[抜書き] 『「日本」とは何か 日本の歴史 00』


『「日本」とは何か 日本の歴史 00』
網野善彦・講談社学術文庫
2011年8月22日 第6刷
    目次
    第一章 「日本論」の現在
      1 人類社会の壮年時代
        一九四五年八月六日   開発による自然破壊と公害   ”進歩”史観の根本的動揺   女性・老人・子供・被差別民  
      2 日本人の自己認識−−その現状
        一九九九年八月九日   「日本国」千三百年の総括  
    第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像
      1 アジア東辺の内海
        南北に連なる五つの内海   海の世界の特質   「孤立した島国日本」の虚像  
      2 列島と西方地域の交流
        列島をこえる縄文文化   朝鮮半島と列島西部   被差別部落の東西の地域差   海部・海夫の道   太平洋・日本海を移動する海民  
      3 列島の北方・南方との交流
        内陸を横断する人々   列島を横断するルート   交易民としてのアイヌ   北から大陸に渡った僧   南方世界との交流  
      4 東方の太平洋へ
        太平洋を渡った人々   ペルーのリマに住む日本人   天野博物館の「ハポネス」の土器  
      5 列島社会の地域的差異
        列島の東部と西部   東と西の違い   北と南、太平洋と日本海  
    第三章 列島社会と「日本国」
      1 「倭国」から「日本国」へ
        倭人は日本人ではない   倭国から日本国への国名変更   なぜ「日出づる国」なのか   大王から天皇へ   対外的呼称としての「日本」   不可分の「天皇」と「日本」   変動する天皇の「代数」  
      2 「日本国」とその国制
        成立当初の「日本国」の領域   「日本国」による「侵略」と「征服」   国郡制と「日本国」   人為的な直線道路「七道」   戸籍の作成   家父長制を支えた戸籍制度   双系制の実態と父系制の建前   天皇家に「帰一」する「系図」の危険性   水田を基礎とした税制   成年男子の負担する調・庸   天皇の二つの顔−−帝国の首長と神聖王  
      3 「日本国」と列島の諸地域
        内海と半島、山と川   自立を志向する「東国」   「日本国」の枠をこえる「西国」   東北の自立した政治勢力   南方の新たな激動   東西に分裂する「日本国」   「東国の王権」としての頼朝   広域地域呼称の成立−−「関東」の確立   東国に視点を置いた「関西」の呼称   「東国」「西国」とその範囲   広域的地域呼称の成立−−九州・四国   地域呼称「北国」「奥羽」の成立   地域呼称「中国」の成立   分裂する「日本国」   分立する小国家   「日本国」再統一と「海禁」  
      4 列島諸地域の差異
        荘園公領制の東と西   横の連帯の西国、縦の主従関係の東国   「年貢は米」の誤り   貨幣の東と西   神仏に直属する西国の職能民−−神人・供御人制   世俗的な立場にある東国の職能民   神仏のとらえ方の東と西   東国の都−−「未開な後進地東国」の誤り   「被差別部落」の東と西の差異   東国の被差別民の実状   職能特権の起源の東と西   「自由の象徴」と「差別・賎視」   「斉一な日本民族」の虚像  
      5 「日本・日本人意識」の形成
        異国・異界に対する自己認識   「日本国」の「実態」認識   「日本第一の……」   「日本」と「大和」   「神国日本」   日蓮の「日本」認識   「日本国」の範囲   「日本国一円」   移動する「日の本」   枕絵の中の「日本国」  
    第四章 「瑞穂国日本」の虚像
      1 「日本は農業社会」という常識
        教科書も研究者も   壬申戸籍の職業別人口統計   愛媛県二神島の「農」の実態   山梨県は「農業県」か   明治政府による「士農工商」の「創出」  
      2 「百姓=農民」という思いこみ
        教育現場でも研究書でも   「百姓」の中には富裕な商人・廻船人もいた   したたかな「百姓」の駆引と誇張   サハリンまでいった「下人」の船頭   「頭振」の中には豊かな都市民がいる   「水呑」の多い港町   農業の社会的比重の実像   古代・中世の百姓とその生業   「農本主義」の立場に立つ国家   「田畑を持たないもの」−−「在家人」とその評価   いつ、「百姓」は「農民」と見られたか  
      3 山野と樹木の文化
        三内丸山遺跡の衝撃   栗の栽培と栗林の造林   百姓の住居の建築   燃料としての薪・木炭   材木輸送路としての河川   柿と漆   桑と養蚕と女性  
    第五章 「日本論」の展望
      1 「進歩史観」の克服
        「日本人論」「日本文化論」の陥穽(かんせい)   「戦後歴史学」の「自己批判」   「進歩史観」「発展段階論」の克服  
      2 時代区分をめぐって
        時代区分の再検討   列島社会の時期区分   「日本論」の展望  
    解説 大津 透
    参考文献
    索引


     ”進歩”史観の根本的動揺
     現実のこのような展開の中で、近代以後の歴史学の根底を支えていた、人間は自らの努力で”進歩”していくという確信が、否応なしに揺らいできた。人間による自然の法則の理解に基づくその開発、そこから得られた生産力の発展こそ、社会の”進歩”の原動力であり、それに伴っておこる矛盾をこうした生産力の担(にな)い手が克服し、”進歩”を実現していく過程に、人類の歴史の基本的な筋道を見出そうとする見方は、もはやそのままでは通り得なくなった。そうした自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。 このような事態そのものが、さきのような、”進歩”史観の持つ根本的な問題を表面化させており、それを徹底的に再検討し、人類社会の歴史をあらためて見直し、”進歩”の名の下に切り捨てられてきたものに目を向けつつ、歴史を再構成することが、必須の課題になってきたといわなくてはならない。
    (《第一章 「日本論」の現在 1 人類社会の壮年時代》P.13〜14)


     
     たとえばこれまで、人類は未開・野蛮の漂泊・遍歴の状況から定住・定着生活を確立して文明に向かったとされてきた。 しかし実際には漂泊と定住、遍歴と定着は人間生活の二つのあり方であり、どちらを欠いても人間の社会は成り立ち難い。現代でもそれは旅と日常の形で生きているのであり、どちらが”未開”で、どちらが”進歩”などとはいえないのである。
    (《第一章 「日本論」の現在 1 人類社会の壮年時代》P.14)


     女性・老人・子供・被差別民
     切り捨てられ、無視されてきたのは、人類の生活を支えた農工業以外のさまざまな諸生業だけではない。 これまでの”進歩史観”に即してみると、農業・工業に主として携わり、経済の発展を推進したのは基本的に成年男子であった。 また租税を負担し、軍隊を支え、政治を動かすうえで主導的な役割を果し、社会の”進歩”を担ったのは男性であり、女性や老人・子供は、補助的な役割を果し、ときに表面に現われる場合があったとしても、それは例外とされてきた。 それゆえ、従来の歴史はまさしく男性の主導する歴史として描かれてきたのである。
    (《第一章 「日本論」の現在 1 人類社会の壮年時代》P.16)


     しかし事実に即してみると、この見方にはやはり農業と工業に主として目を向けてきたための偏りと、思いこみのあったことがただちにあきらかになってくる。 日本列島の社会に即しては第四章で詳述するが、世界の諸民族の実態を見ても、桑の栽植による養蚕や苧麻(ちょま)の栽培による製糸、紡績、さらにそれによって織物を織るのは主として女性の仕事であり、女性は人類の生活の中で不可欠の衣料生産に、圧倒的に大きな役割を果していた。 実際、糸車と織機は世界的に女性を象徴する道具ではないかと思われる。
    (《第一章 「日本論」の現在 1 人類社会の壮年時代》P.16〜17)


     しかし「日本」という国号、国の名前がいつ定まり、「天皇」という王の称号がいつ公的にきまったかについては、後にものべるが、研究者の間では多少の意見の相違はあれ、大筋では一致している。 大方の見解は七世紀末、六八九年に施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)とするが、それと異なる見解にしても七世紀半ばを遡らず、八世紀初頭を下らない。「日本」はこのときはじめて地球上に現われたのであり、それ以前には日本も日本人も存在しない(ここで「日本人」というのは「日本国」の国制の下にある人々で、それ以上でも以下でもない。私は日本人という言葉はそのような意味で使うべきで、これにさまざまな意義を加えるのは、問題を曖昧(あいまい)にすると考えている。この点も後述する)。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.20)


     それゆえ、「日本国」の「建国」をもしも問題にするならば、この国号の定まった時点にするのが事実に即して当然であり、実際、七〇二年、中国大陸に渡ったヤマトの使者は周の則天武后(そくてんぶこう)(国名を唐から周に変えた)に対し、それまでの「倭国(わこく)」に変えて、はじめて「日本国」の使者といい、国名の変更を明言したのである。 そこには大陸の大帝国に対し、小なりとも自立した帝国となろうとする列島のヤマトの支配者たちの強い意志がこめられていた。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.20〜21)


     とすれば、この国号の確定された七世紀末が、日本国の歴史はもとより、日本列島の社会の歴史の中でも、きわめて重大な画期であり、日本人の自己認識の出発点となるべき最重要な事実であることはいうまでもない。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.21)


