[抜書き]『二重言語国家・日本』


『二重言語国家・日本』石川九楊・中公文庫
2011年12月20日 初版発行
目次
はじめに
第一章 日本語は特異か
  (一)日本語は特異ではない
    文字は言葉に内在的である   文字と歴史   文字は音韻を変える   文字は文法をつくる
  (二)日本語は特異である
第二章 日本語は書字中心言語である
  (一)書字中心言語とは何か
    文字とは書字に他ならない   文字が言葉を生産する   文字の災厄   表意文字と表音文字
  (二)書字中心言語はいかに生れたか
    「声と文字」という誤謬   声と筆蝕   触覚と痕跡   筆蝕は思考する  
  (三)書字中心言語の文化の特質
    「見る」文化   手の文化   線の文化   音楽   絵画   印鑑
第三章 日本語は二重言語である
  (一)二重複線言語とは何か
    日本文化は特異である
    日本文化は漢字と仮名からなる
    漢字
    片仮名
    平仮名
    二重言語の意味
    二重言語の生理
  (二)二重複線言語形成史
    日本とは何か   汎太平洋、汎アジア時代   中国時代   擬似中国時代   日本時代への歩み   天皇とは何か   二重複線言語の浸透   近世江戸時代
  (三)二重複線言語の文化
    落語   演劇   文化の二重複線性
  (四)二重複線言語の美学
    川の流れのように−−宗教なき言語   月かたぶきぬ−−国家なき言語   花は散る−−歴史なき地理なき言語   日出ずる国−−政治なき言語
第四章 書字中心・二重言語の現在と未来
  (一)二重複線言語の近代・現代
    近代化は中国化   文字と国家   国家と日本語
  (二)二重複線言語の現在
    近代日本語の再構築   泡沫経済と片仮名   語彙の再編成   語彙制限の撤廃   縦書きの復権   毛筆教育の再構築   出版文化の再構築   日本語教育の再構築   和心・漢魂・洋才の必要
おわりに
あとがき
文庫本へのあとがき

    はじめに

     「雨……あめ」にまつわる言葉だけでも、「春雨・秋雨・驟雨(しゅうう)・冷雨・豪雨・穀雨・梅雨・霖雨……」の中国語に連なる漢語「雨(う)」の系譜と、「はるさめ・こさめ・ひさめ・こぬかあめ……」などの「あめ」のいわゆる和語の系譜がある。 一概には言えないが、一般的に言えば「雨」の系譜は、多少遠景にあり、また温感は少し冷たく、輪郭は明瞭である。 対する「あめ」の系譜は近景にあり、温感は温かいが、輪郭はいくぶんぼやけている。 しかも、「わらう」など和語の動詞においては、嗤(あざわら)うも談笑することも微笑することもその語によっては区別せず、言葉の領域の厳密さと漢字=漢語のような造語力に欠ける。
    (『二重言語国家・日本』P.13)


    第一章 日本語は特異か

    (一)日本語は特異ではない

     文字と歴史

     「文字の誕生」によって、言葉が記述性や記録性や保存性を獲得したというようなことではなく、文字が新たな語彙を生み、その語彙が言葉の中に還流し定着し、文字が言葉の中に構造的に組み込まれるという、言語の構造の転換をもたらし、それが、有史以来の文明や文化の展開を担ったのである。
    (『二重言語国家・日本』P.24)


     文字は音韻を変える

     アイヌ族が話していた言葉を、音節文字たる仮名文字で「ツキサップ」、あるいは、発音記号で「tsukisap」と書きとどめた時、すでに、その音韻そのものも一大変貌を遂げ、「綴字発音」以外ではなくなる。  犬は「ワンワン」と鳴くのか、「バウワウ」なのか、鶏は「コケコッコー」と鳴くのか「コッカードゥルドゥー」なのか。 別段、日本とイギリスで犬や鶏が異なった鳴き方をするわけではなく、その差は綴字発音の差である。 また、戦後、占領軍の近辺で働く日本人は、「RED」を口まねで「ウレ」と発音した。 もしもその言葉をアイヌ語を採用した日本人学者が声だけから採集すれば「ウレ」もしくは「wre」としたであろうし、英語圏の学者は「red」と聞きとったかもしれない。
     だとすれば、アイヌの発音が書きとどめられる以前に「ツキサップ」であった保証はまったくない。『万葉集』や『古事記』によって書きとどめられたと言われる倭語なるものも、どこまでいっても漢字を借りた万葉仮字(かな)という枠組みで採集され、多くの発音上の微妙さや微細さが切り捨てられた上でのそれにすぎないのである
    (『二重言語国家・日本』P.28〜29)


     言語学者・橋本進吉が、『万葉集』の用字の研究から日本語八母音説を唱えたことは、確かに仮名文字の五十音図に慣れ、五母音をうっかり信じていた我々には衝撃的であっただが、この八母音説もまた、八母音という切り口で書きとどめられたということを意味するだけであって、書きとどめられる以前の前日本語が、どのような子音と母音の構造をもっていたかなどは、まるで推測の域を出ない。 隣国の朝鮮や中国、アイヌ語あるいはポリネシア語の発音とてすでに一種の「綴字発音」である。無文字の弧島語・前日本語半島語・朝鮮語の発音はおそらく似ていたはずだが、音節文字・平仮名や片仮名の成立とともに日本語は音節発音化を遂げ、朝鮮語や中国語とは異なった発音構造の言語と化していったものである仮名文字によって書きとどめられる以前の弧島語は、現在考えられる以上に多母音、多子音語であったとも考えられる。
    (『二重言語国家・日本』P.29〜30)


     文字は文法をつくる

     このような分類下では、中国語は「孤立語」、日本語や朝鮮語は「膠着語」、フランス語やドイツ語や英語は「屈折語であるとされている。
     たしかに、現在の各語の典型的な構造はこのように分類される。
     しかし、この「孤立語」「膠着語」「屈折語」の構造は、無文字段階から存在する各言語の固定的な構造であろうか。無文字縄文時代から日本語は膠着語であったと言い切れるのだろうか
    (『二重言語国家・日本』P.32)


     ここから先は少々の異論もあろうかと思われるが、あえて言えば、文字と記述、書き言葉は、文法の構造も変える
     たとえば、日本語といえども、生活語圏においては、英語と同じように、まず、「はい」「いいえ」「うん」とか「よし」つまり、「Yes」「No」の肯定詞否定詞がくる。また、日本語は「私は学校へ行きます」(s・o・v)の「説明構文」の膠着語だということになっているが、幼児期においては、「僕・行く・学校」(s・v・o)の孤立語的「行動構文」で話されているのはなぜだろうか。
     さらに、日本語の手話では、「今年の夏休みは、富士山にキャンプに行ってきました。」を「年・今(いま)・夏・休み・富士山・キャンプ・行く」と語彙を連ねて表現する。 むろん、助辞を補う表現も可能だが、一般には助辞なしで孤立語的に表現されている。
     これは何を意味するのだろうか。 むろん、日本語成立以前の前日本語が膠着語であったとすれば膠着語は説明構文を必然化すると言えるが、そうでなかった可能性も想定可能ではなかろうか
    (『二重言語国家・日本』P.32〜33)


     欧米語の講演や講義は、そのままテープを起しただけで一篇の論文をなすが、日本語では相当に加筆・削除し、文の前後を入れ替えたりすることによって、辛うじて文章の体裁をなす。また日本人は話が向こうへ飛んだり、戻ったりで右往左往し、講演が下手だと言われているが、この理由のひとつは、主語概念の甘い主題提示方式であることや公私の分裂、また中国語のように大量の語彙をもたぬため的確に言うことができず、比喩と留保の連続によって言葉を成り立たせるしかないという話し言葉の文体(スタイル)の未成熟にあろう。 そして、また書字中心型の日本語においては文体(スタイル)が書き言葉の方に溺れ、話し言葉の文体(スタイル)の未確立を放置してきた。
    (『二重言語国家・日本』P.34)


     もうひとつの理由としては、「私・行く・学校」つまり「svo」式の「行動構文」が、中国語の流入と文字化によって「私・学校・行く」つまり「sov」式の「説明構文」に転じたものの、いぜんとして、話者の発語の内部には結論を先に言う「svo」の誘惑がたえず頭をもたげるにもかかわらず、実際には「sov」式に従わざるをえないという内的葛藤によって、話路が混乱していくという側面もあるのではないだろうか
    (『二重言語国家・日本』P.34〜35)


     「行け」が命令形だというのは、おそらくは学校文法がつくり、それによって固定された学校文法的説明にすぎず、「さあ、みんな早く行く!」と追い立てれば、これは命令形に他ならない。 このような例はいくらもある。
    (『二重言語国家・日本』P.35)


     前日本語の姿を想定するためには、各地に散在する方言を卓抜な方法で採取し、歴史以降の「綴字発音」や漢語と思われるものをふるい落とし、大胆かつ細心の構想力で論理づけるしかない。 しかし、それとて、文字化以降の現在からの推測にすぎず、無文字時代の言葉の構造や姿は暗い闇の中にしかない。
    (『二重言語国家・日本』P.38)


     いっこうに日本語の古語が整理され、分析され、語源を明らかにする研究が育っていかないのは、漢語流入以前の無文字時代のおそらく古アイヌ語もそのひとつとする種々雑多な語彙と、それ以後の漢語の語彙、と漢語流入後以降に漢語に対応すべく新造された和語との三種類が、複雑に入り組んでいるため、これにメスを入れ、峻別することができないためであろう。もしも漢語流入以前に、一般に漠と考えられているような単一な倭語が形成されていたとするならば、倭語の語源は容易に明らかになるはずである
     このように分解して見ると、日本語が世界に特異な言語であるなどということは決してないのである。
    (『二重言語国家・日本』P.38)


    (二)日本語は特異である

     書字中心言語は東アジア漢字文化圏の中国語、朝鮮語、日本語などに固有の言語の構造である。 そのため、現在ではハングル文字しか使用していない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)をも含めて漢字文化圏として括れる。朝鮮にハングル文字、日本に仮名文字が存在するが、いずれの文字も、中国語=漢文を読解するために生まれた補助的な文字であり、東アジアの書字中心言語をもたらしたものは、表意=表語文字である漢字=漢語である
    (『二重言語国家・日本』P.39〜40)


     朝鮮語も日本語も中国語を核として生れた二重言語であり、兄弟語である。 十世紀には完全な仮名文字・女手を発明した日本においては、漢語の訓(よ)み(発音)が平板な音節発音(綴字発音)化したのに対して、朝鮮においては音素文字・ハングルが生まれるまではもとより、生れて以降も知識層は漢字・漢文を使用しつづけたために、中国語に近い発音が保存されている。
    (『二重言語国家・日本』P.40)


     また、仮名文字・女手による和歌を通しての、漢語の和語化和語の漢語化の複線訓練によって、日本語は世界に稀有の音訓複線言語として組織された。
    (『二重言語国家・日本』P.40)


    第二章 日本語は書字中心言語である

    (一)書字中心言語とは何か

     文字が言葉を生産する

     無文字社会は声に満ちあふれた社会である。木に声があり、風に声があり、山に家に墓に祭壇に声が満ちあふれ、山川草木ことごとく声ありという、自然(アニミズム)的言霊(ことだま)の飛び交う世界である。山は「ヤマ」という声の化身であり、川は「カワ」という声の化身である
    (『二重言語国家・日本』P.47)


     歴史段階に至り、筆記具(鑿や刀)によって、文字が直截的に生産された時に、山は「ヤマ」という声の化身から「山」という文字の化身に転じるのである。 あるいは「山」という文字の化身と「ヤマ」という声の化身とに二重化するのである。
    (『二重言語国家・日本』P.47)


     表意文字と表音文字

     漢字においては、長い横画縦画はね短い横画長い左はらい短い左はらい右はらいの八箇の単位からどの文字も成立しているという、「永字八法」という考え方があり、これらにさらに「●(ほうこう)」「●(おつこう)」「●(ほこ)」などの単位を加えた「変化二十四法」さらには「変化七十二法」という細分単位がある。漢字においては、これらの単位がアルファベット一文字に相当している
    (『二重言語国家・日本』P.54)


