[抜書き]『明治無頼伝』


『明治無頼伝』
中村彰彦・角川文庫
平成十五年十一月三十日 三版発行
    目次
      第一章 脱獄
      第二章 会津藩士の娘
      第三章 藤田五郎の誕生
      第四章 謀叛の気配
      第五章 新たな敵
      第六章 西へ下る影
      第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘
      第八章 佐賀の乱
      終章  熊倉まで

      あとがき
      “明治十年までは幕末” 寺田博


    第一章 脱獄

     名城鶴ヶ城のあることで知られる会津(あいづ)藩領若松城下の大町札(ふだ)ノ辻(つじ)に発し、西上して越後国新発田(えちごのくにしばた)藩領へ通ずる本街道を越後街道という。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.5)


     この越後街道を札ノ辻から三里十八町ゆけば塔寺(とうでら)。 その先に鐘撞堂(かねつきどう)峠の急坂を下り、舟渡(ふなと)から只見(ただみ)川対岸の片門(かたかど)へわたってしばらくゆくと、束松(たばねまつ)峠に達する。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.5)


     ふつうの松の木が一本の幹をすらりと直立させるのに対し、このあたりに自生する赤松の中には幹のある部分からたくさんの太枝を分立させ、箒(ほうき)を逆さに立てたような樹形を呈るすものがあって「束松」と呼ばれている。 それがこの地名の由来だが、茶店の二軒ある束松峠から東を望めば諸山が沃野(よくや)中につらなり、濃淡ことのほか美しい。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.5)


     「あのお客人は、会津のお侍だそうだ
     という噂(うわさ)は、やがて坂口家の使用人の口から村内にひろまっていった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17)


     ところが越後の各地方も戊辰戦争終了後の人心荒廃の余波として贋金贋札の横行に悩まされ、当局は密偵を多数放って贋金造りを捕えようと血眼になっていた。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17)


     その密偵たちが人の出入りの盛んなのに目をつけて、時折坂口家にもあらわれる。伴百悦は身に危険が迫ったのを感じ、おなじ村内の医師徳永晋斎方を経て一面の田んぼの中の小体(こてい)な寺、慶雲庵へ引き移った。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17)


     しかし、ついに越後村松藩の捕吏がそれを察知。 明治三年六月二十二日の夜更けに夜襲をかけた。
     「元会津藩士伴百悦、神妙に縛(ばく)に就(つ)けい!
     板戸を激しく叩(たた)きながら喚(わめ)く声を聞き、奥八畳間の蚊帳(かや)の中に臥(ふ)せっていたかれは、大刀をつかんで静かに部屋をすべり出た。 そして大刀を板戸に突っ立て、捕吏ひとりを刺殺すると、部屋に引き返して作法どおり切腹して果てたのである。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17)


     まもなく伴百悦贋金造りとは無関係だったと知った村びとたちは、改めてかれが捕吏に追われていた事情を知って同情を禁じえなかった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17)


     かれらは伴百悦の遺体を、その腐乱を防ぐために塩三俵を入れた慶雲庵寺域内の墓穴に埋葬。 小石数個をならべて墓標代わりとし、修功院百法勇悦居士(こじ)の法号を贈った。会津藩戦死者の埋葬に全身全霊を挙げて打ちこむべく士籍さえ捨てたかれは、自分のみは遠く会津を離れた寒村の土と化したのだった
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.17〜18)


     

     その間に、いったん減藩処分という絶望の淵に突き落とされた会津藩には家名復活の曙光(しょこう)が射しはじめていた。
     明治二年九月二十八日−−すなわち束松事件の発生から二ヵ月半あとに、天皇は詔(みことのり)を下して松平容保(かたもり)の罪を許した。 そして翌二十九日、容保のうまれたばかりの嫡男慶三郎を立てて会津松平家の相続を願い出よ、と伝えたのである。慶三郎とは、鶴ヶ城開城後、若松郭外徒町(かちのまち)にある会津松平家別邸御薬園(おやくえん)に身柄を移された容保の側室お佐久の方が、この六月に出産した男児であった。
     容大(かたはる)と名をあらためた慶三郎は、十月二十四日、家名相続を許された上で華族に列し、陸奥国(むつのくに)のうちに三万石の封土を許されることになった。
     旧会津藩士の中には、民政局取締のひとりであった町野主水(もんど)のように猪苗代への転封を主張し、断固(だんこ)として陸奥国への移封に反対する者もいた。 しかし結果として猪苗代派は少数意見にとどまり、陸奥国のうちに新封土を受ける途(みち)が選択されたのである。
     より正確にいえば、陸奥国二戸(にのへ)郡のうち十二ヵ村、その北に七戸(しちのへ)藩領をはさみ、本州最北端の北部−−下北(しもきた)半島のうちの四十六ヵ村。くわえて北海道と改称された旧蝦夷地(えぞち)のうち、胆振(いぶり)国山越(やまこし)郡後志(しりべし)国瀬棚(せたな)太櫓(ふとろ)歌棄(うたすつ)の四郡であった。 名づけて、−−斗南(となみ)藩
     石高こそ二十八万石からわずか三万石へと激減したものの、
     「賊徒
     「朝敵
     と嘲笑(ちょうしょう)されて新たな職に就(つ)くこともできず、路頭に迷うかに見えた旧会津藩士たちは、斗南藩士として新時代゛に船出する機会を与えられたのである。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.20〜21)


     伴百悦の切腹に先立つ明治三年四月十七日には、東京謹慎組からの斗南移住第一陣がアメリカの外輪蒸気船に乗って品川(しながわ)を出港。 この年の閏(うるう)十月までの間に斗南に移った旧会津藩士とその家族たちの人数は、東京、それとは別の謹慎所のもうけられていた越後高田、そして若松に残留していた者たちからの応募者を合せて約一万七千人に達した。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.21)


     その間の五月十五日、まだ満一歳にもならない松平容大が従(じゅ)五位斗南藩知事に任じられると、元家老の山川浩(ひろし)が権(ごんの)大参事となって藩政を総攬(そうらん)。広沢安任(やすとう)、永岡久茂の秀才の誉(ほま)れ高いふたりが推されて権少参事となり、庶政を司(つかさど)ることになった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.21)


     こうして移住者の増加にともない、斗南藩の機構も着々と整えられていったが、約一万七千の移住者の中には高津仲三郎の親族五人もふくまれていた。
     兄八郎五十六歳、その長女〔おすて〕十五歳、次女〔おいと〕十三歳、仲三郎の妻〔おたつ〕三十七歳、そして八郎・仲三郎兄弟の妹〔およね〕三十八歳。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.21)


     高津家の先代は通り名を平蔵、号を●川(しせん)といい、藩外にもひろく名を知られた会津藩屈指の儒学者であった。 まだ二十代だった文化(ぶんか)年間には、その師である昌平黌の大儒古賀精里(せいり)の供として対馬(つしま)におもむき、朝鮮通信使の応接をしたり、会津藩の唐太(カラフト)出兵に同行して貴重な記録『終北録』一巻を著したりした。  またかれは性格温厚、藩校日新館で教える時には懇切丁寧をもって知られ、会津藩第七世藩主松平容衆(かたひろ)第八世容敬(かたたか)の二代にわたってその侍講をもつとめて世禄三百五十石を受けていた。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.22)


     明治新政府をなおも仇敵(きゅうてき)視している斗南藩士は少なくないから、いつかれらが武装蜂起(ほうき)するか知れたものではない。 そう考えた黒羽藩兵は依然として斗南領各地にもうけた屯所を動かず、新規移住者たちの動向を監視しつづけた。
     その三戸郡を管轄する隊長のひとりに、赤塚軍司という猛者(もさ)がいた。 官軍の一翼を担って白河(しらかわ)、棚倉(たなぐら)、二本松(にほんまつ)、三斗小屋(さんとごや)を転戦した経験の持主で、酔うと角張った赤ら顔をてらてら光らせ、
     「まずおれひとりで、賊徒五十人は撃ち殺したべえ
     と自慢話を始める癖がある。
     たしかに赤塚軍司は、自他ともに認める射撃の名手であった。
     黒羽藩の石高は、一万八千石。 典型的な外様(とざま)の小藩ながら、先代藩主大関肥後守増裕(ますひろ)は旧幕府講武所奉行、海軍奉行、陸軍奉行を歴任したため、自藩の軍制の様式化にもきわめて熱心であった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.23)


     中でも赤塚軍司は、左半身に構えて左肘(ひじ)に銃身を乗せ、右手一本で操りながらスペンサー銃を連射するのを得意とした。 七発すべてを撃ちつくすとスペンサー銃を中空にほうり上げ、左手でそれを受け止める前にはもとピストルの抜き撃ちに入っている。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.23)


     慶応四年六月十二日の明け六つ刻(どき)、奥羽への玄関口である白河宿にほど近い白坂まで北上していた黒羽勢は、仙台、会津両藩の兵を主力とする奥羽越列藩同盟軍二百の急襲を受けた。 その時赤塚は、この曲芸のような技によってたちどころに十二人の敵を殺傷したものである。
     「七連発の銃六連発の短筒(たんづつ)があれば、最大十三人はやっつけられる。 さすがの隊長も、ひとりだけは仕損じたようですな
     大垣勢の助けを受けて同盟軍を撃退したあと隊士のひとりが冷やかし気味にいうと、肩幅がひろく腕のいやに長いことから、
     「猩々(しょうじょう)
     と渾名(あだな)されている赤塚はにやりとして答えた。
     「馬鹿吐(ぬ)かせ、おれは一発も外しておらぬぞ。ピストルは六連発といってもな、撃鉄を収めておく蓮根穴(れんこんあな)も必要だから五発しか装弾しねえのだ
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.23〜24)


     移住当初、ひとり当たり一日玄米四合銭八文を斗南藩庁から支給されていたのだが、十一月からは玄米三合のみに削られてしまった。
     しかも住居は、ひとり二畳の計算で割り振られたものであった上に、そのほとんどは廃屋同然の代物(しろもの)で、畳はもちろん障子(しょうじ)や襖(ふすま)もいずこかへ持ち去られていた。
     米俵を解(ほど)いて鴨居(かもい)や天井から吊(つ)るし、これを風除(かざよ)けとした移住者たちは、畳代わりに(わら)を敷き詰め、その上に(むしろ)を敷いて震えながら眠るのを常とした。

    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.26)


     移住者には、ひとり当たり五貫匁の荷物の携行が許されてはいた。 若松城下の武家屋敷は鶴ヶ城への籠城開始と同時に灰燼(かいじん)に帰し、着のみ着のままで戦っていた者たちばかりだから、衣裳(いしょう)も汚れやつぎはぎの目立つものばかりであった。
     中で高津家の際立った特徴は、男が五十六歳の老人である八郎ひとりしかいないため初めから帰農することを諦(あきら)めているらしく、女たちがどこからか織機を買い求め、日がな一日代わるがわるにこれを動かして日銭を稼ごうとしていることであった。
     トンカラリ、トンカラリと聞えるその音は、境内の立木や石灯籠(いしどうろう)さえ雪におおわれ、吹雪が頭上に呼子のような音を伝える極寒の季節になっても、朝から晩まで物哀しく戸外に響きつづけた。

    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.26〜27)


