[抜書き] 『生きていく民俗 生業の推移』


『生きていく民俗 生業の推移』
宮本常一・河出書房新社
二〇一二年七月二〇日 初版
    目次
    序 現代の職業観
      1 きらわれる農業
      2 女の本音
      3 労働者意識
      4 新旧の職業
      5 肩書
    第1章 くらしのたて方
      1 自給社会
        宝島にて◎自給の組織
      2 交易社会
        下北半島にて◎親方村の解体◎職業の分化
      3 職業貴賎観の芽生え
        白山麓にて◎親方の位置◎物乞と物売◎贈答と贈与
      4 海に生きる
        魚を追って◎魚の餌◎魚と食物の交換◎漁村の生産圏
      5 山に生きる
        ヒエ作◎焼畑◎マタギと木地屋◎サンカ・山伏◎塩の役割
      6 旅のにない手
        金売吉次◎奥羽の牛方◎馬の牧◎牛の牧◎牛の貸借◎鞍下牛と能登馬
    第2章 職業の起り
      1 村の職業
        自分の家◎大工と鍛冶屋◎夜なべ仕事◎物の貸し借り◎百姓以外の村人◎僧と神主◎書き役
      2 流浪の民
        門おとない◎大道芸人以前◎散所と河原◎橋の下の人生◎葬式坊主◎捨聖◎売僧
      3 振売と流し職
        ささやかな行商◎販女◎消え去った振売の小商売◎小職の流し◎屎尿の処理
        屎尿でつながれた町と村
      4 身売から出稼へ
        人身売買の歴史◎子供を売る◎行商・出稼の村◎越後の毒消売り◎かつぎ屋◎女の出稼
        都会の人足◎杜氏◎熊野の杣人◎樽丸師
    第3章 都会と職業
      1 手職
        町の発達と職人◎手職の発達◎職業座◎座の残存◎大工仲間◎居職の町
      2 市と店
        市の意義◎市場商人◎店の発達◎問屋の機能◎親方と金貸し◎社会保障と親方◎半期勘定
      3 職業訓練
        一人前◎職人の徒弟修業◎丁稚奉公◎手代と番頭◎商売繁盛の願い
      4 古風と新風
        信用と不正◎御用商人◎身分と職業◎家職の崩壊◎技術者軽視◎古風の残存
      5 町に集る人々
        余り者◎新産業と次三男◎新産業と中小農◎女中奉公◎女の都市集中
    あとがき
    解説 無数の風景 鶴見太郎
    宮本常一略年譜


    序 現代の職業観

      1 きらわれる農業

     生きてゆくということはほんとに骨の折れることである。
    (《生きていく民俗》P.9)


    第1章 くらしのたて方

     1 自給社会
     ◎宝島にて
     もともと古い社会には、職業による社会階級の差などというものはなかったはずである。 いや職業そのものも十分分化はしていなかったと思われる。 古い時代や未開社会は別として、かつて人々が理想的だと考えた社会はこういうものであろうと思われるような島の調査をしたことがある。鹿児島県大島郡十島(じゅっとう)村宝島がそれである。 この島へは昭和一六年に渡った。 十島村のうち、もっとも南にあって、南方はるかに奄美大島をのぞむことができる。 周囲十二・一キロメートルの小島で、当時の戸数は九十六戸であったとおぼえている。 現在は百二十戸近くになっている。口之島中之島諏訪之瀬島悪石(あくせき)島などは背が高く、海上にそびえているのに、この島は平たく、しかも周囲に海蝕崖をもっていないのできわめて平和に見える。 実は周囲を珊瑚礁にとりかこまれているためである。 そしてその珊瑚礁が隆起し、さらに長い間、風雨にさらされ、その石灰岩が雨にとけて石乳の発達した観音洞という鍾乳洞も見られる。 昔はこの中に観音様が祭られていたそうであるが、今は見かけない。 ただそこにおびただしい軽石が残されている。 軽石というのは、一つの小石に一字ずつ経文が書かれているものであるが、その字が今も消えずに残っており、字体から判定すると鎌倉時代のものではないかと思われる。 またこの島には、ネイシという巫女がいるが、その巫女の持った鈴−−鈴といっても小さい鉄環を鉄線に通してじゃらじゃら音のたつようにしたものであるが、その鈴に古鏡がつけられており、それには菊花模様があってふちが厚いもので、明らかに鎌倉時代の作品と見られるのである。 私の眼でたしかめた年代のほぼわかる歴史的な遺物はこの二つであり、またここまでが日本語の領域になっており、しかもことばとしては鹿児島などよりはるかに訛語の少ないことから、早い時代に九州から来て定住したものの子孫だと思われ、島が文化らしい文化を持つようになったのは鎌倉時代のころからではなかろうかと思うのである。 事実、島民は平家の子孫であると称しており、村一番の旧家は平田を名乗っている。 そしてその屋敷はトンチ(殿地)と呼ばれている。 トンチの屋敷の中には、ションジャと呼ばれる村の祭りを行なう四柱の小屋も建てられており、古い祭政一致の名残を見ることができる。
    (《生きていく民俗》P.23〜24)


     この島の島外との交通は、昔は一年に一度鹿児島まで年貢船を出すことであった。 そのほかに、他から漁船などがやってくることがあればともかく、全く閉ざされた島であった。 ただ南の奄美大島、北側の小宝島・悪石島との間に小舟で往来することはあったが、それによって広い世界に接することはできなかった。 したがって島内での自給を中心にして生活をたてるよりはほかに方法がなかった。
    (《生きていく民俗》P.24〜25)


     島には北海岸の平地に少し水田があった。旱魃に見舞われることが多くて、毎年同じようにがとれるとはきまっていなかったが、それでも主要な食糧として期待された。 島にはまた畑地がかなり広く分布していた。 そこにはサツマイモを植え、また甘蔗をつくって砂糖をしぼった。
    (《生きていく民俗》P.25)


     もともと畑は割替制度があって、明治一六年ころには六十四戸の家があり、それがクジ引きによって割当てられた畑を耕作していたのであるが、明治一八年、地租改正土地丈量が行なわれ、自分の作っている畑がそのまま自分の所有地となることにきまって地割制度は止んだ。 したがってその時の各自の耕地面積は、各戸ほとんど相似たものであるが、その後三十軒ほど分家が出た。 分家を出した家は、耕地を二分したので、持地は分家をしない家の半分になったわけである。 島の主である平田の家は二軒の分家を出したので、耕地は他の三分の一しかない。
    (《生きていく民俗》P.25)


     この島には店屋もなく、貨幣の流通することもほとんどないから、売買による土地の移動はまったくない。 だから分家をしない限り土地の減少することもない。 また島主の家でも特別に広く土地を持つわけでもなかった。 だから三軒にわかれて土地が三分の一に減った島主の家が島では持地が一番少なかった。
    (《生きていく民俗》P.25)


     ◎自給の組織
     この小さな島でどうしても買わなければならないのは、鍋釜鍬鎌のような金具類材木であった。 他はほとんど自給できたのである。 さきにもいったように、食うものは自作した。砂糖もある。は夏七月ころの暑い太陽の照るとき、西海岸の珊瑚礁へ行って、岩のくぼみにたまっている海水をくみ、平釜で煮つめてつくる。タバコは本来なら専売で自作は許されないが、彼らはいずれも自作していた。 またもサツマイモを煮て醗酵させ、それを蒸留してイモ焼酎(しょうちゅう)を作った。
    (《生きていく民俗》P.26)


     2 交易社会

     ◎下北半島にて

     下北半島は、本州の北端にあって、地図の上で見ると斧状になっている。 その刃の方の部分は山岳が重なりあって、昔はヒバ(アスナロ)の原始林で、伐っても伐っても伐りつくせないほど見事な山林であった。 今も山中へ行くと、美林が残っているのである。 そしてこの山地の周囲の海岸にならぶ村々はヒバを伐って売って生活をたてていた。
    (《生きていく民俗》P.28)


     また斧の背にあたる方、つまり東海岸方面は低い丘陵が続いていて、そこは牛馬の放牧が行なわれ、また蹉跌が掘られていたのである。海岸地方はイワシ・ニシンなどが寄って来、コンブもとれて、その豊富な海産物で生活をたてることができた。 そして早くから人の住みついていたことは考古学的な遺跡の豊富なことからも知られるのである。
    (《生きていく民俗》P.28〜29)


     しかしここでは冬が長くまたきびしいために、作物も夏の間だけしかつくれない。 最近は米もつくられるようになったが、大正時代までは水田にヒエしかつくれなかった。 畑もヒエ・ソバ・ダイズのようなものが多くつくられたが、その収穫は知れたものである。
    (《生きていく民俗》P.29)


     このようなきびしい自然の中へ住みつこうとするには、自給を目的とするのではなくて、そこに大きな利益をあげるものがあり、それをとって交易にあて、それによって生活をたてようとしたものと思われるのである
    (《生きていく民俗》P.29)


     その初め、この地方へやって来た人たちは、その広々とした自然を利用しようと考えた人たちではなかったかと思う。 まず狩猟が行なわれ、牛馬の放牧なども盛んに行われたと思う。 放牧といったところで、野生同様に野に放っておいたものを一年に何回か日をきめて牛馬をとらえ、それを飼いならし、牛馬を必要とする地方へまでひいていって売ったものであろう。
    (《生きていく民俗》P.29)


     ◎親方村の解体
     ◎職業の分化


     3 職業貴賎観の芽生え

     ◎白山麓にて
     交易にたよらなければ生計がたたない村は、気候のきびしい東北地方ばかりでなく、山間地方にも多かったのである。 山の中ではやはり自然条件がきびしくて、そこで営まれる生業は大きく制限されてくる。 その一つの例として、石川県白山(はくさん)麓の村をあげてみよう。 白山をめぐるその周辺の山地は、古くから焼畑がきわめて盛んに行われているので知られていた。 この地方は山も深いのである。 その山のひだひだに、人が住みついている。 そして山を伐って火をかけ、そのあとにソバ・ヒエ・ダイズなどをつくる。 焼畑をつくることをムツシという。ムツシが盛んになると、山火事がよく起り、山が荒れる。 山が荒れると雨の降るたびに、また春さき雪がとけてなだれが川におち込むごとに、山肌がけずられて、その土砂が川になだれ込み、下流へ押し流されていく。 そのために下流は川床が高くなり、洪水に見舞われることが多くなり、加賀藩はしばしば焼畑の禁令を出したがなかなか守られなかった。 そこで寛文のころ(一六六一〜七三)、白山麓の住民の一部を能登半島へ移住させたことがあった。 だが彼らは能登半島へ来ても焼畑をやめなかったばかりでなく、周囲の村もその技術をならうようになったのである。
    (《生きていく民俗》P.34)


     ◎親方の位置
     この山中の土地は、ほとんど親方の持地で、共有地はきわめて少なかった。 どうしてそうなったのか明らかでないが、白山は昔からこの地方の信仰対象の山であり、そのために登山する人も多く、牛首の村はもと白山社に仕える社人の村ではなかったかと思われる。 それがはやく真宗が入り込んで真宗に改宗するとともに帰農するようになったものと思われ、旧社人の首領たちが、山地を私有するにいたったものであろう。 牛首には親方の家が三軒あり、いずれも広大な山林を持っていた。 牛首以外の古い部落にも親方は存在していたのである。 土地を持たない社民たちは地内子(じないご)とよばれ、それらのどの親方かの子方として隷属し、山地をひらいて焼畑をつくるといっても、親方の土地を耕作し、したがって親方の家に年貢もおさめ、時には労働奉仕もさせられたのである。
    (《生きていく民俗》P.35〜36)


     こうしてこの山中でも、鍬棒を製造する者とこれを運ぶボッカと、またそうした物資の取扱をする親方との三つの職業と階層が見られたのである。
    (《生きていく民俗》P.37)


     ◎物乞と物売

     山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。 牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。 しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。 加賀・越前平野ばかりでなく、遠く京都・大阪方面まで乞食に歩いたものだという。 野の村に出て雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師(おし)または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。 そのころは、白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。 それが御師や強力をやめてもなお門付の風習だけは残していたのではないかと思われる。
    (《生きていく民俗》P.39〜40)


     ◎贈答と贈与
     今日ほど文化がすすみ生活がゆたかになってきても、なおあとをたたぬものに押売がある。 僅かばかりの品物を持ってきて、生活に困っているから買ってくれという。 話をきいていると、いかにももっともらしく思われることがあり、つい高いものを買わされる。 時には学生風の男がアルバイトに行商しているのだから買ってくれという。 応対する方が男である場合には拒絶してもおとなしく引下るが、相手が女である場合には脅迫するようなことが多い。
     実は日本における物売の系譜の中には、こうした仲間が大きな位置を占めていたことを忘れてはならない。 さきにのべた山人たちの物売の中に、はっきりそのおもかげを見ることができる。
    (《生きていく民俗》P.41〜42)


     われわれが神にいろいろのことを祈願する場合にも、必ず何らかの供物を神に奉った。 供物を捧げることによって、神は人間の祈願をきくものと信じていた。
     同様に、人間同士の間でも物をもらった場合には、お返しするのがあたりまえのことになっていた。 そしてそれは等価値のものを返すとはきまっていなかった。 そういう意味からすれば、このような行為は、交易というよりは贈答という方が適切であるかと思う。 したがって日本における交易は贈答から発達したといってもよかった。 だから僅かばかりのものを押売しても、もとは決して不当とは考えなかった。 そして貧しい者がそうするのはあたりまえのことであり、富める者はそれを買うべきものであると思っていたのである
    (《生きていく民俗》P.42)


     そこで山中の民ばかりでなく、僅かばかりのものを持って家々の前に立って物乞する人間の数はきわめて多かった。品物ばかりでなく、祈祷をしたり、またをうたい、などして門付して歩く者の数はさらに多く、そうした門付に対して民家では、たいてい少しずつの米麦を与えたのである。佐渡では、門付する者に与える米麦をはかる順礼枡という枡があった。 枡というよりは匙(さじ)のようなもので、柄がついており、一合ほど入る大きさのものである。 その枡を穀物の中にさしこんで枡に入っただけの穀物を与える。 一回に一合といえば僅かのようだが、家によると一年に二俵三俵の施しをすることは少なくなかった。
    (《生きていく民俗》P.42〜43)


