[抜書き] 『明治大正史世相篇』


『明治大正史 世相篇』 新装版
柳田國男・講談社学術文庫
新装版 2008年3月21日 第21刷
    目次
    自序
    第一章 眼に映ずる世相
      一 新色音論 /  ニ 染物師と禁色 /  三 まぼろしを現実に /  四 朝顔の予言 /  五 木綿より人絹まで /  六 流行に対する誤解 /  七 仕事着の捜索 /  八 足袋と下駄 /  九 時代の音 / 
    第二章 食物の個人自由
      一 村の香 祭りの香 /  二 小鍋立と鍋料理 /  三 米大切 /  四 魚調理法の変遷 /  五 野菜と塩 /  六 菓子と砂糖 /  七 肉食の新日本式 /  八 外で飯食う事 / 
    第三章 家と居心地
      一 弱々しい家屋 /  二 小屋と長屋の修練 /  三 障子紙から板ガラス /  四 寝間と木綿夜着 /  五 床と座敷 /  六 出居の衰微 /  七 木の浪費 /  八 庭園芸術の発生 / 
    第四章 風光推移
      一 山水と人 /  二 都市と旧跡 /  三 海の眺め /  四 田園の新色彩 /  五 峠から畷(なわて)へ /  六 武蔵野の鳥 /  七 家に属する動物 /  八 野獣交渉 / 
    第五章 故郷異郷
      一 村の興奮 /  二 街道の人気 /  三 異郷を知る /  四 世間を見る眼 /  五 地方抗争 /  六 島と五箇山 / 
    第六章 新交通と文化輸送者
      一 人力車の発明 /  二 自転車村に入る /  三 汽車の巡礼本位 /  四 水路の変化 /  五 旅と商業 /  六 旅行道の衰頽 / 
    第七章 
      一 酒を要する社交 /  二 酒屋の酒 /  三 濁密地獄 /  四 酒無しの日 /  五 酒と女性 / 
    第八章 恋愛技術の消長
      一 非小笠原流の婚姻 /  二 高砂業の沿革 /  三 恋愛教育の旧機関 /  四 仮の契り /  五 心中文学の起こ / り
    第九章 家永続の願い
      一 家長の拘束 /  二 霊魂と土 /  三 明治の神道 /  四 士族と家移動 /  五 職業の分解 /  六 家庭愛の成長 / 
    第十章 生産と商業
      一 本職と内職 /  二 農業の一つの強味 /  三 漁民家業の不安 /  四 生産過剰 /  五 商業の興味及び弊害 / 
    第十一章 労力の配賦
      一 出稼ぎ労力の統制 /  二 家の力と移住 /  三 女の労働 /  四 職業婦人の問題 /  五 親方制度の崩壊 /  六 海上出稼ぎ人の将来 / 
    第十二章 貧と病
      一 零落と貧苦 /  二 災厄の新種類 /  三 多くの病を知る /  四 医者の不自由 /  五 孤立貧と社会病 / 
    第十三章 伴を慕う心
      一 組合の自治と連結 /  二 講から無尽業へ /  三 青年団と婦人会 /  四 流行の種々な経験 /  五 運動と頭数 /  六 野次馬心理 / 
    第十四章 群を抜く力
      一 英雄待望 /  二 選手の育成 /  三 親分割拠 /  四 落選者の行方 /  五 悪党の衰運 / 
    第十五章 生活改善の目標
    解説 桜田勝徳
    索引


     自序

     この方法はいまわずかに民間に起こりかけていて、人はこれを英国風に Folklore などと呼んでいる。 一部にはこれを民俗学と唱える者もあるが、はたして学であるか否かは実はまだ裁決せられていない。 今後の成績によってたぶん「学」といいうるだろうと思うだけである。 しかもそういう人たちの中には、もっぱらその任務を茫洋(ぼうよう)たる古代歴史の模索に局限しようとする傾向が見えるが、これに対しても自分は別な考えを持っている。
    (《自序》P.4)


     ところが最後になって追い追いとわかってきたことは、これだけ繁多に過ぎたる日々の記事ではあるが、現実の社会事相はこれよりもまたはるかに複雑であって、新聞はわずかにその一部をしか覆うていないということである。 記録があれば最も有力であるべき若干の事実が、偶然にこの中から脱しているということであった。
    (《自序》P.5)


     次になお一言附け加えたいと思うのは、この書が在来の伝記式歴史に不満である結果、故意に固有名詞を一つでも掲げまいとしたことである。 従って世相篇は英雄の心事を説いた書ではないのである。国に遍満する常人という人々が、眼を開き耳を傾ければ視聴しうるものを述べたのである。 これをもって一個特殊の地位にある観察家の論断を、人にしいるものと見られるのは迷惑である。 自分はすこしでも達論者の誇りをいだく者ではないが、それでもこれよりはやや奇抜なる見解をいだいている。 しかし名を歴史に講ずるに仮りて、それを押売するようなことは、ずるい話だと思ったからしなかった
    (《自序》P.7)


     人間の数なり利害の大きさから言えば、もう少し田舎の事物を多く説いてもよいのであったが、田舎では書物は町から携え還る〈みやげ〉のように思っている人が多い。 それゆえに自然に話がそのほうに傾きがちなのである。これに対立していま一つ、都市の人に読ましめたるための地方書があってよいと思う。 何にもせよ問題がこれでもまだ散漫で、細かな地方の生活事情に及びがたく、いたずらに一箇暗示の書のごとくなってしまったのは、著者の最初からの志ではなかったのである。
    (《自序》P.8)


      三 まぼろしを現実に

     色の存在は最初一つとして天然から学び知らなかったものはないのであるが、その中には明らかに永くとどまって変わらぬものと、現減の常なきものとの二種があった。 地上に属するものとしては物の花、秋の紅葉(もみじ)も春夏の若緑も、美しいものはすべて移り動くことを法則としていた。 蝶や小鳥の翼の色の中には、しばしば人間の企て及ばざるものがきらめいていたゆえに、古くはその来去をもって別世界の消息のごとくにも解していたのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 三 まぼろしを現実に》P.27)


     火の霊異(れいい)の認められていた根本の要素には、もちろんあの模倣しがたい色と光があった。 これに近いものはむしろ天上のほうに多かったのである。虹の架橋(かけはし)は洋海の浜に居住する者の、ことに目を驚かし心をときめかすもので、中国でも虫扁をもってこの天象を表示する文字を作るように、日本ではこれを神蛇(しんだ)のすぐれて大いなるものと思っていた。 その他おまんが紅(べに)などと名づけた夕焼けの空の色、またはある日の曙の雲のあやのごとき、いずれもわれわれの手に触れ近づき視ることを許さぬということが、さらに一段とその感動を強めていたのである。いわゆる聖俗二つの差別は当然起こらなければならなかった。 移してこれを日常の用途に、充(あ)てようとしなかったのも理由がある
    (《第一章 眼に映ずる世相 三 まぼろしを現実に》P.27)


     五 木綿より人絹まで

     綿の種は山城(やましろ)の都の初めの世に、三河(みかわ)の海岸から上陸したという記録があるが どこに植え何物に利用していたのか、まだ何人もこれを指示し得えい。 第二の輸入はずっと時を隔てて、いわゆる南蛮貿易のころであったろうが、それもやや久しい期間、案外に普及していなかった。諸国の農民が真剣に綿を栽培し始めたのは、江戸期も半ばを過ぎて、棉年貢(ねんぐ)の算法が定められた享保(きょうほ)度のわずか前からのことと察せられる。 以前も少しずつは名を知られ、また相応にもてはやされていたものが、急にこのように生産を増加することになった理由は、恐らく紡織技工の進歩よりも、これもまた染色の新展開にあった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 五 木綿より人絹まで》P.36)


     葉藍(はあい)耕作の最初の起こりは不明であるが、少なくともこれが実用には専門の紺屋(こうや)が予期せられていた。 家々の手染めにおいては、この材料は処理することがややむつかしかった。さよみの類にも染められぬことはないが、ことに木綿において最も藍染めの特徴を発揮しているのを見ると、紺を基調とする民間服飾の新傾向は、全くこの綿との二つの作物の提携から生まれているのである。 紺の香と木綿の肌ざわり、歴史は短かったかもしれぬが、懐かしい印象を残している。
    (《第一章 眼に映ずる世相 五 木綿より人絹まで》P.36)


     木綿は温柔な代わりに足手に纏わりやすく、主として春と秋とを外で働く者にも適しなかった。 新鮮なる染色の効果を愛する人たちは、それくらいな便不便は省みざらんとしたのであるが、なお極端に糊をこわく、また洗濯の度ごとに打ち平(ひら)めて、旧来の麻の感触を少しでも保持していたのである。縮みという一種の織り方が、特に日本において盛んに行われたのも国柄であった。 こうしてようやくのことで不断着の買入れを可能ならしめ、ついに全国の木綿反物(たんもの)を、工場の生産品たらしむる素地を作ったことは、考えてみれば手数のかかることであった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 五 木綿より人絹まで》P.38)


     麻の第二の長所は久しく持つということであったが、これも後には不人望の種となっている。 色が目に立ち記憶しやすくなれば、あきて折々は更(か)えようとするのも自然で、それにはかえって木綿の早く弱るのが、うれしかった人も多いようである。 好みの年齢に応じてそれぞれに違わなければならぬ習わしは、全くこの時から始まったのである。 大体に日本人くらい、多量の衣裳を持っている民族もないと言われているが、もとは単純なだれにでも用に立つ品を、多く持つのだから貯蓄にもなったが、末にはせっかくの宝を衣櫃(きぬびつ)の底で、腐らせるような場合もないではなかった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 五 木綿より人絹まで》P.38)


     六 流行に対する誤解

     六 流行に対する誤解
     何を一国の国風と認むべきかは、そうたやすく答えられる問題でない。 たとえば衣服と民族との間に、かつて一つの約束が存在したにしても、それはこの際をもって完全に帳消しとなり、残るはただ人並の物が着たいという願いのみである。 そうしてずっと以前にもこれと同じ変化が、また時々はあったかもしれぬのである。の織物は最初その天然の繊維の、いくらでも細く利用しえられるのが長所であって、技芸はこれに基づいて実に驚くほどの精巧の域に達していたが、後にはかえってそのために、新しい生産経営には向かなくなったのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 六 流行に対する誤解》P.40)


     家々の婦女の勤労が、今とは全く異なる評価法に支配せられていた時代には、彼らはその生涯の記念塔を刻むような情熱をもって、神と男たちの衣を織るべく、一線ずつの苧(お)を繋いでいたのであるが、これを市場に托するようになれば、その価は確かに骨折りに償わなかった。 新たなる衣料はこれに比べると、実におかしいほど得やすかったのである。 だから麻しか産しない寒い山国でも、しだいに麻作を手控えて木綿古着を買い、または古綿を買い入れて打ち直させ、それから買い縞の荷がまわるようになって、ついにめいめいの機(はた)道具を忘れるに至ったので、最初からこうなることを予期して、乗りかかった者はいなかったのである。 これをもし一つの機運と名づけるならば、原因は遠くさかのぼって村々の人の心理にあった。 門をたたかれてようやく戸を開いたのではないのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 六 流行に対する誤解》P.40)


     しいて思いを構えるまでもなく、われわれの色の歴史は不思議なように、文化の時代相を映発している。 初めて日本に木綿の日が東雲(しののめ)した時には、新しい色といっても算えるほどしかなかった。 人はいま考えたら笑いたいくらいの単純なる色を、染めて着て嬉しがっていたのである。 そういう中にも正紺(しょうこん)の香は懐かしがられ、縞は外国から入ってきた流行らしいが、それにもわれわれ好みは加わって、絹の糸色などがつつましやかに織り込まれ、この那でより見られない発達を遂げたのであった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 六 流行に対する誤解》P.41)


     絹の縞織りなどは起こりは古いかもしらぬが、後にはむしろ木綿の追随する観があった。 ところが新たに縞を知らぬ国々と交際してから、かえって木綿を絹らしく見せようとする努力が始まったのである。 それからまた一方には、毛織物とも近づこうとして苦労をした。 メンという語を頭に載せたいろいろの織物は、すべてこの際をもって出現したのであるが、その中でも綿(めん)フランネルなどがことにたくさんの逸話をもっている。
    (《第一章 眼に映ずる世相 六 流行に対する誤解》P.41)


     七 仕事着の捜索

     ところが理由あって中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまった。 西洋の田舎でも、女がよい服よい靴の古びて仕方のないものを、畑で着ているのをよく見かけるが、ことに日本には女に余分の晴れ着が多く、その中の一等悪いのが、下ろして間に合わせに用いられたのである。 これには団体の作業が少なくなって、めいめいの出立ちをやかましく言わぬようになったことも、原因の一つに算えられるが、それよりも大きな理由は衣服が得やすくかつどしどしと古くなることであった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 七 仕事着の捜索》P.47)


     ヨウフクの発見は至って自然である。 保守派の長老たちの人望のないのは、この突飛なる躍進を賛成せぬばかりかしいてこの事情を述べようとすると、しからばいま一度昔の仕事着に戻れと、言いそうな顔をすることである。 それが諾々として服従しうることか否かは、実物を一見すればすぐにわかる。 昔の仕事着は、まず最初に男女年齢の差別があまりに少なく、一様に色が鮮やかでない。 それに名称がなにぶんにも古臭い。 各部分を比べてみるとそうたいして最新式の仕事着と違わぬのだが、上着の至って短いのを腰きりだの小衣(こぎぬ)だといい、下にはく袴(はかま)をモンペだのモッピキだのといっている。前掛けは町に保存せらるる唯一の仕事着であるが、これは細長く前に垂れ、村にあるものは横広く腰を纏うている。 これに手甲(てっこう)を附け脛巾(はばき)を巻き、冬は大幅の布を三角に折って頭に被り、足には藁靴(わらぐつ)を穿くのが通例であった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 七 仕事着の捜索》P.47〜48)


     夏の仕事着には裸という一様式もあったが、女はもちろんそんな流行を追わなかった。袖無し単(ひとえ)腰巻きとの単純な取り合わせは、ことに盛装する女性にうとまれているようだが、あれが一番に今の流行と近い。色と模様とわずかばかりの裁(た)ち方を改むれば、これを日本の新しいヨウフクだと、名乗ってもさしつかえはなかったのである。 実際またこの仕事着のほうにも、明らかに各時代の新意匠は加わっていたのである。 たとえば木綿が出現すれば次次にこれを採用し、紀州ネルが起こればこれを腰巻きにも角(かく)巻きにもしたのみならず、花やかな染色が多くなるとともに、その好みによってめいめいの年ごろを見せようともしたのであった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 七 仕事着の捜索》P.48)


     そのうえにもう一つ気になるのは、住宅のほうとの関係である。 靴はその本国では脱ぐ場所がおおよそ定まっている。 そうして極度の馴々(なれなれ)しさを意味していた。 ところがわれわれの家では玄関の正面で、これと別れるように構造ができている。 一日のうちにも十回二十回、脱いだり突っ掛けたりする面倒を厭(いと)うでは、休所と仕事場との連絡は取れぬので、それがまた世界無類の下駄というものが、かように発達した理由でもあったのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 七 仕事着の捜索》P.49)


     八 足袋と下駄

     明治三十四年の六月に、東京では跣足(はだし)を禁止した。主たる理由は非衛生ということであったが、いわゆる対等条約国の首都の体面を重んずる動機も、十分に陰にははたらいていたので、現にその少し前から裸体肌脱ぎとの取り締まりが、非常に厳しくなっているのである。 これがあたかも絵と彫刻の展覧会に、最も露出の美を推賞しなければならぬ機運と、並び進んだのは不思議なる事実であったが、これよりもさらに大いなる一つの間違いがいまなお解決せられずに残っているのである。 われわれが足を包もうとする傾向は、実はもう久しい前から現われていた。 ある地の法令は単にこれを公認し、またいくぶんかこれを促進したというに過ぎぬので、人が足を沾(ぬ)らして平気でいてもよいか悪いかは、むしろ新たに東京の先例によって考えさせられることになった次の問題である。
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.50〜51)


     最初の跣足禁止は足と地面の間に、何か一重の障壁を設ければよかったので、あるいは草鞋(わらじ)の奨励といったほうが当たっていた。 草鞋は通例足の蹠(うら)よりもずっと小さく、それで泥溝(どろみぞ)をあるいて大道に足形を附けて行く光景が当時の漫画界の題材とさえなっていた。 こういう人たちででもないと、もうそのころには跣足では歩かなかった。しかもは頭しか隠さず、蓑(みの)はすでに流行におくれ、雨だけは依然として横吹きに降っていたのである。 をからげてを天然の雨具とする以外に、これぞという便法も発明せられずして、大正終わりのゴム長時代まで遣(や)ってきた。 だから手拭(てぬぐい)はほんとうは足拭であり、洗足(せんそく)たらいは家々軒先の必要器什(きじゅう)であり、跣足禁止はまだ少しでも根本の解決ではなかったのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.51)


     それがたちまちにして今日の足袋(たび)全盛となったのは決して法令の力ではないのである。武家階級の上下を一貫して、素足はもと礼装の一部であった。 人がこれでなくては存分に走り廻れなかったこと、それから革足袋が本来の沓(くつ)の一種であったことを考えると、別に意外な話でもないかしらぬが、後に木綿の柔らかな足袋が、家々では普通に用いられるようになっても、なお病身または老年を理由にして、毎冬殿中(でんちゅう)足袋御免を願い出でなければにらなかったのである。
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.51〜52)


     一方にはまたいろいろの意匠と改良があった。下駄屋は比較的新しい商売であった。 それが江戸期の末のころになって、盛んに商品の種類を増加し、さらに明治に入ってから突如として生産の量を加えた。桐の木の栽培はこれがために大いに起こり、しかも国内の需要を充たすことができなかった。 褻(け)にも晴にも一度でも公認せられたことのない履物であったが、その普及はかくのごとく顕著であったのは、やはりまた足を汚すまいとする心理の表れであった。藁沓(わらぐつ)藁草履の衰運はこの際をもって始まり、いよいよ簡単なるゴム靴の進出に遭うて、その最後をとじめられた。 個々の農家においてはまた一つ、金で買うべき品物の数を加えたのである
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.53〜54)


     全体に藁の履物を下賎なもの、貧乏くさいものと考えるのは誤解であった。 これは一つには粗製でも間に合う場合には、しいて体裁を構わなかったことと、また一つには無頓着に、古く破れたものを折々穿(は)いて出たためで、現在はすでにこの工芸は衰えたけれども、土地によってはまだ精巧なる作品を存しているただ大なる不利益は産物が都市に属せず、また工場の大量産出に適しないことであったが、麻布(あさぬの)などと違うのは、生産の労費は他のいずれの品よりも低い
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.54)


