[抜書き] 『日本文化の形成 中』


『日本文化の形成 中』
宮本常一・ちくま学芸文庫
一九九四年三月七日 第一刷発行
    目次
    Y 一九八〇年一月二五日
      イモと畑作
      農具としての鉄
    Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))
      根栽植物と雑穀と日本文化
      北の文化ベルト
      農耕技術と文化
      質疑
    [ 一九八〇年四月三日(民博シンポジウムにちなんで(2))
      イネの道
       −渡部忠世氏『稲の道』にふれて−
      農耕における南と北<文化の複合>
       −中尾佐助氏「照葉樹林文化」論にふれて−
      質疑
    \ 一九八〇年六月五日(民博シンポジウムにちなんで(3))
      環境考古学の周辺
       −安田喜憲氏『環境考古学事始』にふれて−
      家畜と農耕
       −民博シンポジウムから−
      質疑
    ] 一九八〇年七月三日
      銅と日本文化
    ]I 一九八〇年九月四日
      日本文化と生産基盤
    付 瀬戸内海文化の系譜
    解説 佐々木高明
    索引
      上〔講義1〕 目次
       T 一九七九年7月六日
        縄文の後裔
        渡来人と稲作
        征服王朝と祭祀王朝
       U 一九七九年九月七日
        竪穴のくらしと土蜘蛛
        稲作と鉄
        短粒米と長粒米・稲作の広がり
        倭の風俗
        倭と大和朝廷
       V 一九七九年一〇月五日
        大陸と列島弧
        古代アジアの農耕
        騎馬民族の渡来
       W 一九七九年一一月二日
        焼畑と狩猟
        農耕と秦氏の役割
       X 一九七九年一二月七日
        伝来農耕文化と機械の技術
        稲作の諸相
       解説 香月洋一郎

      下〔遺構〕 目次
       一 日本列島に住んだ人びと
        一 エビスたちの列島
        二 稲作を伝えた人びと
       二 日本文化にみえる海洋的性格
        一 倭人の源流
        二 耽羅・倭・百済の関係
        三 北方の文化
        四 琉球列島の文化
       三 日本における畑作の起源と発展
        一 焼畑
        二 古代中国の農耕
        三 渡来人と農耕
       付 海洋民と床住居
       あとがき(米山俊直/田村善次郎/宮本千晴)
       年譜
       解説 網野善彦


     イモと畑作

     野獣の多い日本で、とくに多いのは猪かと思っていたのですが、『延喜式』を見ていると、それよりも鹿が非常に多かったらしいのです。 『延喜式』の第二三巻の民部の下に交易雑物というのが出てきます。 そこで、どういうものが交易をするときの商品になり得たかというと、おそらく地方から京都へ持ってこられて、市で売買されたものと思うのですが、鹿のカワがたいへん多いのです。 それも二通りありまして、カワという字がの二つ出てまいります。 カワは皮膚の皮もカワと読みますが、手の加えていないカワが皮膚の皮になる。 ツクリカワ(革)はなめして使えるようにしてあるものをいうわけです。 その両方を朝廷に奉った所もあり、そうでない所もあるのですが、非常にたくさん出している所もあるのです。 たとえば、三河国は、鹿革六〇張も出されている。 甲斐国は鹿皮、鹿革両方合せて四〇張ほど出されている。 上総国は腐革(くだしがわ)八張、鹿革五〇張、洗革が一〇〇張となっています。 ほかにも各地から出されています。
     ところで、腐革は多分なめし皮で、皮についている肉を醗酵させて腐らせたものだと思います。 この腐革という言葉はたいへん良い言葉で、どういうなめし方をしたかがわかるのです。 というのは、ちょっと脱線しますが、皮のなめし方にはいろいろな方法があったのですが、まず第一に北方のシベリアなどでは、小便を使うのです。 つまり小便を溜めておいて醗酵させ、その中に皮をつけますと、皮についている脂肪や蛋白が分解してしまって、洗うと軟らかい皮になるわけです。 次に明礬(みょうばん)を使います。 これは、かなり化学的なので、のちに起こったものではないかと思いますが、皮は青味を帯びてきます。 それからタンニン鉄分を使ってなめす方法があります。 これは、木の皮などを煎じて、その汁をとって処理をしますが、皮は茶色になります。 もうひとつは、十分皮を削っておいて皮を揉む、揉皮です。 東アジアではこの四通りぐらい、皮のなめし方があったと思います。
    (《日本文化の形成 中 イモと畑作》P.014〜015)


     さて、こういう動物たちが、焼畑を荒らします。 とくに、厄介なのはで、穀物を食べます。 猪はまず堅果類のドングリやカシなどを食べ、さらに笹の根などを掘って食べる。カブラなどもよく掘って食べるそれを防ぐために焼畑をやるわけです
     焼畑をやると焼けたものの臭いで動物が寄りつきにくいのだそうです。 しかし、一、二年はよいが、三、四年になると臭いが抜けてきます。 するとまた野獣が焼畑を荒らすようになります。 それを荒らさせないようにするために、方々に猪垣(ししがき)を設けます。 今でも歩いていると猪垣が方々に見られますが、多く残っている所は伊勢神宮の近くなんです。神路山(かみろやま)では一切狩をやってはいけないことになっている。 そこで、この山中には猪がたくさんいるのです。
     そういった猪や鹿が田畑を荒らしてはいけないということで、もとは石垣をつくって田畑に入らせないようにしておりましたが、このごろは、トタン板をたてているのを見ることができます。
    (《日本文化の形成 中 イモと畑作》P.016)


     村ができますと、村の回りに垣をつくって、野獣が入らないようにする。 これが垣内(かいと)です。 垣内に畑をつくるとそれを垣内畑といいます。 こうして垣内畑は定畑(常畑)になります。それは焼畑ではありません。 おそらくサトイモというのは定畑に作ったものではなかったかと思います。 ずっと以前は焼畑で作っていたが、あとになると、定畑で作ったのではないか。 そうでなければ〈サト〉イモといわないはずなんです。 サトイモという言葉はたいへん大事な言葉になります。 サトイモは〈田〉イモともいいます。 水田にも作ったのです。 つまり垣内の内で作るのが多くて、外側で作るのは少なかったのではないか。 「サトイモ」とよぶ地帯というのは焼畑で作る地帯ではなかったと見てよいとおもいます。
    (《日本文化の形成 中 イモと畑作》P.016〜017)


     それでは垣内がいつごろから発達し始めただろうかというと、文献に現れるところでは、垣内という言葉が出てくるのは、平安時代の中ごろなんです。 そのころから定畑が発達していって、村の外側にずっと垣を巡らし、その内側で耕作する畑ができる。それから垣の外で耕作する畑も出てくるわけです。 そういう畑を佐渡では外畑(そとばた)といっております。 外の畑と書いて、垣内の外にある畑ということになるのです。
     そういう外畑を「出(で)」という所もあったのではなかろうか。 たとえば大阪平野の和泉国では、西出とか今出とかいう言葉がたくさん見られるのです。 これは垣内の外側に発達した村のことなんです。つまり垣内の外側にはみ出て村がつくられたわけです
    (《日本文化の形成 中 イモと畑作》P.017)


     農具としての鉄
     さて、本論へ入りましょう。 今回話をしたいのは、鉄と農業との関係です。 とくに稲作を支えたということです。 鉄が出てくるまでは、水田耕作はほとんど発展を見なかったのではないか。 存在したとしても、ごく部分的なものだったのではないだろうかと思います。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.020)


     ここに木製の鋤(すき)と鍬(くわ)の写真(図18)があります。 @の鋤には肩があって、そこに足をかけて踏み込むのですが、こういう農具を作り出すには、石で作れるかどうか。農具を作ったのはカネで、それもではない。 農具の形からいっても、鉄で木を割ったり、削ったりして作ったのではないだろうか。 とくにそのことが考えられるのはフォーク状木器Aですが、つめの尖らせ方を見ると、薄いもので削らないとこういうものはできません。 鉄を使って作ったと考えざるを得ないのです。使った農具は木であるけれども、農具を作るには鉄が使われたということになります
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.020)


    写真のCDでは、穴の開け方からそのことが考えられます。 穴の直径が同じ大きさで抜けていますが、石器か何かで抜くと、ふちは大きいが、中に入ると細くなるのが普通です。ずっと穴が通っているということは、おそらく鉄器を利用したのではないか
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.020〜022)


    それは古代の玉の穴を見るとわかります。 真ん中が細くなっている場合には、金属で開けたとは考えられない。 これが常識になっています。 しかし、鉄を堅くしたものを利用して錐(きり)状にして穴を開けると、入口から奥までほぼ同じように開けられる。 その玉がいつ作られたかという年代を見ていく場合に、開け方で決めているのですが、農具の場合にも同じことが言えるのではなかろうか。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.022)


    こういう穴の開け方としては、を差し込むことが考えられる。 写真Cは鍬ですが、穴がやはり同じようにして開けられています。 そうなると、鉄を使って穴を開けたのではないかと考えられるのです。 使った道具が金属だとすると、鉄と考えてよいわけです。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.022)


    なぜなら、出土する木はカシ(樫)が多いのです。 カシは堅い木なのです。 それが形を整えて作られている。 そして穴が開けられているということは、鉄で作ったと言わざるを得ない。 このようにして弥生の前期から中期、たとえば登呂や唐古(からこ)では、鉄が入ってきたことによって鉄で田や畑を起こすばかりでなく、鉄で農具を作ることによって農業が進んでいったのです
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.022)


    このときに鉄で作った木器の農具が使われる場所は、どういう所かというと、土が軟らかでなければいけません水を溜めて足で踏み込んで、鋤が土中にはまり込むことが大事なことになると思います。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.022)


     さて、古墳中期になりますとおもしろいことが起こってくるのです。 つまり馬具が出始めるのです。 そこで騎馬民族説が起こってきたわけですたぶん四世紀の終わりごろから騎馬民族が日本へやってきた。 そして大和まで征服したのではないかという説が現われるようになったのです。 これは今後の大事な問題のひとつになると思います。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.029)


     さて今まで申しましたように、鉄が大事なことになってまいります。 鉄を持った人たちが、まずそれぞれの土地を開いて、県(あがた)吾田)をつくっていく。 そして県がいくつか集まって連合して郡(こおり)を形成する。 郡がさらに集まって国を形成する。 おそらく武力によって統一されて、小さい国が生れるようになったと見てよいのではないかと思います(上、V、古代アジアの農耕、参照)。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.029)


     こうして『延喜式』を見ると、さらに考えさせられる問題が出てきます。武器でないものが作られたということでは、朝廷の中に主殿寮(とのもりょう)という所があります。 これは、いろいろな道具を各省や寮に供給する役所です。この主殿寮自体が経営していくために一年に使うものを記した寮家年料を見ますと大斧一九(かんな)二一〇砥(と)顆(か)美蓑(みの)二五藺笠(いがさ)二五菜漬の塩が一斛(さか)石二斗とあります。そうすると主殿寮に勤めている人たちが畑をつくっていたことがわかるのです。 身分の高い人にはいろいろいな禄を与えたが、身分の低い者は、藺笠をかぶって蓑を着て、鍬や鋤を振るったり、斧を使ってものを削って細工をし、漬物を食べていた。つまり自分の必要なものを作りだして、勤めていたのですね。 今の役人とはだいぶ違うんだよね(笑い)。 はなはだ自給的だった。 さらに自給のことがわかるのは、食物を供給する所で内膳司(ないぜんし)という所がありました、そこにまたいろんなものが出てくるのです。 これがまた非常におもしろい。 この内膳司では園(その)をつくっています。 これは野菜畑のことと考えてよいのです。 ここでいろいろなものを作っているのですが、面積はかなり広いのです。 その園をつくるのにが一一左右馬寮の牛を持ってきてそれに充てる。 死んだときには新しいものに請け替えなさい、は七四鍬の把(鍬柄)四〇鋤の把(鋤柄)三四−−二年に一ずつ請求して古いものは戻す−−、馬鍬辛●(からすき)の閇良(へら)鋒(さき)、経営するための仕丁が一四とあります。
    (●(すき):ヘンに
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.037〜038)



     内膳司の役目を果たすためには、それだけの道具を作り、ものを作っていたことがわかる。 さらに園地の経営が出てくる。 園地が三九町五段(反)二〇〇歩とあります。 その中に実のなる雑果の木、とかとか、みかん(なつめ)、いちごなどが作られていた。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.038)


     それに対して必ず労力がどのくらい必要か、細かく出てくる。 たとえば、を一段作るのに種子が一斗五升で、一四人半かかる。 耕地を鋤きかえすのに犂(からすき)一人牛を追う人一人牛一頭料理をする人一人畦(うね)を作る人二人種子をまく人半人刈るのが二人穂を採って実にするのが五人で、搗くのが二人、と経営の労力までまでみな出てくるのです
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.038)


     そうすると、政府自身が農業をやっていた。 しかも京都を中心に三九町歩という畑の経営をやっていた。のちの江戸幕府なんかとはだいぶ違うのです。 これで、日本の政府が農業を基幹として成立した国家だったということがわかってもらえるのではなかろうかと思います。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.038〜039)


     日本の農業の根幹にあるものはたいへんおもしろい。 を管理することによって稲作農耕が起こり、その鉄を管理するものが政府だったということ。 ある時期は鉄が武器になっていったけれども、日本全体が安定してくると、農耕にまた中心が戻ってきた。 そういうことが『令集解』あるいは『延喜式』を通して見ることができるのです。 そしてそれがすべて囲い込みのうちの農耕であったのだ(上、U、質疑、参照)ということが、今のお話しでおわかりいただけたかと思います。
    (《日本文化の形成 中 農具としての鉄》P.039)


     Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1)

     当日はパネラーがいて、それがみな報告をします。 それに対して質疑応答と討論がある。 それを繰り返したわけです。 まず発表をした人たちについて見ますと、民族学博物館の佐々木高明氏。 この方はもうご存知のように、焼畑農耕について真剣に取り組んでいる学者ですね。 それから京都大学の堀田満氏、「東アジア地域のイモ型有用植物について」を発表しました。 同じく京都大学農学部附属生殖研究施設の坂本寧男(さだお)氏、「日本とその周辺の雑穀」。 京都大学東南アジア研究センター所長の渡部忠世氏、この方は稲作についてですね。 「イネの起源と展開−アッサム・雲南起源説から−」。 それから大阪府立大学の中尾佐助氏。 例の「照葉樹林文化」を説いた人ですが、「東アジアのムギ農耕論」について話をしましたところ、その麦農耕からさらに脱線発展しまして「照葉樹林文化」に対して「ナラ林文化」、その下に「落葉樹林文化」というのがあったのではないかということを提案したのです
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.042〜043)


     この意見には私も大いに賛成だし、また多くの賛成者が出てきたわけです。 これは、これから先の大きな問題になるだろうと思われます。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.043)


     で、その次は京都大学霊長類研究所の野沢謙氏が「日本家畜系統論」をやって、それから佐々木高明さんの「焼畑から水田耕作へ」という話があり−−この話っていうのがまたおもしろいんで、あとで少し詳しくお話しますが−−、その次に民族学博物館の小山修三氏が「非稲作から稲作へ」を報告。 それから今度は食べ物のことについて、民族学博物館の石毛直道氏が「稲作の食事文化の特徴」を発表しました。 次に東京大学の大林太良氏、ご承知のエスノロジストですが、「非稲作と稲作の神話と儀礼」を。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.043)


