[抜書き]『東に名臣あり 家老列伝』


『東に名臣あり 家老列伝』中村彰彦・文春文庫
2010年5月10日 第1刷
目次
不義の至りに候−−−−−−−小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)
花に背いて帰らん−−−−−−直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)
最後の武辺者−−−−−−−−後藤又兵衛基次(もとつぐ)
東に名臣あり−−−−−−−−田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)
さらば、そうせい公−−−−−福原越後元|(もとたけ)
ガットリング砲を撃て−−−−河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)
あとがき
解説−−苦悩する家老たち 山内昌之

    不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)

     使者三人の前に置かれた床几に近づくや、作法通りに一礼して大紋の両袖を蝶の羽根のようにひるがえした信茂は、こう述べたのである。
     「北条家御家中(ごかちゅう)のみなさまには、かように草深いところまで御息女お輿入れの行列をお出迎えたまわり、まことに痛み入り候。 かく申すこの方は、武田家に仕え都留郡を預る者にて、小山田弥三郎にこそ候え。 こたびはお屋形さまより御息女お輿入れの佳き日に蟇目(ひきめ)の役を務めよと仰せつけられ、この地までまかり出でましてござる。 さればこれよりお輿をおわたしつかまつり、当家の家来ともども小田原の御城下まで同行いたしましょうほどに、よろしく願いあげたてまつる
     蟇目とは、鏑矢(かぶらや)のこと。 蟇目の役といえば貴人の祝言や出産に際し、妖魔降伏(ごうぶく)のため鏑矢を射る部門名誉の役割を意味する。 信茂は挨拶の口上ばかりかこの役目もそつなくこなし、北条家から約四百二十貫の土地を褒美として与えられたことから、諸事万端に通じた若武者として戦国の世に名をあらわしたのだった。
    (《東に名臣あり 不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)》P.20)


     甲軍は陣形が横に長く伸びたため、このたびは法螺貝ではなく陣太鼓の合図で発進することに取り決められていた。ドーン、ドーンと打ち出された陣太鼓がドン、ドンと短くなり、ドドドドとつづくのが序破急の変化。 急調子になったときが駆足(かけあし)発進である。
    (《東に名臣あり 不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)》P.37〜38)


     それからの武田家は、もはや紙に滴り落ちて周辺に滲み出す墨の雫ではなかった。 あらたに滴った雫に次第にかき消される、古い〔しみ〕のような存在になっていた。
    (《東に名臣あり 不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)》P.44)


     木曾谷は美濃・尾張につながる咽喉部だけに、これによって信長は武田の領国へ突入する通路を確保したことになる。 信長はその二日後には、早くも甲軍を根絶やしにするための陣割りを定めた。
     駿河口からは徳川家康。 関東口からは北条氏政。 飛騨口からは金森五郎八。 木曾口を経て伊那口へむかうのは、信長直卒の五万とせがれ信忠の兵七万。
     都合二十万近い大軍が、袋の口紐をしぼるように動き出したのである。
     これに気づいた伊那口の甲軍からは、小笠原信峯下條信氏をはじめとする三千余騎が通敵。 信忠軍の先鋒と化し、天竜川西岸の飯田城、おなじく東岸の大島城へ攻め寄せてきた。
     飯田城の守兵五百は、城外に起こった夜の火事がそこかしこに落ちている馬糞に燃え移ったのを見て、織田家鉄砲足軽たちの火縄の燻(くすぶ)りと錯覚。 一斉に逃げ走ってしまい、
     「馬糞ニ驚(おどろか)サレ、城ヲアケタリ云事(いうこと)ハ、寔(まこと)ニ珍(めずらし)キ敗軍也
     と史書に特筆されることになる。
    (《東に名臣あり 不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)》P.45〜46)


     裏切りということばの本義は、一丸となって敵にむかいつつある戦場において後軍(裏)が敵に通じ、前軍(表)に切りつけることと思われる。 それに較べれば戦場に出る前に敵と手をむすぶことはさほどの悪業とはされず、  「返り忠」  と表現される場合もある。  お味方すると伝えられた敵将にとっては、忠義と感じられる行動だからである。
    (《東に名臣あり 不義の至りに候 小山田出羽守信茂(でわのかみのぶしげ)》P.51)


    花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)

     しかし、世が落ちつくと痴(し)れ者もあらわれる。
     このころ景勝の馬廻りのひとりに、三宝寺勝蔵(さんぽうじかつぞう)という荒武者がいた。慶長二年(一五九七)一月二十日、景勝兼続が伏見にゆき、前年に発生した慶長の大地震で破壊された街道筋と川筋の修復にあたったときには、この三宝寺勝蔵も同行していた。
     ところが勝蔵はなにを思ったか、不意に自分の下男平助を斬り殺してしまったのである。 平助にはなんの越度(おちど)もなかったから、人夫としてやはり伏見にきていたその親類三人は腹の虫がおさまらない。 勝蔵の無法を兼続に訴え、
     「どうか平助を生かして返して下せえ
     と願ってやまなかった。
     勝蔵の裁きは景勝にまかせることにして、兼続は三人に回向(えこう)料および弔慰金として銀二十枚を与えた。
     それが逆に、三人を勢いづかせることになった。 ごねればもっと銀がもらえるのではと考えたかれらは、平助を生き返らせてもらえなければ国に帰れないと理屈を構え、兼続が秀吉から与えられていた伏見城下の仮屋敷に押しかけること再三に及んだのである。
     二月七日、その仮屋敷の中庭にまた三人がさもしい面構えをならべたとき、入側(いりがわ)に純緋の陣羽織を着用してあらわれた兼続の男臭い風貌には、さすがに怒りが滲んでいた。
     「よし、それほど平助とやらに再会したいなら、閻魔(えんま)王へわしが書状を送ってさよう申し入れてつかわそうではないか。 かような文面でどうだ
     兼続の投げ与えた書面を三人がひらくと、そこにはこう書かれていた。
     「いまだ御意(ぎょい)を得ずと候えども、一筆啓上せしめ候。 三宝寺勝蔵家来なにがし、不慮の儀につき相果て候。 親類ども嘆き候いて、呼び返しくれ候ようにと申し候につき、すなわち三人の者迎えに遣わし候。 かの死人お返し下さるべく候。
    恐々謹言。
     二月七日               直江山城守兼続
     閻魔王
       冥官(めいかん)御披露            

     「すなわち三人の者迎えに遣わし候」のくだりを読んで、当の三人が小首をかしげたのはもっともなこと。
     「あの、こ、これは
     どういうことかとたずねようとして三人が兼続を振り仰いだとき、いつのまにかその背後に控えていた白だすき掛けの若侍三人は、一斉に抜刀して立ち上がっていた。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.79〜81)


     秀吉もかつて養女の豪姫が病んで狐が憑(つ)いたと診立てられたとき、憑いた狐とは全国の狐狩をしてでも戦う、と正一位稲荷大明神宛の手紙で宣言したことがある。
     あえて閻魔王宛の書面を執筆してから領民三人を処分した兼続の果断は伏見の大きな話題となり、秀吉もこう評した。
     「今、当世の人物を眺めるに、出(い)でて天下の政道にあたれるのは直江山城小早川左衛門(隆景)であろう
     小早川隆景はこの年の六月に病死したから、秀吉流にいえば、その後天下の政道にあたれるのは兼続のみとなった。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.81)


     大名家というものは、上杉家のように当主が代替わりしても持ち直すこともあれば、にわかに家中が治まらなくなる場合もある。
     後者の典型は、それまで奥州会津九十二万石と上杉家よりも大所帯だった蒲生(がもう)家である。 文禄四年(一五九五)二月に初代の蒲生氏郷(うじさと)が病死してから家中がまとまらなくなったのを咎められ、二代目の秀行七十四万石に減封されたばかりか慶長三年(一五九八)一月には下野(しもつけ)宇都宮十八万石左遷された。
     同時に、秀吉からあいた会津への国替えを命じられた者こそ上杉景勝であった。 これによって越後一国と北信濃の飛地は召しあげられる代わり、会津七十四万石出羽長井郡十八万石を与えられたため、上杉家は総石高は九十万余から一気に百二十万石へ撥ねあがった
     しかもこの国替え命令には、秀吉の特命が付随していた。いわく、
     「豊臣山城守兼続にそのうち三十万石を与え、出羽米沢城におらしめ、従四位下に昇叙するものなり
     ここにおいても秀吉は、兼続を自分の譜代の直臣であるかのように処遇したのである。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.82)


     つねに右顧左眄(うこさべん)するこの男が嫌いな兼続は、政宗が新規鋳造されたばかりの小判を懐中から取り出して披露におよんでも、顔をむけようとともしなかった。 そうとも気づかず政宗は兼続の前までやってくると、よく御覧あれ、とばかりにその小判を手わたそうとした。
     うるさく感じた兼続は、つかんでいた紺地朱の丸の扇をひらいて受け取り、児女が追い羽根をつくように小判をぽんと撥ねあげてその裏面も見た。
     「いや、手に取って見て構わぬぞ
     諸大名にまじって集まると自分だけが陪臣という立場なので、兼続は遠慮しているに違いない。 そう思ってぞんざいなことば遣いをした政宗の前に、つぎの瞬間かれは扇を一閃して小判を投げ返していた。
     好みの浅葱(あさぎ)の地に直江家の家紋「二重亀甲花菱」を散らした大紋、頭に侍烏帽子を載せたその堂々たる体躯から、凛(りん)とした音声が発せられたのはそのときであった。 兼続は隻眼をまじまじと見ひらいた政宗に、こう宣言したのである。
     「身は不肖ながら、上杉家先代不識院さま(謙信)の世より先鋒の任をうけたまわる。 さらに今日は馬上全軍に采(さい)をふるうこの手で、阿堵物(あとぶつ)など触れはいたさぬ
     武家方には、金銭に執着するのを卑しむ伝統がある。 阿堵物とは「このもの」という代名詞だが、金のことは口にする気にもなれないという感覚から、阿堵物といえば金銭を意味することになっていた。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.83〜84)


     三月六日、景勝とともに伏見を去って二十四日に初めて会津入りした兼続は、すぐに米沢に移動。与板城下と春日山城下から移ってきていた譜代の者に新参者をふくめて膨大な数になった家臣団の編成、身分、役職を流れるように決定するかたわら、農民たちの生活の指標となる「地下人上下共身持(みもち)之書」を定めた。

     四月の項、−−。
     男は未明から暮れまで鍬(くわ)の先がのめりこむほど田を打つべし。 女房、娘は赤き頭巾、赤き衣裳にて三度の飯を畔(あぜ)にはこび、ともに食すべし。 男は老若ともに赤き衣裳に心勇み、身労を忘れるべし。
     七月の項。−−。
     白い綿、よいからむし(麻)を育てる女房は、眉目(みめ)すぐれずともふだんのたしなみきれいにして、心もことばもやさしくあるべし。 綿の黒く、からむしの色悪しき女房は、眉目かたちよくともわきが臭きか、息の臭きか、朝夕のふるまいも表裏あるものなり。 かくのごとくなる女房は、たとい子供ある仲なりとも追い出すべし。

     兼続が、人情に通じた民政の巧者でもあったことがうかがえる。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.85)


