[抜書き] 『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』


『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』
森浩一/網野善彦・ちくま学芸文庫
二〇〇八年十二月十日 第一刷発行
    目次
    はじめに
    T ひらかれた関東
      いま、なぜ「関東学」か  / 考古学からみた関東  / 「関東学」の輪郭  / 多様なる列島社会  / 「関東」と「関西」  / 「九州」「四国」「中国」  / まぼろしとなった「北国」  / つくられた関東のイメージ  / 南北へのつながり  / 東西のルート  / 海上ルートからみた半島と島  / 関東と北陸を結ぶ道  / 日持の通った大陸への道  / 太平洋をめぐる海上交通  / 二つの内海世界  / 地形の復原と江戸の意味  / 舟運の拠点  / 海にひらかれた町  / ミヤケは水運の基地か  / 港としての浅草  /
    U 関東の歴史力
      養蚕と織物  / 鉄の力  / 浅草の観音伝説  / 狩猟と馬  / 関東の渡来人  / 金沢氏と金沢文庫  / 寺の船  / 紙・文字と初期寺院  / 神人・供御人  / 関東仏教の系譜  / 差別にみる東との社会  / 「遅れた辺境」論からの脱却  / 布と紡錘車  / “地域”から見えてきたもの  / もう一つの元号  / 銭の語る東と西  / 商布と商旅  / 武蔵国分寺と都の役割  / 「関東学」の創造をめざして  /
    文庫本のためのあとがき
    図版出展一覧


     はじめに

     関東学なるものを進めてみて、気づいたことの一つは仏教に関してである。 古代や中世の仏教をみようとするとき、美術史家の価値観に影響されてはいなかったかという危惧がある。
    (『日本史への挑戦』《はじめに》P.006)


     大きな寺院が建立される。 その建造物が今日までのこっている。 あるいは大きな仏像が作られ、彫刻的にもすぐれていて、それが今日までのこっている。 たしかにそれらは建築史や美術史にとって重要な遺品であり、研究対象である。 そのことはまぎれもないが、信仰の点においての解明につながるかという疑問がある。
    (『日本史への挑戦』《はじめに》P.006)


     十年もたつと屋根が朽ちてまるような草堂で、場合によっては仏像もなく、経をひたすら誦じているような仏教の存在を、今まで軽視したり、見落としていたのではないだろうか。 僕はいつしか近畿の伽藍仏教にたいして、関東の草堂仏教という言葉で対比しようと考えだした
    (『日本史への挑戦』《はじめに》P.006)


     もちろん関東にも国分寺国分尼寺、あるいは都や有力豪族の建立した寺も少なくないが、それよりも考古学的発掘によって、ムラの寺ともいうべき草堂村堂が普及していて、瓦葺きでもなさそうな小建築物を「寺」とよび、さらに固有の寺名をつけていたことが夥しい墨書(ぼくしょ)土器の出土から復原されている。 これは、僕にとってはこれからの課題になるが、信仰という点では関東での初期仏教の民衆への浸透は、予想をこえるものがある。
    (『日本史への挑戦』《はじめに》P.007)


     古代の関東や東北南部には、勝道(しょうどう)、道忠(どうちゅう)、徳一(とくいち)、万巻(まんがん)(満願)など都ではあまり知られていない宗教家が活躍した。都で有名でないということは、ある意味では時の権力にすりよらなかったという高潔さとも関係がある。 仏教史上で重要な役割を果たした円仁(えんにん)、日蓮(にちれん)、無住(むじゅう)らも関東出身だし、あるいは関東に来たり、あるいは深い関係をもった人として最澄、空海、叡尊(えいぞん)、忍性(にんしょう)、親鸞(しんらん)などの行動は、仏教史の知識にとぼしい僕にとっても、古代以来の関東での信仰の普及と深くかかわりがあることだけは感得できる。
    (『日本史への挑戦』《はじめに》P.007)


     いま、なぜ「関東学」か

    [森] 富山で毎年、日本海文化のシンポジウムをしているあいだに、地域の歴史をきちんとみると、それぞれの地域の特徴に気づくようになり、日本の文化を簡単にミックスしてこうだとはいえないと考えるようになりましたし、一方、沖縄と北海道という離れた地域にも似た特徴があったりすることにも気づきだしました。
     これからの日本史、とくに考古学の材料を使った日本の歴史は、地域のことをよく知らないとだめなのではないでしょうか。 いつまでも地域のことを“地方”といって、中央からみれば取るに足りないという前提で研究していたら問題にならないと、二十年ほど前から考えて、飛騨(ひだ)の国府(こくふ)町とか、ヒスイ(翡翠)が出る糸魚川(いといがわ)市や青海(おうみ)町であるとか、かなりの土地でシンポジウムをやりました。 そしていちおう僕なりに、それぞれの土地の特徴めいたものがつかめてきました。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.014〜015)


     多様なる列島社会

    [網野] それともう一つ、ユーラシア大陸や朝鮮半島にはみられない列島の独自なあり方として、日本列島が内海(うちうみ)世界の連続であることを考えておく必要があります。 津軽海峡、陸奥(むつ)湾の「北の内海」からはじまり、太平洋側では仙台湾、霞ヶ浦・北浦、東京湾、相模(さがみ)湾、駿河湾とつながっており、日本海側は森さんのいわれる通り十三湊(とさみなと)、八郎潟(はちろうがた)をはじめ潟(かた)の連続です。 宍道(しんじ)湖のような大きな潟が山陰にはいくつもあります。 太平洋側はさらに、伊勢湾、琵琶湖から、瀬戸内海へとつながります。 湖と内海の連続なのです。 九州にも博多湾や松浦地域の多島海、有明海、鹿児島湾などがひらけています。日本列島はこういう地形なのですから、同質な社会ができるはずがありません。 地域によって非常に強い個性がある社会が形成されているのは間違いありませんし、自然のあり方も地域によってずいぶん違うわけです。 そういう意味で、最初に森さんがいわれたように中央に対する地方史ではなく、諸地域の独自な個性を明らかにし、それを存分発揮させるための地域史の研究の推進が、なんとしても必要だということはまったく同感です。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.039〜040)


