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![]() 新装版『王城の護衛者』 司馬遼太郎・講談社文庫 2011年7月15日 第7刷
王城の護衛者 加茂の水 鬼謀の人 英雄児 人斬り以蔵 年譜 |
(あんな男が。……) 慶喜には疑問だった。 すくなくともかれのみるところ容保は英雄の相貌をもっていなかった。 「英雄ではないな」 いま徳川家にとってほしいのは、英雄的な人物であった。 でなければ、京都を鎮撫し、諸藩を操縦し、公卿を懐柔し、いったん緩急あれば薩長土三藩を相手に戦争をする、というようなことがとてもできそうにない。 「外貌はあのようですが、性根の底のかたい人物のように見受けられます。たとえ容保が凡庸柔弱といえども、会津藩そのものが、英雄的な藩ではありませんか」 「なるほど、されば容保しかない」 慶喜の態度はもう一転していた。この武家貴族の癖であった。怜悧すぎるあまり、前言を簡単にひるがえしてしかも翻した新意見に熱中し、しかも翌日は忘れるというようなところがあった。 「百才あって一誠足らず」という評が、かれのために惜しむ人のあいだでひそかに呟かれている。 (《王城の護衛者》P.29) 容保は、可憐なほどに赤い唇をもっていたが、その唇が、ゆるやかに動いた。 「私は、だめです。 私が菲才(ひさい)だけではありませぬ。 私の藩(いえ)は奥州の僻辺にあり、家士はことごとく朴強(ぼっきょう)で、上国(じょうこく)(京とその周辺)の事情に通じませぬ。 風俗、気質も異りすぎます。 第一ことばさえ通じませぬ。 これがもっとも重要なおことわりの理由です」 「いや」 春嶽はそれにいちいち反駁した。 しかし容保の拝辞の意思はうごかなかった。 「あなたも慶喜公も私も、おそれながら東照権現(とうしょうごんげん)様(家康)の御血をひく者ではありませぬか。 いま宗家は未曾有の難局に立っております。 慶喜公も私も、連枝の身ながらかかる俗務をひきうけた。 東照権現さまおよび歴代大樹(たいじゅ)(将軍)の御恩を思えばこそです。 会津松平家には御家訓(ごかきん)があるときく」 (ある) と、容保はあきらかに動揺した。 土津公御家訓第一条に、「大君(たいくん)(将軍)の儀は一心に大切に。 他の大名の立場とはちがう」という意味のことがかかれている。 文章は漢文である。大君之儀、一心大切、可存忠勤、不可以列国之自処焉、若懐ニ心則我子孫、面面決而不可従。 春嶽は帰った。 その夕には、家臣に手紙をもって寄越させてさらに説得した。 容保は、かさねてことわった。 春嶽はそれでもあきらめない。 こんどは容保の江戸家老を自邸にまねき、時勢を説き、会津松平家の義務を説いた。 このとき、家老横山主税は、 「宗家の御血と申されますが、世に十四松平家とか十六松平家とかよばれている御家門の家々がございます。 さらには御三家もあり、会津松平家のみにその義務がある、と申されるのはいかがなことでございましょう」 「兵馬悍強(かんきょう)だからだ」 と、春嶽はいった。 (《王城の護衛者》P.32〜33) 「かれらのなかにはよほど無智な者も多く、会津をカイズと訓(よ)む者もある。その質は推して知るべきである」 ただし、と恭平は書きつづけている。 「恐るべき智弁の士もいる。 死をかえりみぬ勇者もいる。 一様にはいえない」 とあった。 家老神保修理は、この報告書を読んでひどく安堵したようであった。 「この程度の者どもなら、策をもってすればさほどのことはないかもしれませぬな」 といった。 が、容保は同意しなかった。 「私は策は好まない。この情勢下の京都で策を用いればついにその策のために自縄自縛になるだけだろう。 京を横行している諸浪士に対しても、その誠心を疑わないつもりだ。 かれらをみな尽忠報告の士として遇したい。 薩長土三藩に対してもいかなる偏見ももちたくない。 持てばみずから敗れる」 この言葉には、さすが世間知らずの藩士たちもおどろいた。 