[抜書き] 『この国のけじめ』


新装版『この国のけじめ』藤原正彦・文春文庫
2008年4月10日 第1刷
    目次
    藤原家三代
      父新田次郎と私  / 願かけの赤丸  / 山登りの誘いも断り  / 満州からの引揚げ  / 混迷した世界の指南書『武士道』  / 武士の情け  /
    祖国愛
      世界に誇りうる日本人の規範意識  / 「個の尊重」は身勝手と同義語か  / 祖国愛なくして危機は乗り切れず  / 学ばせるべきは誇り高き日本の文化  / 日本は守るに足る国家と言えるのか  / 義務教育は地方分権になじまず  / 闇雲な改革至上主義の行き着く先  / おまじないの解けない国民  / 戦略亡き国家  / 憲法と世論で伝統を論ずるなかれ  /
    甦れ、読み書き算盤
      流暢と教養、並び立たず  / 「役に立たない学問」軽んじることなかれ  / 数学者の「読書ゼミ」  /
    学びのヒント
      逸材産んだ壮大な愚挙  / 先祖への慈しみ 愛の源流  / 天才には幸運がつきもの  / ただいま、休暇中  / いまこそ必要な宗教心  / 「社会勉強」など必要ない  / 勉強すればするほど増える疑問  / 小学生に算数の面白さ伝えたい  / 「祖国とは国語」実感の旅  / 美辞麗句に酔うことなかれ  / 「形」覚えずして上達なし  / がんばれ、受験生  / 合格発表の日  /
    私の作家批評
      「優しそうな人」−−内舘牧子  / 天邪鬼(あまのじゃく)の本領発揮−−山本夏彦  / 数学と文学の結婚−−小川洋子  /
    この国のけじめ
      愚かなリ、市場原理信奉者  / 情報軽視、お人好し日本の悲劇  / 国家の堕落  / 教養立国ニッポン  /
    日々の風景
      秋はきのこか紅葉か  / 不動産広告  / おおきくなれ、もっと大きくなれ  / 初秋の会津旅  / 篠ノ井線  / 逆転勝ち  / 香りと品格  / 女性たちにひと言礼を  /
    あとがき
    文庫版に寄せて
    解説 斎藤兆史
    初出一覧


     満州からの引揚げ
     昭和十八(一九四三)年の五月、私の父母と兄の三人は、満州国(現・中国東北部)の首都新京(現・長春)に移住し、その二カ月後に私が生まれた。 昭和十八年といえば、二月にガダルカナル島撤退、四月に山本五十六連合艦隊司令長官機の撃墜、五月にアッツ島玉砕、と日本軍の劣勢が決定的となった年だが、新京での生活は平穏だった
    (《藤原家三代/満州からの引揚げ》P.39)


     五族協和(漢、満、朝、蒙、日の五民族)とはいえ、あくまで支配者の日本人は、内地の厳しい食糧事情をよそに、米はもちろん肉でも魚でも自由に手に入れることができていた。 三十一歳の父は、中央観象台(満州国の気象庁)の高層気象課長に昇進し張り切っていた。 昭和二十年には妹が生まれ、望郷の念やそこはかとない不安は抱きながらも、家族五人は幸せな日々を送っていた
    (《藤原家三代/満州からの引揚げ》P.39)


     終戦の年、昭和二十年の八月九日夜十時半、満州での二年三カ月の幸せに突然、終止符が打たれた。 子供三人はすでに熟睡中、父と母もそろそろ寝ようというときだった。 官舎のドアを激しく叩く者がいる。 「藤原さん、藤原さん、観象台の者です。すぐに役所に来て下さい」「一体なんですか」「何だかわかりませんが非常召集です」。 父は「来るときが来たようだ、すぐにでもここを出られる用意を」と言い残すと、足にゲートルを巻いて役所へ急いだ。 一時間余りたって戻った父は、蒼白な顔を極度に緊張させ言った。 「一時半までに新京駅へ集合するのだ」「えっ、どうして」「新京から逃げるのだ」「どうして」「新京が戦渦に巻き込まれる前に立ち退くのだ」
    (《藤原家三代/満州からの引揚げ》P.39〜40)


