[抜書き] 『日本の米 環境と文化はかく作られた』


『日本の米 環境と文化はかく作られた』
富山和子・中公新書
1993年10月25日発行
    目次

    序章 吉野ヶ里はなぜ滅びたか
      消えた大集落   弥生の王国   アオ灌漑   歴史の教訓  
    一 稲は命の根なり
      縄文の蓄積   弥生人のネックレス   アダム・スミスの賛辞   余剰、この大いなる天恵   水と日本人   徐福伝説  
    ニ 米の文化、古墳
      国土の大改造   稲と水田は違う   水争いの発生とリーダー   吉備の十二ヶ郷用水   上毛野国   三ッ寺遺跡が語るもの   溜池と古墳   大山古墳  
    三 列島改造の仕上げ、条里制
      1 大和川紀行
        直角に曲がった川   土木の川   大窯業地帯   狭山池   「亀ノ瀬」の地辷り   平城京   古代大和がなぜ栄えたか   「水の上は地行くごとく」   条里制の意義  
      2 秩父条里物語
        秩父というところ   太田千畳敷   市子の墓   日本の原風景  
    四 第二の列島改造
      1 水を治める
        山の文化   仁徳天皇と和気清麻呂の夢   大和川の付け替え   利根川と荒川   都市と農村   江川と芋代官   藍作と吉野川   海の大干拓   驚異の増収   海の交通も米が作った  
      2 水を引く
        無名の天才たち   辰巳用水   箱根用水   徳島堰   五庄屋の大石堰   山田堰   吉井川の田原井堰  
    五 技術の秘密、和算
      鉱山技術と用水技術   築城ブームと石工集団   十二貫野用水   江戸庶民のレジャー、数学   超ベストセラー『塵劫記』   長者丸の漂流   日本人と数学   太閤検地   安積疏水開拓の父、中条政恒   ドールンと野蒜築港   和算家と地租改正   「寸志夫」   豊後の石工たち  
    六 木を植える文化
      森林は米が作った   水系の思想   世界最古の保安林立法   林業の発生   「自分の水は自分で作る」   日本列島を囲む帯、海岸林   森林を守る水田   木地師の里   木を植える文化   神宮備林   式年遷宮「二〇年」の秘密   「稲のチカラ」  
    終章 風景を読む
      1 石の文化
        石垣水田   鉄の技術、石の技術  
      2 平野を作る
        「三津七湊」   「葦沼」   越後平野の「はざかけ」  
      3 浮き田
        大宮台地の樹枝状谷   荒沢沼の河童   関東の「国引き」  
      4 日本最大の伝統客土
        日本一の麦どころ   泥付け   仁徳陵の百倍の土量   地球環境と日本農業  
    あとがき
    参考文献


     アオ灌漑
     この疑問に一つの推理が示されたのは、佐賀県出身の地理学者、広島大学名誉教授の米倉二郎氏によってであった。 氏は、『朝日新聞』の記者に対してこう答えている。
     「それは、アオのせいかもしれない」と。
     吉野ヶ里はアオによって栄え、アオによって滅びたのではないか、というのである(『朝日新聞』一九八九年九月四日夕刊)。
     「アオ」と聞いて、私はひそかに心ときめかせたのであった。
    それというのも、私はこのアオについて、思い入れをこめて書いているからである。
     アオは、「淡水」と書く。
    満潮時、海水に乗って逆流してくる川の水をいう

     有明海は干満の差が日本一大きく、筑後川河口で五メートル、六角川河口では六・五メートルに達している。 干潮時、川から吐き出された淡水は、はるか沖合いに運ばれて、やがて満潮時、比重の大きい海水の上に乗り、高い水位で陸地へ向かって押し戻されてくる。 その淡水を利用して米作りをつづけてきたのが、水に恵まれない筑後川下流平野の、クリーク地帯であった。
     いいかえれば、川が吐き出した水を、海が陸地にお返ししてくれる。 それを汲み上げて、大地に返していたのである。
     とはいえアオ取水は月ニ回の大潮に限られる。 水は貯めておかねばならない。 網の目状に走るクリークは、一つには、低平の農地に土を盛り上げるために掘った跡であったが、一つにはアオを貯えておく溜池でもあった。
    (《日本の米 序章 吉野ヶ里はなぜ滅びたか》P.9〜10)


     歴史の教訓

     そして事実、吉野ヶ里の台地に立つと、アオ取水が当然のように思えるのであった。 海は当時、四キロのところまで迫っていた。 アオは、台地の足元を洗っていたはずであった。
     それにしても、水利用の技術一つがクニの盛衰を決める。 いかに日本文化が米作りに立脚したものであったかということであった。 同時にそれは、歴史の読み方に対する、鋭い警告を現代社会に投げかけているように私には思われた。
     あるいは、一時的な技術の優位性にのみ依存した吉野ヶ里の盛衰から、ローマ帝国をはじめとする地中海文明の、都市や王国の盛衰の歴史を思い浮かべる人もあることであろう。 それらの諸文明は、おおむね次のようなパターンをたどっている。貿易という一つの技術の優位性にのみ頼り、農業を軽視して、食糧は植民地に依存した。 だが、貿易を支えていた海軍力がひとたび衰えたとき、気がつけば自国の土地は疲弊しつくし、農業のにない手もなく、国は滅びるしかなかった−−
    (《日本の米 序章 吉野ヶ里はなぜ滅びたか》P.12〜13)


     縄文の蓄積

     それまでの人々の生活はといえば、栃の実どんぐりクルミなどの木の実を主食とし、湖沼の澱粉源であるヒシの実を採り、あるいは鹿サケマスなどに依存する、狩猟採集経済であった。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.15〜16)


     とはいえそれは、これまで考えられてきたような未開の世界では決してなく、例えば鳥浜(とりはま)貝塚(福井県三方(みかた)町)に見られるように、木の実を採るために造林をし、下草刈りまで行っているし、瓢箪緑豆エゴマなどの栽培も早くから行なわれていた。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.16)


     そして、アカソカラムシなどの繊維でを紡ぎ、を織り、編み物を編み、深紅の塗りの木工品を作り、信濃川流域のあの火炎土器に代表される、かがやくような土器のかずかずを創り出した、生気あふれる世界であった。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.16)


