[抜書き] 『山に生きる人びと』


『山に生きる人びと』
宮本常一・河出書房新社
二〇一二年四月三〇日 4刷
    目次
    一 塩の道
    ニ 山民往来の道
    三 狩人
    四 山の信仰
    五 サンカの終焉
    六 杣から大工へ
    七 木地屋の発生
    八 木地屋の生活
    九 杓子・鍬柄
    十 九州山中の落人村
    十一 天竜山中の落人村
    十二 中国山中の鉄山労働者
    十三 鉄山師
    十四 炭焼き
    十五 杣と木挽
    十六 山地交通のにない手
    十七 山から里へ
    十八 民衆仏教と山間文化
    付録 山と人間
      一 山中の畑作民
      ニ 畑作民と狩猟
      三 狩猟・漁撈・籠作り・造船
      四 木工民
      五 山岳民エネルギーの去勢
    文庫解説 民族史に挑んだ民俗学者がいた 赤坂憲雄
    宮本常一略年譜


     一 塩の道

     それにしても海と山間をつなぐ大事な道は塩の道であったといえる。 人が生きていくためには塩はなくてはならぬものであり、どのような山の中に住んでいても塩だけは確保しなければならない。 その塩を山中にある者はどうして手に入れたのであろうか。 海岸に住む者が製造して、それを持って山中に売り歩いたであろうことは一応考えられる。 が、山中から海岸まで出ていって塩をつくる者もすくなくなかった。 新潟県北部の山中の人びとは昔は冬に山にはいって木を伐り倒し、それを五、六月の出水期に海岸へ送り出し、夏になると塩焚きをして山へ持ってかえったという。 しかしそれも骨の折れる仕事で、後には木を海岸まで流下させて、海岸の人に塩を焚いてもらうことにした。 代償としては余分の木を海岸の人に送った。 ところが塩が瀬戸内海の方から来るようになると、海岸での製塩はやんだ。 山中の人は塩を買わねばならなくなった。 そこで木を山中から川で流下することはおなじだが、これを薪として売ることにした。 新潟の町では多くの薪が必要である。 そこで川を流下させた丸太を川口で拾いあげ、これを割ったものを薪船に売り、薪舟は新潟へ運んだ。 山で伐る薪炭用の木は今日では塩とは関係のないものになっているが、この山中では薪木を塩木とよび、薪を伐ることを塩木をなめるという言葉がかすかにのこっている。 塩を焚くための雑木を伐ることは古くから山中では広くおこなわれていたのではなかろうか。 山形県の奥でも鶴岡の町へ出す薪を塩木とよんでいた。 やはり川を利用しての流送であったが、岐阜県の山中などにも薪を塩木とよぶところがあった。 海へ二十里・三十里あるところから塩を焚きに出たとも考えられぬが、海岸居住の人に薪を送って塩とかえるようなことはおこなわれていたであろう。
    (《一 塩の道》P.12〜14)


     ずっと深い山中で川によって海岸にうまく結ばれないようなところでは、塩の入手はどのようにおこなわれたものであろうか。 最初に書いた日向椎葉の奥などでは塩は塩売りが海岸から塩を持っていったものであるが、山中から海岸へ塩を買いに出るところもすくなくなかったと考える。 広島県山県郡大朝町で聞いたことだが、ここでは古くは塩は魚とともに浜田の方からもたらされたものだというが、江戸時代の中ごろから後は、瀬戸内海の可部の町まで買いに出たという。 可部の町は広島から太田川をさかのぼった川の港で、そこで物資を陸上げして山中の村々に輸送し、また山中の物資をあつめて広島へ船送したところである。 可部の町が栄えるようになってから、山中の村々では重要な物資を可部まで買いに出るようになったが、そのなかの一つには塩があり、塩を入手するためには灰を持って出たという。 昔はよい灰は高い価で売れた。 よい灰というのは紺屋で染色の色留めにつかったり、麻の皮のアクぬきにつかうものである。 これは若い雑木を焼いてつくったものがよい。 山間の村々では共有山にはいって雑木を伐りそれを焼いて灰をつくった。 一俵の灰をつくるためには多くの労力と時間を必要とした。 春になって木の芽のでるころになると、人びとは山にはいって木を伐り、それを焼いた。 共有山はどこでも煙があがっていたという。 そのころ共有山には大きな木はなかった。 この灰を俵につめて五斗ほどを一俵にする。 その五斗俵一俵の灰で、ニ斗俵一俵の塩が買えたという。 灰のよしあしはなめてみるとわかる。可部の灰屋へ持っていくと、番頭がまず色を見、またなめてみて価をきめる。 風呂の下の灰や竈の下の灰をまぜるとすぐ見やぶられたという。 そして悪い灰は値がやすかった。 これは肥料以外に利用はすくなかった。
    (《一 塩の道》P.15〜16)


     山中の者が灰を焼いて金にかえる話は松岡利夫氏が「柚野民俗誌」のなかでも報じている。そのほか島根県日原の山中でも聞いたことがあるから、中国地方の西部山村では広く見られたところであろう。炭ならば目方も重く運ぶのに困難である。 それをさらに軽くて金になる灰にして里まで持ってきて塩にかえたのは、やはり山中に住む者の一つの工夫であるといえる。
    (《一 塩の道》P.16〜17)


     ニ 山民往来の道

     カッタイ道ばかりでなく、山中にはいろいろの人の通る道があったようである。 大和吉野の山中で聞いた樽丸師の話ではやはり仲間の歩く道があって、里は通らないで信濃あたりの山中まで歩いていくとのことであった。おなじような話を秋田のマタギからも聞いた。 山伝いの道を大和の山中まで行くというのである。 私たちの知らぬところに、私たちとは別の世界が存在しているようにさえ思われる。
    (《ニ 山民往来の道》P.21)


     それについて思い出されるのは尾根の上の道である。 山の稜線がそりほどはなはだしい高低を持っていない地方では、尾根を利用した道がよく発達している。 とくに九州山脈のなかにはそうした道が多い。 尾根の上の道は見通しもよいし、また迷うこともすくない。 日向の山中などはことに尾根の道の発達したところである。 ただ尾根の道は山に住む者にとって便利だというだけで通じたものであろうか。 ただそれだけが理由ではなかったようである。
    (《ニ 山民往来の道》P.21〜22)


     山中で畑作を主として生きている人びとの村は九州・四国・近畿・中部へかけて広く見られる。 たいていは山の中腹や尾根の上に村をひらいて生活している。 どうしてそういうところへ住みついたのであろうか。 その人たちは山麓の方からだんだん山へ上っていったものか、それとも初めから山の中で生きることを目的としていたものか、もとよりその両方のあったことはわかるが、そこに住みついたときから米にたよろうとしない人びとのいたことは飛行機から見下ろした景観のなかに読みとることができた。そしてそれら山腹・山顛の村々をつなぐ道の多くは山の尾根か中腹を通っているのである。 そこには一応水田を中心とした野や谷の村とは別の世界があるように感ぜられるのである。
    (《ニ 山民往来の道》P.23)


     どうしてこうした村が山中にできたのであろうか。 書きのこしたものとて何もない。 文字のない時代が久しかったからである。 ただ村で言い伝えたところでは平家の落人がおちついたものだという。 そしてつぼねという地名ののこっているのはなにがしの局を埋葬したところだと伝えているが、くわしく正しいことはわからない。 が、とにかくこの山中で久しいあいだ生きついできたことだけは事実であり、山麓の人びととはほとんど交渉を持たないままにすぎた日の久しかったことも事実である。 里に住む者が人目をさけて山中に住まねばならなくなったものか、それとも別の理由で山中に住みついたものか、いずれにしても記録も何も持たないで久しい間をすごしてきた山間の村の数は案外多いようで、しかも三戸・五戸で住みつつ、なおその村のほろびもせず近世までつづいてきたのは、そうした村相互間に往来のあったためである。三戸・五戸の村では嫁のやりとりさえ思うようにはいかぬ。 そこでおなじような遠い条件の村との通婚が成立する。 寺川では山を南へこえた若山・樫山・椿山などという、二里・三里もある在所まで、若い者たちが夜這いにいって、かえりには世が明け、山中で昼寝してきたこともあったという話を聞いたが、そうした山中の村と村をつないだ道もあったわけで、寺川ではたわむれにそういう道を夜這道といっていた。
    (《ニ 山民往来の道》P.28)


     三 狩人

     山の中ではやくからくらしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを帆って歩いた人たちなどいろいろある。
     そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。 今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。 北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。
    (《三 狩人》P.29)


     山の村々に狩人がいたからといって、野獣の防衛のすべてを狩人にまかせていたわけではなく、村人全体もその防衛にあたったのである。 山村ならばどこの村でもシシ追いをしている。 山畑の作物がみのるころになると、百姓たちは畑のほとりにかがり火をたいて「ホーイ、ホーイ」とイノシシを追うたものである。 司馬江漢の「西遊日記」にも遠江の山中でシシを追う声を聞いた記事がある。 福井県石徹白(いとしろ)村などでは昔は山田の守といって田や畑のそばに小屋をたて、そこに年老いた爺や婆をやって野獣や鳥を一日じゅう追わせたものであるという。 食うものだけは家から持っていったのである。 「山荘(ママ)太夫」の物語に安寿・厨子王の母が佐渡ガ島で盲目になって鳥追いをしている話があるが、作物を鳥獣の害から守ることは農民にとっては容易でなかった。 そして人間の力だけではどうすることもできなかったから、毛髪や獣の毛をぼろ布などといっしょに縄にない、これを竹のさきにつりさげて火をつけてくゆらせる。 そのにおいが獣を近づけない。カガシというのはもともとこうしたものであった。とにかく悪臭が野獣の来るのを防ぐと考えられたが、しかしそれもしばらく時日がたつと効果はなくなったという。
     土地によってもシシ垣をきずいたところもある。 丹波山地には今もいたるところにこれを見かける。 石垣を高く積みあげたものもあれば、柵にしたものもある。 静岡県の箱根山周辺では溝を掘ってイノシシの侵入を防いだあとが山中いたるところに見られるが、これをシシ堀といっている。 またシシの通る道に深いおとし穴を掘り、中には竹のそいだものをたくさんつきたてておく。 穴の上には竹などをならべ、草でおおいをしておく。 イノシシが通りかかってこの草のところまで来ると中に落ち、竹につきささってしまう。 このようなわなにかかるイノシシの数もおびただしいようで、三河から遠江へかけての山中の村では今も年々何十頭というイノシシをとっている。 最近は田畑のほとりに電気柵をほどこしているところもすくなくない。 電線をはってそれに電流を通じておく。 これならばイノシシは近づかない。
    (《三 狩人》P.44〜45)


     四 山の信仰

     狩人をマタギというのは又木から来ているかと思う。 又になっている木の枝を使用して獲物を追うたことから、狩を又木とよび、狩人をマタギとよぶようになったのではないかと思う。
     「狩之作法聞書」によると、巻狩のとき勢子は狩杖を持つことになっていた。 狩杖は勢子頭の持つものは自分の肩の高さに伐り、一般の勢子の杖は乳の高さに伐る。さて杖の真中ほどに枝を五寸ほど出し、これを茨差しといい、杖が土につくところには二又にしてあり、両方とも一寸ほどである。 これを鹿押えといった。狩杖にする木はサカキが一ばんよいが、グミ・クリ・サクラでもよい。
    (《四 山の信仰》P.48)


