[抜書き]『赤い人』


『赤い人』
吉村昭・講談社文庫
2009年5月25日 第34刷


     監獄所では、樋口監獄長の案内で獄舎を巡視した。 前年末の在監者は男百六十六名、女八名で、六名の脱獄者があった。内地の監獄と異なる囚人に対する待遇は、冬期に綿入れの着物を貸与することであった。 囚人にあたえるの量は、一日につき男囚が四合五勺女囚三合六勺、男女とも十歳以下四歳までの入獄者二合七勺。 朝の味噌汁の味噌の量は、男女囚一人につき十五匁、十歳以下十匁、朝食の漬物味噌汁の実は一人につき八厘などとさだめられていた。 その他、塵紙は一人一日に一枚、ふとんは一枚、入浴は月に三度、天長節紀元節には獄舎内に手桶一杯の湯があたえられるなど細かく規定されていた。
    (《赤い人》P.31)


     最近の監獄内の動きとしては、前々年の十一月に起った函館の大火で、囚人百四名を消火作業にあたらせ、際立った働きをした八十四名の囚人の罪一等を減じた。 また、前年の十二月には、江差(えさし)の第四支署から受刑者を函館監獄所に護送しようとしたが、豪雪のため護送できず、特例として懲役百日以下の者を笞刑に処し、放免したという。
    (《赤い人》P.31)


     仙台藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として戊辰(ぼしん)の役に新政府軍と戦って敗れた。 いわば朝敵官賊の藩で、藩主は実高百万石以上といわれる領地を没収され、その後実高二十八万石の地を下賜され、家臣の知行地すべてが取りあげられた。
     亘理藩主伊達(だて)邦成は仙台藩一門の筆頭で、二万四千余石の知行地を有していたが、明治維新によって邦成はわずかに五十八石五斗の扶助を受けるだけになり、藩主自らの生活も維持できず、むろん家臣を養うことなどできなかった。亘理藩家中は千三百余戸、七千八百余人で、かれらはたちまち生活の方途をうしなった。
     家老田村顕允は邦成とはかって、家中の者を救済する方法として明治二年蝦夷地に入植することを新政府に嘆願した。北海道開拓のため入植者をつのっていた政府は、極寒の地に入植を希望する者がほとんどいないことに苛立っていたので、顕允の嘆願をいれ、伊達邦成に対し、「……自費ヲ以(もって)漸次移住、屹度(きっと)実効相立候様尽力可」として「胆振国之内有珠郡、右一郡其方支配ニ被仰付」という辞令を渡した。
     移住第一陣は、伊達邦成以下家臣とその家族二百五十名で、かれらは祖父伝来の鎧、兜、弓、鉄砲、茶器等すべてを売りはらい、南京米二百五十俵を購入して、陸前寒風沢(さぶさわ)港(宮城県七ヶ浜町)から汽船「長鯨丸」に乗って故里をはなれた。
     四月六日、船は室蘭についたが、五十センチの積雪で、アイヌの小舎が三軒あるだけの荒涼とした地であった。 かれらは、藩主をかこむようにして雪の上に蓆を敷き、弁当を食べた。 老人は涙ぐみ、女や子供は突っ伏して泣いた。
     やがて小屋がけがはじまり、翌年第二陣七百八十八人が移住してきた。 しかし、農具を積んだ船が到着せず、食糧も尽きた。 わずかに口にできるのは、人参ごぼうふきで、茶碗がわりに使っていた帆立の貝殻で、子供たちは口をきって血を流した。 「粒食せざること数旬、百方策つきほとんど餓死せんとす」と、伊達邦成は書きのこした。 その後の移住は九回におよび、移住者数は二千六百余人に達した。

    (《赤い人》P.32〜34)


     明治四年、岩村の指揮で中川源左衛門を大工棟梁として奥羽、東京からつのった職人、人夫によって都市建設工事が開始された。 同年四月には、仮庁舎が出来て開拓使本庁が函館から移され、つづいて官舎病院各種倉庫農村移民家屋二百余棟が完成した。 市街は、一区間六十間、道幅十一間の碁盤目の区画割りとし、南北の中間に幅六十間の大通りがもうけられた。 それらの建設にはお雇い外人の建言がとりいれられ、道路、官営建物は欧米方式によった。 また、工事に従事する職人や人夫の定着をはかる方策として、市の南方二町四方に遊郭をもうけた。 その地は土塁でかこみ、創成橋附近の娼家を残らず移転させ、官金で東京楼という大きな遊女屋も建築した。 そこは、薄野(すすきの)と名づけられた。 岩村は、補助金を支出して一般住民に本建築をすすめ、人口も徐々に増した。
    (《赤い人》P.37)


     石狩川上流は、人跡稀(まれ)な地であった。文化年間、幕命をうけて近藤重蔵間宮林蔵らが上流を踏査し、安政四年には、蝦夷地山川地理取調御用に任じられた松浦武四郎が川口から遡行、「石狩日記」を著した。明治に入って上流の開発を意図した開拓使札幌担当判官岩村道俊は、明治五年高畑利宣に石狩川踏査を命じた。 高畑は丸木舟に乗って川を遡り、大函小函附近まで達し、地図と報告書を岩村に提出した。 明治七年にはお雇い外人である地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンが、開拓使出仕佐藤秀顕らとともに通訳、人夫をともなって上流に達し、測量した。 さらに明治九年には大判官松本十郎が通弁亀石熊五郎アイヌ七名とともに踏査して水源をきわめたが、黒田長官と意見の対立があり、その調査報告は開拓使に提出されなかった
    (《赤い人》P.38)


     これらの調査によって石狩川の概要は知られていたが、依然として上流地域は未知の地であった。
     そうした石狩川を遡行するには、むろんその方面に知識をもつ案内人が必要であった。須倍都太は中流というよりは上流の沿岸にあって、その地に足をふみ入れた者は皆無であった。
    (《赤い人》P.38)


     月形は、田村顕允を思い出した。亘理藩以外にも朝敵の烙印を押された多くの藩士たちは、故郷を捨てて北海道にぞくぞくと入植し、辛うじて飢えをまぬがれている。維新以来十年以上が経過しているが、依然として政変の影響は残されているように見えた。
    (《赤い人》P.41)


     翌朝、船越長善が四頭の馬をひいて宿舎にやってきた。 携行品物は、地図二枚磁石二個短銃二挺鎌五挺のほか毛布雨具遠眼鏡マッチ提灯ローソク等で、さらに船越の指示で全員の数だけの手袋寒冷紗(かんれいしゃ)でつくった被面衣もくわえられた。 それらは等をふせぐためのもので、内陸部に入るには必要な物であった。 また、避熊器と称されるブリキ製の小箱も二個用意された。 それは(ひぐま)の来襲をふせぐ道具で、勢いよく振ると異様な音を発し、羆が近づかぬといわれているという。味噌等の食料は、途中で入手することになった。
     月形たちは身支度をととのえ、船越の用意したアイヌの常用するホシという丈夫な脚絆をつけた。
    (《赤い人》P.41〜42)


     月形は、舟の上から景観をながめた。 川の両岸には、おびただしいがつらなり、川の流れをふちどっている。 春らしいおだやかな風光で、舟遊びをしているような悠長な感覚にとらえられた。 両側にひろがる原野は、さえぎるものもなく平坦で、萌え出た草が果しなくつづいている。
     月形が、思わず開墾に適した大地だとつぶやくと、傍に坐った船越は同意しながらも、
     「ただ惜しいことに、融雪期にはげしく増水して氾濫することが難です。 沿岸一帯が二尺五、六寸も水につかることさえあります
     と、顔をしかめた。
     月形は、あらためて緑のひろがる原野をながめた。原野は地味豊かであるが、それも例年の氾濫によって肥えたものかも知れぬ、と思った。 と同時に、北海道開拓も例外なく治山治水による努力がなければ果たされず、その業も容易ではないことを感じた。
    (《赤い人》P.43)


     時計を見ると、午前五時十分であった。 かれらは、レコンテの後について岸づたいに歩きはじめた。 レコンテは、狩猟用の弓矢と先端に叉のついた山杖を持ち、腰に山刀を帯びていた。 驚くほど足が早く、かれは時折り立ちどまっては月形たちを待っていた。
     レコンテは須倍都川の岸から、樹林の密生した森に足をふみ入れ、北に向って進んだ。 背丈以上の熊笹と樹木にからみつく蔦が、行手をさえぎる。 レコンテは山刀でをはらい、を分けていく。 森の中は暗く、湿度が高い。 倒れた巨木には茸や苔がはりついていた。山蛭(ひる)も落ちはじめ、首筋にはりつく。 レコンテの指示で被面衣をかぶった。
    (《赤い人》P.50〜51)