     そういうような人たちが今まで研究したことを発表し、それに対して我々みたいのが討論に加わり、ついでに質問したり尾〔ヒレ〕をつけたりしました。 東京都立大学の石川栄吉氏。 東京工業大学で文化人類学者の岩田慶治氏(現在、民族博物館)。 それから信州大学の氏原暉雄(てるお)氏。 筑波大学歴史・人類学系で、南方を主としてやっている人。 さらに信州大学の小松和彦氏。 京都女子大学の高取正男氏(故人)。 それから京都大学東南アジア研究センターの高谷好一氏−−いわゆる水田農耕には二つの系統があるんだということを、最近言い始めている人です。 つまり直播と移植とは系統が違うのだということを説いているのですね。これは大いに我々が耳を傾けていいことだと思います。 それから民族学博物館の竹村卓二氏。 奈良国立文化財研究所で考古学の田中琢氏−−この方はなかなか鋭い人で、今までみんな勝手にいろいろなことを言っているが、そう簡単に少しばかりのことに尾ヒレをつけて見てはいけない、なんていうことを盛んに言っている人なんです
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.043〜044)


     それから京都大学で西洋史の西泰氏。『イモと日本人』(前掲)を書いた坪井洋文氏。 東京大学の西田隆雄氏。『焼畑のむら』(一九七四年、朝日新聞社)を書いた民族学博物館の福井勝義氏。 それから同じく松山利夫氏。 民俗芸能の守屋毅氏。それに私と。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.044)


     とにかくそれだけの連中がいろいろとイチャモンをつけるんだから、おもしろい会になることは当然です。 そのほかにオブザーバーがたくさんやってきておりました、そういう人たちにもどんどん発言してもらう、というようなことから、民族学博物館の加藤九祚さんのような人が飛び込んできて、とくに北方文化論でいろんな発言をされたのです。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.044)


     そこで、忘れてしまってはどうしようもないから、ざっとしたことだけみなさんに報告しておきたいと思います。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.044)


     これは、今はもうだいぶん熱が冷めましたけれども、この話を聞いているときは興奮しちゃって−−、結局そいつがもとで風邪をひいて(笑い)、それでとうとう二月中休んだというような、まったくみっともないことになった。 それほど興奮してワクワクしちゃって、「アッ、待った、待った。そうじゃないナ」なんてこと言ってね、いい気になってやっておったんですよ。 それほど私自身も熱がこもったのです。 もう一人のお年寄り国分直一さんなんかは、どうもまたユーモアのない人だから、少々みんなを怒らせながら発言しておりました。
    (《日本文化の形成 中 Z 一九八〇年三月七日(民博シンポジウムにちなんで(1))》P.044)


     根栽植物と雑穀と日本文化

     しかし、あの見方、あの考え方というのは、こちら側にもとられていいんじゃないだろうかというのが中尾さんの考え方で、ところが東南アジアに関してはコムギのようなわけにはいかないんだな。 つまり乾燥地帯では雑穀をほとんど作らない。 豆類は作るけれども、ミレット(雑穀)というのを作っていない。 とにかくほとんどコムギひとつで覆われ、あとはオートとかオオムギとかムキ性のもので覆われているのだが、東南アジアというのはそうじゃないのですね。 米を作っている。 雑穀も作っている。 一方、根菜類がある。 これはたいへん大事な問題なんだと思うのです。 そうなってくると、それらのすべてが、どういう形で複合しているかということを見ていかねばならなくなる。 つまり、バビロフの方法論を中尾さん流に考えていってみると、そういうものをどう捉えたらいいか。なぜ東南アジアは複雑なのかということで当たってみると、そういうものの行われている地帯がほとんど照葉樹林のあるところで、日本なんかもそのうちへ入るわけです。 その照葉樹林の行われているところにある栽培植物をずうっと拾い上げてきまして、それを並べていくと、ひとつの共通性が出てくる。 それが照葉樹林文化だと。 それではどこが起源だったのだろうかというと、むろん起源なんかは必ずしも中尾さんが言ったようなところが起源ではないというわけです。 それはほんとにゲノムをずうっと調べていかなきゃわからないのだし、それから野生種との関係というものを見ていかないとわからない。 結局、中尾さんの出したあの大きな提案、それを実証してみようとするともっともっときめ細かな追跡をしていかなきゃいけない。 それが今度のシンポジウムになったと言っていいのではないかと思うのです。 それは、そう言われてみると、なるほどそうなんです。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.050〜051)


     そこで、どんなことがなお見落とされていたのだろうか。 たとえばまず最初の話をした堀田さん「東アジア地域のイモ型有用植物」これでまずサトイモ系統分類を堀田さんはやったわけです。 そうすると、イネなんかにはわりあい野生種が少ないのですが−−とくに日本なんかにはイネの野生種はないわけですね−−、しかしイモの野生種というのは実に多いのだそうです。 そして、しかも栽培種との区別がほとんどつかないのだそうです。 そこでまず大事なことは、の部分を食料に供しているもの全体を見ていく必要がある。 どんなものがあるかというと、たとえばヒガンバナみたいなものがある。 ヒガンバナの根を採ってみるとわかるでしょうが、みんなひとつひとつ鱗片が剥げるようになっている。 あれは葉が変形したものなんです。 葉は上へ出ると青くなる。 それが地中で土に覆われていることによって白くなる。 それがヒガンバナの特色なんだそうですけれども、何のためにそうなっているかというと、そこへ澱粉を貯蔵するからなんです。 澱粉を貯蔵しなければならないものというのは、普通は種子がないものだが、ヒガンバナをご覧になると、ずーっと茎が伸びていって花が咲くのですけれども、その花が枯れていったときには、種子も何もないでしょ。 そうすると、個体保存というか、個体遺伝という、それがない。 みんな澱粉貯蔵のかたちでもって個体を維持していく。 そういうものがいろいろある。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.051〜052)


     それからヤマノイモ(ヤムイモ)のほうはどうかというと、食用種がだいたい八〇種ぐらいある。 これは、やはり野生種では食えないものが非常に多いのだそうです。 結局食べられるのは一三パーセントぐらいしかない。 そして、それを栽培しているのはどこが一番多いかというと、東アジアなのです。 ヤマノイモをほかの所で食べている例がたいへん少ない。照葉樹林地帯あるいは暖・温帯で作られているのは、ヤマノイモあるいはナガイモといわれているものです。 それから熱帯から亜熱帯へかけては、ダイジョとかトベイモカシュウイモアケビドコロ、これはみんな同じヤマノイモの系統のものなんですね。 そういうものの中には、ヤマノイモ、ナガイモのようなヌカゴ(ムカゴ)というのがありますね。 あれは花は咲かないのだが、茎が出て、そこへ小さい実がなるというか、それが種子になって広がっていく。種子ではないんだけれども、やはり個体繁殖のひとつなんですが、そういうように種をまくことなしに繁殖していく植物があって、それを我々が食べるようになった。 どうしてそれを食べることを考えついたかというと、これを擂りつぶして土中に埋めておきます。 ニ、三日埋めておきますと発酵してくるわけです。 そしてやや酸っぱ味を帯びてきます。 そうするとエグ味がとれてしまうのですね。 それを今度は食べるときに熱を加える。 たとえば焼いた石で覆いをする。 そうするとちょうどいい味になる。このようにして簡単に食べられるということから、土器を持たない文化が発達していくわけですね。 これは非常におもしろいものだと思うんです。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.054〜055)


     ところが、最初はやはり二倍体であったから花が咲いていたのですが、温帯へ来ると花が咲かなくなるというのは、違った種類のものの花粉が混じり合ってきて、三倍体になった。 ですから温帯にあるタロイモ系統のものというのは、さっき言ったように種子で繁殖するのではなくて、個体繁殖に変わってきたんだという、これは非常におもしろいことだと思うのです。 そういう個体繁殖をするものが、いくつも同じ地帯にでてくるわけです。 たとえば、バナナもそうです。 あれは決して花が咲いて種子がなってというのではなくて、ずっと大きくなるけれども、あの実ひとつひとつは種子にはならないわけですね。 種子には違いない。 花が咲いて実がなるんだから。 しかし、あれを土へ埋めておいたら、芽が出て葉が出て花が咲くかというと、そうじゃないのです。 あれはあれだけのものなんです。 実は根のほうで繁殖していきます。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.055)


     そういう現象というのは、熱帯の植物の中に非常に多くて、そこに住んでいる人たちというのは、それを利用する。 そうすると、それにともなったひとつの文化が発生するわけです。どんな文化が発生するのかというと、まず第一番に土器を持たないということ。それから、個体を土へ埋めればそれが大きくなるということから、が必要なくなるのです。 みんな掘り棒で穴を開けて、それへ小さい個体を入れておくとそれが自然に大きくなってくるようになる。 そういう栽培法が起こってくる。 それをそのまま食べるとエグいということから、加工しなければならない。 その加工も、さきほど言ったように、発酵させることが必要なんだから擂りつぶす。 擂りつぶして土中へ埋めれば必ず発酵する。 そういう食べ方がそれにともなって発達する。 これが東南アジアにおける、ひとつの作物のあり方ではなかったのだろうかと、そういうことになるわけです。これは非常におもしろい話で、とくに染色体の話はいろいろ聞かされているのだけれども、どうも私にはよくわからないから省略します
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.055〜056)


     今度は国内をとってみますと、モチアワが非常に多いのは、近畿とか四国とか沖縄とか、そういう南につながる地帯にモチアワが出てくるわけです。 そうしますと、日本へ入ってきたアワというものは、中国・朝鮮系のアワであっただろうかどうだろうかということになる。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.062)


     ところでなぜ畑作で作るこういうものを雑穀というのかというと、こういうものを作っている場合に、一種類だけ作るということがないのですねの場合は米一種類を作りますけれども、とにかくアワを作ればキビも作る。 あるいはコキビも作る。モロコシを作る。いろんなものを作る。 少しずつ作る。 これは農耕儀礼のためにそうしているのであろうかどうだろうか、それがよくわからないのです。 結局いろんなことが問題になるのですが、とにかく畑で作る雑穀というものは、その名が示すとおりに多くのものを組み合わせて作ることによって、畑作というものが成り立っているという現象だけは、これは認めざるを得ない。 それに対する解釈というのは、これから先の問題になってくるんじゃなかろうかと思うのです。 同時に、これほど複雑なもの、いろいろなものが植えられたというのは、品種改良が行われなかったということとかかわり合いがあるのではないだろうか
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.063〜064)


     ところが日本の場合には、それではアワが主食物になっただろうか、あるいはキビが主食物になっただろうかというと、どうもそうではなかった。 むろん、アワがよけい食べられたことは事実なんです。 なぜならアワの場合には春アワ夏アワがある。 一年に二回作っているのですね。 ですから先ほどの栽培面積というのは、そういうようにして見ると、そのまま倍になる。 それからキビもがありますね。 それから、ここへまだ出てきておりませんが、ソバがそうでしょ。夏ソバ秋ソバとがある。 二回作られる。 つまり、一作でよけい穫るんじゃなくて、時期を変えて二度作るという。 これはたいへんおもしろい問題を含んでいると思うのですが、しかしそれ自体は大きな品種改良がなされていなかった。 こういうように見ていいのではないかと思います。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.065)


     それでは、今申しましたようなアワですが、日本へ入ってきたアワがどこから来たかということになると、どうもふたつの系統があって台湾辺りから琉球列島を経由して日本へ入ってくるというようなルートがひとつあったんじゃないか。 それから、朝鮮半島、あるいは中国から直接アワが日本へ入ってくる。 そういう経路があったのではないか。 その品種は、一方はウルチのアワであり、一方はモチのアワではなかっただろうか。 そういうように考えられるのです。 そこで今のアワという言葉ですが、インドネシアからボルネオへかけてダワ(Dawa)という言葉があるのです。ダワのDがとれてアワになったのだろうというのが、今一般の学説になっているのですが、大林太良氏はそれを否定しているのです。 アワは古くはアハと書かれている。 アハは奈良時代ですとア〔ハ〕とは言わないでア〔パ〕と発音したはずなんです。 アパとダワとは全然語形が違うのであって、これは別だろうということを言っていました。 どういうように系統づけていいか、これもこれからの問題になるのではなかろうかと思います。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.065〜066)


     ところで穀物を食べるようになると、必ず土器が発達するんですね。 それは穀物に限りませんけれども、いわゆる堅果類でも同じで、たとえばドングリの実を採って食べても同じことなんです。 そうすると土器が発生する。 ところが、そういうようにして見ていっておりますと、宮古八重山は今から二〇〇〇年以前だと無土器だったというのです。 すると、あそこなんかは穀物がその段階まではなかった。 するとここはやはり、イモが中心ではなかったか。 そうすると先ほどのアワの問題になるのですが、アワがあそこを経由して日本へ入ってきたとすると、実は二〇〇〇年前以後ということになってくるわけです。 今から二〇〇〇年ぐらい前から土器が出てくるようになるんだからね。 まずイモが最初に渡ってきて、それから穀物が−−かりにですよ−−南の島々を伝わって入ってきたとするならば、そのあと雑穀類が、つまり−−これは琉球列島を考えた場合−−アワのようなものが渡ってきたのではないかと思ってました。 ところが最近になって発掘をし始めると、必ずしもそうではないのではないか−−。非常にかすかだけれども無文(むもん)土器が、ほんのわずかだけれども出てきている。 それは紀元前一五〇〇年ぐらいだということになる。 それはその時期だけ出て、あとは消えています。 それに対してのいろんな意見があるようですけれども……。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.067〜068)


     いずれにしても、南の島で土器がたくさん使われるようになったというのは、やはり二〇〇〇年ぐらい前からで、そしてその土器が赤い系統の土器だというのです。 それはどうもマリアナのものと非常に近いのではなかろうか。 そうすると、アワなんかがどこから来たんだろうかというと、マリアナ辺りからではないか。 マリアナには田植えがあったわけですね。 とにかくそういう、まだいま結論を出すのには早過ぎるような現象というものが、点々として見られるわけなんです。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.068)


     ところがおもしろいのはアフガニスタン。 あそこではキビをまく場合に、キビだけでせなくてアワと一緒にまいているのです。 キビが八〇パーセント、アワが二〇パーセント。 アワ以外のものもまくことがある。 そういう栽培法が見られるのです。 これは日本の場合も同じことが言えるので、たとえば青ヶ島なんかへ行くと、サトイモサツマイモが一緒に植えられたり、サトイモダイズが一緒に植えられたり、いろんなそういう現象が同時に見られます。 雑穀とイモとは区別しなければいけないけれども、やはり関係があるんじゃないかと思っているのです。
    (《日本文化の形成 中 根栽植物と雑穀と日本文化》P.068〜069)


     北の文化ベルト

     そうすると、我々は北海道のアイヌ文化というのは非常に原始的で、遅れたものでというように考えていたのだけれども、今から一五〇〇年以前には、本州にあった農耕文化と比べてみて遜色があるどころではなく、非常にレベルの高い文化があったのではなかろうか、という感じがするのです。 そのことを暗示するものがあるのです。 それは例の『魏志』東夷伝、それから『旧唐書』。 そこに、満州の東のほうに粛慎(しゅくしん)という国がある。 それはかなり文化の高い国で、その東にも同じような文化を持った国があると言うのです。 それはどう考えても、樺太・北海道を考える以外にないのです。 だから、漢の時代からその次の魏晋南北朝、そのころにはすでに沿海州に、ある非常に大きな安定した農耕文化地帯というものが出現していたのではなかろうか
    (《日本文化の形成 中 北の文化ベルト》P.072)


