[抜書き] 『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』


『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
星亮一・だいわ文庫
二〇〇八年三月一日第三刷発行
    目次
      はじめに

    第一章 悲惨な実態
      略奪部隊   城下の戦い   会津の誤算   女たちの籠城(ろうじょう)   涙橋(なみだばし)の決戦   郊外へ避難   二〇代の指揮官   強賊の振る舞い  
    第二章 兵士たちの思い
      一年かけての行軍   無念の切腹   会津女性の夜襲   非道な板垣退助(いたがきたいすけ)   四面楚歌(しめんそか)の鶴ケ城   郡上(ぐじょう)藩からの援軍   禄盗人(ろくぬすっと)   地獄の責め  
    第三章 会津藩の降伏
      白旗   数字の謎   降伏後のゲリラ戦   大垣藩(おおがき)の感慨   分捕り疫病(えきびょう)   ヤーヤー一揆(いっき)   会津藩政の腐敗   財政難の背景
    第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)
      王城の護衛者   異人嫌いの水戸藩   国元は大反対   天皇を軟禁   新選組(しんせんぐみ)登場   攘夷実行   八月一八日の政変   池田屋事件   禁門の変   残党狩り   長州征伐
    第五章 立ちはだかる男たち
      西郷隆盛(さいごうたかもり)   名君との出会い   ペリー来航   突然の暗雲   上野の森   坂本龍馬   勝に弟子入り   「幕府は倒せる」   桂小五郎(かつらこごろう)   薩長同盟設立   会津大混乱   高杉新作の最期
    第六章 大政奉還(たいせいほうかん)
      小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)対勝海舟(かつかいしゅう)   土佐(とさ)藩の口舌(こうぜつ)   フランス皇帝にあやかって   幕府を見限ったイギリス   慶喜、政権を返上   朝敵に転落した会津   捏造(ねつぞう)された倒幕の密勅(みつちょく)   悔やまれる孝明帝(こうめいてい)の死   勝てたはずの戦い   岩倉具視の一喝   無為無策(むいむさく)   江戸無血開城の舞台裏
    第七章 挙藩流罪(るざい)
      奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)   会津降人(こうじん)   身代わりの切腹   謹慎所での日々   木戸孝允による会津処分   陸奥の地勢   三人の幹部   移住者への布告  
    第八章 地獄の日々
      半病人   絶望的な暮らしぶり   廃藩置県(はいはんちけん)   松平容保(かたもり)、下北に入る   別れの布告   悲報相次ぐ   明治政府の重大犯罪   雪の下敷き   東京に集う会津藩士たち
    第九章 二つの道
      会津(あいづ)家老の没落   維新転覆計画   鹿児島潜入   谷干城(たにたてき)の懐柔   陸軍学校の教官はフランス人   西南戦争   アメリカに留学した弟妹   長州に不穏の空気   思案橋(しあんばし)事件の真相
    第十章 屈折の明治
      消えた首席家老   北海道での消息   時代に翻弄(ほんろう)されて   国際派の陸軍軍人   薩長閥の打倒   胸に一点の曇りもなく   会津史の編纂   最後の会津藩主、涙の死   会津武士の典型   原爆と同じ

      あとがき
      参考文献


     はじめに
     NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」(二〇〇七年一〇月十七日放送)に、初めて会津(あいづ)藩主松平容保(まつだいらかたもり)が登場した。

     義に死すとも不義に生きず
      会津戦争 松平容保 悲運の決断

     である。 この番組はその後三回、全国に放送された。
     「会津戦争、そのとき歴史はどう動きましたか
     という松平定知(さだとも)アナウンサーの質問に、この番組に出演した私は「会津(福島県)はみずからの正義を訴えるために、全員が死をかけて戦いに臨んだ。 そして一四〇年後の審判をあおぐ。 そのような気持ちだった」と解説した。
    (《偽りの明治維新 はじめに》P.3)


     あのとき、日本人の多くは薩摩(さつま)(鹿児島県)や長州(ちょうしゅう)(山口県)の肩をもった。 日本人は長いものにはまかれろという風潮が蔓延(まんえん)し、会津は孤立した。 いまは見捨てられても、いつかは会津の気持ちを日本人が理解してくれる、そういう思いで、会津藩兵は戦場に向かい、白虎隊(びゃっこたい)の少年たちも自刃して果てた。
    (《偽りの明治維新 はじめに》P.3〜4)


     会津の人々は、長いあいだ朝敵汚名に耐え、一世紀以上にわたり、その怨念(おんねん)を胸に秘めてきた。 若松を追われ、青森の下北(しもきた)半島や北海道に移住させられた人々の末裔(まつえい)には、とくにその思いが強かった。
    (《偽りの明治維新 はじめに》P.4)


     平成一九年(二〇〇七)会津と長州について新しい動きがいくつか出た。 山口県出身の安倍晋三(あべしんぞう)が総理在任中に会津若松市を訪れ、会津戊辰(ぼしん)戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった(四月十四日)。
     このとき、会津若松の反応は様々だった。 会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も、
     「遊説でちょっと喋っただけですからね、安倍さんは軽い、軽すぎますよ
     と、この発言を肯定的に受け止めることはなかった。戦死者が眠る飯盛山(いいもりやま)や天寧寺(てんねいじ)にお参りし、焼香すれば別だったが、遊説のつけ足しでは許せないということだった。 青森県に移住させられた会津人の末裔は完全否定だった。
    (《偽りの明治維新 はじめに》P.4)


     これに対し若者や高校生は、「現代の山口県人に怒りをぶつけても仕方がない」とややさめた感じだったが、いずれにしろ会津と長州のあいだに横たわる溝(みぞ)をうめるものではなかった。
    (《偽りの明治維新 はじめに》P.4〜5)


     略奪部隊

     会津人のこだわりはいくつかある。 一つは会津戊辰戦争における官軍という名の薩長(さっちょう)軍の残虐行為である。
     錦旗(きんき)、天皇の旗をかかげて会津に攻め込んだ官軍の実態は、帝の軍隊にはほど遠いものだった。分捕り部隊が存在し、薩摩、長州が競って土蔵を封印し、略奪の限りをつくした。 女性も分捕りの対象になった。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.20)


     どこに財宝がかくしてあるか、探し出す技術はたいへんなものだった。たとえば庭に水をまくと、水が染み込んだところに刀や壺がかくされていた
     なるほど、これは理にかなっていた。 敵が攻めてきたというので、鶴ヶ城(つるがじょう)(会津若松(わかまつ)城)の城下に暮らす人々は大いにあわてて、刀剣や陶磁器、あるいは金銀財宝を庭に穴を掘ってうめた。 地面は固まっていないので、水が染み込むのは自明の理だった。
     それを目当てに江戸から古物商が乗り込み、泥棒市場が開かれ、買いとって江戸に運んだ。 若松の人々は泣きの涙だった。 自分の物を、高い金を出して買い戻さなければならなかった。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.20)


     女たちの籠城(ろうじょう)

     皆があっと驚いたのは砲術師範の娘、山本八重子(やまもとやえこ)の出(い)で立(た)ちだった。 着物も袴(はかま)もすべて男装し、麻の草履をはき、両刀をたばさみ、元込め七連発銃を肩にかついで城に入ってきた。 弟の三郎(さぶろう)が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、弟の仇(かたき)をとらねばならない。 命の限り戦う覚悟だった。 八重子はすぐに城壁に駆けのぼり、七連発銃で敵兵を狙(ねら)い撃った。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.28〜29)


     城内には白無垢(しろむく)に生々しく血がついているのを着ている婦人もいた。 これは家族に卑怯(ひきょう)者がいて、城中に入って戦うのが嫌だというのを、手にかけてきたのであろうと八重子は思った。 八重子はのちに同志社大学の創設者新島襄(にいじまじょう)の夫人になっている。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.29)


     なかには足手まといになると幼子を殺(あや)めて入城した人がいた。 顔はひきつり心労でくたくたになっていた。 その他、小さい子どもを背負った者、老人の手をとって入城した者、さまざまな人がいた。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.29)


     強賊の振る舞い
     類右衛門佐川官兵衛の配下になり、郊外で戦っていた。 九月一八日、類右衛門は、女性を裸にして惨殺した敵の卑劣な行為を目撃した。 場所は会津高田(たかだ)町(福島県会津美里(みさと)町)の伊佐須美社内で、若い女性を裸にし、斬(き)り殺してあった。
     会津人の怨念(おんねん)の一つは婦女に対する暴行である。 類右衛門が目撃した事例は氷山の一角で、この行為はかなり広範におこなわれ、婦女子は耐えがたい辱(はずかし)めを受けていた。 捕らわれた女性が数珠つなぎになっていたという目撃談もある。
     「その振る舞いは強賊というほかなし
     類右衛門はこう記述した。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)


     類右衛門は会津の奥大内宿(おおうちじゅく)や田島(たじま)近郊に本拠地を構え、戦いを続行した。 任務は敵軍の宿営を襲って武器弾薬を奪い、食糧を調達して城に送ることだった。 ここには越後口日光口から入ってきた薩長軍がいて、彼らとゲリラ戦を演じた。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)


     現在、大内宿は茅葺(かやぶ)き屋根が保存され、観光地になっているが、夜になると寒威(かんい)がはなはだしく、民家に薪(まき)をこい求め、暖をとった。 周辺の路傍には屍が散乱し、腐乱していた。 それを見るたびに身が震えた。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)


     このとき、じつはすでに会津藩は降伏していたのだが、佐川官兵衛は降伏を拒否し、戦いを続けていたのである。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)


     九月二四日、近くの大芦(おおあし)(福島県昭和(しょうわ)村)に討ち入った。 敵が朝餉(あさげ)(朝食)のところを不意に襲ったので、敵は箸(はし)を投げ、狼狽(ろうばい)して逃走した。 味方は得たりと、刀を抜いて入った。 蔵のかたわらから敵が一人現れでた。 類右衛門を見るや刀を抜いて、真っ向に振り上げ、進んできた。 これはよき相手と類右衛門は槍をひねって進み、突き入れたが、敵はこれをはらった。
     「逃してなるものか
     と類右衛門は突進し、素早く太刀の下にくぐり、岩をもとおさんと臍(へそ)の下に突き当てた。 敵兵がよろめくところを、すかさず胸板を突いて倒した。

    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)


     この日、分捕りの品物は弾薬千両箱長持両掛(りょうがけ)天幕駕籠(かご)食糧などで、弾薬、金箱は村民に運搬させた。 そして分捕りの酒を飲み、しばらくときをすごすと、敵ははやくも野尻(のじり)(福島県昭和村)に屯集した。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)


     分捕りの弾薬を搬送するには、山路を越えなければならない。大芦の村民たちは皆、暇をこうた。 それを論し、ようやく山を越え本道に出ると、麻布村の村民が佐川隊の戦闘の勝利を聞き、喜んで駆けてきたので、運送の人夫を麻布村の村民に代わらせ、大芦の人夫を帰らせた。 人夫は大いに喜び帰っていった。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)


     路は険阻、かつ戦いに疲憊(ひはい)し、兵は皆、歩行に苦しんだ。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)


     村民が松明(たいまつ)をもち、兵糧をかついできたので、盲目の杖(つえ)を得た心地で明かりを得、飢えをしのぎ、五更(ごこう)(午前四時ごろ)、麻布の村宿に凱陣(がいじん)し、分捕りの諸品をまとめて眠った。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)


     農山村での戦闘はゲリラ戦だった。地の利がある会津軍は敵に一歩もひけをとらず、互角の戦いを見せた。
    (《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)