     沼地に突きあたり、レコンテは岸ぞいに迂回した。 途中、微細な虫の群におそわれた。 その数はおびただしく、周囲は白く煙った。 虫の羽音が、かれらをつつみこんだ。アイヌたちは、ボロを綯(な)った縄を腰に垂らし、火をつけた。 煙で虫よけをするためのものであった。
    (《赤い人》P.51)


     かれらは足を早め、丘陵をのぼった。 虫の群は迫ってきたが、頂を越えると消えた。 月形たちは息をあえがせて谷におりると、沢のほとりで少憩をとった。 被面衣をとり汗を拭いたが、だれの顔にも刺された痕があり、出血していた。 激しい痒みで、かれらは顔や首をかいた。
     船越は、糠蚊(ぬかか)だと言った。露出した皮膚に糠を散布したようにたかることから出た名称で、その群におそわれると、口や鼻・耳の孔からも入りこみ、眼すら刺す。 そのため呼吸困難におちいり、眼球まで腫れて昏倒することも多いという。 月形たちは、あらためて北海道の自然の底知れぬ奥深さを感じた。
    (《赤い人》P.51)


     松方内務卿は、八月五日に伺書を太政大臣三条実美に提出した。 が、それに対する回答はかなりおくれ、十月三十日になってようやくもたらされた。 予算は大幅に削減され、総額十万円でしかも現地に出張する官吏の月俸、旅費その他の費用も、すべてその中から支払うように指示されていた。政府は北海道開拓その他の事業に巨額の支出をし財政状態が逼迫していたのである
     内務省では計画の縮小を余儀なくされ、第一年度予算として五万円の支出を要請し、太政大臣の許可を得た。 集治監建設工事請負は、開拓使御用達商人大倉喜八郎の大倉組に決定した
    (《赤い人》P.58)


     その頃、月形は、内務卿に集治監設置以前に囚人の第一陣を須倍都太に押送し、獄舎建設の労役を課すべきだと建言した。 無報酬の労働力を使用できるという経済的利点があると同時に、囚人試験的に送りこむことは押送方法の研究になり、また現地に送りこんだ囚人の精神状態を観察することもできるというのである
     その意見は採用され、東京集治監に対し、建築関係の技術をそなえ、しかも悪環境の中での重労働に堪え得る身体強健囚人を四十名選抜するように命じた。
    (《赤い人》P.59)


     かれらは二分されて、その一は獄舎建設の基礎作業、他は開墾作業を命じられた。 獄舎建設は、冬の積雪期に材の伐り出しをすべて終え、基礎作業がはじめられていた。囚人たちの両足首と腰縄の間には鎖が渡され、しかも二人ずつ鎖でむすばれた
    (《赤い人》P.61)


     囚人たちは、セメント小石の運搬作業に従事した。 工事請負の大倉組の事務所は石狩川岸にあって、隣接の倉庫に石狩から丸木舟ではこばれたセメント俵がおさめられていた。 囚人たちは、それらを背負って獄舎建設地へとはこんでゆく。 また、他の者は、石狩川で小石を集め、それを俵につめてはこんだ
    (《赤い人》P.61〜62)


    当別村は、仙台藩岩出山支藩の藩主伊達那直明治五年四月に家臣とその家族とともに入植した地であった。戸数百四十人員約六百で、樹を倒し根を起し、石を除去して耕地をひらいた。 それは苦難にみちた事業であったが、営々と努力をかさねた結果、耕地も八十町歩にひろがっていた。
    (《赤い人》P.63)


     当別村で栽培されている農作物は、大麦小麦大豆小豆蕎麦(そば)で、も植えられ養蚕もおこなわれていた。 最も多く栽培されていたのはで、三十数町歩の畠が使用され、収穫量は五千貫に達していた。 それにつづいて大麦が三十町歩の畠で栽培され、年平均五百石の収穫をあげていた。 また養蚕も年を追うごとにさかんになっていて、百石以上の繭(まゆ)を出荷するまでになっていた。
    (《赤い人》P.63)


     七月一日、札幌本庁の開拓大書記官調所(ずしょ)広丈の名で、
     「当庁管下石狩国樺戸(かばと)郡シヘツ川口へ 左ノ通村名相設候条此旨布達候事
     として、須倍都太を月形(つきがた)村とさだめるという通達があった。
     この件については、前年の十二月二十一日に、開拓権大書記官鈴木大亮から、須倍都太に集治監が開設されれば当然人家も増し、「戸籍調査上其ノ地ニ就テ差閊(さしつか)ノ義」も生じるので、須倍都太を集治監建設地に選定した月形潔の姓をとって月形村としたい、という伺書が開拓使長官黒田清隆に提出された。 むろん、それは月形が初代典獄に就任が内定していることをふくんだもので、黒田もそれに同意したのである。
    (《赤い人》P.65)


     翌朝、遺体は、布につつまれて角型の坐棺におさめられた。 監獄則で遺体は丁重に扱うことに定められていて、棺の前に線香が立てられ、白紙で四華花(しけばな)も作られた。
    (《赤い人》P.65)


     西南の役以後、収容者の激増にともなって東京、宮城両集治監をはじめ各監獄署では脱獄事件がしきりに起っていた。 明治十年に一三〇一人、十一年一〇九八人、十二年一三六四人、十三年一六二〇人とその数はおびただしく、その防止が内務省の重要課題になっていた。
    (《赤い人》P.67)


     かれは、開拓使庁の選定した根室方面をえらぶことにきわめて消極的であった。 かれは、北海道農業に精通している佐藤昌介博士の意見を乞うたが、根室地方は石狩国にくらべると作物の発育が十日おくれるという。 それに、根室地方は札幌から遠くへだたっているので、石狩国とその周辺に適地をさがしたかったのだ。
    (《赤い人》P.78)


     獄舎は一棟だったが大きく、4百名の囚人の収容は可能で、一房の定員は五名とされていた。房内に偶数の囚人を収容することは、「猥褻ノコト有ル」とされ、一名、三名、五名とさだめられていた。 房内には大桶と称する便器、飲料水の入った中桶唾器小桶がそなえつけられていた。
    (《赤い人》P.78〜79)


     「斬れ
     看守長の命令で、看守たちは囚人に斬りかかった。
     その勢いに終身懲役囚の者は恐怖におそわれたらしくうずくまってしまったが、国事犯の囚人は鍬をふるって看守に抵抗する。 殺気立った中年の看守のサーベルが男の耳を斬りおとし、若い看守が腿にサーベルを突き立てた。
     男が腰をおとすと、看守たちは二人の囚人にサーベルをたたきつけた。 血が飛び散り、看守の服も赤くなった。 かれらは顔を上気させ、サーベルをふるいつづけた。 囚人たちは、鎖につながれたまま仰向けに倒れた。 国事犯の者はすぐに息絶えたが、終身懲役囚の男は低い泣声をあげてうめいていた。 そのうちに手足をはげしく痙攣させはじめ、やがてそれもやんだ。
     二個の遺体は、押丁によって獄舎前にはこばれ、獄医の検視をうけた。首をはね、囚人たちに見せしめのためさらすべきだという意見を口にする看守長もいたが、梟首(きょうしゅ)は明治十二年一月付で廃されているので、遺体に蓆をかけて放置することになった。
     三日目頃から遺体は腐臭を発するようになり、蟻がむらがった。 月形は、かれらが斬殺されてから十二日後の十月十日、埋葬することを命じた。 棺は丸太にむすびつけられ、囚人たちにかつがれて熊笹のしげる地に埋められた。
     二人の脱走囚が斬殺されたことは、囚人たちに衝撃をあたえたようであった。 かれらは、獄舎の中で声をあげたり板壁をたたくようなことをしなくなった。 月形は、かれらの感情を沈静させるため減食の罰を解き、労役囚の定量である米、麦混合の飯の量を七合に復させた。
     囚人たちは、黙々と作業に従事しはじめた。
    (《赤い人》P.84〜85)