     極細の糸などは鳥浜貝塚で、縄文時代草創期の、一万年前の土層から見つかっている。 また、やはり鳥浜貝塚から出土した六五〇〇年昔和漆の櫛。 固いヤブツバキを削って作ったその漆工芸の華麗な姿は、端正な形の丸木舟とともに私には忘れられない。 長さ六メートルもある日本最古のその丸木舟は、材は杉であり、は固いヤマグワであった。 栃の盆、杉の板材、カヤの小弓など、数々の木工品を見ると、樹種による用途の選定のしかた、柾目と板目との使い分け、あるいは板の接ぎ方に至るまで現代と変わらない。 以来連綿として木の文化も、今日までつづいている。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.16)


     八〇〇〇年という長い長い年月に及ぶ縄文の時代のそうした歴史の蓄積が、とりわけ焼き畑などによる農耕の歴史が、やがて訪れる新しい時代の確かな土台となり養分となったであろうこと、疑いもない。 なればこそがやって来ると、その新しい生産活動は、待ち受けていたようにして全土に定着する。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.17)


     あるいはまた、注連縄(しめなわ)から日常のあらゆる道具燃料肥料に至るまで、いっさいを使いつくしてまた大地に返す藁の文化。一本の藁も、腐った馬の草鞋(わらじ)も見つければ拾い上げる、「草鞋切れても粗末にするな、藁はお米の親だもの」といった自己完結型の日本文化の、その真髄ともいうべき藁の文化が、それに先行する木の皮やヘチマなどの植物繊維利用の、「非ワラの文化」の技術の上にこそ成立できた宮崎清『藁』)こと、忘れてはなるまい。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.17)


     弥生人のネックレス

     今日まで、稲作を支えてきたものが裏作の、麦などの雑穀類であったように、さらにまた、それら平場の農業の土台にあったものが、木材と土壌を保証する山の文化であり、米を理想としながらもなお、畑作林業で生きてきた山村の世界であったように、日本人と大地との取り組みをいうならば、私の思いは常に下流から上流へ、米の文化から木の文化へ、そして一万年の昔にまで遡る。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.18)


     けれども、稲の到来、正確には「稲作」の到来とそれ以前との決定的な違いはといえば、それ以前の生産活動が、余剰を生むわけではなかったということであった。
     約一万年前から始まった縄文の時代を通して、その人口が最大になったのは縄文時代中期(紀元前三〇〇〇−前二〇〇〇年頃)であり、約二五万人と見られている。 以後は気候変動のためか減少の一途をたどり、稲がやって来る直前の縄文晩期には、一六万人にまで減っている。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.18)


     余剰、この大いなる天恵

     このときから、日本列島の姿は一変する。 八〇〇〇年にわたる縄文の時代の、その長い静謐を破って、人と大地とのまったく新しいつきあいの歴史が開始されるのである。
     それこそは、余剰を生み出す社会の出現であった。
     それはまた、日本という国家誕生への道でもあった。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.22)


     ちなみに稲がやって来る以前、減少の一途をたどっていた人口は、このときから飛躍的に増えはじめる。縄文晩期には一六万人であったものが、紀元前二〇〇年頃には四〇万人、紀元後二〇〇年には二五〇万人、というように急増の一途をたどり、八〇〇年頃には少なく見積もっても六〇〇万−七〇〇万人に達していたと見られている。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.23)


     これほどの人口を抱えた国がこの時代、世界にあったであろうか。 広大な大陸である中国とインドとを除けば、この時代、日本はすでに世界一の大国になっている。 そしてのちに見るように江戸時代に入れば、私たちはあまり気づいていないけれども、また世界一の時代がしばらくつづくのである。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.23)


     たわわに実る稲。 重くこうべを垂れた稲穂。
     「稲、いはいつくし也、なえの反りはね也、いねとはいつくしき苗也、諸穀にすぐれて苗まずいつくしむべし
    と、貝原益軒『日本釈名』はいう。
     「稲は命の根也
    とは、さらに古い辞書『藻塩草』の言葉である。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.23)


     とはいえ、稲は独りでやって来たわけではなかった。 稲が必要とする水。 その水とともにやって来た。いや正確には水の技術とともにやって来た。 いかに稲が実り豊かな植物であったとしても、水がなければ始まらない。 また、いかに日本列島が単位面積当たりの年平均降水量に恵まれていたとしても、技術がなければ水利用は行えない。
    (《日本の米 一 稲は命の根なり》P.24)


     国土の大改造

     なによりもその事業は、水の事業であった。 水の事業であるがゆえにその土木事業は、常に継続され、今日まで継続されねばならず、水の事業であるがゆえその開発が、自然の生活力の持続を保証し得たのでもあった。稲作が他の種目に較べてとりわけ優れている、とされる理由の一つがその水利用にあること、水を利用することにより土地の老化を免れていることは、よく知られている
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.34)


     そしてまた、水の事業であればこそ、自然に対応して行われねばならず、のちに見るように日本人は、その事業を保証するためにこそ、森林を守り育ててきたのでもあった
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.34)


     吉備の十二ヶ郷用水

     『日本書紀』仁徳天皇六十七年には、
     「吉備の中国の川嶋河の派(かはまた)に大蛇(みつち:蛇は「虫」偏に「し」)有りて」人を苦(くるし)びしむ。 (中略)是に、笠臣の祖県守、人となり勇桿(いさを)しくて強力(つよ)し
    と、高梁川の大蛇退治の話が出てくる。 高梁川は、昔は現在のように南流して倉敷市水島の海に落ちずに、主流は倉敷市の北の丘陵地帯のさらに北側、総社平野を東流していた。そしてその一帯の丘陵は、古墳地帯であった
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.41)


     三ッ寺遺跡が語るもの

     それというのも、館の北西一キロの所には、三基の大型前方後円墳からなる保渡田古墳群がある。 作られた順に、全長一一〇メートルの井出二子山古墳、全長一〇二メートルの保渡田八幡塚古墳、保渡田薬師塚古墳で、いずれも二重の濠を巡らしている。 三ッ寺館の主たちの奥津城(おくつき)であることは、古墳建設が館の存続期間と完全に一致していること、即ち五世紀後半、館の建設の直後から古墳が作られはじめ、そして館が、六世紀初頭の榛名山ニッ岳の噴火による土石流の下に埋れてしまったその時期に、古墳建設も突然途絶える、ということから分かるのであった。
     三ッ寺遺跡というこの豪族の館は、水田と館を、館と古墳を結んで、古墳というものがいかなる経済と技術の産物かを、私たちに直観的に読みとらせてくれる恰好の素材であった。 が、そればかりではなかった。 実は古墳は、水田開発の事業、なかんずく溜池建設の事業と、ほぼ同じ技術の事業だったのである
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.48)