     どうしてそんな所にそういう高い文化が発達したのだろうかということは、ひとつは、あそこで魚が非常にたくさん獲れた。 魚が多いし、それから動物では熊が多いでしょ。 だから、漁撈・狩猟と農耕を兼ねたような文化があそこに発達して、しかも北の方であったので、かなりの程度早くから交易が発達したのでなかったか。 その交易というのは、夏になって樹木が繁っている中を往復するということは難しいことだけれども、冬凍りつくと橇(そり)でいくらでも行ける。 そこでトナカイの文化というものが考えられていいのではないかと思うのです。
    (《日本文化の形成 中 北の文化ベルト》P.072〜073)


     というのは例の大黒屋光太夫ですか、あれがカムチャッカへ流れついて、それからラックスマンに連れられてペテスベルグへ行くのですね。 あれを見るとよくわかるのだけれども、ペテスブルグへ行くのに、冬になって土が凍るのを待って行っております。 当時は馬ですね。 それに引かせて行くと非常に短い時間でペテスブルグへ着いています。 あれは夏だったらたいへんだと思うのです。 凍るということは、僕らにとっては寒いということで行動が束縛されると考えがちですが、移動する者、旅をする者にとっては良い条件になるのです。 あの広いシベリアを突っ走れるのは、低湿地帯も河もみな凍ってしまうからでしょ
    (《日本文化の形成 中 北の文化ベルト》P.073)


     イネの道

     −渡部忠世氏『稲の道』にふれて−
     今日は前回に続けて、渡部忠世さんの「イネの起源と展開−アッサム・雲南起源説から−」について話をしてみたいと思います。
     まず最初に、渡部さんが野生種ということについて、たいへんよい指摘をされていました。 たとえば、どこがその原産地だというふうによく言われる。そんなにあっさりと原産地がわかるか、ということになりますが、原産地である場合は、必ず野生している地域が狭いんです。 栽培することによって広がっていくわけなんですね。 これは非常におもしろい問題だと思うんです。 ただし、ものによってはたいへん広く分布を見ているものもあるようです。 それでは、とくに野生稲の場合、そういう原産種というようなものがどうしてわかるのかというと、栽培種を栽培しておりますと、必ずその周囲へ野生のイネが生え始めるのだそうです。 つまり、いろいろ交配されて出てきている品種が里帰りをするわけです。 これは遺伝原理のわかっている人が聞いていたらすぐわかることだけれども、交配させていくともとへ戻ることがあります。 交配させたものが固定して新しい品種になる。 けれど、またあとへ戻るということがある。 それで、必ずもとの野生時代のイネにあと戻りをしていく。 そして、その栽培している地帯に広がっていく−−広がる所は知れたものなんだが−−。 そのことが原種を見ていくうえに、たいへん大きな手がかりになるわけです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.092〜093)


     ただ日本にはそういうイネの里帰りはないのです。 日本以外の所にそれが見られる。 ということは、日本における栽培というのは非常に進んでいるからじゃないかと思うのですが、ふつう栽培をしていると、たいてい五〇年経つと野生稲が出てくる。 したがって東南アジアを歩いていると、栽培種の近くに野生種があるから、それをとってきて、ゲノム、つまり染色体を調べますと、どういう系統のイネかということがわかってくるわけです。 そのようにして、いくつかの種類の系統があることを見ていくことができるというのです。なるほど、その通りだろうと、たいへん教えられたのです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.093)


     そこで、やっとイネについての研究が起こってくるのは、ごく最近なんですね。 渡部さんを中心にしたグループ(京都大学東南アジア研究センター)ができて、そして研究が起こってきて以来のことです。 前にも申しましたように、『稲の道』(前掲、上、T、渡来人と稲作、参照)を読んでいただくとわかりますけれども、渡部さんという人はたいへん優れた学者で、次のようなことを言っております
     煉瓦を作りますのに、泥を練って、その〔つなぎ〕にするのに、日本の場合だとを切って中へ入れる。 いわゆるスサ(●:くさかんむりに切)ですが、壁土なんか塗る場合、必ずそれを入れてやります。 あれをやらないと、土が固まらないわけです。 焼く場合には、藁のスサでは大き過ぎますから、うんと小さくするか、あるいは砂粒を入れるとかしなければいけないのでしょうが、籾がらならばそれができるわけで、とくに日乾の煉瓦ならば、それで十分いけるということから、それに目をつけて、それで煉瓦を砕いてみると、中に籾粒がある。 かりに黒く焦げていても、それを十分に調べていくことができる。 そして、そのことから古い遺跡を片っ端から調べていって、そして、土の中に含まれている籾がらを見たわけです。 すると、だいたい四つぐらいの種類が出てくるのですけれども、一番多いのが丸い系統のものと、それから長い系統のものです。 そして、この丸い系統のものと長い系統のものが、同じ場所から同時に出るということがほとんどない、という事実を突きとめたわけです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.094〜095)


     日本の場合をとってみますと、紀元前三世紀ごろ、つまり弥生という時代になるわけですが、遺跡を調べてみますと、はっきりとふたつに分かれる。 ひとつは扇状地あるいは河谷、そういう土地の遺跡。 もうひとつは、この前も話したと思いますけれど、弥生の遺跡の高い所にある遺跡がたくさんありますね。 たとえば、瀬戸内海で弥生の一番大きな遺跡というのは、香川県の紫雲出(しうんで)という所です。 紫雲出というのは半島の高い尾根筋、そういう場所です。 さきほどの唐古というのは天理のすぐ西。 それから静岡の登呂、それから愛知の瓜郷、これも扇状地なんです。 そういう所へ古い遺跡が出てくるわけです。 そしていずれも弥生の遺跡になるわけです。 そこで、さきほど申しましたように、種と立地とが結びついていることが問題になるのです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.097)


     ところが、それを突きつめていきますと、さっき言ったように、丘陵だとか山岳の畑から籾粒が出てくる。 これがほとんど焼畑だと見ていい。 すると、米というのは最初は焼畑で多く作られたのではないか、ということがわかってくるわけです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.097)


     そこで、稲作を中心にして国家が成立してくる。 それが夏という国であった。 国家が成立するということは、どういうことかと言うと、年貢を取り立てることによって国家が成り立つということです。年貢を取り立てようとすると、稲作というものを進めていかなきゃならん。 技術的には、当時としては非常に高い技術を持つようになってきて、揚子江の河口から淮河を結んで、のちには、あそこに大運河が作られることになるわけですが、それ以前に、あの一帯の稲作がずっと広がっていった。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.099〜100)


     中国に「火耕水耨(すいどう)」という言葉があります。 これは、今までは、焼畑による農耕と、水稲栽培と、二つに分けて考えていたのですが、そうではなくて、「火耕水耨」は実はひとつの言葉である。 山を焼いて、そこへ種をまく。それに今度は水をかけて育てる、と、そう理解すべきであるということです。 東南アジアなどに残っている、この前お話しした栽培法では、まず焼畑をやって丘になっている所へ籾種をまく。 イネが生えて密植してくるから、こんどはそれより下ったところへ緑を作って、そこへ水を溜めて土をならして、密植しているイネを抜いて植えていく。 そういう栽培法が「火耕水耨」であろうというように、いま理解されるようになっているんだそうです。 こういうようにして、短粒米の栽培というのは、そういう方法をとってしだいに広がってきたのです。
    (《日本文化の形成 中 イネの道》P.100〜101)


     農耕における南と北<文化の複合>

     −中尾佐助氏「照葉樹林文化」論にふれて−

     中尾さんの説でたいへん教えられたのは、たとえば、イネならイネひとつだけが広がってくるということがないんだ。 と言うのです。必ずそれにプラスアルファで、何かが付属して、植物というものは広がっていくものだというのです。 つまり、植物を持ってくる人は、そこで自分の新しい生活をたてなければならないために、その生活に必要な植物を一緒に持ってくる、ということなんですね。 私も以前から、マダケはイネとともに持ち込まれたものではないかと言っておりましたが、同じ考え方なのです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.108)


     ところが、これに似た酒があるんですね。 壷の中へシコクビエを入れまして、これを発酵させるわけなんです。 発酵といっても、あまり水を加えないで、たとえば「麹を〔ねかせる〕」という言葉がありますが、を浸けて、ムギなりダイズなりを置いて、ムシロを掛けておきますと、全体が麹になって発酵してきます。 むろん蓋があります。 蓋がなきゃ適度な発酵をしませんから、それが十分発酵しますと、熱湯を入れて、中へ竹の管を差し込んで上からチュウチュウ吸うのですね。 そういう酒の造り方が見られるんです。 これは粒酒とは少し違うから、粥酒と言っていいのではなかろうか。 というのが中尾さんの言い分なんです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.111)


     もし、初めから水を入れておいて発酵させると、それは大量に造られるようになる。 しかし下手をすると、すぐ酢になる。 さっき言ったようなやり方では、酢になることは絶対にないわけです。酢になるけれども、発酵したアルコールのときに飲む。 それが濁り酒ドブロクではないか、と言うのです。 そして、その濁り酒を酸化しないように−−日本では酸化したもの、酢に当たるものを辛酒と言っているんですが−−、辛酒にしないようにしようとすると、灰のアクを入れるといいんですね。灰のアク汁を入れると、アルカリ性のものだから酸化が止まります。 止まると今度はその上へ、上澄みが出てくるんです。 それを取ったものが澄み酒ではないか。日本の清酒というものは、そのようにして発達したのではないか、これが中尾学説なんです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.111〜112)


     ところで、稲作というのは非常に大事なんです。 なぜ大事なのかと申しますと、農業にはいろいろな農業がありますけれども、その中で、南の方で発達していったものは根栽農業です。 たとえばタロイモを作るとか、バナナとか、そういうものは根栽農業だと言っていい。 根栽農業というのは、ほとんどが、染色体が三倍体になっていて、種を持たないで、根を分けて、それを繁殖させていって食べる。 そういう非常に簡単な栽培法で作ることができるものです。 それから、いわゆるハウス栽培。 これらが南の方の文化の下敷になっていると見てよいのですが、その上に載っているものに種子農業がある。タネの農業。 お米はその種子農業なんですね。 その種子農業が、西の方の種子農業とは違うのです
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.113)


     そこで種子農業について見ると、いったいどこが中心になっていただろうか。 これは、どうもひとつの中心がチベットにあったのではないか。 とくにパンコムギあるいはオートムギは、チベットを中心にして発達していったのではないか。このパンコムギあるいはオートムギを作る作り方と、お米を作る作り方とは、非常に違っているわけです。 どのように違っているのかというと、まず食べ方が根本から違います。 そして、それらのものでを造るということもなくなります。 それから、ほとんどが直播になって、移植というのはなくなります。 作る場合にはがともなう。その犂は、畑の方で使う場合には、田と違って短床と言うか、床のない犂で土を起こします。 そのように犂も違っている。 それが種子農業のひとつの特徴となる。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.113〜114)


     それから、その同じルートを通って入ってきたものに、ネギゴボウがあるというんです。 同時に、そういう作物を作りますと、それにともなって雑草が生えるのです。雑草と野草は違います。雑草というのは、作物を作るとそれにともなって生える草、それを雑草と言うんです。 たとえばハコベを見ますと、何でもない所へハコベが生えるということがない。 必ず何か作物を作っている所へ生えてくるんです。 そういうものが雑草です。 今言ったような、作物に随伴する雑草のひとつの例として、中尾さんは Agrostema githogo(ムギセンソウ)という名を挙げておりりましたが、これはムギに必ずともなって生える雑草なんだそうです。 日本へはまだ来ていないようだけれども、シベリアの辺りから満州へかけて見られるわけなんです。 結局、そのように考えていってみると、種子農業というのはシルクロードを通って入ってきたのではなくて、それよりもう少し北のルートを通って、まず満州の辺りへ入り、それから南へ延びたのではないかと、そういう見方をしているんです。 これは、我々にとってたいへん大事な問題になってくるんです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.116)


     もうひとつ大事なことが出てきます。 今度はコムギです。 我々が今作っている日本のコムギというのは、搗いて粉にしますと、それが真っ白になりませんね。 少し赤味を帯びているのです。満州のコムギは、粉にしますと真っ白で、いわゆる白コムギなんです。日本のは赤コムギです。中国へ行くと、北の方は白コムギで、揚子江から南へ行ったら赤コムギになるのです。 インドを経由して入ってきたコムギは赤いのです。日本へ入ってきたコムギというのは、いきなり北方のコムギではなくて、南の方のコムギだったのではないか。 ここに、シベリア回りの農耕というのが、たいへん大きな意味を持ってくるのではなかろうか。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.116〜117)


     それについて加藤晋平さんが非常に興味のある言葉をつけ加えたのです。 それは、シベリアの麻、すなわち大麻は、西シベリアでは紀元前三〇〇〇年ぐらいにもう作られていたというのです。 つまり今から五〇〇〇年ぎらい前に、西シベリアでは栽培植物になっていたと言うのです。 これはたいへんなことだと思うのです。 なぜたいへんなことかというと、『延喜式』を見ておりますと、麻績(おみ)郷の成立−−麻績というのは麻を績(う)むことなんです−−、それが西の方にはないのです信濃から北になります。 すると、麻を作るというのは、日本の場合、朝鮮半島を経由して入ってきたとは考えられないのです朝鮮半島を経由したなら、西日本にあっていいはずなんですが、西日本にはないのです服部だとか秦郷だとかいうものは西の方に出てくるのだけれども、麻績郷というのは、ずうっと東北の方へ分布を見ているのです。 そうすると、を作るというのは、実は、シベリアから樺太、北海道を経由して南下したものではないか。 そういうルートが考えられてくるわけです。 これも種子農業のひとつですね。 そこで、日本で麻をいつから作り始めたかはわかりませんけれども、非常に古い時期、おそらくは縄文時代から麻が作られていたのではないか、という推定が成り立ってくるのです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.117〜118)


     ところが、もうひとつ大きなものがあるんです。 それは、スキタイ文化を形成させた、つくりシベリアにあった文化を形成させ、それを維持していったものに、栽培植物としてソバがあったということです。中尾さんは、ソバの原産地は雲南ではないのかと言っていたのですが、加藤晋平さんは、どうもそうではないのではないか、もっと古く、新石器時代の終わりころ、今から五〇〇〇年ぐらい前にソバが広がっていったのではないだろうかと言っているのです。 それは遺跡から出てくるのです。 シベリアだけについて見ますと、シベリアではソバだけではなくて、黒龍江を過ぎてアワコムギの花粉が出てくる。 アワも北方系のアワというのがあります。 いつごろかというと、四〇〇〇年ぐらい前からで、そのころに今の沿海州の辺りでアワやコムギを作っていたことがわかるのです。 それから、オオムギの花粉が出るのは紀元前一〇〇〇年、今から三〇〇〇年ぐらい前なんです。 また、キビがそのころ作られている。 朝鮮の一番北の端になる咸鏡北道ですが、そこではキビにモロコシが作られている。 そればかりでなく、今から二〇〇〇年くらい前の遺跡が沿海州まで広がっている。 そうしますと、沿海州というのは、今から二〇〇〇年から三〇〇〇年ぐらい前には、農耕が非常に盛んだったと言ってよいわけです。 それから、バイカル湖の東へ行きますと、キビが作られている。 これもやはり二〇〇〇年ぐらい前、漢の次代です。 それからブリヤートの遺跡からは、キビとソバが出てきている。 バイカル湖の東部からソバが出ている。 それは今から三〇〇〇年ぐらい前です。 同じバイカル湖の東部で、四〇〇〇年前の青銅器が出始めているのです。北方の文化というのは、我々が考えているよりはるかに高いものがある。 紀元前二〇〇〇年の南には、そんな文化はない。 さらに、そういう文化の中心はどこにあたかというと、バイカル湖の東部辺りじゃなかろうか。 スキタイ文化というのは農耕文化だった。 狩猟文化じゃないんだということです。 それがアムールに進出してきた。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.118〜119)