     黒田開拓使長官を通じて申請した囚人の手袋、足袋使用の件は、許可すらおりていない。 冬期に使用が許されるのは、綿入の獄衣、股引きだけであるが、内務省から金が到着せず、購入することもできない。 もしも、このまま積雪期に入ると、囚人は単衣の獄衣だけで、手も足も露出したまま極寒の冬をすごさねばならない。 当然、体力のおとろえた者が数多く死亡するだろうし、かれらが死の恐怖にかられて騒擾(そうじょう)をひき起す可能性も大きい。 もしも、かれらが獄舎をやぶるようなことがあれば、三十二名の看守で四百名近い囚人に対抗することはできるはずがない。 囚人たちは、賊徒として捕えられた元武士国事犯と殺人等の罪をおかした修身懲役囚で、かなりの抵抗力をしめすにちがいなかった。
    (《赤い人》P.86)


     看守長たちの囚人の動静についての報告もかれを憂慮させていた。 囚人たちは、一応恭順な態度をとっているが、長い間囚人をあつかってきた看守長たちは、それが暴挙をくわだてる寸前の空気と酷似しているという。 看守が言葉をかけても、囚人たちは口をつぐんでいる。意味もなくかすかに頬をゆるめて看守に視線を向けたり、作業を終えた後、返還すべき鍬を手にしたままはなさぬ者や、鍬をふるいながら忍び笑いをする者もいる。 露骨に反抗的な態度をとることはないが、かれらにはなにかを起そうとする気配が強く感じられるという。
     看守長たちは、その対策として、
     「弱みをみせぬことです。 徹底した懲罰こそ暴挙を阻止する唯一の手段です
     と、口をそろえて言った。
     かれらは、その方法として、好ましくない態度をとる囚人たちに容赦のない重労働を課すべきだと主張した。 それには、開墾が予定されている獄舎の南方にある十町ほどの広さの林を、短い日数で耕地とさせる作業を課したいという。
    (《赤い人》P.87)


     囚人の中から四十名の者がえらび出され、ただちに開墾作業が開始された。 作業を怠ける者は、両足に鉄棒を鎖でしばりつけ、半日または一昼夜起立させておく棒鎖の罰を課した。 それは、囚人にはなはだしい苦痛をあたえ、かれらは懲罰をおそれて作業にはげんだ。
    (《赤い人》P.87)


     変革は、北海道の開拓使官有物払いさげ問題から端を発していた。それは、明治維新を成功させ政府の中枢部を占めた薩摩藩長州藩出身者の権力闘争でもあった
    (《赤い人》P.98)


     維新後、政府は富国強兵を悲願とし、資本を投下して多くの官営事業をおこした。 が、西南の役後、財政状態は極度に悪化し、その危機を乗りきるために官営事業を民間に払いさげる必要を生じた。 また、ようやくさかんになってきた民権運動も、官営事業かが民間企業を圧迫していることを指摘し、政府もそれらの批判が高まることをおそれて払いさげ方針を決定した。
    (《赤い人》P.98)


     北海道では、明治五年から実施した十年計画が達成されたとして明治十四年開拓使の廃止が内定していたが、その年の七月、開拓使大書記官安田定則、権大書記官鈴木大亮金井信之折田平内の四名が、開拓使所属の東京、大阪、函館、根室、敦賀の物産取扱所官舎倉庫土地牧場農場缶詰場麦酒・葡萄酒醸造所、さらに玄武丸ほか五隻の汽船の払いさげを申請した。 払いさげ希望条件は、それらすべてをふくめて三十八万七千八十二円で、しかも無利息三十年賦という低額のものであった。安田らは退官し、北海社という会社を創立して、それら払いさげ物件によって事業を継続しようとしたのである。
    (《赤い人》P.98)


     開拓使長官黒田清隆は、それまで三菱汽船会社から副社長岩崎弥之助の名で汽船二隻を払いさげ申請を受けたこともあったが、北海道の事情に通じ利益追求のみを目的とせぬ安田ら開拓使高官に事業を継承させるべきだとして、積極的に安田らを支持した。 その申請は閣議にかけられたが、約一千万の資本を投下した施設をわずか四十万にもみたぬ金額で、しかも無利息三十年賦返済を条件に払いさげることは不自然であるとして、公卿出身の有栖川宮左大臣、佐賀藩出身の大熊重信参議が反対したが、黒田はかたくなに意見を曲げず、裁可を得た
    (《赤い人》P.98〜99)


     その決定に対して、東京横浜毎日新聞」「郵便報知新聞」は、七月下旬に早くもはげしい非難の論説をかかげた北海道に事業経営を目ざす薩摩の政商五代友厚が糸をひいて薩摩出身高官とともに官有物を私物化するのだと反撥し、黒田が薩摩藩出身の高官の申請を支持し、北海道の事業を薩摩藩閥で独占するのは横暴だと、攻撃した。 そのうちに、政府系の立場をとっていた「東京日日新聞」もそれに加わり、薩摩藩閥に引きずられる政府を鋭く批判した。 さらに薩長両藩出身者による藩閥政治をあらためるには、大熊重信が主唱している国会開設をただちにおこなうべきだという強い意見もおこった。
    (《赤い人》P.99)


     四月下旬、西郷従道開拓使長官名で、囚人五百名を虻田郡方面に出張させるようにという指令がとどいた。蝗害対策のためであった。
    (《赤い人》P.108)


     蝗害は、明治十三年八月に突然のように発生した。十勝国河西中川二郡に蝗(いなご)の大群がどこからともなく飛来したのである。 数はおびただしく、空は蝗の群でおおわれ陽光がさえぎられた。 蝗は、ひしめき合うように耕地をおおい、作物を食いあさった。も絶えると、蝗は雑草にむらがり、たちまち原野は赤土に変じた。 人々は、呆然として旺盛な食欲をしめす蝗の群を見つめるだけであった。
    (《赤い人》P.108)


     その後、蝗の群は風にのって日高国に入り、さらに西進して勇払(ゆうふつ)郡に達し、二群にわかれて一群は胆振国虻田郡方面にむかい、他の一群は札幌方面にすすんだ。 蝗の群は農作物のまで食いあさり、樹葉をおそい、それも尽きると、草ぶき草がこいの入植者の小舎にむらがって柱と梁だけにした。 鋭い口吻で植物をかみ切る音が充満し、風がおこるとそれに乗って次の地へ移動してゆく。 蝗の飛ぶ速度は早く、蝗害調査をした開拓使勧業課員は、「山ヲコエ水ヲワタリ、ソノ速サ一分時六町バカリ。 コレヲ以テ計算スレバ一ヶ年ニシテ数百里外ニ達スベシ」と報告した。被害は甚大で、致命的な打撃をうけた村落では、土地を放棄する者が続出した。
    (《赤い人》P.108〜109)


     翌十四年五月中旬、またも蝗の大群が発生、被害は四ヵ国十七郡におよび、史上かつてない大災害に太政大臣三条実美は開拓使に徹底駆除を命じ、開拓使は年予算五万円を支出して、とらえた蝗を一升十五銭で買い上げたりした。
    (《赤い人》P.109)


     駆除方法は札幌農学校の外人教師の意見もとり入れ、各地に通達された。 蝗におそわれた村落では、全員が出て紅白の旗をふりまわし、拍子木を打ちならし、石油魚油に火をつけて焼き殺す。 夜間に羽を休める蝗をとらえ、牧場ではを放って踏みつぶさせたりした。 しかし、その方法は効果も少く、蝗の群はさらに増してその年も胆振国虻田郡をはじめ各地に大量発生した。 前年と同じように約五万円の予算を計上したが、節約をはかるため樺戸集治監に五百名の囚人出役を命じ、蝗駆除にあたらせることになったのだ
    (《赤い人》P.109)


     その年、看守の中で減俸をうけた者は延べ百名近くに達し、十一名が職務放棄、勤務外の泥酔、履歴書の不正記載等で懲戒免職をうけている。旧藩士の子弟の看守希望者は多く、欠員があればすぐに補充され、看守たちは常に免職処分におびえていなければならなかった。 脱走囚の逃走を許せば、当然、免職の罰をうけ、たちまち生活の不安にさらされる。 かれらの顔には、緊張の色が濃く浮かび出ていた。
    (《赤い人》P.116〜117)


     副看守長以下看守たちは、周囲に視線を走らせながらぬかるんだ道を急いだ。 足をすべらせて倒れる者も多く、黒色の制服は泥にまみれた。 腰から背にかけて、一様に泥のはねあがっていた。山蛭が落ち、首筋や手の甲にはりつく。 大きなが群をなして迫ってきて、顔や首筋にはりついた。
    (《赤い人》P.117)