     にもかかわらず、国旗の掲揚と国歌の斉唱を求め、日の丸・君が代を教育現場で生徒に教えることを強く求めている文部省の学習指導要領には、「日本」という国号がいつ定まったかについて一言の言及もない。おのずと、ごく最近、本文あるいは注でこのことにふれた高校教科書が現われたのをわずかな例外として、小・中・高の教科書には国名に関わる記述はまったくなく、逆に「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」のように、あたかも縄文・弥生時代から日本が存在し、日本人がいたかのような記述が広く見出される。 ときには「旧石器時代に日本人がいた」などという新聞記事も現われているが、これらは「神代(かみよ)」から日本が始まったという、戦前の教育と大同小異といわざるをえない。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.21)


     この多様な列島諸地域の中で、最初の本格的な国家、「日本国」が七世紀末に確立するが、それが列島全域をおおった国家ではなかったことも、案外、意識されていない。ちょっと考えればすぐにわかるように、この国家は列島西部−−北部九州、四国、本州西部を基盤とし、ヤマトに中心を置き、異質な地域と意識されていた中部以東、関東、東北南部をその国制の下にいれたのみであり、南九州以南、東北北部以北はその中には入っていなかった。日本国は軍事力によってこの地域を侵略、征服しようと試みたが、百年以上にわたる断続的な侵略に対して東北人は頑強に抵抗し、東北最北部にはついに十一世紀後半から十二世紀半ばまで、日本国の国制は及ばなかったのである。 もとより北海道・沖縄は十九世紀半ばまで日本国の外にあり、沖縄には十五世紀以降、日本国とは別の国家、琉球王国が成立していた。 明治以後の近代の日本国は、やはり軍事力を背景にこれを併合し、アイヌを強制的に日本人にしたのである。 また日本国内部にも、東国と西国の社会の異質さを背景に、別個の王権が並立したこともあったのであり、日本国の分裂する可能性もありえた。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.26)


     それゆえ、「日本は単一民族、単一国家」などというのは、まったく事実に反する”神話”といっても過言ではないのであり、この点を事実に即して考えることも、本書の重要な課題の一つである。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.26)


     そしてもう一つの最大の問題は、「日本人は弥生時代以来、主として稲作に従事しており、その主食は米で、日本文化の根本は稲、米である」とする”常識”である。 これも日本国の成立にまで確実に遡る根の深い思いこみで、「瑞穂国日本(みずほのくににほん)」という見方は、依然として現在も広く世をおおっているといってよい。
    (《第一章 「日本論」の現在 2.日本人の自己認識−−その現状》P.26)


     「孤立した島国日本」の虚像
     富山市は「環日本海文化」に早くから着目し、大きなシンポジウムをたびたび開催するなど、熱心に「日本海」を通じての諸国間の交流を追及している。 そのような発想を背景にして、富山県の企画、日本地図センターの編集で作成されたのが、ここに揚げた「環日本海諸国図/富山中心正矩方位図(三百五十万分の一)」である(富山県土木部建設技術企画課取扱)。
     日本列島をアジア大陸から見るような形で、大陸の上によこたえ、富山を中心に二百五十キロまでの同心円を描いた地図で、実態は通常の地図と同じであるが、この地図からうける印象はまことに新鮮で、ふつうの世界地図の中の日本列島とはまったく異なったイメージをうけとることができる。
     なにより、サハリンと大陸との間が氷結すれば歩いて渡れるほど狭いことや、対馬(つしま)と朝鮮半島の間の狭さ−−晴れた日には対馬の北部から朝鮮半島がはっきり見えるほどの狭さを視覚的に確認することができる。そして日本列島、南西諸島の懸け橋としての役割が非常にはっきりと浮かび上がり、「日本海」、東シナ海は列島と大陸に挟まれた内海、とくに「日本海」はかつて陸続きだった列島と大陸に抱かれた湖のころの面影を地図の上に鮮やかにとどめている。
     そしてこの地図を見ると、北海道、本州、四国、九州等の島々を領土とする「日本海」が海を国境として他の地域から隔てられた「孤立した島国」であるという日本人に広く浸透した日本像が、まったくの思いこみでしかない虚像であることが、だれの目にもあきらかになる。
     そしてこの虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。政府は海が人と人を結びつける道であることに目をつぶり、海が人と人とを隔てる国境であることを国民に徹底して教えこみ、海軍力の強化を至上命令として推進したのである。その結果が無謀なアジア・太平洋戦争の悲惨な大破綻(だいはたん)であったことはさきに述べた通りであるが、それが海という自然のあり方を無視した国家の意志の破綻だった事実を、われわれははっきりと確認しておく必要がある。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 1 アジア東辺の内海》P.34〜36)


     一方、すでに渋沢敬三・宮本常一両氏の注目していた『延喜式(えんぎしき)』の肥後(ひご)・豊後(ぶんご)の「調(ちょう)」(律令令制下の税)の中に「耽羅鮑(たんらのあわび)」の見られる事実を、この高橋氏の指摘との関連で注意していたところ、平城宮出土木簡(木簡番号三四四号)に天平一七(七四五)年九月、「耽羅鮑六斤」を調として貢上した志摩国(しまのくに)英虞郡(あごぐん)名錐(なぎり)郷の大伴部得嶋(おおともべのえしま)という人の現われることに気づいたのである。肥後・豊後、さらに志摩までが、「耽羅」といわれた済州島と鮑の採取を通じて古い時代から確実に深い関わりがあったことは、これによってあきらかになった。とすれば北西九州と常総の海夫を結びつけることも可能か、と思っていたところ、たまたま「海部(かいふ)俊樹首相」が登場した。それまで「海部」は「あま」「あまべ」と私は読んでいたが、「かいふ」とも読むのだとハッと気づいたとき、霞ヶ浦・北浦と北西九州の松浦・五島の海とは、一挙に、結びついた。 海部郡は尾張、紀伊、阿波、豊後にあり、事実、阿波では、これを「かいふ」と呼んでいるのである。
     こうして済州島から北西九州を経て、瀬戸内海に入り、紀伊半島を廻って、伊勢湾を通り、太平洋の道を、伊豆半島・房総半島をこえて常陸・下総までいたる、海夫・海部の道が、ここにはっきりと姿を現わした。 おそらくこの道はさらに北上し、現在の太平洋側の潜水漁の北限といわれる東北の三陸あたりまで達すると考えられる。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 2 列島と西方地域の交流》P.47〜48)


     阿波の海部郡には海女がいまも生活しているが、宮本常一氏は阿波の海女が大正時代に済州島に稼ぎにいくようになってから、そこの海女にならってサルマタをはくようになったといっており(宮本常一「海人ものがたり」『中村由信写真集 海女』解説、マリン企画、一九七八年)、さきの金・梁氏の著書によると、チャムスたちの着るソジョンギというパンツを日本人海女もはいていたとある。 「海部」の道はここでもまた生きており生活に結びついた習俗までが交流していたのである。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 2 列島と西方地域の交流》P.51)


     しかし「海部」の道は、瀬戸内海、太平洋だけではなかった。 隠岐(おき)に海士郡があり、佐渡にも海府(かいふ)という地名が残っているが、これは日本海を東進、北上した海部の動きを示すものと見てよかろう。 事実、江戸初期といわれるが筑前鐘崎(ちくぜんかねざき)の海女が能登の舳倉(へぐら)島に移住しているように、海女を含む海民の移動は、日本海でも活発で、潜水漁も各地に分布し、その北限は男鹿(おが)半島に達するといわれている。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 2 列島と西方地域の交流》P.51)


     交易民としてのアイヌ
     アジア大陸の北東部と本州以南の列島との交流が、西方のそれに比べて従来ほとんど注目されてこなかった最大の理由は、サハリン・北海道の主な住民であったアイヌの役割に対する極端なほどの過小評価にあり、それは純縄文人擦文人にまで遡っていいうることである。 しかし最近では、その文化の影響は東北最北部にまでは確実に及び、十、十一世紀ごろまでなお、日本国の外にあった東北最北部と北海道南部との間に、深い関わりがあったと考えられているが、十二世紀から十三世紀にかけて、擦文文化とオホーツク文化の康正の中でアイヌ文化が形成されてからのアイヌの活動は北海道からサハリンに及び、きわめて活発だったことがあきらかになってきた。 これについては本シリーズの中でくわしく言及さけると思うが、ほとんど農業を行わず、文字も知らないがゆえに、まったく遅れた未開な人々という従来のアイヌに対する評価が、前にのべたような農工業の発展にもっぱら社会の”進歩”、文明化を求めてきた、いわゆる”進歩史観”による重大な偏見であったことは間違いない。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 3 列島の北方・南方との交流》P.55〜56)


     活気あふれる交易民だったとされるアイヌは、北はサハリンからアムール川の上流、南は東北北部にわたって、船によりつつ、交易活動を展開し、自らの生活に必要な物資を入手するとともに、北の物品を南に、南の物資を北にもたらした。 それはさきにふれた日本海・太平洋の海民の道を通じて展開された列島側の廻船人(かいせんにん)の海上活動と結びつき、平安末期から中世にかけて、北方の産物の列島への流入に大きな役割を果したのである。 これについても別に言及されると思うので、ここでは立ち入らないが、一例だけあげると、昆布はすでに古く「調」として都に送られていたが、この時期になると交易によって大量に列島各地に流入しており、十四世紀までに若狭はもとより、備中(びっちゅう)の山中の新見荘(にいみのしょう)の市庭(いちば)でも、酒の肴(さかな)として昆布が購入できるほどになっていた
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 3 列島の北方・南方との交流》P.56)


