[抜書き]『小説 田中久重 明治維新を動かした天才技術者』


『小説 田中久重 明治維新を動かした天才技術者』
童門冬二・集英社文庫
2013年3月25日 第1刷
    目次
    出会い
    名君・鍋島斉正
    天才の原点
    井上伝
    初めての挫折
    からくり人形
    旅立ち
    虚業から実業へ
    無尽燈
    焼け跡からの再出発
    陰陽道と蘭学
    凌風丸
    維新の風
    文明開化
    文庫版へのあとがき


     出会い

     コチコチの勤皇論者である大隅八太郎がコロリと感動するくらいなら、大隅ほど先鋭的な思想を持っていない若者たちは、みっと感激するにちがいないと判断できたからだ。 佐野栄寿左衛門は精錬方の主任として大いに勇気づけられた。 大隅に言った。
     「蒸気船と蒸気機関車を実際に造ったのは、あそこにいる人物だよ
     そう言って、レールの脇に立って、事故を起こしたらすぐ手を出そうと構えている田中久重を指差した。
    (『小説 田中久重』P.16)


     名君・鍋島斉正

     翌日、大村藩兵が到着した。 指揮者の家老は硬骨漢で、すぐ松平に言った。
     「われわれは二百隻あまりの小舟を用意している。 これに藁(わら)や葦(あし)を山と積んで、イギリス艦に近付き藁や葦に火をつけて投げ込もう。 その上で斬り込もう
     勇ましい案だった。 家老の話をずっとイギリス艦を凝視しながら聞いていた松平はやがてこう言った。
     「ご家老、勇ましいご意見でわたしも賛成だ。 しかし、すでに遅い。 あれをごらんなさい
     と、窓の外を示した。フェートン号がイギリス国旗を揚げながら、悠々と港外へ退去して行く姿が見られた。 家老は、おっと声を上げて目を見張った。
     「無念ですなあ
     「無念です
     松平は頷いた。 眼の底が異様に光っている。 その夜松平康英切腹した。 遺書が残されてあった。
     「旗合せの節に和蘭人両人を奪取られ、検使の者そのまま一旦役所へ引返し、甚(はなは)だ柔弱の取扱いを仕(つかまつ)り、日本の恥辱と相成り候事、畢竟(ひっきょう)、家来の臆病とは申しながら、主人常々に申し付け様行きとどかず、公儀の御威光を穢(けが)し候段、申訳無之候……一身の恥辱は兎(と)も角(かく)も、此場に至りて天下の御恥辱を異国へあらはし候段、不調法の仕合に御座候。 御断りとして切腹仕候。 此の段披露給りたく候。
        八月十八日         松平図書頭

     長崎奉行の自決はたちまち港の内外の評判になった。 長崎の住民たちは、
     「立派なお奉行様だった。 おいたわしい
     と松平に同情した。 やがて、“くんち”で有名な諏訪(すわ)神社の境内に小さな祠(ほこら)が造られた。図書明神と呼ばれた。
    (『小説 田中久重』P.29〜30)


     穀堂は斉正の意を受けて直ちに済急封事(危機を救う意見書)を提出した。 内容は、人材登用・勤倹(きんけん)の励行(れいこう)・三病の除去・学問尊重・国産の奨励などである。三病というのは、佐賀人の悪弊であると言われる、
     「嫉妬心優柔不断負け惜しみの強さ
     を指す。

    (『小説 田中久重』P.33)


     ロシアの使節プチャーチンが長崎港にやって来たのは、嘉永六(一八五三)年七月十八日のことだった。  プチャーチンはロシアの貴族だけあって、騎士道精神に富んでいた。 だから幕府から、
     「日本国の対外交渉はすべて長崎において長崎奉行が行う。 艦隊は長崎に回船されたい
     と言われると、素直にその指示に従った。 プチャーチンはロシアの極東艦隊司令長官である。 この時軍艦四隻を率いていた。 そして、十月二十三日に長崎を去るまで滞在した。 さらに、十二月五日には長崎に再来して、
     「日露の国境の確定や通商に対する協議
     を行った。 日本側からは幕臣の筒井政徳(まさのり)と川路聖謨(かわじとしあきら)が全権として応接した。
    (『小説 田中久重』P.40〜41)


     プチャーチンにはゴンチャロフという後の文豪(『オブローモフ』などで有名)が秘書として同行していた。 ゴンチャロフは、
     「川路聖謨という日本側代表は、頭の鋭いまたユーモア精神に溢れた人物だった
     とその時の印象を書いている。 そのためか、国境問題については現在の北方四島を二島ずつ区分して両国の所有とし、またサハリン(樺太)については、どちらの国にも属さず、のちに島民が、
     「いずれかに属したい
     と申し出たときに改めて協議しようということにしている。 言ってみれば、
     「どこの国にも属さない土地
     がこの段階では存在していたのである。 現在の国際間における帰属問題を考える時に、何か微笑ましい解決法のような気がする。
     つまり、
     「AでもなければBでもない、Cの考え
     という第三の論が立派に罷(まか)り通ったからだ。 しかしそうさせたのは、おそらくゴンチャロフが感じた川路聖謨の、
     「巧みなユーモア精神
     にあったことは確かである。 やはり外交交渉にはこういうゆとりが必要なのだ

    (『小説 田中久重』P.41〜42)


