[抜書き] 『彰義隊』


『彰義隊』
吉村昭・新潮文庫
平成二十一年一月一日 発行
    目次
      天保山   江戸城   寛永寺   駿府城   江戸   彰義隊   上野の戦い   落ちる   寺領   東光院   自証院   潮の匂い   奥羽列藩   会津   仙台   列藩同盟   帰順   南帰行   幽閉の日々   苦悩   新しい道   日清戦争   台湾の戦場   終章
    あとがき
    参考文献
    解説 川西政明


     諸藩兵は、村々を巡回して家宅捜査もし、宮の行方をさぐって動きまわったが、いっこうに行方はわからない。 大総督府参謀大村益次郎(ますじろう)は、それらの村の民家に必ずひそんでいるにちがいない、と推測し、村々を統轄(とうかつ)する上尾久村名主江川佐十郎に使者をさしむけ、江戸城内の大総督府に出頭するよう命じた。
     佐十郎は、宮の潜行に力をつくしたことが発覚したのかと恐怖にかられ、江戸城におもむき、大村の前にひれ伏した。 即座に斬首されるのか、と身をふるわせた。
    (《彰義隊 東光院》P.222〜223)


     やがて梅雨が明け、それらの死体は耕地や道に露出した。 すべてが腐乱(ふらん)していて、蝿(はえ)におおわれ烏(からす)や野犬がむらがり、悲惨な様相を呈していた。 それを眼にして手を合わせる通行人もいたが、始末する者はいない。 彰義隊員の死骸(しがい)は、朝敵のそれであり、野捨てにされるべきで、そのような考えを持つ朝廷軍の眼をおそれてただ傍観するだけであった。
     しかし、朝敵であるとは言え、徳川家代々の恩顧にむくいるために武器をとって戦い、屍(しかばね)をさらしているということに、同情の眼をそそぐ者もいた。 かれらはそれらの遺体を収容して埋葬すべきだと考えたが、初めに動いたのは、箕輪(みのわ)通り新町の円通寺(えんつうじ)住職仏磨と神田旅籠(はたご)町の侠客(きょうかく)三河屋幸三郎(こうざぶろう)であった。
    (《彰義隊 潮の匂い》P.263〜264)


     奥羽越列藩同盟は、奥羽最大の仙台藩の藩士伊達慶邦(だてよしくに)を盟主としていたが、宮が奥羽に入って以来、明治天皇の叔父である宮を盟主に推戴(すいたい)しようとする声が起こり、それを具体化する討議がさかんになっていた
    (《彰義隊 会津》P.309)


     宮は、六月十八日に米沢にむかうことになり、前日、藩主松平容保が別れの宴を開いてくれた
     その席で、朝廷軍の動きが話題になった。
     奥羽への重要関門である白河をめぐる攻防戦が同盟軍と朝廷軍の間で繰り返されていたが、兵力を増強した朝廷軍によって白河城は占拠された。 また、前日の十六日五ツ半(午前九時)頃には、三隻の軍艦に分乗した薩摩、大村、佐土原三藩の兵が、常陸国(ひたちのくに)平潟に上陸したことが急報された。 会津藩としては当然予想していたことで、藩は、奥羽越列藩同盟軍とともに徹底抗戦するという。
    (《彰義隊 会津》P.310)


     容保をはじめ列席した藩の重役たちの眼には、鋭い決意の光がうかんでいた。
     翌朝、宮は、随行の家臣、僧とともに身支度をととのえ、容保から贈られた乗物に乗った。
     容保をはじめ家老ら藩士多数が庭前の馬場に並んで見送り、宮の乗物は会津藩士数十名に警護されて城門を出た
    (《彰義隊 会津》P.310)


     行列は北への道を進み、塩川で休息を兼ねて昼食をとった。 緑のひろがる田畠(でんぱた)では、農耕に従事する農民たちの姿が見えた。 さらに北への道をたどり、熊倉(くまぐら)(喜多方(きたかた)市)をへて大塩(おおしお)につき、その地に一泊した。
    (《彰義隊 会津》P.310〜311)


     翌十九日朝、行列は大塩をはなれ、山道にかかった。 道は険しさを増し、宮は乗物を降りて歩き、榧(かや)峠を超えて檜原(ひばら)にたどりついた。 そこに多くの米沢藩士たちが警護のために迎えに出ていて、宮は会津藩士の指揮者を身近にまねき、感謝の言葉を述べて会津に帰させた。
    (《彰義隊 会津》P.311)


     宮は、米沢藩士に守られて山道を進み、夕七ツ(四時)、綱木(つなき)(米沢市)についた。 藩では宿所をととのえていて、宮は随行の者たちとそこに入った。
    (《彰義隊 会津》P.311)


