[抜書き] 『黒船以降 政治家と官僚の条件』


『黒船以降 政治家と官僚の条件』中村彰彦/山内昌之・中公文庫
2009年1月25日 初版発行
    目次
      はじめに 中村彰彦

    第一章 徳川官僚の遺産−−阿部正弘政権をどう評価するか
       開国時の国際情勢  バランス重視の阿部正弘  なぜ徳川斉昭を起用したのか  積極的に若手エリートを登用  堀田正睦・岩瀬忠震の積極的開国政策  武士道と騎士道−−川路聖謨とプチャーチン  近代市民社会形成に貢献
    第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか
       難治の地・水戸藩小史  徳川光圀と『大日本史』の論理  水戸烈公の藩政改革  戊午の密勅から安政の大獄へ  井伊直弼と徳川斉昭  天狗党の乱とテロリズムの思想
    第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組
       長州藩の好戦的体質  瀬戸内海交易で資本を蓄積  吉田松陰の影響力  高杉晋作、俗論党との内戦を制す  モンゴル型の薩摩、オスマントルコ型の長州  人口の九割が武士  奇兵隊の光と影
    第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻
       安藤信正政権を再評価する  火中の栗を拾った会津藩  京都を「墳墓の地」として  「一会桑」の内部対立  対「一会桑」が「倒幕」に変った瞬間  「一会桑」その後
    第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代
       明治維新は「名誉革命」か?  榎本武揚の国際感覚  亡国の遺臣としての共感  サムライたちの日清・日露戦争  福沢諭吉の「痩我慢の説」を検証する  尊皇攘夷から大陸進出へ

      おわりに 山内昌之
      文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩


     はじめに

     ついで、「第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組」では、おのずと勝者が勝者たり得た背景を考え直すことに重点がおかれた。 対談が進行するうちに次第に両藩の体質の違いが洗い出され、ここにも私は対談の妙味を感じた。 ひとりで考え、ひとりで書くモノローグの作業では、なかなかこのような進展はあり得ない。
    (《黒船以降 はじめに》P.11)


     勝者のあとは当然、敗者に話がおよぶことになる。 「第四章 一会桑(いっかいそう)−−京都における幕府権力の破綻」がそれだが、一会桑」とは一橋家(一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ))、会津藩(松平容保(まつだいらかたもり))、桑名藩(松平定敬(さだあき))のこと。 この三者をどう見るかという問題とは別に、坂下門外の変で、失脚させられた安藤信正は評価する、幕末の賢公といわれる松平春嶽は評価しない、といったところが大筋において山内さんと一致したのは思いがけないことであった。
    (《黒船以降 はじめに》P.11)


     開国時の国際情勢

    [中村] まず、小さなエピソードを紹介しましょう。  ペリーが黒船を率いて日本に来航し、日米和親条約締結によって鎖国の扉を開いてから七年たった文久元年(一八六一)から翌年にかけ、徳川幕府は小笠原諸島に調査団を派遣します。 これに随行した菊池作次郎(きくちさくじろう)という八丈島の役人の日記(「小笠原島御開拓ニ付 御用私用留」)が、『幕末小笠原島日記』(田中弘之校訂、緑地社)として刊行されています。
     この小笠原という島へは、寛文十年(一六七〇)に遠州灘沖で遭難したミカン船が漂着し、初めて無人島として幕府に報告されました。 その五年後の延宝三年(一六七五)に幕府が調査隊を派遣し、測量して地図も作成しています
     その後、外国の捕鯨船がしきりに小笠原に立ち寄るようになった。 とくにアメリカの船にとって小笠原諸島は、上海あたりに向かう航路の途中にあって暴風雨を避けるのにちょうどいいので、重要な拠点となった。 ところが幕府は、そのことを認識せず、無人島として放っておいたわけです。
     ペリーは浦賀に来航する前に、小笠原に立ち寄って調査を行っていますが、彼の遠征記を読むと、「ブニン・アイランド」と表記されている。 これは「無人島」という日本語から来ているわけですが、実はまったくの無人島ではなく、そのころになると多くの白人やハワイ先住民が住み着いていた。 航海中、病気になった人たちが船から降ろされ、彼らはロビンソンロクルーソーではないけれど、自力で生活できるように島を「開拓」していったわけですね。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.14〜15)


    [中村] そうです。イギリスの船もさかんに小笠原に立ち寄っていて、軍艦の基地まであった。 だからイギリスが自国の領土だと主張します。 ところが、ペリーはアメリカに帰った後、小笠原は日本人によって発見されたと報告し、それを根拠として日本領に落ち着いたわけです。
     アメリカとしては、英国領とされるのはまずい。 かといってアメリカ領だと主張して、開国を迫っている日本に反米感情を起こされても困る。日本領と認めた上で、あらためて土地を日本から借りればいい、という論理だったようですね。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.16〜17)


    [山内] やはり日本にとって幸運だった第一の要因は、アヘン戦争の教訓を学ぶことができたということですね。からを輸入していたイギリスは、膨大なの流出に悩んでいました。 この入超状態を是正するため、イギリスはインドアヘンを清国に輸出し、三角貿易で貿易不均衡の問題を解決しようとした。 この不道徳行為はさすがにイギリス国内でも評判が悪く、自由党のグラッドストンが議会で攻撃したのは、日本でも高校世界史で触れられているとおりです。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.19)


    [山内] 西洋では、産業革命後の技術革新が目覚ましく、とくに蒸気船の発明によって遠洋航海の技術が飛躍的に進歩したのですが、西欧の技術力についての認識は甘かったのでしょうね。 もっとも、一部には早くから危機感がありました。 水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の侍読(じどく)で、尊皇攘夷のイデオローグだった会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、その著書『新論』で、いまや航海術の発達によって、日本を外からの危機から守ってきた海は「賊衝(ぞくしょう)」になった、と述べています。 安全だった海によって日本に危機がもたらされる、というわけです。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.22)


     バランス重視の阿部正弘

    [中村] 阿部正弘は開国を迫られるという未曾有(みぞう)の事態に対し、みずから決断してリーダーシップをとるのではなく、慣例を破っても、できるだけ多くの意見を聞こうとしたわけですね。  ペリーは第一回の来航のとき、アメリカ大統領フィルモアの国書を携え、応対に当たった浦賀奉行に渡して去っていくわけですが、阿部は受け取った国書を広く回覧し、意見を求めています外様(とざま)大名にまで意見を求めるというのは、幕政史上、異例のことです。 そこで、島津斉彬(しまづなりあきら)のような外様大名が、幕政に影響力をもつ土台ができるわけですが、面白いのは、吉原の遊郭の主人が出した意見書まで残っていることです。外国人が来たら、酒を飲ませて仲よくなったと見せかけて、酔っぱらったところを刺身包丁で殺してしまえ、とか(笑)。 庶民にまで意見を聞いたんですね。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.30)


     なぜ徳川斉昭を起用したのか

    [山内] 政策決定に関わる幕府の情報が公式ルートと斉昭ルートの二本立てで京都に伝わるから、受け取ったほうも困ってしまう。 どちらが本当なのか、と。 しかも斉昭は、自分の意見が通らなかったときに、それを実現する方策として天皇や朝廷をまきこんで劣勢を挽回しようとする。禁じ手ですよ。 斉昭の身勝手さこそ、朝廷と幕府の対立を招き、幕末の混迷を深めたそもそもの要因だったかもしれない。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.36)


     積極的に若手エリートを登用

    [中村] もうひとつ、幕臣だけではなく各藩の有能な人材が昌平坂学問所に留学していたことも見逃せません。会津藩の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が典型的ですが、彼らは後に藩の公用方として郷土に集まり、藩外交を担うことになる。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.43)


     堀田正睦・岩瀬忠震の積極的開国政策
    [中村] ちょっと整理しますと、嘉永七年(一八五四)一月にペリーが二度目の来航を果たし、三月に日米和親条約が締結されます。 その二年後、安政三年(一八五六)七月に初代日本領事のハリスが下田にやってきて、日米修好条約の交渉が始まるのですが、その最中の安政四年、阿部正弘は急死し、堀田正睦(ほったまさよし)が老中首座につくわけです。 いわば日米修好通商条約は、堀田老中と、昌平坂出身の岩瀬忠震のコンビで展開されるのですがそのあたりを見ていきましょうか。

    [山内] 日米修好通商条約に関しては、どうしても評価できない部分があります。この条約には、内外の金貨と銀貨は同じ重さの同種交換とする、という条項があるでしょう。
     これは、貨幣の品位を無視するだけでなく、国内における金銀比価の世界市場での相異を無視したものでした。 これが実施されて、幕府財政は塗炭の苦しみを味わうことになるのです。 よく知られているように、当時の日本の金銀比価は一対五で価値が近いのに、外国では一対十五なので、外国人は一メキシコドルで一分銀三枚に交換し、もう一回わざわざ一分銀四枚で小判(金一両)を買って外国に持ち出して儲けたのでしたね。
     ひどい話もあったもので、金が羽根をつけたように外国に飛んでいった。外国人社会のゴールドラッシュともいうべき現象を利用して、外交官や軍人まで儲けたというからなおひどい。最初は問題の所在を知っていながら幕府側が認めたようですね。 ペリーの時代には、きちんと日米の銀貨と銀貨の交換は、洋銀一ドルと銀十六匁(もんめ)つまり一分銀一枚を交換すると決めていました。それをあえて日本側が不利になることを幕府みずからがいい出した。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.47〜48)


     武士道と騎士道−−川路聖謨とプチャーチン

    [山内] 徳川斉昭らと井伊直弼の対立については次章に回して、時間は前後しても今はプチャーチンとの交渉の話をしましょう。
     プチャーチン嘉永六年(一八五三)、ペリーに遅れること一ヵ月半で、こちらは幕府の定めに従って長崎に来航し、日本に通商を求めます。 翌年、再来日し日露和親条約を締結しました。 このとき、日本側で交渉にあたった川路聖謨を主人公に、吉村昭氏が『落日の宴』という小説を書いていますが、川路は岩瀬とならんで黄昏(たそがれ)の江戸幕府が生んだ最良の官僚でしょうこの人の対露交渉は、日本外交が初めて目ざましい成功を収めた例といってよいと思います
     まず、日本に来た外国人が犯罪をおかす確率よりも、日本の攘夷浪士が外国人を無差別に暗殺する数のほうが、はるかに多かったわけでしょう。 しかも、そうした浮浪の徒を日本側は満足に捕らえようともしなかった。 生麦(なまむぎ)事件の薩摩藩のように、下手人は逃げて藩は関知しないとごまかしてしまう。 生麦事件の暗殺について大英帝国は寛大なものですよ。 相手はとにかくテロリストの殺人犯なのだから、刑法上の被疑者なのです。 犯罪者は、互いの国法で裁くという取り決めは、むしろ日本にも有利に働いた面もあるのではと思っています。

    [中村] 日本側としては、言葉の通じない外国人を裁かされるのは厄介だと、歓迎しているふしがありました(笑)。

    [山内] 日本人ならいつでも言いそうなことだ。 すぐ面倒臭がる(笑)。日米和親条約の交渉時にも、面白いことがありました。漂着したアメリカの船を助ける費用を、アメリカ側は、自分たちの問題だから負担するといったのです。 それを日本はわざわざ、「いや折半にしましょう」と一部負担を申し出ています。 このあたりの日本人の潔い感覚は興味ぶかいですね。何しろ、いまでも財政赤字を垂れ流している国でありながら、国連分担金はじめ国際機関の分担金は何の根拠もなしにほぼ二〇パーセントを負担している気前のよい国なのです。どこかに連続性がある。
     幕末に結んだ条約は、幕府の無知のために不平等になり、日本だけに相当な損害を与えたように思われがちですが、それは一面的というものでしょう。対露交渉を見ると、国境線の確定についてロシア側から譲歩を引き出した手際などは鮮やかです

    [中村] このときの交渉の大きなテーマは、通商関係を結ぶかどうかより、国境線の画定にありました。 かつて一八〇六年から翌年にかけてロシア艦が蝦夷地に上陸し乱暴狼藉を働き、日本側がその報復のためゴローニンを拘束して幽閉したことがありました。 これに対してロシアが高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)をカムチャッカまで連れ去り、結局互いの人質を交換するかたちで交渉が行われ、択捉(えとろふ)島の先にあるウルップ島を国境と定めました。 ところが、プチャーチンが来た時点で、ロシア側は樺太(からふと)(サハリン)や千島列島を実効支配していた。

    [山内] そうです。 それを、川路たちは交渉で、武力や背景もなしに択捉を日本領だとロシアに確認させたわけです

    [中村] 樺太にしても、プチャーチンは最初、すべてロシアのものだと主張したんですよね。 それに対して日本側は、北緯五〇度で分けて北はロシア、南は日本だと提案する。 結果的に国境線は確定しませんでしたが、雑居というかたちで解決させたのですから大変な成功でしたね。

    [山内] 陸海軍力をちらつかせて砲艦外交をすれば別ですが、幕末の日本には国防兵力がなきに等しいのです。 ロシアの南下をウルップ島で平和的に食い止めたのですから、それなりに大きな意味があったと思いますよ。
     川路聖謨は書状で、日本の完全勝利だと興奮気味に書いていますが、武力の後ろ盾なしに、大国ロシアの譲歩を引き出したわけですから、喜ぶのも無理はない。ロシアの譲歩した背後にはクリミア戦争で苦境に立っていたという欧州事情もあるのですが、国際関係の力学を日本側はうまく利用したといえるでしょう。 これこそ、まさに二十世紀末の日本がいっとき目指したユーラシア外交のエスプリというものでしょうね。
     しかも、ここが大事なところですけれど、国際関係の力学を認識・利用しても、相手の苦境につけこんでロシアに苦汁だけを呑ませるようなことはしていない。 川路たちは、あくまでも正論を通しながら、「武士の情け」のような温かさを示すのです。このあたりは、今の日本に対する中国や韓国の出方とまったく違うので感慨深くなります。靖国にせよ歴史認識にしても、竹島東シナ海海底資源の問題にしても、あくまでも日本に一〇〇パーセントを譲歩させねば気がすまないというわけでしょう。あれは外交ではありませんね。国家イデオロギーや国益エゴイズムを相手に強制し、まさに「うちしてやまん」というわけです。 まだ幕末のアメリカやロシアのほうが外交として成り立っている。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.52〜56)


     近代市民社会形成に貢献

    [山内] 川路聖謨のような良質な官僚が活動できる基盤をつくったのは、阿部正弘の最大の功績といってよいでしょうね。 これは幕末の政治史にとどまらず、明治の政治外交や文化の発展にも大きな影響を与えています。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.59)


    [中村] そもそも江戸時代の武士は、金勘定などするのは卑しいことと考えてきたんです和算の伝統はありましたが、あれは書道やお花といった習い事の一種にすぎませんでした。 以前、『その名は町野主水』(角川文庫)という小説に取り上げた会津藩士・町野主水(まちのもんど)の孫にあたる、当時百歳になる老婦人に聞いた話なんですが……、