     この嘉永六年十月一日というのはいろいろな意味がある。 それはこの年の六月三日にはすでに、アメリカの東印度艦隊司令長官のペリーがやはり軍艦四隻を率いて、江戸湾の浦賀に入港していた。 浦賀奉行は当然、
     「日本との外交交渉は長崎奉行が行うので、長崎港へ行ってもらいたい
     と言ったがペリーは聞かない。 逆にどんどん江戸湾の深部に侵入して来て、砲門を江戸城に向けたりした。 また、嫌がらせかどうかしきりにバッテラを下ろしては測量を行う。 そして、強引にフィルモア大統領の国書を浦賀奉行に手交した。
     江戸城の幕府は、この対応に大混乱を来(きた)していたので、この後長崎港にやって来たロシア側との交渉に身が入らなかった。 ロシアの大使で極東艦隊の司令長官だったプチャーチンが、秘書のゴンチャロフを連れ、軍艦四隻を率いて長崎港に入ったのは七月十八日のことである。 プチャーチンも最初は江戸湾に向かったのだが、幕府側から長崎回航の依頼を受けるとそれに従った。 この点、まだこの頃のロシアは帝政であり、プチャーチンも騎士道を心得ていたので礼を重んじた。 つまり、
     「相手国の国法がそのように定められているのならそれに従うべきだ
     と考えた。 ペリーのように強引な態度はとらなかった。 しかし、これが必ずしも日本側へのプレッシャーにはならず、早く言えばその後放り出されていたのである。 だから、長崎奉行がプチャーチンに会って、ロシア皇帝の国書を受け取ったのは八月になってそれも十九日のことであった。
    (『小説 田中久重』P.43〜44)


     天才の原点

     田中久重が生れたのは、筑後(福岡県)有馬藩の城下町久留米通町(とおりまち)十丁目であった。 父親の田中彌右衛門(やうえもん)は鼈甲(べっこう)細工を営んでいた。 弟子も何人かいた。 細工師として腕前が優れ、隣近所との付き合いもよく、いたって評判が良かった。 彌右衛門には二男三女があって長男は儀右衛門と名づけられ後の久重になる。 子供の頃から、
     「少し変わった子だ
     と言われていたらしい。 手先は素晴らしく器用だった。
    (『小説 田中久重』P.52)


     井上伝

     “筑後人気質”と呼ばれるものがある。 それは久留米を中心にしたこの地方に生れた人々の気質で、“じゅうげもん”と呼ばれている。 意味はよくわからない。 識者によれば、
     「消極的で行動力に乏しく、常(つね)に恨めしそうに他を見るタイプである
     と言われている。 まるで幽霊のような性格だ。 ついでにこの近辺の地方気質を書いておけば、佐賀には、
     「上野伝七
     と呼ばれるものがある。 これは洒落言葉だ。
     「七になりたいのだが、みんなが足を引っ張るからなかなか七になれない。 つまり上に出られないのでという字になってしまう。 上に出られない七なので、ウエノデンシチだ
     という。 ほんとうにそうなのかどうかわからないが、ある時期の佐賀人の気質を言っていたのかもしれない。
    (『小説 田中久重』P.66)


     九州中央の熊本県には有名な“もっこす”と呼ばれる“頑固者気質”が有名だ。
     「ほんとはわかっているのに、よからないふりをして一旦右をむいたらどんなに説得されても絶対に左は向かない
     というものだそうである。 現在もそんな気質が残っているかどうかは疑問だ。
    (『小説 田中久重』P.66〜67)


     虚業から実業へ

     所得に税が掛けられるようになるのは、明治になってから日本に資本主義を導入した渋沢栄一が大蔵省に勤め、
     「税制改革
     の主任になった時からである
    。 渋沢栄一はすでにパリで、株式制度や銀行の存在を教えられた。 そして主たる税源には、
     「物よりも所得
     という観念も植え付けられた。 帰国後大蔵省に入った渋沢はこれを主張して、大規模な税制改革を行った。 しかし江戸時代は身分制もあって、商人は社会の一番劣位に位置付けられていたために、
     武士は食わねど高楊枝
     的に、貨幣経済の発達を馬鹿にする武士たちは、収入という面にまったく目を向けなかった
    。 そのため、商人たちは「冥加金(みょうがきん)」や「運上(うんじょう)」などの言わば負担金政治献金は行ったが、かなり「可処分所得」を残していた。 商人たちはこれをいうところの、
     「社会への還元
     に使った。 特に文化に注(つ)ぎ込(こ)む金は夥(おびただ)しかった。これがいわゆる「都市文化」を育てた。 江戸時代の、江戸・京都・大坂・堺・名古屋・博多などのいわゆる大都市における文化の発生とその発達は、ほとんどがこの商人たちの財力による。 したがってこれら大都市の文化は言うならば「商人文化」である。 例外は加賀(石川県)金沢の文化であって、ここだけが藩祖前田利家(としいえ)の勧めによる「武家文化」が発生し、現在もその流れがずっと続いている。
     もうひとつ、江戸時代には今で言う、
     「機能分担
     がうまく行われていた。 江戸時代の機能分散については、すでに定着していた既成のものを、徳川幕府初期にほとんど改変せずに在置した。
     たとえば、現在で言う皇室機能文化機能は京都にあった。 そして経済機能は大坂にあり、外交機能貿易機能は長崎にある。 江戸の政治機能は、明らかに家康が意図したものだ。
    (『小説 田中久重』P.162〜163)