    [網野] なかんずく、ほぼフォッサマグナを境として東と西では社会の質に大きな差異があります。 そのことが最もはっきりわかるのは被差別部落の問題で、まずこれは沖縄とアイヌには存在しないのです。 被差別部落は江戸時代に「日本国」の国制の下にあった地域にはどこでもありますが、フォッサマグナから少し東寄りを境として、東日本と西日本では原体験が全然違うのです。 もちろん東日本でも地域によって濃淡があり、早くからそうした意識を持っている人もいないわけではありませんが、私は歴史を勉強するようになって、二十歳になったころに初めて被差別部落の問題を認識するようになりました。 東日本ではこれがふつうだと思います。 私が勤めていた神奈川大学短期大学部で学生に「同和問題を知っているか」と聞いても、学生はだれも知らないのです。 もちろん神奈川県が同和問題をやっていないわけではないのですが、問題のあるところでしかやっていないから、ほとんどの人は知らないわけです。 大阪で「同和問題を知ってますか」などと聞けば、「アホンダラ」といってきっと袋叩きにあうのではないかと思いますが、それくらい差異があるのです。そのうえに地域によって呼び方も違うのです。 関東ではチョウリ(長吏)といって、カワタ(革田、皮多)といういい方はしなかったと思いますし、ノモリ(野守)、ミヅクリ(箕作り)、ハヤシモリ(林守)など、西日本にはないよび方があります。 名称だけでなく差別の要因もだいぶ違うのです。 西日本では家船(えぶね)のような海民に対する差別もありますし、山陰にはハチヤ(鉢屋)、チャセン(茶筅)のように中世のハチタタキ(鉢叩)という瓢箪(ひょうたん)を叩いて茶筅を売る宗教者の流れをくむ人々がいます。 実際、ハチヤとカワタとはちがうのです。 また東北の日本海沿岸の都市には「ラク」(おそらく「楽」)といわれる人がおり、加賀・能登(のと)・越中(えっちゅう)には「藤内(とうない)」という被差別民がいます。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.040〜041)


     「関東」と「関西」

    [網野] こうした事実があるにもかかわらず大和中心の見方が力を持つのは、明治になってからだと思います。 明治以降、神話を歴史として教えたのが致命的に響いていると、私は思います。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.049)


     まぼろしとなった「北国」

    [網野] とくに北国が地域としてまとまる可能性があったのは、モンゴルが攻めてきたときです。 最近初めて気がついたのですが、鎌倉幕府敦賀(つるが)に役所を置いて、北陸道諸国の御家人を動員してモンゴルに対する警備を実施したようです。 これは日本海をわたって攻めてくるモンゴルに対する対策ですね。 若狭国の御家人が「蒙古の事」で動員されたという記事が、建治元年(一二七五)の文書(「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」)にでてくることは前から気づいており、若狭から北九州に警備に行っているはずはないのだが、と疑問に思っていたのですが、最近、サハリンにモンゴル軍がアイヌを追って侵入したという事実のあることを知って、この記事をハッと思い出して調べてみたところ『太平記』に、敦賀を役所にしてモンゴルに対する警備をさせたとちゃんと書いてありました。 もしそれが常置される機関になり、裁判権を持行政機関、「探題」ができていたら、「北国」という地域名は確実に定着していたと思います。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.053〜056)


     つくられた関東のイメージ
    [網野] このように、鎌倉幕府の成立以降は、大和・京都中心という見方はまったくなかったといえます。 各地域が独自の動きをはじめたときにあたっており、「関東」「関西」という地域名ができるのが決定的ですね。 これで東にも中心ありという意識が定着するのです。 それをうけついで鎌倉公方、後北条(ごほうじょう)氏、そして江戸幕府、ということになっていきす。
     以前、サントリーの会長の佐治敬三(さじけいぞう)さんが、「東北には未開な熊襲(くまそ)が住んでいる」といって大変な問題になりましたが、あれは関西人の発想です。 あの直後に私は東北に行ったのですが、東北人は腹の底から怒っていましたね。 いまだに私の友人でサントリーの酒は絶対に飲まないという人がいますよ。 最近あるところの講演でその話をしたら、サントリーの営業マンがいて、「ちょうど東北の担当で、あんなに苦労したことありません。 サントリーの売上はガタ落ちでした」といっていました。

    [森] 僕はいまだに飲む気にならないですね。 父方のわが先祖はクマソだと思っていますから。

    [網野] 「熊襲」といったことで、九州人もコチンときているし、東北人は東北人でカンカンになっておこっていました。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.056〜057)


     南北へのつながり

    [森] そういう南のほう、太平洋のほうへつながっているだけではなくて、明治時代に八丈島の人たちが沖縄県の大東(だいとう)島の開拓をはじめたというように、東西の線でも南東地帯と続いているのですね。 このように日本列島の南方に広がっているのは東北、中部、近畿、四国にはない地形で、関東の特色を探るうえで重要だと思います。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.062)


     海上ルートからみた半島と島

    [森] 太平洋を海岸沿いに東へとやってくる場合には、三浦半島と対岸の上総(かずさ)が重要になるけれども、もう少し沖合いのコースでくる場合は、神津島三宅島が重要になります。 とくに神津島は「神」をとれば津の島になる。 日本列島では玄海灘に一つ、津の島(対馬(つしま))があります。 『日本書紀』では『魏志(ぎし)』倭人伝と同じ「対馬」の字を使うけれども、『古事記』のほうは「津島」にしています。 まことに字のとおりの港だらけの島で、十五世紀の『海東(かいとう)諸国記』には、八十二の浦、つまり津があったとしています。 太平洋側では港の重要性では神津島です。 神津島は承和(じょうわ)七年(八四〇)に大噴火をおこしていますから、そういう神の怒り狂うことのある島として、津の島プラス大火山があるということで「神」が上についたということなかと思うのです。 このように沖合いをとおってきた場合は、三宅島とか神津島とかどこかの島に着く。 そして北上すると千葉県に着きます。 だから千葉県、とくに上総の地域には、木更津(きさらづ)とか君津(きみつ)とか、津のつく地名が非常に多いし、そういうところには、木更津の金鈴塚(きんれいづか)古墳とか富津(ふっつ)の内裏塚(だいりづか)古墳とか、注目すべき古墳があります。 これらは海を支配していた大豪族の墓でしょう。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.075〜078)