    [山内] 町野主水は、たしか張作霖(ちょうさくりん)の顧問だった町野武馬(まちのたけま)(一八七五−一九六八)の父ですね。

    [中村] 大正のころ、彼女が学校で級長に選ばれ、クラス費を集めて計算していると、老いたる町野主水が「武家の娘が金勘定とは何事だ! そんなことをさせる学校などやめてしまえ」と怒ったというんですよ(笑)。 そんな空気が幕末のころはさらに濃かったわけですが、その一方で、前に述べた小野友五郎のような数学に強い理系官僚が出てくる。
     たとえば、海軍伝習所に学び、後に幕府海軍を率いる榎本武揚は、明治になってからシベリアを横断するのですが、きちんとお金を管理していて、旅費を精算したときも残金と清算書の数字が数コペイカしか違わなかった。小栗上野介が目付として訪米使節団に参加したときも、経費を精算すると残金と数セントしか違っていなかった。金勘定ができるだけでなく、お金にきれいなんですね。 そういう官僚が幕末に出てきたというのが面白い。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.62)


    [中村] 私が『落花は枝に還らずとも』(中央公論新社)で描いた秋月悌次郎も、昌平坂学問所出身で会津藩の公用方になった人物です。 幕末に藩官僚として活躍しますが、明治になってからは教育畑で登用されています。
     明治という時代は、森鴎外(もりおうがい)のいう「普請中」で、学問が物理とか土木といった実学に頼りすぎ、新しいモラルを創造する余裕のなかったところがあります。 秋月は明治二十三年(一八九〇)になってから、熊本第五高等学校の前身である第五高等中学校倫理の教授として招聘されるのですが、いわば尊王の巣窟みたいな地方ですが、普請中の新時代に欠落していたモラルを学生たちに教えられる人材が、むしろ佐幕派にいたというのは面白いところですね。

    [山内] 昌平坂学問所の改革、蕃書調所や長崎海軍伝習所の設置などは、近代日本の建設につながっていたという意味で、阿部正弘が残した大きな遺産として高く評価すべきだと最後にもう一回強調してもいいでしょう。
    (《黒船以降 第一章 徳川官僚の遺産》P.67〜68)


     難治の地・水戸藩小史

    [山内] 歴史を描く場合、これは学者も小説家も同じではないかと思いますが、その人物なり地域を好きになれないとうまく対象に没入できないところがある。 好きな人物や土地は書けるのですが、嫌いなものは書けない。どうも私も中村さんも、幕末の水戸藩には良いイメージをもっていない(笑)
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.70)


    [山内] 大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)によれば、水戸家は江戸上(かみ)屋敷の立地条件でも差別されたらしい。尾張は市谷、紀州は赤坂でどちらもしっかりした岩盤の上にあった。それなのに水戸藩邸は、川の水路を埋め立てた地面で元々は谷間地(たにあいち)だったから、小石川の名がついた安政の有名な大地震でも、小石川の藩邸では藤田東湖が圧死するなどの大被害を出したのに、尾張と紀伊の屋敷には被害が出なかったのです。芳賀登氏の『近代水戸学研究史』(教育出版センター)によると、幕末の水戸藩は表高三十五万石であっても、実高はその一六・五パーセントの五万七千七百三十石だったというのです。 いくらなんでもという気にもなりますし、この真偽は知る由もないのですが、隣接する諸藩よりも貧乏だったというのだけは確かなようですね。

    [中村] しかし、三十五万石となれば、三十五万石にふさわしい容儀を整えなければならない。 大名行列の人数から他の大名とのお中元やお歳暮のやりとりまで、それだけ出費がかさむことになるわけです。

    [山内] とにかく貧しい。 明治の初年になっても茨城県は農業人口が九〇パーセント以上でありながら、生産力は全国三十九位だというのですから、水戸藩最後の藩主で斉昭の子、徳川昭武(とくがわあきたけ)(一八五三−一九一〇)が北海道天塩の開拓に向かうときでも、茶器什器を処分しただけでは足らず、城門の銅の樋まで外して売り払ういじましさだったようです。

    [中村] 当然、藩政は悪化し、綱條は徳川本家から八万両を借り入れています。 年に一度一万両ずつ返済するという条件ですが、その余裕もないので、ついに家臣から借り上げを行います。 石高に応じて、たとえば身分の高い者は年収の十分の一、低い者は二十分の一ずつ、藩にお金を貸すわけですが、藩から返済されることはまずなく、実質的な給与の削減です。 こうして、水戸藩士はどんどん困窮に陥っていったと、瀬谷義彦さんや鈴木映一さんが研究しています。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.75〜76)


    [山内] いちばんぴったりなのは、斉昭の「烈公」だなあ(笑)。  斉昭の子で最後の将軍となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)がもし水戸家を継いでいたら、何と贈り名されていたでしょうね。逃げ足が速くて無責任だから「遁公(とんこう)」とか(笑)

    [中村] 豚肉が好きだったので、「豚公(とんこう)」かもしれません(笑)。 そういえば、光圀も肉食を好んだそうですが、そのあたりも特異な藩ですよね。  それはともかく、「哀公」が若くして亡くなったため、先代治紀の三男で三十歳まで部屋住みだった斉昭が九代目藩主となり、幕末の政治をかき回すわけですね。  ついでにいいますと、斉昭の後を継いだ慶篤は、「順公」です。

    [山内] なるほど、何もせずに素直だった分だけ「順公」ですが(笑)。 この人も、幕末の混乱を乗り切れる有能者とはいいがたい。 斉昭も兄弟の慶喜と比べて慶篤の不器用には絶望するほどだった。 水戸の凄惨な内部抗争やリンチを止められなかった責任は大きい。

    [中村] なんでも父にいわれたとおりに従うから「順公」だったわけですが、そのために、斉昭死後の水戸の内紛がより激化したことはいなめないでしょうね。
     水戸は「難治の地」だといいましたが、やはり、最初から財政が健全でなく、藩全体が貧しかったことが大きいと思います『徳川十五代史』を書いた内藤耻叟(ないとうちそう)は、「役人になれば鰻(うなぎ)が食えるが、なれなければ鰻の串を削らなければならない」、これが水戸藩士の実態だと書いています。 藩庁で御役につけば、まずまずの収入はあるけれども、無役の藩士は、代々の扶持(ふち)だけでは食べていけないというわけです。
     名著『武家の女性』(岩波文庫)を書いた山川菊栄(やまかわきくえ)は水戸の藩儒の孫ですが、曾祖母が年始にくるときには自分で作った雑巾竹箸土産に持ってくると書いています。 そんなものしか贈れないくらい貧しいというわけです。
     それどころか、後に天狗党の首領となる武田耕雲斎(たけだこううんさい)(一八〇三−六五)は、三百石取りの大番頭(おおばんがしら)格である名家の当主ですが、若党一人、下男一人、下女一人しか雇えなかったそうです。 客間に置いてある座卓の脚が一本折れていて危ないので、客が来ると下に碁盤を入れて支えにしたという話が残っています。
     人間、貧しいとどうしても観念的になるでしょう。 一方で「鰻を食える」身分の門閥は、「串を削る」側になりたくないから保守的になって既得権益を守ることに汲々とし、貧しい身分の下級武家との角逐も起こりやすい。 水戸藩の宿痾(しゅくあ)といいますか、この上下の対立水戸学がからんできて収拾のつかない状況になるのが、幕末の水戸じゃないでしょうか
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.78〜80)


     徳川光圀と『大日本史』の論理

    [中村] 俗に、「水戸の三ぽい」といういい方があります。 要するに「怒りっぽい、理屈っぽい、ひがみっぽい」と、ほかならぬ茨城県の人がよくいってます(笑)。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.83)


    [中村] 『大日本史』の大きな特徴として、三つの点が挙げられています。 ひとつは、伝説の神功(じんぐう)皇后を実在の人物とみなして「皇妃伝」に入れたこと。 それから、壬申の乱(六七二年)で大海女(おおあま)皇子に敗れて自殺した大友皇子は即位したことになっている。

    [山内] たしかに大友皇子は、天智天皇亡き後の近江朝廷の中心的人物だったことはまちがいない。 だからといって、実際に即位したかどうかを検証せずに、勝手に弘文天皇という諡号(しごう)をつくっている。 こんな諡号をつくる権限など光圀たちにあるのかなあ。 また、北朝五天皇「本紀」に入れているのも水戸学の思想からすればちょっと奇妙だ。 天皇を一人でも多くしたほうが尊王だという、これまたおかしな考え方ですが、何より重大なのは、南北朝のうち南朝を正統だと認めたことでしょう。

    [山内] そうでしょうね。それが明治の「南北朝正閏(せいじゅん)論」につながっていく

    [中村] 北朝を認めないということは、南朝を北朝に吸収させた足利幕府を否定することになってしまう。 それが、すべての武家政権を否定する論理につながってゆくわけです
     水戸学といっても、初期と後期とでは少し違うような気もします。光圀のころは、諸国から名のある学者を招聘していた。 ところが藩財政が悪化してきると、外部から招く資金もないので藩内の学者にやらせた。 たとえば藤田幽谷(ふじたゆうこく)は「古着屋のせがれ」と誹謗されていましたが、いわば買官で藩主のブレーンになった人です。 そういう事情もあって、どんどんおかしくなっていったような気もします。 なにしろ光圀以来、明治になるまで編纂作業が続いてきて、担当者が代わるごとに矛盾も出ていますし、全体的には歴史を偽っているところが多く、いわゆる近代史学の視点からは認められない部分が多い。
     ただし、『大日本史』および、その長年にわたる編纂作業が生み出した水戸学なるものが、幕末から明治、あるいは昭和二十年に至るまで大きな影響を残したことは否めません
     たとえば、「国体」という言葉です。 終戦の際にとくに軍部が「国体護持」にこだわるわけですが、この言葉を最初に使ったのは会沢正志斎『新論』でしょう。 すなわち、日本の国柄や統治システムを指す言葉として「国体」を使うとき、どうしても水戸学の思想を無意識に背負っている議論になってしまうわけです。 要するに、天皇こそが国家の中心であるという観念ですね。 会沢の場合、山内さんが前章でいわれたとおり、それなりに現実的な世界認識があるだけに、ここから天皇が世界を指導すべきであるという極論さえ導き出されかねない
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.87〜89)


    [山内] なるほど。 結局。水戸学あるいは『大日本史』の問題は、歴史とは何か、どう捉えるのか、にいきつくのですね。 歴史とは、現実の果てしない積み重ねをどう解釈するかであって、人間がひとつの理念で均質に作り上げるものではないのです。 ところが『大日本史』は、神武天皇以来の日本の歴史は、尊王斥覇大義名分論で語れるはずだ、というドクサ(思い込み)のもとに編纂されている

    [中村] 頭でっかちなんですよね。理念が展開していくのが歴史だと決めつけているから、そこからはずれる要素が出てくると、歴史そのものを修正しようとする。 そのためには正気(せいき)が必要だ、と。 そこで観念的な精神の高揚が生まれ、天誅(てんちゅう)という名のテロリズムへ走ることにつながる。

    [山内] マルクス主義歴史学の予定調和性にも似ていますが、マルクス主義の場合には、社会経済という現実の物質的な基礎の上に成り立っています。 それに対して、水戸学は物質性を欠いたままに、現実を観念に合わせようとするのです
     徳川光圀は、自分の後継者に実兄の頼重(高松藩主)の子、綱篠(つなえだ)を迎えるでしょう。 そのかわりに、実子の頼常を兄の養子に送り出すのです。 兄の子と自分の子を交換したわけです。 これは、『史記』の列伝に出てくる伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)という孤竹(こちく)国の王子である兄弟のエピソードに触発されたものです。 父の死後、王位をどちらが継ぐか、二人とも互いに譲り合い、とうとう国を出て周に仕えます。 後に武王(いん)王朝を討伐しようとしたとき、 「殷の臣下である周が、主君を討つのは道徳に反する」と諌め、周が殷を滅ぼすと、「周の栗(ぞく)を食(は)まず」と山で蕨(わらび)ばかり食べて餓死したという切ない話です。
     この話は江戸時代には人口に膾炙(かいしゃ)していましたが、要するに光圀は、兄の頼重をさしおいて水戸徳川家を嗣いだ負い目があったので、伯夷・叔斉の故事に倣(なら)い、兄の子をわざわざ養子に迎えたというわけです。 それなりに光圀の誠実さは認めねばなりませんが、他の大名と比べて、どこか背伸びしているのです。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.91〜92)


     水戸烈公の藩政改革

    [中村] ともかく、そういう騒動を経て斉昭文政十二年(一八二九)に水戸藩主になり、藩内改革に着手します。 この改革は、後の天保の改革に影響を与えたともいわれていますが、まず第一は倹約です。雛祭りには三人官女などいらない、内裏雛だけにせよ、とか、娘にお琴お茶は習わせるな、裁縫だけ習わせればいい、とか、とにかく細かい話なんです(笑)。 当時、水戸に旅した人が農民の服装を見て乞食かと思ったというくらい、倹約を徹底させたようですね。
     そんな折り、イギリス捕鯨船が大津という浜に上陸する事件が起こります。 そこで、海防を固めねばということになった。 前章でも触れましたが、大砲を造らせる材料として、寺の鐘を供出させる。 いわば、天保年間に一足早い廃仏毀釈を行ったわけですね。 さらに水戸の東照宮には、仏と神をまつっていたのを、仏を排除して唯一神道に変えさせてしまった。

    [山内] 本地垂迹(すいじゃく)を否定しただけではない。 東照大権現の意味を否定したわけですね。

    [中村] 東照宮は徳川家康をまつる重要な施設ですから、それを勝手に宗旨変えさせるわけにはゆかず、幕府に睨まれる。 また、斉昭は天保十二年(一八四一)に藩校弘道館を開設します。 江戸時代の藩校は儒学、ことに朱子学を学ぶ場だったわけですが、諸藩の藩校に対して弘道館だけは、いちおう「神儒一致」といいつつ、孔子像をまつらない。孔子廟はありますが、ご本尊がないわけです。 弘道館自体、仮開校はしたけれど幕府に睨まれて、十数年、実質的に機能していません。
     幕府から見れば、斉昭の改革はそうとう極端なものだったのですね。

    [山内] そのために、斉昭は一時、隠棲を余儀なくされますね。

    [中村] そうです。弘化元年(一八四四)、突然、付家老(つけがろう)の中山備前守が幕府に呼び出されるわけです。

    [山内] ともかく江戸城中で付家老の中山信守を詰問したのが、ペリー来航直後に斉昭を海防参与に抜擢する阿部正弘というのが面白い。 怒られた直接の原因は、軍事演習として、鉄砲の揃え撃ちをやったことです。 この一件だけで、取りつぶしになってもおかしくない。 さらに、阿部は「御勝手向御六ヶ敷趣(おかってむきむずかしきおもむき)に候所(そうろうところ)、如何様に候哉(や)」、財政事情が苦しいそうですが、どうなのですか? と訊ねています。 さらに、蝦夷地開拓を望んでいられるということですが、なぜか、とも。

    [中村] ロシアの脅威を防ぐため、蝦夷地を開拓しようということで、それなりに目の付けどころがいいといいますか、評価に値する提案ではありますね。

    [山内] とはいえ、幕府としては、松前藩に委ねている領地に関心をもつことは、やはり公儀の施政を恐れぬ僭越というほかない。 斉昭の底知れぬ野望を疑っていたのでしょう
     さらに、浪人を抱えているのはどういうことか弘道館の土手はどのくらいの高さか、構内の造りはどうなっているのか。 とも訊ねています。 実は、第二の城軍事施設を造ろうとしているのではないか、無許可で塀や濠を直しただけで本多正純(ほんだまさずみ)や福島正則(ふくしままさのり)のように改易を命じられるのですから。 さらに、中村さんもいわれたように、寺院の破却を命じたのはなぜか、水戸の東照宮を唯一神道に改めたのはなぜか、と廃仏毀釈についても問いつめられています。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.97〜100)


