[抜書き]『総員起シ』


『総員起シ』
吉村昭・文春文庫
2012年7月5日 第18刷
    目次
    海の柩
    手首の記憶
    烏の浜
    剃刀
    総員起シ

    あとがき


     海の柩

     半鐘がたたかれ、人々は、霙の中を浜に走った。 漁船の海に出ることも少なくなった村落では、水死体を見ることも長い間絶えていたのだ。
     かれらは、眼前の光景に身をすくませた。 漂流物は二個だけではなかった。 濃いガスの中から淡くにじんだ茶褐色のものが、後を追うように次々と現われてくる。 たちまち岸に近い海面には、二十体ほどの同色の水死体がひろがった。
     「難破だ
     かれらの中から、声がもれた。
     村落には、数多くの前歴があった。
     ……千島列島の東側を南下する寒流は、根室半島から釧路沖を経て、北海道南端の突出部襟裳(えりも)岬をかすめると本州の太平洋沿岸へと向う。 その潮流は、襟裳岬のかげの両岸によどみをつくり、漂流物を憩(いこ)わせる作用を持つ。
     村落の前面の海は岩礁も多いためか、殊にその現象がいちじるしく、難破船の遺体や流木の漂着が多い。 昭和初期には、ロシヤの貨物船が荒天で沈没し、船員水死体が五十二体打ち上げられたこともある。 そのため百人浜という別称も生まれたほどで、その後もしばしば水死体の漂着がみられた。
    (《総員起シ 海の柩》P.12〜13)


     中尉は、押し殺したような声で言った。軍隊の行動は、絶えず敵の諜報機関にねらわれている。 多くの兵が水死したことは、軍の極秘事項として扱われる。 今後、村落の者は、多くの遺体を目にし収容したことを他の村落の者に絶対に洩らしてはならない。 もしそれに違反した者は、女、子供の区別なく軍法会議にかけて極刑に処する。 また村落内でも、今後、住民同士水死した兵のことについて言葉を交すことを一切禁ずる。 これも防諜上の配慮からである。 尚、隣村の者たちは、明朝村落を出発し村へ帰ってもらう。 ただし、村に帰着後この村落で眼にし耳にしたことを他言することは許さない。 隣村からそのような噂(うわさ)が流れた場合には、遺体収容作業に協力しただれかが口をすべらせたと解釈し、徹底的に調査した上違反者を軍法会議にかける。 ……以上のことを他の者たちに伝え、互に違反者のないよう責任をもって指導せよといった趣旨であった。
    (《総員起シ 海の柩》P.22〜23)


     中尉は、その労を謝すとは言った。 が、同時に一つのきびしい戒律も課した。 村落の者たちは、自分たちが犯罪者の集団でもあるかのように監視される身となったことを知った。
     中尉の傍には、憲兵の腕章をつけた長身の曹長が立っていた。かれは、一言も口をきくことはしなかった。 が、頬骨の突き出た顔に光る酷薄そうな眼に、村落の者たちは畏怖を感じた。
    (《総員起シ 海の柩》P.23)


     一斉に草木の芽がふき出した頃、腐爛死体が一個、浜の岩礁に漂着した。 下半身は衣類もはがれていたが、防寒具は着ていた。  村落の代表者が遠く軍の駐屯地に赴き、下士官と兵が二人汽車に乗ってやってきた。 かれらは、浜で遺体を焼いて骨を拾い集めると、骨壷を布でつつんで去った。
    (《総員起シ 海の柩》P.28)


     その漁村の人々は、沖合からの魚雷の炸裂音を耳にしなかった。 それは風向の作用によるもので、かれらと輸送船沈没事故との接触は、数人の者が霙の降る夜明けに近い頃、一隻の上陸用舟艇を眼にした時からはじまった。
     かれらは、海上に濃くたちこめたガスの中から突然平たい大型の鉄製の舟艇が姿をあらわすのを見た。 舟は、村をよぎる国鉄の踏切に近い浜に舟底をのし上げ、中から十名ほどの防寒帽をかぶった軍装の男たちが岸に上った。 そして、一箇所に寄りかたまって村の方をひそかにうかがっているようにみえた。
    (《総員起シ 海の柩》P.28〜29)


