[抜書き] 『境界の発生』


『境界の発生』
赤坂憲雄・講談社学術文庫
2004年1月20日 第4刷発行
    目次
    学術文庫版まえがき
    境界/生と死の風景をあるく
    境界観念の古層その他
      二上山/幽顕のあわいに
      行き遭い橋/空虚な境界
      市の庭/始源の交通
      賽の河原/超越としての外部
    交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察
      共同体の尽きはてる場所
      市と歌垣
      天界への通路
      戦争の庭
      樹下の儀礼
      誄と夕占
      チマタに棲む神々
    琵琶法師または堺の神の司祭者
      まれびとの構造
      法師形と無縁
      足駄・杖・盲目
    杖と境界をめぐる風景/序章
      杖の発生
      堺の民と杖
      杖と語りもの
      辻捕と杖占
    杖と境界をめぐる風景/標(しるし)の●(つえ) (●:木偏に兌、〈つえ〉で代替した)
      標の〈つえ〉と夜刀の神
      杖をもつ古代の王たち
      境界祭儀と杖
      御杖代の巫女たち
    杖と境界をめぐる風景/杖立伝説
      杖銀杏と弘法清水
      杖・樹木・湧水をめぐる信仰
        @ 卜占または神勧請の杖
        A 樹木における死と再生
      水辺の貴種流離譚の誕生
        @ 国占の神々から流離の貴種へ
        A 流される姫から機を織る女へ
      杖と境界と異人と
    人身御供譚の構造
      人身御供譚の定型
      供犠のメカニズム
      人身御供譚の生成
      贖罪から儀礼へ
      共同化された記憶の闇
      供犠の再認/否認
    起源としての異人論
      はじめに
      歴史的民俗学の試み
      交換現象の起源へ
      表象としての異人
    穢れの精神史
      古代における穢れ−−罪=穢れ
      古代における穢れ−−死=穢れ
      外なる穢れから内なる穢れへ
    原本あとがき
    解説 境界へ/境界から 小松和彦
    初出一覧
    人名・文献索引


     学術文庫版まえがき
     思えば、遠くに来てしまったものだ
     ふと、そんな感慨が涌いて起こる。 その頃、わたしは何者であったのか。三十代なかばだった。 むろん、民俗学者などという名乗りを、やがてすることになるとは夢にも思わず、氏も素性もさだかならぬままに、異人・境界・供犠といったテーマを抱えて、どこへとも知れぬ、気ままな知の漂泊をつづけていた。 夢のような時間だった。 すべてが手探りだった。 この、わたしにとっては四冊目にあたる著書には、そうした何者でもなかった時代の張りつめた雰囲気が濃密に漂っている。 いかにも生真面目な顔をした論考ばかりだ。 文章が硬くごつごつしている。 そう言えば、まだ手書きで原稿を書いていたかもしれない。ワープロを使うようになって、あきらかに文体が変わったが、それ以前の論考の群れである。
    (《学術文庫版まえがき》P.3)


     ところで、遠くへ来てしまったという感慨にもかかわらず、じつは、わたしは同時に、異人・境界・供犠といったテーマの群れをいまも身近に感じつづけている。 むしろ、わたしが三十代の後半以降に選んできたテーマはひとつ残らず、その変奏ばかりではなかったか、とすら思う。 王や天皇について語るときも、『遠野物語』を読むときにも、あるいは、東北学という未知の世界へと足を踏み出していったときにも、異人や境界や供犠などの影がいつでも淡く射していた。 わたしはいまも、『異人論序説』や『境界の発生』に連なる、いわば異人論のその後を書き継いでいるのかもしれない。
    (《学術文庫版まえがき》P.4〜5)


     死後の世界がたしかな実在(もの)として存在したとき、生/死はくっきり分節化されていた。 現世/他界を往還することが可能であると信じられた古代、生/死を分かち繋(つな)げる境界は、黄泉比良坂(よもひらさか)とよばれた。 坂が現世/他界を、生/死を仕切る境界であった。 この坂(=〈さか〉い)の向こう側に、死者たちの世界=黄泉(よみ)の国がひろがっていた。 ひとたび死んだ者が息を吹きかえすことを、甦(よみがえ)ると称したのは、むろんそのためである。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.14)


     『遠野物語』には、姥棄(うばす)ての習俗が語られている。 昔は六十を越えると、老人たちは村境にある蓮台野という小高い丘のうえへ追いやられた、という。村のはずれの蓮台野は、村落と、現世的な他界としてのダンノハナ(共同墓地)とをかぎる可視的な境界であった。 老いが死後の世界=他界へと、文字通りに陸続きに連なっていた、といってもよい。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.14)


     鎌倉のはずれにはいまも境界が生々しく露出している。 そんな言い方をすれば、きっとあなたは訝(いぶか)しげに首をかしげるだろう。 境界とはとりあえず、内部(うち)/外部(そと)を分割する仕切り線である。〈周縁〉は漠然と境界のあたりをさす言葉である、と了解してほしい。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.15)


     あなたとわたしはたぶん、かぎりなく境界の曖昧な時代を生きている。 人間やモノや場所がくっきりとした輪郭をもちえない時代、と言いかえてもよい。 たとえば、かつて村や町のはずれの辻や峠・橋のたもとには道祖神がたち、こちら/あちらを分かつ標識をなしていた。 そこは、村落の内/外をしきる境界、ときには生者たちの世界(現世)/死者たちの世界(他界)をへだてる境界でもあった。 しかし、そうした目に見える境界標識は一つひとつ、わたしたちの周囲から消えてゆき、それにつれて、境界のおびる豊かな意味を身体レヴェルで感受する能力もまた、確実に衰弱していった。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.15〜17)


     坂の周囲に物語が埋もれていた
     知られざる鎌倉を紡ぐちいさな旅を、わたしたちは一つの坂から始めることにしよう。化粧坂(けわいざか)−−。 その名の由来は、あでやかな遊女らの化粧からとも、敵将の血まみれた首にほどこす死化粧からともいう。 鎌倉の北の主要な出入口であった、くの字形にするどく折れる急坂である。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.18)


     坂は〈さか〉い=境である。 内部/外部をつなぐ坂という名の境界。化粧坂という境の地をめぐって交錯する、市場・遊女・刑場・墓地などの混沌とした光景は、境界が孕(はら)みもつ物語群のいくつかを、わたしたちの眼前に鮮やかなまでに開示してくれる。 さらに、わたしたちは古来より葬送の地であった亀(かめ)が谷(やつ)坂、カニバリズム(人肉嗜食)の風聞にいろどられた巨福呂(こぶくろ)坂で、坂=境をめぐる生/死の物語にくりかえし遭遇する。 しかし、アスファルト舗装の坂は黙して多くを語ることがない。
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.19)


     浜の砂丘に賽の河原が映った
     材木海岸のはずれ、逗子市小坪との境界にあたる海ぎわに、日本最古の築港跡が残っている。和賀江(わかえ)島。 おそらく往時は、中国・朝鮮の船も出入りした国際的な貿易港だ。 新興都市・鎌倉の建設のために必要な材木などは、この港から陸揚げされた。 海岸の名称は、材木を扱う商人たちの同業組合である材木座に由来する。 材木座が歴史の表層から消えても、地名は黙して語らぬ歴史のひそかな証言者として、何十年何百年と受け継がれてゆく
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.26)


     地獄の谷で極楽に出合った
     極楽寺律宗の寺である。 この寺のある一帯もじつは、かつて地獄谷とよばれた葬りの地だ。建長寺裏に広がる地獄谷の奥の、百八やぐら群を背負うようにたつ覚園寺(かくおんじ)が、やはり中世には律宗系の寺院であった。 鎌倉の外縁部に位置した二つの地獄谷と二つの律宗寺院。 おそらく、この組み合わせは偶然ではない。 葬送の浜を支配していたのが極楽寺であることを、重ねて考えてもよい。鎌倉の周縁には、律宗の影が見え隠れしている
    (《境界/生と死の風景をあるく》P.28)


     二上山/幽顕のあわいに
     大和と河内を境する、二上(ふたかみ)の當麻(たぎま)路の関。 梢の尖った栢(かえ)の木の森、円塚。 鶏鳴ちかい寂(しず)けさの底に、人声がする、こう こう−−。 魂呼(たまよば)いの声。 白い着物・白い(かつら)、手足はすべて旅の装束(いでたち)の、九つの杖びと。 杖を地に置き、解いた鬘の真っ白な布を長さのかぎり振(ふ)り捌(さば)いて、塚にむけて振る。 こう こう。 お出なされ、こんな奥山に迷うているものではない、早く、もとの身に戻れ。 こう こう こう。
     折口信夫(おりぐちしのぶ)「死者の書」の冒頭ちかい一節である。 この、二上山というの地をめぐる幽(かそ)けき物語にはたぶん、折口における境界観念が凝縮されたかたちであらわされている。 たとえば、先の場面には、栢の木魂呼いする杖びとたむけの白布といった、境界ないし境界性を象徴的にあらわす小道具(モノ)が、さりげなく散り敷かれている。 試みにいま、折口自身をして、それらの象徴的なモノどもを読み解かせてみればよい。
    (《境界観念の古層その他》P.35)


     栢の木−−。 冬祭りの庭におりたつ山人が頭にまいた栢の(かつら)。 それは祓(はら)えのしるし、神のかげを受ける者のしるしであり、神的なるものへと変身するための扮装の極度に形式化したものであった(「ほうとする話」全集第二巻)。 あるいは、折口はこう語っている、”初春の飾りに使ふ栢(カヘ)(榧(かや))も、変化の意で、元へ戻る、即、回・還の意味である。……栢の木は、物が元へ戻る微(シルシ)の木であった。 此木をもって、色々の作用を起させる。 魂の分割の木は、寄生木で、春の〈かへる〉意味に、栢が使はれるのである”(「花の話」同卷)。
     折口にとって、栢の木はいずれにせよ、ある変化ないし移行の結節点におかれる標微(しるし)の木である。 ただの人格が神へと変身をとげ、また、あらゆる事象が元へもどり蘇(よみがえ)るために不思議なはたらきをする境の木。 こうしてたいへん豊かな象徴性を託された樹木が、二上山の、大津皇子の眠る円塚の周囲にさりげなく配されたわけだが、むろんそれは偶然ではあるまい。
    (《境界観念の古層その他》P.36)


     行き遭い橋/空虚な境界
     柳田国男監修の『日本伝説名彙』などに、行逢裁面(ゆきあいざいめん)という名称で分類されている伝説がある。 村や国の境をさだめるとき、日時をきめてたがいの村や国を出発し、出会ったところを境界にしたという話型(パターン)をもつ。 柳田によれば、栽面は〈さいめ〉=境である(『日本の伝説』定本第二十六巻)。 境界画定を主題とする伝承であることは確かだが、たとえば次のようなものだ(『日本伝説名彙』による)。