     溜池と古墳
     溜池には、谷川を堰き止めるダム形式のものと、平地に堤を築いて囲む皿池とがある。 前者を中国では坡(は)と呼び、後者を塘(とう)と呼んでいる。 ちなみに、現在溜池の数日本一は兵庫県であり、溜池がずいぶんつぶされたとはいえ、今なおその数五万三〇〇〇余を誇っている。 その兵庫県の溜池の特徴は、皿池の多いことである。 これに対して、溜池の数一万六〇〇〇余の香川県の特徴は、あの満濃(まんのう)池に代表されるように、川を堰き止めたダム形式である
     が、いずれの形式にせよ、大量の土量を扱う大事業であることに変わりなく、方位、距離、角度などの決定にも、掘削、運搬、盛土などのどの工程にも、よほどの技術と計画性と、大量の労働力、大量の鉄の道具が必要であった。
     そして古墳も、のちに見る条里も、溜池と同じ技術体系上にあった。 例えば長さ九〇メートルの前方後円墳と、一〇九メートル四方の溜池とは、土工量が等しく、労働量の点からも同質の事業と見られている。
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.48〜49)


     『日本書紀』によれば、崇神天皇六十二年秋七月、天皇は、
     「は天下の大きなる本なり。 民の恃(たの)みて生くる所なり。 今、河内の狭山の埴田水少し。 是を以て、その国の百姓、農の事に怠る。 それ多(きは)に池溝(うなね)を開(ほ)りて、民の業(なりはひ)を寛(ひろ)めよ
    と命じ、その年依網池(よきみのいけ)を作ったこと、苅坂池(かりざかのいけ)、反折池(さかおりのいけ)も作った事が記されている。
     つづく垂仁天皇三十五年には、
     「秋九月に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)を河内国に遣して、高石池(たかしのいけ)・茅渟池(ちぬのいけ)を作らしむ
     「冬十月に、倭の狭城池(さきのいけ)及び迹見池(とみのいけ)を作る
     「是歳、諸国に令して、多に池溝を開(ほ)らしむ。 数八百。 農を以て事(わざ)とす。 是に因りて、百姓(おほみたから)富寛(たゆた)ひて、天下太平(あめのしたたひらか)なり
    とあり、以下、
     景行紀に坂手池、
     応神紀に韓人池(からひとのいけ)、剣池、軽池、鹿垣池(かつがきのいけ)、厩坂池(うまやさかのいけ)、
     仁徳紀に茨田(まんだ)堤、和珥(わに)池、横野堤、感玖(こむく)大溝、栗隈(くるくま)大溝、
     履中紀に磐余(いわれ)池、石上溝、
     推古紀に高市(たけち)池、藤原池、肩岡池、菅原池、戸苅池、依綱池、栗隈大溝、掖上(わきのかみ)池、畝傍(うねび)池、和珥池
    といったように、ぞくぞくと溜池建設や改修など、水の事業が登場する
     応神天皇七年九月条に、
     「高麗人百済人任那人新羅人、並に来朝(まうけ)り。 時に武内宿禰に命(みことのり)して、諸の韓人等を領(ひき)ゐて池を作らしむ。 因りて、池を名(なづ)けて韓人池といふ
    とあり、『古事記』にも同様の記述のあるように、おそらくはそれら大陸の工人たちの技術が駆使されて、溜池建設を中心とする治水と国土開発の一大ブームが起こったに違いない。
     そうした溜池の技術が、古墳建設に結集されている。 その技術の伝統は、やがて現代のダム建設にまでつながっていくのである。
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.49〜50)


     大山古墳

     『日本書紀』仁徳天皇六十七年冬十月、「河内の石津原に幸して陵地を定めたまふ」とある。 どのようにして定めたのか不明ながら、選ばれたその土地は、事実、礫層を主体とした洪積段丘上にあり、土質は砂礫層固桔した粘性土との瓦層で、現代の土木工学から見ても、十分な地耐力を持つ地盤であった
    (《日本の米 ニ 米の文化、古墳》P.52)


     大窯業地帯

     古墳ばかりではなかった。 古墳と密接な関係のある須恵器の窯。 その窯の煙も、そこここに立ちのぼっていたことであったろう。 この羽曳野の丘陵地帯は、五世紀以来、全国最大の規模を持つ窯業の地であった。 確認された窯跡だけでも五〇〇基以上にのぼり、破壊されたもの、未確認のものを含めれば一〇〇〇基を超えると見られている。 すでに古墳時代の終わった八、九世紀の窯だけでも百数十基を数えたというから、古墳時代から平安時代にかけての、いかに長期間大窯業地帯として栄えたか想像できよう。 奈良県下の古墳や集落跡から出土する須恵器類も、ほとんどがこの丘陵の産である。
     崇神紀七年の条に、
     「即ち茅渟県(ちぬのあがた)」の陶邑(すゑのむら)に大田田根子を得て貢(たてまつ)る
    とあるが、その陶邑は堺市の旧泉北郡陶器村一帯で、式社内の陶荒田(すえあらた)神社も祀られている。 つまりは、ここでもまた古墳の築造に際して、渡来人たちの活躍があったに違いない。
     そして、その須恵器を作るためにも水が必要であるならば、陶工集落を養うためにも、さらに水田が必要であった
    (《日本の米 三 列島改造の仕上げ、条里制》P.61〜62)


     山の文化
     全国の山や川を歩いて私がいつも考えさせられることは、現代の私たちが自然について、ずいぶんと思い違いをしてはいないかということである。 例えば私たちは、は寂しくて当然であり、文化の中心地は、大昔から大河川の下流平野にあったかのように錯覚しがちである。 だが、少し考えてみれば分かるように、文化の中心地が大河川の下流平野の低地にまで下りてきてから、まだほんの三〇〇−四〇〇年に過ぎないではないか。それ以前の長い年月、上流の文化の時代があった、山は栄えていた。 遡ればそれは、縄文の時代にまで、いや、旧石器の時代にまで至るはずである。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.85〜86)


     その山のにぎやかさに支えられて日本の森林は守られてきたのであり、そのをいま私たちは飲んでいる。 そんな視野で、あなたは蛇口の水を、考えたことがあるだろうか。 私たちの使っている水は、江戸時代の雨、いやそれ以前の雨かもしれない。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.86)


     昔、いかに山々が栄えていたかは、例えば文化の中心地がすでに十分下流平野に下りてきた江戸末期に、木地屋の数だけで五万−六万人いたということでも分かる。 木地屋とは、山中で、ろくろを使ってお椀お盆お玉杓子を作る職人である。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.86)