     4 海に生きる

     ◎魚を追って

     焼畑のように木を伐ってそれを焼払い、そのあとに作物をつくるような粗放な農業ならば、その土地がやせてくればまた新しい土地を求めて木を伐り火をつけて焼くこともそれほど苦にもならなかったであろうが、開墾して作物をつくる場合には、相当の人力をかけねばならず、土がやせたからといって新しい土地をもとめて、また開墾するということは容易でない。 そこで開いた耕地をできるだけ痩せさせないように肥料を使うことも工夫して、その耕地を守ることになる。 こうして定住が起ってくる。
     漁民の中にも、背後に農地として拓きうる土地のある場合は、そこを拓いて作物をつくる工夫をした。 したがって、そういうところでは、漁民の定住が見られたが、一般に魚介を追うて生活するものは、定住性にとぼしかった。 魚は根付のものを除いては海中をたえず移動回遊したからである。 その魚を追うていくと南から北まで、北から南まで、海岸沿いに移動しなければならないことだってありうる。
    (《生きていく民俗》P.43〜44)


     ◎魚の餌

     このような雑魚をひく小さい網をテグリといったが、後にはこの網を海中に入れたまま、船を横にして網綱の両端を船の艫(とも)と舳(みよし)に結び、船には帆を張って風の力でゆっくりと網をひいてゆき、しばらく船を流してから帆をおろし、綱をたぐって網をひきあげる方法をとった。 これをウタセといった。
     このような方法によれば労力は著しく節減できたが、船がくつがえることも少なくなかった。 さてとれた雑魚は釣漁師に売ることが多かったから、釣漁の村のそばにはたいていテグリ網の仲間が住んでいた。
    (《生きていく民俗》P.47〜48)


     ◎魚と食物の交換
     ◎漁村の生産圏


     5 山に生きる

     ◎ヒエ作
     陸は漁村のようにその生産活動の領域を無限にひろげていくことはできなかった。 土地がかぎられていて、獲物ばかりをとっているとすぐ獲物が減少して、逆にその人々を窮地に追いこむからである。
     海の漁民にあたるものが陸では猟師である。 陸も海も〔りょう〕師とよばれてきているのは興味ぶかい。 そしてその生活のたて方も海の民によく似ていた。 ただこの方は獲物が少なくなるにつれて転業せざるをえない運命を持っていた。
    (《生きていく民俗》P.54)


     もと日本の人口がきわめて稀薄であった時代−−明治維新ころまでは、人口は三千万ほどで、しかも長い間増加がとまっていたのであるが、そのころまでは日本にも野獣が多かった。 日本全体に多かったのはシカであったが、そのほかではイノシシ・カモシカ・サルが多く東北地方にはクマが多かった。野獣ばかりでなく、鳥類もまた少なくなかった。 そうしたものをとり、また植物の実や根などをとって食糧にあてつつ生きてきたのがこの国土の上に最初に住んだ人たちの姿ではなかったかと思われる。 いわゆる縄文式文化時代の人々の生活のたて方はほとんどこうしたものであっただろう。 そこには交易も少なかった。 肉を食べ、植物の実を食べることによって生命をつなぐことはできたし、また周囲の村もほぼ同じようなことをくりかえしていたのだから、の入手以外には交易はたいして見られなかったと思われる
    (《生きていく民俗》P.54〜55)


     その初め、狩猟と植物採取によって生活をたてていた社会へ農耕技術が入ってくる。 おそらくはその初めには焼畑による農耕法がもたらされたものと思われる。 それがいつごろのことであったかは明らかではないが、縄文式文化時代には入ってきていたのではなかろうか。 もとよりこれは一つの推定にすぎない。
    (《生きていく民俗》P.55)


     そこで少しその推定について書いてみる。 焼畑でつくられているものを見ると、ソバヒエアワダイズアズキダイコンがもっとも多い。 そしてこれらのものは同じ土地に毎年同じものが連作されるのではなく、ソバ・ヒエ・ダイズ・ダイコンというように輪作され、四、五年もつくるとまた山地にかえすのが普通であった。
    (《生きていく民俗》P.55)


     ところでこの中のヒエアワソバは古い時代の五穀の中に入っていないシナで五穀といわれるのは『礼記月令』によると、ムギマメコウリャンアサキビのことであった。 シナではアサの実も食糧にしたのである。 五穀のほかに六穀九穀などの言葉もあるが、それにはイネアズキコムギウリなども入ってくる。 シナではアワもヒエもつくっていたことは事実であるが、それほど尊ばれなかったようである。 つまり賤民がたべたものとみられる。 『鄭箋』には、「豊年のときには賤者もキビを食べる」とあって、豊年以外のときは賤者はキビを食べることが許されなかった。 そして「賤者はヒエを食するのみ」と註がある。
     の時代には少なくともヒエは貧しく賤しい者の食物であり、アワもこれに準じたのではなかろうか。
    (《生きていく民俗》P.56)


     という国は北方に立地して畑が広く、畑作を中心にしていた。 焼畑はほとんど見られなかったようで、当時シナで田というのは日本の畑のことであり、そこには穀物がうえられ、圃とよばれるところに蔬菜や瓜類がつくられていた。 なお低湿地にはイネもつくられはじめていたが、春秋・戦国の時代を経て漢代になると文化の中心がに移って稲作が盛んになる
    (《生きていく民俗》P.56)


     日本もその稲作の影響をうけて水田耕作が盛んになり、弥生式文化の発展を見てくるのであるが、そうした定畑耕作や稲作の行なわれるまえに、焼畑耕作の技術が入ってきたものではないかと思われる。
    (《生きていく民俗》P.56)


     ◎焼畑
     周の時代、満州や北朝鮮ではヒエがつくられていた。 これは焼畑でつくられたものではなかったかと思われる。 朝鮮では焼畑を火田といっている。
    (《生きていく民俗》P.57)


     火田は朝鮮半島の山地全体に行なわれていたものであり、それが山地を荒れさせてしまって、ひどい禿山にしたのである。 そしてそのことが、しだいに火田を終焉にみちびいたといわれているが、山地が広く、人口の少ない北朝鮮には、後々まで多数の純火田民が存在していた。 そして昭和一四年ごろにも、現在の北朝鮮地区に、およそ七万人の火田民が残っていたと推定されている。 火田民は実に古くから山地を流浪しつつ火田を行なっていたのであるが、中には洪水・飢饉などの災害をうけて生計のたたなくなった者が新たに火田を始めるものもあって、すべての火田民が古い伝統を持っているとは思われず、かなりはげしい交代が見られた。 したがって火田でつくる作物にも変化が見られたと思うが、それでもなお日本の焼畑に見られる作物と共通するものが多い。 朝鮮の火田でつくられていたものは、ヒエ・ソバ・アワ・ダイズ・アズキ・オオムギ・エンバク・トウモロコシ・キビ・ジャガイモ・エンドウ・アマ・野菜などであった。 これらの中には新しく火田でつくるようになったものもあると見られるが、ヒエ・ソバ・アワ・ダイズ・アズキなどは日本の焼畑で主としてつくられているものである。
    (《生きていく民俗》P.57)


     しかも火田を行なうものは陸田を持たぬもっとも貧しい仲間である。 そうした火田で、主としてヒエ・アワがつくられていたということが、「ヒエは賤者の食物である」という観念を植えつけたものではないかと思う。 そしてこのヒエは焼畑耕作技術とともに日本海をめぐる朝鮮および日本・沿海州の山地にひろがっていたのではなかろうか。
    (《生きていく民俗》P.57〜58)


     ◎マタギと木地屋
     植物採取から焼畑農耕への前進と、木地挽(きじひき)・狩猟などの結びつきは、狩猟採取経済から一歩出たにすぎないが、未開拓の山野が眼のまえにひろがる限り、もっとも容易にとられる生活のたて方であったということができる。 そしてその農法が素朴そのものであるだけに、生産力もきわめて低く、一反当りの収量が一石に達する作物はほとんどなく、そのうえ旱天が続けば、灌漑なども思いもよらたことであったので、凶作におそわれることが多かった。 だからその年つくった穀物が、もう年の暮れまでしかなくて、年があけると食うに困ることが起ってくる。白山乞食はこうして発生したものであろうが、朝鮮でも食うもののなくなった民は山地をまよい出て、野の農家に食をもとめて歩いた。 これを春窮民といったが、野の農民もまた食糧に困りはてていたのである。
    (《生きていく民俗》P.58〜59)


     ただ日本の山民の場合は、焼畑耕作のほかに、狩猟木地物製作などによる別途の収入があって朝鮮の山民よりは少しはゆとりがあった。 とくに熊狩を行なえば、熊の胆をとることができ、これはきわめて高価に売れた。
    (《生きていく民俗》P.59)


     しかし、人口がふえ、また十六世紀半ば鉄砲が伝来してから狩猟技術が発達して以来、野獣はしだいに減りはじめた。 すると狩猟だけでは生活がたたなくなり、狩猟を中心にした集団は、しだいに解体し、定住して農耕を主とするようになる。  東北地方のマタギの村は、どこでも同じように定畑のほかに焼畑を行なっている
    (《生きていく民俗》P.59)


     いっぽう、狩猟集団を解体した所では、野獣が畑作を荒して困っているような村へ雇われて野獣を追うことによって生計をたてるようになったものと思われる。 こうして山間の村には、どこへ行っても、一人か二人の狩人がいたもので、冬になると鉄砲をもって山に入り、イノシシ・シカ・クマなどを狩り歩いた。これらの狩人の中には、狩に関する巻物や狩猟の秘伝書など持ち伝えているものが多かったから、狩人は武士であったものが転業したというよりは、古い狩猟集団仲間の者が百姓村の中へ入りこんできたとみられるのである
    (《生きていく民俗》P.59〜60)


     こうした狩人たちが、集団をといて分散し、農民の中へ埋れていくことによって、田畑の作物は守られ、農耕がぐんぐんのびてきた。 そして山間にもしだいに平野地方の高次な農耕文化が浸透してくることになる。
    (《生きていく民俗》P.60)


     したがって、狩猟者はその初めは漁撈者とたいへん近い生活のたて方をしていたのであるが、時代が下り、狩猟技術が進むにつれて獲物が減少し、狩人自体は自分で自分の首をしめるような結果になってしまった。
    (《生きていく民俗》P.60)


     木地屋の方は狩人にくらべれば、その活動がさらに長く続けられてきたといっていい。 この方は木地の材料である木材がいくらでもあったから、材料に困ることは少なかった。 そして狩猟とちがって、自分の生産したものはすべて売らなければならなかった。 しかも木地物を直接農民に売ることは少なかった。 素材をロクロにかけて椀や皿をつくるとして、できあがったものは素木のままで半製品であり、これを漆屋にわたして漆器にしかければならぬ。 つまり木地物はほとんど問屋にわたされるのであるから、農民と直接取引して食物と木地物を交換するようなことはなかった。したがって、木地屋は一般民衆の眼につかぬところにいがちであった。 それで木地屋は食糧だけは何とか自給するように工夫した。 このことは木地屋の発祥地といわれている近江湖東の山中を歩いてみるとよくわかる。 かつて木地屋の住んでいた所には、ほとんど畑という地名がついている。 彼らが木地物をつくるかたわら、焼畑を耕作したものであることを物語る
    (《生きていく民俗》P.60〜61)


     白山麓の鍬棒つくりの村も、一種の木地屋部落ということができる。 鍬棒をつくるのだからロクロを用いることはないが鍬棒もまた木地のうちである。 そのほか曲物(まげもの)桶をつくったり、杓子をつくったりする仲間も木地屋であると見ていいのではなかろうか。 そして一方では焼畑づくりを行ないつつ、よい材料をもとめて山中を放浪して歩いたのである。
    (《生きていく民俗》P.61)


     木地屋が近江を出て全国へ散っていったことについての調査は、橋本鉄男氏によってすすめられ、その分布がいかに広いかについて驚かされるのであるが、同時に明治初年までは木地物の需要がいかにおおきかったかを知ることができる
    (《生きていく民俗》P.61)


     ◎サンカ・山伏
     山中には狩人・木地屋などのほかに、放浪をつづけていた仲間がいくつもあった。サンカなどもその一つと思われる。 これは主として川魚をとっている。 マタギもまた川魚をとっているから、マタギの分派と見られないこともないが、川魚のほかにをつくりをつくり、をつくることなどに巧みで、この方は里まで出て来て農家と取引している。 「物乞と物売」の項でのべた山間の箕作りの部落など、もとはマタギかサンカではなかっただろうか。 それについては今日までまだ十分につきとめていないのである
    (《生きていく民俗》P.61〜62)


     山伏なども信仰を主にして山から山をわたり歩いているが、山伏で生活のたつようになったのは新しく、古くはやはり木地屋や狩猟などを、かたわら行なっていたのではなかっただろうか。 奈良県大峯山の西麓にある天ノ川御師(おし)(神人)たちは、昔から曲物桶をつくることが巧みであり、また矢にする竹を伐って平野地方に売り出していた。
    (《生きていく民俗》P.62)


     山伏はみずから山にのぼって修行するばかりでなく、山にのぼる民衆の道案内などもしたもので、長い間にはおのずから民衆との間に師檀関係を生じ、冬になって山にのぼらないときには、檀家を歩いてをくばり金銭や食糧を得て帰り、それを一年間の生計の資にしたのである。 したがって、山伏や御師たちにとって、檀家は大切なものであり、一つの財産となっていた。 だから生活に困ったり、または山伏や御師をやめるときには、その檀那場を売ったものである。 檀那場を東北地方では(かすみ)といっている。 一種の縄張りのようなものであった。
    (《生きていく民俗》P.62)