     将校は、村長を通じて輸送船沈没事故については他の村の者に絶対口外せぬようにという厳重な通達を発した。 そして、学校の校舎に安置されていた遺体を踏切り近くの浜にはこび、重油をかけ薪を組んで焼いた。
    (《総員起シ 海の柩》P.42)


     後に残った二名の憲兵は、あらためて村長に輸送船沈没事故を口外せぬように念を押し、夕方の列車に乗って村をはなれた。
     村長は、憲兵からの通達を紙に書き記して村内に回覧させ、もどってきた紙片を焼却した
    (《総員起シ 海の柩》P.43)


     戦争が終り、軍籍にあった男たちが、村に一人、二人ともどってきた。 かれらは、うつろな表情で家の中で所在なげに寝ころがったりしていた。
     村の食糧難は、深刻だった。 山間部の村落には穀物や野菜はあったが、それと交換する魚介類が村にはない。 船の燃料が完全に底をつき、わずかに岸に近い海面に小舟をうかべて釣糸を垂れる以外に方法はなかった
     が、秋風が立ちはじめた頃、魚と交換にという条件で燃料を提供する商人が村に入りこんできて、漁船は一斉に沖へとむかった。
     長い間網を入れることのなかった海には、魚が群れていた。 漁船は、出港するたびに魚類を満載してもどり、浜は大漁で沸き立った。
    (《総員起シ 海の柩》P.43〜44)


     村人たちは、遺族たちの顔に肉親の死を悼(いた)む単純な表情しか浮かんでいないことに気づいていた。 遺族たちは、夫や息子が船で輸送されている途中アメリカ潜水艦の雷撃によって海へ投げ出され、死亡したということしか知らない。 村人たちは、暗黙のうちに兵士たちの死にいまわしい事実がからんでいることを、意識して口にすることを避けた。 かれらは、遺族たちの悲嘆をかきみだしたくなかった。 それに戦争が終ったとはいえ、その事実を公けにすることによってなにかの災厄が村にふりかかってくることをおそれる気持も強かった。
    (《総員起シ 海の柩》P.45〜46)


     手首の記憶

     かれの祖母は、明治三十八年に日露講和条約で日本の領有に帰した南樺太に開拓民として渡り、やがて結婚してかれの母を生んだ。 そして、かれはその母の長男として樺太の豊原で生れ、小学校から中学校時代をその地で過した。
    (《総員起シ 手首の記憶》P.57)


     一ヵ年が過ぎ、高橋婦長ら六名の自決者の命日がやってきた。
     徳子たちは、片山副婦長に連れられて花や線香を手に武道沢から樹林に入って自決場所の丘に向った。 丘の頂にある楡の大樹は一年前と同じように枝葉を逞しくひろげていたが、その樹の下に近づいた徳子たちは、附近の光景が一変しているのを眼にして立ちすくんだ。 一年前、樹の下にはまばらな草しか生えていなかったが、その周囲には身の丈を越すような雑草が生い繁っている。
     徳子は、自分たちの流した多量の血が土を肥やし、雑草を繁らせているのにちがいないと思った。
    (《総員起シ 手首の記憶》P.88)


     烏の浜

     村落の者たちは、顔色を変えた。 終戦を迎えたとは言え、一週間前まで中国と日本は交戦国であった。 夜明けに突然大型ボートで上陸してきた者たちが、中国兵であると解釈することは、村落の者たちにとってそれほど不自然ではなかった。
     漁師たちは、恐怖に顔をひきつらせて村落の中に散った。 たちまち、村落は騒然となった。老人や女子供は山中へ避難させることになり、別苅に配置されている沿岸警備隊詰所に電話がかけられた。
    (《総員起シ 烏の浜》P.104)