     所によっては膝まで新雪にはまる奥州街道四里五町の道のりを喘(あえ)ぎながら南下し、この七人が福岡宿に近づいたのは東の空が朝焼に染まりはじめた頃合(ころあい)であった。 いつしか街道の左右の雪原には十数頭のの群れが影絵のようにあらわれ、時折り長く尾を曳(ひ)く遠吠(とおぼ)えを交わし合いながら追尾してくる。
     「た、隊長、あの狼どもはおれたちを獲(と)って喰うつもりなんじゃなかんべか
     部下のひとりが怯えきって訊ねても、からだに赤毛布(あかゲット)を巻きつけて先頭をゆく赤塚は平然と答えた。
     「なに、心配するな。 狼というやつはな、旅びとが目的の家に着くまでああして後を尾(つ)けてくる妙な癖があるのだ。 ほれ、送り狼ということばもあるだろうが
     そのことばどおり、かれらが道の左右に藁葺(わらぶき)屋根の並ぶ福岡宿に入ったころから、狼の黒い影はいずこともなく消えていった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.29)


     一番隊長は、近藤勇がやがて天然理心流宗家を継がせようと考えていた白河脱藩、沖田総司二番隊長はかつて近藤勇の試衛館道場の客分であり、神道無念流剣法の達人で、どんな相手に対してもガムシャラに立ちむかってゆくことから、
     「ガム新
     の渾名(あだな)をもつ松前脱藩、永倉新八であった。
     入隊前、近藤となんの交流も面識もなかった斎藤一三番隊長に登用されたことは、実はかれが沖田や永倉と同等かそれ以上の名剣士だったことを物語る
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.39〜40)


     この斎藤は、慶応四年正月三日に始まる鳥羽伏見の戦いで新選組が壊滅的な打撃を受けた後、近藤、土方らとともに旧幕軍艦富士丸に乗って江戸へ東帰。 四月四日下総流山(しもうさながれやま)に転陣した近藤が官軍に捕えられると、旧幕府歩兵奉行大鳥圭介(けいすけ)ひきいる伝習歩兵第二大隊四百五十、会津藩士秋月登之助(のぼりのすけ)の伝習歩兵大隊七百、立見(たつみ)鑑三郎らの桑名藩士八十余その他とともに江戸を脱走し、会津をめざした。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.40)


     途中、宇都宮(うつのみや)城を抜いた時に土方が足に負傷してしまったため、白河口に官軍が迫ると、新選組の百二十人は斎藤を隊長として戦いを挑んだ。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.40)


     この出撃に先んじて、斎藤一はふたたび名を改めて山口次郎と称した。当時会津藩はまだ新政府との和解の余地ありと考え、援軍として会津入りした者たちには名を変えるよう求めていた。 これは、その要望を容れての改名であった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.40)


     しかし、会津藩救済を願って結成された奥羽越列藩同盟の誼(よしみ)で白河口に出兵した仙台藩相馬中村藩などの兵は、あまりにも弱兵すぎた。 ことに仙台藩兵は、会津人が失望のあまり、  「ドンゴリ」  と名づけたほど。 これは、官軍が四ポンド山砲をドンと一発発射したとたん、五里も逃げ走ってしまうという笑えない冗談である。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.40)


     そのため一度破られた白河口の回復はついにならず、逆に勢いに乗った官軍は、七月二十九日二本松藩霞(かすみ)ヶ城の攻略に成功。 ここで力を溜めて、八月二十一日には二本松藩と会津藩との国境(くにざかい)、母成(ぼなり)峠を守備していた新選組、旧幕伝習隊ほか八百を撃破して会津盆地ををうかがいはじめた。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.40〜41)


     傷癒えて新選組隊長に復帰していた土方歳三と、山口次郎こと斎藤一の間に決定的な意見の相違が起こったのはこの時であった
     「母成峠はすでに破れ、越後口からも西軍が近づきつつあるようだから、もはや会津藩は滅びの道をたどるしかあるめえ。 実は今、旧幕海軍副総裁の榎本和泉守(えのもといずみのかみ)さまが蝦夷地(えぞち)へ走ってかの地に旧幕臣たちの国を作ろうと、旧幕府海軍をひきいて仙台藩領の松島湾にむかっているのだ。 おれはこの際、この榎本艦隊に合流してさらに戦おうと思うがどうだ
     山間に敗走しつつ兵をまとめた時、土方は鶴ヶ城へもどることはもはや考えていない、という口調でいった。
     「それはできんな
     開口一番、これを駁(ばく)したのが斎藤一であった。 ふだん無駄口を叩(たた)かぬ気性のかれは、鋳鉄のぶ厚い蜂金の下から二重瞼のギョロ目を光らせて言い募った。
     「新選組は文久三年以来六年間、会津中将松平肥後守さまのお預かりとしていただいたからこそ幕府にその名を知られ、ついには全員が幕臣に採り立てられるという栄誉に浴したのではないか。 その会津藩に危急存亡の秋(とき)が迫った今、会津藩を見棄てることはおれにはできぬ。 おれは会津藩に殉じる覚悟だ
     こうして土方と訣別(けつべつ)した斎藤一は、池田七三郎粂部正親(くめべまさちか)らかれに同調した隊士二十余名とともに若松へ引き返した。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.41〜42)


     しかし行く手にはすでに官軍が充満していて、進むに進めない。 その間に八月二十三日となり、官軍が猪苗代戸ノ口原滝沢峠と進んで若松城下へ殺到していったため、その背後に位置していた斎藤たちは、各地から鶴ヶ城めざして引き揚げてきた会津藩城外部隊と呼応して遊撃戦を展開するしかなくなった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42)


     うちかれらが最大の打撃をこうむったのは、九月四日に起こった如来堂の戦いにおいてであった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42)


     太閤(たいこう)秀吉の時代の会津領土、上杉景勝(かげかつ)が縄張りした阿賀川東岸神指(こうざし)城址の如来堂村に戦端をひらいたこの戦いは、越後口から城下侵入を策した官軍の大部隊と、これをなんとか阻もうとする会津残留新選組との間でおこなわれた。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42)


     だが新選組は、いかな剣客ぞろいといえども多勢に無勢。元ごめ連発銃四ポンド山砲装備の官軍の前になすすべなく敗れ去り、そのほとんどがこの地に屍(しかばね)を曝(さら)した。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42)


     ひとり阿修羅のごとく荒れ狂って血路をひらくことに成功した斎藤は、その後、会津藩屈指の猛将で、
     「鬼官兵衛(かんべえ)」
     と官軍に恐れられている佐川官兵衛ひきいる城外突出部隊の七百に合流。九月二十二日鶴ヶ城開城となったあとも断乎(だんこ)降伏を認めず、会津田島の北西四里半喰丸(くいまる)、両原大芦(おおあし)、小中津川方面を転戦して、なんとか江戸へ援軍を求めにゆこうとした。

    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42)


     が、この戊辰の年の九月下旬は、新暦であれば十一月中旬に当たっていた。 夏服のまま戦っていた会津藩士たちは足袋(たび)、わらじも底をつき、元結はわらしべで結び、腰には帯代わりに荒縄を巻くという姿になりはてていた。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.42〜43)


     九月二十五日、ついにかれらは解兵を応諾。塩川村へ送られて謹慎生活に入った。 その後、塩川村謹慎組越後高田城下へ移送されたため、みたび名を改めて一戸伝八と称し、会津藩士を装っていた斎藤一もこれに同行したのである
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.43)


     さらに斗南藩が成立し、越後高田謹慎組からも斗南移住を決意する者が相つぐと、ともに死線をくぐった多くの会津藩士と別れるのをなお潔(いさぎよ)しとしなかったかれは、一戸伝八の名前のままこれに従い、三戸郡の五戸(ごのへ)村へ土着する途(みち)を選んだのだった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.43)


     いずれも剣に自信のある五人は羽織を脱ぎ捨て、刀を下緒(さげお)のたすきにして袴の股立(ももだち)を取ると、気配を殺して忍び寄っていった。 先頭をゆく常磐恒次郎は、早くも脇差(わきざし)を抜き放ったものの、その刀身に月影を映じさせてはならぬと右手を後手にまわして小腰をかがめていた
     「貴様ら、なにをしておる!
     ひと声叫んだ恒次郎が跳躍するのと、六つの半首笠が揺れるのは同時であった。
     「ぎゃっ
     恒次郎に脇腹を抉(えぐ)られたひとりは、ひとたまりもなくくずれおちる。 つづく佐川又四郎のすっぱ抜きに腰車を割られた男も、厭(いや)な呻(うめ)き声を発しながらがっくりと両膝をついた。
     しかしその間に跳びすさった四つの半首笠は、右肩から左肩へ流した紐(ひも)を吊(つ)っていた刀を一斉に抜いて夜目にも白々と右肩口に直立させ、左足を前に出した。 ほとんどの剣の流派は右足を前に出して構えるから、これは異様な構えである
     「薩摩の示現(じげん)流だ、初太刀(しょたち)を躱(かわ)して(ご)の(せん)を取れ!
     この流派の遣い手は、右八双からのがむしゃらな撃ちこみを外せばかならず〔たたら〕を踏む。 そう聞いていた又四郎は、刀を青眼につけながら叫んだ。
     だが、それが又四郎の命取りになった。
     「チェストォ!
     猿叫(えんきょう)と呼ばれる独特の気合を放った四人のうち三人までが、又四郎ひとりをめがけて撃ちこんできたのである。
     又四郎は刀身から火花を散らしながらよくその攻めをしのぎ、機を見て逆襲に転じようとした。 が、上体への攻めに気を取られ、両肘(りょうひじ)が上がりきりになったところへ存分な逆胴を喰らってしまった。
     「又四郎!
     それと見た恒次郎以下が猛然と斬りこんだので、
     「引け、引け
     隊長とおぼしき者の命令によって、四つの半首笠は彼方のに溶けこんでいった。
    (《明治無頼伝 第一章 脱獄》P.47〜48)


    第二章 会津藩士の娘

     「すまぬが、蓑笠(みのかさ)を取ってくれぬか
     とまだ前髪立ての盛之輔に呼びかけ、雪沓(ゆきぐつ)を履(は)こうとすると。
     「あら、一戸さま。 お出かけでござりますか。
     と、背後から声がきたのはこの時であった。 克子が奥の台所から湯気の立つ鍋(なべ)を手にして、囲炉裏部屋にやってきたのである。
     その背後には、時尾とお民も塗りの剥(は)げた箱膳(はこぜん)を持ってつづいていた。
     三人とも会津木綿の〔もんぺ〕に黒襟を掛けた綿入れ半纏(はんてん)という、会津滅藩以前であれば考えられない鄙(ひな)びた身なりであった。 だが、高木家の母娘はともに色白で器量よしなので、
     「掃溜(はきだめ)に鶴」
     ということばを思い出させる。
     「はあ
     一瞬間を置いて振返り、暗い部屋の中に白い夕顔の花のように揺れている三つの顔にむかって伝八は答えた。
     「ちと、三戸にゆかねばならぬ所用を思い出しましてな
     「ならば、昼餉(ひるげ)を召し上がってからになさりませ。 さ、盛之輔さんもおいでなさい
     「はい」
     盛之輔が元気よく答え、雪沓を脱ぎはじめたので、伝八も応諾したような形になってしまった。
    (《明治無頼伝 第二章 会津藩士の娘》P.56)


