[抜書き] 『神と仏の間』


『神と仏の間』和歌森太郎・講談社学術文庫
2007年1月10日 第1刷発行
    目次
      柳田國男先生生誕百年に思う−−序に代えて−−
    総論 日本人における神・仏

      一 「神代」の成立……自然神の祖先化
      二 神観念とその社会性
      三 民間信仰における神・仏・キリスト
    各論 民間信仰の中での神・仏

      T 山の中の神・仏
      はしがき
      一 山岳信仰の起源と修験道
        1 山岳宗教と山岳信仰
        2 日本の原始山岳信仰
        3 山の社と呪術師
        4 山岳仏教から修験道へ
        5 修験道の展開
      二 山と鬼
      三 柱松と修験道
        1 問題
        2 戸隠修験道の柱松
        3 立ちあかし・精霊迎え・御霊調伏
        4 験くらべ
        5 斎域標示とサイトウ護摩
      四 民間信仰における山伏
        1 仙北修験と民間信仰
        2 津軽修験と民間信仰
      U 仏教民俗と神信仰
      一 仏教行事の民俗的基底
        1 仏教の伝来
        2 講と法会
        3 彼岸
        4 盂蘭盆会
      二 民間信仰の中の地蔵
        1 日本までの地蔵
        2 平安末期の地蔵信仰
        3 中世の地蔵信仰
        4 地蔵信仰の民族
    結言 神・仏交関の時代性と地方性
      1 概括
      2 「えゝじゃないか」と弥勒
      3 近世民衆と弥勒


     序

     謡曲の「誓願寺」に、

      神といひ仏といひ、只是れ水波の隔なり

    とある。
     『毛吹草』にも収められているように、「神と仏とは水波の隔て」とは、近世には俚諺のようになっていた。 神も仏も結局は同じもの、表現された形が違うだけだと、多くの人びとは思っていた。 このことは、俗にいう神仏混淆、つまり神仏習合の在り方を久しく続けてきたことの、当然の現われだといえる。
    (《神と仏の間 序》P.14)


     いったい「神道」という言葉は、『日本書紀』用明天皇前紀における「天皇信仏法神道」とか、同孝徳天皇前紀に「天皇尊仏法軽(アナヅリタマツ)神道 ●(キリ)生国魂社樹之類是也 為人柔仁好」とか見えるように、仏教と対照的に観念されて現われ、生国魂神社の神木を尊重し、これをいためるさいの祟りを畏れるような信仰態度が神道とされている(●:〈昔斤〉で一字)
    (《神と仏の間 序》P.17)


     また、同書の大化三年(六四七)四月壬午の条に見える「惟神(カンナガラ)」に対する註に、惟神とは、神に随う、神道そのままの態度であり、そこに神ながらの道があるとしているから、神への絶対随順の仕え方が神道であった。
    (《神と仏の間 序》P.17)


     日本人の仏教信仰受容前後に、そうした惟神の道として、神への絶対随順をりっぱな生き方とする見方があった。 それを後世の学者が原始神道とか古神道とか言ってきたのだが、『書紀』の神道概念は、もちろん中国の典籍に見えたそれに示唆されたものである
    (《神と仏の間 序》P.17)


     かなり以前、新井白石などからも、「」をカミとよぶところから、「」と同義として、「神は上なり」との理解で、一般を超えて上級の優位にあるものをカミと言ったのだと見る見方があった。 それでは別に宗教信仰の対象としての特徴がとらえられない
    (《神と仏の間 序》P.18)


     それに、『古事記』あたりでは、神のにたいして、「」の字を用いず、すべて、「」となっている。「上」のミならば「美」であって、「微」は用いない。 つまり上代国語音韻論で定説となっている、甲類乙類で、「ミ」が分かれる。神のカミは乙類のミ、上のカミは甲類のミで発音されたので、漢字の宛て方がおのずから分かれたのだという。
    (《神と仏の間 序》P.19)


     そうなると、いよいよ神は上なりと解することに躊躇せざるをえない。 にもかかわらず、意味的には、神を自分より上にある有力者・絶対的なものとして仰いだ点で、上と通じる意味をこれが含んでいたようである。 それにしても、そうした言葉の詮索で、日本人の神観念の、宗教的本質がわかるわけではない
    (《神と仏の間 序》P.19)


     宗教学上、つまり哲学的理解における神ではなく、宗教生活の中で信仰対象として観念される神についての定義も諸説紛々であるが、非人格的・非形態的な、マナ(mana)ともいうべき呪力の観念、日本語でのモノに相当するような霊とは違い、人格的・形態的なイメージをもってとらえるものが神であるとする見方は、比較的日本人の神観念に近い
    (《神と仏の間 序》P.19)


     一 「神代」の成立……自然神の祖先化

     オヤ神としてウ(オ)やまわれ、祀られる神は、一般的な「神世七代」を成すような神とは違い、人間的言動をいっそう著しくさせているが、奔放な超人的能力をふるって神秘な活動をしたようには語られた。それぞれの族団が、その首長の死後の殯(モガリ)の式において、誄(シノビゴト)としてくりかえし語り伝えられてきた話の中で、こうした祖神のことは述べられたに違いない。 記紀の中にとりいれられたと思われる氏(うじ)の纂記(つぎふみ)には、誄の言葉も含められ、氏ごとの神話として、それぞれの祖神のことに必ず触れられたのである。
     そこで描きだされるのは、大昔の「神代」のことというよりも、現実に身近な、しいていえば神代につぐ「祖神(おやがみ)の代」のことであった。
    (《神と仏の間 一 「神代」の成立……自然神の祖先化》P.27〜28)


     「神代」の神であったものは、種々の自然神であったから、ほんらいは太陽を神格化して含めてもいたろう。 ところが、記紀の中に収められたときには、太陽を象徴するらしい天照大神を、「神代」よりも次元の低い「祖神の代」のうちにいれている。 これは、皇室の祖神として、日神を付会した結果である。
    (《神と仏の間 一 「神代」の成立……自然神の祖先化》P.28)


     その付会は、沖縄で太陽をテダ(テラ)というとともに、按司(あじ)などの城主や国主をテダといった伝誦を語る「おもろさうし」に微しても察せられるとおり、大いに有りうることである。 沖縄では、ノロや、聞得大君(きこえおおきみ)などの神女が、兄弟なり、夫なりの男性君主のために、日の精としてのテダを帯びさせる。 そのことによって、君主が日神の精霊をうけたものとして、支配地域における唯一無二の絶対者たることを誇示してきた。 太陽が、宇宙に唯一無二の絶対的光熱源であるように、領主・国主も、そうだというわけである。 そうした見方で彼らをたたえた「おもろ」の例は多い。
    (《神と仏の間 一 「神代」の成立……自然神の祖先化》P.28)


     ニニギノ尊は、生まれた直後に神器を授けられ、五部神(いつとものかみ)に伴われて日向の高千穂の峯に降臨したという。 その姿はあたかも神社の祭儀において、神輿などが渡御する形をとっている。 山頂に天から降臨した祖神を戴いて、地域集団の中に里めぐりをすることが、山宮から里宮に迎える祭儀に続いて行なわれるところは珍しくない
    (《神と仏の間 一 「神代」の成立……自然神の祖先化》P.31)


     天つ神の群れの中から生まれたての幼童を、現し世に迎えたことから、自分らの社会に支配の中枢を占める権力の源が発するとの信念を、降臨渡御の形態で描くことにより、ニニギノ尊の皇祖神たることを明確にしているのである。
    (《神と仏の間 一 「神代」の成立……自然神の祖先化》P.31)


     二 神観念とその社会性

     古代国家形成過程において、おそらく六世紀ころまで、つまり最も遅くまで、倭−ヤマト政権に随順せずに抵抗を続けたのは出雲地方のものだった。 そこで、記紀神話は、国津神のセンターともいうべきところとして、出雲を設け、そこにさまざまの農民的・庶民的信仰対象としての性格を帯びた神々を凝集させて大国主神をその中枢に据えた。 この神が、大己貴神(おおなむちのかみ)ほか、多数の神名を兼ねて伝えられているのは、その故である。 元来の皇祖霊であったニニギノ尊が、高天原から降臨して、大国主神の「ウシハク」国土奉献を成就させたと伝えるのは、まったくの政治神話である。 こうした筋立てを構想したのは、七、八世紀の記紀成立ころの知識人的支配者層であったと思う
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.34)


     日本の神というとき、記紀や『風土記』『万葉集』などに現れた神を想うほか、ある人は、各地で認められる神社と結びつけて思う。 神は社祠のうちにおさまっているものと思う。 それぞれのところの産土神・鎮守神、多くは氏神とよばれる類の、神社に祀られる神々には、神話や伝説で語られる神の名をもって称しているところ、また歴史的人物で死してのちに神と崇められてきたものの名をもってよばれるところがある。 しかしなお、とくに固有の名称をもってこれを指さず、氏神さん・鎮守さん・明神さんなどというだけで、特別の名を知らぬ、というよりも、そうした名をもつなどということを考えもしないでいるところも多い
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.36〜37)


     そのような、固有の名をもたない神といえば、サエの神田の神山の神竜神さんエビス神イワイデンさまオヤガミウチガミ地の神地主神水神など、民間信仰の対象となっている神々は、竈神納戸神便所神などの屋内神を含めてたくさん伝承してきているが、ほとんどが固有の神名をもたない
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.37)


     神社に祀られている神々の名には、明治維新後の神道国教化政策に呼応して、各地域での神社信仰を通じて、氏子たる国民に、国家への随順の道徳規範をあたえていこうとしたさいに、つけられたものが少なくない。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.37)


     それまでは、ただの氏神・鎮守・明神であったものが、そこに管理者としての神職がいたところでは、強いて古典において神代に活躍したとされる神の名をひきつけるはからいが行なわれたりした。
     その村なり町なりの歴史や伝説に縁のありそうな神名を、古典の中から抜き出して、さも遠い昔から、その名をもった神が、ところの守護神として祀られてきたと装うたのである
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.37)


     それは、各神社の社格の高低をきめられる上での基準のひとつにもなった。 神社の祭神名が素戔嗚尊(すさのおのみこと)であったり、大国主神であったりすれば、「神代巻」における神統譜の上で皇室の系統の神に連なりをもつことになるから、あえてそのような、いわば名だたる神名を選んで、産土の神の祭神名とした工作も行われた従来は、ただの天の神なり、山の神であった祭神を、天御中主神にしたり、大山祇(おおやまつみ)神木花開耶姫(このはなさくやひめ)など神話上の神々にしたりしたのであった
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.38)


     このようにしていくことで、その土地の神社を、たんに郷土の人びとにとっての神という以上に、日本の神としてレベル・アップさせる効果があるとされた。 こうして、天皇制による一元的集権国家の秩序の中に、地方的民衆社会をくみいれていった。 日本国民としての意識に、村や町の人びとをひきあげたのである。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.38)


     古典神話の神々には、「神代七代」の神々のように、宇宙哲学、生みの哲学が要請したような神もいる。 後者は伊弉諾・伊弉冉の両尊である。 今ではこれらの神を、さきに言ったような事情で、祭神として祀る社も多いが、もともとは、こうした理念性を帯びた神は一般の信仰対象としては、個々人の信念の中で浮かんだものであり、地母神信仰としてあったろうが、ある集団にとって固有の神というものではなかった。 もちろん社祠のようなものに祀られるものではなかった。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.40)


     大王−天皇家が祀ってきた日の神を祖先神としての天照大神として、皇統譜の最上に位置づけたのは、氏姓社会の矛盾があらわになって、大化改新を経つつ古代天皇制国家の確立を目ざした、六、七世紀の間であった。 それまでは、伊勢の地方神であった神を、天照大神に結びつけ皇祖神としたが、そのころは同時に、朝廷の各氏が、それぞれの守護神としての氏神を、祖先神としていったときである。
     『古事記』などには、そこに登場する神につき、これは某氏の祖神であるとの註記が多く認められる。 その編集された時代に、こうした祖神化が進行したのであった。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.42〜43)


     以上のことから考えられるとおり、日本人にとっての神には、個人の信仰にかかわるものよりも、家なり同族団なり、氏・地域集団にとっての神がまさっている。 キリスト教における神、仏教における仏は、もともとは個人個人の不安からの救い、迷いからの解放を求めて選びとられるものであった。
     ところが日本人における神は、原則としては、集団生活する一同の不安を解消し、一同の豊かな繁栄を祈祝する対象となってきたその集団に生れてきた、あるいはその仲間に加わったということで、個々人の意思の如何にかかわらず、いわば運命的に、自分がたよるべき氏神は決まってしまっている。 神社の神ではなく民間信仰上の神々にしても、竈神井戸神納戸神厠神(便所神)水神地神など、家族として一様にこれにたよる、またはその村組にあるものが一様にこれを信仰するというふうなものが多い。 家・一族・地域を離れても、特別な生業をともにする間柄で、一つの神を祀るという例が多い
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.43〜44)


     教派神道のように、江戸幕末期から明治維新期に各地に興った神道の神となると、一応家族ぐるみということではなく−−結果として全家族が一つの信心に傾くことはあっても−−個人の任意で帰依した神になる。 その点でこれらの新興宗教が、真の意味での宗教としての神道になったともいわれるくらいである。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.44)


     仏教は、早く飛鳥時代に、もう氏寺的な施設として寺をもったり、天武天皇代に家ごとに仏舎を設けるとか、仏像・仏経を備えさせるとかしたり、その後の経過に周知のように、家一族の幸福を祈るとか、家の先祖の菩提を弔うとかして、家ごとに行う祖霊祭祀に習合する方向をとりながら、日本在来の神信仰と敵対関係などとらず、概して平和的共存を続けてきた
     明治維新政府は、神仏分離を令し、廃仏棄釈の動きが、各地で乱暴沙汰にもなった。 これも政治的顧慮がさきだったことで、たんなる宗教界の整理ではなかったのである。日本人の多くは、神も仏も、要するに自分の所属する社会集団にとっての神であり、厳密に神仏を分かつ意識をもっていなかった。 仏教はほんらい、個人の正覚を期する信仰であったけれども、日本の社会に浸透していく間に、これも社会性を負うものになった。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.47)