     村にこの技術の続かなかった理由は、主として古風であり町の流行でなかったということと、人が独立して各自の必要品を、考えなかったということにある。 そうしてこういう例は他の方面にも多いようである。 われわれの衣服が次々にその材料を増加し、色や形の好みは目まぐろしく移って行きながら、必ずしも丸々前のものを滅ぼしてしまわず、新旧雑処分の境遇、風土と労作との実際に照らして、遠慮なく望むことまた困ることを表白しうるようになったとしたら、もう一度改めてこういうものの中から、真に自由なる選択をして、末にはめいめいの生活を改良する望みがあるからである
    (《第一章 眼に映ずる世相 八 足袋と下駄》P.54)


      九 時代の音

     平和なる山の麓の村などにおいて、山神楽(やまかぐら)あるいは天狗倒しと称する共同の幻覚を聴いたのは昔のことであったが、後には全国一様に深夜狸(たぬき)が汽車の音を真似て、鉄道の上を走るという話があった。 それは必ず開通の後まもなくのことであった。 また新たに小学校が設置せられると、やはり夜分に何物かが、その子供らのどよめきの音を真似るといった。 電信が新たに通じた村の狢(むじな)は、人家の門に来てデンポーと呼ばわった。 その他造り酒屋ができると、季節はずれに酒造りの歌をうたう者があり、芝居が済んでしばらくの間は、やはり空古屋の中で囃子(はやし)拍子木の音をさせるという毎夜の噂があった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 九 時代の音》P.57)


     こういう類の話は決して一地方だけではなく、しかも一家近隣が常に共々にこの音を聴いたと主張するのであった。新しく珍しい音響の印象は、これを多数の幻に再現するまで、深く濃(こまや)かなるものがあったらしいのである。 われわれの同胞の新事物に対する注意力、もしくはそれから受けた感動には、これほどにも己(おのれ)を空しゅうし、推理と批判とを超越せしめるものがあったのである。 その後あまりにも頻繁なる刺激の連続によって、この効果はすこぶる割引せられることになったが、なお言論のごときは音声の最も複雑にしてまた微妙なるものである。 これが今までそういう形式を知らなかった人々を、実質以上に動かしえたのもやむをえなかった。
    (《第一章 眼に映ずる世相 九 時代の音》P.57〜58)


     ゆえに音楽の流行がもしわれわれの音の選択、すなわち特に自分の求むるもののみに耳を傾けさせる習慣を養うてくれるならば、それは確かにこの生活を平穏ならしむる途である。 そうでないまでにしてもこの世にはすでに消え去ったる昔の音が多く、今なお存在しているやや幽(かす)かに、もしくはこれより新たに起こらんとするものがあって、あるものははなはだ快くまたあるものは無用にしてしかも聞き苦しく、最も美しいのは必ずしも高く響いているものでないということを、知らしめるだけでも一つの事業である
    (《第一章 眼に映ずる世相 九 時代の音》P.58)


     聡明は決して現在の特に強烈なるものに、動かされやすいという意味ではないのである。 昔は縁の下に蟻(あり)が角力(すもう)を取る音を聴いたという話がある。 それほどでなくとも心を静めて聞けば、まだまだ面白いいろいろいの音が残っている。 聞き馴れて耳に留まらなくなったのは、叢(くさむら)の虫梢(こずえ)の蝉(せみ)だけではなく、清らかなるものの今やまれになったのは、野鳥の囀(さえず)りのみでもないのである。 新たに生まれたものの至って小さな声にも、心にかかるものは多い。ある外国の旅人は日本に来てことに耳につくのは、樫の足駄の歯の鋪道にきしむ音だといった。 しかり、これなどは確かに異様である。 そうしてまた前代の音ではなかった
    (《第一章 眼に映ずる世相 九 時代の音》P.58)


     一 村の香 祭りの香

     たとえば盆と春秋の彼岸(ひがん)のころに、里にも野山にも充ち渡る線香の煙は、幼い者にまで眼に見えぬあの世を感じさせた。 休みや人寄せの日の朝の庭を掃き清めた土の香というものは、妙にわれわれの心を晴れがましゅうしたものであった。 作業の方面においても、碓場(うすば)俵場の穀類の軽い埃(ほこり)には、口では現せない数々の慰安があり、厩(うまや)の戸口で萎(しお)れていく朝草のにおいには、甘い昼寝の夢の連想が豊かではあったが、やはり何と言っても雄弁なのは火と食物との香であった冬の林で焚火をしていると、旅人までが蟻のように寄って来る。 飲食はこれに比べるとはるかに外部の人には親しみがたいが、それだけにまたわれわれをして孤独を感ぜしめ、家への路を急がしめる。無始の昔以来人類をその産土(うぶすな)に繋いでいた力はこれであった
    (《第二章 食物の個人自由 一 村の香 祭りの香》P.61〜62)


      二 小鍋立と鍋料理

     食物文化の色や音響と違っている特徴は、以前に大いなる統一があって、後しだいに分立の勢いを示していることである。 流行が再び各人の趣味を征服しえず、また特に一種の強烈なるものによって、音のごとく他の群小を威圧しえないことである。 何でも食わねばならぬという大きなる必要から、新たに時代の標準というものを設けて見ることのむつかしい点である。 従うて品種は年とともに激増して、いよいよ一般の観察が下しがたくなるのである。 しかし大体から言って、明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。
     その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである。 これに種目の増加を添えて、四つと言ってもよいのかしらぬが、こちらはむしろ結果であった。 人の好みがまず在来のものの外へ走って、それが新たなるいろいろの方法を呼び込んだので、恐らくはしいて押し付けられたものはなかったろうと思う。
    (《第二章 食物の個人自由 二 小鍋立と鍋料理》P.63〜64)


     料理の記録はかなり古いものが伝わっている。 これと比べて見ただけでも右の三つの変化は確かにわかるが、現代生活の横断面を見わたしても、ほとんど土地ごとにこの趣向の各段階が認められる。 そうしてまたこの方面からでないと、どういう順序を踏んで改まっていまのかを、考えてみることができぬのである。昔も飲食の温かいというのは馳走であった。 神や仏への供物(くもつ)の中でも何か一色だけは湯気の立つものを供えようとしたのだが、儀式手続きに時間がかかるために、晴の食物はどうしてもこれを冷(さま)しがちであった
    (《第二章 食物の個人自由 二 小鍋立と鍋料理》P.64)


     あつ物を進めるということは料理人の辛苦で、同時に亭主の心入れのしるしでもあったから、できるものならば昔もこれを望んだはずであるが、かえって尊敬する賓客の前には、その誠意が表しにくかった。 その理由は至って単純で、つまりわれわれは共同の飲食ということを、温かいということよりもなお重んじたのであった。 同じ火同じ器をもって調理した物を、主客上下が相饗(あいにえ)しようとするには、早くからの支度が必要であった。 これを互いに気にせぬようにならなければ、客に暖かい小鍋のものを、勧めることができなかったのである。
    (《第二章 食物の個人自由 二 小鍋立と鍋料理》P.64〜65)


     これは住宅の変遷において、考えてみるべき問題であるが、家で食物を調理する清い火は、もとは荒神(こうじん)様の直轄する自在鍵の下にあったのである。 その特別の保証ある製品でないと、これをたべて家人共同の肉体と化するに足らぬという信仰が、存外近いころまで村の人の心を晴々裡に支配していた。 だから正式の食物はかえって配当が面倒なために、冷たくなってからようやく口に届いたのであった。炭櫃(すびつ)十能(じゅうのう)が自由に燠(おき)の火を運搬するようになっても、なおこの考え方は久しく続いていた。
    (《第二章 食物の個人自由 二 小鍋立と鍋料理》P.65)


     それが最初にまず大きな器から取り分けて、別に進めるものを涼(さま)すまいとする心遣いより、鍋とかユキヒラとかいうものがだんだんに発明せられ、結局今日のごとき鍋料理の盛隆を見るに至ったのである。 炭焼き技術の普及が、これを助けたことは無論であるが、それよりも根本の理由は家内食料の相違及びそれを可能ならしめたる火の神道の譲歩であった
    (《第二章 食物の個人自由 二 小鍋立と鍋料理》P.65)


      五 野菜と塩

     日本はこのおびただしい人口増殖の間において、なおかつ歴(れっき)とした天然物採取の国であるということは、人が考察を怠っている大きな事実であった。 海川の生産はわかり切ったことだが、その中でも種々なる植物を択び取って食用に供していることは異人には珍しがられている。 陸上の採集は今は娯楽のようにも考えられている。 実際凶年でもない限りは、これを食料の予算に組む者もないのだから、娯楽と見られても是非がないようなものの、これが全く得られない場合を想像してみると、やはり必要なる食物ではあったのである。
    (《第二章 食物の個人自由 五 野菜と塩》P.80)


     春の若菜の七種は儀式かもしれぬが、田では芹(せり)、山では蕨(わらび)、その年々の量は決して少しではない。 それから土地によって蕗(ふき)を採り地竹の筍(たけのこ)を採る。 いろいろの潅木の芽には懐かしがられる風味があり、娵菜(よめな)餅草などは町の人までが摘みに出たがる。 すなわち野菜の文字が示しているように、若菜は雪のやや融くるを待って、春の野に出でて採るものであった。 今でも雪国の村の人たちは、これが一種の行楽と結び付いている。 従って野山に遊んで採ってくる青物の数は、ホナとかミズとかシドケとかいう類の、至って普通のものだけでも十種を越え、それには次々の季節があって、初夏のころまでに幾度か採ってきて貯えるのである
    (《第二章 食物の個人自由 五 野菜と塩》P.80)


     こういう地方の一部の事実は、以前の全国の生活を推測せしむるに十分である。という日本語はもと副食料のすべてを包括していた。 特に産業の蔬菜のためにはククダチという語があるのだが、後にこれのみをナというようになったのをみても、いかにその消費が大切であったかが推測せられるのである。ククダチはすなわち茎立ちで、野山の青物が大よそその茎を抽(ぬ)くころを見て、採ることになっていた名残であろう。
    (《第二章 食物の個人自由 五 野菜と塩》P.80〜81)


     人が前栽(ぜんざい)の畑に菜を蒔くようになってからも、やはり今のように葉ばかりは宛てにしなかったというよりも、改良以前の蔬菜はばかりよく伸びたのであった。 しかも季節があって望みの時に収穫しえなかったゆえに、まずこれを塩蔵する必要を見たのである。 東北の諸県においては、野菜にも無塩(ぶえん)の野菜という語があってわれわれをびっくりさせるが、実際永い冬季には塩した青物しか得られなかった。 すなわちあの方面の人たちが今も食っているごとく、野菜塩蔵の本来の目的は、これを塩出(しおだし)して煮て食うにあったのである
    (《第二章 食物の個人自由 五 野菜と塩》P.81)


     他でも漬け物を煮て食おうとする土地が折々ある。 これを笑うわけにいかぬのは、香の物のような食品を最初から計画して、作り出したということは想像しがたいからである。漬け物の醗酵現象は今日でも説明が十分でない。 あの風味と香気は数千百回の繰り返しのうちに、偶然でなければ実験しえないものだと思う。 何にせよ鮓が魚の味を格別にし、醤油が刺身の殺伐さを割引したごとく、生で野菜を食う趣味は中頃から誘導せられたものであった。
    (《第二章 食物の個人自由 五 野菜と塩》P.81)


      六 菓子と砂糖

     砂糖生薬屋(きぐすりや)の店に売られていたのも久しい間であった。 それがちょうど近ごろサッカリンと同じに、半ば霊薬のごとく常人に考えられていたことが、かえって他日の浪費を反動せしめている。 南の島々の黒砂糖の産地においては、全く飴と同じにこの産物を愛用する者がいる。本土の中にもこれを一等の茶受けとして、掌に載せて嘗(な)める者が多かった。 白人が異種の国々と通商を開く際に、よく酒精を利用したことは人のしばしば説くところであるが、砂糖もまた同工異曲であった。 ことに露骨なのはこの商人らの宣伝として、砂糖の個人当たり消費量は、国の文化の計量器だと唱えたことである。 日本人はすなわち無邪気にもその断定を受け入れたのであった
    (《第二章 食物の個人自由 六 菓子と砂糖》P.87)


      七 肉食の新日本式

     鶏卵の消費はかなり以前から盛んになっていた。 菓子の製造にこれを利用することももう少しずつ始まり、病後老人小児方(しょうにがた)に至極妙などという宣伝も、大きな町では珍しいことではなかった。 しかしそれとは連絡があるかどうかは知らぬが、滋養衛生という四つの漢字を、ぜひとも菓子の肩書きに添えねばならぬようになったのは、明治もやや半ばになってからの新しい現象であった。 今でも実直なる製造者がこの風を守っている。 彼ら自らが固くこれを信じたというよりも、そう書かなければ非衛生と認めらるることを、承知しているかと思われるのがいやであったのである。 衛生という言葉の内容が、よほど今日とは異なっていたのである。
    (《第二章 食物の個人自由 七 肉食の新日本式》P.89〜90)


     わずか五十年足らずの肉食率の大激増も、全く原因をこれに存したのであった。 われわれは決してある歴史家の想像したように、宍(しし)を忘れてしまった人民ではなかった。だけははなはだ意外であったかもしらぬが、山の獣は引き続いて冬ごとに食っていたのである。家猪(ぶた)も土地によっては食用のために飼っていた。 都市にはこの香気を穢(けが)れと感ずる風が、しだいに普及していたのも事実であるが、一方にはいわゆる薬喰(くすりぐい)の趣味は、追い追いに新たな信徒を加えていたので、ただ多数の者は一生の間、これを食わずとも生きられる方法を知っていたというに過ぎぬ。 だから初めて新時代に教えられたのは、多く食うべしという一事であったとも言える。 これは至って容易なる教育で、もちろんたちまちにして人はこの味を学ぶことの遅かったのを悔んだのであるが、最初はただ無邪気なる模倣である。
     すなわち率直に泰西(たいせい)人なるものの精力能率の優越を認めた者が、原因を特に顕著なる食料の相違に求めた結果なることは、長崎を本山とした蘭学者らの態度を見ても察せられる。 すなわち彼らを敬慕すると、はた嫉視するとを問わず、将来これと対立して同等の成績を挙げようとするには、まず同じ物を食って身の力を養わなければならぬという論理であったので、これほどはやくよりわれわれは、食物と心意性情との相関する理法を認めていたのである。
    (《第二章 食物の個人自由 七 肉食の新日本式》P.90〜91)


      八 外で飯食う事

     飯事(ままごと)と称する児童の遊戯は、恐らく日本でばかり特に発達した行事であろう。 これは屋外の食事が盆とか春の節供とかの定まった日に、非常な快楽をもって企てられた名残りであって、子供が忘れかねて今でもその模倣をくり返しているのである。 それほどまた手数のかかった重々しい支度でもあった。庭竈を築いて多勢の食物を煮る日などは、今でも大人たちがすぐに昂奮する。 理由は他人の中で食事をするということが、本来は晴であったからである。 晴にはたいていは酒を伴い、笑い楽しむ種も多かった代わりに、男の仕事なので浪費も大きく、そんなことが度々あっては必ず貧乏をする。 それで小児がいつまでも記念するほどに、その機会を制限していたのである。
    (《第二章 食物の個人自由 八 外で飯食う事》P.95)


     しかしそのようにせずとも外で食うことは楽しかった。 内々の必要には家の竈で調理したものを、携えて出て行って便宜の清水(しみず)について食った。 古くは駄餉(だしょう)といい後には弁当といったのがこれで、腰に弁当を附けるということは、連日外に出て働くという意味であった。 明治に入ってから腰弁という語が、一種の群だけを指すことになったけれども、腰には結わえぬだけで弁当は馬車の人も持ちあるいた。
    (《第二章 食物の個人自由 八 外で飯食う事 》P.95)


     弁当のほうは家の食事よりも、いくぶんか簡素でまた常に冷たかった。 常人の兵糧(ひょうろう)は握り飯ときまっていた。 これをヤキメシと呼ぶ土地が多いのはたぶん焼くだけには外の火を使ったからであろう。 それから追い追いに外で食う機会が多くなった。 第一には遠くの地に一家ができ、もしくは一家同様という知人ができて、略式に常の食事を分配してくれる。 客と称してその実は三月半蔵、臨時に他家の家族となることも新しい慣習であったと思う。
    (《第二章 食物の個人自由 八 外で飯食う事 》P.95〜96)


     これが何でも自由に選択しえられることは、生活技術の大いなる強味であって、今でもわれわれは幸福であるわけだが、これが日々の商品となってしまうと、そう片端から何でもかでも、作って気まぐれなる選り取りを待っているわけにはいかない。 だから売るほうでは何らかの方便を設けて、できるだけ一つの物に多くの需要を集めようとする。 これが流行の常に移り動き、いつでもわれわれがよその押売りを、事実において受け入れている理由でもあれば、町の便利が何かといえば感嘆せられ、これに引き比べて村の生活が損なうように、考えさせられる理由にもなっている
    (《第二章 食物の個人自由 八 外で飯食う事 》P.98〜99)


     われわれの台所には革命があった。 しかもその動乱はまだ続いている。 個々の食物調製者の煩労(はんろう)は少しでも軽くなっていない。 公衆食堂共同炊事の必要はすでに認められているが、パンを主食とする社会のように、その実現は容易でないらしい。温かい飯と味噌汁と浅漬けと茶の生活は、実は現在の最小家族制が、やっとこしらえ上げた新様式であった。 これを超脱してまたこの次の案を夢むべく、あまりにその印象が深く刻まれているのである。
    (《第二章 食物の個人自由 八 外で飯食う事 》P.99)


      二 小屋と長屋の修練

     小屋の用途は以前もなかなか多かった。 たとえば女房が産をしたり、その他火を別にする者はすべて小屋に入った。 祭りの支度をする者ももちろん精進屋を設けて何日かを過した。旅行者ももとは人の家に留まらなかった。 貴人の歓迎せらるるものは新たにその宿泊所を建てたが、これをもやはり仮屋(かりや)と名づけている。 用が済めば解いてしまうか、そうしなければすぐに荒れてしまった。 軍陣には幕を打って野宿をすることも多かったろうが、やはり逗留(とうりゅう)すればこの仮屋を設けたのである。
    (《第三章 家と居心地 二 小屋と長屋の修練》P.104)


