[抜書き] 『沖縄文化論 忘れられた日本』


『沖縄文化論 忘れられた日本』
岡本太郎・中公文庫
2006年8月25日 11刷発行
    目次
    沖縄の肌ざわり
    「何もないこと」の眩暈(めまい)
    八重山の悲歌
    踊る島
    神と木と石
    ちゅらかさの伝統
    結語
    あとがき

    神々の島 久高島
    本土復帰にあたって
    「一つの恋」の証言者として 岡本敏子


     ある所で、「沖縄のホテルのサービスは悪いでしょう。 世界一だそうですよ」というから、私は「悪かありませんよ」と答えた。 予期に反した返事に、相手はきょとんとする。 「だって、そんなモノないんだから」とつけ加えたら、みんなワッと頭をかかえた。 悪いってのはそもそもすでに何かサービスがあるってことだ、という意味。 こいつはシンラツだった。
     ところがこれを聞きつけて、御叮嚀にもわざわざホテルに知らせた者がいるらしい。 ホテル側はひどく恐縮して、気をつかいだした。 その後は大へんなもの。 「どうもサービスが行き届きませんで」と繰り返し謝りながら、ハラハラしてついて歩く。 この善良な人達に何とも気の毒な気がした。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 沖縄の肌ざわり》P.25)


     この島はそういう切実な精神の問題として、また現代的課題に示唆をあたえる設定として、日本の前に浮かび上がって来たことはなかった。 なるほど貧困ではあるが自由な天地。 このように美しく、豊かな情感にみちた島々について、どうしてうかつだったのだろうか。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 沖縄の肌ざわり》P.28)


     先ごろ来島したある評論家が、戦跡を見た感想として、これを沖縄人の「動物的忠誠」であると言った。 しかしそれは事実の見かけだけ、それに語呂あわせした浅薄なレッテルであり、またしてもエゴイスティックな判断にすぎない。 民衆が動物的だったというよりは、彼らをそのように駆りたて、落しこんだ仕組み、軍部ならびに官僚のシステムの無恥こそ、巧妙によそおっていながら、まさしく動物的ではないか。 その方を指摘しなければならないはずだ。 痛烈な憤りをもって。
     私は戦前の日本政府、官僚がどのように沖縄人に対したかということを聞いた。 廃藩置県後、沖縄人として施政されるようになってからの統治政策や教育方針など、そのいやったらしさにうんざりする。  沖縄人がこの島で、沖縄人として生きることを許さなかったのだ。 「皇民家」という屈辱的な名目のもとに、まるで蕃族のように沖縄本来のものを圧迫し、官僚的な画一主義の枠にはめこもうとしたのである。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 沖縄の肌ざわり》P.31)


     沖縄の人たちはいい。 私は大好きだ。 色はやや黒く、目はギョロッと鋭い。 全体に分厚い感じ。 中にはひどく毛深い人がいて、胸毛どころか、二の腕から手の甲、指にまで黒い毛が密生していたりする。 いかにも逞しく、ちょっとこわいようだが、よく見ると、こんな柔和な表情があるだろうかと思われるほど、何ともいえない優しさとあたたかさが感じられる。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 沖縄の肌ざわり》P.35)


     ここの人たちはお婆さんでも若い娘たちでも、私がカメラを向けると、すうっと自然に向きを変えてしまう。 まったく自然に、嫌がるとか拒むとかいうはっきりした態度ではない。 そんな悪意や敵意はみじんも感じさせない。 恥ずかしいのだろうか。 台風の近づくのを予感して、葉を閉じてしまう植物がもしあるとすれば、そんな感じなのだ。 ちょうどそのように、こちらから激しい視線を投げかけようとすると、この島の実体はすうっと捉えがたく、こちらの鋭さに応じて逃げてしまう。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 沖縄の肌ざわり》P.38)


     私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない−−といって差支えない、御嶽(うたき)だった
     御嶽−−つまり神の降る聖所である。 この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない、森の中のちょっとした、何でもない空地。 そこに、うっかりすると見過してしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。 その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した。 これは私にとって大きな発見であり、問題であった。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.40)


     さらに民芸の専門家たちに高く評価されている壷屋のやきものにしたって、窯場をいろいろ廻ってみたが、ひどくつまらない。中には悪くないものもあるけれど、それだけのこと。 そのやきものを通して、沖縄のエネルギー、その魅力がぐんと押して来て、こちらが腰をぬかしてしまうようなものではない。 漆器は問題外である。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.44)