     農民は、山の神が春、山から田に降りて田の神となる、秋には、稲作の終わるのに伴いまた山に帰ると信じ伝えてきた。 この信仰にも、祖霊が山にこもっているのだとする見方があずかっている。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.49)


     田の神は、サンバイといわれる地方がある。 広島県庄原市城の農家では、田にウツギの花と萱と幣とを結い合せてサンバイオロシ、つまり田植前の行事をしたりする。 山から田に神を迎えて、いよいよ田植にかかるのである。
     サンバイの稲田の精を意味した言葉であり、多くはサオリというだけで、田の神迎えを指している。 旧暦五月は、田植月であったので、サ月といわれ、稲苗もサナエといわれた。 これを手にとって植え付ける女たちはサオトメといわれた。サの神は、秋のとりいれ後に昇天し、山に帰るとされたのが古い信仰だと思うが、田植後に戻ると見るようになって、田植じまいにあたり、作業仲間ごとに、サノボリという行事を催すところも多くなった。 サノボリサオリに対する言葉である。 ちなみに、能楽における三番叟は、祝言の式三番としての、「千歳」「翁」につぐ第三番の舞ということになっているが、じつはサンバイサマの降臨の舞であったサンバ・サンバンは、サンバイ転訛である能楽が、田楽、つまり田の神遊びの神事芸を含みつつ形成されたものであることを伝え示しているのである
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.50)


     日本人がその主とした生業の守護を神に求めたことは、農事を離れたなりわいを事とするに至っても同じであった。 もともとは、稲成りの神として、農民生活にとって意義のあった稲荷の神が、町方の商人の業について福を保証する神として、商売繁盛を祈願する対象に転じていった。 野鼠などを好んで捕える点で、農地を守るは、稲荷の神の使令のように信じられ、農家の守護霊ともなっていた。 その狐は稲荷と密接な関係をもって、家の屋敷神に祀られたところが多い。 江戸のような大きな町の商家の宅地にも、稲荷の神祠が設けられ、その信仰の普及は近世以来も著しいものとなった。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.50)


     御霊への怖れは、町の中でいっそう著しいものがあった。 平安京で祇園会が成立した根底には、御霊神を追いうる牛頭(ごず)天王を鄭重に祀り、行疫(ぎょうやく)平定の実をあげさせようとする祈りがあった。
     いっぽうでは岐神(ふなどがみ)サエの神、すなわち道祖神をして疫神たる御霊をサエぎり追却させることもしたから、平安京の町内の辻々には、男女一対の神像を祀り、これを岐神とも御霊ともよんでいた由、『本朝世紀』の中に、天慶元年(九三八)のこととして伝えられている。
    (《神と仏の間 二 神観念とその社会性》P.53)


     三 民間信仰における神・仏・キリスト

     香川県の琴平に讃岐のいわゆる金毘羅さんがある。 金毘羅は、もともとインドの民間信仰での、また仏教信仰では外道の神とされた水の神=宮毘羅(くびら)の変転したもので、日本に仏教とともに導入されて以来、海上交通・水難除けの守護神のように信じられた。 今はもちろん神仏分離で金刀毘羅宮として神社化しているが、久しく神仏混淆のままでの信仰対策に据えられてきた惰性はなお続いている。 その絵馬堂に入ってみると古くから現代に至るまでの、おびただしい数の絵馬が掲げられている。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.56)


     また、これらの創唱宗教には、教会があり、寺院があり、そこには信徒との間をとりもつ専門の聖職者がいる。神社神道の場合は、創唱宗教ではないが、それでも多くの神社には、聖職者としての神主・神職がいる。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.64〜65)


     民間信仰というものは、そうした創唱者もいないし、教義・教理をとくに述べ立てることもなく、特別な宗教的施設もなく、家や村のどこかで、また野の仏なり、辻の祠なりの前で直接に、信仰が表現されるようなものである。 特定の聖職者が、その信心の対象とこれを信仰する庶民との間を媒介し世話するなどということもない。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.65)


     日本人は、神社神道や仏教、近代以降ではキリスト教にそれぞれ人生のよりどころを得てきているが、なお多数のものがそれらとは別に、自然崇拝・祖霊崇拝・精霊崇拝・御霊崇拝・呪物崇拝をはじめ、もろもろの生業を守る神への信仰とか、家の竈(かまど)とか納戸・井戸に至るまで、それぞれについても神霊の所在を観念して、信仰を寄せてきている
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.65)


     原始キリスト教や原始仏教の研究が示しているように、創唱宗教の生まれる母体としては、それぞれのところでの民間信仰があったといえる。 たとえば、キリスト教の母体となったユダヤ教では、ヘブライの族長だったアブラハムが、テレビンという、いわば神木のもとで、ヤーヴェと出会ったと伝えている。 これはセム民族の中での民間信仰に含まれていた樹木崇拝を根底にしたものである。一般に樹木崇拝は、神霊が依ります樹木にたいする信仰にもとづくものが多い
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.68)


     神社神道の祭儀において、必ず行なわれる玉串奉奠という、常磐の葉をもつサカキを神前にささげることがある。 これは、祭りが神と人とを一体にすることだという意味を表わす作法である。 サカキにしても、松にしても、常磐木は、日本人においては、とりわけ神霊依り代とされてきている。 民間信仰の習俗としての正月の門松−−ところによっては、あるいは松以前には門口にサカキを立てていた−−にみられるような聖樹崇拝と通ずるものである。神社神道には、民間信仰に根ざした要素がすこぶる含まれている
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.70)


     仏教についても同様である。 すでにインド以来、仏教は在地の民間信仰を包摂しつつ、おのれの教理の世界に位置づけていた
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.70)


     日本においても、金毘羅が、仏教界で、仏の教化活動を扶け守るものとして受けとめるよりも、讃岐の地で瀬戸内海交通の舟航を水難から守るものになったのは、やはり、もともとその地方で、古来活発だった瀬戸内海往来の船を守る、民間信仰上の神が海ぎわの山に祀られていたからである。 この山を、仏典で金毘羅の在所とされている象頭山(ぞうずさん)とよぶことにしながら、そこの水難除けの神の役割を、金毘羅に負わせることにしてきたのである。 そうしたことは、仏教の含む浄土教信仰にかかわる地蔵信仰が在来の民間信仰にあった、地の神とか、サエノカミ(道祖神)とかに結びつくことで、著しく普及したさまにもうかがえる
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.71)


     キリスト教にしても、クリスマス・ツリーといわれる樹木が民間信仰との交渉をよく物語っているこれは実は、一六〇五年、ドイツのシュトラスブルグでのクリスマスに、初めて用いられたものだというゲルマン民間信仰習俗にあった聖木崇拝、やはり、神霊が樹木に依りますとみる信仰にクリスマスを結びつけることにより、この聖誕節を一般化できるようにしたのである。 それがキリスト教の布教にも役立つとされたからである。 ゲルマンでの習俗としては、樹木信仰は原始以来の古くからの伝承であったことが、タキトゥス『ゲルマニア』でも知られるけれども、それがキリスト教に含みこまれた時期は、ようやく十七世紀初頭に及んでからである
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.71〜72)


     キリスト教の降誕節としてのクリスマスは、もと一月六日エピファニー(公現節)と同じときに営まれた。 これが十二月二十五日になったのは、ローマ人の間で太陽神ミトラを祀り、ちょうどその勢いの最も衰えるころである冬至の時季を選んで、太陽の活霊の復活祭ともいうべき祭儀が行なわれていたのに結びつけたのだといわれている。 そのときを古代ローマではサトルナリアともよんで、サタンでもある悪魔はらいのために、無礼講の宴を張っていた。 そうした、民間習俗としての信仰行事が、教主キリスト崇拝の一表現としてのクリスマスに結びつけられたことで、その信仰を定着させるのに効果をあげたのであった。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.72〜73)


     日本の民間信仰における神々は多様である。 それを大きく分けると、人間の社会生活を守護すると信じられてきた神と、社会生活を脅かし祟りをなすと信じられてきた神とがある。 前者は、古典神話などでいうとニギミタマに相当し、後者はアラブル神に相当する。 前者には甘えよりかかる祭りを行うことで、それとの一体化をはかってきた。 後者には鎮め抑えるための呪術的祭儀を行うことで、それが取り憑くことから免れようとしてきた。 御霊信仰や怨霊観が、その系統のものである。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.75〜76)


     守護神霊脅威神霊も、ともに自然崇拝と精霊崇拝とを基調にして想念されたが、とりわけ脅威神霊の中には、人鬼(生きていた人間の魂)崇拝もあずかっている。 これにたいし、守護神霊には、祖霊崇拝がからんだものがある。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.76)


     さらに、民間信仰のうちには、個人や家庭生活、村落生活を超えて、この世の中全般が楽しく平和な世であってほしいと希求する線での信仰もある。 『日本書紀』の皇極天皇紀に見える、常世(とこよ)神の話は有名だが、この場合は、小さな虫を祀らせつつ、これが常世神であり、その祭りによって、現実の困苦から救われ、民衆に永遠の幸福がもたらされると、宣伝した大生部多(おおふべのおお)の動きが、富士川のほとりからおこって、東海を経て畿内にまで及んだことを語っている。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.79)


     このような、常世神にたいする信仰は、国家社会の政治的不安と、民衆の経済生活が破綻に瀕してくるような事態とが、からんでうけとられるに至ると、がぜん燃えさかってきた。 したがって、いわば間歇的におこった信仰でもあり、日常的ではない。 大生部多の話からも察せられるように、常世神は、客人(まろうど)神として遠くから訪れてくるものと信じられた。客人神は、それぞれが村で迎え祀られるが、元来どこにいて、どこを通ってくるものとみられたのかは曖昧である
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.79)


     沖縄ではニライカナイからくるとされている。 視界に入らぬ遠い海の彼方、いわゆる常世の国からやってくるという。 『おもろさうし』ではニルヤカナヤとして現われる。 ニルヤもカナヤも同じ常世の、海上の楽土であった。 ニルヤは屋根などと書かれることもあったが、それは、島民の祖先の根源の地とも思われたのかもしれない。家ごとの火をもたらし、稲の種子を伝え、島人の祖先をこの世に送り出したところがニライ・カナイであった。 沖縄の開闢の神アマミキョの故郷アマミヤにも、ニライと同様のイメージが伝承している。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.79〜80)


     とにかくこのニライは、人間生活の淵源のところでありつつ、そこの神が来訪するのを迎え祀る−−その祭儀の俗称をニライ・カナイという−−行事が、沖縄には伝わってきた。 そして、人びとのユーネガイ(世願い)にこたえるのだという。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.80)


     八重山の各地には、五年ごと、三年ごとの結願祭の民俗が著しい。 多くは八月に数日の間行われる。 その中に、たとえば真栄里村(現、石垣市)では五ヵ年ごとに八月に三日、安居嶽(アーリの御嶽)糸数御嶽(イーリの御嶽)で行われる。 この三日目がユーネガイの日であり、結願祭が最もクライマックスになるときである。 ニライの神が部落の人びとと交歓する極に達するのである。
    (《神と仏の間 三 民間信仰における神・仏・キリスト》P.80)


     同じ八重山の小浜島では、この結願際に、ミルク福禄寿獅子などの芸能が行われるが、ミルクや福禄寿は、常世たるニライから訪れてくる神の名である。 ミノ・手拭をまといかぶり、仮装したマユンガナシ(ヒツマヤー、マヤヌ神(ガン))が祝福の神歌を、寿言(ほぎごと M仰的行事は、歴史的には、地域集団にとっての神社祭儀と通じあいながら、だいたい家庭ごとに、「年中行事」といわれる季節の折り目の行事として伝承してきた。 釈迦の誕生会(え)としての灌仏会を、日本人の民間信仰に発した、四月八日の前後に山から花を摘み取って家の傍に高く立てる花祭−−テントウバナタカバナなどいう−−の行事に合せるよう、花祭と称することになったなど、その著しい一例である。
    (《神と仏の間 民間信仰の中での神・仏》P.90)


     T 山の中の神・仏

     はしがき

     漁師の船団の中に「山見」とよばれる役のものがいる。 魚群のあり場所を、けんとうつけて仲間を誘導する役を負うベテランが山見である。 彼は海上から陸地側を見わたしつつ、あの山の裾からどのくらいの距離、どちらの向きのところにその季節には魚が集まっているものか、長年の経験から判断できるのだという。 山は漁師の漁撈活動にも、だいじな目標になってきたといえる。
     鹿児島県下の熊毛諸島の一つ種子島にある、南種子町平山広田海岸に面して、弥生時代の上・下二層から成る埋葬遺跡があるが、その後期のものらしい上層の埋葬骨に伴う貝符が多数発見された。 その一つに「」という漢字が記されたものがある。 貝符は、死者を送る儀礼に具えた明器(めいき)の一種と判断されているが、そこに「山」の字が見られることは注目すべき事実である。
     日本でも、他の諸民族に顕著であったように、山は聖地であり、そこに死霊が赴くと信じられていたのである。 日本で発見された最古の漢字をとどめた遺跡が、「山」の字を記したものを含んでいたことは、偶然とはいえ、まことに興味深い。 死霊を山に送る儀礼が早くからあった証拠として認められるのである。
    (《神と仏の間 民間信仰の中での神・仏》P.95)


     一 山岳信仰の起源と修験道

     1 山岳宗教と山岳信仰

     人間はそれぞれの人生において、境遇や生活条件はさまざまに異なってきたし、今も異なっているが、いずれにせよ現実につきまとう不安感対人関係上の不信感は、多少なりともあるものだ。 文化発達の未熟な段階、たとえば科学技術の幼稚だった段階では、人智をもって解消しがたい不安は数々あった。文化が進んできても、いや人間の教養が深まってくればくるだけ、かえって質の高いところに不安感が涌いてくるもので、所詮いつになっても不安、不信の念が伴わない人生などありえないことになる
     近代文明の著しい発達、底知れぬ人間の智恵の所産が充ちあふれた現代の中で、人間はかえって、すぐれた科学技術の成果がみずからの生命・生活を損ないかねないものだと悟って、今や環境汚染・公害問題に頭を痛め、現代なりに不安感をいだいている。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.99〜100)