     小屋は要するに働く人々を、一時集めておく宿舎のことであってというのはたぶん小さいという意味ではなく、単に若者たちともいうべき語であったろうと思う。 農業漁業の大きな作業団にも、かつては鉱山山林と同じく小屋があって、それを常設に集合させたのが長屋であった。 大小の都市の新たに興ったものには、ことにその長屋を作るべき必要が多かった。 それを小泉八雲氏などは、眼を丸くして驚き見たのであった。
    (《第三章 家と居心地 二 小屋と長屋の修練》P.104)


     三 障子紙から板ガラス

     大きな建物の隅々が明るくなったということは、家に幾つもの〈中じきり〉を設けてもよいということを意味する。 あるだけの柱と柱との間に、ことごとく鴨居(かもい)鴫居(しきい)を取り附けて、板戸唐紙(からかみ)戸を立てておくようにしても、それが片方に引っ込んでいる者の、幽閉ではないことになったのである。板ガラスは久しく日本の国内に産せず、遠くから輸入したものを大切に切って使ったが、もうそのころよりこれを障子の一枠にはめ込んで、黙ってその間から外を見ている者が田舎にも多くなった。 紙がガラスに移っていったのは、外の景がただ一団の明るい感じから、忽然(こつぜん)として個々の具体的なる物象に進化したことにもなるのである。
    (《第三章 家と居心地 三 障子紙から板ガラス》P.112〜113)


     家の若人らが用もない時刻に、退いて本を読んでいたのもまたその同じ片隅であった。 彼らは追い追いに家長も知らぬことを、知りまたは考えるようになってきて、心の小座敷もまた小さく別れたのである。 夜は行燈(あんどん)というものができて、随意にどこにでも運ばれるようになったのが、実は決して古いことではなかった。それが洋燈(ランプ)となってまた大いに明るくなり、次いで電氣燈の室ごとに消したり点(とも)したりしうるものになって、いよいよ家というものにはわれと進んで慕い寄る者のほかは、どんな大きな家でも相住みはできぬようになってしまった。 自分は以前の著書において、これを火の分裂と名づけようとしていたのである
    (《第三章 家と居心地 三 障子紙から板ガラス》P.113)


      四 寝間と木綿夜着

     火の分裂はすなわち炉の威力の衰微であった。秋もやや深くなるころから、背戸(せと)の薪の山をほつほつと崩して、これを大きな〈ひほど〉に打ち込んで燃やした時代には、家に住む限りの者は集まってその傍を囲まずにはいられなかった。 炉端の正面を横座といって、これには当然に家の主が座った。 ここの一枚だけ茣(ござ)が横に敷かれたゆえに横座である。 通例はその右手が客座であって、客のない時には家の者もまじり座ったが、他の一側の上席だけは儼然(げんぜん)たる〈かか座〉として、嫁にも娘にも代わって居ることを許さなかった。 あるいは〈杓子とり〉とも称する食物分配の権能はこの座から発動し、嫁にその杓子を渡すことが家の相続であった。 横座と相対する下の座は木尻(きじり)であって、これにはもとより敷物は敷いていない。薪の尻のほうを向けておくから木尻であった。
    (《第三章 家と居心地 四 寝間と木綿夜着》P.114)


     寝間の大切になるのは秋の末からであった。 ちょうど苅り入れた新藁(しんわら)を乾してよくすぐり、それを一ぱいに敷きつめて、夜の床は香(かぐ)わしくなる。 その下には二尺三尺の深さまで、籾殻(もみがら)を積んであるのが普通であったが、これも年ごとに古いものと入れ替えたのであるに寝ていた記憶のある者は、今でもまだ決して少々ではないのだが、よほど素朴な人でないと、それが煎餅(せんべい)蒲団よりははるかによいものだということを、思い切って説く者がないくらいに、今では綿の敷物が普通になってしまった。 しかし残っている寝室の構造を見てもわかるように、もとは決して貧乏人だけの、よんどころなしの辛抱ではなかったのである。
    (《第三章 家と居心地 四 寝間と木綿夜着》P.116)


     家の幹部になる者の休所は、たいていは中央の突き当たりにあった。 その入り口の正面を背にして、いわゆる横座の主はこれを防護していたのである。ここの〈しきり〉だけには始めから戸があって、下の框(かまち)が五六寸も高くなっていたものが多い。 跨いで入るのは侵入者を食い止める方便でもあれば、同時にまた中から藁の飛び出さぬ用意でもあった。 あるいはまた折れ曲がって入り口を横手に附け、表はかえって板壁になった例もある。 だから妻子の寝る室はたいていは薄暗いのであったが、藁を床にしている間は暗くてもまずはよかったのである。
    (《第三章 家と居心地 四 寝間と木綿夜着》P.116〜117)


     ところが木綿は最も湿気を引きやすく、また汗の香を移しやすいものであった。寝間の構造位置などはもとのままにしておいて、単に夜具だけを新しいものに変えようとしたために、ここは村々の衛生吏員などの、何よりも気にしなければならぬ場所になったのである。 この種の考えない二重生活は、家屋に伴うてはほかにもまだいろいろあるように思う。 それほどにも建物はわれわれを拘束し、または徐々として意外な生活慣習を、成長しむるものであったのである。
    (《第三章 家と居心地 四 寝間と木綿夜着》P.117)


     五 床と座敷

     私室を納戸(なんど)といっている方言は弘い。 納戸は文字の通りにもとは物置のことであろうが、実際寝間はまたその用途をも兼ねていたのである。 伊豆の島々や但馬の一部分では、村でもこの室を帳台という例がある。 帳台は古い語であった。 そうしてもっぱら身分ある人々の寝所のことのようにも考えられていたのである。
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.117)


     二条城その他の本式の書院造りを見ると、上段主公の座の一方の片脇に、低い櫛形の窓があって次の間に通じている。 それを武者隠しなどと称して護衛の士を置く所だという人もあったが、実際はその次の間が帳台の間なのであった。 その低い窓のような入り口は、むしろ外襲に備えた構造のように思われる。 武装した者が潜ってこの穴から入ろうとする間には、若干の支度をととのえる余裕があるからで、内外の相違はあるが、防禦に用立ったというまでは一致している。ちょうど農村の旧家の寝間の閾(しきい)が高く、あるいは三尺の板敷を折れ曲がって入るように、表を囲うてあるなども目的は同じであった
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.117〜118)


     佐渡ではこの由来に関して親隠しの昔話が伝わっている。 すなわち蟻通しの物語も同じように、老人を山に棄てさせた時代に、孝行な者が親をこの中に匿していたというのである。 あるいはまたこの入り口の小高い下框(したがまち)のことを、戯れに恥隠しと呼んでいる土地もあった。 これがなかったらしばしば藁しべを蹴散らして、藁に寝ていることが暴露するからというのであるが、この説明もやはり新しいものであった。 武者隠しの伝説が半分ほどこれと似ているのは、あるいは偶然ならぬ何らかの関係があったかもしれぬのである。
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.118)


     ここまで考えてくると、座敷の行き留まりの一区画を小高くして、今は掛け物置物生花などを観賞する場所をといっているが、もとはその用途が全く別であって、やはり寝床のトコであったことが想像せられるのである。 どうしてこのような裏から表への大変革があったかは、主として建築術の歴史がこれを説明する。 以前尊敬する寄寓者のために、新たに仮屋を建てて提供した時代には、それは多くの提供者の家に接近した離れ座敷のような別棟であった。
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.118〜119)


     追い追い工芸が進んで巨大なる棟木(むなぎ)や柱が利用せられ、人もまた複雑の技巧を楽しむようになって、家族の若干の部屋が母屋と併合したごとく、客舎もまたあらかじめ常設のものを、その大きな家の中に作り添えた。 それほど後代は珍客の来訪が、頻繁(ひんぱん)になっていたのである。 もちろんこの設備があるために、同じ待遇をいくぶんか拡張したということはある。 以前ならば単に炉辺の客座の上まで、請じ入れてよかった人を、奥座敷があるばかりにそちらへ通したということはあろう。 しかし、とにかくに客のために設けた一室であるゆえに、留まっている間は客のほうがそこでは主人であった
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.119)


     いまでも旅館においてはこの気持ちを味わうことができるが、つまり滞在者に横座権を譲るのである。 上客がしいて床柱の前へ、押し上げられるわけはそれから出てくる。 亭主の横座の後が寝間であったごとく、主賓は床の柱に凭(よ)ることを当然としたのである。 ところが客殿は全部畳を敷きつめた座敷となり、綿の蒲団をその上に延べて寝るようになって、床の特別の装置は不要になった。 それでもこれを取り除けてしまうと、客を優遇している趣意が見えなくなるゆえに、しだいにこの区画をいま一段と高尚なる目的に使用することにはなったのである。
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.119)


     軸物を壁に掛けることも、俗人の家ではちょうど生花と同じころに、すなわち室町時代から始まったようである花を花瓶に挿す日は最初は七月の七日ときまっていた。 これも一種の盆花であったから、掛け絵も宗教画に限っていたのであろうが、ほどなく種々の風流がこれに加わって、器物や植物との興味ある配合が行われ、富める者はその数十組を陳列するようになって、急にこの時代の骨董(こっとう)熱は高くなったのである。 生花見物のためにする装飾を、室札ともいっていた。 台子(だいす)と連なってこの目的に供せられることになったのは、ちょうどその設備が無用になった直後である。 茶事俳諧とがこのやや頓狂なる思い付きを、尻押ししたことは言うまでもなかろう
    (《第三章 家と居心地 五 床と座敷》P.119〜120)


     七 木の浪費

     一部落の内が順次に葺きかえ、または火に遭うて復旧するものを助けるには、〈ユイ〉という組織を必要としていた。 すなわち一年の萱をある一家に使わせることを承認するのみか、さらに集まって苅りかつ運んで助けることを、相互いに約束していたのである。ユイの結合が崩れてしまうよりも前から、もうこの萱生地(かやおいち)の存続がむつかしくなっていた。 しかも民家が瓦をもって屋を覆うことは、普通は制度として許されなかったゆえに、小屋には思い思いの仮葺きが始まったのである。 京都の南から大和へかけては、稲藁を多く用いている。 あるいは美観のためにこの材料を択んだかと思うほどに、今では家の輪郭と巧妙に調和させているが、こういう手のかかる葺(ふ)き代(しろ)を最初から好んだわけはない。
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.128)


     その他の多くの府県の小麦稈、ないしは大麦の藁をもって葺いているものは、明らかに萱野を麦畑に開かねばならなかった結果である。 上手に葺き上げると外側はさして違わぬが、こちらは茅屋のていねいに葺いたものが四五十年を保つに反して、まず三年もすれば朽ち始めた。 従うて〈ゆい〉をかわすべき余地はなくなったのである。山々の冬の仕事の少ない村から、屋根屋という者が暮れにかけて巡業した。 手の足らぬ家では日傭いを入れた。 そうしてその真っ黒になった古麦藁は、通例は堆肥などに宛てていた
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.128〜129)


     屋棟の葺合わせは草屋にはことに面倒であった。 東国には土を載せて萱の端を押さえ、雨でその土の流れを止めるために、〈しゃが〉〈いちはつ〉の類の根の多い植物を植えているものがあるが、他の地方では別に〈ぐし〉を藁苞(わらづと)で押さえ、竹を横たえてこれを綴じ合わせる方法が発達し、屋根葺きの工芸もだんだんに専門に、あるいは箱棟造りといって板で包み、また杉皮をもって巻き立てたものもあるが、明治に入ってからはだんだんに瓦の〈ぐし〉が増してきた。 これは一つには外観の美のためでもあった。 瓦の総葺きは常民に禁じていた時代も、棟と庇(ひさし)だけにはこれを認めたゆえに、東海道の宿駅などには、ほんの中程のわずかの部分しか、萱を用いておらぬ家も多かった。
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.129)


     総瓦が自由になって萱野はたちまちに開き尽くされ、一方にはまた家の形が丸で変わってきた。 草屋はできるだけ早く雨を流し、湿気を含ませておかぬために、最も傾斜を急にする必要があった。 こういう家では軒が低くたれて、雨垂れのしぶきが戸に迫ったが、瓦はこれと反対に載せてずらせぬように、特に緩やかに屋根をこしらえたので、従うて軒先を深く、窓を明るくすることも容易であった。 板や杉皮を葺いた庇は新しいものではないが、明治は村々の茅屋藁屋が、競うてその庇(ひさし)を取り附ける時代であった。竹樋(たけどい)〈とたん〉の樋をその端に廻らして、人が雨垂れの簾(すだれ)をくぐらずとも自由に入ってこられることになったのはそれからであり、これに伴うてまた縁先というものが、多くの小家の普通になったことが、新時代の一つの変化であった
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.129〜130)


     瓦と土壁とは当然にまた火事を防いでいるはずであるが、まだ実際にはその成績を認めさせてくれない。 いわゆる屋上制限の早く行われた都府、土蔵塗籠(ぬりごめ)を建て並べている市街が、それから何度ともなく一望の赤土と化している。 地方の大火というものは一段と繁く起こっている。 消防の組織の密になったこと、機械の精巧になったのも明治大正の特色であるが、一方には火事を起こす原因もまた確かに多くなったことは、事後の調査によってこれを知るばかりである。 これには一種の隠れたる小屋心理、すなわち家は焼けるものだという考え方も動いていたようである
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.131)


     小屋が本当の仮屋であった時代には、事実これはまた必要時の薪でもあった。 それからやや落ち着いて住むようになっても、しいて火事を起こして焼く人がなかったというだけで、町ではほとんと家の火を防ぐ者はいなかった。 いつでも警鐘を聴いて方角と風の力を察し、少しく危険があればまず立ち退きの支度をした。葛篭(つづら)籠(かご)長持ちはことごとく運搬用にできており、車力の大八車なども、火事の用に発明せられたと言っている。 田舎でも一軒焼けで済むのはまずめでたい部類で、後に見舞いや手伝いをもって埋め合わせをしたことは、今日の保険も同じであった。 災害の種類も数は多いが、人がこれほどいさぎよく諦めるのも稀であった。 それが都会においてはすぐに代わりの得られる商品であったからである。 だから不意を食って家財まで丸焼けになった場合のみを、特に不幸として歎いていたのである。
    (《第三章 家と居心地 七 木の浪費》P.131〜132)


      四 田園の新色彩

     平野の色彩の新たにその複雑さを増したのも、ことごとくまた無意識なる人間の力であった。 人が自ら楽しむべく野山に遊ぶ姿なども、期せずしてすでに風景の美しさを添えているのだが、それまではまだお互いのことと考えてもよい。 村の改造に至っては心あってこれを企てたとしても、なおこれ以上には緑の自然と、しっくりと調和させることはできなかったろう。
    (《第四章 風光推移 四 田園の新色彩》P.150)


      五 峠から畷(なわて)へ

     江戸以前の武家はよく路をかえ、またしばしば路の側の木も伐らねばならなかった。 一里塚に榎(えのき)を植えたのは信長からだという説もあるが、実はずっと昔から榎は並木であった伐って薪にしてすぐによく燃えるので軍陣の篝火(かがりび)に適したから、路傍に植えておくのが便宜であったように、解している人もあるがそれはどうでもよい。 とにかくにこの木にさまざまの道の神の信仰が附いていたのは、むしろ久しく並木に植えていた結果のように思われる。 奥州の大道には赤松のかなり古いものもあるが、所によっては川楊(かわやなぎ)を植え連ねている。 これなどは燃料の用意などよりも、むしろ成長の早いことをめでたものと思う。 そのうえに一つの動機は水に親しい樹というにあった。 垂柳(しだれやなぎ)も同じことであるが、この木のある所は清水の得やすい地であった
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.155)


     茶屋が生まれた前は泉が旅人の休み場所であった。 道路は自然に開けたものは多くこの泉の所在を繋いでいる。高清水箱清水などの駅の名の起こりは、すなわち茶屋よりは一つ古いのである。 西行法師の「清水流るゝやなぎ陰」なども、それが遊行(ゆぎょう)柳の物語となった以前は、やはりこの川楊のほうであったかもしれない。 とにかくにこれは格別に高く延びる木で、そうしてまた木肌の黒と葉の緑とが、美しく映える木でもあった。
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.155〜156)


     東北では広い野路の雪に迷うて死んだ者があって、それから道しるべの並木を植えさせたという話もある。 風景は仮に作った人の趣旨ではなくとも、こういういろいろの経験があって、初めて並木は頼もしいもの、また何となくなつかしいものという、われわれの感じは養われたのである。
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.156)


     道を行くものには、かねて精神の糧も入用であった。 以前は道連れというものが、何よりも大切な旅行機関で、それがない時には大きな男でも不安を抱いた。 すなわち信仰のことに対象を求むる時であったゆえに、数多くの祠(ほこら)辻堂石の神仏が出現したのであった。永い年月にはそれがあまり煩わしくなったので、明治の初年にはこれを取り片付けよという命令が出た
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.156)


     そうして大部分は整理せられたのであったが、やがてまた新たにたくさんの馬頭観音道祖神観音が刻まれて、新道の左右には並木はなくなっても、これだけはもう完備したのである。それが旅する人馬の安全のためだけでなく、また必ずしも多くの人に見られようという目的でもなくて、特にわれわれの心が最も感動しやすく、また共鳴しやすくなっている時をねらって、この常設の晴の場所に、そういう記念物を持ち出しておくのであった
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.157)


     前後三回の国際戦役において、子を失った親などが近代にはこれを利用した。 その前には手習いの師匠のための筆塚、さては土地から出た力士の石碑、馬が死んだり行き倒れがあったり、虫や疫病の害を攘(はら)うために、大念仏を催したという記念もあれば、熊野や羽黒山に参詣をしてきたということを後に伝えようとする行人(ぎょうにん)塔もあった。 石は実際は多くなり過ぎて目障りである。 人の手が豊かで石屋がいなかった時代には、石塔の代わりをしたものは塚であった。 塚はよい具合に人が忘れるころまでに、小さくもなりまた低くもなっていたたまたま形は残っても、伝説はたいてい快活に変化している。 そうして平野の道を行く者の、また一つの親切な目標ともなっていたのである。
    (《第四章 風光推移 五 峠から畷(なわて)へ》P.157)