     たとえば、我々は漠然と、書く時、読む時には文字を媒介とし、話す時、聞く時には声を媒介にしている、つまり「文字を書き」、「声を聞く」のだと考えている。なるほど現象面からはそうとも言えるが、言葉の観点から考察した場合には、そのような現象で終っているわけではない
    (『二重言語国家・日本』P.55〜56)


     「はじめまして、ヤマモトイチロウです」と言ってさし出された名刺に「山元市朗」と印刷されていたら、一瞬とまどいを感じる。ヤマモトイチロウ」と聞いた時に、内心思い浮かべた「山本一郎」が肩すかしをくらい一瞬困惑したからだ。 しばしばこの「ヤマモト」氏は「ヤマゲン」さん、あるいは「ゲン」さんと呼ばれることになる。 「本」ではなく「元」の字であることを意識するからである
    (『二重言語国家・日本』P.56)


     このような日本語においては、「文字を書き」「声を聞く」のではなく、言葉の構造としては、「文字を聞き」「文字を話す」のだと言えよう。 そのため「山元」氏に対して、「ヤマゲン」と呼んでも、また言われた方も平気である。 「ヤマモト」さんが「ヤマゲン」とも呼ばれることがある日本語は声ではなく、文字の方が言葉の中心に位置している。 「藤原定家」は「テイカ」であるか「サダイエ」であるか、あるいは「藤原」の次に「ノ」が入るか否かは、日本語にとっては何等本質的な問題ではない。 「藤原定家」という文字だけが重要なのである。
    (『二重言語国家・日本』P.56)


    (二)書字中心言語はいかに生れたか

     「声と文字」という誤謬

     話し言葉書き言葉を、声(音声)言語と文字言語というように表記することがある。 ひとまずそれで意味は了解されるものの、厳密には、文字(印刷文字)とは対応する位置関係にはない。 にもかかわらず、これらを対応するものとして措定するがゆえに、書き言葉(実際には書かれた言葉)に対する初歩的な誤解が生じ、また、ワープロという機械に隷属した詩人や作家が生れ、小中学生にワープロ作文を教えるという文部省(現在は文部科学省)の愚民政策が生じてくる。
    (『二重言語国家・日本』P.62)


     触覚と痕跡

     一般には文字を記し、定着することが書くことと考えられているが、「書く」ことは、「記す」「書きつける」「書く」という永い発達史を経て、生れてきたものであり、しかもその発展の姿を文字(書字)の姿の中に確実に吸収している亀甲や獣骨に刻まれた甲骨文、金属器に鋳込まれた銘文である金文や石に刻み込まれた篆書の時代には、言葉は「記」されていた。竹簡や木簡に政治文書が書かれる頃から「書きつける」ことや「書く」ことは始まった。 「書く」つまり筆触するという完璧な段階は、東アジアにおいては初唐代、六五〇年頃に完全な形で成立する。 それを象徴するのが、楷書体である。 そして、その「書く」ことの嚆矢(こうし)は東晋代の王義之(おうぎし)の時代に発する
    (『二重言語国家・日本』P.69〜70)


     この初唐時代に、比喩的に言えば、石に「記す」鏨の文字を、紙に「書く」筆の文字が吸収し、一つの筆画を「トン・スー」あるいは「スー・グー」式のリズム法で書く二折法(にせつほう)自然書法を超えた「トン・スー・トン」の三拍子のリズムの三折法(さんせつほう)人工書法楷書体が生れた。 我々がふだん書く文字が一つの字画を「トン・スー」式で書く二折法であるように、二折法は、自然書法である。 これに対して、「トン・スー・トン」式の三折法は、きわめて窮屈で不自然な人工書法であるが、これは、書かれた一つの字画の始まりと終りに切り込みの跡をつけた、石に字を刻む三折法(さんせつほう)の刻法(刻〔蝕〕)が、紙に筆で書く、書法(〔筆〕触)に還流し、「筆蝕」という基準書法を成立させたのである。 この三折法の楷書体は、紙の上に生れた草書体正書体化せんとして石に貼りつき硬書化し、石をあたかも紙のごとき存在として二重化することによって、書き言葉の法(書法)として君臨しているものである。 楷書体の成立によって、王義之の二次元の二折法筆〔触〕は、唐の時代になると、三次元の三折法筆〔蝕〕に転じたのである。 この時、草書体(「書く」こと)に生じた人間主体と対象、換言すれば自己と他者の二角関係は、人間主体と他者と国家、つまり、自己と他者と第三者の三角立体関係を聳立(しょうりつ)した。 自己は他者のみならず第三者を含み込んだ社会的な自己(真の自己)として登場することとなり、本格的な人間主体史は始まった。 それが楷書が漢字の書法の典型に位置する理由である。
    (『二重言語国家・日本』P.75〜76)


     筆蝕は思考する

     万年筆から生れる文体、ボールペンから生れる文体、鉛筆から生れる文体の違いは確実にあり、鉛筆のHBの思想やBの思想というものもある。 モンブランの思想やパイロットの思想だってある。 ワープロはどうか? 筆蝕を欠いたワープロから文体が生れるかどうかは疑わしいが、肉筆とは異なり、筆尖と紙とが接する際の決断の起筆と、自己と対象との格闘と対話の摩擦と、また諦念の終筆を欠くために、良く言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生れてくる。 ワープロ時代には推理小説やSF小説が氾濫することになる。
    (『二重言語国家・日本』P.79)


     書き言葉においても同様である。 書かれた「雨」の字には、その第一画だけをとり上げてみても筆触を生むための全身体的力動と、筆記具の尖端と紙との着地の瞬間である起筆の力と速度と深度と角度、そして、世界最高の水準の電子計算機でも測定できないほどの膨大な質量の、筆尖と紙との間の力のやりとりの劇からなる筆蝕の微粒子的律動、そして紙からの離脱の瞬間である終筆から成り立っている。 それだけではない、この筆蝕には、幻想の口辺筋肉力動と、無声の声の全身体への共鳴が同伴している。 つまり書字を通じて声も載せられているのだ
    (『二重言語国家・日本』P.80〜81)


     この筆触からなる字画が順を追って積み上げられるようにして、字画ブロック、偏(へん)と旁(つくり)を経て、「雨」の字は生れている。 そこに盛られた筆触の表現質量が、桁違いのものであるため、一目見ただけで、誰々からの手紙と即座に判断できる。
    (『二重言語国家・日本』P.81)


     その書かれた言葉の筆触の表現力をすべて欠落した人工合成文字である印刷文字に置き換えた時の印刷文に何が起こるかは明らかであろう。 表現が変わるのである。 お望みならば意味さえ変わると言ってもいい。 そこで、筆者は校正時に、加筆や訂正を補い、肉筆で言わんとしたところに届こうと試みることになる。 校正に加筆や訂正は不可避なのである。 その証拠に、毛筆肉筆時代の古典には句点も読点もなかった。 文の区切りや間合いは、かつては線の細さや太さ、文字間の間合い、速度として筆触の中に吸収されていた。 筆触を失い、その姿を消した印刷文になると、これを句点や読点で補わざるをえなくなるのである。
     このような書字史を経て、東アジアの書字中心言語は生まれたのである。
    (『二重言語国家・日本』P.81〜82)


    (三)書字中心言語の文化の特質

     手の文化

     西欧では、いささか野蛮にも、ナイフ(小刀)とフォーク(肉叉)で食事をするところから、対象を解剖、分析し、対象に傷をつけてでも核心を突く哲学をつくり上げた。 これに対して、中国、朝鮮、ベトナム、日本の食事においてはをもつ。 これらの地域は漢字文化圏、書字中心言語圏であり、毛筆を持つ手が箸を持つ手を生んだ。 筆ざわり=筆蝕の訓練は獄微細な筋肉と神経と経路と運動感覚を発達させた。 とりわけ、中国や朝鮮、ベトナムのようには(さじ)を使わず、二本の箸だけで済ます日本は、この微妙な間接触覚を極限まで発達させ、平安末期には、約十センチ四方の紙に、一ミリ以下の太さの字画、一センチ大の文字を連ねる「寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)」「枡色紙(ますしきし)」などの優美な仮名書を生んだ
    (『二重言語国家・日本』P.87)


     二重言語・日本の食事文化の鍵は二本のにある。 切る機能の弱い箸は、一方に「切る」文化、つまり、包丁料理の文化を育て上げた。 また、箸によって可能になる、剥(はが)す裂くほぐす機能は骨付きの魚料理つまむ機能は豆腐煮豆料理を生んだ。
    (『二重言語国家・日本』P.87)


     野蛮な(武張ったと言ってもよい)ナイフとフォークの、対象を解剖、分析し、核心を突く哲学とは異なり、内実を欠いた、外見だけの形の文化に堕す危険があったとはいえ、筆記具にも似た文化的な(文の勝ったと言ってもよい)箸でつまみ上げて、色や形の外観と重さと触覚から、対象の存在を計量し、抽象し、推し測る、「加減」と「思いやり」の美学を生んだのである
    (『二重言語国家・日本』P.87)


     線の文化

     それだけにとどまらない。 生花、盆栽、松梅などの、剪定(せんてい)によってつくり出される幾重にも屈曲した枝ぶりの美学は、書字(書くこと)の際の(もともと同じ長さの三本の線を規範とした「三」の字が長さの異なる三本の線〔第三画が最も長くなる〕として描き出されるようになったような)長短音階の美学(参差(しんし)の美学)と微量子的律動の具象化である。 つまり、生花、盆栽、松や梅などの庭木の枝ぶりは、まさしく書の筆画の化身であると言ってもよいものである。
    (『二重言語国家・日本』P.89)


     音楽

     このような書字文化に固有の〔歌詞〕の歌がカラオケを流行させた。 歌い手は、曲にと言うよりも、むしろ歌詞に酔う。人が聞こうが聞くまいがおかまいなく、また他人の歌を適当に聞き流しながら、選曲と言うより歌詞を選ぶことに専念するのである
     そして、演歌浪曲さらには講談詩吟つまり漢詩とつながり、艶歌は、小唄端唄つまり連歌和歌につながっている。 あえて言えば、日本の音楽は、節をつけた文学にすぎない。
     声中心言語の西欧文化は、たとえば木を見ることによって木の声、その本質を聞く文化である。 対して、書字中心言語の東アジアでは、たとえば木の声を聞く以上に、木の姿いわば文字を見る文化である。
    (『二重言語国家・日本』P.91〜92)


     絵画

     この書字中心言語固有の「」=用筆筆蝕の表現は、相当根深い表現であり、これとの闘いが、近代日本の絵画の出発点であった。
    (『二重言語国家・日本』P.98)


     従来の「」=筆蝕輪郭をとり、その中を塗り絵のように着彩することの非絵画性に気づいたフェノロサ岡倉天心は、菱田春草横山大観等に、絵画における輪郭線=「線」の追放を説き、これに応えた菱田等は、従来の輪郭描法に変わる没骨(もっこつ)描法で、近代日本画壇の中心に躍り出た。 日本画を西欧画風に変革しようとしたのである。
    (『二重言語国家・日本』P.98〜99)


     しかし、技法が変わったところで、文学の一種、書の変種たる日本の絵画の本質が変わることはなかった。 この無輪郭描法は、またぞろ日本的美意識と反応化合して、ぼかしの美、朦朧(もうろう)体と化し、いっこうに、文学性=書性を追放した西欧風、音楽性の絵画となることはなかった。
    (『二重言語国家・日本』P.99)


     「」=文字呪縛にとらわれているのは、日本画の分野だけではない。 たとえば三十歳でパリ近郊の精神病院で客死した佐伯祐三が描くパリの街角の風景画の中に描きこまれた広告の文字・アルファベットこそは、書字中心言語・日本語人の固有の感覚に生じた表現である。
    (『二重言語国家・日本』P.99)