     海面には、引揚者の携行していたおびただしい荷物が潮流にのって動いていた。 漁師たちは、その中を生存者の姿を求めて船を走らせたが、発見したのはすべて死体のみであった。
     漁師たちの努力で、日没時までに二十九遺体と百五十個にのぼる荷物を収容し、大別苅の浜に陸揚げした。
     遺体は婦人、子供にかぎられ、樺太で緊急疎開命令を受けて避難したことがそれらの身のまわり品からも察しられた。
     子供たちは例外なく真新しい外出着を着せられていたが、それが悪結果をもたらしていて、小学生の制服には名札のない者が多く身許がが不明になっていた。 また女たちは出来るだけ多くのものを身につけようとしたらしく、モンペを三枚はいている者もいれば、ふとん地を腹に巻きつけた者もいた。 そして、一人の例外もなく、女は紙幣や、貯金通帳、国債などを身につけていた。
    (《総員起シ 烏の浜》P.128〜129)


     郵便事情は混乱していたので身許の判明した遺体をすぐに遺族へ引渡す手段もなく、一体残らず火葬に付した。 また身許不明者の遺体は、後日掘り起こして遺族に確認させるため、トラックで墓地へ運んで埋葬した
    (《総員起シ 烏の浜》P.129)


     そのような「小笠原丸」以外に二隻の船が撃沈されたことは、増毛町とその周辺の村落の人々に無気味な恐怖をあたえた。
     人々は、集会があるたびにそのことを話題にした。
     「戦争が終っても油断はできない
     と、つぶやいた一人の漁師の言葉は、村の者たちの実感でもあった。
     終戦の翌年も、前年に増して鰊は大豊漁になった。 増毛町一帯は、好景気に沸いた。 鰊は食料以外に肥料としても重視されていた。 戦災によって肥料工場が破壊されたので、農業用肥料として需要が激増していたのだ。
     しかし、昭和三十年前後から鰊は村落前面の海にほとんど姿を現さなくなった。 二百数十年前から春には必ず回游してきた鰊が、いずれかに去ってしまったのである
     村落はさびれ、増毛の町にも活気が失われた。 が、かれらには終戦後村落の沖合で潜水艦の雷撃を受けて沈没した「小笠原丸」の記憶が牡蠣(かき)のようにこびりついてはなれない
    (《総員起シ 烏の浜》P.141)


     剃刀

     六月六日夕刻小碌(おろく)地区を守備する海軍部隊司令官太田実少将から牛島軍司令官あてに訣別電報がもたらされ、同月中旬には最後の突撃を敢行して全滅したという報も入電した。
    (《総員起シ 剃刀》P.167)


     太田少将拳銃自殺をとげたが、海軍次官あてに、沖縄県民が男女の別なく戦闘に従事し、また老幼婦女子は戦闘の足手まといにならぬよう戦火の中を黙々と移動し、多くの者が無惨な死をとげていると述べ、「沖縄県民斯(カ)ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜(タマハ)ランコトヲ」と、懇願した電文を送った。 それは軍司令部でも傍受され、比嘉たちの耳にも伝わってきた。
    (《総員起シ 剃刀》P.167)


     海軍部隊の全滅によって、戦場は完全に島の南部深く移行したようだった。 そして、軍主力の抵抗線である八重瀬与座両丘陵を中心に日本軍と敵との間に激戦が展開された。 が、六月十五日には、アメリカ軍は全戦線にわたって浸透、これに対して県民をふくむ日本軍は体当り攻撃によって応じたが、同十七日には東部戦線の壊滅によって抵抗線は総崩れとなった。
    (《総員起シ 剃刀》P.167)


     六月十八日牛島軍司令官は、最後の時がやってきたことをさとり大本営宛訣別電報を発信した。
    (《総員起シ 剃刀》P.167)


     さらに翌十九日には、アメリカ軍の歩兵部隊が摩文仁東方数百メートルに接近、戦車が摩文仁の八九高地を砲撃するまでになったので、軍司令官は事実上戦闘の終ったことを確認し、各部隊に独自の判断で戦闘を継続する旨(むね)の指令を発した
    (《総員起シ 剃刀》P.167)