     その後も家康には、味方に引き入れたい大名には独断で加増をおこなうなど、身勝手なふるまいが多かった。 伏見城はいつかその持ち城のごとくなり、家康のことを、
     「天下殿
     と呼ぶ者さえあらわれた。
     「山城よ。あのひともなげなふるまいをいかに見た
     一夜、上杉家伏見屋敷に招かれた兼続は、景勝から憮然たる口調で問われると、四十歳になって男臭さの増した面差に微笑を浮かべて答えた。
     「あれは、鶏の群れに餌をまいているのでござります。 その餌に狂喜して駆け寄ってくる鶏は可、知らぬふりをしている鶏は不可、と見定めるために
     「するとわれらは、不可のうちか
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.87〜88)


     きたるべき東西決戦に際してわれのみは北から東軍に挑むなら、その東軍徳川勢に万一逆寄せをかけられることがあっても決して落ちない巨城がほしい。 しかも若松城の位置は、西方はるかに越後山脈を霞ませている会津盆地のひろさにもかかわらず、東山と総称される東方の高地に迫り過ぎていた。
     北の米沢方面と会津五郡から結集する兵たちも楽々収容し、全兵力を東の白河経由奥州街道へ、それと同時に西の日光街道へすみやかに進撃させて勝機をつかむには、城郭は兵の移動により便利な盆地中央部になければならない
     そう考え、連日馬にまたがって盆地を巡見した兼続がもっもと気に入ったのは、城地の西北一里先に豁然(かつぜん)とひらけた神指原(こうざしばら)であった。 四方を眺めても目に入るものといえば青い田んぼと雑木林しかない神指原は、西を南北に流れる大河阿賀川、東をやはり南北に走る越後街道黒川の流れに画されていた。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.89〜90)


     三成が同盟をむすぼうとしている顔触れも予想通りだったし、景勝と兼続の肚(はら)はすでに決まっている。 兼続にそうと伝えられ、
     「これは、白河の関を越えてきた甲斐がござりました。 されば、家康の背後を襲うお役目、きっとお願いいたしましたぞ
     喜色を浮かべて平伏しようとした左近に、いや、しばらく、と兼続は端整な顔をむけていった。
     「われらは、徳川勢の背後を突くのではござらぬ。 こちらへしゃっ面(つら)をむけさせ、正面からぶつかって勝ちを制する所存でござる
     上座の景勝とその左手前に座る兼続の顔を等分にみやった左近は、すぐにはそのことばの意味をつかみかねて目をまたたかせた。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.91)


     あけて慶長五年(一六〇〇)二月十日からはじまった神指築城は、領民十二万人を動員する会津地方空前の大工事となった。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.92)


     土塁はいずれ石垣造りにされる計画で、その石は東山の慶山(けいざん)村から伐(き)り出されることになった。 会津は岩代国(いわしろのくに)ともいわれるように、盆地周辺には岩盤のしっかりした高地が多い
     慶山村、若松城下、越後街道をむすぶ線には人夫たちがびっしりと立ちならび、コロや修羅車によって巨石が運ばれてくると声をそろえて引き縄を引いた。 普請奉行とその手代たちは万一の事故にそなえ、柿色の手拭い鉢巻姿で騎乗してその近くを駈けまわる。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.92)


     そこで四月、家康景勝へ使者を送って上洛をうながす一方、兼続と深い交流のある豊光寺の僧承兌(じょうたい)から兼続宛に詰問と忠告の書状を送らせた。
     −−新道を開削し、神指に新城を築造し、国境(くにざかい)方面を騒がせるのはなにか企みがあるからであろう。 もしそうでないならば、会津中納言の律儀な御心は内府さまもごぞんじ、ただちに誓紙を差し出して上洛なさるべし。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.93)


     この書状を一読した兼続は、景勝と充分相談した上でわざと高飛車な文面の返事を書くことにした。
     「今朔日(こんついたち)の尊書、昨十三日下著(げちゃく)、多幸々々(しあわせ、しあわせ)
     とはじまるこの書状は、日本人の書いた挑戦状の白眉である。 人呼んで、
     「直江状」
     その論旨は、つぎのごとし。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.94)


     −−当国についてさまざまな噂があるようだが、京と伏見の間でさえ噂がいつも飛び交うものだ。 会津のような遠国(おんごく)について噂が流れるのは、不思議ではなかろう。
     −−わがあるじがなかなか上洛しないのをとやかく申す者がいるらしいが、われらは二年前に国替えになってまもなく上洛し、去年九月に帰国したばかりではないか。 また上洛などしていては、いつ国の仕置きをせよというのか。
     −−二心がないなら誓紙を出せとはなんたること。 この二年間すでに数通出したはずだが、それが反古(ほご)になったというなら重ねて出す必要もあるまい。

    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.94)


     けんもほろろとは、このような態度のことをいう。 さらに兼続の見識がよくあらわれたくだりは、つぎの部分である。
     「上方(かみがた)武士は、今焼き茶碗、炭取り、瓢(ふくべ)以下の人たらし道具、後所持候田舎武士は、槍、鉄砲、弓箭(きゅうせん)の道具、支度申し候。 その国々の風俗と思し召し、御不審あるまじく候
     兼続は、武備を固めていないとしらを切ったりはしないわれらは茶道具ばかり集めて喜んでいる上方の軟弱な武士とは士風が違う、と堂々と主張してみせたのである。
     もって奥州武士、なかんずく謙信に見出されて上杉家の筆頭老臣にまでなった男の面目躍如たるものがある。
     この直江状を届けられたとき、
     「こんな無礼な書状は、生涯初めて読んだ
     と家康が激昂した、という説はおそらく正しい。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.94〜95)


     だが、その景勝は意外にも、太い眉を寄せて首を横に振った。 そして、絞り出すように告げた。
     「いや、それはなるまいぞ。 いまだ前田筑前殿(利家)御存命のころ、われら五大老は互いに命おわるまで逆心つかまつるべからざる旨太閤殿下に誓い、そろって血判を捺したことがある。 このたびは内府が太閤殿下の遺法をないがしろにいたし、またわれら主従を問罪せしがゆえに一合戦を覚悟いたしたまでのこと。しかるに内府が江戸に引き取ったる上は、われらも会津へ引くべきであろう。 内府を追って悪人の評を受け、信を天下に失ったなら上杉家の恥辱ではないか
     「おことばなれど
     兼続は、初めてあるじに反論をこころみた。
     「ここまで大軍を動かしました以上、今後上方の趨勢がどうなりましょうと、この慶長五年の大騒動は上杉家と徳川家の角遂にはじまると天下の士はみなしましょう。 さればもし内府が上方にて勝利いたさば、つぎは上杉家を滅ぼさんと思い立つことは必定(ひつじょう)でござる。 それでもなお戦うは不可と仰せなら、われらは滅びるしかござりますまい。 ならば、戦わずして滅びるよりは戦いて滅ぶに如(し)かず、ではござりませぬか
     兼続の二重切れ長の瞳には、いつか悔し涙が滲み出していた。 景勝は激情をほとばしらせた兼続にむかい、口調を荒らげた。
     「なにを申す。国の存亡荒廃は、時世時節によるもの。 余が不信の名を負わされては、末代までの恥辱だと申しておる
     こうまでいわれては、臣たる者ももはや言い返せない。 兼続は深々と一揖(いちゆう)しして陣幕の内から退出し、革籠原を天下分け目の戦場に仮定した三方合撃策は、ついに発動される事なくおわった。
    (《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》P.100〜101)


    最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)

     この時、黒田家の物頭(ものがしら)以上の者たちは、吉兵衛がまだ十九歳の若武者であることを考えあわせ、敗北の責任は自分たちにあるとした。 そして頭をまるめたり、髷の髻(もとどり)を断ったりして如水に謹慎の意を表した。
     しかし、ひとり又兵衛のみは平然としており、
     「なにゆえけろりとしておられるのだ
     と坊主頭の神西不楽に問われると、こう答えたのである。
     「勝敗は、いくさのつねだ。 負けるたびに髻を切ったり頭を剃ったりしておっては、いずれは頭の皮まで剥がねばならぬ。 われらがあるじは小心者ではないから、わしがけろりとしておったところで咎め立てなどはなさらぬよ
     これを聞いた如水は、満足していった。
     「まことに又兵衛の申すとおりである
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.113)


     しかし細川忠興も癇癖(かんぺき)が強い人で、長政とはなぜか犬猿の仲になっている。 ために長政は又兵衛を、
     「細川に通じた不忠者
     と疑いはじめた。
     武辺一途(いちず)に生きてきた又兵衛にとって、これほど迷惑なことはない。 とはいえ家臣があるじに誓紙を入れるのはよくあることだから、長政が誓紙を求めたときには熊野牛王(ごおう)−−熊野神社発行の牛王宝印の料紙に血判を捺して差し出した。
     それでも長政は、おさまらなかった。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.119)


     このとき四十四歳、古今伝授の継承者細川幽斎の嫡男として生まれ、越中守(えっちゅうのかみ)の受領名を持つ忠興は父も行く末を案じたほどの冷血漢で、
     「御家来衆の作法は、いつもことのほか神妙でござる。 なにゆえかようによろしく候や
     とある大名に問われた際には、あっさりと答えた。
     「家来どもには、二度までは教え申す。三度目は斬り申す
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.122)


     「よくぞ参った。 名のある武辺者を客に迎えるとは、この越中守も果報者じゃ。 しかし、その方も知っての通り余は黒田筑前守とは不和なれば、筑前守がその方の小倉入りを知ればいかようなことになるかも計り難い。 その方は筑前守の陣立てをよく知っておろう。 いかにすればあやつに打ち勝てるか、思うところを述べてみよ
     「さん候(ぞうろう)
     又兵衛は流れるように答えた。
     「もしも御当家と筑前守とがいくさと相なり、ともに加勢がなかった時は筑前守が勝ちを得ましょう。 かく申すのは、筑前守は石高五十万二千四百石、御当家は三十万石といささか国力に違いがござって、それがそのまま兵力の差になるからでござる
     されど、と又兵衛はつづけた。
     「御当家が勝利をおさめる策は、なきにしもあらず。 それは鉄砲の名手を五十人ほど選び、いざいくさとなればもっとも前方に出すことにござる。 黒田勢の真っ先を駈けてくる騎馬武者を五人まで撃ち殺せば、かならずそのなかに筑前守もまじっておりましょう。筑前守は世に珍しきまでの勇将にて、つねに先頭を駈けることを好みますので
     忠興の問いは長政との一戦を覚悟してのことではなく、又兵衛の人物器量を見るためのものであった。 忠興は、膝を叩いて喜色を浮かべた。
     「筑前守を恨んで出奔(しゅっぽん)いたしたと申すに、その武勇を誉めるとはあっぱれな口上である。 感じ入ったぞ
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.122〜123)


     そこで最後に正則は、かつて黒田長政から受け取った書状を又兵衛に示しながら長政を嘲笑(あざわら)ってみせた。
     「その悪筆ぶりはどうじゃ。 筑前守は当家とほぼ同格の大封を得たにもかかわらず、能書家の祐筆(ゆうひつ)ひとり持っておらぬようじゃな
     「おことばながら
     と、又兵衛は答えた。
     「御当家とおなじく黒田家にも多くの家臣がござれば、能書家も少なくはござりませぬ。 諸方面と書面をやりとりいたすとき、先方が悪筆ならば悪筆の者に返書を認(したた)めさせ、能筆の書面には能筆の者を用いるのが黒田家の家風と思し召されよ
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.127)