     山岳信仰は、結局、山にこもり、かつその山の主となる神霊を絶対者として仰いで、それへの合一を求める態度であるといえる。 ところが一方では、人生や生活を不安にならしめる根源としての有力な神霊も山にいると見られた
     ということは、一つの山に、一つの神霊ということではなかったのである。 日本人の古い神観念にはニギミタマとしての神霊と、アラミタマとしての神霊と二類あったけれども、後者のアラブル神に通じるそれは、人生を脅かす不安の種子になるものを蔵しているとしておそれられた。 これもその面で異常にすぐれた力を含む霊なるが故に、神ではあった。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.103)


     この類の神にたいしては、これをなごめ鎮めることにより、その人生への災厄となることを防ぎとどめようとした。 これは信仰の対象となるものではなく、呪術を誘うものであった。 言葉をもってする、あるいは、たとえば性器を形どった石棒のようなものを据えるなど何かの道具をもって、またあるいは何らかの動作を通じて、いわゆるまじないとしての呪術を行うことで、アラミタマを鎮めおさえようとした
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.103)


     山の神としてのアラブル神は、出雲、その他中国・四国地方に伝承してきている荒神(こうじん)に顕著であり、それは多く大蛇象形されて祀られているが、通常の信仰として祀られているのではなく、呪術的対象としてである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.103)


     2 日本の原始山岳信仰



     3 山の社と呪術師
     神社の所在を見ると、あえて大山祇などの明白に山の神とされる神を祀るところだけでなく、山ごとに神社があると言うのも過言でないほどに、山に在るものがすこぶる多い。 多くはそれぞれの山の名をもって社名と称されている。 そのほとんどのものが、明治維新の廃仏毀釈によって、神社として独立したものであるけれども、山に在った寺院の地主神だったりして、古くからともかくもそこに神が祀られていたのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.113)


     ということは、仏教に山が占められる以前に、原始信仰をもって、各山々に神の存在が観念されていたことを示すものである。その神を仏如来菩薩が包みこむようにして、また本地にたいする垂迹の神であるかのように説くことによって、仏教が日本の山岳宗教を形成してきたのだと言ってよい
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.113〜114)


     さきの例でいうと赤城山は、隣の下野二荒山、すなわち日光山奈良末期から平安初期の間に勝道により開拓されたのに続いて、比叡山の僧覚満により開かれたとの伝があり、大沼に千手観音菩薩、小沼に虚空蔵菩薩を、それぞれ赤城大明神高野辺(たかのべ)大明神の本地と説くようになったという。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.114)


     もともと、神社として社殿が整備されたのは、仏寺建築の刺激をうけてからのことである。ヤシロとは屋形をもってする神の依り代の意味であって、石なり樹木に神の依り代を定めてそこに依りつく神を祀るのが最も古い神祀りの仕方であった赤城の場合ならば、櫃石が山の神の依りましであったろう。 それが後世赤城大明神の社殿というものを造り建てるようになり、祭儀をそこで行うことになったけれども、それでも山の神が、常にその社殿内にとどまるとされたのではなく、祭りにあたって迎えいれられるものであった。 赤城山の神は、大沼や小沼、いや山のどこにでも居るものと信じられたのだが、常設の社殿のできたことから、社殿に神が常在するものと見られるふうになった
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.114)


     このことは、赤城神社その他、山の神社についてばかりでなく、神社一般のことであった。山の神の場合、まず山麓の里方にその祭場としての屋形が祭りの度ごとに仮屋として設けられたのが社殿として常設化し、さらに後に山内にも山宮が設けられることになったのである。仏教的にいうと、奥院が山の方にあったのに伴う奥社山宮である
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.115)


     里宮として山の神を迎え祀る社殿が、とくに神霊を常在させる神殿を備えていない場合がある。 大和の三輪山の三輪山神社や信濃の諏訪神社など、との例は少なくなく、背後の山そのものが御神体だからというふうな説明がなされてきている。神体山とよぶ言葉もできたりしているが、この言葉は誤解を招きやすい。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.115)


     どの山にしても、神霊を含んでいると信じられたが故に山は神体なのであった。 それが里宮が建てられ、山の神霊をおさめるところを付設するとか、山宮まで特設するとかしてきたため、神体として山から、神霊そのものが遊離して別に存在するように見られてきたに過ぎない。神体山としての山と、そうでなくて神が別に居る山と二通りあったなどということはできない。 神社社殿の発達史上の段階の違いを示すだけである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.115)


     ところで、神というものは、これを信仰する特定集団ごとの神である。 地域社会の神であったり、一族一家、同族団ごとの神であったりしてきた。 神社に祀られているような神については、一人の胸のうちに信仰が秘められている神は無い。 個々人だけのものでないということは、他面では限られた集団を超えてそれ以上に普遍的なものでもないことを意味する。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.115〜116)


     したがって、他の族団のものから見ると、ある族団特有の神は一面では無縁であるが、他面ではその族団の現実社会での動向に無気味なところや不穏なところが見えれば、彼らが祀っている神までが、無気味にも不穏にも見えてくる。 神はこれを祀る集団にとっての象徴であるからである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.116)


     『日本書紀』にみえる神武天皇葛木山攻めの話によると、この山の高尾張邑(たかおわりむら)にいた土蜘蛛を天皇軍が襲い、葛(かつら)の網を結んで殺してしまったので、そこを葛城(木)ということになったという。 大和・河内境にある葛木(城)山に関する地名起源伝説だが、葛木の地帯が、反権力的なところだったとみる古代人の歴史の印象を示してもいる
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.116)


     一方では、一般の多くの山岳がそうであったように、葛木山もに住む農民たちにとり、灌漑用水の源を包むありがたい聖山として、水分(みくまり)の神をここに祀ってきたとともに、他方では、なんとなく無気味な雰囲気に包まれたところが、この山であった
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.116)


     その無気味さは、この山に一言主神がいるという話とともに強調された。一言主神とは託宣ないし呪言を管理する神である。 記紀には、五世紀後半の雄略天皇が一言主神と出会って、やり取りをした話が載っている。 その描写は、『古事記』『書紀』とでやや違い、『書紀』のほうが天皇の威力を強く語ろうとしているけれども、総じて葛木山が霊威にみちみちたところであると感銘させようとしている。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.117)


     ここに一言主神がとどまるという信仰は、おそらく託宣ないし呪言を語る巫呪師がいた事実を負うているのであろう。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.117)


     そのようなものが葛木山を根拠にして古くからおり、大和の王権支配にも従順でなく、これを信頼するものにたいし煽動的になって反抗心を強めさせる。 それだけに支配者側とはなかなか相容れがたい特殊集団として、厄介視されてきた。 そうした事情が、古代伝承における朝廷と葛木との関係を深刻にもさせたのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.117)


     このような葛木の特殊性は、七世紀の末にがぜん問題を起こさせるにいたった。『続日本紀』によると、文武天皇三年(六九九)に、葛木山の役小角(えんのおづぬ)が、妖言を放って衆を惑わすかどにより、罪を蒙り伊豆の島に遠流に処されたというのである。 彼は葛木山に住み、呪術をもって評判の高い人物だったが、帰化人系呪法家で、小角をいったんは師として仰いだ韓国連広足(からくにのむらじひろたり)というものが、朝廷に讒言して、小角は妖言衆を惑わすものだと訴えた、と『続日本紀』はいう。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.117〜118)


     また、そこに載っている伝承によると、小角はよく鬼神を役使して、水を汲み薪(たきぎ)を採らせ、その命を用いねば、呪をもってこれを縛することをしたという。 これは奈良時代の伝承だったが、鬼神とは中国での概念によれば精霊にほかならない。 それを役使するとは霊を操る呪術師にたいする表現である。 その操り方の巧妙かつ威力に満ちていたことを、『法華経』などにみられる汲水採薪という表現を借りて述べているのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.118)


     この役小角処罰事件そのものは史実である葛木山の霊威感を強めるのにあずかってきた呪術師が久しくここに住んできた。 その藤原京時代における一人が役小角だったのである。 当時は律令制確立をめざす強力な支配がひろめられていたときであるが、これにさからうような呪言を小角は述べていると讒言されたのである。妖言衆を惑わす」とは、律令制下一般の用例からいうならば、天皇なり国家なりに対して、これをなじるような不穏な予言めいたことを言う場合である
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.118)


     すなわち、反体制的な言辞を、神がかりの上で述べ、それにもとづく呪法を行ったことを意味する。 そのように広足が讒言したのを、政府が真に受けたことで察すれば、かねてから大和の葛木山界隈がいわばにらまれていて、とかく抵抗的民衆が傾くところであり、またそこに、彼らに応じて体制に逆らわせるよう導く、人望のある呪術師がいるとみられていたのであろう。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.118〜119)


     この事件が強い印象になって、記紀に現われている特異な葛木山伝承が記されるにいたったのだともいえよう。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.119)


     かように役小角自身には、仏教信仰との関係はない古来の日本人の山岳信仰にこたえて、山中の霊界を操り、抑える呪術師だったのである。 しかし呪術においてすこぶる卓越したものであったとともに、葛木の山があまりにも霊界視されていたために、事件は強烈な感銘を人々の脳裏にとどめさせることになった。 それからそれへと彼についての伝説は発展することになった。 さきに述べたように、奈良時代の仏教界に、民間宗教的には重きをなしてきた山間修法の僧侶が他方に著しかったところかから、小角もまた、そうした仏教的山間修法の者であったとされることになった。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.119)


     平安初期の『日本国現報善悪霊異記』では、役小角は仏教者としては下級ながら「役優婆塞」とよばれ、「孔雀明王の呪」に長じたとされている。 これは伽婆羅訳本の孔雀王呪経によればこの呪を山林の間で誦するうちに神通力を得て、飛行自在鬼神を緊縛しうるとされていた。『日本霊異記』には、役優婆塞が鬼神をおどかしつつ叱りつつ、大和の国の金峯山(きんぷせん)と葛木峯との間にを架けさせたとある。 この伝説はその後さらに発展して、すこぶる規模広く、飛行自在の役行者観を育てることになるのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.119〜120)


     この葛木山と役小角との関係から推定できることは、山に魔性のものが居るとの原始的観念、つまり仏教的にいう鬼がうごめいているとの観念が前提となって、そこにはこれをおさえ鎮める呪術師ともいうべきものが居たということである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.120)


     それは、中国から伝来する方術や、仏教の真言呪法に触れる以前から、固有の呪術を操るものであったろう。 それはあるいはシャーマンの類であったかもしれない、こうしたものの存在が、後の修験者山伏祖型になるのである。 役小角自身は山伏修行者ではなかったけれども、すぐれた山の固有的呪術師であったという点で、後世輪をかけてその呪術が喧伝されつつ、山伏の祖師のようになったのである
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.120)


     4 山岳仏教から修験道へ
     平安初頭に成立した日本の天台真言両宗は、南都仏教に反発した形で一種の宗教改革を果たしたものといえる。 それらの成立には、従前の固有山岳信仰が前提となっていた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.120〜121)


     すなわち、日本の天台宗を開いた最澄摩訶止観の教説を説いた中で、その修行の方便として、「閑居静処」の第一に「深山幽谷」をあげ、第二に「頭陀抖●(とそう)」をあげている。 深山幽谷こそ、人跡から遠ざかったところで、したがって煩悩にみだされることがなく、自由に「禅観」、いいかえれば禅定三昧の境地にはいっていけると説いている。 こうした考え方から彼は弘仁九年(八一八)に山修山学十二年の制八条式に規定し、比叡山に大乗戒壇の建立を申請したのであった。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.121)


     これより前、延暦十一年(七九二)に、釈施暁(せぎょう)が奏して言った言葉に、「大沙門釈侶たちは、あるいは山林に坐して道を求め、あるいは松柏を蔭として禅を思う。 こうして世を避け、塵界を出る操志をもつのでも、護国利人の行を忘れるわけではない」とある(『類従国史』一八七)。 山間に修行の場をもつ僧侶には、護国利他大乗仏教の本旨にそうて悟達しようとする意思があるのだとの主張である。南都仏教には、それがなかったとする批判をこめた言葉でもある
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.121)


     南都仏教界は、山間での仏道修行を否認してきた。 しかし、実際にはそうした修行僧がかなりいたのである。 平安京の時代にはいってから、その連中がいわば優位に立って、積極的に山間仏教の宗教的意義を認めていこうとしたのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.121)


     その推進者が最澄であり、空海であった。 空海も自身の修行過程を『三教指帰(さんごうしいき)』の中で顧みつつ、「或は金巌(こんがん)に登り、石峰に跨す」と言っている。 金巌は彼みずからの注によると「加禰能太気(かねのたけ)」であり、平安時代に、「金の御嶽(みたけ)」とよばれてきた、大和吉野の奥山である金峰山である。石峰は四国に生まれた空海にとって縁の深い伊予の石鎚山である。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.122)


     古来畿内の人々にとり、葛木山がさきに言ったような意味での霊山であったのにたいし、吉野の山は、その奥の山上ケ岳をふくむ大台ケ原山脈への入り口として、とくに聖山とされていた。 早くからここには天皇や皇族が離宮を設けて遊幸の旅にきている。 さきに言ったとおり、土蜘蛛と並ぶ国樔(くず)の根拠地ともなっていて、当初の大和王権に反抗する集団がいた点で、やはり無気味な山人たちの巣のようにみられたけれども、葛木のそれよりは比較的早く国樔が征服されたこともあり、むしろうるわしい景観の、清らかな山とみられ、貴族の憩いの場に選ばれてきたのである。 しかも、大和盆地に注ぐ水流の源のところとして、ここの水分の神は世にかなり有名になっていた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.125〜126)