     ところが紅型は日本の装飾芸術の型を受けついで、ある意味ではさらに形式的であり、抽象化されている。 にもかかわらず、その中にはなにか自由で、明るい流動感がある。 優美に流れてゆく空間性。 沖縄を大陸的というのはおかしいけれど、そう言いたいようなおおらかなよさが感じられる
     それは沖縄の人の性格が底ぬけにいい証拠だろう。 無邪気で、明朗で、こだわらない。 だからよそから持ってきたものを平気で自分なりに変えてしまう。 アカデミックにそのまま真似て、本場ではこうなんだなんて権威づらして固定してしまうのは、いやな奴らにきまっている。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.45)


     しかしここが発展しなかったのは猛烈な風土病のせいだった。石垣島、西表(いりおもて)島など、八重山群島はひどいマラリヤ地帯で、全村死滅という悲惨がたえなかった。 首里王朝はしばしば他の島から強制移住させたが、すぐまたやられる。 原因、対策がわからないまま、移住しては全滅、廃村という残酷な歴史をくりかえして来た。 今度の戦争でも、三、四千人も入った日本兵がほとんどマラリヤで死んだと島の人はいう。 戦後、米軍の防疫対策が功を奏して、今は非常に少くなっている。 そこではじめて、生後生(いきぐしょう)と呼ばれて放棄されていた北部の開拓が現実の課題として浮かびあがって来た。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.55〜56)


     別れをつげて出ると、戸口の古むしろの上に〈いき〉の悪い南京豆がばらまかれて、干してあるような捨ててあるような。 なんとなく印象的だった。 聞くと、この集落で今年、換金作物として南京豆を作った。 石垣の市場まで持って行ったら輸送代にもならなかったという
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.58)


     頭にのせるクバ笠−−そういえば、頭上の丸い板に豆腐を一丁だけのせて売って歩いている若い女を見かけた。 まことにこの島でなければ見られない風俗で、ほほえましい。 沖縄の豆腐は木綿ごしで、食パン一斤ぐらいの大きさだ。時々、ごく普通の家の軒下や石垣の上に、置き忘れたように、布をかぶせたまま黙ってのせてある。 いり用の人は傍のザルにお金を入れて持って行く。 −−ちょっと余談になってしまったが、その他阿檀(あだん)葉のむしろ薯を煮る大鍋にかぶせる編ぶた舟の形、いくらでもあげることができる。 それらの自然に洗練された形は、完璧なフォルムである
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.64)


     人間、石垣、籠、舟と区別なく並べたてたが、決して奇妙ではない。 すべてがこの天地に息づく実存の多面性としてある。 同価値であり、同質のエキスプレッションである。
     これらすべては美しい。 意識された美、美のための美では勿論ない。生活の必要からのギリギリのライン。 つまりそれ以上でもなければ以下でもない必然の中で、繰りかえし繰りかえされ、浮び出たものである
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.64)


     たまたま内地から民族学者とか芸術家などが来て、これは大へん美しいなんて感心する。 沖縄でも文化人は、郷土の伝統美として保存したいなどと力んでいるが、島の人は、へえ、こんなものがね、というわけだ。
     繰りかえしていうが、これは生活のぎりぎりの必需品である。 それ以上でもなければ以下でもない。 籠だって、それがなかったら、食糧を運ぶこともできないし、生産したものを交換することもできない。 お茶のパーティに行くために、しゃれて頭にのっけるニューファッションじゃない。 それなしでは生きられない、のっぴきならない必要によって、生存のアカシとしてそこにある。 そういうものだ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.65)


     ここには大地にへばりついたようなものしかない。 首里の王朝を中心とする士族の文化は、厳重な階級制によってまもられ、庶民化されなかった。 沖縄本島でさえ。 まして遠く荒波に隔てられ、単に搾取の対象にすぎなかった離島では、百姓や庶民の文化はほとんど発生のままの素朴な段階にとどまっていた
     こういう文化の底辺のような感動は見失われやすいが、重要な問題を含んでいる。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「何もないこと」の眩暈(めまい)》P.66)