      (1) 金熊村と大町村との境を定めるとき、金熊の庄屋は牛に乗り、大町の庄屋は馬に乗って行き遭った処を境にすることにした。 金熊の庄屋は夜明け前から出かけ、大町の方では遅く出かけたので、大町に近い所が境になった。(長野県安曇郡)

     このような境界画定をめぐる習俗が、実際に存在したかもしれない。 これと関連して、柳田は国の境を遠と近、二ヵ所に決めておく習慣があったことに注目している。 豊後と日向との境の山路に、嶺からすこし下って、双方に大きな境界標識の杉の木があり、豊後領に寄ったほうを日向の木、これと反対に日向の側にある杉を豊後の木と称していた、という。 さらに、柳田はこの同じ論考(『日本の伝説』)のなかで、二つの土地の神を同じ日に同じ場所で祭る例があることに触れている。

      (2) 信州では雨宮の山王様と、屋代の山王様と同じ三月申の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの御輿が集って、共同の神事がありました。 その橋の名を浜名の橋といってをります。 東京の近くでは、北と南の品川の天王様の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あひ、橋の両方の袂(たもと)のお旅所(たびしょ)でお祭りをしました。 さうしてその橋を行き遭いの橋といふのであります。

    (《境界観念の古層その他》P.40〜41)


     さて、柳田のこうした考察を承るかたちで、『日本の伝説』公刊の翌年(昭和五年)、折口信夫が同一テーマを異なる視点から論じていることが、わたしたちの関心をひく。 全集第十巻の冒頭におさめられた「枕草子解説」、また同巻の「女房歌の発生」がそれである。
     折口によれば、諸国に伝えられている行き遭い坂・行き遭い橋の説話は、元は神聖な演劇であったものが、後世は祭りの形式となり、その祭りさえ絶えた地方では伝説化してしまったものである、という。 毎年くりかえされる神聖な神迎えの演劇が衰えた結果、過渡期の様式として行き遭い祭り(前掲(2))があらわれ、さらに伝説化して行遭栽面の民譚(前掲(1))に変わっていったとされるわけだ。

      「行き遭ひ坂」といふのは、神と神とが、その領土の境を定める話になってゐるが、恐らく、境を定める話と、神迎への式とが、一つになつたらしい。 土地の神と、異つた処の神と出会ふといふことは、古くからある考へであつた。 ……とにかく、他所から来る神、いはゞ異人に対して、土地の神の資格を持つた男、或は巫女の資格を以ての村の女が出会ふのである。 其は何方にも附かぬ空間の処と考へた坂、或は橋の上といふ様な場所で行はれたものらしく、日本の昔に於いて、考へることの出来る範囲では、山と村との交渉が、一番はつきりしてゐる。(「女房歌の発生」)

     ある原型的な光景として、人間が神とじかに交通する聖なる祭祀の時空といったものが想定される。 折口に固有の発生論的な方法意識はそれを起点に、蛇行しうねりながら、伝承の生成のプロセスを辿(たど)ってゆく。 ここでは、周期的にめぐりくる、つねには交通のない神ないし異人(マレビト)を迎える祭祀儀礼と、境界画定をテーマとする伝承とが相交わるところに、折口は「行き遭い坂」を桔像させようとする。 その試みがはたして成功しているか否かの判断は、保留しておく。
    (《境界観念の古層その他》P.41〜42)


     市の庭/始源の交通
     折口信夫が幽遠に織りあげてみせる初源の市(いち)の光景には、山深い奥三河の、隠れ里にも似た村々にいまも伝わる花祭り霜月祭りの情景が、微妙に影を落としている。 折口の眼差しが、花祭りや神楽のいまを透かして、はるか古代人らのもよおす祭りの庭に降りたっていたことはまちがいない。
    (《境界観念の古層その他》P.46)


     折口の古代は、わずかに残された文献のなかに眠る古代ではない。 その異和を孕んだ身体が、時空の隔たりをこえて感受し、魂の戦(おのの)きとともに〈いま〉・〈ここに〉生きてしまった古代、である。こうした言い方が恣意(しい)の印象をあたえることは、もとより承知のうえだ。マレビトや貴種流離といった、折口信夫の世界を構成する固有の装置群のうえにも、わたしと〈いま〉・〈ここに〉生きられた古代の位相を見いだしている。 おそらくそれが、折口学の発生論的な原質をささえているものにほかならない。
    (《境界観念の古層その他》P.46〜47)


     さて、折口によれば、日本の古代(いにしえ)の市とは”山姥及び山人の出て来る鎮魂の場(ニハ)”(「翁の発生」全集第二巻)である。 明日より春になるという日、鎮魂の冬祭りに市はたつ。”さうした祭りの日に、神を待ち迎へる、村の娘の寄り合うて、神を接待(イツ)く場所(ニハ)が用意せられた。 神の接待場(イチニハ)だから、いちと言はれて、こゝに日本の市の起源は開かれた”(「山のことぶれ」同卷)。 神とは山の巫女=山姥、もしくは山の神人=山人である。 山姥や山人が里にあらわれて舞い、鎮魂し、暦をしめし、春の訪れを告げる。そうして年に一度、山から降りてくる神人と里人が出会う鎮めの庭に、折口は市の起源を見いだしている。大和国山辺郡の布留(フル)ノ市などは、その「ふる」という名称に、魂〈フリ〉(鎮魂)の意を残しとどめる、もっとも古い市の事例と考えられる、という(「翁の発生」)。
    (《境界観念の古層その他》P.47)


     初源の市は、里人/山人の交通の時空(にわ)、言葉をかえれば、里/山という異質な共同体が相接し、交歓=交換をはたすマージナルな地点にたてられる。 山の裾・山の端(は)・山の出張ったところなど、いずれも里/山の境界である。三輪山(みわやま)の磯城(しき)長尾ノ市などは、山の尾がひいている裾の部分にたったゆえの、古い呼称である(「枕草子解説」)、と折口はいう。
    (《境界観念の古層その他》P.47〜48)


     山人は山づとの杖を携えてあらわれ、それを地に衝いて踊る。 杖で地を衝くのは、土地の精霊を迎えるためである。この山づとをすり換え奪いとることで、新旧の魂は入れ替わる。 これが市の交換である。「代ふ」から「買ふ」へ。 そして、地に刺された根こそぎの生きた樹の杖は、やがて土地に根づき、それが市の名となった。 大和の海石榴(ツバ)市、龍(タツ)ノ市などは、そうした植物名称から来ている(『日本文学史』ノート編第二巻)。

      祭りの日の市場(イチ)には、村人たちは沢山の供へ物を用意して、山の神の群行或は山姥の里降りを待ち構へた。 山の神・山姥の舞踊(アソビ)の採(ト)り物(モノ)や、身につけたかづらかざしが、神上げの際には分けられた。 此を乞ひ取る人が争うて交換を願ふ為に、供へ物に善美を尽す様になつた。 此山の土産は祝福せられた物の標(シルシ)であつて、山人の山づとは此である。 此が、歌垣が市場で行なはれ、市が物を交易する場所となつて行く由来である。 さうして、山人・山姥が里の市日に来て、無言で物を求めて去つた。 と言ふ伝説の源でもある。(「山のことぶれ」)

    (《境界観念の古層その他》P.48)


     交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察

          商品交換は、諸共同体の終るところで、諸共同体が他者たる諸共同体・または他者たる諸共同体の諸成員・と接触する点で、始まる。(『資本論』)

     共同体の尽きはてる場所

     始源(はじまり)のときにおける〈交通〉のかたちに、しばし想いを馳せる。 かつて、マルクスの言葉を恣意を承知で読み換えながら、あらゆる〈交通〉は共同体の尽きはてるところに、それぞれの共同体がほかの共同体、またはその成員たちと接触する地点にめばえる、と書いたことがある(『異人論序説』)。異質なる他者との出会いとしての〈交通〉は、共同体の内側から始まるのではない、たがいに他者である共同体と共同体とが相接する境界領域にめばえ、そこでのみ生起するものだ。
     そうした異質なる他者や共同体へと開かれた〈交通〉の場所は、日本の古代にはチマタ(表記はなど)とよばれた。チマタは道(チ)−股(マタ)、つまり道が股のように分岐する場所の意である。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.62〜63)


     天界への通路
     虹のたつところに市をたてる慣習が古代には存在した。 たとえば、『日本紀略』長元三年七月の条に、”今日関白井春宮大夫家虹立。依世俗説。有売買事”とある。虹見ゆるところに市がたつ、それが世俗の習わしだったのである。 これについて、勝俣鎮夫は虹が原初的な市ないし交換の観念と密接な関係をもっていたことを指摘し、以下のように述べている。
    −−”虹は天界(他界)と俗界とを結ぶ橋と考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って神や精霊が降りてくると信じられ、地上の虹の立つところは、天界と俗界の境にある出入口で、神々の示現する場であった。 そのため虹の立つところでは、神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが、市を立て、交換をおこなうことであったのである”(「虹と市」週刊朝日百科日本の歴史『税・交易・貨幣』所収)と。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.69)


     雨乞いのために旧市は閉鎖され、あらたな場所へ移される。 虹の見えるところに市を立てる慣習について、祈雨のあいだは市が閉鎖されているから、祈雨が成功して虹が立つことで交易が再開されるのだろう、と小林茂文が推測している(「古代の市の景観」『早稲田大学大学院文学部紀要別冊』第八集)。 虹は祈雨がかなえられた徴候(しるし)であり、それによって閉鎖されていた市門がひらかれ交易が再開されるということだが、なぜ雨を呼ぶために市が閉ざされたり移されたりするのか、いわば市と祈雨の関係がさだかとならない。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.70)


     樹下の儀礼

     勝俣鎮夫がこうのべている、−−”古代の市では、犯罪者の所有する資財を市にさらし、その犯罪穢を浄めてから没収することが行われたが、これは市空間にもたらされた物は、いったん神の所有物になり、それにより物が浄められるという考えにもとづくものであった”(前掲「虹と市」)と。 勝俣はまた、市の聖樹について、天の神々が降りてくる依代(よりしろ)であったと指摘している。 餌香の市の橘がそうした天界/人間界のはざまにそびえる神霊の依代であったとすれば、そこに罪を贖(あか)うためのハラヘツモノとして資財がおかれた背景も、おのずからにあきらかといえる。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.77)


