[抜書き] 『ふるさとの生活』


『ふるさとの生活』
宮本常一・講談社学術文庫
1996年6月25日 第9刷
    目次
    旅と文章と人生 柳田国男
    一 ほろびた村
      1 開拓失敗の歴史
      山村の生活 / ブトくすべ / 雨の八草峠 / 開拓失敗の歴史 / 村は家が入れかわっている
      2 雪のなかの暮らし
      雪とのたたかい
      3 村をほろぼした原因
      洪水 / 山くずれ / 津波 / 土中から出た家 / ききんでほろびた村 / 山のわたり者の話
      4 古代の村のあと
      貝塚 / 登呂(とろ)遺跡
    二 人々の移動
      1 家の姓(せい)の分布
      家の屋号 / 家の姓のひろがり / 鵜飼の家
      2 命令による移動
      高麗人(こまびと) / 都造りの豪族 / 城下町と武士
      3 山村の人
      落人(おちうど)の村 / 山伏(やまぶし)の村 / 山人の移動
      4 海村の人
      移動する漁民 / アマの家 / 漁法と村の古さ / 町や村をしらべる手がかり
    三 今の村のおこり
      1 古い村と家
      大和平野の村 / 旧家のありさま
      2 村の氏神(うじがみ)
      宮座(みやざ) / 先祖のまつり / 神社の整理
      3 寺と墓
      宗門帳 / 古い墓 / 地主様(じぬしさま)
      4 村の形とおこり
      集村と散村 / 名田の村 / 豪族のひらいた村 / 草分百姓(くさわけひゃくしょう)の村 / 新田の村 / 郷士(ごうし)と開拓 / 地割(じわり)制度
    四 村のなりたち
      1 開墾(かいこん)
      土地占有のしるし / 土地の神 / 木おろし / 焼き畑
      2 親方子方(おやかたこかた)
      人の住む土地条件 / オヤカタとヒカン / マキの村 / 仮の親子 / ヌレワラジ
      3 村の結束
      共有地 / 飛び地 / タキギナガシ / 神の祭り / 血のつながりから地のつながりへ
    五 暮らしのたて方
      1 一人前
      成年式 / 一人前の修業 / 一人前の仕事 / 力酒(ちからざけ) / 特別の一人前
      2 共同作業
      共同作業 / 家たて / フシンミマイ / 田植え / 焼き畑の火入れ / ハタケウナイ / コキバシからセンバへ / ムギコキ / 草刈り
      3 ユイとブヤク
      ユイ / ブヤク
      4 農家の暮らし
      奉公人 / 農家の仕事 / 郷倉(ごうぐら)
    六 休みの日
      1 休みのうつりかわり
      新しい休日 / 昔の休日の意味 / 仕事と休日 / 昼寝
      2 正月
      大正月と小正月 / 満月と年中行事 / ショウガツハジメ / 年神(としがみ) / ぞうにの意味 / 幸木(さいわいぎ) / シゴトハジメ / 鬼追(おにおい) / 小(こ)正月 / 田植え式 / デンガク / モチノカユ / 年占(としうらな)い / ナリキイジメ / 鳥追い / カマクラ / モグラオイ / 年祝(としいわ)い / 火祭り / 正月の意義 / 年神(としがみ)送り
      3 盆
      盆 / 七月七日 / 生き盆 / 盆棚(ぼんだな) / 盆の火祭り / ボンガマ / タノミノセック
      4 農業と年中行事
      地神(じがみ)祭り / ハルゴト / サオリとサノボリ / 祇園(ぎおん)まつり / 名月(めいげつ)の夜 / 豆名月 / イノコ / アブラシメ / 行事の複合
    七 ひらけゆく村
      1 交易(こうえき)
      市(いち)のなりたち / 港と宿場(しゅくば) / 町の発達 / 行商(ぎょうしょう) / ボッカ / 漁村の女
      2 衣服のうつりかわり
      麻畑 / 麻糸のとり方 / アイとベニバナ / 木綿(もめん)の進出 / 晴着(はれぎ)と仕事着 / ヨギとふとん / ワラの利用
      3 食物のうつりかわり
      食物のうつりかわり / 米は特別の日の食物 / 米以外の食物 / デコをまわす / 山中の食生活 / いろいろの代用食 / 餅(もち)とシトギ / 大阪のハンダイコ / 間食(かんしょく) / 塩と魚 / 酒盛りの平常化
      4 住居
      大昔の家 / イロリ / 屋根のうつりかわり / ムシロとタタミ
      5 村の協力
      助けあいのうつりかわり / 産業組合と協同組合 / 村と町のちがい / 村をよくするために
    あとがき
    解説 山崎禅雄
    図版目次


     旅と文章と人生 柳田国男

     この本を書いた宮本先生という人は、今まで永いあいだ、もっとも広く日本の隅々の、だれも行かないような土地ばかりを、あるきまわっていた旅人であった。 どういう話を私たちが聴きたがり、聴けばおもしろがりまたいつまでもおぼえているかということを、この人ほど注意深く考えていた人も少ない。 つぎの時代をになう日本国民として、これだけはぜひとも知っていてほしいという事がらを、見分けえり分けるのはむつかしいことだが、それも宮本さんはよく本を読む人だから、少しも誤ったり迷ったりはしていない。 ただあるいは熱心のあまり、すこし早口に、話の数を並べすぎたかもしれぬが、それとても走り読みの癖をもたぬ人たちは、考えることが多くてかえって楽しみであろう意味があるなと思う点は、紙をはさんでおいてもう一度読み返してみると、後までおぼえていられることがよほど多くなる。 地図の良いのがあればそれを脇に置いて、見くらべてゆくとわかりもよく、またおもしろさもずっと加わってくる。 私もこの本でじつはそれをためしてみた。 またそうするだけのねうちがあると思った。
    (昭和二十五年三月)
    (《ふるさとの生活 旅と文章と人生 柳田国男》P.10)


    一 ほろびた村

     1 開拓失敗の歴史
     山村の生活

     あるいていると、けわしい山の中腹できりたおした木に火をつけてやいている人があります。 白いけむりが、山にそうて上のうほへたちのぼってゆきます。 そのけむりのなかに、ときどき赤いほのおがみえるのです。 そのあたりの人たちは、たがやす土地が少ないので、こうして山をやいて、そこにヒエだのアワだのをまいて、秋になって取りいれ、家へ持ってかえるのです。 そのようにして三、四年もつくって山がやせてくると、また木をはやしてもとの山にしてしまいます。 そういうところをソウリといいます。 「草里」だの「草履」だの「草連」だのといろいろの字を書いていますが、もと焼き畑だったところなのです。
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村 》P.13)


     ブトくすべ
     手足がかゆいので目をさまして見ると、ブト(ブヨ)にくわれてはれあがっています。 ここはブトの多いところなのでしょう。 思い出すと、来る途中、ヒエ畑をうっていた女の人がブトくすべを腰につるしているのを見ました。 ブトくすべというのは、わらや草や古い布ぎれなどをいっしょにして、これをはりがねなどでかたくまき、その一方のはしに火をつけてくゆらせたもので、その煙でブトがよってこないのです。 ところによっては「カンコ」などともよんでいます。山のなかの生活には、わたしたちの想像もつかないような、不便な苦しいことがあるのです
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村 》P.15)


     雨の八草峠

     こんな山奥にまで、なぜ人は住んでみようとしたのでしょう。 おそらく苦労ばかり多くて、さびしいことだったのでしょう。 とうとうしんぼうがしきれなくて、一人去り二人去って、やがて村はほろびたのでしょう。 おそらく、この土地を去った人たちは、いつまでもこの山のなかのことを思い出しているにちがいありません。 しかし、そこへかえってみても、たのしいふるさとではありません。 世の中の人はふるさとをおもい、なつかしがり、その思い出はたのしいのですが、ここに住んでいた人たちは、ふたたびここにかえりたいと思っているのでしょうか。 私はさむさにふるえながら、そんなことを考えて谷を見おろしたのでした
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.16)


     開拓失敗の歴史

     おそらく、八草のようなところへ人が住みつくまでに、長い歴史があったと思われます。 はじめ海岸や平野に住んでいた人たちが、だんだん山奥に住むようになったのは、それぞれわけがあったのでしょう。 そして焼き畑づくりの枝村のように、はじめは夏だけそこに出(で)づくりをしていたのがいつかそこに住みつき、人口があえるとまたその奥に出づくりをして、やがてそこに住みつく。 そして知らぬあいだに山のずっと奥まで村をつくっていったのでしょう。 ときには、住みにくいところにまで住もうとして失敗したことも少なくないようです。
     しかし、人は失敗にこりないで、やはり前進をつづけて、国のはしばしにまで村や町をつくりあげていったのでしょう。 しかも、そういう失敗の歴史こそ、私たちにはとうとい手本になりました。 あるいは、失敗の歴史の上に私たちはたっているのかもわかりません
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.18)


     村は家が入れかわっている


     2 雪のなかの暮らし

     雪とのたたかい


     3 村をほろぼした原因
     洪水
     そればかりでなく、大水や地震のために村がほろびていったことも多かったのです。 奈良県の十津川(とつかわ)は、山また山のかさなりあったところで、村の中を十津川という川が北から南へ流れ、熊野川にそそいで、末は熊野の新宮(しんぐう)で太平洋に流れ込んでいます。 東西、南北ともにおよそ三二キロ、面積にして五十四方里もある日本で一ばん面積の広い村なのですが、ここにはたった二千戸ほどしか家がないのです。 それが、明治二十二年に大水があって、いたるところに山くずれがおこり、多くの家がつぶれて、一つの村が、そのまま山くずれの下になってしまったところさえありました。 そのため、六百戸ほどの人たちが北海道へ移り住んだのでした。 その人たちの村が北海道の新十津川(現・新十津川町)なのです。
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.22)


     山くずれ
     『東遊記(とうゆうき)』という書物をよんでいると、越後(新潟)の名立(なだち)というところが、山くずれのために、一晩のうちに一戸のこらず、海のなかへ押しながされた話があります。 そしてただ一人、ある家の女が木の枝にかかって、波の上に出て助かったということです。 この地を汽車で通るたびに、私はこの話を思い出すのですが、そこはきりたてたような山を背にして海に面したところで、今は町になっています。
     このような話なら、おそらくどこにでもあるのではないでしょうか。 それほど、日本には天災や地変が多かったのです
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.22)


     津波
     岩手県の三陸海岸は津波の多いところで、海岸にある村が、何十年かに一度さらわれてゆきます。 この海岸は、山が海にせまり、よい港はたくさんあり、漁をするのも便利なのですが、田や畑をひらいて百姓をするには不便なのです。 ですから、ほとんどの人が漁をして暮らしているので、どうしても海辺に家のあるほうがつごうがよいのです。長いあいだ、津波もないから、もういいだろうなどと思って、海辺に家をたてているとひどい目にあいます。 あわてて山のほうへ家をたてて住んだのですが、いつかまた海辺へ家をたてるようになる。 するとまたひどい目にあう。 それをくりかえしているにすぎません。 そして、やはりそういうところで平和な日をたのしむことも多いのです
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.23)


     土中から出た家
     さきに書いた『東遊記』『西遊記』も書いている)の著者は橘南谿(たちばななんけい)といって、京都で医者をしていましたが、医学修業のために、全国を五年にわたって旅行しました。 その翌年、すなわち天明(てんめい)三年(一七八三)に、三河の国(愛知)から北に向かって旅立った白井秀雄という人がありました。 信濃(しなの)(長野)、越後(新潟)、羽前(うぜん)(山形)、羽後(うご)(秋田)をあるいて陸中(りくちゅう)(岩手)、陸前(りくぜん)(宮城)のほうに出たのち北海道にもわたりました。 それから引きかえして秋田に入り、名も菅江真澄(すがえますみ)と改めてそこに住み、秋田藩の各地をまわってその地誌を書き、ついに郷里にはかえらないままに仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で七十六歳の一生をおえたのでした。
     この人は、東西遊記にまさる多くの紀行文や地誌を書きのこしていますが、その絵のなかに、私の心をひく一枚があります。 それは米代(よねしろ)川のほとりに大きな〈がけ〉くずれがあって、そこから出てきた家のスケッチなのです。 草ぶきで入母屋(いりもや)づくりなのですが、かわっているところは、家のなかはふかく土をほってあって、はしごでなかへおりるようになっています。 よくいう竪穴式(たてあなしき)のすまいなのです。 そこから出てきた品物などを見ると、発見されたときからさらに何百年も前にそこにあったのでしょうが、きっと大きな〈がけ〉くずれがあって、そのまま土の底へうずまってしまったのでしょう。 それがまた、ぐうぜんに〈がけ〉くずれで出てきたのだと思います。 人々は、そこに昔のような家のあったことをまったく知りませんでした。 このように、だれも知らぬあいだにほろびていった家も多いことでしょう。
     このような、ぐうぜんな一つの出来事をとりたてておもしろがるのが私たちの仕事ではなくて、そういうことによって気づいて見ると、これに似たことがらはあまりにも多いのです。 これを比較してしらべていくことによって、私たちは、そこに法則を見いだしたいと思うのです
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.24〜25)