     とすれば、その他に、山には漆掻きもいたし、猟師もいた。 夫もいた。 山には炭焼きもいた。 炭焼きは古代からの大産業でもあった。 製鉄のためであったろう。 そう、山には製鉄所があった。 そればかりか、造船所もあった。 山で舟を作っていたのである。 佐渡や能登、伊豆半島がその例だ。 山には修験者がいた。日本の山々は、神のおわすところであった。水の神田の神である。海の神まで山に祀られ、海の漁民たちも山を仰いで暮らしていた。 そして、人々は山に向かって旅をした。 出羽三山、熊野三山がその例である。 寛政七年(一七九五)、富士講を幕府が法令で禁止しても、なお江戸の庶民に登山熱は止まず、ついに江戸八百八講とまで謳われた一事もある。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.86)


     人口三〇〇〇万人江戸時代に、山とは何と活気に満ちた世界だったことだろう。そしていま、人口一億二〇〇〇万人の時代に林業従事者は一一万人。 なんとさびれてしまったか、ということだ。 そのために日本列島の森林は、土台から危うくなっている。 山に投資をし、山村をにぎやかにさせなければいけない。 そう私は訴えつづけている。 のちに見るようにその森林は、が作ってきたのだが。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.87)


     さて、文化の中心地が下流に下りてくる。 このとき土地というものは、人間が作っている。 したがって川も、人間が作っている。 それが治水であり、新田開発であった。 誰が、何のために。 農民が、米のために、である。
     そういう人間の労働の歴史を、私たちは忘れがちである。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.87)


     利根川と荒川

     この用水は、例えば元荒川と交差するところでは、サイフォンによる水の立体交差、「伏越(ふせごし)」でくぐり抜け、あるいは綾瀬川を水路橋、「架渡井(かけどい)」で渡り、それまで水の届かなかった高台をうるおしている。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.94)


     だが、何といっても注目したいのは、時代も違えば技術の流儀も異なる二つの別の用水が、互いに組み合わされるという、技術の見事さであったろう。 一つの水田をうるおした水は次の水田をうるおし、その水はさらに別の水田をうるおした。 こうして一つの地域をうるおすとその余排水が集められ、まったく別の用水である葛西用水の水源を補って、さらに別の地域をうるおしている。 このような組織論的な方法は、すでに江戸中期には確立していたといわれている。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.94)


     氾濫原に水田を開く。 それはまことに巧みな智恵であった。 乱流する洪水流を整理して川に整え、水資源に変えて、大地にまんべんなく配るのである。米なればこそそれができたのであり、もしも畑作であったなら、日本人はとうてい暴れ川とつきあいきれなかったであろう。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.94)


     東北新幹線の車窓から、あるいは上空から関東平野を見おろすたび、私は思わずにいられない。 行けども行けども平らかなこの大地こそ、紛れもなく米が作ってきた大地であり、三〇〇年の間日夜たゆみなく水路見回り、水路の手入れ水のかけ引き田作り土作りにいたる何十何百と知れぬ米作りの労働がつづけられ、重ねられてきたたまものであることを。 そしてまた思う。 ほんの少し前まで、この平野には水路網が整然と張りめぐらされ、おびただしい数の船が江戸と農村とを、江戸と利根川とを往き来しており、関東平野水の平野であったことを
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.94〜95)


     驚異の増収

     こうして日本列島の農地は、平安、鎌倉、室町の各時代を通じて、耕地面積約八六万町歩であったものが、江戸中期には三〇一万町歩へと、約三・五倍に拡大する。 それによる米の生産高三倍に達している。 そして人口は、十六世紀までせいぜい一〇〇〇万人だったものが、実に三〇〇〇万人に飛躍するのである
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.110)


     なんという驚くべき数字であろうか。 文明とは、余剰生産物の結果である。 あの豪華絢爛たる江戸文化は、紛れもなくが育てた、水の事業の所産であった
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.110)


     ちなみに十九世紀、ヨーロッパでは、人間一人養うのに一・五ヘクタールの農地が必要であった。 これに対し日本では江戸時代、一・五ヘクタールでは一五人を養っている。 いかに豊穣の国土を作り上げてきたか、ということであった。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.110)


     私たちは、この狭い国土でと、ことごとに人口稠密を歎く。 けれどもこれほどの高い生産性あってこそ、国土の七割を森林として維持しつづけることもできたのである。 これは重要なことである。もしも畑作であったなら、日本は、とうてい世界有数の森林国を、誇ってくることはできなかったに違いない
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.110〜111)


     山田堰

     このが二〇〇年間生きつづけてきたということは、嵐のたび洪水のたび補修し作り直しながら、絶えず管理しつづけてきた農民たちの労働が、そこに蓄積されているということであった。 その水が、堀川の水であり、その水が、二連水車三連水車の揚げている水である。 その水は、水田からやがて地下に浸透して地下水となり、またへ出て川の水になる。 その水は、へ出てアオになり、またクリークの水になり、再び大地を養ったのち、また川へ戻される。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.125)


     私たちは川の水も地下水も、自然物と思いがちである。 そして事実、水の値段には、米を作ってきた農民の労働の費用など含まれてはいない。 それは森林における林業者の場合と同様である。 それどころか、その費用を支払わない都市の側を過保護とは呼ばず、かえって農民の側を過保護呼ばわりしてきたのが現代社会であった。 だがこの堰が語るように、紛れもなく農民たちの労働と、彼らが出費した費用との結果である。 いいかえれば川の水も地下水も、人件費の注ぎ込まれた、実に高価な生産物なのであった
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.125)


     のちに見るように、上流の森林も人間の労働の産物、それも米の文化の所産である。 筑後川の水源である日田の森林などはその典型といえる。 山と川と緑の大地のその歴史を思うとき、一本の水路を引くということの、何と壮大な事業であったことだろう。
    (《日本の米 四 第二の列島改造》P.125)


     築城ブームと石工集団
     日本の用水開削の歴史を見ると、トンネルはほとんど付きもののようになっている。いかに山ばかりの地形複雑な国土に、わずかばかりの土地を求めて、縦横無尽に水路を敷いてきたかということであった。 のちに述べる「阿蘇の水を作る話」にしても、それは単に山に植林した物語に止まらず、トンネルを穿ちダムを作り、水路を開いて水を導き入れる土木事業とセットになっている。 そうした歴史を見るにつけ、私はあの「青の洞門」の話などは、個人の行為として感動的であるけれど、トンネルを掘るという発想そのものについていえば、当時の日本人に決して特別のものではなく、とりわけ石工の活躍した九州にあっては、そうであったろうと思うのである。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.134)