      七 家に属する動物

     は中国では食用としていたためでもあるか、鶏犬(けいけん)と称してはやくから各家の有であったが、日本では久しい後まで村の犬というものがあって、従ってまた無価値であった。 もっとも食物のなるべく多い所、愛する人の傍に寄ってくるのは当たり前で、夜も定まった寝床があったであろうが、飼い主はと問うとないと答うべき犬は多かったのである。 それが猟などの必要から追い追いと一人を主と仰ぎ、他人に馴れないものができて、追い追いに犬の種類は改良した。改良とはいつでも前からある者の不幸であったが、ことに日本犬は原始的であったためか、負けてわずかの間にみな雑種になってしまった。 家に飼い犬が流行(はや)ると、村の犬は顧みられない。 のら犬といったところが野犬ではないのに、年々不用となって手袋の皮などにする数が、驚くほど多いのである。犬が果して家畜というものならば、これは実にだらしのない放牧であった
    (《第四章 風光推移 七 家に属する動物》P.166)


     などはあまりその悪戯(いたずら)が烈しいために、早くわれわれの愛情を失ってしまったが、今でも家との関係は時として村の犬よりも深い桝落としが古い方法でなかったことは、鼠を殺すことをいやがる人の、多いのを見ても察せられる。 家に鼠のいなくなるのを不吉とし、あるいは騒ぐのは何かの前兆というなどは迷信であろうが、新たに生まれたにしてはあまりに弘く行われている。
    (《第四章 風光推移 七 家に属する動物》P.166)


     正月だけはねずみという語を忌んで、よめ子といっている土地も多い。 普通は五日か六日の日の晩に、よめ子にも年を取らせると称して、節(せち)の食物を器に入れて、鼠の通路に置いて食べさせる習慣もある。 犬猫のすでに家庭に属しているものはもちろん、鶏にも牛馬にもこれと同じことをするのを考えると、最初は家畜と家にいる動物との間に、そう大した分け隔てはしていなかったのである。 これが屋上の鳥や軒覗く雀、鳶や梟(ふくろう)どもにも明日の天気を相談しようとした理由であって、こういう鳥は別に美しい羽の色でもなく、声とても決して好い音楽とは言われぬにもかかわらず、来ると嬉しく影を見ないと何となく淋しく思われた因縁は、一言で言うならば彼らがわれわれの友だちであったからである都会は実際また鳥類以外にも、多くの友だちを失わせる土地であった
    (《第四章 風光推移 七 家に属する動物》P.166〜167)


     一 村の興奮

     一度世間へ出てしまった人の故郷観は、村生活の清き安らかさ楽しさに対しての讃歎が先に立ち、これに次いでは後に残った者の寂寞無聊(ぶりょう)に対しての思い遣りがあった。 初期の都市生活の心細さが、人を久しい間家を懐(おもう)うの遊子にしていたのは頼もしいが、こうしてあまりにも故郷に重きを置き過ぎた結果は、都市はいつまでもどちら附かずの住民をもって充ちていたのである
    (《第五章 故郷異郷 一 村の興奮》P.172)


     多くの制度は今までの不文(ふぶん)の仕来たりを、承け継いだようなものであったが、言葉が新しいために別物のごとく感ぜられて、わかった人たちまでが重々しくこれを取り扱い出した。 議論は事務の練習のためにも、毎日少しずつしなければならぬことになり、それには勉強して公式の語を使用した。これが常人の家の中の用語と融和してしまうためにも三十年はかかった。 少なくとも公務に携わった一部の人だけは、町以上の連日の昂奮を味わっていたのであった。 小学校郵便局病院その他の営造物、各種の会組合青年団など、いずれもこれと同じ手順をくり返して出現した。 もちろん町村は有望に多事であったのだが、とにかくに人心は動いていた。 こういう耐えざる取り込みの中へ、還って休養を得んとした者は失望したのである。
    (《第五章 故郷異郷 一 村の興奮》P.174)


     そのうちに新町村の結合ということが始まった。明治二十一年の市町村制以前にも、弱い小さな部落の独立を止めさせようという方針は立てられていたが、いよいよこの時になってこれを全国いっせいに実行することとなった。 いつからあるともしれぬ十七万幾千の村と町とを、大まかに一万二千ほどに纏めてしまった。 その結果は大体において好かった。 しかしとにかくに大字(おおあざ)は対立するものであった。隣同士に並んでいる村で、以前一つであったのを分割したというものは一割もなかった
    (《第五章 故郷異郷 一 村の興奮》P.174)


     また一つの厄介な問題は、どこを新町村の中心にするかということであった。 外から来てみる者には地形から判断して、だれにも争えない一点があるように思われたが、それは部落の中ではたいていは最も新しいものであった。 はじめ結合の計画は外に起こり、道路もまたわざわざこれを支持しようとしていたゆえに、どうしても他へは動かすことができなかったけれども、現在役場のある所は大多数が新町であって、従うてそこの住民は方々の寄せ集めであった
    (《第五章 故郷異郷 一 村の興奮》P.175〜176)


     本村元郷(ほんむらもとごう)は原則としてはるかに山の根方などに引っ込んでできていた。 これを沿革にはかかわらず、交通の便利なところへ持ってくるということは、また大きな昂奮を必要としたのである。 それが何でもなかったように落ち付いてしまうには、人の家なら二代、年なら明治大正の六十年ほどもかかったのも是非がない。 ちょうど東京が全国の努力をもって田舎化されようとしたごとく、淋しい新村の首府も勉強して各部落の意を迎えたが、それといれちがいに農家のほうも新しくなった。町にばかり新しい空気を吸う者を、固まらせておくまいという考えから、競うて彼らと同じ書を読み、同じ講話を聴こうとした熱心が、いつとなく生活ぶりの一致となり、しかも流行はことごとく小さな町を通って、背後の大きな町から流れ込んだのである
    (《第五章 故郷異郷 一 村の興奮》P.176)


     四 世間を見る眼

     最近に上山草人(かみやまそうじん)が久しぶりに日本に戻った時、何だか東京人の眼が大へんに怖くなっているといった。 それが一部の文士などの間に問題になったそうである。 こういう感じには個人の立場が働くから、よほど重ねて見ないと事実としては取り扱いにくいが、それはわれわれにはありそうに思われる変化である。眼つきの険しさは人次第また遭遇次第のもので、一様にこわいの優しいのということはないはずであるが、実際は土地によって少なくとも外来者にはそう感じられる
    (《第五章 故郷異郷 四 世間を見る眼》P.187〜188)


     そうして日本では攘夷の論がようやく熄(や)んだころなどは、さぞかし畏ろしく見えたろうと思われるのだが、初期の観光者の幾つかの日記には、意外にも非常に柔和な容子をしていると書いてあるのである。 今でも農村のやや交通の衝(しょう)を離れた部分に行けば、同じ印象は得られることと思うが、そうでなくとも少年と老人、女は全体に怖い眼をしているなどと、報告せられる覚えはないことと思う。
    (《第五章 故郷異郷 四 世間を見る眼》P.188


     言葉だけではこの気持ちを精確に伝えがたい。 やはり写真を使わぬと外国人などには呑み込めぬかもしらぬが、こわいといったところで害を加えようという意味ではない。 単にやや鋭く人を視るというだけのことであった。 今まで友人ばかりの気の置けない生活をしていた者が、初めて逢った人と目を見合わすということは、実際は勇気の要ることであった。 知りたいという念慮は双方にあっても、必ずどちらかの気の弱いほうが伏し目になって、見られる人になってしまうのである
    (《第五章 故郷異郷 四 世間を見る眼》P.188)


     通例群の力は一人よりも強く、仲間が多ければ平気で人を見るし、それをまたじろじろと見返すことのできるような、気の強い者も折々はいた。この勇気は意思の力、または練習をもって養うことができたので、古人は目勝(めがち)と称してこれを競技の一つにしていた。 すなわち、今日の睨めっくらの起こりである
    (《第五章 故郷異郷 四 世間を見る眼》P.188)


     六 島と五箇山

     近ごろようやくのことで考えられてきたのは、でなければできないという仕事は何だろうということであった。 島は幸いなことには日本は南のほうに多い。 それを利用した野菜の早作り、果樹の栽培ということが第一着で、次には畜産のほうでは種畜の育成とか、また蚕の種紙の製造というような、細やかな人の手と注意とを要する作業を、伊豆でも沖縄でも追い追いと離島に托そうとしている。 こういう任務はまだいろいろのものが残っているらしい。
    (《第五章 故郷異郷 六 島と五箇山》P.199)


     漁業は需要が少ないために、島では一般に進歩していない。船は資本を要するようになってから、これも島人の経営から離れて行った。 しかし将来の国民の仕事場は、海のほうへでないと拡張しがたいから、この方面では有利なる競争ができるわけで、問題はただ自主的にその特徴を発見するまでに、なおどれだけ無益な苦悩をくり返さねばならぬかである
    (《第五章 故郷異郷 六 島と五箇山》P.199)


     島とほとんど同じような孤立状態に、置かれていた山村も多かった。 五箇山はただ肥後深山(しんざん)の平家谷(へいけだに)だけではない。 雪に閉ざされた白山(はくさん)の西麓にも、また越中の奥にもあれば、同じ名はなくとも地形の同じ土地はまだ数十を列挙しうるのである。 その共通の特長は数千尺の嶺を越えて、冬季は出て行かぬと家の生計の立たぬこと、外から求めるの数が多くて、内から運び出すものが労力以外に、今までは何一つもなかったことである
    (《第五章 故郷異郷 六 島と五箇山》P.199)


     一 人力車の発明

     交通機関の発達については、いろいろ面白い話の種も多いが、それだけに人がもう幾度か話し合っている。 その中では特に人力車の盛衰のあまりにも急激で、しかもその経過が始めから終わりまで、明治大正の世相を代表しているように見えるなどが、いま一度考えてみてもよい問題のように思う。 人力の名称は確かに車力(しゃりき)から出ている。 以前にさかのぼれば脚力(きゃくりき)強力(ごうりき)を通って、足利時代の力者(りきしゃ)までは行けるだろう力(りき)はすなわち力業(ちからわざ)をする者ということであった。 しかしその実際は横浜あたりの、異人の馬車を見てからの思い付きであったことは、初期の車の横長く、床が平らであったのを見ても想像せられる。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 一 人力車の発明》P.201)


     馬の代わりを人というなどは、今ならだれでも進歩とは思うまいが、あのころには輓馬(ばんば)は決して得やすからず、人足は余るまであった。 わずか一年か二年に道路のある限り、いわゆる人力車が全国の隅まで普及して行ったのは、単に物珍しいというためでもなければ、乗らずにいられぬ人が多くなったからでもない。 つまりはこれだけがあの時代の手ごろの職業であったのである。 最初にはもちろん雲助の失業者が入ってきたが、士族でもただ腕力しか持ち合わせないものは、零落してこれに加わっていた。 村でも屈強な者から追い追いに出てこれに働いた。 そうして比較的気の利いた労働と認められていたにもかかわらず、これには格別の資格というものも要らなかった。当時ただ一つの自由業であったのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 一 人力車の発明》P.201〜202)


     二 自転車村に入る

     その他の多くの職業においても、途上に費やして棄てた勤労はみな省かれ、人は遠くへ出て働くことができるようになった。日返りの道程が倍にも延びて、旅館の必要がよほど減じてきた。 計算の上から自転車を使うのを利とする人が、見ているうちにその数を増してきて、土地によっては女髪結いや産婆までが、これに乗って村を廻るような世の中になった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.207)


     農家も多くはまた実際の用途から、このごろでは自転車を買い入れたことは同じだったが、その勘定はあまり細かくなかった。 村の作り方は大体に耕地を居まわりに控えて、できるだけ往復の時は省くように、早くから努力せられている。たまたま懸け離れた仕事場が少しあるにしても、そこは自転車などの使えない路であった。 五人三人と同じ家から、連れ立って出て働くのも特徴の一つであったが、それにはこの個人主義の乗り物は不向きであった。 いま一つは農具材料収穫物などの、持って帰り持って行く物が非常に多い。農の作業の三分の一は運搬であった。 便利には相違ないが、自転車はこういう点まで考えて、発明せられたものではなかった。 だから村々ではしまっておく時間が多く、家に働く者の数だけ備え付けることができなかったのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.207)


     地方の税の中で自転車税ほど簡明なものも少ないこれで持ち主の受けている利便も、暮らし向きの余裕も測知せられるほかに、負担がいやなればこれを止めるのに、番犬税ほどの未練もないのであった。 車その物には税を払うまでの義理はなくとも、標準とするには手ごろのものであった。 そうしてその計数も精確に知れていて、こういう話をする際にも都合がよい。 東京四周の平地の多い県などでは、おのおの何万という農民が自転車税を課せられている。 田畑の生産物の収入が低下してくると、まず第一着にはこの税の高いのに心付かれる。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.207〜208)


     次には節約をしようとして隣どうしの共用が試みられる。 実際そういう組合までが、成り立ちうるような使い方でもあった。珍しい事実は日本だけに限って、後車を附けた自転車の盛んになっていることである。 これをリーアカーなどと舶来のように考えているが、これもまた一種の人力車にほかならぬのであった。 以前の手車がそうたくさんの荷を運ばずとも、用は足りていたような土地であって、しかも少しずつは何か持って歩かねばならぬ人が、自転車を乗りまわている場合でなければ、後車は名前はあってもそう重宝に利用される必要がない。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.208)


     ところが日本は風呂敷の国、紳士や奥さんまでが何か持ち物がないと、徒然(とぜん)に感ずるような国風である。 以前はこの人たちは突袖(つきそで)をして歩いたのだが、その代わりにはお供が附いていた。 恐らくは何百年となき昔から、朝夕路上を動く人は棒にとおすか背に負うか、ないしは手に下げるか頭に載せる化して、ただ身一つでは歩かなかったのである。 これが自転車のまずお供でも連れていたような人に用いられ、次いで実用に向けられると、早速にリーアカーを要した理由の一つであろう。 これも市中に流行ったのは簡単な小形であったが、弘く農村に入ってからは路一ぱいの大ぶりなものになった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.208)


     この操縦だけは輸入でも伝授でもない。 元来人込みの中を器用に通る技能を、よく練習していた国民ではあるが、これでまた新たにむつかしい実験を添えた。 走る力と前を行くものの動き方、通れるか曲れるかの寸法の目分量、ほんとに尻に眼があるかと思うほどの気働きをもって、新たに間を測り程合いを考えることなどは、学校以上の重要な教育であった。田舎者は以前手拭馬(てぬぐいうま)などといって、夫婦が手をつなぎ町へ出てくるとまごついて笑われていたが、現在は自動車でもまた精密な機械でも、かえって町の人よりは恐れ気なくその取り扱いを覚え込むようになった。 すなわち市民の資格は非常に得やすくはなったのだが、その代わりにはせっかく村にいても、早くからこういう骨の折れる練習をしなければならなかったのである
    (《第六章 新交通と文化輸送者 二 自転車村に入る》P.208〜209)


     五 旅と商業

     ボッカの出立ちは絵巻物の高野聖(こうやひじり)などと近い。 高い荷物に日覆いを張って、掛け緒を両胸に掛けて笈(おい)を負うている。 手にもつ杖の短く末が太く、とんと野球のバットのようなものを、本を撞木(しゅもく)にしてその上に荷物を支え、立ったままで路傍に息を入れる。 所得次第では二十貫近くまでの物を負うて、一日に必ず嶺を越える。 登山の強力もこの仲間から出たものであろうが、今でもボッカたちの故郷では、小さな娘までがこうして物を運んでいる。普通の荷持ちとちがう点は、計算の利益が自分に帰することであった山から担ぎ出すのはもとは麻糸が主であったが、それを作り主から値をきめて引き取り、町で交易してくる海の物や雑貨も、時々の相場に口銭を見て註文者へ渡した。 小さいながら独立した商人でもあったのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.217〜218)


     狭くて人の多い島国では、カラバンは大いに発達する機会を得なかったのである。牛馬も伯楽(ばくろう)が遠く売買をする場合でなければ、もう今日ではこれを牽いて旅行をする必要がなく、従って牛宿馬宿は絶えてしまおうとしているが、かつてはこの設備をもって市場の中心としたこともあった。 村の若者らの才能あるものが、これを世渡りの練習とも、また運命を開くべき遠征とも考えて、知らぬ他人の中へ突進していったのも、つまりはこの農業では見られない転送の利得という興味があったからで、今でも一種のやや無遠慮でしかも率直な態度が、牛馬を追う者の間にだけに認められるのは痕跡である。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.219)


     伝馬(てんま)が街道の問屋の統制に帰してから、村の交易業は卒如として受動的なものになった。 わずかに采大根を町に担ぎ出すほかは、商人はほとんどみな町から来る者となって、また一つの世間を知る機会を失ったのである。 現在村々を巡っている行商の中には、〔ぼて〕振りと称して朸(おうご)の両端に籠を下げたもの、いま一つ古風なのには大きな布の袋を肩にして、家々の産物の〔はした〕を買い集めようとする者がある。 資力が乏しいので三百旅人(たびと)などと軽蔑しつつも、いつも不用意にこの輩(やから)を儲けさせていた。 繭の仲買などの秤の棒矢立てとを腰にさして、白い股引きで押しまわしたのも同類であった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.219)


     自転車の往来が村の中に繁く、町場は東西南北にあり過ぎるほどできても、農人がこれを利用はせずにあべこべに利用せられていたという状態にも、基づく所は深いものがかるのであった。 販売購買の組合事業が起こると、これらの弊風の若干は整理せられるが、それと同時に村がまた一段と奥のほうへ引っ込んだものに感じは抑えられない。 そうしてこれが本来の村の生活だと、思わなければならぬのは淋しいことであった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.220)


     漂泊者の歴史は日本では驚くほど古く始まっている中世以後彼らの大部分は聖の名を冒して、宗教によって比較的楽な旅をしてみようとしたが、実際は他の半面はでありまたであった。 そうして行く先々の土着民に、土を耕さずともまだいろいろの生活法のあることを、実証してみせたのも彼らであった。もうかれこれ一千年にもなろうが、その間始終何かかか新しいことを、持って来て吹き込んだ感化は大きかった。 村と村との間に交易の旅行が始まったなども、たぶんはこういう人から学び取った技術であろう。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.221)


     数から言うならば国民の八割九割までが、昔ながらの農民であった時代もあるが、この生活は全国一様に固定していた。 倦むことはあっても自から改まるという機会は少なかったので、これに時々の意外な刺激を与えて、ついに今日見るような複雑多趣の農村にしたのは、原因は他にありえない。 すなわち日本の文化の次々の展開は、一部の風来坊に負うところ多しと言っても、決して誇張ではなかったのである。 ところが世の中が改まってゆくごとに、彼らの職業は好さそうなものから追い追いに巻き上げられた。 町が数多くなるとずぐにその中へ編入せられて栄えた。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.222)