     「ところで高木家の皆さまは、戊辰(ぼしん)の年の九月二十二日以前は鶴ヶ城に入っておられたと聞いたが
     戊辰の年、すなわち明治元年九月二十二日は、会津(あいづ)藩が鶴ヶ城を開城し、官軍への降伏の儀式をとりおこなった日である。
     「はい、わたくしは母上さまや妹と一緒に、負傷者を看護したり弾薬を作ったりしておりました
     「では山本家のお八重(やえ)殿とか申す娘御と御一緒に、銃撃に加わったりしておられたのか
     「いいえ、お八重さまは砲術師範役の家のお生まれですから銃の使い方もご存じです。 でもわたくしには、とても銃は扱えません
     (そうか。 たしかお八重殿と申す女性(にょしょう)はなかなかの力持ちだと聞いた。 小柄な時尾殿に、重くて筒の長い銃はとても撃てまい)
     つまらぬ話題を持ち出してしまった、と柄にもなく伝八が困惑を感じた時、今度は時尾が背後から話しかけてきた。
     「でも、お八重さまが討死(うちじに)なさった弟の三郎さまの形見という男物の装束を身につけて、髪を断髪になさって出撃されるお姿はとても凛々しゅうございました。御城内でお八重さまに頼まれて、お髪(ぐし)を切って差し上げたのはこのわたくしなのです
    (《明治無頼伝 第二章 会津藩士の娘》P.62〜63)


     「ああ、そうでござったか
     ようやく会話がなめらかに進みはじめたのに安堵(あんど)した伝八は、
     「そのお八重殿が籠城の方々と猪苗代(いなわしろ)へ送られる前に詠じたという歌は、われら城外部隊が謹慎を命じられた塩川村にも伝わってきましたな
     とつづけ、声低く誦(ずん)じた。

      あすの夜はいづくのたれか眺むらんなれしみそらにのこす月かげ

     しかし伝八が、
     「胸をかきむしられるような歌ですな
     といおうとした時の、時尾の反応は異様であった。
     「そうです、わたくしも
     と時尾は、不意に激した口調になっていったのである。
     「わたしくもあの日、辞世一首を書き残して自害いたすべきでした
     (なにを突然、−−)
     驚いた伝八は、また振返って時尾を見つめた。
     だが時尾は、菅笠に顔を隠して歩みを停めてしまっている。 毛布に包まれたその両肩が小刻みに震えているのに気づき、かれはなすすべもなく白い息を流しつづけた。
    (《明治無頼伝 第二章 会津藩士の娘》P.63〜64)


     トンカラリ、トンカラリと聞こえてくるのは、機(はた)織の音のようである。
     (あれは、高津家のだれかが機を織っているのか。 とすれば高津氏も納戸部屋に押しこめられてあの音を聞いたに違いない)
     すべては分ったぞ、と伝八は思った。
    (《明治無頼伝 第二章 会津藩士の娘》P.72〜73)


     その三十分後、−−。
     伝八は高津八郎の住まい入口に佇(たたず)み、低い声で自分がやってきた理由を正直に告げていた。
     一戸伝八と名のった時、八郎は身構える表情になったが、
     「斎藤一改め山口次郎として戊辰(ぼしん)の年に会津入りし、ともに戦った新選組の生き残りでござる
     と挨拶すると、かれはすっかり安心して伝八を炬燵(こたつ)へ招き入れてくれた。
     その妹〔およね〕が白湯(さゆ)を運んでくれ、またつづきの部屋へ行って仲三郎の妻〔おたつ〕とともに機(はた)を織りつづける。 八郎の長女〔おすて〕と次女の〔おいと〕は、客がきたといって下がる部屋もないので、やむなくそのまま炬燵に座って縫物を再開した。
    (《明治無頼伝 第二章 会津藩士の娘》P.73)


    第三章 藤田五郎の誕生

     すると官兵衛は、
     「いや、からださえ元にもどっておれば、あやつが凍え死になどするわけがない
     と火に粗朶(そだ)をくべながらいう。
     「なにゆえに
     そうおっしゃるのか、と伝八が訊(たず)ねる前に、官兵衛はつづけていた。
     旧会津(あいづ)藩には、
     「会津五流
     と総称される、五つの剣の流派があった。太子流、安光流、真天流、溝口派一刀流、神道精武流
     うち仲三郎の学んだのは神道精武流の剣法であったが、この流派の奥義は剛より入って柔を知り、さらに剛に還(かえ)ることにある。 寒中の未明、積雪を裸足(はだし)で踏んで素振り百本をおこなったあと、そのまま鶴ヶ城の堀のまわりを十周することは当然の日課とされていた。仲三郎は長年このような稽古(けいこ)に耐えて神道精武流の奥義に達した男だから、雪に凍えることなどまず考えられないという。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.103〜104)


     「ならばよいのですが。 ところで佐川さまはこの四人をご存じですか
     といって、伝八は中根米七(よねしち)、堀内滝江黒河内(くろこうち)八三赤埴(はに)清の名を挙げた。 いずれも国許(くにもと)にいたころ仲三郎が懇意にしていた者として、高津八郎が口にした名前である。
     「うむ、よう知っておるのは中根米七殿だな。 たしか米七殿はおれより十一歳年上だと聞いたことがあるから、もう五十になったはずだ
     と前置きし、官兵衛はその横顔を教えてくれた。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.104)


     中根米七は、諱(いみな)を兼高(かねたか)。 旧会津藩で家禄三百石を受けていた中根源五右衛門(げんごえもん)の五男で、剣と柔術に秀で、太子流剣法の師範をつとめていた。
     幕末には官兵衛や仲三郎とともに京都にあり、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いにおいてはよく殿軍(しんがり)を果たした。 藩主松平容保(かたもり)に従って会津へ帰国したあとは、三十六歳から四十九歳までの藩士たちからなる青龍(せいりょう)隊に属して越後(えちご)口へ出陣。 鶴ヶ城籠城(ろうじょう)戦が始まってまもなく帰城し、奮戦したが、今はこの斗南(となみ)のどこかに移住しているはずだという。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.104〜105)


     三年前の慶応四年(一八六八)八月の籠城戦開始直前に一千石取りの家老職に大抜擢(だいばってき)された官兵衛は、以後城外諸兵の指揮官としてしばしば官兵たちの心胆を寒からしめ、
     「鬼官兵衛
     と恐れられた。
     しかし鶴ヶ城の開城、会津減藩とともにおのれを亡国の臣とみなした官兵衛は、わが事おわれりと思うあまり、おなじ家老職にあった山川浩からいくら懇望されても斗南藩庁に出仕するのを潔(いさぎよ)しとしなかった。 そのため、かれは自分の代わりに正をささやかな職につかせ、あえて赤貧に甘んじているのである。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.105)


     「知らねえなら教えてやらあ。井深元治とはな、二年前の七月、あの高津仲三郎らと談合しおって越後(えちご)街道束松(たばねまつ)峠に福井藩士久保村文四郎を待ち受け、斬殺(ざんさつ)いたしおって姿を消した一味のかたわれよ
     「ふむ
     と、今度は伝八がうなずく番であった。 そういえば、佐川官兵衛から仲三郎の閲歴を教えられた時、その名を聞いたような気がする。
     「その方、なぜ今時になって高津殿ではなく井深殿のことなど訊きまわりはじめたのだ
     伝八の問いに、軍司は急に〔むっ〕とした顔つきをした立ち上がった。
     「おい、口の利き方には気をつけろよ。 まあ貴様も正直に答えたようだから、いってやらあ。 井深が大阪あたりに潜んでいるという噂(うわさ)が流れてきたんでな。 その噂をわざと貴様にぶつけてみたのよ
     「ふん、そう聞けばおれが顔面蒼白(そうはく)にでもなると思ったか。 ご苦労なことだな
     と答えながら、そうか、と伝八は思っていた。
    (井深元治が大阪方面にいるのだとすれば、高津殿と中根殿もどこかで落ち合って大阪をめざしているのかも知れぬ。これはよいことを聞いた)
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.144〜145)


     しかし、安渡湊の浜辺で獲(と)る蛤(はまぐり)や〔こんぶ〕、〔わかめ〕などの海藻類がかれらを狂喜させた。日帰りで田名部からわずか半里のその浜辺に出かけ、裸足(はだし)で磯を歩いて砂の下を手足で探ると、は俵に入れて持ち帰らねばならないほど群棲(ぐんせい)していた。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.147〜148)


     山川浩は、もとの名を大蔵(おおくら)。 弘化二年(一八四五)生まれの二十七歳と伝八より一歳年下ながら、この人物は名家老として知られた山川兵衛(ひょうえ)の孫でもあったため、慶応年間のころからつとに令名高かった。
     慶応二年(一八六六)二十二歳の時には、唐太(カラフト)(樺太)の国境画定協議のためロシアにゆく幕府外国奉行小出大和守秀美(やまとのかみひでみ)に随行。 ヨーロッパ諸国とパリ万国博覧会を視察したことによって世界情勢への蒙(もう)を啓(ひら)かれ、攘夷熱の愚かしさを悟った。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.148)


     慶応四年正月三日に始まる鳥羽伏見の戦いの時から洋式軍服を愛用していた浩は、国許(くにもと)会津へ撤退後は日光口の守備を担当。 八月下旬、白河口を抜いた官軍が若松城下に殺到したと聞くや、梅の枝に用所役人小川伝吾の詠んだ左の和歌を結んで日光口官軍への訣別(けつべつ)の辞とした。

      時ありてしばしはひけど梓弓(あずさゆみ)もとの手ぶりにかへさざらめや

     その退(の)き口のみごとさは、武士(もののふ)の心を知る一部の官兵たちを感服させるに足るものであった。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.148〜149)


     「やあ一戸さん、よくぞまいられた
     旧会津藩の軍服であった青ラシャの詰襟服を今もまとっている浩は、肉薄く鼻筋の通った顔だちに笑みを浮かべて迎えてくれた。
     鳥羽伏見の戦い以前、浩は松平容保の奏者番(そうじゃばん)として京にあった。 だから伝八とは、新選組時代からの顔見知りなのである。
     若松へ兵を引いて以降、日光口の防備にむかった浩に対し、斎藤一から山口次郎へと名を改めた伝八は、負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、白河口へ出撃した。 その出撃前の戦評定(いくさひょうじょう)には、ともに出席した仲でもある。
    (《明治無頼伝 第三章 藤田五郎の誕生》P.151)


    第四章 謀叛の気配

     水ぬるむ季節となって以来、いつも時尾ははだしで立ち働いてきた。 ある時伝八が不思議に思い、
     「そなた、おれの足袋(たび)は縫ってくれるのに、なぜ自分のは縫わぬのだ。布地がないのか
     と訊(たず)ねたことがある。
     すると時尾は、おだやかにほほえみながら答えた。
     「いいえ、縫物をするのは好きですけれど、会津(あいづ)藩の者は冬でも足袋を履かぬように、と幼い時から教えられているのです
     他出して火桶(ひおけ)や手あぶりを出された時も、片手をかざすだけで、決して火の上に上体をのしかけてはならない。そう教育されているから、会津の女は寒さには強いのです、とも時尾は語ったものであった。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.155)