     これと同じように、道頓堀(どうとんぼり)は安井道頓という人物が、開鑿した堀のことを言う。 大阪の中央区にあり、日本橋(にっぽんばし)南詰めから御堂筋(みどうすじ)にかけて開かれた運河のことだ。 現在も繁華街の中心になっている。
     江戸時代は人の移動や物の運搬について、
     「ヒトは土の道、モノは水の道
     と言われた。
     大坂は別名“八百八橋(はっぴゃくやばし)”と言われる。 江戸は八百八町と言われるが、大坂はそれだけ水路が多いということだろう。 もちろん江戸も“ヒトは土の道・モノは水の道”という原則が適用されているから、多くの運河が掘られた。 しかし大坂のほうが圧倒的に多い。
     安井道頓が堀を開いたのはやはり大坂の陣直後のことである。 しかしここはやがて、“芝居町”として発展し、寛文年間(一六六一〜一六七三)には、歌舞伎六座・浄瑠璃五座・舞四座・説教七座・からくり一座が出現した。 現在も芝居・文楽・寄席・映画などを集める娯楽の中心地である。
    (『小説 田中久重』P.165)


     無尽燈

     日本における灯火の歴史は古く、これは神話や万葉集にもすでに現われている。 古代には篝火(かがりび)や松明(たいまつ)などが使われた。 しかしにせよ松明にせよ、いずれもその素材そのものに火をつけて周囲を明るくする道具だ。
     これがやがて朝鮮や中国大陸からの影響で、燈台(とうだい)や灯籠(とうろう)に変わってきた。 燈台といっても海を照らす照明灯ではなく、あくまでも家庭用の道具である。
     篝火や松明はそれ自身が燃料になっているからを必要としない。 しかし新しく使われるようになった燈台や灯籠では油が必要だ。 そして、この油の使用方法もはじめは油そのものに火をつけた。 ところが、灯芯の毛細管現象利用する“”が使われるようになった。 さらに藤原時代には短檠(たんけい)(雪洞(ぼんぼり)の一種)が現れた。 これが、篝火・松明・燈台・灯籠などとともに鎌倉・室町時代まで使われたという。
    (『小説 田中久重』P.200〜201)


     やがて、室町時代の後期に木蝋燭(きろうそく)が使われるようになる。 この原料は主として(はぜ)の木だ。 前にも書いたように、久留米は有数の櫨の産地でもある。 さらに徳川時代に入って、木蝋燭の他に菜種(なたね)油が使われるようになった。
    (『小説 田中久重』P.201)


     蝋燭を立てる道具を“燭台”といった。 そして持ち歩きができるのを手燭(てしょく)といい、壁に掛けるのを掛け燭台といった。 畳に挿(さ)して立てる畳さし燭台というのもあった。 いずれにしても、燭台に立てる蝋燭は裸のままなので風に吹かれると火が消えてしまう。そこで周りを紙で囲った。 これが雪洞である
    (『小説 田中久重』P.201)


     久重が大坂の町を歩き回ってわかったことは、市民が使っている照明用具は、行灯(あんどん)・提灯(ちょうちん)・雪洞秉燭(ひょうそく)・掻立(かきた)燭台などであった。 燃料は前にも書いたように菜種油木蝋燭である。 火をつける道具には火打金火打石が一般的だった。 便利なマッチができるのは明治になってからである。 さすがの久重も発火道具に手が伸ばせなかった。 そこで、
     「大坂市民が一般的に使っている家庭用照明用具
     として、行灯の存在を大きく考えた。 行灯というのは、浅い皿の中に種油を注いで、一本の灯芯をその中に浸しこれに点火する。 ところが、
    • 燃料である種油を溜めているのが浅い皿なので、振動などの動揺が起こると油がこぼれてしまう。
    • 灯芯が燃えると中の油が減ってくる。 注(つ)ぎ足(た)さなければならない。
    • 灯芯もそのままで済まず始終先を切り取らなければ光度が落ちる。
    • しかしその光度も決して高いものではなく、薄暗い。
    • したがって、夜間の作業の照明用具としては不充分だ。
    • また、夜間の客の相手をする時にも、品物の吟味ができない。 光度が低いので、反物(たんもの)の実態がみにくい。
     などの欠陥を発見した。 すでに、久留米にいた時から行灯についてはいろいろ研究をしてきたので、改めて久重はその確認をした。 かれが、  「古い照明用具の改良点
     として思い立ったのが、
    • 照明用具を安定させること。
    • 光度を高めること。
     である。
     もうひとつ行灯で、皿を囲っているのは紙だ。 燃えやすい。 倒れたりすると火災の原因になる。 したがって安定性の他に安全性も必要になった。
    (『小説 田中久重』P.201〜203)


     久重はこの点も加味して新しい照明用具を作った。 それが有名な「無尽燈(むじんとう)」である。この無尽燈は、久留米市内佐賀市内における久重関係の資料館などで保存されている
    (『小説 田中久重』P.203)


     種油は石油と違って粘性が高いので、圧搾空気で油の安定供給を行うというのが、久重の独創であった
     近江商人の経営理念に、
     「三方(さんぽう)よし
     というのがある。 自分よし・相手よし・世間よしというものだ。 自分というのは自分の店のことをいう。 相手というのは客だ。 そして世間というのは社会のことだ。 基本的には、
     「まず客に利益をもたらそう
     という発想だ。
     利益を得る客が増えていけば、それだけ世間(社会)も豊かになる。 しかし店は慈善事業を行うわけではない。 自分も利益を得なければならない。 久重はその辺をきちんと心得ていた。 そして、この“自分よし”というのを、単にある段階で完成したと思い込むのではなく、
     「さらにハードルを上げて、次の段階に進む
     ということを心掛けた。 具体的には技術の向上だ。 そして、その技術の向上を行うためには何と言っても資金がいる。 それには、
     「自分よし(自分も利益を得ること)
     が必要だ。 したがって自分よしというのは、単に利益を得るということだけではなく、
     「さらに客に利益をもたらすために、自分の技術向上を行う
     という自己の改革努力のことをいうのだ。 しかしそれには金がいる。 それはやはり相手よしのほうからもたらしてもらわなければならない。
     新しく発明した「無尽燈」にもその原則が適用された。 ということは、当初売り出した時の無尽燈はかなり高額だったことである。 なぜ高かったかと言えば、久重にすれば、
     「この無尽燈を使えば、商人たちは夜なべが容易にできるし、また夜間取り引きも可能になる。 それだけ利益が上がるはずだ
     と考えたためだ。 相当な自信だった。
    (『小説 田中久重』P.204〜205)