     これらの文化を持った民族はどういう民族だったかというと、ツングースだと見てよいわけです。 北方ツングース、つまり満州族ですね。 では、それがそういう活動を始めたのはなぜだろうかというと、その西に、いわゆる遊牧をこととするフンヌ匈奴(きょうど))だとか鮮卑だとかの先祖がいて、それがしだいに東へ移動を始めた。 どの辺りが故郷だかわからないが、だいたい西部シベリアの平原地帯、ステップにいたものだと見られる。 それが東へ移動し始めると、それにつれて、今言ったような農耕文化を持ったツングースが東へ移動し、さらに南へ移動したと見てよいのではなかろうか、ということです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.119)


     それでは、それが日本列島へどんなかたちで伝わってきたのだろうかというと、縄文の前期・中期ぐらいには、そういう文化が北海道へはすでに渡っていたのではないだろうか。 そういう推定が起こる。 どうしてそんなことが言えるのかというと、それまでは古い絵などを見ても、日本で猪と鹿の区別がついていないのですね。 これはたいへん面白いんですけれども、岩などに刻みこんでいる線画を見ますと、大半の動物が角があるように見えるのだけれども、ふつうの鹿ですと、みな角が枝を開いているように描かれるのに、枝の開かない、耳と見ても差し支えないような動物が、無数に描かれているんです。 これはひょっとしたら、鹿ではなくて猪ではなかろうか。 これが縄文晩期になると、はっきれと猪になってまいります。 それが猪だとわかるのは、北方では猪の土偶がたくさん出てくる。 その猪の土偶は、意外なことに本州でも出てきて、その南の端が奈良県の橿原(かしはら)の遺跡なんです我々は猪というのは南の方に多かったんだと思っていたが、そうではなくて、北の方に多かったのです。 その地帯に、今言ったように土偶が出てくる。 もうひとつ大事なことは人間の子供が死んでそれを埋めますと、そのそばに猪の子が埋められていることが非常に多いのだそうです。 これはどうしてだろうかというと、日本では子供を育てるのに、自分の子供にも乳を飲ませるのだけれども、猪にも乳を飲ませる。 そうすると子供が丈夫に育つというのです。 こういうことは、俗信として伝わっていることと関係があるのではないか加藤さんは言っているんですが、私は少し異論があるのです
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.119〜120)


     というのは、むしろ、猪が子を産むとか乳を出すということと関係があるんじゃなかろうか。 昔は子供が生まれますと、必ず猪の絵を描いて、それを贈物にしましたでしょ。 これが亥子(いのこ)の行事につなかってくるわけです。 平安時代にそれがあったのです。 亥の日というのは非常に大事にされているのです。 そういうことを通じて見ますと、そういう文化が北方につながってくる。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.120〜121)


     ところが、北海道というのは、意外なほど農耕が盛んだったのではないか。 と言うのは、私はまだ『松浦武四郎日記』(幕末・維新期の探検家、一八七七〜八二年の日記)をよく読んでおりませんが、加藤さんの指摘によると、ヒエアワソバなど、その外側では、タバコカボチャゴショイモシソトウガラシナスセンダイカブ……、かなりの作物を作っていることがわかる。 カブも作っているのですね。 しかもカブがたいへんおもしろいことには、カブだけ作らないで、カブとアワを混ぜて、種をまいているのです。 これも、そのときは発見みたいなところだけ一所懸命読んでいたから、もういっぺん読み直さなけりゃいかんと、思っているところです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.125)


     こういうように、非常に作物の種類が多いんです。 これは林善茂さんなんかは、日本の本土のほうから種子が行ったものだろうと言っている。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.125)


     
     しかし加藤さんは、あるものはそうであるだろうけれども、たとえばセンダイカブであるとか。 あるいはタバコであるとかトウガラシであるとかいうものは、むしろシベリア経由で入ってきた。 つまり沿海州を経由して入ってきたものじゃなかろうか、ということを言っております。 今は沿海州というものは、ずっとレベルが落ちてしまったけれども、かつてはそこに理想的な、一時は非常に栄えた農耕文化があったのではなかったんだろうか。 そう見られるわけです。 今の話は加藤さんから改めて聞かされたことです。 結局、これはもう少し僕なんかも北方を見なきゃいけないな、という感じを深くしたのです。 だいたい時間が来たので、ここで一応ひとつ区切りにしておきたいと思います。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.125〜126)


     質疑

     −−を使うのはもとからあったのですか。

     宮本 弥生文化が入ってきて、つまり犂を引かせますね。

     −−引かせるというのは、水牛じゃなくて、ふつうの牛ですか。

     宮本 そう、水牛は日本へは入ってきた形跡がない。 水牛は、南の沖縄辺りまでは分布している。なんかも初めはですね、南の方から馬が入ってきたと言われていた宝島という島がありますけれど、ここにはトカラウマという馬がおります。 今まではこういう所に原始的な馬がおるんじゃないか、ということだったのですが、今、動物学をやっている人たちが調べなおしているんです。 やっぱり一番大事なのは、染色体を調べることでしょう。染色体を調べると種類は同じなんです。 土地によって大きくなったり小さくなる。 日本人の中にも背の高い人と低い人がいるでしょ。 それは人種が違うんじゃないのね。 それと同じ問題になるのです。
     日本の馬というのは、物を引かせなかった。 荷をつけるだけにしか使わなかったでしょ。どうして日本の馬は小さいのか。 なるほど、つまらんことですがね、教えられてわかったんですが、馬が大きすぎると荷がつけられない。 そうでしょ。荷は直接に馬の背中へ載せるんじゃなくて、こう、何か鉤を引っかけて、それへ荷をつけるんだけど、たとえば俵なら俵をね、二人でやると高く上げられるでしょ。一人で上げるということになりましたならね、せいぜい上がるのは胸ぐらいの高さでしょ。 そうすると馬の背がそのぐらいでなきゃいけんわけね。 大きい馬じゃ荷がつけられない。なるほどなあ、と思った(笑い)そういうバカげたことがね、まあこの年になるまでわからなくてね。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.129〜130)


     最初にそういうことを提唱しておいて、提唱したものが固まってくるまでには、かなりの年数がかかりましょうね。 で、これは騎馬民族説と同じことだと思うのです。騎馬民族説が出たとき、あのときはみんなが反対しました。反対したというのは、江上さんが唱えている騎馬民族と、我々の頭にある騎馬民族とまるで違っておったからです。 それはどういうことかというと、とにかく何千人という人がすうっと半島から来たようにみんな思った。 ところが江上さん自身に話を聞いてみると、ひと握りでいいじゃないかと言う。 とにかくピサロがペルーを滅ぼしたのは、ほんの四〇人ほどの人じゃないか。 コルテスがアステカを滅ぼしたんだって、ほんのひと握りでしょう。 馬が二〇頭ありゃたくさんだと、それであれだけ大きな帝国でも崩壊するんじゃないかと。 それが騎馬民族の場合は非常に優れておって、どんな点が優れているのかといったら、たとえば蒙古を見るとすぐわかるんだということです。蒙古民族というのはひと握りであった。 ひと握りだったのが、中国へ入るというと、絶対的な力を持っていって、そして漢民族を使ったわけでしょ。 漢民族を使ってあの国家が成立したわけですね。言われてみると、なるほどそうなんです。江上さんは、何万という人が渡ってきたとは、ひと言も言ってないと言うのです。 これは理解するほうの側がそんなふうに思ったんだと。 そりゃ、ひと握りでいいんだ、組織せられたひと握りがやってくれば。 それでたとえば騎馬民族説を出したときに、考古学をやっている人が大きな反撥をしたと。 それはなぜだと言うと、馬具が古墳や何かの中から出てくるのは、北九州からは少ないからなんですね。 近畿のほうがはるかに多いわけです。北の方へ発展したように見えるのだけれども、一方は中継地にすぎないのです。 そういうことでしょ。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.134〜135)


     つまり、そういうようにして説明がつきだしたもんだから、今度は、やはり騎馬民族説というものがあったんだろうということになった。 僕なんかもう、騎馬民族説を固く信じておりますから。 それでなきゃ統一国家というものはできやしないわけなんですから。 理解の仕方の問題になってくるのだろうと思うのです。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.135〜136)


     それはまた、たいへん都合のいい問題−−江上さんがあれを唱えたころには、まだみんなが皇国日本の意識があったんだが、近ごろそれはなくなりましたから、さきほどのような議論が出ますというと、それならこういう材料を持っていると、その材料をお互いが出し合うんですね。 だからどんどん問題が見えてくるんです
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.136)


     そうすると、北海道なら北海道の人たちの、生きる態度というものを考え、変え、それから自分たちの立場というのものの評価をすることから、北海道は別の世界に変わっていきゃしませんか。 考える力をみんな持っているはずなんですよ。 それが学問じゃないんですか。今のように客観的、客観的といって流れに任せていくことが、それが進歩だろうかということになる。 そして、非常に教えられますことは、たとえば今、親が子供に対する訓練なんか見ていても、ほんとうに闘争というものを持たなくなってるんですね。 子は親に対して平気なんですね。 我々子供のころに怠けたりなんかしているとね、わしは頭は〔たたかれ〕なかったけれども、尻〔ドツ〕かれたことはありますね。 親子の間にそれがあったんですね。 〔たたかい〕っていうのは、敵として見る場合には相手を殺すということになるが、育てるための戦いだって、あっていいわけでござんしょ。 その戦いがないと、たとえば猿が人間のほうへ寄ってきませんわね。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.140)


     僕は今度猿の映画(「周防猿まわしの記録」)を見たときにそう思ったんですがね、今我々の内部の、我々の生活の中での、家族なら家族の親しい者の間に、戦いというものがなくなっておりますね。 それは、僕は人間の敗北だろうと、今思い始めているんです。 で、人が人間同士で、ほんとうの敵でないものが、そうやってぶつかり合う機会を持たなければ、成長ってないんじゃないだろうか。 まあそんな気がします。 どうも失礼しました。

     −−どうもありがとうございました。
    (《日本文化の形成 中 農耕における南と北<文化の複合>》P.140〜141)


     \ 一九八〇年六月五日(民博シンポジウムにちなんで(3))

     環境考古学の周辺

     −安田喜憲氏『環境考古学事始』にふれて−

     たとえば、縄文初期の出土品のこの写真(図56)に「あみもの」としてありますが、私が見ますとこれは「おりもの」なのです。 縄文期には、織物がなくて編物で布が作られていますが、この写真で見るかぎりは、編んだものだろうかという気がします。 織ると編むというのは、織るはタテ糸があってそれにヨコ糸を通していったもので、編むは、ヨコへ糸をおいてそこへタテ糸が二本あってそれを交互に編んで作ったものです。 こうした関係がもうすこしはっきりしてもらえるとありがたい。 とにかく、技術的に果たしてどれほど了解しているのだろうかという疑問を感ずる部分がかなりあります。 しかし、着目点は非常にいいのだし、一応このくらいのことは、我々の知識として持っておくことが大事ではなかろうかとおもいますので、その意味からこの本をおすすめしたいと思います。
    (《日本文化の形成 中 環境考古学の周辺》P.147)


     話を前に戻しましょう。 このゴミの研究がおこってきたのは、その前があるのです。 それは、東大寺大仏さんのことです。 大仏さんは尊いものだということで、そのままにされてきたのですが、昭和十何年かに、積もったゴミを払おうということになったのです。 そののとき待ったをかけたのが、大屋徳城さんという人で、奈良の古い経文の研究をなかっている方です。 大屋さんは、大仏さんのそのゴミの中に、大事な秘密が隠されているのではなかろうかということで、そのゴミをむざむざと掃き捨ててはいけないと言ったのです。 そこで、積もったゴミを、安全カミソリで切って断面を作り、これを大仏さんのいろいろな部分からとりました。 いちばんゴミが多く積もっていたのは肩でした。 そして、その断面を顕微鏡で見たのです。 そうすると、ゴミのたまり方の中に、歴史があったのです。 大仏に大仏殿ができて落慶供養が行われるのが宝永六年(一七〇九)ですから、それ以後の奈良におけるいろいろな状態がわかってきました。 たとえば、奈良で大火があると、ススがゴミの中に層になっているのです。 とくに興味があるのは、華北で起こる黄砂がとどき、やはり薄い層となってゴミの中に入っているということです。 そうするとそれが何回あったかということが出てくるのです。 また、大正三年の桜島の爆発もゴミの層の中から火山灰が出てきてわかるというように、そのゴミの中に、約二四〇年間の歴史があったのです
    (《日本文化の形成 中 環境考古学の周辺》P.150〜151)


     家畜と農耕

     −民博シンポジウムから−

     ところで、北へ出た馬と南へ出た馬とでは馬の体型が変わってきます。 北へ出たものは、そのまま小さいものがずうっと見られる。 ところが南へ出た馬は、おそらく遊牧だったと思うのですが、中央アジアへ入ってくると大型のアラビア馬になっている。 北へ出た馬は小さいまま東へ移動します。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.153)


     馬がどうして早く家畜化されたかというと、馬は非常にスピードを持っているからなんです。 そのスピードを我々は利用しようとする。 とくに早くどこか行こうというときに、馬に乗るということが、家畜化を要請する力になったのではないかと思うのです。 さらに牛などより早く家畜化されたわけには、馬にはがひとつしかないということがあると思うのです。 牛は反芻胃(はんすうい)をもち第一胃から第四胃まであります。馬はひとつしかなく、しかも大きさは小さい。 ということは、食物のある所へ移動する速度が速いということです。 つまりある所でえさを食べてしまうと、すぐ次へ移っていく。 移るのでなければ人間にえさを与えられる。 そうでなければ生きていけないのです。野生時代に、馬はやはり食べ物のある所へ次々と移動していったのではないか
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.153)


     そうするといきおいスピードがついてくる。 そのスピードを今度は人間が利用する。 そして、乗馬として使うようになる。ところで馬は胃が小さいくせに消化力が弱い。 そのため馬の糞は非常に荒っぽい牛の糞のように練れた感じがしない。 ですから馬そのものの胃袋は馬の速度に関係し、その速度を利用して人間がこれを家畜化していったのだろうというのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.153〜154)


     いったいそれでは、日本の場合にがすでに縄文期にいたとして、しかも家畜として存在したとすると、当然牧場があったはずだということになるのですが、このことはまだはっきり明らかにされていません。 しかし時代が下って、元正天皇(七一五〜七二四年在位)の時代に北海道の辺りから蝦夷が、たぶん戦闘用と思われる馬を朝廷に奉ったということは(『続日本紀』、一二六頁参照)、それだけ馬が飼育されていたということで、北海道には非常に古い時期に牧場が存在していたのではないかと思うのです。 これはどう考えても北の方から渡ってきた馬であったと考えざるを得ないわけです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.154〜155)


     この馬は大きくなかった。蒙古馬というのは小さいのです。 我々は、蒙古馬は砂漠にいると思っているけれども、それはゴビ砂漠にばかり馬がいたのでなく、その北のツンドラに近い今のバイカル湖の東西に広がっていたのです。 さらに蒙古へきて、内蒙古を中心にして分布していた
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.155)