     「お手前、失礼ながら昨年暮れに斬に処された雲井龍雄(たつお)については、どの程度ご存じか
     「いや、拙者はそのころから高津殿のことにかかずらっていて、ほとんど存じておらぬ
     藤田五郎となったばかりの一戸伝八が答えると、
     「ではちと迂遠(うえん)のようながら、雲井龍雄の起そうとしていた事件の概要から御説明しましょう
     と浩はつづけたのだった。
     「雲井が練っておったのは政府転覆の陰謀だったのですが、その同志には、実は旧会津藩士たちも少なからず混じっていたのです
     そう語りはじめた時、浩の肉薄く鼻筋の通った顔だち、やつれからやや窪(くぼ)んでいる二重瞼(ふたかわめ)に苦渋の色が浮かんだのを、藤田五郎は見逃さなかった。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.158)


     米沢(よねざわ)藩士雲井龍雄の名は、藤田五郎も知らないわけではなかった。
     弘化元年(一八四四)の生まれ、もとの名を小島龍三郎といったこの一代の風雲児は、鳥羽伏見(とばふしみ)戦争勃発(ぼっぱつ)直後、
     「奥羽同盟によって、薩長(さっちょう)同盟を破砕する
     という壮大な計画を練ったことによって知られた。
     慶応四年(一八六六)五月、正式に奥羽列藩同盟が締結されたあと、この同盟の大義を理論化して示したのもかれであった。
     古今の檄文(げきぶん)の白眉(はくび)といわれたその作、「討薩檄(とうさつのげき)」にいう。
     ……薩賊、多年譎詐(きっさ)万端、上は天幕(天皇と幕府)を暴蔑(ぼうべつ)し、下は列侯を欺罔(ぎもう)し、内は百姓(ひゃくせい)の怨嗟(えんさ)を致し、外は万国の笑侮(しょうぶ)を取る。その罪、何ぞ問わざるを得んや。
     薩賊、ほしいままに摂家華族を擯斥(ひんせき)し、皇子公卿(くぎょう)を奴僕(ぬぼく)視し、……綱紀錯乱、下凌(しの)ぎ上替わる……その罪、何ぞ問わざるを得んや。
     伏水(ふしみ)(鳥羽伏見の戦い)のこと、元暗昧(あんまい)、私闘と公戦と、いずれが直、いずれが曲とを弁ずべからず。……しかるを倉卒(そうそつ)の際、にわかに錦旗を動かし、ついに幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫(きょうはく)して征東の兵を調発す。 これ王命を矯(た)めて私怨(しえん)を報ずるゆえんの姦謀(かんぼう)なり。その罪、何ぞ問わざるを得んや。
     薩賊の兵、東下以来過ぐるところの土地侵掠(しんりゃく)せざることなく、見るところの財剽竊(ひょうせつ)せざることなく、……なおかつ靦然(てんぜん)として官軍の名号(めいごう)を仮(か)り、太政官(だじようかん)の規則と称す。……その罪、何ぞ問わざるを得んや。
     ……ここにおいて敢(あえ)て成敗利鈍を問わず、奮ってこの義挙(奥羽列藩同盟)を唱う。およそ四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こいねがわく)は我が列 藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国のために共に誓ってこの賊を屠(ほふ)り、もって既に滅する五倫(君主の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)を興(おこ)し、既に●(やぶ)るるの三綱(君臣・父子・夫婦の道)を振るい、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救い、外は万国の笑侮を絶ち、もって列聖在天の霊を慰めたてまつるべし。……およそ天下の諸藩、庶幾は勇断するところを知るべし
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.158〜160)


     この文筆と弁舌の才によって奥羽越列藩中にその名を知られたかれは、いよいよ明治新政府軍が奥羽に浸透しはじめるや、
     「南進挟撃策
     を主張した。
    自分は敵の背後へ潜行して兵を募り、奥羽越列藩同盟軍とこれを挟撃する、というのである。
     そしてかれは、旗本羽倉鋼三郎会津藩士原直鉄(なおてつ)、日光山の佐幕僧桜正坊(おうしょうぼう)隆那前橋藩士屋代由平(よしへい)らとともに上野(こうずけ)国へ潜入。 慶応四年八月十三日には赤城山麓(あかぎさんろく)の小川村へ入り、沼田藩を口説こうとした。
     しかし新政府軍に不意を打たれ、羽倉鋼三郎、桜正坊隆那、屋代由平は旅館で斬死。 原直鉄は会津へ、雲井自身は失意のうちに米沢へ帰ったが、米沢藩はこの時すでに列藩同盟からの離脱と新政府軍への降伏を決定したあとであった
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.160)


     だが雲井龍雄薩長勢打倒にかける情熱は、その後も衰えることを知らなかった。
     明治二年八月に東京へ出たかれは、まもなく原直鉄と再会、幕末以来の同志約三百五十名とも連絡をとりあい、新政府を転覆するためにいずれ挙兵に踏み切る、という一点で意見を一致させた
     次に雲井がひねり出したのは、まことに策士らしい方法であった。 芝二本榎(しばにほんえのき)の上行(じょうぎょう)寺と円真寺を借り、
     「帰順部曲(ぶきょく)点検所
     の看板を掲げたかれは、この方面の警衛を担当していた伊予吉田藩に対し、こう申し入れた。
     「戊辰(慶応四年)のおりに私が募った私兵たちは、なおも私を頼りにしております。 今の私にはかれらを徒食させる力はありませんが、無理に解散させればその多くは路頭に迷い、ある者はみずから縊(くび)れ、ある者は自暴自棄の徒と化すでしょう。 私もかれらを説いて正業に就くよう努めてはいますが、なかなか進捗(しんちょく)せぬうちに財力もつづかなくなってしまいました。 かれらを一括して、政府の傭兵(ようへい)として採用してはいただけませぬか
     「部曲
     とは、中国の漢から南北朝の時代にかけて軍隊、あるいは兵士を意味したことばである。
     もしも政府がこの提案を奇貨として帰順部曲を常備軍に編入すれば、一党は与えられた銃砲によって武装蜂起(ほうき)する。 拒まれればひそかに東京を去り、日光方面に挙兵して全国の不平党の呼応をうながし、勢いに乗じて東京へ進撃する、という二段構えの戦略であった。
     しかし、東京府大参事大木喬任(たかとう)は、雲井の申し立てを鵜呑(うの)みするほど甘くはなかった。 帰順部曲たちの素姓を洗ったところ前科者が多かったため、大木の報告を受けた新政府はかれらを正規兵には採り立てないことにしたのである。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.160〜161)


     ところがこの時、元治のもとにとんでもない風聞が舞いこんだ。
     「久保村文四郎殺害の首謀者は、すでに刑せられた。 政府は、このほかに犯人の一味を詮索(せんさく)しない方針である
     というのである。
     「これは、あるいは政府の密偵が仕組んだ罠(わな)だったのかもしれませんな。玉乃殿はそこまでは書いていないが、どうもわたしにはそう思えます。いずれにしても
     と自分の感想をはさんで、はつづけた。
     ……これを聞き、その裏づけも取らずに喜んでしまった井深元治は、これからまた世に出て公然と働ける、と考え、倉屋敷を売りはらって金に換え、東京へ出た。
     そして知人の紹介で横浜の高島学校に入学し、洋学を学びはじめた。 高島学校とは、のちに易学者として名声を馳(は)せる高島嘉右衛門(かえもん)が、明治三年に設立した私立学校である。
     ところが元治は、かつてわずか二十人のみの民政局取締のひとりとして若松在陣官軍にひろく顔を知られていた。 やがてその旧罪を密告する者があり、縛させるところとなったのだという。
     そう語って、浩は嘆いた。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.165〜166)


     「井深元治は今年まだ二十三歳だ。 その井深がなにも隠すことなく語るところを見て、玉乃殿はこう感嘆したそうですよ。『先に鈴木式部あり、いままたこのひとを見る。ああ、何ぞ会津に志士の多いことよ』と。 わたしもまったく同感です
     「その鈴木式部という御仁も、旧会津藩でござるか」
     「そうです。 わたしは幕末に京にあったころからよく知っていましたが、式部はとてつもない美少年でした」
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.167)


     浩はよく晴れた空を見上げ、往時をなつかしむように遠いまなざしをした。
     鈴木式部は、
     「女装すれば、京の芸妓(げいぎ)たちもはだしで逃げ出すだろう
     といわれたほどの白皙(はくせき)の美貌(びぼう)の持主で、
     「会津敦盛(あつもり)」
     とまでいわれていた。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.167)


     文久年間、十九歳で京に赴任し、物頭(ものがしら)となって東山(ひがしやま)黒谷の会津藩本陣金戒光明(こんかいこうみょう)寺の僧房のひとつに起居していた時には、禁門守衛のために往復する道筋にある茶屋の娘が式部をひたむきに思いつめた。 それでも式部が相手にしなかったので、娘はついに狂を発して座敷牢(ろう)へ入れられてしまったほどであった。
     この式部は、知人を介して横浜弁天通り薬種商源太郎という者のもとに厄介になったかれは、井深元治同様洋学を学び、やがて洋行を思い立った。
     まもなく源太郎が病死してしまい、後家となったその妻に幾度となく言い寄られたものの、式部は色をなして怒るばかりであった。
     「わたしは、亡き源太郎殿への恩義を思って店を手助けしているのです。 そのわたしを、色情をもって陥れようとするとはなにごとですか!
     そのころ、式部はこう思いつめていた。
     (自分は亡国の臣である以上、薩長(さっちょう)政府の官費によって留学することなどは断じてできぬ。 するなら、独力で洋行してみせる
     しかし、金策はどうにもままならなかった。 思い余った式部は、意を決して貨幣贋造(がんぞう)に走ったらしく、それが露見して捕われ、まもなく獄死して果てたという。
     「ほほう、その鈴木式部という御仁は、『渇しても盗泉の水を飲まず』を地で行ったわけですな
     汗の引いた五郎が、腰に巻きつけていた小袖(こそで)に袖を通しながらいうと、浩は唇を引き締めてうなずいた。
     「さよう。 その後家と所帯を持ちさえすれば洋行費用もたやすく捻出(ねんしゅつ)できたのに、式部はあえてそれをおこなわず、官費留学も考えなかった。 玉乃殿は、その意気を良しとして下さったのでしょう。 ともあれ、次々に同郷人が捕われるのを報じられると、胸が痛むのをどうしようもありません
     「お察し申す
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.167〜168)


     (鈴木式部とやらは、獄死せずともやがて斬刑に処されたところであろう。 その定めは、まず井深元治もおなじこと。 獄死してしまった方が、刑場の露となって亡骸(なきがら)を野犬や鴉(からす)の類(たぐい)に食われぬだけましかも知れぬ。いずれにしても、まだまだ戊辰(ぼしん)のいくさは跡を曳いているのだな
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.168)


     最後の会津藩主松平容保(かたもり)は、鶴ヶ城開城後東京へ護送され、明治元年十月七日以降、因幡(いなば)鳥取藩主池田慶徳(よしのり)邸に永預(えいあず)けとされた。
     翌年十一月七日、紀伊和歌山藩主徳川茂承(もちつぐ)に預け替えとなったかれは、この四年三月十五日、水戸(みと)徳川家から養子にもらい受けていた喜徳(のぶのり)十七歳とともに斗南へ再度預け替えとなって、事実上罪を許されたのである
     時に容保、三十七歳。 その後かれが腰を落ち着けたのは、斗南藩邸として下腸されていた外桜田の旧河内(かわち)狭山(さやま)藩邸であった。
     この時すでに、容保の意を体して凄絶(せいぜつ)な会津戊辰戦争を戦い抜いた家臣たちの多くは、斗南藩各地に移住している。 そこで容保も斗南行きを考えはじめ、なんとか便船を探して七月中田名部(たなぶ)へゆくことにしたのだった。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.170)