     南方世界との交流

     こうした南方との交流が琉球を媒介にして東南アジアに及んだことは、これまた周知のように十五世紀初頭、スマトラ島のパレンバンの船が「南蛮船」といわれ、若狭の小浜や南薩摩の海岸(柏津)に、象やオウムなどを積んでしばしば来航し、「日本国王」室町将軍と公的に交易しようとしている事実を通しても知ることができる。 このような交流がかなり日常的であったことは、タイの焼物が能登沖から引き上げられ、安南銭(あんなんせん)が伊予(いよ)の二神(ふたがみ)島の二神家から見出された点からも推測されるが、南西諸島を媒介とした南方との交流の実態は、まだまだ究明されるべき余地を広く残しているといえよう。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 3 列島の北方・南方との交流》P.62)


     東と西の違い
     野菜の研究者青葉高氏はその著書『野菜』(法政大学出版局、一九八一年)の中で、とくにカブの品種とその地理的分布について詳細に追究し、洋種系品種が列島東部に、和種系新種が列島西部に分布していることをあきらかにした。 そして青葉氏は前者が東北アジアから列島に入ってきたのに対し、後者は中国大陸から朝鮮半島を経て列島西部に入ってきたという仮説を提示し、その分布が大野晋氏の提示した「東部方言」と「西部方言」の地域(大野晋『日本語の起源』岩波書店、一九五七年)とほぼ一致するという、きわめて興味深い指摘をしている。
     これは、水田耕作以前の畑作農耕のあり方を追究している佐々木高明氏が、列島西部の照葉樹林(しょうようじゅりん)地帯に、アワ・ヒエ・ソバなどの雑穀類を主とし、それにイモ類の加わった畑作農耕が展開しているのに対し、列島東部のナラ林帯には、アワ・キビなどの雑穀類やムギ類を主作物とする畑作と牧馬(ぼくば)の慣行が結びついた独特の畑作文化が生み出されたとするのにも照応している
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 5 列島社会の地域的差異》P.72〜73)


     佐々木氏はこうした畠作農耕の列島への伝来の経路として、@朝鮮半島を経由し九州に至るルート、A沿海州から直接日本海を横断するルート、B沿海州からサハリンを経由し北海道に至るルートがありうるとし、前者を@、後者をAとしつつも、Bもありうるとしているのである(佐々木高明「畑作文化と稲作文化」前掲『日本列島と人類社会』)。
     そしてこれはやがて、稲作が広く根を下した列島西部に対し、畑作・牧馬の伝統が強く残る東部という差異になっていくと、佐々木氏は説いているが、これは後述する中世の荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)の年貢にみられる東西の違いにまで及ぶ、きわめて根深い差異であった。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 5 列島社会の地域的差異》P.73)


     前にのべた「穢(けがれ)」に対する対処の違いは、最も基本的な差異であるが、最近、江守五夫氏は『婚姻の民俗』(吉川弘文館、一九九八年)で、日本列島に見出される二つの婚姻の習俗−−婚姻の初めの一時期に夫妻が別居し、この間は夫妻の一方が他方を訪問することによって夫婦生活を営み、その期間の過ぎたのちに夫が妻の家に引き移る、いわゆる「婿入婚(むこいりこん)」、江守氏のいう《一時的訪婚》と、多くの場合、家長の意思によって婚姻の相手がきめられ、家長の委託をうけた仲人がその選択に関わり、婚姻とともに妻が夫の家に入る《嫁入婚(よめいりこん)》の習俗について、その実態、分布、東アジアの諸地域との関係などを詳細に追究した。 そして前者は若者組や娘組などが婚前交遊の機会を保証するとともに、年齢階梯制が形成されているのに対し、後者は家長の意思が婚姻を左右する家父長制的な家族が前面に現われる、と江守氏は指摘する。 また親族のあり方として、前者は婚戚をも含む双系(そうけい)的な範囲で親族の交際が営まれるのに対して、後者では父系親族集団、いわゆる同族が組織される、としている。
     そのうえで江守氏は、この一時的訪婚は中国大陸南部、長江以南からインドシナ方面にかけての南方系の習俗と関わりがあるのに対し、嫁入婚は中国大陸北部、シベリア東北部の諸民族の習俗と密接に関係するとしているが、前者がおおよそ列島西部、後者が列島東部に分布していることは、これまでの民俗学(例えば宮本常一氏)、あるいは社会学(有賀喜左衛門氏)の研究によって、すでにあきらかにされている通りである。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 5 列島社会の地域的差異》P.74〜75)


     このように、海をこえた列島外の諸地域との交流を通じて、列島内部に社会の構造、生活のあり方にまで及ぶ、たやすく融合し難い差異が生じていたと考えなくてはならない。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 5 列島社会の地域的差異》P.75)


     北と南、太平洋と日本海
     藤本強氏は『もう二つの日本文化』(東京大学出版会、一九八八年)というきわめてユニークな著書で、従来の”常識”のように「日本文化」を一つときめこむことの誤りを指摘し、本州・四国・九州の「中の日本文化」に対し、北海道の「北の文化」、南島の「南の文化」を「もう二つの日本文化」ととらえることを主張し、そのそれぞれの実態を浮彫りにしている。 藤本氏はさらに、「中の文化」と南北の文化との接点、南は南九州・薩南諸島、北は東北北部・渡島半島を「ボカシ」の地域とらえているが、これもきわめて注目すべき見方といってよかろう。
    (《第二章 アジア大陸東辺の懸け橋−−日本列島の実像 5 列島社会の地域的差異》P.76)


     倭人は日本人ではない
     敗戦後の歴史教育を通じて、倭(わ)は日本であり、倭人は日本人であるとする理解は、ひろく日本国民の中に、完全に定着した。 倭人=「日本人」が文献にはじめて現われるのは『漢書(かんじょ)』地理志の「楽浪海中(らくろうかいちゅう)に倭人あり、分れて百余国をなす」という記事であることは、日本史を学んだ高校生なら誰でも知っているし、現行の中学の歴史教科書でも「紀元前一世紀ごろ、倭(日本)に小さな国がたくさんあった」と中国の歴史書に書かれていた、と記述されている。 この教科書は「縄文時代の日本」「弥生時代の日本」という大項目を立て、後者の小項目「むらから国へ」の中でこの記述をしているのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.79)


     日本だけではない。 韓国・朝鮮においても倭は日本と解されている。 「倭奴」は日本人を侮蔑し見下げたときの表現であり、日本人による朝鮮半島の人々に対する暴虐として「倭寇(わこう)・壬辰倭乱(じんしんわらん)・日帝三十六年」をあげるのは、いまも韓国では常識であろう。 私も韓国に行ったときこうした批判を耳にした。
     しかし私は豊臣秀吉によって行われた二回にわたる日本国の朝鮮侵略、「大日本帝国」が朝鮮半島を植民地とし、朝鮮民族の日本人化を強要したことについては、一言の弁明もなく頭を下げるが、「倭寇」をこれに加えることについては、事実に反するとして承服しない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.79〜80)


     
     すでに田中健夫氏(「倭寇と東アジア通行圏」『日本の社会史 第1巻 列島内外の交通と国家』岩波書店、一九八七年)、村井章介氏(『中世日本の内と外』筑摩書房、一九九九年/『海から見た戦国日本』筑摩書房、一九九七年)、高橋公明氏(「中世東アジア海域における海民と交流−−済州島を中心として」『名古屋大学文学部研究論集』史学三三、一九八七年)などによって詳細に実証されているように、「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった前期倭寇には朝鮮半島の「禾尺(かしゃく)才人(さいじん)」といわれた賎民(せんみん)も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったといわれている。 そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海で独自な秩序を持って活動していたのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.80)


     実際、日本国の政府−−室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしておらず、東日本の人々は「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。 そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府とともに、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
     このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけっして日本人と同じではない。 それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、まったくの誤りといわなくてはならない
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.80〜81)


     ここで再三のくり返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。 「日本」が地名ではなく、特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前−−国号である以上、これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。 「聖徳太子」とのちによばれた厩戸王子(うまやどのみこ)は「倭人」であり、日本人ではないのであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.82)


     近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人となることを権力によって強要されたのである
     「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のべるが、日本人について、これまで「民族」人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてきたと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々という意味で用い続けたいと思う。
     そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.82)


     倭国から日本国への国名変更

     それを私流に要約すれば、「日本」という国号は、七世紀初頭の遣隋使の持参した倭王の国書の「日出(ひい)づる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す。 恙無(つつがな)きや」という文言に端的に見られるような、隋の冊封(さくほう)を受けない姿勢の延長線上にあり、後述する天皇の称号とともに、小さいながら唐帝国に対して自立した帝国であることを明示しようとした国号、王朝名であった
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.85)


     そして周(唐)の役人によって、国名の変更について質問を受け、使者たちは「日本国は倭国の別種」、または「倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」、あるいは「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」(『旧唐書』)などと答えたようにみえるが、則天武后はこの国名を認めた。 以後、中国大陸の王朝の正史はそれまでの「倭人伝」「倭国伝」ではなく「日本伝」とするようになる。 こうして「日本」という国号は東アジアにおいて、公式に認められたといってよい。そのころ則天武后は「唐」を「周」に改めていた。 もしもヤマトの支配者がそのことを知り、絶好の機会と見て、自らの国号変更を承認させたのだとすれば、これはなかなかの政治感覚ということもできよう
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.87〜88)


     なぜ「日出づる国」なのか
     しかしこの国号は、西郷信綱氏や吉田孝氏の指摘する通り、太陽神信仰、東の方向をよしとする志向を背景としており、中国大陸を強烈に意識した国号であることは間違いない。「日本」は「日の本」、東の日の出るところ「日出づる処」を意味しているが、いうまでもなくそれは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当ることになる
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.88)