     ところで、「一遍聖絵」をはじめ鎌倉時代に描かれた絵巻物を見ていると、老人の杖には先が二又になったものが多い。この杖を鹿杖といっている。 別に空也系の念仏聖たちでシカの角をつけた杖を持ったものがいくつか描かれている。 この杖をも鹿杖といっている。念仏聖がなぜこうした杖を持たねばならなかったか明らかでないが、これは念仏聖が狩猟に関係を持っていたためではないかと思う。 さきにあげた「今昔物語」の餌取法師たちは、殺生はしているけれども、みな持仏堂を持ち、念仏を申している。 そしてそのことによって往生ができるのである。 餌取のように殺生する者でも念仏を申せば極楽に往生ができるということのしるしに鹿杖を念仏聖が持ち歩いたとも考えられるが、老人たちの用いるさきの二又になった鹿杖はむしろもと鹿狩に用いられたものが日常使用せられるようになったのではあるまいか。 こういう杖は今日ではほとんど見かけなくなっているが、甲野勇氏は東京都の檜原村の山中で女がついているのを見かけたという。 杖としては不便であるが、立ち向ってくる野獣を防ぐには二又になっている方が便利である。 おそらく野獣の多かった時代には、これを杖に用いるばかりでなく、防御用として一般にも用いられたものと思う。
    (《四 山の信仰》P.48〜49)


     今日、狩人をマタギという言葉は東北地方にかぎられているが、これに近い言葉として狩をマトギというところが愛媛県と高知県の境の山中にある。 これは的木のように思われるが、あるいはもとマタギといったかもわからない。 そのほかで狩および狩人をマタギ・マトギなどとよぶところを知らないが、もとはかなり広く分布していたものが消え去って、東北と四国にのこったのかもわからない。
    (《四 山の信仰》P.49)


     マタギは立木が枝を出して又になっているところに足場をもうけ、そこで獲物の来るのを待ちうけていたことから、狩のことをそうよぶようになったともいわれるが、明らかではない。
     「狩猟古秘伝」には狩とは鹿狩のことだとある。 それ以外の狩は猪狩・熊狩・兎狩などというように獲物の名をつけてよぶといわれる。 古くは鹿狩がもっとも多くおこなわれたものであろうか。 その鹿狩については「粉河寺縁起絵巻」にこまかに描かれている。 木の股になったところに板をならべて足場をつくり、そこに人がいてシカの来るのを待ってシカを射る。 この足場を据木と書いている。 これをマタギとよんだのであろうか。 むしろ狩杖の又木から来た言葉に真実性があるようである。
     話がまわりくどくなったが、狩人たちは早く山の信仰に結びつき、山の信仰の伝播者であるとともに、山の信仰の中へ仏教をもとりいれた仲間であったといってみたかったのである。
    (《四 山の信仰》P.49〜50)


     五 サンカの終焉

     中には農耕に転じていった者もあったが、その古くから持ち伝えた技能は、農にしたがうようになってもなお消えず、川魚をとったり、竹細工や筵細工で生活用品をつくりつつ売り歩いたりするために、純粋の百姓村から特殊な目で見られてきた者が多かった。 定住するにもまた条件があった。 農耕に適する地が与えられることはすくなかった。 そういうところは一般の百姓がもう大方ひらいていた。
    (《五 サンカの終焉》P.62)


     九州山脈の中でサンカの多いのは宮崎県北部の山中であるという。 米良・椎葉郷から北につづく部分である。 そのうち諸塚の七ツ山付近の人びとは古くから回帰性移動をおこなっていたという。 この地方は山の深いところで、山と山との間には峡谷が食い込んでおり、山の中腹から上にやや平らなところがあって、そこに五戸・一〇戸と人びとは家をたてて住んでいる。 この地方では道の多くは尾根の上を通っている。 車の通う道ができるようになって道は谷に下ったのだが、そのため山腹の村はかえって急坂を上ったり下ったりしなければならなくなった。もとは山の尾根なり山腹を横に行く道があって、そこを通っていたから、山中に住んでも、それほどけわしい坂道を通らなくてもすんだという。
    (《五 サンカの終焉》P.63〜64)


     この谷間に住みついた者のほとんどは回帰性移動をやめていた。 回帰性移動をしなくとも生活ができたからである。 しかし今はまたその生活が苦しくなりつつある。 そこで、若い者の多くは出稼ぎに行き、谷間にのこる者は台上に土地を借りてそこをひらいて農耕にはげむ者もふえてきた。
    (《五 サンカの終焉》P.68)


     サンカの仲間が回帰性移動の途中において群からわかれて村のはずれなどに一戸・二戸と定住することはすくなくなかったようである。 何が動機でそうなったかは明らかでないが、この山中にはサンカの後と思われる家をすくなからず見かけると井上氏はいう。サンカの家では主屋と竈屋を別にする。 人の起居するところでは炊事はしないという。かりに竈を一つにしていても住居と竈屋の間には仕切りの壁があって、主屋と竈屋の入口は別々になっているという。 そういえば私のたずねていった家もそうであったが、一般の民家は主屋も竈屋も一つになっている。
    (《五 サンカの終焉》P.68〜69)


     六 杣から大工へ

     日本の家は主として木材を用いてつくられた。 普通の民家ならば周囲に生えているありあわせの木を伐って用いたであろう。 もっと古くは生いたっている木そのものすら柱として用いられたのではないかと思う。 静岡県伊豆韮山の江川家の大黒柱は立木をそのまま用いたものだといわれており、たてられたのは鎌倉時代だとも伝えられている。 家そのものは何回も修理せられたようであるが、この柱のみはそのまま用いられているという。 立木をそのまま柱にすることはなくなっても、主要な柱に素材をそのまま用いることはあったようで、奈良県吉野山の蔵王堂なども、その円柱は地面から棟までとどくほどのものであり、素材にほんのすこと加工されているにすぎない。 この堂は康正元年(一四五五年)にたてられたもので、桁行五間・梁間六間。一重の裳階(もこし)がつき、檜皮葺の入母屋造で、じつに堂々とした建物である。
     さて、この寺の柱に見られるような柱は山梨県下の古い農家にも見かけるところであり、この柱をウダチ柱といっている。このことから柳田國男先生はウダチは「生いたち」のことであろうといっておられる。 この柱が後には大黒柱とよばれるようになるが、大黒柱は棟まで達していなければならないと信じられているところは多い。
    (《六 杣から大工へ》P.70〜71)


     七 木地屋の発生

     さて、この人びとに会うてみると里人のいうようなおそろしい者でもなければ無知蒙昧な者でもない。 むしろ小野宮惟喬(これたか)親王の家来太政大臣小椋(おぐら)実秀の子孫と称して誇りさえ持っており、古文書のうつしを大事に保存している。 そして山七合目から上の木は自由に伐ってよいことになっているという。 彼らは古くからのそうした伝統にしたがって生きてきているのであって、野の方の世界が大きくかわっていることなどいっこう気づいてはいない。 いや幕府が倒れて明治政府ができ、大名のいなくなっていることくらいは知っているが、昔から近江の木地屋の役所からの命令を守っておれば世の中がどんなにかわろうと、彼らの生活に何一つさしさわりのあることはなかった。 その近江の役所は昔のままなのである。 だから安心してどこの山の木でも伐って木地ものを挽いていたのである。江崎さんはそうした木地師たちの話を聞いてまことにもっともだと思ったが、だからといって木地屋の言い分にしたがうわけにいかぬ、世の中はすっかりかわっている、それを納得させねばならぬ。 ただ納得させるだけではいけない。 一つ所に定住させ、そこで木地挽きに必要な素材を提供する約束もした。 こうして木地屋の定住をすすめてきた。 すると盗伐がほとんどなくなってきた。
    (《七 木地屋の発生》P.81〜82)


     江崎氏のこの話は私にはじつにおもしろく感ぜられた。 つまり明治三〇年前後までは日本の山林関係の役人も木地屋が何者であるかをほとんど知らなかったのである。 江崎氏はそこで木地屋についてもうすこしくわしく知りたいと思って、当時法制局の参事官で学者として管内で名を知られている柳田國男氏にこの話をしたら、たちどころに木地屋についていろいろ話してくれたという。
    (《七 木地屋の発生》P.82)


     柳田先生の木地屋についての論考は大正十四年五月の「史学」(四ノ二)誌上に「史料としての伝説」と題して発表された。 なるほどそのなかに江崎氏の話も見えている。 この論文は伝説がどのように史実らしくなっていくかを示したじつに示唆にとむもので、私などこれによって伝説というものの取扱い方を教えられたのである。
    (《七 木地屋の発生》P.83)


     これに対して牧野信之助氏が近江東小椋にのこる木地屋の根源資料について探訪し、柳田先生の学説の裏付けをした。近江の東小椋村は惟喬親王の最後にかくれたところという伝説を持っており、そこには木地屋の根源資料がたくさんのこっている。 しかも木地屋の本拠として蛭谷君ガ畑の二ヶ所がある。 蛭谷の方は筒井公文所とよばれ、筒井八幡宮をまつり、木地屋のなかにはこの神社の氏子となっている者が大半で、神社にのこる氏子狩帳三二冊にしるされた名は正保四年(一六四七年)以後約五万人にのぼっている。 一方、君ガ畑は高松御所といい、太皇大明神をまつり、四八冊の氏子狩帳をのこし、八〇〇〇人余の氏子の名がしるされている。 これによって木地屋の全国的な分布もわかってきたのであるが、このような事実が明らかになってくるについては牧野氏が東小椋村をおとずれてからなおかなりの時日があった。
    (《七 木地屋の発生》P.83)


     昭和一七、八年ごろであったか、杉本寿氏が蛭谷をおとずれて氏子狩帳を問題にし、橋本鉄男氏が数回にわたって入村して、蛭谷のものを詳細にしらべるとともに、君ガ畑の金竜寺で一六冊、太皇大明神の倉庫から三二冊を発見し、合計四八冊を得て、ここに全国における木地屋の所在を完全にたしかめることができるようになったのである。
    (《七 木地屋の発生》P.83〜84)


     木地屋の問題はこうして東小椋村の資料の丹念な捜索によって大きく展開してくるとともに、他方、東北地方におけるコケシの研究からも着目せられていった。 コケシをつくるのは木地屋である。 温泉のみやげものとしてコケシをつくった。コケシというのはコケラという言葉と関係があろう。 コケラとは木屑のことで、木屑を利用してつくった人形という意味かと考える。 見た目に素朴で雅味のある人形で、東北地方にはこれを蒐集する者が何人かいた。 ところが、関西人にもこれに目をつけた何人かの人がいた。 橘文策氏もその一人で、しばしば東北のコケシづくりの村をたずねてコケシをあつめるとともに、その製作技術についてしらべていったが、次第にその人びとの生活や伝統といったようなもの研究しなければならなくなり、そしてついにこれらの仲間が会津の領主蒲生氏郷によって近江から会津へつれてこられた者が東北各地に散在居住するにいたったことをたしかめ、そのことについて近江を調査せざるを得なくなってきたのである
    (《七 木地屋の発生》P.84)