     しかしかれを迎える前に、斗南藩は解体される運命にあった。七月十四日、政府は廃藩置県の詔書を発布したのである。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.170)


     山川浩たちも、早速田名部の円通寺に掲げていた看板を、
     「斗南県庁」
     と書き改めたが、同時に政府は斗南県に訓令を与えた。
     《人事を尽くし、一統開墾方精励、実効きっと顕(あら)われ候(そうろう)よう心懸けよ
     この文面には、政府の深い意図が見え隠れしていた。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.171)


     斗南藩の石高は瞑目こそ三万石であったが、それは政府の真っ赤な嘘(うそ)で、実際には雑穀をかき集めても七千石程度にしかならない。
     (これでは自給自足体制をととのえるには何年かかるか分からぬ
     と思って愕然(がくぜん)とした浩は、政府と幾度も交渉し、斗南藩成立直後に救助米三万石、明治三年七月に玄米千二百石と金十七万両、おなじく九月に一万五千石を引き出すことに成功していた。
     そこへもたらされたこの訓令は、
     「もはや援助はしない
     との通告にひとしい

    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.171)


     では斗南県は今後どうなるのか、と考えた時、もっともあり得るのは他県と合県させられることであった。 斗南県が地上から消滅すれば、旧会津藩士すなわち斗南藩士もことばの上ではこの世に存在しないことになる。
     (今もわれらを賊徒、朝敵呼ばわりする政府のやりそうなことだ
     権(ごんの)少参事広沢安任(やすとう)その他と対策を練った結果、浩たちは奇抜な結論にたどりついて。 かれらは、斗南県側からも合県運動を起こすことにしたのである。 その論拠は、
     「貧しい八戸(はちのへ)県や七戸(しちのへ)県と合併させられては、とても旧藩士たちの自立は期待できない。 ならばいっそ、津軽(つがる)平野を持つ弘前(ひろさき)県や、旧津軽藩の支藩だった黒石県と合県した方がよい
     という一点に存した。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.171〜172)


     官兵衛山川浩が相談し、容保が承諾した結果、藤田五郎高木時尾との祝言は、二十六日に円通寺でおこなわれることになった。

     二十六日という日が選ばれたのは、このころはまだ旧幕時代以来の、
     「一六(いちろく)休暇
     すなわち一と六のつく日を休日とする制度が一般的だったからである。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.173)


     五郎が自分の席を立って祝いのことばを述べにやってくる者たちと献酬を重ねていると、
     「せっかく祐堂さまがおすこやかなお姿をお見せ下さっているのです。 藤田・高木両家のみならず松平家の御繁栄をも願いたてまつって、拙者も吟詠をつかまつる
     と大声でいい、ゆらりと下座に立ち上がった男がいた。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.175)


     永岡久茂、三十二歳。広沢安任(やすとう)とともに斗南県権少参事の職にあり、山川浩の片腕として働いている人物である。
     この永岡は、かつて旧幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に学んだこともある秀才であり、旧会津藩が籠城戦に踏み切ったころ、援を乞うべく仙台へ出張。 その戦意のなさに失望して帰国する途中、白石城下を過ぎた時に賦した七言絶句によって知られていた

      一木支へ難し大廈(たいか)の傾くを
      三州の兵馬乱れて縦横
      羈臣(きしん)空しく灑(すず)ぐ包胥(ほうしょ)の涙
      落日西風白石城

     自分を戦国時代の楚(そ)の国の救国の英雄申(しん)包胥になぞらえたものの、思うようにならなかった哀切の情を詠じた作柄である。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.175〜176)


     しかし永岡が秀でた額、整った風貌(ふうぼう)を見せて吟じはじめたのは、自作ではなかった。
     「秋月先生のお作『北越潜行の詩』であります
     と前置きし、かれが両眼を閉じて誦(ずん)じたのは次のような漢詩であった。

      行くに輿(こし)なく帰るに家なし
      国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
      治、功を奏せず戦ひ略なし
      微臣罪あり又何をか嗟(なげ)かん
      聞説(きくならく)天皇元より聖明
      我が公の貫日至誠より発す
      恩腸の赦書は応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし
      幾度か手を額にして京城を望む
      (これ)を思ひ之を思へば夕晨(ゆうべあした)に達す
      愁ひは胸臆(きょうおく)に満ちて涙は巾(きん)を沾(うるお)
      風は淅瀝(せきれき)として雲は惨憺(さんたん)たり
      (いず)れの地に君を置き又親を置かん

     永岡久茂が吟詠を始めた時、まだ一座はざわめいていた。
    しかしその声が熱を帯びるに従い、一座は水を打ったように静まり返った。 一同はことごとく盃から手を離し、その手を袴の膝に据えて、頭を垂れ目を閉じてこの絶唱に聞き入った。
     旧会津藩士であれば、この詩を知らぬ者はいなかった
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.176〜177)


     作者の名は、秋月悌次郎(ていじろう)。 会津藩の開場式のいっさいを取しきり、猪苗代(いなわしろ)謹慎組に割り振られたあとはひそかに旧知の長州藩参謀奥平謙輔(けんすけ)と連絡し合い、会津の血を絶やさぬため俊英をもって鳴る少年藩士ふたりをその手に託して帰ってきた人物である。
     奥平はすでに会津領内から越後へ引き揚げていたため、秋月は少年ふたりをつれて越後まで潜行しなければならなかった。 そして、少年ふたりを無事送り届けたあと、かれは孤影悄然(しょうぜん)と猪苗代へ帰ってこなければならなかった。
     その旅の途中に賦したのがこの作で、斗南にあっても、
     「たれかがこの詩を詠じるのを聞いて、落涙しない者はかつていない
     とまでいわれていた。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.177)


     かれらが斗南ヶ丘を離れる機会は、思いがけない早さでやってきた。
     そのきっかけは松平容保、容大、喜徳の三人が、まもなく東京へ向かわねばならなくなったことにあった。
     廃藩置県の詔書を発布し、それまでの「藩」を「県」と言い換えただけでは、目標である中央集権化の実効は挙げ得べくもない。
     そう考えた政府は、各県には官選の知事を派遣し、代わりに従来の知藩事を東京の旧藩邸に住まわせることによって、旧藩士と旧家臣団との絆(きずな)を地理的にも断ち切ってしまうことにした。 この大方針に従って、容保たちもふたたび東京へ戻らざるを得なくなったのである。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.181)


     明治改元に先立つ慶応四年(一八六八)七月、新政府は帰順を誓った旧幕臣たちの家屋敷は除き、徳川家臣団の住まうそれはことごとく没収、その合計面積は千六百六十九万二千余坪と、東京府全面積の六割にまで達した。
     おって官庁用地に転用された屋敷以外には「桑茶政策」がとられ、家をとりこわして桑畑、茶畑とすることが奨励された。 ところが明治二年から三年にかけて桑茶の七、八割は枯れ死んでしまい、あとには目路のかなたまでつづく荒れ果てた土地のみがとりのこされたのである。
    (《明治無頼伝 第四章 謀叛の気配》P.185)


    第五章 新たな敵

     「さあ、さっきの質問にとっとと答えろ。 答えぬならば、貴様ばかりか女房子供も路頭に迷うことになるぞ
     意外だったのは、久茂が、しゃべらないなら酒を一升でも二升でも無理矢理呑(の)ませてやるからな、とつづけたことだった。
     「邏卒どもは、五節句以外には酒を一滴も呑んではならぬそうだな。 なのに下っ引きの貴様が、ぐでんぐでんになって屯所に帰ったらどうなる。 報告が怪しまれるだけではなく、その場でお払い箱になるのは目に見えているとは思わぬかね
     この言い種(ぐさ)には、五郎も書生たちも思わず笑ってしまった。
     しかし、下っ引きは必死であった。 失職は、かれにとっては賭場(とば)や不正な商店(あきだな)その他からの目こぼし料にも与(あずか)れなくなることを意味する。
     「わ、分かりやした。 申し上げますとも
     懸命にうなずいた下っ引きは、久茂が胸ぐらをつかんでいた手をゆるめるのを待って、すらすらとしゃべり出した。
     「お察しのとおり、あっしが行方を追うようにいわれているのは、高津仲三郎という元会津藩士でござんす。 なんでも御一新のあと会津の方で侍ひとりを殺し、一度青森の方でつかまったのに牢を破って逃げおおせたとかいう説明でござんしたが、一月半ばにこの人相書きに似た髭だらけの士族が浅草をまだ二本差しで歩いていたのを見掛けた、という知らせが入ってから、あっしは連日浅草通いをいいつけられやして
     「で、貴様、見つけたのか
     思わず五郎が口をはさむと、へい、と下っ引きは答えた。
    (《明治無頼伝 第五章 新たな敵》P.232〜233)


     この九段招魂社−−今日の靖国神社−−は、明治二年六月、三番町歩兵屯所跡に置かれたもので、戊辰の戦いに命を散らした官兵三千五百八十八柱の霊を祀(まつ)り、政府から永世一万石を寄付されている
    (《明治無頼伝 第五章 新たな敵》P.242)


     「よお、頼んだぜ
     俥夫が振りむいて答えると、
     「よしきた
     と答え蓬髪髭(ほうはつひげ)だらけの男たちは、掛声をかけて人力車の後押しを始めたのである。
     「立ちん坊
     という、旧幕のころからいる小銭稼ぎの者たちであった。
     九段坂はあまりに急勾配(きゅうこうばい)なので、荷車や大八車は坂下から坂上へ達し切れずに立往生してしまうことがある。 坂下にこれを待ちかまえ、尻押しをする商売が成立したのはそのためだが、人力車の隆盛以来、立ちん坊どもは俥夫から俥賃(くるまちん)のおこぼれをもらうことに狙いを切り換えていた。
    (《明治無頼伝 第五章 新たな敵》P.242〜243)


     だが五郎は、とてもこの夜桜を愛(め)でる気にはなれなかった。
     (若松に屍(しかばね)を曝(さら)した会津藩士とその家族数千名、および会津援軍の男たちが、雪解(ゆきげ)の季節がきたとて埋葬を許されず、野犬雀鴉(じゃくあ)の啄(ついば)みに任せられたのはまだわずか三年前のことではないいか。 その士道に悖(もと)る非道の振舞を憎んだからこそ、高津殿や伴百悦(ばんひゃくえつ)殿は久保村文四郎に天誅(てんちゅう)を加えただけなのに、会津の婦女を犯し、捕われた藩士たちを嬲(なぶ)り殺しにしたやつらがこんな立派な待遇を受けているとは
     と思うと、五郎は改めて怒りがこみ上げてくるのを覚えた。 かれが唇を噛みしめて前方の闇のみを見つめていると、柄頭(つかがしら)に置いた左手の甲に時尾が白い手を重ねてきた。
     (ああ、時尾もおなじことを考えていたのだな
     思わず五郎は、時尾のふくよかな横顔に目をやった。しかし、
     (どこの馬の骨とも分からぬ者たちの注文に応じ、旧会津藩大目付の娘だった時尾が、日々の賃仕事で口に糊(のり)しているとは
     と考えると、やはり五郎は口惜しくてたまらなくなる。
    (《明治無頼伝 第五章 新たな敵》P.243〜244)