     会津女性の夜襲

     それから三四、五歳ぐらいの侍の妻らしいのが、一二、三ぐらいの男の子どもを連れて太郎吉らの進んでいるところへ出てきて、どこへ行ったらあなた方の邪魔にならないだろうという。 太郎吉はここにじっとしていれば撃ちはしないといって、そこにいさせた。
     ところがそのうち、それの姑が来て敵に助けてくれとはなにごとかというから、「このくそばばあ殺してやる」といって、殺して溝(みぞ)のなかへほうり込んだ。 そこは歩哨(ほしょう)のとおり道だったので、「このばばあはえらい奴じゃ、えらい奴じゃ」といっておるようなことも何遍かあった。
     会津の女はたいしたものだった。 太郎吉が夜間、焼け跡で番兵をしていると、草履を履き薙刀(なぎなた)をもって番兵を襲いにきたことも二、三度あった。
     また城下討ち入りの際、諏訪の森で主従とみられる七、八人の侍が自刃していた。 敵ながら感心した。 籠城していた者が降伏ということになって整列したところを見ると、女がたくさん残っていた。女が本気になればこんなものかも知れぬと思った
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.45〜46)


     椿太郎吉の証言で注目されるのは、会津の女性の強さである。 分捕り部隊に拉致(らち)された女性も数多くいたが、薙刀夜襲をかけた女性がいたことは驚きだった。
     長州兵も感心するほど、会津の女性は強かった。 これは特筆すべきことがらだった
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.46)


     非道な板垣退助(いたがきたいすけ)
     これは長州兵杉山素輔の証言である。
     八月二九日の戦闘は大激戦だった。 杉山が会津の戦死者の懐中物を引っ張り出すと、八月二九日戦死という書きつけがあった。 なかには血判したものも入れてあった。 あとで聞くと越後(えちご)口から城中に入った三六〇人ほどが、どうしても越後口の戦線を奪わなければ敵を撃退できないと、主君松平容保(まつだいらかたもり)に申し上げたが、
     「それはならぬ、よせ
     というのが主君の意向だった。 それでもやるといって血判を押した。 ふたたび主君にお目にかかることもあるまいと思ったという。 なにしろ来れば撃ち、出れば撃たれるというふうに、どちらも顔をみさえすればすぐに撃ち合っていたのだ。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.46〜47)


     その後、また小銃での戦闘になったが、会津はよほどつかれたのか、あるいは死傷者が出たためか、小銃戦もだいぶ落ち着き、ついに九月一八、九日ごろであったか、矢文を会津から撃ち出した。竹の筒降伏状を入れて小銃で撃ち出したのだ
     しかし、薩長軍は黙殺して戦争を続けた。 だが二二日になって、会津は白旗を立てて出てきた。 それで戦争は停止となった。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.47〜48)


     杉山は、籠城の会津兵は疲労困憊、食糧も弾薬も切れ、降伏したと証言した。これらの証言をみると、一般の兵士は会津兵をそれほど憎んではいなかった。 杉山も会津人の切腹には敬意を表し、弾薬がつき、降伏に追い込まれたことにも同情を示した
     会津軍が矢文で降参の意思表示したという事実も、会津側にはない証言だった。 これは会津軍の軍事局の意思か、あるいは個人的な行動かは判断がつきかねるが、相当に困窮していたことを裏づける証言といえた。
     土佐(高知県)の参謀板垣退助(いたがきたいすけ)や薩摩の伊地知正治(いちじまさはる)は、当初これを無視したことになる。 城内には多くの怪我(けが)人がおり、老人、子どももいて一刻も早い救出が必要だった。 これは非人道的行為であった。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.48)


     四面楚歌(しめんそか)の鶴ケ城

     二四日朝一〇時、番兵一番隊は、午後三時に若松に着陣、会津兵は城内を固く守り、先に進むことは容易ではなく、郭内家中屋敷へ放火、各藩で持ち場を固めた。
     夜、会津兵の甚之丞(じんのじょう)なる者を生け捕り、城内の様子を聞きとった。 家中屋敷で男二人、女六人を殺害し、屠腹(とふく)している者がいるという。 野中正兵衛なる男で、戦場より立ち帰り、家族を論して殺害したとのことだった。 じつに哀れであった。
     二五日、甚之丞の自白で、近くの村に火薬庫三棟あることがわかり、四斤半砲で撃つと、火薬庫が破裂し、大音響とともに崩壊し、木石が飛び散った。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.50)


     禄盗人(ろくぬすっと)
     さらに郡上兵の記録は続く。 八月二三日は城中に老兵しかおらず、総人数一五〇人ばかりで、まことに危なかった。 会津藩の酒井某が薩長に内通し、三ノ丸まで敵兵二〇人ほどが乗り込んだが、城内の老兵は憤怒(ふんぬ)して、追い退けた。 酒井のごとき不忠不義の者には、たちまち天罰がくだって殺され、獄門にかけられた。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.53〜54)


     逃亡兵もいた。 城が危なくなったのを見た二〇〇石、三〇〇石、なかには五〇〇石の上級武士までが、およそ二〇〇人、山中に逃げたということである。 これらの者は禄盗人(ろくぬすっと)というべきである。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.54)


     城はじつに堅固で、わずが二〇〇人で一〇〇〇人の敵から守った。特筆すべきは女子である。 髪を切り、袴(はかま)に一刀を帯し、勇ましき有様だった。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.54)


     地獄の責め
     薩長軍七日町、さらには小田山から大砲を間断なく発射した。 砲弾は雷が落ちるように激しく落下し、地獄の責めとはこのことだった。 敵は昼夜を問わず発射したが、味方は格別、発射せず、敵弾を受けるばかりだった。 弾が極端に不足し、会津の運もつきた感じだった。 しかし婦人は一向平気で、井戸に行き、洗濯し、じつに勇婦というべきであった
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)


     一四日までは場外に出て、町屋の焼け跡から衣類、夜具、味噌(みそ)、塩、醤油(しょうゆ)、鍋釜(なべかま)、桶(おけ)、その他なんでももち出すことができ、寒気をしのぎ、気力を養う事ができた。 しかし煙草は大困窮だった。 小銃は人数分だけあり、火薬もあったが、大砲と砲弾の不足は致命的だった。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)


     困ったのは排泄(はいせつ)物である。 多人数の篭城のため雪隠(せっちん)(便所)がたちまちつかえ、これを掃除する者もない。 道端、屯所脇とも足の踏み場も無い。 糞尿(ふんにょう)のにおいがはなはだしく、その近くでは食事ができなかった。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)


     九月二一日、米沢の上杉家の使者が城中に来て、官軍の兵士は三万人を超え、かつ奥羽征討総督(せいとうそうとく)の仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)が塩川まで出張、容易ならざる形勢であると告げた。 これより降伏の話が進んだ。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)


     九月二二日、ついに降伏のときがきた。凌霜隊も降伏に同意する署名帳を提出し、異存がないことを示した。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)


     凌霜隊の記録もきわめて貴重だった。 藩士の脱走はじつに不名誉なことで、二〇〇人という数字は会津藩の記録には見られない。 勇武を誇る会津藩としては衝撃の数字である。 これもふくめて、今後は『心苦雑記』をくわしく検証する必要がある。
    (《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)


     白旗

     慶応(けいおう)四年(一八六八)九月二一日、松平容保は全軍に開城を伝え、翌二二日、鶴ヶ城(つるがじょう)の北追手門に「降参」と大書した白旗を立て、1ヵ月におよぶ城下の戦いは終わった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.57)


     開城になったのは、九月二三日である。山本八重子(やまもとやえこ)はその夜、三ノ丸を出るときに、城中の城壁に歌を書いた。

      あすの夜はいづくの誰かながむらむ
         なれしみそらにのこす月かげ


     この歌は次をふくめて三通りあり、どれが八重子の歌かよくわからない。

      あすよりはいづくの誰か詠(なが)むらん
         馴れにし大城にのこす月影


      明日よりはいずくの人のなかむらん
         なれし大城にのこる月影


     和歌は人づてになると段々、変わってゆくものである。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.58)


     降伏後のゲリラ戦
     男子は塩川(しおかわ)と猪苗代(いなわしろ)に謹慎となるが、会津藩兵全員が即時、降伏したわけではなかった佐川官兵衛(さがわかんべえ)の部隊は降伏を拒否した。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)


     城下の戦いでの佐川は、歴戦の勇にしては期待はずれだった。佐川の情勢判断は、ひどく間違っていた。 薩長を会津から追い出してやると豪語し、敵を甘く見ていた。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)


     この判断が鶴ヶ城下に大混乱をもたらした。 的確に判断し、避難命令を出しておけば、婦女子、老人の犠牲者は少ないはずだった。 籠城戦に入ってからも、佐川はがむしゃらに突撃して、犠牲者を増やした。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)


     しかし城外に出てゲリラ戦に転じてからは、見違えるような戦いぶりを見せた。 田島(たじま)の栗生沢(くりゅうざわ)では、村人をゲリラ部隊に仕立てあげ、敵兵を恐怖のどん底におとしいれた。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61〜62)


     栗生沢村名主『湯田九右衛門聞書』(『田島町史2巻』)には、要約すると次のようにある。
     「官軍二度田島に来て、乱暴を働いた。一〇〇人ぐらいの悪官軍が残り、村々を押借りするなどした。
    地方の百姓の手をもっては、いかんともしがたく、名主が秘密会議をなし、針生(はりゅう)より田島組一戸一人ずつ出して追いはらうことを決定した。
     九月九日五ツ、田島で会う約束を早馬にて各部落へ知らせた。 谷地で鉄砲を撃ち、教林寺の鐘をついたのを合図に攻撃すると、役所にいた官賊どもは皆、逃亡した」

     官軍の兵士は会津の大部隊が来たと勘違いし、皆バラバラになって逃げた。 田島に残った兵士はつかまって殺され、栗生沢村に逃げ込んだ兵士は峠の奥に追われ、殺された。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)


     栗生沢村の村民は老いも若きも動員され、あたかも大軍がいるかのように、大声を上げ、相手を驚かせ、猟師は鉄砲で威嚇(いかく)した。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)


     奪った荷物は栗生沢村の神社の境内に、うずたかく積み上げられた。 毛布、砂糖、金貨、なんでもあった。本来、この戦い方が、会津の山間では有効な作戦だった
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)


     佐川にひきいられた砲兵隊、朱雀(すざく)三番士中隊朱雀三番寄合組隊田島方面で奮戦していた。九月二四日には、大芦(おおあし)村の敵本営を夜襲し、二〇余人を斬(き)り、弾薬、食糧、小銃を奪い、奮戦していた。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62〜63)


     九月二五日、佐川は降伏の命に接したが「我らは降伏せず」となおも戦いを続けた。薩長は官軍にあらず官賊なりというのが拒否の理由だった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63)


     佐川は容保の使者にも会わなかった。 しかし主君が白旗をかかげて降参した以上、これ以上の戦闘は困難だった。 再三の説得で佐川も涙をのんで降伏した。 会津藩の抵抗はこれで終わった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63)


     大垣藩(おおがき)の感慨
     この戦争の悲惨さについて、攻め込んだ官軍の兵士にも涙ぐむ人が多かった。京都で会津藩と交遊関係にあった大垣(おおがき)藩(岐阜県)は、とくにその感慨を強くした。大垣藩軍事総裁戸田三弥は、次のように語った。

       一、官軍が鶴ヶ城下に攻め入って以来、会津の臣民は老幼を問わず、命をかけて君主につくした。 勝敗はときの運である。 今日の場合、その進退を官軍に任せ、多くの兵士を助け、人民の苦しみを救った会津藩の処置は感嘆すべきものがある。

       一、君公父子および重臣は血の涙をのんで城外の滝沢(たきざわ)村妙国寺(みょうこくじ)に謹慎したが、戦国の習いとはいいながら涙を流さない者はいなかった。
       ことに大垣藩は京都にあって互いに忠勤に励み、春には提携して薩摩(さつま)(鹿児島県)、長州(ちょうしゅう)(山口県)と銃火を交え、秋には一転して会津藩と槍剣(そうけん)を戦わすことになった。 時勢とはいいながら、会津藩の真情、まことに耐えがたく、大垣藩の藩士たちは戦争の悲哀はいまも昔も変わらないと涙にむせんだ。
      (大垣藩奥羽征討史資料)
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63〜64)