     ほんの身の回りのもの、子供たちの冬着だけで持てる限度を超えてしまった。 五歳の兄が歩き、母が二歳になったばかりの私を背負い、父がリュックサックの上に生後一ヵ月の妹をくくりつけ、両手に大きな風呂敷包をさげ、新京駅まで四キロの道を歩いた。 出発が遅れたため駅構内にむしろを敷いて一夜を過してから、翌朝八時に無蓋貨車に乗りこんだ。 父は「しばらく当地にとどまり後始末をする」と当然の如く言った。 気象データは軍事機密でもある。 母は同行を泣訴哀願したが、父は「子供たちを頼むよ」と母に言うと、くるりと背を向けて、貨車から飛び降りようと身をかがめた。と、また戻って来て、腰のタオルを引き抜くと私の顔に頬かむりさせた。 汽車は何も告げずにゆっくりと南へ向かって走り出した。 母子四人の一年余りにわたる苦難の引揚げが始まったのである。 この経緯は、母・藤原ていの『流れる星は生きている』(中公文庫)にある。
    (《藤原家三代/満州からの引揚げ》P.42)


     我々の乗った無蓋貨車は北朝鮮の宣川(せんせん)までで、ここの丘の上の一軒屋に他の四十九名と暮らすこととなった。 仲間や現地の人々などに盗まれないよう、紙幣は各自、木の根、石の下、縁の下などに空カンに入れて埋めた。 母は、三分の一を埋め、三分の一を肌身につけ、残りはトウモロコシの皮で作ったわらじの中に編みこんだ。 唯一の財産である時計のロンジンは、石鹸をくりぬいてそこに埋めこんだ。
    (《藤原家三代/満州からの引揚げ》P.42)


     騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。  まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤(いや)しみ死を親しむ心」を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他の宗教では教えられない美徳が神道からもたらされた。 さらに孔子と孟子の教えが、君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁徳を加えた。
     こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。 これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた「日本的霊性」とぴたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。
     江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。 それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。 武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った」のだ。
    (《藤原家三代/混迷した世界の指南書『武士道』》P.50)


     二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。 日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活すべきである。 これなくしてにほんの真の復活はありえない。 国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。 武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。
    (《藤原家三代/混迷した世界の指南書『武士道』》P.54)


     世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。 人も国も金銭崇拝に走り、利害損失しか考えない。 義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定の巷となり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。 論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は、論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。 それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。
    (《藤原家三代/混迷した世界の指南書『武士道』》P.55〜56)


     洗脳は徹底を極めた。 新聞、雑誌、ラジオ、出版、映画などメディアに対する事前検閲を厳格に実行し、連合国軍総司令部(GHQ)や極東軍事裁判に対する批判、GHQのなした憲法起草や検閲への言及などを完全に封じた。 自由を標榜する国が言論の自由を封殺したのである。そのうえ、「太平洋戦争史」なる宣伝文書をほとんどの新聞に連載させ、その内容を「真相はかうだ」として、十週間にわたりNHKラジオで放送させた
     学校に対しては、修身、国史、地理の授業を停止し、その間の国史教材として『太平洋戦争史』を用いることとした。 この本は、日本国民は軍部に騙されていた、悪いのはすべて軍部だ、原爆や東京大空襲などで数十万の市民を殺したのもアメリカではなく軍部のせいだとするものであった。
     日本海軍は真珠湾でも軍事施設だけを標的にした。 無辜(むこ)の民に対する歴史上例のない大量虐殺は、人道を唱えるアメリカにとってまさに悪夢である。 この恥辱をどうにか正当化しようと、GHQはこの戦争を日本対アメリカでなく、日本国民対日本軍国主義者にすり替えたのである。 この歪曲が現在に至るまで残るのは、洗脳がいかに有効だったかを物語る。
     それでも終戦時には、ナショナリスムの狂宴に生き残った真の祖国愛がまだあった。 極東軍事裁判における清瀬一郎弁護人など、大国難に際しても狼狽しない堂々たる日本人がまだいた。
     平成不況による国民的狼狽はいかなる弁明も許されない。 占領軍による洗脳から脱しない限り、祖国への自信は生まれない。 子供たちに正しい現代史を教えるとともに、日本の誇る文学や文化に触れさせ、美しい自然や情緒を謳いあげた詩歌を暗唱朗読させ、偉人伝に感動させるなど、祖国への誇りと自信と勇気を育むことが肝要である。 祖国愛を培(つちか)わない限り、日本はこれからも不様な狼狽(ろうばい)を何度でも繰り返し、ついには消え去ることになろう。
    (《祖国愛/祖国愛なくして危機は乗り切れず》P.72〜73)