     加えてこの時代、築城も盛んに行われた。水を治めるという、まさにそのことによって、もまたから平地へ下りてくる。 戦国時代、初期には天険の地形を利用した山城であったものが、やがて河川、湖沼を利用し、あるいは濠をめぐらしての、水に防備の主眼をおく平城に変わるのである。 鉄砲伝来によって戦の方法が変わったこと、農民掌握の必要性のさらに高まったこともあった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.134)


     そして、それを可能にさせたのが、水の技術であった。 辰巳用水に思い起されるように、城を作るにも城下町を作るにも、まず水源を探し、水を引いてくることから始めねばならない。 あるいは江戸城の建設に、道三掘をはじめとするいくつもの運河が建設され、静岡城の建設には巴川が整備され、京都・方広寺仏殿建立の木材輸送に当たっては、角倉了以高瀬川開削したように、資材の運搬のためにも運河の建設が必要であった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.135)


     太閤検地

     太閤検地は、大化改新の班田収授租税法にも較べられる、大改革であった。 新田が開発され、新たな村ができ、農家戸数も増えるという状況の中で、戦国大名たちは、自己の領地については検地をしばしば行っていた。 が、天正十年(一五八二)の山城の検地を皮切りに、それを統一して全国的に行ったのが秀吉であった。
     しかも彼は、一〇〇〇年近くも使われてきた測量の単位まで、変えている。
     それまでは、三六〇歩が一反であり、この基準は大化以前から使われ、定着していたものであった。 それを秀吉は、三〇〇歩を一反と変えたのである。
     そのようにして新たな単位で、耕地一筆ごとの面積を測り、そこから、上田、中田、下田、上畑、中畑、下畑、屋敷といったように土地の等級に応じて収穫高を定め、一定の率を乗じて年貢を決めていく。
     石高制を採用し、畑地にも、屋敷にまで水田と同じように、米の年貢を課したのであった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.149〜150)


     秀吉はさらに「一地一作人」の原則を定めた。 それまでの荘園制では、農民と領主の間ニ荘官や地頭、守護など、土地に権利を持つ者が幾重にも入り込んでいたが、秀吉は中間搾取を排除して、その土地の年貢はその土地を耕す百姓自身に受け持たせることとし、土地台帳に農民の名を記し、農民の自立心を促して農民の心をつかみ、同時に富の集中をはかったのである。この検地によって兵農分離の秩序が定められ、江戸時代の知行制度が基礎づくられるのである
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.150)


     
     単位を変えたのは、単純化して計算しやすくするという秀吉合理主義のゆえであったが、同時に、面積が小さくなっても感覚的には一反は一反であり、そのようにして年貢の増収をねらったのだろう。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.150)


     数学というロマンの学問と、土木というロマンの技術とが、米という大地の恵みと結びついたとき、それはどれほど心高鳴る世界を作り上げることだろうか。 おそらくは明治以降の用水開削に際しても、各地に根づいていたそうした和算家たちの伝統と実力とが、あずかって力あったに違いない。
     それを考えさせられたのが、安積疏水であった。 なぜなら明治新政府が鳴り物入りで行った、この近代日本最初の用水事業は、明治政府がオランダから招聘したお雇外国人、内務省雇工師ファン・ドールンの設計によると教えられてきたからであった
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.151〜152)


     安積疏水開拓の父、中条政恒
     安積(あさか)疏水は、猪苗代湖の水を引いて安積平野を潤す長大な用水である。 現在都市化のめざましい郡山市などは、まったくこの疏水の産物である一〇〇年前、この平野は、茫洋たる荒野であった。 太古からこのかた耕されることなく、江戸時代の開発ブームからも見放され、ただ狐狸の棲む原野のまま放置されていた。水がなかったからであった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.152)


     その原野に水を引き、明治維新で失業した士族たちを入植させて自活の道を与え、あわせてここを東北開発の拠点にしようと、明治新政府が国営で行ったのがこの用水開削であった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.152)


     禄を離れ、士族となった旧武士の数は全国で一七〇万人に及んでいた。 すでに武士としての特権もなく職もなく、最後の誇りであった刀まで廃刀令(明治九年)で取り上げられ、士族たちの憤懣は明治七年佐賀の乱をはじめとする、萩の乱神風連の乱秋月の乱などとなって噴出した。 そして、明治十年西南戦争であった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.152〜153)


     このような時代背景のもと明治政府が、士族授産のためにも、折りから進めていた富国強兵殖産興業の道を急ぐためにも、一石二鳥の策として取り組むことになったのがこの事業だったのである。 それゆえ明治十二年の着工とあい前後して、士族の移住が始まっている。 久留米士族、高知士族、松山、鳥取、岡山、米沢、会津、棚倉、二本松士族など、二五〇〇人近い士族たちの移住であった。 ちなみに郡山市と久留米市とは、昭和五十年、姉妹都市になっている。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.153)


     考えてみればこのように、足元まだ固まらぬ明治政府の、地歩を固めさせたのも米であったし、殖産興業のその土台となったのも、米であった。
     とはいえ政府が、この事業を決意するに至るには、それを促した地元民たちの、それ以前からの開拓の実績があった。

    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.153)


     猪苗代湖の水を引いて原野を開拓しようとの夢は、早くから地元民の中にあった。 妻を捨て全財産を投じ、自ら現地に移り住んで調査測量に乗り出した須賀川の人、小林久敬のような先覚者もあった。 少年時代に経験した天保の大飢饉の惨状が、この広大な原野を緑の穀倉に変えたいとの夢に、彼の生涯をかけさせたのである。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.153〜154)


     
     が、組織的に、最初に開拓の鍬を入れたのは県の指導によってであった。 福島県典事、安積開拓の父といわれる中条政恒は、明治六年、民間の資金を集めて開墾のための結社、開成社を作り、士族や小作人たちを入植させ、折りから輸出花形産業であった桑畑を目標に新しい村作りを開始する大槻原の開拓(明治九年、桑野村となる)がそれであった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.154)


     それは筆舌につくしがたい苦難の道であった。 中条ら県役人も開成社員も、身を粉にしての献身であったけれど、しかし土地を借りて耕す小作人たちの生活は悲惨を極めた。 出資者もまた、家財を傾けてこれに投じながら収入など望むべくもなく、ただ開拓の理想にのみ支えられて困窮に耐えた。明治九年天皇東北巡幸の際、中条はこう奉答文に書いている。
     「窮閣敗屋牛馬ト寝ヲ同ジクシ以テ苟モ活スルノミ、殆ド人類ノ養ヒニ非ザルナリ
     のちに中条の孫、宮本百合子が、この開拓地を舞台に書いたのが、代表作『貧しき人々の群』であった。