     こうして、やっと木地屋とはどういうものであったかが明らかにされてきたのであって、じつに久しい間、謎の世界に住んだ人びととして見られてきたのである。
     その実態のつかみにくかったことは明治中期以前には移動がきわめて盛んだったことに原因があったようで、私が美濃奥で出会った木地屋などは親子二代の間に二四ヵ所を移動したと話していた。 そしてその移動範囲は美濃を中心にして三河・飛騨・越前をわたっていた。
    (《七 木地屋の発生》P.85)


     しかも木地屋の歴史はきわめて古いのである。 木地屋にはろくろをつかって椀や盆をつくる椀木地と、杓子などをつくる杓子木地がある。 そのうち椀木地の方、ろくろ木地ともいわれる者は、大陸からもたらされた技術と思われる。 シナでは漢代にすでにろくろ木地がつくられていたという。 これはろくろをまわしつつ木を削らねばならぬために、よほど鋭利でしかも刃こぼれのしない刃物が必要である。日本の砂鉄から製錬した鉄はそうした条件をそなえていたといわれ、一人がろくろをまわせば、ろくろの軸の一端にとりつけた木地に刃物をあてて削っていく。 円形のものであれば、椀でも盆でもできるわけである。
    (《七 木地屋の発生》P.85)


     しかしその初めはろくろは食器をつくるためにのみ使用されたものとは思えない。むしろ仏像や仏器などをつくったのではないかと思われる。 それらのうちで今日多くのこされているのは小型の多重塔である。 これは塔の中に経文を入れて仏前にそなえるものであって、もともとは八世紀ごろ南都の十大寺に十万ずつの塔をつくって納めたものの一部が今日残存しているのだといわれる。 一ヵ寺十万であるから十ヵ寺で百万になる。 そこで百万小塔ともいわれた。 これだけのものをつくるのに四〇〇余人のろくろ師を要したといわれる。 この技術が広く民間に浸透したものではないかと思われる。
    (《七 木地屋の発生》P.85〜86)


     一方、民間にもろくろによる木器製造の技術が早く存在していたようであった。 奈良県唐古の弥生式遺跡から出た木器のなかには明らかにろくろを使用してつくったと思われる高杯があった。 だからろくろの輸入は仏教渡来以前にさかのぼると見られるのである。
    (《七 木地屋の発生》P.86)


     もともと日本には土器が多く用いられていた。 縄文時代から弥生式時代へかけての出土品の多くが土器である関係から、私たちの祖先の日常生活は土器を利用してなされていたように思われるけれども、これは土器がくさらないためで、木器もまた多く使用されていたものと考えられる。 ところが時代が奈良から平安にはいると、出土する土器の量はいちじるしくへってくる。 あたりまえなら弥生式土器や祝部土器よりも多く出土してよいはずである。 それが逆になってくるのは奈良時代から平安時代にかけては土器よりも木器が多く用いられるようになったためではないかと思われる。
    (《七 木地屋の発生》P.86)


     ではなぜ木器が土器にかわったのであろうか。 その大きな理由は、今まで寺院の造立が盛んであり、それにともなう仏像・仏具の製作も多かったわけだが、平安時代にはいると伽藍仏教は衰退して、天台・真言による山岳仏教が盛んになり、造寺・造仏も規模がずっと小さくなり、ろくろ師たちも次第に寺からはなれて民衆一般の日常生活の用具をつくるようになっていったのではないかと思われる。 そしてそのためには木地として適した木のあるところをさがして移動するようになっていった。 しかもろくろ師はその初め杣人たちと密接な関係を持っていたと思われる。 東小椋村のある愛智郡は古くは杣のあったところであり、造都・造寺のためにこの山中から多くの材木が奈良・京都へ運ばれていった。 そしてこの杣のなかには多くのろくろ師が住んでいた。 古く愛智の山中には南畑と北畑とよばれるろくろ師の居住地区があった。 そのうちの北畑というのは今の犬上郡多賀町に属する大君(おじ)ガ畑一帯であるが、そこに住む木地屋たちは早く四散していった。 木地ものにする材料のとぼしくなったためであろう。 一方南畑の方には君ガ畑・蛭谷・箕川・政所・黄和田・九居瀬があり、これを六ヵ畑といった。 多くのろくろ師が住んでいたのである。 しかし中世末ごろにはこの地方も木地物素材がすくなくなったためか、ろくろ師の存在はずっとへってきた。
    (《七 木地屋の発生》P.87)


     もし自由な想像がゆるされるならば、その初めは木地屋もサンカなどと同様に自由な回帰性移動をおこなっていたものではないかと思う。 近江の東部山中を一つの拠点にしておいて、広く山中をさまよい歩きつつ、野に住む農民たちの注文に応じて木地挽きをして歩いていたのではないかと思われる。 そのろくろ師たちは近江の各地の杣にいて、そこでも木地挽きをしていたものであろう。 が、地元で適当な素材の入手が困難になったために、次第に四方に散っていったのではなかったか。 むろん木地屋はその初め近江湖東の山中にのみいたものではないと思う。 さらに各地に広く居住していたものであろうが、後に東小椋村の配下に組み入れられたものが多かったと考える。 もとより資料があってかくいうのではない。 中世末にいたるまでの間、木地屋に関する文書はきわめてすくない。 が、全国的に土器の利用のへってきたということは、それだけ木地屋の活動がめざましいものであったといえる。
    (《七 木地屋の発生》P.87〜88)


     木地屋の活動を盛んならしめたのは塗師の仲間である。 木地そのものを食器その他の容器として使用する場合、よごれたり、またいたみやすい。 その脆弱さを矯正するためにうるしをぬる。 うるしをぬる技術は早くから見られた。 うるしはうるしの木からとる。 幹の皮に傷つけておいて、そこから出る樹液をとる。うるしは早く仏像などにも用いられていた。 乾燥すれば干(ひ)われやすいが湿気の多い日本ではかなり長い間の使用にたえた。
    (《七 木地屋の発生》P.88)


     こうして木地屋たちはうるしかき・塗師と結びついていった。 うるしかきもまた回帰性移動をおこなった。 うるしの木のあるところを転々として移動していく。奈良県吉野郡の名塩は古くからのうるしかきの村として知られており、戦前までその回帰的移動が見られたが、会津地方にもまたそうした村があった。 これらの仲間は一所にいたのでは生活がたたない。 と同時に塗師と木地屋との間を結びつけねばならぬ。 塗師は移動しなくともよい。 むしろ木地ものを持ってきてもらって仕事をすればよい。 江戸時代にはいって発達したものであるが、岩手県の浄法寺塗・会津の春慶塗・能登の輪島塗・和歌山県の黒江塗などいずれも木地屋とうるしかきの関係の密接なところに発達したものといえる
    (《七 木地屋の発生》P.88〜89)


     こうして木地屋は日本の物質文化の重要なにない手であったにもかかわらず、野に住む一般民衆とほとんど無縁のような生活をして来、未知の世界をさまよい歩いていろいろに誤解されてきたのは、多く山中に住んで、一般民衆とは直接に接触することがきわめてすくなかったからである。
    (《七 木地屋の発生》P.89)


     八 木地屋の生活

     これに似た偽文書は他のいろいろの職業の間にも見られたところである。 そうしたことによって世人にその地位をみとめさせようとし、世人もまたこれにだまされた場合が多かった。 木地屋の仲間はこの偽綸旨をつくる前からいくつかの偽文書をつくっていて、自分たちの行動を特権化しようとしてきたのであるが、これに対して豊臣秀吉の家臣であった丹羽長秀は天正一一年(一五八三年)六月「日本国中の轆轤師は先規にしたがって従来のごとく、諸役を免除し商売することについて異議はない」という文書を出している。 「先規にしたがって」といっているけれども、それまでに支配者であった者から木地屋に対して特権を与えた記録は見あたらないから、丹羽長秀は木地屋の持っている偽文書を真実のものと思って「先規にしたがって……」といったのであろう。 こうして初めは偽ってその特権を誇示していたものが、支配者からも正当にみとめられてくるのである。 そしてこれによってその社会的な地位が確立してくるのであるが、実質的にはそれ以前からすでに木地屋の全国的な組織網ができあがっており、木地屋仲間はおそらく、彼らの間の申しあわせによって移動をおこなっていたものと思われ、近江小椋村がその中心をなしていたのである。 正保四年(一六四七年)筒井八幡宮の社殿造立のとき全国の木地屋に奉加帳をまわして金をあつめているが、それによると近江高島郡をはじめとして若狭・丹波・伊勢・伊予などの地名を見出すことができる。 が、このような組織はさらにその昔からできあがっているのでなければ、突然奉加帳をまわしてもそれに協力するものはないであろう。 筒井八幡の文書では天文・永禄のころにはじまったというが、確たる証拠はない
    (《八 木地屋の生活》P.91〜92)


     こうして本山ともいうべき筒井公文所から地方在住の木地屋をたずねて歩いて奉加をうけることを筒井公文所の方では氏子狩または氏子駆といっているが、君ガ畑の高松御所の方では順廻といっている。 言葉としては順廻の方が古いのではないかと思う。
    (《八 木地屋の生活》P.92)


     いずれにしても木地屋−−ろくろ師たちは一ヵ所に定住することはすくなくて、良材をもとめて方々へ移動していった。 そのうち小椋の仲間が最初に分流して村をつくったのが、琵琶湖の西岸高島郡の山中朽木谷であった。 そのほか美濃でも三河でも近江から移動していったものであり、さらに会津地方の木地屋も蒲生氏郷が伊勢から会津へ転封のときつれていったものであることはさきに書いた。 が、近江系でない木地屋も多かったと思われる。 しかしそれらも近江系にくりいれられることによって木地屋としての特権を確保することができるようになるので、やがて木地屋の全国的な組織ができあがっていく
    (《八 木地屋の生活》P.92〜93)


     木地屋たちはまた山七合目以上の木は自由にすることができるという伝承をもっていた。 山七合目以上というと、山麓の村びともほとんど利用していないし、抗議する者もすくなかったようである。 こうした伝承によって木地屋は自由に山から山をわたり歩くこともできたのである。
    (《八 木地屋の生活》P.96)


     その生活はいたって簡単であった。 山を歩いて木地に適する立木のあるところを見つけると、住居に適当な場所を見つけて小屋掛けする。 掘立小屋である。 木の柱を二本立て、これに棟木をのせる。 つぎに軒まわりの柱をたて庇木をわたし、棟木(むなぎ)庇木(ひさしぎ)の間に垂木(たるき:「垂」は木偏に垂をわたし、屋根をふく。 屋根はカヤをつかうこともあればスギ皮をつかうこともある。 板葺の屋根もまれにあったという。 壁はカヤで囲うことが多かった。 入口はカヤ菰をたらした。 土間の隅にはイロリをつくり、土間にはカヤなどをしきならべ、その上にをしいた。 これで小屋ができあがる。
    (《八 木地屋の生活》P.96)


     小屋は多く流れの近くにもうけた。 また家の近くへはミョウガクロナなどをつくった。 これが重要な副食物になる。小便など野外にたれ流しにしたが、かりに小便壷をおくにしても底をぬいておいたという。 小便を夜になると狼がなめにくるからである。 小便には塩分があり、野獣はそれをもとめた。イロリには夜間火をたやさなかった。 野獣を防ぐためであった。
    (《八 木地屋の生活》P.97)