     次にの場合を見ますと、牛もやはり初めは野生でしたが、どうして家畜化が起こったのだろうかというと、牛の分布を見るとヨーロッパにも牛はいるのですが、牛が家畜化されたのは稲作と関係があるのです。 もちろんその前に牛がのろく、敵に襲われることが多いというような事情があると言われています。 また胃が四つあって、反芻して食べるということがある。 これは、たくさん食べておきさえすれば、そのまま遊牧して、ある一定時間食べなくても済むということがあります。 稲作にとっては非常に有利なものであると言えるわけです。 水田で牛を使っている場合に、何時間も田んぼの中に入れておくことができるのです。 馬ではこれができない。 だから農耕は馬よりも牛が多かったのではないかと思います。今は、を食うため飼うことになっているけれども、古い時代には稲作のような持続して労働を続けていくものとして、牛が飼われていたのではなかったかと思います。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.158)


     そのことがわかりますのは飼料の問題です。が生体一キログラムの肉を形成していくのに飼料は一〇キログラムを超えるのだそうです。 つまり非常にたくさんのえさをやらなければ、つまり一〇倍のえさを与えなければならない。 成長に要する飼料の量が非常に多いのです。 だから初めから肉を食うために牛を飼うということは考えられない。 ところがニワトリは一キログラムの生体を作るのに、飼料二キログラムあるとよいのだそうです。 ニワトリは初めから肉を食うために飼われた。 人間の食料として利用する動物はおのずから決まったのです。野生の動物を家畜化していくとき、我々が家畜を食料としていくか労働力として利用するかというように、初めから人間の目的の差があったのではないか、ということを西田隆雄先生が提唱されています。 非常におもしろいことだと言えると思ったのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.158〜159)


     ところではどうかというと、豚の飼料要求は肉一キログラムに対し三キログラムの割合だそうで、それほど早く成長するとなると、初めから食料として豚を飼うことが発達したのではないか。 えさはわずかでも太ってくれればよい。 家畜化にはそういうことが大きく影響している。 そのうえ、豚は雑食性で何でも食う。 植物性、動物性のものも何でも食べる。 とくに笹の根などを食べるから非常に飼料が安い。 そして肉食の原料として使われる。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.159)


     そうするとその馬はどうやって使っていたのだろうかということになるのですが、やはり同じように首をつないで田に入れていたのではないだろうか。私はどうもあとからあとから気がつくのですが、馬をたくさんやとっているという話を聞きながら、それは犂を引かせていたのだろうと思っていたのです。 しかし関東にがはいるのは明治も中ころ以後なのです。 そうすると、同じようなホイトウ(家畜による踏耕)といわれる馬の首をつないで田を歩かせて、つまり馬を田に入れてそのあとに直播したと考えないと話が合わなくなってくるのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.163)


     そう考えると、このような水田は案外多く日本に分布していたのではないか。 小さな馬ならそういったかたちで水田で使ったのではないか、そう考えられるのです。 ただ、このような話に対して、奈良国立文化財研究所の田中琢さんは、牛や馬の骨が遺跡から出ると言っても、それはもっと検討する必要があるのではないか、牛の場合は縄文でなく弥生の稲作とともに入ってきたと見てよいが、馬の場合もそうではないかと言うのです。 骨が出たからと言って、出てくるものが乾いた土地から出るなら、そして地層的に見て縄文期あるいは弥生期であることがはっきりするなら、縄文期に馬が入ったと言ってもよいのですが、低湿地の場合にはものはその土の中へ沈む。 すると弥生期の馬が低湿地で死んだとすると、それはやがて縄文期の層にまで沈むということはないだろうか、と主張し、大きな議論になったのです。 反論も出たのですが、それを覆すほどの論はまだないわけです。 馬の場合は縄文期に入ってきたであろうけれども、牛はいわゆる稲作農耕とともに入ってきたという観点からすると、縄文後期の低湿地から牛の骨がでてきても、必ずしも縄文期の牛とは言えないという見方も成り立ってくるのです。 これは大事な問題だと思います。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.163〜164)


     どうしておもしろいのかというと、かりにイネコビキといわれるものが一緒に作られた場合には、もし日照りが続くときには米のほうはあまり穫れないのですが、コビキのほうはよく穫れるのですイネアワとがかりにまかれたとして、それが水田でないような所で作られれば、これも同じことが言えるのです。 今度は雨が多いときはアワの出来は悪いが、イネのほうがよく穫れる。 同じようなものならば、それは同時に植えられることでどちらかが成功する。 それが危険防止のための、つまり先ほどのサツマイモサトイモの場合と同じなのです。 青ヶ島のように非常に雨が多く湿気が多いところでは、湿気の強い年にはサトイモが穫れ、乾燥する年にはサツマイモが穫れる。混植というのは、そういうことで意味があるので、その危険性が少なくなったときに、サツマイモはサツマイモ、イネはイネということになるのです。 つまり田んぼによって、いつも水を張って作るようになれば、イネだけを作るということになるわけです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.170)


     ところがよく調べてみると、我々の子どものときの経験からしますと、イネオモダカとはよく一緒に共存していたのです。 オモダカというのはクワイのことです。湿田でクワイとイネはよく一緒に植えられていた。 こういうことも、今はきれいに分類されてしまって、それぞれのものがひと色しか作られなくなっているのですが、いずれにしても、混植することで危険を防ぐ。 これはたいへんおもしろい問題だと思っているのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.170)


     こういうようにして見てくると、我々が作物を作るようになってきた過程で、まだまだ見落としている問題がたくさんあるのではないかと思います。 この焼畑定畑水田というように我々はすぐ分類しますが、そのどれでもなかったもののことも、もうひとつ考えてみる必要がある。 今我々の整理された知識でもってものを見ていくと、かえって非常な見落としが多くなるのではないかと思うのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.171)


     そこで今、佐々木さんに限りませんが、渡部さんたちや稲作を研究している人たちを含めて、稲作は非常に古い時代から行われており、それがどうも中国の場合だと直播が古かったのではないかと言われているのですその直播の稲作の行われたところを見ると、どこも休閑をともなっていた。 何年か作ると休む、それではいつごろから水田耕作が中国で起こったのでしょうか。 紀元前一五〇〇年くらい、そのころからぽっぽつ水田化が起こってきたように見られます。その時期から木工が盛んになってきている。 つまり、農具にしてもで作っていて、それにわずかばかりの木の柄をつけていたのが、しだいに農耕具に多く用いられるようになってきたのです。 それがこの時期でなかったかと見ているのです。同時に打製から磨製に変わってまる。 その時期が中国の場合紀元前一五〇〇年くらいです
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.171)


     日本ではそれからずうっと遅れて、紀元前三〇〇年くらいで稲作が入るわけですけれども、中国における稲作の水田化はだいたい紀元前一五〇〇年くらいと見てよいのではないかということなのです。 しかし、日本に入ってきた弥生文化というのは、中国の雑穀式のような栽培法で、したがって田に必ずしも水が溜っている所でなければいけないというかたちのものではなかっただろう。 ただ、それについてはいろいろな意見が出ました。 とくに中国浙江省に河姆渡(かぼと)という遺跡があるのですが、それは紀元前五〇〇〇年(炭素測定による)ころで、そこから出てきているイネがインディカ系の長いイネなのです。 これはみなの中の課題として残されたのです。紀元前五〇〇〇年ということは七〇〇〇年前に稲作があったということで、それもインディカ系の米が作られていたインディカ系の米は湿田でなければ作れない米で、ジャポニカ系のものはあえて湿田でなくても作れるわけです。 これは、そんなに古い時期にすでに稲作があったということで、実はその遺跡についての報告には、シンポジウム参加した、日本の多くの学者は否定的だったのです。 その報告には日本人が参加したものでなく、中国人によるもので、それには大きな疑問を持つということだったのですが、国分直一さんが、日本人が参加しなかったものはみな間違いだというのはそれこそ間違っていると……。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.171〜172)


     ここでもうひとつつけ加えておきたいことは、我々が縄文文化と言い弥生文化と言うのは、その時期に使われた土器の様式で論じているということなんです。 その土器の様式をぬきにして考える考え方を持たないと、農耕の本当の発展過程をたどれなくなるのだろうと思います。 ということは、日本以外のたとえば朝鮮半島にしても中国にしても、縄文とか弥生とかいう分け方はないのです。 そしてむしろ青銅器であるとか鉄器であるとかいう分類が出ている。 そしてさらに中国の場合には土器文化につながるものとして彩文土器を見ることができるのです。 ですからそれと日本の文化がどう反応しているかということとを見ていく場合には、日本のように縄文、弥生という土器の編年をもって時代を律するほかに、もう少し具体的に、いろいろの牛や馬が入ってくる、または穀物の栽培が入ってきたルートと位置づけがされないと、いろいろな誤りが起こるのではなかろうかという気がするのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.173〜174)


     質疑

     −−絵とか彫刻で−−残っているのは中国なんですね。 それは日本まできている。 ところが日本の縄文土器を見るというと、むやみに蛇がある。 そうすると、とのかかわりはどうなのか……。

     −−インドでは竜とか蛇はあまりないのですか。

     [宮本] インドに入ると竜は消える。 今のタイあたりから東ですね。

     −−稲作の起原が、雲南省の北辺り、カンボジア辺りの東亜半月弧辺りとすると、伝わったのは東と西に分かれて、揚子江流域に伝わり日本に来たということですか。

     [宮本] それは単粒米の場合なんですね。長粒米はそうではなかった。 低湿地で発生地が違うわけです。

     −−インディカの場合はインドに起原があるのですか。

     [宮本] とにかく、インドに限らない。渡部忠世さんがおもしろい話をしてくれたんですが、低湿地で米を作っていると、必ず原生種が出てくるんだそうです。里帰りして。 それでどんなイネがもとこの辺りにあったとか、このイネがどこから来たものかとか、それを見ることができるそうです。ただ日本で作っているイネは、どれほどやっても原生種が出ないんだってね。 これが中国なんかでやっていると、必ず里帰りして原生種がでてくるんだそうです。 それを追っかけていくことで、雲南だということがわかってきたんですね。 それは全部ジャポニカ系なんです。インディカ系はないんです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.177〜178)


     −−竜神と結びつくと思うのですが……。

     [宮本] 結局一番大きい問題は雨乞いではないんですか。

     −−だからこそ水を求める……。

     [宮本] ええ、今のところは、竜と稲作、とくにジャポニカ系の稲作との関係が、非常に問題にせられているのですが、この推定もくずれるかもわかりませんよ。 今はそのように、とくに大林太良さんが、文献をもとにして見ておられる。 しかし、中国の場合には伝承がほとんどわからないのですね。 ソ連でも同じだが共産国は、古いものを消していきますでしょ。 これから先は変わると思いますが、これまでは民間の伝承を消すことに一所懸命だったんですね。 消さなければ近代化がないと考えて。 日本だって昔そうだったんですけれども
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.178〜179)


     −−馬と違って、牛の場合は一系統で「照葉樹林文化」とセットになって入ってきたのですか

     [宮本] この話の中では、そうだったのです。 私はほかの話はふせたんです。 それは三河の貝塚から牛の骨が出ているのです。 日本にいる牛、在来の牛と違う。 むしろ北欧なんかと関係のあるのではないかと、当時説かれていた。 これもいろいろな説がありましてね。 明治になって大きな牛が日本に入る。そのときに牛の雑種を作る。 牛の体格を大きくしようとした。 それが雑種をなくそうというんで、純系淘汰を始めるんですが、その雑種の残っている所がたくさんある。 宇和島の辺りなんかそれなんですかね。 あそこで角突きやっているのはみんな雑種でやっているんですね。 同時に朝鮮牛があるでしょ。 朝鮮牛赤毛の系統のものなんですが、それに血を混じらせていくと、だんだん黒牛になってきているけれども、体格のいい黒牛の中には、朝鮮牛の血が入っているのが少なくないんですね
     これはいろいろの理由があるようですが、大きな牛を必要としたというのは、太鼓の皮が問題なんです。 太鼓の皮というのは一枚皮でないと困る。 太鼓というのは、くりぬき胴の太鼓を調べていくうちにわかってきたんですが、くりぬき胴よりも大きいもの、しめだいこ系のものは大きな皮を二つつけている。 あれは南洋なんかみなそうでしょ。 お宮なんかで雅楽に使う、あれはみなそれなんですね。 すごく大きいものがあるわけなんです。 あれみな一枚皮です。 和牛はみな体格が小さいから、しかも太鼓の皮は、雄牛は使わない。 雄牛のほうが大きくなるんだけれども、雄牛というのは、角で突き合いをやるから、必ず皮に弱い部分がある、だからどうしても雌牛でなければいけないんだそうです。 すると雌牛をおおきくしなければいけない。 それで一時、太鼓の皮というのは、朝鮮牛でなければいけないとされていました。 最近はみな黒牛を使っているんです。 これはみな雑種なんですね。 そういう牛が作られる。 それはいつごろからかというとかなり古い時期と見ていい。 というのは、そういう太鼓が一番多く作られた時期というのは、幕末です。 とにかく、お宮さんとお寺とが一緒になったような時期ですねお宮、お寺の芸能が発達したのは、その時期でしょ。神仏分離があってから下火になってくるんです。
     ところが、そういう牛の死骸をどこへ捨てたんだろうか。 これは捨てる場所が決まっていた。 するとさっきのような貝塚みたいな所へ捨てることだってありうるんだから……
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.180〜181)


     −−時代測定はしなかったんですか。

     [宮本] 今のような時代測定はしていないから、貝塚のような所なら、貝がたくさん溜っているから捨てておけ。で、捨てたんだろうと思います。これは非常に大事な問題なんで、話は全然別になるが、島根県の水田から、弥生の遺跡が出て、犂先が見つかったこれは弥生時代の犂先だ鳥居龍蔵博士が言って、みなが信じていたのですが、いや、そうではない、江戸時代のものだと言ったのが木下忠氏(現在、文化庁)。 それを証明して文学博士になった。 彼の学位論文は犂先の研究なんです。 いろいろデータをあげて、ああいう犂は弥生時代にはなかったんだと。 ところが、どうしてそれがそこにまぎれ込んだかというと、容易に証明できない。 ただ、弥生のたくさんの犂先をとってみて、例外はないということで否定していったわけですね。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.181〜182)


     それで、木下君からいきなりを見せられて「これは古いか新しいか」と聞かれたんです。 それでつい「新しいものだ」と言ったんです。 そういう問題になっているものとは知らないから。 どうして新しいと言ったかというと、犂にヘソがついていたからなんです。 これはヘソがちょっとついているということで、ぐっと鋤いていくと土が割れるんだね。 幕末から明治時代の犂のヘラにはそれがついていた。 だから先入観念がないものだから、これは新しいよ、ヘソがあるよと言ったんです。 それが学問の世界ではヘソのあるものが弥生の遺跡から出れば、弥生のものとなってしまうんですね。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.182)


     つまり、ごく当たり前の疑問が証明されなければ本当の学問ではないわけなんですね。日本の文化は弥生時代の初めから非常に高かったんだなんてことを一枚の犂で論ぜられたら困るわけです。 それを訂正したのはたいへん大事なことだったのです。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.182)