     岡本かの子は、フランスでナポレオン筆跡に目をとめ、その書きぶりやインクの滲みから、ナポレオンの生涯に思いをはせている。 戦前のマルキスト・福本和夫は、ロマン・ローランマルクスエンゲルスの手紙の文字の書きぶりから、その思想にかかわる何かを読みとろうとしている。
    (『二重言語国家・日本』P.99)


     印鑑

     文字中心言語社会である日本は、また、「はんこ社会」でもある。役所では目前でなされる本人のサインよりも、文具店で買った三文判の方が尊重される本人が身分証明書を見せ、サインをしても必ず捺印を要求されるという、ばかばかしくも奇妙な制度は、何に起因し、何を意味するのだろうか。
    (『二重言語国家・日本』P.101)


     役所に届け出、登録した実印というものもあって、我々は「はんこ」というものを、個人の自己証明のしるしと考えているが、印判は、元来、アジア的、中国的専制の下での役職証明である
    (『二重言語国家・日本』P.101)


     志賀島で発見された「漢倭奴国王」印が、中国漢帝国から下腸された倭の奴国王たる証しの官職印であるように、印はもともとアジア的共同体の職制たる部族標識に発し、官印に発達し、私印といえども中国的政治社会における職制としての意味をもつ「」、つまり、「家柄」に彩とられている。 つまり印は、現在においては、見かけ上、個人的な自己証明のようにみえるが、ふだん用いる印が姓名印ではなく、姓だけのもの、つまり政治的共同体内の役を担う家を証す姓印であるように、その実は、国家から下降線を辿ってくる官職印に他ならない。
    (『二重言語国家・日本』P.101)


     そのような「はんこ社会」の中での最近の日本の夫婦別姓の主張は、こうしたアジア的、中国的色彩に彩られた家の構造を打破するものではなく、その論の主張とは逆に、それぞれの出自たる家の強調に終わらざるをえない宿命をもつ。 もっとも「山田」や「田中」に象徴される日本人の姓が、家ではなく、出身地名であるように、日本に地域(村)はあっても家など存在しなかったのだが。 はんこの陰には、国家の職制を担うかぎりにおいて家として登録され、その家に帰属するかぎりにおいて人格としても認められるというアジア的専制が、天皇制(中国秦代以来の天子たる「(じ)」)をなぞった(「天皇御璽」)とともに現存しているのであり、我々は社会に存在する一個の人格たる市民として登録されているわけではない。
    (『二重言語国家・日本』P.101〜102)


     この意味において日本は悪しき「はんこ社会」である。 はんこは西欧のサインに似てはいるが、サインと同じものではない。 サインは神に向かっての下から上への上昇線上にある縦への誓約によって保証された横への契約のしるしである
    (『二重言語国家・日本』P.102)


     たとえば、日本が改憲を議論するならば、まず憲法第九条の未来を先取りした戦争放棄条項などではなく、第一章、第一条の古代的遺制、天皇の「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」条項なのだが、やがていつの日か日本が天皇制を廃し、大統領制に移行した時には、日本の大統領は、その就任と職務遂行を誰に誓うかという重大問題が横たわっている。 アメリカ式にならうならば、神官と化した天皇の先導によって伊勢神宮の神道神に誓うということにでもなるのだろうか。
    (『二重言語国家・日本』P.103)


     それはともかく、西欧のサインは神への誓約としてなされる。 それゆえ、サインをまねること自体が、神への冒涜を意味するから、神なき国の日本人が考えるようには簡単にサインが偽造される事はない。はんこはその逆に、上(かみ)から下降線を辿って下腸される、上(かみ)に仕える者のしるしなのだ。 役職を去る時には、印を置いて去らねばならぬように、「はんこ社会」には、真の意味での市民社会はなく、真の意味での市民権もない。 市民権をまねてはいるが、国家に仕えるかぎりにおいて許容される恩恵的権利に裏打ちされた臣民にすぎぬというアジア的=はんこ的歪曲が伴っている。 一見近代化されたかのような日本社会の中に、いまだにこのように人間存在そのものを国家からの下降線によって認めるという仕組みは隠されている。官僚を「公僕」と称するのも、下降線社会を抜ける用語ではなく、あくまでも、下降線社会内で上下の立場の逆転を考える用語にすぎない。 各種官庁通達による行政指導と、許認可権という無法の権限を手にした日本型官僚機構の秘密は、はんこと一体化した下降線型の天皇の国家と天皇の官僚、つまり「はんこ社会」にあり、また、不完全なる成熟しない、しえない市民もこの制度によって再生産されている
    (『二重言語国家・日本』P.103〜104)


    第三章 日本語は二重言語である

    (一)二重複線言語とは何か

     平仮名

     新聞のコラムの「のをにった『の』というがされた。をえる。このではめてのという」は、漢字で書かれた「心病気専門扱『心家庭医学』……」を訓読するために挿入された助辞である。

     「心病気専門ッタ『心家庭医学』……」

     つまり、この片仮名が平仮名に姿を変えたものが、現在の平仮名、辞としての和語である。 むろん「心」はここでは「シン」と音読せずに「こころ」と訓読する。 つまり、一般に和語と呼ばれる言葉は、漢文の訓読のために旁に添えられ、かつては片仮名で記されることの多かった助辞と、自立した詞「心(シン)」に対応する和語「こころ(心)」の二種類の和語があり中でも重要でなくてはならないのは、漢字にも置換できる詞ではなく、むしろ、である
    (『二重言語国家・日本』P.119〜120)


     二重言語の意味

     さらに、日本では「仏教伝来」を宗教の伝来、「文字の伝来」を仮名文字のような文字が伝わったと想像しがちである。 しかし、表意、表語文字である漢字は中国語とともにあることを見失ってはいけない仏教を知り、文字を知った、そんななまやさしいものではない。 日本語は中国語の植民地語、占領後の一種である。 たとえば、『講談社国語辞典』(昭和四十一年初版)の調査結果によっても、漢語五四・九%、固有語三〇・一%というデータがある。 基礎的(ファンダメンタル)な語彙(これについて言えば、挨拶語日常生活語魚虫草木名など、現在でさえ、辞書に登録されることのないさまざまな語彙<方言>がある)としては、和語が残っているにしても、高等語の過半が何等かの意味で中国語に淵源する漢語である以上、日本語はまぎれもなく中国語の一種、亜中国語、中国語の植民地語、占領語であると言っても言いすぎではない
    (『二重言語国家・日本』P.121〜122)


     わかりやすく喩えれば、文字を知らぬ日本に、文字・アルファベットに裏打ちされた英語がどんどん入り込み、この英語を使いこなせるようになって、やがて英語、ローマ字交り文が生れたとすれば、英語の植民地語であると誰しも思うことだろう。 この種のことが東アジアの弧島に起きたのである。 この事実に気づかなければ、その後徐々に形成されていく真の日本語像を描けない。 しかしあまりにも圧倒的な水位差に不可能であったのか、あるいは、それを嫌う合意があったゆえか、最も高度で苛烈な政治語思想語の頂上と核となる「」や「革命」という思想はついぞ、倭に定着することはなかったことから、政治的中国文化に対して、これとは異なる非政治的文化を形成し、中国語と密接に関連した植民地的言語であることについぞ気づかないでいる。 おそらく日本は、大陸の過度の政治性を嫌った知識人によって建国され、それゆえ、過度の政治性をもたらす「天」や「革命」の思想を遠避けたものと思われる。 後述するが、日本は、「白村江の海戦」による「〔敗戦〕」によって中国から独立したものであり、高度に政治的な中国の裏の概念非政治的脱政治的桃源郷国)として再生産されている。
    (『二重言語国家・日本』P.122)


    (二)二重複線言語形成史

     日本とは何か

     大方の考えとは異なり、太古から日本や日本語が存在したわけではない。歴史上のある時期に、日本国や日本語は生れたものである。 結論的に言えば、日本国や日本語は、政治的には、西暦六五〇年頃、また文化的には、どんなに早くとも『古今和歌集』の編まれた900年代、完璧には『和漢朗詠集』が編纂された一〇〇〇年頃に姿を現したものである。政治・文化ともにあいまった本当の意味での日本の歴史はまだ一千年に満たない。 縄文時代、あるいはそれ以前から日本が存在したと考える漠然とした現在の通念に逆らって、この観点に立った時、過去の日本史もまた、国家の枠組みを超えていく方策もおのずから明らかになる。
    (『二重言語国家・日本』P.129〜130)


     第五段階が、基本構造を整えた二重複線言語・日本語に対して、中国の同時代(宋元明)の言語が流入し、内実を高めた中世。現在の日本語の直系の祖である。
     つまり大陸東岸の弧島の歴史は、汎太平洋、汎アジア時代→中国時代→擬似中国時代→日本時代へと段階的に展開したものである。
    (『二重言語国家・日本』P.131)


     汎太平洋、汎アジア時代

     文字資料に頼るばかりの旧来の歴史学を批判して登場した、文化人類学音韻学的言語学の成果を軽んじるわけではないが、言うまでもなく、文化とは culture、文明とは civiliszaion の訳語である。 culture は cultivate(耕す)と深いかかわりをもつ。 「耕す」ことは、人間が道具を手にして対象(自然)に傷をつけ、これを変形すること、つまり「かく(掻く、欠く、書く、画く、描く)」ことに他ならず、何らかの形で人間は「かく」存在に他ならないから、文化は人類史とともに存在した。 西欧語の水準では人類史そのものを意味する「文化(カルチュア)」は、東アジア漢字文化圏の言語においては、文字通り「文(文字=言語)が化けた姿」という意味も重ね合わせている。
    (『二重言語国家・日本』P.131〜132)


     ところが、中国大陸北方に文字=漢字が生れるや否や、この自然発生的な東アジアの言語分布と、言語構造に一大変化が生じることになった。  文字の誕生は、「言葉が言葉を生産する」ことを可能にし、文字数を増やすのみならず、文字を二字組み合わせて新しい一語をつくる連語法によって、語彙数を級数的に増やしたからである。
    (『二重言語国家・日本』P.133)


     中国大陸に生れた甲骨文字の字数は三千数百字、これが漢代になると九千字に増える。 これは字数が三倍弱増えたことを意味するのではない。八千万語という膨大な語彙の成立が可能になったということである。 この時点で、文字をもつ大陸とそれをもたない半島や弧島の間での表現力すなわち文化の落差は巨大なものとなった。 それは半島・弧島がたかだか一万語、大陸が数千万語の可能性をもったという数字だけからもうかがえるはずである。
    (『二重言語国家・日本』P.133)


     中国時代

     秦代に、秘匿されるべき、秘儀的古代宗教文字脱神話化され、字画によって書き表すことのできる政治文字と化した時、文字=言葉には周辺に流出しようとする文明啓蒙の力がはたらき始めた。 秦始皇帝の使者・徐福が来日したという伝説が、熊野をはじめ日本各地に残っているが、これは十分にありえた話である。
    (『二重言語国家・日本』P.137)


     古代宗教文字の誕生によって、紀元前一四〇〇年頃文明化段階に入った東アジアは、紀元前二〇〇年頃になると、直(じか)に文明に触れ、文(文字=漢字)に照らし出されていく段階に入る。 おそらく、ここに無文字縄文時代から、文字をもった文明時代・弥生時代への弧島の移行は生じた。 縄文時代と弥生時代の差は、土器の形状の違いとしても現れるが、それは表面上の差にすぎず、本質的には、無文字の縄文時代と、文字をもつことによって文明化され、大陸の文明に組み込まれた、有文字の弥生時代という決定的な差が横たわっている。 さらに言えば、水稲耕作をもって縄文時代と弥生時代を区別するような近年の定義法は飽食(グルメ)時代の貧困な発想にすぎない。 なぜなら人の往来とともに、植物の種子と栽培法は、文明とはかかわりなく、たやすく移動するからである。 もしも水稲耕作をもって弥生時代への移行と考えるなら、今後の発掘によって弥生時代の上限はさらに遡上することは間違いない。その種の縄文と弥生の線引きは、飽食(グルメ)時代的錯覚、さもなければ、「瑞穂(みずほ)の国」という国家主義イデオロギーの無自覚の援用にすぎず、ほとんど意味はない。 古アイヌ語のごとき多数の言語の弧島に圧倒的な水圧の中国語が流入し、弧島に新たな有文字の言語と文化を形成し始める時代、それこそが弥生時代である。
    (『二重言語国家・日本』P.137〜138)