     ここで問題になるのは山七合目以上の木は自由に伐ってよいと信じており、世人もこれを暗黙のうちにみとめていたのであるが、土地を占有する権利は持っていなかった。 だから作業が終れば移動せざるを得なかったのである。 だがその移動にもおのずから限界があり、また地方にそれぞれほぼ中心をなす定住地が見られた。 近江の小椋村はいうまでもなくその大中心をなすものであったが、琵琶湖の西の朽木谷などもその一つであった。 そのほか広島県山県郡の那須なども中国地方西部の中心をなしていて、山口・広島県下で仕事をしていた木地屋はほとんどここから出ていた。東北の者は会津を中心にしており、そこから東北六県の各地へ出かけていった
    (《八 木地屋の生活》P.97〜98)


     会津の木地屋については「新編会津風土記」にいくつか記事が見えるが、それによると「会津はもと木地挽きはすくなかったが、天正十八年蒲生家が会津に封ぜられたとき、近江慈教寺のすすめによって君ガ畑から木地頭佐藤和泉・同新助と、木地挽五人とそのほか慈教寺の三男了性をつれ来り、了性を府下の木戸千軒道本光寺の住職にし、木地挽きは府下七日町に屋敷を与え、会津慶山村ではじめて木地をひかせた」とある
    (《八 木地屋の生活》P.98)


     また会津の北方にある川入の木地屋はやはり近江から来た家であるが、会津に三八年いて大沼郡の砥石山に移り、そこに十八年いて耶麻郡の久良谷沢に移り、そこにまた十八年いた。 ついで九郎三郎沢で十八年住み、天和二年に川入に定住したという。 なお同地の小椋家には正安三年(一三〇一年)、延文二年(一三五七年)、永禄二年(一五五九年)、永禄五年(一五六二年)、天正八年(一五八〇年)、天正一一年(一五八三年)などの文書の写しを伝えているが、これらがすべて真実のものとするならば、木地屋の特権が為政者からみとめられたのは鎌倉時代以来のことになる
    (《八 木地屋の生活》P.98)


     会津地方にはこうして蒲生氏によってつれてこられた木地屋のほかに、保科氏が信州高遠から転封になったときつれてきた木地屋の一群がおり、従来の木地屋はこの木地屋仲間を渡り木地とよんだ
    (《八 木地屋の生活》P.98〜99)


     九 杓子・鍬柄

     ろくろ木地師のほかに木工を主として生活をたてる者はすくなくなかった。 杓子をつくり、曲物をつくり、鍬柄のようなものをはじめとして、木を利用してつくった生活用具はすくなくなかった。 それらは農民自身の手でつくられる場合もあるが、一般農民はつくるべき工具を持つ者がすくなかったから、いきおいつくられたものを買うよりほかに方法がなかったのである。
     こうして工具を持った人びとによって、木工品の多くはつくられた。 そうしたもののうち飯をすくう板杓子、汁をすくう壷杓子をつくる者は木地屋の仲間として考えられていたが、この仲間はろくろを用いなかったし、材料にする木もちがっていた。 ミズウメ・サクラ・イモノキ・ヒノキ・ホウノキ・コブシ・ミズキ・トガなどであった
    (《九 杓子・鍬柄》P.100)


     奥深い山を持っているところには必ずといっていいほどこうした木工の村がその山中に一つや二つは存在したものである。 そして白山山麓では鍬棒をつくるのが主であったが、他の地方では鍬柄をつくるところが多かった。 鍬柄というのは柄のさきに床のついたものである。 鍬は今日では鉄でつくって、これに柄をさしこんで使用しているが、その昔は鍬は木製の床の先にU字形の刃がつき、床に穴をあけて柄をさしこんで使用していた。 これは古い時代には鉄が貴重なものであったから刃先にだけ鉄をつかったものであろう。 ところがさらに昔は床と柄がついたものが用いられた。 これは立木のうち幹から斜に適当な枝の出たものをさがしあて、これを伐り倒して、幹の一部分、つまり床になる部分とそこから出た枝をのこして他をのぞいたもので、幹を床として利用するのである。 このように幹と枝とが適当な角度でしかもつりあいがとれて出ている木はそんなにたくさんあるものではない。 そこで、そういう木をさがし、また若いときからよい鍬柄のとれるように育てねばならず、床と柄の角度も矯正しなければならないからたいへんな手数である。 同時に鍬棒のようにたくさんつくりだすことはむずかしい。 私は各地調査の途中そういう村を二つほど見たことがある。 一つは石川県能登半島の南山というところであった。 そこは貧しい村であった。 生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはむずかしかった。 それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持っていって売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。
    (《九 杓子・鍬柄》P.105〜106)


    生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣の家からやってきて、
     「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買ってきたのか、一とおりダシを出したら貸してくれまいか」
     とたのむ。 するとその頭を隣家へ貸してやる。 隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。 その匂いをかいで、そのまた隣の者が借りに来る。 そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。 魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。
     それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはずであるが、鍬柄を必要とする者のあるために、そうした村がおのずから発生したものであろう。
    (《九 杓子・鍬柄》P.106〜107)


     宮城県の栗駒山のふもとにも鍬柄や杓子をつくる村があった。 その初めはウルシをとって歩いていた人たちが定住したもののようである。 野生のウルシの木を見つけて、それに傷をつけて樹液をとってまわる作業は容易ではなかったが、それでもウルシの木の多い地方へはウルシかきがやってきたものである。この仲間は各地の山中の木の様子はじつによく知っている。 そうしたことがもとで、ウルシかきは鍬柄つくりの方が有利と見て、鍬柄に適する立木の多いところに定住して仕事をはじめたものであろう。ここでもやはり一年に一〇〇〇本とはできなかったが、付近でひらかれる市に持って出て売り、それで必要なものを購入したのである。
    (《九 杓子・鍬柄》P.107)


     鍬柄つくりの村は移動することはすくなかったようである。 適当な木を見つけることが困難であり、むしろそれを育てることに力をそそがねばならなかった。 枝のひらきすぎているものは枝を縄で幹にひきよせてくくり、幹と枝の間のせまいものは木を枝と幹の間にはさんで適当な角度にためなおさなければならぬ。 鍬柄つくりの村の付近の山を歩くと、そうした装置をした立木をいたるところに見かけたという。一種の栽培事業だったのである。
    (《九 杓子・鍬柄》P.107)


     十 九州山中の落人村

     桂山と小国の間には四五〇年のあいだ表立った往来も交渉もなかったようである。 ただ、今から八〇年あまり前に一人のばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在した。 小国の北里家の者だといっていた。 桂山の者が先祖の墓を丁重にまつっていることを心から喜んで、家の者にも必ず墓参りさせるからといって立ち去って以来、何の音沙汰もなかった。 桂山の人たちの伝承や記憶では四五〇年の間に小国から訪ねてきたのはこの老婆だけだったようである。
     この話が本当かどうか、北里氏が小国へかえって戸籍をしらべてみると、一族のなかに70歳すぎて行方不明になった女性が一人いる。 たぶん桂山まで墓参りにいったかえりに、家までたどりつけなくてどこかで死んだものであろう。 その老婆は桂山へ行ったとき「家では蚕を飼っている」と話したそうである。 事実、北里氏はそのころ農業をやっており、また蚕も飼っていた。 そうした蚕に手をとられたためか、その女は他所へ嫁にも行かず、七〇あまりまで、北里家でくらしていた。 すべての話が符合した。記録を持っている北里家の方では記録を見れば「そういうこともあったか」と思うことはあっても、日ごろはすっかり忘れているが、記録を持たない世界では記憶にたよりつつ語りついでいるためか、案外正確に四五〇年以前のことを記憶していたのである
     もし口頭伝承がこれほど正確なもので、しかも四五〇年ぐらいの間ならはそれが十分伝承せられていくものであるとするならば、平家の落人であるか否かは別として、落人の伝承を持つものには何らかの根拠があったのではないかと思われる。
    (《十 九州山中の落人村》P.117〜118)


     十一 天竜山中の落人村

     熊谷家だけでなく、この山中に落ちてきたものは多かった。 村松・金田・後藤・多田のほか、市原には田辺、中之郷には鈴木、北平には伊吹、松島には村沢というふうに、この山中の村々の大半は中世末に落人によってひらかれたのである。 しかもこれらの家に共通していた願いは、主を持たず、主に強いられず、年貢をおさめず、夫役をつとめず、自由にくらしたいということで、そのためにはどのような不便をもいとわなかったのである。
     そしてそれぞれの村の郷主となった者が事あるときには連合して解決しようとしたのである。 それにもかかわらず、この山中へも彼らの手ではどうすることもできない強力な武力支配の手がのびてくる。 そして落人も落人でなくなっていく。
    (《十一 天竜山中の落人村》P.135)


     九州山中の落人とは性質をかなり異にしているが、とにかく山中に村をひらいたのは、そのほとんどが政治圏外へ逸出しようとした人びとであった。  私は今年(昭和三八年)七月はじめて坂部をおとずれた。 それまで飯田線で天竜川にそうて下っていくとき、崖上のこの村を見かけて一度はたずねてみたいと思った。 急な坂をのぼっていくと、やや傾斜のゆるやかな尾根の上に出、そこに二〇戸ほどの家がかたまっているが、この村から谷一つへだてた北に見える大田は現在家が三戸、河岸から尾根の上まで四〇〇メートルほどの急傾斜に畑をひらいて住んでいる。 よくこのようなところに住んだものと思うが、そのうちの一軒は天竜村でも屈指の山林地主であるという。 古びた板葺の家を遠望して不思議な思いがした。 旧家で地主はみな大きな門構えをしている。 しかしこの山中ではそういう家をつくる余裕もなかったようである。山中に住んだ者はこうして大家も被官もその外的な生活では大差がなかったのではあるまいか。 そして何よりも敵をおそれ、敵に攻められないところに家をたてたようである。
    (《十一 天竜山中の落人村》P.135〜136)


     十二 中国山中の鉄山労働者

     このあたりでは大きな家は村の中にあることはすくなく、たいていは山中に孤立しているとのことであった。 昭和十四年初冬この山中を初めて歩いたとき、谷奥の大きなカヤ葺の家を教えられて、そこには何百年というほど燃えつづけているイロリの火があるという話に興をおぼえたことがあるが、この山中には大正時代までは何百年というほど燃えつづけてきた火を持っている家が点々として見られたという
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.139)


     砂鉄掘りの旦那はどういうものか敗戦の落人が多かった。 尼子の家来であったという家もあれば豊臣の遺臣であるという者もあり、中にはもっと早く定住した者もある。 しかし中国山中に落ちてきた人たちは山奥におちついて開拓した者もすくなくなかったであろうが、この山中はすでに古くからひらけていて、後から来た者が開拓して農業をいとなむ余地は他の地方の山中に比してすくなかった。 そこでいきおい農業以外の仕事を見つけざるを得なかった。 もとより力ある者は土地もひらいたであろうし、庄屋などの村役人になった者もあるが、多くの者は山中の放浪者となっていったと思われる。 この山中には砂鉄を掘るための鉄穴(かんな)が多かった。 その鉄穴掘りをしたり、掘った砂鉄を銑鉄や鋼鉄にする〈たたら〉・鍛冶屋の仲間には大阪城の落人と自称する者がすくなくなかった
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.140)