     ローソクのゆらぐ灯は淡く、手元がよくみえなかったが、かれは入念にバリカンを動かし、剃刀で髭を剃った。
     散髪が終り敬礼すると、軍司令官は、
     「ごくろう
     と、おだやかな声で言った。
     かれが道具を片づけていると、一人の将校が入ってきた。 それは、作戦担当の高級参謀八原博通大佐であった。
     八原は、敬礼すると、
     「おいとま乞いに参りました
     と、言った。
     「どういう意味か
     軍司令官がたずねると、八原は黙っていた。
     「命令を遂行(すいこう)せよ。 一時の恥を忍んでも、生きて沖縄の戦訓を大本営に伝えるのだ。教訓を次期作戦に活用せねばならぬ
     軍司令官の語調は、常と異ってきびしかった。
     八原は口をつぐんでいたが、
     「わかりました。 任務を遂行します
     と、答えると、部屋を出て行った。
     それから間もなく比嘉は、八原大佐が背広に着かえて壕から出て行くのを見た。
    (《総員起シ 剃刀》P.170〜171)


    総員起シ

     海域の水深は、約六十メートル。 ハッチがしめられ、空気の取入口である給気筒、ディーゼルの排気筒もすべて閉鎖された。 指令塔内に赤色の標示灯がともった。 それは、給気筒、排気塔が完全に閉鎖したことを告げるものだった。
     さらに艦内の気圧がたかめられた。 もしも閉鎖が完全でなければ、空気がもれて気圧がさがる。 が、気圧の低下もなかったので弁のすべてが完全に閉鎖されていることが再確認された。 艦長は、
     「ベント弁開け
     の命令を下した。
     潜水艦の両側には、艦をいだくようにメインタンクがある。 その最上端にあるベント弁がひらくと、タンク内の空気が音を立てて輩出され、代りに海水が注ぎこまれてくる。
     艦は急に重くなって、艦首をさげて潜航していった。 艦の深度は増して、三十メートル近くに達した。
    (《総員起シ 総員起シ》P.189〜190)


     「両舷停止、潜航急げ
     という平沢大尉の甲(かん)高い声を上方にきいた。
     と同時に、総員配置につけのベルが艦内に鳴りひびいた。 急速潜航訓練が開始されたのだ。
     見張員たちは、ラッタルを伝って滑り降りてゆく。 信号長長井徳一一等兵曹が素早くハッチをしめた。
     「ハッチよろし
     横井が、平沢大尉に報告した。
     海面下十八メートルの海中に潜航を果すまで四十五秒しかない。
     平沢大尉は、
     「ベント弁開け
     と、命令を下した。
     メインタンク弁がひらいたらしく、空気が排出される音が起った。 艦は、艦首をやや下げて潜航してゆく。 小西少尉は、深度計をみつめた。 針が、ゆっくりと右廻りに動き十メートルに達した。
    (《総員起シ 総員起シ》P.191〜192)


     その時、不意に艦の傾斜に異常が発生した。 艦は二度から三度の角度で艦首をさげて海底方向に潜航していたが、意外にも艦傾斜がやむと逆に艦尾がさがって沈降してゆく。つまり艦首を突き立てるような形になり、しかもその角度は三十度近くになった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.192)


     針が二十メートルをさした時、指令塔内の伝声管から、
     「浸水、機械室浸水
     という絶叫に似た声がふき出た
    (《総員起シ 総員起シ》P.192)


     小西少尉は、和田艦長の顔から血の色が失われているのをみた。 かれは恐怖におそわれた。
     「機械室浸水、機械室浸水
     再び伝声管から叫び声がふき出た。 それは、三上政男機兵長の声にちがいなかった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.193)


     さらにそれにつづいて、
     「給気筒より浸水
     「浸水、浸水
     と、狼狽した声が流れ出てくる。二週間足らずの訓練しか積まぬ乗組員たちは、不意の浸水事故に気も顛倒(てんとう)しているようだった。 給水等の頭部にある弁が閉まっていなかったのか。 そこから浸入した海水が機械室に流れこんでいるのか。
    (《総員起シ 総員起シ》P.193)


     艦長が、口をひらいた。 その声には、意外なほどの平静さがもどっていた。
     「ベント弁閉め
     「ネガティブ、ブロー
     「メインタンク、ブロー
     「両舷停止
     艦長は、艦を浮上させるため機敏に命令を発している。 かれは、出来得るかぎりの処置をとっているのだ。
    (《総員起シ 総員起シ》P.193)