     当別村の家屋は、草囲いの家の多い開拓村には珍しくほとんどが板張りで、道の両側に密接してならんでいる。 脱走囚人をおそれて、家々の戸はすべて閉ざされ、老人子供の姿はない。 所々に、日本刀、鍬、鎌を手にした男たちが屯し、中には槍を持つ者もいた。当別村は、仙台藩岩出山支藩の藩主伊達那直が家老吾妻謙らとともに旧家臣とその家族をともなって入植した地であり、家伝の刀槍を保存している者が多かった。
    (《赤い人》P.118)


     部屋の隅で身じろぎもせず坐っている豊沢の妻女を、脇田らは腕をつかんでひき起し、に案内させた。 かれらは、蔵の中の金銭をうばい、渡航に必要な道具をととのえ、獄衣をぬいで質草の衣類を身につけた。
     かれらは、豊沢の妻を押し倒すと衣服をはいだ。 脇田が、まずその体にのしかかり、ついで鹿島が、さらに他の五人の囚人たちが次々に妻女をおかした。
     脇田は、夜の闇にまぎれて舟をうばい沖へのがれる計画を立てていたが、輪姦しているうちに夜の明ける気配がきざしはじめていた。
     かれは、横たわっている妻女を麻縄で絞め殺し、家にを放った。 そして、家を走り出て浜へ急いだが、火災発生を告げる早鐘に走ってくる村人たちの姿に気づき、裏の碁石山に逃げこんだ。 山中に身をひそめ、夜を待とうとしたのである。
     村人たちは、豊沢方へ駆けつけて消火につとめ、その間に豊沢と夜廻りの男を救出し、裸身で絞殺されている妻女を発見した。 豊沢の出血はひどくすでに意識を失っていて、間もなく絶命した。
    (《赤い人》P.135〜136)


     政府は、さらに経営を事業管理局から空知集治監に移し、採炭事業の推進をはかった。 そのため集治監では、幌内炭山に外役所仮獄舎を官からの借入金で建設し、明治十六年七月から囚人を石炭採掘に従事させた
    (《赤い人》P.140)


     それまで炭山で作業に従事していた一般坑夫の採炭量と囚人使役による作業結果は大きな差があり、明治十五年の採炭量三千六百七十七トンが囚人の就役した十六年には、わずか半年足らずで前年の五倍近い一万七千三百一トンの石炭を採掘していた。 その成果は、政府の期待を十分にみたすものであったが、囚人たちには過酷な犠牲を強いた。 その年の七月に出役して以来、火傷四、落盤、落炭による外傷三十三、運搬による外傷三十一計六十八名の重軽傷者を出し、その数は採炭作業に従事した囚人の二割七分強であった。
    (《赤い人》P.140)


     岩村土佐藩の出身で、明治四年開拓判官に就任、札幌市街の建設に積極的にとりくみ、その形態をととのえた。 その後、上司である薩摩藩出身の開拓次官黒田清隆と意見が衝突し、罷免させられた。 その後、佐賀県権令に就任し、ついで萩の乱の審判で乱に加わった前参議・兵部大輔前原一誠ら二千人を一週間で断罪し、その即決は人々を驚かせた
    (《赤い人》P.145)


     明治十五年、開拓使が廃され三県が設置されたが、その折り官営の開拓殖産事業は関係各省翼下に入り、三県の行政機関は内務省の所属になった。三県による分治はきめこまかい行政を目的としていたが、司令系統の不統一による混乱が次第にみられるようになり、事務も繁雑化して役人の増員が目立ちはじめた。 それは、開拓途上にある北海道行政の避けがたい宿命ともいえたが、三県の県費の膨張は増税にむすびつき、内地で税金の最も高い滋賀県の住民一人平均三円五十八銭を上廻る四円六十三銭の県税が課せられ、住民の税に対する不満は大きかった。
    (《赤い人》P.145〜146)


     道内では、このような行政組織に対する批判がたかまっていたが、それを反映して政府部内にも三県分治制を廃すべきだという声が支配的になった。 それに、開拓長官西郷従道をはじめ三県の県令がすべて薩摩藩出身で占められていることへの反撥も強く長州藩出身の参議伊藤博文薩摩藩閥による北海道行政組織に楔(くさび)をうちこむため、福岡藩出身の金子堅太郎に視察を命じたのである。金子は、明治四年渡米し、ハーバード大学で法律学を学んで帰国した少壮官吏であった
    (《赤い人》P.146)


     岩村通俊金子堅太郎は、視察後それぞれ政府に復命書を提出した。  岩村は、北海道中央部に位置する上川地区に都市を建設し、道内の行政機関を集中することが好ましいと述べ、開拓事業の官営は非効率的であるので、民間の大資本を導入し、それに経営をゆだねるべきだと主張した。三県制について、岩村はそれを廃し、北海道開拓を統轄する殖民局の創設を建言したが、金子堅太郎も復命書できびしく三県制を批判し、岩村と同じように殖民局を設置することを強く提唱した。
    (《赤い人》P.146)


     さらに金子は、北海道開拓に囚人を積極的に使用し、しかもその作業は北海道発展の基礎となる道路開鑿に集中すべきだと建言した。
    (《赤い人》P.146)


     その理由として、金子は復命書に左のように記した。  北海道の道路開鑿は、密林の伐木、険阻な山嶺の掘削、湿地帯の排水等をともなうきわめて困難な工事で、一般の道路工夫には不可能に近いものであり、もしそれを強行する場合には多額の賃金を支払わなければならない。 それは国家財政に大きな負担になるので一般工夫の使用は断念し、開墾・農耕の作業に従事している集治監の徒囚たちを、道路開鑿に転用させるべきだと述べ、囚徒を使役する必要性について左のように論述した。
    (《赤い人》P.146〜147)


     「(囚徒)ハモトヨリ暴戻(ぼうれい)悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタヘズ斃死スルモ、(一般ノ)工夫ガ妻子ヲ残シテ骨ヲ山野ニウヅムルノ惨情トコトナリ、マタ今日ノゴトク重罪犯人多クシテイタヅラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレヲ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニタヘズ斃レ死シテ、ソノ人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政略ナリ。
    (《赤い人》P.147)


     マタ(一般ノ)工夫ヲ使役スルトソノ賃金ノ比較ヲアグレバ北海道ニオイテ(一般ノ)工夫ハ概シテ一日ノ賃金四十銭ヨリクダラズ、囚徒ハワヅカニ一日金十八銭ヲウルモノナリ、シカラバスナハチ囚徒ヲ使役スルトキハ、コノ開鑿費用中工夫ノ賃金ニオイテ過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン

    コレ実ニ一挙両全ノ策トイフベキナリ

    (《赤い人》P.147)


     現時ノゴトク十年以上ノ大罪人北海道ノ辺境ニ移シ、房室飯食衣服等、一々コレヲ内地ヨリ輸入シテ非常ノ金ヲツイヤシ、ソノ使役ノ方法ニイタッテハ軽犯罪ニコトナラズ、コレヲ優待シテ悔悟ノ日ヲ待チコレヲ土着セシメントスルモノハ、重罪人ヲ懲戒スルノ効ナキノミナラズ、マタ政府ノ得策ニアラザルナリ。
    ヨロシクコレラ囚徒ヲ駆ッテ(一般ノ)工夫ノ堪ユルアタハザル困難ノ衝ニアタラシムベキモノトス

    (《赤い人》P.147)


     それに、囚人と一般工夫の労働力には際立った差があった。 金子堅太郎は、北海道の集治監の囚人労役は、軽犯罪者に課すものに等しい軽度なものであると批判し、かれらを懲戒するためには一般の工夫の「堪ユルアタハザル困難」な重労働を課すべきだと復命している。 囚人は「暴戻ノ悪徒」であり、「苦役ニタヘズ斃死スル」ことは、人員の減少になり国の支出を抑えることにつながるとも言った。
    (《赤い人》P.153〜154)


     「暴戻ノ悪徒」という言葉を、安村は反芻した。 かれは、看守長たちに金子の復命書の内容をしめし、今後の集治監の使命についても訓示していた。
     筆頭看守長海賀直常は、
     「開墾・農耕の業を廃し、道路開鑿に力をいれるということでしょうか
     と、質問した。
     「農耕は所期の目的を達し、今後は集治監の自給自足の範囲内にとどめ、耕地は民間人に払いさげてゆく。囚徒は、道路開鑿その他に投入される
     安村は、答えた。
    (《赤い人》P.154)