     山伏の中には、荷持ちを副業とする者も少なからずいた。 山形県月山(がっさん)を中心とする山伏のうち、湯殿山(ゆどのさん)と本道寺の山伏たちは、村山盆地と庄内平野の間によこたわる山脈を越えて荷持ちをするものが多かった。 同様に九州の英彦山(ひこさん)の山伏なども、荷持ちを渡世の一つにしていた。
    (《生きていく民俗》P.62)


     日本にはが多かった。 どこへいくにも峠を越えなければならなかった。 ところが峠を越える谷筋には、申しあわせたように寺や神社がまつられていて、そこに何人かの僧侶や神人が住んでいたものである。
    (《生きていく民俗》P.62〜63)


     ◎塩の役割
     さて山中の村海岸の村は、一見縁遠いように見えるが、両者は密接に結ばれていた。両者を結んだのはであった。 塩がなければ生きてゆくことができない。 そして海岸地方から塩を持ってやってくる者に対して、塩の代償として何か相手に与えなければならなかった。 それは山でとれるいろいろのものであっただろう。
    (《生きていく民俗》P.65)


     交易を行なわないで塩を手に入れようとすれば内陸民が海岸まで出て、海水を煮つめて塩をつくるよりほかに方法はなかった。 事実、そのような製塩が東北地方には明治の中ごろまで見られたのである。 牛馬にを積んで山から下って来て、海岸に小屋掛して、釜屋で塩を煮つめ、それを俵に入れてまた山奥へかえっていく。
    (《生きていく民俗》P.65〜66)


     大きな川が山奥深く入りこんでいるようなところでは、木を伐ってそれを川に流し、下流の者に供給して塩をやいてもらうことも多かった。
    (《生きていく民俗》P.66)


     そういうこともむずかしく、海岸へ出て塩焼きをすることも困難な地方へは、海岸地方の者が牛馬に塩をつけて運んだものである。 たとえば岩手県北上川流域や秋田県鹿角(かづの)盆地の方へは、太平洋岸でつくった塩を牛馬につけて運んでいったものである。一ハヅナというのは牛馬七頭のことで、この地方は牛が多かったから、牛に二俵ずつつけて七頭で十四俵になるわけで、三陸の海岸から山をこえて北上川流域まで売りにくる。 よい声で牛方節をうたってくるので、塩売であることはすぐわかる。 そして村の中へ入ると大きな声で、

       「塩ッコヒエッコととりかえねか

    といったものだという。 塩のほしい家はその声をきくと走り出て塩を買った。につめてあって、普通二斗入であったが、大俵というのは四斗入であった。 しかし正しく四斗入っているものはなく、たいてい三斗二、三升程度であった。 その塩一俵と、ヒエを二俵ととりかえるのが普通であった。 金で売買することはほとんどなかった。 牛方はそのヒエを牛の背につけて親方のところへもどってくる。 三陸の海岸は食糧の乏しい所であったから、牛方のとりかえて来たヒエで生活をたてたのである。 したがって三陸地方では塩の取扱をする問屋は、すべて穀物問屋であった。塩問屋は塩ばかりでなく塩魚ワカメなども山中へ持っていったのである。
    (《生きていく民俗》P.66〜67)


     話がすこし脱線したようであるが、東北地方に限らず、塩売は各地にいて、塩を山中へ売りにいったばかりでなく、山中からも買いに出たのである。 とくに山中で生活する者のうち、移動をこととするものは売りにくる塩を待つことはむずかしかったから、里の塩売の家まで買いにいったのであった。 山間の宿場などには必ずといってよいほど塩を売る家があり、海岸からそこまで塩をのぼせておいた。塩尻という地名は、海岸から塩をのぼす最後の地点を意味する言葉であった。 そうした塩によって山中でも生活をたてることができた。
    (《生きていく民俗》P.67)


     6 旅のにない手

     ◎金売吉次

     東北地方の北上山地や下北半島などは、古くから鉄の産地であった。 砂鉄をとってそれを精錬して銑鉄をつくり、鍛鉄をつくる。 ところがその市場は遠く関東や中部地方が主になる。 さらに以前は京都地方であった。『義経記(ぎけいき)』を読むと、父を討たれて鞍馬寺へあずけられた牛若丸が、源氏をもう一度再興したいと考えて、平家の眼の届かないところへ身をかくそうとし、その導きをしたのが金売吉次(かねうりきちじ)ということになっている。 金売吉次は奥州と京都との間を往来して、金売を商売にしていた。 金売の金は〔キン〕であったか、鉄であったかは明らかではないが、あるいはその両方であったことも考えられる。 牛馬の背に金属類をつけて、奥州のはてから幾山河を越えて京都まで売りにくるのは、たいへんな労苦であったが、その交易のために道はおのずからひらけていた。 しかも奥羽地方は僻陬の地ではあったけれども、鉄を出し、金を出し、また良馬を産した。 それらは都の人にとって得がたい宝であった。 だから奥羽は遠くはにれてはいても、それらは都の人の印象には強かった。 平泉を中心にした藤原三代の文化のあとを見ても、中尊寺毛越寺など都の文化をそのまま移植したものといってよく、また都の文化を受け入れるほどの財力を藤原氏は持っていたことを物語る。 しかもこの文化をここに持ちこむためには、平泉と都の間をどれほど多くの人が往来したであろうか。 またここに燦然とした文化をとり入れるために、どれほど多くの財宝を都に運んだであろうか。 その運ばれた財宝が何であっただろうか。 少なくとも、その一つに金売吉次のような人物のはたした役割のあったことを見のがすことはできない。
    (《生きていく民俗》P.68〜69)


     そしてそのような交易のルートが、後には伊勢参宮や京参りのために利用されることになるのであろうが、政治・経済の中心が江戸へ移って後は、そのルートによる物資輸送は中部地方で大体止りになる
    (《生きていく民俗》P.69)


     ◎奥羽の牛方
     私はかつて北上山中の遠野(とおの)の在で、年老いた牛方(うしかた)から興味ある話をきいたことがある。 この牛方は、若いころ北上山中の信濃川流域あたりまで運んでいたという。 親方からたのまれて、ハナヅ五頭から七頭の牛に鉄のクズを俵に入れたものをつけて出かけるその出かける時期は春が多かった。これは若草が茂っているからで、道ばたの草をくわせれば牛宿で餌をそれほどやらなくてもすむ。 郷里を出て北上川流域に出、一ノ関から奥羽山脈の東麓を南下して陸前(宮城県)に入って峠を越えて羽前(山形県)へ出る。 途中牛宿があればそこに泊まることもあったが、たいていは野宿した。 山中で適当なところを見つけると、石をひろって四方に投げ、「これだけの土地を一晩貸してくだされ」と山の神にたのむと、山の神はいろいろの災厄から守ってくれると信じられていた。 また牛の角は魔よけになるとも信じられている。
     野宿しても寒いものではなかった。 牛はたいてい地面に横になって寝る。 その牛にもたれかかって寝れば、風邪をひくようなこともなかった。
    (《生きていく民俗》P.69〜70)


     さて山形から米沢へ出、そこから越後(新潟県)へ越えて、こんどは信濃川に沿うてさかのぼる。 そして三条(新潟県)のあたりで鉄を売ってしまうこともあれば、信濃(長野県)の飯山あたりまで持っていくこともある。
    (《生きていく民俗》P.70)


     鉄を売ると同時に牛も売った。 荷をつけない牛を奥州までひいて帰るのはたいへんめんどうだったからである。したがって信濃川の流域には南部牛がきわめて多く、この地方ではその牛を使って海岸地方から山中へを運んだといわれている
    (《生きていく民俗》P.70)


     さて牛方は鉄を売り、牛を売った金を持って故郷へ帰っていく。 早くて一カ月、時には二カ月もかかることがあり、一年に二回か三回もやってくることができればたいへん上出来で、時には一年に一回の旅しかできぬこともあった。 出かけるときは何人もいっしょで、にぎやかであったが、途中で分れ分れになり、帰るときはいつも一人であった。金だけ持って荷も何も持たぬ一人旅なので、つい気楽になり、途中で女郎など買って楽しんでくることが多く、歌も習い覚えて、村へ帰ればまた村の娘たちには憧れの的になったものであるという
    (《生きていく民俗》P.70)


     牛方の中にはこうしたコースをとるものもあれば、仙台から真直に南下して関東平野にやってくるものもあった。 そして信濃地方と同様に、牛を売って帰ったのである。 したがって、関東平野にも南部牛が多かった。 南部牛は体格も大きくガッシリしていて、荷物輸送にはもっとも適していたのである。
    (《生きていく民俗》P.70〜71)


     鉄ばかりでなく、山形県村山地方青麻(あおそ)も同様に牛の背につけられて越後三条小千谷方面に運ばれて、縮(ちぢみ)に織られたのであった。 こうして金売吉次の伝統は、洋鉄が日本の隅々へゆきわたる日まで続き、守られていたのである
    (《生きていく民俗》P.71)


     ◎馬の牧
     関東・東北地方から都へもたらされたものの中には、のほかに、などがあった。 中部・関東は原野が広く、その原野が牧場として利用されている所が多かった。 放牧といっても野生に近かったもので、馬は野に年中放たれており、そこで子を生み育っていった。 その子馬を一年の一定の時期にとってきて飼いならし、農耕馬として、駄馬として、また乗馬として用いたのである。
    (《生きていく民俗》P.71)


     今、福島県相馬(そうま)市で夏季に行われている野馬追(のまおい)という行事は、甲冑をつけ旗差物を持った若者たちが馬に乗って原野をかけまわり、昔の合戦のさまを演ずるので知られているが、もともとは野馬をとる行事であった。 そしてそのような行事は、古い牧場のある所なら、必ずといってよいほど見られたもので、今も宮崎県都井(とい)岬では古風な野馬とりが行われている。
    (《生きていく民俗》P.71)


     ◎牛の牧

     中国地方の山中も牛が多かった。 そこでも山地の牧場に放牧するものが多かった。 広島県や岡山県の山中を歩いてみると、田や畑の周囲、または村の周囲に柵をした所が少なくない。 これはそれ以外の所に牛を放牧していたためで、牛は山地を群をなしつつ移動して餌をあさり成長したのである。 そして農繁期には牧場から連れてもどって、農耕に使用し、また冬がくるとそれぞれの家の駄屋で舎飼したのである。 家々の牛がいっしょに放牧されているので、どこの牛であるかを見分けるために耳に切込みをつけて目じるしにしていた。 これを耳じるしといった。
    (《生きていく民俗》P.75〜76)


     さて牛が駄屋で飼われているとき、博労(ばくろう)がやってきて牛の取引をする。 博労には縄張があって、どの家の牛は誰が取扱うというのがきまっていた。 その牛を引いて市の日には市場へやってくる。 岡山県高梁(たかはし)や広島県久井(くい)の市はすでに十四世紀ごろには行われていただろうといわれる古い市であるが、広い牛つなぎ場があって、そこに何百頭という牛が集り取引が行われた。 日ごろはひっそりしている町も、市の立っている間はたいへんな賑わいで、店屋が並び、小屋掛けして芝居も行われたという。
     そこで買いとられた牛は、方々へ連れていかれる。 昔は上方へひいていくものが多かった。 何十頭という牛を博労たち二、三人で追うていく。 その牛が盗んだ牛でない証拠に、必ず菰を一枚背にかけた。 これを商売菰といった。 もともとはその牛の背に荷をつけた名残ではないかと思う。 すなわち東北地方の牛と同じように、売りにゆく牛に荷を運ばせたものではないかと思う
    (《生きていく民俗》P.76〜77)


     ◎牛の貸借

     このような例はあまり数多くないと思われるが、牛馬を貸借する風習は各地に見られるのである。 大和地方もまた盛んであった。 大和平野はまったくの平坦地で、一面の水田であり、山地も原野もない。 したがって、牛馬を飼うには飼料が十分でないので不便であった。 そこで草の多い山中(さんちゅう)へ預ける風が古くからあった。 山中というのは大和平野の東にある丘陵台地で、地理学的には笠置(かさぎ)高原という。 そこには山もあり草刈場も広い。そこで平野の農家は秋の取入と麦田の鋤起しがすむと山中に預けるのである。 山中ではそれから田植時期まで預かる。 そして自分の家の田畑の鋤起しに使う。 春田を起し田植をすますと、牛を追うて里へ下って持主の所へ追うていく。 この場合、預ける方は預け賃は出さない。 このような制度は大阪府の河内地方と大和西部の山地との間にも見られた。
     ところが、山中の方の者が牛馬を持っていて平野地方へ貸しつける風習も見られる。 大和平野と山中の間にもそれがある。 しかし大和平野の場合は、平野の者が山中へ貸す制度のほうが古く山中の者が平野の方へ貸すようになったのは新しいそうである。
    (《生きていく民俗》P.80)


     山中の者が平野地方へ牛馬を貸す風習の盛んだったのは、徳島県と香川県であった。香川県の讃岐平野は大和平野と同じく、すっかり開きつくされて、牛馬を飼う余地はいたって少ない。 そこで徳島県から牛を借りた。 徳島県の吉野川中流地方は山地が広いので、どこの家でも多くの牛を飼っていた。 その牛を田植の始まる前に日をきめて、阿波と讃岐の国境の峠の上まで引いていく。 すると香川の方から牛を借りたい人たちが沢山やってきていて、峠の上で取引する。 話がきまると香川の百姓たちは牛をひいて帰る。 仕付けがすんで牛がいらなくなると、牛の借賃としての米を牛の背につけて峠の上までひいていくと持主がきていて牛と貸賃をもらって帰っていく貸賃人夫賃の二倍にあたっていた。 すなわち、一日が四升から五升であった。 この牛をカリコ牛といっている。 秋の田起しのときにもカリコ牛の貸借が見られた。 そして阿波から借りるばかりでなく、高松の沖の男木島や女木島からも借りてきたものである。 島には牛を飼う余地のあるものが少なかった。
    (《生きていく民俗》P.80〜82)