     その中で江戸時代後期、この国号を「大嫌い」といった国家神道家が現われた。 幕末、尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)によって知られた水戸学者東湖(とうこ)の父藤田幽谷(ふじたゆうこく)の書簡に、「日本国号」について近ごろさかんに議論があることにふれた一通があり、その中に「一種の国家神道を張」る「会津士人佐藤忠満」の「一奇談」として「日本の号ハ唐人より呼候(よびそうろう)を、其(その)まゝ此方にて唐人へ対候て称する所のみ」と主張する佐藤が「国号を申候事、大嫌之様子」と記されている。 幽谷はこれに対し、佐藤のいう通りだが、唐人から呼ぶなら「日下(×)」というだろうが、「日本(×)」の字を用いた点に「倭人」らしさが見えるから、この国号は「此方」で建てたことは間違いないと答えたが、これは佐藤の方が筋が通っており、幽谷の答えはこじつけといえよう(この書簡については長山靖生氏に教えていただいた)。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.88)


     このように、後年の「国粋主義」につながる人が「日本」という国号を「大嫌い」といっており、それはそれなりに筋が通っている。一九九六年、NHKの人間大学で「日本史再考」というテーマで放送したとき、かつて一部の支配者がきめたこの国号は、われわれ国民の総意で変えることができるとのべたところ、「日本が嫌いなら日本からでてゆけ」という警告のはがき、手紙をいただいた。 しかしこうした立場に立つ人々こそ、さきの「国家神道家」の「筋の通った」主張を継承し、「日本」を「大嫌い」というべきであろうし、中国大陸側に視点を置いたこの国号など、ただちに変更すべしという運動をおこされるのが当然だと思う。 私自身は、本書のように、千三百年続いたこの「日本」の徹底的総括を不可欠の課題と考えているので、もとよりそうした運動にただちに与(くみ)するつもりはないが。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.88〜89)


     大王から天皇へ

     対外的呼称としての「日本」
     「日本」という国号が、対外的な呼称として、中国大陸・朝鮮半島の諸国家に対する日本列島のヤマトを中心とする国家によって、公的な文書、外交文書にも用いられたことは、すでに指摘された通りであるが、これは平安時代以降も同様であった。
     たとえば唐に入った最澄(さいちょう)に与えられた唐の明州の過書(かしょ)(貞元二十〈八〇四〉年九月十二日)には「日本国求法僧(ぐほうそう)最澄」と記され、円珍(えんちん)も入唐にさいしての牒(ちょう)(大中七〈八五三〉年九月)に「日本国求法僧円珍」と名乗っている
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.92)


     鎌倉時代になってもそれは同様で『吾妻鑑(あづまかがみ)』の安貞(あんてい)元(一二二七)年五月十四日条に引用された高麗国の牒状は「日本国惣官大宰府(にほんこくそうかんだざいふ)」に宛てられていた。 またこうした公的な外交文書だけでなく、建久(けんきゅう)四(一一九三)年六月の東大寺三綱等陳状(さんごうとうちんじょう)で、宋人陳名卿(ちんなけい)について「抑(そもそも)名卿、大宋の旧境を辞し、日本の浪人となる」(「東大寺文書」)といわれ、寛喜(かんぎ)二(一二三〇)年四月二十日の太政官牒(だじょうかんちょう)に「百済国(くだらこく)の皇后、壮年にして白髪の病あり、而して日本国の勝尾寺(かつおじ)を祈る」(「勝尾寺文書」)とあるように、異国や異国人と対照される場合、「日本」が用いられている。 このころ、こうした場合、「和州」「和国」の用いられることもあり、「日本」と「大和」との関係を考えるさいに注目しておく必要があるが、『今昔物語集』のような説話集における「日本」の用例も、やはり唐、震旦(しんたん)、天竺(てんじく)などの異国と対照させた用法が多い
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.92〜93)


     ただその中で注目すべきは、いったん、死んで蘇った僧が、閻魔王(えんまおう)によって「閻浮堤日本国」で行基(ぎょうき)をねたみ、にくんだとしてきびしく叱責されていること(卷第十一第二)、あるいは捕えられた小蛇を救った男が、蛇によって龍王(りゅうおう)の宮(みや)に案内されたとき、龍王が「日本は人の心悪しくして持(たも)ちたまわむこと難し」といって、「金の餅」を箱に入れて与えている話(卷第十六第十五)によって知られるように、閻魔王や龍王のような、いわば「異界(いかい)」の側からも「日本」といわれている点である
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.93)


     これは寛弘(かんこう)四(一〇〇七)年八月十一日の奈良県金峰神社(きんぷじんじゃ)の経筒銘(きょうづつめい)に「南瞻部洲(なんせんぶしゅう)大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長(さだいじんしょうにいふじわらのあそみみちなが)」とあるのをはじめ、大治(たいじ)元(一一二六)年十月十二日の徳島県大山寺の経筒銘に「閻浮堤日本国阿洲於大山寺」とみえるなど、「平安遺文(へいあんいぶん)」金石文編に収められた、多くの経筒の銘文にこうした用例が頻出する事実に通じている。土中に埋められ、仏に捧げられる経筒は、まさしく「異界」、仏の世界に関わるものであったがゆえに、「日本」という国号を名のる必要があったのである
    (《第三章 列島社会と「日本国」 1 「倭国」から「日本国」へ》P.93)


     不可分の「天皇」と「日本」
     変動する天皇の「代数」

     2 「日本国」とその国制

     成立当初の「日本国」の領域

     しかし、「倭国」の国名を変更した「日本国」は、八世紀初頭になると、北陸北部の越後、東北南部の陸奥(むつ)に軍勢を派遣、東北の侵略を本格的に開始した。 そして越後の北部と陸奥の西部を割(さ)いて、東北の日本海側に出羽国を建て、「蝦夷」−−東北人を圧迫しつつ国境をしだいに北上させる一方、南島の人々、多●(たね)(●:衣偏に〈執〉の類字)夜久(やく)菴美(あまみ)度感(とかん)などを朝貢させるとともに、南九州の「隼人(はやと)」と呼ばれた人々も軍事力を背景に支配下に入れ、八世紀初冬には薩摩(さつま)・大隈(おおすみ)両国を置き、国郡制を一応、及ぼしている
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.100)


     この「日本国」の圧力に対し、東北人も南九州人もただちには屈伏せず抵抗し、「蝦夷」「隼人」のいわゆる「叛乱」がおこっているが、「隼人」については比較的早く沈静化し、八世紀末には班田制が実施され、南九州は「日本国」の国制の下に入った
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.100)


     これに対し、東北人は「日本国」の侵略に頑強に抵抗し続け、たやすく屈伏しようとしなかった。 「日本国」は一時期、東北南部に石城(いわき)石背(いわしろ)両国を建てているが、神亀(じんき)元(七二四)年に多賀城を設置、ここに陸奥国府を置いてさきの両国を陸奥に吸収し、桃生(ものう)秋田柵(さく)を設けて、北への圧力を強めた。 しかしこれに反発した東北人は宝亀(ほうき)五(七七四)年、桃生城を攻撃し、ここに近年、古代史研究者によって「三十八年戦争」といわれている、長期に及んだ東北人と「日本国」との戦争が始まった
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.100)


     「蝦夷」−−東北人は胆沢城を攻め、多賀城を焼いたのに対し、八世紀末の天皇桓武(かんむ)は本格的に大軍を派遣するが大敗を喫したため、さらに十万の軍勢を投入して志波城(しわじょう)を築き、国境をさらに北に進めようとした。 しかし東北人の粘り強い抵抗に阻まれ、「日本国」はついに東北最北部を支配下に置くことのできないままに、東北人と妥協し、九世紀初頭、桓武は「軍事」−−東北侵略を止めざるをえなかったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.100〜101)


     その結果、奥六郡・山北(せんぽく)三郡は、一応、「日本国」の国制の下に入ったが、事実上、東北人の自治区−−「俘囚(ふしゅう)の地」であり、東北の最北部、現在の岩手・秋田の北部から下北・津軽にかけての地には国郡制が及ばず、「日本国」の外にあり、むしろこの地域は北海道南部、渡島(おしま)と深く結びついていた
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.101)


     「日本国」による「侵略」と「征服」
     ただ、われわれがけっして見落としてならないのは「日本」を国号とし「天皇」を王の称号と定めた国家、「日本国」は、その出発点からこのように「帝国主義」的、侵略的な一面を持っていた事実である。 もとよりこれは、古代の国家の一つのタイプであり、たとえば中国大陸の秦・漢から随・唐にいたる大帝国、ペルシャ帝国、ローマ帝国、さらに南米のインカ帝国など中央集権的な古代国家に共通して見られる特質で、この「侵略」「征服」によって、「文明」が「未開」な地域に拡大した側面のあることも間違いない
     とはいえそれは、征服者の側のとらえ方であり、「未開」とされ、侵略、征服された側から見れば、これは自らの独自な秩序、社会に対する、軍事力を背景とした力による圧制であったことを、明確に確認しておく必要がある
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.102)