    …先を争って無尽燈を買いに来た。 久重は潮に乗って、さらにPRを行った。 久留米の隣の柳川の郷士に島田百助という人物がいて、これと懇意だったのでこの人物に広告文案を書かせた。
     「文政の頃に和蘭人(オランダ人)持渡り」しリクタル・ハルレルといふ風砲あり、俗に風鉄砲と名づく、此器金鉄を砕く勢力あり、余此器に感じ、もし此理を以て、無尽燈を製作せば、油の循環停滞することなからんと、一器を製作して試みるに、たとへば人の気血の如し
     というのがその一文だが、かなり難しい。 しかしここにかれの久留米における、
     「西洋技術を新しい灯具に活用しよう
     という意気込みの経緯が書かれている。 すなわちかれが新しい灯具に応用したのは、風砲の理論だった。 これが無尽燈に入れた油の循環を滞らせることなくスムーズに提供するようにできたと説明している。 この広告文は店頭に貼り出された。 久重にすれば、島田百助の書いてくれた広告文の中に、
     「ここに至る経緯と自分の苦心
     がすべて述べられていると思ったにちがいない。
    (『小説 田中久重』P.206〜207)


     焼け跡からの再出発

     大塩平八郎の乱は天保八(一八三七)年二月十九日の午前四時から起こされた、天草(あまくさ)・島原(しまばら)の乱以来の国家(徳川幕府)に対する反乱である。 約三百人が参加したが、その手段は主として放火だった。 そのために、大坂の町では一万二千五百余戸が被災した。 しかし幕府側は直ちに大塩たちの鎮圧に乗り出し、やがて大塩たちは自決した。そして、大坂復興の工事がはじまった。
     この工事には多くの失業者が採用されたので、
     「大塩様は世直し大明神だ
     といって崇敬された。

     それはそもそも大塩が乱を起こした理由が、
     「餓えに苦しむ窮民の救済
     にあったからである。
    (『小説 田中久重』P.211)


     この乱の経緯については森鴎外(おうがい)が『大塩平八郎』という名作を残している。 丹念な史実調査に立脚した本で、この反乱を、
     「一日間の出来事
     として設定している。 克明な史実追求がある。 歴史小説の一典型と言っていいだろう。
     しかし、放火し続けた大塩ら反乱の徒は壊滅させられた。 大塩とその息子は逃亡して理解ある商人の家に隠れていたが、やがて発見され、かれは火に包まれて自ら腹を切る。
     大塩たちが住んでいた町奉行所の与力や同心の屋敷の一部が、現在も保存されている。造幣局の敷地内にあって、公務員社宅の一角に「顕彰碑」が立てられている。
     それによると、
     「一身を義性にして難民の救済と政治の覚醒を行おうとして天保の乱の際、最初の狼火(のろし)を上げた地である。 大阪市がここに記念碑を立てられるに当たって、これを顕彰する
     と造幣局が書いている。国家の一機関が、かつての国家反乱人を顕彰するというのも面白い
    (『小説 田中久重』P.213〜214)


     「からくり儀右衛門さんのところで、大野時計が安く買える
     という形で噂が流れていった。 久重は照れた。 心の中では、
     (こんなことをしてもいいのかな?
     と自分を疑う。 しかし客のニーズが高いので、久重もこれに負けた。 せめてもと思って、大野時計の値段よりかなり安くした。 これがまた客の評判を高めた。
     この辺は、道徳的にも法規的にもどういうような扱いになるのかよくわからない。 しかし当時はまだパテントに関する諸法規がなかった時代だ。特許の問題が日本の課題になるのは明治になってからである
    (『小説 田中久重』P.227)


     (たとえ大塩様の一統が大坂の町に放火したとしても、消化組織だけではなく消火器そのものに優れたものがあったら、火災はあれほど酷い被害を与えなかったはずだ)
     と考えていた。 このことは伏見に移ってからもずっと頭の奥にこびりついていた。 そこでかれは、
    • 新しい消火器を発明する
    • それを恩人の近江屋さんに寄贈する
     という二つのことを一遍に実現しようと考えた。 そこで“雲竜水”と名づけた消火器を発明した。 その頃使われていた消火器は“竜吐水(りゅうどすい)”と呼ばれていた。 しかしこれは前に書いたように水鉄砲を大きくしたようなもので欠陥があった。 それは、
     「注水がしばしば断絶する
     ということだ。 久重は、
     「竜吐水の欠陥は注水がとぎれることだ。 継続して注水が行われるようにすれば、消化に非常に役立つ
     と思い立った。 したがって新しく発明する消火器の目玉は、
     「注水が継続して行われる
     という一点に絞った。 いろいろ考えた。 さらに気が付いたのは竜吐水の筒先が固定していたことだ。
     「筒先も自由にいろいろな方向に動かせなければ、火は消せない
     と一歩進めた。 そこでかれが考えたのは、
    • 四角い水槽の中央に高さ二尺五寸(約七十五センチ)、径一尺二寸(約三十六センチ)の銅製のエアードームを備える