     本当は大阪城の落人ではなかったかもわからない。 だが大阪には多少関係があった者がいたとみられる。 秀吉が大阪に在城して天下に号令していたころ、大阪の西北方の能勢山中にはの鉱山がたくさんあった。 そこで得たものが秀吉の財政を大きく支えたといわれる。 そしてこの山中には多くの村が栄えたと伝えられ、千軒という地名ものこっている。千軒は能勢山中だけでなく、中国山中の諸所にものこっている。 たいていはもと砂鉄を掘ったところである。 鉱物はそこに資源のある間はよいが、なくなれば新しい資源をもとめて移動しなければならない。能勢山中の鉱山労働者も能勢の衰微にともなって中国山中へ移動していったものであろう
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.140)


     中国山中の村々の発展と衰微には採鉱の盛行と否とが大きく影響していたようである。 広島県油木町の「国郡志下調帳」によると、
     「当村はいたって寒いところなのでムギがいっこう育たないから稲作だけしている。 それも夏の末にはもう冷風が吹きはじめる。 水田も高山の麓にあって冷水がわくため水口のところはイネの実も熟さない。 それゆえ農業では生活がたたず以前から鉱山稼ぎをもっぱらおこなっている享保のころ(一七一六〜三六年)お救いとして藩営鉱山がはじまり、商鉄師とあわせて四、五ヵ所ほどはたえず仕事もあったが、鉄山がひきあわなくなって過半は休職し、そのうえ商鉄山師がたびたび不始末をしたため百姓の損害が多く、現在は藩営たたらが一ヵ所、商いたたらが一ヵ所だけになっていて、作間の稼ぎがすくなくなり困っている。 なにぶん当郡第一の寒冷地で平地でも雪が五、六尺、山は一丈あまりも降り積むから、冬から春への野働きができず、一一月中旬から二月までは交通もとまる。農閑の稼ぎは大たたらへ大炭を出し、駄賃とりをする。 現在村人のくらしは下である。」
     と報告している。 農業もろくにできぬところに村が栄え、鉄山の仕事がおとろえると困ってくる。 そしてそこで働いていた者は他へ移っていく。 それが新しい鉄山を見つけたときにはその方へ行くであろうが、そうでないところでは田畑の広いところへ行って百姓をするようになって、かえってそのあたりの秩序を乱し、世の中がおちつかなくなったところもあるという。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.140〜141)


     元来、砂鉄精錬をおこなうには鉄穴流しとよぶ砂鉄を掘る仕事があり、つぎにこれを銑鉄にするたたら、鋼鉄にする鍛冶屋、たたらにつかう大炭を焼く者、それらの荷を運ぶ駄賃稼ぎがある。そのうち特別の技術を要するものはたたら師と鍛冶屋てあり、これは農業にしたがう者はすくなかった。山内者とか場所者とよばれて、農民からは特別の目で見られていた。 場所といえば中国地方では都会を意味する。 ここでは他所者のような意味もあった。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.141〜142)


     たたらや鍛冶屋がもうけられるのは木のよく茂っているところが多く、そこへ砂鉄を持ってくればよいので、鉄穴場とたたらとは遠くはなれていることがすくなくなかった。 たとえば島根県の津和野の近くにはたたらがたくさんあった。 しかしこのあたりでは鉄穴掘りはしなかった。 適当な山がなかったからである。 津和野藩には江川筋にも領地があって、そのあたりは砂地の山が多く、そこで鉄穴掘りをおこなって得た砂鉄を、舟に積んで江川を下り、日本海をへて益田にまで来て高津川をさかのぼり、木のよく茂っている日原の奥まで持ってきて、たたらにかけたのである。 広島県加計町のたたらなども県北の山中の鉄穴場で得た砂鉄を馬で運んで精錬している。 しかし鉄穴場とたたらが一所にあったところも多い。備中備後出雲などはそれであった。 そういうところではたたら場ができると地方の農民も大いにうるおったわけである。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.142)


     まず鉄穴掘りがおこなわれる。鉄穴流しともいっている。目のあらい花崗岩の砂地の山の山肌をきりくずしていく。 そこへは溝がひかれている。 溜池や川を利用してこの溝に水を流してまず小石やあらい砂は流してしまう。 鉄分は重いから沈んで底を流れていく
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.142〜143)


     鉄穴流しは秋彼岸から春彼岸のでの間、農家で灌漑用水の必要のないときおこなうものである。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.143)


     水が流れてくると百姓たちは砂を流れに落しいれつつその砂を下流に流していく。 石の多い山では石はねといって石をはねる作業がある。 のこりの砂や砂鉄は大池にたまる。 これをまた流して中池へ送る。 さらに乙池へ送っていく。 その間に普通の砂は流れ去って鉄分と砂の一部がのこる。 それを船場へ持っていく。 船場へはすんだ水を流し、鉄と砂のまじったものを船場に入れ、エブリで砂を押しあげるようにすると、普通の砂は流れについて去る。 粉鉄は重いので船の中にたまる。 上洗いというのは粉鉄が八分に、砂が二分ぐらいまじっているもので、それ以下だと粉鉄が七分、六分という場合もあるが、砂が多ければ鉄の値段はやすくなる。 また、船場から下に一の落ち二の落ち三の落ちという堰をつくって砂をとめ、その中からさらに粉鉄をとる。 これを落小鉄(おちこがね)といっている。 目方が軽くて値も安い。 また川に落ちた砂をせきとめて大池へ運んで船場へ流して、そこで洗い、粉鉄をとることがある。 川落粉鉄(かわおちこがね)といっている。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.143)


     とった粉鉄は鉄穴持主鉄穴師流し子ともいう)が半々にわけるのが普通であるが、粉鉄の多い山では山主が六分とることもあり、新しく鉄穴流しをするところでは鉄穴師が七、八分とる。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.143〜144)


     さて、粉鉄はたたらに運んで、銑鉄にする。 たたらのあとはこの地方の山中いたるところにあり、しかもその一つ一つのたたらがいつごろおこなわれていたかを知る者はない。 何年かたたらを吹いて、付近に砂鉄がすくなくなるか、山の木がなくなると移動していったもので、木の大きくなるまではまたもとの静寂な自然にかえる。 そして木の生長した何十年か後に、また人がやってきてたたらをつくる。 そのとき前のたたらと後のたたらとの間には人間的に何のつながりもない。 つまり、その前どんな人がいてたたらを吹いたかを知る者は誰もいないのである。 広島県比婆郡高野町の奥三沢という鍛冶屋の定住した村をしらべにいったことがあるが、その山中にはいくつもたたらの跡があり、また墓石ものこっているという。 しかもたたらの〈かなくそ〉の上に、ニ、三〇〇年はたっているだろうと思われる巨木の生えているところもあるというから、そういうたたらは、ニ、三〇〇年前にすでに廃棄せられているわけである。 この部落には部落の中にも大きな〈かなくそ〉の山があるが、それすら今の村人はいつごろ誰が来て作業したかを知らぬという。一つの部落の歴史が血のつながりによってつづいていくのではなく、断絶をくりかえしつつつづいていくところにたたらの村の特色がある
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.144)


     しかもたたらの規模からしてせいぜい一年も銑鉄を吹いて、他へ移動したと見られる程度のものもすくなくないという。 そのころのたたらは、いま鍛冶屋の用いている〈ふいご〉のようなものでふいていた。一夜(よ)(四日四夜を一夜という)に一五駄から二〇駄ぐらいあいたと見られるが、幕末のころになると天秤というたたらでふくことになったため能率があがって一夜に四〇駄あまりもふくようになった。 すると〈たたら〉も大がかりであるから、建物その他も大きくしなければならず、すくなくとも一ヵ所で五、六年はかせがぬと採算がとれぬことになる。 それにはそれだけの薪の容易に得られる場所をえらばねばならなくなる。 しかしそれにしても三〇〇夜−−すなわち一四〇〇日、およそ四年くらいおなじところでたたらをふいていると、炭を焼く場所がどうしても遠くなり、その運搬に多くの費用がかかってくるから、たいていは三〇〇夜も精錬するとたたらを他へ移すことになる
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.144〜145)


     たたらに使用する炭は一夜で三三〇〇貫とせられている。 すると一丁歩の山を三夜たらずでつかってしまう。 三〇〇夜操業しようとすれば一〇〇丁歩以上の山が必要になる。 とにかく大量な木炭がなくては鉄の精錬はできないのであって、中国地方の山がはげてしまったわけもよくわかるのだが、幕末のころ中国山中にあった鉄穴場がおよそ一〇〇〇ヵ所と見られるから、たたらがその五分の一あったとしても二〇〇ヵ所。 それが年々二万丁歩の山を伐りつつ四年ごとに移動していったとなると、たいへんなことになる。 一年一ヵ所移動時代にはもっとすさまじい勢いで山中の民の移動が見られたであろう
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.145〜146)


     ただしこれはたたらだけの話であってこのほかに鍛冶屋がある。 鍛冶屋の方は小炭をつかう。 炭にする木はクリクヌギマツなどの小さいのがよい。 そういう木の茂っているところへ鍛冶屋をたてる。 備後地方では一日に六吹の作業をおこない、銑鉄五十貫を割鉄三二貫にする。 割鉄は土地によって形量がちがう。 西域では長さ二尺五寸・幅一寸三分・厚さ三分で、東域では長さニ尺一寸・幅一寸一分・厚さ四分になっている。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.146)


     さて、鍛冶屋は奴可郡という小さい郡内だけでも三二ヵ所にきまっていて、これが郡内を移動していたという。 享保のころ奴可郡には藩営たたら二ヵ所に対して鍛冶屋が六ヵ所であったというから、鍛冶屋の方がたたらの三倍もあったことが知られる。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.146)


     鍛冶屋の方はその日のうちに木を伐って炭に焼き、その翌日は精錬に用いたもので、鍛冶屋直属の焼子が焼いたものである。 鍛冶屋一工場には職人七人・炭焼十五人が普通で一人一日二〇貫の炭を焼いたから全体では三〇〇貫になる。 すると年間には一〇万貫余。 年間に二〇丁歩の山を伐ることになろう。 したがってこれもたえず移動せざるを得なくなる
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.146)


     かくて山内者たちはほとんど農業をおこなわず、山から山をわたり歩き、その家もすべて掘立小屋で床はあるものがすくなく、カヤを編んでしき、その上に筵をしいてくらしていたという。 そしてすべてが貨幣経済で、何もかも買って食べなければならぬ生活をしていた。 だから一般農民と親しく接触することはあまりなく、また農地を持っていないので土地に束縛せられることもすくなかった。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.146〜147)


     土地も持たず、家も粗末だということによって、村人からは軽蔑の目で見られていたが、こうした生活をつづけてきた人が中国山中には五、六万人もいたのではないかと推定せられる。 そしてその外側には鉄穴掘り・大炭焼・駄賃づけの仲間がさらにそれに数倍していたはずである。 このような砂鉄精錬の歴史は記録の上からは平安時代までさかのぼるが、実際にはさらに古い歴史を持っていよう。 そしてしかも、砂鉄精錬は年々盛んになっていたものだから、新たにこの事業に参加したものも多かったはずである。大阪城の落人がこの仲間になだれこんできたという口碑と、そのころから砂鉄精練事業がとくに盛んになってきたということはほぼ一致する
     だが鉱山労働者の背後にある旦那もその有力な者の多くが落人の系譜に属するのは興味ある問題である。
    (《十二 中国山中の鉄山労働者》P.147)