     戊午の密勅から安政の大獄へ

    [山内] 井伊直弼の尊攘派に対する強権的な姿勢は、京都の幕府政治への干渉のリアクションでしょう。本来、国政関与をしていなかった朝廷があれだけ口を出したのは、徳川斉昭の責任が大きいですよ
     前章でもいいましたが、政治家には墓場までもっていく秘密というものがあります。保科正之や知恵伊豆こと松平信綱(まつだいらのぶつな)を小説にしようとして中村さんが困るのは、史料のないことですね。 あれは当人たちが処分してしまうからでしょう。 私の好きな大岡忠光(おおおかただみつ)(一七〇九−六〇)などは(笑)、側用人として仕えた将軍家重(いえしげ)のことを何も語っていない。 それがたしなみというものですよ。
     斉昭は、機密情報を朝廷に漏らしていく。 何でもペラペラ思いつきのまま話したどこかの元女性外相と似たところもある(笑)。 不謹慎のきわみですよ。 それだけで、政治家としては失格だと思います。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.103〜104)


    [中村] 幕閣から敬して遠ざけられて面白くないから、斉昭はますます京都工作に熱中するという悪循環ですね。 琵琶の後に、みずから打った刀を天皇に贈っています。

    [山内] 本当にやることが〔くさい〕のですよ(笑)。井伊直弼が、斉昭を水戸に永蟄居にした理由として、「幕府へ対して御後暗(うしろぐら)き事これあり」と述べているのは、実にうまいいい方ですね。 それだけ井伊を初めとする譜代大名が、斉昭のスタンド・プレーには腹に据えかねていたということでしょう。

    [中村] 斉昭が琵琶を贈った真意は、要するに大阪湾まで外国船が来るかもしれないから、京都、大阪方面の警備は水戸にやらせてほしいということでしょうけれど、朝廷としては、尊王家の水戸徳川家に警護してもらうのは喜ばしいことでしょうけれど、江戸幕府が開かれて以来、その任にあたってきたのは彦根藩です。 そのあたりから彦根の井伊家としては、水戸に面白からぬ感情を抱いたようですね。
     当時、彦根藩の軍装は「井伊の赤備え」といって、旗から甲冑(かっちゅう)まで武田軍学流の赤ですから。 一方で彦根藩の密偵は、水戸のことを「国賊」と呼んでいる(笑)。
     実際問題として井伊家には、われわれ溜間詰の譜代大名こそが幕政を担ってきたという自負があるでしょう。 我々の老中は、彼らより小藩の藩主が任命されていますから、われわれ老中などより格が高いという意識もあったはずです。 その譜代筆頭が井伊家ですから、御三家が幕政に容喙(ようかい)してくるのはけしからん、という思いは当然あったでしょうね。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.107〜108)


     井伊直弼と徳川斉昭

    [中村] 井伊直孝関ヶ原で先鋒を務めた直政のせがれですが、幕府が玉川上水を造ろうとしたとき、そこから敵が攻めてきたらどうする、といって反対し、保科正之にたしなめられています。 庶民のためという為政者としての発想ではなく、徳川家の大番頭(おおばんがしら)として主家をどうやって守るかで物事を判断する、という人物です。 井伊直弼もどこかこの直孝に似て、徳川家にとって敵か味方かで人を色分けする果断な面をもっています。
     さらに面白いのは、とこか水戸の徳川斉昭にも似ているのですね。 斉昭も三十歳まで長い部屋住み暮らしでした。 つまり直弼も斉昭も、若いころから御用部屋でさまざまな経験を積み、政治のノウハウ、交渉能力を身につけること無く、突然、中枢に抜擢されたわけです。

    [山内] ああ、そのとおりですね。殿様らしい鷹揚さがない。 良くいえば下情に通じている。 悪くいえば、世間ずれしている(笑)。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.109〜110)


    [中村] 井伊直弼は、わざと斉昭から離れて座ったといいますね。

    [内山] 不時登城の意味をうやむやにしてしまった。 これで水戸の老公への幻想が雲散霧消してしまったのです。井伊直弼には駆け引きの政治的センスはありますね
     もっとも、五時間も待たせたのは、疲れさせるたるというだけではなかったようです。 不時登城に、直弼以下、老中たちもその真意を測りかねて、鳩首会議をやった。 老中たちは、「おそらく将軍家継嗣問題か、条約のことで文句をつけに来たのだろう」と推測するのですが、井伊は、「あえて定めを破ったのだから、片々たる政治問題ではなく、将軍家に直接拝謁し、われわれ老職を罷免せよと言上するつもりではないか」といったようです。
     老中たちは、「であれば、もと斉昭らが拝謁を申し出ても、将軍家はご病気といって拒絶すべきだ」と主張しますが、井伊は、「いやいや、もしそういう儀であれば、御三方にはぜひ、上様にお引き合わせすべきである。 自分はその席には侍らず、もし、上様が御三方の意見を容れてわれわれを譴責されるとあらば、潔く職を辞するべきである」と強硬にいい募ります。 この調子で五時間、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしたらしいですね。
     結局、井伊の覚悟の線で閣議はまとまり、三人と会うことになるのですが、彼らが持ち出したのは継嗣と条約の二件で、井伊はことごとく論破してしまう。 その前後、井伊は慶喜とも会っていますが、このときは、相手がなにをいっても、「恐れ入り奉り候」でやり過した。 慶喜のような弁の立つ相手には、議論などせずに軽くいなすわけですな 政治の手法として学ぶべき点も多い(笑)。

    [中村] 斉昭に不時登城するように焚きつけたのは、どうも慶喜らしいですね。

    [内山] どうもそのようですね。 彦根藩あたりは、斉昭が将軍となり、慶喜を世子(せいし)にして幕政を親子で壟断(ろうだん)しようとしている、とまで疑っています。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.111〜112)


    [山内] さらに、川路聖謨岩瀬忠震ら、阿部正弘の改革で抜擢された優秀な官僚層が、新政権運営に携われば、穏やかな形で明治維新が実現していたかもしれないという気もします。 しかし、斉昭春嶽は最後の瞬間には当然ながら、徳川の藩屏たるスーパー・エリート意識を妙にだすから摩擦を起こし、やがて自由民権運動のような反政府運動民衆蜂起を招いていたはずです。 いずれにしても、その中心は薩長系の運動ということでしょう。
     斉昭は、斉彬の養女篤姫(あつひめ)が家定の夫人にあがったとき、関ヶ原の敵の家来の娘に将軍の実母はじめ旗本の娘たちが頭を下げるなど、春嶽に「廉恥もなき世態」だとこぼしている。慶喜に有利な大奥工作をするための嫁入りだったのに、この封建的秩序観は度しがたいのです。 また、春嶽も松山藩とともに神奈川・横浜あたりの警備を命じられたときに、露骨に不快の意を表し「有り難く」という決まり文句をつけなかったので問題となる。 家康次男の結城秀康を藩祖にもつ家門筆頭の越前藩は、松山藩とは家格がちがうというスーパー・エリート意識なのでしょう。 もっとも、松山藩も家康の異母弟の久松松平なのだから、この自負はやや見当違いでもある(笑)。 ですから、少なくとも斉昭がいては、実のある改革はできない(笑)。

    [中村] 実現したかどうかはともかく、川路にせよ、岩瀬にせよ、この継嗣問題で一橋派とみなされ罷免されてしまうでしょう。有能な官僚群が粛清されてしまったことは、その後を考えれば大きな損失でした。

    [山内] 井伊直弼は、たとえ彼らが一橋支持でなくても、いずれ切り捨てたかもしれません。 井伊は勅許なしの条約調印を断行したわけですが、それは幕府が決定した以上、朝廷が何をいおうが政策を断行すべしという保守的な政治哲学からきています。 彼は積極的開国派でもなんでもない。 むしろ、徳川大事、譜代大名主導を変えようとしない保守的体質の権化といってもよいのです。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.114〜115)


     天狗党の乱とテロリズムの思想

    [中村] その後、安政七年(一八六〇)三月三日に水戸の過激派浪士が井伊直弼を襲撃する桜田門外の変が起こり、一方、永蟄居を強制された徳川斉昭は、虚脱した状態のまま病死します。後を継いだ「順公」慶篤では藩経営のリーダーシップを取れず、水戸藩はタガが緩んだ状態のまま内部抗争を激化させ、ついには天狗党の争乱にいたるわけです
     天狗党元治元年(一八六四)、幕府に攘夷(横浜再鎖港)を迫るため、藤田東湖の四男・小四郎武田耕雲斎ら水戸藩内の激派が集まり、筑波山で挙兵します。 藩内各地で軍資金を強要し、拒否すると放火するなどして、多くの民が罹災しています。 一方、幕府の援軍を得た諸生党市川三左衛門らは、いったん天狗党と交戦して敗れると、水戸へ戻って天狗党の家族を処刑・投獄する。 本当に聞くに堪えない凄惨なエピソードがたくさん残っています。

    [山内] あれはひどいですよね。 首領の武田耕雲斎の家族だけでも、幼児にいたるまで血の粛清を受けたはずです。 妻四十歳、息子二人それぞれ十歳と三歳、男系それぞれ十五歳と十三歳と十歳は斬罪になる。 女系十一歳、息子の妻四十三歳、武田の側室十八歳は永牢(えいろう)。 いちばんむごいのは、首切役もさすがにためらった三歳の乳呑児を別人がむんずと体をつかんで短刀で刺殺したという話です。
     大佛次郎は、革命のモップでも、世界中でこれだけ残酷な復讐には出ていないといっています。 しかも、天狗党諸生党との内戦は、戊辰戦争が終わった後も続くのがむごい
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.116〜117)


    [山内] 福地桜痴は本当に斉昭をうまく評していますよ。 福地は、西南戦争で薩摩や肥後の士族に担がれて挙兵し、ついに城山に斃(たお)れた西郷隆盛を、「実にその跡を烈公と同じくせる」といっています。 そして、「烈公は政治家の見識ありて政治家の智略に乏しく、ためにその方法の宜(よろしき)を得ずして、一世を轗軻(かんか)(不遇)の間に送り、幕府のためには功罪相半ばするの譏(そしり)を受(うく)るに至れり」、さらに「ああ烈公、烈公、烈公は明治維新の先駆たる大功臣なりと今日に賞賛せらるること、余はその志にあらざるを信ずるなり」、すなわち、幕府を倒した功臣と賞賛されることは、斉昭にとっても不本意なのではないか、と推察するのですが、これは斉昭への痛烈な皮肉ですな。幕臣にとってやり場のない怒りやしっぺがえしがこの表現にさりげなく込められていると見るべきでしょうね。

    [中村] 明治維新が革命だとすると、革命というものは、それを起した人間の意図や目的を越えてエスカレートしがちです。水戸が壊して薩長が新国家を建設したという役割分担論で語るむきもあります。
     結果としてはたしかにそうなのだけれど、一方で戦前、水戸藩や水戸学が必要以上に高く評価されたがゆえの弊害があったということも事実です。 実際、水戸学を突き詰めていけば、最後はテロリズムの肯定につながっていきますから

    [山内] そのとおりです。テロリズムが幕府を滅ぼし、水戸を滅ぼしたのですね
     それでいながら、明治十六年ころの茨城県の巡査五百名や警部以上四十五名の多くは県士族しかも天狗党の子孫が多かったらしい。テロ暗殺を実行した者や、鼓舞した者、あるいはその係累たちが警察に入ったことになる。 諸生党の子弟たちは人生も就職もさぞ大変だったでしょうね。 徳川斉昭の政治責任の大きさはこのあたりにまで及ぶのです。
    (《黒船以降 第二章 徳川斉昭と水戸学−−その歴史的役割は何だったのか》P.120〜121)


     長州藩の好戦的体質

    [中村] この章では薩摩と長州、明治新政府をリードした二藩を取り上げます。 まず、長州からいきましょうか。
     幕末に入る前にちょっと時代をさかのぼり、長州、あるいは毛利家の歴史をおさらいしてみますと、非常に好戦的な体質が目につきます。 この体質は、東北や関東の諸藩にはあまり見られないものです。
     もともと長州藩は、中国地方を統一した毛利元就(もうりもとなり)(一四九七−一五七一)を祖としていて、いわば戦国時代の勝ち組です。 さらにさかのぼれば縄文・弥生時代……

    [山内] それはまた、壮大なスケールですね(笑)。

    [中村] 縄文時代の遺骨に、戦いで命を落とした例はあまりないでしょう。 戦争のない平和な時代が数千年続き、約二千年前に大陸から渡ってきた長頭・長身のひとびとによって稲作文化が流入し、弥生時代が始まります。 農業が本格化し、その収穫を倉庫に備蓄するようになり、集積された冨をめぐる争奪戦が始まる。 鏃(やじり)が打ち込まれていたり刀傷があったりと、明らかに戦争で死んだと思われる遺骨の出土例が増えてくるわけです。
     ちょっと飛躍するようですが、幕末の長州で活躍した吉田松陰(よしだしょういん)や高杉晋作(たかすぎしんさく)は顔が長いでしょう。

    [山内] 山県有朋(やまがたありとも)もおそろしく顔が長い。

    [中村] そうです。いわば、弥生時代以来の好戦的な体質を歴史的に引きずっているような印象があります。 あの地域は、古代においては大陸からの文化の窓口にあたっていたでしょうし。 そして、その好戦的性格は、幕末の長州の行動、攘夷派志士による天誅(てんちゅう)や外国人襲撃、禁門の変だけではなく、それ以前の、江戸時代を通じての長州藩のあり方にも現われていると思います。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.124〜125)


    [中村] そうですね。 関ヶ原の合戦で、西軍の石田三成(いしだみつなり)は総大将として毛利輝元を担ぎ出すのですが、そのころの毛利は百十二万石の大大名だった。 ところが、西軍が敗北したため、防長二州三十六万九千石に押し込められてしまう。 しかも関ヶ原の戦いは九月で、まだ稲の刈り入れが終わっていない。 百十二万石の収入で家臣団を賄(まかな)ってきたのに、その年から予定していた七十五万一千石ぶんが入らないことになってしまったわけです。 結局、借金で賄うしかなく、返済に三年かかっています。
     自然、年貢の取り立ても厳しくなり、それに対して頻繁に百姓一揆が起こった。 何かというと千人単位で萩城下に押し掛け、デモンストレーションをやる。 毛利家側は、いったん要求を受け入れて解決し、数年後に「あれはなかったことにする」と撤回して首謀者を斬首したりするのですが、ともかく本家と支藩、武家と農民との間にずっと角逐か続いているわけです。
     幕末、高杉晋作(たかすぎしんさく)が組織した奇兵隊(きへいたい)は、武士以外の農民や町民、僧侶などに武装させた軍事集団ですが、権威を権威とも思わず、ためらわずに突っかかっていく体質がずっと続いていて、そういう風土のなかで生まれたのだな、と痛感します。
     一方の薩摩藩七十七万石はといいますと、比較的その手の騒動が少ない。 薩摩島津家は家臣団の統制が厳しく、たとえば鹿児島城下では人口の七割が士分で、それ以外の地域は外城士(とじょうし)が仕切っていて一揆の起こる余地がない。
     明治自体には薩長藩閥と並び称される二藩ですが、あらためて比較検討しますと、かなり異質な風土であると痛感します。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.127〜128)