     文字の移動は、単に文字が移動するのではなく、文字とともにある言葉が移動する。 文字を背景とした中国語は、紀元前二〇〇年頃から、少しずつ、やがて大量に、半島(朝鮮半島)や弧島に流入した。途方もない数の連語(二字熟語)を造語する可能性をもつと同時に、文字の成立と同時につくり上げた陰陽の弁証法と天の哲学をもつ圧倒的な水圧の中国語が、語彙数・数千語からたかだか一万語の生活語を中心とする無文字の弧島に入り込めば、そこにいったい何がおこるかは明らかであろう。 どれほどの語彙、どのような文法をもっていたかさえ明らかではない(文字が存在しない以上証明されようがないが)弧島語は、大陸語(中国語)を核として新たにつくり出されていく。 従来の学問は弧島におけるこの無文字縄文言語から有文字弥生言語への大革命という出来事に対して、あまりにも想像力を欠いていた。
    (『二重言語国家・日本』P.138〜139)


     始皇帝時代の徐福伝説にあるように、文明の移動は人の移動を伴う。 無文字時代の自然の人間の移動とは異なり、文明の中枢部周辺の人々が亡命あるいは華僑の目的で移動し始める。 このような大陸語化を背景に、西暦紀元前二〇〇年から、紀元後六五〇年(六四五年大化改新、六六三年白村江の敗戦、六七二年壬申の乱)頃に中国(唐)から独立する頃まで、弧島は大陸国家の一部であった。 これまで日本の弥生時代や古墳時代と考えられてきた実体は中国の枠組みの中の辺縁地方での出来事にすぎなかった。 強い表現を用いれば、弧なりの列島で展開されていたのは、中国の歴史であった。 おそらく、このように考えることを日本人は好まないだろうが、日本以前の中国時代とでも言うべき時代が弧島にあったと考えることこそが、人類史的、世界史的生き方ではないだろうか。
    (『二重言語国家・日本』P.139)


     それを証明するのが、「漢委奴国王」印であり、卑弥呼朝貢である。
     西暦五七年、後漢の光武帝から北九州の倭の奴の国王に金印が贈られた。二三九年、卑弥呼もまた魏の明帝より「親魏倭王」の称号と銅鏡百枚を与えられたと中国の史書「魏志倭人伝」に記されている。中国の史書にこの記述があり、弧島にこの記述がないこと自体も、この時代の弧島が、中国の政治圏内の一地方にすぎないことを物語っている
    (『二重言語国家・日本』P.139)


     最低限に見積もっても、委奴国王卑弥呼は、大陸の政治制度や官僚組織を十分に理解し、その王の周辺には、そとりやふたりの「傭人(ザ・ヤトイ)」や通訳だけではなく、中国語を理解する(話し・書く)官僚が多数取り巻いていた。 中国皇帝に対して上表書を書くことなしに冊封下に入ることなどありえない。 この事実について、委奴国王についても卑弥呼についても、従来深く考えられてはこなかったのである。
    (『二重言語国家・日本』P.142)


     中国の史書『宋書』をどれだけ信用できるかという問題は残るが、倭の五王・讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)はいずれも宋(中国)の官僚「安東大将軍倭国王」であった。 現在の日本史家が言うように、それぞれ仁徳(にんとく)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)天皇(天皇名が漢語であることは注意を要する)に比定されるとすれば、この当時の天皇は、朝鮮半島の一部をも視野に収めた中国の官僚としての倭王であり、後世(日本誕生以降)の天皇のように政治的・軍事的無権力状態の日本国の天皇ではなく、政治的・軍事的権力を実質的に有する中国型の官僚としての王であった
    (『二重言語国家・日本』P.142〜143)


     このような、弧島が中国の一部である「中国時代」においては、大陸人も半島人も弧島人も出入り自由であり、無文字の時代の自然の往来以上に人の行き来は激しくなった。 その意味でのこの「中国時代」や続く「擬似中国」時代に、かつての呼称では帰化人、近年の呼称では渡来人なる区別を考えることはあまり意味がない。
    (『二重言語国家・日本』P.143)


     たとえば、現在までに発見されている書の中では古層に属する「江田船山古墳出土大刀銘」(五世紀)の書き手は、その名から大陸人か半島人あるいはその子孫であるに違いない張安。 栃木県笠石神社に残る「那須国造碑」(七〇〇年)の文章冒頭には「永昌元年己丑四月」と大陸の則天武后時代の年号が用いられ、七〇〇年代前半の奈良時代の写経生には、「余・漢・台・面・辛・王・金・韓・呉・狛・委・高・工・張・秦・林・古・楊・契」など大陸・半島系と思われる姓氏が見られる。 これはごく一部の例にすぎない。 京都人、東京人という言葉もあるから、もしもどうしても必要ならば大陸人、半島人、弧島人と区別することもよいだろうが、当時は、区別のない三者が協力、協同して、ともに中国とは異なる国家をつくり上げていったのであって、倭語という確たる弧島語をもった(?)弧島人が大陸語を話すごく少数の大陸人や半島語を話す(?)半島人の力を借りて、国家をつくり上げたわけではない。弧島における公用語(政治語)は大陸語以外ではありえず、その担い手は汎東アジア人であった
    (『二重言語国家・日本』P.143〜144)


     政治的には六五〇年時点、文化・社会的には、一〇〇〇年頃までに弧島に住みついていた人々(汎東アジア人)は出自がどうあれ、なべて日本人に他ならない。なぜなら、それら以前においては、日本語も日本なる実体も何等存在しなかったからである
    (『二重言語国家・日本』P.144)


     さて、大陸が華北と華南に分かれて争う中国の南北朝は、異質なものを立体的に統合する原理、「三(三次元)」の原理によって、隋・唐代に統一される。 六朝時代の四六駢儷(べんれい)対句法「二(二次元)」に替わる唐代の絶句の起・承・転・結四句法(四は三に属する変種である)、書において一画を起・送・収筆(トン・スー・トン)で書く三折法、さらには磁器の唐三彩などは、初唐代の三(三次元)の統一原理と深い関係をもつ。
    (『二重言語国家・日本』P.144)


     初唐の太宗皇帝の時代、西暦六五〇年頃、この三析法によって、楷書は比類のない姿をもって完璧な姿を現すが、ここで初めて汎東アジアの構造が解体し、中国=唐という国家が、明瞭な輪郭(国境)をもって東アジアに立体的(三次元的)に誕生した。この中国の統一国家の成立をまねて、まず弧島が日本として、また半島は統一新羅として、中国から独立することになる
    (『二重言語国家・日本』P.144)


     大化改新白村江の敗戦壬申の乱は、この中国に倣(なら)い、中国から政治的に独立するための運動であった。 この頃から中国語とは異なる日本語の形成への本格的な歩みは始まる。
    (『二重言語国家・日本』P.144)


     日本時代への歩み

     現在の日本語は大まかに言って、漢字女手(おんなで)(平仮名)、つまりは漢語と和語の「詞」を中核に、これに和語の「辞」を添えることによって成立している言語である。 だが、この漢語は単なる中国語ではなく、また和語も単なる古弧島語(倭語)ではない。
    (『二重言語国家・日本』P.148)


     日本語における漢語とは、漢語の背後に和語が、また和語とは、和語の背後に漢語が貼りつき、複線化した語彙を指す。 たとえば、地方によってどれほど発音が異なっても、中国語の「雨」は「雨」にすぎないが、日本語の一部である漢語の「雨」は「雨(ウ)」であると同時に「あめ」であり、和語の「あめ」は「あめ」であると同時に「雨(ウ)」であるという二重・複線の構造をもっている。
    (『二重言語国家・日本』P.148)


     中国語を輸入するにとどまらず、中国語に相当する和語を新たに創出する二重・複線化によって、日本語はつくり上げられた。和語は古来から存在した倭語というよりも、擬似中国時代に再編され、また新たに創り出されたのだ。
    (『二重言語国家・日本』P.148)


     この漢語の和語化、和語の漢語化の過程は、書きぶりの文体とも言える書体(書)によってたどると一目瞭然、とてもわかりやすい。
    (『二重言語国家・日本』P.149)


     天平時代に盛んになった写経は、中国の書をそのままうつ(写・移)しただけで、何等の弧島固有の書きぶりは見られないが、それでも、弧島での書史の中ではじめて書きぶり(書体)の安定が見られる。
    (『二重言語国家・日本』P.149)


     それ以前の時代の書は、初唐代の欧陽詢(おうようじゅん)風(金剛場陀羅尼経・六八六年)、栃木県笠石神社那須国造碑(七〇〇年)は唐の影響の見られない稚拙な書体……などこれと言って安定した書きぶりがみられない。 大陸中央から遠く離れた辺地に滞留した旧い書法や、中国中央に直結する最新書法の影響などもまちまちで一定しない。 言うまでもなく、弧島内の言語も政治もいまだ統合されていなかったからである
    (『二重言語国家・日本』P.149)


     天平写経の中国型の安定した書きぶりは、日本語が、中国語を本格的、体系的に理解し、積極的に日本語の形成を開始したことを意味する。
    (『二重言語国家・日本』P.149)


     この中国語に連動する書の姿が消えて、中国とは少し異なる姿を見せるのが、三筆−−空海(七七四〜八三五)、嵯峨天皇(七八六〜八四二)、橘逸勢(たちばなのはやなり)(?〜八四二)の書である。ひとつの字画が鳥の頭や蛇や龍の尾のような奇怪(グロテスク)な姿で表現される雑体書の表現を交えることによって、中国への異和と中国からの独立の意志を表現した彼等の書は、日本の書の始まりとして尊重され、「三筆」と讃えられるのである。
    (『二重言語国家・日本』P.149〜152)


     二重複線言語の浸透

       それでは、現在の転換期によって、忘れられようとしている社会、いまや古くなって、消滅しつつあるわれわれの原体験につながる社会はどこまでさかのべれるかというと、だいたい室町時代ぐらいまでさかのぼれるというのがこれまでの研究の常識になっています。 つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階とでは、非常に大きなちがいがある。 十五世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、十三世紀以前の問題になると、どうもわれわれの常識ではおよびもつかない、かなり異質な世界がそこにはあるように思われます。網野善彦『日本の歴史をよみなおす』

     網野が平安時代や鎌倉時代を異文化と言うような、文化的な落差の成立は、書の表現(書体)からたどると、とてもわかりやすい。 西行源順等が法華経二十八品を題とした「一品経和歌懐紙」(一一八〇年頃)と、後鳥羽天皇源順が熊野参詣の折に催した「熊野懐紙」(一二〇〇)との間に表現上の決定的な差が見られ、かつ「熊野懐紙」風の表現は近世末まで、ほとんど姿を変えることなく、日本書史の中央を貫通する。 網野が言うような日本史の第二の分水嶺は、日本知識人の精神においては、一一八〇年から一二〇〇年までの間にあることが書からはっきりとたどれるのである。 ちなみに、第一の分水嶺擬似中国時代の三筆日本時代の三蹟の間、九世紀初頭にある。 そして、第二の転換の余波として十三、四世紀に地理的階層的転換が実現するのである
    (『二重言語国家・日本』P.165〜167)