     二つの内海世界

    [森] 前から疑問だったのですが、東京都と千葉県の境は江戸川である。 ところがこの辺りの東京低地は、江戸のある武蔵国ではなく、下総国の葛飾(かつしか)郡だったのですね。 僕は元の名の太日(ふとひ)川または太井川というべきだと考えていますが、どうして江戸川になったかというと、上流から物資を船で下流へ運び、そこから江戸へ運んだので江戸川というようになったそうです。 江戸にあるから江戸川ではなく、江戸へ、遠いものは東北からの品物を運ぶのに利用されたからついた地名なんですね。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.090)


     地形の復原と江戸の意味

    [森] われわれが前方後円墳があることの意味を解く場合に、その時代の地形復原図がないと、歴史の復原が出来ません。 その当時の川の東か西か、右岸にあったのか、左岸にあったのかでは意味が違うのです。 たたき台になるものがほしいですね。

    [網野] 歴史家が描いた図面だからまだまだ問題はあると思うけれども。 それでもさきほどいった『家康はなぜ江戸を選んだか』を書いた岡野友彦さんが図を描いています。 江戸東京博物館ではそうした復原図をもっと大々的に前面に押しだしたらよいと思いますね。 なぜ江戸に家康が首都をおいたかは、河川と海の問題をきちんと考えないと理解できません。 江戸の「戸(と)」は港の戸、門ですから入江の戸でしょうね。 よい入江があってそこに良港があったというとらえ方をする必要があります。

    [森] 大阪の枚方(ひらかた)は、継体(けいたい)天皇が新王朝の都を置いたところですが、その宮跡は淀川のすぐ左岸にあることはほぼほかってきました。 よく考えてみますと枚方は、淀川沿いに一種の潟のような胃袋状の地形があって、船の停泊には非常に良い地形なのです。 だから枚方は平らな潟、つまり「平潟」ではないかと。 これは枚方市でのシンポジウムのときに試案として出しました。
     江戸の「」は、入江、つまり潟の入口でしょうね。 新橋から日比谷のほうへくいこんだ入江があって、その突き当たりの西側が江戸城主要部で、地形からもぴったり「江の戸」ですね。 いままで意識しなかったけれども、中世の江戸城は一部が海に面した城で、重要な港を備えていたのです。 家康の江戸城は、この仮称「日比谷の入江」の一部を濠に模様がえをしたのですね。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.095〜096)


     舟運の拠点

    [森] 神崎は、淀川水運でいえば、山城の淀のようなところでしょうかね。 そういうのを対比していくとおもしろいですね。

    [網野] おもしろいと思いますね。将門は本気になって霞ヶ浦を畿内の琵琶湖にみたてて、そこに大津を設定したといわれているわけですから、やはり水の世界を考えなくては関東は理解できません。

    [森] 瀬戸内海から上がってきたかなりの船が、淀まできています。 そこから小さい船に人や荷を積み替えて、さらに上流へと行くわけですから。

    [網野] このあいだ、初めて利根川から神崎を遠望したのです。 非常によい山あてになる岬だと思いました。 これはこの川の舟運のかなりの拠点になる聖地だと思います。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.101)


     海にひらかれた町

    [網野] 神崎の町は相当古くからの歴史があります。 近くには佐原津(さわらのつ)という香取(かとり)神宮と関係がある重要な港町もありますし、関東が遅れた後進地域というのはまったく誤りで、あのあたりには中世後期になれば「有徳人(うとくにん)」ともいわれた土倉問屋がたくさんいたのです。品川津も大変な有徳人がいたのですが、江戸もそうだと思います。 そういう河川の水運関係の拠点はみな相当の港町になっているんですね。
     神奈川大学(横浜市神奈川区)のすぐそばが、昔は神奈川津だったのです。 いまは何もわかりませんけれど、六角橋から海のほうに行ったところが港だったのです。 その神奈川津と品川津で十四世紀末、明徳のころに、円覚寺(えんがくじ)の造営のための関料をとっており、三十艘の船の名前と船籍が書かれた「湊船帳(みなとふねちょう)」金沢文庫文書に残っているのです。 その船の持主がどこにいたのか、船の名前からもわかるのですが、伊勢の大湊(おおみなと)からの船がきていることは確実で、綿貫友子さんがそのことを明らかにされました。 しかしそれまでは品川の「湊船帳」と読んでいたのです。 ところが、品川といった史料は一例もなくて、品川はやはりなのです。 三十艘のなかの何艘かが伊勢の船だとこれまで考えていたのですが、「湊」といえば大湊しか考えられないので、三十艘がみな大湊の船であると、宇佐美隆之さんがいい出したのです。 そうなると三十艘はごく一部で、品川津にはそれよりもはるかに膨大な数の船がきていることになります。 十四世紀末の南北朝動乱が終わるころのことですが、もしこの宇佐美説が正しいとすれば、何百艘の船が品川津に入っていたとみてもおかしくないですね。 たしかにそれだけの船が入らなければ、円覚寺の造営の費用をまかなえるはずがないのですから、宇佐美説の成り立つ蓋然性は大きいと思います。 そうなると、品川津の繁栄ぶりは、淀と匹敵するとまではいかないにしても、対比は十分できるぐらいのものだったと思います。 なにしろ瀬戸内海から淀川に入ってくるルートは、現在の新幹線のようなものですけれど、伊勢から品川、神奈川への道も在来の東海道線ぐらいの意味は持っていたと思いますよ。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.102〜106)


     ミヤケは水運の基地か

    [森] さきほどの話を聞きながら思い出したのは、中国に『水経注(すいけいちゅう)』という北魏の●道元(れきどうげん)の書いた、川の源から、川の出口までをたどった本があり、じつにおもしろいのです。 黄河の水源から歩いて、沿岸の伝説も書いてあるし、秦(しん)の始皇帝の墓が、当時はどうであったかとかいろいろなことが書いてあるのです。 川にかんする雄大な関心のあらわれだと思いました。
     それに匹敵するのが日本では赤松宗旦(あんまつそうたん)のあらわした『利根川図志』ではないかと思います。 近畿にも川を扱った、『淀川両岸一覧』とか『宇治川両岸一覧』とかはありますが、下りと上り、つまり川の左岸と右岸の両方の図が中心になっていて、文章は少ない。 僕の知っているかぎりでは、文章で十分書いてあって、中国の『水経注』に匹敵するのは『利根川図志』でしょう。
     ということは、関東の一つの特徴は河川水運です。 前に多摩(たま)川上流の高尾山(たかおさん)に登ったときに、境内に石垣を寄付した人の名前が書いてあって、そのなかに江戸の魚問屋があるのを見てびっくりしたことがあります。川の出口に近い魚問屋と川の水源の信仰の山とがつながっているのです
    (●:れき、麗+オオザト)
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.111〜112)