    [山内] 関ヶ原の後、主将を務めた秀元は長府藩に封ぜられます。 そして、吉川広家は、出雲十四万石から岩国三万石に減封されてしまいました。 秀元の長府藩は、吉川とは違った意味で毛利本家から当初猜疑の目で見られることになりましたね。 また、マキャヴェリストの吉川広家にしてみれば、毛利家の存続に功労があるのは自分だという思いが消えない。 しかし、本藩はそう考えなかった。自分はもっと優遇されてもいいのに、岩国は独立した正式の藩とは認められない口惜しさを隠そうともしない。 尾張や紀州と違って石高も少ない水戸家の徳川宗家に対する遺恨のようなものですね。

    [中村] そうです。岩国藩が、正式な藩として認められたのは、明治元年になってからなんですね。

    [山内] 維新後も最初は子爵でなく男爵にとどまる。大名で男爵は珍しい。 中村さんが『遊撃隊始末記』で書かれた反逆者、林昌之助請西(じょうざい)藩など数が少ない。 城を造ってもすぐに破却させられ、将軍家へのお目見えも他家とは同じでない。 参勤交代の行列が、他藩の城の前を通るときは槍を低くして礼をとるのですが、岩国藩の陣屋前を通っても、侮って槍を高く掲げたままでいく。 悔しいものだから陣屋前に木を植えて、槍を低くしないと通れないようにしたらしい(笑)。 そのくらい本藩の仕打ちは、屈辱的だったのですね。
     毛利本家にしてみれば、広家が勝手に東軍に通じ、余計な策を弄したために関ヶ原で敗れ、領地を失ったという怨念がある。 この経緯があるものだから、両藩の関係はぎくしゃくしながら幕末まで来たというわけです。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.131〜132)


     瀬戸内海交易で資本を蓄積

    [中村] ただ、長州が幕末の権力闘争に勝ち抜いた大きな一因には、会津藩などと違って海に面していたことがあるでしょうね。 たしかに関ヶ原の敗北で領地は縮小されたけれど、瀬戸内海に面した部分は確保できました

    [山内] 港もさることながら、米以外に塩田収入が期待できますからね。

    [中村] 江戸時代初期は、大坂や京で売りさばかれる米は、北国回りでまず敦賀(つるが)に集められ、琵琶湖を横断して淀川の水運で運ばれてくるわけです。 しかし、次第に西回りの航路が発達して、豊後水道下関海峡をとおって瀬戸内海を横断して大坂に運ばれるようになった。 長州は、その中継地点の一つになったわけです。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.134)


    [山内] 宝暦検地では、長州藩は支藩や岩国領を合わせると九十万石くらいになったのでしょう。 この結果をもとに撫育方はつくられたようですね。

    [中村] そうです。 農業生産のあがりだけではなく、いわば町人資本を使い、商品経済を活発化させたのですね。 さらに儲けた銀を貸し付けて利子をとるなど、いわば銀本位制金融を発達させた。 また、越荷方を置き、港に藩で倉庫をつくり、集めた商品を預かって値段が高くなるのを見計らって売り、その差益を儲けた。
     この宝暦の改革によって流通経済のなかで軍資金を蓄えたことが、後の幕末における長州の活動につながっていくように思います

    [山内] 撫育方の収益を通常会計に組み入れず、特別会計として手をつけずに蓄えていったことが大きかったと思います。 儲かったのだから家臣の給与をはずめとかボーナスをよこせといった藩論も当然出てくる。 しかし重就は家臣には俸禄を薄くし、有事に備えて金を蓄積していた。
     重就は六代・宗広が嗣子を残さず死去したので、末期養子長府から本家に入った人です。 それだけに、収益を家臣に配分せず蓄えるやり方に、生え抜きの重臣の間では批判もあったようですが、結果はよかったといえます。 しかし隠居後の重就は、三田尻(防府)に広壮な御殿を作り、耐乏生活を強いた家臣団から批判されます。すごいのは、その重就が亡くなった後、御殿が解体されてしまったことです。 こうした構造改革の能力は、長州の場合に際立っています。 水戸藩ではこうはいかない(笑)。
     上杉鷹山(うえすぎようざん)の先例もあったのでしょうが、米以外の商品に着目したことも大きかったでしょうね。 塩田だけでなく、蝋燭和紙などの名産品を開発しました。 長州の紙は、なかなかの上物ですよね。

    [中村] 米、紙、塩を「防長三白(さんぱく)」と呼んだくらいです。

    [山内] サトウキビを栽培して、砂糖を売り出そうとしたのでしょう。

    [中村] なかなか上質なものを作っていたらしいですね。 もう少し明治維新が遅れていれば、かなりの名産品になったでしょう。

    [山内] それに小郡(おごおり)・宇部(うべ)では石炭もとれて、製塩の燃料に使われたし、藩外にも移出されていた。 幕府は何ゆえにこれだけ豊かな地域に毛利を残したのでしょう。 吉川広家をだました寝覚めがよくなかったのでしょうかね(笑)。距離と情報の差を利用して儲けるのが資本主義だとすれば、その感覚に早くから通じていたのが長州藩だったということでしょうね

    [中村] 立地的に、下関海峡の向こうは九州です。

    [山内] さらに、玄海灘にも面しています。

    [中村] 朝鮮などと密貿易もやっていたみたいですね。

    [山内] 朝鮮通信使もオランダの長崎商館長も、長州を通って江戸にいきました。

    [中村] 坂本龍馬の創設した亀山社中かが日本で初めての株式会社であるといわれていますが、私は長州藩が下関に作った物産会所のほうが早いと思います。 モノの移動によって収益を得るという意味では、亀山社中より実績をあげていますし。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.135〜137)


     吉田松陰の影響力

    [中村] しかし、長井にとって不幸だったのは、航海遠略策が採用された文久元年(一八六一)の翌年に薩摩藩国父の島津久光(しまづひさみつ)が公武合体のためと唱えて出兵上京し、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)とともに一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職任命などを要求したことから、あたかも薩摩が国政のイニシアティブをとったかのような雰囲気ができあがることです。 その薩摩が生麦でイギリス人リチャードソンほかを殺傷し、つづいて外国人襲撃事件が頻発する。そんななか、長井の策や長州は影が薄くなってしまうんですね。 で、国許では久坂玄瑞(くさかげんずい)らが尊皇攘夷を唱えて騒ぎ出すわけです
     どうも関ヶ原以来、いや弥生時代以来でしょうか(笑)、長州人のもう一つの側面である好戦的な体質が、尊王攘夷論に引きつけられて噴出してきたような気がします。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.140〜141)


     高杉晋作、俗論党との内戦を制す

    [山内] 馬関戦争のとき、休戦交渉に当たったのが高杉晋作ですが、そのときの通訳を務めたのが伊藤たちですよね。 英国側には日本通のアーネスト・サトウがいました。
     その交渉の場で、英国側はどうも、長門の彦島(ひこしま)の租借を認めよ、と迫ったといわれています。戦争に負けた以上、アヘン戦争でもそうだったように、領土を勝者に割譲するのは当然、あるいは賠償支払いまで土地を担保占領するのは当たり前だ、という論理ですね。 第一次大戦後にフランスが賠償支払いを拒否したドイツのルール地方を担保占領(一九二三年)した論理にもつながる。 英国は、エジプト、インド、シンガポール、香港と海軍の根拠地をつくってきた触手を、日本の彦島にも伸ばそうとしたのでしょう。伊藤博文は、彦島が九竜島のような運命に陥っていたかもしれないと回顧しています。
     英国が租借に拘泥しなかったのは、フランス公使ロッシュの反対やアメリカの牽制があったからともいわれますが、はっきりしない

    [中村] なるほど、そうですか。

    [山内] 首席家老宍戸(ししど)の子らしい名を僭称(せんしょう)した高杉は、「長州が領土を割譲する条約を結ぶならば、英国は長州などの藩を一つの国と認めたことになる。 そうなれば、今後英国は日本の三百諸侯の国家を相手にいちいち個別に条約を結ぶつもりなのか」といい出して、領土の租借には応じられないと切り返したといわれます。 事実関係はいま詳しく確認できないのですが、これはすごい開き直りではあるものの、国際法的にはまちがってはいない。 英国とインドの関係がそうなのです。 当時の英国政府は、各藩主と個別に条約を結んでいます。
     ある意味、長州藩というのは、事実上の(デファクト)主権独立国家の政権なのです。 だからこそ、中央政府である江戸幕府と対立している。 いまでいえば、七つの首長国の連合体であるアラブ首長国連邦みたいなものです。 日本には、湾岸アラブの首長以上に、二百七十人以上の首長がいる。 これといちいち条約を結べるのかという開き直りは、それなりに迫力があります。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.147〜148)


    [中村] 高杉らは、藩庁から軍資金を千両単位で引き出しては、その日のうちに芸者を総揚げして使ったりしているでしょう(笑)。会津藩だったら公金横領で切腹ものです。

    [山内] 長州の藩財政の豊かさということでしょう。 高い生産力(実質九十万石)や物産・貿易収入などの特別会計の蓄積がありましたからね。遊興に消費しても金が回れば天下を豊かにするくらいの開き直りもあったかもしれない。 高杉や伊藤や井上というのは、破格の男たちですから(笑)。

    [中村] 文久年間、禁門の変で長州が追い落とされる以前、京都で長州藩士がすごい人気だったのは、やはり芸者遊びで金を落したからでしょうね。

    [山内] そうそう、変後でも妙に人気がある。 京童の壁書に「いとしいねえ 公卿や長州の冤罪(えんざい)」というのがある(大佛次郎『天皇の世紀』)。 これが会津守護職だと「はりつけ野郎」となる。 正義浪士の「当時ひまだよ」も面白いが、傑作なのは「あやしいよ」薩摩の応接ですよ(笑)。 これはなかなかよくできている。

    [中村] いちばんもてなかったのが、会津藩士だったんです桂小五郎など、芸者で後に夫人となる幾松(いくまつ)にかくまってもらった話が有名ですが、会津藩士が女性にかくまってもらった話は聞いたことがない。 「会津藩士と寝てみて、朝起きたらば、目くそ、鼻くそ、垢だらけ」という意味の歌があるくらいです(笑)。 会津は海に面していないから、長州のように交易で資本を蓄積できなかった。 だから藩士たちが公金で豪遊する余裕はなかったんですね。 京都は物価が高いので、京都詰めの藩士たちの俸給をわずか二人扶持(ぶち)上げようとしただけで、国許では大反対です。
     後に長州は大村益次郎の指導で洋式の軍制を導入し、第二次征長で幕府軍を追い払い、戊辰戦争を勝ち抜くわけですが、これもやはり撫育方が積み立ててきた資金があったからでしょう。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.151〜152)


     モンゴル型の薩摩、オスマントルコ型の長州

    [山内] 尊王の旗を掲げて、藩主の黒印を捺した軍令状を持った軍隊が、天皇の御座所のある御所をためらわずに砲撃した。 このあたりに長州の狂気ぶりがあるわけですね。 今日びのテロリストも顔負けの行為をやってのけたわけです。 それでも、久坂入江九一(いりえくいち)は、吉田松陰の教えに忠実な若者だっただけに、実際に禁裏に自分たちの銃丸が落ちているのを見て愕然としたでしょう。
     このあたり、最年長の五十二歳、真木和泉などは割り切っているのがすごい。形は足利尊氏でも、心が楠木正成ならよいというのです(笑)。天子を手に収めるのが作戦目的、目的のためには手段を選ばないというボリシェヴィキ顔負けの革命の論理ですよ。 四十八歳の来島から、東寺の塔か天王山で見物しておれ、といわれては久坂らも戦わざるをえなかったでしょうね。
     軍議が終わって帰る途中、久坂と入江は永別を覚悟したようです。 私は二人のシルエットが浮かぶこの光景がとても好きなのです。 路傍の木材に二人で腰をかけて、川の水で別杯をほとんど無言で交わしあいます。 久坂は蒼ざめた顔のまま一言も語らずに屯営に帰りました。 二十六歳の久坂と二十七歳の入江が、私たちより若いとはいえ当時でいえば老境に入った先輩にいい負かされて、勝算や確信のないいくさに入るのですからね。 これは本当にいたましい犠牲です。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.155〜156)


     人口の九割が武士

    [中村] 薩摩には一日兵児(ひしてへこ)というのがあって、一日田畑を耕し、翌日には戦(いくさ)に出ていくという意味ですが、要するに屯田兵ですね。 これが薩摩全土に土着しています。 ピラミッドの末端まで統制が行き渡るシステムになっているんですね。

    [山内] 表面は土佐一領具足(いちりょうぐそく)に似ていますが、階級差別が徹底していた土佐の下級家臣とちがって、鹿児島の権威や城下士といつもいがみあいをするわけではありませんね。

    [中村] それと薩摩の面白さは、キリシタンはもちろんですが、一向宗も禁止していることです。 戦国時代の加賀一向一揆を見てもわかるように、一向宗は領主の命令よりも教義を重んじる集団です。藩主に楯突くような宗派は絶対に許さないという姿勢なんですね

    [山内] そもそも薩摩藩は、寺というものに冷淡だったでしょう。 だから維新後、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたわけですね。 現在でも、鹿児島県には寺院が少ない。

    [中村] あっても神仏混淆で、神像を祀っている寺が多いです。
     鹿児島には「妙円寺さま詣(まい)り」という行事があり、九月になると、関ヶ原の苦難を忘れぬために若者たちが鎧甲をつけて、鹿児島から二十キロ離れた伊集院にある島津義弘の菩提寺にお参りする習わしが、今も続いています

    [山内] 「めえんじさあ」と発音するでしょう。 御一緒したときに近くのスーパーで買った「伊集院饅頭」は、素朴で本当に美味しかった(笑)。 これと、曽我兄弟仇討ちを称える「曽我どんの傘焼」(五月)と「赤穂義士伝輪読会」(十二月)を三大行事という向きもありますが、いかにも鹿児島らしい。 いつか伊集院界隈をめぐったときも、「チェスト教育改革!」という看板が目につきましたからね(笑)。

    [中村] 妙円寺は、今は徳重(とくしげ)神社になっていますが、入ってみると、お寺というよりも武道場ですね。 剣道の野試合が三組できるくらいの広場があって、相撲をとる土俵や、十一人並んで射られる弓道場もあります。 妙円寺詣りは毎年旧暦九月十四日、すなわち関ヶ原の前日に行われていましたが、今日では十月の第四日曜日と改められました。 武者装束の人々が「チェスト関ヶ原」とやっているわけです。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.162〜163)


    [中村] 薩摩人じたい、体が大きくて分厚いでしょう。 元長岡藩士の本富安四郎(ほんぶやすしろう)という人が、鹿児島は、気温が温暖で食べ物は豊富ないい土地だとほめていて、何かというと宴会を開き、牛や豚を潰して食べる。 人情に厚く、冠婚葬祭には人が寄り合い、異様に酒を飲む(笑)と記しています。
     ただ、人情に厚いというよりも、集まると相撲をとったり、綱引きをしたり体を鍛えるのが好きということなんですが、これは郷中(ごじゅ)制度の名残といっていいでしょうね。 城下を六つの郷に区切り、武家の子は幼いころからそれぞれの郷のなかで武芸を鍛錬するという薩摩独自の教育システムですが、明治二十年代になっても生活に根付いていたわけです。 さらに本富は、「薩摩に於ては、如何なる家にも、鉄砲と私学校帽子のなきはなし」ともいっています。 要するに西郷隆盛が城山で自刃した後も、私学校の制帽が各家に残っていたのですね。
     以前、鹿児島にご一緒したときも、西郷墓地の前の広場で子供たちが薬丸示顕流(やくまじげんりゅう)の稽古をしていたでしょう。 現在でも、そういう武張った空気があるのですね。 これは日本の歴史でいいますと……。