     たとえば、いまだかつて他府県人が意味を言い当てたためしのない福井地方の代表的方言に「ベトニバイヲチックリサス」がある。 この意味は「土に棒をつき立てる」である。 その語源について大胆に推定すると、「ベト=泥土」「バイ=棒」「チックリ=直立」つまり「泥土に棒を直立さす」のなまりではなかろうかとも考えられる。
    (『二重言語国家・日本』P.168)


     また、「あ、いいよ、かまわない」という意味の福井方言は、「ダンネ」である。 これは足りぬ→足んぬ(たんのう)」がなまったものと解釈されているが、断念」がなまった、あるいは重なったとも考えられないわけではない。 子供をしつける時に、背筋を伸ばして正座することを「オチョキン」と言うが、これは「直緊」ではないだろうか。 方言と言うと我々は、古代倭語の残渣だろうと考えているが、実際には関西弁の代表とも言える「シンドイ=辛労い」など、もともと漢語に発したなまりが、相当多い。 福井地方の多くは蓮如仏教大衆化運動とともにあったと考えられる。
     仏教者による二重複線言語・日本語の民衆化の象徴が、織田信長や徳川家康までも敵にまわして戦った十五〜十六世紀の一向一揆である。民衆の言語の水準が、政治の場面に参画し、武家と一戦を交えるほどまでに、高度化した証明である
    (『二重言語国家・日本』P.168〜169)


     二重複線言語・日本語の創造運動が、民衆にまで、また地域的には、東国にまで達することによって、地理的にも、また階層的にも日本は統一されることになった。 それが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の国内統一の意味である。 百姓(鉄砲足軽)の子(豊臣秀吉)が国内の統一を達成できるまでに、百姓の言語水準は高まった。 ほぼ現在の日本語と相似形の言語が弧島を覆うことになったのである。
    (『二重言語国家・日本』P.169)


    (三)二重複線言語の文化

     落語

     軽口噺頓作(とんさく)噺頓知咄落噺などを前身とする日本の落語は話芸ということになっているが、−−話芸には違いないが、日本語が文字中心言語であること、また、二重複線言語であるがゆえにひとつの芸として自立するに至ったものである。 落語は滑稽な「下げ」や「落ち」を必須の構成要件としているが、この「下げ」や「落ち」は二重複線言語の構造からもたらされる。  たとえば人間になった犬。 その姿を確かめようと酒を飲まされた落語「犬の字」の下げの箇所。
      「ああなさけない。 やはり以前が知れる」
      「あの通り枕をはずして大の字になりよく寝ているじゃありませんか」
      「ところが大の字なりになった肩の上を見なさい。 枕でチョンを打ってある」
     これは「犬」という文字自身が下げのポイントとなっている。
    (『二重言語国家・日本』P.173)


     現在の落語家や漫才師の駄洒落の連発は、日本語が漢語と和語の二重言語であることに起因する、同音異義語の多さの上に成立する話芸である。
    (『二重言語国家・日本』P.175)


     同音異義語の多さは、次のような二つの理由によってもたらされているものである。
     ひとつは、仮名文字の発明による漢語の音節読み化による平板、単純化。 たとえば、英語の「International」を「インターナショナル」と仮名読み化するような形で、中国語たる漢語を日本語たる漢語に変貌させたこと。
    (『二重言語国家・日本』P.175)


     他のひとつは、漢字依存による和語の高度化と複雑化の停滞
     たとえば糸をぴんと伸ばして「張る」ことと、ポスターなどを壁に「貼る」こととは、文字によって区別されている。もしも漢字で区別することがなければ、たとえば「ぴんはる」とか「ぺたはる」と言うように語彙が枝分かれして新しい語が生れたはずである
    (『二重言語国家・日本』P.175)


     涙を流して「泣く」ことも、大声を上げて「哭く」ことも、「なく」で済ませ、また、ほほえむように「笑う」ことも、あざわらうように「嗤う」ことも、「わらう」で済ませることができるのも、文字に依存しているからである。 この構造による和語の多義性が、同音意義語的用法を支えている。
    (『二重言語国家・日本』P.175)


     日本語の擬音擬態語の多さは、おそらく文字への依存度が高まり、動詞の発達がとめられた時代以降に肥大化したものであると考えられる。
     発達をとめられた「あるく」を「のそのそ」、「すたすた」などが形容し、限定付けるのである。
     落語や漫才はこの日本語の二重言語に依存することによって生れている。
    (『二重言語国家・日本』P.175〜176)


     むろん日本語におけるこの「洒落」の根は深い。 その起原は、『古事記』『万葉集』の時代、つまり、日本語の起原にまで遡る日本語は洒落と駄洒落を構造的に内に秘めた言語であり、日本は「駄洒落」によって生れた国と言っていいほどなのだ。
    (『二重言語国家・日本』P.176)


     たとえば、
     「阿安」⇔「ア」、「伊夷」⇔「イ」、「宇于●有烏」⇔「ウ」(●(サンズイに于))
     「衣愛」⇔「エ」、「於意」⇔「オ」の仮名文字「イロハ」自体が現在の暴走族の落書にも似て、宛字である
    (『二重言語国家・日本』P.176)


     さらに、
     「有険」⇔「有りけむ」
     「別南」⇔「別れなむ」
     は比較的きれいに「下げ」たと言えても、
     「思篇」⇔「思へり」
     「越乞」⇔「をちこち」
     に至っては苦しい音仮名の「下げ」である訓仮名の、
     「金鶴」⇔「かねつる」
     「八十一(くく)隣(り)」⇔「くくり」
     「馬声(い)蜂音(ぶ)石花(せ)蜘蛛(くも)」⇔「いぶせくも」
     の「八十一=九×九(くく)」や「馬声」を「い」、「蜂音」を「ぶ」と読ませるところなどは、日本語創製期の苦労とはいえ、文字の通り「戯訓」、落語や漫才の祖形である
    (『二重言語国家・日本』P.176〜177)


     日本語は、洒落駄洒落地口落ちや、「○○とかけて××と解く。心は△△」という、謎謎など言葉遊びによって生れた言葉でありいわば日本は「吉本興業(よしもと)」立国なのである
    (『二重言語国家・日本』P.177)


    (四)二重複線言語の美学

     川の流れのように−−宗教なき言語

     一般的には、宗教は法に、法は国家に転移されると言われている。 だが、発生的にも歴史的にも宗教は、小共同体がさまざまな交通(戦争、外交)を経て、上位に包括的共同体を形成した時に、その包括的共同体との二重の共同性への複雑な帰属の運動がもたらした観念の自己疎外であり、その観念の自己運動が、倫理や政治思想や宇宙観までも、つくり上げるに至ったものである。 それゆえ、キリスト教においても、仏教においても共同体からの疎外と帰属の物語であるところの放蕩息子の喩えが教義の中に組み込まれている。
     包括的共同体は、異質で多種の下位の共同体を統合する観念として「類」の観念を疎外した。 それが天であり、神であり、文字であり、主語である。 類の観念である天と文字と主語とは同時に生まれる。文字を生むことがなかった日本以前の倭は、この類の観念と天と主語の経験を深くくぐりぬけることがなかった
    (『二重言語国家・日本』P.185〜186)


     垂直・絶対「天」の観念は、天と地を結ぶ垂直線の意識を生み、それを直角に横断する水平線、両者の交叉形としての十字、また垂直軸を対称軸とする左右対称や鏡面対称、そして均一・均等の美学と意識を生み育てた。 垂直画・縦画と水平画・横画からなる文字の垂直書き(縦書き)からなる漢字はまさにこの「天の美学」を根幹に据えている。 同時にそれは、「天」=始まりと、その極限としての終わり、その人格化としての決意と決断、その持続としての志の哲学をを生むことになる。文字の国・中国はこの垂直絶対の思想を言葉=文字の内に内在化しつづけ、他方、音写文字=アルファベット化によって、文字と書字の中にその姿を喪った西欧は、キリスト教=絶対神という二次的宗教の疎外によって、これらを文字以外の声でもっている。 比喩的に言えば、西欧キリスト教社会では天に向かって縦に話すのである。
    (『二重言語国家・日本』P.187〜188)


     他方、日本のような「上方(じょうほう)」と「傾斜」の観念下においては、垂直の天の観念と垂直線の美学がなく、代わりに、斜めに傾く傾斜軸が美を形成することとなり、傾斜軸に沿って、上方から下方への「流れ」の感覚を生むことになる。
    (『二重言語国家・日本』P.188)


     たとえば、我々が自覚すると否とにかかわらず、日本語で言葉を発する時に、漢語と和語の間を往復することは避けられない。 たとえば、「雨(あめ)」という一言を発する時でさえ、「紅白梅図」の此岸(しがん)と彼岸のような「あめ」と「雨(う)」の間を右往、左往した果てに、まさに分裂し傾斜した構図で雨(あめ)」と発せられるしかない。 日本語の力を最大限駆使して正確に発語しようとすれば、一語、一語、言葉を選び、慎重に「間」をもって口を開くしかない。 それは、中国語の宇宙と和語の宇宙の間を往還し、両者をつなぎながら発語せざるをえないという煩雑な内的構造をもつ日本語の宿命から来る。
    (『二重言語国家・日本』P.190〜191)


     日本の四季が、中国や西欧の四季と較べて格別に美しいわけではないはずだ自然(じねん)自然(しぜん)の景物と四季のうつろいに矮小化して褒め賛えてきた歴史が、花鳥風月、あるいは雪月花を賞でる言語(語彙と文体)を微細化し、強化してきた。 「今日(こんにち)は(よいお天気ですね)」で始まる日本語の挨拶、「寒冷の候」「日ましに温かくなってまいりました」という手紙の冒頭句、いずれもまっさきに四季を賞でる。 そこでは政治や芸術等人間の表現上の営為は小さな出来事としかとらえられず、偉大な人間的営為を賛えるために人名を冠した固有名詞の地名は、中国思想の影響を大きく受けた戦国時代や明治維新期を除けば極端に少ない。 しかし、逆に、菅原道真や源義経、楠木正成、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康になると、それは自然(しぜん)のように尊重すべき存在として、神と化すのである。 おそらく、手塚治虫の鉄腕アトムに代表される、ロボットや動物を擬人化した日本の漫画や動画(アニメーション)の活況は、自然(じねん)と人為の区別なき日本語の生む小さな神々であろう。
    (『二重言語国家・日本』P.192〜193)


     そこに、若者達の間では、人間と動植物、あるいは仮想現実(あやかし)的動植物との区別さえつかぬ、奇妙な動植物愛護とそのテレビゲーム化、その裏返しの、人間の尊厳のかけらも、残酷ささえも感じられない奇妙な人間虐待と殺人が同居することになる。
    (『二重言語国家・日本』P.193)


     また、政治や経済や学問や教育の体制や制度という、真に望みさえすれば、いつでも改廃可能なものが、人為的に抗しがたい、たとえば時代の「季節」と「流れ」とされ、マルクス主義もポスト・モダンも記号論も、学問や知の「流行(トレンド)」として四季の移り変わりのように認識され、学者も大衆も、「流れに掉さす」か、「意地を通す」かのいずれかの態度を採ることしか思いつかず、その根本的な批判や、吸収と定着は実現できないでいる。
    (『二重言語国家・日本』P.193)


     月かたぶきぬ−−国家なき言語

     二重言語・日本語を構成する字画数の多い漢語と字画数が少なく単純な女手の和語とは、その重量(ウェイト)を異にする。字画数が多く貫禄をもつ漢語に対して、字画数の少ない和語は凭れかかるのである。 二重言語・日本語の内部においては「テニヲハ」の和語つまり辞は詞である漢語に寄り添い凭れかかり、またこれを支えるのである。
    (『二重言語国家・日本』P.193)


     日本語の傾斜軸は、世界を「流れ」ととらえるだけではなく、「傾く」美学を再生産しつづける。
     日本では「月はかたむく」のであり、酒呑みは盃を「傾け」、国〔伎〕は「かたむき=歌舞伎」であり、受験生は「かたむき=傾向」に対して対策を立てる。 ある思想を生きるということは「傾向」にすぎず、この国では家や会社が「傾き」、江戸時代には、「傾城(けいせい)」という名の遊女さえ存在した。
    (『二重言語国家・日本』P.193〜194)