     港としての浅草
    [森] そういう川の重要性を考えてみれば、浅草の位置はすごく重要だと思います。 隅田川の河口に近い川岸ですね。 浅草寺(せんそうじ)というと、つい東京のだれも行く名所というだけでみるけれど、あそこは古代から、重要な港に伴ってひらけたところではないでしょうか。

    [網野] 『吾妻鑑』の養和元年(一一八一)七月三日条に、頼朝が鎌倉に鶴岡八幡(つるがおかはちまん)宮を造営するとき、浅草の大工を呼びよせているんですよ。 なぜ浅草かということになりますが、浅草には大規模な寺社造営のできるすぐれた技術を持った大工集団がいたことは確実です。

    [森] 四天王寺(してんのうじ)の建築はずっと金剛(こんごう)組がしています。 大きな寺と大工集団がかかわるのでしょう。それと浅草寺のためだけでなく、隅田川の上流とか東京湾沿岸で大きな建物を建てる必要があったら、そこから出かけたのでしょう。

    [網野] 鶴岡八幡宮をつくらせるのですから高度な技術を持っていたのだと思います。 これが浅草の地名の初出ではないかと思いますが、商工業者、技術集団の集中している根拠地で、都市的な場だったようです。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.116〜117)


    [森] 川というのは、低地では本来は両側にたくさん沼があって、それがいざというときに遊水地の役割をしていたのです。 それが蛇行しているから河口までの河の総面積が広いのです。 それを明治政府は一気に真っ直ぐにして早く水を流そうとしたから、結局、川の面積が少なくなって、大雨が降れば、川の水量がオーバーして大洪水になるのです。 そういう対策のうえでも、やはりもとの川筋とその周囲の遊水地となる大小の沼がどの程度あったか、そういう研究が欲しいですね。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.120〜121)


    [網野] 三和(さんわ)町(茨城県)という最近、オウムの問題などで有名になった町の町史編纂に私もかかわっていたのですが、この辺は昔は長井戸(ながいど)沼飯沼という沼があって水郷だったのですが、いまは水がほとんどなくて細い川があるだけです。 しかしこの町の中世文書を調べた山田邦昭(くにあき)さんが見つけられたのですが、戦国時代のころは「船戦(ふないくさ)」をやっているのです。 船をおさえないと、このあたりは支配できなかったのです。 いまはそんなことをいってもまったく思いもよらないほどに、まるっきり水の気配がないのです。関東平野の内陸部、現在、平野になっているところに河川や沼、湖など水の世界が広がっていたのでしょうね
     現在の関東で水田地帯になっているところは、江戸時代に入るまではこうした水の世界だったことはまちがいありません。中世にまでさかのぼれば、そうした河海を通じての活発な交通に支えられ、苧(からむし)がいたるところに栽培され栗林をはじめさまざまな樹木が生いしげり、さらに川にかこまれた馬の(まき)がひろがり、谷合に水田谷戸田(やとだ)のひらかれる風景が展開していたと思います。
    (『日本史への挑戦』《T ひらかれた関東》P.121〜122)


    U 関東の歴史力

     養蚕と織物
    [網野] 関東の社会を考えるときに決して見逃してならないのは養蚕苧(からむし)による繊維生産です。 関東の荘園・公領の年貢はすべて布か絹なのです。 尾張の荘園は全部絹ですが、美濃や甲斐も絹や布です。 信濃はすべて布で、年貢のわかる荘園の数が少ないのですが、甲斐は絹が二、布が五、相模は布三、武蔵は絹が二、布は三、上総は布四、絹三、下総は絹一、布一、綿一、常陸は絹五、布一、綿二、遠江(とおとうみ)は米が五ありますが絹二、布三、綿一、駿河は絹一、布二、綿一、伊豆は布二となっています。
     このように群馬、武蔵の秩父や多摩、山梨など、山寄りの地域の養蚕は、中世から近世にかけて行われており、とくに近世の養蚕は大変なものです。 だから幕末、明治以降は秩父の山奥で、いつでも横浜の生糸の値段を気にしているのです。 私の郷里の山梨もそうでした。 私の家内の祖父はよく歩いて横浜まででかけていますが、これも輸出と関係しているでしょうね。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.124〜125)


    [森] トロイの発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンが、幕末の一八六五年にサンフランシスコへ向う途中、横浜で船を降りて、八王子へ絹の視察にきています。 江戸では浅草のことを詳しく記録しています。 このことは意外と知られていないけれど、あの旅行記『日本中国旅行記』はおもしろいですね。 上海(シャンハイ)の次に横浜で降りて、ひと月足らずですが、非常に細かいところまで観察しています。 日本人の清潔さに感心したとか、税関での武士の態度はみごとであったとかですね。 いままでどの港でもチップを出してきたけれど、横浜で出したら「我々は日本男児」といって笑いながら手を振って受け取らなかった。 そのくせ、信じられないほど機敏に対応した、と。 テレビの時代劇を見ていると、武士というものは汚職をするものだと思わせられているけれど、あんなテレビでの扱いが平気になるから、いまの役人も多少の不正は当たり前と思ってまうのです。 テレビの人たちの発想が変わらないと日本は良くならないですよ
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.125)


    [細野] 歴史家の色川大吉(いろかわだいきち)さんも書いていますが、多摩地域で明治の初めに新しい憲法の草案をつくっていますし、秩父では秩父事件もおこっているわけですが、こうした地域をこれまで、「山の奥」と思いがちだったのですが、じつは多摩川や荒川のルートで横浜と直結しているのです。 ですから金も持っているし、相場への機敏な対応能力は大変なものだったと思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.128)