    [山内] 熊襲(くまそ)と隼人(はやと)を思い出しますね。

    [中村] 古代の隼人族は、大隅日向にいた種族で、後にその一部は大和朝廷にガードマンとして雇われるわけですが、台湾南部やインドネシアにいる褐色の人たちと同種だという学説があります。 あのあたりの人たちも、やはり体が大きくて分厚いんですね。いわゆる隼人の盾も、ニューギニア高地人の盾とまったく同じ模様です長州藩のルーツが弥生民族にあるとすれば、薩摩藩のルーツは大和時代の隼人にあり、という気がします。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.164〜166)


     奇兵隊の光と影
    [山内] もう一つ、中村さんがいま指摘されたように、この時代になると、幕府創立時以来の戦闘システムは、もはや時代遅れだったことが、二つの戦争で明らかにされたわけです。
     長州の場合は、奇兵隊力士隊といった、武士以外の庶民による戦闘部隊が結成され大村益次郎歩兵・騎兵・砲兵の結合した作戦を吸収して、幕末を勝ち抜く原動力となった
    。 慶応二年の第二次征長戦争で、長州藩が石見(いわみ)に入国し、浜田城を攻めるときなど、「防長士民一同」の看板を立てたのが象徴的ですね。薩摩の場合も、七割は武士とはいえ、そのほとんどは在地の外城士一日兵児でしょう
     いわば薩長両藩とも、武士階級だけが戦ったのではなく、主観的には藩の士民を挙げて戦ったという意識が強かったわけです。 この経験が、明治の国民皆兵につながっていったのではないでしょうか。 ナポレオンのフランス軍が強かったのは、当時のヨーロッパで唯一の国民軍だったからです。 国民皆兵は近代国民国家を成功させる根幹ですからね。

    [中村] そうなんですね。 ただ、物事には光と影があるわけで、たとえば奇兵隊をあまりに美化するのはいかがなものかと思います。 奇兵隊に入っていた三浦梧楼(みうらごろう)の回想録『観樹将軍回顧録』を読みますと、奇兵隊士の月俸は藩札で三十匁(もんめ)とされていたのに、幹部公務で山口へ出てくると、旅費として五百匁も支給する。 おかしいと思って調べたら、本来の月俸は六十匁だったとわかった、とあります。隊士たちの月俸の半分を幹部たちがピンハネして使っていたんですね。 そんな不正がしょっちゅうあったみたいですよ
     奇兵隊の末路も哀れなもので、戊辰戦争が終わった後の明治三年、五千人にふくれあがった奇兵隊のうち六割近くを解雇しています。 その扱いに怒った連中が千二百人あまり脱走して暴動を起こし、内戦状態に入ります。 一日だけで七万発の銃弾が使われたといいますから、函館戦争に匹敵する戦争だったんですね。
     近隣諸藩も協力して鎮圧し、首謀者八十四人が斬首、九人が切腹させられています。 さらに逃げ延びた連中が豊後水道近くの島々に住み着き、海賊となって瀬戸内海を荒らし回りました。 銃の扱いになれた連中が客船を狙って襲撃するのですから、明治四年までは瀬戸内海は危なくて航海できなかったといいます。

    [山内] そのあたり、薩摩と比べると、どうしても幕末の長州人には情が薄いのではと感じますね西郷大久保に、「畢竟(ひっきょう)、狡猾の長人」と述べたことがあります。井上聞多は斬られて瀕死の重傷を負ったときに手術してくれた命の恩人、所郁太郎(ところいくたろう)に全然礼を述べていないでしょう。 会ってもいないんじゃないのかな。

    [中村] 所郁太郎が麻酔なしで、傷口を畳針で五十針も縫ったから、痛くて恨みだけが残った(笑)。
    (《黒船以降 第三章 薩摩と長州−−明治維新の勝ち組》P.172〜174)


     安藤信正政権を再評価する

    [中村] 本章では、幕末を考える際のキーワードとして注目されつつある「一会桑(いっかいそう)」について論じ合いたいと思います。
     一会桑」とは、具体的には、井伊直弼(いいなおすけ)の安政の大獄で損なわれた、幕府と朝廷の融和−−公武合体策の一環として京都に設けられた「三職」のうち、将軍後見職である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、京都守護職の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)、これに京都所司代の桑名藩主・松平定敬(さだあき)を加えた、いわば、京都における佐幕派勢力のことを指します慶応三年(一八六七)十月十四日、慶喜が大政奉還に踏み切りましたが、朝廷から薩摩藩に対しては十三日のうちに、長州藩に対してはおなじ十四日のうちに「倒幕の密勅」が下されました。石井孝さんらの研究によってこれは偽勅(ぎちょく)だったと証明されていますが、このとき追討すべき相手として、徳川慶喜、松平容保、松平定敬が名指しされています。
     慶喜が将軍後見職に就任したのが文久二年(一八六二)、同年に松平容保が京都守護職となり、その弟の定敬が京都所司代になったのは元治元年(一八六四)、その間、文久三年に会津が薩摩と組んで攘夷派の公卿を排除した「八月十八日の政変」が起こり、翌年には禁門の変が発生しますが、将軍後見職を辞任して禁裏御守衛総督となった一橋慶喜の下、会津藩と薩摩藩の兵力が長州軍を撃退するわけです。
     いわば、長州、後に薩摩も加わった反幕府勢力は、幕府を倒すべく動いていたのではなく、この京都に居座る佐幕派勢力たる「一会桑」を敵としていたのではないか、という新しい視点を提示したのが、家近良樹さんが二〇〇二年に出された『孝明天皇と「一会桑」−−幕末・維新の新視点』(文春新書)です。 私は必ずしも、「一会桑」という足並みそろった政治勢力が存在したとは思わないのですが、検討するに値する重要なキーワードであることはまちがいない。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.178〜179)


    [山内] そうですね。 私は、「一会桑」という補助線を引くことで、幕末の複雑な政情でいくつかのテーマがくっきり浮かび上がってくると思います。
     たとえば、京都における幕府利益の代弁者にもかかわらず、一橋慶喜は、江戸の幕閣からすこぶる嫌われていた事実がある。 幕府権力内部でも、京都の「一会桑」と、江戸の老中や若年寄といった支配エリートとが対立していた構造が見えてきます。
     「一会桑」内部の対立も重要です。 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ東帰した後、慶喜は、会津や桑名にひどく冷淡なばかりか、結果として見捨てることになった。 すなわち、京都の佐幕派勢力の内部にも対立があったのですね。
     三番目に、私は長らく、薩長がどの時点から幕府打倒を掲げたのかを不思議に思っていました。 ペリー来航以後の未曾有の騒乱のなかで、最初から倒幕という意志をもっていたのか否かについて、疑問をもっていました。 「一会桑」という概念を導入すれば、長州や薩摩のターゲットは当初は幕府本体ではなく、京都の佐幕派勢力とくに会津藩であったことが明確になる。 さらに、戊辰戦争の後、なぜ会津だけが過酷な制裁を受けたのかも明らかになるわけです
     どうかんがえても、強大な幕藩体制の中心に聳(そび)える幕府の武力打倒を薩摩や長州が最初から考えていたというのは、非常に無理がある。 そうではなく、一橋家・会津藩・桑名藩の勢力を京都から排除し、みずからのヘゲモニーで新たな権力をつくろうとしてというほうが、はるかに合理的かつ現実的な理解というものでしょう。 「一会桑」ではなく、「幕会桑」という表現もあるようですが、「一」の一橋慶喜が十五代将軍に就任することで「一」は「幕」そのものを体現するように解釈され、西南雄藩対幕府という対立構造が最終的に完成したというあたりこそ、真実ではないかと思うのです。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.179〜180)


    [山内] かえって暴徒のほうが賞賛されるという逆説は、現在のイスラーム・テロリストの場合にも見られる。 当時はヒュースケン暗殺はじめ、多くの外国人が攘夷派を名乗る浪士に襲われる事件が相次いでいましたが、その風潮のなかでも、安藤の外交感覚や政治リアリズム、剛胆さを総合的に評価する雰囲気がなかったのは残念ですね。
     安藤信正で評価すべきは、桜田門外の変の事後処理ではないでしょうか。 井伊の彦根藩にとってみれば、主君を殺され首まで一時は取られた。 大変な恥辱です。 新選組ふうにいえば「士道不覚悟」ですよ。 一方、水戸藩も、襲撃に参加したのは脱藩浪士たちとはいえ、白昼襲ったわけですから、これほどひどいテロはない。
     幕府の定法に照らせば、まさに「喧嘩両成敗」であり、水戸と彦根、双方ともに改易になってもおかしくない。 しかし、そんなことになれば、双方の浪士が江戸市中で町方を巻き添えに壮絶な戦いを演じるかもしれない。 それを憂慮した安藤は、井伊直弼が桜田門外では死なず、翌日になって彦根藩邸で病死したことにして、事態を穏やかに処理したわけです。
     これは、バランスのとれた重要な判断だと思いますよ。
     京都では、攘夷派の連中が、佐幕派と見なした者を「天誅」と称して暗殺する事件が頻発していたでしょう。 しかし、江戸では起きていないのです。 唯一の騒ぎは、幕末も押し詰まった慶応三年(一八六七)に、薩摩の放った御用盗に対抗し、江戸の市中見回りを受けもっていた庄内藩ほかが、三田の薩摩藩邸を焼き討ちしたことくらいですかね。 それまでは江戸市中でテロは起こっていない。 治安維持と民心の安定について、安藤はじめ江戸の幕閣の統治能力をもう少し高く評価してもいいと思います。

    [中村] 安藤という人は信念の揺るがない人です。 彼は、磐城平藩主として戊辰戦争にも参加しています。 残念ながら磐城平は五万石の小藩で、坂下門外の変のあとは二万石に削られていました。結局敗れてしまうのですが、最後まで、譜代大名として筋を通したわけです

    [山内] このとき、養子の信勇(のぶたけ)は新政府側につきますね。 親子間で戦ったわけだ。保険をかけたのかもしれません。 維新後、子の信勇は子爵になっていますね。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.183〜184)


     火中の栗を拾った会津藩

    [中村] 松平春嶽という人は、ちょっと無責任なところがあって、京都にやってきても、何かあるとすぐ、勝手に越前に帰ってしまうでしょう。 春嶽がもう少し責任をもって働いていれば、「一会桑」ではなく、「一会越」が京の政治を指導してもおかしくなかった。

    [山内] しかし、ペリー来航当時、徳川斉昭を「大元帥」にせよとか、「総督」にして国家的危機に備えよなどと提言している。 斉昭が権力を握ったなら、かえって危機が深まったのではないですか(笑)。

    [中村] 春嶽は維新後も長生きして、回想録などを書きまくったので、なんとなく幕末をリードした重要人物のようにいわれていますけれどね。 当時の会津藩内では春嶽のことを、「春嶽と按摩のような名をつけて上を揉んだり下を揉んだり」と狂歌に託して彼の無定見さを揶揄しています。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.188)


    [中村] さかのぼれば、松平定信が老中として寛政の改革を行っているとき、彼がつねに心懸けていたのは「保科正之に倣(なら)うこと」だったそうです。その心は、松平定信と同じ越中守を受領(ずりょう)名にもつ桑名藩主・松平定敬にも伝わっていたのではないでしょうか
     もっとも、京都における存在感という意味では、歴然と差があります。 桑名藩は十一万石ですが、そのうち越後柏崎の飛び地領が六万石を占めています。 柏崎陣屋は少数で経営できるので、藩士の数は老人から少年まで合せても千人もいないんです。 で、京都に入った藩士の数は、鳥羽伏見に参加したのが百二十人ですから、その程度なんですね。

    [山内] 会津は京都に何人連れてきたのですか。

    [中村] 千人、連れてきています。

    [山内] 武力としては、桑名の十倍近い。

    [中村] そんなふうに、いったい何をやっていたのか存在感が薄い桑名ですが、戊辰戦争となると、とたんに勇名を馳せます。 日清戦争の平壌攻略の立て役者である立見尚文(たつみなおぶみ)(鑑三郎)が、天才的な戦術で新政府軍を悩ませます。 戊辰戦争当時、佐幕派における「強い者番付」というのがありまして、「一に桑名、二に佐川、三に衝鋒(しょうほう)隊」とされていた。佐川とは、会津藩の佐川官兵衛(さがわかんべえ)が率いた朱雀四番士中隊衝鋒隊今井信郎(いまいのぶお)ら京都見廻組の残党と旧幕臣たちから成るグループです。 長岡の戦線で、長州の時山直八(ときやまなおはち)を襲撃し、山形有朋を嘆かせたのは桑名隊でした。

    [山内] それにしても、戊辰戦争までは、桑名の動きが見えないのが不思議ですね。

    [中村] 松平定敬という人も、そんなに政治力があったとも思えません。 たとえば、会津側の一級史料である『七年史』、これは容保がずっと小姓格で付いていた北原雅長が書いたもので、全二巻の分厚い書ですが、この史料にも容保が定敬とどんなやりとりをしていたのか、出てこないのです。
     それともう一つ、「一会桑」の親玉である一橋慶喜ですが、そもそも一橋家は十万石格ではあっても、領地をもっていないでしょう。 家臣だって、数少ないわけです。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.193〜195)


     京都を「墳墓の地」として

    [山内] 牧野が彼らを統制しようとせず、怒って帰ってしまうのは、視線が京都でなく、江戸を向いているからです。 一方の松平容保は、家格としても老中にはなれない。貴種ですし、もともと鷹揚なのです。 京都守護職を引き受けた以上、孝明天皇に絶対的な忠誠心を発揮しますね。

    [中村] 京都を「墳墓の地」とする覚悟なんです。 そこが牧野忠恭とは違います。 実際、会津藩の本陣が置かれた東山黒谷の金戒光明寺に行きますと、あそこに葬られている会津藩士のほとんどは、変死なんです。 つまり、禁門の変で戦死した人たちのお墓が並んでいるわけです。 京は彼らにとって本当に「墳墓の地」になったんですよ。 今年(二〇〇五年)は七月十日に金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)で戦死者たちの第百回法要がおこなわれまして、私は記念講演をしてきました。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.199)


    [山内] 京都の政治工作は、大変な出費を強いたようですね。牧野忠恭松平春嶽が嫌気をさして帰りたがったのも財政事情があったのでしょうね公卿はすぐに金を要求する。 汚いのですよ。竹越三叉は、京都が政治の中心となるにおよんで、公卿は今までは和歌の添削で生計をなんとか営み、花合わせの札をつくり、直垂(ひたたれ)の下にみすぼらしい襤褸(らんる)の衣服を隠していたのに、諸侯が金品を贈るようになってから、その野心も増徴したものだ、と苦々しく語っています。
     会津藩の公用方で、公武合体派の中川宮と接触していた倉沢右兵衛など、月に三百両ばかり使わされていますね。 それで、中川宮も倉沢を気に入ったというのだけれど。