     十五、六年前、ある著名な洋酒会社の社長が、テレビの首都移転問題の討論で、仙台が名のりをあげたのに対し、「あのような熊襲(くまそ)の住んでいる未開なところに、首都を遷(うつせ)るものか」という趣旨の発言をして大変な物議をかもしたことがある。これはまさしく、かつての征服者の流れをくむ関西人の発言であり、関東人、東北人、中南部九州人は口がさけてもこのようなことは言わないであろう
     あろうことに、この社長は「熊襲」と「蝦夷(えみし)」を間違っている。 それは九州・東北をそれぞれに強烈な反発をまきおこしたが、この直後、東北に旅をした私は東北人の怒りを直接、経験した。 一生この洋酒会社のウイスキーは口にしないといった友人はいまもそれを守っているし、この会社の商品の売行はがた落ちだったと聞いている。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.102〜103)


     国郡制と「日本国」

     人為的な直線道路「七道」

     けっして見逃してはならないのは、この直線的な道路の造成が、なにより軍事的な目的を持っていた点で、不安定な船による水上交通を忌避し、迅速に人員や物資を輸送、移動させるためにこうした道が作られた。 東方への道は東北に対する侵略、東北人−−「蝦夷」との戦争のためであり、西方への道は新羅との戦争、朝鮮半島への侵攻を前提としていたとみなさなくてはならない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.107〜108)


     もとより社会の実態の中では、河海の交通や古くからの生活の道も用いられており、このきわめて不自然で実態を無視した「日本国」の人為的道路に対し、早くも八世紀前半、重量ある貢納物の海上輸送を認めるなどの例外規定が現われ、道路自体も平安時代に入るころには道幅も六メートルに狭まるなど、荒廃が顕著になり、九世紀には河海の交通が官人の往来にも用いられ、直線的な七道の制度は百年も保ちえなかったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.108)


     戸籍の作成

     戸籍の制度もその一つということができる。 「日本国」には後述する班田制(はんでんせい)を実現するために、六年に一度、その支配下に入った人民のすべての氏名(うじな)姓(かばね)実名を記載した戸籍を作成し、調(ちょう)・庸(よう)などの課役賦課(かやくふか)の台帳として、性別、年齢、一人ひとりの身体的特徴までを書き上げた計帳(けいちょう)を毎年、作ったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.109)


     これは里長(りちょう)(郷長)などが書き記し、国ごとにまとめて郡の政府に送られたが、いま残っている最古の戸籍、大宝(たいほう)二(七〇二)年の戸籍を見ると、じつに見事な、きちんとした文字で書かれており、この時期、文字がすでに里長クラスの人々にまで及んでいたこと、これらの人々の文字に対する緊張した生真面目な姿勢をよくうかがうことができる。 この国家がこの戸籍・計帳をはじめ、国家機構の運営に徹底した「文書主義」を採用したことが、その背景にあることはあきらかで、後述するように文字は列島の場合、上から下に浸透していったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.109〜110)


     そして中世においては、戸籍に当る帳簿は作成されず、江戸時代になると宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)の形式で戸籍に相当する帳簿が全国的に作られた。 古代の戸籍の影響はここにも見られるが、明治になって壬申戸籍(じんしんこせき)以降、戸籍の制度は完全に復活し、敗戦によっても大きな変更を蒙(こうむ)るとなく現在にいたっている。 明治以後は天皇家を除く全人民について、これまでの氏名・苗字にあたる姓と実名とが記載されることになり、叙位のときに氏名を用いることも行われなくなったとはいえ、敗戦前、「大和民族」の全人民は天皇の子孫といわれたように、氏名・姓を天皇が与えた「日本国」の当初の制度が、ここにもなお潜在的に生きているといわざるをえない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.111)


     家父長制を支えた戸籍制度
     この戸籍の制度は、本来、中国大陸の制度を「日本国」が受容したのであり、大陸や朝鮮半島の諸国家も、それぞれ戸籍を用いていたが、近代の「大日本帝国」は植民地とした台湾・朝鮮半島にさきの戸籍制度を強制的に及ぼしており、現在も韓国・台湾では戸籍がよく機能していると聞いている。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.111〜112)


     しかしこうした戸籍の存在は、世界の諸国の中でかなり特異であることについても、日本人は余り自覚的ではないのではなかろうか。 短大に勤務していたとき、学生に質問したところ、多くは世界の諸国にみな戸籍があると思いこんでいることを知って驚いたことがあるが、現在、テレビにしばしば登場する「入籍」などということは、戸籍を持たない国民にはまったく理解し難いであろうし、夫婦別姓を制度化するうえでの最大の難関は、戸籍の制度なのではなかろうか。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.112)


     そして、明治以後、敗戦までの戸籍は、家族制度の支えであり、現在も夫婦別姓は家族制度を崩壊させるなどといわれるように、戸籍は敗戦前までは間違いなく家父長的な家族を制度化していた。 それはいまも潜在的に行きつづけているといえるが、その出発点こそ、まさしく「日本国」の当初の戸籍制度だったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.112)


     この国家は唐の制度にならって、戸や相続の制度については基本的に家父長制を貫徹させている。 戸籍の作成に当っては五十戸一里(郷)の制度に合わせるために、さまざまな操作が加えられていて、家族の実態をそのまま示していないが、家長に当る戸主(こしゅ)は基本的に男性であり、父系の嫡々相承(ちゃくちゃくそうしょう)の原則がたてられていた
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.112)


     双系制の実態と父系制の建前

     天皇家に「帰一」する「系図」の危険性

     水田を基礎とした税制

     しかしそこまで水田は不足していたのである。 このころ政府はしきりに陸田(りくでん)−−畠地の開発を奨励し、これによって水田の不足を補う一方、百万町歩開墾令を止めた養老七(七二三)年には三世一身法(さんぜいっしんのほう)、さらに天平十五(七四三)年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発し、地域の有力者の開発意欲を促して、水田の増加をはからざるをえなかったのは、そのことをよく物語っているが、少なくとも八世紀前半の「日本国」の政府は、この制度をその規定通りに実施しようという、強烈な意思を持っていたことも間違いない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.118〜119)


     天平元(七二九)年、藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の子供の領導(りょうどう)する政府の実施した班田は、口分田(くぶんでん)をすべて収めたうえであらためて班給するという徹底したもので、下級の官人の中に自殺者を出すほどの酷烈さを持っていたと思われる。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.119)


     また神亀(じんき)二(七二五)年、海民の国志摩の口分田を尾張・伊勢に与えることにしているのも、もっぱら海に生きる海民にも水田を与え、これを「農民」として制度の中に組み入れようとする国家の強い意志がよく現われているといえよう(弥永貞三『日本古代社会経済史研究』岩波書店、一九八〇年)。しかし、無理はやはり無理である。いかに海の世界では伊勢湾を通じて密接に結びついているとはいえ、尾張の水田を志摩の海民が耕作しつづけることなど、できるはずがない。おそらくこの水田は賃租(ちんそ)に出され、志摩の百姓の手から離れ、百姓は海民としての生活を変えることなく展開、発展させていったに相違ない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.119)


     成年男子の負担する調・庸

     天皇の二つの顔−−帝国の首長と神聖王
     しかしこうした律令に規定された、水田を基礎とする税制とは別に、天皇に海の幸、山の幸の初尾(はつお)を捧げる贄(にえ)の制度のあったことも、見落としてはならない。 これについては、律令に規定されていないため、従来、あまり注目されていなかったが、藤原宮跡平城宮跡などから出土した大量の木簡に、予想をはるかにこえる多くの海産物等の贄の付札(つけふだ)が見出され、都に膨大な海産物が送られていたことがあきらかにされてから、にわかに注目されるようになってきた。 また、諸国から天皇家に貢進される栗、胡桃(くるみ)、梨(なし)、椎(しい)、柑(こうじ)、楊梅(やまもも)等々の菓子も注目すべきで、縄文時代以来の樹木の文化、山の幸もまたけっして見逃してはなるまい
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.123〜124)


     これについても、若干後述し、また本シリーズの該当の巻で詳述されるであろうから、ここでは立ち入らないが、本来は神に捧げられる山野河海の収穫物の初尾である贄が天皇に進められていることは、天皇が律令制とし、水田を基盤とする中国大陸風の帝国としての「日本国」の首長という一面とともに、太陽神を祖先とする神の子孫であり、自らも神の子として人民に臨む”神聖王”としての側面を持っていたことをよく物語っている。 これはインカ帝国のインカやアフリカの王国の王などと比較する必要のある側面であり、天皇は”無主(むしゅ)”の山野河海、境界領域を支配し、そこを生活の舞台とする人々、海民や山民、のちには遍歴する商人を直属させる神聖な存在であったのである。
     こうした天皇の顔は、水田を基礎とする国家の首長、いわば「稲の王」としての顔とともに、中世の天皇も持ち続けたといってよかろう(拙著『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、一九八四年)。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 2 「日本国」とその国制》P.124)


     3 「日本国」と列島の諸地域

     内海と半島、山と川
     自立を志向する「東国」
     「日本国」の枠をこえる「西国」
     東北の自立した政治勢力
     南方の新たな激動
     東西に分裂する「日本国」
     「東国の王権」としての頼朝
     広域地域呼称の成立−−「関東」の確立
     東国に視点を置いた「関西」の呼称
     「東国」「西国」とその範囲
     広域的地域呼称の成立−−九州・四国
     地域呼称「北国」「奥羽」の成立
     地域呼称「中国」の成立
     分裂する「日本国」
     分立する小国家  「日本国」再統一と「海禁」

     4 列島諸地域の差異

     荘園公領制の東と西


     横の連帯の西国、縦の主従関係の東国

     このような東国と西国における人と人との関係のあり方に見られる差異が、先述した民俗学の研究によってあきらかにされている東日本の同族結合、西日本の年齢階梯制のような村落、家族の形態の差異を根底に持っていることは、推定しておそらく大きな誤りはあるまい。 そしてそうした社会自体の差異が、荘園・公領の存在形態の違いの基盤にあると考えることもできよう。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.170)