     分捕り疫病(えきびょう)
     土佐(高知県)の参謀、板垣退助(いたがきたいすけ)はのちにこう語った。
     「会津は天下の勇藩である。もし上下が心を一つにして戦えば、わが官軍にたやすく降伏することはなかったろう。 ところが一般の人民は官軍に敵対するものがいないだけではなく、協力する者さえ出てくる有様であった」(『自由党史』)
     これが一人歩きし、会津藩がいかにも統率力が欠けていたような印象を与えた
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.64)


     しかもこれも細部を検証すれば、敵に占領されてしまった村の農民が、占領軍に協力するのは当然であり、それが農民にとって自衛の手段だった。 だからどこの村の農民が誰にどのように協力したのか、よく調べないと本当のところはわからない。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.64)


     これを物語る資料がある。 人間は状況に応じてどちらにも変るのだ。板垣退助の証言は、綺麗(きれい)ごとである。 猪苗代対岸の集落に貴重な記録が残っていた。 『増戸治助翁聞書』である。
     これによると、この辺は会津軍の基地で、農兵隊もあった。 地名によって「浜路隊」「横沢隊」「舘隊」「船津隊」「中地隊」といった。 運搬(うんぱん)の人夫だった。 会津の部隊が城に戻ると、そこに官軍という名の薩長兵が入ってきた。 今度は一転して官軍側である。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.65)


     農民にも会津の領民としての意地がある者もいた。 同じ猪苗代湖畔の金曲(かなまがり)地区の話である。 集落の会合に敵兵が姿を現し、農民は酒を振る舞った。 したたかに酒を飲んだこの兵士は、集落の若者がかつぐ駕籠(かご)で猪苗代の町に戻っていった。 駕籠をかついだのは数人の若者だった。
     牛沼川橋まで来たとき、若者たちはこの男を川に突き落とした。 男は「ぎゃッ」と叫んで、川に落ちた。 若者たちは後ろを見ずに一目散に逃げ帰った。 ところが夜半、この男がはい出して助けを求めた。 これを聞いた若者たちは、馬小屋の出口にある厩栓棒(ませんぼう)(厩(うまや)の入り口をふさぐ棒)で敵兵を殴りつけ、引き回したうえ、長瀬川の砂原にうめてしまった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66)


     会津藩の武士のなかに脱走者がいたことは、『心苦雑記』で見たが、それを知った村の若者が「なぜ逃げた」と問い詰めて撲殺したという記録もある。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66)


     ヤーヤー一揆(いっき)
     落城後の混乱を伝える資料に、薩摩の軍医ウィリアム・ウィリスの手記がある。 会津藩降伏直後に若松を訪れたウィリスは、若松近郊で発生したヤーヤー一揆(いっき)を目撃し、会津の農民は圧制に苦しんでいたと次のように記述した。
     「夕方ごろ、あちこちから大勢の群衆のたけりたった叫喚(きょうかん)が伝わってきた。 さまざまな方角に大きな火の手が見えた。 一〇時までに、暴徒らは私が泊まっているところから約半マイル(八〇〇メートル)の村に接近し、一軒の財産家の屋根に放火しながら、絶えず蛮声をはりあげ、非常な興奮状態におちいっている様子だった。
     こまやミカド(天皇)の領民となった百姓らは、彼らの土地について新たに正当な課税を要求し、引き続き土地税にかかわるすべての文書を、あらゆる村から抹殺しようとしていた。 この動向は会津の国、全域にわたって広まっている。 若松からもっとも遠隔な地方でも、農民が真っ昼間に蜂起(ほうき)して、村長の家から物を略奪したのだが、いかなる場合でも土地の記録文を焼き捨てた。
     戦争で破壊される前の若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸に武士が住んでいて、あらゆるものが、この特権階級の生活を維持するために充当されたり、税金をかけられたりしたとのことだ。 残念ながら会津藩政の過酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた」

    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66〜67)


     じつに手厳しい表現だった。 またウィリスは、容保親子の出発の様子も目撃していた。
     「会津藩の先の主君の出発を見送るのに、護衛人を除くと、一〇人余りの人も集まらなかった。 あらゆる方面で冷たい無関心が示された。 傍の野良で働いている農民さえ、かつて名声の高かった会津公の出発を目の当たりにして、面を上げはしなかった。
     私は、武士階級を除けば、藩主に対しても、また同行の家老に対しても、あわれんだり同情したりする表情を見出すことはできなかった。 彼らは残酷で無用な戦争を引き起こした。 彼らが敗北の際切腹しなかった限り、彼らは尊敬に値するすべての資格を失ってしまった、というのが一般の見方であった」
    (『英国公使館員の維新戦争見聞記』)
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.67〜67)


     会津藩政の腐敗
     ウィリスの証言も注目すべきである。 藩公の出立を冷ややかなまなざしで見つめる農民。 なぜこのようなことになったのか。
     原因は複雑で、一概にはいえないが、ウィリスは会津藩政の過酷さと腐敗ぶりにあったと指摘した。 税金が極端に高く、米はほとんど年貢として納めなければならず、その結果、農民はみすぼらしく、小柄で、貧弱だったと書いた。 またいくたびかの戦争に敗れた会津兵は、手におえない無頼漢の集団になり、略奪、放火を繰り返したという記述もあった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.68)


     この証言を資料にして会津戊辰戦争を書いた歴史家の石井孝(いしいたかし)は『戊辰戦争論』(吉川弘文館)で、会津藩の農民対策は旧態依然(きゅうたいいぜん)たるものがあり、相次ぐ税金の値上げで怨嗟(えんさ)の対象になっていたと指摘した。 辛口の会津戊辰戦争論である。 すべてを肯定するわけではないが、そうした部分があったことも否定できない。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.68〜69)


     たとえば猪苗代地区は気候が不順で、凶作の年も多く、そうした自然現象に関して税制の面で配慮に欠ける部分があった。 だが、会津藩が窮地におちいった背景には、ほかにいくつかの理由があった
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)


     財政難の背景
     容保が藩主となった嘉永(かえい)五年(一八五二)から数度の大火凶作が相次ぎ、領民は苦渋の生活を強いられた。 とくに嘉永六年(一八五三)には大旱魃(かんばつ)に見舞われた。
     安政(あんせい)元年(一八五四)江戸の大地震では、江戸屋敷が倒壊し、藩財政の悪化に拍車をかけた。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)


     元治(げんじ)元年(一八六四)の時点で、会津藩の年間総収入は約二一万六〇〇〇両だった。 これに対して京都で一三万八〇〇〇両、会津、江戸あわせて一四万五〇〇〇両が必要だった。不足は六万七〇〇〇両にのぼり、その資金の調達は江戸、大阪の商人からの借金で賄い、見るに見兼ねた新選組(しんせんぐみ)の近藤勇(こんどういさみ)が資金を調達したことさえあった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)


     京都での物入りが多く、その結果、藩財政は破綻(はたん)し、それが農民の負担に跳ね返り、農民から怨嗟の目で見られる原因となっていた。ウィリスの報告では藩士だけ特権階級の暮らしをしていたとあるが、これは誤りで、減給に次ぐ減給で、会津の留守宅からは「もはや生活が成り立たない」と帰国の陳情もなされていた
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69〜70)


     藩の重臣たちは再三、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の辞任を決め、主君容保も、これを福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)や将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に伝えた。 しかしその都度、辞意はつき返された。 容保は二人の前に出ると金しばりにあい、辞任の姿勢を貫けなかった。武士も農民も幕府のために耐え忍ぶ、それが藩主松平容保の考えだった。 いうなれば諸悪の根源は、京都守護職にあった。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.70)


     不思議なことだが、会津藩には籠城戦の準備がまったくなかった。 城に米の備蓄を進言した者が左遷される始末だった。
     「ここに敵が攻め込むはずがない
     という楽観的な理由からだった。会津藩の才人小川渉(おがわわたる)は『志ぐれ草紙』のなかで、家老がそろいもそろって能無しだったと指摘した 世襲制だったので、新陳代謝(しんちんたいしゃ)はなく、すべてが旧態依然としていた。
    (《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.70)


     王城の護衛者
     会津(あいづ)藩(福島県)が戦争という事態におちいった原因は、一にも二にも京都守護職(きょうとしゅごしょく)を受諾し、不慣れな京都に赴任したためだった。 あえて火中(かちゅう)の栗(くり)を拾おうとした会津藩の勇気と決断にも敬意を表さなければならないが、世の中、それが正しく評価されるとは限らない。 幕末の会津藩は、じつに損な役割をになわされた。
     京都守護職とはなにか。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は次のようにのべている。
     「浪人だの藩士だのが大勢、京都に集まって、なかでも長州(ちょうしゅう)(山口県)だとか、薩摩(さつま)(鹿児島県)だとか、所司代(しょしだい)の力でおさえることができかねる。 そこで守護職というのができたんだ。兵力のあるものをあそこへ置こうということで会津になった」(『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』平凡社)
     慶喜はあっけらかんと語っている。 天皇を尊び外国を追い出せ、と主張する過激な尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動を武力でおさえよというのが、会津藩に対する幕府の命令だった。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.71〜72)


     異人嫌いの水戸藩
     幕府の矛盾は水戸藩をみれば一目瞭然(いちもくりょうぜん)であった。 慶喜の生家である水戸藩は徹底的に幕府に楯突いた。山川菊栄(やまかわきくえ)著『覚書幕末の水戸藩』(岩波書店)という本がある。 水戸藩士であった祖父青山延寿(あおやまえんじゅ)の遺構集である。 内容がバラエティーに富んでいてじつにおもしろい。
     文政(ぶんせい)七年(一八二四)の七月、イギリスの捕鯨船常陸大津(ひたちおおつ)浜に近づき、水夫が薪水(しんすい)を求めて上陸した。 これを聞いた藤田幽谷(ふじたゆうこく)は、息子の東湖(とうこ)に、死を決して彼らを斬(き)りに行けと命じた。しかし何分、酒好きの親子である。 この世の別れと飲んでいるうちに水夫たちは藩から薪水を与えられ、本船に帰ってしまった。
     「なんと無念」
     切歯扼腕(せっしやくわん)、ふたりはまた飲んだ。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.73)


     春嶽は膝詰(ひざづ)め談判で藩主松平容保(かたもり)を説き伏せた。容保は断ることができないタイプである。 いつの間にか押し切られ、
     「お受け仕(つかまつ)る
     と承諾した。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)


     会津藩には男子がなく、娘婿として容保をむかえた。 会津藩ともなれば、もっと大藩から養子をむかえることもできたが、八代藩主容敬(かたたか)ももとは高須藩からの養子であり、すんなりと決まった。
     あとで考えれば、いささか安易だった。 会津藩の後ろ盾としては、力不足はまぬがれなかった。 国家老の西郷頼母(さいごうたのも)は、これが不満だった。 自分は藩祖保科正之(ほしなまさゆき)につながる家柄である。 それがつい表に出てしまうのだった。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)


     会津藩には、幕府危急(ききゅう)の折は全力をつくして救援せよという決まりがあった。家訓(かきん)十五ヵ条である。 くわえて会津の侍は少年時代から藩校日新館(にっしんかん)で、主君には絶対服従の厳しい教育を受けて育った
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)


     薩摩藩や長州藩は、激しい藩内抗争があったが、会津藩にはなかった。 普通、どこでも派閥争いとか、意見の対立、世代間の抗争があるのだが、会津には見当たらなかった。 それが健全なことかどうかは疑問だが、幕府から見れば理想的な武士集団に見えた。 とくに刀槍(とうそう)の術は日本一といわれ、全国から視察する者が訪れた。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75〜76)