    • これに四つの把手(とって)(ハンドル)をつけ、四人掛かりで交替に押す

     というものだ。現在の手押しポンプとほとんど変わらない。 これを考え出したのが弘化四(一八四七)年のことで、久重は四十九歳になっていた。 新しい消火器を貰った近江屋卯兵衛は喜んだ。 そして実験した後に伏見の久重のところにやって来て、
     「儀右衛門さん、この間貰った消火器だがね、あれは素晴らしいよ。 わたしひとりが持っているのはもったいない。 大々的に宣伝して売り出したほうがいいよ。 世の中のためになる
     そう告げた。 久重は卯兵衛の助言に従った。 内心では、
     (新しい消火器がもっと多く広まって使われるといいな
     とは思っていたからだ。
     かれの店の名が、
     「機巧堂」
     だということは前に書いた。機巧堂はよく宣伝をした。 嘉永五(一八五二)年になって久重は機巧堂の宣伝文に次のような文を書いた。
     「水立升(たちのぼ)ること数丈呼吸なくして水勢強く火消第一の器なり
     文中にある“呼吸なくして”というのが、
     「水が息切れすることなく、放水しつづける
     ということだ。 つまりこの消火器の生命は、
     「断続することなく継続して放水が可能だ
     ということだ。 また放水距離もかなり遠くまで及んだ。 少なくとも五間(約九メートル)以上は放水できたという。この雲竜水と名づけた消火器は明治年間に蒸気ポンプ式の消火器が輸入されるまで広く使われたという。 そして、
     「日本人の発明した消火器では最も優れている
     という評価を得ていた。 新しい消火器の近江屋卯兵衛への寄贈は、言わば久重の、
     「個人に対する報恩的行為
     だ。 久重はこれで満足しなかった。 かれの心には次第に今までになかった柔らかく温かいものが生まれていた。 それは、
     「自分はけっしてひとりで生きているのではない
     という自覚である。 ひとりで生きているのではないということは、
     「ひとりで何もかもできるわけではない
     ということだ。 発明については確かにかれは天才だ。 しかしその天才としての才能が遺憾なく発揮できるのは、やはり周囲から自分を囲む条件の熟成による。 特にかれが強く感ずるのは、
     「人との出会いと、出会った人の好意
     の有難さだ。 これが大坂で災難に遭った後に新しく、久重の胸に育った思念だった。 かれは、
     (おれの発明が完成するのも、すべて人と場所と条件の三つが揃って可能になっているのだ
     と思った。 だからまず人としての恩のある近江屋卯兵衛には、新しい消火器を発明してこれを寄贈した。 今度は、
     「地域に対しても何かお返しをしたい
     という気になってきた。 これもまた何度も書く近江商人の、
     「三方よし
     的な発想だ。 つまり自分よし・相手よし・世間よしというふうに、“よし”と言われる範囲が次第に広がっていく。 つまり個人から相手、相手が増えることによって地域全体に広がるということだ。 例は違うが、二宮金次郎の、
     「一円融和
     の考えも、農業を通じてこの三方よしを実現するということだろう。
    (『小説 田中久重』P.230〜235)


     日本では古く継体(けいたい)天皇の頃に百済(くだら)からわが国にもたらされ、以後百済から交代で学者が日本に来て指導したという。 推古(すいこ)天皇の頃に百済は天文・地理の書や、遁甲方術(とんこうほうじゅつ)の書を奉(たてまつ)ったので、天皇は書生数人を選んでこれを学ばせたという。 推古天皇を補佐した聖徳太子冠位十二階十七条憲法の制定発布あるいは国史編纂(へんさん)に陰陽五行説を利用している。 大化改新後年号を創設したのも陰陽道によるし、また天智(てんじ)天皇漏刻(ろうこく)(古代の時計)を創設した。 そしてその弟天武(てんむ)天皇は天文遁甲の術をよくし、ついに陰陽寮を置いた。 陰陽寮には陰陽師と呼ばれる役人が配属された。 大化改新に功績のあった藤原氏も代々陰陽道を重んじたという。
     そのため陰陽道は次第に、
     「藤原氏の私物
     になったとも言われる。
     陰陽師として名を残したのは賀茂保憲(かものやすのり)である。 そしてその子光栄(みつよし)とその弟子安倍晴明(あべのせいめい)が有名になった。 朝廷は、この二人の非凡な後継者に対し暦道は賀茂光栄に、そして天文道は安倍晴明に専管させた。 ここで、陰陽道は賀茂・安倍両家に専管されるようになった。 そして、陰陽頭(おんようのかみ)および暦博士には賀茂氏を、そして天文博士はほとんど安倍氏に伝えられるようになった。陰陽博士と呼ばれる重職はほとんどこの両氏で占められた。 そしてこの陰陽道の慣習は広く民衆生活にも浸透していった。 それが前に挙げた現在も残る「陰陽道による生活慣習」である。
    (『小説 田中久重』P.243〜244)


     陰陽道と蘭学

     日本における陰陽学は、古代に入って来た仏教・儒教とともに移入された道教との関わりが深い。 しかし道教そのものは、仏教や儒教のように独立した考え方として日本に根付くことなく、単一な教えとしては不安定な存在になった。 ところが庶民の生活慣習の中に深く入り込み、もちろん呪術や迷信などの傾向をともなってはいたが、これはいまだにわれわれの生活の一部になっている。
    (『小説 田中久重』P.248)