     「年貢は米」の誤り
     もう一つ、中世の東国と西国の差異、地域の個性をくっきりと浮かび上らせてくれるものは荘園・公領の年貢である。比較的最近まで、高校の教科書などに荘園の年貢は米で、山野河海の産物や手工業製品が公事とされていたという記述が見られたが、この「通説」がまったくの思いこみによる誤り、虚偽であったことは、すでに明白になっている。 荘園・公領の年貢は、その地域の特産物、「土産(どさん)」といわれるきわめて多様な物品であった。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.170〜171)


     そして伊予国弓削島荘において、田地・畠地から収穫される米・麦が、「塩手米(しおでまい)」「塩手麦」として百姓たちに渡され、それに相当する塩を、期日を定めて納めるという契約が文書によって結ばれていることからあきらかなように、米と非水田的生産物との交易によって、多様な特産物が年貢とされていた
     それゆえ、荘園と公領制はその制度自体に交易を内包し、それを前提として成立していたのであるが、水田を中心とした「日本国」の制度がその実態をおおいかくし、「自給自足経済」「米年貢」という虚像が広く世に行われるという誤りを生み出したといわなくてはならない(拙著『日本中世の民衆像』岩波書店、一九八〇年/同上『日本中世の百姓と職能民』平凡社、一九九八年)。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.174)


     貨幣の東と西
     しかし社会の実態に即してみると、年貢の徴収が交易を前提としているだけでなく、近年の考古学の発掘成果が物語っているように、さまざまな物資の流通・交易は活発に行われており、いわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」の流通が見られなくなった平安時代後期以降にも、米や絹・布が交換手段となり、また「准米(じゅんまい)」「准絹(じゅんけん)」「准布(じゅんぷ)」のように価値尺度となるなど、貨幣として流通していたのであり、そしてこの場合も、東は絹・布、西は米であった。 それゆえ、絹や布、米は、けっして単なる衣料や食料として生産されただけではなかった。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.174)


     神仏に直属する西国の職能民−−神人・供御人制
     このように、十五、六世紀の「日本国」の社会は、きわめて活発な商品・貨幣流通の展開する社会であったが、十二、三世紀の荘園公領制の形成期についても、前述したように年貢納入に当って交易が前提とされ、米や絹・布が流通手段となっていたことからも知られるように、けっして自給自足の社会などではなかった。 後述するように、百姓たちの営む多様な生業を背景として、市庭(いちば)における交易も活発であり、そこにはさまざまな職能民が自らの製品をはじめ、多くの商品を持って訪れていたが、こうした手工業者・商人・芸能民などの専業の職能民のあり方、これに対する国家の制度もまた、東国と西国では大きく異っていたのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.176〜177)


     このほか、瀬戸内海から太平洋沿岸の「海の領主」や商人・金融業者が熊野神人、伊勢神人となって活動しているのをはじめ、京都を中心に綿商人小袖(こそで)商人などの女性の商人が祇園社神人となり、大阪湾の海民集団が春日社神人になるなど、畿内・西国の有力な神社・寺院は多種多様の職能民を神人(じにん)・寄人(よりうど)として組織しており、こうした事例は文字通り枚挙にいとまないといってよい。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.179)


     世俗的な立場にある東国の職能民


     神仏のとらえ方の東と西

     このように、太平洋交通の要津鎌倉に根拠を置いた東国の王権、将軍を首長とする鎌倉幕府は、西国の王権、天皇を首長とする王朝とは異なる宗教と結びつき、東国社会独自の神に対する信仰を背景に、独自な神々の体系を形成していた。 東国の王となった頼朝が行った各地の山野での大規模な巻狩(まきがり)によっても知られるように、狩猟を通じての山野の神々との交渉も、西国と異質なあり方と見てよかろうが、こうした狩猟と深い関わりのある日光山も、東国の王権と早くから結びつきを持っていた
     その関係は執権北条氏のころから明確になってくるが、室町時代に入り、鎌倉公方(くぼう)はさらに日光山との関わりを強め、永享(えいきょう)十(一四三八)年の永享の乱のさい、公方持氏の子供安王・春王は日光山に入ってその生命を保った。 聖地日光山はアジールだったのであり、十五世紀後半以降、東国に頻々と現れる異元号延徳福徳なども、日光と密接な関係があるといわれているのである
     そして日光と東国の王権との不可分の結びつきが明確に制度化されたのが、江戸を首都と定めた徳川家康以降の江戸幕府であったことはあらためていうまでもない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.185)


     東国の都−−「未開な後進地東国」の誤り
     「被差別部落」の東と西の差異


     東国の被差別民の実状

     これは幼いころからさまざまな深刻な体験をしている西日本の人たちにとっては信じ難いことであろうが、紛れもない事実であり、これほどの差異が現代日本人の中にあることを、われわれは明確に認識しておく必要がある。 もとよりこうした違いはあれ、江戸時代に「日本国」の国制の下にあった地域には、濃淡はあれ、すべて被差別民が存在するが、前近代まで「日本国」の外にあった沖縄、アイヌには被差別部落は存在しない
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.192)


     またこれまで、このような差異を「先進」「後進」の違いと考え、「社会的分業の未発達」な遅れた東日本には、被差別部落の発生する余地すらないとする見方があったが、それがまったくの誤りであることは、さまざまな問題に即して前述した通りで、この違いは社会自体の体質の差異に起因すると考えなくてはならない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.192)


     職能特権の起源の東と西

     また、かつて蔵人所(くろうどどころ)燈炉供御人といわれた各地の鋳物師が、近衛天皇のときの仁平(にんぴょう)年中に、天皇の病気の原因となった悪風(あくふう)」が吹いても消えることの無い鉄燈炉を献上したことに、その特権の起源があるとした由緒書を蔵人所小舎人(こどねり)、御蔵(おくら)の職を世襲する真継(まつぎ)家から与えられ、諸国の轆轤師(ろくろし)−−木地(きじ)屋が文徳天皇の皇子惟喬親王(これたかしんのう)に轆轤を使う職能の淵源を求めた由緒書を所持していることは、周知の通りである
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.195)


     「自由の象徴」と「差別・賎視」

     「斉一な日本民族」の虚像

     「日本人」、日本列島の社会を均質、斉一とし、「日本民族は単一民族」ときめこむ誤りに陥ることなく、こうした諸地域の個性的な歴史をあきらかにする地域誌研究を推進することは、今後、歴史学が真に社会の中に根を下し、その未来に寄与する学問となるための必須の課題であるが、これまでのべてきたように、平安後期以降、十六世紀にいたるまでの列島社会の歩みは、「日本国」の姿自体が明確でないほどに多様かつ流動的であり、列島外の動きとの関わりで「日本国」が分裂し、胡散霧消する可能性もけっしてなかったわけではない
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.199〜200)


     実際、モンゴルの襲来をはじめとするアジア大陸でおこった激動が、もしも長期にわたって直接日本列島に及ぶことがあれば、王朝の交替、国名の変更が現実化していたことも十分考えられるアジア・太平洋戦争での敗戦後、もしも北海道、九州、あるいは東日本と西日本などが分割占領され、冷戦下で朝鮮半島の様にそれが五十年以上続くことになれば、この列島に二つ以上の国家はもとより、言語・文化も異なる二つ以上の「民族」の形成される可能性も、けっしてないとはいえない列島内部の地域差はそのくらいの言語や生活文化に及ぶ深刻さを持っていることを、われわれは十分に知っておかなくてはならない。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.200)


     そうした事態が現在まで現実化しなかった理由には、さまざまな偶然の作用していることを考えておく必要があるが、海という柔らかな障壁が周辺地域の政治的激動に対する緩衝の役割を果たしたことは間違いないといえよう。 しかしそれだけでなく「日本国」の成立後、その国制とともに社会の中に、日本人意識」とでもいうべき意識が、虚像をもふくめて形成され、社会に広く拡がり浸透していたことが、分裂の要因をはらむ社会の再統一に当って、これを支える基盤となったことは否定し難い。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 4 列島諸地域の差異》P.200)


     5 「日本・日本人意識」の形成

     異国・異界に対する自己認識

     なかでも最も事例の多いのは、神仏に対してなにごとかを宣誓する起請文(きしょうもん)の末尾に付され、宣誓の内容に誤りはなく、もしそれが破られた場合にはたちどころにきびしい神罰・仏罰をうけるであろうという天判祭文(てんばんさいもん)、ふつう神文(しんもん)と通称される文章の中に現われる場合である。 たとえば現存最古の起請文といわれる久安(きゅうあん)四(一一四八)年四月十五日の三春是行解(みよしこれゆきげ)(「百巻本東大寺文書」)は、「天判起請文」ということもできるが、その末尾に、もし実際にいったことをいわなかったといったならば「東大寺大仏、薬師如来、十二神将(しんしょう)、鎮守八幡大菩薩、当所八所御霊、惣シテハ日本朝中大小神祇冥道神罰冥罰(にほんちょうじゅうだいしょうじんぎみょうどうしんばつみょうばつ)」を是行の身に蒙(こうむ)るとあり、この「日本朝中大小神祇冥道」という文言が、多少形をかえつつもほぼ定型化して、これ以後の起請文、あるいはそれに准ずる請文、契状(けいじょう)などの神文に必ず姿を現わすことになっていく。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 5 「日本・日本人意識」の形成》P.202)