     ききんでほろびた村
     大水や地震などばかりでなく、〈ききん〉も村をほろぼすものでした。 徳川時代に享保(きょうほう)、天明(てんめい)、天保(てんぽう)と、およそ五十年ばかりの年月をおいて三回も大きな〈ききん〉があり、そのうち天明、天保のときには、東北地方の被害がとくにはなはだしくて、何十万という人が飢え死にしております。 さきほどの菅江真澄の秋田の地誌を読んでみると、昔は家が何戸あったが、今なくなっているというのがいたるところで見られます。しかし、世の中がおちついてくると、またそこに人が来て住みつくのでしょう。
     これから、それほど大きな変動があるかどうかわかりませんが、文化のすすまないときに、この自然のなかで生きてゆくということは、なかなかたやすいことではなかったのです

    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.25〜26)


     山のわたり者の話

     人はこのようにして、一つところへ、なかなか長くはおちついていないものです。 そして、もとの土地を捨ててつぎへ移ってゆくたびに、少しずつ古いならわしをかえてゆきました。 暮らしの仕方も、おのずからかわってきました。 そして、世の中がだんだん今のようにかわってきたのでしょう。 しかも、そういう人たちはあまり書いたものものこしていません。ですから、昔のことがよくわからなくなってくると、昔のほろびた村をほりかえして、そのころのありさまを知ろうとすることもおこってきます。
     しかし、そこに古い村のあとのあるということがわかってくるのは、貝塚やまた古い土器や石器がそのあたりから出てくるからであって、たえずそのことに気をつけていると、しぜんにわかってくるのです
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.27〜28)


     4 古代の村のあと

     貝塚
     東京付近の台地の上をあるいていると、その台地の上から低いところへおりてゆく場所などに、おびただしい貝がらを見ることがあります。 昔の貝塚のあとなのです。 そしてそこには、何千年も前に人が住んでいたのです。 「なぜこんなにたくさん貝がらがあるのだろう」と土地の人たちはうたがいながらも、そのわけをよく知りませんでした。 明治十二年、東京の大学の先生としてアメリカからやってきたE・S・モースという人が、横浜から東京へ汽車にのってくる途中、大森駅の近くでこの貝がらを見かけたのです。 これはきっと貝塚にちがいないと思って、そののち、大森へしらべに行きましたところ、はたしてその通りで、そこには石器時代の石器や土器がたくさんありました。 そしてこの先生によって、日本考古学という学問はおこったのですが、今そのあとに記念碑がたっていて、汽車の窓からよく見えます。
    (《ふるさとの生活 一 ほろびた村》P.28〜29)


     登呂(とろ)遺跡


    二 人々の移動

     1 家の姓(せい)の分布
     家の屋号

     そこの家の先祖が新右衛門という名であるとすると、その家のことをシンエモなどといっています。 大阪府や奈良県などでは、こうして先祖の名を家のよび名にしているものが少なくありません。 ことに、一つの村の姓が同じようなものばかりであるとき、区別してよぶためにも、家のよび名は必要なのです。
     ところがまた、その家の位置を示したものもありました。 山の下にあるので山下、田のなかにあるので田中、川のほとりにあるので川端というようなのがそれで、それをそのまま、明治になって姓にしたのが少なくありません。
     職業をよび名にしたものもありました。 油屋笠(かさ)屋扇(おうぎ)屋酒屋などがそれですが、これも姓にしたのが少なくありません。 扇屋が扇谷になり、酒屋が酒井になったりしています。 かわったところでは、北陸地方で大工だった家に午腸(ごちょう)というのがあり、クジラの見張役をした家で山見(やまみ)(これは和歌山県の熊野で見かけます)、網屋(あみや)津本(つもと)(太平洋岸)など、姓を見ただけでどの地方の人であるかまでわかってくるのです。
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.34)


     家の姓のひろがり

     実盛は加賀の出身だったということですが、わかいときは関東地方にもおりました。 平家物語では、手塚太郎というものにうたれたことになっていますが、いっぱんのいいつたえでは、馬が稲株につまずいて倒れたために敵にうたれ、きのどくな死に方をしたので、稲虫になって害をするようになったなどといっています。 そして昔は田植えのすんだあと、人形をつくって虫送りということをしていましたが、この人形を「実盛さま」などといっています。 きっと田の植えじまいを「サナブリ」とか「サノボリ」とかいっているのをサネモリとなまって実盛に結びつけたのでしょうが、まだまだふかいわけがありそうです
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.36)


     鵜飼の家


     2 命令による移動

     高麗人(こまびと)


     都造りの豪族
     なかにはまた、地方にいる豪族を都によびよせたこともあります。 奈良や京都の都は、じつに大きなものだったということですが、そんな大きな町をつくっても、住む人がなくては何にもなりません。 そこで政府は、地方の豪族を都に集めたのでした。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』や、『三代実録』などという古い歴史書をよんでいると、そのことが出てくるのです。
     また奈良県に、土佐だの豊前(ぶぜん)だの備後(びんご)だのという国の名がついた土地があるのは、奈良の都をつくるためによびよせた地方の人たちを、そのままそこに住まわせたためではなかろうか、といっています。 しかしこれは、しっかりとしたいいつたえも記録もないのでよくわかりません。 けれども、都でいろいろの土木建築事業がおこされると、地方の人はかならずよびよせられて、仕事をさせられたものでした。その仕事がつらいので、逃げ出したという記事ものこっています
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.40)


     城下町と武士


     3 山村の人

     落人(おちうど)の村
     山伏(やまぶし)の村


     山人の移動
     紀伊(和歌山)の山中に住んでいた狩人などは、自分から益良夫(ますらお)といっていたことが、ずっと昔の記録にのこっています。 益良夫というのは、りっぱな武士ということなのでしょう。 この人たちには、山のけわしいことも問題ではありませんでした。 むしろそのほうが、えものも多くてよかったようです。
     狩人は、山から山へじつによくあるきました。 越後(新潟)の狩人などは、山の峰づたいに、まったく家のあるところは通らないで大和の山々までクマをとりに来たということです。 越後の三面(みおもて)だの、羽前(うぜん)の小国(おぐに)だのというところの狩人は、とくに勇気がありました。 ここでは狩人のことをマタギといっています。 この人たちも、きっとあちこちに枝村をつくったと思いますが、今ではよくわかっておりません
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.46〜47)


     しかし日本の山中も、こうしてひらけてきたのでした。 そして思いもよらぬはなれたところに、相似た村ができたわけです。 山ばかりでなく、海にも移動が見られました。
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.47)


     4 海村の人

     移動する漁民

     千葉県九十九里浜地曳網(じびきあみ)のおこりは、弘治(こうじ)元年(一五五五年)紀伊の漁夫が難風のために九十九里浜の南白亀浦(なばきうら)にながれついて、紀州の網の形式をつたえたことになっています。 その後、元和(げんな)二年(一六一六年)に、紀州加太(かだ)の漁師が上総(かずさ)に来ました。 またその翌年にはやはり紀州の湯浅からも来て八手(はちだ)網をつかってホシカをつくり、こやしとして、大阪へ行く船に積んで送ったのでした。 のちには、大地曳網でたくさんのイワシをひきあげてから、紀伊和泉(いずみ)・摂津(せっつ)あたりの漁夫までやってきて、海岸の砂丘の上に〈なや〉をたててそこで暮らし、おわると国へかえりました。 そして、いつかその〈やな〉にそのまま住みつくようになりました。 ところが、この千葉県の漁夫たちはその後だんだん北のほうへ移り住むようになって、青森県下北半島(しもきたはんとう)や、岩手県の海岸で出あった漁夫は、その先祖が千葉から来たものが多いということてした。
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.47〜48)


     アマの家
     日本の海岸には海部(かいべ)とか海府(かいふ)という地名がいくつかあります。大分徳島新潟などですが、もとはアマベとよんだようです。アマと名のつく漁夫たちは、多くは海の底にもぐって、魚や海藻をとりました。 そういうアマの村ならば志摩(三重)ばかりでなく、伊豆(いず)(静岡)にも安房(あわ)(千葉)にもありましたし、日本海のほうでは北九州の志賀白水郎(あま)のむかしから、筑前(ちくぜん)(福岡)鐘崎(かねざき)、長門(ながと)(山口)大浦、因幡(いなば)(鳥取)夏泊、能登(石川)舳倉(へくら)島などがあり、ずっと北の男鹿(おが)半島には、戸賀(とが)というところに男のアマがおります。 この人たちは、漁法がよく似ているし、ふつうの漁夫とはちがっているので、やはりもとはその中心地があり、そこからだんだんひろがっていったものでしょう。日本海岸では、戸賀をのぞいて、たいていは北九州からやってきたようにいっていますが、太平洋岸にも、それに似たいいつたえがあるかもわかりません。
    (《ふるさとの生活 二 人々の移動》P.49〜50)


     漁法と村の古さ
     町や村をしらべる手がかり


    三 今の村のおこり

     1 古い村と家

     大和平野の村
     自分の住んでいる村がどんなにしてできているのだろうか、ということをしらべるには、ずっと昔の記録でもあるとたいへんいいのですが、そういうものののこっている村はそんなにたくさんありません。 またのこっていても、かんたんなものであったり、ときには信用のできないようなことも書いてあります。 しかし、いちおうは記録をしらべてみなければなりません。 記録のないときには、何か昔のものがのこっていないかを見てゆかねばなりません。 神社だとか、寺だとか、墓だとか、田の形や家のつくり方まですべて古いことを知る手かがりになるとともに、そこから、どういうようにして村ができたのかもわかってくることがあります。ただ古い記録だけをしらべたのでは、村がどんなにしてできてきたかを十分に知ることはできません。記録と実施のありさまと、両方をてらしあわせて見てゆかねばならぬと思います
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.54)


     旧家のありさま
     旧家はその村の北のはずれにありました。 とても大きな広いやしきで、前にカヤぶきの長屋門があります。 奈良盆地でカヤぶきの門は、まったくめずらしいものです。 このような門は、九州の米良(めら)の山中で見たことがありますが、そのほかにはあまり記憶もありません。 さてその門をはいると、左側は作男(さくおとこ)の部屋になっています。 右側は牛の〈だや〉が二つならんでいます。 もとは、牛を二頭も飼って百姓をしていたということですから、ずいぶん広くつくっていたのではないかと思います。 牛の〈だや〉の後に肥(こや)し小屋があります。 左のほうは塀になっていて、その内側は〈せんざい〉です。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.55〜56)


     母屋は大きな草ぶきで、入り口は一間(けん)もありますが、いざというときには、二間もあけられるしかけになっています。 入り口を入ると土間ですが、右側はうまやになっています。 主人が馬にのって出あるいたのです。 うまやの裏側がみそ部屋になっているほか、土間にはカマドと井戸があり、カマドの向こうに女中部屋と湯殿があります。 左はざしきになっています。ざしきは二段になっていて、奥のほうは一だん高いのです。 低いほうのだいどころには、大きなイロリがきってあって、板の間です。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.56)


     昔は、そのイロリのほとりに作男や女中たちが集まって、仕事をしたり話をしあったりしたといいます。ざしきが二段になっているのは、きっと昔の殿様たちがこの家へあそびに来たために、殿様のいる間を一だん高くしたのだろうと思いました。 さて、いよいよその家の人たちと話をしたり、古い記録を見せてもらったのですが、その家がそこへやってきたのは、思ったほど古いことではなく、今から四百年ほど前のことです。 それまでは、その近くの今井という町に住んでいたようです。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.56)


     やしきのなかも見せてもらいましたが、庭の隅に先祖をまつったという宝篋印塔(ほうきょういんとう)がありました。 しかしよくしらべてみると、四百八十年ほど前のもので、坊さんの墓だとわかりました。 その墓を、その家でも大してていねいにはまつっていないようです。 また庭のなかには、五輪塔という古い形式の墓のかけらがいくつもごろごろしているのです。どうやら昔は、墓地であったところをやしきのなかへとり入れたようです
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.57)


     2 村の氏神(うじがみ)