     もっとも、時の権力に逆らう立場の貴族が、とかく吉野に走るという傾きがあったことは、中大兄皇子(天智天皇)と争う側に立った古人大兄皇子大海人皇子(天武天皇)が、吉野入りしたことからもうかがわれる。 現実の権力や体制にびったり寄り添わぬもののよりどころが吉野だということが、いわば伝統をなしていたかのようである。憂き世の現実を避けて信仰の世界に没入を志すものも、また吉野へと足を向けたのであろう。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.126)


     吉野とその奥山一帯が、こうして現実とは別の世界とみられてくると、だんだんに霊異というよりも、聖浄の山としての印象をもってみられるようになった。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.126)


     天長十年(八三三)にできた『令義解(りょうのぎげ)』にみえる注釈が、「山居僧尼」の一例として「金嶺(こんれい)」をあげている。金嶺金峰山であることは誤りない。 山岳仏教界において代表的な山だったのである。 さらに『三代実録』には、貞観十年(八六八)に吉野郡の深山に、少年の時以来籠って修行していた道珠という沙門を「修験の聞え有る」によって召し出したとしている。 修験とは、験力を修めているということで、籠山修行の中で、密教の呪法を練ることを意味した。 そうした修行者が験者(げんざ)であり、修験者である。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.127)


     5 修験道の展開
     その間に、山にはいってあるいは禅定につとめ、峰々の間に抖●の回峰修行にいそしむ僧徒、あるいは山中に点在する岩窟を宿(しゅく)として加持祈祷の呪法を練る験者を育てつつあった。 そして当時、伝説的人物となっていた役小角は、そうした験者にとっての理想型に仕立てられていったのである。(抖●:とそう、●は「藪」のくさかんむりなしで手偏(手偏+數)
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.128)


     この当時には、中央部では吉野−大峯の金峯山が山岳信仰センターになっていたけれども、なお全国的に霊山・聖山に験力を挑む仏徒・行者の登攀が盛んになっていた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.128)


     大峯のさらに南、熊野の地方も古来、死霊の停まる世界と信じられ、イザナミノ神の死霊を熊野の有馬村に葬り、春に花をささげて祀る土俗がある(『日本書紀』の一書曰く)といわれていた。 ここが死霊の集まるところで、その使令としての霊鳥カラスであり、カラスはミサキ神として、ヤタガラスのように後世の子孫のために導きをすると信じられた。 中世に顕著だった起請文の料紙に、熊野牛王(ごおう)宝印の紙が用いられたことは周知のとおりだが、その「牛王宝印」の四文字を、鳥をあしらって文字化していたくらいに、熊野とカラスとの縁は深い。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.128〜129)


     こうした死霊・祖霊の世界として熊野の地は早くから知られてきたが、ここには天台系の山岳仏教が定着し、観音の浄土としての補陀洛(ふだらく)浄土が擬定されるにいたり、観音札所めぐりの第一番が熊野那智の滝に近く如意輪観音を祀る青岸渡寺になってきた。 そして熊野灘をめざして船出し、補陀洛渡海を志す仏徒・信者がしばしば現れたりしたものである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.129)


     院政期ころになると、一般的宗教思潮に阿弥陀信仰が優ってきた関係で、このあたりも西方浄土とみられるにいたった。入水渡海も、阿弥陀浄土への帰一往生と考えられるようになるが、補陀洛信仰も消えたのではない。 それにしても、元来が死者の冥界なのだから、他界としてのここが、念仏して来世の極楽往生を期するものの集中するところとなったことは自然である。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.129)


     「蟻の熊野詣で」と一般にすわれたように、熊野に験者として馴染まれた先達に導かれて、貴族たちが列をなしてはるばる詣でるふうが、院政期には盛んになり、摂関政治時代金峯山詣でに代わってきた。 熊野には念仏聖験者が多数集まり、信仰指南役としての御師もその中から現われてきた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.129)


     東国でも、二荒男体山に登頂して禅定を心がけるものが多くなり、とくに山頂での禅定故に禅頂と記し、記念に「禅頂札」を納めたりした。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.130)


     禅定は要するに成仏を期することである。 山岳修行の究境地が、禅定の果てにそのまま死んで往生することだと、信ずるものもあった。 補陀洛渡海の思想もその一つだが、出羽の湯殿山に著しく遺っているように、禅定の末、山間においてそのままミイラ化した上人もいたのである。 現に遺っているのは、近世以来の数体であるが、さらに古くは、そうした「即身成仏」を期する行者が各山々に少なくなかったことと思われる。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.130)


     平安中期に、藤原明衡が記した『新猿楽記』に、「山臥(やまぶし)修行者」として「大験者次郎」を称揚した中で、「昔、役行者、浄蔵貴所と雖も、只一陀羅尼の験者也、今右衛門尉次郎君に於ては、己に知行具足の生仏也」とある。 験者が、「生仏」、すなわち即身成仏を果たすことを理想としていたことを示している。 このフィクションとしての模範的な「山臥修行者」はどこの山々をめぐったか。 『新猿楽記』には、

      度々大峯葛木を通り、辺道を踏んで年々、熊野、金峯、越中立山、伊豆走湯、根本中堂(比叡山)、伯耆大山、御山(たけ)、越前白山、高野、粉河、箕面、葛川寺の洞(ほら)をめぐり、行を競ふ、験を挑まざるは無き山臥修行者なり

    とある。 当時、呪験の力を競いあう験者が、修行場として選んでいた山々が、ここに総括されているようである。 「洞めぐり」というように、山中の岩窟にとどまって、密教の修行を行いつつ、験力を強める修練が行われたものなのである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.130〜131)


     平安末期に、天台系の宗義から分かれて、浄土信仰の念仏の教えが一派をなすようになると、修験者といっても、原始以来の山中他界観に立って、念仏を山で行うものが出てきた。 こういう人々をといった。『梁塵秘抄』(巻ニ)のうちに、

      聖の住所(すみか)はどこどこぞ
      大峯、葛城、石の槌(伊予の石鎚山)、箕面よ勝尾(かちう)よ、播磨の書写(そさ)の山、南は熊野の那智新宮

    という歌謡をのせている。 『新猿楽記』『梁塵秘抄』ともに共通するところが多いが、なんといっても大和の大峯は、験者・聖にとっての根本センターであった。 『梁塵秘抄』には、

      大峯行ふ(修行するの義)聖こそ
      あはれに尊きものはあれ
      法華経誦する声はして確かの正体まだ見えず

    との歌もみえる。最澄『法華秀句』にいうとおり、法華経こそ即身成仏化導する経典で、他宗に優るとも劣らぬとされたから、その流れを汲む山岳の行者として禅定修行につとめるものは、法華経読誦を続けていた。 そうしたものが、大峯にもいたということである。 さらにまた、

      大峯聖を舟に乗せ粉河の聖を舳(へ)に立てて
      正きう(書写山の誤り)聖に梶取らせてや
      乗せて渡さん常住仏性や極楽へ

    ともある。 大峯山その他の山々への禅定修行が、仏と一体化しつつ、永遠の極楽往生を期することにあったことを、ここに端的に示している。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.131〜132)


     兜巾篠懸(すずかけ)・脛巾をつけ、大きな数珠をたずさえて、法螺貝を吹きつつ歩いていく山伏の群れが、全国的に山の内外に見られるようになた中世は、修験道が最も活気を呈した時期である。 貴族・武家・庶民を問わず、彼らにたいする期待は大きかった。 それに応えて、春夏秋の峰入り修行が、それぞれかなりの長期間行われ、下山して檀那のために加持祈祷など修法読経をつとめては、現世・来世にかかわる宗教的安心をはかってやっていた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.135)


     その密教の立場が、台密にあるか、真言系の東密にあるかにより、相違を強調するようにもなった。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.135)


     天台系は比叡山を離れて園城寺(三井寺)末の、京都聖護院を根拠にし、真言系は、醍醐寺の三宝院を根拠に終結するのが、中世山伏の在り方となり、大きく分かれていった。 前者を本山派といい、後者を当山派とよぶようにもなっていった。 室町時代のことである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.135)


     本山派・当山派のいずれも、大峯修行を根本に考えたが、本山派は熊野山との縁が必然的に濃かったから、熊野路から、大嶺・吉野へと抜けるコースで山をめぐり、当山派は、その逆に吉野・大峯・熊野へと抜けた。 前者を順峯、後者を逆峯だと、近世に言い習わしてきた。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.135〜136)


     近世には山伏としるされた彼らは、民間の山岳宗教の指導者として、地方各地の村や町に定着し、独自の院坊をもち、それぞれ聖護院三宝院に統轄された。 別派には、東北で著しい修験の霊山である出羽三山を中心にする羽黒派、九州で規模の大きい勢威を振った英彦山(ひこさん)の彦山派もあるにはあったが、本山当山両派とも、全国的に山伏を管理する網を張っていたものである。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.136)


     修験道は、公には明治五年(一八七二)明治政府神仏分離政策のあおりで廃止を指令された。 けれども民間の山岳信仰はこれで絶えるわけはない。 その要求にこたえて、かつての山伏で神職や寺僧に化したもの、農民に変ったものの系統から、先達となって、民衆の山駈けを導くものが続いてきた。 大峯山や出羽三山における山伏姿の峯入り修行は、今日でも夏季にいくらも見かけられるのである。 後述のように、その民俗に伝わる余響も濃い。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.136)


     源義経が、都落ちして吉野から大峯に入ったあとを追うて、静御前が大峯の入り口にさしかかったとき、女人禁制のゆえをもって、金峯山の僧に阻まれ、捕らわれたことは、『吾妻鑑』に記されている。 この大峯女人禁制は、明治以降、他の山と違い、ここに限って解かれない。 現代もだいたいそのとおりに守られていて、「是より女人禁制」の標柱が立っている。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.136〜137)


     仏教の影響以前から血の忌をふくむ女人にたいし、聖地としての山への立ち入りを禁ずる信仰があったかと思われるが、ここではさらに山伏修行をする男たちにとって、煩悩の一つが女色にあるとの考えもあずかっている。 こんにちの登山者にたいしても、真の宗教的登山を要求するところから女人の入峯をゆるすまいとするのが、大峯側の態度である。
    (《神と仏の間 一 山岳信仰の起源と修験道》P.137)


     『続日本紀』によると、「世、相伝へて曰く、役小角は、よく、鬼神を役使して」、とある。 使役して、水をくませる。 薪を取らせる。 もしも、鬼神たちがいうことを聞かないならば、役小角は呪いをもって、縛ってしまうという言い方で書かれているのである。 『続日本紀』のできた平安前期のころに、一つの史実と一つの伝説とが認められた。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.140)


     この連中によって清め、つまり潔斎を済ました後に面がかぶられ、修正会の一連の行事が行われる、その最終の段階のころになって、講堂に登場してくるわけである。 そうすると、中の僧侶たちが、荒鬼の秘法だとか、鈴鬼の秘法とかいう、さまざまの真言系の秘法を行う。 その間、鬼も付き添いの介錯役も、「ヨオ、ハィショ、ヨォ、ハァ、ヨォ」というような具合に、飛びまわっている。 そして、燃える松明をふりかざし、太刀だの、斧だのふりまわして、すこぶる壮観というか勇壮な感じがする。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.145〜146)


     そうしているうちに、鬼の方が叩かれるのではなくて、鬼自身が参拝人のために、介錯と一緒になって、手をつなぎあって輪になる。 そうすると、ご加持になるということで、参拝人の魔よけが、なされるわけである。 つまり、鬼が、松明で参詣人の加持をする。 そのために潜っている尻や、背中を松明でぶったりする。 そのようなことがある。 たいへん、こわいような感じもすることはするけれども、結果は決してあぶなくない、むしろ、そこから幸いが確保されるのだという期待を持って、一般の人が、ここに寄ってくるのである。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.146)


     そして終りに近づくと、「鬼の目」といわれるを撒く行事がある。 この餅が鬼の歯固めであると言って、これをいただくと家族の者が、健康になるのだという。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.146)


     「鬼の目」というのは、その餅を撒いたのを、一般の人が取ると、鬼は目を失ったことになる。 ここで、鬼が自分を義性にした形で、人びとに幸いをもたらしたと、いうのである。 その間に、「鬼さん、目はこっち」とか「鬼さん、目。 鬼さん、目」といって、からかうような具合にして、一般の人たちが、ちょうど鬼ごっこをするような具合で、鬼と一緒にウロウロ動きまわる。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.146〜147)


     そこで、さらに鬼は、目なしだとはいっても、松明を持って、なお信者の尻を追いまわすというようなことをくり返し行っている。 お堂の中の行事が終わると、今度は外へ、飛び出す。 外へ飛び出すといってもお寺の領域というか、その檀家部落というか、信者の一つの集落があるわけだが、それより外へ飛び出したらいけないと言っている。 そうでないと大変な不幸があるという。 鬼は部落の一軒一軒の民家に入りこんで行って、加持してやる。 それぞれの家では、鬼を座敷の床の間に請じ入れたり、あるいは、仏壇の前で鬼と介錯とを「どうぞ、どうぞ」というわけで招きいれ、丁重に酒と食事を出さなくてはいけない。 ちょうど、生はげのような感じのものであるが、そういう具合にして、春を告げ、祝福する鬼として、修正会の追儺における鬼が、国東半島の場合には、非常に顕著に出ているわけである。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.147)


     そうでない普通の修正会はどうなのかと考える人があるかもしれないが、これは、棒を持って、鬼を叩きのめす、松明を持って、ふりかざして中に上がりこんできている鬼と、格闘せんばかりにして、対決し、鬼が松明を投げ出すとか、お寺の池の中へ放りこんでしまとか、とにかく、追いやってしまう。 念の入った所は、さらにをとって打つというようなことをするのが普通なのである。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.147)


     についてのいろいろな伝承を集めてみると、限りのないものであるけれども、非常に多くが、に根拠するものとして出てくるし、鬼と連関してイメージができているさまざまの魔物的なもののすべてについてもそういえる。 これが山を棲家としておるということは原始的な段階にさかのぼるほど、非常に濃厚であったに違いない。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.151)


     種々の恐ろしいものの中で、山中において出くわすさまざまな怪異現象というもの、あるいは、山からもたらされる異常な迫害といったようなものが、恐ろしい鬼の仕業だと思う感じを、一般原始人に抱かせたに違いない。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.151)