    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.154)


     このような状況を乗り越えて、開拓をより本格的なものに発展させたい。 それには水源を猪苗代湖に求めるしかない。 天皇巡幸の際、中条は懸命に大久保利通を説得し、それに動かされた大久保が、国営でこの事業に乗り出すことを決意する。 これが疏水誕生のいきさつであった。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.154〜155)


     こうして疏水は明治十二年に着工し、三年後に完成する。 幹線だけで五二キロ。 数十のトンネルをくぐり水路橋を渡り、ある時は滝に落ち、ある時は川となり、やがて阿武隈川に落ちるこの用水によって、日本海太平洋とが結ばれたわけであった。 通水式の日、とうとうたるその流れを見て、移住の士族たちは泣いた。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.155)


     そして、いつの頃からか語り継がれてきたのが、「設計者ファン・ドールンの功績であった。 ドールンは、明治政府が治水のため、オランダから招いたお雇い外国人の一人で、明治五年に来日し、利根川、信濃川、淀川、大阪湾、仙台湾などを手がけている。 が、なんといっても私たちになじみ深いのが、安積疏水の第一の功労者としてであった。昭和六年には東京電力の手で湖畔、十六橋制水門の脇に銅像が建てられた
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.155)


     「伝説」は、どうもそれ以来のことらしい。戦争中、軍の命令により銅像が供出されそうになると、農民たちは軍部に気づかれぬよう台座から下ろして地中深く埋めて隠した。 憲兵によるきびしい追及にもついに隠し通した農民のエピソードもある。 銅像は戦後掘り起こされ、今も十六橋制水門の脇に建っている。
     こうした感動物語も手伝って、安積疏水といえばドールン、という「伝説」はいよいよ育てられてきたに違いない。

    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.155)


     だが実際に調査に出向いて私が知り得たのは、彼はわずか四日しか現地に滞在していない、という事実であった。 ドールンがこの安積の地へ来たのは明治十一年十一月一日であり、六日にはもう帰っている。
    (《日本の米 五 技術の秘密、和算》P.156)


     森林は米が作った

     日本人が、いかに古くから木の文化を養ってきたかについては、冒頭にも触れた。植林は稲作とともに入ってきたとする森林学者たちの「常識」をよそに、考古学の世界では、すでに数千年の昔から造林下草刈りの行われていたことが知られていること、また時代が下がれば『日本書紀』には、素戔嗚尊林業の神として登場すること、さらに万葉人も
      いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
    と詠んでいるなど、詳細はやはり『日本再発見 水の旅』に記した。 おそらくはあの大和三山など飛鳥の山々も、杉の造林地が見えかくれしていたに違いないと、私は思っている。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.166〜167)


     以来連綿として木の文化がつづいているのであり、高度に発達した文明国のなかで、日本人は木を伐っては植え、植えついで、緑を絶やさなかったほとんど唯一の民族であり、これは世界の奇跡である。 ちなみに「チャイナ」といえば陶磁器の国際語であるように、「ジャパン」といえば漆であり、同じように森林作りの最初の作業である治山砂防、その「サボー」の語も、世界共通の国際語になっている。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.167)


     それこそは、米に養われた民族の知恵であったろう。稲を育てる水。まさにその水ゆえにこそ森林は神聖であった。 日本人にとって山とは神のおわすところであり、それは田の神、水の神であり、その神の「こもれる」ところが「もり」であり、「おーい」と呼べは「おーい」 と答える、「こだま」は「木魂」であった。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.167)


     それは、戦火に明け暮れてきたヨーロッパの人たちにとって、森林とはつい最近まで国境地帯を意味し、そこは異民族や蛮族のいるところ、魔法使いのおばあさんのいるところであり、「野蛮人」(sauvages、savages)とは、「森の人」から来た語であるのと、まことに対照的であった。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.167)


     水系の思想

     降った雨がどちらへ行くかという水系の思想があればこそ、大和盆地の四隅には、吉野水分(みくまり)神社宇陀の水分神社など、「水配り」神社が祀られたのであるし、またそれほどに水争いが激しかったということであったろう。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.170)


     日本人がいかに水系に敏感な民族であるかということは、例えば加古川支流のそのまた支流の、兵庫県氷上(ひかみ)町を訪ねるに及んで、すっかり参ってしまったことがある。 この町は、日本一低い分水嶺の町だと聞き、どういうことかと行ってみたのだが、標高一〇〇メートルに満たないその平坦な町の、川幅わずか数メートルの川に掛けられた小さな橋が、日本海側と太平洋側との分水嶺になっている橋に降る雨が、左岸に流れるか右岸に流れるかによって、加古川の水になって瀬戸内海に注ぐか、由良川に落ちて日本海の水になるか分かれるのだという。 橋の名は「分水橋」。 そこは国道一七五号線と一七六号線の交差点のすぐ脇であったが、信号機に取り付けられた交差点名も「水分れ」とあった。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.171)


     世界最古の保安林立法
     さてこうして、木を植える文化は育ちはじめる。 すでに律令時代から、「山川藪沢(さうたく)の利は公私これを共にす」の大原則が敷かれ、森林は公のもの、みんなのもの、一領主などが私してはならぬと戒められ、大山守部山守部など置かれて林野行政に当たってきたが、それも、昔から人々が共同して山を守り、共同して燃料、肥料、水に至るその恩恵を分かちあってきたからであったろう。 また溜池の築造に当たっては、景行紀五十七年九月の条に「坂手池(さかていけ)を造る。 即ち竹を其の堤の上に蒔(う)ゑたり」とあるように、堰堤にも木竹が植えられたし、くりかえし起こされる堤防工事にも、などを植えるよう、樹種についても、工事の人数、工期などとともに、具体的に指示が出されるというふうであった。 治水事業と森林との組み合わせは、決して武田信玄が最初ではなかったのである。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.172)


     木を植える文化

     自然保護の高まりのなかで、よく「農業は、それ自体が破壊である」といった欧米直輸入の議論が語られることがあった。 文明を否定するそうした評価の仕方じたい、まったく意味を持たないけれども、しかし西欧では、例えばイングランドの山の森林を払ってそこを麦畑にするというのが、土地利用のパターンであった。 これに対し日本では、山の緑を払ってそこを穀倉地帯にしたのではなかった。 日本人が穀倉地帯にしたのは大河川の氾濫原であり、そこは海だか陸だか川だかわからないような葦野が原であり、その土地を洪水から守るためにも山へ行って木を植え、水を作るためにもまた、山へ行って木を植えた。 慶びの時にも木を植えたし、悲しみの時にも木を植えた。 もとより信仰のためには最も早い時代から、木を植えた。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.183)