     「傾く」ことはまた「凭れ合う」ことである。凭れ合うこととは、もう少し現在風に言い換えれば、「支え合う」ことである
     近年の日本の被害者民主主義と福祉国家・年金王国待望の合唱は、「支え合う」こと、「凭れ合う」こと、つまりは「傾斜」への指向であり、露出である
    (『二重言語国家・日本』P.194)


     志願兵の思想を欠いた「ボランティア」、自立を前提としない「ケア」や「ヘルパー」や「カウンセラー」「セラピイ」、さらには、共同を形骸化した「共生」−−近年目につき、耳にする流行の言葉の多くが、人間と社会の「共同」に発するというよりも、むしろこの「傾く」「凭れる」「支える」という意識に親(ちか)しいもののように思われる。
    (『二重言語国家・日本』P.194)


     同時に、近年、政治、行政、経済界、学界を含めて、総じて責任の不在が目に余るような状況を呈している。 しかし、責任は行動の主体が担う。 主体、つまりは天と主語なき日本語にはもともと責任は生じようがない。 わずかに「天地神明に誓って」という表現にみられるような、日本語の中の中国語(漢語)の「天」の思想に依拠することによって、辛うじて責任を果すことが成立しえたのである。 天なき和語に依拠すれば、天に根拠を置かない「お上(上方(じょうほう))」が生れる。 日本が「大日本帝国」であった戦前には、言葉は辛うじて「〔天〕皇」に対して責任を負った。ところが、「大日本帝国憲法」が「日本国憲法」と化し、天皇は象徴という、絶妙と呼ぶべきか曖昧と呼ぶべきかわからぬ存在と化す国家と法の体系へと移行した時、かつての天皇の官僚達は、責任をとるべき対象を喪った。 その空隙に、一方では、かつての天皇の官僚時代の名残りである官庁通達行政指導という強大な権限と日本を支えているという傲慢な錯覚をもち、また地方では、法的に根拠をもたない無法、法外の通達や指導の送り手であることからする、まったくの無責任さを二重に併せもつ日本型官僚は生れ、現在に至っている
    (『二重言語国家・日本』P.194〜195)


     この「傾く」=「凭れ合う」=「支え合う」感覚は、福祉国家への過剰な期待をもたらし、福祉=高税国家=官僚国家つまりは汚職と腐敗の国家をもたらし、官僚からわずかな資料を提出させたにすぎない厚生大臣を、悪代官をこらしめる水戸黄門や大岡越前守に見立てて、かつて拍手喝采を送った。 官僚の跋扈(ばっこ)と大臣のスター扱いは、共同と自治の理想を失って右往左往する日本大衆の倒錯した哀れな投影像にすぎないだろうに。
     土居健郎の言う「甘え」の構造とは、この「凭れ合い」=「傾き」=「支え合い」の精神構造、言語構造の別名であろう。
    (『二重言語国家・日本』P.195〜196)


     中国を中心にベトナム、朝鮮、日本、琉球、台湾で形成した東アジアの「世界」の中で、日本は東端の弧島として、たえず西のみを向き、西を覗いていた。 この偏った力は、日本人に西からかかる圧力という特殊な偏向した均衡感覚を育てた。 この偏向した均衡感覚を超えるような力が加わる時には鎖国し、あるいはその偏向力を弱めようと、豊臣秀吉のように、半島、大陸を目指す力も生じた。 いずれにせよ、東は何等の圧力のない海であり、もっぱら西から圧力は来ること、文明や文化はたえず一方から、西から来、西へ出て行くことが、世界のどこにも存在しない日本に独特の偏圧均衡と偏圧図法を生んだ。
    (『二重言語国家・日本』P.196)


     その例は吹抜け屋台の「源氏物語絵巻」「洛中洛外図屏風」、さらには、『源氏物語』等の文中に見られる「垣間見」視線であり、平安時代以降の和歌書きに見られる行頭を上げ下げする「散らし書き」やひとつの和歌を二つ以上のブロックに分けて描き出す「分かち書き」、さらには書き始めた行頭より前(右)に戻って書きつぐ「返し書き」である。 中国の曼陀羅に見られるような上下、左右、正対する十字の構造ではなく、斜めの斜視構図である。
    (『二重言語国家・日本』P.196〜198)


     日本語にあっては、毅然と胸を張って歩く姿よりも、寄り添い凭れ合う姿に親しいのであり、自立した男や女は「可愛げがない」のて゜あり、少々傾く=甘えるくらいの方が「可愛い」のである。 政治・政策の担当・遂行能力よりも息子や知人の就職や入学に関して凭れかかる対象として「頼りがいがある」ことの方が、日本の議員には求められている。 これが村落共同体ではうまく機能したが、村(ムラ)が崩壊すると、とたんに、「傾きの共生」となり、収拾がつかなくなる。
    (『二重言語国家・日本』P.198〜199)


     花は散る−−歴史なき地理なき言語

     特攻兵「国=共同性のため」に死んだのではなく、水平の美学に死んだことこそが批判されるべきであるにもかかわらず、その総括がなされていないがゆえに、共同性に死ぬことが犬死と嘲笑され、あるいは「かわいそう」と同情され、あるいはまったく忘れ去られ、「散る花」=死=水平の美学が姿を変えて、悲惨ないじめ自殺の子供達の遺書にまで増幅されている。
    (『二重言語国家・日本』P.204)


     日出ずる国−−政治なき言語

     聖徳太子小野妹子の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」に発し、国号「日本(ひのもと)」、国旗「日の丸」に継承された「日の出」の美学は、近年の日本経済についても、泡沫(バブル)経済期の「日は昇る」、泡沫(バブル)経済崩壊期の「日は沈む」などと囂(かまびす)しい。
    (『二重言語国家・日本』P.206〜207)


     前述のように水平の美学は、差を知らず、差のないところに差を無理に持ち込み「たかぶり」を生む。奢り驕り傲りであるが、それは「ふり」、つまり「高いふるまい」をすること、それらしく装うだけのことにすぎない。 聖徳太子−小野妹子の「日出づる国」の解釈をめぐって単に東を意味しただけとか学者はいろいろと説を展開しているようだが、当時の隋や唐の大陸と、言語と思考の大半を中国語に依存する東海の小さな一島嶼(とうしょ)国が対等にふるまうこと自体が、すでに歴史と文化をわきまえない「たかぶり」であることは言を要さない。
    (『二重言語国家・日本』P.207)


     明国から「日本国王に冊封する」という回答しか得られなかった豊臣秀吉の朝鮮、中国、天竺侵略構想、また、現代の「大東亜共栄圏」構想もたかぶり」=傲慢が生んだ錯覚的計画書(プラン)である
    (『二重言語国家・日本』P.207)


     さらに、日本人が「」を好むのは、それが「」であり「」であり、地口落ち的に「」や「」につながるからであろう。 「和をもって貴しとなす」は聖徳太子の言葉であるとのことであるが、この「」は「」につながる意味を日本語ではもっている。 近年少なくなったとはいえ、手をつないで「」になることや「角(かど)がとれる」こと、さらには「円満」や「団欒」を好む。 しかし日本語の中には、前述のように水平線をめぐる凹凸、つまり「異和をもって貴しとなす」という一面もまた確実に存在する。
    (『二重言語国家・日本』P.207〜208)


     かくて、二重言語・日本語は正負両面にわたって、「日は昇り、月は傾き、花は散り、雪は降りつつ、水は流るる」とでも総括される文化を再生産しつづけている。 比喩的に言えばこれらの、花鳥風月」「雪月花」の思想は、二重言語・日本語が不断に再生する生理であり、世界に特異ではありえても、超克すべき課題は多く、決して誇るべきものではありえない
    (『二重言語国家・日本』P.208)


    第四章 書字中心・二重言語の現在と未来

    (一)二重複線言語の近代・現代

     文字と国家

     できれば杞憂であって欲しいと願うのだが、現在の若者文化からは−−むろん我々大人達とて同じことだが−−、歴史と文化の中に定着することの少ないカタカナ語や生硬な漢字造語の流行語は生れてきても、歴史と文化に根拠をもち、位置を占めるような語彙は日を追って減少しつつあるように思える。
    (『二重言語国家・日本』P.219〜220)


     若いオリンピック選手が、勝っても負けても「オリンピックを楽しみました」と人形のように口を揃える言葉や、自信と確信を欠いた口先だけの甘え声にそれが表れている。
    (『二重言語国家・日本』P.220)


     他国のスポーツマンは、スポーツという肉体を用いる職業という限界あるにしても、勝利のために自らを鍛え上げ、数々の困難をくぐりぬけた、なるほどと思わせる言葉、あるいは、社会と共同に発する気のきいた言葉をもらす。
    (『二重言語国家・日本』P.220)


     おそらく、この若いオリンピック選手達の言葉の水準が、現在の日本の言語水準であり、ひいては、日本の外交官やセールスマンが世界で発している言葉の水準であろう。 この劣化した水準の日本語でとうてい世界を相手にした外交交渉がうまく行くとは思えない。日本の論理が辛うじて通るのは金力を背景にしているからであって、言葉や文化によるものとは思えない
    (『二重言語国家・日本』P.220)


     漢字仮名交りの文字の国である二重言語の日本においては、漢字の制限は漢語の制限であり、漢語の制限は、日本語の制限であり、それは表現を著しくそこなうことと同義である。 日本の文化の発展や展開を危険視する外国の植民地政策ならばともかく−−むろん世界もまた共同の存在である以上、植民地政策とてありうるものではないだろうが−−、日本語を扱う国語審議会が、自国語の衰退に向けて政策提言を行い、愚民政策を提言するというのは奇異なことである。 助詞の「の」や「と」など辞はともかく、詞である和語もまた漢字の訓によって決定づけられ、位置を定められた言語である以上、漢字の制限は和語の衰退をもたらすという構造にある。
    (『二重言語国家・日本』P.220〜221)


     つまり日本語は、漢字仮名交りを基盤にする以外に方法がないのであり、『源氏物語』『和漢朗詠集』、書「白楽天詩巻」のように和語や和語的表現を豊かにするためには、逆説的に漢語=中国語を豊かにしなければならないという宿命をもっている。
    (『二重言語国家・日本』P.221)


     国家と日本語

     日本には、「国語・国字」問題があり、「国語審議会」がある。 この「国語」を「日本語」と表現した方がよいという説があり、筆者もそれには同意する。
    (『二重言語国家・日本』P.225)


     「国語」と表現することによって、日本語の中の和語の部分を過大評価し、無用な「やまとごころ」の思想を無理に持ち込み、仮名書き論を唱えて日本語を混乱させ、ひいてはその劣化を招いているということはむろんある。 しかし、国語=国家語」という思想から「国語」という呼称に反対し、「日本語」への改称を奨める一部の学者の主張に反して、「国語」は逆に、「国家語」を意味しないところに「国語」という呼称を捨てるべき理由がある。
    (『二重言語国家・日本』P.225)


     「国語」や「国文」や「国史」が世界的水準では問題にもならない、偏狭な倭臭=「やまとごころ」を漂わせる理由は、個々の学者や批評家の問題というよりも、「国」という言葉そのものの中にかくれている。
     この「国」は決して自立し、独立した「国家」を意味しない。 志賀島から出土した「漢委奴国(漢の倭の地方の奴国)王」印の「国」、あるいは秀吉が明国から受けとった回答書の「日本国王に冊封する」の「国」、つまりは、中国の領域内の衛星国、現在日本で言えば「県」のような、また換言すれば日本人が「お国はどちらですか」と尋ねるような意味での国内国としての「国」に彩られている。
    (『二重言語国家・日本』P.225〜226)


     つまり「国」とは、自立と独立の意識を欠いたまま、自立し独立した国家を箱庭(ミニチュア)的に準(なぞら)える意味しか存在しない。 しばしば語られる日本人の「甘え」なる意識は、この「国」の意識に等しい。
    (『二重言語国家・日本』P.226)