     刑罰が執行される舞台に市が択(えら)ばれたのは、たんに公開による見せしめ効果を狙ったものではなく、罪の穢(けが)れとそれを祓除(ふつじょ)する共同体儀礼と深く関わるものだろう。 勝俣は先の論考で、古代には「買う」という語と、「贖(あか)う」(物を神にさしだして罪をつぐなう)という語とが、同音同意の語として用いられ、「贖う」が祓いの一部を構成していたことに注意を促していた。 「贖う」と「買う」、また「祓う」「払う」とが、いまだ明確には異質な観念へと分かたれていない時代には、刑の執行と市とが濃密な関係を結んでいたとても不思議ではない。 古代の市はこうして、罪や穢れを祓い清める場という役割をもになっていたのである。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.78)


     誄と夕占

     軽の市チマタに佇(たたず)み、なつかしい亡妻の声に耳を澄まし、道行く人にその面影を探しもとめ、果たさず、ついに使者の名をよんで袖を振った、とうたわれる。 こうしたチマタにおける死者との〈交通〉が、この時代には習俗として確立していたものだろうか。
     死者との〈交通〉ではないが、チマタでおこなわれた夕占(ゆうげ)夕卜(ゆううら))の場合にも、チマタに群つどう言霊にたいする信仰と関わりが深い。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.82)


     チマタに棲む神々
     フォークロアのなかの追分けとよばれたチマタに祀られる神格といえば、道祖神・サイの神・猿田彦・地蔵・馬頭観音などが耳や眼に親しい。 夕占の呪文のなかには、フナド・サヘ・夕占の神の三神が含まれていたことを想起しよう。 フナドとサヘは道祖神やサイの神に擬せられるのが通例だが、はたしてただちにその理解に従うことは許されるだろうか。夕占がおこなわれたのは鎌倉時代の末頃までであるらしい和田萃が前掲「夕占と道饗祭」のなかで、こうのべていたことが思いだされる、−−”チマタで群れ蠢く言霊、そこに塞(さか)り坐す精霊的な神々、まことにチマタは、日本固有のアニミズムの世界であった”と。 すくなくともわたしたちの知っている道祖神やサイの神には、アニミズム的な色合いは希薄であるが、和田の説くところは魅力的といってよい。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.84〜85)


     それでは、アメクニという三層の垂直的構造において世界の全体をとらえる記紀神話のなかで、チマタはどのように位置付けられていただろうか。 わたしたちがこれまで、もっぱら『日本書紀』から析出したチマタの観念は、例外なしに空間を水平方向に内(ウチ)外(ソト)へ分節化する境界にかかわるものである
     『書紀』の中に唯一の例外とおもわれるのは、神代下第九段にみえる”天八達之衢(あまのやちまた)”であろうか。 高天(たかま)が原(はら)と葦原(あしはら)の中(なか)つ国(くに)をつなぐ天つ神降臨(こうりん)の道があり、そのアメクニを隔てる境界にチマタが位置した

      S 一(ひとり)の神有りて、天八達之衢に居(お)り。 其の鼻の長さ七咫(あた)、背(そびら)の長さ七尺(さか)余り。 当(まさ)に七尋(ひろ)と言ふべし。 且(また)口尻(わき)明り耀(て)れり。 眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、●然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり。
      (●:「赤色」で一字)

    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.88)


     天八達之衢≠ノいる猿田彦神異形の怖ろしい姿に造型した、『書紀』作者の意図はなにか。 チマタの神々が古代人によって、『書紀』〈以前〉からそうした固有の神格として表象それていたとはかんがえにくい。 いずれであれ、このアマノヤチマタと猿田彦神にまつわる説話は、水平軸に沿って現世/他界をかぎる境界としてのチマタにおける信仰・習俗を、高天が原/葦原の中つ国という垂直分割のうえに投影することで誕生したといえるだろうか。
    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.89)


       十字路は死者や霊との接触において重要な役割を果たしていただけではない。 ランゴバルド法や古イギリス法では、十字路が解放の場所となったのである。 また十字路は放浪するジプシーにとっては、偶然そこで縁者や仲間と出会う場所であり、また家族や仲間と別れる場所でもあった。 遠くの道に砂埃のたつのを見て胸ときめかせていたジプシーは、十字路に近づくにつれ仲間の姿を認めたとき、大歓声をあげ近くの緑地でパチーヴとよばれる大宴会を開いた。 ジプシーはパチーヴとパチーヴの間を旅しているともいわれた。 これは十字路と十字路の間が彼らの旅のすべてであるということにほかならない。
      『中世を旅する人びと』阿部謹也

    (《交通の古代−−チマタをめぐる幾つかの考察》P.92)


     琵琶法師または堺の神の司祭者

     まれびとの構造

     たとえば説経『信徳丸』に描かれているように、中世社会において「異例」(ハンセン病)に冒された者が辿らねばならなかった宿命は、村落共同体を逐(お)われ物乞いによって露命を繋ぐことに尽きる。 そうした厳しい現実は、盲目であれ他の身体的な障害であれ、さまざまなる〈不具〉を負う者にとって少なからず逃れがたい宿命であった(横井清「中世民衆史における『癩(らい)者』と『不具』の問題」『中世民衆の生活文化』所収)。 『発心集(ほっしんしゅう)』四にある「永心法橋憐乞児事」には、共同体から疎外された「カタワ人」が物乞いにかろうじて命を繋ぐ様子がみえるし、民話の蛇息子田螺(たにし)息子はその異形性ゆえに嫌忌され追放される。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.94)


     ところで、説経『信徳丸』の中で、「異例」に冒された盲目の信徳丸は、金桶・小御器(こごき)・細杖・円座・蓑笠(みのがさ)といった物乞い道具一式をもたされ天王寺に遺棄される。 天王寺が神秘の聖域でありつつ、同時に乞食や「廃疾者」など卑賤の屯(たむろ)する、いわば浄と不浄とが両義的に重なりあう界域であったことはつとに知られているが、わたしたちはここでは、共同体を逐われた盲目の〈いれい人〉信徳丸の所持品に限を留めてみたい。 おそらく、それは中世の乞食の一般的な持物であったとおもわれるが、その蓑笠を被り細杖をつく姿がいにしえの遊幸(ゆうこう)する神々へと文化の深みにあって通底してゆく性質のものであることは容易に想像される。 『平家』巻一の得長寿院落慶供養の話を有する伝本において、のちに中堂の薬師如来であることがわかる貧賤の導師は蓑笠着テ鹿杖(かせづえ)ノ二股ナルニスカリ=i如白本)たる姿で描かれている(筑土鈴寛「平家物語についての覚書」著作集第一巻所収)蓑笠をかぶり細杖をついて門口に立つ者は、客人神を背負ったまれびと≠ナあった乞食(ほいと)の職業を一種の宗教的な慣例のうえに成立する〈交易〉ととらえたのは柳田国男である(「所謂特殊部落ノ種類」定本第二十七巻所収)が、乞食(こつじき)とは本来宗教的な行為にほかならず、民衆にとっては布施をすることはひとつの作善としての贖罪行為であった。 そうした意味からしても、中世の乞食が蓑笠と杖という神格化の象徴的道具を帯びていたことは、かれらが民衆意識のなかにいかなる位置を占めていたかを暗示しているといえる。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.95〜96)


     折口信夫まれびと≠フ出自として、村八分的な刑罰によって、あるいは共同体の宗教規範に背馳したために村落共同体から排除された者、さらに物狂い(精神異常)のはなはだしい者などを想定し、そうした漂泊・放浪の人々が偶然立ち寄った村(部落)において、神秘感を漂わせるまれびと≠ニして迎えられたと説いている(柳田国男との対談「日本人の神と霊魂の観念ほか」『民俗学について−−第二柳田国男対談集』所収)。 中世の乞食がそうであったように、まれびと≠ヘ日常現実の位相では共同体を逐われた制外者でしかありえない。 それが漂泊の旅をへて、ある種非日常化された祭儀的時空に姿をあらわすとき、あたかも〈貴種流離譚〉の主人公のごとく聖別された客人神を負う存在として、共同体の定住民たちに処遇される。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.96〜97)


       千秋万歳トテ、コノゴロ正月ニハ散所ノ乞食奉仕ガ、仙人ノ装束ヲマナビテ、小松ヲ手ニサゝゲテ推参シテ、様々ノ祝言ヲイヒツヾケテ、禄物(ろくもつ)ニアヅカルモ、コノハツ子日(ねのひ)ノイハイナリ

     鎌倉期の文献『名語記』のこうした史料から、通常は卑賤視される散所ノ乞食法師≠ェ千秋(せんず)万歳と称して祝言を唱えて門口に立った様子を知ることができる。 おそらくは奈良時代の乞食者(ほかいびと)に系譜をひくとおもわれる千秋万歳の徒は、やはり共同体の外なる世界からの来訪者であるまれびと≠ニして迎えられたものだろう。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.97)


     こうした〈聖なるもの〉に内在する象徴回路を、わたしたちは“まれびと(異人)”の構造を読み解く手がかりとしてみたい。 “まれびと”は〈俗〉的世界=共同体に属さぬゆえに、穢れ(異質なるもの・否定的アイデンティティ)を帯びた存在として不浄視されつつ、ある種の儀礼的コンテクストの転換にともない清浄なる存在へと劇的変身を遂げる。 散所の乞食法師が正月に千秋万歳と称し、寿祝をもたらす来訪者として迎えられる例など、これまでのべてきたところである。 その事例では、コンテクスト転換の象徴的手段として、仙人の装束を模倣し小松を手に捧げることが示唆されている。 これはやはり、一種の神格化の手段であったとかんがえねばなるまい。 さらに、ひとつだけ事例を重ねておく。説経『まつら長者』の中で、大蛇(地主神)人身御供(ひとみごくう)とされるさよ姫は生贄(いけにえ)となるために都から買われてきた奴隷であり村人から賤視される存在である。 ところが、他方では村落共同体の人々には担い得ぬ呪術宗教的な禊祓の能力(ちから)を有し、ついには大蛇を調伏(ちょうぶく)することによって、共同体を覆っている不安の根源を除去する霊的な女性でもあった(岩崎武夫『さんせう大夫考』)。 漂泊の賎民であるさよ姫が、村落共同体のスケープゴート儀礼の場にあって、共同体を脅かしている荒ぶる神を調伏・鎮魂する〈聖なるもの〉(浄)へと劇的に変身を遂げる。 儀礼を媒介として、〈聖なるもの〉の二綱である浄と不浄が相互に推移・置換し合っていることがわかる。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.102〜103)