     町の商工業の書物になっている発達史などは、ことごとくその背後に今までの漂泊者から、大事な飯の種を奪ったことを、意味しておらぬものなどないと言ってもよかった。 それはもちろん国全体からみて、幸福なる整理と認むべきであるが、少なくとも村々の社会教育においては、補充を必要とすべき一損失であった。 由緒あるわれわれの移動学校は堕落して、浮浪人はただ警察の取り締まりを要する悪漢の別名のごとくになった。そうして旅行の価値というものが、内からも外からも安っぽくなってしまったのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.222)


     最後にもう一つ、明治の文化が旅の内容を改めて、地方相互の知識交換を不便にした例を言うならば、それは旅館というもののあまりにも単純になったことである。 宿屋という商売は以前からも一つであったかもしらぬが、旅をする者の夜寝る所は、以前は野宿辻堂を除いても、少なくともなお三通りははあった。 これは主として宿主と旅人との関係の相異だから、あるいは上中下の階級別と認めてもよい。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.224)


     その一つは第三章にも述べてある御仮屋式、もしくは本陣風と名づくべきもので、自分の住家の一隅を貸与しておきながら、亭主お目通りを願い出るというような、謙遜をあえてする泊め方である。 大名貴人が早くその例を開いて、維新の際などから追い追いとこれを鬚のある全階級に拡張し始めた。 言葉に訛のあるほどの遠国人は、ことごとくこの待遇を予期して来る。 始めは限りある本街道筋だけであったのを、しだいに村々の宿屋までが、大小となくこれを模するようになった。 いわゆる茶代の問題の発生地であって、費用の方面から相応に旅行の発達を妨げている。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.224)


     第二に衰えたものは問屋式もしくは定宿風とも名づくべきものであった。 これが近ごろの定宿なるものと、接近して来るまでには沿革があった。 主たる理由は同じ人のそう度々は廻って来ぬこと、すなわち安宿の名の無用になったことであるが、同時にまた宿主がその旅人に対して、興味を抱くことが少なくなったことも考えられる。 以前は商取引の関係は宿主共同の作業として、臨時の家族のごとき感じを与えていた。 職人や瞽女(ごぜ)座頭のような個人的の仕事でも、寝宿を貸すということが加担のように思われたのであった。 こういう宿泊者はその境遇に応じて、たいていはころ合いの馴染みを行く先に持っていたのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.224〜225)


     第三の様式も衰えてはいるが、これはまだ少しばかり町中にさえも残っているそうである。 仮に善根宿(ぜんこんやど)式または接待風とも名づけておくが、起こりは必ずしも信心ばかりからではなかった。 家の格式もしくは慣例によって、止める必要もないとて続けているのが普通だから、何か特別の祈願でもない限り、新たにこれを始める者はまず少なかろう。 しかも村では利益のために、客商売をすることは不可能だから、だれでも一夜の宿を乞うという者は、こういう家ばかりを捜さなければならなかったのである。 これは家族の一員にするというよりも、むしろ被保護者の関係であった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.225)


     小さい家ならば家内の飯を分けるが、召仕いの多い家ならば彼らの火にあたり、彼らの食う物を食わなければならなかった。 しかもこういう気の置けない火と食物とが予想しえられなかったら、多くの廻国者は最初から断念しなければならぬのであった。 今日の宿屋には紹介を要したり、女房が世話を焼いたりする定宿風はまだ少しあるが、座敷の待遇はどこもまず一様になっている。 まさか大名のようには威張ろうとせぬ客でも、やはり手を鳴らして命令をするだけの覚悟をしている。 従って旅行は中国人の婚姻と同じく、金を溜めなければ企てるものでないことになり、いかなる宿主でも金以外の好意利益を、旅人に期することはできなくなったのである。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.226)


     人が親類を持たない村里に入ってみることは、たいていは不可能になってしまった。 街道は常に自動車の煙埃(えんあい)をもって霞むほどの往来があっても、脇道は知った顔しかあるいていないようになった。たまたま来る他所者には、油断のならぬような用件ばかり多くて、異郷の事情を心静かに語る人もなく、またわが土地を外の人に語りうるまで、知って出て行く者もめったにはないのである。 安宿無料宿泊所の急迫した需要以外に、人が晴ではなしに相逢うて話をするような機会を、何とかして新たに設けてみないと、この旅行道の大いなる衰頽によって、一旦失うたものは補填する途がないことは、町も小さな市も村とかわるところがない。 しかもわれわれは好奇心をまだ多く剰しているゆえに、中央の消息ばかりがただ急激に流れ込むことになったのであった。
    (《第六章 新交通と文化輸送者 五 旅と商業》P.226)


      二 酒屋の酒

     以前の酒造りは、ことのほかに簡易であった。(こうじ)に二日と甘酒に二夜を送ると、残りの三日四日の間にはもう(かめ)にふつふつと涌いていた。 ちょうど遠方から太鼓の音が響いてくるように、この幽かな酒瓶の音に耳を傾けることが、すなわち家々の祭りを待つ心であった。 当日の用意は新(にい)しぼりの器を替える香によって整うたのであった。 それを神様に供えて滞りなく祭りを終わってから、酔うて倒れるまでたらふく飲まぬようであったら、酒ということはできなかったのである
    (《第七章 酒 二 酒屋の酒》P.232〜233)


     大きな祝宴は同じくまた醸造をもって準備せられた。かつては葬礼の家でも米を舂(つ)き酒を造ることを必要な支度にしたことは、古い記録に誌されて伝わっている。 もとはまずこれだけの順序を履まなければ、手軽な濁酒にも酔うことはできなかった。 独酌のまだ起こらなかったのは致し方もないのである。 ただし正月もまた大いに酌みかわす月ではあったが、これに第二回の酒造りを企てることは、だんだんに少なくなってきたように思われる。 これは祭礼の日のように家々に用意はせずとも、普通は年を祝われる大家(たいけ)出居(でい)において、一同が振る舞われることになっていたからかと思う。とにかくにある大きな家庭だけは、秋の酒造りの甕の数を倍にして、あらかじめこの初春の楽しみに備えておく必要があった。 酒の貯蔵はすなわちここに始まったのである
    (《第七章 酒 二 酒屋の酒》P.233)


     今でも旧家の誇りは、味噌漬け物の作り方、その他何人にも比較しえられる食物の調理法に存するようだが、酒はその中でもことに家刀自(いえとうじ)の苦心の存するところであったろうと察せらる。 これには家伝がありまた覚え込んだ伎倆というものもあろうが、それよりも大切に、はた不思議にも考えられたのは、今ならば何でもない酒の霊、すなわち米を麹にしていく微生物の、家々の型の相異であった。 これが何人の眼にも触れずに、古来一家の空気の中に浮遊したゆえに、どこにもないというような佳い酒が、時々はある旧家の名声を高めていたのである。 泉も強清水(こわしみず)などという名を帯びて、特に酒造りに適したというものが、通例は神の社の片脇等にあって、社と縁の深い家がこれを管理していた。
    (《第七章 酒 二 酒屋の酒》P.233〜234)


     三 濁密地獄

     以前の酒造税法には祭祀用儀式用のために、旧慣によって造る酒はそのままという附則があった。 現在はもはやかような条項を要しないまでに、官も藁屋も一様に罎の酒を傾けている。 実際この旧慣の有無ということは、そう簡単には証明しうることでもなかったのみならず、買うにも買えないような特別の酒を、ぜひとも造って飲むという土地も、そう方々にはあるわけでもなかった。 しかしもし永い間の仕来たりということが、仮に批評もなしに同情してよいものならば、日本にはまた一年内のある季節を限って、ぜひとも手造りの安い酒を、腹の破れるほども飲まなければ、承知のできないような土地があったのである。 東北その他の濁酒酒密造は、自他のともに認むる犯罪ではあるけれども、しかも都会で時折発覚するような、脱税の利益に誘惑せられた、新工夫の悪事ではなかったように思われる。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.236〜237)


     だれにも気が付くのは毎年の違反事件が、主として奥州の最も貧しい田舎、もしくは山陰の、ことに引っ込んだ山の村に行われていることである。 これには隠匿(いんとく)の成功する割合が、比較的多いからということも考えられるが、実際はすでに久しい以前から疑われていて、税吏は専門のように、特に定評ある地域を警戒しているのである。 この地方の検挙事件には悲惨なる事実が常に繰り返されている。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.237)


     ほとんど不思議なように前の懲罰には懲りないで、毎年同じ地に同じような違反が行われんとしている。 あるいはあらかじめ罪を着る人を定めておいて、共同して造っているという話もあり、女や小児までが戦闘のような態度をもって、発覚の防止に働くという噂も伝わっている。 これが他の点ではただの村民であって、ほとんと濁酒以外の罪を犯しえない人々だということを考えると、単なる寛恕(かんじょ)以上に、これを違反者たらしめる原因もまた尋ねてみなければならなかったのである。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.237〜238)


     濁酒密造の注意すべき特徴は、隠す方の技術ばかりが年とともに進歩したことである。 現在はもはや以前のようなゴンド被りではなくて、あるいは穴蔵を掘ったり深山の奥に隠したり、非常な知慮と労苦をこのために払っているにもかかわらず、造るものといっては全く昔のままの、酒とも言えないほどの粗末なる濁酒で、売って金にしようという見込みなどはないものであった。 これが僻村の豊かでない人たちによって造られるというのは、恐らくは町で売る酒の高過ぎてまた良過ぎることに、かたくなな反感を持ったのが始めであろう。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.238)


     実際樽詰め、罎詰めの酒類は、この辺まで持って来ると比較を絶するほど高くなる。 仮にその供給を潤沢にしてやったところが、これで一方の誘惑を退けることはむつかしい。酔うのを主眼とする古風から言うと、うまいけれどもこれは酒の部に入らないのであった。上酒諸白(じょうしゅもろはく)の百年以来の流行は、無理に全国の酒の趣味を釣り上げたけれども、なおある一部の小民の間からその旧慣を奪い去ることはできなかった。 それを今日の酒造税法が無視したために、憫れむべき多数の犯人を作らねばならなかったのである。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.238)


     この統一の犠牲は大都市の中にもあった。 何かいま少しく安価に酔えるものはないかという希望が、現に白馬(しろんま)の醸造を今日までも持続させたのだが、準備や手続きの繁瑣なわりには、格別な利得を製造主に与えず、税の負担が安物だけにきつく応えて、これで満足する者がだんだん少なくなった。 これら代わって現われたものが、電気ブランという類の混成酒であった。 警察では特にその中の粗悪有害なものだけを禁制しようとしているが、色や器や名前などは、次から次へ変えていくことができるから、とうてい一つ一つその害を調べてみるわけにいかぬ。 メチール酒精(アルコール)のごとき驚くべきものでも、酔うなら飲んでみようかという者がいる限りは、なんらかの形をもってこの飲料は世に行われ、すなわち犯罪に陥らなければ、飜(ひるがえ)って自分の身の破滅を甘んずるのである。 酒が飲む者を忘我の境に誘うことは、近ごろ始まった悪徳でもなんでもない。近ごろ始まった現象は居酒と酒宴の連続、それから酒が旨くなりまた高くなったことと、国家が小民の何を飲んでいたかを、ついうっかりと忘れてしまったことである。
    (《第七章 酒 三 濁密地獄》P.238〜239)


     五 酒と女性

     婦人は昔とてももちろん男のようには飲まなかったが、酒を飲む場所には必ず出ていた。 これはもちろん見張り役でもなければ、また単なる酒席の色彩として招じ入れられたというような、一時の思い付きから始まったものでもなかった。 よってくるところは至って久しいが、一言でいうならば酒はもと女性の管理するものであったからである。刀自(とうじ)という語は現在は杜氏などとも書いて、もっぱら山村から出て働く百日男(ひゃくにちおとこ)のことをいうようになっているが、元来は〔おかみさん〕のことである。
    (《第七章 酒 五 酒と女性》P.245)


     三 恋愛教育の旧機関

     ところがこの旧制度の処女会においては、単にこれこれの人とは婚姻すべからずという類の警戒的決議に止まらず、進んでいかなる男子の愛するに足るかまでを、討究しようとしたのは勇敢であった。 恋がトリスタンとイゾルデのように、必ず生まれぬ前から指定せられているものならば、これは問題とするに足らなかったであろうが、もしも各自の心をもって右し左すべきものなりとすれば、かねて法則をもって学んでおくことは安全であった。
    (《第八章 恋愛技術の消長 三 恋愛教育の旧機関》P.262)


     一 家長の拘束

     血食(けっしょく)という語は中国でも古くからあった。 仏法の教えではその窮極の願いを成仏と教えていたが、われわれの家の〔ほとけ〕様というのは、ただ怒り憤ったり、怨んだりしない亡霊ということで、毎年の盆と彼岸とには還って来て、いつまでもこの娑婆(しゃば)に愛情を残し、始終家の者の面倒を見ていたのである。いわゆる無縁仏の血食を断たれた者はこの世の供養がいつも十分でないので、その歎きうらやむ念が間接に家々の幸福を攪き乱そうとしていた。 これに対しては施餓鬼(せがき)とか〔みたま〕の飯とかの、ほかの聖霊へのいろいろな社会事業が、生きている者のてめよりも一層懇切に行われることになった。 こういう供養が届かぬと化けて出る。もしくは化けるつもりで物凄い書置きを遺し面当てに死ぬ者も毎度あった戦争や飢饉の後はこの不安がことに多く、実際また疫病や虫害などの災いがよく起こったので、それを慰撫するための鄭重な法会(ほうえ)などが始まったのである
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.278)


     しかし自分たちだけはそういう目に逢いたくないために、人は百方に家の平和を祈り、また縁について一日も早く、子があり孫の生まれんことを望んでいた。 今は忘却せられた婚姻の一つの意義、若くて独り死ぬ人たちの悲しさという中には、言葉には顕わせないこの気遣いが籠っていたのである。土地を利用する職業が重んぜられたのも、単に食物の家永続を保障するものを産するというだけでなく、土地に即(つ)かない婚姻の、来々は霊魂を祭る人から、引き離してしまうという危険を防ごうとしたので、位牌の漂泊は九十五歳の老人にとって、ただに身一つの不幸ではなかったのである。
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.278〜279)


     家を富ませたいという念願の底にも、やはりまたこの血食の思想があった。 立派な葬式、盛大な仏事を営んでやることが、祖先と自分たちのあの世の幸福を、一層深めるかという空想は、人情として当然であったろう。 全体に故人がそこに立って見ているのでなければ、無用だと思うような親切が、今でもまだ数多く行われているが、故人もあらかじめそれを期待して、幾度かその日を想像の画に描いていたのであった。たとえば関東の田舎においては、葬列に撒銭(まきせん)をする風が近いころまで盛んであったが、老人は多くはその入用のために、早くから撒くべき銭を貯えていた
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.279)


     白衣(びゃくえ)の看護婦がある時代の殉死者のように、自分の手に死んだ人の後から附いて行くなども、思想としては必ずしも新しい流行ではなかった。 そうすると揃えの衣裳を着た出入りの者が供をしたり、放鳥のけばけばしい籠が列ねられた。これを生き残った者への慰藉だとは、何人も考えてはいなかった。 古風はたまたまこのような機会に蘇って、それを新しい文化に照らして、訂正してみようとする者がなかったのである。
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.279)


     それはなんでもないことだと考える人は多くなっても、やはり死んでゆく者の切に望んでいたことだけは、印象として消えずに残ったのである。 今はもうおらぬ親々以上が、どれほど悦ぶだろうかということがいつも思い出される。これが栄える家々の隠れたる大きな満足であったとともに、逆境にある人たちの口には言い出せない苦悩の一つであった。 生きた家族ばかりの単純な結合ならば、実際には見にくい相続の争いなども、何とでも解決の途は付くのであったが、温厚なる多くの家長は、自分をただ長い鏈(くさり)の一つの環と考えるゆえ、常に恩愛の岐路に迷わねばならぬのであった
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.279〜280)


     早く生まれた子にたくさんの力を残し、末々の弟たちをその従属のごとくにしてしまうことは、仮に母を異にした利害の衝突はなくとも、親の情としては自然でなかったのであるが、もとはやや冷酷なる家の法則があって、資産を均分して一門の主力を弱めることを許さなかった。 それが農村においてはまず少しずつ自由となって、村等に近い分家は追い追い起こり、従うてその間の拮抗(きっこう)は激しくなり、盛衰の等差はようやく著しくなるとともに、ついに小農は日本の名物とまでなってしまった家はただ幽かにしか永続することができなくなっているのである
    (《第九章 家永続の願い 一 家長の拘束》P.280)


     二 霊魂と土

     今はとにかくに何とかしなければならぬ問題となっている。 第一にはどうしてこうなったかを尋ねる必要があるのだが、これにもやはり都市生活の影響を考えずにはいられない。江戸ではたぶん京都の五三昧(ごさんまい)の、直視しがたい乱雑の状に懲りて、わざと郊外に共同の葬地は設けさせなかった。 そうしてところどころに寺町を区画して、少しは住民の家数に比して多過ぎるかと思うほどの寺を建てさせ、おのおのの若干の空地を付与してそこを両用の墓場とし、それを諸国の新城下町も真似たのであった。
    (《第九章 家永続の願い 二 霊魂と土》P.282)


     菩提所を葬地とすれば石碑が立つにきまっている。 寺では美観の上からもまた面積の節約からも、丸二年までには必ず石にすることを勧める。 それで埋葬はいよいよ無理なこととなり、三百年の間には市中はもうこれを忍びがたくなっていたのである。 そこでぜひなく新たに共同墓地を作らせたが、これがまた五十年もせぬうちに狭くなってしまった。 そうしてただ資力の豊かなる者のみが、幅をする場所と化したのである。
    (《第九章 家永続の願い 二 霊魂と土》P.283)


     火葬は十数世紀以来の日本の公認葬法であったにもかかわらず、案外に普及はしていなかった。これが新たな必要に迫られて、だんだんに弘く採用せられるころには、もうわれわれの墓に対する考えも変っていた。 二三の大きな都市では寄寓生活者の、遺骨を寺に托して墓を設けぬ者がはなはだ多く、末には引き取り人のないものが、少しずつ留まって、どう処理してよいかに迷っている。 この中にはもちろん悪意の委棄、もしくは極度の不幸の若干を含んでいるが、他の多くの場合は第一の故郷とはすでに手を分かち、第二の故郷はまだ選定せられず、あまりに現在の居所がよく移るために、引き取ってどこに置こうという計画の立たぬ者が、困ってそのままにしているというだけのものもあるらしい。
    (《第九章 家永続の願い 二 霊魂と土》P.283〜284)