これではまるで「政治」を放棄した態度ではないか。 「それでいい」 と、容保はいった。 容保はもともと自分に政治感覚がなく、機略縦横の才が皆無であることを知っていた。 策謀の才がなかった。 自分の家来の会津人の特性がそうであることを知っていた。 (《王城の護衛者》P.40〜41) (苦手なことはやってはならぬ) とかれは思っていた。 京にあつまっている薩長の士は、ことごとく権謀術数にかけては練達の者であり、公卿の過激派もそうであろう。 そういうなかに入って晦渋な会津言葉で下手(へた)な策略をやったところでかえってかれらに乗ぜられ、高ころびにころぶだけのことだ。 「それにわれわれは外様藩ではない。 親藩である。 かつ官命を帯びて京の守護につく。 立場はかれらより上位にある。 上位にあるものは小才を弄するよりも至誠をもってかれらを包容するほうがはるかに効がある」 それを方針とせよ、と容保はいった。 (《王城の護衛者》P.41) 「とにかく京者(公卿)はやりにくいで」 と、老関白はそんな忠告までしてくれた。 「ひがんでいる」 容保にはそれが理解できる。 家康以来、幕府の法として公卿は生きるにやっとという俸禄(ほうろく)しかあたえられていない。 五摂家(せっけ)の筆頭である近衛家でさえ小藩の家老程度の石高だし、他の公卿にいたっては小旗本ぐらいの俸禄で生きつづけてきた。 加留多(かるた)の絵を内職にしている公卿もあるし、ひどいのになると、市中の博徒に屋敷を貸してその貸し賃で生計をおぎなっている公卿もあった。 そのくせ官位だけは、大名など及びもつかぬほどに高いのである。 「不平がある。それがちかごろのさわぎのもとや」 いまや一部の公卿の台所は潤ってきた。 穏健派は薩摩藩から金品がとどくし、過激派は長州藩から援助がある。 それぞれの施主のために公卿たちはさかんに宮廷政治をしはじめ、それが時勢を紛糾(ふんきゅう)におとしいれている。 (《王城の護衛者》P.46) 「要は、時期です」 と、慶喜はいった。 着任早々にそれらを復職させたことは、政治的ではない。 長州や諸浪士は会津の出方を見守っていたのだ。 その時期に右の復職を断行すれば、かれらは会津を「わが同志」とみるよりむしろ、 「くみやすし」 と軽侮するであろう。 要するに、天誅事件の再発は、幕府最大の警察軍ともいうべき京都守護職がなめられたことになる。 「そうではないか」 とまでは慶喜はいわなかったが、火鉢をひきよせつつ、 「京はよほど策を考えてやらねば」 と、さとすようにいった。 このことが容保の<かん>にさわった。 お言葉ながらそれがし策など持ちあわせませぬ、といった。 「家臣にもそう申しております。 すべて策は用いるな、至誠こそ最後に勝つものだ、至純至誠をもって事を処理せよ、とそのように申しきかせております」 「いや、それならば」 と、物事の情勢の見えすぎる慶喜は、この無垢(むく)すぎる容保の生硬さに、多少興ざめざるをえない。 肩をすぼめ、わざと寒そうな風情(ふぜい)をつくってしばらくだまっていたが、 「お心、頼もしく思う。私にも異存はない」 と、いった。 (すぐ、お言葉をお変えになる) 容保はおもった。 (《王城の護衛者》P.56〜57) その後も容保は、慶喜に、 「天誅事件のおこる原因を考えるべきだと思います」 と、具申した。 「との原因に対して手を打てばいい」 「どういう手です」 「言路洞開(げんろどうかい)です」 (《王城の護衛者》P.57) かれらは帝の攘夷論をもって「朝旨」をつくりあげ、公卿をして幕府に迫らしめた。 「なぜ、外国を攘(う)ちはらわぬか」 と、「勅旨」をもってかれらは幕府にせまり、開戦を強要した。 幕府の当局は、世界の列強を相手に戦争して勝ち目のないことを知っていた。 が、「朝旨」にはかなわない。 公卿に迫られるたびに遁辞(とんじ)をかまえてその場しのぎの対朝廷外交をつづけてきたが、ついに、 「期日を設けて攘夷を断行せよ」 とまで、過激公卿は幕府にせまるようになった。 