     徳川家康は、関ヶ原の合戦から三年後の慶長八年(一六〇三)にはせがれ秀忠の長女千姫を秀頼に嫁がせ、豊臣家との宥和を世に印象づけた。 その一方では秀吉以来の豊臣家の財力を削(そ)ぐことに意を用い、淀殿・秀頼母子に甘言を弄して莫大な量の黄金を吐き出させつづけた。
     その方途のひとつとして、東山方広寺の大仏殿の再建をあげることができる。
     天正十四年(一五八六)に秀吉が建立したこの大仏殿は、慶長元年閏(うるう)七月に発生したいわゆる「慶長の大地震」によって崩れ落ちた。 すると慶長七年、家康は豊臣家の奉行としてその内政を見ている片桐且元(かつもと)に命じたのである。
     「大仏殿の再建は、故太閤殿下の宿願であった。 これを成就してその遺志を継ぎ、もって殿下の御冥福を祈るべし
     淀殿・秀頼母子はこの注文を受け入れ、秀吉の残した大法馬金(だいほうまきん)数十を改鋳して費用に充てることにした。法馬とは分銅のことだから、大法馬金といえば黄金によって鋳立てた巨大な分同型のしろもののこと。 この大法馬金には、一個につき黄金を板状に延ばした鈑金(ばんきん)一千枚が溶かしこまれていた。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.128〜129)


     この大仏殿は十七年春に落成し、後藤又兵衛が相国寺北側の陋屋に住みついたころには鐘楼の鐘が鋳造されようとしていた。 これに従事した職人は三千百余人、使われた鞴(ふいご)は百三十二挺。 造る鐘は高さ一丈八寸(三・三メートル)、口径九尺一寸(二・八メートル)、使われる銅は一万七千貫()六十三・八トンに達した。
     その鐘名は南禅寺の僧清韓が撰定し、完成した鐘の撞初(つきぞめ)は六月二十八日におこなわれた。 しかし七月二十一日、家康は鐘名に自分を呪詛(じゅそ)する文句がまじっていると難癖をつけた。
     家康が五山の僧たちに意見を求めると、曲学阿世ぞろいのかれらは媚びた答え方をした
     国〔家〕安〔康〕
     と家康の名を割っているのはたしかに不吉であり、
     「君臣豊楽
     とあるのは、豊臣を君として楽しむ、と読める
    と。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.129〜130)


     「すでにお聞き及びでござろうが、大坂にはもはや一戦避け難しと見た浪人たちが諸国より陸続と集結いたし、右府さまもこの者たちを大いに召し抱えようと思し召しておいででござる。 とは申せ、浪人たち多数をよく使うには大将格の者を指名しておかねばなりませぬ。 御身(おみ)さまはかつて黒田家におわして侍大将を長くおつとめになり、朝鮮国にまで武名を知られた剛勇無双の勇者なれば、どうか浪人たちの総大将のおひとりとして御入城いただけませぬか
     治長支度金についても、騎馬武者には一騎につき竹流しを二枚、扶持米(ふちまい)はこれとは別に人に応じて下される手はずだ、と打ちあけた。竹流しとは、竹を節から節へ縦半分に割ったものに天正大判にして二枚分の黄金を流しこんだものである
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.131〜132)


     又兵衛の通された下段の間には、天井まわりと長押(なげし)の上に金砂子(きんすなご)、泥引(でいびき)の障壁画が描かれ、上段の間もおなじ手法の淡彩画にかこまれていた。 それよりも思わず又兵衛が目を瞠(みは)ってしまったのは、上段の間に出座した秀頼があまりに奇怪な肉体の持ち主と気づいたためであった。
     腰替わり振袖熨斗目(のしめ)をまとった小姓たちにかこまれてあらわれた二十二歳の秀頼は、人となってこの方弓馬刀槍(きゅうばとうそう)の稽古などしたことがないためか、背丈は又兵衛よりはるかに高く六尺五寸(一九七センチメートル)もあった。 小姓たちの前髪を立てた顔は、立っていてもその腰のあたりまでしかない。 しかも生白く頬のたるんでいるその顔には、過度の酒色に耽(ふけ)った者特有の荒(すさ)みが見て取れた。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.135〜136)


     しかし六発目はその脇腹に命中し、鎧に穿(うが)たれた穴からは血が滴(したた)り落ちた。 これにはかたわらにいて神西不楽も顔を青くしたが、又兵衛はうずくまろうともしない。
     「ふむ
     と穴に右手人差指を突っこんで傷口を探ったかと思うと、にっこり笑って不楽にいった。
     「秀頼公は、御運が強いぞ
     脇腹の傷は浅いから、自分はまだ戦える。 自分が健在である以上、大坂方に負けはない。 だから秀頼は運がいい、という論法である
     「なにやら大坂城は、おぬしひとりで保(も)っているような台詞(せりふ)だの
     坊主頭に鋳鉄の鉢金を着けて又兵衛とおなじ旗指物を立てていた不楽は、顔を仰むけて、呵々大笑した。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.145)


     十二月四日夜明け前にまず加賀百二十万石の前田利常勢一万二千がさらに南方から篠山に迫ったとき、幸村は潜伏させておいた鉄砲足軽たちをひそかに真田丸に収容してしまった。 闇夜のこととて、前田家の左右の先鋒は方向を失ってしまう。
     夜があけて朝霧も晴れると、幸村は兵のひとりに大声で呼ばせた。
     「前田の衆よ、篠山をうろつくとは鳥獣でも撃ちたいのか。 そんなに暇なら攻めて来い
     からかわれて逆上した前田勢は、馬鹿正直に正面から攻め寄せた。 しかも、怒りのあまり銃弾除(よ)けの盾や竹束を持ってゆかなかったからたまらない。 兵たちは次々と倒れ、かろうじて逃げもどったさる母衣(ほろ)武者が母衣を貫いた弾痕をかぞえたところ四十八もあった。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.146)


     この違約を怒った大坂方が、持ち場を失って各地に散ろうとした浪人たちを再度募ったのは慶長二十年(一六一五)二月中旬のこと。 並行して二の丸、三の丸の堀の浚渫(しゅんせつ)がはじまったと注進された家康は、四月四日に駿府城から出動し、十日に名古屋城に入った。 いったんは和議をむすんで大坂城を羽抜け鳥にしてしまい、再度開戦して豊臣家を滅亡に追いこむ、というのが前々からの家康の構想なのである。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.149)


     東西両軍からそろって誘いを受けたことを、又兵衛は武士(もののふ)の本懐としたのである。 一夜あけてから、かれは騎馬武者たちに布令した。
     「このたびのいくさに、世(よ)せがれたちは下馬して戦ってはならぬ
     世せがれとは、世継ぎの者という意味。 下馬すると討たれる危険が高まる、だから世継ぎの者たちは家を断絶させないためにも馬から下りるな、というこのことばが、期せずして又兵衛の遺命になった。
    (《東に名臣あり 最後の武辺者 後藤又兵衛基次(もとつぐ)》P.152)


    東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)

     番頭ということばは、武家方ではバンガシラ、町方ではバントウと読みわけられる。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.159)


     月代(さかやき)も髭もよく剃らず、いつも血色の悪い顔と赤い目をしている中山鉄三郎は、巨漢である上に酒乱であった。 鶴ヶ城へ登城してくるときはすでに酒臭いので、
     「こら、さようなことできちんと勤まるのか
     と組頭や同僚がたしなめると、
     「汝(にし)らに意見される筋合いはねえ
     と、うそぶいて、ねちねちと絡みはじめる。
     「いい加減にせい
     などといおうものなら刀の柄(つか)に手を掛けることも再三であったが、おなじ組の者たちとしては酒乱と争い、喧嘩両成敗とされて家中(かちゅう)を追われたりしてはたまらない。
     「触らぬ神に祟(たた)りなし
     の格言を地で行ってだれも鉄三郎を咎めなくなっていた明和八年三月、二十四歳の若さでにわかに番頭に抜擢された者がいた。 一千石取りの田中加兵衛(かへい)、諱(いみな)を玄堅(はるかた)
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.159〜160)


     会津藩初代藩主は、二代将軍秀忠の庶子、三代家光にとっては異母弟にあたる保科正之である。 若くして正之と君臣水魚の交わりをむすんだ田中三郎兵衛(さぶろべえ)正玄、正之が寛永十三年(一六三六)に信州高遠三万石から出羽山形二十万石へ移封(いほう)され、同二十年、奥州会津二十三万石へ再移封されるにつれて累進。 ついには筆頭城代家老に登用され、
     「食事睡眠のときといえど、事を訴える人きたれば食をやめ、枕をしりぞけて応対決断、水の流れるがごとし
     とその精勤ぶりを世に謳われた、秀忠の老中だった、土井利勝も、こう評した。
     「近頃、天下には三人の名家老がおる。尾張の成瀬隼人(はやと)、紀州の安藤帯刀(たてわき)、そして会津の田中三郎兵衛−−なかでも田中は、その優なる者であろう
     田中加兵衛は、二十四歳にしてこの三郎兵衛正玄の再来となることが期待されはじめたのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.163〜164)


     この時代の会津藩の藩庁は、
     「会所
     と呼ばれて鶴ヶ城三の丸のうちにある。 西側の二の丸にむかって表門を据え、赤瓦白しっくい塗りの塀にかこまれた敷地内には月番家老若年寄大目付目付の詰める本役所があり、中庭をはさんでその奥の北から南へかけて町役所山役所公事(くじ)所郡(こおり)役所の建物がならんでいた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.165〜166)


     十一月五日の四つ刻(午前十時)、すでに若年寄、大目付、目付たちが左右に居流れている本役所の広間へ肩衣(かたぎぬ)半袴を着用してあらわれた加兵衛は、
     「本日、御家老職を仰せつけられ候
     と上座に温容を見せている先任の国家老三宅孫兵衛から伝えられ、ついでその目の前にひろげられた「会津藩家訓(かきん)」の末尾に記名血判することを求められた。
     「会津藩家訓」は十一歳にして四代将軍となった家綱の輔弼(ほひつ)役を長く勤め、実質上の副将軍であった保科正之が寛永八年(一六六八)に定めたもので、その十五ヶ条には秋霜烈日の趣があった。 まず加兵衛は畳に両手をつき、顎を引いて大高檀紙(おおたかだんし)に記された文面をたどっていった。

      一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(諸藩)の例を以(もっ)て自ら処(お)るべからず。 若(も)し二心を懐(いだ)かば、即(すなわ)ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
      一、武備は怠るべからず。 士を選ぶを本
      (もと)とすべし、上下の分を乱るべからず。
      一、兄を敬い弟を愛すべし。
      一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
      一、主を重んじ、法を畏
      (おそ)るべし。
      一、家中は風儀を励むべし。
      一、賄
      (まいない)を行ない、媚(こび)を求むべからず。
      一、面々依怙贔屓
      (えこひいき)をすべからず。
      一、士を選ぶに便辟便佞
      (べんぺきべんねい)の者(心のねじ曲った者)を取るべからず。
      一、賞罰は、家老の外、これに参加すべからず。 若し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。
      一、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。
      一、政事
      (まつりごと)は、利害を以て道理を枉(ま)ぐべからず。 僉議(せんぎ)は、私意を挟み人言を拒(ふさ)ぐべからず。 思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。 はなはだ相争うといえども、我意を介すべからず。
      一、法を犯す者は、宥
      (ゆる)すべからず。
      一、社倉
      (しゃそう)は民のためにこれを置く。 永利のためのものなり。 歳(とし)(う)えれば即ち(社倉米を)発出して、これを済(すく)うべし。 これを他用すべからず。
      一、若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢
      (きょうしゃ)を致し、士民をしてその所を失わしめば、即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。 必ず上表蟄居(ちっきょ)すべし。
      右十五件の旨堅くこれを相守り、以往
      (以後)、以て同職の者に申し伝うべきものなり。
      貫文八年戊申四月十一日 会津中将[印]
                        家老中