     白虎隊士(びゃっこたいし)から東京帝大総長になった山川健次郎(けんじろう)の回想によると、日新館の学習はもっぱら漢文習字剣術礼儀作法だった。 低学年は地理も歴史も算術もなかった。 山川は論評はさけたが、理系の軽視を悔やんでいたようで、アメリカのエール大学では物理学を専攻した。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.76)


     国元は大反対
     会津藩に京都守護職の大任がくだったのは、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)の閏(うるう)八月である。 京都と聞いただけで、国元は「とんでもない」と全員が拒否反応を示した。 京都の騒乱は若松(わかまつ)にも伝わっており、
     「わざわざ会津から京都にのぼり火中の栗を拾う必要はない
     というのが地元の声だった。
     一人ぐらい賛成した者がいなかったのか。
     「おりません
     会津若松市にある飯盛山(いいもりやま)の白虎隊記念館館長早川廣中(はやかわひろなか)氏は、自信をもっていい切った。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.76〜77)


     八月一八日の政変

     孝明天皇政変以後の勅書(ちょくしょ)が「真実の朕の存意」とのべ、それ以前は「違う」と否定した。 天皇が初めて自分の意思を表明したのである。
     さらに松平容保に宸翰(しんかん)を与え、長州勢の追放に賛辞を呈した。

     堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘(ゆうかんそうじょう)、朕の在念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也

     文久三年一〇月九日


     そこには御製の歌もそえられていた。 松平容保は初めて過激派の呪縛(じゅばく)から逃れた。 今日に残る肖像を見ると、孝明天皇は線の細い人であった
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.88〜89)


     孝明天皇は自分の知らないところで、勝手に名前を使われたと、中川宮朝彦親王に自筆で「薩摩の協力で、過激な尊皇攘夷派の公家を追放したい」と手紙を出していた。
     「なにがなんでも攘夷」という慶喜の見方は誤りだった。 会津藩は孝明天皇が存在する限り、王城の守護者であり、正義の集団だった。 (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.89)


     会津藩は二つの役目を担っていた。一つは幕府の名代である。 京都駐在大使といった役職である。 警察権ももっており、いわば警視総監も兼ねていた。もう一つは朝廷の命令も受けることである。 これは複雑で、困難な仕事だった。 頼りは孝明天皇だった。孝明天皇の信任がなければ、務めることは無理だった
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.90)


     禁門の変

     京都の空は真っ赤になった。 そけは世紀末の光景だった。 誰も火災は止められなかった。 炎が天をおおい、激しい北風にあおられて鴨川と堀川(ほりかわ)のあいだ、南七条にいたる膨大な地域に火災は広がった。 人々は火災を逃れて町を離れ、街道はどこも逃げ落ちる人でごったがえした。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.94)


     焼死者も数知れずで、生まれたばかりの赤子と産婦を長持に入れ、安全なところまで運び、引き返して先祖の位牌(いはい)をとってくると、母子は黒焦げになっていたという話もある。
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.94〜95)


     本来、この大火災は長州勢の無謀な反乱によって起こったものだが、幕府、会津が逆恨みにあった
    (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.95)


     会津大混乱

     この時期、会津藩は国元財政破綻(はたん)し、京都守護職辞任の声があがっていた。 おまけに会津薩摩同盟の立て役者、公用人(こうようにん)の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が蝦夷(えぞ)地(北海道)に左遷される事件が起こっていた。
     「あれは身分が低いくせに、大きな顔をしている
     といういいがかりをつけられ、こともあろうに蝦夷地に飛ばされた。会津は物ごとを身分で判断する悪弊(あくへい)があった。 これで薩摩とのパイプが切れた。
    (《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.125〜126)


     会津の重臣の思考は保守的すぎて柔軟性に欠け、時代に合わなくなっていた。 この時期、容保は病気がちで、指導力に欠け、混乱に一層、拍車をかけた。
     「会津にはろくな家老がいない
     というのは、誰もが口にすることだった。世襲制なので、家老職の交替はない。 家老の息子は誰でも家老になれた。 この現状に反旗をひるがえす若者はいなかった。目上の人に絶対服従という日新館(にっしんかん)教育のしばりがあまりにも強すぎた
    (《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126)


     秋月が左遷された蝦夷地は遠い北国の果てである。 冬期間は交通断絶である。 一旦緩急(いったんかんきゅう)あれども簡単に呼べるものではない。
     秋月はあまりの寒さで病気になった。 京都にいるときは、主人容保にいろいろ政策を建言したが、いまは北の蝦夷地に謫居(たっきょ)しており、しかも病に臥(ふ)す身である。 それでもじっと蝦夷地で耐えていた。 死を覚悟したときもあった。
    (《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126)


     生き馬の目を抜く変転きわまりない日々である。決め手は情報であった薩長同盟が結ばれ、薩摩が会津を見限ったと知った会津藩首脳は、あわてて秋月に上洛(じょうらく)を求めた半年かかって秋月は京都に戻り、薩摩藩邸に出向いたが、
     「なにも話すことはない
     と門前ばらいを食わされた。
    (《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126〜127)


     薩長同盟は当然の成り行きだった。長州が消えれば幕府、会津の力は強大になる、それは薩摩の利益に反する西郷はそう考えた。
     その仲介の労をとったのが坂本龍馬だった。薩長同盟は双方の利害が巧妙に結びついた軍事経済同盟だった。 龍馬の役割は大きかった。
    (《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.127)


     捏造(ねつぞう)された倒幕の密勅(みつちょく)
     西郷らは慶喜を朝敵とする密勅(みっちょく)を作成したのである『大西郷全集』では、策謀の張本人は公家の岩倉具視(いわくらともみ)だとある。 これは西郷かくしの色彩が濃厚(のうこう)である。 どうみても西郷がかんでいることは疑う余地がない。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)


     会津の資料『京都守護職始末』は、中山忠能(なかやまただやす)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)、中御門経之(なかみかどつねゆき)の三人が、密勅を薩摩、長州にくだしたと記述した
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)


     この日から慶喜容保の思いもよらぬ転落がはじまる。それが西郷の巧妙な謀略だと気づいたときは遅かった。 慶喜はすべてを失い、丸裸にされて捨てられる。人任せで無責任な慶喜がはまった落とし穴だった。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)


     密勅の中身は、どのようなものだったのか。

     詔(みことのり)す。 源慶喜(みなもとよしのぶ)、累世(るいせ)の威をかり、闔賊(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに、忠良を賊害し、しばしば王命を拒絶し、ついには先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆(けいふく)せんとす。 朕、いま民の父母として、この賊にして討たずんば、なにをもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしゅう)に報いんや。 これ、朕の憂憤(ゆうふん)のあるところ。 諒闇(りょうあん)も顧みざるは、万やむべからざるなり。 汝(なんじ)、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もってすみやかに回天の偉勲(いくん)を奏して、生霊を山岳の安きに措くべし。 この朕の願い、あえて惰る懈(おこた)ることなかれ。
    正二位 藤原(ふじわら)忠能
    正二位 藤原実愛
    権中納言 藤原経之
     慶応三年一〇月一三日奏



     要約すれば、徳川慶喜は会津藩や新選組(しんせんぐみ)を使って、みだりに勤王の志士を殺害し、万民を苦しみの谷間に突き落とし、その罪は国を滅ぼすものである。 朕はやむをえず賊臣慶喜を始末し、天地を動かす大事業を進めねばならぬ、という意味になる。天皇はまだ十六歳である。 禁門の変では長州軍が撃ち出す砲弾で気絶した。 そのとき懸命に守ってくれたのは、慶喜であり容保だったのではないか
     もちろんこの密勅、幼帝のまったく知らないところで作成されており、知るよしもない。 後年、正親町実愛が「あれは玉松操(たままつみさお)という人物が書いたもので、ここに名前のある三人岩倉具視の四人しか知らないことだ」と暴露した。革命の裏面はこんなものだった
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149〜151)


     無為無策(むいむさく)

     幕府軍のなかで、善戦したのは会津藩の兵士たちだった。 会津藩の大砲隊の奮戦は目ざましいものがあった。 大砲を撃ちつくしたあとは槍で突進した。 その勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦いぶりは、この戦争の圧巻だった。 なかでも白井五郎太夫佐川官兵衛突撃隊は薩摩兵の度肝(どぎも)を抜いた。 中村半次郎(なかむらはんじろう)ひきいる薩摩の先鋒隊に突進し、四〇人中二八人を殺した。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.159〜160)


     にもかかわらず全体では負け戦になったのは、一にも二にも幕府陸軍のふがいなさと、戦略のお粗末さだった。 幕府陸軍は烏合(うごう)の衆(しゅう)で、逃げまどうだけだった。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)


     最後の決め手は西郷岩倉が用意した錦旗(きんき)である。 二人は京都市内の織物問屋から生地と金糸を買い占め、菊の御紋(ごもん)を縫いつけた錦旗をつくり、ようやく三日夜にできあがり、四日の朝、戦場にかかげた。 錦旗には計り知れない威力があった。 会津の佐川官兵衛でさえ「ああ賊軍になった」とたじろぎ、これを聞いて慶喜は顔面蒼白となり、江戸に逃亡をはかった
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)


     慶喜は他人に責任を押しつける癖があった。 たまたま慶喜のもとに会津藩士神保修理(じんぼしゅり)が来て、「速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の策をめぐらさるべし」と戦況の不利を伝えた。
     臆病風が吹きはじめた慶喜にとって、この報告はわたりに舟だった。 慶喜はこれに乗った。 ひそかに天保山沖に浮かぶ幕府の軍艦に逃れ、江戸を目指した。 軍艦にはこともあろうに、会津藩主松平容保桑名藩主松平定敬老中板倉勝静らの姿もあった。 新門辰五郎の娘お芳もいた。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)


     なにをかいわんやであった。 御大将が戦っている部下を捨てて逃亡したのは、前代未聞(ぜんだいみもん)のことだった。 慶喜の信用は失墜(しっつい)し、これで幕府は決定的なダメージを受けた。神保は不運だった。 慶喜逃亡の責任をとらされて自刃に追い込まれた。 考えられないことばかりだった。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.161)


     江戸の重臣たちは戦争の勃発(ぼっぱつ)を知らずにいた。 慶喜が軍艦で江戸に戻ってきたというので、勝海舟が品川の浜御殿海軍所にむかえに出た。 どうも様子がおかしい。
     「いかがなされたのでござるか
     と聞いても誰もが黙っている。 いずれも顔色は真っ青で、互いに目を合わせるだけだった。 そのうち板倉勝静戦争があって負けたといった。
     「なんということだ。 あんた方、どうなさるつもりだ。 だからいわねえこっちゃねえ
     勝は板倉を見つめて怒りをぶちまけた。 上様の御前もへったくれもなかった。 江戸に知らせもせずに戦争をはじめたことに憤慨した。 しかも負けてしまったのだ。どうしてくれるんだと勝が怒鳴った。
     この一事をみても、幕府という組織はまったく機能していないことは明らかだった。慶喜が一人ですべてをぶちこわした
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.161〜162)


     江戸無血開城の舞台裏

     西郷は慶喜の切腹を考えていた。 そうしなければこの戦争は終了せず、薩摩、長州がもくろむ新政府の樹立も困難だという考えだった。はこれを見越して、
     「徳川といえども天皇の民である
     とたたみかけた。 この言葉に西郷はつまった。
     「いろいろとむずかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて(この問題を)お引き受けします
     と西郷はいった。
     大胆不敵(だいたんふてき)な発言だった。 西郷の方が大人物だった。 同じ日本人ではないか、「勝先生なら信用はできる」という感覚があった。修羅場(しゅらば)において重要なことは、やはり人間関係だった幕府などいらない、つぶせと西郷にいったのはほかならぬ勝海舟だった。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.163〜164)