むろんその背後に長州藩がひかえ、かれらがすべての筋書きを書いて過激公卿をうごかしていた。 長州人の本音は、討幕にあった。 幕府が「攘夷の朝旨」を実行せぬとなるや、即時に「違勅」の罪を鳴らして討幕戦にもちこもうとしていた。 天才的な革命政略といっていい。 三条ら過激公卿は、帝にもせまった。 帝は当惑した。 攘夷は願望ではあったが、外国との戦争はいっさいするお気持はなかったし、さらに討幕の御意志などは皆無であった。 むしろこの帝は京都におけるもっとも極端な佐幕派のひとりで、その点、松平容保、近藤勇と同思想であった。むしろ一橋慶喜や松平春嶽のほうが、帝よりもさらに進歩的勤王思想家であったかもしれない。 なぜといえば、かれらはすくなくとも徳川幕府がすでに国権担当の能力を欠き、その寿命が尽きはじめていることを知っていたし、ひそかに予測もしていた。 が、帝はご存じなかった。 (《王城の護衛者》P.77〜78) (この主上(しゅじょう)のためには) と、容保は思った。 この心情は、この時代のこの若者の立場によってみなければ理解できないであろう。 すくなくとも近世の精神のなかにはこの種の感動がない。 英国中世の伝説的英雄にロビン・フッドという無位無官の武人がある。 その説話ではもともと森の中に住み、自由生活を愛好し、快活で寛大で、なによりも女性の保護者であった。 それが、王位を弟に奪われたリチャード獅子心王にめぐりあった瞬間から、この王のために生涯をささげた。 南北朝のころに、楠木正成という武将が出た。 河内金剛山系に住み、その身分は、鎌倉幕府の御家人帳にもその名が記載されていないほどに、微々たるものであった。 それが流亡の帝であった後醍醐天皇にめぐりあい、予を援けよと声をかけられただけで立ちあがり、頽勢(たいせい)のなかで奮戦し、足利方のために悲劇的な最期をとげた。 その弟、その子も、つぎつぎに死に、驚嘆すべきことにはそれだけではなかった。 その子孫は熊野の山中に立て籠り、百年にわたって足利幕府に抗戦をつづけ、その勢力が史上から消えるのは応仁ノ乱に至ってからである。 この執拗なエネルギーは、正成が後醍醐帝から肩をたたかれたというその感激だけが根源であった。 近代以前には多くのこの型の人物が出、その精神が賛美された。 容保はこのいわば英雄時代の最期の人物といっていい。 かれ自身は英雄でなくても、英雄的体験をした。 リチャード獅子心王におけるロビン・フッド、後醍醐帝における楠木正成と同様の稀有(けう)な劇的体験をもつことになった。 この宸翰がそれである。 (帝は、自分をのみ頼りにするとおおせられた) このことほど、容保にとって巨大な事情はなかったであろう。この宸翰がなければ容保の一生はあるいはちがったものになっていたかもしれない。 この若者は、この日から一種劇的な心情の人になった。 ロビン・フッドがリチャード獅子心王の敵を屠(ほふ)ったように、楠木正成が後醍醐天皇の敵と戦いぬいたように、容保は、孝明天皇自身がそのように指摘した「奸人」どもと戦わねばならなかった。 (《王城の護衛者》P.90〜91) 慶喜は慶応二年一二月五日に将軍に宣下(せんげ)され、十三日、その御礼言上のために参内しようとしていた。 が、宮中の内意をきくと、意外にもその前々日より帝は御発熱だという。 「肥後守、お身はご存知であったか」 と慶喜は二条城で容保にきいた。 容保は愕然とした。 「存じませぬ」 といったものの、容保はお風邪か、という程度におもっていた。 それに容保自身、このころは強度の精神疲労で、一時はほとんど病床にあった。不眠がつづき、夜中、行灯(あんどん)のあかりさえ「重い」といって消させた。 隣室にいる宿直(とのい)の士のかすかな息づかいが神経を圧迫し、廊下をゆく家臣の足音さえ、脳にひびき、割れるような頭痛がおこった。心労であったのであろう。 この若者には、この職は酷烈すぎるようであった。 