    第六章 西へ下る影

     これはつい最近新聞で読んだことだが、目下政府は、これまであるひとりの人物の姓名として併用されていた通称実名(いみな)、名のり)のうち、実名のみをもって姓名とするように、という運動を進めているとのことであった。
     たとえば維新回天とともに新政府参議となった大久保一蔵木戸準一郎は、実名によって大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)と名のることもある。 これがある特定の文書中に併用されたりすると、大久保、木戸姓の顕官がふたりずついるように見えて紛らわしいので、大久保利通、木戸孝允としか名のるな、というわけである。
    (《明治無頼伝 第六章 西へ下る影》P.258)


     「か、か、海賊だ。ちょ、長州の奇兵隊くずれどもが襲って来くさった
     「なに、長州の−−
     と、反射的に繰り返したとき、五郎は、
     (あ、との者どもか)
     と思い当たってギョロ目を光らせていた。
     この二月に永岡久茂を訪ねた時、久茂は明治二年一二月に勃発した長州諸隊の脱退騒動について解説を加えてくれた。
     「近頃わたしが調べたところですと、明治三年の八月から十一月にかけての間にも、長州藩庁は十二人、十一人、九人と反乱軍の残党を捕え、問答無用で梟首(きょうしゅ)していた。 はなはだしきに至っては、二十八人まとめて梟首したこともあったのです。 去年の十月までは、この追及を逃れて瀬戸内海や九州各地に走り、再起を図る動きもつづいていたといいます……
     つづいていた、のではない。 再起の希望も失って瀬戸内の各所に点在する無人島に潜んだ残党の一部は、食うために海賊と化して今も活動していたのである
    (《明治無頼伝 第六章 西へ下る影》P.290〜291)


    第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘

     加代の掘立小屋で焼酎(しょうちゅう)を酌みかわした夜、九八郎は最後にこういったのだった。
     「今おれたちは、あらゆる〔つて〕をたどって堀川局がどこにおるのか探りはじめている。 首尾よくこの女を引っ捕らえ、この日記の裏づけが取れたならば、山口県庁に談じこんでやるのじゃ。 『おれたち脱走者をすべて無罪放免と認めぬかぎり、右大臣岩倉具視(ともみ)の先帝弑逆の大罪を暴いて欧米列強の公使館にも知らしめ、その岩倉と結託して藩閥政治に走っておる長州毛利家の罪をも問うてくれる』とな。 御家人上がりのおぬしに訊ねたかったのは、もしおれたちがこのように動き出したならば、どれくらい世間の耳目が集まると思うか、ということじゃ
     「そりゃあ元幕臣たちは、跳び上がって快哉(かいさい)を叫ぶだろうな
     五郎は答えたが、その時はただ、
     (やはりこやつ、ただの海賊ではないな。 面白いことを考える男だ
     と思っただけだったので、あとは雑談に流れた。
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.317)


     しかし、なにもすることのない日々が流れはじめ、海辺を散歩しながら何度も反芻(はんすう)してみると、もしも九八郎の野望が実現した暁には、旧会津藩士たちにも曙光(しょこう)が見えてくるのは確実と思われてならなかった。
     第一に、天皇を毒殺して恥じない者こそ真の逆賊なのだから、その逆賊と手を結んで戊辰のいくさに勝ちを制した者たちは、官軍を僭称(せんしょう)して国を奪った賊徒ども……すなわち官賊だったということになる
     するとこの官賊と戦ったがために、今日なお賊徒、朝敵の汚名を着せられて屈辱と貧しさに喘(あえ)ぎ続けている元東軍の者たちこそ、正義の兵であったということになるであろう。
     ならば、減藩ののちわずか名目三万石のみの封土しか与えられなかった旧会津藩をはじめ、奥羽越列藩同盟に加わったがゆえにのきなみ削封(さくほう)された諸藩は、いわれなき処遇に抗議する権利を有することになる
    、−−。
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.318)


     その間に五郎が九八郎から依頼されたのは、ともに出撃することではなく、男たちに剣術を教えることであった。
     「お安い御用だ
     五郎は素面素籠手(すごて)で防具に固めた男たちと幾度も立ち合ってやったが、男たちの竹刀(しない)は五郎のそれに掠(かす)ることもできなかった。 旧武士階級の出身ではなく、操銃法しか知らないかれらは、スペンサー銃を持たないかぎりとても五郎の敵ではなかった。
     それでもかれらは竹刀稽古(げいこ)を島にいる時の暇つぶし程度にしか考えていないらしく、五郎に乞(こ)うてさらに稽古を進めようとするものはひとりもいなかった。
     そのうちに秋風が吹きはじめ、一気に明治六年がきた。
     太陽暦が採用されることになったため、明治五年は十二月二日をもって打ち切られ、十二月三日が明治六年の元旦とされたのである
     (これでは時尾も、いよいよ気が気ではなくなっているだろう
     五郎も、いい加減にこの島から抜け出さねば、と真剣に考えるようになった。
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.324)


     五郎がめまぐるしく頭を働かせていると、軍司は破れかぶれになって言いつのった。
     「しかもこやつは元の名を斎藤一(はじめ)といって、新選組の三番隊長だった野郎だ。長州人を何人斬ったか知れやしねえし、長州と結んでいた伊東甲子太郎(かしたろう)と高台寺党の様子を探り、おびき出して新選組に皆殺しにさせたのもこやつのしわざだ。 去年も東京で三人斬りを仕出かしたやつだから、こんな野郎を匿(かくま)っているとますます罪が重くなると思え。 どうしてこやつをほうっておいて、おなじ戊辰の官軍仲間のおれをこんな目に遭(あ)わせやがる
     このせりふに、海賊たちは一斉にどよめいた。
     「なに、新選組だと
     という声も挙がったところを見ると、男たちのなかには当時の新選組の市中見廻りで手ひどい目に遭わされた者もいるらしい。
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.333)


     「こやつの言い分は本当か
     九八郎も、不意に刺すような視線をむけてきた。 五郎は、それを平然と受け止めて口をひらいた。
     「ああ、本当だ。 しかし落着け。 新選組はあの戊辰のいくさにほとんど死に絶えたが、勝ち残った長州藩は、帰国後反乱をおこしたおぬしらの同志三十四人をたちどころに斬首し、百二十人に詰め腹を切らせたではないか。 その後も何十人となく捕えては梟首(きょうしゅ)しつづけていると申すに、おぬしらはまだその藩庁の肩を持つつもりか
     五郎は、かつて永岡久茂から聞いた数字を並べ立てただけであった。
     しかし、このせりふは利いた。
     「いわれてみれば、そのとおりじゃ
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.333〜334)


     古代ローマ以来軍艦というものは、艦首の喫水下に、
     「衝角(ラム)
     と呼ばれる巨大な鋼鉄製の突出部をそなえている。 敵船に急接近した場合には、砲撃からこの衝角を相手の船体に突き刺す「衝角戦法」に切り替えて撃沈を図る、というのが海戦の常道なのである。
     たとえこの衝角がなかったところで、わずか七挺櫓、笹の葉型の押し送り舟に排水量四、五百トン級の軍艦が艦首をぶつけてくれば、押し送り舟は大八車に轢(ひ)かれた卵のように砕け散るであろう。
    (《明治無頼伝 第七章 御五神島(おいつかみしま)の決闘》P.351〜352)


    第八章 佐賀の乱

     そのうち「こくらみち」の方角を示す指印に従って北へ折れ、長瀬町に入ってゆくと、正面に広場をへだてて赤レンガ造りの巨大な煙出しつきの洋式建築物と付属の建物群が眺められた。
     −−築地(ついじ)の反射炉
     天保(てんぽう)元年(一八三〇)、十七歳にして佐賀三十五万七千石の第十代当主となった鍋島(なべしま)肥前守直正(なおまさ)は、みずからオランダ船に試乗するかたわら、家臣たちに蘭学や洋式軍事学の習得を奨励。 嘉永(かえい)二年(一八四九)から三年にかけて、三歳の次男淳一郎(直大(なおひろ))と十歳の長女貢姫(みつひめ)に種痘(しゅとう)を接種させ、
     「蘭癖(らんぺき)大名
     の異名をとったきわめて開明的な人物であった。
     同六年、この築地の地に大銃製造方を置き、反射炉による鉄製大砲の鋳造に着手したかれは、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)−−藤田五郎が斎藤一(はじめ)と名のって新選組副長助勤となったころ、当時最新式といわれていた英国式アームストロング砲の製作に成功。このアームストロング砲の強力無比な砲火は、慶応(けいおう)四年(一八六八)五月十五日、上野東叡山(とうえいざん)にこもった彰義隊を一日にして潰滅(かいめつ)に追いこみ、その後会津の若松城下に運ばれて鶴ヶ城の天守閣にも撃ちこまれたのだった
     「佐賀藩のアームストロング砲
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.356)


     これだけは失(な)くしてはならぬと考えて肌身離さずにいたのだろうか、時尾は紺地秋草模様の小袖の帯から封書を抜き取り、五郎の前へすべらせた。
     この時代の封書は、書状切手を封筒の裏側に貼る決まりになっている。 五郎が手に取ってその裏側を改めると、差出人の住所氏名は、
     《若松県耶麻(やま)郡大都(おおつ)村 長福寺内 佐川官兵衛
     と流れるような筆遣いで記されていた。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.362)


     追而(おって)。
     貴殿九州下向の際は、近く東京へ出府いたす旧藩士に下拙儀の転業資金の一部を託し候間、路銀となさるべく候。
     かつまた貴殿旧知の山川浩君儀、本年三月陸軍少将谷干城(たてき)君の推輓(すいばん)により陸軍省へ出仕、この七月熊本鎮台在勤申しつけられりとうけたまわり候。 その義弟小出(こいで)光照君は佐賀県権令(ごんれい)岩村道俊(みちとし)君に見出され、おなじくこの七月より大属(だいさかん)として佐賀県庁に奉職しあれば、火急の時にはこの両君を頼み入るべく候。以上。

    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.363〜364)


     もうふた昔も前のことだが、会津藩には自他ともに、
     「近世の槍の名人
     と認めた宝蔵院流槍術の天才的な遣い手がいた。志賀小太郎、諱(いみな)を重則。
     奥羽越のどの地方に廻国(かいこく)修業の旅に出ても負けを知らなかった志賀小太郎は、弘化(こうか)元年(一八四四)三十二歳の時、高弟たちを従えて山陽道、西海道方面を遍歴。一年あまり萩城下に腰を落着け、初めて長州人に宝蔵院流槍術の奥義を伝えた
     かれは梨の種のように顔色が黒く、その上〔あばた〕面であったことから、
     「鬼小太郎
     と渾名(あだな)されていた。 その鬼小太郎の入神の技の数々は、この時ゆうやく西国諸藩に知れわたったのである。
     会津へ帰国したあと、小太郎は町道場を営むかたわら藩校日新館の武学寮槍術師範をつとめ、このころ入門した日新館の学生(がくしょう)のひとりに、まだ二十歳(はたち)前の高津仲三郎がいた。 町道場の方へは萩藩を中心とする西国諸藩からの留学生が引きも切らないありさまだったが、若き日の中西七三もそのなかにふくまれていた。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.370)