    [中村] その倉沢右兵衛も、中川宮の金使いの荒さに愛想を尽かし、途中で会津に帰ってしまって、それっきり京都には来なかったんですね(笑)。 とにかく、容保が京都守護職を引き受けてから、一年間で二十二万両が羽根の生えたように飛んでいったというのですから。

    [山内] それはえらいこっちゃ(笑)。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.199〜200)


    [中村] 国許でも、「京都に行った連中は、何のためにそんな大金を使っているんだ」ということになって、国家老の西郷頼母(さいごうたのも)が無断で京都へやって来て、やかましく監視しようとした。 それで容保は怒って「帰国して謹慎せよ」と命じる。 会津藩内の空気までぎくしゃくしてしまった。
     だから、会津藩は倹約を余儀なくされたわけです。 藩の外交を預かる公用人は、みなりをきちんとしていなければならないのに、会津藩だけは他が絹を着ていても木綿、白足袋は汚れが目立つから黒足袋。 国許の女性たちも、金銀の(かんざし)は禁じられ鉄製しか使えない。 江戸藩邸と国許との連絡に使う紙も、いちばん廉価な粗紙(あらがみ)に限られ、しかも枚数を使わずにすむよう、小さな文字で詰めて書け、とまで指示されていた、と家近良樹さんの発見した『稽徴録(けいちょうろく)』(思文閣出版)に記されています。 そこまで節約してもなお、事実上、藩財政は破綻していたんです。 幕府も一万両を特別に渡したり、前借金を渡したり、越後に飛び地領を与えたりしていますが……。

    [山内] 焼け石に水だったでしょうね。 吉宗のころに、老中を勤めた土岐頼稔(ときよりとし)(沼田藩三万五千石)は、みずから勤めた大阪城代や京都所司代の職は三万石くらいの高では到底勤まらず「艱困」であった、自分は「勉強」(やりくり)をしていたが、今後は役高をつけたらどうかと建白したので、両職ともに一万石の役高をもらうようになった、と『甲子夜話(かっしやわ)』(巻三十五の十四)に書かれています。 幕末は公卿タカリがもっとひどくなるから大変だったでしょう。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.200〜201)


    [中村] 最初に公用人の筆頭だった野村左兵衛などは、国許と京都の板挟みで、ストレスで早く亡くなっているくらいです。 会津藩の若松城下(会津若松市)では遊郭が禁止されていましたから、遊びたくても遊べなかったのかもしれませんが(笑)。

    [山内] そのあたり、長州の連中の図太さとはかなり様子が違いますね。 会津藩士が、島原あたりの色街で、公金を使ってどんちゃん騒ぎをするとは空想的にも考えられない。

    [中村] 色街で女色に溺れた若い藩士が帰国させられたという記録が一つだけありますが、別に公金で遊んだわけではなさそうですね。

    [山内] 長州の臆面のなさ薩摩の野放図新選組の図太さとは違うのですね(笑)。

    [中村] 総じて会津藩士は生真面目ですね。 そもそも藩主の容保がそうでしょう。 彼が京都守護職を任命されたとき、孝明天皇が「公武合体というのであれば、朝廷からも誰か京都守護職を選び、容保と二人で任に当たってはどうか」といい出し、その一人として島津久光の名を挙げました。
     ところが当時、久光は無官で、ただの島津三郎です。 その後ほどなくして少将に任命されますが、少将からのちに中将の官位に昇っている松平容保と同列に並べるのはとんでもない、と幕府側は反対します。 会津藩士たちも激怒する。 ただ一人、容保だけが、「勅命によって島津三郎が任じられるのであれば、自分と同職で一向にかまわない」といっているのです。

    [山内] 天皇の意思であれば、自分は受けるのみだというわけですね。

    [中村] ただ、人間としては純粋であっても、政治家としてはいかがなものかと思われるのは、たとえば側近から「攘夷派はいろいろと策を用いているのだから、こちらもそれなりに策を使わなければならない」と進言されたとき、容保は「策を弄(もてあそ)んではならない」とはねつけています。当時の京都という、謀略と権謀術数の世界に飛び込んでしまったという認識がないのですね。 誠心誠意、朝幕の間に立って努めれば何とかなるという、一種のストイシズムに終始する

    [山内] それは、会津藩と容保に最後までつきまとう悲劇性でしょう。

    [中村] 私はこのころの会津藩に同情を禁じ得ません。 しかし、厳しい評価をすれば、これが容保の限界といいますか、政治の世界で生き残る人ではないように感じます。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.201〜203)


     「一会桑」の内部対立

    [山内] 鳥羽伏見の戦いを見ても、会津藩には勇猛心だけでなく、戦術感覚や状況対応能力がありますね。 第二次征長戦に参加していれば、幕軍は実際に出撃した彦根藩や津藩のような無様な負け方はしなかったように思います。 彦根や津などは、大阪の陣の先鋒だったというだけで、長年の上方生活で弱兵になっていましたからね。 「またも負けたか八連隊(大阪)!」の先駆者みたいなものだ(笑)。

    [中村] 残念ながら、鳥羽伏見まで前線に出る機会がなかったことが、結果的に会津藩に不利に働いたんですね。 実戦経験をしてみないと、わからないことは多いですから。

    [山内] 帝国陸軍が第一次大戦を本格的に経験しなかったために機械化や合理化が遅れて、精神主義偏重で悲惨な末路をたどったのと似ていますよ。 鳥羽伏見の戦いは、タイミング一つ遅れてしまっわわけですね。
     しかし、鳥羽伏見戦後でも会津や桑名が主導権をとって、大阪で籠城戦を展開していれば、情勢がどうなったかわかりませんよ。慶喜はこれを知っていたから、会桑の藩主二人まで巻き添えにして戦線を勝手に離脱したわけです。慶喜は、敗北を予知したのではなく、敗北を意図的につくりだしたといわれても仕方がない
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.206)


     対「一会桑」が「倒幕」に変った瞬間

    [中村] 幕末史の流れを大きく変えたのは、やはり慶応二年(一八六六)一月に秘密裡に結ばれた「薩長同盟」だったと思いますが、これを、文久の改変を主導した「薩会同盟」と比較すると、かなり性質が違います。 薩会同盟は、会津の公用方である秋月悌次郎(あきづきていじろう)に薩摩の高崎佐太郎(たかさきさたろう)(正風)が個人的に申し入れた盟約で、具体的な内容は残っていない。文書化されていないし立会人もいないわけですから、どのようにでも意味を曲げられる。実際、薩摩が会津を裏切り、密かに長州と手を結ぶわけです

    [山内] フランス語でいえば、「アンタント・コルディアール」、和親協商に近いのかもしれません。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.210〜211)


    [中村] ところが、薩長同盟は、ちゃんと文書にして残っているでしょう。立会人坂本龍馬と決めて細かな条項を定め、しかも締結後に桂小五郎は、龍馬にその内容を裏書き保証させています。

    [山内] ターゲットを会津にはっきり定め、薩摩と長州が、具体的にどのように協力し合っていくかを決めている。 まさに攻守同盟です。しかも文書化されているから簡単には破れない。 このあたりの詰めの細かさが、薩会協商との大きな差でしょうね。

    [中村] しかもあのとき、会津側は薩長同盟がひそかに結ばれたことを、まったくキャッチできなかったんです。 同盟が京都で結ばれた後、西郷隆盛らがいっせいに薩摩に向かったことは気づいていたのですが、会津は、国許で島津久光が死んだのではないか、などと推測しています。 あるいは、西郷らがそういう偽情報を振りまいていたため、まんまとだまされたのかもしれません。
     唯一、薩摩側にルートをもっていた秋月悌次郎は、藩内の嫉妬を受けて禁門の変の後、蝦夷地へ左遷されていました。 容保も、嫌気がさして会議に出ない。いわば会津藩は、情報収集の路をみずから閉ざしたまま、幕末の最終ステージに突入していったわけです
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.211)


    [山内] これは、「一会桑」のまとまりのなさにもいえると思います。 やはり、慶喜と容保、君主の体質の差もありますが、二百数十年にわたって培われてきた伝統も大きいのではないですか。
     たとえば慶喜の一橋家は、領地も家臣団もなく、家老も幕府の人事によって旗本が出向するわけです。 戦国以来の家臣団が、その伝統を誇りとして強力な結合力を築いてきた家ではない。 いわば、サラリーマン的なのであり、何によらず全力投球しきれないところがある(笑)。 会津のように、主君がこうと決めたら、挙藩一致で京都に押し出し「ここを墳墓の地に」という覚悟が感じられない
     会津のような伝統と忠誠心に裏打ちされた家臣団をもつ藩は、もう幕末には希少だったと思います数少ない例外が、槍弾正の保科に縁のある会津と、「チェスト関ヶ原」の薩摩だったのではないでしょうか。 薩摩は斉彬や久光の下に統制の厳しい家臣団がありました。 薩摩の郷中教育の「うそをいうな」「負けるな」「弱い者をいじめるな」などは、会津藩の「什(じゅう)の誓い」でいう「ならぬことはならぬものです」と共通したところが多い。
     保守的な体質である会津と薩摩が同盟を結んだということは、ある意味で不思議はない。 なぜ、薩会協商が長続きしなかったのか、長続きしていたらどうなったのか、それを考えるのも面白いでしょうね。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.213〜214)


    [中村] 実際、岩倉は書簡に書いています。 「あのころやったことで、いえないことはいろいろとある」と。 孝明天皇に一服盛り奉ったのは、岩倉の姪の堀川局(ほりかわのつぼね)だったという説もありますし。

    [山内] それはえらいこっちゃなあ。 むかし五百円の岩倉の悪相を眺めると、いつも子供心にも陰々滅々としてきたものですよ(笑)。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.215〜216)


    [中村] そのあたりの一連の流れは、全部、西郷の謀略ですね

    [山内] 基本的にはそうでしょうね。 しかし、京都と江戸、この二都と各藩の動きを総合的に睨(にら)んだ戦略的発想はたいしたものです。 やはり、西郷だけでなく大久保と岩倉が噛んでいるとみなくてはならない
     大坂城に入った慶喜にすれば、兵数はこちらが上だから、討薩の表」を掲げて、威風堂々と押し出せば、日和見の朝廷公卿勢力は徳川につくと見ていたわけでしょう。 だから実際に戦う覚悟も真面目になく、竹中丹後守は細い街道を一列で進んでいったら、完全武装の薩摩軍が陣地を構えて待っていたわけですよね。
     逸話的にいえば、津藩と淀藩の裏切りは象徴的なものですね。 幕府の先鋒になるべき藤堂と、この間まで老中を努めた稲葉が背いたのは、薩摩にとって西国諸藩の動向に大きな影響を与えたことにほかならない。 この瞬間に、西郷と大久保は、倒幕が成ると確信したはずです

    [中村] 両藩の裏切りがあって、あとは一瀉千里ですね。

    [山内] そして、慶喜の逃亡、これがダメを押したフランス公使ロッシュが進めた六百万ドルの借款計画が水泡に帰したことも大きい。

    [中村] 慶喜は、「もし大坂が敗れても関東がある。関東が敗れても水戸がある」と、最初から撤退を予定していたような発言をしています。 踏みとどまれない人なんですね

    [山内] マレー半島の最前線から無抵抗で撤退ばかり続け、シンガポールでもう逃げる場所がなくなって降参したパーシバル中将のようですね(笑)。 あるいは、遼陽(りょうよう)、奉天(ほうてん)(瀋陽(しんよう))と逃げまくる日露戦争のクロポトキン将軍か。
     慶喜が抵抗せず、江戸開城を承諾したから、江戸では内戦が起らなかったと評価する向きもありますね。 今でもときどき歌舞伎座で上演される真山青果(まやませいか)の「将軍江戸を去る」の筋立てです。 あの神話を信じている人が意外と多い。

    [中村] 史料をよく読めば、そんなロマンチックな話ではないんですよね。 慶喜が大坂城から逃げるとき、松平容保に「一緒に来い」と命じた。 容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに随ったそうです。 で、大阪湾にあった幕府の軍艦「開陽」に乗り込んだ。 容保が連れ去られたことを知った会津藩士の浅羽忠之助が、孝明天皇から賜った御宸翰(ごしんかん)を届けようと、陸路「開陽」を追いかけ、やっと乗り込んだら、船室から赤ん坊の泣き声のような音がする。 それが、慶喜の側室のお芳、火消しの新門辰五郎の娘だった。

    [山内] 準備がいいというより……どこか品性が疑われるのですね

    [中村] 江戸に帰った慶喜は、よせばいいのに、三田の会津藩下屋敷に行くんです。 会津藩は、鳥羽伏見の戦いで最前線で戦ったでしょう。 幕府軍のなかで、もっとも死傷率が高かった。 ある部隊などは八二パーセントが戦死している。 負傷したものも、大坂から陸路で和歌山に至るまで大勢亡くなり、さらに船で江戸にゆく途中、嵐にまで遭っている。 いわば、満身創痍の状態で下屋敷に辿り着いたわけです。
     そんなところに、逃げた張本人が見舞いに来た。高津仲三郎という重傷を負った会津藩士が、なぜ、あそこで逃げたのか、と起き直って詰め寄ったそうです。

    [山内] 慶喜は何もいい返せなかったそうですね。 仮にも将軍に向かって陪臣が難詰したというのに。 その一方、江戸城に入った慶喜は、すぐに鰻(うなぎ)の蒲焼や鮪(まぐろ)の刺身を食膳に所望したらしい(笑)。 京都に長くいて淡白な料理ばかり食べていたからでしょうかね。 鳥羽伏見の悲劇と、鰻への渇望が矛盾しないあたりが慶喜らしいところですね。 松平容保ならそういう気儘さはありそうにもない。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.218〜221)


     「一会桑」その後

    [中村] 戊辰戦争後の、「一会桑」の命運についてですが、ご存じのように、慶喜小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)ら徹底抗戦派を退け、謹慎します。 その後は水戸から静岡に移って写真を撮ったり、悠々自適の生活に入る。 一方で松平容保は、奥羽越列藩同盟を形成し、新政府軍に抵抗しようとしますが、この同盟もしょせん友情同盟にすぎません。 盟主となった米沢藩にしても、かつて飢饉になったとき、保科正之に助けてもらったという恩義に感じて動いただけで、兵の配備や具体的な協力方法など、何もない。 そして会津藩はあの悲惨な籠城戦となり、挙げ句の果てに、たった三万石の斗南(となみ)藩として、事実上、全藩が寒冷の地に流刑となるわけです。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.221〜222)


     面白いのは、桑名ですね。 戊辰戦争で俄然、存在感が出たと前に触れましたが、鳥羽伏見の戦いの後、真っ先に新政府軍が入ってきたのが桑名なんです。 そもそも容敬が桑名藩に養子に入ったのは、安政六年(一八五九)、先代藩主の松平定猷(まつだいらさだみち)が亡くなったとき、長男の万之助はまだ三歳だったためです。 鳥羽伏見の後、定敬は慶喜に江戸に連れていかれるわけですが、このとき桑名にいた万之助はまだ一二歳です。 実際に留守を仕切っていたのは酒井孫八郎という国家老で、優秀な人ですが病弱だった。 新政府軍がやってくると、ひたすらお詫びして、城を明け渡してしまうのです。

    [山内] あれは、熊本藩を中心に九州と中国の諸藩の兵を集めて、四日市に本営をおく作戦でしたね。 ちょうど、隣の尾張藩が佐幕派の軍事指導者を根こそぎ粛清し、これが桑名にも影響を与えたらしい。闔藩(こうはん)恭順(藩をすべてあわせて謹んで従う態度)ときまる。 大坂から江戸に行ったままの定敬の義弟定数が四日市に来て謝罪しました。