この間の時勢はいよいよ変転し、かれの能力ではもはや理解に堪えられぬところまできていた。 それでもかれは理解し、処理しようとしていた。 (《王城の護衛者》P.114) 「御怨念がこの竹筒に凝っている」 と、明治の中期、第五高等学校教授になった旧臣秋月悌二郎がこのことに異様なものを感じた。 秋月はたまたま熊本にきた長州出身の三浦梧楼将軍にそれを語った。 三浦はそれを、長州閥の総師山県有朋に話した。 三浦にすれば座興のつもりで話したにすぎなかったが、山県は、 「捨てておけぬ」 といった。山県にすれば、その宸翰が世に存在するかぎり、維新史における長州藩の立場が、後世どのように評価されるかわからない。 人をやって松平子爵家に行かせ、それを買いとりたい、と交渉させた。 額は、五万円であった。 が、宸翰は山県の手には入らなかった。 松平家では婉曲(えんきょく)に拒絶し、その後銀行にあずけた。 竹筒一個 書類二通 という品目で、いまも松平容保の怨念は東京銀行の金庫にねむっている。 (《王城の護衛者》P.131〜132) 鋳銭司村の藪(やぶ)医、といえば郡内でも有名なものだった。 べつに誤診があったわけではない。 ろくすっぽ患家の者と口もきかないのである。 村の伝説では、村人が往き合って、 「先生、お暑うございます」 とあいさつすると、村田蔵六にこりともせず、 「暑中はあついのが当然です」 といった。 寒中、お寒うございます、といえば、 「寒中はこんなものです」 といった。 人間社会の余計な辞儀というものが、蔵六には理解できなかった。 他人の前で笑顔を作ってみたこともなかった。 顔が他人のために笑うというのは、蔵六にすれば、理屈にあわない。 理屈にあわぬことは無駄なことだというのが蔵六の思想であった。 (《鬼謀の人》P.203) 蔵六は、麻布の長州藩主催の舎密(セーミ)会(化学実験会)がおこなわれたとき、かれもやってきて、旧知の青木周弼のほか、東条英庵、手塚律蔵ら藩の洋学者とも親交をむすんだ。 このとき一座の話題が物理学にとび、弾道論におよんだ。 みなが蔵六に質問した。 蔵六は弾道論の物理学的根拠を複雑な数式で説明し、一座を瞠目(どうもく)させたが、 「なあにこういう窮理は余力があればやればよいので、数式をもって砲弾は撃てない。 頭のよすぎる者が砲術をやると、この数式の面白さにひきずられて、一発の砲弾もうてなくなる」 といった。 桂は感心した。 蔵六は単なる学者ではない、と思ったのである。 帰路、桂は蔵六と肩をならべた。 蔵六はあと、長州は私を必要としているか、と、謎のような云いまわしでいった。 「必要としています」 「どの程度に必要としています。 程度(ほどあい)を教えてくれまいか」 蔵六は言葉を継ぎ、国もとの老父から手紙がきて長州に仕えろと勧めてきた、自分はそのつもりになっている、といった。 だから自分を必要としている程度を、数字であらわしてもらいたい、と蔵六はいう。 石高身分を「数字」という。 蔵六らしいむだのない質(たず)ねかたであった。 桂は、やむなく正直に、「年米二十五俵」程度に必要としている、といった。 (怒るか、ことわるか) 桂は、蔵六の顔を見た。 しかし蔵六はしごく平静に、 「請けましょう」 と、いった。 桂は意外だった。 粗末な綿服、半袴、やや〈がにまた〉の蔵六は、ニコリともせず、 「弾道論とおなじた。 人の世も、数式どおりにはいかない」と、桂の眼を見た。 桂はおもわず視線をそらせた。 長州藩が打った手を、蔵六は見ぬいているのであろう。 (《鬼謀の人》P.219〜220) 益田方面の戦闘で、川にさしかかった。 橋がない。 対岸に敵がいて撃ってくる。 益次郎はウチワをばたばたさせながらやってきた。 「なにを躊躇している」 と大隊司令にいった。 「築造兵(工兵)をよんで船橋を作らせるつもりで待っています」 「そうか」 益次郎は、兵を岸に集め、 「大隊、とび込めっ」 と大喝した。 