     さらに八重山での発見は、ユンタ、ユングトゥ、アヨウ、バラバなどの、口から口へ伝えられた詩である。

      ユンタ
      −−読歌。あるいはユイ歌の意味だという。ユイは共同作業。
      ユングトゥ
      −−読言(よみごと)。または●詞(よごと)。(●:示と壽)
      アヨウ
      −−綾語(叙事詩)。綾歌。あるいはアユ(こころ、思うという意)からきた言葉で、沖縄本島の「おもろ」や「うむい」(心の思いを素直にのべること。沖縄の「のろ(巫女)」の口承文学)と同義だという。
      ジラバ
      −−確かな意味は不明。集落の次男、三男に新しく地域を与え、井戸を掘ってやることをジュラバというので、井戸を掘る歌から発したのだとか、地名説、人名説もあるが、はっきりしていない。

     これらの中には、「おもろ」や「うむい」または宮古島の「ニイリ」とか「ユンテル」などと同質の、神事の際の祈願の詞もあり、縁起ものの祝い言もあり、あるいは伝説を物語る叙事詩もあり、純粋に自然を歌った美しい詩もある。 ところ・場合に即して、内容はすばらしく豊かである。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.81〜82)


        古見の浦(くんのーら)の(ぬ)ブナレーマ・ユンタ

      古見の浦のブナレーマ くんのーらぬブナレーマ
      世ば稔る ゆうばなうる
      美代底の みよそこの
      みやらび みやらび
      うるじんぬ、なるだら うるじんぬ、なるだら
      若夏の、い来だら ぱかなちぬ、いくだら
      やり此の拍子の(ハヤシ) やりくぬようしぬ(ハヤシ)
      やり此の拍子(ハヤシ) やりくぬようし(ハヤシ)
      汝らかない、所以ど ならかない、ゆいんど
      十尋布の、ちにやんど といるぬぬぬ、ちにやんど、
      汝らかない、取り持ち ならかない、とりむち
      十尋布、抱ぎ持ち といるぬぬ、たぎむち
      前の浜、走り降れー まいぬばま、ばりうれー
      寄合浜、飛び降れー ゆらいばま、とびうれー
      ないしゃーにば、引きゆるし ないしゃーにば、ぴきゆるし
      艫高ば、押しゆるし とむだかば、うしゆるし
      汝らかない、抱ぎ乗しえー ならかない、だぎぬしえー
      十尋布、取り乗しえー といるぬぬ、とりぬしえー
      大石垣、渡りょーり うぶいしやぎ、ばだりょーり
      親島に、移りょーり うやじまん、うちりょーり
      何間ぞ何時、舟着き じまどじま、ふなちき
      美崎の前ぞ、舟着き みしやぎぬまいど、ふなちき
      何処ぞ何処、宿取る どきやどどきや、やどとる
      蔵元の前ぞ、宿取る うらぬまいど、やどとる
      調べ座に、走り這入り しらびざーん、ぱりぺーり
      長蔵に、入り這入り ながぐらん、いりぺーり
      調び主に、うんぬけー しらびしゅー、うんぬけー
      纏み主に、うやいし まとみしゅー、うやいし
      大蔵元の、戻るには うふうらぬ、むどるんんや
      大和屋に、走り這入り やまとやーん、ぱりぺーり
      大和屋の、儲ぎ物 やまとやーぬ、もーぎむぬ
      油壷、一箇。 あんだちぶ、ぴどぐ。

       −−西表(いりおもて)島の東海岸、古見の浦のプナレーマ、美代底の乙女は、初夏の衣更の頃になったので、上納の十尋の御用布を納めるために、それを抱えて前の浜に走りおり、三反帆のくり舟、艫高舟を引きおろし、上納布を乗せて石垣島に渡って行った。 どこに舟をつけるか、美崎の波止場に舟をとめた。 どこに宿をとるか、役所の前に宿を取った。 検査所に行き、収納所に行き、検査役に申し上げ、収納役に差し上げた。 御役所の帰りには、大和(日本)商人の家に立ち寄った。 大和町屋の男に身体を売って、男から貰ったのは、髪につける油、たった一瓶。

     離れ小島に住むものは、石垣島の人々よりも一そうひどい条件に耐えなければならなかった。 その生活の苦しい足どりが、しかしここではひどく無邪気に表現されている。 だから最後の一句「あんだちぶ、ぴとぐ」がユーモラスだが辛辣に生きている。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.87〜90)