    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.166〜167)


     危機を感じた加兵衛は会所の文庫にしまわれていた古い書類の塵を払って精読し、なぜこうなってしまったのかを頭に叩きこんだ。  細筆で書き出した数字を読み直してみると、会津藩の国力がもっとも充実していたのは、やはり初代の保科正之田中正玄の時代であった
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.170)


     正之は、家中に布告して殉死を禁止。産子(うぶこ)殺し(間引)も禁じたばかりか、社倉に五斗入りの籾(もみ)を初め七千俵貯えさせて飢餓にそなえた。 この社倉米はのちに五万俵、石高にして二万五千石と藩の表高の一割を超えるまでになった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.170)


     のみならず正之は、身分男女の別を問わず九十歳に達した者には社倉米から終生一人扶持(ぶち)(一日につき玄米五合)を与えつづける、という世に稀な藩政ももおこなった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.170)


     こうして路頭に迷う不安の消えた会津藩の人口は、増加の一途、まだ正之が元気だった慶安元年(一六四八)から三代藩主で松平姓に変わった正容(まさかた)の時代になっていた元禄元年(一六八八)までの間に、農民の数は約四万八千人もふえた。 活力のみなぎった農民たちは新田開発にも打ちこんだため、藩は三万石もの増収となった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.170〜171)


     さる文書が誇らしげに書いているように、この時代の会津藩は、
     「民勢さし潮のごとく盛んなること
     といわれる繁栄を謳歌したのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.171)


     だが、輸出入のない鎖国の体制下にあっては、貨幣経済の浸透とともに物価が高くなるのはやむを得ない。 それにつれて会津藩は赤字体質に変わり、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)には京の豪商三井紹貞(しょうてい)に銀八百貫の借用を申し入れざるを得なくなった。
     藩主松平正容とその家老たちが、なんとか「さし潮」の世を取りもどそうとしたのはいうまでもない。 かれらは藩士長井九八郎の献策を受け入れ、元禄十三年には藩札を大量に発行することにした。
     しかし、これは裏目に出た。 信用の薄い藩札で支払いを受けた御用商人たちは、すぐに金銀に替えたがる。 これによって貯えの激減した会津藩はさらに諸方から借金を重ねるという自縄自縛に陥り、二年後には藩札を廃して長井九八郎に切腹を命じた
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.171)


     それでも借金は雪達磨式にふえてゆき、明和六年、すなわち加兵衛が二十二歳だったころには五十七万両の巨額に達していたことが書類から読み取れた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.171)


     その後は倹約と利子の返済に努めて今日に至っているので、五十七万両という数字はほとんど動いていない。 一方、加兵衛三宅孫兵衛から藩が昨年一年間に使った所務(公費)の帳簿を見せてもらったところ、つぎのような数字がならんでいた。

     一、米十万五千四百石あまり。
     一、金一万五千四百七十八両。
     一、銭六千七十貫弱。


     算盤(そろばん)を引き寄せた加兵衛は、米相場、銭相場を考慮しながらこれをすべて金に直してみた。 すると、二万七千八百八両という数字が弾き出された。五十七万両という借入金は、利子を無視し、藩の公費をすべて元本の返済に充てると仮定しても、完済するのに二十年以上かかる途方もない額だったのである
     (これをわれらが返してゆかねばならぬのか。 しかし、どうやって……
     と考えたとき、さすがの加兵衛も頭がくらくらするのを覚えた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.171〜172)


     悪いときには、悪いことが重なる。
     天明三年(一七八三)の会津藩領は夏になっても肌寒く、土用に雪が降って稲穂は黒くしぼんでしまった。 特に幕府から預っている南山お蔵入り領五万石の地は日光の北の山間部だけに飢餓に見舞われ、疫病も流行して二千四百三十二人が命を失う事態となった
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.172〜173)


     加兵衛たちは社倉米を放出する一方、家中、町方、郷村の豪農たちに義捐(ぎえん)金をつのり、合計四千両以上をかき集めた。 しかし、この年の米穀収入はほとんどなく、またしても借入金はかさみはじめた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.173)


     あけて天明四年の飢餓はさらにひどく、夏までに猪苗代の原村では八十戸のうち二十二戸が空家になり、百三十人が窮死。 おなじく木地小屋村では三十戸うち十三戸が空家になり、三十九人が餓死したと報じられた。
     津軽藩に死者十三万以上、逃散(ちょうさん)三万以上を発生させた「天明の大飢饉」が、会津をも掠(かす)めたのである
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.173)


     こうなっては加兵衛も、妻と点茶を楽しんだりしてはいられない。 眉間に縦皺(たてじわ)を刻んで会所の御用部屋にほとんど詰めきりになったかれは、三宅孫兵衛および若年寄から家老職に昇った小原五郎右衛門(おばらごろうえもん)と相談。郡役所の者たちを山奥の一軒家へも派遣し、鍋の中身まで調べさせて救い米の量を決めていった。 さらに医者たちに郷村を巡回させて疫病にそなえ、命を細らせつつある者には高価な朝鮮人参(にんじん)を投与させた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.173)


     それでも「貧すれば鈍する」のたとえ通り、藩内の風儀は乱れに乱れた。 それはまず、若松の郭内、郭外(町家)への捨子の急増となってあらわれた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.173)


     さらに加兵衛たちを愕然とさせたのは、現代風にいえば連続放火魔が出現したことであった。高田組軽井沢村大谷地(おおやち)作兵衛
     大家族のため飢餓の淵に落ちた作兵衛は、三月五日夜、水島村の四郎右衛門方に火をつけ、騒動になった隙に籾五斗を窃盗。 同九日夜には八木沢村の忠助方、四月二日には上戸原村の十右衛門方に火つけして木綿の綿入れふたつと白米二斗を盗み、目明したちに捕われた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.174)


     家族を養うためとはいえ、火つけは火焙(ひあぶ)りとされるのが定法であり、
     「法を犯す者は、宥すべからず
     とする、「会津藩家訓」の精神は守らなければならない。 七月九日、作兵衛は火刑に処された。
     子捨て死体投棄火つけ米泥棒−−これらの犯罪が、かくもまとまって発生したのは会津藩政史上初めてのこと。
     (これでは、政事(まつりごと)を根本から考え直すしかない
     深く思いつめた加兵衛は、三宅孫兵衛小原五郎右衛門以下が仰天する行動に出た。 江戸参勤をおえて帰国していた松平容頌に対し、
     「病気につき、家老職を辞することをお許し下さりませ
     と願い出たのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.174〜175)


     鶴ヶ城本丸表御殿の御座所は、十五畳の一の間、十畳の二の間、そして十五畳の三の間から成っている。 会津葵の紋を打った夏羽織を着けてその一の間に出座した容頌は、二の間へ伺候した加兵衛から辞意を伝えられるや鷹揚(おうよう)に答えた。
     「その方は、まだ年若じゃ。 しばらく保養して、また出仕すればよかろう。 辞職は認めぬぞ
     このとき四十一歳の容頌は、聡明の質であった。財政窮乏を自覚してからは、着古した衣装をまとうことも厭がらない。 忠孝貞節、あるいは善行の者がいると聞けばすぐに褒美を与え、
     「もし賞するのが遅れて、その間にその者が死んだりしては悔やみきれぬからの
     と語る人物でもあったから、
     「田中加兵衛、この多事多難の際に身を引こうとはいかなる了見か
     と激怒したりはしなかったのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.175〜176)


     屋敷に籠った田中加兵衛がまずしたのは、書院の床の間に「会津藩家訓」を軸装して掲げることであった。
     つぎには桐箱入りの「会津五部書」の写本を付(つけ)書院に置き、毎日これを精読することにした。 「会津五部書」とは、保科正之が命じて木版刷りにした五冊の書物という意味。 特に正之の儒学の師山崎闇斎(あんさい)の協力を得て編纂された『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教録(にていちきょうろく)』『伊洛三子伝心録』の三冊は、初めて社倉を設置した朱子とその学説につながる者たちの教えをまとめたもので、
     「民を治め導くには、まずこれらを読まねば
     と会津の学問好きの間ではいわれていた。
     その会津藩士たちが正之のことを口にするときは、
     「土津(はにつ)さま
     という。 正之は吉川神道を奉じて土津霊神の神号を受け、猪苗代の土津神社奥津城(おくつき)に眠っているるからである。
     加兵衛がまず『玉山講義附録』以下に学ぼうとしたのは、
     (この国を、土津さまの御世にもどしたい
     と切に願いはじめていたためにほかならなかった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.176〜177)


     なかで軍学に造詣が深いのは、番頭の生駒内蔵助(いこまくらのすけ)と徒組(かちぐみ)の後藤安之丞であった。 荒武者として知られるこのふたりが打ちつれてやってきた黄昏(たそがれ)時、まず加兵衛は水をむけた。
     「それがしが番頭だったころ、さる者に母衣(ほろ)を示して用途をたずねたら絶句されたことがありましてな。 騎馬の士が戦場で母衣の着用を許されるのは武門名誉のことと申すに、目下採用されている河陽(かよう)流軍学ではさようなことも教えぬのですな
     生駒内蔵助は、身を乗り出して答えた。
     「近頃は番頭のなかにも、鉄砲の撃ち方すら知らぬ者がおりまするよ。 『武備は怠るべからず』と仰せ出された土津さまがそれと知ったら、どうお思いになることやら
     「それでは、より実戦に役立つ軍学はあるのか
     とたずねた加兵衛に、今度は後藤安之丞がよく聞いてくれました、とばかりに応じた。
     「それは長沼流兵法に尽きましょう。 神州松本の人、長沼澹斎(たんさい)先生が著した『兵要録』によりますと、この兵法では練兵を重んじます。 原野に出、十人一組が什長(じゅうちょう)に指揮されるこの操練をおこなえば、母衣の用途も銃陣の立て方もすぐ身につくと申すもの
     「ほほう、その『兵要録』なる書物を、読んでみたいものだな
     加兵衛は、目を輝かせていった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.177〜178)


     また、別の日、−−
     藩お抱えの朱子学者のせがれ松本一十郎、部屋住みながら学のある柴喜左衛門浮州観水(うきすかんすい)らと、近頃は役人の欠員を補うにも学問を知らない者が多過ぎて実に困るという話になったとき、自宅に私塾をひらいている松本一十郎が意見を述べた。
     「ならば、岡山藩池田家閑谷(しずたに)学校のような藩校をもうけ、藩士の子弟全員を一定期間ここに学ばせればよいのではござりませんか。 この御城下でも土津さまの御世には無為庵如黙(じょもく)なる僧が稽古堂なる郷校をひらき、藩儒の方々にも出講してもらって町人と藩士子弟を一緒に学ばせていた、と親父殿から聞きました
     この話も、加兵衛は深く心に刻んだ。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.178〜179)