     「稲のチカラ」

     それにしても、いったいなぜ二〇年をサイクルとするのだろう。 ちなみに弥生倉庫の耐用年数は、最もていねいに作られたものでも二〇年、といわれている。 建築技術上のその符合を一つの手かがりとしてあたためつつも、歴史の奥深く秘められたこの謎への思いが、私にはいつも心の隅にあった。 長い間のその思いに答えて下さったのは、小堀邦夫氏の論文であった。 「それは稲のチカラによる」と氏は書いている(「式年“二十年”の理義」)。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.189)


     稲のチカラ。 それは米の物理的、精神的ないのちとも言うべきものであったろう。 石油社会がやってくるほんのつい最近まで、国家の一切の財源であり、社会の一切のエネルギー源であり、そして式年遷宮という大行事の財源でもあった米。 その米を糒(ほしいい)とするとき二〇年は保存でき、二〇年経つと倉庫から取り出して処分する。 ということが、律令時代、法律に定められていた。 そのサイクルに沿ったのが、この制度だったという。 即ち、その論旨を要約すれば、次のようになる。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.189)


     もともとは神宮の前身であった「祠(ヤシロ)」。 先に私は神社の原型がヒモロキであったと書いたけれど、文献から見ると神宮のばあい、ヒモロキからヤシロへ、そして神宮へと発展する。ヤシロとは、神が来臨するとき、つまり祭に際して、神を迎えるための仮設の小屋を設けた。 その「屋」を設けるための「代(しろ)」(土地)の意で、のちにそのまま常設となり、そこに常に神がいると考えられるようになったと、辞書にもある
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.189)


     ところで「」は、ホコラとも読む。 それはホクラであり「穂倉」であり、「庫」「神庫」であり、神宮正殿が現在のようになる以前は、倉庫としての性格をそなえていた
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.190)


     式年遷宮の制度は、持統天皇四年(六九〇)に始まるが、なぜ新宮を造り、遷御の儀を行う神嘗祭が行われるようになったかといえば、それまでは天皇が代わられるごとに遷都(遷宮)して、神嘗祭を行なっていたものが、藤原宮の造宮(六九四)によって皇居が恒久的なものになり、性格が一変した。 つまり、ヤシロ的性格が営まれなくなり、代わりにその伝統を神宮に遣わされ、社殿も立派なものに発展させて、とり行うようになった。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.190)


     ではなぜ二〇年なのか。
     一般に式年遷宮の制度上の根拠とされているのが、延喜の太神宮式であるが、そこには、遷宮の費用は神税を充て、足りないときは正税(しょうぜい)、つまりは国庫の税金で補充せよ、と定められている。
     「凡そ太神宮(おほかみのみや)は、二十年に一度、正殿宮殿及び外弊殿(とのみてぐらどの)を作り替へよ。(略)凡そ太神宮は、年限満ちて応(まさ)に修造すべくば、使(つかひ)を遣(つかは)し、(略)孟冬より始めて作れ。 (略)使の供給は神税(しんぜい)を充(あ)て用ひ、丁匠の役・封戸(ふこ)の人夫の粮食(らうじき)は、便(たより)に神税を用ひ、若し神税足らずんば正税を用ひよ」と。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.190)


     では神税とか正税とはどういうものであったろう。 これもやはり規定があり、新穀を徴収したものを「」、租を蓄積したものを「税(おおちから)」といい、神社の造営などの神事には、食に貯えた「税」をもってまかなう、と定められている。 つまり、毎年収納、保管される田租(穀物)が蓄積されて行き、それで造替の費用がまかなわれる
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.190〜191)


     さてそこで、「倉庫令」を見る。 「倉庫令」とは、租税をはじめとして官物の管理にかかわる法律であるが、そこには、
     「凡そ倉に貯(つ)み積まむことは、稲(たう)、穀、栗(ぞく)は九年支へよ。雑種は二年支へよ。糒(ほしい)は二十年支へよ」とある。
     「支へよ」とは、貯蔵年限とせよ、という意味で、つまりは、他の穀物に比しては二〇年もの貯蔵期間が定められ、さらに貯蔵中に年々目減りしていくその量も、一定の割合で計算するよう、徐耗率まで定められている。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.191)


     。 蒸した飯を乾燥させて旅などに持ち歩いたこの米の保存方法は、古代社会のまことに驚異的な発明であった。石油文明がやってくるほんのつい最近まで、国家の財源であり、日本社会の基本のエネルギー源であった米。その米は実に二〇年間の貯蔵に耐え得たのであり、白鳳時代にはすでに法律上もこれを認めていたのである。 毎年の田租はそのようにして倉庫に納められ蓄積され、稲のぎりぎりの限界まで貯えつづけて、それで造替を実施したのであった。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.191)


     とはいえ稲のチカラとは、単に物理的な資源という意味にとどまらず、宗教的な意味のこめられたものであった。 島根県には力祝いという行事があり、柳田国男もこれに注目して書いている。
     「我々の固有の国語に於いては、チカラであり主税寮チカラのツカサであった。 さうして記録の遡り得る限り、オホチカラとして之を朝廷に奉り納め来つたのである。 それを田夫の努力の結晶であるからといふ様に、辞書には解して居るが私だけは信ずることが出来ない。 今日見る多くの力米力飯(ちからごめちからめし)の目的からでもわかるやうに、力は常に此物を供へられる方に属することになって居るからである。 一家では家長、一郷では産土の神と神を祭る人が、各々之に養はれてその力を強め、若やぎ栄えつつ年々の活動を新たにせんことは、今なほ不言の裡に期待せられて居るかと思はれる。 (略)米がそのその味はひのすぐれて居る程度を立ち越えて、異常に我々の幸福感を示唆するのも、遠い隠れたる原因はあったのである」(『食物と心臓』)と。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.191〜192)


     以上のように説明したのち、論文は次のように結んでいる。
     「稲の一生を律令制の定めるところに沿って見れば、実って『稲(たう)』と言ひ、精製して『穀(こく)』と言ひ、正倉に収納された新米を『租(そ)』と言ひ、一年以上貯蔵されたものを『税(ぜい)』と言ひ、それは九年間の保存と規定されたが、さらに(乾飯)は二十年を限って、国々の正倉に貯蔵されたのち処分された。 即ち、稲のチカラは最長二十年を限りに果てるものと定められたと同時に、遷宮を支へる正税や神税の糒の貯蔵可能と認められた年限でもあった
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.192)