     土地と婚姻との繋ぎの綱が弛んだということは、当然に親々の墓所に還りえない霊魂の、旅で新たに形を結ぶことを想像せしめる。 人が数多くの位牌を背に負いつつ、いかにその記念を次の代に結ぶべきかに、苦慮しなければならなくなった時代は到来しているのである。
    (《第九章 家永続の願い 二 霊魂と土》P.284)


     三 明治の神道


     四 士族と家移動

     明治大正の栄達者は、大半は貧乏士族の子弟でありまた苦学者であった。 独り文武の官吏だけでなく、政治学問技術等のいずれの方面に逸出した者でも、いずれも怖ろしいほどの背後の刺激者を持っていた。 人に負けないということをただ一つの先祖への供え物として、無理な忍耐をして家の名を興したというのが、日本の立志伝の最もありふれた形式であった。 その代わりには郷人のこれを讃嘆して、時としては過褒(かほう)にも及んでいることは、訳して弘く読まれた英国の自助論などと、よほどまた行き方が違っているのである。
    (《第九章 家永続の願い 四 士族と家移動》P.292)


     五 職業の分解

     農には限らぬが、古くからあった産業には、そんな問題は考えずともよいものが多かった。 家を支持しようという族員の協同には、しばしば職業の統一と交渉のないものがあった。 たとえば一期の剰った労力を出して、漁場や炭坑の出稼ぎをさせたり、子女をあらゆる職業の年季奉公にやって、その収入を家計に補充したりする風は、農業とはまるで別のものであった。 ようやく問題になっている外国移民の送金なども、またその一つの意外なる形式であった。 これらはいずれも古くからの習わしのままに、家計には合力しても農業には加担しえないのであった。 こうして今や農業は大いに進みつつ、農家は衰えるかもしれぬという時代が来ているのである。 家が分解して夫婦と子供だけの最小限度に達すれば、もうその中には農以外の方法をもって、家の犠牲になりうる者はそう多くを期しえないからである。
    (《第九章 家永続の願い 五 職業の分解》P.298)


     六 家庭愛の成長


     一 本職と内職

     家業と職業との二つの語には、前にはかなり明瞭な区別があった。 職はそれぞれの技術に拠った生き方であるゆえに、多能な人ならば何度でも換えてよかった。 たとえば鉦打聖(かねうちひじり)の七変化などといって、七つの職業を毎日のように、ちがえてやってくる者さえあった。 商業も旅商人だけは少なくとも職であった。 それが医師のごとく家の秘伝のものが多くなって、だんだん家業に近くなってきた。 今いう職人たちも各地に土着すると、同じ必要から親の職を嗣ぐことになって、この差別が一層立ちにくくはなったが、それでもまだ農業を家の職といっている者だけはないのである。農は職業として見るとはなはだ雑駁(ざっぱく)なる職業であった。 そうしてまた何よりも新しい職業でもあった
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.305)


     士農工商を四民の目安に立てることは、明治の初めごろの一つの考え方であって、それがまた今日のような対立のおこりにもなっているが、漁民船員のごとき日本の大切な家業を脱落して、綿密なる列挙ではなかったと同様に、農に対する観察をいくぶんか粗放ならしめている。 一番困ったのは百姓が田畑を耕す人、もしくは米を作る職業というふうに考えられることであった
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.305〜306)


     老農精農という名は古くからあって、もとは恐らく農村の生活について深く考え、また経験している者ということであったろうが、後には個々の作物の栽培に秀で、共進会に出て一等の賞を取るという類の人に解せられたのが、われわれの困り始めであった。 重要農産物の品目が、はやく定められたということも不幸であった。日本はなんのことはない、一時生産増進の昇天の勢いに酔うていたのであった。 国が統計の総額を見て安堵しただけでなく、地方は村々部落の末までも、等しくこの数字をもって相競おうとしていた。業はもっぱらなるに精(くわ)しとばかりで、非常に専業農の養成に苦心し、彼らの勤労と討究とを、十余りの列挙せられたる産物に集注させた。 そうしてびっくりするほどの養蚕製糸の発達などを見せた。 果樹も養禽(ようきん)も莫大の国の富となった
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.306)


     この間に一方農の家業の中から、いろいろのものが抜け出していった衣料はわが畑にを播かなくなったころから、少しずつ外のものを入れていたから、これは抑えても止まらなかったかもしらぬが、それでもまだ木綿篠巻(しのまき)で買い入れていたのである。それを糸に紡いで綜(へ)て織るまでのうち、他人を頼むのは藍染め屋だけであった。 まずこれだけの仕事が、今はすべて工場に委付せられ、それに用いられていた女の手は剰って、これもまた多くは別の工場へ送られている。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.306〜307)


     反物を買うて来てから縫うて着るまでの作業は、作業とは言っても半分は楽しみであったかもしれぬが、とにかくまだ家庭に残り、裁縫は農家の少女の教育の一部になっているが、これとても材料と形がもう少し変わって、たとえば洋服といったようなものが仕事着になれば、それでもなお家人の手を用いるかどうかは疑わしい。はたいていの所にはあり余る原料であって、夜分や雨の日の半端の労力を、応用するのが久しい習わしになっていた。 履物の大部分はこうして造っていたのが、今はそんな物は入用ならば買うまでで、それよりももっと便利なゴム靴や地下足袋をはき、仮に藁加工品を業とするにしても、方法と目的とは前の時と別になっている。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.307)


     肥料や飼料に金を支払う高は、あまりに大きいので問題になり出したが、それは人間の食物でも同じことで味噌とか醤油とか漬け物とかいう類の、現に材料がありまた作れるものでも、家内が小勢になると面倒でかかっていられない団子とか強飯(こわいい)とかの裁縫と同様に、まだ半分は楽しみなものだけは造るが、好みはしだいに変わっていて、菓子と名が附けばもう買っている。 臨時に必要なるものは建築の材料、家具の大部分の木で造るものも、ずいぶん前から買い入れてよいものに属した。燃料の採取は初夏の草刈りとともに、かなり大きな農家の作業の中であったけれども、それも現在は農業の外になり、往々にして買い入れ品目の中に炭薪が算えられる。 実際またこれを買わずにはいられぬような純農村が、もういくらともなくできているのである
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.307〜308)


     これをただ一概に奢りの沙汰のように、旧式の経営に馴れている人は評したけれども、わずかこればかりの物を金で買ってみたところで、そのために実際は生活が向上してもいない単に農家の出納が、以前よりは多くなったというまでで、それも現在までは経済がこれを許していたのであった。 奢りは通例同じような境遇にある者の、あえてせぬことをするというだけの意味であったが、今日はこれがすでに軒並みの風になっているのである。 しかも老人たちの言葉には表示しえなかった不安には、一つだけ根拠のあるものがあった。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.308)


     農家は今までは一年中を通じて、外か内かに何かしら仕事があった。 それで辛うじて簡素なる生活が維持しえらるるというまでであった。 果たしてこれをある一季二季の主要生産だけら限って、その他は手を明けていても続けられるだろうかということは、以前と比べてみる者の抱かずにはいられぬ疑いであった。 たとえば夜業で作り続けた藁鞋(わらぐつ)や草履(ぞうり)の代わりを、昼の畑働きの収益をもって買い調える。 夏の長い日に織っていた冬着の料を、秋のせわしい取り入れの物で交易する。 このように一年中の数多い入用を、わずかな種類の労働の揚がりから、すべて支えることができるかということが、彼らには心もとなく思われたのであった。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.308)


     もっとも農家は仕事に〔むら〕のあることは、昔から心付かれていた。 真冬は雪国でなくともほとんとこれぞという纏まった用がない。 最初は恐らくただ遊んでいた時代もあったのであろうが、少しでも生活をよくしたいという心が生じて、いろいろと経験を積んで延ばせる仕事を後らせ、冬の稼ぎというものをこしらえたのであった。女のわざには家で糸を引くこと、男は外に出て山川の食物を狩し漁(あさ)るなどのほかに、炭焼き紙漉(す)きという類の農とは縁のないものまで、取り集めてこなければ家業は成り立って行かぬのであった。 それが明治になると再び上古のように、たった一回か二回かの大きな骨折りによって、もと通り一年の活計を続けられるということが、何か奇跡のように思われたにも一理はあった。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.308〜309)


     いわゆる農閑期の大いに閑になったということは、幾つかの喜ばしい結果をもたらしている。 第一にこれがなかったら、青年は書を読んで世間を知ることもできなかった。酒はいくぶんだらしなく飲むようになったかもしれぬが、外に出て話を聴き人と交わるに至ったのもこの期間であった。 単なる空想の時刻を試験の機会としたと言ってもよい。 とにかくに冬の出稼ぎということは前からもあったが、それを出やすくまた決心しやすくしたのも、決して道路鉄道の開通だけではなかったのである。
    (《第十章 生産と商業 一 本職と内職》P.309)


     三 漁民家業の不安

     水産企業は他の多くの者の企てえぬように、不必要にまで大きなものとなった。 そうして安全率のために生産過剰の結果を忍んで、できるだけすでに試みられたる一方法に集中し、互いに利益の横取りを策するようになったのである。 漁民の自ら指導し選択しうる者は、今はだんだんにその数を減じようとしている。 彼らの家業にはまた新たなる空隙を生じた。 こういう外部の資本家はなくてもすむまでに、群の組織力はまだ発育していない。 この点からみると近来の水産勃興は、なおいくぶんか時期が早かったのではないかとも言いうるのである。生産統計の総括的数字のみに拠って、海岸諸部落の繁栄を卜知(ぼくち)することは、さらに農村よりもいま一段とむつかしいことである
    (《第十章 生産と商業 三 漁民家業の不安》P.321)


     一 出稼ぎ労力の統制

     明治の農業は土地を使われるだけ大いに使った。 農村では休みをも廃し、労力はその広い〔はけ〕口に流れ込んだが、その余の労力とても永い伝統の下に、盲目的に考えては行なわれていなかったから、かえって自然に利用せられていた。 少なくとも無理は少なかった訳である。出稼ぎの動機は村の動揺から起こったものではない。家の協同維持のために、余った労力を有効に利用すべく行われたものであった従って出稼ぎの風は山間や雪国の、仕事をやりたくても充分にやりかねる地方に盛んに行われてので、それが家の経営を維持してゆく普通の方法であり、それゆえにまた特殊の現象ではなかったのである。 いわゆる冬場奉公人と称せられた者はすなわちそれであった。
    (《第十一章 労力の配賦 一 出稼ぎ労力の統制》P.334)


     丹波百日といい、越後の酒男(さかおとこ)といい、浅口杜氏(とうじ)といい、後にその技倆が謳われて、今日では醸造者側からも、出稼ぎ人自身の側からもぜひ必要な者であるにしても、もとはやはり同じ動機から起こってきている。 そのほかに但馬の豆腐師、あるいは筏流(いかだ)し茶売り奈良富山滋賀香川売薬商人越後の毒消し売薬、種々の行商人もまた多くはそれであった。 椋鳥(むくどり)だの渡り鳥という言葉はあまり良く感ぜられてはいないが、家との縁を切らずに出ては帰り、出ては帰りしたそのさまを、良くこの言葉はいいとおせているのである。
    (《第十一章 労力の配賦 一 出稼ぎ労力の統制》P.334)


     三 女の労働

     一体に横浜の女性は非常に労働に従事した。 男に負けぬ荒仕事をなしえた女が多かったのである。 港や停車場の構内の貨物積み下ろしの労働者には多くかかる女房連が参加している。 女の沖中士(おきなかし)も現在各地にはなはだ多く存在している。 トラックや車力などによって運送方法が変遷すると、彼らはそれまで参加し、またこれに対抗しているのである。 また中には一種の身支度を整え、仲間の道徳をも有する職業婦人団として存在しているものも少なくない。 ことに行商人は昔からどういうものか女性のほうが多かった。 いわゆる販女(ひさめ)といい、彼らは毎日七里八里と振り売って歩く。
    (《第十一章 労力の配賦 三 女の労働》P.343)


     女性は身体が弱いから、いたわってやらねばなどということは、これを観ては通用しないのである。 少なくとも働く者の仲間では、体質および知能の点でなんら差異は認められなかった。 女性の労働はたとえいくら激しくても、彼女らはかくのごとく健やかに仕事に堪えてきたのである。男にしかできぬという荒仕事はそうあるものではなかった。 しかもこれに反して女でなければできぬという仕事は多かったのである。 職業婦人という名の起こったのはごく新しいことであり、従って職業婦人そのものも新しいもののように思われる傾きがあるが、女性が働いたということはかくのごとく普通のことであったのである。
    (《第十一章 労力の配賦 三 女の労働》P.343)


     五 親方制度の崩壊
     出稼ぎは今までただ乱雑な現象のように見られていたが、実はこれには系統もあり組織も立っていたのである。 親方は職人や農民にばかりでなく、すべて一般労働者にもあった。 内から見れば寄り子、外からいえば出稼ぎ人にも親方はあったのである。 親方は寄り親であり、村々の地親と起こりはやはり同じであった。 寄り子はこの親方によって生活を保証され、その労力は支配されていた。常に出稼ぎの道が定まっている間は、それは家に対する共同の営みであったが、その仕事に〔むら〕ができてくるとはなはだ不安になった
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.347〜348)


     出稼ぎができない場合にはその労力は余り、ことに郷里の労働に適せぬ仕事を今までやり続けていた者は、村の労力へも自分だけは編入されぬこととなって、それがしだいに孤独の漂泊者のごとき感を抱かしめるようになった。 それが新たにまた親方制度の必要を大にしたのである。寄り子は村から引きつれられて出て行かずとも、町に寄り親があれば、それを頼って行きさえすれば、職にありつくことはできた
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.348)


     寄り子は時代に応じてその盛衰があり、種類も従って多かった。 たとえば髪結い職人紺屋職麺類(めんるい)職料理人鮨(すし)職人天ぷら職人牛鳥断肉夫菓子職湯屋男妓夫妓女馬夫土こねなどそのたくさんの種類は草間八十雄氏の「水上労働者と寄子の生活」という書物の中に記されている。 もっともその中でも合羽(かっぱ)職張り物職醤油杜氏米搗き粉挽きなどは時代がその職人を要求しなくなると、やがて衰微しまた滅んだが、その代わりにボーイのごときものが寄り子として生まれると、その親方もまたできたのである。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.348)


     親方たる者は見知らぬ人を任侠(にんきょう)を根元とする寛容性からこれを款待し、また人を見分ける力をも具備していなければならなかったのである。 これらの親方は日傭組町火消し、あるいは香具師(やし)等の仲間にも在したが、ただある階級だけが強固なる団結と礼儀の正しさがあったと考えられるのは、それが目立った人々であったからで、必ずしも一部の人のみの特殊な組織ではなく、また大都市特有のものでもなかった。 地方にも周旋業者部屋または親方と呼ばれている例は今日もなお弘く在している。 もちろんこれは以前の職人がこの部屋に草鞋(わらじ)をぬぎ、世話になった名残りである。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.348〜349)


     それが今日の桂庵(けいあん)式にまで変化した道筋は現在ならばよくわかっている。寄り親が客のみを大切にして軽薄になると、自然寄り子に無責任になった。 そうして今日の多くの弊害をも醸(かも)したのであるが、一方土方土工の仲間には大部屋格として羽振りを利かす有名な何組彼組が、血は分けずとも、腕の流れを汲んだ任侠の誉れ高き親分の統率の下に大いなる発展を遂げたのであった。今日もなおかかる由緒深き団体は多く在している
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.349)


     このほかにも多くの寄り子職人は親分制度の廃れた今日においても、部屋に属する矜持(きょうじ)を保ち、その職人としての修行に深い自信を懐いているのは、現在のごとき職人養成の衰微した際においてはむしろはなはだたのもしく思われるのである。 しかし鮨の置き方さえも知らぬやつが鮨屋をやると、憤激する鮨職人らの声は悲しかった。 新しい職業の勃興とともに新旧の入れ替わりが、古いこの修行試験の方法を壊してしまったのはやむをえなかったが、これがまたひいて親方制度の崩壊をも促したのである。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.349)


     衣食住に関するある程度の保護を親分から受けることはもちろんありがたいとは言うものの、親分乾分(こぶん)に対する統制力が強く、手数料が他に比して多いうえに、また手間賃渡し方などについて、一部の間に紛紜(ふんうん)をきたすような機運になると、新職業の自由を憧憬する者がその羈絆(きはん)を厭い、親分乾分の縁を切って、俗にいう〔こむかいとなり、自由行動に出ずる者が多くなったのは自然である。 また仕事の種類が、以前のごとく変わらなかったなら、親方制度はいまだ崩壊しなかったかもしれぬが、この制度は時代の変遷に追い付いて行くほど手が廻らなかった。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.349〜350)


     かくして親方制度によらぬ自由な労働者の存在が刺激して、この制度を崩壊したのであった。 ことに傭主も中以下になると、この親方という顔役との交渉よりも、面倒の要らぬこむかいを歓迎して、これがしだいに寄り子を減少して行くとともに、親方の威力をも稀薄にしたのである。 しだいに顔役親分が否認せられ、特殊ないわゆる神農団などを除いては、しだいに衰微したのであったが、なお以前の大勢力の痕は今も随所にうかがわれるのである。 そうしてこの口入れ業者の雇人なる引き手がいわゆる〔もぐり〕という悪辣なる手段をほしいままにし、鬼周旋屋などという言葉が世上に行われるようになると、寄り子の周囲には一層暗い影がさしてきた。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.350)


     ことに荷扱い人夫稼ぎ高制度となり、炭坑子方人夫請負制度全廃より直轄夫となり、また一方請負制の鉱山労働者日給制がしかれて、十時間制度などが行なわれるようになっては、親方制度は存在してもなんらの意義もなくなったと言って良いのである。 また土木請負にしても、親分は今までのようにしている訳にはゆかなくなった。 そうして今は苦しまぎれのためでもあろうが、雇主よりもかえって悪いという有り様の者も多くなった。 たとえば監獄部屋なる存在は親方制度の最悪なる場合であったろう。かくて親方制度が労力均分の役を勤める力を失って、弊害のみを残すようになったのも無理がなかった
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.350〜351)