     それでもまだ彼らは恵まれた方である。 かわいそうなのは耕地のほとんどない小島の人たちだった。 それでも人頭税の年貢米は納めなければならない。 荒波を乗りきって、よその島に渡り田畑を作った。「新城島(ばなれま)ぬ前(まい)ぬ渡(とう)節」など、その舟歌である。 往き来できるほど近くの島に土地が得られればよいが、そうでないと親兄弟、妻子と別れ、家を出て石垣島とか西表島という大きな島に渡り、雨露をしのぐだけの仮小屋をたてて稲を作り、収穫を終るとまた自分の島に帰って行ったという。 流人の生活である。 あるいはまったく故郷を捨てて、未開の土地、悪疫の島に移住して行かなければならなかった。 そのように耕地にひきずり廻されている人間の運命に、われわれは何をいうことができるだろう。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.92〜93)


     話を大分音楽論にしぼってしまったが、八重山の歌はさらに積極的な面をもっている。 その多くが労働の歌作業唄として生き、伝えられてきたのである。
     人頭税の重いノルマ、その達成にこぎつけるには、一人一人ばらばらではとてもできない。 そこで徹底的に共同作業が行われた。 それをユイイーマールという。 田植え、草とり、刈り入れ、米つき。 足りない人手で大きい労働をしなければならない。 そのときに、みんなが歌った。
     ありったけの人数を田圃にずらりと並べ、指揮者が真ん中で音頭をとる。 それを「イゾウ(気あい)」といって、その音声は厳粛を極めた。 明治末年頃までは実際にそうやって仕事をしていたそうだ。
     「こういう調子です」と大浜さんたちが聞かしてくれる。
     「ヒェーッ、ヒェッ、ヒェッ。」
     何ともたとえようのない、怪鳥の鳴き声のような、その突拍子もない声に私はびっくりした。 はじめ、ひどくゆっくりしたテンポで、働き手の調子を揃え、だんだん急調子に早まって行く。
     その指揮者の声に、めいめいが勝手に「ヤッ」「ホ」「ヒェッ」と掛け声をかける。 その切迫感。 荘重にひびく、不思議なセンセーションを与える音楽だ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.109〜110)


     イゾウがはじまれば列から離れることは許されない。 少しでも遅れると、指揮者にいやというほどひっぱたかれる。 昔は庶民の女は越中褌のような黒い下帯をしめていた。 それがずり落ちても、前にはさむひまさえない。 褌を後にひきづりながら、夢中で進んで行ったということだ。
     こういう形で掛け声をかけると、黙ってただ働くより確実に二、三割ははかどるという。 これはだから芸術とか音楽なんてものじゃない。 美学ではないのだ。 生産のリズムであって、それに乗らなければ仕事は進まない。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.110)


     労働の歌の中に、さまざまの悲しい言い伝え、物語が織りこまれた。 八重山では百姓はあんまり辛くって悲しくて、その泣き声が歌になったといわれているが、詩の中の女や男の悲嘆に、自分の運命を重ねあわせて泣きながら、彼らは重すぎる仕事に耐えつづけたのだろう。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.110〜111)


     だがそれはまた生きるハリでもある。 ただ悲しいだけだったら、ふたたび歌われまい。 絶望的な哀調を繰りかえし繰りかえし、何百千度も歌って、あきないとすれば、ネガティヴな表現をとっていても、それはまた逆に生きることの確かめであり、そのアカシ、生甲斐だったといっていいのではないか。
     これらの音がなまなましい響きとして私のうちに共振すると、はじめて、この土地に「物」として抵抗してくる文化がないということ、その当然さが明らかなスジとして納得できたのである。
     それはすでにいったが、文化の欠乏でも、精神の貧困でもない。
     この貧困と強制労働の天地に、文化とか芸術が余剰な〈もの〉、作品として結晶し、物化するということはできるはずがない。 そんな時間、エネルギー、富の余裕はなかった。 日夜、ドロのようになって畠を耕し、布を織りつづけながら、同時に描き、彫りつけるなんてことは不可能だ。 マチエールの抵抗をのりこえて表現する美術とか、「文化生活」なんて思いもよらない。 ゆとりはみじんもなかった。 それはかつての生活を、いささかホウフツさせる今日の開拓集落の暮らしを直視してもうなずけることである。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.111〜112)