     宮座(みやざ)
     またこの地方には、古い神社のある村がたくさんあります。 今から千年も前の記録にその神社の名が出ているので、地方の人たちはそれによって、村の古さをほころうとすることがあります。 しかし、そういう社はその土地にもと住んでいた豪族の氏神だったものが多かったのでした。 ところが豪族は都に移り住むようになって、あとにのこったものがこれをまつることにしたのです。 ですから、村人にとってはほんとうの氏神さまでないものがあくさんあります。
     このようにして、村の人がまつってゆくのに、力もあり財産もある古い家がその仲間に入る風がありました。 これを「宮座(みやざ)」といってます。 あとから来たものは、なかなか仲間に入ることができなかったもので、やっと仲間に入れてもらったが、お祭りのときは、お宮で別のところにすわらされるという例もあります。 これを「新座(しんざ)」といっているところがあります。 このようにして、村の古い家と新しい家を知ることもできるわけです。 ですから古い神社があっても、最初にそれをまつった家が今もそこにのこっていることは少なく、つぎつぎに新しい人が加わってゆきました。 宮座はこのほか、まだいろいろちがった原因でおこっています。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり》P.59〜60)


     先祖のまつり
     神社と自分の家と、どういうかんけいになっているかをしらべてみるのもまた大切なことです。 土地によると、本家にあたる家で小さいほこらをまつって、それを氏神といっているのがあります。 九州の南のほうや、中部地方、関東地方にも見かけます。
     長野県の諏訪湖(すわこ)に近いところでは、祝殿様(うえーでんさま)といっている例もあります。 たいてい秋のおわりにお祭りがあり、一族のものでおまいりして、本家でごちそうになるのです。 こういう社は、その家がそこへおちついて以来できたものであり、先祖をまつったものといわれています。 本家にあたる家はみなまつられているので、村のなかにいくつとなくあるわけです。 そのほかに、村の氏神というのを別にもっているところもありますが、ほんとうの氏神ではありませんから、それほど親しみをもっていないわけです。 むしろ家の氏神のほうが、社が小さくても、家の人には親しみがあるわけです。 だがこの小さい氏神のおこりは、あまり古くはないと思います。
     それからまた神社があっても、そこの村人とは大してかんけいなく、神主が昔からちゃんといてお祭りをしているというのがあります。 そういうになかには、むかし荘園(しょうえん)のあったころ、その鎮守神(ちんじゅのかみ)であったものが少なくありません。 そういう社には、宮座もおこなわれていないのが多いのです。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり 》P.60〜61)


     神社の整理
     ところが、こんなにしてたてられたお宮の数はたいへんなもので、あまり数が多いので、整理しなければならないとして、明治のおわりごろ、大きな神社へ小さい社を集めたことがありました。 そのとき、家々の氏神まで集めたところがあり、私は九州の米良(めら)の山中で、神社の森のなかに、何十というほど小さいほこらのあるのを見ておどろいたことがありました。 村の人たちは、今もその小さいほうの氏神を大切にしていますが、大きい社の祭りは神主にまかせきっていました。
    (《ふるさとの生活 三 今の村のおこり 》P.61〜62)


     3 寺と墓

     宗門帳
     古い墓
     地主様(じぬしさま)


     4 村の形とおこり

     集村と散村
     村の古いか新しいかは、家がかたまってあるか、ばらばらになっているかでも、だいたい知ることができると思います。 古くは、かたまって住んでいたようです。 貝塚時代の遺跡を見ても、登呂や唐古(からこ)の弥生式時代のすまいのあとを見ても、家はだいたいかたまって建てられています。 外敵をふせいだり、天災地異にそなえたりするために、人々はどうしても集まって住み、力をあわせてこれをふせごうとしたのでしょう。 ことに、日本がまだあまりひらけていなかったときには、けだものもたくさんいて、田や畑をあらしたはずです。 今でも丹波(京都)や播磨(はりま)(兵庫)の山中をあるいてみると、田や畑のまわりに、木や竹で丈夫な垣をつくったり、高い石垣をつみあげたりしてあるのを見かけますが、これは「シシガキ」といって、イノシシの侵入するのをふせぐためです。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.66)


     いまから四、五百年も前の絵巻物などを見ても、田畑のまわりに、のつくられているものがたくさんあります。ですから、土地をひらいて百姓をするにしても、なかなか骨が折れたのです。徳川時代のおわりごろ、江戸から長崎まで旅行し、とちゅう東海道の掛川から別れて、秋葉山から戸倉熊(とくらくま)を経て三河の鳳来寺(ほうらいじ)にまいり、東海道に出た司馬江漢(しばこうかん)の『西遊日記』に、戸倉の村で一人のおばあさんから、
     「昼はサルの番をいたし、夜はイノシシを追います。 ごらんの通り、畑のまわりにかこいをいたします。 サルはそのかこいをとびこしてムギやヒエをあらします
    と、こぼしているのをきいていますが、その夜はまた能の庄屋の家へとまって、夜ふけにイノシシを追う声をききました。 同じように、下関(山口県)の近くでも、イノシシを追う声をきいたとありますから、そのころは、日本じゅうにたくさんのけだものがいて、百姓のさまたげをしたのでしょう。



     同じころに、将軍が小金原(千葉県)でイノシシ狩をしたら千頭もいけどりにすることができた、という日記ものこっています。 そのようなさまは、時代がさかのぼるほどはなはだしかったと思います。 そういうとき、ぽつんと一軒だけ住めるものではなかったでしょう。 ですから古い村はたいていよくかたまってできているのです。 田がだんだんひらけるようになっても、やはり一ところに集まって住んだようで、大阪、奈良、兵庫、滋賀などの条里制がおこなわれたところの村々は、集村になっています。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.67〜68)


     しかし、世の中が平和になり戦争もなくなってくると、家は耕地のほとりにあるほうが便利です。 新しい土地をひらいてそこに住みつこうとするものは、しだいにばらばらに家をつくるようになりました。 富山平野の村々は家がまったくばらばらになっており、その家々がみな林につつまれているので「カイニョ」とよばれ、ここを旅行する人たちにはすぐ目につくので有名になっています。 こういう家が散らばってできている村を「散村」というのですが、島根県の簸川(ひかわ)平野や東北地方の北上(きたかみ)平野、秋田県仙北(せんぼく)郡の平地などはみな散村なのです。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.68)


     名田の村
     大阪や奈良の平野がたいへん早くひらけたのに対して、国のはしのほうや山のなか、海のほとりは木や草がしげりあって、人もあまり住んではいませんでした。 そういうところをその近くの力のある人が、ほかの人々といっしょにひらいたというのがあります。 政府やその土地を持っている人からゆるしをうけてひらいてゆくのですが、なかには、租税のかかるのを少なくするために、隣の領分へ入りこんでひらき、こちらからつくりに行くというのもありました。 そうしてひらけた土地を「名田(みょうでん)」といい、ひらいた人の名をつけてよぶこともありました
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.70)


     今から五、六百年も前の記録をよんでいると、人の名のついた名(みょう)がたくさん出てきます。 そして、そのようにしてひらけた土地は、関東地方に多かったのでしょう。 徳川時代に、村長にあたる役目を、東日本では、名主(なぬし)とよんでいるところが多いのです。西日本では、庄屋というのが一般です。 庄屋は荘園にかんけいのある言葉であり、荘園は「たどころ」ともよみ、名田より前にひらけていた土地なのです
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.70〜71)


     さきにも書いた阿波の祖谷山(いややま)は、落人の入りこんだところといわれているので、ほんとうの名田百姓の村とはいえないと思いますが、名田の盛んにおこなわれたところにひらけた土地なので、そのころのようすを今もうかがうことができます。 そこは今でも三十六名(みょう)とて、村の数が三十六もあったといわれ、その名のなかには徳善(とくぜん)、重末(しげすえ)、友行(ともゆき)、善徳(ぜんとく)などという昔の人の名まえのついているものが少なくありません。 たぶん、ひらいた人の名なのでしょう。 だいたい古い地名は、その土地の地形目じるしになるものにちなんだのが多いのです。 けれど、人が住むようになり、さらにその土地をひらいてゆくと、こうして人の名もついてきます
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.71)


     このような、名田をたくさん持っている地主が大名(だいみょう)であり、少し持っている人が小名(しょうみょう)です。古代の村とちがうところは、名主(みょうしゅ)(地主)と下作(小作)との間が密接で、名主は単に地主というだけでなく、そこに住む人をも自由にし、また名主の家の仕事にしたがわせたほか、名主が戦争に行くときには、ついてゆかせました。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.71)


     豪族のひらいた村
     租谷山のように、戦争にまけて山中にかくれ、村をつくったものは、ほんとうは政府や領主に届け出をするわけでもなく、できるだけ人にしられぬように土地をひらいて住むので、これを「隠田(おんでん)」といっております。 また隠田ではないけれど、何かの事情で、武士であったものが百姓になったというものも少なくありません。 そうした村が、戦国時代のおわりごろからたくさんできました。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.72)


     草分百姓(くさわけひゃくしょう)の村
     力のある人にひきいられていったところもありましょうが、村のなかの二男や三男や、あるいはつくる土地のないものが、六人なり七人なりで、新しい土地を見つけ、あらまし土地を分けあって、つごうのよいところに家をたて、その家のまわりをひらいてゆきます。 そうした最初に入りこんだ家を「草分(くさわけ)」といいました草分五軒草分七軒などといったり、またあの家は草分の家だ、などといっているのは、そういう家です。 その家からだんだん分家が出たり、よその土地の人もやってきて、家数もふえてきました。 しかし、草分の家だけは大切にせられ、山梨県の秋山という村では、徳川時代に、その草分の家が一年交代で名主(今の村長)をしたということです。 けれども、それはこの村だけでなく、ほかにもあったことでした。 こういう場合には、村のなかで、特別に財産の大きい家は少なくて、みんなで仲よくしているとともに結婚も村のなかどうしでしているものが多いのです。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.73〜74)


     新田の村
     ところが、百姓が自分たちで勝手に土地をひらいたばかりでなく、徳川時代には、大名や幕府のすすめによって、村がそのゆるしをうけて共同で土地をひらいたり、役人が命令してひらかせたり、また金のあるものが大名からゆるしをうけて、人をやとってひらいたりすることが多くなりました。 それを「新田(しんでん)」といっています。地図をひろげて見ると、関東平野には、新田のついた地名がずいぶんたくさんあって、かぞえきれないほどです。 これらの村は、徳川時代になってひらけた村が多かったわけです。
     しかし、新田のことを土地によってはいろいろによんでいます。 青森県の津軽のほうをあるいて見ると、「派立(はだち)」というのがたくさんありますが、それが新田のことです。 秋田県では「羽立(はだち)」とも書いています。 山形県の庄内(しょうない)平野では「興野(こうや)」、新潟から福井までの間では「新(しん)」、瀬戸内海沿岸で海をうめたてて田にしたところを「新開(しんかい)」とか「開作(かいさく)」とかいっています。 そのほか今在家(いまざいけ)出屋敷(でやしき)出(で)開(ひらき)などという地名のついているところは、徳川時代にできた村が多いのです。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.74〜75)


     郷士(ごうし)と開拓
     高知県では、このように土地をひらいたものを武士にとりたてました。 戦国時代には、この土地に長曽我部(ちょうそかべ)という強い大名がいて、勢いをふるっていましたが、関ケ原の戦にまけて、徳川氏に土地をとりあげられ、そのあとへ山内一豊(やまのうちかずとよ)が大名としてやってきました。 けれどももとの長宗我部の家来だったものは、なかなか山内氏のいうことをききません。 とうとうしまいには、大きな争いまでおきたのですが、長宗我部方がまけて、たくさんの人がころされました。 それでもなお、長宗我部の家来はなかなかいうことをききませんでした。 そこで、山内氏の家来で野中兼山(のなかけんざん)という人がいろいろ考えたすえ、高知の町の東につらなるあれはてた土地を長宗我部の家来にひらかせ、その土地は、その人たちにやった上に、武士にしてやろうと〈ふれ〉を出しました。 すると、今まで反対していた人たちも自分の手下や仲間のものとやってきて、この土地をひらくようになりました。 はじめ、百人ほど開墾(かいこん)にかかったので、これを「百人組」といいました。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.75〜76)


     このようにして武士になった人たちは、一般の山内氏の家来のように、高知の城下にいなくてもよかったから、自分の家にいて百姓をしたり学問をしたりしました。 そして正月だけ、高知の城の殿様のところへあいさつに行きました。 これに成功したから、さらにつづいて長宗我部の家来たちをよびよせ、新しい土地をひらかせました。 これを「百人組格」といいますが、この県はまた、山の奥までじつによくひらけているのです。 ずいぶんけわしい山の上まで畑になっており、コウゾトウモロコシダイズなどをつくっています。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.76)