    [中村] そこで定敬は江戸から柏崎飛地に移り、そこを根城として立見鑑三郎(尚文)ら桑名隊が勇名を馳せるわけです。

    [山内] 飛地とはいえ、柏崎は六万石だったわけでしょう。飛地領の存在と、「一会桑」というネーミングが、戊辰戦争当時の桑名の存在感を浮かび上がらせたわけですね

    [中村] そういう感じがしますね。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.222〜223)


     その後、定敬会津に移って兄と再会し、さらには米沢、最終的には榎本武揚(えのもとたけあき)の旧幕府艦隊に乗って、五稜郭まで行ってしまうんですね

    [山内] あの五稜郭に立てこもった蝦夷地政府も面白いですよね。 松平定敬だけではなく、小笠原長行板倉勝静といった、幕末史に名を馳せた大名がいるんですね。 しかも、何をしていたのかよくわからない(笑)。

    [中村] 史料には、全然出てきません。

    [山内] 吉村昭氏の新著『彰義隊』(朝日新聞社)は、この三人が「列外客員」になり、榎本は板倉に殿様でなく普通の人間として過してほしいと忠告したと描いています。 板倉は、身の回りのことや買い物を自分でするようになり、家臣は落涙したとあります。 また、板倉や小笠原は、西軍上陸前後にプロイセンの船で箱館を脱出したと仔細に書いていますが、このあたりは本当のところわからないことが多い。まあ、小説ではあるわけですが……
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.223)


    [中村] 箱舘には武蔵野楼という大きな料亭があって、新政府軍が総攻撃を開始する前夜、榎本たちはここで訣別の宴を張って意ます。 こういうところで暇つぶしをしていた可能性がなくもない(笑)。

    [山内] 蝦夷地政府は、入れ札(選挙投票)で首脳が決められたのですが、総裁は榎本武揚、副総裁は松平太郎(まつだいらたろう)、陸軍奉行は大鳥圭介(おおとりけいすけ)、同奉行並は土方歳三(ひじかたとしぞう)といった具合に、身分に関係なく実力本位で選挙された。明治政府よりもよほど民主的だったかもしれません(笑)。 海外帰りの新知識たちがいたからでしょう。

    [中村] 新政府軍が攻めてきても、松平定敬、小笠原長行、板倉勝静などの藩主クラスは、前線で指揮をとっていません。 いよいよ持ちこたえられなくなると、外国船で逃げたようですね。小笠原長行など、上海に渡って明治五年(一八七二)になってやっと帰国するんです。上海でまた、買い物をしていたらしい(笑)。 しかも、政府にどこで何をしていたと問われると「ひそかにずっと謹慎しておりました」などとぬけぬけと答えた。
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.223〜224)


     一方、松平定敬は、明治二年に横浜に戻って降伏し、投獄されます。 明治五年に赦免になって桑名に戻るのですが、明治十年、西南戦争が起こり、徴兵制度で集めた鎮台兵だけでは薩軍に対抗できないというので、警視庁徴募巡査というかたちで士族隊を募集するでしょう。 それを聞いた定敬は馬に飛び乗って桑名城下を駆け回り、「薩軍追討に立ち上がれ!」と旧桑名藩たちに激を飛ばすんです。 元殿様みずからが、募兵活動をしたんですね。
     実際、城山で西郷が自刃したとき、突入していった部隊を指揮していたのは、ほかならぬ立見尚文なんです
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.224〜225)


    [山内] 西南戦争は、薩摩にとっては悲劇だったわけですが、それこそ「会桑」にとってはカタルシスだったのでしょうね。 会津からも佐川官兵衛山川浩(やまかわひろし)ら戊辰戦争で薩軍と戦った将兵たちが参加しているでしょう。

    [中村] 柴四朗(しばしろう)と五郎(ごろう)兄弟もそうですね。 柴五郎の名著『ある明治人の記録−−会津人柴五郎の遺書』(中公新書)も、最後は西南戦争で終っています。

    [山内] 会津や桑名の旧藩士からすると、西南戦争があったから、屈辱の時代も何とか生き延びることができたともいえるのでしょうね。 逆説の悲劇です
    (《黒船以降 第四章 一会桑−−京都における幕府権力の破綻》P.225)


     明治維新は「名誉革命」か?

    [中村] ジョン万次郎は天保十二年(一八四一)に十四歳で遭難し、島島に漂着します。 そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、やがて、船員の投票によってジョン・ハウランド号の副船長にまで選ばれます。 その後、琉球、長崎を経て嘉永五年(一八五二)に土佐に帰還した。 土佐の河田小龍という学者がその体験談を聞き書きし、それが『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』という書にまとめられた。 たとえばニューヨーク州政府がどのようなシステムで運営されているか、さらには大統領制や議会制度についても、具体的に記録されたわけです。
     かたやジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵は嘉永三年(一八五〇)、十三歳のとき紀州沖で遭難し、やはりアメリカ船に助けられ、サンフランシスコに滞在し、ピアース大統領にも謁見しています。 ちなみに、アメリカ大統領にじかに会った日本人は彼が初めてなのですが、同地で学校教育を受け、安政六年(一八五九)に帰国します。折りしもベリー来航、そして開国(安政元年=一八五四年)に前後して、二人の日本人が海外の生の情報をもたらすこととなった。 それが、幕末の運動にもたらした影響は大きかったと思います
     日本の近代化のためには、共和制に移行しなければならないと最初に唱えたのは勝海舟だと思いますが、彼自身の回想によると、文久三年(一八六三)一月一八日、江戸城の大広間で、「共和制移行のために、大政を朝廷に奉還しなければならない」と、声を大にして論じたということです。 これに、御側用取次だった大久保忠寛(おおくぼただひろ)(一翁(いちおう))が同調した。 この二人が幕府内部の開明派官僚として、政体の変革を主張するようになったわけですね。
     もっとも、あまり幕府内部でそれを唱える保守派に抹殺される危険があったので、彼らは、いわゆる賢公と呼ばれる大名のなかに同調者を募り、大きな運動にしていこうと考えた。 そこで福井の松平春嶽に白羽の矢を立て、四月二日付の書簡を送って大政奉還の論理を説いた。 このとき、大久保忠寛から書簡を託されて春嶽のもとに運んだのが、海舟の門人だった坂本龍馬です。 彼は脱藩浪人ですから、自由に動くことができる。 その意味で龍馬は、革命家というよりメッセンジャーとして歴史の舞台に登場するわけです

    [山内] いわゆる周旋家ですね。 いかにも土佐人らしく物事にこだわらぬ快活で鬱屈しない性情が周旋にうってつけだった。 内向的な思索にふけるタイプでなく、生粋の合理的な行動人だから暗殺のような暗い仕事は嫌ったでしょう。 それに、あの土佐弁という屈託のない喋りが当時も得をしたのではないでしょうか土佐の言葉には人を包みこむような温かさがある
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.229〜231)


    [中村] その後、龍馬は、「船中八策」とほとんど同工異曲ですが、「新政府綱領八策」を書きます。 上院下院の二院制、陸海軍建設など、さまざまな案を出していますが、いちばん重要と思われることは、徳川慶喜を新政府の盟主に想定していることです。  具体的に見ますと、綱領は八義からなり、第一義「天下有名の人材を招致し顧問に供(そな)う」から始まって、第二義「有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜い現今有名無実の官を除く」、第三義「外国の交際を議定す」、第四義「律令を撰し新(あらた)に無窮の大典を定む 律令既に定れば諸侯伯皆此(これ)を奉じて部下を率(そつ)す」、第五儀「上下議政所」、第六義「海陸軍局」、第七義「親兵」、第八義「皇国今日の金銀物価を外国と平均す」と結ばれる。
     最後に但し書きがついていて、こうあります。
     「右預(あらかじ)め二三の明眼士(めいがんのし)と議定し、諸侯会盟の日を待って云々」「○○○自ら盟主と為り此を以て朝廷に奉り始めて天下万民に公布云々 強坑非礼公儀に違(たが)う者は断然征討す 権門貴族も貸借する●(こと)なし
     この○○○は、「此を以て朝廷に奉り」とありますから、朝廷、あるいは天皇ではない。 となると、やはり前将軍である徳川慶喜と考えていいと思われます。 前将軍の権威を、龍馬はかなり信じていたわけですね。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.231〜232)


     榎本武揚の国際感覚

    [山内] 榎本は、列強が蝦夷地にもつ野心を感じていたと思う。 なにしろ、少数のアイヌ民族だけの土地には、日露だけでなく他の国も食指を伸ばしていました。 だからこそ、蝦夷地政府を作ることによって、蝦夷地における日本の実効支配と主権、国際法のデ・ファクトな領有という既成事実を作ろうとしたのでしょう。 蝦夷地政府は、国家戦略的な感覚の産物だったともいえる。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.246)


     亡国の遺臣としての共感

    [山内] スネル兄弟もしたたかな連中ですね。 兄弟で会津藩とも関係をもつわけでしょう。

    [中村] そうです。 兄のヘンリー・スネル(一八四三−?)は、松平容保の軍事顧問のような役目に就いて、平松武兵衛という名前をもらっています。 松平をさかさまにしたわけです。

    [山内] それなりに義侠心の持ち主で、明治維新後に、会津藩の遺臣の家族四十人ばかりを連れて、カリフォルニアに移民するでしょう。

    [中村] いわゆるワカマツ・コロニーですね。 ただ、日本からもっていったお茶の栽培に失敗した。 ヘンリーは金を調達するといって日本に向かい、それっきり行方不明になってしまった。
     一方、弟のエドワルド・スネル(一八四四−?)も、長岡藩の河井継之助(かわいつぎのすけ)に惚れ込み、ガットリング砲などの武器を調達しています。 幕末日本に滞在した商人というと、坂本龍馬と交流のあったグラバーが変に評価されていますが、スネル兄弟のほうが、よほど義侠心を感じさせます。 とくにヘンリーは日本女性と結婚し、ちょんまげを結って日本に同化しようと努めてますしね。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.248)


     ただ、結局彼らは、敗れた奥羽越列藩同盟側についたせいで、長岡藩から一文も回収できなかった。 武器を売るとき、手付け金も取っていないわけです。 おそらくスネルたちにしてみれば、奥羽越列藩同盟という藩の集合体が、統一前のドイツの、プロイセンなどの州政府の連合体というあり方に似ているだけに、どことなく共感を抱いたのではないでしょうか
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.248)


    [山内] このとき蜂起したウラービー・パシャは、セイロンに流刑になりますが、明治十九年(一八八六)から二十一年にかけて欧米を視察した農商務大臣の谷干城(たにたてき)が、帰国の途中に流謫の身のウラービーを訪ねています。 このとき秘書官として随行したのが、元会津藩士の柴四朗(しばしろう)なのですね。 彼は、帰国後の明治二十二年に『埃及(エジプト)近代史』を出版し、エジプトで見た民の悲惨さや西欧人の地元民蔑視を憤懣やるかたなく書き出した。東海散士の名で著した『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』にウラービー・パシャを「亜剌飛(アラビ)侯」として登場させ、西欧の植民地化の悪辣さと狡猾ぶりを説かせています
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.250)


    西欧の国々は、「国富を増強したければお金を借りなさい、低利の資本が流入して産業が振興します」と甘言を呟く囁く。 しかし、もし債務を償還する期日を守れないと、彼らの態度は豹変してしまう。 キリスト教文明の優越を強調し、白人が神の祝福を受けているのだから、それに従うのは理の当然といい出す。文明の名の下に国土を奪ってしまうというのです。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.250〜251)


     この当時、柴四朗だけではなく、何人かの日本人がウラービー・パシャを訪れていますが、彼の忠告を真摯に受け入れ、国策に反映させた人びともいたようです。不平等条約の改正は明治国家の悲願でしたエジプトもまた、オスマン帝国が西洋列強と結んだ不平等条約を、独立後も継続させられていて、その改訂を求めていましたから、日本とエジプトの両国はよく似た立場にありました
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.251)


    [中村] 柴四朗は、明治三十三年、北京で義和団が蜂起し、各国の外交官が北京城に閉じこめられたとき、二ヵ月に及ぶ籠城戦の指揮を執って国際的に評価された柴五郎の兄です。 この兄弟が会津籠城戦で家族を失い、斗南(となみ)の地で苦境に喘ぎつつ刻苦勉励する模様は、『ある明治人の記録−−会津人柴五郎の遺書』に詳しく書かれていますが、同じ亡国の遺臣として、ウラービー・パシャに共感するところが大きかったのでしょうね

    [山内] そうでしょうね。 亡国の連鎖、日本とエジプトにまたがる構図には、とても興味深いものがあります。

    [中村] そのあたりの国を越えた共感には、普遍的なものがあるのかなと思います。 さきほど、鉄道関係で小野友五郎の名がでましたが、彼は第一章で述べたように、咸臨丸がアメリカに渡ったときの航海長でした。 微分、積分、三角関数までできてしまう数学の天才で、咸臨丸に顧問格で同乗していたブルックというアメリカ海軍の大尉と測量合戦をやっています。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.252)


    [中村] 小野は、一目見ただけでモニター艦の弱点を見抜き、ストーンウォールのちの甲鉄(こうてつ)とスペンサー銃ヘンリーライフル銃を大量に購入します。 実は明治になってから陸軍はスペンサー銃、海軍はヘンリーライフル銃を制式銃としますが、小野はそれだけの眼をもっていたのですね

    [山内] モニター艦だと東京湾でもあぶないかもしれない。 スペンサー銃は、明治三十八年(一九〇五)に三八式歩兵銃が採用される前まで、陸軍の制式銃だったのでしょう。 たいした鑑識眼ですね。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.253〜254)


     サムライたちの日清・日露戦争

    [中村] そもそも、立見弘前第八師団には、例の八甲田山雪中行軍遭難事件(明治三十五年)で全滅した青森歩兵第五連隊が所属していたでしょう。

    [山内] 新田次郎『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』で描き、映画でも有名になりました。ロシアとの寒地満州での会戦に備え、強引に雪中行軍の訓練をやり、多くの兵が遭難した。

    [中村] あの事件の後、陸軍上層部には、師団長たる立見の責任を問え、という声が高く、かなり執拗に証拠調べが行われたようです。山県ら陸軍首脳は、なんとか立見を失脚させようと虎視眈々(たんたん)と機会をうかがっていたのですね。 しかし、結局、あの行軍は連隊長命令であって師団長に責任はないことが判明し、立見を左遷させることはできなかった。

    [山内] ただ、行軍に参加したけれど、全員が生還した歩兵第三十一連隊は、黒溝台で戦っているでしょう。

    [中村] そうなんです。 その意味において、黒溝台の戦いとはかつての奥羽越列藩同盟参加者の子弟たちが、明治になってから奮闘した戦争だったともいえるわけです東北健児ということばは、このころから使われるようになったのかな、と思います。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.259)


