が集められ、ロシア人の設計に従って作業をすすめた。
     通訳官のポシェットは、条約交渉で下田に行っていたので、シロリングというオランダ語を話すことのできる乗組員が通訳官代理となり、長崎から派遣されていた通詞本木昌蔵と森山が通訳を担当、大工たちにロシア人の指示をつたえた。 戸田村は、南部が沼津藩領、北部が旗本小笠原石見守の知行地であったので、森山は、小笠原石見守家来という名目で、建造の監督にもあたった。
     やがて、洋船が完成し、「ヘダ号」と名づけられた。 プチャーチンは、川路をはじめ役人の好意に感動し、沈没前に「ディアナ号」から運び出した品々をかれらに贈った。 森山も、寒暖計、花毛氈を受けた。
     プチャーチンは、「ヘダ号」に乗って本国に去った。
    (《海の祭礼》P.434)


     世情ははげしくゆれ動いていたが、十月二日夜四ツ(午後十時)、江戸に大地震が発生した。 直下型の烈震であった。
     五十ヵ所から火災が発生し、数万戸におよぶ家が倒壊、焼失した。 圧死または焼死した者二万五千三十九人と言われたが、実際の死者ははるかに多く、寺々に運びこまれた遺体は二十一万九千九百余人にのぼった。最も振動のはげしかったのは本所(ほんじょ)深川鉄砲洲築地浅草で、森山の住む小石川附近は弱く、家が少し傷んだだけであった。
    (《海の祭礼》P.436)


     その中に、長崎の医師の子で、大通詞名村八郎右衛門に蘭学をまなんだ後、江戸に出た福地源一郎(後の桜痴)がいた。 福地は、天性の才に恵まれ学習にも熱心であったので、英語理解の進歩はいちじるしかった。 また、佐倉藩の津田仙(女子英学塾〈津田塾大学の前身〉の創設者津田梅子の父)と幕臣の子である沼間守一(後に横浜毎日新聞社主・東京府会議長)も森山に師事した。
    (《海の祭礼》P.431)


     蝦夷(えぞ)は北海道と改称され、冬になると流氷が宗谷地方に接近し、三月には北へ去ることをくり返していた。
     利尻島附近には、回遊する鯨の群がさかんに潮を吹きあげながらすぎていたが、アメリカの捕鯨船はまたく姿を消していた。 それは、アメリカの捕鯨船にいちじるしい変化が起こっていたからであった。
     ペリーが艦隊をひきいて来航した主要な目的の捕鯨基地の確保は、なんの意味もなくなっていた。 来航した一八五三年(嘉永六年)は、アメリカの捕鯨業が最もさかんな年であったが、それを頂点に急激に衰退した。
     理由の第一は、石油の発見で石油が灯油に使用されるようになり、鯨油価格が大暴落したことにあった。 さらに、カリフォルニアの金鉱発見で、危険をともなう長い航海にたえねばならぬ捕鯨船に乗るよりも、多額の金をつかむ可能性のある金鉱掘りに船員たちが去ったことも原因であった。 また、無統制に抹香鯨をとったので、漁獲量が減り、事業としての魅力もうしなわれたのである。
    (《海の祭礼》P.474〜475)


     捕鯨船の数は、年を追うごとに激減し、日本近海まで出漁してくる船は皆無になっていた。
     ペリーが捕鯨基地とした函館港には、時折り、外国の汽船が入るだけになっていた。 津軽海峡には、鯨の群が潮を吹きあげるのがみえ、時には、湾内に入ってくる鯨もあった。
    (《海の祭礼》P.475)






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    転記ミス:14/05/21・・・15/05/11