     日本語、象徴的に言えば「国語」の思想が、日本人の「甘え」と凭れ合い、さらには傲慢(たかぶり)の構造を再生産している。
    (『二重言語国家・日本』P.226)


     「国」とは決して「国家」ではなく、「国語」とは決して「国家語」ではありえない。 にもかかわらず、「国家語」であるかのごとくにふるまい、「国家語」と錯覚する意味をもつ。 そこに他の国家に依存しながら、それに気づかぬというふるまいが生じ、その無理解から言葉をあれこれいじくりまわして、逆に日本語の言葉の宇宙の成長を妨げ、ありもしない和=「やまとごころ」の強調と日本語の実情に目を覆ったいびつな言語政策を生んでいる
    (『二重言語国家・日本』P.226)


     「国語」という言葉は大方の論者の意図に反して「国家語」という観点をもたず、中国・中央に対する地方(ローカル)という前提での国でしかありえぬがゆえに、これを廃棄し、「日本語」とすべきなのである。
    (『二重言語国家・日本』P.227)


     「国文」と呼ぶから和の文学の放縦が生じ、日本語の一部である漢文学に対して目配りが行き届かず、平安時代に漢文学が大盛隆であったことに人々は驚愕し、「古今和歌集」の勅撰者・後醍醐天皇が中国風の狂草体の達人であったというようなことについての想像が届かない。
    (『二重言語国家・日本』P.227)


     また、日本の中世を演出した文官機構とも言うべき、五山林下の僧達の膨大な政治思想と文学が、「国語・国史」からも「漢文学・東洋史」からも疎外され、その解読が、まったく進んでいない。 日本語の一方であるところの漢語による政治史と表現史が、暗闇(ブラックボックス)に追いやられ切り捨てられている。 これは当然に「日本文学」と改称し、その内実を補う必要がある。「国史」と呼ぶから、それほど重大とも思えない邪馬台国論争に一喜一憂し、漆や陶器はあっても、文字も金属器もなく世界的にたいした規模でも、また、文明でもない縄文文化を「世界的」と錯覚し、「古代ロマン(?)」憧憬の意識を再生産しつづけている。 日本の縄文時代に、大陸では、すでに文字があり、文明があり孔子の思想が生まれていた。 そのことを忘れぬ方がよい。 これは、日本成立以前の大陸の東部と極東の弧(ゆみ)なりの島嶼の文化的事実であり、自虐史観」ではない
    (『二重言語国家・日本』P.227〜228)


     「国史」ではなく「日本史」と考えれば、日本文化の原型の成立は漢字くずし段階を超えた平仮名(女手)とそれに衡(つ)り合うところまで漢語=漢字をくずし、書きぶり的に日本独特の漢字体=日本文字をつくりあげた平安時代ということになろう。国家の成立は、中国(唐)と較べればむろん玩具のようなものではあるが、律令時代。 それ以前の六世紀までは「日本以前」の中国の一部である。 大陸も半島も、東海の弧島も濃淡はあっても明瞭な区別のない、中国を盟主とする東アジアの一地方であった。
    (『二重言語国家・日本』P.228)


     国家成立以前はもとより、国家成立後も日本は大陸と比較すれば、文化的後進国であった。 国家成立前に中国語と文字と大陸人や半島人が大量に来たり、また弧島から出かけて行った。 このように想定することこそが世界大の思考ではあるまいか。
    (『二重言語国家・日本』P.228〜229)


     倭の強調にすぎない「高度な縄文文化」あるいは「邪馬台国論争」など「国」の思想に日本人の多くが溜飲を下げ、大陸や半島の影響を主張する説に対しては、見て見ぬふりをし、内心では不快に思い、「そこまで言って欲しくない」「そう言ってしまっては身もふたもない」という、いかにも地方的(ローカル)な、一方で傲慢、その実は自嘲的な「傲慢・自嘲史観」、つまり、神風が吹いたり、神国となる「皇国史観を含み込む。 「国」の思想は克服して、せめて、世界との共同を自覚した近代の水準で「国家」とその超克「日本語」とその改良を考える方がよいのではないだろうか
    (『二重言語国家・日本』P.229)


     真の意味で、日本が中国(清)と対等の立場に立ったのは、明治六(一八七三)年、明治政府の特命全権大使で倭、漢、洋の学問と法制に通じた副島種臣(そえじまたねおみ)(日本語の二重言語性を知ってか、和式に菅原種臣、中国式に劉種臣とも名宣(なの)った)が、清の皇帝との謁見にあたって、三拝九拝の属国の礼を廃止させた時である。この時はじめて、大日本帝国清朝中華帝国は対等の立場に立った
    (『二重言語国家・日本』P.229)


     我々が書き記す漢字は初唐代の楷書に、明朝体印刷文字清朝康煕(こうき)字典体に凭れかかっている。 漢語は言うまでもなく中国語である。 そして、戦後の政治と経済と商品文明は、アメリカに凭れかかっている凭れかかっているにもかかわらず、「国の思想」はそれらの事実を直視しようとはしない。 その良き例が安保条約駐留米軍である。 日本の知識人は、米軍の軍事力に凭れかかった異様な事態に目をつむったまま、国連(連合国)安保理事会常任理事国入りの賛否を唱えている。相互駐留ならまだしも、一方的に駐留された(国家ではない)国が常任理事国入りを考えるのは、私には、おめでたく、また無責任きわまりないこととしか思えない。
    (『二重言語国家・日本』P.230)


     「国語」を「日本語」の水準で考えることができるようになれば、当然、現在の「日本国」の名称も「日本象徴天皇国」「日本象徴君主国」、あるいは象徴天皇制を始末して「日本共和国」とすべきかという議論も、また、国民ひとりひとりが国家とどうかかわるかという主権在民の思想と行動も生じよう。 あと百年も千年も現在のような曖昧な形で安保条約、駐留米軍や象徴天皇制が残りつづけると考えるのは、夢物語であるにもかかわらず、その思索を欠くのは、日本語の二重性と「国の思想」に起因するとはいえ、国民的思考の怠惰と言えよう。 むろん国民皆兵の原則を失い、志願兵制と化した国家は、共同体としての資格を失っているのだから、超えねばならない。 しかし、いったん国家の枠組みを定め、それを克服するのでなければ、国家以前の姿のまま国家が超えられようはずがない。 国家以前の姿のまま国家なきがごとくでよしとするのは、水戸黄門の印籠」をひたすら待ちつづける無力の政治音痴の地方民の姿、つまりは戦後の占領米軍司令官・マッカーサーが言った「十二歳」の姿に他ならない
    (『二重言語国家・日本』P.230〜231)


     「国語」を「日本語」として再構築することは、「日本国」をどうするかという、明治維新期や敗戦期に匹敵する水準での革命を孕んだ意味を持つことになる
    (『二重言語国家・日本』P.231)


    (二)二重複線言語の現在

     泡沫経済と片仮名

     文字とは、言葉の生産の問題に他ならない。 日本においては、漢字とは政治と思想の言葉の別名であり、平仮名とは生活の言葉の別名であるから、政治や思想や生活に掬(すく)い取られることのない商品の言葉が、カタカナ語として我々の身辺を駆けめぐっているのである
    (『二重言語国家・日本』P.234)


     高度経済成長以降の現代商品経済は、この何とも頼りないカタカナに憑依(ひょうい)して、泡沫(バブル)の踊りを踊った。 むろん高度成長期以降の商品経済や市場経済は、資本主義そのものの内在的発展によるものではあるが、一面では、また日本が、当座の文字として片仮名という便利な文字体系をもっていたがゆえに、その進行を早めたという面も間違いなくある。
    (『二重言語国家・日本』P.234)


     高度成長、そして七〇年代から始まる泡沫(バブル)経済は、カタカナ経済に他ならない。 たとえば、日本に片仮名がなく、「泡沫経済」と名づけたとすれば、そこには「泡沫候補」につながる劣位の意味合いを逃れることはできず、「もう少しバブルが続いていれば……」というような言葉は、経営者といえども吐くことはなかっただろう。 「泡沫」という愚劣でばかばかしい経済社会が何によってもたらされたかを省察し、どのような未来の経済をつくり上げるかについての真剣な思索も生れ出ただろう。 ところが、カタカナ化された言葉は、日本語の中に位置をもたず、歴史的伝統が切れていることによって、それゆえ身軽で、時代の花形語として浮遊することになったのである。 「バブル経済」という言葉が、一片の反省もなく当事者の口から吐かれ、あたかも世界経済の新しい傾向−−まさにその通りなのだが−−として、当然のごとく受けとめられていく。 「リストラクチャリング」とは「再構築」であり、「リエンジニアリング」とは「経営再建」に他ならない。 これまでの経営の根本的総括と出直しを意味するこれらの言葉が、日本語の中に確たる位置をもたないカタカナ語でとどめられるがゆえに、外国で流行の最新の経営手法であるかのごとき顔をし、あるいは馘首の隠語として軽々しく使われ、勤労者も唯々諾々と従っていきもするのだ。
    (『二重言語国家・日本』P.234〜235)


     むろんその責は片仮名にはない。 その真因は、高度経済成長以降のとりわけ七〇年代以降の商品経済が、我々の実体の経済や社会や生活の速度よりも速く駆けめぐるために、戦前のように中国語によって日本語の文脈の中に受けとめることができずに、やむなく、カタカナで駆けめぐるのである。 つまり、日本語の歴史の中にほとんど根をもたないカタカナ語は人間の実生活からかけ離れたこの現代商品の速度にいくらでも追いつくことができる。 いかに奇想天外な今日の商品といえども、言葉によって受けとめられないかぎりは世界を駆けめぐることはできない。 どれほど人間や社会から遊離した商品であっても言葉=人間=社会に受けとめられ、あるいは受けとめられたふりぐらいはしないかぎりは、現実化しえない。 今日の商品名がアルファベット記号で、また、商品の世界化に対応した国際機関の多くが、アルファベット略号しかもちえないことは、その商品や国際機関の速度に、社会や人間の側が追いつかぬということであり、それは、社会や人間にとって必要不可欠なものではないことの証しでもあろう。 その中で、国境を問わず、出自を問わず、歴史と文化を問わない文字、片仮名の存在は、今日の現代世界商品にとっては、恰好の文字である。 しかも、この文字はいったん「電子計算機」や「電気掃除機」と重々しく社会が受けとめた現代商品を「コンピューター」や「クリーナー」と身軽な商品へと改編し、商品の洪水をもたらすという、おそるべき社会、分化破壊力すらもっている
    (『二重言語国家・日本』P.235〜236)


     逆に言えば、これらが片仮名語であるということは、この高度成長、泡沫(バブル)文明が、社会に根拠をもたず、一時的、臨時に流行するだけの仮り物でしかないことを意味しており、実体の社会や文化の深層は、これらの高度成長や泡沫経済を仮り物と受けとめているにもかかわらず、その表層においてのみ、不思議な肥大化をとげているのだ
    (『二重言語国家・日本』P.237〜238)


     「ゴミ・クズ・カス」が近年は片仮名語化し、また、口に出すことをはばかられるような述語が平然と語れるような絡繰(からくり)をもつカタカナ語はいったん疑ってみた方がよい。なぜなら西欧や中国では、自省心なく語れる片仮名語はないからだ。 どうにも訳語が生れないで、やむなく片仮名で受けとめている場合はむろん別の話だが。
    (『二重言語国家・日本』P.238)


     その「行きすぎた」商品経済の中で、カタカナ語の氾濫に見合うような形で、いじめ、登校拒否、花粉症、アトピー性皮膚炎などという関係障碍(しょうがい)を病み、いかにも軽い−−この「軽い」は根を持たぬカタカナの本質である−−奇怪な犯罪に満ちあふれる社会となった。 人間と社会が、「時代」に追いつけぬようになったのだ。
    (『二重言語国家・日本』P.238)