     さらに別の日、かれは江戸詰めの長かった者と藩医たちを呼んでたずねた。
     「それがしも疝気持ちゆえ大きなことは申せませんが、どうもこの会津の者たちにはからだが弱く、背も低い者が多いように思う。 江戸から帰国したとき初めて感じたのですが、これは気のせいでしょうかな
     と、江戸詰めの長かった男はいった。
     「江戸では江戸前の魚が食べられますし、秋には松茸(まつたけ)も容易に手に入ります。 と申すにこの会津で食膳にあがる海の魚といえば、せいぜい塩鮭か干物程度。 川や沼には雑魚しかおりませんし、赤松の林はいくらでもあるのになぜか松茸は出ません。 うまいものがないので、からだに肉がつかず背も伸びないのではありませんか
     「それは、一理も二理もある
     と坊主頭の藩医が答えた。
     「この地には滋養分のある食物が少ないので、病弱でからだの小さな者が多いのでございましょう。 今のような飢饉がこなければ米はよく穫れる国柄ですから、飯ばかり食べてほかに滋養分を摂る習慣が育たなかったのかも知れませぬ
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.179〜180)


     家老職にあると、人を呼んでなにかたずねても杓子定規な答えしか返ってこない。 だが、職を辞し自宅に閑居して酒を酌み交わしながら意見を聞くと、だれしもが虚心坦懐に思うところを語ってくれるのだった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.180)


     「やあ、済まぬが水を馳走してくれぬか
     笠を取った加兵衛がにこやかに告げながら暖簾をわけると、店のあるじたちは奥へ案内して茶と小鉢に盛った鰊(にしん)の山椒漬けでもてなしてくれるのをつねとした。 鰊の山椒漬けとは越後から運ばれてくる身欠き鰊を酢、味醂、醤油をほどよく混ぜた液に漬けたもので、町方でも武家方でもこれを上手に作れない女たちは一人前と認められない
     「うむ、この山椒漬けはうちのより旨い
     と喜ぶ加兵衛にあるじたちはいつか心をひらき、商いの上の悩みを打ちあけるようになった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.180)


     造り酒屋のあるじたちは、米が上質でも灘・伏見の酒より数等劣る味しか出せないのに首をひねっていた。漆器問屋会所から買いつけを許される漆(うるし)の量が年ごとに一定しないばかりか、絵柄が田舎臭くて藩外では売れないことに頭を悩ましていた。
     瀬戸物屋は、地元の本郷焼きの質が西国産に及ばないことを慨嘆。薬種問屋高価にさばける朝鮮人参の種が入手しにくいことをこぼし、呉服屋は呉服屋で、ありていに商いの内情を教えてくれた。
     「御領内にお蚕さまを飼う者が少なく、機織り業者もあまりいねえので、どうしても他国から反物を仕入れることになります。 すると運び賃などを加えてどうしても値が張ってしまい、あまり売れねえってことになってしまいましてのう
     どうも会津藩領では、地場産業からして育成に工夫を凝らす余地がまだまだ多分にあるようであった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.180〜181)


     各組の最年長の子は長沼流兵法の用語を取って「什長」と呼び、この八項目は「什の掟」と名づけた。 これに違反した者には、〔しっぺい〕から派切れ(仲間はずれ)までの罰を与えて発奮をうながす。
     (上士の子弟はいずれ藩の要職につき、一朝事あれば陣頭に立つ者たちだ。 それには幼時から互いに心を通わせるように仕向けてやることだ
     というのが三郎兵衛の考え方であった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.187)


     おなじく天明八年三月二日には地方、町方に五人組の法を定め、村には肝煎(きもいり)、町には町頭を各ひとりずつ置いて風儀を乱す者を監視させることにした。 また町方は町奉行ふたり巡回させ、商人たちが勝手に物の値段をつりあげて暴利をむさぼることを戒めさせた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.188)


     その直後の二十二日には、服色の制度を発布した。 お目見(めみえ)以上の者とその子弟の衣服は青茶か花色、羽織紐は茶色などと身分が一目でわかるようにし、不敬な行為に及ぶ者がでないようにしたのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.188)


     「ならぬことはならぬものです
     と言い合う黄色い声が郭内のあちこちから聞こえてくるようになっていた寛政元年(一七八九)には、の良木が多くて養蚕の盛んな福島方面から桑の苗を大量に買いつけ、希望者に配布して養蚕を奨励してみた。 並行して機織り職人を京へやって織物の技術を学ばせ、家中の徒士(かち)以上の家の女たちには絹物や紬(つむぎ)を着ることを許した。
     ただし三郎兵衛は、
     「着用の許されるのは、自分で糸を取り、自分で織った衣装に限る
     と条件をつけることを忘れなかった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.188)


     郭内のほとんどの家からトン、トン、カラリと機を打つ音が響くようになったのは、これ以降のこと。 絹物が織れれば木綿物も織れるから、町方には会津木綿がひろまって染物師も次第に活況を呈した。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.188)


     また別の日。
     三郎兵衛は御用部屋へ小役人のひとりを呼び、こう命じた。
     「その方に御用旅を命ずる。出雲国(いずものくに)へゆき、よく栽培されているという朝鮮人参の種を買いつけてまいれ。 二百両預ける
     二百両といえば、米を百四十石以上買える額である。 三郎兵衛が二十五両入り切餅八つを膝の前へすべらせると、
     「こ、これはあまりに大金過ぎるのではございませんか
     小役人は、目を白黒させた。
     「余計な心配をいたすな
     三郎兵衛は、涼やかなまなざしで小役人を見つめて説いた。
     「わが国に朝鮮人参に適した地味の畑があるかないかは、種を播(ま)いてみなければわからぬ。 少しばかり買いつけてわずかな畑に播き、すべて枯れ死にしたらまったく無益だ。 されば大量に買いつけ、会津四郡のすべてに播いて結果を見るのだ。 わかったらすぐに旅立て
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.189)


     神体虚弱、背丈の低い者も多い領民たちのためには、かれらの稼ぎになることも勘案してまず松茸を育てる ことにした。 鯉は江戸で稚魚を買いつけ、あらゆる河川と湖沼に放流させた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.190)


     (きのこ)の類はあるところに群生することから見て、どうも土の質に秘密が隠されているらしい。 そう考えた三郎兵衛は、容頌−老中松平定信奈良奉行と伝手(つて)をたどり、松茸のよく出る奈良の稲荷山の赤松林の土を剥ぎ取らせてもらって土俵(つちだわら)に詰め、何百俵となく会津へ運ばせることにした。 その土を若松郊外の赤松林に貼りつけさせれば、あとは果報は寝て待てである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.190)


     地酒を改良することについては、若いときに斗酒なお辞せずとして知られた町奉行副役(そえやく)、赤ら顔の伊予田安太輔(やすだゆう)の建議を採用することにした。
     「杜氏(とじ)は摂津、麹師は播磨の者が特に巧者と申します。 これらの国から、何人かを招いてはいかが
     「ではその方に、両国へ出張を命ずる
     三郎兵衛はいい、にっこりしてつけ加えた。
     「灘、伏見の酒を飲み過ぎて御用を忘れるなよ
     寛政三年秋、伊予田安太輔がようやくつれてきたのは、摂津の杜氏茂兵衛庄七、そして播磨の麹師清七であった。 三人はすぐに大町の酒造業者の仕込みを指導し、年があけてまもなく、まことに豊醇な酒ができあがった。
     (これだけの酒が毎年造れるなら、諸国に売り出しても人気を呼ぼう
     そう思いついた三郎兵衛は、仕込み水に適した泉の涌く西郊材木町住吉河原に藩営の酒蔵を建てると決断。あらたに酒造方役人を置き、長さ七十間(一二七・三メートル)、幅五間の酒蔵を建造させることにした。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.190〜191)


     この寛政四年九月には、住吉河原の藩営の酒蔵も完成、酒桶百本が据えられ、ほどなく酒米二千石の醸造がはじまって玄関の軒下には青々たる杉玉が飾られた。
     その杉玉も茶色く枯れた翌年初め、これを試飲した容頌は、
     「うむ、上方から江戸へ回送されてくる灘の『隅田川』や『千代之井』よりも風味がよいぞ。『清見川』と名づけ、余の夕餉(ゆうげ)の膳には必ずこれをつけよ
     と老いて額に皺のめだってきた顔をほころばせ、茂兵衛、庄七、清七の三人には苗字帯刀を許した。 この年から「清見川」は日光街道を運ばれて下野国(しもつけのくに)でも売り出され、
     「会津清酒は奥州の灘
     と評判をとることになる。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.193)


     並行して川や沼では大きく育ったが獲れ出し、城下北東の堂ヶ作山や温泉宿のならぶ東山赤松林には松茸がよく出るようになった。
     ほとんど乾物屋同然だった大町の魚屋には鯉のブツ切りが出まわり、甘煮(うまに)にされて会津料理の代表格の地位を占めた。 山々には茸小屋が建てられ、何日も泊りこみで松茸を取る領民たちも続出して貴重な現金収入をもたらしはじめた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.193)


     朝鮮人参は特に南郊の門田(もんでん)村に播かれたものがよく育ち、播種後四年以上たったため採取がはじまった。 この人参は、姿が良ければ一斤(六〇〇グラム)が五、六両にもなる。 三郎兵衛は産物役所人参方を置き、出納役鑑定役を任命してこれを藩の専売とすることにした。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.193)


     「余がいつも心に懸けているのは、かの保科肥後守さま(正之)にならいたいということだ
     と述懐していた老中首座松平定信は、これらのめざましい動きに注目し、自分が藩主をつとめる白河藩の家老たちを叱咤激励してやまなかった。
     「その方ら、会津の田中三郎兵衛に笑われるな
     かれの推進していた寛政の改革よりも、三郎兵衛の藩政改革の方が格段の成功を収めつつあったのである。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.194)


     やや厄介だったのは、の一定量の確保と漆器の改良であった。
     三郎兵衛が保科正之の時代の記録を読んでみると、正之の会津入り当初、会津四郡には目通り(目の高さの直径)四尺以上の漆の木が二十六万千二百四十八本あった。 それから取れた漆は六百七十三貫目(二五二四キログラム)、漆の実を加工して作る蝋は一万千二百三十貫目(四万二一一三キログラム)。
     正之はそのうちの何割かを年貢として納めさせ、残りは藩で買いあげて漆問屋へ卸した。 年貢分の一部は幕府への献上品とされ、保(も)ちのよい会津蝋燭は江戸で人気を呼んで、
     「おい、会津を持ってこい
     といえば蝋燭を、という意味になった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.194)


     以後、歴代藩主が漆の木の植えつけを奨励しつづけてきたから、木の本数ははるかに増加していたはずである。
     実際、から藩へ入る年貢高は、米につぐまでになっていた。 だから漆の問屋への供給量が安定して漆器の絵柄も垢抜けすれば、蝋燭同様かなりの収益が期待できる。
     というのに、なぜ漆の供給量が安定しないのか。 この問題を産物役所国産方に調べさせたところ、ようやくこのころ三郎兵衛のもとに報告がきた。
     「それは、欲を張った漆掻きたちが漆の木を掻き殺してしまうからでございます
     漆を取るには、木の幹に刃物で傷をつけて樹液を滴らせる。 目一杯たくさん樹液を滴らせようとして傷をつけ過ぎ、木を立ち枯れにしてしまうのが「掻き殺し」である。
     「そんなことだったのか
     珍しく苦笑して顔をひと撫でした三郎兵衛が指示したのは、これまでだれも思いつかなかった方法であった。
     −−土津さまの御世にならい、目通り四尺以上の木が領内に何本生えているか隈なくかぞえよ。 数えた木には一本ずつ札をつけてこれを漆の戸籍とし、木の大小によって年ごとの掻き取り量を決めて、ひと掻きごとにこの札に書きつけさせよ。
     −−あらたに漆を植える者は賞し、伐採は私有地であってもこれを禁じる。
     −−京から名のある蒔絵(まきえ)師を招き、垢抜けした絵柄を描かせて領内の塗師(ぬし)たちに伝習させよ。