     ◎鞍下牛と能登馬


    第2章 職業の起り

     1 村の職業

     ◎自分の家

     次に自分の家に住むことであった。日本の農村には借家住いはほとんど見られない。 たいていの人が自分の家に住んでいる。自分の家に住んでさえいれば、小作をしていても隷属農民とは見られなかった
    (《生きていく民俗》P.86)


     中には若干親方に家を建ててもらっている者があったが、それは隷属農民と見られた。 たとえば中国地方の山中に多い株小作などはそれである。 株小作というのは親方に家を建ててもらってそこに住み、親方の農地を耕作する農民のことで、小作料を親方に支払うだけでなく、吉凶その他農繁期などにも親方の家に手伝いにゆかなければならなかった。
    (《生きていく民俗》P.86)


     長野県の伊那地方ではこのような百姓を被官(ひかん)と呼び、石川県では地内子という言葉が使われている。 岐阜県山中では間脇分付(ぶんつけ)などの呼び方もあった。 また東北地方では家来カマドといっている。 いずれも一般の小作人とは異なっている。
    (《生きていく民俗》P.87)


     だから農民が自分の家を持つことをどれほど切望したことか。家を持とうとするときには村人全般の認可が必要であったが、認可されて村人となれば家をつくるのはそれほどむずかしくはなかった
    (《生きていく民俗》P.87)


     ◎大工と鍛冶屋
     家を建てようとするときには、まず村の総代の所へ行く。 するとたいていの村では総代がそのことを触れてくれる。 家々ではあまった材木、または棟木になるような立木もくれる。 すると家を建てたい者は木挽(こびき)をたのんでその木を切倒してもらう。 そして木出しをする。 山から里まで持ってくるのである。 村の者が出て手伝ってくれる。これはすべて朝食までの仕事であった。材木がそろい、大工がそれを組立てられるように切込みをすると、今度は建前になるが、それも村人が手伝ってくれる。 屋根は山中の村ならばカヤで葺き、里ならばムギワラで葺くことが多かったが屋根草カヤ講普請講に入っておれば、仲間のものが持ってきてくれた。
    (《生きていく民俗》P.87)


     だから小さな農家一軒を建てるにはほとんど費用はかからなかったのである。 ただ平野の村では材木に困ることが多かった。 古い家ならば屋敷林を仕立てておいて、その立木を建築用材に利用したものであるが、分家の場合はどうしても買ってこなければならない。
    (《生きていく民俗》P.87〜88)


     次に衣類なども木綿の流行するまではアサを栽培してその繊維を利用するか、蚕を飼って生糸をとるか、山中の民ならば、クズ・コウゾ・マダ・フジなどの繊維をとってつむぎ、布に織って間にあわせた。
    (《生きていく民俗》P.88)


     これらのことについては『日本人の衣食住』(本双書〈日本の民俗〉第2巻、瀬川清子著)にかなりくわしく述べられているので省くことにするが、とにかく、このようにして暮してゆけば村の中に店屋が一軒もなくても生活することができたのである
    (《生きていく民俗》P.88)


     ◎夜なべ仕事

     こうした村々では生活に必要なものをできるだけ自製自給した。 しかし自製といっても限界があった。 刃物を十分に持っていないのだから木工などは十分にできなかった。 また陶器のようなものも自分でつくることはむずかしい。山野にある植物のうち、手先とほんの少々の道具で処理できるようなものが利用されたのである
    (《生きていく民俗》P.90)


     の加工などもその一つである。日本の稲藁は実にしなやかである。改良によってしなやかになったのか、最初からしなやかであったのか。 藁を槌で打つとさらにやわらかになり、取扱いやすい。 そしてこれをなって縄にし、編んで菰をつくり、織って筵をつくる。 さらにをつくり、草履・足半(あしなか)・草鞋・藁靴をつくる。 その利用の範囲はきわめて広かった。 そして日本の農家では一戸残らずといってよいほど夜や雨の日に男たちは藁仕事をしたのである
    (《生きていく民俗》P.90〜91)


     そうして、ものを買わないですむということは金銭の働きを著しく少なくした。 また女たちはいろいろの植物の繊維をとってにつむぎ織ることによって衣類を自給した。
    (《生きていく民俗》P.91)


     そのほか箕・籠・背負袋のようなものを蔓草桜の皮などを利用してつくったものが多い。 また身のまわりのものをつくるばかりでなく、川魚をとる筌(うけ)のようなものまで自製することが多かった。これをつくる刃物といえば、鉈・鎌・小刀くらいにすぎなかった
    (《生きていく民俗》P.91)


     そしてそれらのものをつくるとすれば時間はいくらあっても足りなかった。 だから手の足らぬ家では人も雇い、夜業までしたのである。
    (《生きていく民俗》P.91)


     農民は同時に職人でもあった。ほんとうの農耕に費す時間は、すべての労働時間のうちの半分には達していなかったと思われる。そして自給度が高いほど誇りをもっていた
    (《生きていく民俗》P.91〜92)


     ◎物の貸し借り

     お客をするときの膳椀などもその一つで、これを揃いで持っている家は少なかった。 だから吉凶の際には持っている家へ借りにいったものである。 しかし親方の家などで借りるということは、それが気持ちの上の負担になる。 そして返礼の意味で親方の家へも手伝いにゆかねばならぬ。 大勢の客を招くことはよいが、膳椀を借りることが一つの苦痛であったことは椀貸し穴の伝説がこれを物語ってくれる。
    (《生きていく民俗》P.93)


     貧しくて膳椀を持たぬ者が、穴のところへいって「膳椀を貸して下され」というと必要な数だけ膳椀がそこに出される。 それを借りてかえって招宴をすまし、また持っていって穴の中におくといつの間にかなくなっている。 あるとき借りた者が一個こわして足らないままを返したところ、それからは誰が借りにいっても貸してくれなくなったという。
     この話は方々にある。 この伝説のあるような所には、招宴のとき村の親方などから膳椀を借りる習慣があったのであろう。
    (《生きていく民俗》P.93)


     ◎百姓以外の村人


     ◎僧と神主

     死者を取扱うことは、その死穢が身につくとして一般にはきらわれていた。 しかし僧がいなければやむをえなかったのである。 死人を埋める墓穴堀などは、たいてい村の者が順番に行ったものである。
     そんな有様であったから村で僧を雇うほどのゆとりさえあれば、必ず僧を雇ったものである。 そしてどんな田舎を歩いてみても、堂・寮・庵などの名のついた小さい寺が一つずつある。 現在は無住になっているけれども、もとは誰かが住んでいた。 旅からやってきた僧がそのまま住みついて死人の世話をしたり、占いをしたりして、そこで一生を終ると無住に成る。 そのうちにまた誰かがやってきて住みつく。 坊さんの宗旨は何宗でもよかった。 死人の始末さえしてくれればそれで事足りたのである。 その小さな庵にたまたまやってきた僧が知識も広く才覚ある者であると、庵をだんだん大きくして普通の寺にまで高めていくことも少なくなかった。
     一般に庵坊主とか、寮坊主と呼ばれる人たちは、村人からは軽蔑されていた。 出自もわからず、その上、死人の取扱いをするので村にはなくてはならぬ人とされてはいたが、その末路はさびしいものであった。 私は方々で寮坊主の思い出話を聞いて歩いたことがあるが、村人にとっては嘲笑的に語られている話が多い。
    (《生きていく民俗》P.97)


     ◎書き役


     2 流浪の民

     ◎門おとない

     あがり万歳のほかに門万歳というのが来た。 これは乞食万歳ともいった。 座敷へはあがらず、軒なみに歩いていった。 府中ではもう見ることもなくなったが、昭和三八年、この万歳を三重県の関の町で見たことがあった。 この地方にはまだ来訪門付が続いているようである。
     それから季節候(せきぞろ)が来た。 これは三十歳くらいまでの女が組を組んでやって来た。 そして一人が音頭をとり、他がそれにつれてうたった。
     祭文語りも毎年来た。 ホラ貝を吹き錫杖をならしながら祭文を語った。 ホラ貝を吹く回数を少なくすると浮れ節といった。浪花節−−今日浪曲といわれるものはこれから出たものであるという。 祭文語りは八王子に近い由木が本場で、そこからよくやって来た。
     瞽女(ごぜ)もよく来た。 瞽女は着物の裾を短くし、腰巻を出しているのが特色で、背中に袋を負って三人くらいが連れになっていた。 呼びこんで歌を歌わせたが、その歌は鈴木主水や八百屋お七などで、三味線にあわせて口説(くど)いた。 瞽女は新潟の高田地方が多かったが、府中へは山梨の瞽女が来た。瞽女はきれい好きで泊った家の座敷などきれいに掃除して立ち去った
     そのほか春駒猿まわし神楽獅子舞角兵衛獅子などが来た。 時期はさだまらないけれども、高野聖六部比丘尼なども時折門付していたものである。
    (《生きていく民俗》P.102〜103)


     ◎大道芸人以前
     ◎散所と河原
     ◎橋の下の人生
     ◎葬式坊主
     ◎捨聖


     ◎売僧
     「高野聖に宿貸すな、娘とられて恥かくな」という民謡が昔から行われている。 われわれの子供のころには、まだ唱えられていた言葉である。高野聖がどういうものであるかは知らなかった。 とにかく高野(こうや)か紺屋(こうや)かの区別もつかなかったが、旅人に宿を貸して娘をつれて行かれないようにせよ、というくらいの意味にしかとっていなかった。 ということは、われわれの子供のころには高野聖はもうあまり来なくなっていたから、実態がわからなくなっていたのである
    (《生きていく民俗》P.119)


     しかし郷里の幕末のころの文書を読んでいると、伊勢の御師高野聖に宿を貸してはならぬという布令が出ている。 これはそういう者の中にはスパイがひそんでいる。 藩内の秘密がもれるかもわからぬからであった。 そのころまではまだ地方を歩いていたものであろう。 家々を門付してを打ち詠歌を唱え、また念仏を唱えるだけでなく、この坊さんたちは、(おい)の中に小間物のようなものまで入れて売り歩いていたという。行商をかねていたのである。 時には高野あたりの札も配って歩いたが、高野とはたいして関係もなく、高野への骨上(こつのぼ)せなどもあまりしなくなり、たいへん堕落したものになっていたようである。 それで風儀も乱れてしまって、宿を貸すと娘の貞操を盗むようなことも多かったのであろう。 僧をさげすむ言葉に、売僧(まいす)というのがある。 このような行商の僧を軽蔑していった言葉であった。
    (《生きていく民俗》P.119〜120)


     だが、その初め、この仲間が村々をまわって不幸な死をとげた者のために祈り、また死者のあるとき、ねんごろに弔うようになると、人々はこうした念仏僧に強い関心を持つばかりでなく、人々の死者に対する埋葬の仕方にもおのずから一つの型ができてきた
    (《生きていく民俗》P.120)


     と同時に僧の仕事が、死者の埋葬や死後の法要に重点がおかれるようになってくる。このような体制の整ってきたのは中世末のころであったと思われる
    (《生きていく民俗》P.120)


     そして不幸な死をとげた者ばかりでなく、あたりまえに死んだ者に対しても、法要がていねいに営まれるようになる。それまでは死者があっても、一般の者はを建てるということはなかった。 だから中世末までは墓はほとんど建てられていない残っているとすれば不慮の死をとげた者の供養のためのものが多かった。
    (《生きていく民俗》P.120)


     中世の墓をたくさん残す所を調べてみると、そういう感じが深い。 たとえば和歌山県根来寺へ行ってみると、中世の年号の墓がずいぶんある。 その年号を見ていると年号の同じようなものが多い。戦争何かのために大量の死者があったことを物語っている
    (《生きていく民俗》P.120〜121)


     3 振売と流し職

     ◎ささやかな行商

     ところで、江戸時代には、振売門付をして歩くような商売がどれくらいあったであろうか。『守貞漫稿』によると、江戸で行われていた振売や流し職人だけでも百五十四種ある。 その中には自分でつくったものを自分で売りあるく者と、他人のつくったものを頼まれるか、または買い受けて売り歩くものがある。 そうした中から、そんなものまで商売になったのかと思うようなもの、あるいは今日ほとんど見られなくなったものをまずあげてみよう。
    (《生きていく民俗》P.122)


     京都の西の常盤というところから「おちゃないか」と呼びながら歩く小商人が出ていた。 「おちゃ」というのは「落ちは」という意味で、落毛抜毛のことである。 女が袋を頭にのせて家々を歩き、女の人たちの抜毛、落毛を買うのである。 それでかもじをつくるのであった。 昔は落毛・抜毛まで金になったものである。
    (《生きていく民俗》P.122)


     また小さな雑魚を売り歩く者がいた。 「談義坊売」といっていた。 これは「ダンギボウ」と大声で呼ばわりながら歩いたものである。 雑魚といっても淡水魚で、子供たちはそれを買って木桶などに入れて楽しんだのである。 近ごろ金魚を飼うのと同じであろうが、もとはありふれた雑魚まで金になったのである。
    (《生きていく民俗》P.122〜123)


     今、店先で売られている魚介野菜なども、もとは多く振売であった。 そのうちしじみ売は今も振売が続けられている。 豆腐なども古くから販売されたものであり、今日もその名残が見られる。 豆腐売によく似たものに糊売があった。 われわれが和服を盛んに着ていた昭和二〇年以前までは見られたものである。 着物を洗濯すると必ず糊をつけたもので、すると着物がピンとしていて着て肌ざわりがさわやかなものであった。
    (《生きていく民俗》P.123)


     のんきなのは油売で、呼び声からしてのどかであった。 さて油をはかるのに、その油が受けている容器に垂れ切るまで待っていなければならぬ。 見ているといかにも怠けているように映ったものである。 怠けることを油を売るといったのもそうした情景から出たものであろう。
    (《生きていく民俗》P.123)