     「西郷のこの一言で、江戸一〇〇万の生霊も、徳川氏もその滅亡をまぬがれたのだ」  勝はのちに『氷川清話(ひかわせいわ)』で回想している。  結局、江戸城を引きわたし、慶喜が江戸を去ることで、会談は決着した
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.164)


     じつはこの会談にはもうひとつ、かくされた事実があった。イギリス公使パークスが戦争に反対していたのである。  江戸が壊滅すれば、日本経済は大混乱し、貿易にも支障がでるというのがパークスの言い分だった。
     これを聞いた西郷は愕然とした。 イギリスの反対を押し切れば、武器弾薬が押さえられてしまう。 戦争にならなかった。
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.164〜165)


     残るは会津と庄内(しょうない)(山形県)だった。 なかでも最大の抵抗勢力は会津だった。しかし慶喜も勝も会津を援護はしなかった。 会津を目指して薩摩、長州ほか連合軍の侵攻がはじまった。幕府の身代わり、生(い)け贄(にえ)として会津が選ばれた
    (《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.165)


     木戸孝允による会津処分

     会津藩に対する処分は、長州木戸孝允が握っていた。 薩摩は穏健の傾向があったが、木戸は厳罰で臨んだ。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.175〜176)


     木戸が考えたのは旧会津藩士とその家族一万七〇〇〇人余の七割、一万二〇〇〇人余を蝦夷(えぞ)地(北海道)、三割、五〇〇〇人余を盛岡藩の北、現在の青森県に移住させ、開墾(かいこん)をさせるというものだった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)


     当時、蝦夷地の開拓は兵部省(ひょうぶしょう)の管轄(かんかつ)だった。 担当は木戸の命を受けた大村益次郎(おおむらますじろう)である。 大村は会津降人四〇〇〇人を即刻蝦夷地に移住させ、翌年には八〇〇〇人、計一万二〇〇〇人を移住させる計画を立てた。 家屋三〇〇〇戸や厩(うまや)の建築、農具の費用もふくめて四六〇万円と米九万石の下付も上申した。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)


     場所は石狩(いしかり)、発寒(はっさむ)(札幌市)、小樽(おたる)内をふくむ田城(たしろ)の国だった。 蝦夷地はまだ国郡の行政区画は設定されておらず、田地の意味で、降人による蝦夷地警備も意図したので、の字を使った。屯田兵のはしりである。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)


     とにかく会津人を遠くに追いやりたい、その一心だった。近くにおいたらいつ反乱を起こすかわからない木戸は会津人に恐怖感を抱いていた。 薩摩が担当だったら違っていただろうが、木戸はこれでもか、これでもかと会津をいじめた
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)


     ところが会津から第一陣、第二陣を送り出した段階で、北海道の開拓兵部省ではなく開拓使が当たることに変更された。
     長官に鍋島直正(なべしまなおまさ)、次官に清水谷公考(しみずだにきんなる)が任命された。鍋島は佐賀藩主、清水谷は公家の出である。 二人とも実務には遠い人物で、鍋島は高齢のため一度も蝦夷地に姿を見せなかった。 このため明確なビジョンも示せなかった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176〜177)


     それではためだと、二人に代わって登場したのが薩摩黒田清隆(くろだきよたか)である。 没落会津士族に開拓などできない、開拓は農家のニ、三男がいいと黒田は考えた。
     黒田は長州嫌いで、越後の戦争では長州の参謀山県有朋(やまがたありとも)と不和で、口も利かないほどだった。木戸の案など問題外とはねつけた。 たしかに蝦夷地の開拓は黒田のほうがまともだった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)


     陸奥の地勢
     結局、北海道移住は中止となったので、会津人の大半は旧盛岡藩の地に移ることになった。 士族を放棄して若松の近郊で農業を営む人もいた。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)


     『会津戊辰戦史』に、「一時、会津にとどまる者あり、二一〇戸、あるいは農商に帰する者あり、五〇〇戸、あるいは東京、または各地に赴きて生活を求める者あり、三〇〇余戸」という記述がある。一家族五人と計算すると、五〇〇〇人前後は会津藩から脱藩し、のちの斗南(となみ)藩士にはならず平民になる道を選んだ。 これも一つの判断だった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)


     残る二八〇〇戸、一万七〇〇〇人余が陸奥の斗南藩に未来をたくした。 会津藩に与えられた旧盛岡藩の土地は、二戸(にのへ)郡金田一(きんだいち)以北の三戸(さんのへ)、五戸(ごのへ)、野辺地(のへじ)、田名部(たなぶ)通りで、そのあいだに七戸(しちのへ)藩、八戸(はちのへ)藩がはさまり、この二藩は与えられず南北に分断されていた。土地の豊かなところが外されていたのである。 ここに罠(わな)があった
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177〜178)


     現在の岩手県から青森県にかけて、一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)まで戸という地名があった。 これは奥州藤原(ふじわら)王朝の時代につくられた特別な牧場の場所で、糠部(ぬかのぶ)と呼ばれる地域だった。 中世後期の大名南部氏は、一族が一戸から九戸にわかれて定着し、それぞれの地に城郭があった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)


     しかし、マサカリのようなかたちをした下北半島は、米のとれない地帯だった。 下北は田名部五〇〇〇石といわれ、江戸時代の田名部通りの水田には、(ひえ)が栽培されていた。 稲もわずかには栽培されていたが、全体の一分程度であった。
     冬は積雪が多く、秋は西の烈風に悩まされ、春は遅く、夏は太平洋から吹く冷たい霧に襲われる厳しい風土だった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)


     三人の幹部
     新制斗南藩幹部三人の顔ぶれは、次のようなものだった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)


     大参事  山川浩(ひろし)(大蔵)

     最高指導者は軍事総監を務めた山川浩(大蔵)である。 名前を大蔵から浩に変えての大参事就任だった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178〜179)


     山川は弘化(こうか)二年(一八四五)、鶴ヶ城の北出丸に面した本ニノ丁に生まれた。 本一ノ丁には西郷頼母(さいごうたのも)、萱野権兵衛らの屋敷があった。 父を早く亡くしたため祖父に育てられた。山川の家は藩祖保科正之(まさゆき)にしたがって信州(しんしゅう)から会津に移り、家禄(かろく)三〇〇石の中級武士であった
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)


     祖父兵衛(ひょうえ)は二五歳で目付になり、普請奉行町奉行御蔵入奉行大目付家老ととんとん拍子に出世し、家禄は一〇〇〇石だった。 種痘(しゅとう)や西洋銃をいち早くとり入れ、開明派の人物だった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)


     山川の兄弟姉妹は七人いて、姉の二葉(ふたば)は政務担当家老の梶原平馬に嫁いでいた。 弟健次郎(けんじろう)はのちにアメリカに留学し、帰国して東京帝国大学に奉職、総長を務める。 妹の咲子(さきこ)(捨松(すてまつ))もアメリカに留学、帰国して鹿鳴館(ろくめいかん)の華とうたわれ、薩摩の大山巌(おおやまいわお)と結婚する。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)


     山川はこのとき、二五歳だった。 今日の感覚でいえば、まだ青年である。この若さでなぜ大参事に選ばれたのか。 それはひとえに彼の行動力と人望だった。幕府歩兵奉行を務めた大鳥圭介(おおとりけいすけ)の印象記が残っている。 二人は日光の戦場で戦っていた。
     「山川氏は当時、会津藩の若年寄なる者にて、両三年前小出大和守にしたがい、オロシャ(ロシア)に至り、西洋文明の国勢を一見し来たりし人にて、一通り文字もあり、性質怜悧(れいり)なれば、君侯の鑒栽(かんさい)にて、この人を遣わし、余と全軍のことを謀らしめんがために送られたり。 余一見そのともに語るべきを知りたれば、百事打ち合わせ、大いに力を得たり」
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.180)


     移住者への布告

     移住に当たり、藩では十七万両を新政府から受けとっていたが、大半を移住費で使い果たし、農具代や病人の手当て、住居費などで借金はふくらむ一方だった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.185)


     会津では戦争中、城中で贋金(にせがね)をつくった。斗南でもそれがおこなわれ、露見して九四人が検挙され、一三〇人余が手配された。 贋金は銀台に金メッキをほどこした代物だった。 斗南の会津人は恥も外聞もなかった。 日々の暮らしを立てるため、人々は、紙漉(かみす)き傘張提灯(ちょうちん)張魚網づくり機織、なんでもやった。
    (《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.185)


     半病人

     五郎一家の住まいは間口三間の店づくりで、六畳の二階と店と炉のある一〇畳の台所兼用の板敷きと納屋があった。 部屋は畳はなく、障子はぼろぼろにやぶれていた。 板敷きには(むしろ)を敷き、障子には米俵を縄で縛りつけてすごした。 夏はいいだろうが、冬は地獄だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187)


     日々の食事は稗(ひえ)メシで、明治末になっても稗七分米三分の「カテメシ」だったというから、もともとどうにもならない土地柄だった。 完全に米食となったのは昭和一〇年代以降である。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187)


     五郎の家では山に入って蕨(わらび)の根を集め、水にさらしてすすぎ、水の底にたまる澱粉(でんぷん)をとり出し、乾燥させて粉にし、これに米糠(こめぬか)をまぜ、塩をくわえて団子として焙(あぶ)って食べた。 海辺で拾った昆布は真っ白になるまで真水でさらし、細かく刻んで乾燥させ、カマスに入れて保存し、(かゆ)に入れて食べた。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187〜188)


     ときには馬鈴薯(ばれいしょ)、大豆などをくわえて薄い粥をつくって食べた。これはたいへんな御馳走(ごちそう)だった凶作があっても下北(しもきた)で餓死者が少なかったのは、海藻蕨の根があるためだった
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)


     地元の人々の食事も似たようなものだったが、違うのは味噌汁(みそしる)だった。 地元の人は味噌汁に凝った。イワシの焼き干しでダシをとり、干した大根葉菜っ葉を汁の具にし、季節によっては大根馬鈴薯を汁の具にして食べた。 五郎の家では味噌汁がなかったので、いっそう空腹感を強くした。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)


     田名部の寒さは格別で、陸奥(むつ)湾から吹きつける北風が部屋を突き抜け、炉端でも零下一〇度、一五度がざらだった。 粥は石のように凍り、これを溶かしてすする有様だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)


     五郎の一家、父と兄嫁と五郎は布団もなく、(わら)にもぐって寝る始末で、五郎は熱病にかかり四〇日も動けず、一時はどうなるかわからなかった。 ついには栄養失調で凍死寸前となり、髪の毛が抜けて、半病人になった。 太一郎の不在が招いた極貧の暮らしだった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)


     生活費はどのようにしてかせいだか、父が習い覚えた網すきでわずかな手間賃をかせぎ、兄嫁は授産所機織をして工賃をかせいだ。 わずかな金額だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)


     五郎がを口にした話は有名である。 寒さがゆるんだころ、漁師が来て、川の氷の上で遊んでいた犬を撃ったが、氷が薄くてわたれない。 犬はそのままになった。 この犬は近所の鍛冶(かじ)屋の飼い犬で、五郎は父にいわれて鍛冶屋にもらいに行った。 ところがもう一人、会津(あいづ)人が鍛冶屋に行ってもらい受け、五郎の家と半分ずつわけ合った。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.189)


     その日から五郎の家の食事は毎日、塩で味つけした犬の肉になった。 兄嫁は気味悪がって手をつけず、五郎は無理して口に入れたが、喉(のど)につかえて吐き気を催した。 これを見て父が怒鳴った。
     「武士の子たることを忘れしか。 戦場にありて兵糧(ひょうろう)なければ、犬猫なりともこれを食らいついて戦うものぞ。 ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれり。 会津(福島県)の武士ども餓死して果てたるよと、薩長(さっちょう)の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱(ちじょく)なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱(こくじょく)そそぐまでは戦場なるぞ
     語気荒くしかりつけた。五郎の父佐多蔵の考えは、陸奥にきた会津人に共通のものだった。 このような事態におちいったのは、薩長との戦争に敗れたためである。 いずれこの恨(うら)み晴らしてやる。 それまでは歯をくいしばって耐える。 そういう負けじ魂だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.189〜190)