     国益とは一体何であろうか。 通常、国益とは安全と繁栄と考えられているようである。 正しい。 外交、経済、防衛、治安、福祉、食糧、エネルギーなどすべてがこの二つに集約されるからである。 そこで国益、すなわちこの二つの確保こそすべてに優先する最重要事項と考える人が多い。 誤りである。 もしそうなら話は簡単である。アメリカの五十一番目の州となるのが最善であり、アメリカの属国となるのが次善である。
     国益を求めること以上に重要なことがある。 国益を守るに足る国家を作ることである。 安全と繁栄はそのような国家を支える手段に過ぎない。 主客の転倒がしばしばなされるのは残念である。 独立国としての誇りを捨てたり、正邪をわきまえずに利を求めたり、というような下品で醜い日本となったりしたら、それは国益を守るに足る国家ではない。 世界史から消え地上から亡んでも惜しむべきものではない。
    (《祖国愛/日本は守るに足る国家と言えるのか》P.79〜80)


     まず真のエリートたちが各部門で長期国家戦略を策定せねばならない。 日露戦争終結に当たり、日本に肩入れしてくれたアメリカは冷徹にもその翌年、台頭する日本と太平洋をめぐり戦争となることを想定しオレンジ計画を作っている。 三十五年後に始まった戦争は、そこに描かれた通りの戦闘経過をたどった。
     戦略無き国家は脆弱である。 いまや日本は、公正や正義どころか、国益しか考えない諸外国の狡知に翻弄(ほんろう)され、経済は壊され、安全保障すら脅かされつつある。 早急に長期戦略を練り、それを軸に行動する必要がある。
     それは一般国民ではなく真のエリートが全身全霊を傾けて行う仕事である。 中央から地方へ、官から民へ、などというムードに浮かれて国家中枢を毀損(きそん)しては取り返しのつかないことになりそうだ。
    (《祖国愛/戦略亡き国家》P.99)


     読書以外に、文学、歴史、思想といった教養を身につける方法はほとんどないから、このままでは早晩、日本は無教養な人々で埋めつくされることになる。
    (《甦れ、読み書き算盤/数学者の「読書ゼミ」》P.120)


     そのうえ夏彦さんの文章はときに難解である。 ほめているのかけなしているのか、怒っているのか笑っているのか悲しんでいるのか、本気か冗談か、わかりにくいことがある。 超長期連載の第一作(本書の第一作)からしてそうである。この作品はこう終わっている「俗に『才あれど徳なし』というが、その徳において彼女は欠けるところがあるようなのである。/かわいそうな美空ひばり!」
     どう転んでも、美空ひばりを才能はあっても徳のない人として憐(あわれ)んでいる。 ひばり好きの私は、夏彦さんに「かわいそうな」と断じられたひばりをかわいそうと思い、これを百選からいったん落とした。 それにしても徳がないとは、敬愛する夏彦さんの言葉としてもあんまりだ、と思いつつもう一度読むと、冒頭にこうあった「美空ひばりは、最後の日本人のような気がする。 なぜならひばりは親孝行である。 孝行は以前は『徳』だったが、今は徳ではない」これと最後が対となって、もってまわった言い方だが、ひばりをほめていたのである。 ヤクザと関係した弟をかばった弟思いのひばりに、世間の目が冷たいのを気にして、エールを送ったのである。 冒頭の文章は仕掛だったのだが、これと末尾の文章との間に親孝行や徳の文字はでてこない。 歯切れのよい断定を連ねた、短くリズム感のある文体にうっかり酔ってしまうと、仕掛のことなど忘れてしまい、読後、狐につままれた感じになる。 私もうっかり傑作を落しかけたのである。
     夏彦さんは、いつも規定量を大幅に超過して書き、それを推敲の段階で削りに削ると聞いた。 言いたい放題を言っているようで、緻密な構成となっているのである。 削り過ぎて本当に意図が伝わらなくなることもないではないようだが。
    (《私の作家批評/天邪鬼(あまのじゃく)の本領発揮−−山本夏彦》P.172〜173)


     夏彦さんは「何用あって月世界へ?」「言葉は乱用されると、内容を失う。敗戦このかた、平和と民主主義については言われすぎた。 おかげで内容を失った。」など幾多の歴史的名言を残した。 これらはいまも新しい。 生きているときに「半分死んだ人」が、死んでから「半分生きている人」になった。 天邪鬼の本領をいまも発揮している。
    (新潮文庫『「夏彦の写真コラム」傑作選@』解説)
    (《私の作家批評/天邪鬼(あまのじゃく)の本領発揮−−山本夏彦》P.)