勢いに驚いてみなどんどん飛びこんだが、一兵にいたるまで「こんな無鉄砲な指揮官があるものか」と腹をたてながら突撃した。 戦闘は大勝利をおさめた。 ところがその部隊が戦場からひきあげてくると、船橋がかかっている。 大隊司令や半隊司令などの士官が、「藪医のすることはこれだ」と司令部にねじこむと、益次郎は、蚊に食われた膝を掻きながら、 「対岸の敵にむかうのはどうしても臆する。 兵に癇癪を起させるぐらいでなければ突っこんで行けぬ。 ところが帰りには気がゆるむからまさかもう一度水には飛びこめまい。 だから架橋しておいた」 といった。 (《鬼謀の人》P.231〜232) 「どう思われるか」 と、きいた。 益次郎は答えなかった。 答えれば、いつもの論理だけの言葉が出る。 薩摩がおこることを怖れたのだろう。 が、さらに問い詰められた。 益次郎は、短くいった。われわれは王師である、白昼正兵を用いるべきだ。 「これが第一条です」 つぎに、−−といった。夜襲をすれば、敵は照明を用いるために市中の各所に放火する、江戸は灰になる。 発言は、それっきりである。 〈にべ〉もない。 「おかしな顔をしていて、なんだか肚のわからぬ人だった」と、同藩の門人にさえいわれたほどの男である。 薩人はみな、 (愚弄するのか) と、怒気をふくんだ。 西郷は、益次郎の態度に何かを察した。 これ以上議論をつづけても得るところは仲間割れだけだとみて散会し、自室で、益次郎の来るのを待った。 西郷というこの政治感覚の豊かな男は、この異相な長州人をわずかながらも理解しはじめていた。 なにかのはずみで人の世にまぎれこんだとしか思えないほど、対人接触がまずい。 たった一つ、兵を動かす天才だけを持ちあわせ、それだけを持ってにわかに風雲のなかに出てきた。 (《鬼謀の人》P.252〜253) 「なんの、百姓医者が」 と、益次郎を下風に見ていた。 楢崎は、唾を飛ばして苦戦の模様を訴えたが、益次郎は火吹達磨をいよいよ無表情にしてきいている。 楢崎は、ついに、 「前線では、朝九時から午後四時まで小銃を撃ちつづけている現状だ」 とまで極端な表現をつかった。 これが、益次郎の性分には、気に入らなかった。 「君、嘘を云ってはいかぬ」 と、冷ややかにきめつけた。 「なにが嘘だ」 と、楢崎が立ちあがった。 益次郎はいよいよい冷静になり、 「嘘だから嘘といっている。 小銃というものは三、四時間も連発すると手が触れられぬほど焼けてくる。 水にでも漬けねばそれ以上連発することはできない。 それを君は九時から四時まで続け撃ちしたというが、それはうそだ。 うそでないというなら、いまここで君が四、五時間連発してみるといい。 それに、聞けば兵一人あたりまだ弾丸が二百発ずつあるというではないか。 そんな隊に弾丸の支給はむろん、増援もできぬ」 と、いった。 云い方がある。 益次郎はすきのなさすぎる理屈で撃退した。 当然、楢崎、河田もひきさがらざるをえなかったが、議論に負けた怨恨だけは残った。 この怨恨はこのふたりだけでなく、全軍にひろがりつつあった。 とくに薩摩人、それに、益次郎の門人以外の長州藩諸隊長に深く根ざした。 (《鬼謀の人》P.266〜277) 函館の役のときもそうである。 攻撃軍の参謀黒田了介(清隆、薩人)は攻撃に苦慮し、薩人某を軍艦で江戸の益次郎のもとに急派して、増援をもとめてきた。 「あれで十分です」 と無愛想にいった。 「貴下が函館に帰陣される前に、陥ちるはずです」 その言葉どおりになった。 が、予言が適中しすぎて、相手に面目をうしなわせた。 益次郎にはそういう人事の機微というものがわからない。 (《鬼謀の人》P.267) 「銃の見本をみせて貰いたい」 と、継之助は微笑もせずにいった。 スネルはすぐ店員に命じて、各種の銃をならべさせた。 さすが、継之助に対してゲーベル銃を見せるという愚はしなかった。 まず、薩長や幕府歩兵がもっているミニエー銃をみせ、「射程が長い」といった。 「わかっている」 と、継之助はいった。 