     ところが現実には、文部省、大学、学者、教師、学術、文学、芸術などの表現等も積極的にこの「時代語」の導入によって、「時代」とともに行けるところまでは行こうとする子供や若者の後を追いかけるまでに堕落している
    (『二重言語国家・日本』P.239)


     我々が人間と社会のどのような未来を実現すべきかを希望をもって語ることである。 それがカタカナ語の権化たる「高度情報化社会」などではないことは明らかだ。 そしてこのような歴史の過渡期にあっては不均等に分布する三重言語の弱点を長所に転ずるために、「ルビ」の復活による和・中・西の三つの言語の求心力と遠心力を引き出す努力が有効に機能する局面もあろう。
    (『二重言語国家・日本』P.239)


     振り仮名は、いわば読みを与えるためのものだが、ここでのルビは読みを与えるためだけではなく、言葉の意味と比喩の力動性(ダイナミズム)を創造するための「傍字」である
    (『二重言語国家・日本』P.240)


     「傍字ルビ)」はもとより「ルビ傍字)」というように、漢字を振ることも可能にすることはもとより、「リストラ見切り)」あるいは「情報化希望なき社会」というような用法によって、日本語の原罪とも言うべき有史以来の日本語の二重複線構造を逆手にとって、現在の三重言語構造の特徴を最大限生かしきるような用法を定着させることである。 「春雨」が「シュンウ」とも「はるさめ」とも読める複線構造は、言葉に厚みを与えることにもつながった。 この複線構造を効果的に用いれば、多重言語の特徴が引き出せよう。 文字の彼方の言葉そのものをやりとりすることも根づくかもしれない。
    (『二重言語国家・日本』P.240)


     たとえば、「民主主義」が「民主主義デモクラシー)」と使われていたなら、それはたえず政治体制である「民主制デモクラシー)」という限界内にとどめられ、比喩的飛躍はともかく、現在のように矮小化した用法へ転ずることはなかっただろう。 そして、真のデモクラシーの像も描けたかもしれない。
    (『二重言語国家・日本』P.240)


     語彙制限の撤廃

     語彙の制限をとりはらい、豊穣な語彙をもつ日本語をつくり上げるべきである。
     第一に、すぐれた造語力をもつ漢語(中国語)の使用を全面的に解放すべきである。 たとえそこに日本語の現状を無視した、中国文学者や中国史学者の衒学(げんがく)的な濫用が生じたとしても、漢字を手がかりに意味の見当をつけることができ、また、必要でないものについては社会的に淘汰される。 多重言語・日本語においては、漢詩、漢文、漢字教育と西欧文学と思想の翻訳語教育は必須である。
    (『二重言語国家・日本』P.247〜248)


     第二に、西欧語=片仮名語については、必ず漢字・漢語化をはかることによって、語彙の定義化を習慣づけることが必要であろう。  最近は映画の題名まで翻訳を放棄サボタージュ)し、原題の片仮名表記でお茶を濁しているが、外来語の片仮名化は、日本の現実の仮想現実バーチャルリアリティ)社会化を二重に促進する。
    (『二重言語国家・日本』P.248〜249)


     たとえば、日本では主婦や子供や老人にまで愛されるパソコンワープロなどという商品。 あるいはセクハラリストラなどという行為。 これらは世界中どこにも存在しないのだということは、はっきり認識しておいた方がよい。
    (『二重言語国家・日本』P.249)


     personal computer個人用電子計算機)、word processor文書作成機)、sexual harassment性的困(いやがら)らせ)、restructuring再構築)なら先進国にはある。 しかし、ここからが日本語の特異なところだが、それが片仮名化し、四音節化することによって、いっきに老人から子供までこぞって愛用される存在と化す。 その過程を述べれば、パーソナル・コンピュータワード・プロセッサセクシャル・ハラスメントリストラクチャリングと片仮名でその歴史的に重い根拠を取り去られた商品や行為は軽薄な存在と化し、さらにこれが、日本語の生理に親しい二音節(長)+二音節(長)=四音節=四文字の「ハシモト」「ムラヤマ」式の「パソコン」「ワープロ」「セクハラ」「リストラ」と化した時、「橋本」さんや「村山」さん同様、一般市民にも親近感のある商品、行為と化す。 むろん日本語は七五調の国。 「四+三」「三+二」に親しい。 二音、三音、四音はひとつの単位。 「ヤマダ」「タナカ」式の、二音節+一音節(短)=三音節の「テレビ」「ビデオ」も日本語の生活、つまりは家庭の中に難なく納まってしまう。 西欧や中国では、庶民にはかかわりのない高級現代商品が、日本では見境もなく老人や子供にまで必須の商品に化けてしまう構造は、この日本語による外来語の矮小化によってつくり出されている。 「パソコン」「ワープロ」や「セクハラ」や「リストラ」などという老人や子供にまで愛される商品や行動は日本以外の世界のどこにも存在しない奇怪な存在であることは一考を要するのではないだろうか。 個人用電子計算機パーソナルコンピュータ)の手順ソフトウェア)開発において遊戯用手順ゲームソフトウェア)分野においてのみ日本が傑出しているのは、他の言語圏ではその種の用途開発が、個人用電子計算機にとって急務とは考えられないからだ。
    (『二重言語国家・日本』P.249〜250)


     むろん書き手の側に、配慮のなさや力不足があるとしても、「やさしく、やさしく」「難しい、難しい」という新聞社や出版社の編集者の執筆者への叱咤は、日本語つまり日本人の価値判断軸の中央に居坐り、文の主張や文体(思想)を評する言葉を失い、「やさしいからよい」「難しいから悪い」というこれまた浮薄な国民的合唱をつくり上げている。 この合唱が、若者から世界に関する難しい創造に挑戦するスタイルを奪い、せいぜい「面白い・面白くない」と印象を漏らすか流行語を鍵(キイワード)として流行に追随するだけの評論家気どりの空虚な噂話を再生産しているのである
    (『二重言語国家・日本』P.252)


     若者の多くが戦前の日本文学、あるいは西欧古典や近代思想に直に接するスタイルを喪ったことと、戦後の俗字(新字)、俗仮名づかい政策の浸透とは、決して無縁ではない。
    (『二重言語国家・日本』P.252)


     社会はもとより、大学以降においては、正字、旧仮名づかい教育も必要な場面も出てくるはずである。 文科系の大学においては、正字、旧仮名づかい教育をすすめるべきであろう。大学のごく一部の学者−−いずれ消えるであろう−−や出版社のごく一部の校正者にしか、正字・旧仮名づかいを使いこなせないという現在の事態は文化的に好ましいことではない。
    (『二重言語国家・日本』P.252)


     縦書きの復権

     日本語のような「天」の不在の言語が、少なくとも、西欧語やイスラム語や中国語のように「天」を恢復するためには、縦書きを復活することが必要不可欠である。
    (『二重言語国家・日本』P.253)


     戦後アメリカの占領軍の、国家(?)の交戦権まで放棄した「日本国憲法」の制定、革命に等しい農地解放や財閥解体などの政策は、とうてい日本人だけでは成しとげられなかった驚異的な政策であり、日本の民衆の多くにとっては、これらの政策は、まさに「水戸黄門の印籠」であった。 だが、情報の収集と分析に長けたさすがのアメリカも、文化については読み間違った。漢字制限毛筆教育の廃止横(水平)書き化の政策は、米占領軍の三大悪政である。 むろん、アルファベット音写文字しか知らぬアメリカに、そこまで要求するのは酷であり、当時の政策に助言を加えた日本人学者の無理解こそ咎められるべきであろうが
    (『二重言語国家・日本』P.253〜254)


     戦後、官庁がいっきに、無謀にも公文書を横書き化した中で、新聞と書籍が縦書きを守り続けたことは、その擁護につとめた新聞、出版人とそれを求め続けた日本人大衆の賢明な選択であった。
    (『二重言語国家・日本』P.254)


     毛筆教育の再構築

     たとえば「」字は、しばしば左右対称の文字と言われる。 たしかに、古代宗教文字(甲骨文・金文)と篆書(小篆体)までは「大」字は左右対称であった。 しかし「書く」ことが生じた隷書時代からは「大」の字は左右対称ではなくなった。 たとえば、現在の日本の漢字の規範でもある楷書体の「大」の字の第二画(左はらい)の形状は、先が尖って細くなり、第三画(右はらい)の先の形状は、三角形に書くべきものであり、左右対象という原則をふまえつつも左右対称に書かないことを規範としている。 この姿を便宜的に左右対称と表現するだけのことである。 第一画の横画も起筆と送筆と終筆の形状を備え(それゆえ明朝体活字においても、起筆の形状は相当に退化してしまったが、終筆の形状はセリフウロコという名で〔必ず〕要する)、それのみならず、書字の身体性−−右手に筆記具を持つ事から横画が右に上がる傾向をもつ−−まで写し込み、横画右上がり体を規範としている。
    (『二重言語国家・日本』P.258)


     発語に自信と確信を与える「書=書くこと」の必要は、次のようなことからも言える。
    (『二重言語国家・日本』P.251)


     たとえば「あめ」と発語=発声する時、それは二音節で「あめ」と発声しているのだと考えられている。 しかしそれをもうすこし丁寧に微分して見てやると、音素レベルで「ame」と発声されており、さらには「aaaaammmmeeee」、正確には−−スローモーションで再現してみれば−−「nnnnnwwwwwwwwuuuuuuaaaaaannmmmmmwwwwwuuiieeeeennnn」とでも発せられ、それは最初の「n」の発声以前の声帯、喉、口、舌、歯などの声になる以前の無声の口辺筋肉さらには全身体的、さらに全細胞配列に発する動きを伴っている。 つまりあめ」という発声は、「意識全身体力動口辺筋肉力動nnnnnwww………………eeennnn口辺筋肉力動全身体力動意識」という過程と構造で、身体動作と意識に連続・不連続の階調でつながれている。 したがってこの過程の露出した「吃音」は病気ではなく、「吃音」こそが発語そのものなのである
    (『二重言語国家・日本』P.261)


     出版文化の再構築

     図書を購入することの少ない図書館ほど奇妙な存在はない。 それ以上に図書購入費よりも自分達の人件費の方がはるかに高いという事実を奇異に思わない図書館職員は、あまりにも自らの仕事に対する倫理(思索と責任)を欠いている。
    (『二重言語国家・日本』P.265)


     図書館に割り当てられる費用は、職員の給与と、近年はこれに電算化電算結合のための費用が加わり、図書購入費は一層貧困化している。 このような図書館の頽廃現象も、文化的頽廃を加速化している。
    (『二重言語国家・日本』P.265)


     図書館が購入した本が十年に一度開かれるということがあってもよいと思う。 いずれの日か、その研究成果が日の目を見て、新しい歴史観や世界観形成の糧となればよいのだ。
    (『二重言語国家・日本』P.266)


     しかも、今後、地方の自治地方分権を真に願うならば、一県に一箇所、国会図書館並みの図書館が必要であろう。自治と分権とは国家並みの権限を各都道府県が有するということであり、それは、文化の核心部を国家並みに有することからしか始まらない。電算通信網で「その本は国立国会図書館にあります」というメモを引き出したところで、情報の中央集権状態はひとつも解決されはしない
    (『二重言語国家・日本』P.266)


     町の中央にゆったりとしたスペースの堂々たる図書館があって、古今東西の本が整然と集められている。 休息日には、図書館に足が向く、時には、気に入った芝居や映画、音楽会、美術展に出かけ、また翌日からの仕事と生活の糧となる。 そういう生活こそが都市生活だと私は思う。 北京を脱出する蒋介石政権は、軍用貨車や軍艦を仕立てて書籍や美術品をまず移送した現在の台湾は、台北故宮博物院を中心に成立っている一級の文化国である。日本はいったん火急の時には、何をもって逃げると言うのだろうか三種の神器だろうか
    (『二重言語国家・日本』P.266〜267)




    【関連】
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