     それから今は絶滅しているのですけれども、佐渡牛というのがあったんです。今の佐渡牛はほとんど中国山地から行った牛なんですよ。それが見島牛と同じものでなかったかと言われているのです。 それは伝承でしかわからない。 佐渡牛は子供を産む率がたいへん少ないのです。 それから、外にほうり出しておいても育つ。 その、どうも佐渡牛の血が残っているのではなかろうかという牛が飛騨におるんです。 というのは、佐渡の辺りで牛を飼いますね。 それが成牛になると越後の海岸までもってきて、それがあの辺りでを背中につけて信州路に入る。 あるいは飛騨の辺りで、富山の海岸からブリを運ぶとか、それに牛を使っているのです。 小型の牛なんです。 小型だけどたいへん強い。 強いけれども子を産む率がたいへん少なくて、地元では容易に殖やすことができないんです。 それで次々に佐渡で放牧していた。 結局、市場へ出しても肉がうまくないもんだから、だんだん価値が低くなりまして、明治何年ごろだったかよく覚えておりませんけれども、中国山地から牛を入れまして、佐渡で飼うようになって現在の佐渡牛になっているのです。 ところがそれはほとんど外の血が混じっていないんです。 血の質が悪くなるというんです。 ところが飛騨の山中に入った牛は、もとの牛と混血したのが若干残っているらしいのです。 体質は大きくなっている。 しかし、染色体を調べてみますと、その痕跡が残っている。 それが見島牛とたいへん近い。 現在完全な見島牛は天然記念物になっているのですね。 それも数えるほどしかいない。 三〇頭か四〇頭しかいない。 それがどうも日本の和牛の原種じゃないかと言われているのです。 そうしますと、日本に入ってきた牛は、その程度の牛ではなかったか。 原種というのはどこかへ残るものでしょ。 たとえば日本に入ってきたの比較的古い原種というのは、奄美大島に残っている。 のちに宝島に移され、宝島にいた。僕が宝島に行ったころには何十頭もいた。 それが繁殖力が弱いから、だんだん減って、現在鹿児島へ移して、二十何頭ぐらいいますか。 これが滅びてしまえば、日本の馬の原種は消えるわけですね。 そういうものがあることで追求ができるわけです。 そうしますと、小型馬はそうだが、中型馬の原種はどこに残っているかというとよくわからない。
    (《日本文化の形成 中 家畜と農耕》P.183〜184)


    ] 一九八〇年七月三日

     銅と日本文化

     不思議なことに、中国の古い鏡は、凹面鏡ではなくて凸面鏡が多いのです。凸面鏡は、バスのバックミラーのように大きいものを小さく見ることができる。 全体を見ようとすると、凸面鏡は小さい鏡の上に広い範囲の形がまとまとって見えるという性質を持っている。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.190)


     ところが日本で出てくる古い凹面鏡のほうは、太陽光線を集めて発火させたかというとそうではなさそうなんです。 凹面がもっと深みを帯びているのなら焦点が鏡の上の近い所に出てきますけれども、ゆるやかだと焦点が遠くなる。 そうなると発火に使ったとは思えない。 ただ焦点から以内の所で自分の顔を映すと、顔が拡大されて映るわけですね。 ところが焦点から外へ出ていきますと、姿が逆さになって非常におもしろいことになる。 そういう鏡には一種の魔術性があるわけです。 したがって日本にきた古い鏡が凹面鏡であったということは、マジックとして、一種の呪術的なものとして存在したのではなかっただろうかと思われるのです。そしてその鏡は、興味あることにつまみがふたつあるのです。 そこに糸を通したとすると、安定してぶら下げることができる。 古い時代の鏡は全部そうなっているのです
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.190)


     兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘で、土を取るために地面を削っていたら、固まって出てきた。 なぜ地面の底にこんなにたくさん埋めてあったんだろうか。 それ以外にも人の住んでいない山の中で土を取るために掘り起こしていたら、出てきたという例が多いのです。 解釈の仕様がなくて、そこにしまっておくと土地の悪霊を鎮めることができたんではなかろうか、そういう言い方をしていたのですけれど、そういう意味を持った場所とは思えない場所から出てくるのです。 最近になりまして、京都大学の上田正昭さんは、祭りが済むと銅鐸を土の中にしまう、穢れず霊力が失わないようにもとの土の中へしまっておく風習があったのではないかと言い始めています。
     東京の府中に人見街道という古い道がありまして、それに沿って人見という集落があります。 そこでは、大正時代まで塞(さい)の神(かみ)祭りをやっていた。 塞の神祭りというのは、石に像が彫られた塞の神様を祭って、その前でどんどん囃す。 長野県には神主さんの姿をした男とお姫様の仕度をした女が、肩に手をかけて二人で並んでいる石の塔が、塞の神として祭られている。 山梨県から府中辺りまでは、塞の神は真ん丸な石なんです。 今は、石で台を作って、丸い石が祭られている例が多いのですが、ずっと以前には、祭りの日には一定の場所に持っていくけれども、村によると家の中の二階の小屋根の上に置いておいたという例がある。 さきほどの府中で興味があるのは祭りが済むと穴を掘って、その中へ塞の神を埋めておくんだそうです。 そして明くる年のお祭りのときには、また掘り出してきれいに洗って祭壇を設けて祭る。 これは私が知っている一例ですが、それに近いようなことは方々でやっておった。 たとえば高知県辺りの田の神は真ん丸い石なんです。 それがイネが植わっているあいだは田のほとりに持っていって祭るんだが、そのときにエビズルという野ぶどうを輪にして、その輪の仲に祭っている。 ところが稲刈りが済んでしまうと、その石を持ってきて、家の中に祭っておくんだそうです。 つまり場所が変わってくるんですね。 そういう話になると無数にあって、祭りのときには祭場に持っていくが、そうでないときは、盗られないように土の中に埋めて返しておく。 そういう考え方があっんたんではないだろうか。 そうするとひとつひとつの銅鐸は、呪術的なもので、祭の日にそれを連ねて、あるいは、それを叩いて鳴らすとか、いろんなことをやったんではないか。 のちに我々が梵鐘を造ってぶら下げて鳴らした。 あれと同じような意味があったんではないか。 しかもそれが西のはしの方になくて、むしろ東の方にある。 そして銅鐸は銅の鏡を鋳つぶして造ったものらしい。そういうことが明らかになってきたのです。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.193〜194)


     広幅の銅剣や銅矛は近畿地方を中心にしてたくさん出る。 それは銅鐸と同じ意味がある。 それでは近畿地方だけかというとそうではなくて、対馬にたくさん出てきているのです。 おもしろいのですが、対馬の銅剣・銅矛は、ほとんど西海岸から出ているのです。 そして出る場所も決まっている。 どんなところから出るかというと、山の尾根が海へ下りてくる見晴らしのいい場所で、家も何もないところに埋められている。 そうでなければ、入江になっている谷の口に埋めてあるのです。 つまり防衛の拠点になる所に埋めてあるのであって、お宮があるわけでも何でもないのです。 これは二〇〇〇年前に日本人が異民族に対して、ある敵対意識を持っていたのではないだろうか。 防衛のためにそれらを埋めたと考えられるのです。 それなら広幅にしないで本当の銅剣や銅矛を埋めたらよいではないかということになるのですが、わざわざ鋳直して武器としては力を失う形として埋めてあるということは、興味が深いんです。 なぜそうしたのか、問題は幅にある。 より幅を広くすることで神の加護があると考えたのではなかったろうか。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.195〜196)


     この腰を伸ばして埋めるか、足腰を曲げて埋めるかというのは、文化を見ていく場合のひとつの基準になっていくのではないかと思うのです。縄文文化の埋葬法というのは、もともと足腰を曲げて埋めたのがひとつの特色ではなかっただろうか。足腰を曲げて埋めるのは、どうしてそうするかというと、昔は寝る時に曲げて丸くなってイモ虫みたいになって寝たんではなかったかと思うんです。 布団があるわけではない。 寒い。 そうすると火を焚いて、火のそばで寝るとそうならざるを得なくなる。 今でも座ることをネマルなんていうが、ネマルは丸くなって寝ることからきた言葉ではなかったろうと思います。 布団が、今のように大きくなって、足腰を伸ばして寝られるようになったのは、ごく新しいことで、大正時代だといってよいのではないでしょうか。 福井県に永平寺という寺がありまして、我々が行っても泊めてくれるんですが、あそこで寝させてもらいますと、布団というのは膝から先は、敷ぶとんから出るんですね。 上も小さい。 我々が行ったときは、掛布団と敷布団とふたつあるからいいんですが、雲水はといって、布団を折って寝る。 そうすると丸くなって寝なければどうしようもない。 これが昔の寝るときの姿ではなかったんでしょうか。 足腰を伸ばして寝るというのは、どうも新しいことで、絵巻物の中に描かれているのは、おそらくそういうものであっただろう。また丸くなって寝ないと、夜寝ているあいだに魂が抜け出して、そのまま人間が化けてしまうとか、病気になるとか考えて、魂が逃げ出さないためにも丸くなって寝ることが大事だったんでしょう。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.198〜199)


     ところが貴族だけは足腰を伸ばして寝るわけなんです。 天皇、皇太子、皇后もそうです。 こういう人たちのために魂結びという鎮魂の儀式があります。魂が逃げないようにお祈りをして、ひもをくくる。 そして寝るときにどこかにかけておくと逃げていかない。 それを魂結びと言ったんです。 醍醐天皇だったと思いますが、皇太子のときに魂結びを泥棒に盗られた。 それで天皇は短命だろうといわれていたんですが長生きをした。『鎮魂伝』という書物にそのことが詳しく書いてあります。 足腰を伸ばす場合には魂が逃げていくことがあるから、呪いをやったものらしい。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.199)


     しかしそれが弥生時代のものであることはわかる。 弥生時代の古い時代に属するものだということもわかる。 弥生も中期からあとになると、つまり騎馬民族が日本に渡ってきたであろうといわれる時期からあとになると、武器が鉄になってくるわけです。 騎馬民族が持っていたのは鉄であった。 同じ弥生文化の中にも銅を使った人たちと鉄を使う人たちが出てくる。 それは真ん中からあとのほうに出てくるわけです。 鉄を武器として使っている人たちは同時に馬を利用したのではなかったかということが言える。 鉄を持つことによって、それは強い武力になる。そのあたりで民族が西の方から東へ移動したと見て差し支えないのではということになってくるんです難しいことがいろいろあって、いろいろな人がばらばらに言っているので、どれが正しいのか、私も実物を見ることにしているのですが、非常に難しいのです。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.200〜201)


     そこで、もう少しそのあたりのことを文献にも合わせて見ていきますと、日本のことについて書かれた一番古いものは『漢書』(紀元一世紀末に班固によって書かれた)で、その「地理志」に紀元前後のころの倭人のことが出てまいります。 非常に簡単なんですが、倭国が分立して百余国をなしていたことが見えています。 次に後漢という時代が始まります。 後漢は、西紀二五年だったと思いますが、光武帝が出て乱れていた漢を統一します。 その前の前漢の終わりに王莽(おうもう)が出てきて、前漢を奪ってという国をつくります。 王莽はかなりの人物であったと思うのですが、たいへんな圧政を行ったらしいのです。 生きている間は問題なかったのですが、一五年ほど政治をして死にますと、あとがメチャメチャに乱れ、約二年経ちまして、光武帝が統一して後漢が誕生します。どれくらい、王莽の新の政治が乱れたかというと、前漢が滅亡したときの人口は六〇〇〇万といわれていたのです。 それが光武帝によって統一されたときの人口は二一〇〇万といわれているのです。 ちょっと想像がつかないと思いますが、それだけの人が一七年ぐらいの間に死んでしまったんですね。 三九〇〇万ぐらいの人が死んでいるおそらく飢饉があったんだろうと思うのです
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.201〜202)


     飢饉で考えなければならないことがあります。 日本と中国と違うことは、日本の場合には政治をしている人たちと、農耕に従っている人たちとは別々だった。 向こうはみな生産している人も上に立っている人も、直結したひとつの社会をつくっていた。 脱線しますが、日本の場合は、百姓は百姓で生活をしていた。 武士は武士で生活をしていた。 だから武士が戦争をしていて、百姓がそれに巻き込まれていって一緒に戦争をするということはなかったわけです。 具体的にいうと、百姓は田を持っていたが、本来武士は農園は持っていない。 かりに持っていても自分が耕作するということはなかった。 百姓にまかせてやらせていた。 ところが大陸に渡りますと、土地と人とが密着したものが、領主のものになるわけで、○○侯という大名がいると、一定の土地があり、まさしくその土地に住んでいる住民全部がその殿様の家来というかたちをとる。 だから家来を殺そうが生かそうが好きにできるわけです。 それが本来の封建制というものなんです。 ところが日本の場合を見ますと、土地はもらうが百姓まではもらっていない。 そういう百姓までもらう場合には、決まりがありまして、古い文献を読むと、人がついている場合には封戸(ふこ)といっている。 それは家がついているということなんです。 家がついていない土地をもらう。 かりに人が住んでいても人のほうはもらわないで土地だけもらうとすると、そこから税金を取り立てることができる。 税金を取るのと、生産物全部を取るのは違うこれを区別して考えてもらいたい。 税を取ることは許される。 税はそこから穫れた穀物の何分の一かを取り上げる。大化の改新のときの制度を見ますと、一〇〇分の二二を取り立てることになっていたわけですね。 そうすると、一〇〇分の七八はそこにいる百姓たちが取ることができる。 そういう土地の与え方をしているわけなんです。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.202〜203)


     ところが、向こうはそうではなくて、土地を与えたというのは、そこに住んでいる人をもらうのです。 そうすると働かせて食うものだけ与える。 つまり奴隷化するのです。 日本の場合には奴隷化した例は比較的少ないように見えます。 そうしますと戦争があると働く者は全部引っぱり出されて戦うわけですね。平和なときならいいけれども、戦争が続くと誰も食う物は作っていないんだから、たいへんなことになるわけです。 さらに負けたとなると、みんなが土地から離れて難民として逃げ歩かなければならない。 それで国が乱れるとすごい勢いで人が死んでいくのです。 そのために、また余計に戦争が激しいものになったわけです。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.203)


     これが、後漢がつぶれる前の人口は五〇〇〇万人にまで回復していたのです。 ところが後漢が終わって(ぎ)と(ご)と(しょく)の三つに分かれます。 これがまた長い戦争をした。 それでどのくらいに人口がなったかというと、その時期に中国の人口は五〇〇〇万が七〇〇万まで減るのです。 魏は四四〇万までに減っています。 あの広い中国に全部で七〇〇万といわれるのですから、ほとんど人がいなくなっただから北の方からフンヌだとか鮮卑(せんぴ)だとか、羌(きょう)●(てい)とか騎馬民族がぞろぞろ入ってくるのは当たり前でしょう。 無防備の状態だったことがわかるわけですこれは日本では考えられないようなことなんです
    (●:てい、氏の下に一)
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.203〜204)


     皇帝がしっかりしていると人口がじわっと回復してくる、本当に中国ではすごい波があった。 その波が止まって、人口が一定の方向に向かって増え始めるのは、今から六〇〇年ほど前にという国ができてからなんです。 そういう意味で明は大事な国なんです。 明の最盛期で約七〇〇〇万ぐらいになっている。 それから今日まで減る事なしに増えてきている。 明がに変わるときに大きな戦争があったように見えるけれども、大きな戦争はないのです。 なぜ大きな戦争がなかったかというと、清つまり満州族というのは、その当時どれほどの人口だったかというと、二〇〇万ぐらいだったんです。二〇〇万が七〇〇〇万を征服して清という帝国をつくるのですからね。 何千万同士が衝突して戦争をしたんではない。 戦争が非常にうまかったというのでヌルハチ(太祖)順治帝(世祖)康熙帝(聖祖)といった帝王が出て、巧みに漢民族を使って清帝国をつくっていたから、ほとんど傷はなかったんです。 だから明−清−中華民国まで展開してくるのです。 しかしその前のが征服したときは、よく人を殺した。は南に逃げ南宋となり、陸に住まないものは海へ下りていって、蚤民(たんみん)といって海で生活する人を何百万と生み出していったのですこれは日本では考えられないことなんです。 しかし、これを考えなければ中国の歴史的理解はできない。 日本の歴史と同じだと思ったらとんでもないことなんです。 それを頭に入れておいていただきたいと思います。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.204)