     さらに、わたしたちは、〈異人(まれびと)〉が秩序と混沌のはざまを漂泊し、あるいは中心(京都・鎌倉)と周縁(地方・辺境)を遍歴・往還する存在であることにおいて果たしている、〈交通〉の担い手としての役割にも触れておかねばならない。ジンメルは経済史の黎明にあらわれる商人に〈異人〉を見いだしているが、商人が共同体に持ち来たらすものは、たんなる物質的価値(財貨)にとどまらぬ、技術や芸能や情報といった精神的価値としての〈知〉でもあることを見逃すわけにはゆかない。富山の薬行商人が隠れた文化の伝播者であったことはよく知られているが、その一例である。 むろん商人に限らず、共同体への訪れ人である遍歴職人・遊行僧・芸能民といった〈異人(まれびと)〉たちはみな、共同体相互の〈交通〉を媒介・促進し、〈知〉を担い伝える人々であった。 そうした〈異人(まれびと)〉が共同体にもたらす〈知〉は、多かれ少なかれ共同体の整序された静的な〈知〉の体系を脅かし、秩序を活性化させずにはおかぬたぐいの動的な〈知〉である。共同体定住民によって、それは穢れ・異質なるもの、あるいは「悪」などとして形象化され、憧憬と嫌忌とに引き裂かれた両義的心態をもって迎えられる。 こうした〈知〉の伝播者という相貌から、わたしたちは〈異人(まれびと)〉を、閉ざされた小宇宙をなす共同体が未知なる外界にむけて開いた、いわば異質なる世界への窓あるいは通路としてとらえ返すことができるであろう。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.105〜106)


     法師形と無縁

     琵琶法師をはじめとして〈無縁〉の場に生きる人々は、需要・顧客をもとめて諸国を遍歴することが生活上の不可欠の条件であった中世には、ある特定の「有主・有縁」とは結びつかぬ存在であることの証として法師形などの異装をまとうことが必要とされた。 おそらく〈無縁〉の者たることの標示は、中世の旅を困難にしていた大きな要因である打ちつづく戦乱や横行する山賊・海賊などから身を守るための、重要な実際的手段でもあった。 『今昔物語』巻第二十五「源頼義朝臣、罰安陪貞任等語第十三」に、“軍ノ中ニハ僧ニ非ズバ難入ト云テ、惣ニ髪ヲ剃テ戦ノ庭ヲ指テ行ク”という記述が見える。 僧侶であれば、あるいは法師形をなす者であればというべきであるが、かなり自由に戦場を往来することが許され可能でもあったらしいことがうかがえる。 それは時宗の徒が武将にしたがって戦場におもむき、戦死者の死体を処理し供養した(『太平記』『大塔物語』)ことなどに繋がってゆく宗教史的背景をもつ説話かもしれないが、法師形が戦乱の渦中にあってもある種“アジール”の標示として有効であったことは、ほぼ確実であろう。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.111)


     足駄・杖・盲目

     琵琶法師は何故に、旅わたらいの盲目の身にことさら危うげな足駄を履くのか。 琵琶法師に限らず、時衆の聖や修験(しゅげん)・山伏(やまぶし)など漂泊性の色濃い呪術的宗教者たちに多く足駄がみられる。 “僧は一般に床住居で足をよごさないためにこれを用いた”(『日本庶民生活誌』)と宮本常一は、実利性・効用性の面から説明している。 しかし、当時の足駄は今日の下駄とは異なり、きわめて固定の悪い不安定なものであったらしい。 生涯を旅に送る遊行の僧、ことに深山幽谷を行脚(あんぎゃ)する役(えん)の行者(ぎょうじゃ)や修験者らの履物としては、およそ実用的ではありえない。 理由はさだかではないが、『融通念仏縁起』の琵琶法師などは脱いだ足駄を手に裸足で歩く姿で描かれている。 盲目の身に、安定のよくない足駄がたんに実用性の面から択ばれたとはかんがえにくい。松田修が『蔭の文化史』でのべているように、“あしだとは、「山」のはきもの、非日常・聖域としての「山」の住民の側に属する具、聖具であった”とする指摘のほうが、わたしにはよく僧形の者と足駄の関係をとらえているとおもえる。 琵琶法師の無明の足元を彩る危うげな足駄は、やはりかれらの非日常的な〈聖なるもの〉としての存在性を象徴する「聖具」であったというべきであろう。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.113〜114)


     盲人と杖のある光景は、平凡すぎて語るに値する事柄ではないようにおもえる。 琵琶法師もまた片時も杖を離すことはない。 足下の闇の深さをおしはかる風に斜め前方へ突き出された杖、座りこんだ法師の胸前に抱かれるように立てられた杖、吠えたてる犬や指差す人々にむけてふりかざされた杖、あるいは、琵琶を弾く法師の手が届く場所に足駄に通して置かれた杖。 また、修験者のもつ錫杖(しゃくじょう)に似た杖をつく琵琶法師が『天神絵巻』にみえる。 錫杖はインドでは有声杖(うしょうじょう)といい音を出す杖であったが、僧侶が山野を遊行するとき鳴らして毒蛇毒虫のたぐいを逐(お)い、また行乞(ぎょうこつ)の際に門戸に立ったことを知らせたものという。 蓑笠をかぶり杖をついて門口に立つ者が、日本の民俗では神々の末裔である“まれびと”として共同体の定住民に迎えられたことは、すでにのべた。 旅人に笠をかぶり杖をつく姿が多いことも偶然の符合ではない。 みずからの共同体を離れ異郷を彷徨(さまよ)いすぎる旅人は、一過性の“まれびと”にほかならない。 琵琶法師の杖もあまりに見慣れた光景とはいえ、かれらが共同体への訪れ人=“まれびと”であった限りは、そこに宗教的(象徴的)な意味合いを探ることはけっして誤りではない。 先の錫杖も、毒蛇毒虫を逐い払う働きは呪術宗教的なレヴェルで期待されたもので、現実的な効用性があったかどうかは疑わしい。 『九条錫杖』の第六条にある、

      当(さき)に衆生のために願ふべし。 十万一切の邪魔外道、魍魎毒神、毒獣毒龍、毒虫の類、錫杖の声を聞かば毒害を摧伏(さいふく)し、菩薩心を発し、具(つぶさ)に万行を修して速に菩薩を証せんことを。

     といった願文にも、それは明らかである。錫杖はいわば、眼には視えぬ邪魔悪霊を攘却(じょうきゃく)するための「呪具」であった五来重『修験道入門』参照)。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.114〜115)


     それゆえ、盲人と杖の関係を、鹿杖(かせづえ)について、“道で野獣におそわれたとき、二叉になっているために防ぐことができた”(宮本常一、前掲書)と説明するとき、実利主義的な視点からのみ眺めて済ますわけにはゆかない。 宮本が触れている『伴大納言絵巻』の中の典型的な「翁(おきな)」の風貌の老人が〔鹿杖〕をつき、〔足駄〕を履いていることにも、おそらく読み解かれねばならぬ意味が隠されている。 足駄と同様に杖もまた一種の「呪具」あるいは「聖具」であった、とかんがえてみたい。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.115)


     六波羅蜜寺の空也(くうや)像は、鹿の皮をまとい鹿角(わきづの)を付けた杖をつき、胸間にさげた鉦(かね)を打ち鳴らし称名念仏する遊行聖の姿で形象化されている。 通常の僧形とは異なる、明らかな「異形」の聖であったことがわかる。 空也の流れを汲む念仏の徒である鉢たたきが、『七十一番職人尽歌合』には、鹿角の杖を地面に突き立て瓢(ふくべ)を叩いて踊る有髪の聖として描かれている。 『法然上人絵伝』などにも鹿角聖がみえることから推して、鹿皮や鹿角には呪力があるという信仰があったとおもわれる。 ここでの関心は鹿角の杖であるが、それが実際に果たした役割や機能といったものは想像してみるほかはない。 たとえばそこに、“一般的象徴体系においては、杖は天と地を結ぶ「宇宙軸」をあらわし、生と死の復活の秘儀に通じている者の機能を暗示する”(高橋康也『道化の文学』)といった言葉を重ねることは、いささか唐突に過ぎるであろうか。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.115〜116)


     ヘルメスの原型はヘルマという石柱で、多くは路傍や畑の境などに立てられ、豊穣と多産を祈る「塞の神」によく似た性格の神霊であったとされる。 わたしたちはあまりに多義的な象徴性を秘めたヘルメス神に眩惑(げんわく)されぬために、その原型的な境の神としての性格から、ヘルメスの持つカドゥケウス境界標識として立てられる聖なる石柱ヘルマの象徴的転移とかんがえてみたい。盲僧が境界の司祭者として管掌する祭儀の第一のものは、石塔の供養など境に石(石神)を祀ることであるという。 境に祀り置かれた石は古代ギリシャのヘルマとよばれた石柱を連想させずにはおかないが、実際、宗教的な機能としてはほとんど同一物といってよい。石は外敵侵入の通路にあって外より侵入してくる者を防ぎ、また土地の境界標識として内と外とを截然と限った。 境の石の周囲は、無気味さの漂う禁忌された空間でもあっただろう。 盲僧の杖もまた、ヘルメス神のカドゥケウスと類似の象徴的役割を担わされていたとわたし自身は想像しているが、その論証はのちの課題に残しておきたい。 ただ、先に触れた“境の民”と杖の関わりなどから推しても、杖(または棒や石柱・石塔)がある種の象徴機能として境界を劃する働きを帯びていることは間違いないだろう。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.120〜121)


     しかし、やがて盲人が〈歴史〉語りの正統的担い手であることを否定される時がやってくる。 盲目なる聖痕を負った漂泊芸能者たちが、時代の昏(くら)がりから民衆文化の伝播者として不可思議なる光芒を放つのが〈中世〉であったことの意味は、限りもなく深く重い。 その一端は確かに「文字」の趨勢と関連がある。網野善彦が転換期(南北朝内乱期)以降の指標のひとつとして示した、民衆への「文字」の浸透・普及という事実(『蒙古襲来』)がそれである。 いわば、音声言語」が「書記言語」によって優位性を奪われる時代のはざま−−〈中世〉に、〈歴史〉と交差する盲人たちの最後の光芒があった。 〈歴史〉の威力の擡頭、語られる〈歴史〉と記される〈歴史〉の懸隔……、さらに、豊かな琵琶法師論が構想されねばならない。
    (《琵琶法師または堺の神の司祭者》P.127)