    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.194〜195)


     産物役所国産方はいうまでもなく、町奉行郡奉行南山お蔵入り領の郡奉行国産奉行山奉行とその配下の者たちを総動員して総本数の調査には、半年以上かかることを覚悟しなければならなかった。 ことに奥只見方面には熊が出没することも珍しくなく、冬は豪雪に埋れるため巡回しにくい。
     ところが、この調査は三カ月で完了した。 村ごとに肝煎を置き、五人組の制度を作っておいたことが大いに役立ち、この五人組から個々に報じられた数字を足してゆくだけで総本数をはじき出せたのである。
     この調査の結果、総本数は百八十万本以上に達していることが判明。 一本ごとの掻き取り量を決めたために毎年の予定産出量を定め、漆器問屋に伝えて吸物椀重箱その他をどれぐらい作るか考えさせておくことが可能になった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.196)


     ついで三郎兵衛は、鶴ヶ城西出丸の西方を東西に伸びる米代(よねだい)一ノ丁、おなじくニノ丁の間に建つ目付藁谷(わらや)吉右衛門ら四戸をよそへ引き移らせ、更地(さらち)とした七千余坪に藩校を建てるとにした。 四戸へ与えた転居料は三十一両。
     あけて寛政十一年の年頭からはじまった四戸の取りこわしと地均しに、新九郎は述べ一万三千人を動員。 三郎兵衛も家中に布令して小普請の者から講所の学生(がくしょう)たちまでに手伝いを命じたため、たっつけ袴に紺足袋わらじ掛け、鋤(すき)や鍬(くわ)を持って四方から集まってきた者たちが日夜泥だらけになって働きつづけた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.199)


     水練水馬池は、具足をつけて泳いでも溺れない向井流泳法と激流を乗馬したまま渡河する馬術を教えるためのもので、これは二十世紀になってから日本最古のプールと認定される。 東西南北の斜面が台形を呈した観台は、天文台である。この天文台での観測結果は「会津暦」に反映され、領民に種蒔き時を教える重要なものとなる
     「日新館
     と名づけられたこの藩校はまだ未完成の享和元年(一八〇一)初めに開校され、ようやく三郎兵衛は子弟全員入学の夢を叶えることができた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.200)


     それにしても三郎兵衛を不安にしたのは、七代藩主となった金之助あらため容衆(かたひろ)が、まだ四歳の幼児だったことであった。 二度の葬儀にげっそりとやつれ、ふたたび江戸へ出た三郎兵衛は、乳母に抱かれてむずがる容衆の血色の悪い顔を見て目の前が暗くなった。
     容衆がうまく成長してくれないと、保科正之以来の血筋松平定信にも注目された会津藩断絶を余儀なくされる。 それを思って憔悴(しょうすい)しきった三郎兵衛は、ひそかに詠(よ)んだ。

     いとけなき君に仕ふる枕には涙かわける暁もなし

     蒲柳(ほりゅう)の質の容衆がよく育つか否かは、五分五分と感じられた。 だが、成人できたとしてもそのころもう自分はこの世にいないから、藩政の要諦を教えることはできない。
     この問題を超克するために、三郎兵衛は国家老たちに文書で伝えた
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.205)


     −−藩政にかかわる古文書を整理し、土津さま以来の出来事、法の改定、賞罰などを年代順にまとめさせて会津藩の正史を編ませて『家世実紀』と名づけよ。 また、『輔養編』覆刻し、全藩士に配布せよ
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.205)


     『家世実紀』が完成すれば、容衆は保科正之から松平容頌に至る藩経営の努力をいながらにして知ることができる。『輔養編』は正之が四代将軍家綱の輔弼役に就任してすぐ編ませたもので、王者の心得と幼君に仕える心構えを説いていた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.205〜206)


     覚悟を決めた三郎兵衛は、月の変わらぬうちに幕府に報じた。
     「先代松平容住さまの側室のおひとりに、懐妊中の者あり
     まだ生まれてはいないが、容住の血を伝える者は容衆以外にもいる。 そういう体裁にしておいて、徳川家の血脈の男児をどこからか養子に迎える、と三郎兵衛は策を巡らしたのである。 刃(やいば)の上をわたるような危うい策であったが、かれにはこれしか思いつかなかった。
     その夜、三郎兵衛が家老屋敷の書院に内藤源助西郷式部の両若年寄を呼んでこれをうちあけたところ、一徹者の源助は顔を歪めてかれを詰(なじ)った。
     「かかる密計をもって幕府を欺くは、土津さまの遺したまいし家訓の心に悖(もと)るもの、わが公に万一のことあらば幕府につぶさに事情を伝え、将軍家の若君のどなたかを養子の君としてお迎えすればよろしゅうござる
     「それは、すでに検討いたした
     三郎兵衛は、灯火に削げた頬を浮かびあがらせて答えた。
     「だがな、およそ大名家は、嗣子(しし)なきときは改易されるか封土削減となる定めではないか。 わが藩がそうなったならば、困窮忍びがたいことになる
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.206〜207)


     「本日、男子出生、慶三郎君と名づく」  と、三郎兵衛が幕府に報じたのは翌日午後のこと、かれと山野辺主水の動きは幕府の察知するところとはならず、会津藩は天からの授かりもののように容衆の控えの男子を得ることに成功したのであった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.208〜209)


     それにしても、もう一度藩の財政を建て直しておかなければならない。 案の定、容衆が病んで国許での養生を許されると三郎兵衛もともに帰国し、七月から「賄(まかない)扶持の制」を断行することにした。 これは家中の者すべてにひとりにつき一人扶持、味噌二十匁(もんめ)と薪代しか与えず、残りの俸給はすべて藩が借りあげる、という凄まじい倹約策であった。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.209)


     その結果、二千八百石取りの家老北原家は、家族五人と家来七十五人の八十人で年に百四十石しか受けられなくなった。 事情は田中家も似たようなものであったが、三郎兵衛は日新館の学生だけは優遇した。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.209)


     かねてから学年によって一人扶持から七人扶持の俸給を与えていたかれは、これを止めるかわりに給食を出すことにした。 七月二十二日からはじまった給食は、米がひとり二合五勺、味噌十五匁、塩鮭は五分の長さ、豆腐は五人で一丁、漬物は茄子(なす)ならひとりひとつずつ。 おそらくはこれが、本邦給食制度のはじまりであろう。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.209)


     こうして国力を着々と貯えた会津藩に、幕府が唐太島(サハリン)、蝦夷地北端の宗谷岬、その西方に浮かぶ利尻島への出兵を命じたのは文化五年一月のこと、ロシア人が唐太に南下し、日本人集落に対して掠奪暴行に走ったため、軍備よく整った会津藩に北辺警備が依頼されたのである。
     「会津藩家訓」第一条、「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処(お)るべからず」 の精神を守ってこれを受けた三郎兵衛は、老骨に鞭打って江戸へ出府。一千五百の藩兵を戦船(いくさぶね)に乗せて、北へむかわせた。
    (《東に名臣あり 田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)》P.209〜210)


    東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)

     一瞬にして姿を消してしまう島もあれば、あるとき忽然と生れる陸地もある。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.215)


     九州別府湾の沖合二十町(二一八〇メートル)にあり、約一千戸五千人あまりの島民たちが暮らしていた瓜生(うりゅう)島は、太閤豊臣秀吉がまだ存命だった文禄五年(一五九六)閏(うるう)七月十二日夕刻、大地震が発生させた大津波によって海没。 溺死者七百八人を出し、そのまま別府湾の海底の一部と化してひさしい。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.215)


     対して長門国厚狭郡(ながとのくにあさごおり)宇部村の南のはずれ、瀬戸内の周防(すおう)灘に面した長さ一里あまりに達する長大な砂洲については、つぎのような伝説があった。
     −−あるとき、風も吹かないのに沖の海が轟々(ごうごう)と二日二晩鳴りつづけた。 三日目の朝、その音もかなり静まったので村人たちがそれまで浜辺であったところまで出かけてみると、浅瀬のかなたに白い帯状のなにかが横たわっている。 さらに近づいてゆくと、その白い帯状のものは大きな砂の丘だとわかった。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.215)


     赤間関は、本州と九州の間を蛇行した川のように走る馬関海峡の北岸に位置する。 港域とされるのは、西が本州の西南端に突き出た彦島の弟子待(でしまつ)の鼻。 東は真南の海峡上に宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った船島こと巌流島を見るあたりまで。
     海上から本州と九州とを同時に眺められるこの地に遊んだ文人は多く、赤間関の「」の字を「」に変えて馬関海峡と呼びならわしたのも元禄以降の文人たちであった。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.226)


     馬関海峡の潮の流れの特徴は、日本海側の響灘(ひびきなだ)と瀬戸内の周防灘の水位が規則的に逆転すること、周防灘が満潮に近づくと少なくとも三海里(時速五五五六メートル)の西流が二刻半(五時間)にわたって起こり、響灘の海面が高くなれば東流が三刻半(七時間)もつづいて渦潮をつくる。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.226)


     異国船が赤間海峡に入りたがるのはこの奔流を避けるためでもあったが、この日、さらに東の壇ノ浦寄りにある観音崎付近に投錨したのは、煙出し(煙突)から黒煙を吐き出しつつ周防灘からあらわれたイギリスの蒸気船であった。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.226)


     公卿たちのうちにも、長州藩に批判的な公武合体派がいる。 その代表は中川宮尊融(なかがわのみやそんゆう)親王八月十三日、にわかに大和行幸の詔勅が下ったことを奇怪に思った中川宮は、十六日夕刻に参内して天皇に会見し、詔勅が偽勅であることを確認すると同時に、
     「武力をもって国家の害を除くべし
     との宸翰(しんかん)を与えられた。 天皇は長州藩によしみを通じ、偽勅を出してまで軍を進発させようとする三条実美らの不遜な動きを苦々しく見つめていたのである。
     このころ京にある公武合体派最大の兵力は、京都守護職として東山黒谷の金戒光明寺に本陣を置く会津藩主松平容保(かたもり)の率いる一千であった。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.244)


     中川宮から宸翰を見せられた容保は薩摩藩および京都所司代の兵力と協力し、十八日九つ半(午前一時)に御所九門を一斉に閉鎖。 即刻参内を命じられた長州藩以外の在京の大名たち禁裏小御所(こごしょ)に集まると、でっぷりと肥えた中川宮が勅を伝えた。
     「このごろ議奏ならびに国事掛の輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざる事をお沙汰の由に申し候事少なからず。 なかんずく御親征行幸などの事に当りては、即今いまだその機会来たらずと思し召され候を矯(た)めて、叡慮の趣に施行(せぎょう)候段、逆鱗(げきりん)少なからず。 ……いったい右様の過激、疎暴の所業あるは、まったく議奏ならびに国事掛の輩が長州の容易ならざる企てに同意し、聖上(天皇)に迫り候は不忠の至りにつき、三条中納言はじめ、おって取調べ相成るべく、まず禁足し、他人との面会は止められ候事
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.244〜245)