     翌二十日五ツ(午前八時)、宮は綱木を出立(しゅったつ)、関(せき)村をへて徒歩で船坂(ふなさか)峠をこえた。 宮は再び乗物に身を入れ、米沢の城下町に入った。 入り口の照陽寺(しょうようじ)には藩が仮設した休憩所があって、そこに米沢藩主の嫡子(ちゃくし)上杉茂憲(もちのり)が家老たちと出迎えた。
    (《彰義隊 会津》P.311)


     宮は、机の上に紙を置き、筆をとって請願書の下書きをはじめた。
     筆をとめて思案し、文面を書き改め、削除し、加筆することを繰り返した。 提出先は、太政官直属の弁官あてとし、筆を進めた。
     午後になって文章がまとまり、宮は慎重に点検し、筆をおろして筆をとり、浄書にかかった
     「臣公現(宮の出家した折の法号)として、
     「過ぐる日、まことに愚かしくも事情にうとく、あやまって賊徒となり、不敬の罪をおかしたことをお詫(わ)びしたくも、その方法を知りません。 それにもかかわらず朝廷は謹慎をお解き下され、その上、廩米(りんまい)三百石の高禄(こうろく)をたまわり、その御恩にどのようにしてお報いするか、日夜、苦慮しております」
     と、朝廷に反抗したことを深く悔い、恥じていると記し、それにつづいて、
     「ひそかに思いますには、現在の情勢を判断いたしますのに海外の各国の実情に通じ、その長所をまなばなければ、朝廷の御恩の万分の一すらお報いできぬと存じます」
     と述べ、さらに、
     「伏してお願いしたいのは、イギリスにおもむき学問にはげむことができますれば、私のなによりの喜びであります。 なにとぞ海外遊学をお許しいただきたく」
     と、記し、「泣血嘆願(きゅうけつたんがん)シ奉(たてまつ)ル」と哀訴の文字をつらね、「頓首(とんしゅ)再拝、明治三年閏十月廿八日 公現」とむすんだ。
    (《彰義隊 苦悩》P.424)


     あらためて、上野の彰義隊の戦いのことがよみがえった。 宮は、彰義隊と運命を共にしようという確かな気持ちになっていたが、それは徳川慶喜(よしのぶ)謝罪の嘆願で駿府(すんぷ)(静岡)におもむいた折の有栖川宮の冷ややかな態度に屈辱感をいだいたからであった。 有栖川宮の顔には、あきらかに強大な武力を背景にした傲慢(ごうまん)さがみられ、同じ皇族でありながら見下すような尊大さのみがあった。 その有栖川宮が死んだという。 宮は、時間の容赦ない流れを感じた。
    (《彰義隊 日清戦争》P.440)


     小松宮が参謀総長に任じられたと同時に、近衛師団長に補せられ、大本営のおかれた広島にくるように命じられたことは、有栖川宮が宮の提出した嘆願書をこれまで放置していたことをしめしている。 宮は、有栖川宮の死によって、自分の前に執拗に立ちはだかっていた厚い壁が突きくずされ、明るい道が開けているのを感じた。
    (《彰義隊 日清戦争》P.441)


     小松宮は、宮の手をかたく握りしめ、
     請願書は見た。過ぎ去った日々のことはもう忘れるがよい。これからはお国のためにつくすように……」
     と、言った。
     その言葉にすべてが語りつくされているように思え、宮は兄の恩情に眼をうるませた。
    (《彰義隊 日清戦争》P.441〜442)


     宮は、大本営勤務の陸軍参謀本部次長川上操六(かわかみそうろく)、海軍軍令部長樺山資紀(かばやますけのり)両中将とも会い、戦況を聴取した。 勝敗の大勢はきまり、すでに清国との間で講和会議が推し進められていて、三十日には日清休戦条約が締結された。
    (《彰義隊 日清戦争》P.442)


     四月十日、宮は、小松宮の命令で近衛師団をひきいて宇品(うじな)から乗船、大連におもむいて第二軍司令官大山巌と会見し、さらに旅順に入った。
     小松宮は、日清戦争総指揮のために創設された征清大総督に任じられて旅順につき、宮は小松宮と水師営(すいしえい)を視察したりした。
    (《彰義隊 日清戦争》P.442)


     四月十七日、日清講和条約がむすばれ、朝鮮の独立承認、遼東(りょうとう)半島、台湾、澎湖(ほうこ)列島の割譲、賠償金二億両の支払い等が決定した
     しかし、その直後、清国に強い野心をいだいていたロシアは、ドイツ、フランスを誘って旅順、大連をふくむ遼東半島の割譲に激しく反対し、武力行使もほのめかした。 日本はその干渉に窮地に追いこまれたが、対抗する武力はなく、三国の要求をそのまま受けいれて遼東半島の還付を決定し、五月五日、三国にそれをつたえた。
    (《彰義隊 日清戦争》P.442)