     ところで旧肥前佐賀藩は、薩摩、長州、土佐の三藩とともに、
     「薩長土肥
     と世に謳われてはいたが、戊辰戦争における武勲にさほどのものはなかった。
     わずかに最新鋭のアームストロング砲が注目を集めたという程度のことで、戊辰戦争終了後、藩士たちの武功の度合によって定められた各藩主への賞典禄にしても、薩長の十万石、土佐の四万石に対して、佐賀はわずかに二万石でしかなかった。因州大村松代(まつしろ)、佐土原の各藩主の賞典禄が三万石であったことを考え合わせれば、佐賀藩は一見四大藩閥の一角を占めたかに見えるものの、実のところは第八位の功績を認められたにすぎない
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.379)


     ひるがえって、武官ではなく文官として新政府に出仕した旧佐賀藩士たちを眺めると、こちらは実に多士済々であった。岩倉遣欧使節団不在中の留守内閣の顔ぶれを見ても、その参議は薩摩ひとり(西郷)、土佐ふたり(板垣後藤象二郎)に対し、佐賀出身者江藤副島大隈(おおくま)重信大木高任(たかとう)を加えた四名にのぼる。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.379〜380)


     −−征韓論を主唱することによって朝鮮征服を実現すれば、佐賀出身者はその時にこそ文武両面において政府の中枢を占めることができる
     江藤や副島が征韓論に固執した背景には、そんな野望も秘められていた。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.380)


     この時東京にあって江藤の同志をもって自任していた佐賀人には、中山一郎香月経五郎中島鼎蔵(ていぞう)、朝倉弾蔵山田平蔵村地正治といった民間人たちがいた。 江藤と鳩首(きゅうしゅ)謀議したかれらは、佐賀県下に同志を募り、独力で征韓の目的を達成しようと決断。 中島と朝倉は、十一月中に佐賀へ帰郷して活動を開始していたのである。
     中島と朝倉のもとには、
     「武器と兵糧は自前でかまわんから、ぜひ征韓の先鋒(せんぽう)を命ぜられたい
     と申し入れる血気の佐賀県士族が多数集結。 いつしかその人数は一千名をはるかに上まわり、県下を席捲(せっけん)せんばかりの大勢力となっていた。 この勢力は、
     「征韓党
     と名のり、鹿児島へ帰県した西郷隆盛を領袖(りょうしゅう)と仰ぐ鹿児島県士族との連携を模索していたが、ここにもうひとつ、かれらと手を結ぼうという別の集団があらわれた。 いわゆる、
     「憂国党
     副島種臣のいとこにあたる島義勇(よしたけ)、副島義高兄弟を中心とするこの一派は、明治四年におこなわれた廃藩置県を不服とし、政府の欧化政策に批判的な守旧派である。 外交方針に不満な征韓党と内政に不平を抱く憂国党とは、反政府という共通項によって結びついたのだった
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.380)


     日一日と寒くなるにつれ、佐賀城下には旧藩のころ同様に大小を帯び、徒党を組み肩を怒らせてのし歩くこれら不平士族の姿がめだちはじめていた。
     そのなかには県庁の役人たちを罵倒(ばとう)して官吏罵詈律(ばりりつ)違反に問われ、家宅拘禁(こうきん)の軽禁固(きんこ)に処される者も相ついだ。だが県内には羅卒が少なすぎて、かれらを取り締まりきれない。 それをいいことに軽禁固処分に従わず、面体(めんてい)を帽子に隠して集会に出席する者もあいついだので、その男たちには、
     「帽子隊
     という渾名(あだな)すらたてまつられた。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.381)


     旧会津藩士小出光照は、もとの名を鉄之助といった。 弘化元年(一八四四)生まれだから、藤田五郎とおない年の三十歳。
     斗南藩時代には田名部の藩庁に司民掛(がかり)の大属として出仕し、義兄(あに)の権(ごんの)大参事山川浩を助けていた。廃藩置県とともに弘前(ひろさき)県出仕となって中属、つぎに北海道の松前福山開拓支庁長に転じて開拓大判官(だいじょう)岩村道俊(みちとし)に知られ、岩村の佐賀県権令拝命とともに大属に登用されて佐賀に赴任してきたのである。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.381〜382)


     県庁到着は午後一時から夜十二時にかけてのことであったが、県庁内は県吏に食事の用意を命じてだれもこれに応じないという異様な雰囲気につつまれていた。 岩村権令が長崎から熊本鎮台へむかったことは、佐賀人に対する挑戦と受け取られていたのである。
     「山川さん。 わずか四百に満たない鎮台兵で、石垣もないこの佐賀城を守り切れるかね
     敵は今夜にも攻め寄せる模様、と告げられた五郎が逆に訊ねると、
     「大阪、広島からも援軍がむかっているはずですから、なんとしてもその来着まではもちこたえます。 藤田さんは、もしも高津さんと永岡君の姿を見かけたら、殴りつけてでも敵の隊列から脱落させて下さい。 さもないと、私は同郷人を討つことになってしまう
     山川は、澄んだまなざしに哀しみの色を刷いて告げた。
     「相分りました
     五郎は答えたが、兵力四千五百に達しているという不平士族のなかからふたりを見分ける自信はない。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.393)


     夜が更けるに従って、佐賀城のまわりにはおびただしい松明(たいまつ)の火が帯のように流れはじめた。
     そして十六日払暁、−−。
     大砲の轟然(ごうぜん)たる発射音が殷々(いんいん)と響きわたると、それを合図に不平士族たちは四方から佐賀城へ殺到してきた。背嚢(はいのう)に紺地詰襟(つめえり)の軍衣鼠色霜降の軍袴(ぐんこ)に羽根の前立てつきの軍帽をかむった鎮台兵たちは、元ごめスナイドル銃によって各城門の上から一斉に応射を開始する。
     しかし多勢に無勢、しかも鎮台兵側には大砲がないから、不平士族には和装鉢巻姿の古風な出立ちの者が多いとはいえ、この攻撃を支えきるのは至難のわざかと思われた。
    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.393)


     にもかかわらず山川は、左肘の再治療を受けてから付(つけ)書院のある部屋へ五郎をともなうと、左半大隊の壊滅を憂えているであろう熊本鎮台司令長官谷干城(たてき)少将宛(あて)に報告書を認(したた)めはじめた。
     《今日の形勢に立ち至り候は、小生等の不行届千万恐縮たてまつり候。 すぐる十五日午前十時早津江着岸、十二時出発、午後二時過ぎ佐賀入城、ほぼ該地の形勢不穏のよしを聞き、すこぶる戒心あり、……
     つづけて十七日の戦況と奥保鞏と自分とが負傷した次第を報じたかれは、本日の脱出戦に筆を進めた。
     《……前後左右より弾丸雨注、将校の戦死夥多(かた)(おびただしく)、兵卒もまたこれに準ず。 ……将校かくのごとくあまた戦死したるに、なお生存するまことに恐縮汗顔の至りに御座候えども、唯(ただ)生を偸(ぬす)み候儀にはこれなく、他日功を立て罪を贖(あがな)う心得に御座候。 胸中御洞察願いたてまつり候。
     ……城を出てより数度の戦(いくさ)、ようやくにして筑後川青木島の渡しを過ぎ、半大隊の府中にあるを聞き、これよりフゴ(畚)のごときものあり、(これに乗り)今十八日午後四時着、まず互いに無事を祝すれども、兵卒の死亡を思い、落涙に堪えず候。 右匆々(そうそう)今日まで形勢申し上げ候。……

    (《明治無頼伝 第八章 佐賀の乱》P.407〜408)


    終章  熊倉まで

     官兵衛は、溜息(ためいき)をついて伝えはじめた。
     明治三年の夏以来、今は青森県の内となった三戸(さんのへ)へ移住していた仲三郎の兄八郎とその妹〔およね〕、長女〔おすて〕、次女〔おいと〕と、仲三郎の妻〔おたつ〕の五人は、いくら働いても楽にならない三戸での生活に見切りをつけ、この五月初旬に会津へ帰ることにした。
     だがすでにこの時、長い間粟(あわ)や稗(ひえ)しか口にしなかったために、特に四十二歳になる〔およね〕は重度の栄養失調に罹(かか)っていた。 北上川を船で下った高津家の五人は、石巻(いしのまき)上陸後は仙台まで陸路をゆくことにしたが、もう〔およね〕は歩けない。 やむなくかれらは、乏しい金をはたいて〔およね〕にだけ馬を雇い入れた。
     まもなく石巻から二里半松島寄りの矢本の宿に着き、この日は矢本に泊まることになった。 が、〔およね〕はいつになっても馬から下りようとはしない。 奇妙に思った馬子が呼びかけても、〔およね〕は答えなかった。 なんと〔およね〕は、手綱を握ったまま馬上に息絶えていたのである
     「〔およね〕殿はいつも、会津へ帰りたい、焼け果てた会津でもいいから帰りたい、と口癖のようにいっていたという
     官兵衛は、左右ふぞろいな目をしばたたきながらいった。
     「その死を知った宿のあるじは、ああ、さすが会津のお武家さまの奥方さまは大したものだ、死んでも手綱を離されなかった、といってその亡骸(なきがら)に両手を合せてくれたそうだ
     「そうですか、そんなことがあったのですか
     その〔およね〕とは、もう三年半も前の明治四年一月半ばすぎにまだ一戸(いちのへ)伝八と名のっていた五郎が三戸の善照寺へ高津八郎を訪ねた時、白湯(さゆ)を出してくれた女性に違いない。 そう思うと五郎は、
     「〔およね〕殿が亡くなったことを、高津仲三郎殿に知らせる手だてはないものですかね
     とつぶやかずにはいられなかった。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.422〜423)


     しかし年が改まって明治八年がきても、高津仲三郎らは行方を絶ったままであった。
     さらに月日が進んだ明治九年三月二十八日、政府は太政官第三十三号布告によって帯刀禁止令−−別名、廃刀令の公布に踏み切った。
     《自今大礼服着用ナラビニ軍人オヨビ警察官吏等制規アル服着用ノ節ヲ除クホカ帯刀禁ゼラレ候条コノムネ布告候事、タダシ違犯ノ者ハソノ刀取リ上グベキ事
     政府は明治四年八月九日の段階で、
     《散髪・制服・略服・脱刀トモ、勝手タルベキ事、タダシ礼服ノ節ハ帯刀致スベキ事
     と布告して、脱刀するのは自由であるとしていた。 だが士族階級解体政策をより強く推進するために、あらためて帯刀禁止令を発布したのである。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.423)


     このころ九州地方では、ふたたび不平士族たちが無気味に蠢動(しゅんどう)しはじめていた。 その筆頭は、かねがね政府の欧化政策を白眼視していた熊本の敬神党の面々。
     今なお長刀を腰間に横たえ、髷(まげ)を落とさずにいるかれらの領袖のひとり加屋霽堅(はるかた)は、三月二十八日に帯刀禁止令が発布された時にはただちに上京。 元老院に対し、諫言(かんげん)書を差し出したことすらあった。 帯刀は神代以来わが国に固有の風儀だから、これを禁じるのは神州固有の良法を蔑(なみ)し、国勢を衰弱させる行為だとして、強く政府に難詰したのである。
     この加屋と太田黒伴雄(ともお)を総裁とした敬神党の百九十余名は、十月二十四日に武装蜂起(ほうき)。 寝こみを襲って熊本鎮台司令長官種田政明少将と熊本県令安岡良亮(よしすけ)とに致命傷を負わせたが、二十五日未明から反撃を開始した鎮台兵にもろくも撃破され、加屋、太田黒の両名も敗死させて潰走(かいそう)していった。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.426)