     福沢諭吉の「痩我慢の説」を検証する

    [中村] さて、ここまでは幕末・明治という二つの時代を生きた人々を、旧幕臣を中心に語ってきたわけですが、そうなると触れざるを得ないのは、福沢諭吉「瘠我慢(やせがまん)の説」です。 これは明治二十四年(一八九一)に書かれ、勝海舟および榎本武揚に書簡のかたちで送られました。 公表されたのは十年後、福沢が亡くなった直後の明治三十四年のことですが、要するにこれは、維新後も新政府高官の地位に就いて活躍している旧幕臣を代表する二人を痛烈に批判したものです
     一国の独立には一見合理的でない「瘠我慢」、みずからの信念を貫く意地も必要である。 その見地に立てば、幕府滅亡に際して腹も切らず、二君に仕えて平然としている勝や榎本の振る舞いは、「国家百年の謀において、士風消長のために軽々看過すべからざるところというわけです。

    [山内] 福沢は、この「瘠我慢の説」を二人に送ったけれど、返事が来ないというので、また書いて送ったというのでしょう。 ちょっと、しつこい(笑)。

    [中村] あまり、気分のいいエピソードではないですね。 榎本は真っ赤になって激怒したと伝えられていますが、「昨今別而(べっして)多忙に付き、いづれそのうち愚見を申し述ぶべく候」とだけ返事しました。 一方の勝海舟は、行蔵は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存じ候」、反論する気にもならないから勝手に公表しなさい、と突き放した。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.263〜264)


    [山内] もう一人、福沢が批判する勝海舟も、ずいぶん幕臣救済のために苦労したでしょう。

    [中村] そうなんです。 新政府に降伏した後、徳川家は御三卿の田安亀之助(徳川家達(いえさと))が継ぎ、静岡に七十万石の領地を与えられ、幕臣のほとんどはそこに移住するわけですが、なかには武家の身分を失って、生活だけでなく性格も破綻してしまった連中も少なくなかった。 そういう連中が、の家を訪れ、金を無心するわけです。 一両渡すとすぐに飲み食いで使ってしまう。 「もう、これだけだぞ」といってまた渡すと、これまた使ってしまう。 そのうち、酒が過ぎて死んでしまうと、遺族にちゃんと弔慰金まで出した。

    [山内] どうしてもそういう手合いは出てくる。 尾張徳川家の大身(たいしん)の武家の話ですが、一新後、扶持から離れて自立せよといわれても、金の稼ぎようがわからない。 味噌、醤油がなくなると出入りの人間に「持ってこい」といいつける。 「殿様、〔おあし〕というものが必要なのです」 「なんだ、〔おあし〕というのは?」 「金でございます」 「金のことを俺にいわれてもわからない」 といった落語みたいな問答もあった(笑)。間部(まなべ)老中が算勘を知らないというのと基本的に同じなのかもしれない。

    [中村] その大身の武家とは、松平保真(まつだいらやすまさ)という元五千石取りの尾張藩士ですね。 最後には娘四人を人買いに売ってしまいます。 その子孫である松平すゞさんの書いた『松平三代の女』(風媒社)によると、最後のひとりなどはすでに嫁に行っていたのに、法事と嘘をついて呼びもどされ、そこで女衒(ぜげん)に売られて遊郭に着いたその夜から客を取らされている。 実にひどい男です。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.269〜270)


     尊皇攘夷から大陸進出へ

    [中村] ただ明治新政府を中心に考えますと、榎本たちのような人材を吸収する一方で、やはり、幕末以来の尊皇攘夷の気分を濃厚に引きずっている部分もあります。 そもそも維新の志士たちは、鎖国攘夷を唱えて幕府を批判していた。 しかし、新政府樹立とともに開国に転じます。 とはいえ、攘夷の願望を棄てたのかというと実はそうではなく、むしろ彼らの心情は開国攘夷に切り替わったのではないでしょうか
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.272)


     明治八年(一八七五)、無断で釜山に入港した日本の軍艦を朝鮮側が砲撃する。 いわゆる江華島事件が起こります。 この事件をきっかけとして日本は朝鮮に、かつて江戸幕府が列強から押しつけられたような不平等条約を結ばせるのですが、このあたりから日本は、自分たちが列強の立場になり、半島や大陸に植民地を求めて膨張していくことになる。 これは明治以前の攘夷体質が、大陸への欲望というかたちで現われたということなのではないでしょうか。
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.272)


     さらにいえば、攘夷の思想が肥大化したのが昭和六年(一九三一)の満州事変に始まる中国との戦争、さらには太平洋戦争ですから、水戸学に象徴される攘夷の感覚が近代日本を滅ぼしたということもできます
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.272)


     戦前、金沢庄三郎(一八七二−一九六七)といういい加減な言語学者が、「日朝同祖論」を唱えたでしょう朝鮮にも、わが国と同じく天孫降臨神話がある。だから朝鮮はわが国のものであるという屁理屈で、日韓併合を正当化した。ジンギスカンは源義経なのだから日本は蒙古へ進出するのは当然だ、という小谷部(おやべ)全一郎の盲説ももてはやされますが、ああいう侵略思想は、攘夷の裏返しのような気もします

    [山内] 江戸時代に藤貞幹(とうていかん)(一七三二−九七)という国学者がいました。本居宣長のライバルだった人ですが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は新羅(しらぎ)の国王であり、神武紀元を六百年繰り上げるべきで、『日本書紀』の正しい理解には朝鮮との関係を考慮すべきだと唱えました。本居宣長『鉗(かん)狂人』を書いて反駁しました。 「狂人に首かせをかける」という意味ですね。

    [中村] 鎖国が終わってみれば、秀吉の朝鮮出兵の時代に先祖返りして、きわめて好戦的になったような印象がありますね
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.272〜273)


    [山内] 吉田松陰などは、竹島の開発・開墾をしきりに唱え、将来朝鮮・満州に出るなら、竹島がその「第一の足溜り」になる桂小五郎に語っています。 しかし、水軍を送るのは愚論であり、水軍でいけば向こうも備えをする、商船でいけば向こうも商いをすると、現実的な進出法を久坂玄瑞への手紙にも書いていました。

    [中村] 長州は、竹島あたりで密貿易をやっていましたから、そういう発想がでてくる。

    [山内] 徳川慶喜の心変わりに助けられたとはいえ、薩長は鳥羽伏見で優勢な幕府軍を破り、劇的に倒幕をはたしたといえます。 しかも、世界史的にみれば少ない流血ですみました。 明治維新は成功した近代革命の一例なのです。その見事さゆえに、明治新政府は、外交面でも妙に自信をつけてしまったのでしょう
    (《黒船以降 第五章 ふたたび徳川官僚の遺産−−遺臣たちの明治時代》P.273〜274)


     保科正之と加賀百万石

    [中村] 当時加賀藩は、万石取りの家老が多くいて、「船頭多くして、船、山に登る」という感じだった。 そこで正之は、自分の指導法にきちんと従ってほしいと宣言する。 これを「肥後守様御意(ひごのかみさまぎょい)」と言って、以後この方針に従って藩が運営されていきます。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.284)


     黒部川に愛本橋(あいもとばし)という橋がかけられる。 黒部川は激流なので橋脚を立てられないため、両岸から橋桁をすこしずつ「南京玉すだれ」のように出して繋いでいく。刎橋(はねばし)と呼ばれる構造です。この愛本橋を建設するとき手本にしたのが、保科正之による明暦の大火後の両国橋架橋だった戦時の守りより市民の利便性のほうが大事だという正之の思想に学んだわけです。越中方面から敵が来たときどうするんだという家老たちの大反対を押さえ込んで、交通路の整備をはかりました。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.284)


    [中村] この時期には、「白山(はくさん)争論」も保科正之の裁定によって解消しています。白山というのは、越前加賀飛騨に跨(またが)る大霊場で、越前側十六ヵ村(福井藩の預り領)と加賀藩領二ヵ村の領民が樹木の伐採権をめぐって血腥(ちなまぐさ)い争いをしてきた。利常の時代から続く争いに正之が介入し、十八ヵ村すべてを天領にしてしまいます。越前側十六ヵ村は、もともと幕府が預けたものだったから返させる。 加賀藩は二ヵ村を幕府に提供しますが、これに見合う土地を近江にもらうことで顔が立つようにした。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.286)


    [山内] 金沢城の天守閣も早い時期に焼けているでしょう。 加賀百万石の天守であればきっと立派だったろうと思うけれど、幕府をはばかって再建されなかった。 相前後して江戸城の天守もなくなったというのも面白いですね。 無用の長物だということがはっきりしたわけです。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.287)


    [中村] こうしてみてくると、保科正之は加賀藩が幼君で乱れそうなとき、非常に上手くバックアップしているのがわかります。 いわゆる「養老年金制度」も加賀藩が最初に模倣しますね。 寛文三年(一六六三)に会津藩で始め、七年後の寛文十年には加賀藩も取り入れる。 加賀藩の史料で、受給される「一人扶持」は「男は一日五合、女は一日三合」と出てくる。 会津側の史料には出てこないのですが、たぶん会津藩でも同じでしょう。 そこでこの受給人口を考えてみると、会津藩で養老年金を受けた九十歳以上の人数は、総人口一二万七〇六〇人のうち一五五人。 この比率を当時の加賀藩の総人口五六万九七〇〇人に当てはめると、六九七人が恩恵に浴したことになる。 仮に全員が男で一日五合、一年に一石八斗支給されるとして、年間の支出を計算してみたところ、千二百四十九石二斗なんです。 加賀には「八家(はっか)」(前田二家、本多、長、横山、奥村二家、村井)という万石取りが居並ぶくらいなので、千二百四十九石二斗で年金制度ができるというのは非常に安いものだと感じました。要は藩主のやる気しだい(笑)
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.287〜288)


    [山内] 元禄時代は、家光の寛永年間とは、消費文化の感覚や貨幣基準が全然違ってきますね。 今でいうところの高度消費社会です。 市民レベルでも貨幣がすべてという感覚が定着する時期です直江兼続は、伊達政宗から天正大判を見せられたとき「不浄なものだ」と手を触れずに開いた扇子で受けた。我が手は戦場(いくさば)で采配をとるものだという感覚が、戦国武将のなかにはあったのでしょう。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.292)


    [中村] ところで、前に山内さんから保科正之反・厳罰主義ベッカリーア罪刑法定主義になぞらえてご指摘いただいたことがありましたね。 これも正之が綱紀に伝えたはずなのに、加賀藩では相変わらず酷刑が続いていくんです。利常の時代には、大阪夏の陣に出撃するとき馬丁が馬を引き出すのが遅れたからという理由で、引っ張り斬りに処された。 これは、腕を両側から引っ張っておいて、その腕を切断して死に至らしめるのです。 これに似た生胴(いきどう)というのは幕末まで続きます。

    [山内] 試し切りみたいに胴斬りにするのですね。

    [中村] ええ。禁門の変慶寧が宮門の守備から逃げ出したとき、父の斉泰が激怒して、慶寧を唆(そそのか)したという家臣の生胴を斬っているんです。

    [山内] 殺伐としてますね。

    [中村] 瞬発的に死ぬから、酷刑に入らないという感覚だったと思います。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.292〜293)


    [山内] フランスの哲学者ミシェル・フーコーの代表的な書物『監視と処罰 監獄の誕生』は、過酷な刑罰の紹介から始まる嫌な本ですが、フランスで酷刑が行われた時代はブルボン朝の初期までで、正之とほぼ同時代です。 幕末の加賀藩でそんな極刑が行われるとは驚きです。 そんなことをやっていながら、天下の書府を謳っていたのですね。 そのわりには、幕末の加賀藩は弱兵でしたね。 「伊達のドン五里」(ドンと大砲が鳴ると五里も逃げる)ほどではないにしても。

    [中村] 斉泰が悪かったと思うんです。 ちょっと佐幕に振れすぎて、よその藩士と付き合ってはいけないというように二重鎖国になってしまった。 最後まで右顧左眄(うこさべん)して、いよいよ官軍側が勝ちだと確信して慌てて「お味方します」となった。

    [山内] 肥前佐賀藩のように近代化、産業化を進め、なおかつ情報も入っていながら、幕府と朝廷・薩長の調整役を任ずるという、鍋島閑叟(かんそう)(直正)にみられる政治技術のずるさはないですね
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.293)


     幕末日本人の見識

    [中村] 会津藩に武器を斡旋したスネル兄弟が、松平容保サイゴンから傭兵を送ることを提案したのを容保が断っています。 とにかく内戦に止(とど)めようとしたのは、本当に見識ですね。 容保にしても意外に世界情勢を知っていたのかもしれません。

    [山内] やはり南北戦争が直近にあったからでしょうね。 南北戦争は世界史上でも非常に悲惨な戦争でした。 十九世紀の近代革命を経験した後の内戦は、互いに甚大な被害を与える。 現在まで続く北部と南部の格差や黒人問題という傷跡を残してしまった。

    [中村] 横浜に輸入された鉄砲の殺傷力が異様ですものね。

    [山内] 戊辰戦争で威力を発揮したガットリング銃が最初に使われたのは南北戦争だし、ストーンウォール(甲板艦)はアメリカから輸入したものでしょう。南北戦争を境に戦争技術が発展した。 日本人の戦争知識は、これで大きく揺らいだと思います
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.301〜302)


    [中村] 明治に入ってからのお雇い外国人にも、かなり食い詰め者が入っていますね。 日本海軍の『三景艦(さんけいかん)』(松島・厳島(いつくしま)・橋立(はしだて))だって、ひどい発想で建造されています。フランス人造船家のエミール・ベルタンは、三艦でV字形の編隊を組むからといって、松島だけは主砲を後ろ向きにつけてしまった
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.302)


     ラフカディオ・ハーンもかなり胡散臭い人です。 自分のアイデンティティに苦しんでいるというのはわかりますが、小学校三、四年程度の日本語力しかなかったといいます。 その程度の能力で、本当に『怪談』を聞き書きできたのでしょうか。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.302)


     『戊辰戦争従軍記』の著者ウィリアム・ウィリスなんて、ロンドンで看護婦に子どもを産ませた後で日本まで逃げてくるんです。 戊辰戦争の従軍後は薩摩藩に雇われますが、そこで薩摩女性と結婚して子どももできたのに帰国してしまう。 ほんとうに胡散臭い。彼は書くこともいい加減です。 会津戦争後、容保が鶴ヶ城を出て寺に謹慎に入るのを描写して、会津藩は殿様が謹慎先に行くのに誰も見送りに出ない冷たい藩だ。 百姓もよそを向いているが、これは搾取しすぎたからだと書く。 しかし、これはまったくのでたらめですよ。 籠城していた会津藩は猪苗代に送られていて、鶴ヶ城周辺に残っていたのは残務整理をするための二十人ばかりでした。 そのうちの十七、八人が見送りに出ているのだから大したものです。 それに百姓たちが落魄の殿様を見ないというのが礼儀ですよ。 大名行列だってそうだけれど、高貴な人は見てはいけないというのがルールだった。それをウィリスは理解していない。 しかし、困ったことにウィリスの証言を学者たちがよく引用するんです
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.302〜303)


     対してヘンリーエドワルドスネル兄弟は明治に入ってからの消息がよくわかりませんが、二人とも日本人と結婚していました。 弟のエドワルドは、年をとってから浅草の寄席で落語を聞いていたという話があります。 市民にとけ込んで日本人として終わったのならば、ちょっといい話だなという気がします。

    [山内] アーネスト・サトウミッドフォードみたいにきちんとした外交官もいたけれど、食い詰め者で日本通になった人間たちの足跡も興味深いですね。 こんどは食い詰め者の話で対談しましょう(笑)。
    (《黒船以降 文庫巻末対談 保科正之の遺産−−加賀藩・仙台藩、そして西国諸藩》P.303)