     それとは別に、もう一つの山岳信仰のタイプということになると、たとえば、水をわける、灌漑用水水分(みくまり)の機能を持ったような神というものが、そこに住んでおるという考え方があったり、それから死霊の、一般的な死者の行き着く先であるとする、考え方があったりする。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.151)


     山伏の修行というものは、十種の修行ということをよくいう。 最初は地獄道、そして、餓鬼道・畜生道というふうにだんだん登りつめていくわけである。 この地獄道の苦しみというのが、いろいろな文献にも残っている。 こういう地獄の世界の苦しみを受けるということで、まずは、その俗世間における自分の生なるものをそこで遮断して、そして、もういっぺん生まれ直すためにもスタートし直す。 そういう過程として、みずから自身に課したものであろう。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.153)


     そうして、そういうようなことを課する気持ちになったのは、そこに死者の世界があるからなのである。恐山の例が示すように、仏教が入ってくるとたちまち山の中に死者の世界があるということを前提にして「あそこに地獄がある」「あそこに極楽がある」、という言い方をするようになった奈良末期から、ずっとそれが広がっていく。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.153)


     立山の地獄などは、早く中央の人たちにも有名になっていた。 この地獄に浸りきる。 浸りきっておいてから、さらに頂上を窮めていく。 それを、立山の場合でいえば、「禅頂」といっていた。 「禅頂」の「」は「」という字を書くのが、本来であろうけれども、時々「頂」という字を書いてある。 あるいは、最近、越中立山の遺物として見つけられた、「立山禅頂」というふうに彫り込んだ鎌倉時代の寛喜年間の銘の入っている、すぐれたできの神像がある。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.153〜154)


     これはやはり一世行人でもないけれども、修行者が、入りこんでいって、立山の地獄から段々に極楽へと近づいていく、そして、究極の頂点の所において極楽道に達したという、その記念に、あるいは、願いを掛けてきた願果たしにこしらえたものである、というふうに私どもは見ているのであるが、そういう「立山禅頂」という言葉などに表れているような「禅頂」ということが、山伏の一つの目的である
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.154)


     そして究極の目的のところまで、つまり極楽道まで達したときに下山する。 あるいは、下山しないで、ときによっては、そのまま、入定してしまうというなことがあった。 入定は絶えず、あらゆる時代を通じて、どの山にも求められていたというわけにもいかない。 ここまで徹して生きなければいけないのだ、木食の行を積んで生きながら、入定してしまわなければいけないのだという考え方が、何かのきっかけで広がった時代があるのではないかと思う
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.155)


     話の中では、入定の話は各修験の山々にまつわって残っている。 残ってはいるが、弘法大師の話にヒントを得て、痕からつくったのではないかと思うような話も、実は多いのである役行者についても、入定の塚というものが、ずいぶんあるが、それは話というだけで、あてにならない。 即身仏となるという観念のもとには、あえて、即身入定をするのではないにしても、それほどまでに徹底した十段階の修行過程を積みあげていくこと、地獄道から始めて順次修行過程を積み登っていくのだという考え方が、山伏には一般的にあったのではないかと思われる。
    (《神と仏の間 二 山と鬼》P.155)


     三 柱松と修験道

     1 問題
     柱松とよばれる行事についての考察は、すでに早く柳田國男によってなされている。民俗行事として知られている柱松とは、多くは七夕や盆のころに、広場に身の丈に倍する高さの、そして二抱えもあるほどの太さの柱を一基か二基、柴草などを材料にしてつくり、その頂上に御幣をさしたりサカキをさし、あるいは漏斗状のものを附設した中に燃えやすいものをいれておき、これに火を点ずるものである。 さらには、その火が早く燃えつく度合をはかって勝敗を争ったりする。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.158)


     柱松の伝承事実は、その後若干資料が増加しているし、これに類する火アゲ火投ゲナゲダイマツ柱ダイマツアゲマツホアゲハシライマツホテム、また柱祭とか柱巻などでよばれる行事のことも多く知られるに至っている。 かつ、これまでほとんどかえりみられなかったが、修験道の山伏が柱松行事にあずかる場合もいちじるしいので、それらもあわせた上で、この行事の意味の変化過程を再検討し、修験道が民間の神信仰における儀礼行事をとりこんだものであったことを究明するようにしたい。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.158〜159)


     2 戸隠修験道の柱松
     柱松と修験道の関係では、信州の戸隠山に根拠した天台系修験の寺、顕光寺に伝わった『顕光寺流記』(長禄二年<一四五八>七月十五日。僧有通の編述)のうちに、

     夏末又云柱松尽煩悩業苦并顕一夏行徳威験

    とあり、この行事が、春の花会と相対して、すなわち、花会が本院(奥社)から始める「果向」の意を表わすのにたいし、中院(中社)から始める「因至」の意によるものだと、いかにも修験道的説明法でその重要性を説いている。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.159)


     ここにいう柱松の具体的なことは、そうはっきりと書いていないが、同じ『流記』の中に、「別当職位之事」という章があり、永仁五年(一二九七)七月、

     柱松(ヲ)幣行人与老僧論、不火打昇畢

    とみえる。 これは鎌倉時代の山伏の拠った寺に多く見かけられるように、戸隠山でも実践修行派の山伏行人と、教学研修派の学問老僧二重の組織構造になっていた様子をしのばせるが、ともかく本来両者が協力して柱松行事を執行するはずになっていたのに、このときには何かの争論によって、柱松に点火せずしてこれをうちおとしたものと解される。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.159〜160)


     ところで、中世の柱松は「夏末」とか七月に行われたとかいわれ、明確な月日はわからないが、天明四年(一七八四)、菅江真澄がこの地に至って見たところでは、七月七日の神事となっている。 その紀行『来目路之橋』によれば、

      この文月七日の神事は、柱祭とて、いと高き柱を三本立てて、此柱に三つの神社(今でいう奥社中社宝光社)の御名をたたへて立てたる柱の末(うれ)毎に柴を束(つか)ねて火をさと放ちて疾く退き、これを仰ぎ見て速かに火の移り柴の燃えあがるは、いづれの神のおほん柱ぞと見て、其年の田の実善悪の占ひをなんせりける。 此年は手力雄命のおほん柱(奥社の祭神)に火早うかかりて勝ちたまへば、此年のたなつものや好けん

    とある。 すなわち、火をつけた柱松の燃えあがり方の遅速を問題にして田の実の豊凶を年占する行事になっている。 先引きの『流記』の叙述とくらべると、同じ戸隠の七月の柱松ではあるが、中世と近世とで、力点のおきどころが違っていたようにうけとれる。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.161)


     4 験くらべ

     また、柱松神子が潔斎の上、特定の装束をつけて行列をなして登場するさいは、「松太鼓」と並んでいるのが、これまた奇妙な山姥のような赤銅色の面をつけた「中ドリ」であり、これが講堂の前で柱松に向って反閇(へんばい)を踏む所作が「松太鼓」の合図をする以前に行われる。 「松太鼓」同様「中ドリ」も山伏がいわば変装したものとみるべきである。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.169)


     5 斎域標示とサイトウ護摩

     その行事とは近世末には廃絶してしまったが、二月十三日の柱松おこしに始まる新年御田植祭であった。 それは『彦山祭礼絵巻』によってうかがうのであるが、ここの山伏部落には、松会という行事のうちに御田植祭がふくまれていた。 時は二月十三日、十四日であって、十三日には、まず祭り場へ総勢四十人の長床衆が出てくると、四人の奉行が四隅に立って下知するうちに、「先山伏」が柱松を一基立てる。 立て終わると、頂上に白幣を捧げさしにあがる。 柱には東西へ大きな綱をかけてひき、地面に打った杭につないでおく。 これに五穀豊穣を願うということになっている。 これが「柱松起こし」である。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.172〜173)


     そのあと、若干の儀式があって、御田植祭を、鍬入れ行事・畝切り行事・田打ち行事・畦ぬり行事・馬杷(まぐわ)行事・柄振り行事・種子蒔き行事・飯戴汁戴(いいかぐめしるかぐめ)(はらみ女が頭に飯汁を載せて出る)と一連の行事が続く。 御田植祭が終わると、神輿斎庭(さにわ)から下宮遷幸する神幸式があり、山伏仲間の先達職をきめる宣度祭が始まり、早具足練相撲などの競技が先山伏によって行われる。 これが終わって、長床衆が退去すると、法螺の合図で柱松倒しが行われる。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.173)


     『淡路国風俗問状答』(文化十年)にもみえ、『淡路草』(文政八年)・『味地草』(天保十年)・『淡路国名所図会』(嘉永四年)などの文献にもみえて、今でも伝承を残す、淡路の津名郡鮎原村(現、洲本市)にふくまれた栢野の柱松はサイトウ(紫灯)護摩の修行だと説かれている。柱巻柱松明ともいわれる。 盆の七月十六日のことで、一般の人びとは盆魂の供養、各戸の祖霊の送り火を一つにしたものと解しつつ、柱松を一基立て、長い竹棹のさきに藁一把をくくりつけて、これに火を附け、頂上に火をさしつけて燃やすのである。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.175〜176)


     ここでは、年占の意義を言っていない。 要するに火をたくこと自体が目的であり、これに関係するのは、近世において真言宗寺院となった地蔵寺西光寺竜雲寺僧侶たちであるが、もとは山伏たちが集ったのであろう。 だから、山伏に固有の柴灯護摩という言葉でこれがよばれたのである。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.176)


     これは、修験の柱松が、山伏が修行のため、験力修練のために、サエノ神の祭り場であるサエトで護摩木をたいたのと通じる意味をもっていたことを示す。 それも根底には辻の祭り場に神霊を送迎した習俗があるのであって、一般の民俗行事としての火揚げ形式の柱松には、この淡路の事例にみる型が、山伏や真言宗仏徒の管理を離れたものもあるというべきであろう。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.176)


     以上のように、山伏が峯中において行う修法の一つとしての、柴灯護摩の一変形ともいえる柱松行事には、古来の民間信仰における火祭り、ないし今も小正月行事に伴うところの多いサエ(イ)ト焼きを密教徒としての性格を持つ彼らがその立場でととのえ伝えたものである。
    (《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.176〜177)


     四 民間信仰における山伏
     地方民間信仰の中にくいこんでいた山伏の役割は、近世においてまことに著しいものがあった。 村人は、法印さん(山伏)の言うことは、絶対によく聞き従ったと、陸前地方の人びとは伝えている。 その点はあえて、東北地方だけに限ったことではない。 各地方で、さまざまの生活不安を解除するための宗教儀礼を、年中行事的にも臨時的にも山伏に依存したことは多い。 山伏は一般民間信仰の指導者であった。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.180)


     1 仙北修験と民間信仰

     羽黒神社の存するところに羽黒派山伏がおったということはいえるが、羽黒派山伏が別当となったのは、羽黒神社ばかりではない愛宕社・月山社・鹿島社・八幡社・稲荷社・山神社・牛頭天王社・雷神社秋葉社・金剛童子社・熊野社など種々雑多であること、本山派山伏が別当をつとめた神社が、熊野社ばかりではなかったことと同様である。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.183)


     羽黒神社としてかなり聞えているものに、気仙沼市のそれがある。
     この羽黒神社は、もとは計仙麻神社だったが、中古荒廃の間に、五条中納言菅原昭(秋)次なるものが再興したさい、計仙麻総鎮守羽黒白山両大権現と称した。 その愛妻王女と子供が悪者にかすめとられて行方不明になったのが、気仙郡の長者のもとに奴婢としておると聞いて、羽黒権現に祈願したところ、効があったので、これを勧請したという。 羽黒山九条寺という天台宗の寺院とともにあったという。 その後大和の産なる山伏有実法印がきて、自性院と称して、この社の別当となったと「九重原羽黒権現伝記」に伝えている。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.183〜184)


     この地方の村落組織において顕著なケイヤクケヤクすなわち契約講は、近世の伊達藩政との関係から見られるべきものであるが、とにかく各村々の家はたがいにこの契約講組織を結びつつ社会的、また経済的生活を保障してきた。 そこで年間時折の信仰行事を講仲間で行うこともあって、小規模な祭祀集団として続いてきたといえる面もある。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.186)


     伝承しているケヤクのすべてがそうだというわけではないにせよ、そういう機能をも具えているケヤクの存在もたしかである。 その仲間が祈祷や祭りの行事を催すにあたって迎えられるのが、多くは近くの神職であった。 山伏・法印が別当として村内にいれば、彼がよばれてそれにあたり、御初穂を受けたのである。個々の家が檀徒であるとともに、契約の講仲間が集団として檀徒であり、それとの師檀関係において、山伏の収入の大口がそこから得られたのである
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.186)


     村の山伏は、個々の家の依頼に応じて祈祷をつとめに出かけるだけでなしに、巳待(みまち)などの夜待日待の類や、講が村人どうしのグループで催された場合にも、招かれて列座に入る。 この地方では、庚申講三山講山の神講などとよばれていた。 そのさい、その寄合の信仰意義に応じて、関連する祈祷や呪法を行うところがあったのである。 そこで法談説経というふうなことがあるわけではなく、もっと卑俗な行事にたずさわるだけが能に過ぎない山伏であった。 しかし民衆は親しみをもって、あつく彼らに信頼を寄せ、その予言や祈祷・呪法にたよったのである。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.186〜187)


     それに関連して明和八年(一七七一)四月、姫君様が船出渡海するにあたって、妖魔降伏を祈る蟇目(ひきめ)の神事をとり行い、渡海鎮護の祈祷をこの神社で行ったこと、この神社に姫君がわから幣帛の奉納があったことを「山伏方」書上は記載している。 このように神事関係に多くたずさわる山伏法印であったが、霊照院の院号をもってともかくも天台宗の系統を称する本山派に所属させられ、寺院との関係、そこへの出入りも常にあった。 というよりもその寺院が境内社として神社を持っていること、これを介してつながりを持つわけであった。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.190)