    [森] 多摩地区では、幕末に百姓身分から新撰組が生れてくる。 徳川幕府が負けたから評価は低いが、長州の奇兵隊の動きと対比するとおもしろいのではないでしょうか。 いずれにしても、経済的基盤があったのでしょうね。 それと大都会へ行くまでの距離でみた田舎というのはあるけれども、実生活での田舎は、僕はそんなになかったと思います。 日本近世史の大石慎三郎(しんざぶろう)さんたちが注目して発掘をした、群馬県の嬬恋(つまごい)村鎌原(かんばら)は、天明三年(一七八三)の浅間山の大噴火で、火砕流が襲い、死骸が川を流れて柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)のところへたくさん流れていったので、その供養塔が近くに建っています。 僕も鎌原の現地を見に行くまでは山深い農村だろうと思っていたのです。 しかし出土品をみると、ユーロッパから輸入したガラスの鏡などをすでに使っている。 大変なことです。 あの村は、あの地域の絹の集散地をかねていたらしい。 そういうところを、たんなる農村だと思っている人が多いのですね。

    [網野] 大石さんが発掘の結果をみてびっくりして、百姓は金持ちだったといっていたと聞いています。 化粧道具など非常に立派なものが出たようですね。

    [森] かなりお金持ちで裕福なところだったようです。 だからよほど頭を切り換えないといけないでしょう。すぐに「田舎者」ということばがでるけれども、考えたら、並の武士よりはるかに裕福な生活をしていた百姓もいたわけです
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.128〜129)


      この[抜書き]は、2013年3月17日から始めました。
      森浩一さんの著作を読んで、抜書きを始めたのは、「日本の深層文化」でした。 それはこの本を読み終えてからしばらくしてからの、2011年1月16日のことでした。 その著書の中に、苧(からむし)の言葉が出てきたことがきっかけです。[抜書き]「日本の深層文化」
      かといって、専門書を調べたりしている訳ではありません。読んでいる本は殆ど文庫本か新書の類です。 ひたすら“苧”の文字を探しているわけではなく、それらの文字に遭遇する読書の楽しみからです。
      国や官制の学界の定めた賞については、ことごとく辞退されたという森浩一さんが、南方熊楠賞をお受けされたというニュースもこの抜書き行為中にありました。
      そして、先日、2013年8月6日に、訃報のニュースが流れました。享年85歳。

      謹んでご冥福をお祈り致します。

    2013年8月11日 抜書き行為(責):五十嵐


     狩猟と馬

    [森] 馬に乗って弓を射るということから考えると、明治や大正の時代に書かれた関東についての諸論文についての評価というか注目度が弱いといえます。 たとえば、大正七年(一九一八)に鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)先生が雑誌『武蔵野』にお書きになった「武蔵野の高麗人(高句麗人)」、あれは短い文章ですが、みごとに問題提起をした論文ですね。武蔵野には高句麗系の高麗(こま)氏が住んでいる、そしてそれが武蔵野の武人になるという流れで書いています。 そういう発想はその後あまりないのですね。 十年ほど前に埼玉県行田(ぎょうだ)市の酒巻(さかまき)一四号墳で、馬のおしりに旗を立てた埴輪、まるで高句麗の壁画に描かれている馬を埴輪にしたようなものが、初めて出ました。 埴輪の旗ですから一センチぐらいの分厚いものですけれど、あのときに「大和に出ればおかしくないけれど、なぜ埼玉に出たのだろう」という新聞談話がありましたが、なぜ鳥居先生の有名な論文を読まずに発言したのかと。鳥居論文を読んでいれば、「鳥居先生が大正時代に見通されたとおりのものが出ました」でよいわけでしょう
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.151〜152)


     関東の渡来人

    [網野] 文献を小さなものまできちんと集めて整備することは、非常に大事なことですね。
     前にも話に出ましたが、高句麗の人たちは日本海を直接横断して、越後能登から列島をさらに横断して関東に入ってくるので、このルートは古くから非常に大きな役割を果したと考えられるのではないでしょうか

    [森] よく大和の天皇家が渡来人や集団を掌握して、それから全国へ配置したという図式で説明します。 たしかにそういう史料もあります。朝鮮半島中国大陸戦争の結果、ある集団が圧迫されたり国がなくなったりすると、いまでいう難民が大量に発生するという場合、政府が掌握してどこへ行きなさいというような処理をすることがあり、そういう例は正史にのりやすいけれど、そういうルート以外のものもあったと思います。渡来集団には日本海方面からやってきて長野に入ったり、群馬に入ったりして、さらに移住するというケースが多いのではないですかね。 とくに五、六世紀にこのケースが多かったと推定されます。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.155〜156)


     紙・文字と初期寺院

    [森] 金沢文庫とは直接関係がないのだけれど、橿原(かしはら)考古学研究所付属博物館の友史会の会員である岡田英三郎さんの書いたものを読んでいたら、金沢貞顕が父顕時(あきとき)の三十三回忌に、父の書いた手紙を細かく砕いて紙に漉(す)きなおさせて、それに写経をしています。還魂紙(かんこんし)というのだそうですが、文字をそこまで大事にしている。 僕は感激しました。 金沢貞顕は、文庫の創始者の実時の孫ですね。 そういうように、金沢文庫は本を大事にするだけではなくて、字というもの、とくに肉筆、墨の字を非常に大切にした家柄だからこそ、あれだけの文庫をまとまって残せたのだと思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.167〜168)


    [森] 『延喜式』をみていると、安房以外の関東−−上総・下総・武蔵・常陸・上野・下野・相模−−はどの国でも中男作物(ちゅうなんさくもつ)としてを出しています。 十七から二十歳までの中男に課せられた税で、調(ちょう)の一種とみてよいでしょう。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.168)


    [森] 紙は、どの地方でもかなり負担していますが、関東では大量の海産物を負担した安房のほかはすべての国で紙が作られたのですね。 の原料は、コウゾミツマタ、つまり畠に栽培するもので、布作りの苧(からむし)の栽培とも共通した点があり、その面でも注目されますが、もう一つの見方がひらけてくると思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.168)