     突然、静まり返った司令塔に金属音がひびいた。 それは、下方の発令所からハンマーでハッチを叩く音だった。 気圧が上昇して苦しいのか、ハンマーの音はハッチを開けてくれと懇願している。 発令所には、浸入した海水が異常なたかまりをみせているはずだった。 かれらは、上方にある司令塔へ上ろうともがいている。
    (《総員起シ 総員起シ》P.199〜200)


     ハンマーをとる者が交代したのか、いったんとぎれた金属をたたきつける音が新たに起った。 それは、死の世界からつたわってくる音のように感じられた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.200)


     再びハンマーの音がとだえ、新しい音がしてきたがその音はひどく弱々しかった。 司令塔内の者たちは、顔を伏せてきいている。 やがてその音は、突然のようにきこえなくなり、それきり絶えた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.200)


     司令塔内の気圧は異常な高さにまで達している。 それは、ハッチをあけても艦外の海水の流入を押しとどめる力を秘めているはずであった
     「ハッチを開けよ
     艦長が、平静な声で命じた。
     初めに艦外に出る信号長横井徳義一曹が、ハッチのハンドルに手をかけた。 が、ハンドルは回転せず、他の者も力をかした。
     「一、二、三
     という掛け声とともにハッチがひらいた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.203)


     小西は、ハッチの口を見つめた。 司令塔内の気圧が高いため、水は流れこんでこない。 巨大なレンズのように青黒い海水が停止していて、そこから海水が降り落ちていた
    (《総員起シ 総員起シ》P.203)


     小西少尉の番がきた。 海水の落下は空気の放出とともに激しくなって、滝のように落ちはじめている。 かれは、深く息を吸いこむと上昇する空気に乗ってハッチの外に出た。
    (《総員起シ 総員起シ》P.203)


     鬼頭一曹が船底に横たえられた。 顔に血の色はなく、口が薄くひらいている。 岡田一曹が声をかけたが、反応はなかった。
     漁師が、鬼頭一曹の体をうつ伏せにして臀部をしらべている。
     「だめだ、肛門が大きくひらいている
     漁師は、頭をふった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.207)


     小西少尉は、岡田一曹と海面を見つめた。 艦が沈んでから二十四時間が経過している。 艦内の気圧はさらにたかまって人間の生存を許すことはできなくなっているかも知れぬが、二日か三日たってから生存者が救出された例もある。 鼓膜は破れ絶命している者がいるだろうが、二十四時間という時間経過は、まだ十分に艦内の者を救出できる可能性を秘めていた
     ハンマーをたずさえた潜水夫が、つづいて水中にもぐっていった。 かれらは、艦外からハンマーで叩いて内部の反応をうかがうのだ。
    (《総員起シ 総員起シ》P.211)


     ただ今後他の潜水艦に同様の事故が発生することを防ぐためにも、沈没事故の確認をおこなう必要があった。 その原因を追求する上で、小西少尉、岡田一曹の証言が重視された。
     かれらは二人とも、艦が急速潜航をおこなった直後、
     「機械室浸水!
     という伝令の声が伝令管から流れ出たことを証言した。
     容易に想像されるのは、機械室の上方にある給気筒の弁がひらいていたため海水が流入したのではないかと疑われた。 が、各弁の完全閉鎖は、赤い標示灯の点灯で自動的に確認される。 哨戒長は、その点灯を目認した直後「潜航急げ」の号令をかけたはずで、他のなんらかの理由で機械室に浸水したのではないかという意見も出された
     結局、翌日は、潜水夫を使って給気筒の弁を調査することになった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.213)


     潜水夫が数名、艦橋の後部にある給気筒を調査するために潜水していった。 その結果、思いもかけない事実が判明した。 浮上してきた潜水夫は、黒ずんだ短い丸太を手にしていた。 それは、直径五センチ、長さ十五センチほどの円材だった。 潜水夫の話によると、給気筒の頭部弁から気泡が涌いているので調べてみると、弁の間に円材がはさまっていたという。 つまりその円材のために弁が完全に閉鎖されず、急速潜航と同時にその間隙(かんげき)から海水が流入したことがあきらかになった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.214〜215)