     その霞は、鹿折のうちの数十戸だったというが、本吉郡の北部をもふくめて、この羽田権現のみとに、七歳になった男児が「お山がけ」するふうが伝承しているから、一時はかなり広い信仰圏を持っていたのではあるまいか。 なおこの神社の神輿は、もとの気仙沼区域の霞場に渡御することになっている。 この神社の祭礼は気仙沼の大祭だったという。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.192)


     七つ子のお山がけは、八月十六日の払暁に乗馬で行ったもので、白い浄衣に鉢巻をして羽田神社に至る。 連れていく大人も、裃を着けた。 お参りすると神社から、お注連カケマブという白襦袢の脇のあいた袖無しを授かり、これを上からまとう。 カケマブとはカケマブ(モ)リである。 七つ子の厄を落として身を守るのである。 お参りしたあと、山上で右廻りに三回お鉢めぐりを行い、日の出を拝しておりる。 帰宅してから、それぞれの家で祝いの膳がもうけられ、近隣の人びとが寄って馳走になる。 その年晩秋の神輿渡御にもお山がけした子供が供奉する習いである。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.192〜193)


     田束山は、竜が臥せって寝た姿の山容だというので、竜峯(たつがね)山とも記すというわれている。 しかし山に多い竜神信仰、すなわち水神信仰をもって、この山が仰がれたことにもとづく名であろう。 ここに寂光寺を中心として、羽黒山清水寺・母衣羽山金峯寺があった。 それぞれ、天台・真言系の修験者が拠って山岳修行につとめた時代が久しかったようであるが、 近世には寺としての伽藍・坊の数など減弱してしまい、わずかの別当山伏が跡を守ってきたらしい。 けれども、民間篤信者が修験者をたよって祈祷をかけるため、代参なり、 身代わりの登拝修行にあたってもらうことは続いていたとみられる。 山中の道場はなお維持されていたのである。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.196)


     法明院の仕事の一つとして、出羽三山講のために先達をつとめることがあった。 三山とは別に、岩手山、早池峰山、恐山などには、 二十七歳から三十歳までの男子が登るべきだという信仰があった。 とくに嫁を貰う前にはこれに登り、結婚後は三山の方に登拝する例である。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.199)


     三山に登拝に赴く講員は、観音堂で一週間の行をとる。 男たちだけで女を近づけずに、精進の食事をとり、毎朝、浜においてみそぎをする。 山に出かけるには白装束で、戻ってくると、三日間観音堂のところで行を行うことが精進落しとなる。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.199)


     この山には、願をかけるために近くの村々から杉の苗木を植えに行くことがある。 おそらく神の降臨する依り代としての聖樹を杉にみたてていたことが、根底にあるのであろう。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.199〜200)


     そうした聖山信仰がとくに竜神に擬される水神の信仰をあわせて、 雨乞いなどにあたってこの山に登拝するものも、古くはいたようである。 民間のそうした信仰にこたえる聖(ひじり)の根拠するところともなり、 修験の道を践むものも現われたであろう。 山中にある穴滝・雲滝とよぶ滝は、彼らの行場となった。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.200)


     中世葛西氏が勢いをふるった時代にはたしかに、多くの堂坊をもってさかえていたのであろう。 いわば山寺がそこに成立して、寺僧・修験の両群が拠っていたのである。 すぐれた聖の理想像として「万海(満開)上人」像がつくられた。 彼は田束山に穴を掘って鉦をたたきつつ、即身入定したという。 その音は九十九日間響き聞こえたなどといっている。 これは、湯殿山山伏の即身入定観同様の考え方をここの山伏たちがもっていたことを示している。 この山をその念仏道場として宣伝するための話でもあったのだろう。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.200)


     2 津軽修験と民間信仰

     津軽地方での俗信のうちに、水神信仰の一類として十和田さまとよばれる神の信仰がある。 たとえば田植え前の作占い、当地でいう「世の中を見る」手段として、 各村々に祀られている十和田さまの祠がある境内の池で、 サンゴ(サングすなわち散供)を打つことが慣行化してきた。 水神のはからいで、稲作の出来不出来がきまるとする考え方は、古来のものである。 水難から守る水神としてのスイコサマなどよりは、古くから求めた水神である。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.205〜206)


     津軽地方の修験道として、比較的古く中世の中ごろに現われたものについていうならば、 熊野系の修験である。 熊野信仰は、海上交通者にとって重んじられてきたので、 東北地方にも海ぞいのところに多く分布してはいる。 遠くは南方沖縄にまで根をおろしているが、津軽にもこれがもち伝えられたことは、 十分に考えうるところである。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.208)


     同じ悪鬼退治でも、花輪某とかいう者がここに勅命をうけて悪鬼降伏のためにきたという話の方が、民間説話的である。 彼は初めその成功のために、住吉の神や熊野、また天王寺に願をかけた上でやってきたが、どうも難渋した。 ある夜の夢に、錫杖印曼字旗紋を用いるとよいとのお告げをうけた。 そのとおりにすると、悪鬼を征伐できたという。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.208〜209)


     ところで、岩木山登拝路に姥石とよぶところがあり、女人禁制だったこの山に婦人が登った場合には、そこまで下山せねばならないといわれてきた。 しかし、この姥石は、悪鬼に類する山姥をいわい鎮めたところであるに違いない。 山伏がそういうものを験力で鎮めたという話が初めにあったのだが、山姥などというものの伝承が一般に感銘をあたえなくなった近世に、これをむしろ女人結界の石のあるところとして受けとめなおしたのである
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.211)


     津軽地方にいた山伏は、もともと領主以下民衆の間に檀家・檀徒をもって、彼らのために加持祈祷を行うこと、一般の山伏と同様であった。 しかし、庶民の間では、山伏への依頼は経済的にもむずかしかったとみえて、イタコやカミサマ・盲僧に頼ることで巫呪を請うことが多く、どちらかというと山伏はこの地方では、武家・町民・地主たちを相手にすることが多かったらしい
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.213)


     延宝五年(一六七七)正月六日には、藩主邸の「御敷居際ニテ御目通、縁通奥ニテ御礼、竹間横襖ニテ御流頂戴」といったふうに年頭祝儀に参じている。 この年も六月九日岩木山で雨乞いにあたっている。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.213)


     時疫退散のために、たとえば天明四年(一七八四)には、在方で「蒲野文右衛門宿」と記す札を貼っておくとよいということで流行したことがある。 しかし、一般には「蘇民将来宿」の札が用いられた。 これも修験から配札したものだった。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.218)


     近世の末には、いわば底辺にあった庶民のためには、むしろ山伏より下級の民間的巫呪者への依存の度が強められたが、さらに、明治維新後の神仏混淆廃止の指令で、山伏はその正体をうしない、ついに明治五年の全国的な修験道廃止令で表面から姿を消したのである
     明治三年(一八七〇)に、

      修験持寺之儀者、村之鎮守たり共 朝廷被仰出之御趣意ニ基、神躰神号之村者勿論、仏躰ニ而も神号之社者仏躰取除、最寄社人へ相譲候様

    と命じられた。 ただにわかにそうして生活に困る山伏は、復飾の上社人の号を称し、神道に転じてつとめるようにといわれた。 いっぽう山伏が「持宮」をもって神像を祀ってきたならば、これを上納して廃社せよと命じられたのである(『弘前藩記事』卅八)。
    (《神と仏の間 四 民間信仰における山伏》P.219〜220)


    U 仏教民俗と神信仰

    一 仏教行事の民俗的基底

     1 仏教の伝来

     前々から言うとおり、仏教を日本人が受け入れるまでに以前から固有の宗教的習慣ないし信仰などの民俗宗教が存在し、そこへ仏教が伝来し結びついて、だんだんと変遷しつつ今日に伝えられてきたものと解される。 このようにみることを疑うものは、もはやあるまい。 無色透明なところへ仏教が入ってきたというわけではない。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.225)


     仏教の日本伝来以前にも、とにかく日本人はあらゆる部面で神信仰とか、呪術めいたものを持っていたのである。 それとうまくマッチし、結びつきやすく、かつ古代の社会事情にも相応する恰好で仏教が取り入れられた。 仏教のすべてが入ってきたのではなく、やはり固有信仰の中にそれと触れやすいものの部分が、いわば抜き出されて日本人の社会生活に意味ある仏教になっていったわけである。 それゆえ、インド本来の仏教あるいは、中国・朝鮮での仏教と比較すると、やや異色ある仏教というものが、日本の宗教界に浸透してきたわけである。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.225〜226)


     2 講と法会

     節分は、立春の前夜の鬼払いとして行われた行事であるが、今のように豆をまいて払うことは、史料で見るところでは(『花営三代記』など)、室町時代の初期からで、それ以前は鬼の姿をした者を堂内におき、それを打つもの二人ないし数人が、杖をふりふり追いまくり、演技的に鬼と戦い、鬼を追い払うことをしたものである。 このことが修正会に必ず伴っていた。 修正会は要するに災いを払い幸福を期待する意味を持った仏教行事からきているけれども、このような正月に災いをはらいながら幸福を招こうとする行事は日本人始まって以来、仏教を知る以前においても行ってきた民俗行事である。 そうした民俗行事が、寺で行う修正会の場合にも結びついた形をとっていたわけである。 その方が寺院の側としても信者を寺院に引きつけておくのに都合がよかったからである。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.232)


     今も、各地に修正会が残っているが、地方の寺院であればあるほど、仏教の行事としては変わっていると思うような面がある。鬼はらいも、むしろ陰陽道などにつながっているものであって、神道でもなければ仏教でもない。 これに用いる道具をみてもたとえば、「けずりかけ」といったものがある。 「けずりかけ」は、柳の木のやわらかい木の頭をそぎ、下にふさふさとたらしたもので、このように今年の稲もよくみのれということを祈りまじなったものなのである。 それを僧侶が持って上げ下げするという行事をする。 あるいは稲穂を幾束か持って、そこらに撒き散らすようなことを修正会の寺院内で行うことがある。 こうした民俗宗教としての農耕儀礼が修正会という仏教行事に結びついている
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.232〜233)


     したがって、仏教行事には懺悔的要素があるだけに宗教味が濃いといえるのである。 そして、さらにここに集まった人びとに施しをするという面がある。なり法会なりに参拝した人たちにいろいろなものを施す。 これは僧侶はできるだけ大勢集まって貰って、みなに何がしかの布施をするということであったのである。 それが盆などでは餓鬼にまで施しをするというところまでひろがっている。これは神社神道の祭りにはないのである。 神社神道の場合は、関係のある一般氏子に菓子などを与えるということはある。 しかし、これは見ず知らずの者、その土地に縁のない者にはやらない。 そういうセクショナリズムに類する封鎖性が神社の祭りの場合には伝わってきたのである
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.234)


     仏教の寺院行事の場合は、それはあくまで同心団体が支えで地域団体ではない。 たまたま同心の者が一つの地域の者であることはあっても、同じ地域、同じ村の者だからこの寺院の行事に参ずるという動機ではない。 観音の信仰、地蔵の信仰などで、これにあやかりたいということが何といっても基本の動機になっているわけである。 そういう意味ではたとえ信じない者がそこにきてもこれを分け与えるのを本来の仏教行事のたてまえとしていた
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.234〜235)


     以上のように、寺院の仏教行事は、その内容に懺悔の要素を契機として持っているということ、それから一般に施しを拡めるという性質とがある。 固有の神信仰としての民間信仰儀礼に結びつきつつも、その点に仏教行事の意義を認めることができる。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.235)


     3 彼岸

     春の彼岸秋の彼岸、この彼岸に庶民は皆先祖参り墓参りをする。 彼岸という言葉そのものは、パーラミッタという言葉から由来する。 これも仏典に現われる言葉であるから、いうまでもなく仏教の概念である。 現実に対して、あるいは凡俗に対して悟りの境地である仏の世界としての彼の岸、これに到達する為の特別の精進を要する期間だというのが、春分なり秋分の日を中心にした一週間の彼岸である。 このようにいかにも仏教によって支持され、それによって伝えられてきたような彼岸ながら、本来の仏教にはそういうものがなかった
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.235)


     このことは、宋の大休禅師の語録などにも「日本国では彼岸として春二月、秋八月(旧暦)、祭りをある習慣がある」という意味の文が出ており、いかにも珍しいことのように書かれているのである。 その表現法からみて、宋の時代に中国においては、彼岸というものが、行われていなかったということを示していると思える。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.235〜236)


     民俗学の方で彼岸の行事を調べると、昼夜平分ということが非常に印象の強い日であるので、朝早く東の方を向いて歩き、太陽のコースに沿うように弁当持ちで三々五々群れをなしてピクニックをする。 東方から西方へと、そして日没を拝み、引き揚げるというようなことはとくに近代でも鳥取県・島根県の山岳部の一部で行っていた。 老人ならば、熱心に一種の日拝みを行ったという。 同時にまた一方では、彼岸に誰でもがするような寺参り、あるいは墓における先祖祭りは盛んである。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.237)


     民俗学的に考えれば、日拝み太陽信仰なのであるが、春の彼岸ならばこれからいよいよ日が長くなり、秋の彼岸ならばこれから日がつまってくる、という境目に立ち太陽にたいする関心が深まって来る。 それで太陽を特別に拝むということをしたと思われる。 というのは、正確な暦を知るまではだいたい勘で平分になりそうな季節を選んだであろうが、文字で理解されるような暦を知るに至って、春分とか秋分に行うようになった。この春分・秋分の日を仏教の方で利用して、たまたま日拝みを行っていたことから、ヒオガミヒガミヒガンとして、あるいは日の神への願という日願こじつけて、彼岸という言葉を選び、彼岸会を設けた
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.237〜238)


     4 盂蘭盆会
     ところで仏教行事として最も顕著なものに、盂蘭盆会(うらぼんえ)がある。 中国やインドにおける本来の盂蘭盆会はどのようなものであったかというと、朦朧(もうろう)としていてよくわからない。 盂蘭盆・ウランバーナという言葉は「はなはだ苦しい」という意味を持っている。 漢語に直して、「倒懸(とうけん)」といっているが、さかさ吊りにあったような苦しみで、これを脱却するための行事が盂蘭盆会であったというのが常識になったいる。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.238)