     だが、歌、踊りは別だ。 それは今も言ったように生活そのものであり、それなしには生産し、生きることができなかったのだ。 ここでは、そのように物ではなく、無形な形でしか表現されなかった。
     また制度によって、生活のすべての余剰、瓦屋根も、よい衣裳も、文字さえも禁じられていたのに、歌と踊りだけは許された。 ということは実は何も与えられていなかったと同じことだ。 それは端的に八重山の悲劇を象徴している。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.112)


     しかし何もなく、音声だけが響き、また消えて行く世界のすばらしさというものがある。 私は思う。 「作られたもの」のいやったらしさ。 人類は過去にいかに多くの無効になった〈もの〉を、不潔な遺産として残していったか。 もの自体ならよい。 それ自体すでに完結している〈もの〉を、さらに作る卑しさ。 まして物が物になりきらず、空しい妄執、その観念的表現であるにすぎないとき、みじめさはいっそうである。 その残骸の窒息するような堆積の中から取捨して、ようやく過去をジャスティファイする。 ケチなことだ。私は〈もの〉のいのちは作られた瞬間にうち壊されるべきであると思う。 でなければるいるいとした不潔な排泄物は人間を虚偽におとしいれ、鈍くし、堕落させる。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 八重山の悲歌》P.112〜113)


     ここは踊りの国。 四季を通じての、数々の祭りの芸能はもちろん、結婚、誕生、還暦や古希の祝、新築、旅だちのときなど、あらゆる機会に踊りがある。 舟出には海辺で、また旅している者の留守宅では、親族たちが集まり、その人をしのぶ歌をうたいながら、輪になって踊る。 こういうときは畳をあげてしまうというほどの徹底ぶりだ。 「野遊(もうあしび)」という古くからの風習もある。 大勢つれだって三線や太鼓を持って野に出たり、浜辺に出て、円陣をつくって激しくうたい踊る。 とりわけ月のよい夜などは、夜ふけまで、男女いりまじって歓楽した。 ちょうど古代の歌垣そのままの、素朴なロマンティスムである。 この自由な風俗に対して為政者は、お目附役を置いて抑えようとしたり、しばしば禁止令を出したが、ごく近年までさかんだった。 今でも行なわれている「三月遊び」はその名残りだという。
     こんな風に踊りや歌が日常に浸み込んでいるから、別に正式に習わなくても、誰でも自然に踊りにとけこむことができるのだ。 私の沖縄の友人達も、酒席で気分がもり上ると、踊りだす。 自己流だが、それぞれ独自の味わいがあって、ひどく楽しい。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 踊る島》P.123)


     情感がもり上り、せまる。 そのみちひきのリズムの浮動の中に、私はとけ込んでしまう。 目で見ている、観賞している、なんて意識はもうない。 一体なのだ。 しかし、にもかかわらず、踊り手はまるでこちらを意識していないかのようである。 見る者ばかりではない。 世界に、身体が踊っているということの外には何もないという感じなのだ。
     日本舞踊の〈しな〉とか、バレエに見られる問いかけのような身ぶり、観客への訴えみたいなものがまったくない。 悲しんで見せたり、喜んでみせたり、押しつけがましい表情、そういう卑賤な説明的手段はない。 この絶対感こそ舞踏の本質である。 ここには充実した感動だけがうごいている。 それがたまたま見るものに歓びとして現われ、悲しみとして打ってくるだけだ。
     その点、能の感動に近いともいえる。 だがあの重さはない。 そのなまめかしさは開ききって、能のような殺した色気ではない。
     琉球女性特有の張りの強い、大きな眼。 見ひらかれたまま目ばたき一つせず、きっと凝視して動かない。 激しいが、不思議にどこも見ていない。 もし見入っているとすれば、それは心の中なのだろうか。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 踊る島》P.127)


     踊りの振付」なんて、普通に使う言葉だが、「振」はしぐさであり、ほとんどが物真似だ。 語りものに合せて、詞の意味をジェスチャーで翻訳しようとする。 ここには舞踏的必然性、その感動はない。語呂あわせ、ひどいのは謎々みたいなものに陥っている
     いつか花柳徳兵衛さんが、踊りながら振りの意味を分解して説明してくれたことがあったが、私は腹をかかえて笑ってしまった。 ほんとの駄ジャレだ。
     「関の扉」に”生野暮(きやぼ)、薄鈍(うすどん)、情なしてなしのくせとて、悪じゃれいうたり、大通しうちもあるまいが”という句がある。
     これを機械的に一字一字に切ってしまって、「生野暮」は木と矢と棒をそれぞれ手真似で見せ、「薄」は臼、「鈍」で戸をドンドンと叩くまね、「情なし」は錠をかけるしぐさをして、無い無いと手を振る、といった具合。 馬鹿馬鹿しさを通りこして、ユーモラスだ。 ところがこれが「キヤボ振り」という名があるくらいの、名振付なんだそうだ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 踊る島》P.135)