     このように、開墾して武士になったものを郷士(ごうし)といいましたが、郷士のいたのは、高知県だけでなく、どこにもたくさんおりました。 宮崎県米良(めら)や奈良県十津川の人たちは、一軒のこらず郷士だったのです。 これはまた、そのなりたちがちがっていますけれど、武士としてみとめられながら、百姓をしていたことだけは土佐と少しもかわりありません。 そのほか、鹿児島県山口県京都府の南部、山形県の米沢付近には、たくさんの郷士がおりました。 そしてのちには、そういうところからたくさんりっぱな人材が出ました
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.76〜77)


     地割(じわり)制度
     高知県の郷士は、自分で引きうけて開墾したものは、全部自分のものにし、その仕事に使った人々を小作人にして、広い土地を持ったのですが、村請(むらうけ)で新田をひらく場合には、仲よくひらいた土地を分けることもありました。 しかしその土地を分けるのに、租税のかんけいや、また川のほとりなどで大水があったとき、一人だけ大きな被害をうけるようなことがあってはならないとて、土地をおなじように分けて何年かつくり、またくじをひいてそのくじのあたったところをつくるという地割制度をとるところもありました。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.77)


     新潟県の信濃(しなの)川の下流や岐阜県、三重県の木曽川の下流にはそういう水田がたくさんありました。 これは徳川時代のはじめごろ、租税をうまくとりたてるために、土地をくじびきで交代させてつくらせることを命令した藩がたくさんありましたが、その方法をならったものでしょう。 高知県のうち、郷士たちが開墾した以前の土地は、みな地割制度になっていましたが、そのほかにも鹿児島県、佐賀県、愛媛(えひめ)県のうち宇和島地方、石川県などをはじめ、瀬戸内海の島のなかにもいくつかそういうのがあり、ずっと東のほうでは、福島県の二本松がそれでしたが、だいたいでは、西日本に多かったのです。 今わかっているのは、ほとんど徳川時代にはじまったことになっていますが、民間には、きっとその前からもこのような方法をとっていたところがあったと思います
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.77〜78)


     しかし、東日本にそれの少なかったのはなぜでしょう。 それは、たびたびおきる〈ききん〉のためではなかったかと思います。 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩のなかに、「サムサノナツハオロオロアルキ」というのがありますが、東北地方には、雨が多く夏でも寒い年があって、そのために米などが不作になり、〈ききん〉が多かったのです。そういうときのそなえのために、つねからたべものをのこしているようにしましたが、それはなかなかたやすいことではありません。 そこで村の中心になる勢力のある家が、できるだけ多くの食物をたくわえておいて、いざというときに使うようにしたものと思われます。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.78)


     〈ききん〉のもっとも多かった岩手県地方へ行って見ますと、こうして、どこの村にもたくさんの土地を持ち作男(さくおとこ)や下女をたくさんつかい、また名子(なご)といって、せわしいときには手伝わせる小作人たちをおいている地主がたくさんいました。 そういうしくみは、ずっと昔の村のありさまをのこしているものと考えられ、またその地主の下ではたらいているびんぼうな百姓たちの生活は、いかにもきのどくでしたけれど、こうしておれば飢え死にすることも少なかったのです
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.78〜79)


     このことについては、学者たちがいろいろにいっております。 私もまたこの地方をたびたびあるいて見ましたし、西日本の地割がおこなわれているところも見てあるきました。 そして、なぜ両方にこんな差ができたかというと、いちばん困ったときをどうしてしのいでゆくかということから、昔のしきたりと土地の条件にしたがって村をつくったことがその原因だと思うのです。 すべて、こういうように新しく土地をひらいて住みついてゆくときには、人はみな、自分のいちばん困ったときのことを考えて、そのときをきりぬけることに重点をおいて村をつくったようです。 それを力のあるものが悪く利用したこともありますが、何とかして世の中を住みよくしようとする努力は生きとし生けるもののなかにあったといってもいいと思います。
    (《ふるさとの生活  三 今の村のおこり》P.79)


    四 村のなりたち

     1 開墾(かいこん)

     土地占有のしるし

     奈良県吉野郡天川村(てんのかわむら)できいたことですが、ある土地をひらこうとするとき、一年前に、その土地の四すみに杭をうってシメを張りました。 それを「ジモライ」といいましたが、これで山の神が土地をくれたことにかるのだ、といっています。 また福井県の石徹白(いとしろ)(現・岐阜県)という白山(はくさん)の村では、たきものをとったり、焼き畑をひらいたりしようとする場合に、たとえそれが自分の持っている土地であっても、三年以前に、またになった木をそのあたりの立木の枝にかけておきました。 これを「カギヲカケル」といいました。
     そのほか、草刈りなどするときでも、一メートル半ぐらいの木を目的地にたてておき、これを「ツツダテ」といいました。 木を持っていないときは、生えているカヤの穂さきを集めてくくっておいてもよかったのですが、こうすれば、他人は鎌を入れなかったのです。 これはただ、ほかの人に示すだけの目的ではなかったと思います。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.80〜81)


     土地の神

     こんなにはっきりしていなくても、田や畑のなかに神さまをまつっているものはたくさんあります。 そのなかには、土地を守っている神さまもたくさんあるでしょう。 高知県では、田のほとりに「オイゲサマ」という神さまをまつっています。 みんな「御神母」と書いているのですが、神母と書いてなぜイゲとよむのか、まだはっきりわかっていません。
     鹿児島県へ行くと「田ノ神」などと書いた石碑(せきひ)がたっています。 みの笠(かさ)をつけた石像もあります。 田の神さまをまつったものですが、中国地方の山中や関東地方では「地神」と書いた石のたっているところがたくさんあります。 春の社日(しゃにち)の日にお参りをするそうです。土地によっては、その畑をひらいた人をまつったものも少なくありません
     こうして、土地をひらくには、神のゆるしが必要だし、またひらいた土地は、神に守ってもらわなければならなかったのです。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.84)


     木おろし


     焼き畑
     大きな木のない場所では、木をきるのはたやすいことです。 しかし、それでも、もとはみな儀式やとなえごとがあったと思われるのです。 高知県の山中に、寺川という二十戸に足らぬ村があります。 その土地のことを書いた二百年ほど前の書物に、木をきって山をやくとき、「山をやくぞう、山をやくぞう、山の神も大蛇どのも、ごめんなされ、ごめんなされ、はう虫ははうてゆけ、とぶ虫はとんでいね、ひっこむ虫はひっこめ、あぶらむけそうけ、あぶらむけ」ととなえたとあります。そしてそのやいたあとに物をつくったのですが、これをふつうには焼き畑といっており、ハタを火の田と書いたわけもよくわかってきます
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.85〜86)


     しかし、土地によってそのよび方はちがっていて、九州では「コバ」または「ヤボ」、四国では「キリハタ」、近畿から中部の太平洋に近いほうでは「ヤブカキ」、中部地方の中央山地では「ナギ」、関東山地では「サス」、東北では「カノ」または「カンノ」などといわれています。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.86)


     とにかく、最初はこうして火をかけてやいて土地をつくり、土がやせると、また山にかえして木をはやしていましたが、そのうちあぜをつくったり、こやしをやったりするようになって、やかないハタケもでてきました。 という字がそれで、のほうはハタハタケと区別しているところもあり、こやしでつくるほうのハタケを「ソノ」とか「シラバタケ」とよんでいるところもあります。 そしてこの焼き畑のほうは、日本の山中各地にのこっており、そこで作るものはヒエ、アワ、ダイズ、ソバ、ダイコンなどです。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.86)


     焼き畑は日本だけでなく朝鮮にも東南アジアにもおこなわれている農法です。 そしてもとは、山ばかりでなく平野でもおこなわれていたと思います。武蔵(むさし)という国名のサシは焼き畑からおこった名だという人もあります。 そしてまた、今でも焼き畑の盛んにおこなわれているのは、宮崎県の米良、椎葉、熊本県の五家荘(ごかのしょう)、高知県の吉野川上流地方、奈良県吉野の山中、石川県の白山を中心にした周囲の山地、岐阜県の山地、奥羽地方の山中などです。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.86〜87)


     そのうち、岐阜県や白山のあたりでは「出づくり」といって、焼き畑をすることころに小屋をたてて、そこで夏じゅう暮らしていますが、古くはどこも同じようにでづくりをしていたと思います。昔、日本はお米を租税としておさめており、その租税がなかなか重かったので、百姓たちは租税でとられる田のほうはできるだけ少なくつくって、一方で焼き畑をひろくつくっていたのでなかろうか、ともいわれています。
     そのようにして、焼いてひらいていった土地が、平らなところであると、そのまま毎年つくるようになって、畠がふえていったものと思います。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.87)


     2 親方子方(おやかたこかた)

     人の住む土地条件
     オヤカタとヒカン


     マキの村
     ところが草分(くさわけ)村になりますと、中心になる家が何軒もあります。 一つの谷に一軒、一つのタバ(台地)に一つというように、草分のころには家をつくって住みついたのだけれど、このほうは家来をつれてきてひらいたものが少ないから、家のまわりにそういう家は少なく、本家から分かれた家、すなわち分家がつくられてゆきます。本家と分家と一かたまりになったものが、いくつか集まり、一つの村ができあがります。 この本家と分家のかたまりを、中部地方では「マキ」とか「ジルイ」といっており、関東地方では「ジミョウ」といっています。
     また関西地方の山中では「カブ」とか「カブウチ」とかいいます。 カブウチどうしは墓地も一つになっていて、たいへん親しくしております。 けれども、別にいろいろの仮の親子のかんけいがおこってきます。 村のなかに力もあり、財産もあるひとがあると、その人を親方にたのむ風がある村もあります。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.90〜91)


     仮の親子


     ヌレワラジ
     よそから人がやってきて、そこに住みつこうとするときにも、ほんとうの村人になってもらわねばなりませんから、村の有力な人に親方になってもらって、その村のしきたりにしたがうことをやくそくし、盃ごとをしておちつきました。 これ「ヌレワラジをぬぐ」といい、親方を「ヌレワラジオヤ」といいました。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.94)


     さて、村へはいってきた人は、たとえ四十歳の人でも、その村人としては生まれた赤ちゃんも同じなので、たいていは子供と同じようなとりあつかいをうけたものです。 それほど、村のならわしにしたがうことがやかましかったのです。そういう人に、村のならわしをやぶられては困ってしまうからでした
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.94)


     村のならわしは、いろいろありますけれども、そのなかでも、共有地入会地(いりあいち)をあらされるのがいちばん困る問題でありました。 人々がある土地を見つけ、そこにおちついてひらいていったとき、そのひらけた土地のまわりには、たくさんの山野がのこされています。 だれのものであるか、はっきりしません。 山の上へ草を刈りに行っていたら、向こう側の人もやってきて草を刈っていて、ここは私の村のものだ、と両方が言い張っておおきなけんかになったという話がたくさんあります。 こうして、だれのものでもないという土地が、耕地(こうち)の向こうにひろくつづいて、争いがおこると村々の人は集まって相談をし、入会地ということにしました。 すると、もう勝手にそこへは入れなくて、日をきめていっしょに行くとか、札入れで、土地を分けて草を刈り、たきぎをとるというようにします。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.94〜95)


     3 村の結束

     共有地
     共有地というのは、一つの村でこれは自分たちの村のものだ、ということがだいたいわかっていても、ひらいてもないし持ち主もはっきりしていない、というのを村持ちとして共有になっていたのです。 村人は、そこでたきぎや草をとっていました。 ときには、家をつくる材料もそこでとったし、焼き畑は共有山を利用することが多かったのでした。 また、村に食うことに困り、租税(そぜい)もおさめることができないというものがあると、その山に入らせて百姓をさせ、一人前にたちなおるようにさせました。 これを「ヤマアガリ」といっております。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.95)


     飛び地
     また、広い未開の土地のよさそうなところを、自分の村から少々はなれていても、ひらいてつくりに行くこともありました。 するとその土地はその村のものになりました。 行政上の境がだんだんはっきりしてきて、未開の土地が隣村のものになった場合など、こちらの村の土地が島のように隣村にのこされることがあります。 これを「飛び地」といっています。 関東では「散野(さんや)」ともいいますが、東京浅草の山谷(さんや)町なども山谷は当て字で散野であったと思います
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.96)


     タキギナガシ
     こうして、だんだん土地がひらけてきました。 村の境もはっきりしてきました。 明治になってからは、入会地(いりあいち)を分けたり共有地を村人に分けたりしてしまったことがありますが、昔は、この共有地が生活の苦しいものにとって、何より大きな助けになりました。 ことに、よい木のしげっている山では、たきぎにして売ったり、炭にやいたりしました。 たきぎといっても大きなもので、一かかえもあるような木を川上のほうできりたおし、さらにそれを一定の長さにきって、それに心おぼえのキジルシをつけて川へながします。 あちらこちらに引っかかるのもありますが、だんだん下のほうへながれてゆきます。 それを下のほうでまちうけていて拾いあげ、それをまたこまかにわって、カマドでたけるようにして町の人々に売りました。 川下のほうに大きな町を持つ山奥の村は、今もそれをつづけています
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.97)