     関東での紙の技術の発達は、その一部が都まで運ばれたにしても、地元での需要があったからではないでしょうか。 これはまだ注目されていませんが、関東で墨書土器がいっぱい出る、これは現象面であって、紙に書いた古代の文書はあまり残っていないけれど、紙の需要は相当あって、関東全体で普及していたのでしょう。 一九七九年から八一年にかけて出土した茨城県石岡市の鹿(か)ノ子(こ)遺跡の漆紙文書(うるしがみもんじょ)などは、当時あった文書の一例かと思うのですが、関東では書写がさかんにおこなわれていたのではないでしょうか
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.169〜170)


     その房総風土記の丘を中心とした龍角寺古墳群は、前方後円墳から方墳に変わります。 だから大和の天皇家だけが前方後円墳から方墳に変わるのではなくて、関東では千葉の龍角寺古墳群と群馬の総社(そうじゃ)古墳群があります。 しかも注目されることに大和や河内の七世紀代の方墳よりも規模が大きい。 それと同時に、どちらの古墳群にも隣接して初期寺院があり、龍角寺には七世紀代の仏像も伝わっています。 龍角寺は、一九七一年の調査で、東に塔、西に金堂を配した法起寺(ほっきじ)式の伽藍であることが明らかになってきましたが、出土したの中に文字をヘラ書きしたものがあったのです。伝世文字ではなく、発掘文字です。 ところが寺の北方の五斗蒔(ごとまき)遺跡が発掘されると、ここが龍角寺へ瓦を供給した瓦窯(がよう)の跡だとわかってきたのですが、約一〇〇〇点の7世紀後半の文字瓦があり、全国的にみてもたいへん古い、しかも一括の文字資料だとわかってきました。 なかでも「朝布」「服止(はとり)」「玉作」「神布」「水津」など龍角寺周辺の地名を示すものが多数占められていることなどがわかってきました。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.173〜176)


     神人・供御人

    [網野] ところが関東にはそういう神人はいないのです神人・供御人は天皇の法令で平安末には神人・供御人制として制度化されました。 この面の研究はまだごく少なく、この用語もあまり流通していませんが、確実に公的な制度になっています。 東国のなかでも越後には日吉神人がいますし、信濃には諏訪(すわ)の神人がいると思います。 それから鎌倉の鶴岡八幡宮には確実に犬神人(いぬじにん)がいるのです。 香取、鹿島にも神人がいないわけではないのですが、職能民が神人になって特権を持って活動するという働きは関東ではみられません。 そきほど話にでた走湯山の灯油料船は、船が「神船」として特権を持っているので、船頭、梶取が神人になっているわけではないのです。 神人・供御人制は東国には作動していません。神仏に対する感覚が、西国と東国とでは違うのではないかと思います
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.178〜179)


     関東仏教の系譜

    [森] だから関東は、大和や河内など近畿の初期仏教とは違う特徴が早くからでています。 関東の初期仏教は、大和からの影響だけで解けるかというと、僕は解けないと思います。五五二年に百済の聖明(せいめい)王から欽明(きんめい)天皇に金銅の釈迦像お経がもたらされたと『日本書紀』にでています。 厳密に何年かはともかく、それも一つの事実で、そのような仏教がさらに関東へひろまったという図式だけでは解けません福島県の会津坂下(あいづばんげ)町塔寺(とうでら)(金塔山恵隆寺(えりゅうじ))という古い寺があって、も出土するし、の心礎も残っているのですが、そこは中国南朝の一つである梁(りょう)の青岩(せいがん)という人が欽明天皇の元年に開いたという伝説を持っています近畿の古い寺で梁の人なんて、寺の建立者としては出ないですよ。 そういう、大和やその周辺ではちょっと理解できない形の仏教があるのです。 上野(こうずけ)を例にとったら、従来からある放光寺の至近のところに国分寺を建立しています(一七四ページの地図参照)。 古代史で国分寺の分布図をつくるとすると、その放光寺をあらわさないで、国分寺だけを入れてしまいますが、もともとあるお寺の南西一キロほどのところへ国分寺をつくる。 だからそういう目でみると、やはり関東の仏教の特異性は大きな問題をもつのではないか。それがしばらく時間がたって、鎌倉の新仏教のときの基礎になったのではないか。 そのへんを東大におられた仏教史の蒲田茂雄先生と前に対談したときに話してみたら、「関東の仏教は近畿のものとはかなり違いますよ」といっておられました。
     だから大和をなんでも基準にするという常識を一度はずさないと、せっかく発掘された事実からみえそうになっていたものでも、見えなくなってしまうのです
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.188〜191)


     差別にみる東との社会

    [網野] もう一つ、二、三年前に国立歴史民俗博物館で「中世商人の世界」というシンポジウムがあったのですが、そこで連雀(れんじゃく)商人の問題がでました。 関東ではいまでも連雀町という地名がたくさんあります。 ところが西国では連雀は差別戒名の問題がからんでくる石井進さんが指摘しています。 実際に連雀という町名は関西には見えないですね。 彦根(ひこね)にはあるようですが、これは関東からもちこまれたようです。宿河原の問題とも似ているのですが、連雀については関東にはなんの差別もありませんが、連雀商人に対する差別が西にあったらしいのです。 これも何が背景にあるのか非常にむずかしい問題ですが、さきほどの問題ともつながると思います。

    [森] 僕の手には負えないけれども、親鸞が常陸や上野に暮らして、関東の土着性というか、古代からの信仰の基板というかそういうものが彼の考えの変化や信仰の形成にどう影響するか。 そういう目でだれかが研究をおやりになったら、何かでそうですね。 親鸞がただ、時間とともにだんだん考えが進んだというだけでなくて、関東へ来たことによって、活発な商業活動をする人々と接し、そこで見たものからの影響というものがあるのかもしれません。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.194〜195)


     「遅れた辺境」論からの脱却

    [網野] いままでは、「遅れた東国」「貧しい関東」という見方の影響が強くて、仏教史の笠原一男さんは親鸞は「貧しい関東の在家農民」に支持されたいわれましたが、これは間違いですね。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.195)