ついで、エンフィールド銃、スナイドール銃、シャープス銃、シャスポー銃、スペンサー銃などを見せた。 スネルは、米国製のシャープス銃をしきりとすすめた。 銃身が短く、取りあつかいが軽快で、しかも精度のいい元込銃である、と。 「これは安いはずだ」と、継之助はいった。 スネルは、「いや高い、安価なものではない」というと、継之助は、即座に矢立と懐紙を出し、アメリカ大陸の地図をかき、この図が何国であるか汝は知っているか、といった。 「アメリカ」 スネルは、継之助の気魄に圧されている。 「然り。わが年号でいえば文久二年からこの国で内乱(南北戦争)が起こっている。 ほぼ終りつつあるそうだ。 せっかく製造した銃が過剰になっている。 それが国外に流れた。 世界でだぶついている。 それでも高い、というのか」 スネルは、だまった。 「それに、私はこのアメリカ銃を好まない。 なぜなら短かすぎる。彼(か)の国ではおそらく騎兵に持たせたものであろう。 銃は白兵格闘の場合には槍の役目をなし、しかも槍術はわが国が世界一だと思っている。 ミニエー銃にしよう」 (《英雄児》P.310〜311) ほどなく新潟にスネルの汽船が入港した。 カガノカミ号(加賀守号)という4百トンのスクーナ船で、オランダ旗をかかげていた。 さらに二ヵ月後、スネルのカガノカミ号は再び新潟に入港し、おびただしい銃砲、弾薬、付属道具などを揚陸した。 その後、ほとんどひと月ごとにカガノカミ号は入港してきた。 スネルは継之助の藩だけでなく、この新潟港を基地に、東北諸藩へも武器を売った。 そのうち、横浜は官軍に包囲された。しかし東北、北陸の諸藩は新潟にさえゆけばスネルから武器を買えるようになっていたから、不自由はなかった。会津藩がスネルに支払った額は七千二十弗(ドル)、米沢藩は五万六千二百五十弗、庄内藩は五万二千百三十一弗、しかしそのなかで最小の藩である長岡藩がスネルに支払った額がもっとも大きかったろう。 継之助は、この武器購入の金をつくるために、徴税の改革や冗費節約のほかに、天才的な貨殖(かしょく)の腕をあるい、城下の町人をして、 −−河井様はお武家に惜しい。 とまで嘆ぜしめた。 大政奉還ののち諸侯は江戸をひきはらうことになったが、継之助はこのとき江戸屋敷の牧野家の家法什器(じゅうき)をすべて横浜の外人に売って数万金を得、また江戸、長岡の藩庫の米を米価の高い函館に輸送して売り、また江戸と新潟とのあいだに銭相場において一両につき三貫文の差のあるのに目をつけ、二万両の銭を買いこみ、船に積んで新潟にまわして土地の両替商に売って利ざやをかせぎ、宛然(えんぜん)長岡藩そのものがブローカーに化したかと思われるほどの荒かせぎをした。 それらの財貨をすべて兵器購入にあてた。 すべてスネルから買った。 スネルの汽船カガノカミ号は汽缶を焼けんばかりに焚いて、いそがしく横浜・新潟間を往復した。 これら揚陸された武器のうち、驚嘆すべき新式兵器があった。 米国製の速射銃である。 この兵器は南北戦争の末期にあらわれ、一門よく二十門に匹敵すといわれたほどのもので、当時、スネルの手で日本に三門だけ着荷していた。 継之助はそのうち二門を一門五千両で買った。ついに、 「剣銃千兵破堅陣」 という継之助の夢は、その百倍もの規模で現実化された。 (《英雄児》P.313〜315) 官軍の北陸道鎮撫総督が越後高田に入ったのは、慶応四年三月七日である。 継之助が筆頭家老になった閏四月には、越後一帯に会津藩兵、旧幕軍衝鋒隊、桑名藩兵などが入りこんで、すでに各地で戦闘がまじえられていた。 越後は、天領のほか十一藩に分割されている。 最大を高田藩十五万石の榊原家とし、ついで十万国の新発田(しばた)溝口家、三番目が長岡藩、つぎが五万九千石の村上内藤家、以下は三万石から一万石の小藩にすぎない。高田はいちはやく官軍に随順し、以下の小藩もほぼこれに従ったから、旗幟(きし)不鮮明なのは北陸のなかで唯一の洋式武装藩である長岡一藩になった。 (《英雄児》P.317) 継之助は、あくまで北陸道鎮撫総督を薩長の偽官軍と見、その見解を徹底させるため四月十七日朝八時、藩士の総登城をもとめ、藩主臨席のもとに訓示した。 継之助の解釈では薩長を「天子を挟んで幕府を陥れた姦臣(かんしん)」とし、「わが藩は小藩といえども孤城に拠って国中に独立し、存亡を天にまかせ、徳川三百年の恩に酬(むく)い、かつ義藩の嚆矢(こうし)となるつもりである」 というものであった。 かといって、会津藩が奥羽連盟に加盟して共に戦おうと迫ってきても応ぜず、あくまでも、 武装中立 を表明し、動かない。 このあたりが継之助の限界というべきものであった。 この明ルな頭脳は、時勢の解釈には適していたが、あくまでそれにとどまっている。 薩長の首脳は、時勢を転換させようとし、会津藩はあくまでも徳川中心の政体にもどそうとしている。 どちらもいわば国家論的な発想から出たものだが、継之助の場合は、自分がその武装に熱中してきた長岡一藩だけが念頭にあり、この藩を亡んだ徳川幕府をとむらう最後の義藩に仕立てることだけが、いわばかれの世界観であった。 長岡藩は、軍制、民治とも継之助の独創によってうまれかわった藩で、いわば藩そのものがかれの作品であった。 (《英雄児》P.317〜318) 火力装備としては、会津藩はおろか、官軍でさえはるかに劣弱であった。 おそらく継之助の長岡藩は、当時、陸軍装備としては世界的な水準にあったのではないか。 継之助は、この装備をもって北越に蟠踞(ばんきょ)し、東西衝突の調停勢力となり、あわよくば天下に義軍を喚起して薩長をほろぼせるものと正気で信じていた。 いや、信じてはいなかった。 継之助が単に一私人なら、これほどの頭脳が、時勢の動きをみてもはやどうにもならぬと思うはずであったが、かれ自身が育てた「武力」が、かれの頭脳とは別に、まったくちがった思考を命ずるようになっていた。 −−できる。 と思うのである。 米式連射砲がそれを考えさせ、仏式後装砲が自信をつけた。もはや武器が、継之助の脳髄であった。 「むかし、上杉謙信は北越に蟠踞して天下を観望し、その牽制力によって、甲斐の武田、尾張の織田をして容易に天下を取らしめなかった」 と、継之助は思った。その謙信が、これほどの火砲を持っていたか。 (《英雄児》P.320〜321) この間、官軍は継之助の意見とは無関係に包囲作戦を進め、軍を二つにわけて行動を開始しつつあった。 一つは、岩村精一郎を軍監とする歩兵千五百人に、砲二門。 その任務は、まず小出島(会津藩領)を陥落させ、進んで小千谷(おぢや)に至り、信濃川を渡って榎(えのき)峠を占領し、しかるのちに長岡城を攻撃する。 いま一つは、三好軍太郎を軍監とする歩兵二千五百人に砲六門で、参謀黒田、山県はこの部隊と行動し、海道を進んで新潟を占拠する。 閏(うるう)四月二十一日、この官軍両部隊は高田を出発し、途中、会津兵を駆逐しつつ海道軍は二十八日柏崎を占領し、岩村の率いる山道軍はその前日、長岡城を北方六里のむこうに望む小千谷を占領した。 継之助は、ある種の決意をした。 翌月一日、使者を小千谷の官軍本営に行かせ、執政河井継之助嘆願したきことあり、と言わしめた。 官軍はこれを諒とした。 二日、継之助は藩士一人のほかに下僕松蔵を連れ、駕籠に乗って長岡を発っている。 胸中、策があった。 官軍に徳川討伐の非をさとらしめ、長岡藩が会津との間の調停に立とう、というのである。わずか七万4千石の長岡藩が、天下を二つに割った対立の仲介ができると継之助は正気で考えていたかどうか、わからない。 (《英雄児》P.322) この今町の戦闘では、継之助は三方から包囲砲撃をあびせたため町家はすべて自藩の長岡軍の砲弾で粉砕され焼かれ、路傍には頭蓋砕けて脳漿(のうしょう)の流れている男女、腹壁をえぐられて臓腑が出ている者、手足、首のない市民の死体が累々(るいるい)ところがり、新式砲の威力がいかにすさまじいかが、如実(にょじつ)にわかった。 