     「日本国」の「実態」認識
     注目すべきことの一つは、さきの起請文に「日本六十余州」「大日本国中六十余州」のような文言がある程度まで定型化し、それには「日本国中五畿七道」といわれていることから知られるように、日本国の国制、行政制度についての認識が、おそくとも鎌倉時代に入るころには起請文の世界に定着している点である
    (《第三章 列島社会と「日本国」 5 「日本・日本人意識」の形成》P.204)


     さらに翌年九月三日にも、大和の高畠(たかばたけ)上林郷の郷民(ごうみん)等が、春日大明神をはじめ「日本国中大小神祇冥罰」を蒙ると記し(「大橋文書」)、正嘉(しょうか)二(一二五八)年七月九日には越後国の黒河尼も「日本ろくしうむくに(六十六国)のカミほとけ」に対して誓約をしている(「三浦和田文書」)のである。 このように十三世紀後半に入れば、百姓はもとより女性にまで、こうした認識が文字を通して浸透していたのであるが、それはけっして「六十余州」「六十六国」という漠然とした数だけの認識にとどまっていたわけではなかった。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 5 「日本・日本人意識」の形成》P.205)


     「日本第一の……」
     「日本」と「大和」
     「神国日本」
     日蓮の「日本」認識
     「日本国」の範囲
     「日本国一円」


     移動する「日の本」
     注目すべきはこの四至に「東は日下」とある点で、この「日下」は「日本」と表記されるのがふつうであったが、この場合の「日下」=「日本」は間違いなく東北北部、あるいは北海道南部をさす地名になっている。 国名として七世紀に定まった「日本」は、このように特定の地の地名となり、東方へ、北方へと動いていったのである。
    (《第三章 列島社会と「日本国」 5 「日本・日本人意識」の形成》P.222)


     枕絵の中の「日本国」


     第四章 「瑞穂国日本」の虚像

     1 「日本は農業社会」という常識

     教科書も研究者も
     壬申戸籍の職業別人口統計
     愛媛県二神島の「農」の実態


     山梨県は「農業県」か

     しかし実態はまったく異なっている。 都留郡−−「郡内」には現在の中央本線の駅になっている上野原、四方津、島沢、猿橋、大月など、桂川に沿い、甲州道中の宿が発達し、吉田、河口など富士参詣に関わる御師(おし)(祈願の仲立ちをする職能民)の集住する都市が形成され、中世後期からすでに農産物を購入する著しく都市的な性格の強い地域であった。 一例をあげると河口湖北岸の大石村は、延享(えんきょう)三(一七四六)年の村明細帳によると、田地のまったくない麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などの畠地のみの村である農業のみに目を向ければ、これは貧村にみえるが、この村では煙草(たばこ)を作り、柿を育て、男は富士山に入って馬の鞍(くら)をつくる木や「ほた木」を伐って売り、女は麻布、紬(つむぎ)を織るとともに、さかんに養蚕を行い、よい年には金百両もの収入になったといわれている。 またここには、中世に遡る駅のあったことも知られており、交通の要衝として、「農村」というよりもむしろ都市的な性格の強い集落と見なければならない。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 1 「日本は農業社会」という常識》P.237〜238)


     明治政府による「士農工商」の「創出」


     2 「百姓=農民」という思いこみ

     教育現場でも研究書でも

     しかし実際に教壇に立って教えながら、大学卒業後すぐに漁村資料の蒐集の仕事に携っていた私は、この円グラフの中で漁民はどこに入るのかというひそかな疑問を持ちつづけていた。秋田藩の海辺の村々に、漁村のないはずがないからである。 ただその疑問をつきつめることなく荏苒(じんぜん)と日をすごしていたが、後述する奥能登の調査を通じて、百姓をそのまま農民ととらえるべきではないことに気づきはじめたころ、たまたま大学入試の問題作成の過程でこの円グラフを見ているうちにハッと気がついた。 この「農民」は百姓を言いかえたのではないか
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.241)


     しかし百姓」の漢字には、本来、「」の意味は含まれていない。 どの漢和辞典を引いても「百姓」は「多くの役人」「多くの民」「庶民」「人民」と解されており、これを「農」とするのは、日本の解釈としている。 実際、現在、この文字を使っているアジアの諸国民−−中国・韓国でも、「百姓」は一般人民の意味であり、私の接触した両国の留学生は、口を揃えてこの語を「農民」と解する日本人のとらえ方に奇異なものを感ずるといっていた。  そして実際、壬申戸籍の「農」の実態が「農民」ではなかったように、江戸時代までの「百姓」はけっして農民だけでなく、きわめて多様な生業を営む人々が含まれていたのである
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.243〜244)


     「百姓」の中には富裕な商人・廻船人もいた

     さらに同じ時期に、そうした巨大な時国家の負った借金百両の返済を援助するほどに富裕であり、柴草屋(しばくさや)という屋号(やごう)を持ち、港に根拠を持つ廻船商人が、なんと「頭振(あたまふり)」−−前田領における無高民、「水呑」に位置づけられていることを文書によって確認したとき、われわれは文字通り、目をみはり、驚愕した。 泉雅博氏はこれにつづいて万治(まんじ)二(一六五九)年の文書に名前を連ねた「頭振」たちの中に、やはり京屋五兵衛(きょうやごべえ)と吉兵衛という廻船人のいたことをあきらかにしており(「能登と廻船交易」『海と列島文化1 日本海と北国文化』小学館、一九九〇年)、「頭振」「水呑」はけっしてそのすべてが貧しい農民などでなく、その中には田畑をまったく持つ必要のないきわめて裕福な商人、職人、廻船人も少なからずいたことを、われわれはこのときはじめて明確に知ったのである
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.245)


     したたかな「百姓」の駆引と誇張
     サハリンまでいった「下人」の船頭
     「頭振」の中には豊かな都市民がいる


     「水呑」の多い港町

     注目すべきは、無高民の呼称がさきにふれた被差別民の呼称と同様、地域によって異なる点である幕府の支配下にある天領(てんりょう)では周知の呼称「水呑」といわれ、それが一般的な呼称とされているが、前にあげたように、加賀・能登・越中の前田領では「頭振」、越前ではこのように「雑家」、さらに後述する萩藩領では「門男(もうと)」(亡土)、また伊豆では「無田」と呼ばれていた。 また隠岐(おき)では「間脇(まわき)」といわれたが、間人(もうと)」は中世では新たに移住してきたものをさす語、「脇」は「本」に対して下位の存在、「雑」も同じく消極的な意味を持っている。 「無田」は無高を直截(ちょくせつ)に表現しているが、水呑」「頭振」の語義はいまのところあきらかでない。 これらの言葉については今後さらに各地域に即して蒐集につとめ、語義を考えてみる必要があるが、いずれにせよこれらの語がマイナス評価を含んでいることは間違いなく、そこに江戸時代石高中心の制度農本主義」が作用していることは明白といってよかろう
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.260〜261)


     農業の社会的比重の実像


     古代・中世の百姓とその生業

     もとよりこの状況は中世に入っても、基本的には同様であった。 さきに、古代には「天皇を除く国民」が「百姓(ひゃくせい)」身分だったが、その解体、分解とともに、中世の諸身分が成立−−「百姓(ひゃくせい)は解体してここに農民としての百姓(ひゃくしょう)が成立する」といった安良城盛昭氏の説をあげたが、「百姓(ひゃくせい)」から「百姓(ひゃくしょう)」という「変化」に大きな意味を持たせつつ、「百姓(ひゃくしょう)は農民」と主張する歴史研究者は意外なほど多い
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.269)


     しかしひゃく(はく)せい」は百姓の漢音であり「ひゃくしょう」は呉音である。 それゆえ、両者の間に時代による意味の変化を見出そうとするのは、なんの根拠もない誤った“俗説”であり、古代からおそらく律令を扱う明法家(みょうぼうか)は「ひゃくしょう」といっていたと考えられる。 それが中世に入るころに広く表面に現われたというだけのことであり、そこに呉音と漢音に関わる問題のあることは間違いないが、語義の「変化」までも見出そうとするのは、「百姓=農民」の思い込みのまったく理解し難い合理化としかいいようがない
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.269)


     「農本主義」の立場に立つ国家
     「田畑を持たないもの」−−「在家人」とその評価


     いつ、「百姓」は「農民」と見られたか

     しかし天正十六(一五八八)年に発せられた豊臣秀吉による周知の「刀狩(かたながり)令」には「百姓は農具さへもち、耕作専らに仕候へは、子々孫々まて長久に候」と明言され、百姓を農民としようとする国家意識が、あらためて露骨に示されている。 さらに江戸幕府の触書(ふれがき)、たとえば現在では慶安の文書ではないことがあきらかになっているが、よく知られたいわゆる「慶安御触書(けいあんのおふれがき)」も、少なくとも百姓の男性は田畑耕作を専一(せんいつ)にし、女性は機織(はたおり)を稼ぐべきことを強調し、百姓は農業をはげむべきことが規定されているのである。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.279)


     とくにこの時代の土地・租税制度が、貨幣としての米を価値基準とする課税方式、「石高制(こくだかせい)」を基本的に採用しており、そこにたてまえとしての「農本主義」が貫徹されていた。 前述した高持の百姓と無高の水呑等の区別はそこから導き出されてくるが、そこでもふれた通り、制度としては幕府も大名も「百姓」をほぼ語義通りに用いており、けっして農民と同義とはしていない。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.279〜280)


     にもかかわらず、こうしたたてまえとされた「農本主義」は儒者などの言説を通じて社会に浸透し、百姓と農民は同じという見方が通俗の「常識」として広くひろがっていった。 たとえば伊藤仁斎(じんさい)の長男東涯(とうがい)は『操觚字訣(そうこじけつ)』巻之九で「農ハ百姓ノコト也」とし、『名物六帖(めいぶつろくじょう)』でも耘夫」「農夫」「税戸」「糧戸」「租戸」のすべてに「ヒヤクセウ」「ヒヤクシヤウ」という訓をつけ、「豪戸」も「オホヒヤクシヤウ」としているのである(これらの点は加地伸行氏の御教示による)。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.)