     佐賀の乱にづくこの士族の反乱が新聞各紙に報じられたのは二十六日からのことであったが、二十八日には福岡県の旧秋月藩士の間に秋月の乱が勃発(ぼっぱつ)したことが伝わってきた。
     そして三十日付「郵便報知新聞」は、
     《九州暴徒の不穏は更に一転して/山口県下萩の形勢切迫す
     の大見出しに、
     《前原一誠も起(た)つ
     と小見出しを添えて報じた。
     《山口よりの報とかに、萩の士族前原を始め多人数学校へ集合し、山口街道へ兵糧とかの焚出(たきだし)をゆだね発せんとする威勢ありと、よりて県官二名を遣わし専(もっぱ)ら説論を加うるの取沙汰(とりざた)なり、と一昨日午後の巷説
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.426〜427)


     (なに、前原は政府への恭順を誓っていたではないか
     三月中の佐川官兵衛との会話を思い出した五郎は、喰(く)い入るようにその記事を読み進めた。
     だが、これだけでは、本当に前原一誠が蹶起(けっき)したのかどうかよく分らない。
     「ちと新聞紙を買ってくるぞ
     台所の時尾に声をかけ、着流しのまま下駄をつっかけた五郎は、ほかの新聞も見たくなって外の通りへ大股(おおまた)に歩いていった。
     この時代の新聞は、配達を除けば新聞縦覧(じゅうらん)所へ行って読むか、新聞売り子から買うかである
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.427)


     《日本橋の思案橋下で船中の凶徒突如警官を斬殺(ざんさつ)
     と大見出しをつけた十月三十一日付「東京日日」は、事件をきわめて詳しく報じていた。
     《一昨日廿九日の午前九時頃、小網(こあみ)町一丁目の陸運会社出張所竹田喜右衛門出店の湯沢原七郎方へ、書生体(てい)の者一人来(きた)り、 急に下総(しもうさ)の登戸(のぼりと)まで所用があれば、一艘(そう)の船を仕立て呉(くれ)との頼みに、 源七郎は承知し乗込(のりこみ)の時刻を尋ねしに、午後六時過には来るべし相違なく用意せよと云い置きて立帰りしが、やがてその時刻より二人三人ずつ、 四たびほどに乗り込み、人数も揃(そろ)いしゆえ出帆せよと急(せ)き立(たつ)るを、ご規則なれば先ずご姓名を承らんと云うに、我等の姓名は名乗るに及ばずなどと曖昧(あいまい)の返答ゆえ、源七郎も不審に思い、ただちに巡査交番所に報知せし折から、 巡行の警部補寺尾義久の来掛りければただちにその旨を告げ二等巡査河合好直、三等巡査木村清三、 同黒野巳之助の四人を引きつれ桟橋へ来るに、四、五艘も停泊したる船の内に詩を吟ずる声あるは正(まさ)しく是(これ)ならんと、 その船へ乗り移らんとせしに、すなわち船中より声掛け、事々しく来るは巡査ならずや我輩は今相談することあればしばらく待つべしと云いて私語(ささや)く声しけるが、 やがて抜刀を船より差し出し、尋常に佩刀(はいとう)を渡すべし、 近く寄りて受取られよと云えば、巡査も、刀剣を渡すに刀を先に出す法あるべきやと詰(なじ)りしに、もっともなりと柄(つか)の方を差出せば、巡査は兎角(ともかく)に上陸すべしとの声に連れて、 篷(とま)をはね除(の)け、四人ほど桟橋まで登るや否や、寺尾警部補を切り倒し、無二無三に切掛けて、 河合、木村の二人に深疵(ふかで)を負わせ、黒野は背に切掛けられたれども、引きはずして立帰りその趣を報知すれば、 彼所此所(あちこち)より巡査が駆け集り、ただちに四人の刀を敲(たた)き落し難なく搦(から)め捕りしが、 船に残りし賊はその船を漕(こ)ぎ出し、元柳橋まで逃げ延びて上陸し、逃げ去らんとするところを、一方面五署の巡査と広小路にて出逢い、 ここにても一人捕縛し、都合五人の者はただちに第三局へ送致せし由なるが、この賊は尋常と違いて何か非望を抱き下総へ渡らんとせしが、ついに発覚して捕縛に付きたるなりなど世上に云い囃(はや)す者あれども、 それは猥(みだ)りに信じ難ければ、分りしだいに後日の新聞に出します
     これだけでは巡査たちに斬りつけた男たちの正体も、その男たちが登戸をめざしていた目的もはっきりしない。 しかし官兵衛がわざわざ連絡してくれたのだから、逮捕された五人のうちに高津仲三郎永岡久茂とがふくまれているのは確実であった。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.429〜430)


     その後の萩の乱に関する報道では、前原一誠奥平謙輔ほかの同志たち百余名とともに武装蜂起して公金を奪い、山口県から脱走したことが明らかになった。 秋月の不平士族たちは、小倉から急行した陸軍の前になすすべもなく敗走。 前原たちは十一月八日に島根県下で捕縛された、という報道がこれにつづいた。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.431)


     これと並行して、高津永岡たちがどう動こうとしていたかも次第に分明となった
     永岡は佐賀の乱に際して征韓党に与(くみ)したにもかかわらず、罪を逃れたことを幸いとしてひそかに帰京し、なおも政府打倒のために立ち上がることを画策しつづけていた。しかしあちこちへの借金がかさみ、今年の春ごろからは三度の食事にも窮するようになった
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.431)


     その永岡のもとへ、前原一誠からの密使がやってきたのは八月ごろのことであった。
     「会津へ帰り、現政府に不満を抱く旧会津藩士たちを糾合せよ
     と密使は薦(すす)めたが、この時の永岡には東京を離れられない事情があり、前原とかれとは萩と東京でひそかに連絡を取り合いながらさらに情勢を眺めることになった
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.431)


     その間に永岡に合流したのは、中根米七中根は〔つて〕をたどり、旧知の旧会津藩士若干名を千葉県庁に採用させることに成功した
     この者たちが送ってくる情報をもとにして、佐賀の乱にならって千葉県庁を襲撃。 さらに佐倉の鎮台兵に檄(げき)を飛ばして日光か会津で覇を唱え、前原や奥平と東西相呼応して反乱を起こす、という計画がここにできあがった。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.431)


     「錦の店開きは二十八日
     前原から蹶起(けっき)期日を指定する暗号電報が届いたのは、十月二十三日のこと。
     ひそかに高津仲三郎改め中原成業(しげなり)、中根米七、おなじく旧会津藩の井口慎次郎一柳訪(ひとつやなぎたずぬ)木村信次能見(のうみ)鉄治静岡県士族高久慎一島根県士族松本正直宮城県士族満木清繁東京府士族山本保之同平民高橋弥三郎(やさぶろう)、群馬県農民高崎政八郎十二人にこれを伝えた永岡はその千葉県庁をめざすへく、予定より一日遅れの十月二十九日、思案橋の船宿を訪れた。 世にいう、
     「思案橋事件
     はこうして勃発(ぼっぱつ)したわけだが、最初に抜刀して寺尾警部補を殺害したのは井口慎次郎。 つづけて河合二等巡査、木村三等巡査を手負わせたのは高津仲三郎満木清繁らであったという。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.431〜432)


     永岡は闇の中での乱戦の間に誤って井口に腰を斬り割られ、からだの自由を失って捕縛されたといわれ、逮捕されたのは第一報の五人ではなく、松本、満木、木村、中根の四人を除いた九人と訂正された。
     佐賀の乱を起こしたふたりの首魁(しゅかい)、江藤新平島義勇斬罪(ざんざい)の上梟首(きょうしゅ)という極刑に処されたのはまだ記憶に新しい
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.432)


     幸い東京では、貸し馬業が盛んになっていた。明治四年に庶民の乗馬が許されたためで、近頃は丸髷(まるまげ)に袴(はかま)姿で馬を駆る娘の姿も新風俗のひとつにかぞえられている。 借りた馬は、かつて問屋場があったころとおなじく手近の貸し馬屋へ返しておけばよいから、すでに店仕舞いしていたもよりの一軒を叩き起こした五郎は、慣れない洋鞍にまたがって千住(せんじゅ)から疾駆していった。
     奥州街道を北上するのは、思えば江戸城が無血開城された慶応四年(一八六八)四月以来のことであった。 旧幕脱走諸隊とともに会津をめざした五郎は、同月十七日には土方歳三、島田魁(さきがけ)らとともに宇都宮城攻めに参加。 そのあと日光口から会津入りして山口次郎と名を改め、白河口防衛のため出撃したのである。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.447)


     すでに破却されて石垣と堀だけを残す姿に変わり果てている往年の名城鶴ヶ城の北側に住まう金田百太郎を訊ねると、運よくかれと会うことができた。 百太郎は剣道師範らしく堂々たる恰幅(かっぷく)の男だったが、五郎を請じ入れる前に門外に人の気配がないかどうか見定める神経の細かさを見せた。
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.449)


     飯河からの手紙を示した五郎は、初対面の挨拶(あいさつ)をおわると単刀直入に中根米七の居場所を訊ねた。
     「探索の目が光りはじめたため、昨晩舎弟の百助と飯河殿に守られて喜多方(きたかた)へ連れてゆきました
     かつて北方と書かれた耶麻郡のこの大集落は、若松の北十六キロに位置している。
     「それはお手前たちに迷惑をかけずに切腹するためですな
     「さよう
     よくお分かりですな、というように、和服姿で端座した百太郎は目を丸くした。 五郎がそれには答えず、
     「期日は明日二十三日の未明。そうではありませんか
     とつづけて問うと、そうです、八月二十三日はわれら元会津藩士にとっては特別な思いの残る日付ですから、と百太郎はいった。
     慶応四年八月二十三日未明、滝沢峠を越えた官軍が逆落としに会津盆地へ突入してきた時から、会津藩はついに開城によって終焉(しゅうえん)を見ることになる苦難の籠城戦に踏み切ったのである。この日もはやこれまでと思い切り、自刃した老幼婦女は少なくなかったから、中根米七はかれらに対して十年遅れの追い腹を切るつもりなのであろう
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.449〜450)


     時尾は明治十二年に次男剛(つよし)、十九年に三男龍雄を出産。 五郎は勉をふくむ三人の息子たちに剣道を教え、時に山川浩と痛飲しながら後半生を歩んでいった。
     「戊辰戦争以後、警視庁に入るまではなにをしていたのですか
     との質問を受けると、五郎はにやりとしながらこう答えるのをつねとした。
     「明治四年に東京に出てからは、よからぬ者の群れに投じて無頼の日々を送っていたのさ
    (《明治無頼伝 終章  熊倉まで》P.453)


    “明治十年までは幕末”

     こういう斎藤一がこの小説で、主人公として描かれる契機となったのは、土方歳三との間に決定的な意見の相違が起きたことによる。 新選組が二本松藩と会津藩との国境で官軍に撃破されたとき、土方歳三は、蝦夷地へむかう榎本艦隊との合流をはかるが、斎藤は「それはできんな」といって、隊士二十余命とともに若松へ引き返す。 会津藩の庇護のもとに活動した新選組としては、その「会津藩に危急存亡の秋(とき)が迫った今、会津藩を見棄てることはおれにはできぬ」という信念を貫いた斎藤に、作者は主人公としての存在感をじゅうぶんに見てとったに違いない。
    (《明治無頼伝 “明治十年までは幕末” 寺田博》P.456)