継之助は、さらに軍を進め官軍を刈谷田川左岸に追いつめて砲戦をつづけ、ほとんど全滅同然の被害を与え、いったん栃尾の仮本営にもどって兵を休め、七月十九日ふたたび行動を開始し、長岡藩兵十個小隊を選んで夜襲部隊とし、継之助みずから率(ひき)いて二十四日栃尾を進発し、同夜、長岡東北方通称八丁沖という沼沢地から守備隊の不意をついて一直線に城下に入り、翌二十五日激戦のすえ官軍を追って城を回復することができた。 (《英雄児》P.330〜331) が、すでにこの戦闘で継之助は左足膝下を砕くほどに銃創を受け、戦闘指揮が不可能になった。 このためにわかに長岡軍の士気が衰え、二十九日、城はふたたび官軍に奪取され、継之助は戸板に乗せられて敗走した。 その後会津に走り、八月十六日、この傷口の膿毒(のうどく)のために死んだ。 長岡藩の抵抗は、継之助の死とともに熄(や)んでいる。 (《英雄児》P.331) かつて継之助は、小山良運という友人がその強引すぎるほどの藩政改革に不安を抱き、暗殺されはしまいか、と注意した。 継之助は笑って、 −−二度か三度はドブへ投げこまれるかも知れないが、おれを殺すような気概のあるやつは家中に一人もいない。 おればもっと面白い藩なのだが。 といった。 明治二年、新政府は継之助の報復のために、 −−首謀河井継之助の家名断絶を申付く。 旨を令達し、同十六年ようやく家名再興の恩典があった。 妻おすがは、舅(しゅうと)たちとともに落城後、長岡の南約二里の古志郡村松村に難を避けていたが、のちゆるされ、明治二年、旧観をとどめぬまでに焼けた長岡の城下にもどった。 そのとき継之助の遺骨を会津若松建福寺から収めて長岡へ持ち帰り、菩提寺の栄涼寺に改葬した。 戒名は忠良院殿賢道義了居士。 この墓碑が出来たとき、墓石に鞭を加えにくる者が絶えなかった。 多くは、戦火で死んだ者の遺族だという。 おすがは居たたまれずに、縁者を頼って札幌に移住し、明治二十七年、そこで死んでいる。 栄涼寺の継之助の墓碑はその後、何者かの手で打ちくだかれた。 無隠は晩年までしばしば栄涼寺を訪ね、墓碑が砕かれているのを見つけては修理し、 「あの男の罪ではない。 あの男にしては藩が小さすぎたのだ」 といっていたという。 英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。 (《英雄児》P.331〜333) とまれ、以蔵の武市に対する生涯の姿勢はこのときにきまったといっていい。 「ま、参りました」 と、以蔵は竹刀を投げ、すわり、両膝をそろえて板敷の上で拝跪(はいき)した。 その姿に、憐れなほど足軽のにおいが出ていた。 武市は、吐息をついた。 竹刀をおさめた。 (おそるべき男だ) という実感があらためてこみあげてきた。 さきほどの突きのすさまじさ、あれほどの突きを、千頭道場でも麻田道場でも経験したことがなかった。 武市は、本来、沈毅な君子人(くんしじん)として知られた男である。 未熟な入門希望者に、ああまでの大人げない攻撃をしたことはないのだが、やはり、以蔵のあのたった一つの攻撃だった突きに肝を奪われたがために反射的にああいう挙動に出たのにちがいない。 「以蔵、即刻入門せい」 武市は、いつもの冷静なこの男にもどっていた。 「我流でまなんだために、わるい癖でこりかたまっている。 まずそれを落すことだ。 落すためには、初心の者が二年修業して成るところを三年修業せねばなるまい。 そのため、弱くなる。 三年正法(しょうほう)の修業で弱くなれ。 その弱さにがまんすれば四年目には、ひとかどの剣境に達するだろう」 「あ、ありがとうございまする」 以蔵は、泣きっぽい男だ。 顔をくしゃくしゃにしながら、何度も頭をさげた。 早速、神文帳に、血判をおし、名を書き入れさせてもらった。 岡田以蔵宜振(よしふる)。 文字は、おっそろしく下手だった。 (《人斬り以蔵》P.350〜351) |
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