     ◎販女
     地方に行くとまだ見かけることができるが、都会ではほとんど見かけなくなったものに、魚売がある。 魚売のことはさきにも書いた。 その初めはほとんど女が売って歩いたものであった。 古くは販女(ひさぎめ)といった。
    (《生きていく民俗》P.123)


     こういう行商は、食物と換えることもあったが金で売ることが多かった。 金といっても現金で取引されることは少ない。 もとはたいてい盆と暮の勘定であった。 お互いに文字を知っているわけではなかったが、記憶一つを頼りにしてどの家へ何回売ったか、何を売ったかを覚えていて、その金を要求すれば相手も支払ってくれたという。 中にはを書いておいて、お金をもらえば串刺しにすることもあったようである。人間の記憶は文字のないころの方が正確でまた忘れにくいものであったという
    (《生きていく民俗》P.124)


     ◎消え去った振売の小商売

     昔は古傘も買われた。こうもり傘修繕屋は明治になって発達したものだが、唐傘は江戸時代に入って都会地で多く用いられるようになり、どこの家にも傘はあった。 紙張で竹骨であるからいたみやすかった。 その古傘を買い、骨を仕替え、紙を張替えてもう一度用いたのである。
    (《生きていく民俗》P.128)


     機械が物をつくり出すのでなく、すべての物が人手でつくり出されたころには、物はすべて大切にされ、とくに金を出して買わねばならぬものを大事にした。 いたんだからといって、すぐ店屋へ買いに行けるものでもなく、振売にくるものを待たねばならず、その行商も一年に一度来ればよいというようなものが多かった。針売鼠取売筆墨売暦売もぐさ売銭さし売などは、一年に一度か多くて二度くらいやってきた。銭さしというのは、昔の一文銭は穴があいていたので細い藁縄の一方に節をつけ、それに銭をさして保存しておいたもので、商売する家ならば皆必要なもので、百姓たちがつくって正月ごろ町家を売り歩いたものであった。
    (《生きていく民俗》P.128)


     付木(つけぎ)というのは木を薄くはいだものの先に硫黄をつけたもので、硫黄木ともいった。 火種があって、これに硫黄のついた木をつけると発火する。 マッチのないころには重要な点火用具であった。付木売甘酒売は時折やってきたものである。
    (《生きていく民俗》P.128〜129)


     灰買いも町家へやってきた。 竈(かまど)の下にたまった灰を買いにきたもので、これは農家の肥料として売るのである。
    (《生きていく民俗》P.129)


     ◎小職の流し

     雪駄直しも今見かけなくなった。 第一雪駄をはく者がいなくなった。 これは皮細工をしている村から多く出てきた。 京阪地方では「なおし、なおし」といって歩いたというが、大阪南部では「なおう」といって歩いていた。 直す道具を肩にして声をたてて歩き、民家の軒下など借りてそこで直して仕事がすむとまた帰っていった。
     いずれもきわめてささやかな仕事だが、農民や商家の者では上手に直せないような日用品が身辺に案外多く、それを直す商売が生まれたのである
    (《生きていく民俗》P.030)


     ◎屎尿の処理

     とくに屎尿の処理には苦心したものであった。 庶民ならばどこで垂れ流してもよかった。 その風習は今もいたるところに見られる。 立小便などは至極あたりまえのこととされていた。 絵巻物など見ていると、『餓鬼草子』では空地のような所で脱糞放尿している。 そのとき、皆高足駄をはいている。 高足駄はそういう汚物のとばっちりを受けないようにするために用いられたものだということを、しみじみと思わせるのである。 少なくも今から八百年くらいまえの京都の庶民の家には、便所はなかったはずである。 便所を閑所(かんしょ)という地方の広いのは大小便を空地で行なった名残を示すものであろう。 ところが比叡山高野山では、流れの上に小屋掛して下の流れに落すようにした。河屋(かわや)という言葉はこうして起ったものかと思う。比叡山から流れ出る川の水は、僧たちの屎尿が含まれているので経文をとなえているという話も、京都あたりではまことしやかに伝えられていたほどであった。
    (《生きていく民俗》P.131〜132)


     便所らしい便所を絵巻物で見出すのは『慕帰絵』である。鎌倉時代の末ごろである。 溜(たまり)をつくり小屋を建て、踏板の上にまたがって用便する。 この場合には、汲取が必要になる。 一ヵ所に溜めることは町を清潔にしたが、同時にその屎尿を必要とする仲間がふえて来つつあったすなわち農家ではこれを肥料として田畑に使うようになったのである。 それまで田畑の肥料は草肥が多かった。 が、下肥もしだいに用いられてくる。町民が溜をつくって用便するようになったのは、こうして汲取ってくれる者が現れたからであると思う。
    (《生きていく民俗》P.132)


     この屎尿処理が見事に組織化されていたのは大阪であった。 そして大阪にはそれについて幕末ごろのいろいろの文献も残されている。 大阪平野ではナタネワタ野菜などの栽培が盛んで、多量の肥料を使った。 そこで魚肥を買入れたり、市民の屎尿を汲取って、それを川やクリークを利用して肥舟で運んで自村へ持って帰って田畑に使用したのである。 「野崎参りは屋形舟で参ろ」とうたわれた大阪から野崎にいたる寝屋(ねや)川などは、実は肥舟の往来のためにもっとも多く利用されたのである。 そして戦前までは男二人で肥舟をあやつって川を上下するさまを毎日見かけたものであった。
    (《生きていく民俗》P.132〜133)


     川のない所は牛車を使い、肥桶につめて運んだ。 もうあの音を聞くこともなくなったが、朝早く何十台というほどの牛車が車輪をきしませながら、ほのぼの明けてゆく河内平野を大阪の町から村へと帰っていくのを、村の民家に泊めてもらっていてよく聞いたものであった。 夜のうちにいって汲取っては朝は帰っていったのである。
    (《生きていく民俗》P.133)


     そのころ、市役所トラックもずいぶん運んでいたものであったが、古くからの縁のつながっている町家と農家との間では容易に絆が切れなかった
    (《生きていく民俗》P.133)


     これはひとり大阪だけのことではなく、町と名のつく所には、大なり小なり同じような状況が見られた。 ただ大阪や東京では屎尿を汲取るには町家に金を支払っていたが、地方の町では農家から野菜を持っていくのが普通であった。 その米も餅米が多く、町家ではそれで正月餅も搗くことができた。 大阪などでも昭和二〇年ごろまで、まだ農家から米をもらっていた町家があったが、それは町の周辺部のことで、市内中央部では逆に汲取料を町家から取立てるようになっていた。
    (《生きていく民俗》P.133)


     ◎屎尿でつながれた町と村
     屎尿が町と村を結んだ関係は大きかったので、もうすこしのべてみたい。
     屎尿のようにむさくるしいものを運ぶということは、昔からたいへんきらわれたことであった。 といって、人家がたくさんできてくると、おのすから排泄される者も多くなってくる。 そして自分たちでは処置がしきれなくなるので農家を頼む。 しかし新しく住みついた町民たちは郊外の農家ともなじみがうすい。
     たとえば大阪を例にとると、大阪の北や東または南の方の摂津・河内・和泉などの農村に接した町はずれに住みついたものは、農家に頼んでまだ何とか処理ができたが、もとは肥舟をつくって海の沖に捨てにいったものだというすると漁師たちから文句が出る漁師の眼を盗んで夜陰に捨てにいくようにしたが、それでも処分できなかった。 ところが大阪の港区という所は岡山県・香川県から来ている人が多い。 そこで郷里の百姓たちに頼んで屎尿を汲取りにきてもらうことにしていた。 昭和二〇年、米軍の爆撃を受ける前に、港区に住んでいる香川県出身の者は十八万人にのぼっていたが、当時肥舟まで軍部に徴用され、屎尿の処理に困っていた。 そこでやむなく海上へ放棄することを強行した。 それまではともかく郷里の者たちが舟で屎尿の汲取りにやってきていたのである。
    (《生きていく民俗》P.134)


     4 身売から出稼へ

     ◎人身売買の歴史

     また戦に敗れて被占領地区となったところの者を、奴隷として売買することも行われていたようで、ルイス・フロイス『日本史』にも見える。 すなわち、薩摩の兵が豊後に攻め入ったとき、そこで捕えた人々を、羊か牛のように長崎県の高来郡まで連れていって三十人、四十人を一まとめにして売りとばした。 多くは女と子供であった。 しかしその値はきわめて安いものであった。
    (《生きていく民俗》P.137〜138)


     ヨーロッパには人身の売買はきわめて盛んであったが、日本にもそれが見られ、天文年間、ヨーロッパ人が来航するようになってから拍車をかけるにいたったと思われる。ポルトガルから渡ってきた商人が村々の子供をさらい、また買いつけ、それを東南アジア各地へ売ったのである。 フロイスの著書に、永禄五年(一五六二)の春、ポルトガルの商人マヌエル・メンドサが豊後から薩摩の京泊へ向う途中、肥後の国で連れている日本奴隷の一群を奪われたことが見えている。この奴隷は薩摩の豪族に売るものであったか、国外に売るものであったか明らかでないが、外人に買いとられて海外に売られた人の数は多かったようで、ポルトガルの国王は日本人奴隷の売買禁止令を三回も出している
    (《生きていく民俗》P.138)


     これは日本に人身売買の慣習があったので、それを利用してのことであると思われるが、とにかく一地域であまった人は売買によって処分したもので、対馬に多数残っている中世の郷土文書にも「人の売口買口(うりくちかいくち)」による利益を認められていた事がずいぶん見えている。
    (《生きていく民俗》P.138)


     そして売買されたのは子供ばかりでなく、立派な学問のある僧までが、自分を売った例があった。 また能登には凶作のために名主がやはり自分自身を隣村の庄屋へ売った文書が残っている。 そして隣村の庄屋で下男奉公をしているのである。 名主といえば今の村長にあたる。
    (《生きていく民俗》P.138〜139)


     ◎子供を売る
     このようにして売られていった者は、再び郷里に戻ることは少なかったようである。 そしてこの人身売買は近世から現在まで尾を引いて続いてくる。 貧しい世界では口へらしのためになかなか後をたたなかった。 明治の終りごろまで、関東地方に多く見られた最上(もがみ)ッ子などもその一つで、山形県新庄地方は東北でも生活レベルのとくに低いところであり、貧しい家では八、九歳から十歳すぎくらいの子供を、女衒(ぜげん)に売った。 女衒というのは女を売買する者のことである。最上地方では主として五十歳前後の老女であった。 それが買いとった子供の腰に縄をつけ何人というほど数珠つなぎにし、牛でも追うようにして、野越え山越え関東平野まで連れて来て農家に売りつけたのである。
    (《生きていく民俗》P.139)


     数珠つなぎにしないまでも子供を売る風習は戦後にまで見られ、福島県会津山中の子供たちが関東平野に売られていたのが新聞で騒がれたことがあった。
    (《生きていく民俗》P.139〜140)


     そしてそういう例なら、いたるところにあった。 庄屋などの古い文書を見ていると、必ず一通や二通の人身売買質物奉公証文を見出すものである。 質物奉公というのは人に金を借りて、質草のないとき子供なり女房なりを相手の家に奉公させるものである。
    (《生きていく民俗》P.140)


     このようなことは東北の例を引くまでもなく、どこでも見られたのである。 ただ名目が変っていた。関西地方では前借の形式をとった。 つまり質物奉仕と同じである。 三年、五年の年期をきって、その間の借金を前もって借りるのである。 しかしその金は娘の手に渡るのではなくて、親の手に渡るということで、実質的には人身売買であった。 こうした場合にも世話をする老女がおり、これを人博労などといった。
     明治大正時代の紡織や製糸の女工なども、こうした前借で工場に雇われた者が多く、そうしたシステムの中から日本の繊維産業は発達していったとも見られる。
    (《生きていく民俗》P.140〜141)


     ◎行商・出稼の村

     出稼はこうした人身売買についであらわれた雇傭の形式であった。 人身売買や質物(前借)奉公が、一年ないし数年の間、身柄を拘束されて主人のために働かなければならなかったのに対して、出稼の方は一年のうちのある期間を自家をはなれて稼ぐもので、質物奉公に見られるような強い身柄の拘束はない
    (《生きていく民俗》P.141)


     ◎越後の毒消売り
     越後の毒消売りを見ると、西蒲原郡浦浜村(現、巻町)角海浜称名寺(真宗)でつくったのが最初であるといわれている。 初めは寺のみでつくっていたものを、後に篤信檀徒一代限り製造を許すということになって、民家でもつくるようになる。 民家といっても付近の医者たちであった。 そしてそれを村の娘たちに行商させ、しだいに販路がひろがっていったのだが、一旦、権利をもつと製造家たちは一代限りどころか、皆世襲していったのである。
    (《生きていく民俗》P.143)


     今、毒消しをつくっている角田浜角海浜越前浜などは、いずれも日本海に面した漁村で、漁獲が減ってくるにつれて、製塩に力を注ぐようになってきた。 製塩といっても瀬戸内海地方に見られるような入浜ではなく、揚浜自然浜であった。 能率の上らない上に人手が多くかかる。 その人手をおぎなうために背後の農村から貧乏な家の子や親のいない子をもらってきて育て、家の仕事を助けさせた。 これをこの地方ではスケゴといった。 スケゴには男の子も女の子もあり、男の方は漁業の手伝、女の方は家事の手伝、夏は塩浜働きワカメ売りなどさせた。 日本の海岸地方のどこにも見られた風習の一つであり、年ごろになると女の子は嫁にやり、男の子には嫁をもらって分家させたり養子にやったりする。 中には生まれた村へ帰っていく者もあった。
    (《生きていく民俗》P.143〜144)


     ところが、明治四三年塩専売制度がしかれると、能率のあがらぬこの地の塩浜は廃止の運命にあって、人手があまるようなことになった。 男の方は大工・石工などになったが、女の方はワカメ売りと同時に毒消しも持って歩くようになった。
    (《生きていく民俗》P.144)