     杖と境界をめぐる風景/序章

     杖の発生


     堺の民と杖
     たれが杖を衝き、あるいは携えているのか。 杖はなにかの標示なのか、それとも実用の具にすぎないのか。 中世のいくつかの絵巻物に杖をもつ人々の風景を拾いながら、そうした問いの裡側ほと這入りこんでゆきたい。
     宮本常一による解説の付された『絵巻物による日本常民生活絵引』を素材(テクスト)として、杖のある風景に眼を凝らすことにする。 宮本自身の杖にたいする関心のゆえにか、『絵引』には杖のある風景が比較的丹念に拾われているようにおもわれれる。
     『絵引』全五巻に収載された八百あまりの場面(シーン)のなかで、わたしたちは九十例ほどの杖(ないし棒)のある風景に出会うことになる。 その、およそ半数が老人の杖・旅人の杖・荷杖・息杖といった、実用的な色合いの濃い道具としての杖である。 むろん、そこにも実は、自明なものとしては片づけきれぬ問題が覗けている。 たとえば、鹿杖(かせづえ)を衝き、萎烏帽子高足駄をはいた老人という形象(『絵引』1−二五、4−四八一など)。 杖が老人というカテゴリーをしめす標識の役割を果たしているようにみえるが、それは中世における老人とはなにか、という問いをただちに導く。 あるいは、同じ鹿杖(撞木杖)でも、老人の杖には下端がY字形のもの├──< が多く、旅人の場合にはこの杖がみられないことなども、関心をひく。
     鹿杖の分類や、その呪性については、すでに宮本が記述しているところだ(5−七一〇)。“こうした杖は使用してみて決して便利なものではないが、呪性をもっているが故にこれを用いたもので、単なる物理的な便利さからこれを用いたのではない”という宮本の指摘を承けつつ、老人や旅人らの杖に関しても、実用性を越えた呪具としての貌を探る作業をしてゆかねばなるまい。
    (《杖と境界をめぐる風景/序章》P.131〜133)


     杖と語りもの

     鉢叩は室町から江戸期にかけて、僧体もしくは半僧半俗の姿で鉄鉢(かねばち)瓢(ふくべ)をたたきながら、空也念仏をとなえ、空也作という和讃を歌いつつ、門付(かどづけ)で勧進してあるいた乞食に近い下層宗教者である。 かれらは茶筅(ちゃせん)をつくって生計をたて、また、各地の墓所・葬所を無常の頌文(じゅもん)をとなえつつ巡った、という。京都六波羅蜜時の空也象は、身に鹿皮をまとい、鹿角の杖を左手に、首からはをつって右手の槌(つち)でたたく姿に造型されている。 それが空也の実像であるか否かはあきらかでないが、空也との由緒を伝える鉢叩の徒がほとんど同様の姿で、いくつかの絵巻物や職人歌合絵に登場することは、その鹿角の杖が、鉢叩の集団的アイデンティティの標示であったことをしめすとみてよい。
    (《杖と境界をめぐる風景/序章》P.137)


     たとえば、漂泊する不死の巫女というべき八百比丘尼は、椿の枝を神の手草(たくさ)=杖としてもちあるく姿に造型されている。 比丘尼の語りひろめた語りもの(口承文芸)の威力をたもつために、その椿の枝の杖は重要な役割を果している。すたすた坊主という祝言者も、手に錫杖をもち、腰に注連縄(しめなわ)を引きまわして門付に家々を巡った、という。 小正月の夜の来訪者であるカパカパコトコトホトホトらが、異装を凝らし、手には杖を携えていたこともよく知られて居る。 鎌倉期の文献『名語記』にみえる、千秋万歳と称して正月に祝言をとなえながら来訪した散所の乞食法師が、仙人の装束をまねび、小松を手に捧げていたことも想起される。 おそらく、その小松もまた神の手草=杖の一種と考えられる。
    (《杖と境界をめぐる風景/序章》P.140)


     辻捕と杖占

     杖と境界をめぐる風景/標(しるし)の●(つえ)

     標の〈つえ〉と夜刀の神


     杖をもつ古代の王たち

     巡歴する初源の王と杖をめぐる風景が、もっとも鮮明にみえるのは『風土記』であろうか。 いくつかの例を拾う。

      御方(みかた)の里……一(ある)ひといへらく、大神、形見と為(し)て、御杖を此の村に植(た)てたまひき。(『播磨国風土記』宍禾(しきは)郡)

      「今は、国を引き訖(を)えつ」と詔(の)りたまひて、意宇(おう)の社(もり)に御杖衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき。 故、意宇といふ。 謂はゆる意宇の社は、郡家(こほりのみやけ)の東北(うしとら)の辺(ほとり)、田の中にある●(こやま)、是なり。 囲み八歩(あし)ばかり、其の上に一(ひと)もとの茂れるあり。(『出雲国風土記』意宇郡)

      (●:こやま 敦に土の字)

     前者では、御方という地名の由来が、土地占有の標示=形見にたてたを背景として語られている。 後者では、大己貴神とは系統を異にするとされる出雲の祖先神・八束水臣津野(やつかみずおみつの)命が、国引きをおえて鎮座するとき、意宇の杜に杖を衝きたてている。 その場所は、郡家の東北のほとりの田中にある小高い山であり、その頂には一本の繁った樹がたつ。 その樹がおそらくは、国引きの神が刺した杖である。
    (《杖と境界をめぐる風景/標(しるし)の●(つえ)》P.157)


     境界祭儀と杖

     『風土記』にみえる“形見”や“御志”として地に刺した杖。 それはこれまで、例外なしに土地占有の標示として説明されてきた。 誤りではないとしても、そのたてられた場所が占有する土地(クニ)の中心ではなく、ある種の境界的な地点であったことはあらためて指摘しておく必要がある。 むしろ、“標の〔つえ〕”を起点とすれば、境界の画定(人の田/神の地)こそが、土地の占有を意味する行為であったことが知られる。 そうした観念は記紀にもみられ、たとえば磐井の叛乱を鎮めたあとに、“遂に磐井を斬りて、果して疆場(さかひ)を定む”(継体紀二十二年)とあり、また、“紀角宿禰宜(きのつのすくね)を百済に遣して、始めて国郡の疆場(さかひ)を分ちて、具(つぶさ)に郷土所出(くにつもの)を録(しる)す”(仁徳紀四十一年)といった記事がみえる。 土地の占有・支配が、前者では“疆場を定む”と直裁に表現されている。 日本の古代には、境界の画定が土地の占有や支配を意味したと想像される。 いずれにせよ、古くは異質なる世界が相接する境の地にたてられた杖は、やがて境界との関係を忘れられ、土地の占有標示として一義的に了解されるようになったといえるだろうか。
    (《杖と境界をめぐる風景/標(しるし)の●(つえ)》P.166〜167)


     御杖代の巫女たち


     杖と境界をめぐる風景/杖立伝説

     杖銀杏と弘法清水
     流離する貴種と杖をめぐる物語は通例、「杖銀杏」型のものと「弘法清水」型のものとに大別される。 主人公は弘法大師をはじめとする旅の高僧が多い。 かれらが地に刺した杖が根づいて大樹となったと語るのが、前者の「杖銀杏」であり、後者の「弘法清水」の場合はヴァリエーションが豊富だが、僧の杖によって清水が湧き出すことを説話モチーフの核にもつ。 ともに諸国遍歴の高僧や武将といった貴種とその携える杖にまつわる奇瑞譚であり、おそらくは同一の源流、すなわち杖と境界をめぐる信仰に発する伝承群とかんがえられる。 ここでは、「杖銀杏」と「弘法清水」という、類型をやや異にする二つの伝承群を杖立伝説として総称しておきたい。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.180〜181)


     杖・樹木・湧水をめぐる信仰

      @ 卜占または神勧請の杖

     たとえば、折口信夫弘法清水伝説穴生部(あなほべ)との関係を示唆していることが、松村武雄の論考「生杖と占杖」の末尾近くにみえる(松村武雄「生杖と占杖」『民族学論考』所収。折口の出典は未確認。論文名が明記されていないことから、口伝えの見解であったかもと推定される)。近江国穴生(穴太)は、すぐれた石切り石積み石造りの技術を有する職能集団の拠点としてよく知られるが、散所(さんじょ)であり、戦国期以前には賤民に近い扱いを受けていたと想像される。井戸掘りに石積みの技術は不可欠であるとはいえ、穴生部と井戸掘りとの関係を史料の側から押さえることは困難のようだ。 むろん、弘法清水伝説の担い手(の一部)とみる折口説を検証することも、今のところは不可能というほかない。 あるいは、乗岡憲正「杖と語部と」には、古代の土師(はじ)部の流れをくむ賤民集団と、この伝説との関わりが語られている。 乗岡はそこに、杖を重要な呪的採物として、その霊力によって神秘な水脈の透視・卜知にしたがった土師部と、かれらの零落後に井戸掘りを生業(なりわい)としたその末流について書き留めている(乗岡憲正「杖と語部と」『古代伝承文学の研究』所収)。 こうした乗岡説もまた、現在は史料的に検証しがたい仮説の域にとどまる。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.192)


     それにしても、折口説と乗岡説がともに、弘法清水伝説賤民集団との関わりを示唆していることは、たいへん興味深い。 実際、中世には井戸掘り河原者の職種のひとつに数えられていた。 しかも、井戸掘りの技術は呪術と分かちがたく、ある種神秘な色合いにつつまれたものであったらしい。 古井戸を埋める際に、陰陽道の秘法にしたがって、節を抜いた竹を井戸の中央にたてて埋めたことが、中世の史料から知られる(三浦圭一「技術と信仰」『技術の社会史1』を参照)。 新しく井戸を掘るときにも、呪法秘儀が実修されたことはまちがいない。 埋井戸の秘法に使われる竹を杖のカテゴリーに含めることはむずかしいが、井戸掘りの呪法秘儀の一環として杖が大きな役割を果たしたであろうことは、杖立伝説の分析から推量されるところだ。 水の呪杖を携えて諸国を遍歴してあるく賤しい職能部民の姿を、杖立伝説の、ときに“乞食(ほいど)の弘法さま”として描かれた〈流離の貴種〉の背後に、つかの間幻のように浮かびあがらせることは可能だろうか。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.192)


      A 樹木における死と再生

      例19 岡山県久米郡吉岡村(現・柵原町)
      定宗本山寺の本堂の傍にある。 この樹は、法然上人の父母漆間時国夫妻が子供のないのを憂えて日参し、満願の日、携えていた杖を植えたところが、あとで枝葉が生じて大桜となった。 これを杖桜または逆木の桜とよんでいる。(『名彙』)

     逆木(さかぎ)の桜とは、むろん境木(さかぎ)でもあったはずだ。土地の境界にこそ、のちに大樹と化する桜の杖は〔植え〕られたのである。 この事例では、直接示されてはいないながら、神仏からの授かり児(法然)の誕生という主題が境界をめぐって見え隠れしている。 すくなくとも、それを前提にしてはじめて伝承はくっきりと像を結ぶ。 満願の日に携えてきた杖を植えると、のちに枝葉が繁って大樹となる。 卜占ないし祈誓の杖を想起したい。 地に刺した杖が根づいて繁茂することが、大願成就の証と信じられていたのだから、願掛けの功を奏し子供は授けられたのである。 生/死のはざまの誕生という出来事が、境木としての杖のたつ地に生起していることは、杖立と境界の関係という主題にとっても興味深くおもわれる。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.197〜198)