     江戸藩邸から山口へは、
     「幕府は亡命七卿と毛利家の罪を問い、追討軍を発する模様
     との密報が断続的に届いていた。 だが、公武合体派諸藩の足並は乱れ、幕府も積極的に動く気配を見せない。
     これに自信を深めたそうせい公は、年のあらたまった元治(げんじ)元年(一八六四)五月二十七日、家老に登用したばかりの国司信濃に対し、今は防府の三田尻港に身をひそめている七卿の赦免を訴えるとの名目で上京するよう命じた。 同時に越後には、
     「江戸へ出府すると見せて伏見へおもむき、機を見て国司信濃に合流せよ
     との主命を下し、五七の桐に丸の家紋を全面に散らした大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)を餞(はなむけ)として与えた。五七の桐豊臣家の紋だから、これは元豊臣家五大老につらなった毛利家の臣として徳川方と戦え、という意思のあらわれである。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.246〜247)


     ところが十四日京都留守居役乃美織江(のみおりえ)は池田屋事件発生の報を政事堂に伝えてきた。
     会津藩お預かりとして京の市中見廻りにあたっている新選組が、五日夜に三条小橋たもとの商人宿池田屋を急襲。 松平容保を討って慶親京都守護職に迎えるべく謀議していた尊攘激派を潰滅させ、斬られたなかには長州の吉田稔麿(としまろ)、吉岡庄助杉山松助もふくまれていた、という。
     これに激怒したそうせい公は、益田右衛門介にも一軍を与えて京へ出発させることにした。 長州藩は、世子定広三家老を京へ進撃させる策に出たのである。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.247)


     長州軍が迫ると知って在京公武合体派諸藩が防備を固め、睨みあいのつづいていた二十九日、天皇は松平容保宸翰(しんかん)を下した。
     「長州人の入京は決してよろしからざることと存じ候
     との一文をふくむこの宸翰により、長州軍は越後がそれと知らぬ間に天下の賊軍となってしまっていた。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.248)


     福原家の軍法では、一番貝で出陣用意、二番貝で整列、三番貝で行軍に移るものと定められている。 しかし、藤森神社付近に敵が進出していては、法螺貝を吹かせるのは、こちらの動きを教えることになる。 やむなく越後は、小隊長たちに手旗の合図で行軍隊形をととのえさせた。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.249)


     越後が意識を取りもどしたのは、銭屋の一室でのことであった。 薄目をあけると福原家家老定近市太郎の顔が間近にあり、
     「ここはどこだ。 いくさはどねえなった
     と聞こうとしたが、右顎に激痛が走って声を出せない。 みずから応戦命令を下そうとした越後が大きくひらいた口から浸入した銃弾は右奥歯を砕き、頬の筋肉を傷つけてまだその筋肉のうちに止まっていた。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.251)


     このとき長州藩毛利家は、関ヶ原の敗戦直後よりも深刻な事態に直面していた。
     御所中立売門(なかたちうりもん)外の国司信濃の陣地跡から毛利慶親・定広父子の黒印(こくいん)のある軍令状が発見されたことから、七月二十三日天皇は、
     「かたがた防長に押し寄せ、すみやかに追討これあるべき事
     との勅令を一橋慶喜に伝達。二十四日、将軍家茂はこれを受け、中国・四国・九州の二十一藩に長州追討の幕命を下していた。 この動員令は、旗本御家人をふくめれば十五万人と、関ヶ原の戦いの東西両軍をあわせた人数を長州に攻めこませるという大規模な計画であった。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.253〜254)


     二十四日、勅命によって慶親定広父子は松平の姓と官位、十二代将軍家慶(いえよし)の諱(いみな)から取って与えられた「慶」の字を褫奪(ちだつ)されたため、慶親は敬親(たかちか)、定広は広封(ひろあつ)と改名することになる。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.255)


     いずれにせよ三家老の首と引き換えに長州追討を中止させることに成功した長州藩が、四年後には維新の勝者となったのは周知の通り。新政府軍が明治元年九月に開城降伏した会津藩から田中土佐神保内蔵助(くらのすけ)、萱野権兵衛(かやのごんべえ)の三家老の首を差し出させたのは、倒幕派に転じた薩摩藩とともにその主力となっていた長州藩が三人という数にこだわったためだ、とする説があるのももっともなことであろう。
    (《東に名臣あり さらば、そうせい公 福原越後元|(もとたけ)》P.260)


    東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)

     人名には、後世その読み方が誤って伝えられてしまう場合が時にある。
     幕末の人物でいえば、新選組参謀伊東甲子太郎、越後長岡藩の家老河井継之助、幕府若年寄永井尚志らがその典型である。
     この三人を日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館 一九八一)は、いとう〔きね〕たろう、かわいつ〔ぐ〕のすけ、ながいなお〔むね〕として立項している。 これらはすべて間違いである。 いとうかしたろうかわいつのすけながいなおゆき〕とするのが正しい。
     「継(つぎ)さあ
     と呼ばれた河井継之助、諱(いみな)は秋義は、文政十年(一八二七)元旦、長岡城下の長町に生まれた。 長岡藩七万四千石の勘定奉行をつとめ、百二十石を受ける河井代右衛門秋紀・貞子夫婦の嫡男としてである。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.263)


     父がまったくのお人好しであったのに対し、貞子は日本合戦史をよく知っているかと思えば算盤(そろばん)も達者な女丈夫であった。 その血を受けてか継さあも幼いころから利(き)かん気で、遊び仲間の年長者から棒で殴られ、頭から鮮血が滴(したた)っても、そのまま家に帰ってきてなにもなかったような顔をしていた。
     やはり年長者たちに両手を押さえつけられ、指の接節(つぎぶし)(関節)を煙管(きせる)でコンコンとやられて血が滲んだ時には、さすがに痛さと口惜しさから涙を流した。 それでも、
     「勘弁してくりやい
     とは、ついにいわなかった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.263〜264)


     たとえば馬術は、まず馬を慢行(じみち)(常足(なみあし))で歩かせながら鞍の上に姿勢をただし、手綱をつかんだ拳を上下させないこと、騎座(両膝の内側)をぴたりと馬の肩口につけることからはじまる。 つぎに馬を緊行(のり)(速足(はやあし))で走らせてその速さにからだを随伴させてゆく呼吸を身につけ、それから騎座と座骨の合図で馬を駆行(かけみち)(駆足(かけあし))発進させることを学ぶのである。
     「馬は百鞍
     ということばもあり、馬術は一回につき四半刻(三十分)から半刻(一時間)の稽古を百回おこなうと初心者の域を脱するものとされていた。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.264)


     天保十四年(一八四三)には、十七歳にして王陽明『伝習録』を読み、陽明学にめざめた。
     明(みん)の時代の儒学者王陽明が完成させた陽明学は、観念的になりすぎた朱子学に対し、心即理(しんそくり)、致良知(ちりょうち)、知行合一(ちこうごういつ)、無善無悪説などを主張した。
     心即理とは、心と理(道徳的規範)を別々のものとは考えず、心を理に合致させよ、との主張。知良知は、人間の本来そなわっている道徳的判断力を発揮せよ、との教え。知行合一は認識と行動を一致させよということであり、無善無悪説とは人間の欲望を肯定する立場である。
     特に知行合一という考え方は、今の世がおかしいと思ったならば即刻世直しをせよ、という論理につながる。 その意味で陽明学は、革命思想でもあった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.265〜266)


     乱世の到来を予感しながら年末にいったん帰国した継さあは、江戸はどうだった、と友人に問われると、秀でた額の下からギョロ目を光らせてまったく別のことを答えた。
     「これからは天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ。 沈香(じんこう)もたけ、屁もこけ。 牛や羊になって人の血か肉になってしまうか、豺狼(さいろう)となって人の血か肉を啖(くら)いつくすか、どっちかにせい
     いわれた方は、どうにも答えようがなかった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.266〜267)


     あけて嘉永六年(一八五三)六月三日には、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが黒船四隻を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求するという大事件が起こった。
     (この国難、座視すべきときにあらず
     と考えた継さあは、まず古志郡(こしごおり)のうちにあった河井家の所有地の一部を売って二百両を捻出。 とりあえず将来見こみのある若手藩士数人を浦賀へ走らせ、つづいて自分もまた江戸へ出府した。
     しかし、西の丸下長岡藩江戸屋敷の門長屋に入った継さあは、愕然とした。 上質の越後米と美酒に満足している藩士たちは、ペリーが一年後に再来航するといって去っていったのに胸を撫でおろすばかりで、今後日本がどうすべきか ということなど論じようともしない。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.267)


     若殿お国入りに際しては、文武いずれかに秀でた藩士が技芸を披露する慣例があり、これを、
     「御聴覧(ごちょうらん)」
     と称した。 斎藤拙堂と古賀茶渓に学んだ継之助は、使者に忠恭の前で経史(五経と史書)につき講義するように命じられると、好みの紺絣(こんがすり)をまとった胸を反らせて答えた。
     「おれはな、講釈などするために学問したのではない。 講釈をさするなら、講釈師に頼めばええんでないか
     驚き呆れ、かつ困惑した藩庁が、それでは病気で出講できぬと願い出よ、といってくると、継之助は上唇をめくるようにして応じた。
     「病人でもない者が、病気と申し立つべき道理がどこにある
     この破天荒な返答により、継之助は藩庁から譴責(けんせき)をこうむる羽目になった。
     「その方儀、若殿さま御入部につき文武芸事(げいごと)御聴覧もこれあるところ、一流(小生意気)にもまかり出でず候段いまだ壮年にて心懸け宜(よろ)しからず、不埒(ふらち)のことにつき、お叱り仰せつけられ候
     お叱りとは、罪を叱りおくという罰である。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.270〜271)


     菅笠とたっつけ袴を着用してその河原へ通いつめた継之助は、十匁筒(じゅうもんめづつ)といわれる火縄銃に右頬をつけて左目をつむれば、五十間(九一メートル)先の獲物を撃っても百発百中の腕前になった。
     一般に角場(かくば)における銃砲の稽古は、十五間(二七・三メートル)先に立てられた八寸(二四センチメートル)角の板の差しわたし二寸(六センチメートル)の黒星を打ち抜くことをもってよしとする。 五十間先の鴨や鷺を狙って外さないとは、まさしく神技であった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.271〜272)


     大老井伊直弼(なおすけ)は、安政五年六月十九日、アメリカ初代駐日公使タウンゼント・ハリス日米修好通商条約を締結。 この年の五月二十四日には、六月をもって神奈川、長崎、箱館を開港することに決定していた。 同時に攘夷を呼号する浪士たちに異人斬りをおこなう気配が濃くなったため、幕府は諸藩に神奈川へ兵を出して警備にあたらせることにした。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.274〜275)


     そこで長岡藩江戸屋敷が継之助に警備の隊長となるよう命じたところ、かれは言下に答えた。
     「兵たちの生殺(せいさつ)与奪の大権まで御委任下さるなら、謹んで命を奉じましょう。 それでなければ、お断わり申しあげる
     一般に藩という名の小国家においては、藩士たちの生殺与奪の権は藩主にある。それはできぬ、といわれてそそくさと江戸上屋敷から久敬舎に帰ってきた継之助は、三日後に江戸の藩長がかれの注文を呑んだため、陣笠陣羽織を着用のうえ騎乗。五段梯子の藩旗を押したてた藩兵たち数十名を率いて、神奈川をめざした。
     ところが途中の品川は、宿場でありながら吉原遊郭とならび称される狭斜の巷(ちまた)でもある。
     吉原が「北国」、「北州」、「北狄(ほくてき)」などといわれるのに対し、品川の遊郭は「南国」、「南州」、「南蛮」などという隠語で呼ばれていた。
     その遊女屋の前を通りかかった継之助は、ひらりと下馬するとすたすたと店へ入って二階へあがってしまった。 仰天した物頭(ものがしら)格の者が追いかけてくると、継之助はとぼけた命令を出した。
     「おれはここでゆっくり遊ぶから、屋敷へ帰りたい者は帰れ。 神奈川を固めたい者は固めろ。 一緒に女郎買いをしたい者はしろ。 なんでも自由だ
     この人を人とも思わぬ行動が上屋敷に注進され、出頭を厳命された継之助は、こう居直った。
     「生殺与奪の権を委任されたからには、お屋敷の御門を出た以上は拙者の勝手でござる。 それをなぜお呼び返しなさった。 そんな御委任の仕方では、隊長職はお返し申すほかござらぬ
     まことに継之助は、横紙破りの男であった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.275〜276)