     ◎かつぎ屋

     朝の上野駅で下車すると、大きな風呂敷包を背負った女たちの群に眼を見張る。 それはおびただしい数にのぼり、その荷を背負って町の朝霧の中に消えていく。高崎線・常磐線・総武線などにつながる田舎から出て来た人々である。 米・野菜・卵・餅など注文すれば何でも持ってきてくれる。
     最近こうしたかつぎ屋は中間商人的なものではなく、農家の主婦が多くなった。 自分の家でつくったものを一番有利に売ることはこうして他人を間におかないで直接販売することである。 そしてその利潤の蓄積によって小型軽四輪車を買って、品物も大量に持ってきて効果をあげはじめているものも少なくない。
    (《生きていく民俗》P.147〜148)


     ◎女の出稼

     出稼が発達したについてはいろいろの条件があり理由があった。 その初めは人身売買が主であったみとは前述の通りであるが、家を持ち、田畑を持ち、曲りなりにも生計を営んでいる者なら、身は売らなくてもすむ。 ただあまった労力を売ればよい。
    (《生きていく民俗》P.148)


     ◎都会の人足
     「頼まれれば越後からでも米搗きに」という言葉があるが、都会が発達し、そこに集った人たちが米を食い、それを白米にしなければならないとすれば、今のように精米機があればともかく、人力で精白にするのはたいへんな労力が必要であった。 その米搗きのために江戸へは上州信州越後などからたくさんの農民がやってきた。 そして米屋に雇われて米を搗いた。 米を搗くには唐臼を用いた。 大きな臼に米一俵を入れ、台の上に上って杵の一端を足で踏みあげ、杵で臼の中の米を搗く。一日で一石搗ければよいとされたもので、朝から晩まで搗くと晩には足が棒のようになった。
    (《生きていく民俗》P.151)


     人口がふえ江戸市民百万をこえると、米の消費量は百万石をこえる。 一人が一日に一石ずつ搗いて一年中休まないとしても、一年には三百六十石、すると三千人の人がいなければ百万石の米は搗けないことになる。 実際には年中搗き続けられるものではないのだから、米搗人足だけでも江戸に五千人や六千人は必要であっただろう。
    (《生きていく民俗》P.151)


     米搗人足には町に飯場があって、そこへ米屋酒屋餅屋などから人足の注文に来る。 人足の事を大坂では飯台子(はんだいこ)といった。 注文があると、旦那は飯台子を注文した家へ差し向ける。 一日稼ぐと一日ごとに賃が出る。 旦那に飯料の支払いをしたあとは自分のもので、風呂へいったり、時には安い淫売女を買うこともあったというが、たいていの者はその金をためて、農繁期になると郷里へ帰っていった。
    (《生きていく民俗》P.152)


     米搗きだけでも何千何万という出稼人を必要としたのである。 そのほかに冬の火の用心番掃除人夫から薪割り普請手伝商家の出前風呂屋などまで含めると、とにかくおびただしい人夫がいなければ町家の運営はできなかったものである。
    (《生きていく民俗》P.152)


     そしてそれらの出稼人足は何らかの縁故を頼って都会へやってくる。 そこでおのずから一つの村の出稼先が一定してくるようなことになる。 東京の風呂屋の三助能登からたくさん出ている。 明治になって急増したというが、江戸時代にすでにたくさん出ていた。 そして江戸で金をためた仲間で郷里の寺へ梵鐘を寄付した記録なども残っている。左官能登からたくさん出ている。 これは百姓ではなく、鋳物師の人夫で、夏は鋳物ができないので、その間、江戸へ出て左官をやり、冬になると帰って鋳物の仕事をしたという。
    (《生きていく民俗》P.152)


     越後からは大工がたくさん江戸へ出た。 また夜の火の用心などもこの地方の人が多かった。 年老いた男が番小屋で一人暮しをし、寒い夜空を提灯を下げて見まわる。 いかにもうらぶれてわびしいが、聞けば郷里では大きな屋敷を構え倉を持ち、名主も勤めた男だという。 江戸と田舎とではそれほど暮しに開きがあるのかといった記事を読んだ記憶がある。
    (《生きていく民俗》P.152〜153)


     またこうした人たちを町へ受け入れるための口入屋(くちいれや)も、もとはずいぶんたくさん見られた。縁故を頼るだけではすまないほど都会での下級労働者の需要はふえてきたのである
    (《生きていく民俗》P.153)


     ◎杜氏

     北陸地方も越前のほかに能登越後などに杜氏の村が見られた。 能登は能登半島の突端に近い上戸(うわど)(珠洲(すず)市)が中心であった。 そこに甚三郎という者がいて、明和三年(一七六六)、近江八幡へ出て“能登屋”という出稼部屋をはじめた。 そして主として酒造人夫の世話をしたのである。 そのころ酒造地では人夫が大いに不足していた。 この人夫はただの人夫ではなく、技術を必要とした。 したがって新しい酒造家は技術をもった労働者を必要とし、よい技術者を雇うことができれば酒造業はそれだけで成功したものである。 ここの杜氏は美濃・尾張の方へ出稼した。
    (《生きていく民俗》P.156)


     越後は高田付近が杜氏の産地で、ここから関東平野に出稼にゆくものが多かった。 そしてそれぞれの地で酒造業者になったものも少なくなかった。 岩手県の志和などもすぐれた杜氏の産地として知られていたものである。
    (《生きていく民俗》P.156)


     ◎熊野の杣人
     一人一人が出ていくのでなく、村人がかたまって出て行くような出稼も、早くから見られたものである。 それはその初めは単なる出稼ではなく、集団移動していたものが、ある一カ所に定住するようになって後、その定住した所だけでは生活がたち難いためにより広い生産領域をもとめて移動し、そこでの仕事が終ると、またもとの所へ戻ってくる、いわゆる回帰性移動の一種と見られるものであろう。 そしてそれに類するような出稼はもときわめて盛んだったのである。
    (《生きていく民俗》P.156)


     たとえば熊野杣人(そまびと)などは、実によく方々へ出稼にいっている。 熊野山中は昔からすばらしい天然杉の産地で、それを伐り出す杣人の群がいた。 古代から見られた熊野船はそうした材を用いてつくられたものであろう。
    (《生きていく民俗》P.157)


     もとはどんな大きな木でもマサカリ一本で伐ったものである。 それを木挽段切し、さらににしたのである。 板にしないものはヒョウが山から谷川まで鳶口一つで落してゆく。 材木のうんとたくさんあるときは、シュラを組んでその上をすべらせる。 シュラは材木を溝のようにならべたものであるが、これにはなかなかむずかしい技術が必要で、何百本という材木を落しすべらせてもシュラがくずれるようなことがあってはならぬ。 さて川に落すと、その川が広いものであればそこで筏(いかだ)を組む。(そま)・木挽ヒョウ筏師(いかだし)はそれぞれ別々に仲間を組んでいたものであり、またこれだけの仲間がいないと 木を伐って海岸まで出すことはできなかったが、それではこれらの人が一村の者で組織できるかというと、そうはいかなかった。木挽は木挽、ヒョウはヒョウ、杣は杣でそれぞれ出自の村が違っていたものである
    (《生きていく民俗》P.157)


     ◎樽丸師


    第3章 都会と職業

     1 手職

     ◎町の発達と職人


     ◎手職の発達
     そしてそこに住む人たちは、百姓のように、一人で耕作から調製、あるいは衣類をつくったり家を建てたり、あらゆることをやるのではなく、一つのことだけをやっていた。 そういうものを家職(かしょく)といったが、家職が成立つには自分のつくったものが売物にならなければならなかった。 そういう家職が、しだいに家職らしいものになりはじめたのは、鎌倉時代のころからではなかったかと思われる。 そのころから同じような仲間が集ってを作っている。
    (《生きていく民俗》P.166)


     建保二年(一二一四)秋に、そうした職人たちが東北院(とうほくいん)に集って歌合せをしたという趣向を絵にした『東北院職人歌合絵巻』によると、そこに登場する職人は、医師鍛冶屋刀磨巫女海人陰陽師番匠鋳物師博打(ばくちうち)賈人(あきびと)である。 当時、職人とわれたものは、今日とはかなりちがったものであったことがわかる。巫女や医師や賈人まで職人と考えられていたのである
    (《生きていく民俗》P.166)


     ◎職業座

     そして座に属する者は貴族や社寺からその権益保護されており、座外の者がこれを犯すことは許されなかった。 もし強いて権利を得ようとするには、廃絶した座仲間の家の権利を買うか、多くの金を積んで座に入れてもらうしかなかった。 そうした中にあって、番匠座株の権利は特に尊ばれた。 番匠とは大工のことである。 社寺の多い近畿では、大工仕事は予想外に多かったし、またそれには高い技術を必要とし、東大寺・興福寺・春日神社などにはそれぞれ専属の大工がおり、それぞれの社寺の仕事をしていたが、他に大普請のあるときには雇われてゆくこともあった。
    (《生きていく民俗》P.171〜172)


     日本という国は、古い由緒の尊ばれる国であった。 また権威ある者の庇護をうけるということによって、その地位が守られた。 権威があるといっても、実質的に強いものではなく、力を加えられればすぐくずれていく程度のものではあったが、それでもその庇護をうけているということで、周囲の同業者を威圧することもできたのである。 否、威圧する力を失った後も、なお由緒を尊び、由緒ある事を誇りとした。刀工が今も刀を鍛えるとき侍烏帽子直垂を着、大工の棟梁が晴の日に烏帽子素襖を着用するのも、古い時代の座の行事に着用したことの名残であろうか。
    (《生きていく民俗》P.172)


     ◎座の残存

     たとえば、家の中でも家にいろりのある所を見るとよくわかるが、主人の坐るのは横座、主婦の坐るのはかか座、客の坐るのは客座などときまっている。 地方によって呼び方に違いはあるが、それぞれの占める位置ははっきりきまっており、しかも全国ほぼ共通していた。 それがいろりがなくなってから、その座席がしだいにくずれてくることになる
    (《生きていく民俗》P.174〜175)


     家々でお客をする場合にも、村で人の集るときにも、誰がどこに坐るかはもときまっていたものであった。 その場合、大きく分けて村の長老が上座を占める場合と村の旧家の者が上座を占める場合とがあった。そういうことが、村の成立事情をそのまま物語っているのである
    (《生きていく民俗》P.175)


     われわれの日常生活する所を座敷というのも、こうしたお互いの占めるべき位置を示したからきたものであった。 そして今日のように、座の観念や秩序が乱れてきても、いろいろの会合のあるとき、誰がどこに坐ってもらうかはいつも主催者側の一番心をくばるところだが、民間の会合などに役人が出席すると、たいてい上座を占めさせることになるのは職業に対する貴賎観の残存によるものであろう。
    (《生きていく民俗》P.175)


     ◎大工仲間


     ◎居職の町

     また本郷一丁目から先は商店街で、とくに伊勢商人が多く、伊勢利伊勢丹伊勢庄伊勢仁伊勢原をはじめ、大きな呉服屋があって呉服の流行は本郷からといわれたというが、今は見るかげもない。 また四丁目から先加賀屋敷の普請のとき立退きを命ぜられ、今の新橋付近に移って繁栄するにいたったという。 また建具職人たちも明治の初めには日本橋小伝馬町集団移動して、本郷からほとんど姿を消すにいたった。 このように移動が比較的容易に行われたのは借家住居が多かったからで、江戸ではそのような現象がしばしば見られた。
    (《生きていく民俗》P.180)


     それでも家にいて仕事ができるということで、これらの人は行商人とはおのずから異なっていた。『女紋(おんなもん)』という立川文庫の作者を主人公にした小説の書き出しに、大阪の町のおもかげを浮彫にしたような一節がある。立川文庫の作者は、猿飛佐助・霧隠才蔵・三次青海入道・由利鎌之助などの豪傑を生み出した人だが、その生活はけっして豊かではなく、大阪の阿波座の町家の二階を借りて住んでいた

       阿波座の町々は居職(いじょく)の多いせいか、夜があけると、一度に動きが活発になる。 居職とは家内職のことで、傘の骨に布を縫いつけるたぶづけ、シャツのボタンづけ、ムギワラ帽子のピン皮張り、こたつの紙張り、下駄の花緒の芯作り、フスマの張替屋活版屋の下請け木型屋女髪結などである。
       錺屋(かざりや)ふいごの煙、花緒屋が打ち出す麻糸のみじんぼこりなど、まだ春もやには早いが、空の青さはうす葉を張ったように、阿波座はいつも汚れた感じの町だ。
       「おこうやん昆布(こん)まきあげさん切干し……
       また物売の声が低い軒を通ってゆく。
       階下の人は傘のたぶづけ職だ。 その子が、さっきから泣いたり止んだりしている。 おおかた、カステラ紙買いたいと五厘せぶっては泣き、やっと五厘にぎると今度は、紙ごと噛みついて涙を干しているのか。カステラを焼くとき下に敷く紙に、わずかにカステラがひっついているのを、駄菓子代わりに売っている
       物売が次々と声を張って来る。
       「一銭九厘やだっせえ、三宅油椿油、くせ直しにぴらんかずら(美男葛)も揃てます」 「荒物はどないだす、しっくい流しカンテキやせ男……
       やせ男はお灯明につかう灯芯のことである。 居職の人たちは根仕事の肩休めに売り声に誘われて門口に出て行っては、おかましい口合戦を始めていた。

     この文章は実によく大正末ころまでの大阪の職人町の情景を描いている。 昔は町並は表通をのぞいては店舗は少なく、長屋が続いていて、その長屋は仕舞(しもた)屋と職人の仕事場から成っていた。 そして二階はまた他人に貸して間代をとっていた。 二階といっても錣(しころ)くずしの中二階が多く、天井はなくて屋根裏がそのまま窓まで下っていて、立って歩けるのは棟に近い方だけ。 部屋の半分は中腰にならねば歩けぬようなところであった。 だからこの小説の主人公の借りている二階などは、天井のある部屋だとおもわれるからよい方であったといえる。
     それにしても都市の発達が多くの職人たちを町に住まわせて居職させるようになってきたのである。 しかも居職の発達によって職の専業化が進んだといってもよかった。
    (《生きていく民俗》P.180〜182)