     一方に前々から親方の要らぬ自由な契約方法があった。 すなわち人市(ひといち)男市娘市などがそれで、現在でもなお行われている所があるが、しかしこれも外から何とも知らぬ者がやって来て、しだいに悪漢の利用する機会を多くし、またそれが容易に行われたから、この風もしだいに減じてきている。かくて親方制度もこの市も衰えてしまっては、何がこれに代わってその役目を果たすべきか。出稼ぎの風がなくならぬ限り、何物かがその役目をなさねばならぬのである。 われわれは当然親方制度に代わるべき仕事を労働組合に期待しているが、同組合は階級闘争に多忙であって、容易にこの大いなる仕事には手が廻らぬ様子であるが、わが国の労働問題の解決はこの出稼ぎ人の去就を度外視しては、なしうるはずがないのである。職業紹介所にはこの統制はむつかしい。 組合にはそれがなすべきこんな大きな任務が残っていたのである。
    (《第十一章 労力の配賦 五 親方制度の崩壊》P.351)


     六 海上出稼ぎ人の将来
     県外出稼ぎがいつも出稼ぎされた土地の労働団体の力を弱め、あるいはこれを壊すような結果になるのでは、国のために健全なる労力配賦は望みがたい。 今日の操業短縮や不景気の結果が、国に帰りうる者に帰農を促しても、農村にこれを受け入れる働きがないならば、家の累(わずら)いが増すばかりである。 ことにかかる失業者の帰郷はある地方においては県外労働者を駆逐(くちく)するような結果になったというが、これはむしろ一種の混乱というべきで、駆逐せられた者は再びまたどこかへ行かねばならぬ。 従って労働者はなるべく地元よりという声も各所に起こるようになったが地元の者だけを使用して、それで粉紜(ふんうん)が起こらぬならば、事態はかくのごとくなるはずはなかったのである。
    (《第十一章 労力の配賦 六 海上出稼ぎ人の将来》P.352)


     もちろん故郷の人手が余ったから、外へ出たのであった。 府県が各地元だけで剰った人をみな利用しうるならば、大都市が農村労働者を受け付けぬという不平の声も聞かずに済むであろう。 ことに今日においては、各地を流れ渡る人々や東海道を歩いて帰ろうという失業者さえもなかなか少なくない状態になった。 何か今までの親方に代わるべき組合を組織して、この移動し行く大きな労働力を指導し統制してゆかねばならぬ必要が現われたのである。単に臨時の事業を起こして、その方面にこの労力を振り向けても、それはやはり解決の延期に終わるであろう
    (《第十一章 労力の配賦 六 海上出稼ぎ人の将来》P.352〜353)


     一 零落と貧苦

     貧苦の本式に忍びがたくなったのは、零落ということから始まっている。 以前今よりもずっとよい生活に育ち、しかもこうすればさらに改良しうるという、一つの理想までもっていた者が、一朝に何かわが家限りの不幸なる原因のために、栄える多くの友人と離れて、制限だらけの生計を立てなければならぬということは、ことに周囲が、それを何とも思わぬ人たちである場合において、いやがうえにも堪えられぬことであったろうと考えられる。明治大正の世の中の変化は、そういう家々を数多く作った。士族はその全部が転業をしいられた階級であったが、その中にはむろん若干の選択を誤った者がいた。 全体にかつてそういう必要を予期せず、従うてこれに対する考究を怠っていた者は、境遇の最も自由であった家に多かったと言える。 この貧苦は恐らくは猛烈を極めたものであった。
    (《第十二章 貧と病 一 零落と貧苦》P.359〜360)


     次には個々の職業のただ一つの強味であった技術が、不用無価値のものとなった例は、これほど急激に現われてこなかった代わりに、いつまでも地方の古い家を累(わずら)わしていた。 これも結局は転業を必然のものとしたので、むしろやや早めにまた軽率に、新しい仕事に移っていった者が、今ではその先見の明を誇ることになって、ためにいくぶんか無益な心の動揺をさえ青年に与えたのであった。 農家はいずれかというと元の技術を、守っていてさしつかえのない職業であったにもかかわらず、外の機会の新たなるものを見かけて、出てこれを捉えようとして失敗した者が少しあった。 それがまた一つの零落の原因を添えているのである。
    (《第十二章 貧と病 一 零落と貧苦》P.360)


     二 災厄の新種類

     田舎で貧窮の情けないものだということを、人が最も適切に感じ知るのは、火事や風水害などの天災の場合であったが、それを自ら経験しなければならぬ者には、たいていはもう間に合わなかった。 天災が不意に多くの窮民を出すことは事実であっても、予防はしきれぬのみならず、原因はもう一つ奥に前からあったのである。 だから事変が過ぎてからの救恤(きゅうじゅつ)は、通例は第二番目の不幸な者を扶助することとなり、それもわずかにその次に起こる災害の際に、最も多く悩むべきものを残すという程度に止まっていた。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.363〜364)


     天明天保(てんぽう)の両度の飢饉においては買おうと思っても売る米がどこにもないために、小判の袋を背負うて餓死していた者があったという話も伝わっているが、それらは一つ話というもので、普通の例でないゆえに弘く語られたのである。 普通にまず死ぬのは貧しい者ときまっていた。 こういう極度の欠乏が暴露せぬ以前から、すでに栄養が悪くなっていて、働いて遠く求める力を失い、永くはこの状態に堪えていることができぬのであった。 新時代の交通機関がほぼ完備してから後にも、幾つかの小規模な飢饉は処々に出現した。 ことに東北では明治三十五年と、その翌々年との二度の不作の結果、意外に旧式なる飢渇(きかつ)が若干の農村を襲撃した。 最も急速なる輸送の策が講ぜられたにかかわらず、それさえ間に合わずに死んでしまった者が多かったのである。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.364)


     こういう大きな災害に生き残った者に対しては、昔とても十分な救済が与えられていた。ことにこれを回復しようとした郷党の努力には、戦時も及ばぬほどの熱心なる協同があり、この困苦を共にした記念が、また新たに隣保(りんぽ)の情誼(じょうぎ)を深めているのである。 しかし眼前の危難に面したる瞬間だけは、人情もおのずから別であって、まず自分に属する者を安全にしようと謀る結果、分配はどうしても均等にというわけにいかなかった。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.364)


     飢饉は若干の貧しい者の命を、亡(うしな)うべきものとして昔から怖れられたのであった。 もちろん何人もこれを期待した者はないけれども、これが偶然ながらも国中の人口を整理し、最も生活に適せざる若干の小家(こいえ)が減じたということのために後日の繁栄と食糧労力の均衡とを得たという例は、古今相応に多いように想像せられるのである。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.365)


     あるいはまた限地的の、一種慢性の凶作とも名づくべきものも前からあった。 主として山村などの耕地がやや乏しく人はしだいに多くなって出稼ぎの途がいまだ開けず、二三の添●(そえかせぎ)のかつてあって衰えたという土地で、一村をこぞって栄養のすこぶる振るわず、従うて気力の旺んでないという例も発見せられている。 山でなくても壮丁検査の成績が一部落を限って特に劣っていたり、もしくは女子ばかりのしきりに生まるる土地等があるので、原因を食品その他の生活法の不自由に、辿って行かれるのは相応にあるらしいが、これらは状勢のかなりに突き詰めてくるまで、通例はこれを考えてみようとする者がない。 それよりもさらに忘れられやすいのは、特にある一家に限って襲ってきたらしい飢饉であった。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.365)


     最初は単なる働き手の欠乏などであっても、土地の利用が不完全で十分な生産を遂げないと、自然に食う物が悪くなっていよいよ仕事が堪えがたくなり、漸次に各家族の天寿を縮小して行ったという場合が、もとは絶家の最も多い原因ではなかったかと思われる。 都市はもとよりのことであるが、村でも災難の相救済せらるべきものは定まっていて、こういう徐々の不幸は知っていても助ける途がなく、しかもたいていはこれまでの観測はしていなかった貧窮の甘ない安んずる能わざる理由はここにあったのである。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.365〜366)


     今日は一方に自衛の術が進み、あるいはやや性急にこの不安を除去しようとする者ができたけれども、他の一方にはまた特に貧しい者をおびやかす外敵も増加し、しかも共同防貧の手段に至っては、かえって著しく以前にあったものよりも劣っている。 家を復興しようという勝気なる奮闘者の中にも、往々にしてあまりにその競争者を恤(あわ)れまざる者がでてきたのである。
    (《第十二章 貧と病 二 災厄の新種類》P.366)


     三 多くの病を知る

     もちろん新医学の功績は一方には非常に大きい。 これほどたくさんの知らぬ病が附け加えられたにかかわらず、救わるる者はかえってはるかに多くなった。 ただわれわれの一生の間に、病に悩んでいる時間だけは長くなったのである。 たとえば盲目は日本のありがたくもない一つの名物であって、もとはいかなる村落にも一人か二人、目の見えぬ者がおらぬ所はないという実状であったのが、追い追い原因がわかってきてその不幸を遁(のが)れうる者が多く、今でもその計数は減じていく一方であるが、それと同時に新たに心付かれたのは、最初から眼の力の弱い者が、実は非常に多かったのだということである。
    (《第十二章 貧と病 三 多くの病を知る》P.369〜370)


     町村によっては小学校生徒の半分近くまでが、トラホームに罹っていることの発見せられたものもあった。 それから青年の近眼になりやすいこと、これは薄暗い燈明と細かな仕事と、二つの似つかわしからぬものが落ち合った、過渡期だけの現象だったかもしれず、あるいは以前からもこの通りだったのかもしれぬが、とにかく最初は書物を見るという一つの看板、もしくは青年の伊達のごとくにも考えられたものが末にはなくては済まぬものになって、たちまち日本を珍しい眼鏡国にしてしまった。
    (《第十二章 貧と病 三 多くの病を知る》P.370)


     などはもとは病気の宿になりそうにも思われなかったのが、ちょうどそのほうの専門医が現われるころから、われわれのほうでも治療の必要を感じ始めた。 今になって思うと、昔から鼻を気にする民族ではあった。 子供は大多数が青洟(あおばな)を垂らし、洟の出るのは丈夫なしるしだとまで言う者があった。 大きくなってからも鳴らしたりすすったり、最も行儀のよい者でも始終拭いまわしていた。 こういう習癖がもし上古以来でないなら、何か風土と生活ぶりの、交渉があっただけは推測してよかったのだが、その点はまだ何人も答ええぬうちに、これと脳の病気、ことに頭の働きとに関係があるらしいことがまず心付かれ、せっかくの知識がまた一つの新しい荷になったのである。
    (《第十二章 貧と病 三 多くの病を知る》P.370〜371)


     一 組合の自治と連結

     ことにその中でも注意せらるるものは産業組合である。 二十何億円の巨額なる資金と、二万の組合と三百万の組合員数とは、実に現代の一大偉観であるが過去三十年間において数字の上ではかくのごとく成功し、かつまた多忙に仕事もやってきたにもかかわらず、なお効果は予期せられしものの全部に及んでいないすなわち救われねばならぬ人々の自治の結合が成就(じょうじゅ)してこそ、目的は達せられるのであるのに、その点の顧みられなかった結果は、かえって比較的貧苦の危険の少ない者から、まず国家の保護を受けることになり、彼らは従順に行政庁の指導に服する代償として、機関を利用してこの通り勢力を外に張ることを得たのであった。 いわゆる公式脱税会社の悪評は、若干の場合には適中していた。
    (《第十三章 伴を慕う心 一 組合の自治と連結》P.382)


     二 講から無尽業へ

     馬鹿にせられていた古くからの団結の中には、名前はともかくもその心持ちだけは、ただ忘れてしまうにはあまりに惜しいものがあった。 人に作ってもらったものでないものが多かった。 歴史が最も古くまた久しく続いたものにはというのがあった。講はもと信仰を中心とした仲間であった。 現在大工杣人(そまびと)や木挽(こび)きや石工等の団体となっている太子講等は、かつては他の職業にも弘く行われていた痕跡がある。太子聖徳太子の御事と今は考えられているが、実際は神の王子という意味で、冬至すなわちその降誕会(こうたんえ)だとするクリスマスと同じような信仰があったらしい。 後に種々な形に変わって、たとえば弘法大師を中心とするような団体も起っていたが、その共同の問題はやはり生活であり職業であった。
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.385)


     〔けやく〕という言葉が東北地方などで友を呼ぶ語に用いられている。 もとは契約講の仲間という意味で、講中の者を呼び懸ける親しみを意味しているが、これはあたかも一つの兵営生活をした者が、戦友と呼び合うのと非常に似ていて、親しい愛情が含まれている。 尊敬して〔おやじ〕と呼んでいる所もある。 漁夫などは互いに〔ごて〕と呼び合うのも、御亭だか何だか知らぬが、もとは講中仲間の親しみを現す言葉にほかならぬのであった。
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.386)


     講が仲間の難儀を救う一種の共済組合となってきたのはまた自然の推移であろう。 そうしてその臨時的制度までが、しだいに常設のものとなったのもまたそういう必要の存在を推測せしめる。頼母子(たのもし)は〔もやい〕という地もあるが、もとはであった。 その永続を望んで無尽講といい、あるいは万人講牛馬講といったのも信仰の語から出ている。 無尽には最初から一致の目的があった。 やはり起原は神社仏閣の祈願参拝の入費を得んとしたのかもしれぬが、それでなくともだれの家をたてようとか、だれが金やあるいは牛馬が入用だとかいう時に無尽が起こされた。 一人のある希望を合力するのが主であって、それで寄貸講などの名も始まったのであった。
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.386)


     一つの郷党では冠婚葬祭もまた一種の無尽であった。 すなわち一度の救援をもって終わるべきものでなかったゆえに、追い追いに相互の法則が綿密に設けられたまでである。 〔ゆい〕という制度も今は限局せられているが、かつては共同作業の全般にも及んでいた。 そうして〔もやい〕とい語の意味もこれに近い。 恐らく家が分解して個々の生計が小弱になって後まで、なお談合をもって力の及ぶ限り古くからの共同を保留したので、特に新たに発明せられた方法ではなかったようである。
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.386〜387)


     ところがその無尽が永く存続し、中心が金銭の取引に移って行くと、効力は一番直接的であったであろうが、無尽は新たなる利用の弊害を見るようになった。 江戸も末期になると、金の欲しい人ばかりが集まって来て、これを借金の一つの方法にした。入札無尽というものも起こってきた。 入札の方法はそれ自身は新しいものでもなく、また不健全なものとばかりは言えなかった。選挙という言葉が新しいようにその思想も新しいものと思われているが、古くからこういう投票の組織はあったのである
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.387)


     村の制裁氏名を顕して発意(ほつい)しにくいものは、たいていは入札の方法によって衆意のある所を知った。 ある一人の所業に善悪の批評の区々である場合、もしくは盗賊の嫌疑のほぼ動かぬという際などに、しいて証拠の穿鑿(せんさく)などをせずとも、多数の見る所が一致すればそれに従ったことは、以前の湯起請(ゆきしょう)や鉄火証文(てっかしょうもん)などと性質の近いもので、実際またしばしばその代わりとして用いられていたのである。
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.387)


     ただこれが頼母子に応用せられることになると、その性質はまるで変わってしまったのである。 すなわち衆議の向かうほうは示さずに、単独の強い意志のみが発露することになり、仲間の各員はただ自分たちの利益のために、最も思い切った割引を承認する者に、第二回以後の集金を貸し付けることになり、わずかに余裕のある人々が、村にいて高利の興味を解するように傾いてきたのが変遷である。 その間に立って周旋の労を取ることが、しだいに職業の一つに認められ、末には無尽業などという名目さえ起こったのは、確かに内容の新たなる追加であって、従うてまたというものの最初の目途からは遠ざかっているのである
    (《第十三章 伴を慕う心 二 講から無尽業へ》P.387〜388)


     四 流行の種々な経験
     付和雷同は普通は生活の最も無害なる部分から始まっている。 しかしいわゆるお附き合いはもうすでにかなりの不便を忍ばせ、次に、お義理となるとそこに時としては著しいほどの曲従(きょくじゅう)があるが、そういう程度の共同生活をしてでも、なお孤立の淋しさと不安とから免れたいというところに、島国の仲のよい民族の特徴もうかがわれるのである。 趣味が日本では濃厚なる社会性を帯びているなどは、一種人類の自然史とも名づくべき部分であった。最初われわれの心持ちが鳥などのごとく一様であった時代には、流行が同時に各人の趣味でありえたかもしれないが、現代のごとく人の気持ちが異なり、修養が区々になっている時代には、人は流行それ自身を、趣味に持つにあらずんば、とうてい各自の趣味がこのようにまで一致することを得ないはずである。 そうでなければわれわれは趣味という語を解しそこなっているのである。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.394)


     この事実はわずかばかり以前の経過を考えてみればよくわかる。村々の生産がまだ盛んであった当時には、人は心静かにわが境遇の趣味というものを保持していたすくなくとも現在のように国の南の端と北の端が、一時に同じ流行に巻き込まれて悦ぶというような、不思議な現象は見なかったのであるそれが村の生産の大部分を商人資本に引き渡すと、たちまち一切の好みが彼らの思わくに指定せられ、多くの農民美術がただ若干の好事家(こうずか)に、捜しまわられるものとなってしまうのである。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.394〜395)


     野暮とか無細工とかいう語を気にする者は、かえって農民の中に多くなった。 かつて趣味豊かだといわれた地方にも、都会からは田舎向きという品が入って来る。 それが地方人の憤怒と反抗とを買うために、かえって都会化の奨励を容易にすることになったのである。 田舎向きというのは少し流行に遅れて、少し安くまた品が悪いということだけのことでもあった。生産がもし順当な経過を取っていたならば、そう多くの廃(すた)れ物ができるはずはなかったが、事実はそうでなかったゆえに、いつでもやや鑑賞力の浅薄かと思う田舎を、捜しまわって処分しなければならぬことになったのは、まことに残念なるまわり合わせであった。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.395)


     〔まがい〕という言葉が贋という語に代わって、横行闊歩(かっぽ)し始めたのは明治からであった。洋銀というのは銀でない金属であったが、銀と名が附くために相応に売れた。新縮緬(ちりめん)という名は絹糸織りでないものを、たくさんに買わしめる宣伝名であった。 大正に入ってからはそういう品の多数が、必ず文化という二字を頭に置いたのも一現象であった。買い物の興味を普遍ならしめるがために、都市はあらゆる力を傾けて地方と個人との趣味を塗り潰した。 その大きな武器はまた、他でも多数の人がこれを喜んでいるという風説であった。 こういう点にかけてはもとはわれわれは気の毒なほど従順であった。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.395)