     かれは、新設された釧路集治監に一月十六日付で標茶から十一里へだたった跡佐登硫黄山に外役所設置の認可がおり、仮監獄の建設がすすめられている報をうけていた。 また、跡佐登硫黄山の経営が銀行家山田朔郎の手から安田善次郎に譲渡が内定していることも知った
     岩村長官は、財界人の渋沢栄一岩崎弥太郎安田善次郎大倉喜八郎らに北海道開拓のための資本投下をもとめていたが、跡佐登硫黄山への安田の進出も、岩村の開拓政策に応じたもので、むろん釧路集治監の囚人の使役を前提にしていた
    (《赤い人》P.154)


     安村典獄は、新しい開拓政策が急に具体性をおび、空知集治監幌内炭山の採炭釧路集治監跡佐登硫黄山の採掘樺戸集治監道路開鑿をそれぞれ主な事業とする性格に色分けされていることを感じた。それらの作業は、いずれも一般の人夫には堪えきれぬ作業で、それ故にこそ囚人の労働力を必要とするのだと思った。
    (《赤い人》P.154〜155)


     そうした政府の政策に応じるように、内地から押送されてくる囚人の数は増していた。 かれらは、海路を護送され、石狩から川蒸気船にのせられて送りこまれてくる。 途中原生林のつづく川をさかのぼってきたかれらは、そこに人家の集落と大規模な獄舎の列を眼にして一様に驚きの色を顔にうかべていた。
    (《赤い人》P.155)


     押送してきた看守たちは、囚人たちの態度が北海道に送られる恐怖からきわめて険悪で、護送は困難をきわめたと口をそろえて言った。 集治監側では、銃を携行した看守を整列させてかれらを威圧し、看守長は、
     「本集治監では、逃走をこころみる囚徒は、容赦なく射殺または斬殺する
     と、甲高い声で言った。 そして、かれらを一人ずつ捜検室へ突き入れた。
    (《赤い人》P.155)


     初雪は例年よりおそく、十一月十八日に舞った。
     集治監では、その日から綿入れの獄衣、股引を配布し、のかわりにをあたえ毛布一枚をくわえた。 が、依然として足袋は支給されず、火気も厳禁されていた。
     獄房には、凍傷による壊疽(えそ)で手、足、指、耳を手術で切断した者が一割以上もいて、舎内作業に従事していた。
     かれらの中には、その年の春押送されてきた自由民権運動の関係者たちもいた。 かれらは、秩父騒動と称された暴動で捕えられた者たちであった
    (《赤い人》P.157〜158)


     明治政府は、維新革命の成功の原動力となった薩摩、長州両藩の出身者を中心に政策を推しすすめ、独立国家としての基礎をきずいたが、藩閥政治の弊も露呈されるようになっていた。 それに対して国民の意思を政治にそのまま反映すべきだという自由民権思想が生れ、国民投票による議員の選出と国会開設の運動も起っていた。
    (《赤い人》P.158)


     その直後、板垣退助自由党を結成、それにつづいて立憲政党その他の政党が生れた。
     自由民権運動に対する政府とそれを支持する者たちの反撥ははげしく、板垣が刺客におそわれて重傷を負ったりしたが、自由党内には、党が政府と連携をたもっていることは好ましくないとして、分派行動をおこす者が増した。 かれらは、農作物の価格の暴落と過重な租税に呻吟していた農民たちとむすびつき、各地で集団的な請願をおこなうようになった。
    (《赤い人》P.158)


     民間の政治運動は、国家建設に大きな障害になるという理由から、政府は強い弾圧をくわえ、政策を強行した。 それに激怒した急進グループは、顕官の暗殺政府転覆をくわだてるようになり、各地で暴動が発生したが、秩父騒動もその一つであった。
    (《赤い人》P.158)


     大蔵卿松方正義は、農村から吸収した税金で膨張していた不換紙幣の整理を短期間でなしとげ通貨の信用度を確保し、物価の安定につとめた。 しかし、その財政政策は、農作物の価格の暴落をうながし、その苦況からのがれるために高利貸から金を借り返済に窮して破産する農家が、全国で十万戸にもおよんだ。 農民たちは、借金党困民党を組織し債権者に団体交渉をしたが、郡役所裁判所警察署法にもとる不穏な行動として、かれらに重圧をくわえた
    (《赤い人》P.159)


     秩父では養蚕農家が多く、生糸の暴落で農家は貧にあえぎ、非情な高利貸も多かったことから自然に強力な困民党が組織され、同地の自由党員と提携して活溌な行動を開始した。 かれらは、政府への請願が逆に弾圧をまねくことに苛立ち、蜂起以外に道はないと判断し、各地の組織に同一行動をとるよう檄を飛ばした
    (《赤い人》P.159)


     明治十七年十月三十一日三千名の農民が蹶起(けっき)し、警察署戸長役場をおそい、悪質高利貸の家々を破壊し、銃と弾薬を手に入れて秩父の谷あいを移動した。 農民の数は次第にふくれあがり、郡役所治安裁判所を占領、要地の皆野にすすんだ。
     約五千の農民たちは、荒川の川岸で政府から急派された憲兵隊と激しい戦闘をまじえ、敗退したが、かれらは各地で鎮台兵と交戦、かたくなに抵抗をやめなかった。
     その後、かれらは、鎮台兵警官隊につぎつぎに制圧され、十一月九日三百八十余名逮捕され二千六百名自首して、暴動は終熄した。
    (《赤い人》P.159〜160)


     降雪がつづくようになった十二月上旬、安村典獄は、加波山事件の関係者六名が空知集治監に護送されたことを知った。
    (《赤い人》P.161)


     加波山事件は、秩父騒動の前月に起きた騒擾で、明治十七年九月二十三日「自由取義(しゅぎ)、自由之友」「圧制政府覆」と墨書した旗をかかげ、筑波山北方に位置する加波山山頂で挙兵の烽火(のろし)をあげ、爆裂弾を炸裂させて気勢をあげた。 立てこもったのは、わずか十六名の自由党員であった。 かれらは、翌日の夜、下山して警察分署をおそい、さらに栃木県庁にむかったが、途中警官隊と遭遇し、爆裂弾を炸裂させ自刃を交して抵抗した。 が、短時間で警官隊に圧倒され、敗走した。
    :眞頁)
    (《赤い人》P.161)


     この事件は政府顛覆による革命を意図したもので、自由党員多数が捕縛され拷問をうけた
     かれらに対する処断はきびしく、富松正安、三浦文治、小針重雄、琴田岩松、保田駒吉、杉浦元吉、玉水嘉一、小松篤太郎、天野市太郎の六名は無期徒刑の判決をうけ、東京集治監仮留監に収容された後、北海道に護送され空知集治監に収禁されたのである。
    (《赤い人》P.161)


     政府が北海道に集治監を創設したのは、維新後続発した佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、西南戦争の役でとらえた者たちを収容する場を必要とし、「誤レル反乱ノ前非ヲ悔悟セシメ」るため北辺の地に収禁させることが効果的だと判断したからであった。
    (《赤い人》P.161〜162)


     その後、一般の重罪人をも送りこみ重労役を課して北海道開拓の推進力とさせたが創設時の構想はそのまま生きていて、爆裂弾をはじめ武器を手に反政府運動をおこした分子を収禁し、反乱の前非を悔悟」させようとしたのである。 また、かれらを囚人たちのおそれている北海道の集治監に送りこむことによって、反政府運動をひきおこそうとくわだてている者たちを威嚇し、牽制する意味もあった
    (《赤い人》P.162)


     空知監獄署では、幌内炭山への出役がつづいていた。
     採炭、運搬、販売までの経営をすべて託された監獄署は採算を得ることに必死で、それは過酷な労働になって囚人たちに重苦しくのしかかっていた。
    (《赤い人》P.168)


     堀さげられた竪坑に可燃ガスの存在が懸念されると、看守の指令で囚人の体に綱が巻きつけられ、宙吊りにしておろされる。 囚人が頭をたれ動かなくなると、ガスの存在がみとめられ、新たに喚起孔がうがたれる。 むろん、竪坑におろされて悪性ガスを吸った囚人の大半は、意識が恢復せず、一命をとりとめた者も痴呆状態になった。
    (《赤い人》P.169)


     落盤と小爆発は絶えず、囚人たちは、生命の危険にさらされながら課せられた炭量をこなすことによって加増される麦飯の魅力にひかれ、ほとんど休むこともなく働きつづけていた。 かれらの内部には、労役に対するはげしい憤懣がみち、怒声をあげつづける看守に例外なく憎悪の眼をむけていた。 かれらの中には、連鎖され自由を失っている身でありながら、突然看守にツルハシをふるっておそいかかり、斬殺された者もいた。 また、ひそかに外部にむかって坑道をうがち脱走の機をねらっていたことが発覚し、重罰をうけた後、鉄丸を足にはめられた者もいた
    (《赤い人》P.169)