     2 市と店

     ◎市の意義

     黒曜石のなかった近畿地方には奈良県二上山麓から出るサヌカイトが多く使用され、早くから近畿文化圏ともいうべきものがあったことがわかる。  その石器に代って鉄器が登場すると、鉄の産地を中心にした交易圏が成立したであろうが、やがて統一国家が成立して鉄や鉄製品は調として大量のものが朝廷に献上されるようになる。 生活上欠くことのできない塩なども、各地から調塩として都にもたらされている。
    (《生きていく民俗》P.183)


     そしてそのような物資のうち、生活に必要なものは現物給与として役人たちに配分されたであろうが、余剰物資は市にかけられたのではなかっただろうか。 平城京には東西二つの市があり、そこでいろいろの品物が取引されている。
    (《生きていく民俗》P.183)


     都ばかりでなく、地方にも市は多かった。 その市に出て余剰物を売り、必要なものを買ったのである。行商はその初めは生活をたてかねた者が、物乞の一つの形式として発達したものと見られるけれども、対等に品物が交換されたことが特色である。 そしてそこには選択の自由もあった。
    (《生きていく民俗》P.183)


     しかし市は年中開かれているものではなく、日をきめて行われたものであって、市日でない日にはそこはさびれはてていた。『一遍上人絵伝』を見ると、信濃伴野・備前福岡・淡路志筑などの市屋のさまが描かれている。掘立の丸木柱に簡単な草屋根で壁も何もない。 このような市屋は、つい最近まで中国地方の牛市によく見られたものである。
    (《生きていく民俗》P.183〜184)


     しかし市日になると、そこに商人が集って来て、それぞれ間仕切をして自分の店を出す。 備前福岡の市ではそうした市屋で物の売られている様が描かれている(『民俗のふるさと』旧版八二頁参照)。
    (《生きていく民俗》P.184)


     こうした常設的な市のほかに、臨時の市も開かれたものではないかと思われる。 平安末ごろの文献を見ていると、虹の立った所で市を開いたという記事がいくつもある。 虹は神の渡る橋であると考えられていたので、虹の立った所へは神が降りてくると考えたためであろうが、そういうときには野天に市が立つわけである。多分そこに市神を祭って、それから人々が市を始めたものであろう
    (《生きていく民俗》P.184)


     市は通常月に六回開くものが多く、これは六斎市(ろくさいいち)と呼ばれていたが、中には一年に一回開かれる市も少なくなかった。 武蔵府中の大国魂神社のそばで開かれる野天市などは年一回であったが、いろいろのものが出品されたのでたいへんにぎわった。 しかし、至極のんびりしたもので、客が金物屋に、
     「鍋が一つ欲しいのだが
    と声をかけると、
     「今年は持って来ていませんから来年持って来ましょう
    と約束する。一年くらい待つのは何でもないことであった。 さて翌年になって持って来た鍋が大きすぎたので、
     「それではまた来年よさそうなものを持って来ましょう
    と金物屋は約束してくれる。 三年目にいって見るとやっと思うようなものを持って来ていた、というほどのんびりしたものであったという。
     地方の農具市種物市など、皆同じようなもので、たいていは一年一回で、今年注文しておくと来年持ってくるという有様であった。
    (《生きていく民俗》P.184〜185)


     市には商人が店を出すだけでなく、百姓たちも店を出すことが多かった。 そして食物野菜をはじめ、竹細工藁細工などを売った。 今でも東北地方の市には百姓の女たちが並んで物を売っているのをよく見かける。
     そして世の中があわただしくなり、また人の動きが多くなるにつれて、市を開く回数も多くなっていったのである。 市が物を交換するために果した役割は大きなものである。
    (《生きていく民俗》P.185)


     ◎市場商人

     ◎店の発達

     見せ棚は小屋掛けでもなければ野天でもない。 家の中に見せ棚を持っている。 家の中にある見せ棚というのは、商売をする方からいえば一つの誇であったと考えられる。 その事から、見せ棚をもつ家−−すなわち店家はそのことを表示するようになった。 店家が○○屋という屋号を持つようになったのはそのためであると思われる。 しかし屋号が一般化したのは室町時代からのことであった。 初めには宿屋が屋号を多く用いたようである。
    (《生きていく民俗》P.190)


     だが江戸時代になって、一軒構えた店になると、ほとんど屋号を持っていた。 初めは絹屋・米屋塩屋などというように商品名をつけたものから、後には出身地をつけたもの、縁起をいったものなどいろいろあらわれては、その伝統は長く伝えられて今日にいたっている。 そして大きなデパートの中にも高島屋・松坂屋・松屋などをはじめ、昔のままの屋号を使用している例は地方にも多く、さらに一般にも屋号を持つ店はきわめて多い。
    (《生きていく民俗》P.190)


     ◎問屋の機能

     ◎親方と金貸し

     ところで、田舎の質屋は裏口から入るようになっているものが多かったし、質草を持ってくるのはたいてい夜間であった。 その質屋が神奈川県の厚木付近の五百戸にたらぬ村では明治の中ごろに十軒あまりもあったというし、京都府福知山付近の村でもやはり十軒以上もあったという。 京都を中心とした付近の村には質屋はとくに多かったようである。 そして質屋をしているような家が多く親方の家であったという。 このような現象は中世に見られた土倉の伝統を伝えるものであろうか。土倉というのはもともとは倉を持つ市場商人のことで、百姓たちは土倉が金を持っていることから、食物農具などをに入れて金を借りることが多く、その金が利子の高いために返しきることができなくなって、土地をとられ、流離の民となることも少なくなかったが、中には土倉に隷属して小作人になるものもあった。  地方の地主の中には、これと同じような方法で高利貸をしながら土地を集めていった地主が少なくなかった。
    (《生きていく民俗》P.195〜196)


     ◎社会保障と親方

     また労力の不足なども、ユイ(労働交換)の組をつくってお互いに助けあって処理しているのが普通であった。
     そのような協力がなされたにしても、なお家々の大きな災厄に対する力は弱く、そうした組織だけではそれに耐えることがむずかしかった。 そこでより大きな力に頼ろうとした。 親方の家はそうした力を持っているものが多かった。
     つまり、ほんとの社会保障は個々の小さな力の結集だけではどうしようもなくて、より大きな力に頼らざるをえなかったのである。 しかしそのような保障が個人によってなされるということは、保障される方の側は保障する者に対して、いつも恩や義理を意識しなければならない。 つまりいつもその恩をどこかで、何らかの方法でかえさねばならぬという義務の観念でその人に結びつかねばならなくなる。 借りたものは利子までつけて返したとしても、困ったときに貸してもらったからこそ急場がしのげたという恩だけはのこっていく。
    (《生きていく民俗》P.198)


     それも日ごろは疎遠にしている者が、困ったからといって突然借りにいっても貸してくれるものではないから、日ごろから親しい関係を結んでおかなければならなかった。 つまり力のある者を力のない者が親に頼んだのである。 したがって、オヤッサマといわれる家には多く子方がついていた。 子方の多い家ほど勢力があった。
     このような組織は、農村を基盤にしてあらゆる社会にひろがっている。 そしてどこにも親分子分の関係が見られる。
    (《生きていく民俗》P.198〜199)


     ◎半期勘定


     3 職業訓練

     ◎一人前

     山アテばかりでなく、潮の流れ、波のうねり方まで知っていなければ、海底の魚の状態を知ることはできない。 それには小さい時から海に親しみ海で暮し、海のあらゆることを知らねばならなかった。 その時期に小学校などへ行っていたのでは、そうした技術を身につけることができないといって、漁師の親たちは子供をなかなか小学校へやらず、長期欠席が多かった。 そのような現象は戦後まで続いていた。
    (《生きていく民俗》P.203)


     農業は釣魚ほどでなくてもやはり子供の時からの訓練が必要であった。 まず荷を背負うこと鍬を使うこと草を刈ること肥桶をかつぐことなどが人並にでき、さらに牛を使うことができれば一人前とされたのである。 農民として一人前という単位は、重要な意味をもっていた。一人前であるということによって交換労働も成立つのである。 Aの働きは一であるが、Bの働きは〇.八というようになっているとすれば、AとBとが一日ずつ労働交換をすればAの方が〇.ニだけ損をすることになる。 各自の能力差が問題にされることになると、換算がうるさくて交換労働は成立ちにくくなる。
    (《生きていく民俗》P.203)


     また道つくりとか、溝さらいとか村人がいっしょに働くような場合にも、能率差を認めるとなると同じ一日出て働くにしても同じ時間働くのであれば、能率のあがる者には不平が出るであろう。
     そこで仕事の量など見はからって、普通の人で一日どれくらいできるかを定め、それだけの仕事ができれば一人前と見る一人前以上の能率については、共同労働交換労働の場合には問題にしない
    (《生きていく民俗》P.203〜204)


     さらにさきにのべたように百姓としていろいろの技術を身につけた一人前がある。 人を賃銀を出して雇うとき、その一人前が基準になったのである。 かくて村の中で生産面における協力体制をつくり出したのは、この一人前の考え方があったからで、人々は一人前のことのできるように皆努力、訓練したのであった。
    (《生きていく民俗》P.204)


     ◎職人の徒弟修業


     ◎丁稚奉公

     十五、六歳になると半元服といって前髪はそのままであるが額(ひたい)に角を入れる。 そして名前も幼名をあらためて、本名の頭字の下に吉か松かをつけて通り名にした。たとえば私の場合ならば常吉常松と呼ばれるわけである。 そして半人前として取扱われることになる。丁稚の間はタバコを吸うことを許されず、羽織は着られず、足袋もはくことを許されなかった。 冬など寒さにふるえながらもそれに耐えたのである。 そしてそのような修業をしなければ、一人前の商人にはなれないと考えたから、かなり立派な町家の子供でも、丁稚奉公に出るのはあたり前とされた。
     丁稚の間の給与といえば食べさせてもらって、着物・下駄などを主人からもらう程度であった。 これをおしきせといった。 富家の子供が丁稚奉公をする場合には、親の方が着物や下駄などを与えたが、雇主の方はそういう家の子弟も一般雇傭の子弟も区別をしなかった。 区別すればほんとうの修業にならなかったからである。 つまり「他人の飯を食う」ということは、つい最近までは若い者の当然経なければならない体験の一つとされていたのである。
    (《生きていく民俗》P.208〜209)


     ◎手代と番頭
     ◎商売繁盛の願い

    4 古風と新風

     ◎信用と不正
     町場と呼ぶ農村とは違った社会が発達するにつれて、農民とは違った生き方をする人たちが、そこで生活を始める。 そこでは自分の身につけた技術と、よりすぐれた品物と生活に必要な物が売りものになる。 農民の生活に見られるような、間に合せ主義は許されなくなる。 と同時に一人前以上のものが要求されることになる。
    (《生きていく民俗》P.215)


     しかもすべての生産が人力によっていたのであるから、技の向上がいよいよ強く要求されることになりながら、商品そのものはその生産を無限に高めることはできなかった。
    (《生きていく民俗》P.215)


     明治の初めころまでは、都会をとりまく農村が都会で生産するものをそれほど必要とすることはなかった。 都会で生産するものを農村はいったいどれほど必要としたであろうか。 生きていくために必要な米麦野菜の類は農村でつくるものであり、塩も海辺の村々でつくった。 鉄もその産地は中国地方や東北の山中で生産されて方々へ輸送された。 家を建てる材木も山中で伐られ川を下して主として都会へ送られたのである。 つまり量の多い物資のほとんどは都会が消費地であって、都会で生産されたもので地方へ輸送されるものといえば、木綿・酒・小間物・薬・書物などほんの少数にすぎなかった。 そのうち木綿などむしろ田舎で織られたものが、一旦、大阪や名古屋の問屋に集り、そこから方々へ仕向けられたといってよかった。
    (《生きていく民俗》P.215〜216)


     だから都会の問屋はその初めは地方からの荷受問屋として発達したのであるが、方々に都会が発達するにつれて、都会と都会の間に物資の交流が見られるようになってくる。 まず大阪から江戸へ荷物が大きく動きはじめて江戸向荷物を取扱う二十四組の問屋の結束が見られる。 江戸ではこれを十組の問屋で受けつけることになる。
    (《生きていく民俗》P.216)


     大阪と江戸の間ばかりでなく、それぞれの地方都市との間の取引も問屋によって行われた。 そして農村の必要とする都市での生産物は、ほとんど行商によってまかなわれたのである。 衣類・小間物・薬などは行商によって村々の隅まで広まっていった。
    (《生きていく民俗》P.216)


     つまり封建社会にあって、都会が農村に対して働きかける力はきわめて弱いものであった。 したがって、職人たちのつくり出す品物も一般大衆を相手にして、つくっておけば誰でも買ってくれるというようなものは少なく、たいていは注文に応じて作ったものである。 「商品は自由である」といわれるがけっして自由ではなかった。 と同時に消費者生産者の間には密接な関係があった。 したがって商人の間にあっては信用を第一にしていた。 相手の気に入るものをつくらねば商品にならなかったからである
    (《生きていく民俗》P.216〜217)


     しかし僅かばかりの得意を相手にしていたのでは生活がたたなかったので、見知らぬ世界にいる者の消費をねらった商品もつくったが、それらはいずれも粗悪品であり、粗悪品は市や地方の行商によって売りさばかれた。 したがって市で露店商人から買うものは粗悪品が多かったし、また行商の持ち歩くものにも粗悪品が少なくなかった。
    (《生きていく民俗》P.217)