     勝つか負けるか、食うか食われるか、は二つののうちの一つだから、確率は半々と錯覚しやすいが、実際はそうでない。 一人の勝者に九人の敗者、というのが普通である。市場原理主義の行く末は、その最先進国アメリカを見ればよくわかる。 上位一パーセントの人が国富の半分近くを占有するという状況になっている。 自由競争では勝者が十人に一人というだけではない。 能力の低い者、差別されている者、運の悪い者などは、負けるのでなく負け続ける。 必然的に極端な貧困層を形成することになる。
     ニューオーリンズを襲ったハリケーンの被害者のほとんどは貧困層、その大多数は黒人だったことは記憶に新しい。 彼らは退去命令を知っても、乗って逃げる車もなければ、長距離バスの切符も買えなかったのである。そもそも裕福な白人はあんな低地には住まない。 乳幼児死亡率を比べれば、アメリカは貧困な独裁国家キューバより高い。 二〇〇四年の統計によると、貧困層(生活必需品を買えない人々、五人家族なら年収二百六十万未満)は三千七百万人、国民の一三パーセントに達している。 彼らのほとんどは医療保険にも未加入である。 貧困層はここ四年間の経済成長にもかかわらず増加している。 貧困層の問題だけではない。 一般労働者の平均年収は三百万円であるのに比べ、企業経営者のそれは十三億円と四百三十一倍となっている。 一九八三年には四十二倍に過ぎなかった。 貧富の格差は広がりつつあるのである。 貧富の格差を計る指標として貧困率がある。 OECDによると、アメリカはメキシコについで二番目に格差の大きい国となっている。 ちなみに日本は、一億総中流は過去のものとなり、五番にまで上がっている。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.191〜192)


     また、最近、ある雑誌を読んでいたら、「形勢をよく見極めることが大切である。 長岡藩の河井継之助は有能の士てあったが、戊辰戦争形勢を見誤り官軍に刃向かったため、藩を滅ぼすこととなった。 河井継之助のようになってはいけない」という趣旨だった。同じく戊辰戦争で滅んだ会津藩の、先見性のなさを冷笑する文章にも少し前に出会った、 時代の風潮であろうか、これらには心底驚かされた。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.194)


     会津藩は徳川一門最強の武士団として、幕命により京都守護職となり、京都の治安を担当した。 至誠の会津武士は、忠実に職務を遂行し、禁門の変では、御所に大砲を撃ちこみ京都を火の海としつつ蛤御門に殺到した尊皇攘夷の長州勢力をよく撃退し、孝明天皇を守った。 天皇も会津藩主松平容保(かたもり)も公武合体論を支持していた。 天皇は容保に絶大の信頼を寄せ感状すら与えている。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.194)


     これが大政奉還に災をなした。 薩長は幕府が大政奉還を決断するや、満十五歳になったばかりの少年明治天皇に討幕の密勅を出させたのである。 この密勅は勅旨文書としての形式を欠くうえ、正規の手続きもへずに出された。 薩長と武力討幕の密謀を進めていた公卿岩倉具視が勝手に作成したもので、偽勅ともよばれる。 他にもいくつかの偽勅を出している。 大政奉還後の政府で薩長が主導権を握るために、徳川一派は邪魔だったのである。 こうして鳥羽伏見で薩長と旧幕府軍とが衝突し戊辰戦争が始まった。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.194〜195)


     偽勅を背負い錦の御旗を揚げた薩長は、江戸城を開城させた後、なんと奥羽諸藩に会津追討令を出した。 京都で苦渋を飲まされた恨み、公武合体派への見せしめ、先帝に寵愛されていたことへの嫉妬もあったろう。 天皇のためにもっとも尽した会津に朝敵の汚名をきせ征討の挙に出たのである。 御所に大砲を撃ちこんだ賊軍が突如として官軍となり、御所を守った会津は賊軍となったのである。 ついで会津藩主松平容保に、開城、城と領地の没収にとどまらず、死罪をも決定した。 恭順を申し出た徳川慶喜には死罪は免ぜられていた。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.195)