     いま「在家農民」といいましたが、当時のことばでは「在家人」で、この人々は都市民です。 よく調べてみると尾道にも「在家人」がいますし、新見荘(にいみのしょう)の市庭(いちば)の検注(けんちゅう)では在家が検地されており、ここは都市として扱われています。 いままで「反歩の田畠も持たない在家人」と自らいっており、大変な金持ちの「在家人」もいたのです。『この国のすがたを歴史に読む』(大巧社、二〇〇〇年、朝日新聞社、二〇〇五年)でも述べたように、尾道を根拠にしている備後(びんご)国大田荘(おおたのしょう)預所和泉法眼淵信(いずみほうげんえんしん)も「在家人」だったのです。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.195〜196)


     布と紡錘車

    [森] 関東の場合、を使った織物、布にとくに注目する必要があります。 べつにどこかの特別の工房で作っていたわけではなく「農家」として扱われる家々で作っていたのでしょう。 一戸あたりの生産額は少なくとも、一つの郷、一つの郡、一つの国にまとめるとたいした額になります。 布の重要性を見落としていたかもしれません。

    [網野] いままで「織手」という手工業者が注目されていましたが、これは男性なのです。 神人と同じ侍クラスの人たちで、名字(みょうじ)も下級の官途(官吏としての地位)も持っており、高級な織物を作っています。 いまも西陣の織手は男ですよね。 綾錦(あやにしき)のような高級な織物の織手なのです。 いままでそちらだけをみて、織物も男だと思ってしまったのです。それと調庸(ちょうよう)の布や絹に書いてある名前はみな男の名前なので、生産者も男性だと思ったのです。 これは当然のことで調庸の負担者は成年男子ですからね。 女の名前がでてくるはずはありません。ところが間違いなく布、絹は女性がつくっていたと思いますし、織手の織物の原料となっている糸や布のもとになる繊維を作っているのはみな女性だと思いますについても『万葉集』の歌に「麻衣(あさごろも)着ればなつかし 紀(き)の国(くに)の 妹背(いもせ)の山に麻蒔(あさま)く吾妹(わぎも)」(七−一一九五)という歌からみても、女性だと思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.201〜202)


    [森] 「多麻河にさらす弖豆久利(てづくり) さらさらに 何(なに)そこの児(こ)のここだ愛(かな)しき」(十四−三三七三)。
     武蔵国の歌として『万葉集』にあるのですが、いみじくも弖豆久利、つまり手作りの布を川でさらしている情景です。 ふつうはこの布のようにこの児は可愛いという意味にとられているのですが、布を河でさらしている女性を詠んだのかもしれません。 それはともかく、手作りといっています。鳥居龍蔵先生はこの歌の布の原料をカラムシ(苧)とみています。こういう布を交易のルートにのせたのが関東に普及している商布(しょうふ)でしょう。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.202〜204)


    [森] 『和(倭)名抄(わみょうしょう)』には白●(いと)布の説明として「俗に手作布の三字を用う。 テツクリノヌノ(弖豆久利乃沼乃)これか」といっています。 白くさらした糸を使っていたのでしょう。 多摩川北岸の調布(ちょうふ)市の地名なども、古代の手作り布に関係ある地名だと思います。 僕はその後の研究は知らないが、大正十四年(一九二五)の鳥居先生説ではムサシ(武蔵)の地名そのものが、カラムシ(苧)に発するとしています
    (●:“糸糸”の1文字)
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.204)


    [森] 布を織るための糸作りに必要な紡錘車(ぼうすいしゃ)は全国的に出るのですが、関東では八世紀から十世紀の紡錘車に所有者の名前や地名の文字が書いてあるのです。 文字を刻んだ紡錘車は関西ではごくわずかしか出ていないのです。 所有者の名前を文字で記しているというのは、関東、とくに群馬と埼玉に数十例あるでしょう。

    [網野] 男の名前ですか、女の名前ですか。

    [森] 難解な字が多く、そこまではわかりません。 「物部織長」とか「有馬□万」とか、男の名前はあります。紡錘車に対して所有者を文字で示しているとしたら、これは道具を持っている人がいて、それを数人に貸し付けるとかで書くのかと思いますが、文字の普及を示す史料になるのは間違いありません。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.206)


     “地域”から見えてきたもの

    [網野] 最近、東北学とか山梨学などが強調されはじめていますし、愛媛学もあるわけですが、これは本当に大事なことですね。 とくに九州は南と北とそれぞれ地域の違いがあるので、それぞれの地域の個性を考えることが非常に大事だと思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.208)


     もう一つの元号
    [森] それから熊野の信仰が関東から東北の太平洋側に入っていきます。 熊野信仰といえば、熊野権現ですね。 まさかと思うけれど、徳川家康の神号の東照(とうしょう)大権現と多少でも関係があるのでしょうか。

    [網野] それはわかりませんが、日光は重要な意味があるようです。関東で、日光はどうも元号をある時期につくっていた形跡があるといわれています。 日光で使われている元号は戦国期に関東にでてくる「延徳(えんとく)」「福徳(ふくとく)」の元号と共通しています。 日光は頼朝の時代からそうなのですが、鎌倉・江戸、つまり関東に根拠を持つ人間にとっては、非常に重要な聖地なのです。 熊野権現とすぐつながるかどうかはわかりませんが、家康を日光に祀ったのは、歴史的な長い伝統を背景にしているのです。 家康は権現様、神様になるわけですからね。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.211〜214)


    [森] 日光には二荒山(ふたらさん)ともいわれる男体山(なんたいさん)の頂上に、奈良時代から平安時代を中心にしたものすごい祭祀遺跡があります。 日光は古くからそういう信仰の場であったのですね。 関東での山岳信仰の霊場ですね。