     そのことから一つの疑惑が生れた。 頭部弁が閉鎖されていなければ、赤い標示灯は点灯しない。 哨戒長が急速潜航を急ぐあまり点灯を確認せず潜航を命じたのか。それとも想像を越えた他の理由によるものなのか。 その点についてはあきらかにされなかったが、事故原因は明確にされた
    (《総員起シ 総員起シ》P.215)


     円材の出所が追及された。 その結果、「伊号第三三潜水艦」が呉工廠で入渠修理中に給気筒内に落ちこんだものであることが判明した。つまり工廠員が、修理完了後の清掃を怠ったため円材を発見することができなかったのである
    (《総員起シ 総員起シ》P.215)


     ようやくかれは、その理由をつかむことができた。 艦首部分に浮力があるということは、艦内に水の浸入していない区劃があることをしめしている。 潜水艦に浸水事故が発生した折には、流入する海水をふせぐため防水扉をしめる。 当然そこには空気が残り、艦に浮力をあたえる。
     浸水していない区劃があるのだ……と、かれは胸の中でつぶやいた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.233)


     艦の前部に空虚な部分があるということは、かれの気分を明るませた。防水扉がとざされているならば、兵員室と発射管室には乗組員がいたはずである。 かれらは、或る時間生存していて悶死(もんし)していっただろうが、その遺体は完全な形で残され氏名も判明するだろう。 遺品も収容できるし、もしかすると壁には遺書の走り書きも刻まれているかも知れない。 それは悲惨な光景にちがいないが、遺族は遺骨を手に入れることによって慰めとするだろう。
    (《総員起シ 総員起シ》P.233〜234)


     それに技術的にも、その部分が空虚であることはかれにとって好ましい条件だった。 まず浮力の点でその部分に空気が残されていることは、浮揚作業をそれだけ容易にする。 さらに、魚雷発射管室が浸水を受けていないことは作業保安の上で喜ぶべきことであった。
    (《総員起シ 総員起シ》P.234)


     発射管室には、魚雷が十七本格納されているはずであった。 もしも室内に海水が入っていれば薬液がながれ魚雷の尾栓を腐蝕させるおそれもある。安全装置のこわれた魚雷は、衝撃を受けて爆発する危険性があるし、もしもそのような事故が起れば魚雷はつぎつぎに誘爆をおこして艦体とその浮揚作業にしたがう作業員の肉体を飛散させてしまうだろう
    (《総員起シ 総員起シ》P.234)


     山田作業員は、縊死体の収容を担当した。 かれは、大柄な遺体を抱いて持ち上げた。 同僚の作業員が、頸部に食いこんだ鎖を外そうとつとめている。
     「早くしろ
     と、仰向いて催促したかれの口にかわいた肉片が落ちてきた。 かれは、顔を伏せて持ち上げていたが、鎖がはずれたらしく重量がのしかかってきて、かれは遺体を抱いたまま壁に体をぶつけた。 遺体は、棺に辛うじて納った。 艦上には、厳粛な空気がひろがっていた。 遺体のおさめられた棺の中には花束がつめられた。 又場をはじめ作業員たちの眼には、光るものが涌いていた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.268〜269)


     前部兵員室に閉じこめられた者たちは、九年ぶりに生きたままの姿で夏の陽光を浴びている。 かれらは、闇の艦内で太陽の光を乞い、空気にふれることをねがったにちがいない。
    (《総員起シ 総員起シ》P.269)


     かれらの苦しみは、想像を絶したものであったはずだ。 かれらは、果しなく上昇する気圧と極度な酸素の欠乏に悶えながら死を迎えた。 おそらく先任者は浮上不能の折の最も効果的な方法として、疲労の増加と酸素の消費量を出来るだけ少くするためベッドで休息することを命じたのだろう。 そして、乗組員たちもその命令にしたがって最善の努力をはらい、闇の中を手探りで自分のベッドにたどりつき、そこで絶命したにちがいない。
    (《総員起シ 総員起シ》P.269)