     私は、新潟県の信濃(しなの)川の支流で、大きな丸太がいくつも川原にごろごろしているのを見かけておどろいたことがありましたが、それはその奥にある村から長岡の町へ流しているたきぎだということを知りました。 岐阜県の広瀬の奥の村は大垣へ、新潟県の北端の山中の村は新潟へ、山形県の大泉村は鶴岡へ、秋田県仙北郡山中の村は秋田へ、それぞれタキギナガシをしているということをききましたが、おそらく、日本じゅうにおこなわれていたことなのでしょう。
    (《ふるさとの生活  四 村のなりたち》P.97〜98)


     神の祭り
     血のつながりから地のつながりへ


    五 暮らしのたて方

     1 一人前

     成年式

     徳川時代のころには、男も髪をのばしていて、ちょんまげをゆいました。 そのころ、子供たちは、前髪をたてて髪をゆうていたのです。 そこで前髪のあるあいだは、子供の仲間で、子供のあいだは「幼名」といって、子供の名がついていました。 それを、十五歳のときに前髪をそりおとして、大人のような髪をゆうのです。 このことを「元服」といいました。 しかし、十五歳とはっきりきまっているわけではなく、土地によっては十六歳、十七歳というところもあります。 さらに以前には、この年になると、貴族の子供たちは、宮廷から元服の日に冠をたまわるのが例であって、これを「烏帽子着(えぼしぎ)」ともいい、そのことばは今ものこっています。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.102)


     女子のほうは、十一歳から十五歳のあいだに成年式をしました。 ずっと昔には、裳(も)−−すなわちはかまをつけたので、「裳着(はかまぎ)」といっています。 また「オハグロ」もつけました。 オハグロは「カネ」ともいい、歯を黒くそめます。 それは、もう子供ではなくなったというしるしなのです。 のちには、大人になるときはつけないで、お嫁にゆくときに、カネをつける人もあるようになりましたが、女がカネをつけなくなっても、成年式のとき、仮の親になってもらう人を「カネオヤ」とか「フデオヤ」とかいいました。 フデはカネをつけるときに用いるフデのことで、仮の親がそれをやることになっていたのです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.102〜103)


     一人前の修業
     それが、名前だけの一人前であってはならぬので、若い人たちは、力持ちやら仕事やらを競争でおこなって、早くほんとうの一人前になろうとしました。 ですから、どこでもずいぶんすもうがはやりました。 夕はんがすむと、月夜のあかるいときなど、辻(つじ)に集まってすもうをとるのです。 すると、だんだん力じまんのものができて、となり村へもおしかけていく、というようになり、あちらでもこちらでも、すもうがはやりました。そういうなかの力のつよい人たちが死にますと、その墓を村の道ばたなどにたてました。 関西地方の村々をあるいていると、すもうとりの墓をよく見かけます
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.103)


     徳川時代より前には、動力もなければ機械もなく、何をするにも、人の力にたよるほかに方法がありませんでした。人の力が、あらゆる作業のもとになっておりました。 田畑を耕作するにも、物を運ぶにも、すべて人間の力のみでした。 だから、力がつよくなること、仕事上手になることが工夫されたのです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.105)


     一人前の仕事
     百姓仕事について見ますと、田植えは、一日に一反の田を植えてしまうのが、どこでも一人前でした。 昔の田植えは正条植(せいじょううえ)ではなく、なわもひかず、すじもつけないで植えていったので、仕事もはかどりました。そういう人のなかへ、下手な人がまじって植えるとすると、上手な人はどんどん植えてしまって、下手な人はあとにのこされた上に自分の植えねばならぬすじも植えられてしまって、田から出てゆく場所のなくなることがありました。 これを「ツボニナル」といいました。 女としては、みっともないことなので、ツボにならないように、一生けんめいになりました。今は正条植で、一日に七畝(せ)植えるのが一人前といいます。 しかし、上手に植えるものは、一日に二反も植えます
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.105〜106)


     田の草とりは土地によってちがいましたが、一番草は、大阪で一日七畝、山形県は一日五畝が一人前でした。二番草からさきは、一反を一日ですましました。イネ刈りも土地によってちがいますが、一日に五畝から七畝です。 また、牛を使うことができたら、一人前とされておりました。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.106)


     それから、お米はイネを刈って俵(たわら)に入れるまで、一俵について一人役かかるとされておりました。 このようにして、田一反作るのに、二十人役から二十五人役ぐらいかかりました。 しかし周防(すおう)(山口県)の平郡島では、一反に五十六人役もかけているのです。 仕事はあまり下手と思えませんが、小さい島で、小さい田が段々になっている上に田が家から遠くて、そこへ行く時間なども含めてのことと思います。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.106)


     草刈りは、新潟では日中に一駄(だ)刈るのを一人前としました。 大阪では、男がぞうりをつくるのに、一日二十足、わらじならば十五足が一人前であったといいます。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.106)


     女の仕事は布織りが主で、一日一反おるのもあれば、二反おるのもあり、土地によって少しずつ標準がちがっていました
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.106〜107)


     力酒(ちからざけ)
     特別の一人前


     2 共同作業

     共同作業
     こうして、一人前の労力がはっきりすると、手つだいあいをしたり、村仕事をしたりするときに、ごたごたのおこることもありません
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.108)


     一つの仕事をみんなでして、しまいに利益を分けあうようなのを「モヤイシゴト」といいました。 道の修繕やら溝(みぞ)ほりなど、村の仕事を大ぜいでするのを「ブヤク(賦役)」とか「ギムニンソク(義務人足)」といっているところもあり、「コーロク」ともいっています。 これに対して、手つだいあいすることを「テマガエ」とも「ユイ」ともいっています。 ユイということばは、たいへんひろく分布しています。 こちらから手つだいに行けば、むこうからも手つだいに来るので、一種の労力を交換して仕事をすることになるわけです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.109)


     家たて
     まず家たてから見てゆきますと、もとは、家をたてるのに、村の人たちがみんな出て助けあいました。 今ならば、瓦(かわら)でふいている家も多く、大工(だいく)や手伝職の人をたのんで、家をつくることもできますが、山のなかの村などで家をたてるときには、屋根をふくために、どうしてもたくさんのカヤが要ります。 自分一軒の家でととのえることはむつかしかったから、二十軒、三十軒で「カヤダノモシ」とか、「カヤ講」とかいうのを作っていて、一年に一戸から二束(たば)なり三束なりのカヤを、屋根をふく家へ持って行きます。 すると、屋根をふく家でも、たいへん助かるわけです。
     また、そのカヤをとるために、村によると、広いカヤ野を共同で持っているところもありました。 大阪府に萱野(かやの)という村があります。 長野県にも茅野(ちの)というところがありますが、きっと屋根をふくカヤ野があった土地だったと思います。 それを個人で持っていて、売買したこともあります。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.110)


     つぎに、家の柱をたてるところをつきかためます。 これを「イシバカチ」といっている土地があります。「ヨイトマケ」とかけ声をかけるので、「ヨイトマケといっているところもあります。 だれでも、その風景を見かけたことがない、という人はいないでしょう。 このイシバカチのときは、通りかかった人は、みな、たとえ一突きでも手つだうものだといわれていました。 大ぜいの人に手つだってもらうほど、丈夫な家ができると信じていたようです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.111)


     フシンミマイ
     大工も、もとは村の人がやったのですが、そのうちに、大工を専門にする人が出てきて、それだけ村人の手つだいはらくになりました。 そこで、大工がかわって自分たちの仕事をしてくれるのだからといって、家をたてる親類の親しい人は、ごちそうをつくって大工に持ってゆきました。 これを「大工ぶるまい」といいますが、北陸地方では「ゴチョウ」などといっています。 ごちそうを持ってこないで、大工をまねくこともあります。 また親類は、家をたてている家へ、たくさん費用もかかるからといって、お米や酒などを持ってゆくこともあります。 「フシンミマイ」といっています。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.111〜112)


     このようにして、ふしんをする家は、大して費用をかけないで家をたてることができたのです。一方、そのことを帳面にしるすなり、よく覚えていたりして、せわになった人の家をたてるときには、それだけの手つだいや見舞いをしたのです
     家をたてるのは、一生に一度あるかないかのことですが、屋根ふきは、カヤならば三十年に一度ふかねばなりません。 それで、屋根のいたんだ家を順番に、一年に一つか二つずつふいていったのでした。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.112)


     田植え
     大きな地主の田植えともなれば、田植えのさしずをする太郎次(田主(たあるじ))もおり、〔さおとめ〕の人数も多く、太鼓(たいこ)をたたいてうたをうたい、人々を元気づけたといわれていますし、福島県では「太鼓田」という名ものこっています。 中国地方の山中には、「大田植」というのがあって、一枚の田に四、五十にんもの〔さおとめ〕が出て、田を植えることがありました。これはもう、単なるたすけあいというよりは、田の神さまの祭りだったのです
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.114)


     草とりもユイでおこなうことが少なくありませんでしたが、田打車(たうちぐるま)ができて、能率があがるようになってからは少なくなりました。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.114)


     焼き畑の火入れ
     焼き畑をつくるときも、ユイは多かったのです。 広い場所で、木をきったりやいたりしなければなりませんから、どうしてもたくさんの人手が必要でした。 宮崎県米良(めら)などで、焼き畑にする山をきるときには、親類のしっかりしている人を「木きり奉行(ぶぎょう)」といってさしずする人にたのみ、村人のユイできったのです。 よその山をきるときには手つだいに行きました。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.114〜115)


     奈良県吉野の山中では、焼き畑の火入れをするときは二十人も必要なので、ユイで焼いたといいます。 ユイでもなお手の足らぬときは、親類の人などやといましたが、これはただで来てくれたものでした。 また、焼き畑のやぶきりやぶやきをするとき、お嫁にいっている娘は、その主人といっしょに、親のところへぼたもちとお酒を一升(しょう)さげて手つだいに行く風がありました。 それを「ヤブイリ」といいました。 すると、親のほうではおれいにといって、フジの着物を一枚やったということです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.115)


     ハタケウナイ
     関東地方から東北にかけては、畑をひろくつくっているところがあります。 そういう土地では、今では馬にすかせているものもありますが、昔はそういうこともなく、みんな人の力で土をおこしてゆきました。 「ハタケウナイ」といっています。 大きなくわやすきを使っての仕事ですから、たいへん骨がおれます。 それに広い畑のことですから、一人でやっていたのではうんざりします
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.115〜116)


     そこでこんな仕事もユイでやりました。一つの畑に、十人も十五人も出てはたらいているのを、岩手県の北の端のほうで見かけたことがありました。 ときどき、だれかおもしろいことをいうのか、笑い声さえおこることがありました。つらい仕事もたのしくなるのでしょう。 中国地方の山中でも、一つの畑を、たくさんの人がならんでうっているのを見たことがあります。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.116)


     コキバシからセンバへ
     ムギコキ
     草刈り


     3 ユイとブヤク

     ユイ

     このように、骨の折れる村の仕事は、もとはほとんどユイでおこなわれていたといっていいのです。 だからその仲間のうちに、なまけたり不平をいったり、力の足らぬものがあっては、どうしてもうまくゆきません。 みんな同じような力を持ち、仲よくしなければいけません。 そこで一人前ということがとうとばれ、村じゅうが仲よくしなければならないのです。 こういうわけで、村じゅうが仲よくする工夫をしたのでした。 そして、どんなつらいことにもたえて、村をよくし、土地もひらいてきました。それが、便利な機械ができたり、金肥(きんぴ)を多く使うようになったり、またお金のある村人が賃金を出して人を雇(やと)うようになると、ユイはおのずからできなくなります
     これには、いろいろ問題があることです。 みんなで、これからさきの農村のために考えてみたいことです。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.120)


     ブヤク
     ところで、土地をひろく持っている村の大家(おおや)や親方の家など、どうしたのでしょう。 そういう家は、名子(なご)被官(ひかん)小作人(こさくにん)たちからブヤクをとって、いそがしいときに手つだわせました。 「名子のブヤクは三十三日」などといっているところ(岩手)もありますが、一年のうちに三十日から五十日も地主のところへ、土地や家を借りているお礼に、はたらきに行かねばなりませんでした。 そういうとき、はたらき手のなかで、しっかりしたものがクワガシラになってさしずしました。
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.120〜121)