     *柳田逆さ杉に関して、こうのべている−−“逆さ杉のサカに至っては疑も無くがもとである。 境を単にサカと云ふことは阪道祖(さかさひ)阪迎阪戸等の例多く、即ち傾斜道路サカと云ふのも其始は境の義から転じたのである”(「榎の杖」『定本柳田国男集』第二十七巻)。 あるいは、別の論考の次の一節−−“逆さ木の所在が、単に神地であったのみならず、同時に叉個々の文化圏の外界との接触面であり、それが後年の国郡郷村の境界でもあり得たこと”(「天狗松・神様松」『定本柳田国男集』第十一巻)。樹木の枝が下向きに成長することから逆さ木の名は起こった、と伝説自身は語るが、逆=境とみる柳田の解釈をとりたい
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.198)


     水辺の貴種流離譚の誕生

      @ 国占の神々から流離の貴種へ



      A 流される姫から機を織る女へ

     老婆の事例は枚挙にいとまがない。芋や大根を洗う女・洗濯する女・飯を炊く女などもみえるが、ここで注目したいのは、機織(はたお)りをする女である。

      例31 埼玉県所沢市西所沢
      三ツ井戸の由来。 ある夏、一人の旅僧が来て一杯の水をもとめた。機織をしていた娘が、遠くから水を汲んできてあたえた。 水の不自由なことを知った僧は、井戸の掘れる場所を杖でしめして教えた。 土地の人が掘ると清水が湧き出た。 のちに弘法大師だったことがわかり、井戸の近くに祠を建てて大師様を祀った。(『体系』5)

     説話のうえでは水をあたえることへと簡略化されているとはいえ、それは疑いもなく、旅の貴人にむけた共同体をあげての歓待のシンボリックな表現であったはずだ。 祖型的には、食物の饗応から性の夜伽(よとぎ)までを含むものであったにちがいない。
     〈流離の貴種〉に水をあたえる=歓待する女たちを、仮りに〈水の女〉と名付けたのは、むろん折口信夫の論考「水の女」(『折口信夫全集』第二巻所収)を念頭に置いてのことだ。 はるか悠遠な古代、大河の支流や池・湖の入り込んだところに設けられた棚に、神の嫁となる処女が住み、神の訪れを待つ。 そこにを構え、神の身体ともいえる神御服(かむみそ)を織っていたのだ、と折口は語る。 弘法大師を歓待する女たちのなかに、機を織る女の姿がみいだせることを、はたして折口流の解釈で把握しきれるか否かはおくとしても、大師を迎える女たちが〈水の女〉の一類であることは首肯されるようにおもう。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.208〜209)


     それでは、老婆についてはどう解釈するべきだろうか。折口のいう“神を育む姥(をば・うば)神の信仰”(同前)、あるいは、柳田「大師講の由来」(『定本柳田国男集』第二十六巻所収)の以下のような一節を想起してもよい。

      十一月二十三日の晩の〔おだいし〕講の老女なども、後には貧乏な賤しい家の者のやうにいひ出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母といふやうな、とにかく普通の村の人よりは、ずっとその〔だいし〕に親しみの深い方であったのではないかと思ひます。 それぐらゐな変化は伝説に珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍ともいって、姥の木像が置いてあり、また関の姥様の話にもあるやうに、児と姥との霊を一しょに、井の上、池の岸に祀ってゐるといふ、伝説も少なくないのであります。 私は児童の守り神として、姥の神を拝むやうになった原因も、大子が実は児の神のことであったとすれば、それでよくわかると思ってゐます。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのでたらうと思ひます。

     柳田によれば、杖立伝説の弘法大師の大師は大子で、古くはオホイコなどという長男をさす語であり、神の世継ぎの意があったとされる。 姥はその児の神を愛しみ育てる、守り神としての姥神であった。 伝説の老婆を姥神信仰の派生ないし痕跡とみる、こうした柳田・折口以来の民俗学的了解の是非を問うこともまた、わたしの現在の力量をはるかに越える。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.209〜210)


     杖と境界と異人と
     杖をめぐるもっとも古い伝承のひとつに、『常陸国風土記』行方郡の条にみえる夜刀の神伝説がある。 そり詳しい分析は、前稿「杖と境界をめぐる風景/標の〔つえ〕」に譲るが、そこにみえる“標の〔つえ〕”(〔つえ〕=大きな杖)は、蛇体の夜刀の神を制圧し、人の田/神の地を分かち隔てるたるに堺のにたてられる。 地形的には、平地と山のはざまの湿地帯が杖のたてられる場所である。 杖による湧水の主題はみえないが、“標の〔つえ〕”が堺の堀という水辺に衝きたてられていることは注目される。 この、もっともプリミティブな杖をめぐる風景のなかで、杖立は水辺を舞台にとり、境界の画定と密接不可分なものとして描かれているということだ。 弘法清水伝説の舞台の多くは、あるいはそうした山裾の谷間の地であったかもしれない。 井戸掘り技術の未発達な時代には、共同体レヴェルでの水の供給は、自然の地理的条件にもっぱら依存せざるを得なかったとおもわれるからだ。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.218)


     また、『日本書紀』のイザナギの黄泉国訪問譚、その一書第九には、次のような境界に関わる杖が姿をみせる(日本古典文学大系による)

      例40
      伊弉諾尊、驚きて去(に)げ還りたまふ。 是の時に、雷等(いかづちども)皆起ちて追ひ来る。 時に、道の辺(ほとり)に大きなる桃の樹有り。 故、伊弉諾尊、其の樹の下(もと)に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に擲(な)げしかば、雷等、皆退走(しりぞ)きぬ。 此桃を用(も)て鬼を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり。 時に伊弉諾尊、乃ち其の杖を投(なげう)てて曰はく、「此れより以還(このかた)、雷敢来(えこ)じ」とのたまふ。 是を岐神(ふなとのかみ)と謂(まう)す。 此、本(もと)の号(な)は来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰す。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.217〜218)


     同様の杖伝承をもつ一書第六から推して、舞台はおそらく泉津平坂(よもつひらさか)である。 黄泉の国から逃げ還るイザナキが、この現世/他界をかぎる境界の阪で杖を投げ、雷を祭却する。 説話上では投げられる杖は、やはり“標の〔つえ〕”と同様境の地に刺したてられたものだろう。泉津平坂という現世/他界のはざまにたつ杖が、”来名戸(くなと)の祖神(さえのかみ)”“岐神(ふなとのかみ)”と称されていることも、杖と境界の深い関わりを暗示している。 『古事記』にはより直截に“〔衝立〕船戸神”とある。 いずれも後世、フォークロアのなかに境界にたつ道祖神的な神格として姿を見せる神々である。 それが当時の習俗をどの程度反映しているかは別に問うこととして、記紀神話において、杖がいかなる位相で把握されていたかはたやすく想像されるところだ。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.218〜219)


     そうした古代の境界にたつ杖の面影は、いくつかの杖立伝説のうえにも垣間見える。

      例41
      土佐幡田郡中筋村大字九樹にある大榎は、昔延光寺の明俊僧正という名僧が、榎の杖をたてて帰ったものが、しだいに繁茂して大木になったので、これを名付けて榎船戸という。

      例42
      肥後菊池郡陣内村大字下陣内と隣大字の陣内との堺に、榎の杖と称する大木の榎がある。 大昔、阿蘇の大神が諸処を巡回したとき、杖をこの地にたてたのが、しだいに枝葉が繁茂して今の大木になったという。 (例41・42は、柳田・前掲「榎の杖」より)

      例43
      筑後八女郡の御前嶽には、麓の里から五十余町に杖棄(つえすて)坂がある。 そこから上は杖を衝くことを許されないために、棄てた杖がうずたかく積まれてあった。

      例44
      阿波の高越寺の山道に神木がある。 神代に、諸神この嶺に登ろうとして、それぞれ杖をここに置いた。 今はこの地に、来那戸(くなど)神が祀ってある。 (例43・44は、柳田・前掲「杖の成長した話」より)

      例45 岐阜県恵那郡本郷村(現・岩村町)
      富田と阿木村との境に、打杭山がある。 昔、境界を定めるとき、桜の木を伐って境木としてに打ち込んだ。 これが繁茂し、その枝は下垂れするようになったという。(『名彙』)

     例41・44に、“榎〔船戸〕”“〔来那戸神〕”という名称が見いだされる。 記紀以来の杖=クナドの神にたいする信仰・習俗が、そこに底流していることは疑いない。 榎(えのき)が境の木であることは、柳田がすでに「榎の杖」のなかで周到に論じ尽くしている。 榎は古くより道祖神のつねの神木であり、これを境に植える風習は全国にゆきわたっている。 例42の“榎の杖”と称される榎の大樹は、大字の境界にたつ。 例41の“榎船戸”もその名称からして、同様に境界にあったらしい、 すでに引いた高野山奥の院の明遍杉(例12)がそうであったように、杖の化成した大樹や杖棄の坂は、ときには聖/俗をかぎる境界だったのである。
     例45などは端的に、境界を画定する際に桜の樹を境木として地に打ち込んだことを語る。 まさに境界をさだめる杖立である。 おそらく杖立伝説の底に、そうした樹木=杖と境界をめぐる習俗が横たわっていることは間違いない。 むしろ、この習俗を説話の核にして、杖立伝説の、ことに杖銀杏型の伝承は成立したものであろう。 杖立伝説の多くが境の神の信仰と繋がることを指摘しつつ、諸国の杖立や杖突という峠・坂の名はおそらく境木の所在地であった、と柳田は語る。 そして、地名にみえる「」「」などは境界の榜示の木を地に衝きたてることで、イザナキへの黄泉国訪問譚における杖が“衝立船戸神”になったという思想と根源を同一にする、とのべる(前掲「杖の成長した話」「榎の杖」)。柳田の眼差しは確実に、杖と境界の関係をめぐるある深い層にまで届いている
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.219〜221)


     やはり柳田「榎の杖」の一節に、実に無造作に、こう書き留めていることが関心を惹く。 すなわち、“多くの杖立は外来の異人の所業で其地在住の百姓乃至は領主の祖先では無く皆言はゞ境界問題に関する第三者であることは一寸面白い”と。 ここでも、いかなる回路を縫ってか、柳田の眼差しは杖と境界をめぐる問題のもっとも深い鉱脈をみごとに掘り当てている。 とはいえ、柳田は思考の触手をそこで止め、仮説としてすらこの問題にたいする回答を提示することはしない。 剥(む)きだしの鉱脈を前にして、わたしたちはだから問わねばならぬ、なぜ杖立は共同体の外なる第三=異人の所業であるのか、と。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.222)