     縊死した水兵は、頑健な体が逆に災いとなって、かれの肉体には容易に死が訪れなかったのだろう。 上官や同僚がすべて死に絶えた後も、かれ一人だけは生きていた。 深海の艦内でただ一人生きつづける孤独感に堪えきれず、自ら鎖を首にまきつけて体を垂れさせたと想像される。
    (《総員起シ 総員起シ》P.269)


     その区劃の酸素は、すべて男たちによって吸いつくされた。 酸素が絶えたことは、区劃内の雑菌の活動も停止させ、さらに水深六十メートルの海底の低い温度が一層その腐敗作用をさまたげたのだろう。
    (《総員起シ 総員起シ》P.269)


     翌七月二十七日午後五時すぎ、電動機室内におりた金永技手が、手すりに防水ゴムテープでつつまれたものがくくりつけられているのを発見した。 早速作業船内で復員局係官立会いのもとにひらいてみると、一通の手紙が出てきた。 紙は茶色に変色し字も薄れていたが、それは同室内にいた大久保太郎中尉と浅野上機曹の事故報告をかねた遺書であった。

     浅学非才ノ身ニシテ万全ノ処置ヲ取リ得ズ数多ノ部下ヲ殺ス。 申シワケナシ。 潜水艦界ノコノ上ナキ発展ヲ祈ル。
     急速潜航時整備燈ハ、当直将校ヨク監視スルノ要アリ。 訓練ハ確実第一、徒ニ潜航秒数ノ短縮ヲアセルベカラズ。 艤装関係不良箇所多シ。 艤装員ト艦員トノ連絡密ナルヲ要ス。
     深度五十四度、後部三〇トン応急線ニテ使用スルモ、速ニ電圧下リ不可能……(七字不明)……後部兵員室、発令所伝声管ヨリ漏水ス。
     圧力大ニシテ遮防シ得ズ。 総員M室ニ向ハン。 圧縮ポンプ室又浸水アリ、伝声管徐々ニ浸水増ス。 水ヲM室ニ入レテ後部兵員室ニ移ランコトヲ考ヘタレド、後部兵員室圧縮ポンプ室防水扉開カズ。 後ナホ死ニ至ル迄相当時間アリ。 最後マデ努力センノミ。
     浸水後五時間、途中圧縮ポンプニテ気圧低下ヲ試ミタルモ電圧下ガリテキカズ、五時間後気圧サホド高カラズ。 今電池ハ電圧殆ド0、圧縮ポンプ後部三〇トンハ五〇V付近ニテモ運転デキタリ、以後不能。
     大東亜戦争勝抜ケ。
     吾ガ遺言ハコレノミ。
                    海軍中尉 大久保太郎

    (《総員起シ 総員起シ》P.271〜272)


     昭和十九年六月十三日午前八時四十分急速潜航一直ヨリ始メル。 コノ時機関左舷給気筒部弁閉鎖確実ナラズ、コレヨリ急速ニ浸水、電動機室ハッチ閉鎖スルモ後部兵員室伝声管ヨリ浸水多シ、アラユル努力ヲスルモ刻々ニ浸水ス。
    (《総員起シ 総員起シ》P.273)


     訓練ニテ死スルハ誠ニ残念ナリ。 シカシ、今ハアラユル努力ヲナシタレドモ刻々浸水スルノミ。 最後マデガンバル。
    (《総員起シ 総員起シ》P.273)


     帝国海軍ノ発展ヲ祈ル。 我死スルトモ悔ユルコトナシ。 最後ノ努力スルモ気圧ハ刻々高クナル。
    (《総員起シ 総員起シ》P.273)


     気が遠クナル。 午後十三時二十分、艤装不良箇所多キタメコレヨリ浸水、如何ニ努力セシモソノ甲斐ナシ。
    (《総員起シ 総員起シ》P.)