     釈迦の十大弟子の一人である目連(もくれん)という者が、母親が餓鬼道に落ちてやせおとろえて苦しんでいるのにたいして食物を与えようとすると、母親は左手に鉢を持ち、右手で飯をつかもうとするけれども、それがぱっと火をふいて炭のようになって食べられない。 目連はこの食べようとして食べられないでいる母親の苦しみを見ながら悲嘆号泣して、釈迦にすがりつく。
     釈迦の説明によると、母の罪は、一人ではなんともできないものであるけれども、夏安居(げあんご)の最終日たる七月十五日に、百味の飲食(おんじき)、あるいは五菜を供えて衆僧を供養するならば母は救われるだろうと言われた。 かつこのさい七代前からの先祖の成仏を祈る。そしてどんどんお供えをし、施し、食べさせることによって救われるだろうと言われたことが伝えられている。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.238〜239)


     今の都会の盂蘭盆ではあまり「生きみたま」とは言わなくなったけれども、地方に行けば、まだまだ義理のある父母を始め、実の親、あるいは婚家、嫁ぎ先の親のところへ、嫁たちが特別に贈り物をする風習がかなり残っている。 江戸時代の江戸の市中においても「生きみたま」ということを盂蘭盆の中のきまった行事としていった。 とにかく、祖先崇拝に強く結びついて中国でも南北朝のころからずっと長いこと、仏教行事の重要なものとして盂蘭盆の行事は伝えられてきている。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.240〜241)


     そして十三日の晩に精霊迎えをする。 これは浜の方から先祖がやってくるという考え方で、海岸の部落であると、浜へいって念仏しながら仏を迎えるが、浜とか海に縁のないところでは山の上の方へいって迎えてくるわけである。 念のいったところはわざわざ仏体を背負った形をして腰をまげまげ門口までくる。 そして門口にたらいがおいてある。 そこに仏をおろして水をかける。 清めてから上に上げる。 さながら目の前に仏様がいるかのように一人で芝居をして挨拶をする。 「ご先祖様ようこそおいで遊ばしました」というようなことをいう。 そういうことを行っていたところが、新潟県の南の方にある。
    (《神と仏の間 一 仏教行事の民俗的基底》P.246)


    二 民間信仰の中の地蔵

     2 平安末期の地蔵信仰

     日本の知識人の間で地蔵のことが早く知られたことは、その関係の経典が奈良朝に写されていることでも認められる。 すなわち、金剛三昧経占察善悪業報経は天平九年(七三七)に、大方広十輪経も天平九年に、大乗大集地蔵十輪経は天平十年・十一年に、地蔵菩薩経(本願経か)は天平十年に、また天平十九年に、写すべく求められている(正倉院文書)。 なお、地蔵菩薩陀羅尼経もその後に写されたらしい。 ただ預修十王生七経など十王信仰と結びついた地蔵に関する経典は入っていない。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.255)


     3 中世の地蔵信仰

     そして、地蔵の日常の住みかについては、以前には南方世界とか、カラダ山(伽羅陀山)とかいわれることが多かったのに比して、六道悪趣の世界に住むとする見方が濃厚となる。 南北朝期の『鹿王禅院如意宝珠記』などには、地蔵の本地たる宝生如来が南方のものだというふうに説いて、もとの思想に縁づけている。カラダ山とか観音の浄土補陀洛山は、その地蔵の影向(ようごう)する浄土とされる程度になっている。『沙石集』もいうように日常の住みかとしては、六道の悪趣界を考えるふうが強い。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.262)


     そして『百因縁集』などはその根拠を観音が●利天(とうりてん)において、六道の悪趣衆生を地蔵菩薩に預けた云々とある蓮華三昧経に求めている。 それでまた、この蓮華三昧経には、地蔵に六種の名があり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六道にそれぞれ地蔵があるとしているが、これにもとづいて中世初頭から六地蔵を造ることが盛んになるのである。 中尊寺のように金色堂内にある(東塔)のみならず、墓地の入口にこれを造って死者の冥界における迷いを救うようにするとか、もっと現実的に六道を押しあてて町の辻々にそれを設けることが行われだすのである。 もっともこの六地蔵の成立には、地蔵の住みかに関する観念以外の別の契機もあずかっているので後に再びふれたい。
    (●:立心偏に「刀」)
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.262〜263)


     こうして地蔵冥界救出者としての性格はいよいよ強められてゆくのである。 鎌倉時代に冥界に対する信仰がすでにあったことは、陰陽道閻魔の本地たる太山府君を祭る行事のしばしば営まれたことや、その社である赤山明神の成立したことなどにもうかがわれるが、そういう気分の上に地蔵も右のような性格を強められてくるのである。ここにおいていかなる機根の弱い下劣なものでも、地蔵に救われ導かれうる可能性が強調されてくるのである『沙石集』に次のように言っている。

       釈尊三乗根性の熟せる時節を持ちつつ八相の化儀を示し、弥陀も念仏衆(修)善の功つもれる瞑目のきざみにこそ三尊の来迎をもたれ給へ。この(地蔵)菩薩は機根の熟するをもまたず臨終の夕ともいはずとこしなへに六趣の衢にたち旦暮四生の族にそうして縁なき衆生すらなほたすけたまふ。

    と。親鸞の立場に通ずるものがあるとともに、むしろそれ以上に悪人正機観に徹底したおもむきさえある。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.263〜264)


     千体万体と数を競うかのごとく地蔵を造ることは、中世の流行的現象であって、『吾妻鑑』建長五年(一二五三)十一月二十五日の条には、北条氏が建長寺において丈六の地蔵菩薩像を中尊として造り、脇に千体の地蔵を安置したが、その願うところは皇帝万歳、将軍家、重臣の千秋、天下の太平、下っては三代の上将二位家、ならびに一門の過去数輩の歿後を弔うことにあった。 もって現当二世にわたるのみならず、その現世祈願の幅が弘く国家的になってきたことを知りうる。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.268)


     さきに中世に入るころから地蔵の形像が、右手に錫杖左手に宝珠と一定してくるということを述べたが、この形は普通の地蔵儀軌には見えぬところで『覚禅抄』にひかれた不空軌、すなわち不空訳と伝える儀軌にあったという程度である。 それが日本でできた延命地蔵経では、「爾時大地六種震動、延命菩薩従地出現、右膝曲立、臂掌耳、左膝申下、手持錫杖」と宝珠のことはいわずに、錫杖をもつことの方が見える。 延命地蔵経は近世などにき随分と重んぜられたもののようで、いろいろの雑書にひかれていても、民間の地蔵を造る、あるいは地蔵信仰の規範ともなったらしいのである。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.269)


     これ以来地蔵がほとんど錫杖を手にするようにされてくるということには、やはり意味があるのであって、これが行脚の僧侶と化して衆生の引導救済に当てられるとの観念にもとづき、またその観念を助長するものである『康頼宝物集』の中に「あるときおいたるおや死してけり、いかがしてはうぶらんとあんじわづらひけるに行脚の僧にへんじてかの死人を山へ送り、孝養し給ひけり、それより送りの地蔵と申して六波羅にましますなり」とあるごとき話も生まれるわけである。 また、地蔵がよく廻られるとしての廻り地蔵の話も、同様なところに由来しよう。 なお右の延命地蔵経に地蔵が地より湧き出たという見方があるのは、明らかに日本人の地神信仰に習合したものである
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.267〜268)


     地蔵に対する現世利益的な見方は、地蔵の身代わり性を強調させることになった。 現実に困窮するものをあわれんで地蔵が抜け出てきて、人間一人前以上の助けをしてくれるという類の話が流布(るふ)してくるのである(この類の伝説については、村山修一『中世日本人の宗教と生活』においても扱った)、右にひいた『宝物集』の話でも、行脚の僧に変じた地蔵菩薩が死人の山送りをして孝養をつくしたというのもそれである。『沙石集』には病人の処へ地蔵菩薩が若僧に変じて看病にきた話を載せている。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.268)


     また『宝物集』には、西坂本観音院の土付地蔵に関する話として、ある老女が五寸ばかりの地蔵菩薩にいつも食物を供して大事にしていたところ、その二反程の田を耕作する作男が怠って六月になるまでつくらないので大いになげき地蔵菩薩に祈念した。 翌朝大道を通る人びとの声で驚いて田へ行って見ると、我が田はすっかり植えられていた。 よく見ると田の中には鼠の足跡のようなものかある。 これは地蔵菩薩の御しわざと心ばかりに思いていそぎ急ぎ家に帰り見れば、はたして御足に土がついていたのである
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.268〜269)


     応永時代につくられた『伯耆国大山寺縁起』の絵図は、この思想を表現したもので、地蔵の化現が田植女となって田楽を奏する中において気持ちよく田植が進められるところを描いているのである。右の類の土付地蔵泥足地蔵の型の伝説は、フォークロアの中にきわめて豊富なのである。 かように、欲するところの力をもって、人間に代わり現われるという意味の身代わり地蔵ではなくて、現実に危難を蒙りそうになった地蔵信仰者の身代わりとなったというふうな話も多い。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.268〜269)


     中世には武人たちの地蔵信仰も盛んであったが、それは地蔵菩薩が殺生(せっしょう)という悪事をするものさえ救済引導するといわれて、自分らの現実生活がそのまま肯定されることによって力を得たのであり、さらに加えて地蔵がしばしば身代わりに、刀や矢の攻撃をうけて疵を蒙ってくれるとの説話にも鼓舞されたことである。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.269)


     『太平記』には(巻二十四)、京都に足利方を攻めて入った新田義治・児島高徳方の軍勢が壊滅した中に、ただ一人香匂(こうわ)新左衛門壬生の地蔵堂に逃げこんだところ、地蔵の化身たる法師が身代わりに敵軍に囚われ、ひどいめにあったおかげで逃れることができた。 壬生の地蔵堂の本尊はそのあと仏体の所々に囚われの縄目のあとがついていたという話がある。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.269)


     4 地蔵信仰の民族

     地蔵講はとくに関東東北地方によく遺っているが、今では毎月催さずに、二、七、十月とか六、十月の二十三日か二十四日に行うところもある。 毎月行っているところもなおある。 とにかく二十三日二十四日であることは、十王信仰における地蔵の縁日が二十四日の関係で、この日に講が行われるに至ったことは明らかとしても、固有習俗たる二十三夜待との習合を思わせられるのである。 ことに地蔵の利益は暁に祈ることによってあらたかだとされていたから、二十四日の明け方の講寄合が重視されたとすれば、二十三日の夜おそく集まって、遅い月の出を待つ二十三夜待がこれに接続するわけである。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.275)


     国境・村境に地蔵を祀ることは非常に多く、地名にもそれを思わせる痕跡がある。 そのことは柳田國男「地蔵木」という論文に詳しいし、その後も諸所に認められている。 たとえば、大菩薩峠には種々の古仏がかるが、最も古いのは寛永八年(一六三一)の銘をもつ地蔵尊である。にあってさえぎり守る道祖(さえ)の神日本人の古い信仰対象であったことは、『日本書紀』以下の文献にも著しいが、村落社会が封鎖的でしたがって排他性の強かった古代には、至極ありがちなものであった。 ひいて村の内なる社会の土地を鎮め安んずる地神的性格をもたされ、密教でいう堅牢地神と融通して地蔵が想念された場合もある。 さきに引いた延命地蔵では、地蔵は地より涌いたとされている。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.277〜278)


     それはまた土付地蔵泥足地蔵、あるいは地面に生え抜きの地蔵根を張った地蔵の話に連なっている。 こういう地神性からも、地蔵は道祖神と習合しやすかったろうが、何といっても地蔵は冥界六道において迷えるものを引導し現実界に引きもどす働きが重視されているので、幽明の境にいる菩薩として受けとられる可能性が大きかった。 それから連想的に、現実の境を守るものにされたのであろう。六地蔵というものが墓地の入り口に祀られる特色を持っていたことも、その現われと見るべきである。 すると道祖神と地蔵とははなはだ習合しやすいのであり、福島県にある道祖神社のごときは、はっきりと本地を地蔵だと称している
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.278)


     以上のようにして、地蔵が道祖神と習合していることを知ると、愛宕神社の本地が勝軍地蔵となっている点についても、解釈がつきそうである。 愛宕の名は、山城の愛宕、後には江戸の愛宕で有名であるが、オタギアタゴは、もと同じ語である。 その根幹はタギにあろうが、タギタキは水があれば滝をなすような急崖を意味するのであり、民俗方言では急峻な坂道を指しているところもある。 よって、オタギとは急峻なお山ということであろう。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.279)


     ところで、京都においては、東は東山の将軍塚、北は北白川の将軍山、西は愛宕、南は男山をもって四方の鎮めといる観念が伝承しており、しかも柳田國男『石神問答』に緻密に考証されているように、将軍山・将軍塚は将軍が塞神(さくじん)の転訛と考えられるから、さえの神の祀り場である。 京都市の四方を鎮める山は、同時にその内と外とを限るところであったから、そこに塞神を祀ったことはありうることであろうし、西の方の急崖を成す愛宕に将軍神が祀られることも無理はない。 そのさえの神が地蔵と結びついて観念されたのであれば、勝軍としての地蔵が置かれることも自然の進みであろう。 愛宕と勝軍地蔵との関係はかようにして成立したのであろう。 愛宕神社が火の神として喧伝され、勝軍が武神的に見られているなどの面を通じてだけでは、右の問題には答えようがないのである(なお男山のオトコもオタギアタゴともとは同じ言葉でないかと思う)。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.279〜280)


     道祖神と地蔵との習合から発展した地蔵観念に、地蔵をもって縁結びの神と見る観方がある。 さえの神としては、外からの魔障物を排除する働きをもたせることから、他人が覗き見をすることを最もきらう男女一対の相和する形像を立てて道祖神とするところが、関東と中部地方の間の地域に多いことは知られているが、そうした道祖神との関係で、路傍の地蔵にも縁結びの効験を認めたらしい。 古くは『沙石集』にも見え、江戸の浅草には文箱地蔵という艶文をとりもつという地蔵があったし、足地蔵という地蔵のある土地もある。 東京の西東京市の六地蔵は盂蘭盆月の二十四日を縁日として、その日が男女の縁結びの機会となるともいう。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.280)