     錦の御旗と戦うことになる、そして東北地方全域の人民を疲弊させることとなる戦争を避けようと、容保は恭順を嘆願したが、聞き届けられなかった。 これでは戦わざるをえない。 奥羽諸藩は、年若い天皇を手中に操りながら天下に号令する薩長を不快に思っていた。 宗家徳川への義を貫き、主君容保の汚名をそそぐため全滅してでも戦う、という会津武士に奥羽諸藩は同じ東北人として同情もした。 そして私怨を晴らすための戦争を始めようとする薩長に反発し、奥羽列藩同盟を結び会津を助けることにした。 東軍対西軍となったのである。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.195〜196)


     長岡藩は執政河井継之助の判断で、東西間で中立を保っていた。 河井は藩政改革の人であった。 多年百姓を苦しめていた代官の収賄を禁止したり、上級藩士の禄高を減らし下級藩史に与えるなど、弱者に手厚い善政を施した。 河井は西軍の人道を外した命令に従い会津を攻めるより、東西の中間に立ち恩義のある徳川と、薩長を首班とする藩閥政府との烈しい対立をおさめたいと活動していた。 東か西か旗色を鮮明にするよう迫る西軍に対し、河井は会津説得の猶予を乞う嘆願書を提出するが侮辱の言葉とともに突き返される。 万策つきた河井は、薩長の私怨の走狗となり何の罪もない会津を攻めるより、生命をかけて長岡藩を守ろうと考えた。 イギリスの支援を受けた圧倒的火力の西軍を敵にして、勝ち目のないことはわかっているが武士道に生きようとしたのである。 かくして奥羽に越が加わり奥羽越列藩同盟が形成された。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.196)


     領民すべてを動員しての長岡藩の抵抗は熾烈だった。 河井の猛攻に西軍大参謀の西園寺公望や参謀の山形有朋が命からがら逃げ出すことさえあった。 城を奪われてからも、越後平野で会津藩や米沢藩とともによく戦った。 新潟港は、東西両軍にとって武器弾薬の補給港であり、勝敗を決する要地であった。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.196〜197)


     東軍がじりじり押され、勝敗がはっきり見え始めたころ、奥羽越列藩同盟の新発田藩の裏切りにより新潟は西軍の手に落ちた。 こうなると同盟はがたがたである。 秋田藩、三春藩も脱落し、米沢藩と仙台藩も兵を領内に引き揚げ、ついに西軍に恭順した。 河井継之助は銃弾により重傷を負い、会津に運ばれる途中、只見で死亡した。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.197)


     板垣退助の率いる西軍はついに会津に乱入した。 人家はことごとく猛火に包まれ、避難民には銃弾が浴びせられた。 飯盛山では藩校日新館のエリートで編成された白虎隊が刺し違えて自決した。 家老の西郷頼母家では、母、妻、妹二人、娘五人が一家自刃した。 二歳にしかならない五女を妻が刺し、姉妹は刺し違えて果てた。 武家の家々ではこのような修羅場があらわれた。 一カ月の篭城の後、最後の武士会津は滅んだ。 容保は竹筒に入れた孝明天皇の感状を肌身離さず戦ったという。 竹筒の中味について容保は、藩士にも家族にも明かさなかったという。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.197)


     徳川家への恩と義に奉じ、理不尽にも朝敵という汚名を主君にきせた薩長に一矢を報いようと、利害損得を考えぬどころか滅亡の公算大であることを知りながら、敢然と立ち向い、見事に散った会津。 権力掌握のためなら何でもする薩長に怒り、会津に同情しながらも、最後まで両者の和解のために動き、ついに果せず、義を遠し弱者の側についた河井継之助。 ともに武士道精神の最後の華であった。「会津のことをかんがえると日本民族も捨てたものではないと思えてくる」と司馬遼太郎は言った。
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.197〜198)


    この会津と河井継之助が、いまや、形勢を見誤り勝ち馬に乗り損なった粗忽者と成り果てたのである
    (《この国のけじめ/愚かなリ、市場原理信奉者》P.198)