     4 農家の暮らし

     奉公人
     農家の仕事


     郷倉(ごうぐら)
     村々には、不作にそなえて「郷倉(ごうぐら)」というものをつくりました。みなでムギアワヒエなどを出して、その倉のなかへしまっておいて、いざというときに用いたのです。 郷倉は、今でもほうぼうにのこっております。 東北では、昭和九年の大不作のときに、もう郷倉がなくなっていて、たいへん困ったものだから、恩賜金(おんしきん)であわてて郷倉をたてましたが、その後は大して役に立つこともなく、あれはてています
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.124)


     そのように、村の人が共同で食物をたくわえておく風もありますが、家々でたくわえておくならわしもありました。煙のかかったものは、くさらないというので、ツシ(天井(てんじょううら))にたくわえておく場合もありましたが、私が中国地方のある古い家で見たのは、入り口の上に、なわでいくつも俵(たわら)をつりさげていました。いつつったものか、なかに何が入っているかは知らないとのことでしたが、祖先が〔ききん〕のときの用意にそうしておいたのです
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.124)


     東北地方では、ワラビ粉ダイコンを切って干したものなどもたくわえましたが、海岸では、海藻(かいそう)をたくわえた例もあります。今なら交通が便利で、いよいよ困れば、ほかの地方から送ってもらう方法もありますが、昔はそれがむつかしくて、自分にふりかかった災難は、たいてい、その地方でしまつをつけねばなりませんでした
    (《ふるさとの生活  五 暮らしのたて方》P.124)


    六 休みの日

     1 休みのうつりかわり
     新しい休日
     昔の休日の意味
     仕事と休日
     昼寝


     2 正月
     大正月と小正月
     満月と年中行事


     ショウガツハジメ
     さて祭りをするために、神さまを迎えなければかりませんが、それにはふかいつつしみが大切でした。 祭りが大きければ大きいほど、神の気持ちをきずつけないようにしました。 正月は一年じゅうでいちばん大切なおまつりですから、早くから準備をしました。 十二月十三日を「ショウガツハジメ」といっているところが、中国地方や、近畿地方にあり、岐阜(ぎふ)の山中では「ショウガツオコシ」といっています。 この日は、正月のたきぎをきり、すすはきをするので「シバゼック」とか「スストリゼック」といいます。この日から正月に入ると考えて家をきよめました。 そして、この日に門松を山へ迎えに行くこともありました。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.133)


     年神(としがみ)


     ぞうにの意味
     今日では、そのつぎの正月の若水(わかみず)くみぞうにを祝うことが大事な行事のように思われていますが、じつは、大晦日の夜の神迎えや神祭りのつつしみ深い行事のほうが大切なので、神を迎える行事は、いっぱんに物静かなものでしたから、しだいに忘れられてきて、正月の朝のほうがほんとうの祭りのように思えてきたのです。 しかし、正月が神迎えののちの祭りであったことは、ぞうにということばでもわかります。ぞうにはいろいろのものをまぜて煮たという意味で、神さまにそなえたいろいろのおさがりを煮たものだったのです。 九州では「ノーレエ」などといっていますが、ノーレイはナオライの訛(なま)りであり、直会(なおらい)と書いて、神さまにそなえたものをいただくことなのです。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.135〜136)


     幸木(さいわいぎ)
     シゴトハジメ


     鬼追(おにおい)

     節分の夜の鬼追も、もとは六日年や二月八日におこなわれていた行事が、節分(せつぶん)におこなわれるようになったものでありましょう。 節分は太陽暦(たいようれき)であり、現行の太陽暦がいっぱんにおこなわれるようになったのは、明治五年十一月九日のことで、十二月三日を六年の一月一日として、太陽暦にきりかえました。 しかしそれまでに、太陽暦も太陰暦(たいいんれき)のなかへ少しずつ入り込みました。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.138〜139)


     立春(りっしゅん)、節分、八十八夜、夏至(げし)、半夏生(はんげしょう)、二百十日、冬至(とうじ)などは、みな太陽暦にしたがっている行事だとわかるのは、九州の南や東北地方の片田舎(かたいなか)のように古い行事が多くのこっているところでは、かえっておこなわれていない村々が多いからです。 青森県の東部では、豆まきをするのは十二月二十六日か二十七日にすすはきをすませたあとなので、
     福は内、鬼は外
     何をつぶす、鬼の目だまを打ちつぶす

    といってまきます。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.139)


     小(こ)正月
     大正月に対して小正月はほんとに民間の正月であり、百姓の正月だったという感じがします。 まずケズリカケとかケズリバナというものをつくります。ヌルデミズブサの木のようなものをうすくけずって、その端は、木につけたままにして花のようにするのです。 それを神様にそなえます。 かんたんなものになると、木に鎌(かま)をうちこんで、四、五ヵ所にきずつける程度のものもあるのです。 日本の南の端から北の端まで、少し田舎(いなか)へ行けばのこっていますから、もとは日本じゅうにおこなわれていたものでしょう。 ケズリバナはホダレともいわれ、この言葉は各地にあります。 ホダレはすなわち穂垂(ほだ)れであって、作物(さくもつ)のよくみのように、というお祝いの心があるのだと思います。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.139〜140)


     田植え式
     デンガク
     モチノカユ
     年占(としうらな)い


     ナリキイジメ
     またくだものがよくなるようにといって、ナリキイジメをする地方も広いのです。 私のふるさとでは、夫婦がそろってカキの木の下へ行って、夫のほうが、
     「なるかならぬか、ならぬときるぞ
    といって(おの)で柿(かき)の木にきずをつけると、女のほうが、
     「なります、なります
    といって、その切り口に持っていったおかゆをなすりつけた、ということをききましたが、のちに、このようなことは日本じゅうにあったばかりでなく、イギリスのほうにもあったことを知って、これらをくらべて見ることによって、なぜそんなことをしたかもだんだんわかってきました。
     なってもらわなければならないのは、木だけではなく、人もいい子をうむようにというので子供たちが棒を持って、若いお嫁さんの尻(しり)をたたいてまわる行事が、これも日本じゅうにあったといってよいほどで、宮城県では「ガッテイ」、山梨県では「オカタブチ」、九州天草(あまくさ)では「ハルマンジュウ」といっています。 いま子供たちが「お尻まくりはやった」などといって、尻まくりのあそびをしているのを見かけますけれど、〔はらみうち〕のなごりではないでしょうか。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.147〜148)


     鳥追い
     カマクラ


     モグラオイ
     そのほか、「モグラオイ」といって、モグラを追う行事は全国的といってよいのです。 九州では、子供たちがのさきにわらをつけたもので、土をうってあるくところがあります。 「モグラウチ」といっています。 滋賀県彦根(ひこね)では子供たちが拍子木(ひょうしぎ)や金だらいなどをたたいて、
     まんまこどんの おうちにかァ
     おるうす おるうす

    といって、モグラを追います。福島県岩城(いわき)(現・いわき市)郡では、わらをうつツチボウになわをつけて畠(はたけ)のなかをひきづりながら、
     なまこどんのお通りだ むぐろどん おるすかい、おるすかい
    といって、一人があるくと、ほかの一人がうしろから、
     おるす、おるす
    といって、畠の土をふんでゆきました。 そのほか、これに似た行事がたくさんあります。
     兵庫、京都、大阪、福井の各府県には「キツネガリ」というのがありました。 子供たちがおこなったものです。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.151〜152)


     年祝(としいわ)い
     ただよいことがあるように、悪いものは去ってしまえ、というだけではいけません。 みんなが一生けんめいに働かなければ、よいくらしをたてることはできません。 そこで、かせぐことをすすめてあるく人もありました。 「カセドリ」「カサドリ」「カセダウチ」「カセギドリ」などというのです。 東北では子供が「ケッコロケッコロ」と、にわとりのなきまねをしてあるきます。 たいていは、家々から餅(もち)などもらうのです。 のちには、びんぼうなものが顔をつつんで家々をまわって、餅をもらうようになり、「トヘトヘ」「トヨトヨ」「ホトホト」などともいっていますが、もとはそんないくじのないものではなく、正月の神として人々をいましめてあるいたのでしょう。
     秋田県男鹿(おが)半島の「ナマハゲ」はその神の姿に近いものかもわかりません。鬼の面をかぶり、みのをつけた二人のものが、手には木製の大きな刃物(はもの)など持って「ウォー、ウォー」といいつつ家々をまわり、親のいうことをきかない子などをいましめてあるきました。 だから、悪太郎はかくれまわったのですが、ナマハゲは家のなかをあらあらしくさがしました。ナマハゲというのは、ナモミハギのことです。 ナモミというのは火あざのことで、こたつなどにあたっていると、股(もも)や足に赤い斑点(はんてん)がつきます。 それをはぎとるというわけでしょう。 男鹿半島ばかりでなく、岩手県の海岸にもこんな行事がありました。
     ところが、ずっと南のほうの、鹿児島の南の屋久島(やくしま)にもありました。 それが大晦日(おおみそか)の夜のことになっています。 そして、そのやってくる神が「トシノカミ」だといわれています。 島のいちばん高いオタケの上から鳴物(なりもの)入りでやってきます。 じつは、若いものが二人でそれになっているのです。 顔はにつくることもありますが、白髪の老人になることもあります。 それが、みのを着ます。 白いほうは竹みの、赤いほうはシュロみのを着るのです。 子供たちは家々で正座(せいざ)して待っています。 その子供の前で刀をぬいてふりまわし、子供の名をよんで、
     「おまえは今度は何歳になるのだが、おとうさんやおかあさんのいうことをきかないし、また何月何日にわるいことをした。 もう一度すると年をとりもどすぞ
    といいます。 子供たちは、それがよくあたるので、おどろいてつつしんできいています。 トシノカミは、やがてオタケのほうへかえってゆきます。トシノカミの来るのは、十歳までの子供の家でした。 この島からあまり遠くない鹿児島県の甑島(こしきじま)でも「トシドン」という神さまがやってきて、よい子にはみやげ物をおいてゆきました。
     東北でも西南でも、今は子供をはげます神さまになっていますが、もとは、すべての人々をさとす神であったと思います
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.152〜154)


     火祭り
     小正月はまた、大正月の門松(かどまつ)や松かざりをやく日でしたが、長野県の松本平(まつもとだいら)では、子供たちがそれで小屋をつくり、「サンクロウ(三九郎)」という神をまつります。 この小屋はあとで火をかけてやきました。 この行事も各地にありますけれど、大正月よりも、小正月のほうが盛んにおこなわれている東北地方には、この行事が少なくなります。西日本では、この行事を「サギチョウ(左義長)」とか「ドンド」とかいうところが多いのです。 この火まつりは、サイの神の前でおこなわれることが多いのは、わけのあることでしょう。
     栃木県福島県では、子供たちが松かざりで小屋をつくるまでは、長野のほうとも同じですが、その小屋にいて鳥追い歌をうたうので、「鳥小屋」といっています。十四日のばんか十五日の朝、これに火をかけてやきます。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.154)


     正月の意義
     年神(としがみ)送り


     3 盆

     


     七月七日

     七月十一日は、「オハナトリ」とか「ボンバナムカエ」とか、いろいろにいっており、山へ花をとりに行きますが、先祖は、この花といっしょに子孫の家をおとずれてくるものと考えたところが多いのです。 正月の松迎えに、たいへんよく似ており、遠くから来る神さまやたましいには、かならず目じるしになるものが必要でした。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.159)


     生き盆
     盆棚(ぼんだな)
     盆の火祭り


     ボンガマ
     また小さな子供たちが、家の前にカマドをつくって、家から米やナスをもらってきて、炊(た)いてたべる風が全国に見られました。 「ボンガマ」といわれていますが、「カドママ」(和歌山)、「ツジメシ」(岐阜)などといっているところもあります。 たぶん盆の仏とのクイワカレだったのだろうといわれていますが、盆おどりは、こうしてへ集まっておこなう仏の祭りをもとにして、盛んにおこなわれるようになったものと思います。 そして、子供のままごとあそびも、ボンガマの行事のなごりではないでしょうか。
     盆のおわりは、七月二十日としている土地もあり、二十四日を「ウラボン」といっている地方もあります。 正月の二十四日は、関東地方−−とくに伊豆の島々では「キノヒ」などといって、つつしみぶかくしていなければならなかった日なのですが、七月二十四日もそれにかんけいがありそうです。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.163〜164)


     タノミノセック


     4 農業と年中行事

     地神(じがみ)祭り
     ハルゴト


     サオリとサノボリ

     今でも田植えのはじめの日を「サオリ」とか「サビラキ」とかいっているところがあります。 そしてというのは田の神のことなのです。 また田の植えじまいの日を「サノボリ」とか「サナブリ」とかいっています。 田の神がのぼってゆく日だったのです。 この日、実盛(さねもり)人形をつくって、それにイネの悪い虫を背負わせて送る「虫送り」の行事がもとはひろくおこなわれていましたが、盆の仏送りとたいへんよく似ているのです。 ムギわら船を子供たちがかつぎ、田のほとりをまわって、鉦(かね)と太鼓(たいこ)ではやしながら、
     送った 送った
     ウンカの神 送った