     絶望的な暮らしぶり

     笠尾の家には会津から持参した稲荷明神があった。 笠尾は川に流すと叫(さけ)んだ。 もはや会津も関係ないという心境だった。 もったいないので類右衛門はこれをもらい受け、自分の屋敷に守護神として祭った。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.193)


     七月二四日のことだった。 妻の父、樋口安之丞が大病になり、危篤(きとく)だと連絡があった。 義父の住まいは宿戸(しゅくのへ)、現在のむつ市川内(かわうち)町宿野部(しゅくのへ)である。 斗南ヶ丘からの距離は一〇里、四〇キロほどになる。
     類右衛門の記録では未明に家族揃って出立し、昼ごろ川内に着き、昼飯を食べた。 そして午後五時ごろ、やっと宿戸に着いたとある。 斗南ヶ丘から川内までは三〇キロ、川内から宿戸は一〇キロたらずである。 時間はぴったり符合する。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.193〜194)


     廃藩置県(はいはんちけん)
     懸命な努力にもかかわらず、会津人にはツキはなかった。 斗南藩士に決定的な打撃を与えるできごとが明治四年に起こった。廃藩置県(はいはんちけん)である。
     二月に幼君容大が五戸から田名部に移り、なんとか藩士たちを勇気づけようと下北半島を巡回した。 容大のかわいらしい姿に人々は感激したが、それはひとときの喜びでしかなかった。 五ヶ月後の七月に斗南藩が消滅して斗南県になり、その二ヵ月後には斗南県も消滅、青森県になるという大変革だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.195)


     「なんのためにこれほど苦労をしてきたのか
     永岡久茂はうめき声をあげ、山川もブルブルと身体をふるわせ、人々の口からは、
     「大久保利通(おおくぼとしみち)を殺してやる
     という声さえもれた。
     広沢安任(ひろさわやすとう)の脳裏に、不吉な予感がよぎった。 あまりにもひどい生活のため、体制への怒りが爆発、テロ行為に走る者が出るのでは、という危惧(きぐ)である。 永岡久茂は、酒が入ると、薩長藩閥政府への批判を口にし、
     「いつの日か奴らをたたき斬(き)ってやる
     と吠(ほ)えるようにうめいた。
     「めったなことを口に出すな。 軽挙妄動はつつしみたまえ
     広沢はその都度、厳しくたしなめたが、永岡は誰はばかることなく公言した。永岡の怒りは当然だった。明治政府の財政は、東北、越後が負担していたからである
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)


     会津藩を筆頭に奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)にくわわった諸藩は財産を大幅に没収され、新政府の高位高官の恩賞もそこから捻出(ねんしゅつ)されていた
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)


     奥羽、越後一九藩、関東の四藩、その他二藩から没収した石高は一〇八万三四〇〇石だった。 会津藩は二八万すべてを没収され、新たに斗南三万石を支給されたので二五万石の没収だったが、斗南の三万石は実質七〇〇〇石という見方もあり、すべてを奪われたといってよかった。斗南藩のどん底の暮らしは、明治政府の略奪によるものだった
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)


     戊辰(ぼしん)戦争戦功のあった藩に賞典禄(しょうてんろく)が下付された薩摩(さつま)藩と長州(ちょうしゅう)藩主には永世賞典禄一〇万石が与えられ、西郷隆盛(さいごうたかもり)には最高二〇〇〇石が与えられ、木戸孝允(きどたかよし)や大久保も一八〇〇石が下付された。栄華をきわめる新政府の財政を負担したのが東北というのは、慙愧(ざんき)に堪えなかった。それを見越して無理やり戦争に追い込んだのか。 この事実をもっと掘り下げる必要がありそうだった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)


     しかし勝利した諸藩もじつは財政が火の車だった。 薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)も例外ではなかった。東京に出た政府高官大名格の生活だったが、地元は違っていた
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)


     各藩とも戊辰戦争で使った莫大な戦費により財政が破綻(はたん)、一般兵士の恩賞までは手がまわらず出征兵士に不満が渦(うず)巻いた。 これに百姓一揆(いっき)もくわわり、藩の維持が困難になっていた。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)


     そこで長州藩は思い切った処置に出た。奇兵隊(きへいたい)、遊撃隊(ゆうげきたい)などの部隊の縮小、再編である。 これに隊員が猛反発し、約二〇〇〇人が脱走して、藩庁をとり巻き、一触即発の緊迫状態となった。 これが萩(はぎ)の乱西南戦争の遠因となった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)


     明治政府の重大犯罪

     青森県庁の最大の特色は、旧斗南県職員をできるだけ多く採用したことである。 東京事務所長の梶原平馬(かじわらへいま)が庶務課長に任命され、山川田名部支庁長永岡が田名部支庁大属、小出鉄之助小川渉(おがわわたる)、野口九郎太夫水島純沢三郎大庭恭平ら二〇人ほども青森県庁の職員に採用された。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.206〜207)


     当初の機構は八十数人と小規模なものであり、そこにこれだけの会津人が県庁入りしたことは異例ともいえた。薩長土肥弘前藩の出身者に主要ポストを占められるなかで、いまでいえば秘書課長兼総務課長といった庶務課長に梶原をすえたことは、旧斗南藩士の不満をそらす意味もあったろう八戸藩大参事の太田広城(おおたひろき)は三戸支庁詰になった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)


     このころ、野田豁通県令が大蔵省に提出した旧斗南藩に関する次のような報告書がある。
     「三三〇〇ほど各所出稼ぎあるいは離散の由にて、当時在籍およそ一万四〇〇〇人余のうち老年ならびに疾病の者六〇二七人、幼年の者一六二二人、男子壮健の者二三七八人ほどの見込み」(『青森県史』)
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)


     一万四〇〇〇人のうち、壮健の者がたった二三七八人というのだから、ひどすぎる数字だった。長州の木戸孝允の考えは、会津人を自然淘汰(しぜんとうた)させることだった。 その思惑は見事に成功した。これが当時の明治政府のやり方だった。これはもう重大な犯罪だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)


     山川広沢は、野田豁通になお一層の救済をせまった。
     「老人や病人が六〇〇〇人もいる。 なぜ我々が若松に住むことができなかったのか、新政府の会津に対する報復が、こうした事態を招いた
     「なんとかなるだろうと、安易に考えた我々にも落ち度はある。 しかし、このような状況におちいった根本原因は新政府の冷酷なやり方にある
     山川や広沢は強く主張した。 野田豁通も素直にそれを認め、解決の姿勢を示した。 野田が大久保利通と折衝し、立案した最終案は次のようなものだった。

      一、明治六年(一八七三)三月限り手当米は廃止する。
      ニ、斗南ヶ丘、松ヶ丘の開拓は中止する。家業は農工商各自由とする。
      三、ほかに移る希望の者は一人につき米ニ俵、金ニ円、資本として一戸につき金一〇円を支給する。
      四、管内で自立を希望する者へは一人につき米五俵、金五円、一戸につき資本として五円を支給する。
      五、開拓場は三本木一ヵ所に定める。
      六、開拓場に移転を希望する者は、永住を覚悟し、農業をおこなう旨、誓書を出す。 ただし一戸の中に強壮な男子一人がいなければ、許可しない。
      七、男子がいなくても一戸のなかに強壮な婦人が二人以上いて、病人や障害者がいない場合は検査の上、許可する。

     なんと各自勝手たるべしというのが、会津人に対する最終処分だった。 会津藩の再興を夢見て斗南藩の創設に当たった一万七〇〇〇余人の会津藩の関係者は、生きる糧(かて)を求めて全国に散らばっていった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207〜209)


     旧藩士たちはそれぞれが新しい生活を選択した。 資本といっても支給されるのはスズメの涙である。 病人を抱え、やむなく下北にとどまる者もいた。 元会津藩という身分をかくし、日雇労務者をしながら細々と暮らす人もいた。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.209)


     『むつ市史』近代編によると、旧斗南藩士の移転先は、やはり郷里の若松県が多く、八五六戸、東京府五二戸、新潟県一一戸、開拓使(北海道)九戸、福島県八戸、京都府七戸、神奈川県四戸、木更津(きさらづ)県(千葉県)三戸、栃木県二戸、八戸県(青森県)二戸、印旛(いんば)県(千葉県)二戸、静岡県一戸、宮城県一戸、白川県(熊本県)一戸、千葉県一戸、岩手県一戸、その他九戸などとなっていた。
     若松に大勢の人が戻ったことになる。 ただし若松に戻ったところで、住まいも土地もなく、日雇いで暮らす日々だった。
    (《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.209)


     鹿児島潜入
     山川は大胆不敵(だいたんふてき)、敵の本丸、鹿児島に潜入した。
     「山川は外国人に多額の借金があり、催促をさけるために鹿児島に逃れた
     という説もあったが、そうではなかった。
     山川が鹿児島で頼ったのは海江田信義(かいえだのぶよし)(武次)だった。 通称有村俊斎(ありむらしゅんさい)、有名な有村三兄弟の長男で、生麦(なまむぎ)事件では奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)が斬(き)ったイギリス人のとどめを刺し、寺田屋事件でも活躍し、戊辰(ぼしん)戦争では東海道先鋒総督参謀(とうかいどうせんぽうそうとくさんぼう)として江戸城受けとりの大役をはたした人物である。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.219)


     薩摩出身の文豪海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)が「禍(わざわい)の種」という一文に海江田を書いている。
     「海江田武次−有村俊斎という男は、硬骨で勇敢で、一本気で、強いことがなにより好きで、典型的な薩摩隼人(はやと)ですが、頭はあまりよくないのです。 それは、世間には、野にあるあいだは権威筋にたいして倨傲(きょごう)で、いかにも反権威主義が旺盛(おうせい)のように見えるけど、ひとたび権威につらなる地位につくと、権威者にたいするもっとも忠実な奉仕者となる人がよくいるものですが、その類の人間でもあったようです」
     と主君島津久光(しまづひさみつ)の腰巾着(こしぎんちゃく)だったと評した。 山川はその腰巾着に目をつけたのかもしれなかった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.220)


     陸軍学校の教官はフランス人

     野田豁通の喜びもひとしおだった。五郎の軍服姿をみて、
     「これでよか、これでよか
     と連発し、自分のことのように喜んでくれた。
     「野田豁通の恩愛(おんあい)いくたび語りてもつくすこと能(あた)わず。 熊本細川(ほそかわ)藩の出身なれば、横井小楠(よこいしょうなん)の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞(ふさ)がる、しかるに後進の少年を看るに一視同仁(いっしどうじん)、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石(そせき)を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言(かんげん)をもってせず。 常に温顔を綻(ほころ)ばすのみなり
     五郎はこのときのことをこう記述している。山川と並ぶ大恩人が野田だった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.226〜227)


     会津の少年は想像を絶する苦境に追い込まれた。 しかし不屈の闘志と周辺の温かい励ましで、五郎のような少年が育った。 五郎のがんばりを会津武士道の発露という人もいるが、それは五郎のひたむきな努力に周囲の人々が感動し、協力を惜しまなかったせいでもあった。 五郎の受験の成績はわからないが、賊軍の会津からも入学できたことは、試験がいかに平等であったかを物語るものだった。 明治政府にも評価すべきことはいくつもあった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.227)