     国頭(くにがみ)の西海岸、喜如嘉(きじょか)に「臼太鼓(うすでえく)」という郷土芸能が伝わっている。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 踊る島》P.145)


     私たちはギラギラした太陽の直射をあびながら、細長い島の反対側にある、大御嶽(うたき)に向った。
     平坦な耕地。 その果は死の阿檀林にさえぎられて、海の一かけらも見えない。 白茶けた土くれがごろごろした、いかにもやせた土地だ。 老婆が一人、耕していた。
     見わたすかぎり、石ころをたんねんに帯のように並べて、矩形に区切ってある。 有名な地割制度。 周囲二里というこの島は、耕地の私有制が発達するにはあまりに貧しすぎたのだ。 土地全部が集落の共有という、一種の原始共産制を今日まで続けてきている。 十六歳以上の男に平等に耕作権を割り当てた。 戦後は一戸ずつに、だいたい人数に応じて割り当てるようになったという。 耕作権の境界を示す粗末な仕切りである。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神と木と石》P.162〜163)


     大昔からギリギリの生産手段をわけあって、何とかやってきた。 はみ出した人たちは島を出て行くのだ。 だからふえもしないし、へりもしない。 決して栄えないが、衰えようもないという生活。 こういうのっぴきならない生活は久高にかぎらない。 他のすべての小島でも、きびしい自然の掟となっていた。 むかし与那国島では、島の中央に「トング田(人桝田)」というのがあった。 南国の陽の下に、前ぶれもなく、突然に、法螺貝、銅鑼が鳴りひびく。 人々は何もかも放りだして、この水田に駆け集まってくる。 田は狭く、全部は入りきれない。 はみだしたものはその場で斬り殺されるのである。 さらに「久部良」という海岸には身重の女をつれて行って絶壁の割れ目をとばせる制度もあった。 多くは落ちて死んだという。 この「人桝田」も「久部良割れ」も、なまなましい思い出をのこして現存している。
     このような残酷な話はわれわれには、しかしほとんど美しい伝説のようにしか聞こえないが、こういう小島の貧しい耕地をじかに見ると、その恐ろしさは実感として迫ってくる。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神と木と石》P.163〜164)


     さて、香炉の上に屋根がつく。 雨露しのぎにさしかけただけの粗末なものだった。 森の湿気の中で、それは見る間に朽ちて行く。 そうした姿もあちこちに現存している。 それがやがて丈夫な瓦屋根に変り、囲いが出来、次に香炉だけでなく拝む人をもすっかりおおうようになれば、もうレッキとしたお社だ。 いつの間にか入口には門構えが出来たり、内地風の鳥居まで立ちはじめる。 社前に並んだ石燈籠なんて、まったくもってガッカリだ。 ……もう少し戦争が永びきでもしたら、どんなになっただろう。忠魂碑なんてアクセサリーまでとり揃えて、ナントカ嶽(だけ)神社などと勇ましく、沖縄中の御嵩や日本(やまと)の皇道精神に右ならえしてしまったに違いない
     自然のままよりも尊大な形をつけた方が神様を〔大事に〕しているんだと思っている。 素肌で神にふれ、対決する、きびしい切実なつながり、その緊張を忘れ、人間はこのようにあまりにも人間的な形式主義によって、神をまつりあげる。 それは逆に神聖感を消し去り、同時に人間としての充実感をも失わせてしまうのだ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神と木と石》P.171〜172)