     その年に収穫された新しい稲藁を用い、打たず、両端を切りそろえずに作る鎮守の宮の大注連縄(しめなわ)が、稲と大地との一年サイクルの営みにそったものであるとするなら、一方、木材と大地と、そして両者に介在する糒という資源としての稲のいのちの、そのサイクルにそったものが、二〇年の式年だったといえるのかも知れない。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.192〜193)


     かくして緑なす日本列島は、米作りという人と大地との営みを通して、三〇〇〇年の歴史を今日に至るまで、緑の国土になしつづけてきた。 いま、私は『日本書紀』の、素戔嗚尊の子神の、五十猛神(いたけるのかみ)の話が思い出されてならない。
     「初め五十猛神、天降ります時に、多(さは)に樹種を将(も)ちて下る。 然れども韓地(からくに)に殖(う)ゑずして、尽(ことごとく)に持ち帰る。 遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖(まきおほ)して青山に成さずといふこと莫(な)し。 所以(このゆゑ)に、五十猛命を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす
     地球環境問題の騒がれる今日にあってなお、このくだりの何と新鮮に読めることであろうか。
    (《日本の米 六 木を植える文化》P.193)


     関東の「国引き」

     浮き田の話はまだつづく。 この川田谷一帯は、大雨が降ると荒川本流が増水して、洪水が逆流してくる。 すると水田が浮き上がってしまう。
     台風が去り、翌朝野良へ出てみたら、田んぼがなくなって、一面の池になっている。 水田が流されたのである。 一方別の農家では、草地だったはずの自分の農地が、ある朝突然、穂首が垂れんばかりの実りになっている。
     よその水田が動いてきて、そこへ「着地」したのである。
     そんなふうだから人々は、田んぼが逃げ出さぬよう苦心をこらした。 電柱のように長い杭を打ち込んで水田を固定したり、縄でつないだのである。 万一田んぼがよそへ行ってしまっても、自分のものと分かれば、引っ張ってくればよい。
     「土地を引っ張ってくる。まるで国引きですねえ
     私と吉川さんとは、思わず顔を見合わせた。 ひょっとしたら出雲の国引きもそこから来たのではないか。 期せずして同じ思いにとらわれたのである。
    (《日本の米 終章 風景を読む》P.210)


     泥付け

     秋、麦播きが終わると、男たちは「泥付け」にとりかかる。 まず、ワラジをはかせ、背に鞍を乗せ、鞍にニ本の横棒を渡して、両端に「すかり」という編み袋をぶら下げる。 この袋にを入れるのである。 そして、自身はスキグワをかつぎ、腰に小さなをさした。
     なぜ、鎌を携行するのかといえば、馬がよろめいたときに備えてのことであった。 馬が坂道や崖っぷちで、つまずいたりバランスを崩しかけたら、素早く、「すかり」の引き縄を切り落としてやる。 そのための小鎌であった。
     泥運びはこのように、たいへんな技術と神経のいる、重労働であった。 スキグワで土をすくい、編み袋へ入れるときにも、左右の袋に、等量ずつ入れて行かないといけない。 泥を下ろすときも同じだった。 左右の「すかり」の引き縄を、同時に引いた。
    (《日本の米 終章 風景を読む》P.214)


     こんな話も伝えられている。戦争中、化学肥料がなくなって、日本の農地は収量が激減する。ところがここだけは、生産量が落ちなかったため、隠匿肥料があるのではないかと当局に疑われ、検査官がしばしば調べにやってきた。 その都度土地の人たちは、「泥付け」の話をしなければならなかった。
    (《日本の米 終章 風景を読む》P.217)


     仁徳陵の百倍の土量
     大正から八〇年も経った現在でも、この一帯はなお、地力の豊かさを持っている。 関東ローム層の上に載った薄い腐植土。 その上に載せられた厚さ数十センチほどの、時には厚さ一メートルもあるその泥付け土は、普通の黒土とは違って灰褐色をしているので、注意して畑を見れば一目でそれとわかる
    (《日本の米 終章 風景を読む》P.217)


     まことに日本の農地は、水田ばかりでなく畑までも、かくも高密度に労働の投じられ、集積された土地なのであった
     「それにしても、考古学者のあなたがなぜ、農業の客土のこと、気がついたのです
     中山道沿いの、街道一と土地の人が自慢する大木屋といううどん屋に上がり込んで、この店の名物の、それはそれは恐ろしく太いうどんをご馳走になりながら、私はそう、吉川さんにたずるたものであった。
     「考古学の発掘調査をしていると、ふつうとは違うところに妙な土がある。 どう考えても人為的に作ったとしか思えないような土の層が。 そこで土地の人に聞いたのです。 この土、どうしたのかと
     すると、「これは荒川の土だ」との返事である。 だが、こんな台地に荒川の洪水が来るはずもない。 不思議に思って次の調査のとき、また別の人に聞く。
     「そうだよ、人と馬が持ってきた土だよ
     そこで彼は、客土だと気づいたわけであった。
     泥付け」は一部の篤農家の間では、最近まで続けられていた。 完全に絶えたのは昭和五十年のことであった
    (《日本の米 終章 風景を読む》P.218〜219)


     あとがき

     それにしても大地に即して歴史を見ることの、何と大切なことだろう。 そして「土木」の、何とロマンに満ちた世界であることだろう。 考えてみればつい三代前まで、日本人は男も女も子供たちも、みな水の土木技術者であった。 水の技術者だから、森林のことも土壌のことも分かっていた。 それがあっという間に断絶してしまったことが、現代社会の国土への無関心さや無理解、「土木」の語への誇りの喪失につながっている。農業の衰退が日本人を、水の世界からも土木の世界からも、追放したのであった
     そうしたことを思うにつけ私は、自然とのつきあい方を次代に伝えるという情報伝達のためにも、日本列島にあっては農業は、少数の大規模農家に任せるのではなく、兼業でもよい、一家の誰かは農業者であるような、そんな家々が各地に根を張っていることが、大切であることを思わすにはいられない。

    (《日本の米 あとがき》P.225)


     




    【関連】
    [抜書き]「日本の深層文化」(森浩一)
    [抜書き]『稲作の起源を探る』(藤原宏志)
    [抜書き]『日本人はなにを食べてきたか?』(原田信夫)
    [抜書き]『日本文化の形成 中』(宮本常一)





    13/03/08・・・13/03/16・・・13/03/29・・・13/04/12(了)
    【転記ミス訂正】15/01/28