     十三 鉄山師

     多くの労力と特別の技術を必要とする鉄山経営はただ農業のみにたよって日々を送っているような者にはむずかしく、あらくれた男たちをおさえてこれを十分に働かしめるような力量のある者でなければ大成しない。落人武士というような者には十分その資格があったものと思われる。 そしてその初めは砂鉄をとり、たたらで銑鉄をつくり、また鍛冶屋で鋼をつくる作業をくりかえしていただけであったろうが、そうしたなかで徐々に財産が蓄積せられていく。
    (《十三 鉄山師》P.153〜154)


     まず鉄穴流しをおこなうとおびただしい砂が流し出されていく。 それが付近の谷をうずめていく。 山地が骸骨のようにやせほそっていくにつれて、その下方には流出した砂をせきとめて、水田が発達してくる。 この田を流し込み田といった。 そしてそれは鉄山師のものになり、鉄山師はそれを鉄穴掘りをしている人夫たちにつくらせる。 鉄山経営が久しければ久しいほど流し込み田はふえていく。 と同時に小作人の数もふえる。 そういう家へはまたも飼わせた。
    (《十三 鉄山師》P.154)


     鉄山経営者には木炭・砂鉄その他運搬を必要とする物資が多い。 こういうものを一々人の背にたよっていたのではどうすることもできない。 そこで古くは多く牛の背を利用したようである。牛ならばどんな細い道でも歩く。 鉄山の親方たちはたくさんの牛を持ち、それを下作人(小作人)たちに飼わせつつ、運搬に使用したのであるが、道がよくなってくると牛よりは馬にきりかえた方が効率的になって、馬がだんだんふえてくる。 だが鉄山師たちは牛をすてなかった。 古くから飼ってきた牛につよい愛着を持って育てて来、冬は駄屋でかい、夏は山野に放牧した。 山野といってもそこは砂鉄をとったあとが多かった。 そこには鉄穴流しをおこなった池や、鉄穴溝ものこっていて、牛があそぶには適している。 だから砂鉄掘りをしたあとはほとんどといってよいほど牧場として利用せられている
    (《十三 鉄山師》P.154〜155)


     十四 炭焼き

     長崎県対馬の厳原(いずはら)という城下町から山一つこえたところに日掛という部落がある。 今は多少の水田も見られるが、もとは耕地らしいものはほとんどなかった。 家は三、四〇戸もあろうか。 この部落の人たちは対馬銀山の炭焼として石見(島根県)の国からわたってきたのであった。 対馬銀山はすでに古代から銀を出している。 しかしこの銀山から多くの銀の出たのは近世にはいって技術が大きく改良せられてからであった。 このとき製炭法も改められた。 新しい製炭技術を持ってやってきたのが石見の者であった。 たぶん大森銀山付近の者であったと思われる。 銀山から南へくいこんだ日掛の谷は木がよく茂って恰好な製炭地であった。 その谷で炭焼たちは思い思いのところへ小屋掛けして炭焼をはじめたもののようである。 別にきまった部落はつくらなかったし、また家らしい家も持たなかったようである。 この山中で炭材を伐っていると、よく自然石がたてられているのを見るという。 これは墓標なのである。 人が死ぬるとその場へ埋めたもののようで、たぶんその近くに小屋掛けして炭を焼いたのであろう。 墓標の近くに炭竈のあとがあるという。 いや炭竈のある付近にはたいていの場合自然石の墓標があるという方が適当かもわからない。 そのことによって炭焼たちは炭竈のそばで生活していたことが知られるのである。
    (《十四 炭焼き》P.164〜165)


     このような生活のたて方はそのまま石見地方から持ってきたものであろうとのことである。のちにこの炭焼たちは日掛にあつまってきて家をたて、そこから炭竈へ通って炭を焼くようになるのだが、それは厳原の城下で炭の需要がふえ、厳原の問屋との取引が多くなってから、みんなが一つ所に住んでいる方が何かに便利であるためだという。 そのうちに明治になり、銀山への木炭供給もなくなってからは、山中で孤立して炭を焼く者はこの谷に来ている朝鮮人をのぞいては一人もなくなった。
    (《十四 炭焼き》P.165)


     みなが一つ所に住むようになっても、他の部落とちがうところが一つあった。この部落には全村共通しておこなう年中行事というものがほとんどない。 盆でも正月でも祭でもお互いが行き来して交歓することはあまり見かけない。 また今日はどういう日だから休もうということもない。しかし一家の者はたいへんむつまじくて、どこの家でも夕飯のときはお互い酒をくみかわして談笑しつつ食事をとるという。 私の泊めてもらった民家でも普通一般の農家に見られるようななごやかな雰囲気なのである。 それはそれぞれの家が長いあいだ孤立して生活してきたことの名残りによるものであろうとその家の人たちは話していた。 この人たちの生活の中には古い炭焼の生活の仕方がなお濃くのこっているように思えた。
    (《十四 炭焼き》P.165〜166)


     一般の百姓たちが炭を焼きはじめるのは新しいことである。 ことに東北地方にあっては昭和九年の凶作のとき救済事業の一つとして製炭が奨励せられて、一時異常なまでの発達を見てくる。 そして農閑期の作業として大きくとりあげられてくる。 それまでは炭焼はむしろそれを専業に近い形でいとなんでいるものが多かったのである。
    (《十四 炭焼き》P.166〜167)


     十五 杣と木挽

     建築用材は杣人たちによって伐採せられることが多く、それぞれ伐採地に山作所がもうけられ、杣人たちはそこで働いたのである。 そしてその初めは奈良・京都など都の近くに山作所がおかれ、琵琶湖や宇治川・木津川・保津川などを利用して運搬せられたのであるが、鎌倉時代になると周防のような遠方に木材をもとめることもあった。 それにしても、やはり海上輸送によったことを見おとしてはならない。 とにかく用材採取地は時代が下がるにつれて次第に拡大していった。文安四年(一四四七年)ごろ京都南禅寺仏殿室町幕府の建築がおこなわれたが、このときは東は信濃・飛騨・美濃西は四国・美作などにおよんで用材をもとめた。 そして信濃・飛騨・美濃からは柱六九本・虹梁六本・柱貫七七本・大輪五十本・冠木六六本、合計二六八本が出されている。 そしてそれらの木は、木曾山・付知山・山の小路山−−すなわち木曽川ぞいの信濃と美濃の国境付近の山が多かった。 これらの木は筏にくんで木曾川を下し、長良川にはいってこれをさかのぼり、墨俣で陸上げして車一〇〇〇輌・馬八〇〇〇駄をつかって垂井をへて琵琶湖に出、そこから五〇〇隻の船で湖水を横断している。
     これらの数字からもわかるように、陸路をとることになると、おびただしい人馬の力を借りねばならなかったから、できるだけ水路の利用が考えられたわけであるが、このように河川を利用する方法は昭和二〇年以降自動車の通う林道の発達するまで見られたのである。 そして流送に便利な河川の上中流流域で林業は発達したのである。 そのうちめぼしいものをあげてみると、まず大和吉野山中がある。 この山地は南へは北山川・熊野川が流れ、新宮で海にはいっており、西へは紀ノ川が流れて和歌山の北で海にはいっている。 そしてこの二つの川は筏の流送のためにじつによく利用せられたのであった。 つぎに木曽川がある。 木曾谷はスギ・ヒノキなどの天然の良材を出し、これらの木材は川を利用して錦織に運ばれ、西の方に運ばれるものはここで陸上げされている。 また秋田能代川流域も古くからスギの産地で川を利用しての流送がみられた。 そのほか幕末ごろから林業地として発達した筑後川上流の津江地方徳島県那賀川流域天竜川中流の山地など、いずれも川の利用の可能なところであった
    (《十五 杣と木挽》P.170〜172)


     しかし林そのものは山峻険にして谷深く、人煙まれなところが多かった。 つまりそういうところに天然のスギ・ヒノキが多かったのである。 そして不便なるが故に人もそこにはいりこむことがなかったが、木材の需要が増加するにつれて漸次伐採がすすめられていった。
    (《十五 杣と木挽》P.172)


     杣はだいたい二〇人ないし三〇人が一組になっていて、労務の頭をつとめる者を庄屋といった。 そして木を伐り倒す者を先山、枝をはらい胴切をおこない角材や板材にする者を後山、運材する者をヒヨウ、杣小屋に米塩を運ぶ者を持子、炊事にしたがう者をほうじ、またはかしきといった。
    (《十五 杣と木挽》P.173)


     さて、川まで出すとヒヨウ組の者によって川へ落しいれられて筏の組めないところでは一本一本を川流しする。 これを管流しといったが、管流しが順調におこなわれるために、川岸にいて、木や岩にひっかかった材木をはずして流水にのせることを川狩といった。 この川狩をおこなうとき、まだ十分に組まれていない小筏や大きな材木にのって岩をさけつつ下っていく中乗(なかのり)という人夫がいた。 これは川狩のヒヨウの中からえらばれた巧者なもので、夏川のときは一〇〇〇人に一人であった。 木曾節にうたわれた「木曾の中乗さん」がこれである
    (《十五 杣と木挽》P.174)


     ヒヨウの仕事はつらいものであった。材木の流送は冬期が多かったからである。夏だとときどき豪雨が来て水かさが増して材木を海まで押し流してしまうことがすくなくない。 冬ならばそのことがすくないが、冷えきった川水の中におりて作業をしなければならない。 流水もかなりあるところへ出ると大川狩をおこなう。 この場合には小筏を組んで、その木尻に乗って、筏に組まない木を流水にそうようにしながら土場まで下っていくのである。
    (《十五 杣と木挽》P.174)


     十六 山地交通のにない手

     山中の生活で人びとをもっとも疲れさせたのは地形の障碍である。 山中には平坦な道がほとんどない。 上ったり下ったりでそのうえ多くは踏みたて道であった。 どこに行くにもそういう道を歩かねばならず、一度迷えばもうふたたび人里へ出てくることもできない場合があった。 だから山中の道を歩くためにはもとは道案内荷持ちをやとったのである。 そういう人をたのんで初めて旅は安全だったのである
    (《十六 山地交通のにない手》P.181)


     しかも山中には五里八里のあいだ人家も何もないようなところが多かった。福島県会津奥の只見村から新潟県へこえる八十里越六十里越はそうした峠であった。六丁一里の八十里であるから、十三里あまりの峠になるわけだが、その間にお助け小屋があるだけで、人の住む家はなかった。 六十里越なども一〇里のあいだ人家らしいものはなかったのである。
    (《十六 山地交通のにない手》P.181)


     それでもそういう道を往来しなければならなかった。 この道をもっとも多く通ったのは行商人であった。 会津奥の村々に住む者に消費物資を運んだのである。 農具から衣類をはじめ塩のようなものにいたるまで一本の細道を通って奥地に運んだ。 そしてその奥にある村々も、この道を通じて初めて日本海側の文化に接することができたので、したがって山中の文化は長く停滞していた。 たとえば昭和の初めまで穴あき銭−−すなわち江戸時代におこなわれていた銭が通用し、文(もん)を単位にした呼称があった。 そして一銭を十文とよんでいたのである。
    (《十六 山地交通のにない手》P.182)