     ソーレーガナシターキビシのお掃除に行くのだ、と教えてくれた。 ソーレーガナシは竿取神、島の漁師の代表で、海の神の司祭だ。 ターキービシは島の東北端、カベールの岬ににうる海神の拝(うがん)所(聖所)である。
     〔そうれえがなし〕は毎朝、斎戒沐浴して、竜神様に豊漁を祈る。 漁に出るときはターキビシに行って拝むし、また帰りにはここで神に獲物をお刺身にして捧げ、自分も食べてから帰るのだという。 魚のゆいむん(群がって寄ってくる)のときなどは、島中の猟師の指揮をとるし、獲物の分配もする。 男としては集落の最高の地位で、だからどんな身分の高い人に会っても、おじぎはしない。 それで合掌するのである。
     が、〔のろ〕と違って世襲ではない。 集落の中から二年交替の廻りもちで選ばれるのだ。 はじめの一年は見習いとして神事をたすけ、次の年に〔そうれえがなし〕になる。 後からついて行ったのがその見習いだそうだ。この名誉職はだいたい年の順で、いまは六十四、五歳で廻ってくる。 これをつとめたら、もう一通りの人生は終ったと考えるという
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神と木と石》P.174)


     ところで、これを原始的な信仰だなんていってすましているわけにはいかない。 われわれの生活の中に、現にこの伝統は生きつづけている。 日本人ぐらい、風呂に入りたがる人種はいない。 世界で有名だ。 風呂好きは高温多湿のせいばかりではなく、民族をあげてのマニアといっていいだろう。
     「まず一(ひと)風呂(ぷろ)あびて、さっぱりしてくる」とか「いらっしゃい」なんて、互いにサッパリしたがる。 これはまた、ひどくニホンゴだ。だいたい、クソ面白くもない日常生活で、湯あがり気分ほど日本人が生甲斐を感じる瞬間はないんじゃないか。 お風呂はただよごれを落し、身体をきれいに保つという実用的な意味だけでなく、多分に精神的で、マジナイ的要素がある。 自分で気づかないで、毎日ミソギをやっているのだ。
     「ああ、いい気分だ。行きかえった」なんて、まさに再生の告白だ。
     ここから日本人独特の前道徳的道徳観念が生れてくる。 いい加減ワルイことしたって、一(ひと)風呂(ぷろ)浴びてしまえば、何だか自分の方はさっぱり清まったような気になって、それ以上罪悪感は追っかけてこない。 それから後のことは、また翌日の入浴まで、その日その日の風が爽やかに吹くというわけだ。
     加害者がかくのごとくなれば、被害者も似たようなもの。 ヒデエ目にあって、ええコンチクショウとくやしがっても、風呂にでも入ってしまえばケロリと恨みは洗い流される。 まことに軽快な道徳感情である。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神と木と石》P.179〜180)


     だが何といっても、これは天然痘なのだ。 決して好ましい客ではない。 この凶悪に対し、彼らは無防備なのである。 卑しめたり、粗末に扱えばタタリがひどいだろう。 なだめすかして、なるべくおとなしく引き取ってもらわなければならない。
     恐ろしいからこそ大事にする。 人間が自然の気まぐれに対して無力であった時代、災禍をもたらす力は神聖視された。 “凶なる神聖”である。 それは“幸いなる神聖”と表裏である。幸と不幸とがどこで断絶し、連続しているか、それが誰にわかるというのだろう。 近代市民のように功利的に、吉と凶、善と悪、まるで白と黒のように、きっちり色分けして判断し処理することはできない。幸いはそのまま災いに転じ、災いは不断に幸いに隣りあわせしている。 それはつねに転換し得る
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 ちゅらかさの伝統》P.185〜186)


     われわれは世界に対して日本文化を主張し、東洋の伝統を誇ろうとする。 文明開化以来、圧倒的に侵入してきた西洋文明に対してのリアクションとして、それは心理的必然であったろう。 しかし西洋に対する東洋、そんな図式で割り切る空虚さはどうにもならない。 われわれは自己主張、自己発見のポイントとして、あまりにも「東洋」という観念、そしてそれを土台とした「日本文化」というレッテル、お体裁にこだわりすぎたようだ。 東洋文化圏をかざしたり、「アジアは一つなり」なんて根拠のない迷文句が、われわれの根源にあるエネルギーを見あやまらせてしまった。 それをまた裏返しにした、近ごろの欧米式民主主義、ヒューマニズム一辺倒にもその危険はある。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 結語》P.196)