     その年の末までに、炭山への出役によって二百四十一人が病死または衰弱死し、七名の者が射殺、惨殺された。
     その年、東京では首相官邸でもよおされた仮装舞踏会が華やかな話題になり、サイダーが製造発売され、庶民の間には狆(ちん)の飼育がさかんであった。
    (《赤い人》P.169)


     原らの教誨は囚人の一部に好ましい影響をあたえはじめたので、大井上は各分監にもそれにしたがうことを指示し、分監でも仏教の教誨師を罷免させ、キリスト教教誨師を招いた
     また、大井上は、明治二十七年三月に看守に対する懲戒規則を改正し実行に移した。 それは、従来の規則よりも詳細な罰則をもうけたもので、峻厳きわまりないものであった。
    (《赤い人》P.190)


     前年の夏に幌内炭山を視察した岡田朝太郎博士は、政府に提出した報告書に、地獄にもひとしい坑道で十二時間労働を強いられている連鎖の囚人たちの姿はまことに痛ましいと述べ、空知集治監の獄舎で炭山に出役し不具になったなった囚人たちの姿を具体的に記している。 かれが視察した折り監内にいた不具者は二百六名で、手、足の欠けた者たちが五十数人の盲目者とともに整然とならんで、綿の塵をのぞく作業をつづけていた。 そして、日没近くなって作業終了の鐘が鳴ると、手だけを失った者が誘導者になり、盲人たちがたがいに前を歩く者の帯をつかんで作業場を出、その後から足の欠けた者が這いながら房に帰っていったという。 岡田は、炭山労役が囚人の懲戒の限界をはるかに越えた「死業」であり、労働条件の改善を強く訴えていた
    (《赤い人》P.193)


     印南は、岡田の報告書も読んでいたが、その意見には反対で、囚人の炭山出役こそ北海道集治監の存在理由であり、同時に国家利益に貢献する意義深い事業であると信じていた。
    (《赤い人》P.193)


     しかし、大井上は、幌内炭山に本監囚人を出役させることには不賛成で、むしろ空知分監に命じて炭山から囚人を引揚げさせる必要すら感じていた。 かれには、釧路集治監典獄時代跡佐登(あとさぬぶり)硫黄山から囚人を撤収させた過去があり、キリスト教的人道主義の立場からも幌内炭山への囚人の出役は廃すべきだと思っていたのだ。
    (《赤い人》P.193)


     大井上は、政府に対して炭山への出役による囚人の死者、発病者、負傷者数を列記して、強く出役の廃止を訴えた。識者の間にも、北海道での炭山出役への批判の声がたかまりはじめ、新聞紙上にもそれに類した記事が掲載されるようになっていた
    (《赤い人》P.194)


     政府は、そうした声を無視することができなくなり印南らの強い反対を封じて、北海道庁に対しその年の十二月二十日、空知分監の囚人による採炭の廃止を指令させた。
    (《赤い人》P.194)


     大井上の訴願はうけいれられた形になったが、政府のかれに対する眼は冷たくなり、かれがキリスト教を強く支持していることを好ましくないとする意見が、一部の者からもれるようになった
    (《赤い人》P.194)


     明治維新後、神職、僧侶による囚人教化がおこなわれていたが、明治十四年には教誨師についての規定ももうけられ、東西本願寺の僧によって全国的に教誨がおこなわれるようになっていた。明治十八年十二月、外務大臣井上馨は、条約改正を推しすすめる一方法として外国から宣教師、牧師をまねいて優遇したが、キリスト教各派も熱心に布教したので、日を追って信徒が増していた日本一致教会(日本基督教会)は、監獄の囚人教誨によって一層キリスト教を普及させたいと願い、原胤昭を釧路分監に送りこんだ。 原は大井上の知遇を得、大井上が本監典獄に就任したことによって分監の教誨師もキリスト教牧師が採用された。 つまり、全国で北海道の集治監のみが、キリスト教教誨師で独占されていたのである
    (《赤い人》P.194)


     キリスト教の普及は、各地で混乱もひき起こしていた。  明治二十三年教育勅語が発布されて全国の学校で奉拝されることになったが、キリスト以外に礼拝する必要がないと信じているキリスト教の信徒たちは、教育勅語に頭をさげることもせず、御真影に礼拝することもこばむ傾向が強かった。明治二十四年一月には、キリスト教信徒である第一高等中学校教授の内村鑑三が、教育勅語奉読式でただ一人頭をさげなかったため学生のはげしい抗議をうけて辞職させられ、東京本郷の壱岐坂(いきざか)教会でおこなわれたかれを弁護する講演会でも、聴衆が激昂し中断する出来事も起り、国体に反するキリスト教に対する反感がたかまっていた。
    (《赤い人》P.194〜195)


     明治三十年二月一日、本監では、早朝に病囚をのぞいた囚人全員を柵門内の広場に整列させた。
     広い敷地には仮壇がもうけられ、看守長以下がならび、その後方に銃を手にした看守が、門と柵の附近に立って囚人たちに視線を据えていた。
     正装の制服、制帽をつけた石沢典獄が、雪をふんで看守長とともに近づいてくると、壇にあがった。 広場には、膝上まで雪に没した千五百名近くの囚人が、典獄を見つめていた。
     看守長の号令で、石沢典獄に看守たちが敬礼し、囚人たちは頭を深々とさげた。 朝の陽光が、わずかにさしはじめていた。
     囚人たちは、ものものしい気配に不安をいだき、こわばった表情で典獄に眼をむけていた。 かれらは、新たな苦役がはじまるのかも知れぬ、と思っているようだった。
     典獄が囚人たちを見まわすと、白い呼気を吐きながら、
     「恐れ多きことであるが、去る一月十一日午後六時、英照皇太后陛下御崩御あらせられた
     と、ききとれぬような低い声で言った。
     ついで、かれは声を張りあげると、
     「天皇陛下におかせられては、昨一月三十一日勅令第七号をもって、大赦の令を発せられた。 死刑の判決を受けた囚徒は無期徒刑、流刑に無期徒刑、流刑の囚徒は十五年刑に有期刑の囚徒は、刑期四分の一を減ずるというありがたき御沙汰である。 以上。 御聖旨を伝達する
     と、述べた。
    (《赤い人》P.197〜198)


     大赦令は、全国の囚人五万三千六百二十二名に減刑が適用され、その中で九千九百九十七名放免されることになった。
    (《赤い人》P.198)


     北海道集治監では、在監者が無期刑、長期刑囚にかぎられているだけに適用者は多く、本監、分監あわせて七千余名の在監者中、樺戸本監八百三十九名、空知分監七百五十二名、釧路分監百八十名、網走分監三百七十一名、十勝分監三百三十一名計二千四百七十三名が放免の対象になった。 その中には、秩父暴動宮川寅次郎平田橋事件奥宮健之久野幸太郎塚原九諭吉加波山事件小林篤太郎ら七名の自由党壮士もふくまれていた
    (《赤い人》P.198〜199)


     その頃、監獄制度の改良を熱心に推しすすめていた司法大臣清浦奎吾の努力がみのって、新たに監獄則が制定された。
     その要点は、それまで囚人に課せられた労働が懲戒を目的としていたことを廃し、囚人に技術を教えこみ、精神的な教化をほどこすことであった。 また、それまで監獄の運営が地方財政にたよっていたため、囚人に対する食事をその他の給養が粗末であったが、獄費を国で負担することによって待遇を改善し、囚人の作業工賃も増額させた。 さらに、それまで連日囚人に出役させていたことを改め、日曜日は休日とし、午前中は教誨師の訓話をきき、午後は面会人と会ったり、手紙を書くことにあてさせ、散髪、衣類の洗濯などをおこなわせることにさだめた。
     監獄則の改正によって、空知釧路両分監は廃止され、北海道集治監樺戸本監は樺戸監獄署、十勝分監は十勝監獄署、また再開されていた網走分監も網走監獄署としてそれそれ独立し、司法省の監督下に入った
    (《赤い人》P.203〜204)