     日本人のこの現実軽視や情報軽視は、政府や軍の中で典型的に見られた。  一九二一年のワシントン軍縮会議は、日本のその後を決する重要な会議だった。 会議では、主力艦保有量に関し、英米の七割を主張する日本と、六割に押えこみたいアメリカとが衝突した。 このとき、東京の内田康哉外相から加藤友三郎全権極秘の暗号電が送られた。 「七割を貫徹すべく全力をつくすものの、やむを得ざる場合は六割五分でも致し方なし。 非常の尽力にもかかわらず、形勢の推移と大局の利益をかんがみ譲歩するのやむなきにいたりたる場合は、六割もやむなし
     これがヤードレー率いる暗号局、ブラック・チェンバーにより解読されていたのである。 日本の譲歩案を知ったアメリカは会議で徹底して押しまくり、ついに六割を通したのだった。 この会議では、日本外交の命綱だった日英同盟の破棄も決まった。 これは日露戦争や第一次大戦の際、互に大きな恩恵をうけた同盟だった。
    (《この国のけじめ/情報軽視、お人好し日本の悲劇》P.219)


     両国の強い絆に嫉妬し、世界第一の海軍国イギリスと第三の海軍国日本に、大西洋と太平洋から挟撃されることを疑い恐れたアメリカが、第一次大戦でのイギリスへの「貸し」をバックとして解消に躍起となったのである。 うまくしてやられた日英代表は、調印時に不快をかくせない様子だったという。 日英同盟解消は日本にとって、主力艦量の縮小よりさらに痛手だった。この会議に先だって行われた日英の秘密折衝でも、ロンドンの林権助駐英大使と東京の内田外相のやりとりが解読されていたから、すべてはアメリカの手の内にあった
     電報の冒頭と末尾に決まり文句を用いる、という初等的過ちをおかしていたのは、日本語は難しいから解読されまい、という願望的思いこみが先立っていたからである。 解読されたことなど露しらぬ日本は、一九三一年にヤードレー自身が『ブラック・チェンバー』でこれらを曝露したので、やっと暗号開発を本格化させる、という呑気さだった。
    (《この国のけじめ/情報軽視、お人好し日本の悲劇》P.220)


     大東亜戦争の始まる一年前には、ヤードレーの後継者とも言うべき、陸軍省通信情報局(SIS)フリードマンが、日本外務省の最高機密暗号「パープル」を解読した。 日本語暗号文を入れると英文が出てくるという解読機械まで完成させたのである。 真珠湾攻撃まで、平均して一日に数十通の外交暗号を解読していたと言われる。 これら情報は隠語でマジックと呼ばれた。
    (《この国のけじめ/情報軽視、お人好し日本の悲劇》P.220〜221)


     大戦不参加を公約にかかげ当選しながら、劣勢のスターリンを助けるため一日も早く参戦したいルーズベルトが、国民の義憤を煽るため、真珠湾への派手な攻撃をいまや遅しと待ち望んでいたのである。 そしてルーズベルトは二千名以上の兵士をむざむざ死なせた自らの人道上の責任を回避するため、狡猾にも二人に全責任をかぶせ解任した。 真珠湾攻撃が日本の騙し討ちとは何をか言わんやである。
    (《この国のけじめ/情報軽視、お人好し日本の悲劇》P.222)


     CIA長官は傘下に巨大な情報機関NSAをもつ。 ここはエシュロンと呼ばれる地球規模の情報監視システムを用い、世界中の通信を傍受し、コンピュータで自動分析し、暗号の作成や解読を実行する。 現に一九九五年十月十五日のニューヨーク・タイムズは「日米自動車協議で、NSAが日本側の通信を傍受解析した。 この情報を提供されたカンター代表は交渉を有利に展開することができた」と伝えている。
    (《この国のけじめ/情報軽視、お人好し日本の悲劇》P.237〜238)


     経済不況に国民が狼狽(ろうばい)し、長期的視野や大局観を見失ったのである。たかが経済」と一喝する真の指導者がこの国にはいなかった
     つい十年前まで禁じ手だったリストラが大手を振るようになった。 株主中心主義となった会社では、経営者は決算期毎に利益を上げないと株主により批判され、赤字が続けばクビとなる。 自然、長期的視点に立って会社を考える余裕はなくなる。 当然成行きで経費節減が経営者のモットーとなり、正規社員をできるだけ少なくし、経費が半分ですむ非正規社員に頼ることが普通となる。  その結果五百万ともいわれるニート、フリーターが出現した。 彼らの大半は自ら欲してではなく、仕方なくニート、フリーターとなった人々である。 この人たちは十年後、二十年後、税金も払わず、社会保険料も払えず、消費購買層ともならない、ことによると生活保護を受けないと生きていけない、ということになりそうな人々である。 日本経済のお荷物となりそうな人々である。 先進国中、もっとも安定していた我が国の雇用が、市場原理の名の下に壊されたのである。
    (《この国のけじめ/国家の堕落》P.246)