     大阪の南の勝間(こつま)は多くの行商人を出し、勝間商人(こつまあきんど)と呼ばれていたが、この仲間は粗悪品を巧みに売りつけるので知られており、奈良県・京都府などの山中を歩いていると、「こつまの蚊帳でこの上なし」という地口(じぐち)が残っている勝間商人から「この上ない上等の蚊帳だ」といって買わされた蚊帳を吊ってみると天井がなかった。 ひどいことをするものだと、その翌年やってきたから詰問すると、「だからいったでしょう、上がないと」と答えて平然としていた。 そこでどうしようもないものを評するとき「こつまの蚊帳でこの上なし」というようになったという。
     正直とウソがこのように背中合せで共生しているところに、古い商(あきない)は成立ったといってよかった。
    (《生きていく民俗》P.217〜218)


     ◎御用商人
     つまり仲間の間では、正直と義理は何よりも大切なものであったが、仲間以外の世界では人は何をしてもよかったと考えていた。 「旅の恥はかきすて」という言葉も「商人と屏風は直(すぐ)うちゃ立たぬ」という言葉も本質的には一つのものであった。
    (《生きていく民俗》P.218)


     近江伊勢も多くの商人を出した所である。 とくに伊勢の商人は早く江戸に進出し、江戸で店をもってもその屋号に伊勢をつける者が多かった。 「伊勢丹」などはそのよい例である。 近江は行商を主にして中部・関東へかけて目ざましい発展をとげ、そうした成功者に対して面と向っては尊敬したが、かげでは近江泥棒、伊勢乞食」などと軽蔑したのであった。 同時にそういう悪辣な商人も中には交っていたのであった。 同様に大阪の商人を「上方の贅六(ぜいろく)」といって笑った。
    (《生きていく民俗》P.218〜219)


     そして商人社会の中にあっても実にこまごまとした秩序と制約があったものである。 まず商人の間では公儀へ出入する御用商人が大きな勢力をもっていた。 職人も御用職人は平職人に対して威張っていた。公儀の御用をつとめることが誇であるということは、公儀の持つ力が絶大であったことを意味する
    (《生きていく民俗》P.219)


     将軍徳川家光が、寛永九年(一六三二)に京都宇治の茶を飲みたいと思って、そばに仕えているお茶坊主ニ、三人に茶壷を持たせ、徒歩(かち)頭に走衆四、五人をつけて宇治へ茶をとりにやった。 ところが、貞享ごろ(一六八四〜八八)、この茶壷は木曾街道から甲斐の谷村(やむら)へ道をとり、そこの風穴にしまい、そこから江戸城へもっていくことにした。 そのころになると、この茶壷道中はたいへん物々しいものになり、人足百六十二人、御伝馬十七疋で運ばれることになり、その警護は馬鹿げたものになってくる。 そして茶壷は宿場へつくと本陣(大名のとまる宿)に持ちこまれ、四十人以上の人が警固し、大名道中と同じように取扱われた。 後にこの道中は東海道にきりかえられた。 すると参勤交代の大名と行きあうことがある。 茶壷お供の仲間は将軍の威光を笠に着て横暴をきわめたがどうすることもできなかった。 民衆はこの茶壷にはずいぶんおそれをなしたものである。 今もはやっている童唄に、

       ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい
       茶壷に追われてトッピンシャン
       ぬけたらどんどこしょ


    というのがある。 意味はよくわからないが、茶壷の横柄を風刺したものといわれている。
     茶壷すら大名なみということになると、その茶を提供する御用商人の権威もたいへんなものであったことがわかる。
    (《生きていく民俗》P.219〜220)


     ◎身分と職業

     貴族武士も何もしないで暮らすことができたばかりでなく、あくせく働く者の上にいて尊敬されたのである。 そして働きの激しい者ほど軽蔑されたのであった家主の尊ばれたのは家主は貴族でも武士でもなかったけれど、働かないで、資本の利潤だけで生活できたからである。
    (《生きていく民俗》P.221〜222)


     同様なことは農村の地主に対してもいえることであった。 広い農地を持ち、それを小作人に貸し付け、小作料で生活できるということが農民の理想であった。 そしてその理想や夢はけっして人々の間から消え去っていない。 農村の人々の農業嫌いの一つの原因はその楽(らく)にしていても生活できるという夢が都会でならば農村よりも容易に得られるということにある。
    (《生きていく民俗》P.222)


     さらに職業の中にも貴賎があった。それはすでに長々とのべてきたところである。 大まかにわけて士農工商があったが、細かに見てゆけば、さらに複雑に分れた。 そして物乞同様の門付をする者や、死者を取扱ったり、死んだ牛馬を取扱う者がもっとも卑しめられた。
    (《生きていく民俗》P.222)


     それらのことにからんで、貧しい者も軽蔑された。 誰かに頼らなければ生きてゆけないということが理由であった。 逆に金を持つ者は、昔から有徳人とか長者といって尊ばれたのである。
     いろいろの職業の中でも、将来、金持になれないようなもの、振売とか、竹細工藁細工のようなもので生活をたてる者も軽蔑されている。
     そのような考え方は、今もなお庶民社会の中に底流のように流れている。 そしてそういう社会からはできるだけ早く抜け出したいというのが庶民の願いでもある。 農民にかぎらず、軽蔑される職業からは一時も早く抜け出したいと願っており、したがってそういう職業は急速に姿を消しはじめた。
    (《生きていく民俗》P.222〜223)


     ◎家職の崩壊

     家職は家を永続させるための手段として大事に守られてきた。 そのあらわれは名前のつけ方などにまず見られた。 とくにそれは大きな商人の間に強かった。 たとえば三井家は代々八郎右衛門を襲名し、住友家吉左衛門を継承した。 商人ばかりでなく、農家にも近畿地方にはかなり濃厚に見られている。 親の名を継ぐことによって親と同じように仕事を受け継ぎ励むことを誓ったものである。
    (《生きていく民俗》P.233〜234)


     そして個人営業の店では今もなおこの傾向が見られるのである。
     家職を継ぐ意識は農民の間にも強い。家職としての百姓はどうしても長男に継がせたいという気持は今も強いただしそのように受け継がれていくほどの家職には相当の財産と誇がついているのであって、身分の低い方にはその気分は薄れている
    (《生きていく民俗》P.234)


     明治の初めごろまでは人名のつけ方にも職業や身分がほぼうかがわれた左衛門右衛門兵衛などのつく者は村の中でも身分の高い者に多かったし、商人であればかなり大きい経営を営んでいる者であった。 そして左衛門のつく者には本家筋が多く、右衛門には分家筋の者が多かった。 身分の低い者には数字のつく者が多く、神主や中世以来の旧家には右京左京右近左近右門左門あるいは国名をつける者もあり、大夫のつく者もあった。 能登の時国家の古文書を見ていると、代官から「おまえの家はどうして右門というような名をつけて、百姓名をつけないのか」と質問されたものが、残っている。 それに対して、中世以来の旧家であって百姓名は名乗ることが少なかったのだと答えている。
    (《生きていく民俗》P.224)


     ◎技術者軽視


     ◎古風の残存

     しかし大学さえ出れば、社会的な待遇はよくなるかというと必ずしもそうではない。 東京のある大きな出版社では郷里から貧しい家の子弟を入社させて雑用に使いつつ、夜学に行かせて勉強させた。 そして資格を得て正式社員になり、重役になった人もあったが、最近は最初から大学を出て就職する社員が増加し、小僧として入社したものが大学を出ても、昼間大学出が小僧組の昇進を拒否するようになったといわれる。
     さらに中学・高校卒業者までは職業安定所の斡旋が主になる。 古い口入屋の伝統に立っているものである。 しかし大学出の就職は縁故者によるものがすくなくない。 それは古い富商たちの雇用形式が受け継がれていることになる。 形式としてはかなり変っている。 いわゆる丁稚から手代・番頭と年齢に応じて昇進するのではなく、いきなり手代なり番頭なりの地位につくわけである。 しかし縁故入社であることによって幹部社員になることが約束され、昔の一家一族的な気風はそのまま持ち越されている。 大きな会社の社員でも「うちの会社……」と家族的な雰囲気で自分の属する企業を見る。
    (《生きていく民俗》P.230)


    5 町に集る人々

     ◎余り者
     ◎新産業と次三男


     ◎新産業と中小農

     一方、交通の発達から村の戸主たちの出稼の範囲も広がってくる。 そして新しい事業にも吸収される。 明治になって土木工事建築などの人夫仕事は著しくふえた。 そのほか北海道のニシン場などもつい最近まで目ざましい繁盛ぶりで多くの労力を必要として、ニシン親方は東北の村々へ漁業労働者を募集に来た。 村にはたいていニシン場の船頭がいて、船頭のところへ頼みにゆけば、船頭は親方と賃銀のとりきめをして、労働者の雇傭をし、仲間を組んで北海道へ出かけていく。 この仲間をヤン衆といった。
    (《生きていく民俗》P.236)


     新潟地方からは長野・群馬地方へ養蚕時期になると何万人というほど雇われて働きにいった。 このような季節的な稼ぎには一家をかまえている百姓が農業の傍ら多く出ていったものである
    (《生きていく民俗》P.236)


     こうした労力が地方の新産業を起しただけでなく、都会へもおびただしく流れこんできていろいろの仕事場の手伝として働いた。 東京や大阪で掃除人夫として働いている者の数だけでも何万という数字になるであろうが、いずれも古い出稼の伝統にしたがったもので、家は郷里に持ち、農繁期は自家で働き、その時期をすぎるとまた都会へ出てくる。 不景気で仕事のないときは家にいる。 賃銀も安く、まったく使いやすい労働者であった。 身分保障すらもしなかったし、厚生施設をすることもなかった。 またこれら労働者の住宅の問題を心配する必要もなかった。
     つまり僅かな労賃で優秀な労力を使うことができたのである。 そしてそれは今日もなお続いている。 むしろこんにちの方がより多くの農家労力を出稼形式で吸収するようになっている。
    (《生きていく民俗》P.236〜237)


     ◎女中奉公

     娘の農家以外への出稼は西日本では昔からきわめて盛んであった。 今でも人口統計などを見ると、十五歳から二十五歳までの者で村に残っているのは男の方が多い。 つまり女はどこかへ出て働いているのである。 ところが二十五歳をすぎると村に残る者は女が多くなる。 かえってきて結婚してしまうと、もう家に釘付けにされてしまう。
    (《生きていく民俗》P.240)


     ◎女の都市集中

     若い男が村を出て行けば、娘も後を追って町へ出てくる。 娘が町へ出れば若い者もまた出てくる。若い女のいない世界に若い男たちは魅力を持たなかったし、若い男のいない世界に娘たちはまた未練を持たなかった。 それは西も東も変りがなかったのである。
    (《生きていく民俗》P.242〜243)


     しかも若い女たちの方が時勢にはいつも敏感であった。 女はいつも不利な立場におかれていただけに、いつもよりよい世界を求め続けていた。 その上、女には男のように受け継ぐ家はなかった。 一度はその生れた家を出てゆかねばならぬ。 そして次に新しく住みつく家が同じ村の中にあるにしても一度は広い世間を見たかった。 まして男を選び、婚家を選ぶ自由があるならば、現在自分のいる境遇よりもさらによい境遇を相手の男、相手の家に得ようとした。
    (《生きていく民俗》P.243)


     したがって男が村を変えていく力よりも、女が村を変えていく力の方が大きいともいえる男の離村よりも女の離村の方が目立つようになって、はじめて農村がもとの形のままではすまなくなってきたことに、皆気付いてきたのであった
    (《生きていく民俗》P.243)


     古い村の伝統が今急に絶ち切られたような形になってき始めたのは、若い娘の離村がもっとも大きい原因をなしている。 嫁にする女のいない所へは若者たちも帰って来ないし、跡をとる長男もまた都会へ出て行かざるをえなくなる。 そうしなければ、嫁をさえ得られないからである。
    (《生きていく民俗》P.243)


    解説 無数の風景 鶴見太郎

     これから自分が叙述しようとする問題について、その素材となる具体的な像を自分の調査体験から取り出し、相互に関連させながら全体の流れをつかむ。 そこで肝心となるのは、その素材に出会った時の印象を鮮明にしておくことである。 そうであればこそ、初発の問題意識はいよいよしっかりしたものとなる。 手がかりとなる風景をしっかりと手放さない。 これは優れた民俗学者に共通しているといってよい。
     宮本常一にはそうしたいくつもの風景が綴じ込まれていた。 のみならず、「世間師」という意味で、それらの風景は実際に現場で活用するための方途として、それこそ指の先に至るまで一つ一つがすり込まれていた。 そして、実際にそれらを自らの課題に応じて自在に繰り出せる器用さ、俊敏さを持っていた。

    (《生きていく民俗》P.250)


     農民が余分な時間を藁仕事その他の生業に当てたくだりで登場する、「農民は同時に職人でもあった」という言葉は、こんにち日本の社会史を見る上で欠かせない視点となっているが、本書が書かれた六〇年代、日本史学において固定化された農業労働が当然視されていたことを傍らにおけば、ほとんど一つの史観を作ったといってもよい。 しかも、補強する資料は見聞譚をふくめ、生産のみならず、流通・消費まで生活事象の全般にわたっている。 その中で移動とともに成り立つ生業の一部が、やがて差別の対象となっていく過程も見逃さない。
    (《生きていく民俗》P.250)


     風景とはそのままの形で素材となるとは限らない。 そこで得た感触を手掛かりとしながら、異なる資料の中に同種の主題を見出す道をひらくこともある。 宮本の力量とは、彼が接した幾多の風景から自分なりに主題を感得し、それを別の風景、別の資料へと連関させていく、その眼差しの中にある。
    (《生きていく民俗》P.252)


     これまでの経験を通していま現在、自分が直面している課題に応えてくれる風景とは何か。 それを宮本は反芻しながら、自分が過した十代の記憶に辿り着いた。 隈なく日本列島を歩き、無数の風景を織り込ませた民俗学者の中には、その中でさらに、手放すことのない特別な風景画あったのである。
    (《生きていく民俗》P.252)