    とうたいます。 このような虫送りの行事は、関西地方に盛んなのですが、青森県津軽(つがる)地方へ行くと、わらで大きなヘビをつくって、村はずれまで持っていって、木の枝などにかけておきます。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.169)


     祇園(ぎおん)まつり
     名月(めいげつ)の夜
     豆名月
     イノコ
     アブラシメ


     行事の複合
     以上のように見てゆきますと、農業にかんけいする祭りは、もと月のまるいときにおこなわれたものがきわめて多いのです。 そして、このような祭りが最初にあったのでしょう。 しかしシナからの新しい暦がおこなわれるにつれて、新しい行事がおこなわれ、また仏教の影響をうけて、いろいろの祭りがはいってきました。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.172〜173)


     シナからの影響と思われるものは、まず節句です。 正月、三月、五月、九月などがあります。 しかしその祭りの内容は、日本のものらしくなっています。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.172)


     仏教の影響によるものは、盆の行事がもっとも大きく、二月のお釈迦さまのネハンエ、四月八日の潅仏会(かんぶつえ)、春秋の彼岸(ひがん)、旧暦十一月の大師講(だいしこう)などがありますが、そのまつりは、やはり、もともと日本らしい別の行事のあるところへ、新しい行事がくっついてという感じがします。 たとえば、四月八日は近畿、中国地方では「テントウバナ」といって、さおのさきにツツジなどの花をくくりつけてそなえたり、山の上へあがってあそんでくるというのは、お釈迦さまとはかんけいのないことだし、十一月の大師講ももとは家の氏神祭(うじがみまつ)りだったのではないかと思います。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.172)


     今まで書いてきた祭りは、土地によっては、もうほろびているものがたくさんあります。 そしてお祭りといえば、神社の祭りばかりが頭に浮かんできますけれども、もとはそうではなかったのです。祭りをすますと、神さまは遠いところへかえってゆかれたもので、神さまの来る日には、田畑の仕事をやめておまつりしたわけです。 だから、ただ休むのではなく、休んでおまつりすることによって、守ってもらおうとしたのです
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.173〜174)


     田舎の年をとっている人たちが、休みといえばきれいな着物を着、よい物を食べる日だと考えているのはそのためで、こんな日を「ハレ」といい、つねの日を「」といってケとハレとは着るものもたべるものも区別していました。 今のように、いつもきれいな着物を着てあるいている町の人のようなわけにはゆきませんでした。 それだけに、だれにもハレの日は待たれたので、その日をまちつつ働き、つつましい神の祭りもはなやかなものにしてきたのです
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.174)


     それでは、これからさきの休みの制度を、どういうようにとり入れてゆけばよいでしょうか。こんどの戦争のおこる前には、町と村の生活の間には、たいへんな差ができていました。それがもとで、戦争中に疎開(そかい)やそのほかのことでずいぶん両方がこまりました。 これからは、そういうことのないように、村の生活の高められる方法がとられるとともに、町に住む人たちも、村人の生活を十分にわかってほしいものです。
    (《ふるさとの生活  六 休みの日》P.174)


    七 ひらけゆく村

     1 交易(こうえき)

     市(いち)のなりたち

     秋田のある町で、ちょうどお正月もまぢかにせまった雪の中で市を見たことがあります。 雪の上に、百姓の女たちが物をならべて売っています。枯れた菊の花や造花が二十本ほど、雪の上にたててあります。 ここでは、枯菊さえが売られるのです。さまやにそなえるためです。 秋にとったものを、できるだけ花の色をおとさないようにしておきますダイコンのつけ物を三十本ばかりならべていねものもあります。 またハクサイを五株(かぶ)ほどならべたもの−−。 そんな店ばかりです。 雪の中を山奥から、一荷(いっか)負(お)うてきたものがならべられるのですから、わずかな量です。 つめたい雪の上に立って、買う人をまっています。それが売れると、そのお金で正月に必要なものを町で買ってかえるとのことでした。 同じ秋田県の北のほうで、夏に見かけた市では、山奥の谷などに野生(やせい)しているミズという植物をとってきて売っているものがありました。 おかずにするためです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.177〜178)


     港と宿場(しゅくば)

     ところが、そのときにはたくさんの家来(けらい)がついてゆき、また荷物もいっしょに持ってゆかねばなりません。 そのためには、それを運ぶ多くの馬や人夫が必要になってきます。 すると、宿場にいる人夫や馬だけでは間にあわなくなります。 そこで、街道にそうた村やその近くの村の人々と馬が、手つだいのためによび出されることになります。 それは、すべて命令で、理由がなくしてことわることはできません。 これを「助郷(すけごう)」といいました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.180)


     町の発達

     行商(ぎょうしょう)
     多くの町は、田舎の人たちが集まって住みついたところですが、町のほうから田舎へ、海岸から山奥へ、というように、一方にはあって、ほかの地方にはない品物を持ってあるいてうる風もしだいに盛んになりました。 京都と大阪のあいだにある大山崎の離宮八幡に仕えていた神人(じんにん)(お宮に奉公している人)たちは、今から五百年あまりも前に、美濃(みの)の国(岐阜県)からエゴマの実を買ってきて、それから油をしぼり、近畿地方をはじめ、中国地方や四国地方まで売りあるいたということです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.183〜184)


     ボッカ
     こうした商人たちは、東海道のようなよい道ばかりを行くことはありません。山のなかの細道や、人もろくに越えない峠(とうげ)もこえなければなりません。 そんなとき、重い荷をもっているのですから自分でせおいきれないときには、人もやとわねばなりません。 ところが、たいていの村には荷持(にもち)の人夫(にんぷ)がいて、それをやとうことができました。 飛騨(ひだ)や信濃(しなの)の山中では、この荷持(にもち)のことを「ボッカ」といいました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.184〜185)


     長野県の山中で、多くの人々がおいしいものとして喜んだ「飛騨ブリ」という魚は、もとは富山県の海岸でとれたものですが、馬やボッカの背によって飛騨にはこばれ、さらにそこから、飛騨山脈をこえて長野県へ持ってこられたのです。 そのあいだに、塩がちょうどよいかげんにきいてきて、おいしくなっているというわけです。 また長野県の天竜川すじへは、三河(愛知県)のほうから、おもに馬によって塩やそのほかのものが運ばれましたが、この馬を「中馬(ちゅうま)」といっています。一人で三頭くらいの馬を追うて、山奥の村へ荷物をはこんだのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.185)


     岩手県の北上(きたかみ)山中の人々は、そこでとれた砂鉄(さてつ)を牛につけて遠くへ売りに行きますし、同じ県の海岸の人々は、を牛の背につけて売りあるいたのですが、その人たちは、夜になると牛もろとも山中に野宿(のじゅく)していたということです。 たいてい一人で、七頭ずつの牛をひいてゆくのです。 これを「ヒトハナズ」といいました。 人もろくに通らぬ道を、北上山脈をこえ、奥羽山脈をこえ、なかには越後(新潟県)あたりまでを売りに行ったということです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.186)


     漁村の女

     2 衣服のうつりかわり

     麻畑
     着物なども、自分の家でつくったものの一つです。 着物は、ずっと昔はフジコウゾや、アサなどを材料にして糸をつくり、布に織ったものでした。 つまり木や草の皮にあたる部分を多く利用したのです。 そのなかでも、アサがいちばん多く使われました。 古い昔には、どこの家にもアサ畠があったものと思われます。 今でも東北地方をあるいて見ると、家の前の畠でアサをつくっているところが多く見られます。秋田や岩手の山中では、このアサ畠を「オツボ」(麻坪)などといってえり、家族一人一人にそのオツボの広さがきまっているので、オツボを見れば家族の人数もほぼわかります
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.188)


     麻糸のとり方
     アサ春にたねをまいて、夏のおわりには刈りとります。 よくのびる植物で、人の背の二倍くらいに達しているものもあります。 それを刈って葉をおとし、よく乾かして束(たば)にし、コシキという大きな背の高いおけに入れます。 コシキの底には、あながあいており、その下には釜があって、水が入れてあります。 そして釜の下で火をたきますと、湯が煮え、その湯気(ゆげ)でコシキの中のアサがむされます。 こうすると、アサの皮がたいへんむきやすくなります。 これをコシキから出して皮をむき、川でさらして、アラカワ(外側の皮)をとり、糸につなぎあわせ、よりをかけるのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.189〜190)


     こういう仕事は、すべて女の仕事で、たいていは夕飯がすんでからおこないました。 糸によりをかけるのには、三百年くらい前までは、テスツムリという道具をつかいました。 台があって、その上にテスツムリをおき、ツムをするもので強くすると、ツムはいきおいよくまわり、ツムをつりさげている糸に〔より〕がかかります。 その〔より〕のかかったのをツムにまきつけ、よりのかかっていない部分でツムをつりさげます。このテスツムリは、今も青森県や秋田県の山中では使われていますし、ルーマニアチェコ・スロバキアのような外国でも、羊の毛をつむぐのに用いています
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.190)


     そればかりでなく、南方の未開人たちも、この方法によって糸に〔より〕をかけているのです。 それが進んで糸車になりました。糸車は、テスツムリよりはずっと便利ですが、テスツムリのほうが〔より〕がよくかかるといって、しぼりをそめる糸や、網(あみ)のつくろいをする糸をつくるために、今でも京都の染物屋や漁村地方では、これを使っているということですこんなにして、古いものものこってゆくわけです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.190〜191)


     糸車は、もとはどこの家にもありました。 女の人たちは夜になるとイロリ火のあかりで、糸車で糸をつむぎました。一人でつむいでいるとねむくなるので、若い女の人たちは、集まって話したり歌ったりしながらつむいだのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.191)


     つむいだ糸は、機(はた)にかけて織りました。 その機もずっと昔は、いま南洋の未開人たちの使っているものと、まったく同じ型だったようでしたが徳川時代にはジバタになっていました。 そして明治時代になると、タカハタが使われるようになりました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.192)


     アイとベニバナ
     糸を染めるにも、昔は草や木の皮を多く用いました。 東北地方では、カシワの木の皮が多く用いられたようです。東北地方の夏は、ほとんど緑の一色であり、冬は雪の白一色になります。 そういう土地では赤味の多い色が喜ばれたようで、田や畠で働いている女たちが、赤いフロシキをかぶっているのをよく見かけますが、いかにもくっきりとしていて心にとまります。 そして山形県は、昔は赤い染料としてのベニバナの大きな産地でした。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.192)


     木綿(もめん)の進出V

     晴着(はれぎ)と仕事着
     こんなにして、農村へ木綿が入ってゆきました。 そして着るものが少しずつはなやかになりました。 とくに、女の人は着物に深い愛着をおぼえていましたから、女の着物から少しずつ新しくなっていったようです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.195)


     もともと、農家で着ている着物は、仕事をするときと、晴(ハレ)の日とではちがっていました。 仕事をするときには、上下べつになった着物が多く用いられ、そでもツツソデとかテッポウでした。 そして、上着は腰のあたりまでしかないので、「コシギリ」などともよび、これにモンペとかタッツケというようなはかまをはきました。モモヒキをはいたところもあります。 ことに、西日本ではモモヒキが多かったようです。 ただし、西日本では、早くからはかまを用いなくなっていましたし、女はモモヒキも用いませんでしたこんどの戦争でモンペが復活して、しまいには、はかま類のほとんどおこなわれなかった九州までひろがりましたが、いつまでつづいてゆくでしょう。 使ってみれば仕事をするには便利なものなのですが……。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.195〜196)


     晴の日にもはかまはつけたのでしょうが、徳川時代の初めごろから上着が長くなって、はかまをはかない風がおこってきました。 そして、晴の日にはそういう支度があたりまえになったのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.196)


     ヨギとふとん


     ワラの利用
     アサからワタへと着物の材料はすすんでゆきましたが、わらもずいぶんいろいろのことに用いられました。 日本には、ヨーロッパのように牧畜がおこなわれなかったために、毛織物やフェルトや毛皮の利用ということがほとんどありませんでした。 そのかわりをしているのがわらです。わらは、なわむしろになっただけでなく、みのわらじぞうりわらぐつはばきせなかあて背負袋(せおいぶくろ)などにつくられました。 今でもそういうものがいろいろと使われています。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.197〜198)


     雪国の越後(えちご)などでは、ゴザボウシワラグツをはいていましたが、マントだのゴム靴だの、リュック・サックだのと、いろいろ便利なものができてきますと、人々はしだいにそのようなものを用いるようになりました。 こうした新しいものは、すべて、町を通じて田舎へひろまっていったものなのですはじめ、ほとんど自分の手でつくっていたものも、こうして買ってすまされるようになると、女の人たちの仕事はそれだけ少なくなったわけですが、それを買うためには、またそれだけお金をもうけなければならないので、いろいろの仕事がふえてきました。 そして、今日では、洋服時代になってきています。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.198)