     阿部謹也『中世の窓から』には、中世ドイツでおこなわれていた境界をめぐる習俗として、以下のような記述がみえる。 −−。 “村では境界線を確認する行事の際に子供を境界石の上に坐らせ、頬をいきなりぴしゃりと打ったり、小川におとしたりしました。 晴着を着て、喜びいさんで大人の行事に参加した子供はびっくりして泣き出してしまいますが、幼いときの記憶は失われることなく、数十年のちの境界争いの際にも幼時の体験に基づいて境界石の場所を証言することができるのです”と。ここでは境界の調停者の役割を演ずるのは、幼い子供であり、幼時の境界儀礼における記憶である子供の異人性について語る必要はあるまい(拙著『異人論序説』を参照のこと)。
    (《杖と境界をめぐる風景/杖立伝説》P.225)


     人身御供譚の構造

     人身御供譚の定型


     供犠のメカニズム

     たとえば、道切(みちきり)とよばれる民俗がある。
     疾病などの村の平和を乱すものが、外部から侵入するのを防ぐための呪術である。 すでに発生している疾病を村のそとに送り出したあとに、道切をする場合もある。 村もしくは部落が共同でおこなうのが普通であり、村境や村の入口の路上に注連(しめ)をはるのが、もっとも特徴的である。 道切はつまり、そこで疾病や災害を遮断しようとするもので、種々の呪術がともなっている柳田国男監修『民俗学事典』による)。
    (《人身御供譚の構造》P.234〜235)


     道切とは、境界鎮めの呪術儀礼の一種とかんがえてよい。注連縄(しめなわ)は〔標〕縄とも書かれるように、神々の鎮座する清浄の世界とその外部(そと)なる不浄の世界との、それゆえ、聖と俗との境界を可視化するための標識である。原田俊明が“内と外とを境するための注連縄”について、その古い形式は一定の祭礼期間にかぎって村境にはるものであったと指摘している(「村境と宗教」『宗教と社会』所収)。 祭礼にあたって、数日前から村境にあたらしく注連縄をはり、その期間中は穢不浄の輩入るべからずとされた。 いわば、“内と外とを境する注連縄”によって、村という俗的世界=ケの空間がハレ化されるのである。 こうした注連縄をはって道切をするという民俗は、レヴィ=ストロースのいう供犠のメカニズムにささえられている。連続性の切断であり、内部/外部という空間の分節化である境界の画定とは、むしろ供犠そのものなのである。 表層からは隠蔽されているが、わたしたちは注連縄をはるという呪的な行為がひとつの根源的な暴力としての供犠であることを、指摘しておく必要がある。
    (《人身御供譚の構造》P.235)


     人身御供譚の生成



     贖罪から儀礼へ

     記紀には、渡の神が浪をおこして船が動かなくなったとき、橘姫ヤマトタケルに代わって海神に身をささげた話がみえる。 そのとき、橘姫は「願わくは賤しき妾(やつこ)が身を、主(みこ)の命に贖へて海に入らん」と、ヤマトタケルに語っている。 海神を怒らせたのはヤマトタケルであるが、贖罪の役割は橘姫にゆだねられているわけである。 ここにも、供犠は。<置き換え>として顕在化している。
    (《人身御供譚の構造》P.244)


     また、『魏志倭人伝』によって知られる持衰(じさい)の例も同様である。 持衰は中国へ渡海する船にかならず乗せられ、航海にかんする安全の全責任を負って物忌みに服した、ある種の呪術宗教者であったと想像される。もし航海中に疾病がおこったり、暴風雨になったりすると、責任を問われて殺害された。 あきらかに供犠のイケニエとして、ほかの乗船者たちの罪=穢れを肩代わりする存在であった。 供犠はやはり、<置き換え>なのである。
    (《人身御供譚の構造》P.244)


     天皇にもその面影は残っている。 京都に旱魃(かんばつ)がつづいたとき、天皇を中心として雨乞いがおこなわれた様子を、宮田登『譚海』によりつつ紹介している。 天皇がみずから雨乞いをするかたちはとらず、一人の少女身代わりにたてる。 雨乞いの歌を書いた短冊を、笹竹につるし、潔斎のあと、少女を大文字山に連れてゆき、呪文を書かせて谷に投げこむという儀式をする。 “京都では大文字山が雨乞いの対象となっており、この山中に水神がいると信じられていたらしい。 この神に天皇の代行者である十五、六歳の女子が立てられ、それが一種いけにえの機能を発揮するようだ。 その女子が谷へ呪文を投入するというのは、いけにえとしての女性が水神に捧げられたことを象徴する儀礼だろうか”(『民族宗教論の課題』)。 宮田の解釈にしたがうとすれば、この雨乞いの儀礼にあたって、天皇→少女→呪文という<置き換え>がおこなわれていたようにおもわれる。
    (《人身御供譚の構造》P.244〜245)


     共同体の内部から外部へ、という人身御供が定型としてもつイケニエの<置き換え>の方向
     藤木久志氏の『戦国の作法』におさめられた論考「身代りの作法・わびごとの作法」は、歴史学の領野からの、日本的な供養の構造へのアプローチとして、たいへん刺激的な内容を含んでいる。 藤木氏は直接には、人身御供について論及していないが、人身御供の理解にとっても貴重な手掛かりとなりうる視座がひらかれている。 すくなくとも、身代りという名の供養の<置き換え>が、あきらかに共同体の内部から周縁・外部へという方向性をもつことは、藤木氏の実証的研究によって確認されるはずだ。
    (《人身御供譚の構造》P.261〜262)


     藤木氏によれば、日本の中世村落には、父=家の身代りには肉親の子ども・また庄屋=村の身代りには乞食という、家と村とにそれぞれ対応する二つの身代りの方式が存在した。 後者の例としては、たとえば中世末の摂津の水争いに際して、「一村に壱人宛はりつけ」の処分が決まったとき、村々では公然と「庄屋代ニ乞食」を犠牲としてさしだした、という。 あるいは、十七世紀初頭の丹波の山争いのあとで、「村中の難儀に代り相果」てようと、すすんで相手方の村へ下手人に赴いた男は倅のために「苗字を下され、伊勢講日待参会にも相加り候様」と願い、それを容れられて死についた、という。 いわば、この男は苗字をもたず、講や日待などの正規の村の成員の集まりからも排除されていた、ごく下層のものだったのである。
    (《人身御供譚の構造》P.262)


     村の身代りの要件は、村落共同体に扶養され、しかも村落の正規の成員から排除された存在、ということであった。 日本の中世村落は、そうした身代り=犠牲となる乞食を村抱えで養っていたのである古代ギリシャの諸都市が養っていたといわれる生け贄(パルマコス)を想起したい。 藤木氏の指摘にあるところだが、『御伽草子』「物くさ太郎」の主人公など、まさにこうした村抱えの乞食であった。 あるいは、説経さよ姫なども、村抱えならぬ家抱えの乞食の位相にあったはずだ。 この説経節などは、たんなる空想譚ではなく、ある側面では驚くほど忠実に中世という時代の現実を反映しているのかもしれない。 すくなくとも、そうした視座からの分析の必要性を、藤木氏の論考はわたしたちに示唆しているようにおもわれる。
    (《人身御供譚の構造》P.262)


    起源としての異人論

     はじめに
     歴史的民俗学の試み
     交換現象の起源へ


     表象としての異人

     未開ないし原始的な民族のなかには、客人歓待の習俗がおこなわれている。によれば、それを異人にたいする純粋なる好意的態度、あるいは争闘的態度といった、いわば両極的な心性に発するものと見なすことはできない。 たとえば、客人歓待を意味する hospitality という語が、敵意をあらわす hostility とともに、外人客人主人などを全体的に意味した host という語に語源を有するように、原始・未開人は外人を畏怖し、異人を怪奇で悪霊的とみなすと同時に、これら異人を歓待饗応するのである異人はつねに、未開人にとって畏怖の対象だったといえる
     岡は次のように述べている。

      自分の属する社会以外の者を異人視して様々な呼称を与へ、畏敬と侮蔑との混合した心態を以って、之を表象し、之に接触することは、吾が国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人山姥山童天狗巨人、その他遊行祝言師に与へた呼称の民間伝承的表象は、今も尚我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成に参加して居る。

     民族誌的な比較考察を側光として、フォークロアのなかに数多く見いだされる日本的な異人表象を照らしだそうとする、の方法的な立場がよく覗けている箇所である。 この一節に関しては、岡自身が、“之に関しては柳田先生異人研究ともいふべき『山の人生』がある”と注記を施している。岡の異人論が、柳田の山人論の濃密な影響下にあったことは、そこからもよく窺われるはずだ。
    (《起源としての異人論》P.273〜274)


    穢れの精神史

     古代における穢れ−−罪=穢れ

     仲哀記(ちゅうあいき)の以下に引く記事に媒介されることによって、わたしたちもまた、スサノヲ伝承大祓のひとつの神話的な解釈になっていることを確認できるかもしれない。沙庭で神託を請うている最中、不意に仲哀天皇カムアガリする場面につづけて、

      爾に驚き懼(お)ぢて、殯宮(あらきのみや)に坐(ま)せて、更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、阿離(あなはち)、溝埋(みぞうめ)、尿戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚牛婚鶏(とり)婚の罪の類を種種求(くさぐさま)ぎて、国の大祓(おほはらへ)為(し)て、亦竹内宿禰沙庭に居て、神の命(みこと)を請ひき。

    とある。 ここにみえる生剥・逆剥・阿離(畔放)・溝埋・屎戸などは、むろんスサノヲ伝承と共通のものだが、そのほかに上通下通婚・馬婚、牛婚、鶏婚など、近親相姦や獣婚が祓われるべき罪=穢れとしてあげられている。オホヌサは罪=穢れを祓うために差し出される贖物であり、チクラオキトにおかれたハラヘツモノと同種のものとかんがえてよい仲哀記の「国之大祓」の記事には、天つ罪国つ罪の分化はみられない。その意味では、のちの『延喜式』大祓祝詞の祖型をなすともいえる。
    (《穢れの精神史》P.282〜283)


     大祓は毎年六月と十二月の晦日に、皇城の朱雀門においておこなわれた。天皇をはじめ、百官男女より天下万民までが犯した罪=穢れを除き去る恒例の儀式である。中臣ハラヘ麻(オホヌサ)を奉ると、東西文部祓刀をそれぞれ奉り、漢音の祓詞を読む。 大臣以下の百官男女が祓所に会し、中臣が祓詞を宣べ、卜部ハラヘをなす、といった次第でおこなわれた。
    (《穢れの精神史》P.283)