     もっと素肌の肌理(きめ)、その切実な感動を、自信をもって押し出すべきではないのか。 私は極論したい。沖縄・日本をひっくるめて、この文化は東洋文化ではないということだ。 地理的にはアジアだが、アジア大陸の運命はしょっていない。 むしろ太平洋の島嶼文化と考えるべきである。 (しかし、いわゆるオセアニア分化でもない。八重山群島など、沖縄本島よりもはるかに台湾に近く、晴れた日には手にとるように対岸が見える。 しかも緯度は、台北よりも南にある。 ところが台湾の土民がマライシア文化圏の相貌をかなり純粋に伝えているのに対して、それとも断絶している。 沖縄・日本は太平洋の中でもひどく独自な文化圏である。)
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 結語》P.196〜197)


     神の島・久高に、年じゅう、祭事がある。 おおきなのだけでも月一ぺんはあるそうだ。 そのほか日常のこまごまとした信仰行事に、この男たちも欠席することは許されない。 どんなに老いても病気でも、生きている間は代役は立てられないのだ。
     この人は根人(ニッチェ)としてイザイホーに出るのははじめてなのだそうだ。 「親父が死んだので、こういう家に生まれたものは、どうしてもそういうことになるらしいです」と笑った。
     「いちばん困るのは、旅に出られんことですな。
     「一生ですか。たいへんですねえ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 神々の島 久高島》P.230〜231)


     本土とはまるで違っていながら、ある意味ではより日本である。 あの輝く海の色、先ほども言った沖縄の人たちの人間的な肌ざわり、もちろん、あの「沖縄時間」を含めて。 本土の一億総小役人みたいな小ぢんまりした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みのある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。
     皮肉な言い方に聞えるかもしれないが、私は文化のポイントにおいては、本土がむしろ「沖縄なみ」になるべきだ、と言いたい。 沖縄の自然と人間、この本土とは異質な、純粋な世界とのぶつかりあいを、一つのショックとしてつかみ取る。 それは日本人として、人間として、何がほんとうの生きがいであるかをつきつけてくる根源的な問いでもあるのだ。 とざされた日本からひらかれた日本へ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 本土復帰にあたって》P.249〜250)


     パリ大学・ソルボンヌで民族学を学んだ岡本太郎が自分の専攻領域に選んだのは、オセアニアだった。 太平洋の育(はぐく)んだ文化、島に生きる人々に、その頃から何か特別に心惹かれるものがあったからにちがいない。
     彼は戦後の日本で、アヴァンギャルドの急先鋒として活動をはじめた。 この国を変革する。 底の底から。 日本人の生き方そのものの根をゆすぶり動かしたいという情熱に燃えた。 激しい挑戦的パフォーマンスで、時代の象徴的人間像となった。 人気者だった。
     が同時に、日本とはなにか−−一貫して、地味な、知的な探求に心をすましていた。 人々の知らないところで。
     彼が芸術の方法論として唱えた「対極主義」は、岡本太郎の存在そのものが欲求する、生き方のスジであったのだ。 燃えあがる情熱と冷たい理智、爆発と沈潜はいつも同時に彼を押し進めている。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「一つの恋」の証言者として 岡本敏子》P.253〜254)


     その圧巻は久高島の〔のろ〕だった。 久高のろは島の最高の司祭である。 白髪の、もうかなりの年齢だろうが、処女のまま年を重ねたのではないかと思うような、清らかな気品、優雅な女らしさ。 初々しい色気さえ感じさせる。
     のろにすっかり魅せられた岡本太郎は、この島の宗教にもう溶け込んでいたのではないか。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「一つの恋」の証言者として 岡本敏子》P.)


     のろの息子さんに案内されて、島の最高の聖所「大御嶽(おおうたき)」に向った。
     細い踏みつけ道。 バサバサとクバの葉が落ちている。 林に近づくと、のろの息子は急に寡黙になった。 祭りの時は男子禁制。 ふだんも男はあまり近づかないのだという。 タブーの、聖なる場所に近づいて行くのだということが、その敬虔な、少し固くなった態度から伝わってくる。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「一つの恋」の証言者として 岡本敏子》P.258)


     「ここです。」
     といって示されたのが、林の中のちょっとした空地のように見える、何でもない広場だった。 ここでの衝撃的な感動、神秘の体験が、この『沖縄文化論』一冊を生んだのだ。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「一つの恋」の証言者として 岡本敏子》P.258)


     岡本太郎をふるえあがらせた、南島の浄らかな素肌の生命感、その核はなにもない、森でさえも、石でさえもない、この無条件の聖地、御嶽だった。
    (《沖縄文化論 忘れられた日本 「一つの恋」の証言者として 岡本敏子》P.258)



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