     牛馬をつかう場合には牛が多かった。牛は馬よりも細い道を歩くことができたし、夜になればどこへでも横になって寝ることができたからである。 山中深くを運んだのも多くは牛であった。 そして飛騨から野麦峠をこえて日本アルプスを横切り、信州の松本平までブリを運んだのも牛の背を借りたことが多かった。
    (《十六 山地交通のにない手》P.183)


     地方の中心をなす親方の家は多くは問屋をかねていた。 村人の製品はそこへまとめてボッカ牛方に越中の問屋まで送らせる。 同様にして生活に必要なものを取り寄せる。 村人は親方からそれを分けてもらう。 山中の生活は多くは親方まかせであり、そうしなければ生きてはいけなかった。 親方が何もかもしぼりとるように見えても、それがいやだといって、自分で製品を里まで持って出て売るのでは時間と労力ばかりかかって、かえってマイナスになる。 そこで生産する者は生産する者、運搬する者は運搬する者で、両者おのずから分かれてきたわけであり、その間をつないで親方が存在したのであるが、その親方がしっかりしていないと公正な取引きもむずかしくなり、こうした親方の発生と存在は、まったく自然的な現象であったといっていい。
    (《十六 山地交通のにない手》P.183)


     また山地にはコウゾの野生も多い。 その皮をとって川にさらしたものを里へ出す。 これを運ぶのはやはり荷持ちの仕事である。五家荘地方のものは二本杉峠をこえて緑川流域の砥用まで持って出たが、五家荘の南の五木では南へ下って人吉へ運んでいる。
    (《十六 山地交通のにない手》P.185)


     山中へ運ぶものは塩と米が多かったというが、そのほかにも燈芯農具などがあった。 そういうものが運搬に要する手間賃を含めることによって、里の三割増の価になった。 同様に売るものは三割低かったので、交通の不便ということによって平野の人たちに比して物価に六割の差を見なければならなかった。 土地の条件がわるくて生産力の低い上に物価の上にこれだけの差があったのだから、山中の生活は苦しくならざるを得なかった。
    (《十六 山地交通のにない手》P.185)


     大和吉野山中は林産物の多かったところでとくに樽丸の搬出が目ざましかったが、それらのほとんどは人の背によったものである。 もと木製の桶は曲物が多かった。 檜をうすく割ってつくる。 曲げて両端をあわせたところはサクラの皮で綴じた。 これに底をつけて用器にし、水もこれで運んだ。曲物の桶にはおのずから限界があって大きいものはつくれなかった。 この曲物桶や柄杓は吉野西奥の天ノ川谷が大きな山地であった。
     ところが室町時代の終りごろ、短冊形の板をたてならべ、これに竹の〈たが〉をはめ、円形の底をいれてつくる桶が考案せられた。 この方法ならば、短冊形の板すなわち樽丸を長く大きくし、底をひろくして大きなたがをかければ大きな桶をつくることができる。 ここに私たちはそれまで考えることもできなかったような大きな液体容器を持つことになった。 それまで酒や味噌をつくるには陶製の壷を利用していたが、それすら二石入程度が限界であったものが、竹たがを用いた桶では二〇石入の容器も見られることになり、それがにわかに酒造業を大きく発展させることになる。 ところが樽や桶にするスギは板目(年輪)のまっすぐに通ったものでなければならぬ。 まずスギを桶の深さにあわせて鋸で切って丸太にし、それを鉈や斧で中心を通していくつかに割り、さらに今度はその割ったものを板目にそって一定の厚さに割っていく。 この板目は少しずつ円形になっている。 そういう板をならべて行けばおのずから円形の桶の側ができるわけで、それにはスギそのものがそれに適した板目を持ち、しかも節のないものでなければならぬ。 吉野杉は上から下までほとんどおなじような大きさでまっすぐにのび、樽丸をとるにはもっとも適していた。
    (《十六 山地交通のにない手》P.185〜186)


     おそらく、中世にあっては山伏が山間交通のためにつくした功績は大きいものがあったのではないかと思われる。 東北地方の山中にのこる数多くの山伏神楽のごときも、山伏がこれをもたらしたというだけでなく、山伏もまたそこに住み、村人にとけあっていたからであり、さらにまたこの仲間の往来が頻繁で、単に近傍への荷持ちをしていたばかりでなく、羽黒・熊野への旅もくりかえしていたようである。 秋田県檜木内には、今も法螺祭文がのこっているが、これは村の何某という者が熊野からならって持ってきたものであるという。 何某が山伏であったという伝承はないが、術をつかって稲架の棒杭のさきをピョンピョンととび歩いたという話があるから、山伏の仲間だったのであろう。 村にあっては農業にしたがっていたが、そのかたわら大覚野峠をこえて、その北側の阿仁の谷との間の荷持ちをしていた。 この人は生涯に二度ほど熊野へまいったそうで、山から山へわたり歩いて熊野へ行ったという。 そして熊野で法螺祭文をならった。 法螺貝をふき、錫杖をならし祭文をとなえるものであるが、かえりにはこれで家々を門付けしてきたという。 村へもどってきてからも村人にこの祭文を教えた。
    (《十六 山地交通のにない手》P.190)


     十七 山から里へ

     山深く住んでいた者もまた大挙して野に下ってくるようになった。 山地での生活のむずかしさがそうさせたのであろう。 山間の人口はもときわめて希薄であったと思われるが、そうしたなかにあってもすこしずつふえていった。 第一巻「開拓の歴史」のなかでもふれておいたことだが、山腹や谷間にやや傾斜のゆるやかなところがあればひらいてそこに家をたて、次三男をおちつかせる風習は山中いたるところに見られたところである。そうした村がふえてくると、山中に住んでもさびしつはいくぶんまぎらわされるが、同時に生活は苦しくなってくる。 平年ならば定畑や焼畑でつくったもので生活もたつけれども、凶作となると、クリ・トチの実もとらねばならぬ。 しかしそれにもそれぞれ縄張があるとなれば生活はいきおい圧迫せられざるを得なくなる。 しかも焼畑などにたよって生活している者が凶作や天災にはまたもっとも弱かった。 加賀白山の麓の村々がまさにそれであった。 この山麓・山間の村々は焼畑をとくに盛んにおこなったことはさきにも書いたが、それだけでは生活がたたず、食料が不足してくると焼畑づくりの農民たちは親方の住む牛首の部落に出て物乞いをした。 そうした人が道にあふれていたという。 夕暮れのひとときなど、物乞う人の声で村は騒然としたほどであった。 だが親方の方にも施す限界があるから、やがてこの仲間は谷を下って平野地方へ出ていく。 雪の来るころを橋の下や民家の軒下を宿としつつ時には近江・京都あたりまでもさまよい歩いて食うものをもとめた。 野の人びとは白山乞食とか牛首ボイトとかいったものであった。
    (《十七 山から里へ》P.193〜194)


     山中の民はそうした物乞いに出るばかりでなく、物売りにも出たのである。 サンカの回帰性移動のごときもその一つであろうが、なかには農閑期になどをつくって里へ売りに出る者もあったわけで、そういう村は山中いたるところに見られた。 冬の間に細工をしておいて、春になると持って出るのである。買う方の側からいうと、去年も買ったからもう必要はないというような場合もあったが、ことわると何かたたられることもあるかと思い義理に買うこともすくなくなかった。 群馬県で聞いたところでは山から物売りに来たのを拒絶したため、家に放火されることもあるという。取引きによって生ずる関係はもとは単なる物品の交換だけでなく、もっとつよい人間的なを生んだようである
    (《十七 山から里へ》P.194〜195)


     サンカの箕作りばかりでなく山間の特別な技術を身につけて里へおりてくることも見られた。 たとえば屋根葺きがそれである。会津から出てくる屋根葺きは広く関東平野の村々の屋根を葺いて歩いた。 大きな屋根を葺くには特別の技術が必要であった。 話で聞いただけでまだ十分たしかめたことではないが、山中にはソラシという者がいたという。 空師とでも書くのであろう。 焼畑の多いところや杣仕事の仲間にこれがいた。 身軽でどんな高いところへでも平気に上っていくのである。 そして高い木にのぼってその木の枝をおろしたり、また縄一本を利用して隣りの木へも移っていく。 間口一〇間もあるような大きな家をたてるようなときには大工のほかにソラシが必ず参加して合掌を組み棟木をあげる仕事をしたという。そうしたソラシは屋根葺きのなかにもたいてい一人二人加わっていて、危険な仕事はこれがした。 この仲間が野に下り町に住みついたのが庭師であり鳶職であるという。
     屋根葺きのふるさとが山中に多いのも、身軽で高いところに上ることになれていることが条件だからである。会津は山仕事の盛んなところであった
    (《十七 山から里へ》P.195〜196)


     野では早くから電灯が皎々としてついているのに山間ではランプのままであるということは山間に住む人の心を暗くした。 それよりも何よりも、山にいては子供たちを学校へさえ十分に通わせることができない。小中学校の永欠児童のうち、親の職業を見ると林業とある者がもっとも多かったその大半は炭焼にしたがっているのであろう。 そういうところには分教場もない。 かりに学校へ通わせるにしても、二里三里の細道を歩かせなければならない。 山中にはそういうところが多い。 とくに冬は困る。 滋賀県余吾村丹生の小学校には、もと大きな寄宿舎が併設してあった。 冬になると雪が深く、奥の村々からの通学は困難になるので、一二月から三月までは生徒を寄宿舎へ収容して教育するとのことであるが、それもたいへんなことである。 広島県比婆郡の山村では冬になると山奥の村へ臨時分教場をもうけ、先生がそこに出向いて授業をする例も見られた。 現今は各地ともこの方法が多くとられているようである。 いずれにしても山中に住む者が子供を一人前に学ばせるためには野では考えもおよばないような負担があった。 子供を四人持った親から毎朝暗いうちに起きて弁当をたき、それを弁当箱につめては送り出した話を聞いた。 日曜をのぞいては一日もおこたることができない。 それも山の生活だから米以外のものを食うことが多いのであるが子供にだけは米を食わせなければならぬ。 その米の調達にも一方ならぬ苦労をした。
     「日曜日と夏休み・冬休み・春休みをのぞいては毎日四時におきました。 四人の子供が中学をおえるまで、私は二〇年近く弁当をたきつづけたのです。 姑に仕える苦しさどころではありません。 私を一ばん疲れさせたのは弁当たきでした。弁当をたかなくてすむようになってほっとしたら、こんな年をとってしまっていたのです
     山村の母たちを疲れさせている理由はいろいろあるだろうが、こんなところにも大きな原因があるのではあるまいか。
    (《十七 山から里へ》P.199〜201)