     古くは天文・暦学二道は、陰陽頭である賀茂保憲が博士を務めていた。 やがて暦道は自分の子光栄に譲り、天文道は安倍晴明に譲った。 ここで暦道と天文道が二家に分かれた。 暦道の家は後に勘解由小路(かでのこうじ)を称するようになったが、その勘解由小路在富が死んだ時に相続人がなく、暦道の家が絶えようとした。 そこで勅命によって、天文道を所管していた安倍有修を今度は天文・暦学二道の博士に命じた。 その子孫が「土御門」と称するようになった。
     したがって久重が陰陽道を学ぼうと考えた時の所管家は土御門家である。 朝廷の陰陽総司を務めていた。 そこで手掛かりを求め、幕府天文方の戸田久左衛門に頼んで土御門家への入門の願書を出してもらった。
    (『小説 田中久重』P.248〜249)


     このとき久重は戸田を通じて土御門家に五十両の大金を納めたという。
     当時の日本人のいろいろの職業はパテント制になっていて、その多くは名のある寺社や公家(くげ)の特許になっていた。 これを学んだりあるいはその後製造・販売に携わったりするてめには、許可を得なければならなかったのである。 許可には大金が必要だった。
    (『小説 田中久重』P.249〜250)


     ヨーロッパから日本にはじめて時計が伝えられたのは、天文十八(一五四九)年に、ポルトガルから来た宣教師フランシスコ・ザヴィエルが周防(すおう)(山口県)の大名だった大内義隆(よしたか)に献上したのがはじまりだと言われる。
     その後九州の大友・有馬・大村などの大名がいわゆる“天正少年使節団”をローマ法王庁に派遣した時に、帰国後京都の聚楽第(じゅらくだい)で関白太政大臣豊臣秀吉(とよとみひでよし)の謁見を受けた。 この時にヨーロッパから持って帰った土産物の中に自鳴鐘(じめいしょう)(洋式の機械時計)があった。
    (『小説 田中久重』P.252)


     久重は、万年自鳴鐘の成功によって自信を深めていた。 つまり、これら京都の錚々(そうそう)たる時計師たちに対しても、
     「おれはひと味違うぞ
     という自負心があったのではなかろうか。 そこで今までの自分の発明の集大成を、一挙に都である京都の町に展示し、自分の技術をPRしようとしたのだろう。 開いた店の名は、
     「機巧堂」
     といった。 大看板を揚げた。
     広告文も長いもので、展示した製品を全部説明付きで並べている。
      竜門時計 鯉升(のぼ)(昇)りて時を指し鐘を打つ。 その鯉升り詰める時は次の鯉が升る。 時の長短も亦(また)自然となす仕方なり。
      万年自鳴鐘 世に流布する時計と異(ちが)ひ、春夏秋冬昼夜の長短は加減するに及ばず、自ら時刻に随(したが)って旋転す。
      時の鐘は刻限の遅速なく、前鐘本鐘共に音を発す。 又(また)二十四節気又二十八宿曜を指す。 或は月の盈虚(みちかけ)を知る。 発条(ゼンマイ)を巻くこと一年に四五度に過ぎず。 車の製方(つくりかた)和蘭と同法なり。 時計の体は千般に製出す。 予始めて発明する所の奇巧なり。
      渾天時計 大洋日月運行し黄道線を右旋する故に、赤道の南北緯行も為す。 地球の面に十二時の表を記す。 天と地と相合って時を知り、昼夜の長短も備はる。 鐘は亦時に従ひ響く。 実に天の循環と同じ。
      須彌山時計 日月日夜旋転して一年を為し一月を為す、由(よっ)て朔望(さくぼう)も見え二十八宿に日輪の宿るも知るべし。 或は春夏秋冬及び日の出没も見ゆるなり。 時刻来るに従い鐘の音を発する新製、世に類(たぐい)なき奇器なり。
      無尽燈 大中小製作。 燈油自然と升ること人の気血の如く、循環滞りなく、其光蝋燭に倍す。 ●心(しん)を剪(き)ること一時に凡(およそ)一度常に用いて実に御徳用の器たること試みて知るべし。
      (●:火ヘンに主)
      亀之盃台 此亀歩行往来す。 盃を置く時は行き、取除けば又上る。 尤も四足も運ぶ。 生亀の状態あり。
      雲盃洗 清水を吹くこと一二丈、水高下自由にして盃を空中に洗って佳し。 炎暑の節は冷気を催し、暑を凌ぐに妙なり。
      雲竜水 水立升ること数丈。 呼吸なくして水勢強く、火消第一の器なり、大暑には少き口より水を弾けば水気雲霧の如く微にして人体に受け快し。 実に奇器なり。
        右に記す処の器械千般、貴殿の欲する処に従ひ製出す、希くは君子尊命あらんことを
          製作所京都四条通烏丸東へ入る
            田中儀右衛門 久重

    (『小説 田中久重』P.258〜260)