     経済を考える際も同様である。 現在、我が国の食糧自給率は四〇パーセントを切っているが、経済至上主義を貫く立場から言えば放置していてよいことになる。 農産物の生産量は市場が決めるのだから、自給率が低いということは消費者たる国民が安い輸入米や輸入麦や輸入大豆を指向している結果にすぎない。 国内産が負けるというのは狭い日本が農作物生産に必ずしも適していないからで、農家はより効率的な業種に転業すべきとなる。
     一方、日本の古典文学に教養のある人はそうは思わないだろう。 農家が潰れたら、日本の美しい田園は荒れ果てる。美しく繊細な自然こそは世界に冠たる日本文学を生み出した「もののあわれ」など美しい情緒の源泉である。これを失ったら日本が日本でなくなる。 経済成長を多少鈍らせてもよいから農業を振興し自給率を上げるべきと言うだろう。
    (《この国のけじめ/教養立国ニッポン》P.290〜291)


     文学だけではない。 これら古典を題材にした浮世絵が大量に作られ、庶民がそれを楽しんだ。 数学では、江戸初期に出版された吉田光由(みつよし)の「塵劫記(じんこうき)」が、大ベストセラーとなった。 十七世紀までに数学書がベストセラーになった国はどこにもないのではないか。 吉田光由は、この書でまず数の読み方を定めた。 それまで一、十、百、千、万、億、兆、京と十倍ごとに桁名を変えていた。 しかしこれでは億が現在の十万、兆が現在の百万、京が現在の千万となる。 これより大きな数を読むには新しい桁名をいくつも覚えねばならない。 そこで光由は、万から先は、十万、百万、千万などを入れ、四桁ごとに桁名を変える方式にした。 世界一すぐれた数の読み方は、この本で確立されたのである
    (《この国のけじめ/教養立国ニッポン》P.298)


     ベラルーシで紅葉を見たことがある。 科学アカデミーで講演した後、招待してくれた教授が茸(きのこ)狩りに私を誘ってくれたのである。 茸にさして興味は引かれなかったが、紅葉を内心期待しつつミンスク郊外の林に分け入った。 九月上旬というのに木々はすっかり黄色く色づいていた。 見事だったが、なぜかそれ以上の情緒を呼び覚まされなかった。 「もののあわれ」には、美しい自然ばかりでなく「時の流れ」が必要だが、人の臭いのいささかもない果てしなき大平野で、それを感ずるのは難しい。
     のほうは存分にとれた。 ベラルーシの茸は素直で、日本のもののように枯葉の下に隠れているようなこともなかった。 素晴らしい収穫と、毒茸を識別する能力を私が賞賛したのに気分を好くしたのか、教授は翌日も別の林に私を誘った。 他人の好意を決して無にしない私、というか断る理由をとっさに思いつかなかった私は承諾した。 夕食では教授夫人により美味しく料理された茸をたらふく食べた。 教授はウォッカを浴びるほど飲んだ後、怖がる私を一笑に付してから車で宿舎へ送ってくれた。
     翌秋に来日した先述のケンブリッジ大学教授にこの茸狩りの思い出を語ると、
     「マサヒコも誘われたのか。私もミンスクを訪れたときに誘われたが固辞した」
     と言う。 なんと不粋な、と思っていると、彼は急に真顔となった。
     それでその茸を食べたのか
     「たらふく」
     放射能をもっともよく蓄積する植物が茸なのを知っているか」
     「いや」
     「チェルノブイリがミンスクの南三百キロということを知っているか」
     「えっ」
     「しかもあの日は南風が強かったらしい」
     「うっ」私はそれからしばらく、放射能を中和するといわれる昆布を食べ続けた。 春は花より団子でも、秋は断然、茸より紅葉である。
    (《日々の風景/秋はきのこか紅葉か》P.309〜310)