     さらに明治四十一年に新しい刑法が公布されると、監獄での事故はさらに増した。 それまでの刑法では、軽い罪をおかした者は不起訴になり、日露戦争中はその傾向が強かったが、新刑法は厳罰主義を採用していた。 そのため犯罪者に対する判決も刑期が長くなり、殊に累犯者には二倍にもおよぶ重い刑が科せられた。 その結果、無期、長期刑囚が激増し、各監獄署では大赦令以前のように囚人が収容しきれぬほど増加し、しかもかれらは、重い刑に強い不満をいだいた服役状態の好ましくない者がほとんどであった。 そうした囚情悪化を反映して、久留米福岡甲府熊本の各監獄では、それぞれの囚人の大騒擾事件がおこり、熊本では看守の殺害事故も起った。
    (《赤い人》P.207〜28)


     重罪人を収容する樺戸網走十勝監獄では、厳戒態勢がとられていたが、翌年の二月二十八日には、樺戸監獄で雪どけ以前に早くも四名の囚人が脱獄した。 主謀者は柏熊常吉という長期刑囚で、同囚の者二名と共謀し、吹雪を利して監獄の裏門につめる看守をおそい、縛り上げてサーベル、制服をうばい柵門の外に逃走した。
    (《赤い人》P.208)


     やがて、縛られた看守が発見されて監獄の非常鐘が打ち鳴らされ、看守たちは探索に散った。
     看守長狩野荻之進は、看守の熊谷甚五郎と二人で山間部にむかった。
     苅野会津藩の出身で、少年時代に白虎隊にくわわったことがあった。 かれは死をまぬがれ、その後看守の職についたが、巧みな剣の使い手で、監獄にもうけられた撃剣場でかれに匹敵する者はいなかった。
    (《赤い人》P.208)


     苅野は、看守長としてかれらを捕えねばならぬ立場にあった。 かれは熊谷に、
     「恐ろしい相手だ。 もしも、おれがひるんで逃げようとした場合には、遠慮なくおれを斬り殺せ。 また、お前が逃げる気をおこした時にはお前を斬る。 臆せず、二人で力を合わせて捕えよう
     と、低い声で言った。
    (《赤い人》P.209)


     看守たちは、絶えず囚人たちを威嚇し、無意識にサーベルに少しでもふれたりする者があると狭い獄房に突き入れて竹刀で乱打し、土下座させて何度も詫びさせる。 また、放尿の目的などで無断で作業場から少しでもはなれる者がいると、逃走の意志があったとして耳に孔をあけ、そこに通した鎖を足首につなぐ罰まであたえた。 そうした処置は、看守たちの囚人に対する恐怖から発したものであった。 かれらは、囚人の眼の光におびえていた。 囚人たちは卑屈な態度で看守たちに従順にしたがっているが、看守たちはかれらの眼に絶えず殺気がただよっているのに気づいていた。
    (《赤い人》P.210)


     樺戸監獄と朱書された提灯の環の中で、監獄医が獄衣をはいで検視した。 それが終ると、中年の看守がサーベルをひきぬき、遺体の眼に刃先を突き立てた。 他の看守たちも一斉に抜刀し、二個の遺体を斬りはじめた。 日本刀をたずさえた消防組員もそれにくわわり、所きらわず頭から足先まで斬りつける。 かれらの顔は上気したように赤らみ、競い合うように刀をふるう。 かれらは、無言であった。
     やがて遺体は原型をうしない、斬りきざまれた。 看守たちは、膾のように斬りきざまれた肉塊を無言で見つめていた。 時刻は、午後十一時近くであった。
     看守長が、
     「獄舎にはこび、囚徒たちに見せる。 見せしめにする
     と、かすれた声で言った。
     看守たちが器械庫からスコップを持ってくると、肉塊をすくった。
    (《赤い人》P.217)


     獄舎の扉をあけると、看守の一人が槌をにぎり、起床を命じる鐘を乱打しはじめた。 甲高い音が獄舎内にひびき、廊下の両側にならぶ房の中にざわめきが起った。 鐘の音がつづき、房の太い格子の間隙に囚人の眼が光った。
     鐘の音がやむと、
     「脱走囚を捕え、斬った。 眼をひらいて良く見ておけ
     看守長が叫んだ。
     提灯が前後左右にうごき、その中を六人の看守が肉塊をのせたシャベルを手に歩いてゆく。 格子の間に、男たちの顔がはりついた。 かれらの眼は、灯に浮かび上がったシャベルの上にそそがれた。
     看守たちは、廊下から廊下へとすすみ、やがて獄舎の外に出た。 遺体は米俵の中に投げこまれ、縄でかたくしばられた。
    (《赤い人》P.218)


     翌朝、二個の俵が囚人たちの手で大八車に積まれ、裏門から共同墓地にはこばれた。 墓地は、壮大な規模になっていた。 その地は、遺体の盛り土で起伏している。 むろん墓標も卒塔婆もないが、遺体が埋められている個所が碁盤目のようにつらなっていた。
     円福寺の僧がやってきて読経し、遺体が埋められた。 僧は、雨宮浜十に釈周諦、矢野善斎に釈諦了という戒名をあたえた。
    (《赤い人》P.218)


     二人が脱走し花山看守を殺害した経過については、六月一日付小樽新聞に報道されたが、札幌地方裁判所の関検事正は、小樽新聞に対し、この事件に関する記事の掲載を一切差止めるという命令書を発した。脱監囚の看守殺しが、監獄側の囚人に対する残虐な扱いに起因していると判断されることを危惧したからであった。
    (《赤い人》P.218)


     政府にとって、自由な新聞報道は政策を押しすすめる上で大きな障害になると考えられ、発禁は当然の処置とされていた。明治元年、政府は政策批判をおこなった江湖新聞の発行を停止させたが、その後同じ理由で発禁をくり返し、自由民権、社会主義運動等がさかんになるにつれて、それは一層顕著なものになっていた
    (《赤い人》P.219)


     政府は、新聞に対する拘束を新聞紙法として立法化し報道規制をつづけてきたが、明治四十二年五月六日、それを一層強化した改正法案を議会に上程し通過させ、勅令によって公布していた。 その主な改正条項は、政府批判の記事を掲載した新聞の編集人、執筆した記者の処罰をはじめ、刑事、民事事件の発生時に公判がおこなわれる以前にそれに関する記事の掲載を禁じ、その捜査経過について検事が記事の差止めを命じる等であった。 花山看守殺しについて関検事正が記事差止め命令を発したのは改正法に基づくもので、その日以降、小樽新聞をはじめ道内の新聞にそれに関する報道は絶えた。
    (《赤い人》P.219)


     七月中旬、小菅監獄から押送されてきた囚人の中に、思いがけぬ人物がいた。 それは、大赦令で無期徒刑から有期徒刑に減刑され、明治三十九年十月に仮出獄した大沢房次郎であった。
     房次郎は明治二年埼玉県に生れ、少年時代両親に死別した。 妹よしは鬼神のお松と称された女賊で、弟和十郎も、窃盗の常習犯であった。 房次郎は十八歳の折に窃盗で投獄され、釈放された後、徴兵検査に合格し入営した。 が、軍隊生活に堪えきれず兵営を脱走し、盗みをかさねながら逃げまわった。 やがて、かれは捕えられて軍法会議に附せられ、無期徒刑の判決をうけて北海道に送られた。 かれは、水泳が巧みで舟を利用して逃げることが多く、海賊房次郎と称されていた。
     かれは、仮出獄後内地に送還されたが、田無、八王子をはじめ主として東京周辺の商家に連夜のように押し入り、志麻精一の偽名で糸茶仲買商をよそおい、警察の眼をかわしていた。
     明治四十二年八月、かれは府中で逮捕され、かれが北海道で服役したことのある海賊房次郎であることが判明し、強盗罪として十五年の刑を言い渡された。 そして、小菅監獄に収容され、樺戸監獄に押送されてきたのである。
     かれは頭の回転が早く、囚人たちを威圧させる胆力と体力をそなえていたので、鼠小僧根谷新太郎とともに樺戸監獄の有名囚として、他の囚人たちから牢名主のような扱いをうけるようになった。 かれは、看守の命令に服さず、しばしば闇室屏禁の罰を受けたが平然として反抗をやめなかった。
    (《赤い人》P.222)


     その年も景況は不振で、塩鮭、塩鱒は前年度の持越しが数万石もあり、秋にロシアから鮭、鱒の大量輸入があったため価格が暴落し、年末近くには投売りも続出し、家をすてて他の地に流れる者も多かった。
     年が明けると、北海道に幸徳伝次郎らの大逆事件の判決が下されたことがつたえられた。
    (《赤い人》P.222〜223)