     3 食物のうつりかわり

     食物のうつりかわり


     米は特別の日の食物
     また山奥の村で、米が少しもなくて、親が重い病にかかって死のうとしているとき、竹筒(たけづつ)に米を入れて、それをふって音をきかせ、「これが米というものだ」といったという話もほうぼうで聞きます。 それほど、米は村の人たちにとっては大切なものだったのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.201)


     米はつくっても、租税(そぜい)や小作米(こさくまい)としてたくさんとられ、のこった米もできるだけ売ってお金にしなければならなかったからです。 山村などをあるいてみて、いちばんきのどくだと思うのは、食物のわるかったことです。 そういうところでは、はじめからお米はほとんどつくっていなくて、アワやヒエやサトイモがおもな食物でした。 しかし、そういうものがたくさんあればいいのですが、そんなにたくさんはなくて、季節ごとにできる食べ物をたべてゆきました。 その上に、山中には〔ききん〕も多くて、食うに困ることも少なくありませんでした。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.202)


     米以外の食物
     山のなかに住んでいる人たちが、だんだん山をすてて町へ出るようになったのも、食物がわるかったためといわれていますが、もっともなことです。 高知県の山中では、〔ききん〕のときにはマンジュシャゲ(彼岸花)の根をほって、それを炊き、さらによく水であらって、ついて餅にしてたべたといいます。 これを高知県では「シレエモチ」といいました。 マンジュシャゲの根には毒があって、その毒を十分にとりのぞいてないと、血をはくことがあるとのことです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.202)


     デコをまわす
     サトイモも、この地方の山中の大切な食物だったようです。 いや山中ばかりではなくて、平野の村でも、米やムギについで大切な食物だったのです。 サトイモは、それをゆでてそのままたべることもあり、またゆでたものをくしざしにして、イロリの火にあぶってたべることもありました。 くしざしにしたのを、くしをまわしながらたべるので、「デコをまわす」といいました。
     デコというのは、人形のことで、ちょっと人形まわしに似ているのです。 こうして、イモばかりたべて成長した若者が、せめてイモをたべなくてもすむところへ行ってみたいものだ、と思って高知県の山中の山仕事に行くと、その村の人が、「デコをまわすならとめてやる」といったので、「ここまで来てもまだイモを食わねばならぬのか」といったという話があります。 私はその高知県の山中でも、また奈良県の十津川(とつがわ)村でも、〔デコをまわす〕ことを村人から教えられて、いっしょにたべてきたことがあります。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.203)


     山中の食生活

     「町のほうのごちそうでなしに、この村に昔からおこなわれているごちそうをたべさせていただけませんか
    とたのみました。 その村では、お米は少しもつくっていないのです。 そこで、昔からのごちそうということになると、ヒエサトイモとうふなどですが、それが常の日にたべるときと、少し料理の仕方がちがうのです。 たとえば、ヒエは常の日ならば、一度むしてそれを臼(うす)でついて炊(た)きます。 すると、つきべりが少ないのですが、それではうまくないのです。 そこでお客のあるときには、ハタキビエにします。 これはむさないで、火であぶって二度もつくのです
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.204)


     サトイモのほうは、なべで煮たものをくしざしにしてたべます。 とうふも、ふつうにつくったものをたべるだけなのです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.204)


     お客のあるときはデンガクにします。 そこで私はお米のないごちそうになることにしました。 まず女の人が二人で、大きな石臼ダイズをひいて、ダイズじるをつくりました。 そして、それを煮てニガリを入れてかため、袋にいれてしぼりました。 ところどころあなのあいた大きな四角い箱にいれてしぼるのです。 大きい石をおもしにして、ずいぶんかたいとうふをつくりました。 つぎにサトイモをきれいにあらって、大きななべに入れて煮たのち、それをくしざしにして、イロリの火のそばに立てました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.204〜205)


     またとうふも、みそをつけてくしにさし、同じく火のそばに立てました。 それからヒエは、一度ついたものを火であだって、さらにもう一度ついてごはんに炊きました。 これだけのことをするのに、女一人が一日ほどはかかります。できあがると、イロリのそばで話しあいながらたべるのはたのしいものです。 このくしざしのサトイモをたべるのも、「デコをまわす」といっていました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.205)


     いろいろの代用食

     小ムギはつぶのままたべることが少なく、たいていはにひいて、それを団子にしたり、うどんのようなものにしてたべました。 うどんやそうめんやひやむぎは、夏のたべものとして、なくてはならぬように思われますが、関東では、こういうものを一年じゅうたべていました。 うどんよりもう少し幅ひろく切ったものを煮こみにしてたべますが、これを埼玉県では「ホウトウ」とよびました。 栃木県では「ハットウ」といっています。
     ところが青森県の太平洋岸では、ハットウそばのことでした。 西のほうでは、ムギやトウモロコシをいって粉にしたのを「ハッタイ」といいますが、いずれもハタクということばから出たものと思います。 ハタクというのは、ものをつきくだくことです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.206〜207)


     餅(もち)とシトギ
     大阪のハンダイコ


     間食(かんしょく)
     食事の回数が、二回から三回になってきたのも、徳川時代のことでした。 昼飯は、それまではげしいはたらきをするものだけがたべていたようです。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.209)


     もともと正式の食事はおぜんの前にすわってするものでしたが、お昼はおぜんに向かわないで、土間(どま)に腰をかけてたべている土地がまだまだ少なくありません。 また午前十時ごろにたべる食事を「ヨツチャ」、午後三時すぎの食事を「ナナツチャ」などといっているところもあり、「ケンズイ」とか、「コビル」とかいっているところもあります。 いずれも、おぜんに向かうことなくたべるので、「お茶」などといっているのですケンズイ間食と書きます。 「ヒルマ」は昼べんとうのことで、田植えのとき、田のほとりにべんとうを運ぶ女を「ヒルマモチ」といっているところもあります。 朝晩の食事以外は、正式なものでなかったことがわかります。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.209〜210)


     田舎では、お米をたべることは少なかったけれど、野生(やせい)のいろいろのものをとってたべることができました。 ヤマモモブドウヤマナシイヌビワアケビカキクリなど、いろいろものがあります。 そういうものは、昔は朝廷へもさしあげました。 そして、このようなものを菓子といいました。くだものの実という意味です。 ところが、今では菓子はすっかりちがったものになっています。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.210)


     塩と魚

     けだものの肉をたべることの少なかった日本人は、そのかわりにをたべました。 これは、ふつうの日にたべる家は少なくて、やはり晴(ハレ)の日にたべるものでした。 正月や盆や祭りや結婚のときなど、めでたいときにはすべて魚が用いられたし、まためでたいときのおくりものには、ノシがつけられました。〔なまぐさ〕であるということは、このようによろこびのありさまをしめしたのです。 たぶん、〔なまぐさ〕は神の祭りいけにえとして、魚がそなえられたなごりと思います
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.211)


     これに対して、かなしみのときは、〔なまぐさ〕はいっさい用いられませんでした。 こうして魚は、晴の日にたべるものでしたが、交通が便利になってくると、各地にゆきわたるようになって、ふだんの日でもたべることができるほどになりました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.211)


     酒盛りの平常化


     4 住居

     大昔の家

     しかし、食物をたく場合は、土間(どま)のほうがよかったので、土間と高床と両方のある家をつくるようになりました。 田舎の家がどんなにかわっていても、神だなカマドとはたいていの家にあります。 ただ真宗(しんしゅう)のおこなわれている土地では、神だなをつくらない風がありました。 そのかわりに、りっぱな仏だんがあるのを見かけます。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.214)


     イロリ

     イロリのあるところでは、イロリで食物をたき、そのほかのところではカマドでたきました。 イロリやカマドにも、それぞれ火の神さまをまつりました。イロリのなかに足をつっこんではいけないとか、つばをはいてはいけないとかいうのは、そこは神さまのおられるところなので、よごしたりしてはならない大切な場所と考えたからでした。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.214)


     イロリのそばにすわるにも、それぞれきまりがあって、上座を「ヨコザ」といい、そこは一家の主人がすわるところです。 ヨコザの向かい側を「キジリ」といい、そこから木をイロリにくべるのです。 主人の左右の座席は、家の入り口に近いほうを「キャクザ」とよび、客のあるとき、そこにすわってもらいました。 キャクザの反対側は「カカザ」とか「タナモト」とかよび、主婦のすわるところです。 土地によって、こうした座席の名は、いろいろにかわっています。 人々は、イロリのそばでごはんもたべました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.214〜215)


     イロリがあると、そこで火をたくので、家のなかがすすけます。 だから、イロリはしだいにへってきましたけれど、おもしろいのは、ごはんをたべるときのすわり方が、イロリにすわるときのままになっているところがたくさんあります。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.215)


     イロリは、はじめ土間にあったのですが、のちには、ざしきにつくられるようになりました。 だからイロリのある部屋が、神さまをまつってあるざしきより一だんひくくなっている家をよく見かけます。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.215)


     屋根のうつりかわり
     ムシロとタタミ


     5 村の協力

     助けあいのうつりかわり


     産業組合と協同組合

     もとは、村のなかに住んでおれば、これだけのことはしなければならないという義理というものがありましたけれど、それもこわれてきました。 このように、生活の上のたすけあいは、たいへん少なくなってきましたが、物を売ったり買ったりするためのたすけあいは、反対に強くなってきました。 自分たちのつくったものを有利に売り、また農業に必要なものをまとめて買うことによって、できるだけ手もとに多くのお金がのこるようにすることは、村の産業を盛んにするためには何より大切です。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.222)


     それから、お金に困っているものが、高い利子で人からお金をかりて苦しむこともありましたが、みんながもうけたお金をあつめて、それを困っている人に貸してたすけてやるようなことも考えられました。 このようなことを目的にして、明治のなかごろから、産業組合が発達してきました。 それが戦争中に、農業会という名まえになりましたが、戦後農業協同組合として、こんどは仕事の上のたすけあいなどもすることになりました。
    (《ふるさとの生活  七 ひらけゆく村》P.222)


     村と町のちがい
     村をよくするために


    あとがき

     私は、私たちの住んでいる村や、ふるさとの村が、どのようにして成りたっているかということを、できるだけ明らかにしてみたいと思いました。 ところが、村の昔のことは、書きのこされたものがほとんどありませんから、記録だけではわかりません。 また考古学のように、ほろびた村をほりおこしただけでも解決がつきません。 けっきょく、口でいいつたえられたことと、今、村々でおこなわれているならわしのなかにもきっと古いことがのこっているにちがいないから、それには、自分の住んでいる村をよくしらべ、また近所の村をよく見てくらべてゆかねばなりません
    (《ふるさとの生活 あとがき》P.225)


     同時に、それにかんけいのある書き物をよまねばなりません。 けれども、なにより大切なのは、歩いて見ることです。歩いて見ないと、その実感がともなってきません実感は、物をしらべるのに、たいへん役にたちます。 このような、一般平民の生活の歴史をしらべる学問を「日本民俗学」といっておりますが、この学問をはじめられた柳田国男先生も、また先生の教えをうけて国文学の研究をしていられる折口信夫博士も、共にたいへんな旅行家です。 またこうした研究にたずさわっている多くの人々も、みんな旅行や、村の実際の暮らしのありさまをしらべて、その研究や考え方をふかめていったのです。 そこに、実感による比較がおこってくるのです。
    (《ふるさとの生活 あとがき》P.225〜226)


     その上、私の師であり、日ごろもっとも尊敬している柳田先生から、この書物の巻頭をかざる一文をいただきました。 こんなうれしいことはありません。
    (《ふるさとの生活 あとがき》P.226)


     なおこの書物をお読みになった方で、お気づきのことがあったら、私におしらせ下さるとありがたいと思います。 それによって、もっと完全な本にしたいと思います。 私はたえず旅行しておりますので、郷里山口県大島郡白木村長崎(現・東和町)のほうへ御連絡下さい
    昭和二十五年三月、ふるさとにて)

    (《ふるさとの生活 あとがき》P.226)


     






    【関連】
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    [抜書き]『生きていく民俗 生業の推移』
    [抜書き]『神と仏の間』(和歌森太郎)





    12/11/09・・・12/11/16・・・12/11/23・・・12/11/30・・・12/12/10・・・12/12/23・・・13/01/04・・・13/01/19・・・13/02/03・・・13/02/15・・・13/03/01(了)

    転記ミス改訂
    14/09/14 牛腸・午腸(ママ?)・・・