    [網野] 関東の異元号のことを、いままでは私(し)元号といっていたのです。 しかし私元号というと京都の元号だけが「公」ということになり、あとは「私」だということになってしまいますので、通常使われている元号とは異なる元号ということで、佐藤進一さんが異年号といわれ、そのようにいう人が多くなったのですが、これは地域的にみると関東に多いのです。 あきらかに暦が西と違っているのです。 最近『山梨県史』で、日本中世史の勝俣鎮夫(かつまたしずお)さんが『勝山記(かつやまき)』や『王代記(おうだいき)』という日記風の年代記の編纂をやられていますが、京都の元号と同じにするとずれて間違いがおこってしまうようです。 暦自体がちがったのですね。 元号についても「福徳」「弥勒(みろく)」のような異元号が、頻々と現われます。 このように元号の問題は、関東を考えるうえで非常に重大な問題の一つです。 『将門記(しょうもんき)』によると将門は暦博士は置けず、元号をつくれなかったとありますが、頼朝は、治承七年(一一八三)までは京都の改元を認めていません。 頼朝の発した文書には治承六年治承七年という元号がでてきます。 京都では養和(ようわ)二年(一一八二)、寿永(じゅえい)二年(一一八三)になるのですが、「養和」「寿永」の改元を認めていないのです。 自分で元号を建ててはいないのですが、あきらかに東と西では元号が異なることになるのです。 鎌倉時代の末期にも京都と鎌倉の元号がずれますし、鎌倉公方室町公方と対立して、持氏(もちうじ)は「正長(しょうちょう)」という年号を使いつづけます。 だから東と西の元号とが異なっているときは何回かあるのです。
     戦国時代になると、さきほどいったように暦自体が東と西とでは違うようになってしまいます。古河(こが)公方の段階にもまた、地域の独自な元号をずっと後まで使い続けます。とくに福徳二年という元号は関東の広い地域で使われているのです。 勝俣鎮夫さんの研究によると三島(みしま)暦では「命禄(めいろく)」という新元号をつくり、甲州ではそれを採用して甲州暦をつくっています。 関東の寺社はこういう独自な暦をつくっており、地域元号という異元号がたくさんでてきます。 そして最後に元号をつくったのは明治のときの奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟です大政(たいせい)元年という元号を建てて本当に合議体の政権をつくろうとしています。 そのときに大政元年という元号を使っており、そこまで東国の伝統が長くつづいているといえます。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.214〜219)


     銭の語る東と西

    [網野] そのほか、東国では距離の単位が六町一里で、西国の三十六町一里とはずれています。 とくに戦国時代には各地域に独立した国家といってもよう政権がいたるところにできて、それぞれその地域の習慣にしたがっていますから、違いがはっきりでてきます。(ます)も違うしも違います。 鎌倉の初めのころまでは大陸からの銭がまだ十分流通するにいたっていませんから、西はが流通手段になり、東はが貨幣の役割をしています。 一三世紀に入ると東国のほうに早く銭が入ります。(ひき)という単位は絹・布の単位ですが、一疋は銭十文という単位になっています。 これは絹・布からできた単位ですよね。 東国のほうが銭の流通は早いのです。 いままで経済が発達すると、貨幣流通が活発になるといわれていたけれど、そういうこととはべつに、関東・東北のほうがむしろ西国よりも銭の流通が早いのです。 西国は米が頑固に邪魔しており、米の流通手段としての性格が非常に強いために、銭になかなか変わりきりません。 一三世紀後半になって、西国もようやく銭に変わります。東国では十三世紀前半に銭が流通しすぎてこまるので、東北では銭ではなく布を使えという法令がでているくらいです
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.219〜220)


     そういう歴史を背景にして、さらに一五世紀後半に永楽銭(えいらくせん)の価値が西国では下落して、大内氏の領国では「悪銭」にされてしまうのですが、東国は永楽銭は基準通貨になっています。 結局そうした背景の下に東国ではが流通し、西国はが流通します。 こうした金と銀との使い分けも、じつに根が深いのです。 これは先進・後進で処理できる問題ではありません。 金の流通は東北や常陸北部、甲斐に金山があることも関係するでしょうね。 銀は石見(いわみ)でさかんにとっていますから、西国では銀が流通するということになるのかもしれません。 いずれにしても貨幣のあり方は西と東とでかなり違います。 江戸時代にどこまでが金遣いで、どこまでが銀遣いかということは、まだあまりよくわかっていないようですね。 たとえば田畑の売買証文は甲斐では例外なしに甲金(こうきん)でその値が表示されています。 名古屋には銀がみえますね。 どこまでが金の流通、どこまでが銀の表示かを正確に調べておく必要があります。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.220〜221)


    [森] 高校の教科書では、室町時代に永楽通宝が使われると書いているのですが、京都の遺跡ではあまり出ないです。 宋銭的な銭−−宋から輸入した銭が、日本での模造銭はともかく−−が江戸時代になっても、たくさん出てきます。 永楽通宝の出土例は関東のほうが多いようです。

    [網野] 実際、関東では「永何文」といういい方は江戸時代になっても行われており、武蔵では永高銭高になっているところがあります。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.221)


    [森] おもしろいと思うのは東大寺の大仏をつくるときに、宮城県、一部は栃木県(下野)の馬頭(ばとう)のあたり、それから大仏のときに使ったかどうかはわからないけれど、伊豆甲斐にも金があり、時代が下ってからは佐渡の金があります。 これにたいして銀は石見銀山、これは室町時代には世界的な大銀山です。対馬の銀山も古代からよく知られていて、元(げん)軍が上陸するのも対馬銀山の前面の小茂田(こもだ)の沿岸だった。 そうすると、西には大銀山、東には金鉱が多い−−そういうことも金経済・銀経済の背景かもしれないけれど、そういう背景があって、やがて一七世紀に寛永(かんえい)通宝をつくろうというアイデアと実行になってくる。 通貨のうえで、日本列島が統一されたわけです。 『この国のすがたを歴史に読む』でもいったように、寛永通宝が発行されたときに中国で「寛永国」がどこかにできたといって大騒ぎをしたという。 徳川幕府の寛永通宝を見直しています。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.221〜224)


     武蔵国分寺と都の役割

    [森] ところで、武蔵という国は郡名瓦からもわかるように二十もの郡のある大国です。 天平宝字二年(七五八)に百人足らずの新羅人で新羅郡をつくっていますが、この新しい新羅郡の郡名瓦はない。 これは小さな郡だったからなのか、それともすでに国分寺ができていたからなのか、微妙なところです。
     もう一つ注目されるのは武蔵にある二十一の郡には、多麻足立秩父埼玉のような大きな面積の郡がある一方で、今日の一つの町、二つ三つの町村を集めたぐらいの小さな郡もあります。那珂(なか)、賀美(かみ)、男衾児玉大里横見幡羅(はら)、荏原橘樹(たちばな)といった郡ですが、なぜこんなに細分した郡が必要だったのか、このことも将来「関東学」の対象になると思います。
    (『日本史への挑戦』《U 関東の歴史力》P.236)