     『延喜式』に東西文部の読んだ「東(やまと)の文(ふみ)の忌寸部(いみきべ)の横刀(たち)を献る時の呪(ず)」が収められているが、そこではじめに、皇天上帝三極大君司命司籍(しさく)東王父西王母五方五帝など、道教・陰陽道の神名が列挙されている。 そして、禄人(人形)をささげて禍災を除くことを請い、金刀をささげて帝祚(ていそ)を延ばすことを請う、とある。日本固有の、記紀神話とも照応関係をもつと考えられてきた大祓という祭式のうえに、こうした道教や陰陽道の影響が認められることは、やはり興味深い。 陰陽道と穢れとの関わりはすでに、ここにはじまっていることを確認しておきたい。
    (《穢れの精神史》P.283)


     大祓の国家的祭祀としての成立は、天武紀五年八月の条にみえる「四方(よも)に大解除(おほはらへ)せむ。 用ゐむ物は、国別(ごと)に国造輸(いた)せ。 祓柱(はらへつもの)は馬一匹(ひとぎ)・布一常(ひときだ)。 以外(これよりほか)は郡司(こほりのみこともち)。 各刀(たち)一口(ひとから)・鹿皮一張(ひとはだ)・钁(くは)一口(ひとは)・鎌一口(ひとつ)・矢一具(ひとそろひ)・稲一束(ひとつか)・且戸(へ)毎(ごと)に、麻(を)一条(ひとたばり)」の記事によって、七世紀後半の天武期にあるとみれる。 また、同じ天武紀の十年七月丁酉(ひのとのとりのひ)の条にある、次の記事は注目される。

      天下(あめのした)に令(のりごと)して、悉(ことごとく)に大解除せしむ。 此の時に当りて、国造等、各祓柱(はらへつもの)奴婢(やつこ)一口(ひとり)を出(いだ)して解除す。

     これに関しては、神野清一が興味深い分析をおこなっている。 神野によれば、ハラヘツモノの本義は、これに災気や罪=穢れを託して棄てられるものであり、後世撫物(なでもの)といわれた人形(ひとがた)はこうしたハラヘツモノの一種といえるが、祓柱奴婢の場合は、撫物のもっともプリミティヴな形態である。 天武紀十年の「天下大解除」の目的のひとつは、大王(オホギミ)の災気を祓い、穢れをハラヘツモノである奴婢に移すことで大王の命を贖うことにあったとして、神野はこうのべている、災気を除かれた清浄なオホギミ天武の対極に、罪=穢れを一身に負わされた奴婢=賤という虚偽の構造が造りだされた、と。
    (《穢れの精神史》P.285〜286)


     古代における穢れ−−死=穢れ

     これについて、松村武雄『日本神話の研究』第二巻のなかで、上代墳墓との部分的な関連を認めつつ、全体的には訪問譚における黄泉国の表象は現し国における事象・習俗にもとづいている、とした。 すなわち、日本民族は現世の生活や風習として、異なる世界とのあいだにサカを観じ、サカには塞ノ神を祀って邪霊の侵入を防ぎとめ、他界のモノの追跡からのがれるために、障害物をおき事物(もの)を投げるなどの葬送慣習をもっていた。 イザナキとイザナミのあいだに生起した出来事はいずれも、こうした現世の事象を他界への拡張もしくは転社として解明されうる、と松村は指摘してる。
    (《穢れの精神史》P.290)


     おそらく、わたしたち日本人の原始とよばれる時代にも、死を畏れ死のまえに慎む根源的な感情とともに、死=穢れを忌む習俗は存在しただろう。 時代により地域により、禁忌の度合いに偏差があって、平安以降の肥大化した蝕穢のイデオロギーと制度とに浸された世界とは比較にならぬほどに、その禁忌の意識や感情が微弱であったとしても、原始の人々のまえに、死=穢れを忌む素朴にしてプリミティヴな習俗は存在したにちがいない。 むろん、特定の他者を死=穢れとむすびつけて差別するような志向とは無縁で、死=穢れを忌み畏れ、そのまえに慎み跪(ひざまず)く姿は、すべての原始に生きる人々がひとしく共有していた深い祈りのあらわれであったはずだ。
    (《穢れの精神史》P.293〜294)


     外なる穢れから内なる穢れへ

     それでは、古代の賤民(官奴婢寺奴婢)がまったく死=穢れと無縁でありつづけたかといえば、そうとばかりはいえない。 『延喜式』巻二十九囚獄司の記載によれば、徒役囚の労役に、道や橋の修築・宮城四面や宮内の汚穢・厠溝の清掃があげられている。 ここにいう清掃とは、たんに掃く・拭くなどを意味したばかりではなく、屎尿処理人畜の屍体処理をも含むものであった。 路橋の破損が破穢(『延喜式』巻四十一弾正台)と称されていることは、道路や橋の修築もまた穢れにたいする清掃(キヨメ)と認識されていたことを意味するだろう。 これについて、関口明は古代の清掃と徒刑囚との関わりを論じたなかで、仏教などによって汚穢視された清掃が、王権(天皇)にたいする犯罪者(マツロワヌモノ)の労役として位置づけられた結果、かれらを不浄視する観念が生まれた、と指摘している。
    (《穢れの精神史》P.299)


     刑期を了えた放免もまた、下部として清掃にしたがっている。 あるいは、罪=穢れゆえに賎身分に堕とされた寺奴婢・官奴婢らが、やはり清掃を重要な職掌のひとつにした。 『法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』にみえる、天平十九年正月十七日に聖武天皇から寺へ納められた「浄寺奴壱口」について、天皇の身替りとして寺の清掃(キヨメ)にしたがうように喜捨された奴婢であろう、と神野清一は推測している。 ほぼ同時期の『続日本紀』の記事に、こんな一節がある、「除セシム平城宮ヲ。 時ニ諸寺ノ僧率ヰテ浄人童子等ヲ、争来テ会衆ス」(天平十七年五月七日の条)−−。 この衆僧にひきいられて平城宮の掃除をする「浄人童子」は、さきの「浄寺奴」に類似の存在だったのだろうか。 童子と奴の対比には惹かれるが、深入りするわけにはゆかない。
    (《穢れの精神史》P.299〜300)


     わたしたちは池見の批判の正当さを、教義・哲学の水準に見をおくかぎり認めざるをえないだろう。 仏教(浄土教)ほど現世におけるいっさいの差別の空しさを、その観想において解体し尽くそうとした宗教哲学は存在しない。 わたしはそれを疑わぬ。 しかし、池見の語るごとく、ほんとうに「蝕穢意識は浄土教の穢土・穢身観にたつことによって克服された」のだろうか。 「差別につながる特定他者の不浄と、平等につながる普遍−自己の不浄とが、民衆意識レベルでとらえられている例」など、見いだされるのだろうか(−−池見は『今昔物語』に例を拾っているが、『今昔物語』は聖(ひじり)の携えひろめた説話集であり、そこからただちに「民衆意識のレベル」を窺い知ることはできないはずだ)。 あらゆる不浄や穢れを実態なき空無として解体し尽すラディカルな観想が、仏教哲学の水準をこえて、はたして民衆の浄土信仰のなかにまで浸透したか否か、ということだ。
    (《穢れの精神史》P.305〜306)


     原本あとがき

     境界論など輸入思想の焼き直しにすぎない、といったたぐいの批判があるにちがいない。 が、わたしはそうは思わない。柳田国男折口信夫という、日本の近代が生んだ二人の思想的巨人がともに、著作のいたるところで境界について、境界論を方法としてさまざまに語っているのを読むにつけ、わたしはその意を強くしてきた。いずれ、柳田・折口の境界論をきちんと語るつもりだ。 境界論はいっそう鍛えられてゆく必要がある。
    (《原本あとがき》P.315)


     解説 境界へ/境界から 小松和彦

     著者は、数年前、控えめな口調でありながらも、強い使命感に燃えて、民俗学者宣言をおこなった。 柳田国男の思想とその実践としての民俗学と格闘し、その一方では東北地方を歩き回りながら思索を重ねてきた末のことである。 それは、東北の各地に、そして日本の各地に、柳田民俗学が見逃してきたあるいは隠蔽さえしてきた「いくつもの日本」の痕跡が、いまなお地表に露出していることに気づき、その発掘にこれからの生涯を捧げる覚悟の表明でもあった。
    (《解説 境界へ/境界から 小松和彦》P.316)


     収録された論考のほとんどが、八十年代半ばの五年間に集中的に書きためられたものである。 このことからも、当時の著者が「境界」に取り憑かれ、「境界」に導かれて思考を巡らせていたことがわかる。 たとえば、本書の意図を、あとがきで、「境界を語ること、境界から語ること。 言葉をかえれば、わたしたちの文化や歴史の昏(くら)がりに埋れた境界の風景を、発生的に掘り起こすこと……あるいは、境界的な場所に身をさらしつつ、現代のもっとも根源的な思想について持続的にかんがえること」と述べている。 また、別のところでは、次のようにも語っている。 「あらゆる境界は、わたしたちの想像や夢の源泉であり、始源のイメージ群が湧きいづる場所である(『異人論序説』)
    (《解説 境界へ/境界から 小松和彦》P.316〜317)


     こうした言説からわかるように、この頃の著者は、始源的なるもの−−それは同時に根源的なるものとも解されていた−−に触れることを熱望していた。 その現場に、想像力を駆使して赴き、文化が、世界が生成してくる光景を目撃したい。 そういう欲求に駆り立てられていた。 その当時のわたしも、そして同時代に民俗学や人類学などを志した若い研究者たちも、共有していた思いであった。「失われた世界の復権」(山口昌男)への志向がその時代の流行であり、境界という概念はその重要なキーワードの一つとなっていたからだ。
    (《解説 境界へ/境界から 小松和彦》P.317)


     著者にとって、境界は「外部」と「内部」の創出であり、同時にこの異質な領域の交流・交渉という意味での〈交通〉の場の創出であった。 共同体とはそのようにして成立していたのである。 そこで、著者は境界から分泌れたその分身たちの考察から、境界の発生の物語を語り直そうとする。 境界の分身の一つが、たとえば、「琵琶法師」(異人)という表象であった。 言いかえれば、こうした表象のむこうに、「異界」(外部)と「現世」(内部)との〈交通〉つまり「始源の〈交通〉」姿を浮き彫りにすることが目指されていた。
    (《解説 境界へ/境界から 小松和彦》P.318)


     ところで、「始源」から「変容」へ、そして「変容」のかなたには、必然的に「消滅」が待っている。 やがて著者の眼差しも、その「消滅」の光景へと向けられるようになる。 しかも、「始源」への思いが熱ければ熱いほど、「消滅」の光景は辛く寂しいものである。 その対極には黄昏(たそがれ)た「消滅」(終末)が必然的に想定されねばならなかった。「境界の発生」の物語を語れば語るほどに、「境界の消滅」の物語がその背後に忍び寄ってくる。 いや、「境界の消滅」の物語をたぐり寄せてしまうというべきか。
    (《解説 境界へ/境界から 小松和彦》P.320)