     前年の五月下旬、長野県警察署は、明科の製材所職工宮下太吉天皇暗殺を目的として小ブリキ缶二十数個の爆裂弾を製造し所持していることを探知し、逮捕した。 かれの供述によって、新村忠雄古河力作、社会主義者幸徳伝次郎の内妻菅野すが共謀者としてとらえられ、陰の指導者とされた幸徳も検挙された。 その後、和歌山、岡山、熊本、大阪など全国にわたって社会主義者、無政府主義者数百名が逮捕された
    (《赤い人》P.223)


     取調は秘密裡にすすめられ、その年の一月十八日、大審院の特別裁判所で判決言い渡しがあった
    (《赤い人》P.223)


     その日、特別裁判所は警官百九十名憲兵五十六名によってかためられ、傍聴券を入手できなかった者たちが裁判所の周囲にひしめいた。 正午に八台の囚人馬車がつらなって裏門から入り、さらに引返して残りの被告たちをはこんだ。 沿道には馬車を眼にしようとして人々がむらがり、警察官や騎馬警官が警戒にあたり、新聞……寒馬頻りに嘶(いなな)いて、桜田門外凄愴の気充ち渡り」と、緊迫した情景をつたえた。
    (《赤い人》P.223)


     幸徳ら二十六名が深編笠をかぶって出廷し被告席につくと、検事総長松室致検事平沼騏一郎が着席し、裁判長から判決が言い渡された。
     幸徳伝次郎管野すが宮下太吉新村忠雄古川万作ら二十四名が死刑。 その中には平田橋事件に連坐し無期徒刑囚として樺戸集治監で服役、明治三十年の大赦令で放免された奥宮健之もふくまれていた。
    (《赤い人》P.223〜224)


     これによって社会主義運動はほとんど壊滅状態になったが、翌日、天皇高木顕明ら十二名の死刑確定者を無期懲役に減刑することを指示した
    (《赤い人》P.224)


     一月二十四日、幸徳、奥宮ら十一名が、東京監獄内の死刑場で午前七時三十分から午後三時三十分までに絞首され、翌日午前七時管野すがも処刑された。
    (《赤い人》P.224)


     大逆事件の判決は北海道の新聞にも大きく報道されたが、樺戸に服役中労働に不慣れで作業成績も芳しくなかった奥宮を知っている看守たちは、かれが処刑されたことに驚きをしめしていた。
    (《赤い人》P.224)


     囚人たちは、その日を待った。 天皇が六十一歳の高齢であることが、かれらの期待を大きくさせていた。
    (《赤い人》P.239)


     かれらは、恩赦による減刑、放免の日を待った。 が、連日吹雪がつづくようになってもそれらしい気配はなく、かれらの顔に焦燥の色が浮かびはじめた。
     かれらが最も恐れているのは、発病であった。 監獄の病者に対する治療は粗略で、その年死亡した囚人の死因は一律に心臓麻痺と記録されていた。 監獄側にとって囚人の死は単なる死で、死因などを詮索する必要はみとめていなかったのである。囚人たちは、少くとも恩赦令の実施されるまでは生きつづけたいと願っていた。 獄衣を脱ぎ鎖をはずされた身で、獄舎の外に出たかった。
    (《赤い人》P.241)


     一月下旬、書紀が看守長らにともなわれて獄舎に入ってきた。 書紀は、書類を手に房内の囚人名、襟番号を呼び上げ、減刑量を口にし、放免を告げた。 囚人たちは自分の氏名が呼ばれると返事をし、恩赦の内容に耳をかたむける。 聴力のうしなわれた者には他の囚人がききとって、指文字でつたえた。
    (《赤い人》P.241)


     明治天皇の死による恩赦によって、全国で放免の決定した者は一万二千余名、減刑は約二万二千六百名で、一万七百名が未決定であった。樺戸監獄では約三百名の囚人の放免が決定し、他の無期徒刑囚は有期刑に、有期刑は刑期が四分の三に短縮された。
    (《赤い人》P.241〜242)


     北海道のその地に集治監が創設されて三十六年が経過していたが、集治監を設置した意義は時代の流れとともに失われていた。明治初年の政府に武力反抗をこころみたいわゆる賊徒たちを収容する必要はなくなっていたし、無期、長期の刑を課せられる犯罪者の数も年とともに減少していた
    (《赤い人》P.242〜243)


     大正七年に入ると、樺戸監獄を廃止する気配が濃くなり、それに気づいた月形村では、廃監を強く支持する運動が起った。
     かれらの意見は、一致していた。監獄は多くの建物を所有し、広大な農地をかかえている。 それは村の大半を占めていて、村の発展を阻害している。 監獄が廃されれば、それらの地は村に大きな利益をあたえるというのである。
    (《赤い人》P.243)


     月形村は、初代典獄月形潔らの踏査によって集治監が設置されたことによって生れ、囚人の労役によって大きな集落に発展した。 囚人たちは、村の道路、河川、波止場、橋梁を整備し、水道、灌漑用水路を通じ、寺社、病院をはじめ多くの建物を建設した。 そして、囚人の開墾した農地、宅地は安価に村民に払いさげられ、官営施設もととのえられた。 つまり集治監の囚人の労役なしに村の存在はなかったのだが、村民たちには、監獄そのものがいまわしい無用のものになっていた
    (《赤い人》P.243〜244)


     村民の陳情がつづき、司法省でも樺戸監獄の存在意義がうしなわれたことを認め廃監の意志をかためたが、関典獄は、耕地を村民に解放し、囚人を手工業の労役に従事させる工業監獄として存続させるべきだ、と提唱した。
    (《赤い人》P.244)


     しかし村では廃監をねがう意見が支配的で、また司法省も関典獄の提言をしりぞけ、大正八年一月二十日、勅令第六号によって樺戸監獄廃監を公布した。 関典獄は老齢を理由に退官届けを提出し、村内の円福寺、北漸寺で囚人死亡者供養をいとなんだ。
    (《赤い人》P.244)


     ・・・この地の処分について、村民は二派にわかれて争い、結局、村に全地域が貸与されることで落着した
    (《赤い人》P.244)


     建物その他は競売されることになり、雪解けとともに全道から数十名の商人が集ってきた。建物は獄舎をはじめ大半が取りこわされ古材として他の地にはこばれ、多くの器材が競売に付された。その中には味噌、醤油の大樽もあって、それらは村道を波止場の方へ音を立ててころがされていった
    (《赤い人》P.244)


     解説 木原直彦

     昭和二年に東京の日暮里(にっぽり)で生れた吉村昭氏も“北志向”の作家といえよう。
     エッセイ集「蟹の縦ばい」(毎日新聞社、昭和54年9月)に収められている「胸打つ慰霊の踊り」のなかにこんな箇所がある。
    戦時中に霞ヶ浦航空隊を逃亡して北海道のタコ部屋に入った人物を主人公にした小説「逃亡」を書いたが、私はかれに「なぜ関西か九州に逃げず北海道へ逃げたのです?」とたずねると、「自分でもよくわからないが、なんとなく安心できるような気がして・・・・・・」と答えた。「この心理が、私にはよく理解できる。 東京生れの私は、関西が異郷の地に思えるが、東北、北海道に行くと、その地に住む人の気持ものみこめるような気がし、違和感がない。 気持が安らぐのである。 /私が関西を舞台にした小説を一作も書かず、東北、殊に北海道についてしばしば筆をとるのは、犯罪者と同一の心情によるのかもしれない」
    (《赤い人 解説 木原直彦》P.248)


     そしてそこに描かれている事象はいずれも「赤い人」のなかで語られているのだが、こうした作品群のなかにあって、吉村氏の「赤い人」はきわだった特徴を持つ。 樺戸集治監の明治十四年(一八八一)の開設から大正八年(一九一九)廃監までの三八年の歩みを克明にたどった北海道監獄史であるとともに、北海道開拓裏面史にもなっていることである。 この作者の独擅場である綿密な調査のうえにたって樺戸監獄の〈実録〉を構築しているわけだが、明治という国情と国策をゆるぎない目で見据えているから、単なる監獄物語を突き抜け、読む者にその〈実感〉は重い。
    (《赤い人 解説 木原直彦》P.254)


     殺人などの重罪人だけでなく自由民権の国事犯が多く含まれているところに明治という時代の反映をみるのだが、その彼らの言語に絶する犠牲のうえに北海道の開拓は大きく進展したのであった。 明治期の近代を照らす一面を持っているが、「赤い人」はそのことも深く考えさせてくれる。 すぐれた実録が持つ迫力であろう。
    (《赤い人 解説 木原直彦》P.254)