     その日、艦は因島市につき、日立造船ドックに繋留された。
     伊号第三三潜水艦」は原型をとどめていたので、造船業界の注目を集めた韓国海軍から買受け希望があるというニュースなどもあって、浦賀ドック川崎重工三菱電機日立製作所播磨造船などから商社に注文が殺到した。
    (《総員起シ 総員起シ》P.278)


     殊に浦賀ドックの希望は強く、同社潜水艦企画室に託して潜水艦研究の資としようとしていた
     しかし、業界には一社に独占させることは不適当であるという声がたかまり、造船工業会もそれに同調した。 そのため「伊号第三三潜水艦」は分断して各社で引きとることに決定した潜望鏡は日本光学、発令所は川崎造船、什器類は三菱電機、一四センチ主砲は日本製鋼所などが商社と仮契約を結んだ。
    (《総員起シ 総員起シ》P.278)


     これに対して浦賀ドック潜水艦企画室では、分断される以前に艦の調査を希望した。 中でも浸水をまぬがたれ魚雷発射管室には深い関心をいだいていた。 企画室には、元海軍技術大佐生野勝郎、同少佐西原虎夫、同吉武明の三名の潜水艦設計の専門家がいた。 かれらは、会社の出張で八月十二日、横須賀から日立造船におもむいた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.278〜279)


     生野たちは、魚雷発射管室に入って調査することを申し出たが、現場主任はガスが内部にたまっているかも知れぬという理由で同意しなかった。  しかし、生野たちはその区劃から遺体搬出作業も積極的におこなわれたことでもあり、危険はないと判断した。 そして、午前十時二十分頃、生野が第一ハッチをあけて中へ入っていったが、突然倒れた。 それを眼にした西原がラッタルをつたわって降りていったが、西原も倒れ、それを救おうと駆け下りた吉武も折り重なって昏倒した。 いつの間にか炎熱につつまれたその区劃内には濃厚なメタンガスが発生していて、三名の技師の生命を瞬間的に奪ってしまったのである。
    (《総員起シ 総員起シ》P.279)


     暑熱がやわらいで、秋風が立つようになった。 遺体は六十一体発見されていたが、「伊号第三三潜水艦」はなおもさまざまな部分に遺体をひそませていた。
     九月上旬には解体の進んだ艦内から十八体の遺骨が姿をあらわし、多くの遺品も収容された。 その後も遺骨は一体、二体とつづいて、十月八日には氏名不肖の真黒な遺骨五体が後部補機室から出た。 さらに翌々日の十日に一体、十一日午前中に一体、午後になって四体が発見された。
     「伊号第三三潜水艦」は、果しなく遺体を生み出す構築物のように思えたが、その日の五体を最後に遺骨は絶えた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.279〜280)


     私には、氏の言葉の意味が素直に納得できた。 その区劃内では、九年前の沈没時から時間が完全に停止していた。 深い静寂の中で、遺体は年齢を重ねることもなく九年間という時間をすごし、その間に生き残った氏は確実に時間の流れの中に身を置いていた。
    (《総員起シ 総員起シ》P.281)


     もしも氏が遺体を引き揚げた場に居合わせていたとしたら、氏の眼にする遺体は、九年前の戦友の姿なのである。 九歳年をとった氏は、時間が激しい勢いで逆行するのを感じたにちがいない。 その奇怪な時間の乱れに、氏が堪えきれたかどうか。 戦友の死に対する激しい悲嘆も加わって、氏が錯乱しなかったとは保証できない。
    (《総員起シ 総員起シ》P.281〜282)


     文庫版のためのあとがき    吉 村  明

     太平洋戦争には、世に知られぬ劇的な出来事が数多く実在した。 戦域は広大であったが、ここにおさめた五つの短編は、日本領土内にいた人々が接した戦争を主題としたもので、私は正確を期するため力の及ぶ範囲内で取材をし、書上げた。

    (《総員起シ あとがき》P.285)


     「総員起シ」は、作品の冒頭に記したように六葉の写真を眼にしたことが、執筆のきっかけになった。 それらの写真は、中国新聞社の記者白石鬼太郎氏の撮影したものであったが、余りにも生生しいという理由で、新聞に掲載されなかった。 私は、白石氏をはじめ関係者の証言をきいてまわった。 人づてに聞いたが、白石氏は数年前に交通事故で世を去られたという。
     昭和五十五年夏

    (《総員起シ あとがき》P.286)