     西南戦争
     明治一〇年(一八七七)の西南戦争は、まさに雪辱の好機到来であった。 山川をはじめ、じつに二〇〇人余の元会津藩士がこの戦いに参加し、薩摩と戦った。 山川は西郷隆盛軍に包囲されていた熊本城の救援に当たり、見事、西郷軍を敗った。
     元会津藩士たちにとって、会津戊辰戦争雪辱の日であり、競って警視隊に志願し、会津抜刀隊を編制し戦った。 元会津家老、鬼官兵衛(かんべえ)こと佐川(さがわ)官兵衛が戦死したのもこのときだった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.227〜228)


     アメリカに留学した弟妹
     山川家は、九歳下の弟健次郎によって確固たる地位を築く。 健次郎は会津戊辰戦争では白虎隊(びゃっこたい)に選ばれたが、年齢が規定より一歳若いため、戦場には出なかった。 母や姉らと一緒に籠城(ろうじょう)し、辛酸をなめた。 飯盛山(いいもりやま)で自刃した白虎隊士は藩校日新館(にっしんかん)の上級生たちであり、このことはその後の健次郎に深い影響を与えた。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.230)


     落城後、猪苗代(いなわしろ)に謹慎を命ぜられたが、秋月悌次郎(あきづきていじろう)が敵である長州藩士奥平謙輔(おくひらけんすけ)に頼み込み、健次郎を越後に脱走させた。 健次郎は奥平の書生となり、さらに東京に出て、沼間守一の塾で英語を学び、明治四年、北海道開拓使の留学生としてアメリカに渡った
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231)


     妹捨松第一回女子留学生として、下北からアメリカに向かった。 明治の初め、しかも朝敵の会津藩から二人の少年少女がアメリカ留学した。 いまでこそ外国留学も一般化しているが、山川浩がいかに人材育成に力を入れ、いつの日か、会津のいわれなき汚名をそそごうとしたかがわかる
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231)


     健次郎は、アメリカのエール大学物理学を学び、明治八年(一八七五)に帰国、東京帝国大学の前身である東京開成学校教授補となり、その後、東京大学理科大学教授理科大学学長東京帝国大学総長の座にのぼりつめる。 さらに、九州帝国大学総長京都帝国大学総長を歴任し、男爵を授けられ、明治から大正にかけて学界、教育界の大御所としての輝かしい地位を築くことになる。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231〜232)


     兄亡きあと、松平家の顧問となった健次郎に、朝敵の汚名をそそぐ感激の知らせが入ったのは、大正一四年(一九二五)一月二三日のことであった。宮内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)から呼び出しがあり、松平容保の四男、駐米大使松平恒雄の長女勢津子秩父宮妃殿下にむかえたいとの相談であった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.232)


     ご婚儀は、昭和三年(一九二八)九月一四日に挙行され、会津関係者は感涙にむせんだ。 兄浩の願いは、弟健次郎によって達成され、山川浩は大参事としての使命と責任を果たすことができたのである。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.232)


     思案橋(しあんばし)事件の真相
     「ニシキノミセヒラキハコンニチ
     という前原一誠蜂起の電報を手にした永岡は、かねての計画を実行に移した。
     永岡の計画とは、千葉県庁を襲い、佐倉(さくら)鎮台の兵を味方に引き入れ、日光から会津に入り、前原と東西呼応して、政府を転覆させるというものであった。 永岡に同調したのは同じ元会津藩士の中原成業竹村俊秀井口慎次郎らであった。
     永岡らは一〇月十九日の夜、東京日本橋小網(こあみ)町一丁目の思案橋(しあんばし)から舟で千葉に行こうとして警官と格闘になった。 世にいう思案橋事件である。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.235)


     事件の顛末(てんまつ)は次のようなものだった。 永岡らが小網町の船宿に行き、小舟五隻に分乗して、しきりに出発をうながしたが、船宿の主人が一行をあやしんで舟を出さず、日本橋警察署に密告し、警部補寺本義久ら四人が現場に行き、永岡らと格闘になった。
     中原成業、井口慎次郎らが抜刀して巡査三人を斬り伏せたが、一人に逃げられ、警鐘を乱打され、旗揚げは失敗に終わる。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     この格闘の際、永岡は誤って井口に腰を斬られ、警官に捕えられてしまった。 その傷がもとで永岡は翌明治一〇年一月二二日、鍛冶橋(かじばし)の獄舎で死んだ。 享年三八。 まだこれからの人生だった。 永岡には、母えきと妻せんがいた。 せんは柳橋芸者で、後妻であった。前妻はまさといったが、子がないとして離縁されていた
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     中原成業、竹村俊秀、井口慎次郎らも捕えられ、処刑されたが、中原は四九歳。 会津戊辰戦争では越後口の遊撃隊長として活躍した宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の名手で、戦いのあと若松県で官吏を斬り、逃亡していた
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     竹村三二歳斗南に移り、一時は青森県開墾(かいこん)係長になったが、薩長に一矢をむくいんと上京し、永岡の門下にはいっていた。山川浩からの信任も厚く、会津の戦いの際は狙撃隊長として山川を守り、奮戦した
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     井口は二四歳。日新館で学んだ俊英であった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     中根米七だけは会津まで逃れた。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)


     この思案橋事件には、もう一つ意外な事実があった。 永岡の書生、平山圭一郎根津金次郎の二人が事件前夜、警視庁大警視川路利良(かわじとしよし)に密告したというのである。
     「まさか
     会津の人々は顔を見合わせた。
     この事件を聞いた多くの会津人は、永岡を非難することはなかった。
     それはすべての会津人が抱いてきた薩長への報復を、身をもって実践しようとした永岡への心からの同情といたわりの気持ちからであった
    。 山川の弟健次郎でさえ、永岡を密告した平山、根津の二人を裏切り者として憎んだ。 永岡の生き方もまた元会津藩士として、やむにやまれぬ心情の発露であった。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236〜237)


     永岡の生涯をあれこれ論評することは容易である。 時代を見る目がないとか、感情におぼれたとか、いろいろあるかも知れない。 しかし誰か一人、永岡のような生き方をしなければ、おさまらなかった背景があったことも理解しなければならない。
    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.237)


     永岡は次のような詩を詠んでいた。 死を覚悟していたのである。

      今日、隅田川(すみだがわ)で去り行く春を惜しんでいる
      桜の花が舞い散っていくさまは、堪えがたいほどの憂いである
      来年も隅田川には、春がまた訪れるだろう、しかし、それを見ることはあるまい
      誰一人、私が隅田川のほとりで、辞世の詩を詠んでいるなど知るはずもない

    (《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.237)


     消えた首席家老

     仙台藩は会津藩が謝罪要求を受け入れれば、総督府とのあいだにたって和解に尽力するとのべた。 仙台藩が示した謝罪の内容は、藩公の城外屏居(へいきょ)と謀主(ぼうしゅ)の首級を出すことだった。 薩長の要求主君松平容保(まつだいらかたもり)の斬首、鶴ヶ城(つるがじょう)の開城、領地の没収だったが、仙台藩の斡旋(あっせん)案は、ハードルの低いものだった。 城、領地ともに残すという穏健な提示だった。 しかし、梶原はこれを拒否した。
     「主君の城外謹慎は当然だとしても、謀主の首級を出せというのはいかがなものか。 皆、国家に忠節をつくした者であり、首は出せぬ。 伏見の戦争は前将軍が罪を一身に負い、謝罪嘆願し、朝廷もこれを入れておる。 解決ずみではないか
     と会津藩の無罪を主張した。 すると仙台藩首席家老但木土佐(ただきとさ)がいった。
     「であれば、総督府(そうとくふ)に貴藩の謝罪嘆願をとり次ぐことはできぬ。 貴藩の決心やいかに
     梶原はしばし黙考したあと、
     「一国、死をもって守るのみでござる
     と答えた。 仙台も黙ってはいない。 重臣の一人、真田喜平太(さなだきへいた)がいい返した。
     「であれば速やかに帰って軍備を整えよ。 前将軍罪を一身に負えば、貴藩公罪なしというが、これは貴藩公の罪ではないか。 ということは貴君の罪である
     と梶原をにらんだ。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の罪は補佐する容保にあり、容保の罪は家臣の梶原たちにあるというのだ。 真田の言い分も理屈としては筋がとおっていた。
     梶原の白い顔が紅潮した。 どう答えるか、仙台の重臣は梶原を見すえた。
     「もっともである
     梶原はあっさり答えた。 この正直な答え方が、仙台藩重臣の心をとらえた。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.239〜240)


     梶原の読みどおり、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀、長州(ちょうしゅう)(山口県)の世良修蔵(せらしゅうぞう)は仙台の斡旋案をにべもなく拒絶した。 かくて奥羽列藩同盟が結成され、東西対決の様相を見せるのは、ひとえに梶原の政治力によってであった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)


     さらに長岡(ながおか)(新潟県)の河井継之助(かわいつぎのすけ)に参戦をうながし、奥羽越列藩同盟に発展した。 梶原の生家は同じ家老の内藤家で、白河(しらかわ)国境の総督を務めた内藤介右衛門(ないとうすけえもん)は実兄、妻は山川浩(やまかわひろし)の姉二葉(ふたば)だった。 山川とは義兄弟だった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)


     籠城戦のあいだ、梶原は政務担当として主君容保の側にいた。 戦後、主君容保とともに東京で謹慎した。
     梶原は青森県が誕生すると、庶務課長となり、斗南(となみ)士族の救済に奮闘したが、ほどなく東京に出た。 この時点で妻の二葉とは離婚し、旧幕臣の娘水野貞(みずのてい)と再婚した。 そんなことで山川とは疎遠になり、交流は途絶えた。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)


     薩長閥の打倒

     五郎は遺書を残していた。 それを編纂(へんさん)し『ある明治人の記録』と題してまとめた石光真人(いしみつまひと)は、
     「柴五郎会津精神の化身(けしん)ともいうべき人柄の持ち主で、また生粋の明治人でもあった。 藩閥の外にありながら、軍人として最高の地位にのぼったすぐれた人材でもあったが、晩年の翁からは、万事を叱咤(しった)する職業軍人などという印象は微塵(みじん)も受けなかった
     とのべた。 その柴五郎がひそかに記述していたものが、抹殺された会津の歴史だった。下北での暮らしは公表をはばかるほど悲惨だった。 五郎は薩長藩閥政府の華やかな歴史からは抹殺された暗黒の一節を書きしるし「門外不出」と遺言し、会津若松(わかまつ)の恵倫寺(えりんじ)に納めた。 それがこの記録だった。 柴五郎がもっともいわんとしたことは、会津戊辰戦争の悔しい思いだった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.247〜248)


     五郎は家族の自刃を叔父清助翁から聞いたときの衝撃をこのように書いた。
     「今朝のことなり。 敵城下に侵入したるも御身(おんみ)の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり、余はこわれて介錯(かいしゃく)いたし、家に火を放ちて参った。 母君臨終にさいして御身の保護教育を委嘱されたり、御身の悲痛もさることながら、これは武家のつねなり、驚き悲しむにたらず、あきらめよ。 いさぎよくあきらむべし、幼き妹までよく自刃して果てたるぞ、今日ただいまより忍びて余の指示に従うべし、これを聞きて呆然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈(めまい)して打ちふしたり
     武士たるものは、たとえ女、子どもであっても自刃する場合もあるという叔父の言葉は強烈だった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.248)


     さらにこのような記述もあった。
     「郭内は隈なく焼土と化して残るものなし。 町家もほとんど焼失し、残存の家には敵軍の標札かかげありて、将卒充満の模様なり。 婦女捕らわれて下婢(かひ)となり、狼藉の様子なるも、しかとわからず。 されど喜多方(きたかた)、浜崎に収容のご婦人方については丁重にて、防寒の衣料もおくられたりと聞けり。 下郎(げろう)武士とはいえ、やはり武士の端くれなれば、武士の情けも幾分かはもつものと思わる
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.248〜249)


     五郎は武士道にこだわった。薩長に対する本音を聞きたかったが、それはこの遺書にはなかった。 しかし薩長に対し、強い怨念(おんねん)を抱いたことは間違いなかった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)