     また寺島良安『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』人倫部で、「農人」の項目をあげ、まず「俗に百姓と云う」とし、このころ世俗では「農人」を「百姓」というのがふつうであったことを指摘したうえで、百姓は「四民(しみん)」−−一般人民の通称であり、「農を以て百姓と為すは非なり」と明言している。 この良安の指摘は、さきにものべたように、農人だけでなく商人、船持、鍛冶、大工など、多種多様の人々を含むのが「百姓」の実態であったことを正確に指摘しているが、「百姓は農民」「農民は百姓」とする世俗の「常識」はおさえ難く社会に深く根を下していった。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 2 「百姓=農民」という思いこみ》P.280)


     3 山野と樹木の文化

     三内丸山遺跡の衝撃

     それをめぐるさまざまな問題については、また後にものべるが、まず六本の等間隔に並んで立てられた栗の木の巨柱、みごとに仕上げられた漆器、そして木の皮を綿密に編んだいわゆる「縄文ポシェット」など、縄文の社会がまさしく樹木の文化に支えられていたことを、この遺跡はわれわれによく教えてくれた
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.283)


     さらにこれについで、富山県の桜町遺跡から、木材を精密に加工し組み合せた、のちの法隆寺の建築にも用いられたという高度な技法のあったことを証明する、これも栗の木の建築部材が発掘され、われわれの生活がこれまで樹木にどれほど大きく依存してきたかを、再認識させられたのである。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.283〜284)


     そしてこうしたすばらしい発掘の成果は、穀物を田畠で生産する農業以外の多様な生業の大切さについて考え、追究するために、またとない刺激と勇気とを与えてくれた。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.284)


     栗の栽培と栗林の造林

     「栗林」はすでに『日本書紀』にも現われるが、そこでは「くるす」と訓(よ)まれていた。 そして「くるす」は一方で「栗栖」とも表記され、平安前期の文書・記録にはこの文字での多くの例を見ることができる。 とくに天皇家は古くから山城(やましろ)国田原(たわら)御栗栖丹波(たんば)国御栗栖のような直属の「栗栖」を設定し、そこの人々から栗を貢進させていた。 御栗栖司(みくるすのつかさ)の統轄下(とうかつか)に置かれていた栗栖の「寄人(よりうど)」たちは、平安後期になると天皇の直属家政機関−−蔵人所(くろうどどころ)の下で甘栗御園供御人(みそのくごにん)、栗作御園供御人となり、栗売の商人として京都を中心に活動していたのである。 そして栗栖で生活している人々が隼人(はやと)と重なり、炭焼や薪を扱う山民的な人々だったことについてはかなり前に私も気が付いていた(拙著『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、一九八四年)。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.285)


     しかしそのころは。「栗栖」を自然に栗の木の密集しているところと考え、寄人たちが供御人になるころに意識的な造林、育成をはじめたと、ぼんやり考えていたのであるが、三内丸山の状況を見ると、これはおそらく誤りで、栗栖の中にはたしかに自然林もあろうが、平安前期の文書に見える栗栖は「紀朝臣(きのあそみ)真公栗栖(さねきみくるす)」のように個人と結びついている場合が多く、天皇直属の栗栖になったのも、確実に栽培、管理された栗林と考えなくてはなるまい。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.285〜286)


     たとえば文永(ぶんえい)十(一二七三)年六月四日の紀伊国阿弖河上荘(あてがわかみのしょう)の検注目録には、在家(ざいけ)−−在家役のかかる百姓の屋敷九十七宇(う)畠地二十一三十、それに千八百九十五百九十八三十七のほか、栗林二十一七十が記載されている。 田地については別の目録があり、定田十一六十に対して年貢絹十六が賦課されているが、このように田畠・在家だけでなく多様な樹木が公式に検注されているにもかかわらず、後述するように、これまでほとんど見落とされて研究の対象とされてこなかったのである。 そしてこの検注について就中(なかんずく)、注意すべきは桑・漆・柿が本数で数えられているのに対し、栗林だけが田畠と同様、面積を検注されている事実である。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.286)


     百姓の住居の建築
     燃料としての薪・木炭


     材木輸送路としての河川

     降って十六世紀、検非違使勢多氏の所領の中に「四条河原者木屋抱(かかえ)分」が見え、四条河原に番匠棟梁と関わりのある「木屋」のあったことを知りうるとともに、それを保持しているのが「河原者(かわらもの)」であった事実を確認できるが、これも同様の問題を示していると考えられる。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.299〜300)


     このように京都においては、筏師材木商人は「乞食非人」「河原者」と深く関わりがあり、中世後期には賤視されていた蓋然性があるといわざるをえない。 それがなぜであるのか、またこうしたことがどの程度の範囲の地域で見られるのかについては、さらに研究の必要があり、あるいは樹木を扱う造園家と材木商人との関係があるのかもしれない。 しかしおそらくこれは京都周辺のことで、少なくとも全国的な現象ではないと見てよかろう。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.300)


     柿と漆


     桑と養蚕と女性

     養蚕のための桑の栽培は、いまのところ弥生時代以降と推定されているが、前述した通り、とともに令制において根数が掌握され、その栽植が奨励された。 しかしこの場合も従来の「通説」は、さきの漆の場合と同様に、絹は庶民とは無縁の高級な織物とする見方から、桑の栽培も中央への貢上品の生産のために強制されたので、庶民生活には根を下していない、としてきたが、私はこの見方も漆についてと同じように、根本的に誤っていると考える。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.311)


     たしかに木綿(もめん)以前の百姓の衣料が、苧(からむし)・麻によって織られる布を基本にしていたのは事実であるとはいえ、絹・綿が百姓の生活と無関係であったなどということは、何ら証明されていないのである。 なにより、判明している限りでも、古代以来、百姓たちの栽植した桑は膨大な本数に達している。 弘仁(こうにん)八(八一七)年、伊勢国多気(たき)郡の桑は十三万六千五百三十三根、度会(わたらい)郡は五万八千四百五十根に及んでいるのをはじめ、平安後期以降、大中小にわけて検注されたそれぞれの荘園・公領の桑も、保延(ほうえん)元(一一三五)年、紀伊国荒川荘の二千九百三十六本、寛元(かんげん)二(一二四四)年、肥後国人吉(ひとよし)荘南方の三千七百五十五本など、二、三千本を数えるのはふつうであった。 そして現存する文書だけからみても、桑はほぼ列島全域に栽植されていたと見てよかろう(左頁の表)。
    (《第四章 「瑞穂国日本」の虚像 3 山野と樹木の文化》P.311〜312)


     第五章 「日本論」の展望

     1 「進歩史観」の克服

     「日本人論」「日本文化論」の陥穽(かんせい)



     「戦後歴史学」の「自己批判」

     本書でも多少ふれたように、日本列島の社会をアジア大陸をはじめとする世界の諸地域との関わりの中で考えようとする研究動向は、すでに完全に軌道にのったといってよいが、そうした列島外の諸地域との交流の中で、たやすく同一視し難い、深く長い歴史を持った個性的な地域が列島自体の中に形成されてきたことも明確に意識され、その学問的追求も開始されつつある。近年、各地で活発に推進されている地域史研究は、かつてのように「中央先進地域」の動向を「地方後進地域」に即してなぞるのではなく、それぞれの地域のかけがえのない個性をあきらかにすることを目ざしており、その中で、たとえば前にもあげたように、藤本強氏が、これまでの「中の文化」に対し「北の文化」「南の文化」の個性と伝統を独自にあきらかにすべきことを強調した『もう二つの日本文化』(七六頁、前掲)を刊行し、赤坂憲雄氏が「いくつもの日本へ」を特集した『東北学 1』(東北芸術工科大学東北文化研究センター、一九九九年)を編集・創刊、さらに森浩一氏が「関東学」を提唱するなど(アサヒグラフ別冊『関東学発見』朝日新聞社、二〇〇〇年)、積極的な提言も活発に行われはじめた。 このように、これまでの「一国史観」、「均質な日本」を頭から前提とした「日本人論」「日本文化論」を根底から覆(くつがえ)す試みが、着々と進められつつあるが、それはまた、川北氏が「戦後歴史学」の特徴・欠陥の一つとしてあげた進歩史観(発展段階論)」をも、根本から掘り崩すことになっていったのである
    (《第五章 「日本論」の展望 1 「進歩史観」の克服》P.326〜327)


     「進歩史観」「発展段階論」の克服



     2 時代区分をめぐって
     時代区分の再検討
     列島社会の時期区分
     「日本論」の展望




    【関連】
    [抜書き]「東北学/忘れられた東北」(赤坂憲雄)
    [抜書き]『日本中世の百姓と職能民』
    [抜書き]『東と西の語る日本の歴史』
    [抜書き]『馬・船・常民−東西交流の日本列島史』





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    【転記ミス訂正】14/01/27・・・14/08/01(もうと)