     そういうようにして見ると、中国における変動が日本に渡来してくる人たち、それも朝鮮半島を経由してくるのではなくて、もう少し南の方から山東半島辺りを伝わってやってきたと考えられる人に、波があっていいわけなんです。 それが南の方からやってきた人たちもあるだろうし、中国の内部から押し出されてきた人たちもあるだろうし、少しずつ性質が違っていたと見てよいわけです。 さきほどの、前漢で六〇〇〇万いたのが、後漢で二一〇〇万まで減った時代です。 飢え死にした者もあるだろうが、その時期に日本に盛んにやってきた一時期があったのではないかと見てよいわけです。 それは、日本でいうと弥生時代だったわけです
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.204〜205)


     そして大事なことは、漢が力を失った王莽の時代−−人がよけい死んだ時代−−北方の騎馬民族が半島の北の方から南の方へ進出してきますね。 それと年代を合わせてみるとほぼ合うわけなんです。それが南に下ってきたのが百済です。 しかも百済は日本に大きな影響を与えている。飛鳥文化は百済文化だったわけですね。 新羅の文化ではないんです。 そう見てくると、大和朝廷ができあがってくるバックにあったものは百済騎馬民族もしくは扶余族と考えられるわけなんです。
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.205)


     そうすると、大和に二つの層があった卑弥呼と考えなくても、鬼道をこととするシャーマニズム−−銅鐸や広幅の銅剣・銅矛を造る−−つまり呪術を中心にした文化を持った人たちがそこにいた。 そのあとに武力を持った人たち、おそらく扶余族が日本に渡ってきて東へ移動していった。 そう見ていいんではなかろうかと思います。 そしてそれは百済の影響、百済の国と言ってよいか、あるいは扶余族と言ったほうがよいかわからないが、つまり騎馬民族であったということになりますね。 ところが境目になるところ、扶余族が日本に来る前、ちょうど弥生の後期の始まる前がいつごろであったかというと、紀元二〇〇年ぐらいではなかったかと思われます。 その時代に倭国に卑弥呼がいるわけなんですね。 そこで、卑弥呼からさかのぼった時代を見ると、光武帝の建武中元二年(西暦五七)、「漢委奴国王」という金印が、日本の奴国に授けられた。 これが出ているわけです。 正式に交通があったんだと思うのです。 それからおよそ五〇年経って後漢の安帝のときに、「帥升(すいしょう)ら、生口(せいこう)百六十人を献じ……」というのが『後漢書』に出てまいります。 これが大事なことと思うのですが、なんで生口(奴隷)をやったのか。 ただ奴隷をくれてやるというのではなくて、反対給付があるはずです。中国は何か持っていくと、それより必ず高いものをこちらにくれる。 一六〇人という多くの人を安帝に奉ったということは、一方では鏡を欲しかったんではなかろうか。日本人はどういうものか、鏡をすごく好きだったらしいのです。 何かことがあると鏡をよこせと言って、もらっているのです
    (《日本文化の形成 中 銅と日本文化》P.205〜206)


    ]I 一九八〇年九月四日

     日本文化と生産基盤

     ごく最近の基盤整備をしないうちは、大和平野、大阪平野、近江盆地などを歩いてみると、その番号のついた田んぼがたくさんありまして、一の坪二の坪というように言っておったのです。 それで、そこは条里制がしかれていたということがわかるわけです。 それが地名となって残っている所も方々にあります。 たとえば、大阪の淀川を渡った所に十三(じゅうそう)という所がありますが、これは一三の坪だったわけです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.215)


     それから、条里制がキチンとした形をとった所もありますけれども、谷間なんかを開いた場合には、そうキチンとできません。 真ん中に大きな道を通して、両側に一枚ずつの田んぼをつくっていく。 すると一町四方にならないところもある。 それでも一応地割をした。 広島県がよい例ですが、山の中に細い谷がたくさん入っています。 その細い谷に、真ん中に道をつくって、その両側を開いていった。 そういう開き方をした所もあったんです。土地によってその開き方がみな違います
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.215〜216)


     その田んぼをそういうかたちにしていったのは、いったい誰が、いつ、どんな方法でやったのかという問題が出てくるのです。 制度としては条里の制と言いますが、その条里制を制度としていたのは孝徳天皇で、大化元年(六四五)に勅令が出ているのです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.216)


     しかし、勅令が出たから日本中の田んぼがそうなったということはないはずです。 それは徐々に行われていった。 本当に土木工事が行われたのかということになりますとどうも行われた形跡がないのです。 それは『日本書紀』という歴史書が残っていますが、これを読んでおりますと、それほどの大事業があれば書かれていてよいのです。 かりに『日本書紀』に書かれていなくても、その次の『続日本紀』を見ますと、非常に細かいことが書かれている。 たとえば、どこそこに病気が流行った。 すると朝廷から薬をやっております。 あるいは大水が出た。 すると救恤(きゅうじゅつ)ですね。 お米を与えた。そういうことまでことごとく書いてあるのです。 しかし、『続日本紀』の書かれたころにも、そういう水田の開発は行われていたはずなんですが、書かれていないだから特別のことではなくて日常茶飯事のことだった。 開発するということが日常茶飯事のことであったのではなかろうかと思います。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.216)


     そうすると、推定に過ぎませんが、田をつくるというのは、夏だけの仕事です。 夏、田をつくって収穫が済みますと、人びとは、秋から冬にかけて何をしていただろうかということですね。 おそらく余った労力で田の整理をしていったんではなかったろうか耕地整理をしていくためには、以前から何度も申しましたように鉄が必要になる。 鉄の鍬であぜを築き、田をなおし、長方形の田をつくっていったんではなかっただろうかと思うんです。 働きながら田んぼを拡大していたと考えられるわけです。 それを考えさせてくれる大事な史料があるのです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.217)


     それは奈良時代の戸籍です。 その戸籍を見ておりますと、郷戸房戸とが出てくるのです。 郷戸を見ると、戸の家族員がだいたい五〇人ぐらいになっている。 非常に多いのです。 もともと建物は別になっていたと思います。 戸主が五〇人をひとまとめにして、その上に乗っかっておって、家が成立していた。 そういう家が何軒か集まって里をつくっていたと思うんです。 ところがその中に房戸というのが出始めます。 郷戸とは何軒かの家が集まって、本家になるものが戸主になって統一していた。 ところが一軒一軒が独立し始めます。 独立したものが房戸なんです。 これは人員を見ますと、だいたい一〇人から一五人ぐらいになります。 たとえば一五人の房戸が三つあって、郷戸が成立する。 そういうことも考えられてきますが、なぜ房戸に分かれてきたかということは班田です。 土地を分けてもらう単位として房戸がひとつの単位になっていった。 同時に房戸が中心になって耕地整理をしていったのではないかと思うんです。 郷戸では統一がつきにくいけれども、房戸ならそれができる。 これはたいへん大事な問題があったと思います。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.217)


     この水田を均分する制度が日本に植えつけられたということが、実は日本の運命というもの、あるいは日本の文化というものを根本的に決めてしまったんではなかろうかと思うのです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.221)


     そのようにして口分田をつくりますと、みなに割当てをしなければならない。 そのためには戸籍を作らなければいけません。人数を全部調べなければいけない。 これが庚午年籍(こうごねんじゃく)とい戸籍になるわけです。 これができのは天智天皇の御代(六七〇年)です。 大化の改新は孝徳天皇のときですが、実権は中大兄皇子が握っていたのですから、同じことだといってよいと思います。 このようにして戸籍ができ、それにあわせて土地の割換えができる。 それらの水田は、できるだけ早く整理した方が土地をわけてもらうときには都合がよい。 そうすると、まず割当てをもらった人たちが、整理されていない田んぼを冬の間にどんどん整理して、割当ての可能な土地に切り換えていったんではないか。 それが増えていけば増えていくほど、郷戸が解体して房戸に変わっていく。 そういうことが国力というか。 生産力を高めることになっていったと見られるのです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.221)


     大化の改新というものは、このように理解すると、これほど、その当時国民全体をあおりたてて活気あらしめた制度はなかった。みな本気になって働いた感じがするのです
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.221)


     ところでみな田をもらうわけですが、もらい方が多少違っておりました。 それは、男が二反、女がその三分の二をもらったわけです。 一反は三六〇歩です。 これは、どうしてそういうもらい方をしたのかというと、一歩=一間四方にできる米が、籾にして一升になる。 当時粃(しいな)米(実のはいっていない籾)が多かったので、これを擂りますと原米五合になる。 これは大人一日の食糧になります、一反が三六〇歩ですから、当時旧暦で一年三五〇日ほどですから三六〇歩あれば一年間の食糧が得られるわけです。 そして余ったものが租税になったり、再生産に回されることになる。 ところが大事なことがひとつある。奴婢ですね。 つまりその家で使っている人たちは、二反の三分の一しか土地がもらえない。 三分の一の土地では、メシを食うことができない。 すると下男や下女をおかない経営をしていくということが、大事になってくる。 日本における家族経営の発達というのは、どうもそこに秘密があったんではなかろうかと思うんです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.221〜222)


     もうひとつは、どれだけの人が奴婢を持ったかというと、持っている人がかなりいた。 それは先ほどの戸籍を見ますと、奴という言葉が出てきます。 そういう人たちはどうしていたかというと、奴婢を養うために、その辺りの登録せられていない、余った土地を開いた。 登録されていると、先ほど申しましたように基盤整備をして、口分田に切り換えて、繰り込んでいった。しかし開いていない土地を開けば届出はしないで自分のものになるわけです。 それを私田と言ったようです。

      住吉の小田を刈らす子奴(やっこ)かも無き 奴あれど妹が御為(みため)と私田(わたくしだ)刈る(一二七五)


     『万葉集』(『日本古典文学大系』、岩波書店)の中のひとつですが、“一軒の若い男がひとりで稲を刈っているだ”という歌ですね。 そうすると、公田のほかに、私田は、その家の者だけ刈る。 あるいは奴が開いた田んぼなら、奴が刈ることになっておったんだと思います。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.222〜223)


     このようにして条里田のほかにいろいろな土地がつくられていた。 それで一戸平均どれくらいの田んぼを耕作していたのだろうかとということを『倭名抄』−−承平年間(九三一−九三八)成立した最初の辞書−−で見てみると、日本全国の耕地面積が出てくるのです。八三万町歩という数字が出てくるのです。 それでその当時の水田を人家で割ってみると、平均して房戸一戸当たり三町歩ぐらいになるわけなんです。それで家族人員はかりに一人二反ずつもらったとして一五人はいたということがわかりますね。 そうすると、家族経営というのは、すでに日本では非常に古いときに成立したんだと見てよいと思います。 ところが飢饉があると米が足りなくなるから、米を政府から借り受けて、生活をたてなければならなくなります。 そうでなければ多少余分も出てくる。 つまり生活が安定する。安定すれば人口が増える。 人口が増えると、新しく増えた人口に対して割当てができるかというと、割当てはできないわけです。 というのは新しく開かなければいけないからです。 さきほど言ったかたちで、すでに開かれている田を、毎年耕地整理するのはわりあい容易でありますけれども、新しく開こうとするというのは、骨が折れたんだということがわかるのです。 奈良時代の養老六年、七二二年に太政宮の奏上では「良田を百万町歩開墾せよ」、つまり耕地面積を倍にせよ、すると日本は豊かになるという計画を発表しているのです。 ところが実際それができるかというとできない。 というのは、農耕の余暇労力を利用してやっていくのならば、自分のためですから、口分田を整理していくことはやっていけますけれども、新たに百万町歩開くとなりますと、農業労力のほかに、土方ですとか、そういう人がいないと開けないはずです。 ヨーロッパ、エジプトならやっているのです。 それは奴隷を使うからできるのです。 それでは、その奴隷はどこから持ってきたかというと、ほとんどが戦争で連れてきて、こき使って土地を開けばいくらでも開けます。 その奴隷をそのまま耕作の労力に使うようになります。 すると一人の人がたいへん広い面積を経営することができるので、農園が発生してくるわけです。 今日の言葉ではプランテーションと言いますか、それが発達していくことになります。 ところが、日本では、農園が発達しなかったんです。 −−あとで発達した例を話しますけれども−−ということは、奴隷を連れてくる場所がない。 戦争がない。海の向こうで戦争して連れてくるといいでしょうが、それができないんです。 結局そうすると家族を中心にして、あるいは食いつめたものを抱え込む。 ところがそういう人は、そう多くはないのです。 文献の端々から奴が出てくるのが多いように見えますが、ヨーロッパの奴隷とはたいへん違うのだということを、ご記憶いただきたいんです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.223〜225)


     脱線しますが、南北朝時代になりまして、日本人が朝鮮半島に倭寇というか、進出して向こうへ行ってムギやダイズを奪ってきます。 初めはほとんどが朝鮮半島に行っている。 これがほとんど瀬戸内海の連中なんです。 瀬戸内海は食うものが不足していた。 しかし不足していても、戦争がなければ安定しているんです。 ところが当時は南北朝で始終戦争していた。 そして瀬戸内海の連中の多くは南朝に属していて、南朝を助けております。 南朝は経済的に基盤が弱い。 それを助けている。 瀬戸内海の島はどう見ても食糧の少ない所です。 食糧が少ないから朝鮮半島に行って、食うものを奪ってくる。 おもしろいことに、当時の記録を比較してみますと、朝鮮半島に倭寇が出ているときには日本のほうでは戦争はないんですね。 その間、食糧を確保している。 食糧がうんとできてくると北朝と戦争をしている。食うものができると戦争するなくなると朝鮮半島に行く。 初めはそういう繰り返しをしているのですが、それがあとになりますと、足利三代将軍義満のころですが、このころから向こうに行って食糧だけ盗ってこないで、人を連れてき始めるんです。 つまり労力不足を補うために人を連れてき始めるんです。 ヨーロッパにおける古い時代の戦争が奴隷獲得のためであった。 その小規模のものが日本の倭寇に見られるようになるのです。 しかしこれは知れたものだった。 なぜかというと、大きな戦争をして、一網打尽でたくさんの人を連れてきたんではない。 記録を見ますと、五人とか一〇人とかいうのを、米や食糧を奪うついでに連れてきているのです。 これでは日本で奴隷経済の発達のしようがないわけです。 これは日本の農業経営を考えるうえに、たぶん大事なことになるんだと思っています。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.225〜226)


     つまり日本の農業経営は稲作が中心であって、そして、家族経営が中心になっていたわけです。 どうして家族経営が中心になったかというと、今言ったようなことがもとになっている。 ところが安定してくると人口が増えるのは当然のことです。 その増えていった人口がどうしたかということになりますと、政府が余分の労力を持っておれば、労力を使って新たに開墾して口分田にしていくことができましょうが、政府自体が余分の労力を持ちませんね。 それでずうっと割当てている。 家々のほうでは人が増えている。 それを政府が吸収して土方にして、土地を開くということはなかったわけです。 そうすると、はみ出た人たちが自分たちで土地を開くということはあっただろう。 それがいわゆる養老七年(七二三)の三世一身の法と言われるもので、とにかく、余った人たちは土地を開け、そのかわり開いたら三代の間は、その土地を私有にさせてやる。 私田にしてやるというわけです。ところが三代経ったら取り上げる。 すると、あとの人は食えなくなる
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.226)