     五郎の生涯を『守城の人』と題して描いたのは陸軍士官学校五七期の村上兵衛(むらかみひょうえ)である。 これを読むと、将官になるにつれて怨念は次第に薄らいでいったように思われる。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)


     五郎は大正六年(一九一七)、勲一等に叙せられ、瑞宝章を授けられ、翌年に東京衛戍総督に任命された。明治の陸軍は完全に長州閥だった。 しかし、それも実力の世界に変わっていた。 陸軍大将昇任のとき辞令をわたしたのは、盛岡藩出身の平民宰相原敬(はらたかし)だった。薩長閥の崩壊である。 原敬を目の前にして、五郎は感無量の思いだったろう
     「私は会津出身なるが故に、陸軍において差別されたことは一度もない
     と五郎はいった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)


     五郎は英語、フランス語、中国語にかけては陸軍屈指といわれた。五郎はみずからの努力と才能で長州閥を乗り越えていった
     五郎は太平洋戦争には否定的だったという説もあるが、日記で見る限り、そうではなかった。 終戦の日、五郎は、
     「正午、玉音(ぎょくおん)を拝承し、悲憤激昂(げっこう)、生を欲せざらんとす。 さきの戦局の順調なるときに生の終わらざりしを恨(うら)む
     と記し、敗戦の日からちょうど一ヵ月後の九月十五日の深夜、宮城を拝し、切腹をはかったが、老衰により力がなく失敗した。 医者は胸を三針、腹部を八針縫った。 その三ヵ月後、五郎はひっそりとこの世から旅立った。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249〜250)


     会津史の編纂

     晩年、山川は貴族院議員に選ばれ、国政の合間をぬって会津史の編纂にも力を入れ『京都守護職(きょうとしゅごしょく)始末』を編纂した。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.253)


     徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と松平容保を朝敵と決めつけた倒幕の密勅(みっちょく)について、偽造のからくりを暴露した。 それは正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)公の証言だった。

      問 薩長に賜った綸旨(りんじ)は何人の起草か。
      答 玉松操(たままつみさお)の起草だ。
      問 筆者は何人か。
      答 薩摩は余が書いた長州は中御門(なかみかど)が書いた。 このことは自分ら三人と岩倉具視(いわくらともみ)のほか誰も知らない。

     この密勅はまったくの捏造(ねつぞう)だったのである
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.253〜254)


     山川は胸部疾患に悩まされながらも『京都守護職始末』の編纂に全力投球した。 山川の自宅に旧臣の北原雅長(きたはらまさなが)、広沢安任(ひろさわやすとう)の従弟の広沢安宅、あるいは従弟の歴史研究家、飯沼関弥らが集まり、京都守護職時代を会津藩の立場から、精力的に公証した。 しかし、幕末維新史の壁は厚く、何度もくじけそうになった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)


     一口でいうと、明治政府の歴史観は、薩長土肥が正義で、会津を中心とする奥羽越は悪という構図であった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)


     その代表的なものが、明治二年からはじまった官製の史書『復古記』である。 現在の東京大学史料編纂所で膨大な史料を集め、薩長土肥がいかに正義のために戦い、勝利したかを書き連ねた。 会津は賊軍の首魁(しゅかい)とされ、陸奥(むつ)への挙藩流罪も当然とされたのである。 会津にとっては承服しかねる一方的な史書だが、破れた以上、その屈辱に耐えるしかなかった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)


     会津の正義を実証せんと山川が手に入れた確実な史料があった。孝明天皇の宸翰(しんかん)である。 薩長がいかに会津を非難しようとも、松平容保こそもっとも信頼すべき人間だとした孝明天皇の宸翰は、薩長閥に打撃を与えることは確実だった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254〜255)


     貴族院の論客の一人、三浦梧楼(みうらごろう)は長州の出身である。 山川と気が合い、藩閥政治には批判的だった。 山川が三浦に宸翰のことを話すと、
     「まさか
     としばし沈黙し、信じようとしなかった。 それではと主君から宸翰を借り受け、三浦に見せた。 それは孝明天皇が御所に発砲した長州藩の暴挙に怒り、それを撃退した京都守護職、松平容保の忠節を称えたものであった。 一読した三浦は見る見る顔面蒼白になり、
     「山川どの、これはいましばらく公にいたさぬようお願いできぬか。 これが出れば、伊藤博文(いとうひろぶみ)総理も困ることになる。 容保公にはまことに気の毒であった。 このとおりだ
     と山川に頭を下げ、深く溜め息をついた。 この宸翰は長州の野望を鋭く突いており、孝明天皇は長州こそ朝敵だと糾弾していたのである。 ところが孝明天皇が崩御するや、形勢は逆転、明治天皇を玉と頂く長州が官軍となり、会津は朝敵に蹴落とされた
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.255)


     これぞ歴史の欺瞞(ぎまん)だった。明治維新は日本の近代化という美名にかくれた権力闘争であった。 三浦があえて公表せぬよう山川に求めたのは、明治政府の権威が失墜(しっつい)することを恐れたからだった。それは日本の国体の崩壊につながりかねない、三浦はそう考えた。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.255〜256)


     会津武士の典型

     昭和五年(一九三〇)健次郎は胃潰瘍(いかいよう)を患い、出血が続き、重体になり、六月二日、永眠した。 享年七七だった。 葬儀のとき、東京帝大総長小野塚喜平次博士は、会津武士道を貫いた健次郎の生涯をたたえた。 不義はならぬ、健次郎はいつも若者にそう説き、国家に奉仕し、正直で清貧の人生を歩むべしと呼びかけた。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.260)


     健次郎『京都守護職始末』を完成させたあと、会津戊辰戦争のすべてをまとめた『会津戊辰戦史』を編纂した。悲惨きまわりない戦争の実態を克明に記載し、この二冊の本を抜きにしては会津を語ることはできない不朽の名作となった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.260)


     この本は昭和八年(一九三三)の出版で、部数も少なく貴重本だったが、昭和五三年(一九七八)に続日本史籍協会叢書(そうしょ)として東京大学出版会から発刊され、一般の人々の手に入るようになった荒川類右衛門をはじめ多くの元藩士が登場し、数々の挿話が挿入され、読み応えのあるものに編纂されていた。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261)


     奥羽越列藩を戦争に巻き込んだ長州藩参謀世良修蔵の行状、会津兵の死体の埋葬が許されず、風雨にさらされ、烏(からす)や野犬の餌(えさ)となった惨状、町民が遺体を収容し、墓標を建てたところ、占領軍参謀から撤去破壊を命ぜられた事、官軍の略奪行為などを詳細に記述し、会津戊辰戦争とはなんであったかを、世に問う告発の書となった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261)


     原爆と同じ
     会津人にとって明治の時代は、なんだったのか。
     会津の郷土史家宮崎十三八(みやざきとみはち)は『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)で、官軍を厳しく弾劾した。 次のようなことを書いている。
     「一般住民を無差別で殺した会津の戦争は、大小の違いはあるが、ピカドンの原爆によく似ている。戊辰戦争は討幕の身代わりとして会津憎しと、殺戮(さつりく)の好奇心のための行為だった
     とのべ、老人と少年の悲劇を例にあげた。
     先陣で北追手門を突破した土佐兵の前に、七〇歳ばかりの会津の老人が、槍(やり)をふるって踊り出て鋭く立ちはだかった。 数人でかかっても老人一人を倒すことができないので、鉄砲でやっと打ち殺した。
     すると一四、五歳の少年が「爺さんの仇(かたき)」といって槍をもって手向かってきた。
     「そいつを生け捕れ、生け捕れ
     と号令したが、勢いが強くて突き回り、味方が危険なので、これも槍の届かない距離から銃で射殺した。
     その夜、ある町家に泊まり、酒を求めて大いに飲んでいる最中、兵の一人が先に殺した少年の首をもってきた。 大皿に載せ、一座のまんなかに、
     「お肴(さかな)持参
     といって、これをおき、大声で歌いだした。

     愉快きわまるこの夜の酒宴
     なかにますらおの美少年


     やんややんや、皆、はやして大いに飲み明かした。 宮崎は怒りをこめてこの残虐行為を書いた
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261〜262)


     遺体の埋葬問題についてもふれた。 埋葬問題を自主的に担当したのは、残務整理のために若松に残った町野主水(もんど)ら数人の藩士だった。
     何度も嘆願し、やっと翌春の雪どけ後に許された。 はじめ薬師河原の罪人塚のみということだったが、殉難者をそんなところには埋葬できないと、刺し違える覚悟で嘆願し、ついに阿弥陀寺(あみだじ)に一二八一体、長命寺に一四五体を粗莚(あらむしろ)につつみ、縄で引きずって運んだ。 埋葬し終わったのは、七月になってからだった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.262〜263)


     宮崎は会津藩士の末裔(まつえい)である。
    すべて許せない」と怒りをぶちまけた。
     この人、司馬遼太郎(しばりょうたろう)と親交があり「会津若松のMさん」として、しばしば司馬の作品に登場した。 旧制の新潟高校を出て、晩年は会津若松市の観光商工部長を務めた。 新潟高校では作家綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)の後輩で、同じ寮だった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.263)


     会津人は屈折した思いで明治を生き、大正、昭和と引きずってきた。 平成の今日もなおこの問題は未解決なのである。
     それは東北人全般にいえることで、盛岡藩の家老の流れをくむ原敬は、「白河以北一山百文」という侮蔑の言葉を逆手にとって、あえて「一山」を自分の号として、薩長藩閥政府と戦い、ついにそれを打倒し、平民宰相の座を勝ち得た。
     岩手県人はこの問題に対しておおらかである。
     「われわれは勝利した
     と胸を張る。 それは「この屈辱を自分が晴らしてやる」と宣言した原敬が見事、それをなしとげたからである。原敬に刺激されて岩手からは幾多の人材が輩出した総理大臣長州山口に次いで二番目に多い。 原に続いて斎藤実(さいとうまこと)、米内光政(よないみつまさ)、鈴木善幸(すずきぜんこう)と合せて四人を出している。 敗れた屈辱をバネにし、原敬はがんばった。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.264)


     だが、会津はそのエネルギーさえも奪われた。総理は一人もいない。
     会津選出の国会議員の方々には、会津人が幕末維新で受けた数々の屈辱をいかに晴らし、歴史の誤りを正すか、そういう使命感が必要だと思われる。山川健次郎は、明治維新史を書き直すところまでは要求しなかった。 それは次の世代にたくしたに違いなかった。
     宮崎十三八が第二の世代とすれば、今日の人々は第三の世代である。 各界各層あげての議論が、いま求められている。
    (《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.264)


     あとがき

     わたしはこの何年間か、会津(あいづ)藩(福島県)のことを書きながら、一方で会津と長州(ちょうしゅう)(山口県)の和解を進めてきた。 何人かと山口県萩(はぎ)に行き、討論もおこなったが、会津側の壁は非常に厚く、進展はなかった。私は会津人ではないが、二〇代の半ばに福島民報の記者として三年間会津若松(わかまつ)に駐在し、すっかり会津びいきになった。 その縁で会津をベースにした作品を書くようになった。 しかし、全編会津礼賛ではなく、戦略や意識改革の遅れなど苦言も呈してきた。
    (《偽りの明治維新 あとがき》P.266)


     安倍晋三(あべしんぞう)前総理の発言は軽いといえば軽いが、一国の総理の発言に変わりはなかった。 もっと総理の胸のうちを聞き出したいのであれば、会津選出の国会議員が国会で質問すればよかったのだが、一向にそうしたことはなかった
    (《偽りの明治維新 あとがき》P.266)


     そのうち安倍は総理の座を降りてしまい、せっかくのチャンスを逃してしまった。 残念としかいいようがない。
    (《偽りの明治維新 あとがき》P.266)