     しかし、京の様子はあきらかに面妖であった。
     所司代たる者の着任にあたっては前任者と役人たちが山科まで出迎え、竹屋町通りを経て上屋敷まで案内する習慣があった。 また、道筋の町屋の者たちは通りを掃き清めて歓迎の意を示し、所望する者には道ばたにならべた水桶から水を献じるならわしであった。
     というのに、一行が足を踏み入れた竹屋町通りには、北山時雨(しぐれ)に打たれた枯葉反故(ほご)紙牛糞の類が落ちているばかりか荷車の轍(わだち)も縦横に刻まれていた。(ほうき)を使った気配もなければ、水桶をならべる者もいない。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.278〜279)


     再鎖国と孝明天皇による攘夷親征を呼号する尊攘激派は、堂上(とうしょう)公卿たちのうちにもいる。 その領袖格は三条実美(さねとみ)中納言と姉小路公知(あねがこうじきんとも)少将。 実美は色白、公知は髪と眉が黒々として暑苦しい顔だちをしていたため、ふたりあわせて、
     「白豆黒豆
     と呼ばれていた。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.279)


     (では、今度はおれが仮病を使って、にでもなるか
     忠恭の苦衷を思った継之助は、下役の永井慶弥に辞表の代筆を命じた。
     すると慶弥は、下書を見せにきた。
     「私儀、痔疾にて引きこもりまかりあり候ところ、着時(ちゃくじ)(すぐには)全快の体(てい)も御座なく候につき、不本意ながら物頭格御用人勤向公用人兼帯当詰(江戸詰め)御免成し下され候よう相願いたく存じたてまつり候、……。
       五月十九日             河井継之助

     一読した継之助は、
     「これではまだ病気が足らぬようだ
     といい、筆をとって「引きこもりまかりあり」の下に加筆した。
     「そのうえ胸痛差し迫り
     そして呵々大笑したので、継之助の身を案じてやってきた植田十兵衛三間市之進花輪馨之進らの長岡藩士たちは顔を見合わせるばかりであった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.283〜284)


     特に慶喜には辞官納地−−官位辞退と土地人民の還納が求められたから、在京佐幕派兵力の中心である会桑(かいそう)両藩は怒髪天を衝(つ)いた。 薩長の兵力が続々と入京したため会津兵との斬りあいもそこここに起こり、慶喜のいる二条城には対薩長開戦を怒号する声が満ち満ちた。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.291〜292)


     いうことがくるくると変わることから、
     「二心公
     と渾名(あだな)されている慶喜は納地については答えを保留していたが、その実すっかり腰が引けている。 十三日、その慶喜は老中板倉勝静(かつきよ)、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(さだあき)と旧幕府兵以下を従えて大坂城へ引き移った。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.291)


     病みついていた牧野忠訓を叩き起こすようにして一月二十三日中に江戸上屋敷へ帰ったかれは、今や官軍の美名を確立した薩長主体の新政府軍が東征を企んでいると知って江戸総引き揚げを決定。 牧野家の家宝、書画、什器をすべて売り払って数万両を得、横浜に戻っていたヘンリー・スネルを訪ねてミニエー銃数百挺、最新式の大砲数門のほかにガットリング砲も二門買いつけた。
     ガットリング砲は、砲車に載せて撃つところはどの藩にもある四ポンド山砲とおなじながら、六連装毎分百八十発の速射が可能な機関銃の原型で、ガットリング機関砲と訳されることもある。 機関上部に弾丸入り三日月形のカートリッジを縦にはめこみ、左手で高低レバーを調整しながら右手で連射レバーを激しく回転させれば、その速度によって発射回数を調節できるという南北戦争で使用された新兵器であった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.294)


     スネルがロシア船「コリア号」をチャーターしてくれたため、忠訓を先に帰国させた継之助は江戸詰めの長岡藩士百五十余人、やはり江戸を引き払う会津藩士百人、国許がすでに新政府軍に開城してしまったため越後柏崎の飛地(とびち)領で再起を図る松平定敬桑名藩士六十人とともにこの運輸船に乗り、二月三日に横浜を出港した。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.294)


     箱館を経て、新潟には二十日に到着。 会津藩を助けるべく会津藩士たちと一緒に鶴ヶ城をめざすというスネルと別れの握手を交わしたとき、継之助は背伸びをしてスネルの赤みを帯びた耳に囁(ささや)きかけた。
     「おみしゃんを見こんで、ひとつ頼みがある。 わが藩に万一のことがあった場合は、御老公(忠恭)とお殿さまとをフランスへ亡命さするのを手伝ってはくれまいか
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.294〜295)


     フランスのナポレオン三世は旧幕府に好意的で、軍事顧問団まで来日させていた。 旧幕府も長岡藩も洋式軍制改革はフランス式を旨としていたから、継之助は最悪の事態となったならフランスを頼もうと考えたのである。
     「はい、承知しました
     スネルは、胸に十字を切って誓ってくれた。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.295)


     長岡藩の兵力は、四大隊約二千牧野家は三河以来徳川家につかえる譜代の家筋だけに、陣笠に黒ラシャの詰襟服を着用して密集、散開、一斉射撃などの操練に慣れた兵たちは、次第に開戦気分を強めて歌った。
     ヘヘ 薩摩長州を俎(まないた)にのせて大根切るようにチョキ/\と
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.295〜296)


     そして三月十五日、北陸道鎮撫総督高倉永●(ながさち)は長岡藩に対し、恭順するか五万両(三万両説もあり)を献納するかどちらかにせよ、と伝えてきた。
     だが、継之助はいずれも断わってしまった。 このころかれの考えは、最終的に輪郭を整えていた。(●(さち):“示”に“古”)
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.296)


     −−軍制改革成ったわが藩の武力を背景に新政府軍と会津藩の間に立ち、新政府軍には進撃を止めさせて会津を討つことの不可を説く。 会津には恭順を勧めて、もしわが言に従わねば新政府軍であれ会津であれこれを討つ。 かくしてこそ初めて戦いの名分も立ち、わが藩はわずか七万四千石ながら天下に呼号することもできるのだ
     名づけて、
     「独立特行論
     その狙いは、武装中立を貫いて東西両軍に戈(ほこ)を納めさせることにあった。 今でこそスイスその他に例があるが、幕末維新の動乱期にこのように発想したのは継之助ただひとりしかいない。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.296〜297)


     しかし、高倉永●を支えるふたりの参議−−薩摩の黒田了介(清隆)と長州の山県(やまがた)狂介(有朋(ありとも))は、継之助の返答に激怒。 長岡討伐を決定し、閏(うるう)四月十九日、すでに帰順を表明していた越後高田藩十五万石の城下に三千五百以上の兵力を率いて進出した。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.297)


     長岡藩を踏み破ってさらに北上し、新潟港を押えてしまわないかぎり、新潟に陸揚げされた物資は会津藩を助けるものになる、と読んだのである。 ところが越後には、小出島(こいでじま)、小千谷などに会津藩の飛地領がある。会津藩も新潟とこれらの飛地を守るべく越後へ兵を放ったので、越後平野は開戦前夜の気分一色に染めあげられた
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.297)


     二十四日、北陸道鎮撫総督軍越後高田から小千谷へ北上してきたと知った継之助は、五月二日に会津兵約四百を率いてやってきた猛将佐川官兵衛の提携申し入れを即座に拒否麻裃(あさがみしも)姿になって小千谷に走り、北陸道鎮撫総督軍に合流して慈眼寺(じげんじ)に入っていた東山道鎮撫総督軍軍監岩村精一郎に本堂脇の間で会見して嘆願書を差し出した。
     「ただちに軍兵をすすめられては大乱を惹起(じゃっき)し、人民は塗炭の苦しみを受けまする。 願わくば今少しの日にちを与えられよ。 さすれば藩論を一定し、会津救済のため結成された奥羽列藩同盟参加諸藩を説き伏せて御覧にいれまする
     だが、フロック形軍服に赤熊(しゃぐま)の冠りものを着けて土佐藩士であることを示した岩村は、まだ二十三歳。 諸藩の家老などはただの門閥家で、いわゆる馬鹿家老にすぎん、と思いこんでいる生意気盛りだから話にならない。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.297〜298)


     この慈眼寺における談判決裂により、河井継之助は五日にまたあらわれた佐川官兵衛に協力を約した。 つづいて村上藩五万一千石、村松藩三万石、三根山藩一万一千石、黒川藩一万石、新発田(しばた)藩十万石の越後五藩も長岡藩を盟主にして奥羽列藩同盟に加盟したため、ここに三十一藩から成る奥羽越列藩同盟が成立したのである。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.298)


     新政府軍が越後高田から北東へ九里の柏崎へ本営を移し、兵力も逐次増加して三万に達したのに対し、越後口の同盟軍総兵力はわずか八千。 だがこの方面に策動した桑名兵会津兵衝鋒隊は勇猛をもって鳴り、戦局はいつか同盟軍側に有利になっていった。 七月初旬、同盟軍は孤島を呑みこむ満潮のように四方からひたひたと長岡に迫り、城へ二、三里をへだてた地点から環攻をくわえる気配をみなぎらせるに至った。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.303〜304)


     合言葉は、「だれ」と問えば「」と答えること。 味方かどうかは、白い振り旗によって確かめあう。 当日は五つ半(午後七時)に夕食をおえ、腰兵粮(こしびょうろう)は餅を三食分。 弾丸はひとり百発ずつ。 行軍中、前の者との間隔は三尺。 城下に突入したならば、
     「長岡の人数二千人、城下へ死ににきた、殺せ殺せ
     と叫ぶべきこと、……。
     城を抜かれたまま生きて恥を晒(さら)すことなどできぬという、強烈な意思に貫かれた文面であった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.304〜305)


     継之助の受けた銃創は、左膝の下を砕かれる重傷であった。 かろうじて城内に収容されたものの、疲れを吹き出した長岡兵にもう城を支える力は残っていない。 二十九日、新政府軍は強力な援軍を迎えて長岡城再奪取に成功し、継之助は釣り台に載せられて見付から八十里越(ごえ)をめざさざるを得なくなった。
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.306)


     八十里越は、越後の蒲原郡(かんばらごおり)、魚沼郡を経て会津藩領の奥只見に通じる峻険な坂道であった。 八里の道のりを十倍の長さに感じることからこの名がある。
     「おれは会津へはゆかぬ、ここへ置いていけ
    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.306)


     血の気の失せた顔を歪めて子供のように駄々をこねた継之助は、仰臥(ぎょうが)したまま樹木のよく繁茂した山道を運ばれながら自嘲の句を詠んだ。

     八十里こしぬけ武士の越す峠

    (《東に名臣あり ガットリング砲を撃て 河井継之助秋義(つぎのすけあきよし)》P.307)