     門人の中には佐野栄寿左衛門陸奥宗光中村奇輔石黒寛二などがいた。 ここで佐野栄寿左衛門と知り合うことによって、久重はそのまま佐賀に行き、藩主鍋島斉正を知り、その温かい指導に感涙に咽(むせ)ぶようになる。 この門に入らなかったら、こういうことは起こらなかった。
     その意味でも、広瀬元恭の門に入ったのは、かれにとって、
     「生涯を決定的にした出会い
     を体験したことになる。
     広瀬元恭がテキストにしていたのは、ドイツのイスホルヂングが書いた『理学提要』という科学書であった。 これをかれは和訳した。 そしてその序文に、
     「西洋医学の子弟を教導する、先づ学科を立つ、一に曰(いわ)く究理、二に曰く解体、三に曰く生理、四に曰く病理、五に曰く薬性、六に曰く舎蜜(セイミ)(化学)、七に曰く古賢の経験。 この七科を立て天地、日月、風雲、火水の変化、人身肢体(したい)の造為より以て生活の常性と疾病の変状、草木金石の真性及び人身に感応する所以の効用に至るまで明弁してこれを精察し、更に博(ひろ)く古人、治を施すの術を覧(み)て、然る後始めて薬を投じて術を施す。 これを大匠の堂を構ふるにたとふれば究理の学は先づその構成造立の理を明にするなり
     と書いた。 対象を建物に見立てての説明である。 そして物理学理論の説明には、大気・水・土などの五行がちりばめられている。 したがって久重には非常にわかりやすかったにちがいない。 これは土御門家で学んだ陰陽学に基づく天文学とその基本のところは似ているからだ。
    (『小説 田中久重』P.264〜265)


     田中久重にもこういう天才的な機能が頭の中にあったのではなかろうか。 かれはおそらく系統立てたオランダ語を学んだわけではない。 したがって、オランダの本を読んでもそれが原書ならすぐには理解できなかったはずだ。 そこで師の広瀬元恭の訳した本を通じて、
     「オランダ学とはこういうものか
     という道を進んで行った。 が、広瀬元恭の訳した本を読んでいても、二宮金次郎と同じようにたちまち久重の琴線(きんせん)に触れるところもあれば、じっと見つめていてもちんぷんかんぷんで、何だかわからないところもある。 おそらく久重は金次郎と同じようにそんなところは飛ばしてしまう。 そして自分にとって必要な部分だけを最大限に活用する。 それは自分の血肉として消化するということだ。 こういう天才的な、
     「理論の受け止め方
     というのは現実にある。
    (『小説 田中久重』P.267〜268)


     凌風丸

     田中久重が、模型の蒸気機関車や蒸気船を造って成功させたのは、安政ニ(一八五五)年のことだ。 かれは五十七歳だった。 しかし、かれが佐野永寿左衛門の薦めによって、肥前佐賀藩鍋島家の精錬方に籍を置いたのは、それより前の嘉永五(一八五一)年のことだった。 佐賀入りの直前に久重は鷹司(たかつかさ)関白から、
     「日本第一の細工師
     の称号を受けている。 幕末にこんな仕来たりがあったのは面白い。
     戦国時代、天下人(てんかびと)になった織田信長は日本中の優れた技術者に対しすべて、
     「天下一
     の称号を与えた。 天下一の大工・天下一の石工・天下一の屋根職人・天下一の花作り・天下一の焼物作り・天下一の菓子作りなどである。
    (『小説 田中久重』P.275)


     凌風丸が完成したとき久重は六十七歳になっていた。
     この凌風丸完成後も、久重父子は佐賀藩の所有である電流丸というオランダから買った蒸気船の気罐の修理を行った。 これが幕府の耳に入った。 幕府はちょうど江戸前の石川島で軍艦千代田艦を建造中だったが、気罐の関係がどうも思わしくない。 そこで、
     「佐賀藩に優れた西洋技術者がいる
     ということをきき、佐賀藩に、
     「千代田艦据付けの気罐とその他二基の気罐製造を依頼する
     という注文を出した。 当然この注文はそのまま田中父子に下命された。 田中父子の技術は佐賀藩を通して、中央政府である幕府のために役立つようになったのだ。
    (『小説 田中久重』P.287〜288)


     維新の風

     しかし前にも書いたように斉正の妻は将軍家の出であり、その意味では斉正は現将軍の親戚だ。 したがって、長州藩薩摩藩のように公然、
     「幕府を叩き潰せ
     と叫ぶわけにはいかないし、またその企てに加わるわけにもいかない。 当時の風潮からすれば、もはや尊王攘夷は世論として結晶しつつあり、その中であくまでも、
     「親幕の態度
     をとるのは、激流の中に立つ一本の杭に近い。 しかし斉正は退(しりぞ)かなかった。
     「大義は重んじなければならん
     と言いつづけた。
     これに不満を持つ義祭同盟の連中は、次々と脱藩していった。 そして尊王倒幕運動に加わっていく。 その名を書けば、枝吉神陽の許で学んだ神陽の弟副島種臣江藤新平大隈八太郎(重信)・島義勇などである。
    (『小説 田中久重』P.290)


     はっきり言って、幕末ぎりぎりの段階における肥前佐賀藩政治姿勢は、西南雄藩に遅れをとった。 これはあげて鍋島斉正の姿勢による。 そのため、脱藩して行った義祭同盟の面々が、今でいえば駆け込み乗車のような形で、かろうじて倒幕戦線に参加した。 それも鳥羽伏見の戦いではない。 江戸へ上った新政府軍が、江戸内における幕府軍最後の拠点として上野の山に籠った彰義隊(しょうぎたい)を攻撃した時である。このとき義祭同盟の面々は、ヨーロッパ式の機関砲を持って猛攻撃を加え、大いに武勲を立てた
    (『小説 田中久重』P.290〜291)


     新政府が編まれたのちに、
     「藩閥政府だ
     と言われる。
     藩閥というのは、薩摩藩長州藩土佐藩肥前佐賀藩を言う。 つまり、鳥羽伏見の戦いまでは、倒幕派としての存在意義をまったく認められなかった佐賀藩が、彰義隊攻撃によって武功を現し、強引に藩閥政府の仲間入りをしたということだ。
    (『小説 田中久重』P.291)