     ダムで沈む村の人たちが絶対反対して移住をこばんできたのが、新しい移住さきへおちついてみると、もうもとの山への愛着はほとんどなくなったという話はよく聞く昭和三六年七月の集中豪雨で大きな災害に見まわれた長野県天竜川東岸山中の村々でも、そこにはとうてい住める見込みもなくて、天竜川西岸の駒ヶ根市や伊那市へ移住した者もすくなくなかったが、それらの人を移住さきにたずねてみて、いずれも移住してよかったという感慨をもらしているのは印象にのこった。わずかはかりの畑を耕し、山林労務にしたがっているよりも、土地を持たず、その日働きの生活に不安はあるとしても、ここにおれば子供を一人前に学校へ通わすことができるだけでもありがたいといっていた
    (《十七 山から里へ》P.201)


     災害をこうむってふるさとをすてた者は二〇〇戸にのぼっだあろうが、そうしてふるさとをすてた者の現状を見て、あとにのこっている者も徐々にふるさとをすてはじめているようである。 そしてこのような現象は次第につよまっているのではないかと思われる。
    (《十七 山から里へ》P.201)


     付録 山と人間

     山中の畑作民

     山中にかぎらず、関東、東北には台地や丘陵の上にも水田を持たない集落が少なからず分布していた。
     これらの焼畑または畑作農民は水田耕作の経験を持っていたであろうか。 おそらくは持ったことがなかったと考える。 つまりそこに居住したとき以来、畑耕作をおこなっていたものと思われる。 つまり水田耕作民がだんだん山中に入って畑耕作のみの生活をたてるようになったのではないと見られるのである。 もし水田地帯から山中に入った場合には山中に入っても水のあるところを見つけて稲作にしたがったのではなかろうか。 それについて盛永俊太郎博士は『稲の日本史』(第三)で興味ある発言をしている。 すなわち「日本の地すべりの研究をしておられる小出博(理学博士)さんが、『地すべり地帯は山でありながら地質の関係で水が非常に得やすいところで棚田が発達している。 よく平家の落武者がすみついたといわれているところはみな地すべり地帯である』という意味のことを言っておられる。 私の郷里(富山県)にもあります。 新潟にも長野にも水田をもつ地すべり地帯が多いようです。 それで一口にいえば、平家の落武者が入っているところはみな地すべり地帯。 それで、そこがおもしろいのです。地すべり地帯はみな土地が肥えて、水を得やすいからよい水田がつくれる。 山の中へ入って水田をこさえようと思えば、地すべり地帯へ行けば、自活農業の水田ならば容易にできる
     そのかわり、山で傾斜があるから、田圃が小さい。 大きなものをこさえておいても、長年の間にすべりますから、あぜをこさえても小さくしなければ水が持ちません。
     一反千枚田という小さい田も地すべり地帯の特徴である。 山の中で水が得やすく稲をつくりやすいところをえらべば、自然そういうところになる。 平家の落武者が入ったのは古いことではありませんが、そのころ田をつくりやすかったようなところは大昔でも田の作りやすかったところということも考えられる
    」といっている。 これは重要な意味をもつ。 つまり水田地帯から来たものは山中に入っても、できるだけ水田を開き得るところに定住している。 平家落人伝説も、単なる伝説にすぎないところは別として、平家にかぎらず、落人の山中定住のかなりはっきりしているところでは、たいてい水田がそこに見られる。 『熊谷家伝記』という貴重な記録を残している長野県下伊那郡坂部の熊谷家は、熊谷直実の子孫といわれ、南北朝の合戦の頃、戦乱のわずらわしさをさけてこの山中に入った家であるが、山顛に近いところに立村しながら水田を多くひらいている。 そのほか水田地帯から入って山中に定住したという記録をのこしているところには広狭は別として水田を見かけるものである。
     しかしながら、その定住のきわめて古かった山中の場合は畑作のみに依存しているのがほとんどである。 ただ、中国地方の山中のみは農家が田と畑の両方をつくっているものがきわめて多い。 これはまた別の事情が考えられる。
    (《付録 山と人間》P.217〜218)


     畑作民と狩猟

     中奥山も畝高(水田の石高)なしの四三石六斗の村であった。 したがって焼畑づくりの村であったと言える。 戸数一六八軒、人数六三四人で、鉄砲持が十九人いる。 『西条誌』の著者が某年八月末に細野山に宿をとったとき日の暮れ方から太鼓をうち貝を吹き、あるいは人声をあげてよばわり、数十の兵卒が攻めて来るもののようであった。 怪しんで問うと伐畑(畑作)に畑物がみのる頃になると、およそ四〇日の間毎夜このようにして夜を徹して守らないと一夜にして猪に喰いあらされてしまう。昼は猿を守り、夜は猪を追う、それが山中の日々の生活なのである。 ここにはまた中世の風流がのこっていて盆にも踊れば、貴人の来たときにも踊っている。
    (《付録 山と人間》P.220)


     西条藩では水田を持たない山村は以上の五村であるが、この記事で興をおぼえるのは鉄砲をもっている家の多いことである。 山中にあっても水田耕作を主とする村では鉄砲はほとんど持っていない。 これは何を物語るものであろうか。 山中で野獣が多いから鉄砲をたくさん持っているのであろうという推定が一通りなりたちはするが、理由はそれだけではなく、古くから狩をして来た村であったことによると考える。 しかし狩だけでは生活はできないので、焼畑を耕作し、杣仕事をおこなって生活をたてていたことになる。 そしてそれは西条藩の焼畑村ばかりでなく、国境を南へこえた高知県寺川なども同様であった。
    (《付録 山と人間》P.221〜222)


     高知県寺川については『寺川郷談』というすぐれた文献がのこっている。 寺川は藤野石山から南へこえたところにある。 郷談は一七四八年ごろ高知からこの山中へ派遣された武士の見聞録である。 そこで寺川における生活について見ると、この地も焼畑耕作を主とした村で、三月の節句がすぎると山中へ小屋をつくってそこに生活をうつし、一一月まではこの小屋(他屋という)ですごす。 そして山を焼いて稗小豆をつくる。 そして昼は猿を追い夜は一晩中鹿を追うて休むときもない。 四月の末になると、家のまわりの畑の麦がうれて来る。 すると村人があつまって麦ほめをする。 「うねの麦は谷へなびけ、谷の麦は畝へなびけ、臼に目をたてばいちょうがまえ、鎌といで待ち候ぞ。 世の中よかれはりとんとん」というのである。
    (《付録 山と人間》P.222)


     しかし畑作が水田稲作より後におこったものである証拠はない。 昭和三九年青森県下北郡宿辺部の縄文晩期遺跡から片刃の磨製石斧が出て、それは明らかに穂摘用のものと知られるので、縄文期にも農耕がおこなわれていたものかと思ったが、発掘者の江坂輝弥氏はむしろ弥生式文化の影響をうけたものと推定している(最近ここから稲籾の圧痕のある土器が出た)。 しかし水田稲作のまえに畑作のあったであろうことはわずかながら推定を裏付ける資料がある。 『備後風土記』逸文に、北海にいる武塔天神が南海の神の娘をよばいに来たとき日がくれたので巨旦将来のところへいって宿を借りようとしたが貸してくれないで、兄の蘇民将来のところへゆくと、蘇民は貧しかったけれども粟柄で座をつくり、粟飯を御馳走した、という話が見えている。 新嘗の祭であると思われるが新嘗に粟をつかっている。 貧しいから粟をたべているとも見えるが、『常陸風土記』にも新粟を新嘗して家にこもっていた話が見えている。 両方とも新嘗に用いるものが米ではなく粟であったことは、粟が米にさきんじて作られ、粟を用いて新嘗をおこなっていたものが、後には米でおこなうようになったものと考える。 すなわち稲作のまえに粟作であったと考えていいのではなかろうか。シナでは水田稲作の前に畑作がおこなわれており、畑作耕作に依存した周のような国もあった。 そうした農耕文化の影響が日本におよばなかったものかどうか。 それも定畑の耕作ではなく、焼畑耕作が先行していたのではなかろうか。 そして狩猟採取を生活手段とした者が野獣の減少にともなって次第に自然採取へ、さらに焼畑農耕へと移行したものではなかろうか。
    (《付録 山と人間》P.226〜227)


     自然採取から焼畑への移行の中間段階として私は野焼を考える。 野を焼く意味はもともと居住地の近くへは野獣害虫を近付けないことにもあったのではないかと思う。 高知県寺川での焼畑耕作のために山をやくとき「山を焼くぞう、山を焼くぞう、山の神も大蛇殿も御免なれ、はう虫ははうて行け、とぶ虫はとんでいね、ひっこむ虫はひっこめ」ととなえるという。 もとより近世末の山間の一地方の例にすぎないけれども、このような山焼は居住地を定めるようなときにもおこなわれ、同時に新鮮な野草の生長をはかったのであろう。 焼いたあとに野草の成長のよいことはすでに人びとの知っていたことであろう。 とくにそこにはワラビのような食用になるものが育って来る。 ワラビは春窮の民には重要な食物の一つであり、その根を掘って澱粉をとることも早くからおこなわれていたと見られる。 昭和四〇年七月長野県乗鞍岳南麓の奈川村調査にあたって、ここはいわゆるヒエをつくる焼畑はほとんどおこなわれていなかったことを知った。 この村から野麦峠をこえた飛騨側の村々では盛んに焼畑耕作をおこないヒエをつくっていたが、奈川村では、山を焼くことはあってもヒエはつくらず、春はワラビの新芽をとり、秋はその根をほってネバナをとるのが女の主要な仕事であり、ネバナ(ワラビの澱粉)がこの地の主要な食料でもあった。 ここには自然採取から農耕への過渡的現象が見られたのである。
    (《付録 山と人間》P.227〜228)


     木工民

     山中の焼畑作農民の中には狩猟系以外に今一つの系統があったように思われる。 杣・木地など木材採取を主とするものがこれである。 そしてそのうち木地屋ははやくから問題にされて来た。
     では木地屋がどのようにして全国に分布し発展するにいたったかということについては今日まで十分明らかにされているとは言い難い。 伝説では小野宮惟喬親王が京都からのがれて近江の琵琶湖の東、小椋村の山中に入って御所を定め、その家来の小椋太政大臣実秀というものが、ろくろ挽きをはじめたといわれている。 しかしこれはどこまでも伝説にすぎない。
    (《付録 山と人間》P.238)


     木地屋根源地東小椋の奥には君畑があるが、さらに古くは南畑北畑と大きくわけられ、この山中に焼畑が分布していたことも推定せられるのである。 そしてろくろを使用する木工たちは平地民の求めに応じて食器その他をつくりつつつ移動漂泊を事としたと思われるが、中にはろくろを持たない木工の群もいたはずである。 杓子をつくる杓子木地がそれであり、鍬柄を作った者も山中に住み焼畑をつくり、そのほか曲物をつくった曲物師も山中におり、これらは時に漂泊するものがあった。
    (《付録 山と人間》P.239)


     これらのうちろくろ木地師はさきにも言ったように文字をもったから多少の文献ものこし、またろくろ師仲間の近江を中心とした結束の見られるのも、大きな特色である。と同時に彼らはおなじ山民ではあっても狩猟系山岳民より温和であったと見られるのである。
    (《付録 山と人間》P.240)








    【参照】
    [鍬柄](奥会津昭和村「からむし工芸博物館」展示品)
        別冊 恵比塵 120815_からむし織の里より
    「鍬柄」の説明板(奥会津昭和村「からむし工芸博物館」展示品)
        別冊 恵比塵 121028_からむし工芸博物館にてより