     流行の変遷はかくのごとくして常に都会が指導した。地方はその事実を知るに遅れがちであった結果、いわばいつでも流行の尻ぬぐいばかりをされられて、反動の憂き目までも引き受ける役にまわったのである。 これが自然に発生したにしても、なお悔恨の情は免れぬのであったが、事実は昔から蔭にいて糸を操る者があり、それがまたやがて下火になることを予想してかかっていたのである。 明治以前の流行は必ずしも都市に起こらず、また各郷土の趣味までには干渉しようとしなかったが、それでも約六十年目の伊勢の御蔭参(おかげまい)りなどは、その発生地においてはある種の機関(からくり)が巧まれたと伝えられる
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.395〜396)


     近年のものは利欲の動機が露骨だというのみで、この技術にはたしか伝承があった。 今に公開せられるだろうが、現在はまだ秘伝のようになっている。 近年の西洋小鳥の流行などは、最初極めて目に立つ方法をもって、五度か七度法外な高値の取引をしてみせるだけのことで、それから以上は世間で評判を作り、わずかな間にありうべからざる相場ができ、かねて用意している者を儲けさせてくれる。 そうして結局は最も実着な、最もおくれて流行に参加した者のみが、損をして倒れることとなるのである
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.396)


     小鳥が無代価にになるころには、もう一度万年青(おもと)を流行(はや)らせようと企てた者があったが、こちらはあまり成功しなかった。 これは四十年ほど前にこれでひどい目にあった記憶が残っていたからであろう。 実際万年青の以前の流行は恐ろしいほどのものであった。 それから一つ前にはの流行があった。 これも珍種が跡々から出てくるようになっていて、仲買や売込商が一番に利得をした。 そういう風説の原(もと)を知っている者だけが、汐時(しおどき)をみはからってさっと退くと、人造の景気などはたちまち消え去って、残るはただ奸商に対する憤慨の声ばかりであった
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.396〜397)


     の田舎に入った起こりなども、日本ではまたこの流行であった。 緋豚(ひぶた)というのが生まれたら千両に買うというと、農民はそれを楽しみに幾らでも仔を生ませた。 緋豚の生まれぬうちに飼料の金がなくなって、夜陰ひそかに人の山林や、または離れ島などに持って行って棄てた。 それから以後にも動物の流行には、いずれも少しずつこの宣伝が用いられたが、宣伝のみでは目的は達しえなかった必ずこれに伴うて一方に呼応する者、自分も利益を信じて友を勧める者が、たくさんに介在することを必要としたのである。 甘んじてこの流行の奴僕(ぬぼく)となりつつも、自分はこれをもって新たに得た趣味のごとく、楽しみ喜ぶ者がなかったならば、かような珍しい世相は出現するわけがなかった。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.397)


     無邪気で人の言うことをよく理解する幸福なる気質がわれわれを累(わずら)わしている。 人の多数の加担するような事実に、損を与えるような原因は潜んでおるまいという推測、もしくはいま一段と気軽に判断を他人に任せて、自分はこのいったんの群の快楽に、我を忘れて遊ぼうという念慮は、社会の今日までになる間に、ぜひ通って来なければならぬ必要な一過程であった。 日本は国が一つになったということを、案外に新しく意識した国であったゆえに、こういう共同生活の楽しみもまた弊害も、共に今ごろになってから、念入りに味わってみなければならなかったのである。
    (《第十三章 伴を慕う心 四 流行の種々な経験》P.397)


     四 落選者の行方

     日本はまさに神童を尊重する国であった。 これが出現には群衆の驚喜があり、いったんはこれを児文殊(ちごもんじゅ)の地位にまで、祭り上げなければ承知をしなかった。通例はただ一種の早熟現象であるゆえに、二十歳を過ぐればただの人になるのが当たり前であるが、本人にはそれだけの準備をする機会がなく、たいていは世途に迷うてむしろ常人の常の成長を、うらやまなければならぬ場合が多かった角力その他の力業(ちからわざ)で名を揚げた者も、小町西施(せいし)と同じく若い時が盛りであって、それから残りの半生が飽きるほど長かったのである
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.419)


     最も大きな不幸は時を失った者の、改めて凡庸の道を踏みえないことであった。 それには、人々の修養や気質もあって、概して統率の技倆があると認められた者は、ほかには融通のきかぬようにできている。 そうして明治の教育は何の目途もなしに、ただこういう人物をたくさん産出していたのである。志を得ない者は元の土地には止まっていなかった。甲の団結において失敗すれば乙においてさらに試みようとする。 都市で蹉跌(さてつ)をすれば農村に還って、小規模の牛耳(ぎゅうじ)を握ろうと企てる。 これがわずかの歳月に人物を全国に分布せしめて、それぞれ土地に適した新事業を創設させた。 ありがたい結果をも生んでいるのではあるが、同時にまた利害の紛乱の煩わしい原因にもなっている。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.420)


     成功という明治の新熟語は、無心なる多数少年の夢の代(しろ)を供給してきたが、実際はむしろこれらの失意者の、それから後の経験を語るものであった。落選選手の忍耐はそう永くは持続しえなかった。 中には一生を亡者の生活に終わったものもあろうが、たいていは転じて反動の趣味に生きようと務めたのである。 この第二種の立身方法には、やや自由過ぎるほどの選択があり、大体に性急でまた少し粗暴なものが多かった。 しかもなおこれをもって一生の職業とするまでの決心はなかったゆえに、責任を負わない一時的の計画が、幾らともなくこの連中によって案出せられている
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.420〜421)


     もちろんその多くはただ企てに終わったが、中には当人自身も意外なほどの、成功者としたものもある。会社製造業とも名づくべき漠然たる生活の新たに流行したのにはこうした原因があった。近代の政治は無益の失費ばかり非常に多いのを特徴としているのであるが、これがその入用の一部分を支えていたのは、偶然の手柄と認めてもよかろう。 しかも実際の効果の挙がったのが少ないから、結局は無益に蓄蔵せられていた資本を、単に世上に放散せしめるだけの、名義を供したに止まるものも多かったのである。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.421)


     以前も天才の時を失い、もしくは突き落とされて苦悶した者は稀ではなかったが、至って少数の平賀源内(ひらがげんない)式人物を除くほかは、こういう径路に向かって脱出することはできなかった。 たいていは世を背いたと称して蔭の社会に入り、もしくはしいて奇行を衒うて第二次の高名を求めようとしたが、それも多くの場合にはただいくぶんか埋没を遅くするくらいの、はかない効果しか得られなかったのであった。 ところが現代においてはそういう者までが成功した。 少なくとも彼らの社会評論というものはかなりの重みをもって傾聴せられている。 これが時勢をただ一方への偏倚(へんい)から牽制し、もしくは省察と討究とによって、無益の熱狂に陥らしめなかった功績は小さくないが、ただその批評は一般に消極的で、いつでも群行動の力を悲観しようとする弊は免れなかった
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.421)


     過ぎた江戸時代の一つの遺物として、今でも多くの人が興味をもつ落首(らくしゅ)文学は、わずかにその形を変えて市民の間に行われている。 たとえば政治家があまりにも金銭を愛しもしくは資本ある者がこれと結託して、常にその私欲を遂げようとする事実などは、それが法廷の問題として論ぜられる以前、すでに久しい間の風聞として世に弘まり、しかもそういう行為も特別の奇怪で無く、むしろ隠密の裡にその取引を完うして、痕跡を後に留めなかったのはえらいというような不当の評判までを平気で流布(るふ)させている社会には裏面があり、人生は道理ばかりでも行かぬなどということを、さもさも格言のように説いている者さえあるのである。 この種の顛倒(てんとう)した道義観念の存在を認め、しかも絶望もせずにまた闘争もせずに、自分は自分だけで活きて行こうというような、気楽な考え方が都市人の中にはあったが、これにもいわゆる英雄運動の失敗者たちが、往々にしてその憤懣の吐き口を求めていたのである。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.421〜422)


     全体浮世を茶にするということは、謀叛(むほん)よりも有害なものであったが、妙にこれだけには同情者がありあり、また多数の模倣者もあって、昔から失意の人々のよい隠れ所となっている。 これが東洋固有の反動趣味であったか、あるいはまた特に言論の自由でなかった時代に、人をこのような竹林(ちくりん)の中に追い込んだことが、永く惰性となって世に残っているのかは知らず、とにかくにもとはその動機の哀れむべくまた悲しむべきものがあるために、人はその放縦(ほうしょう)を咎めぬのみか、これを高尚なる遊戯のごとくにも解したのであった。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.422)


     しかし現在はその弊がすでに現われている。 なんら取り所のない凡庸の輩(ともがら)までが、ただ善悪の批判を超脱して、欺いて活き得べくんば活きようと心掛けている。しいて他人の幸不幸の上にまで、思いを労することの無益なることを説いている。 無事に自分ばかりの一生を終わることができるならば、国の未来は論ずるにも及ばぬというような、個人享楽の人生観に親しんでいる。 そういう一種の主義者はもう多きに過ぎ、しかも実際は彼らの予期した通りに、無難には活きおおせなくなっているのである。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.422〜423)


     個々の失脚者の自慰方法という以上に、弊害は弘く感染している。 つまりわれわれの団体生活は、最早これより多くの無頼(ぶらい)の徒を世の中へ送り出さぬように、何とかその選手を養成する方法を、改革しなければならぬことになっているのである。 それはひとり落選選手の不幸を救うためだけでなく、彼らが苦しまぎれに世に流す害悪の幾つかを、除くということも必要になってきたのである。
    (《第十四章 群を抜く力 四 落選者の行方》P.423)


     五 悪党の衰運

     人を悪事に興味を持たせようとしたのも、またわれわれの失敗であったということが言える。 人間の知能労力のこれほど大いなる浪費を、戒めまた整理することができなかったというのは、考えてみれば文化の恥ずかしい汚点である。 ことに今日の司法警察の力は折々は犯罪の技術に追い越されるような形があった。 せっかく刑法は悪業を杜絶(とぜつ)するだけ峻厳(しゅんげん)にできていても、発覚と捕縛(ほばく)との割合が低ければ、奴らは計算の上からもなおこの商売を引き合うものとするかもしれぬ。 つまりは防衛と事後の退治ばかりでは、まだこの問題を処理するわけに行かぬのである。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.423〜424)


     根本においてはこのような浅ましいことをしなければ、ほかに自分を活かして行く道がないような、人生観をなくするのが主題であるが、それには現在のごとく英雄欲の旺盛で、しかもその欲を抑えまた充たすの手段において欠けている世相を、何とか改めてみることが自然の順序である。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.424)


     もっとも最初から詐欺(さぎ)盗賊が好きだという者もあろう。 あるいは病的に人を害するということの、悪事であることを感じえない者もあろうが、他の多くの場合にはこんな所業にも成功の興味があって、だんだんにその悪癖増長して行くのである。 江戸には火事を景気と解するような悪い習わしがあったように、貴人富豪の盗難にも冷淡な者が多かった。 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の白浪(しらなみ)ものばかりが、特に盗賊の生活を理解したわけでもなかった。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.424)


     鼠小僧の石碑には香花(こうげ)が絶えず、夜陰にその角(かど)を欠きに行く者が多いので困った。 彼が年少で捕えられて刑に就いたときには、たくさんの町人(まちびと)は沿道にこれを見物し、それから以後の講談も義賊らしく語らぬと受けなかった。 黒岩涙香(くろいわるいこう)以来、市民が耽読する探偵小説というものは、主として智慧競べが興味のもとであった。 もちろんこんな読み物から技術を研究したり、または悪事を思いつく者もあるまいが、とにかく悪人にも英雄児があり、悪に徹底するのも一律の痛快事であるような考えだけは、正直な素人(しろうと)が今もなおこれを抱いているのである。 悪人がその宿業(しゅくごう)から解脱(げだつ)する機会は、はなはだ乏しかったと言わなければならぬ。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.424〜425)


     個々の悪者の厳罰という方法だけでは、とてもその犯罪を根絶(ねだ)やしする見込みはない。それをまた諦めているような今日の防禦(ぼうぎょ)策でもあった。 この点に関しては世人はまず誤解している。 石川五右衛門の辞世の歌というのも、人がいつでも泥棒になれるということを、予言したもののように説明せられているが、これは何よりも悲しむべき悲観であった。 彼はただ盗賊の技術というものが、実は古くからの伝授であって、公然と門礼を掲げて開業こそはしていないが、先生もあれば弟子もあり、単にその一人の検挙せられたものを、改めて見たところで仕方がないということを、やや皮肉に暗示しただけであったらしいのである。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.425)


     杜騙(とへん)新書という中国の杜騙(かたり)の面白そうな話の集を、訓点を付して覆刻したのは、江戸末期の廃頽(はいたい)文学の時代であった。 多少の漢学ある青年は、近ごろの探偵もののようにこれを愛読したが、当時の悪漢どもにはこれは少しむつかし過ぎた。 よほどの篤学(とくがく)でないとこれを参考にすることのできぬ芸であった。 それにもかかわらずその話のただ一つでも、さすがは中国だと驚くようなものはなかった。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.425)


     またそのころには三都の有閑階級の筆記した、世上の聞書(ききがき)という類のものが多くあって、その中にも詐欺(さぎ)や窃盗(せっとう)のいろいろの実話が見えているが、それと今日のいわゆる三面記事とは、おかしいほどによく似ている。 仮に前者には誇張があり、また丸々の作り事もあるにしても、少なくともすでに百年も前から、人が世間話をしてとくに知っている手段が、今でも応用せられてやられる者だけが新しいのである。 悪の技術には明白に伝統があった。 そうして世の進むとともに不必要になり、また衰微すべきものと定まっていたのである。 掏摸(すり)などは確かに本拠を突かれて、すでにその修練が覚束(おぼつか)なくなっている。 このうえはただ天分のあり、発達の見込みある選手を、あの仲間へ渡さぬようにすればよいわけである。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.425〜426)


     これでも最初はわれわれの生存に、少々は必要のあった時代もあるのである。 敵が遠くに退きまた消滅してしまえば、これを利用する気にはならぬはずであるが、世間を面白からず思う者ができると、好んで模倣をするのみか時には自分でも発明する。 日陰者ばかりの団結さえ企てられる。 被害者の境遇に同情することが少なくて、かえってその技術の成功を讃歎する者が現れるのである
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.426)


     出来心の悪事というものほど情けない現象はない。 いわゆる醜(しゅう)を千歳に遺そうという決心、悪人でもよいから著名になりたいという気持ちに、普通の素人が変わって行くまでには、実はどれだけの苦闘があったかしれないのである。 それゆえせっかく滅びかかっている犯罪社会に活気を与えるのみならず、新たに友人の間に犠牲者を見つけることになる。都市の居住者の十分に相知らぬ隣暮らしが、そういう機会を生じやすいことも事実だが、害を受ける者はむしろ田舎者のほうに多い
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.426)


     は昔からこの点だけは安心してよかった。 そうした警戒のために苦労をせずともよいのが、この団結の一つの長所でもあった。 人を信じうることが村の生活を悠長にさせていた。 ところが今日は特にその隙間(すきま)を狙って、悪者の新しいのが侵入を開始してきた。 仲間を欺こうという者が村の中にも住むことになった。〔うそ〕は村落の徒然を慰めるてめに、欠くべからざる一種のユーモアであったのが、現在はこれを私欲に応用するために、ことごとく深酷となりまた精妙になり過ぎた。 うっかり前途の有望な人間を、養成することもできなくなった。 早く一同がもう少し賢くなって、一人の顔役や人望家を、担がずとも済むように務めることのほかはなくなった。 ただしその将来ははっきりと見えている。 必要はただこの混乱の過渡期を、できるだけ速やかにまた無難に、通り越して進むに限るのである。
    (《第十四章 群を抜く力 五 悪党の衰運》P.427)


     第十五章 生活改善の目標

     大体自分の生まれた国でならこうするというようなことばかりをわれわれに伝授すると、こちらは忠実に国情のほうをそれに調和せしめようとした。男女が共に踊れば対等条約が結べるものと、思ったというなどはその一例であった。 それから引き続いて御雇外人を不用にするために、無数の留学生を外国に派遣した。 学問の信用を洋行還りの肩書きに托していた時代は、ずいぶんと永く続いたのであった。 ちょうど千年以前の留学生廃止と同様に、行くには及ばぬということをまず感じ始めたのは、留学生自身たちであったゆえに、こんな惰性を打ち切ることがむつかしかったが、こちらにいるほうが研究しやすく、また外国から期待せられることが多くなって、やむをえず国の学問は独立した。 そうして他の国語をもって人のすでに説いたことを、通訳するだけでは学問と認められぬようになった。新たな発見をしようとすれば、問題を自分の周囲に求めるほうが便である。 それゆえに自然に日本の自然と社会とを、対象とする研究が盛んになってきたのであった
    (《第十五章 生活改善の目標》P.430〜431)


     読書欲は当然に知識欲と化せざるをえない。 多くの日本の生活事実が、このごろようやくのことで互いに知られるようになり、それに伴うて省みて見なかった自分たちの問題が、新たに疑惑の種となっていることは、これも見のがしえない最近の一傾向である。 わが那は久しい歴史の因縁から、非常に変化の多い天然と社会とを、一つの版図の中に包括しておって、単なる一部面の普通というものから、他を類推する危険のことに大きな国である地方は互いに他郷を諒解するとともに、最も明確に自分たちの生活を知り、かつこれを他に説き示す必要を持っている。 それができなかったら大きな団結はむつかしいのである。
    (《第十五章 生活改善の目標》P.433)




    【関連】
    [抜書き]『山に生きる人びと』(宮本常一)
    [抜書き]『ふるさとの生活』(宮本常一)
    [抜書き]『生きていく民俗 生業の推移』(宮本常一)





    12/09/17・・・12/09/23・・・12/09/29・・・12/10/06・・・12/10/13・・・12/10/19・・・12/10/31・・・12/11/11・・・12/11/17・・・12/11/25・・・12/12/01・・・12/12/11・・・12/12/23・・・13/01/05・・・13/01/20・・・13/02/03・・・13/02/16・・・13/03/02・・・13/03/14・・・13/03/23・・・13/04/07・・・13/04/20・・・13/05/11・・・13/05/24(了)
    13/07/05【表示一部整形】・・・13/10/02頁抜けあり・・・14/12/22転記ミス・・・15/12/23転記ミス