     副島江藤大隈たちはそれぞれ政府閣僚に登用された。島義勇北海道開発の恩人になる。 現在も、札幌市役所の一階フロアには、島義勇の銅像が飾られている
    (『小説 田中久重』P.291)


     島義勇は後に江藤新平とともに、“佐賀の乱”を起こす。 言わば国家反乱人になる。 敗れて梟首(きゅうしゅ(ママ))刑に処される。 そこで、筆者はあるとき当時の札幌市長にきいたことがある。
     「国家反乱人と言われる島義勇の銅像をなぜ市役所の一階フロアに飾ってあるのですか
     これに対し市長は次のように答えた。
     「歴史上の人物には、それぞれ生まれてから死ぬまでの過程がある。 したがって、ある時期だけをとらえてその人物を全面的に否定するのは間違いだ。 島義勇にも年齢に応じた功績があり、特に若い頃はこの札幌市開発の大恩人だった。 国家反乱人になったのは後半のことで、札幌市とは関わりがない。 したがって、札幌市民には島義勇さんの功績を顕彰して、大いにその功績を称えているのです
     この歴史観は正しい。 筆者はこの一言によって大いに目からウロコを落とされた。 以後、筆者の歴史観もこの市長の、
     「ある事件だけで、その人物を全面的に否定しない。 後半どんなことをしようとも、その人物がその地域に大なる功績をもたらしたことは評価しなければならない
     という考え方を大事にするようにしている。
    (『小説 田中久重』P.291〜292)


     そう言えば、上野彰義隊を攻撃した時に使った機関砲も、佐賀製錬方で造られたものではなかっただろうか。造ったのは主として田中久重儀右衛門父子だ。 そうなると、あの日に製錬方の庭で見た蒸気機関車と蒸気船の模型の印象は、大隈八太郎にとって相当強烈なものであったにちがいない。 この日の光景がいつまでも頭の中に刻み付けられていたので、明治日本も近代化のためには、
     「国内に蒸気機関車や蒸気船を走らせるべきだ
     と思い立ったのである。
    (『小説 田中久重』P.293)


     文明開化

     田中精助が上京すると、政府は明治六(一八七三)年にオーストリアで開かれる万国博覧会に参加するための日本代表団を編成していた。 総裁は参議兼大蔵卿を兼ねる大隈重信で、副総裁が佐野栄寿左衛門であった。
    (『小説 田中久重』P.324)


     大隈重信はかつて八太郎といって、安政二年に佐賀の製錬方の庭先で田中久重が造った模型の蒸気船と蒸気機関車に感嘆の目を見張った青年である。 かれにはあの時の感激が忘れられない。 実際に渡欧する際は佐野栄寿左衛門が総責任者になる。
    (『小説 田中久重』P.324)


     佐野栄寿左衛門は渡欧していたが後を引き受けたのが工部省の電信頭石丸安世である。 久重とは佐賀藩における長崎伝習の関係ですでによく知り合っていた。電信も明治六(一八七三)年二月には東京長崎間に全線が開通していた。 結局、久重が自分の工場を母体にしながら明治日本に貢献するのは、この電信事業の推進であった。
    (『小説 田中久重』P.326)


     芝西久保神谷町に工場を移した久重は、明治七年モールス電信機の製造に成功した。 これは優秀な機械だったので、すべて工部省が購入し、久重の工場は工部省指定工場になった。 そのため久重はさらに工場を拡張するために芝新橋金六町九番地(現在の銀座八丁目あたり)に移転した。 このあたりは西洋を模して造られた煉瓦街で、言わば文明開化の最前線であった。
    (『小説 田中久重』P.327)


     この田中工場で製造された電信機は、全国の電信所に設置された。 関係者は、
     「田中工場のおかげで、これからは欧米から電信機を輸入する必要はない
     と鼻高々になった。
    (『小説 田中久重』P.327)


     田中工場は電信機の製造だけではなかった。 さらに電信用時計仕掛けのスクリュー生糸試験器なども造った。 なぜ生糸試験器が必要だったかと言えば、開国後の日本で輸出品として特にシェアを占めていたのは生糸だった。 つまり輸入品の多かった日本において、輸出品として外貨を稼いでいたのが生糸と茶だったのである。 そのため、政府は明治三年群馬県富岡にはじめての国営製糸工場を設立して創業を開始した。 しかし、
     「輸出する生糸は優良なものでなければならない
     と良識的な考えを持ち、検査を厳にした。 その検査のための機械製作を田中工場に命じたのである。 久重はこの期待に応えて優秀な検査機器を造り上げた。
    (『小説 田中久重』P.327〜328)


     かれの工場では、陸軍省の発注による製品を造ったがそれだけではなく、電信電話機などあらゆる機械を製造した。 この工場で当時造られた製品は、魚形水雷発射管敷設水雷缶機械水雷缶火薬砲発火電池信管電信機電話機電気標示機特殊望遠鏡など、当時の日本の技術界としては最高水準をいくものばかりだったという。明治二十年には実に六百八十人の大人数が働く大工場に発展していた。
    (『小説 田中久重』P.332)


     明治二十六(一八九三)年十一月十七日には、懇望によってこの田中工場を三井家に譲った。 三井家ではこの工場を「芝浦製作所」と改称した。 後の東京芝浦電気、現在の東芝の発祥である。
    (『小説 田中久重』P.332)