     また道祖神の性格によって、地蔵は旅人を守るとされ、地蔵が万障くりあわせてその堂に立ち寄った旅人を守ったというような話が多く伝わっている。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.280)


     地蔵に関する伝承として他に顕著なものには、何かの願がけに縄をくくりつければ叶うとする縄地蔵、また願がけに油や湯を潅(そそ)ぎ浴びせる油懸地蔵浴地蔵、小児の病気にあたって身代わりとなることによって本人を救治してくれる身代わり地蔵、また身代わりに切られたために肩から胴にかけて袈裟(けさ)がけに傷をうけているという袈裟がけ地蔵などがあり、ことに自身の患部に相当する地蔵の尊体の部分に泥を塗っておくと、身代わりに病んでくれるので本人の病気は治ってしまうという類の話は非常に多く、近ごろまでまじめな俗信になってきている。頬焼け地蔵鼻かけ地蔵あごなし地蔵などにも、そういう話が伴っている。 これらは、中世にも著しかった、地蔵の献身的犠牲的性格を伝える観念にも脈を曳くものである。
    (《神と仏の間 二 民間信仰の中の地蔵》P.280〜281)


    結言 神・仏交関の時代性と地方性

     2 「えゝじゃないか」と弥勒

     慶応三年(一八六七)八月から十二月末にかけてのことであった。 京坂を中心に、西は四国、東は東海道筋に及び、広い範囲で、あちらこちらに、神様が落ちた−−お札が降った−−いや御幣・御守・白羽の矢・穀物・金銀・仏像が落ちて来たなどと、さまざまの神異奇瑞を見たり聞いたりして、えらく騒がしい声が伝わっていった。 しかも連日である。 神・仏が降臨した家では早速お祝いの膳を用意する。 近所隣からあやかりに踏みこんでくる。それ! 世直しだ! 豊年だ! というわけで皆が踊り狂い出す。 男も女も白衣、あるいは男が女装したり女が男装したり、異様の風態で狂熱的な踊りが、村でも町でも、街道でも続けられ「えゝじゃないか、えゝじゃないか」の句に野卑猥褻(わいせつ)な言葉をはさんでの寺詣で・宮参り、中には鳴物まではいって世間あげて狂騒状態。 それはさながら倒幕成就をもって「一新」の「世直し」として、謳歌する歓喜の声でもあるかのように響いていった。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.287〜288)


     土屋喬雄は、この「えゝじゃないか騒動」は、勤王の志士たちが、幕末期民衆の不平不満に乗じて民心を収攬しようと計画したものだろうと、福地源一郎の解釈に従って述べている。 遠山茂樹は、倒幕派の志士が折から京都に波及した「えゝじゃないか」の乱舞を利用し、あるいは助長して、もって社会秩序を混乱させ、自らの運動を意識的に幕府の探索から、そしておそらく無意識的に階級的本能をもって、人民の眼から隠蔽して、自己の政治活動の利益を計ったのであろうとし、問題の核心は、利用者・助長者としての志士の側にあるのではなく利用され煽動された民衆の側にあるとしている。 たしかにそのとおりで、なぜ「えゝじゃないか」が起ったかは、民衆の側から説明さるべきものである。 それについて、遠山は、幕末期民衆生活の格別な不安、圧制に対する反撥、新世への希望が「えゝじゃないか」を触発させたと縷々説いている。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.288)


     この理解は、正しいようではあるが、なお公式的たるを免れない。 なぜならば、そうした民衆の社会生活における被圧迫感は事実であったけれども、それが爆発する仕方は一揆・打ちこわしをはじめいろいろありうるその中で〔とりわけ〕「えゝじゃないか」の内容をもつような形で〔これが発現した理由〕が説かれていないからである。 つまり個性的認識に欠けているからである。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.288〜289)


     何が、民衆をしてとくに「えゝじゃないか」の形で乱舞させたのであったか、というとき、あるいは伊勢神宮への信仰心をあげるかもしれない。 この騒動は、これまで一種の常識として、おかげ参り抜け参りの特殊化したもの、拡大したものと認められているからである。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.289)


     ほぼ六十年前後の周期で各地に偶発したおかげ参りが、慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政十三年(一八三〇)に行われ、刺激を求める民衆が参宮という形でいわば鬱憤をはらし、規模の大きい喧騒を極めたものと見なすことに私は疑いをいだく。 なるほど「えゝじゃないか」はおかげ踊りともよばれて、伊勢近辺からはこのときに参宮があったけれども、そして大神宮の神符が降り落ちたという伝えも諸所にあったけれども、全体としてみると、このときばかりは、伊勢との関係が著しくはない。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.289)


     すなわち、参宮がはなはだ小規模にしか行われなかっただけでなく、虚空から降ったもの、幻覚的に朦朧と顕現したと称するものにはさまざまなものがあり、神・仏も伊勢大神に限らず八幡春日稲荷金毘羅出雲大神阿弥陀仏大日如来釈迦弥勒高神天狗らしい)等々いろいろであった。 中でも、釈迦弥勒と一緒になって降りた、という伝えをもつ村のあることなど注意しておきたい。 とにかく「えゝじゃないか」を簡単におかげ参りの延長のように考えて、伊勢信仰のほとばしりとしてしまうことは、いささか安易な理解というべきである。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.289〜290)


     もっとも、「えゝじゃないか」の歌には、

      日本国の〔世直り〕ええぢやないか、〔ほうねん〕をどりはお目出たい、おかげ参りすりゃえゝぢやないか、はゝえぢやないか、えぢやないか。

     とあるし、その狂態ぶりにはおかげ参りと通ずるものが多いから、決して互いに無縁ではないが、通じているのは伊勢崇拝ではなく世直しへの期待であった。 被圧迫感からの解放のよろこびであった。 それがおかげ参りでは、伊勢大神の奇瑞により保障され促されたのであった(それは純真な神宮崇拝とは別であるが)。 「えゝじゃないか」では何がこの歓喜陶酔を支えたであろうか。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.290)


     前引の句にも注意されるし、稲荷がたくさんの稲穂をかかえて降臨したとか。米がバラバラ降ったとかいう類の話の多いことにも気づくように、この際には、久しい間民衆をしめつけてきた生活難、米の不作、あるいは物価高騰からの脱却、総じて世直しのよろこびが一般のおかげ参りと比べようもなく大きかった(今でも米が豊作だという意味で「世の中がよい」と農民がいい慣わしているところははなはだ多い)。 この騒ぎに唱えられた賛歌には、

      神は出雲を本として 六十余州の神仏が
      人間世界を一列に 照らせ給ふ恵にて
      諸神諸仏の御降りが 日本国中いちじるし
      弥勒ぼとけの御威光で 〔五穀成就ありがたい〕


     とあったが、同じおもむきを示している。 そしてさらに弥勒の加護を世直しの有力な支えにしたらしいことに注目させられる。 慶応三年に降臨を伝えられた神仏の中に、弥勒を数えた例のまれならずあったことと思いあわすべきである。 近世民衆の間では、弥勒はどのようなものとして観念されていたであろうか。 その点がわかれば、この「えゝじゃないか」に弥勒がかかげられた理由、ひいてこの騒ぎを促した本質が何ものであったかを究めうるのではなかろうか。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.291〜292)


     3 近世民衆と弥勒

     文化十一年に全国的にこんなことが言われたかどうか未だ明らかにしえないが、『後見草』によると、

      宝暦九年の夏の比(ころ)より誰仕出せしといふ事もなく来る年ハ十年の辰年也三河万歳の謡る〔未録十年に当れり〕、此年ハ災難多かるへし、此難を遁れんにハ正月の寿を祝ふに志く事なしと申触たり。

     とあり、右同様の弥勒(ここでは未録というあて字)の年と擬せられる年が別にあったことがわかる。 今でも三河万歳は「弥勒十年辰の年、諸神のたてたる御やかた」といったような歌をうたうが、是非とも厄を散じ徹底的に祝わねばならぬとする際に、この弥勒が索引されてくるらしいことは、いずれにも通じている。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.293〜294)


     千葉県長生郡に伝わる祝歌にも、

      今年の年は、〔みろくの歳で〕、三貫銭を襷にかけて、ヤアレホホ、ヤレホッホ

     とあるのも同様である。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.294)


     これらの弥勒の年とは、弥勒が下生される、つまりこの世に出で給う年という意味であることは、中国・朝鮮・日本を通じて、ひろく弥勒当来仏として信仰されてきたことから見ても自明である。その時機は成住壊空の四劫における第十の滅劫の始め(『水鏡』による)ともいわれるが、開闢以来五十六億七千万年と普通はよくいわれてきた。 しかし一般人にとっては、そんな数字は問題でなく、やがていつの世にか、あるいはこんなやりきれぬ時にきっと弥勒菩薩は現われ給いて人生世間の一切の不幸を焼却、それこそその管理する都率天浄土にひとしい繁栄の浄土を現実化してくれるものと信じられてきた。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.294)


     それで民衆の不幸感がたえず続くような、あるいは現実の生活苦が急ピッチでしめつけてくるようになると弥勒当来の信念が、いつの年とは限らず勃起してくることはありえたわけである。 その期待は、他面ではほとんど日常的に、祝歌の中に弥勒をたたえるのを通例とさせるほどにまで進んだ。 江戸時代には広島県の賀茂郡では、正月元旦の明け方、穢多たちが集まって来て各戸口で、

      五十六億七千万歳、弥勒出さん夜の暁、畝の真砂が谷へ下り、谷の真砂が畝へ上りて大盤石の巌となりて、君王子の御万歳と、さしに栄えて楊柳の影向云々

    と長い歌を唱った。 同様の歌は九州各地でも聞かれた。『海西漫録』に引かれた常陸鹿島の弥勒歌、関東・伊豆方面に鹿島踊歌としてある弥勒の歌沖縄弥勒踊の歌なども別にある年のというのではない。 年中行事的に祝儀や祭りに伴うものであるが、宝船のごとく、海上から弥勒の船が着いたとよろこぶ式になっている。 これらの伝承は、やがて重大な危機に際して、異常な奇瑞とともに弥勒が真実下生するものだという信念と相容れぬものではなく、むしろそうした期待を培うしたじになったであろう。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.294〜295)


     こんにちでも、当来仏として弥勒について口にすることがあることを能登半島調査で多く知った。 たとえば「借金は弥勒の娑婆が来たら返す」(町野町 現、輪島市)、「お前のような奴に金を貸すと、弥勒の世になっても返すまいから貸さぬ」(住吉村 現、穴水町中居)、「弥勒の世にでもなればいざ知らず、今そんなことはうまくいくかい」(諸橋村 現、穴水町明千寺)という会話はありふれたことである。 能登には、一体に弥勒に関する伝承が種々濃厚であるが、「田の神さまといえば弥勒様のようなものじゃ」(松浪町 現、能登町時長)、「したがって八十八歳米寿になると弥勒の位に就けるので近所の人が竹を持参してくれるのを桝の斗棒にする」(同上)という、この八十八歳弥勒の位に就くという伝承は、他にも諸所に遺り、男は斗棒、女は飯杓子をつくって知縁のものに配る。 それを貰うとがよくできる。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.295〜296)


     あるいは、桝ぎれがしないのだと、当時百歳の老人から直接聞いたこともある(正院町 現、珠洲市岡田)。 実際八十八歳以上の者がいる家では弥勒菩薩を祀っている家もある。 弥勒との関係については、輪島市広井にあった美漏久玉津島神社(明治四十年廃絶)の神体が一寸八分(もちろん事実ではないが)の米粒だったという愉快な伝承もある。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.296〜297)


     危機に下生する弥勒が、民衆にとって最大なる危機がの不作である関係上、の生産をまもる意味での「世直し神」的性格をもたされたことは、至極ありうべきことである。鹿島弥勒歌にも、

      (かね)の三合もまかうよ、かね三合は及びござらぬ
      (よね)の三合もまかうよ 何事もかなへたまへ

    とあり、関東の鹿島踊りの歌にも、

      天竺の雲のあひから十三姫がなゝ米をまく
      まけば只もまけかし 〔みろく〕続けとをおき
      云々

    とか、

      当年何どし何の歳にて候 世は万年で候
      めでたいな五穀上りて 浮世の人がよろこぶ
      行き候やかへり候や うしろへ弥勒がつづいた


    とか、

      天竺の雲の間で 十五小姫がよねをまく
      そのは何と蒔きます 日本つづきよねをまく


    というふうな句がある。 まことに稲作の豊熟こそが、いわゆる弥勒出世の第一の奇瑞と信じられてきたのである。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.297〜298)


     当来仏弥勒が一種の世直し神として下生するとの信念がいわば潜在意識として流れ伝わっているところへ、最も切実な世直しの要求が起こり、あるいは事実世直しが実現しそうだとよろこぶようになると大きく弥勒が浮かびあがってきたわけであろう。 宝暦・文化年間にあった弥勒の年は、要求されたる弥勒の年であったろうし、慶応のは、むしろ半ば実現しかかった世直しの歓喜に結びついたものであったろう。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.298〜299)


     世運の打開一新を求めるとき、年号をあらためるというのが従来一貫した態度であった私年号というものもいろいろあったが畢竟(ひっきょう)は、そうした元号観で自分たちの世間を新たにしようとの欲求に発したことである。 永正四年八月『実隆公記』同年十月『宣胤卿記』を見ると中央でも改元のことが大いに問題になっている。 ただそれを敢行するだけの儀式すら行いえぬみじめな状態であったため沙汰やみになっている。 こんな際であるから、東国では敢て弥勒の年号を称してしまったのである。 何かこのころにも、弥勒下生を信ずる輩の動きがあったのではないかと怪しまれる。
    (《神と仏の間 神・仏交関の時代性と地方性》P.299〜300)








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    [抜書き]『山伏』
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    【転記ミス訂正】15/04/16・・・
    【破損/復活試行】16/09/14・・・