     そこでついに、その三世一身の法ができましてから二〇年ほど経った天平一五年(七四三年)に、新たに開いたものは全部永久に所有を認める、という法令が出ている。 ここで墾田がすべて私有され、そうしますと、もうそこまできますと、私らもこの田んぼをそのままもらっておこうじゃないかと、割換えを自然に止め始めるのです。 それで割換えが最後に終ったのは平安の終わりころになるのですが、早く止んだのは大阪平野であるとか奈良盆地であるとか、そこで止んだのは西暦八七七年、元慶年間ころに止んでいます。 そういうようにしてその土地が個人持ちになってくる。 割換えがなくなってくる。 しかし大事なことは、割換えが済んで、自分らの所有地に自然になってきたときに、その耕地面積は一家の生活がたちうるほどの面積であったんだということです。 生活がたちうるほどのものをもらっていたわけでしょう。割換えが止まってもそれが自分のものになったわけですから、一家のものが生活していくには、それだけの土地があればできる。 そうするとそれによって自家経営ができる
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.226〜227)


     そういうような公田をつくる人たち、つまり年貢を納める人たちを百姓と言ったんです。 その中で役職につく人たちがあり、この人たちのことを器量百姓と言った。 今は美人を器量がいいと言いますが、当時は村の中でそういう役職につきうる人が、器量が良かったんですね。 それ以外の百姓は平民百姓と言っているんです。平民という言葉は非常に早く出てきている。 そういうようにして百姓が成り立ってくるわけです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.228)


     それでははなかったのかというと、畑はあったんです。 中国の場合は畑が割換えさせていた。 日本で水田が足りなくなって、畑を口分田にしようとすると、みな嫌がって戻してくる。 当時から日本では畑になじまなかったようです。 そうしますと、畑はどういう人たちがつくったかというと、私墾田と同じことで、政府に年貢を出さない自分のものとしてつくったんではなかっただろうか。 できたものはみな自分のものにした。 そうやったんではなかろうかと思うのです。 そういう屋敷畑から年貢を取らなかったんですね。 江戸時代になっても年貢を取っておりません。 すると決して私墾田ではないんだけれども、家についた畑から年貢を取らない。 そういうような畑を持った屋敷のことを在家(ざいけ)と言っている。 在家とは耕地を家の周辺に持っておって、それを在家と言ったんです。在家一宇なんてのがありますのは、家があって周囲に畑を持っておって、その畑を年貢の対象にしなかった。 その畑は政府の管理にならないわけです。 政府の管理にならないというと、その畑にあるものは、誰が穫ってもいいということになりましょう。 そうすると「これはわしのものだ」という囲い込みをしなければいけませんね。 理由はそれだけではありませんが、囲い込みをするために、畑の外側に垣をした。 それを垣内(かいと)と言っている。 垣内というのは私有を表す言葉だったようです。 垣内という言葉が記録に出てくるのは一〇〇〇年ほど前です。 垣内の中に柿の木があったとか何とか、作っているものが出てきます。 するとこの柿の木はわしのものだということを意思表示するために、外側に持っていって垣を植えた。 で、垣の内はわしのものだ、ほかのものは入ってはいけないということです。 もうひとつは野獣が多かったからそれを防ぐために垣が作られた。 畑はそのようにして発達していったもののようです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.228〜229)


     このようにして日本における畑は、水田の付属物として広がっていったと思うんです。 ただし京都のような町では水田よりも畑が大事だったはずなんです。 それは野菜なんかを作らなければいけない。 そういう畑のことを園(その)と言ったようです。 『延喜式』を見ますと園というのがたくさん出てまいります。 また園で使う肥料のことも出てきます。 糞○擔(担)というのが出てくる。 それが何だっただろうかと考えてみますと、どうも馬の糞ではなかったかと思うんです。 馬糞を使って畑で野菜を作ったり、果物を作ったりしていた。 そういうように考えられるわけです。 以上のように、畑というのは日本では水田農家に付属的につくられたものであったと言ってよいと思うんです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.229)


     これは調べていくうちに教えられてきたことなのです。 そうしますと、水田を中心にして、水田経営の行われているところは、非常に人口が稠密で、しかも高い生産性を上げている。 その生活様式は、明治の初めごろと一〇〇〇年前と、そう変わっていなかったんではないかという感じがします。 そしてそれが生活のパターンとなってきた。 おそらく多くの人たちが一個の目標として理想としてめざしたものが、そういう経営であり生活であったのではなかろうかと思うのです。 それはその次の問題にからんできます。 話は現在になりますが、昭和四〇年以降、日本では政府が大きな資金を出しまして基盤整備をやりました。 だいたい大阪から東の水田は一枚が三反、三〇アールぐらいの大きさになってきて、機械が入るようになり、東日本ですと小型トラクターが入って、百姓がトラクターに乗って田んぼを耕している。 そのあとイネを植えるのだって、苗植機でやって、女が腰を曲げてやることはなくなっておりますね。 西日本はまだ基盤整備がほとんど行われていないから、田植えが行われております。 近江から東の辺りは苗植機を使うまでになってきているのです。 政府のねらったことは農業の共同化ですね。 ひとつの水田の農園化をはかったわけです。 そういうようにすれば水田の経営が農園化するだろう。 つまり経営面積が一〇ヘクタール以上になれば政府としては農園として認める。 そういう農業経営に切り換える。 すると全国平均が一ヘクタール足らずだから、かりに一〇軒の家が組んで、水田を耕すようになれば、うんと労力を省くことができるし、それから資本の過剰投資がなくなるということでそれをやった。ところが現実にはどこの家もトラクターを買うんだけれども、共同経営はやらないんです。 一番不思議なことは、理想的なかたちとして八郎潟を埋めてパイロット事業として、とにかく一単位一〇〇ヘクタールぐらいの農園にしようとしたんです。そうしたら、「わしらあそこに行きません」と、入り手が一人もなかった一軒一軒に分けるといったら四百何ぼ入った
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.232〜233)


     つまり日本という国が国家らしく成立したときに、班田収授法をとって、土地を小さく分けて家族経営にするというシステムをとった。 それで初めてみなが平等という意識をしっかりと身につけて、経営するようになってきた。 それが今日まで根深く生きていて、それから、これほど文化が進んできても、一歩も抜け出すことができないんです。 そこで中国の場合を見ますと、さくほど言ったように、班田収授をやった唐という国が滅びますが、その後五代十国になる。 あそこの場合には永業田があったでしょう。 これは最初から私有地なんです。 そのうえ口分田が畑だったでしょう。 そうしますと、経営は変わったものになってくる。 とくに唐が滅んだあと北方からいろいろな騎馬民族が入ってきます。 そして次々国を興したり、つぶしたりします。 その人たちは政治をとるばかりでなくて、その農民の上に乗っかって、地主のかたちをとるほけです。 地主のかたちをとると一人一人の私有になりましょう。 そういうふうにして荘園が発達していっていめのです。 日本の荘園の発達の仕方と非常に違うんです。 それは、人を奴隷とは言えませんが、家を持たせているのだから、農奴として使うことができた。 それは異質な力が上に乗っかる場合にそれが可能になりますね。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.233〜234)


     日本の場合に、大土地経営がどうして発達していったかと申しますと、荘園ショウエンと読まないでタドコロと読んでもらうとわかってくるのですが、日本の場合にはそうした異質な力が上に乗っかることによって、土地に自分の勢力を扶植する、植えつけていくかたちではなく、未墾の地を開いていくかたちをとるわけです。 未墾の土地を開いて、その上に乗っかるんですが、その場合に、その土地を開くのに多くの人を連れ込んで、奴隷のようにして使ってその人たちに開かせる。 これは手作ですね。 そして自分がそれを経営する、そういういき方と−−それは少なかったようです−−今度は連れていった人たちに、それぞれその土地を経営させる。 広い土地を持つのだけれども、経営は一人一人が別の個体としてやっていく。家族経営的な経営をやっていく。 それは、その前の班田収授法の名残りで、口分田を家族経営していくかたち、それに準じたものだと思われます。 その一番いい例が次の時代の鎌倉時代に見られるわけなんです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.234〜235)


     このように、日本という国は、実に不思議なシステムを持って発達していったわけです。 それでは、どうしてそういうものが、日本の場合にずうっと維持されたのだろうかということです。 これについてもうひとつ別の理由がある。 それは税の取り立て方と税の使い方に問題があったのだと思うのです。 古い時期に、つまり律令国家のときに税を取り立てますね。 そうしますと、田んぼから取り立てた税というのは全部国府の倉に納めた。 中央まで持っていかなかったのです。中央まで持っていったものは国が貸しつけた米の利子に当たる米なのです。 つまり国の倉に納まっている余分な米は、食うのに困ったときにそれを貸しつけるわけです。 いわゆる出挙稲(すいことう)ですね。 それを貸しつけ、それに対して利子を取る。 その利子が都へ運ばれるわけなのです。 税は運ばない。 この出挙の量は知れているわけなのです。 つまり都に住んでいる人たちが生活できるものくらい運んだのでしょう。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.242〜243)


     それ以外は、ご承知のようにとか調です。 それは地方のいろいろな生産物がありますが、それを都へ運ぶわけですね。 これはいま現在平城宮跡からたくさん発掘されている木簡を見るとわかるわけです。 この木簡はたくさん出てきていますが、その札のなかに年貢を持ってきたというのは一枚もないでしょ。 だから年貢を運んだ気づかいはなかったのです。 かりに出挙の米がどの程度に運ばれてきたのかと考えても、今まで出てきた木簡ではわからないのです。ほとんど貢物と調といわれる中男作物(ちゅうなんさくもつ)。 そのふたつの札が出てきているのです。
    (《日本文化の形成 中 日本文化と生産基盤》P.243)


    付 瀬戸内海文化の系譜

     海人たちの中には宗像の神をまつった者もあった。 筑前・宗像の海人がそれで、この地にいた大海命(おおあまのみこと)の子孫が宗像朝臣であるという。 そして宗像神社は『延喜式』によると、備前・赤坂郡、津高郡、伯耆(ほうき)・会見郡、大和・城上郡、尾張・中島郡、下野(しもつけ)・寒川郡などにもまつられている。 そのうち下野・寒川郡内陸である。これらの神社のまつられたところにも、海人は住みついたのではなかろうかと思う
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.253)


     また宗像神社とは言わないが、安芸・宮島の伊都伎島神社も宗像神社とおなじ祭神で、宮島のあたりにも海人がたくさん住んでいたことは、そのあたりが安満郷であったことによってわかるのである。
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.253)


     もうひとつ海に関係があり、しかも朝鮮半島に関係のある神がある。 それは大山積神社である。 それについて『伊予国風土記逸文』に「宇知(越智)の郡郷島(大三島)にます神、御名は大山積の神、またの名は和多志の大神である。 この神は難波の高津宮に天の下をしろしめした天皇(仁徳天皇)の御代にあらわれた。 この神は百済の国からわたってきて、摂津の国の御島(三島)におわしました。 御島(三島)というのは攝津の国の三島からきた名である」とある。 大三島の大山積神社には、いろいろの縁起が伝えられているが、風土記逸文の話は比較的、真相を伝えているのではないかと思う。 摂津の三島では賀茂の神併祀されて三島鴨神社といった。 鴨の神は鴨部たちのまつった神で、鳥をとる猟師が信仰したもののようで、猟師ということだが海人たちと関係のないこともない。 さて摂津三島にまつられた大山積神社は、後に伊予大三島に迎えられて大山積神社としてまつられたが、この神のまつられたところは、大てい三島とよばれた。 この神も海人たちに奉(たてまつ)られて、早く伊豆の三宅島にまつられ、後賀茂郡白浜に、さらに田方郡三島にまつられて今日にいたっている。 この神は百済からきたといい、和多志(渡し)の大神といったのは、やはり海人たちがまつったものであることが考えられる。 このようにして神々はその名をいろいろにかえてはいったが、それをまつる者が海人であり、その海人のなかに、海の向こうからわたってきた者が少なからずあることは、 神がどこからどのように移動していったか、をみてゆくことによって明らかになってくるのである。
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.253〜254)


     古い時代には必ずしも船を家にしていたとは考えませんけれども、男と女が相共に漁業をしていたことは考えられます。 そしてそれが生活をしているわけですが、必ずしも陸地に足をかけているとは限りません。 それでは、海上生活の人たちはどういうくらしをしていたのだろうか。 海に潜ってサザエとか海藻をとる。 この場合、女が潜る海人がいつも問題にされました、海女と書いたアマの分布を民俗・考古などで調べていますが、それらの村々を調べてみますと、女だけが潜ったのではない男も潜ったが、女が潜ったことが珍しくて、その面が強くなったのです。 これは男女共漁であった。 少なくとも中世まではそうであったのではなかろうか。 女が中心になって潜ったところでは対馬の海女、曲(まがり)の海女なんかをとってみましても近世までは男女共に潜っていた。
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.256)


     最近、海賊の問題について、村上水軍の研究がたいへん盛んになっていますが、村上水軍というのは、私にいわせれば、男漁、つまり男が漁をする、女が船に乗らない系統の中間であったと思います。 ということは、厳島の合戦の記録(「三島海賊家軍日記」)によりますと、船人たちは、藻切(もぎり)鎌カナツキをもって戦ったということが出ております。 藻切鎌、カナツキというのは漁具であります。漁具をそのまま武器として、あの厳島合戦のような戦争をやっているのです。 つまり彼らは漁民であると同時に、それがひとつの戦力になっている船に乗って、そのまま戦いをしている。 しかし、さきほど申しました海人系の漁民はそうではなかったとみられる。 この村上水軍に対抗し、やがては村上水軍の上になり、これを統率するようになった小早川家は広島県の三原市に入る沼田(ぬた)を根拠地にして、鎌倉時代の初めからあのあたりに大きな勢力をもった。 そして海賊鎮圧のために活動した家なんです。 早く瀬戸内海に進出しまして、広島県の因島に渡って、ずっと後になりますと、塩飽(しあく)の島々までがその占領地域となった家であります。 その小早川家に仕えた漁民の後裔が今日まで残っています。 そのひとつがもと幸崎(さいざき)、現在の三原市能地(のうじ)、それからさらに竹原市の忠海(ただのうみ)・二窓(ふたまど)、この二つが大きな集落であり、もうひとつは、三原のすぐ南に津浪というところがあります。 これは、今日干拓されて漁業をする家がほとんどなくなっておりますが、いずれにも船を家とした人たちがそこにいるわけであります。
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.267〜268)


     家を船にするのは南方系の漁民かということになりますが、今日ではほとんどそれを区別することはできなくなっています。 南方系の船ならば底が尖っていることがひとつの大事な基準になるのですが、技術というものは固定しておりませんから、新しい技術が入ってきて、やがて船の型が変わっていくけれども、船の幅の上からみると幅のせまい船が南のほうの側にかなり残っているんです。 それが今日一番残っておりますのは、鳴門海峡福良(ふくら)から徳島側の島がたくさんありますが、そこに見られるカンコといわれる三枚構成の舟で、普通、舟は五枚で構成されておりますが、底にカワラがあって、その上に板を張ってもうひとつ上段に板を載せる。 それがカワラ一枚に両側に側板をもった三枚の舟でこれをカンコというのです。 ただこれが、どう漕がれたかが問題になるのです。 ということは、南方の船ですと、前向きに座って櫂(かい)を漕ぎます。 現在それがはっきり残っているのは長崎のペイロンとか、美保関(島根県)の諸手舟(もろたぶね)であるとかです。ところが今日では後向きになって漕ぐものまでがでてきている。 そういう変化が出てきているのです
    (《日本文化の形成 中 付 瀬戸内海文化の系譜》P.269〜270)