     五月十七日、近衛師団に小松宮大総督から新たな命令が発せられた。 講和会議で日本領に定められた台湾に不穏な動きがあり、五月に入るとそれがにわかに武力抗争の様相をしめしたので、大総督はそれを鎮定させるため近衛師団の台湾への投入を定めたのである。
     台湾では、日本領になったことに憤慨した清国の湖広総督張之洞(ちょうしどう)が、台湾が独立国であることを宣言し、日本に公然と反抗する態勢をとった。唐景ッ(とうけいすう)を大総統として政府機構を定め、国旗、紙幣を制定した。 台湾には正規軍五万が残存し、戦備をととのえていた。
    (《彰義隊 日清戦争》P.442〜443)


     宮は、ようやく国恩に報いる時がきたことに勇躍し、五月二十九日、軍艦「松島」にみちびかれた大輸送船団で師団をひきいて台湾北部にむかった。
    (《彰義隊 日清戦争》P.443)


     三年ほど前、寛永寺山主であった輪王寺宮に視点を据えてみてはどうか、とふと思った。宮は、寛永寺を本営とする彰義隊に守護されていたが、彰義隊が朝廷軍の攻撃を受けて敗れた後、落人(おちうど)さながらに落ちのびていったはずだが、その後のことは闇(やみ)につつまれている。 それを明らかにすることは、幕末から明治までの時代の推移を描くことにもなり、意義があると考えたのである。
    (《彰義隊 あとがき》P.455〜456)


     私の触手はにわかに動き、新宿区内にある台湾協会におもむいて宮の事蹟(じせき)を記した記録を見出(みいだ)した。 それによると、上野の山を下りた宮は、根岸(台東区)にのがれている。 その地は私の生れた町の隣接地で、宮は、それから三河島(荒川区)、尾久(おぐ)(同)へと私の幼い頃からなじんでいる地へ潜行している
    (《彰義隊 あとがき》P.456)


     私は、荒川区立図書館に行き、ガリ版刷りの「三河島町郷土史」を手にした。 簡易な郷土記録と思っていたが、宮がのがれた地の庄屋(しょうや)たちの朝廷軍に提出した届け書が多く記載され、それらは宮の動きをさとられまいとする村人たちの意図が透けて見え、郷土史としては予想外の傑出した内容であった。 私は、その記録をもとに宮をかくまった家々の子孫の家を訪れて伝承を得、小説の執筆を決意した
    (《彰義隊 あとがき》P.456)


     私は、宮の跡を追って浅草東光院市ヶ谷自証院をへて、奥羽(おうう)へと調査行をつづけ、それらの地で、宮についての埋れた史料を発掘研究している史家たちに会った。 幕府軍が大敗後、奥羽には、幕府に忠誠をいだく多数の武家等がのがれ、その中には老中にもなった旧藩主らもいて、その動きをさぐるため、岡山県高梁(たかはし)市や山口県下関市にも旅をした。
    (《彰義隊 あとがき》P.456)


     宮は、台湾戦線で病死し、遺体が東京に運ばれているが、遺体を損蝕(そんしょく)させずに運ぶ方法については、国立歴史博物館長宮地正人氏、国学院大学日本文化研究所員の菅浩二氏の御指示を参考にした。
    (《彰義隊 あとがき》P.457)


     宮の曾孫(そうそん)である伊勢神宮大宮司の北白川道久氏には、友人の岩村和俊氏を介してお会いし、さらに伊勢神宮にもおもむいた。 氏から見せていただいた宮の台湾戦線への派遣を願う書面に、宮が上野の戦いで朝敵となったことを、その時に至っても深い心の傷として意識しているのを知り、ためらうことなく題を「彰義隊」とした
    (《彰義隊 あとがき》P.457)


     『彰義隊』は吉村昭が書いた最後の歴史小説である。
    (《彰義隊 解説 川西政明》P.460)


     ちょうどその頃、僕は吉村さんから手紙をもらった。 日付は消印が不鮮明ながら、平成十二年十一月二十九日付かなと思われる。 この手紙のなかに、僕が書いた解説を読んだ吉村さんが、ある感じをもたれたことを述べておられる。 こういう文面である。
     《それはなんとなく、自分が一つの道に入って歩みはじめているのをかなりはっきりと意識しているからです。 それはまちがいなく、現実には老いを少しも感じないながらも、小説家として死の沼への道を確実に下りはじめている思いがしているためです。
     この手紙を書いたとき、吉村昭は七十三歳であった。 彼は肉体的にも精神的にも健康で、死の気配は身辺になかった。 しかし小説家として、彼は「死の沼への道を確実に下りはじめ」たことを明瞭(めいりょう)に意識しはじめていたらしい。 この事実を知って『彰義隊』を読み直す僕の内部に緊張がはしる。

    (《彰義隊 解説 川西政明》P.461〜462)