[抜書き]『庶民の発見』


『庶民の発見』
宮本常一・講談社学術文庫
2004年3月19日 第17刷発行
    目次
    はじめに
    一 庶民のねがい
      戦争の反省/  土を黄金に/  土に寄せる心/  物いわぬ人々/  農村社会の形成/  祭りと宗教/  四海皆同胞(しかいみなどうほう)
    二 貧しき人びと
      王朝の庶民
      記録するすべもない民衆/  神仏をもとめて/  自然とのたたかい/  昔も今も
      嫁の座
      嫁入り・婿(むこ)入り/  嫁の座の変遷/  佐渡(さど)の嫁
      私有財産
      一家の財布/  荒地をひらく/  佐渡のシンガイ
      人口問題
      家のよけい者たち/  貧しさとたたかう
      出稼ぎ
      発生と歴史/  魚を追って/  山の民の移動/  農民の出稼ぎ/  冬仕事と夏仕事/  社会発展とともに
    三 変わりゆく村
      土地所有意識
      小さな境争い/  境の移動/  境をきめてゆく/  所有意識の確立
      伊勢参り
      伊豆からの伊勢参り/  宝島(たからじま)からの伊勢参り/  対馬(つしま)からの伊勢参り/  伊勢参りがもたらしたもの
      言語生活
      ヒステリック/  発言代表者/  村長老の位置/  井戸端会議/  言葉の権威/  変わるもの・変わらぬもの
      村の民主化
      くずれゆく秩序/  近代化のかげに/  話しあいの役割/  村と村のあいだ
    四 山村に生きる
      山の生活
      山に住みつく/  山に働く人々/  愚(おろ)か村/  若勢市(わかぜいち)/  山を追われる
      米良(めら)紀行
      米良荘の由来/  山民皆郷士(さんみんみなごうし)
      芸北(げいほく)紀行
      太田川の谷/  酒屋/  板ヶ谷/  樽床(たるとこ)/  曲がり家/  八幡高原/  家と民具/  山間の文化/  郷土博物館/  山間の町/  古文化の残存/  庶民文化の伝承
    五 村里の教育
      群(むれ)生活の場
      言葉と文字/  群と連合体/  助けあい制度/  村の道徳律
      伝承の位置
      言葉による伝承/  祭りの伝承/  生活技術の伝承
      シツケとあそび
      シツケ・シオフミ・オカゲ/  シツケの完成/  三つ子の魂六十まで/  シツケの訓練/  親の職業につながるあそび
      一人まえの完成
      一人まえの意義/  社会生活にみる一人まえ
      文字の教育
      文字の必要性/  寺子屋の発達/  文字教育の進展
    六 民話と伝承者
      生活規範としての民話
      民話と昔話/  伝説/  由緒書(ゆいしょがき)と系図/  語りつぐべきもの/  伝説を生むもの/  文字と伝承/  昔話研究の発展/  民話を生む人々/  民話は生きている/  庶民生活を知るために
      農民の発見を
      『民話の発見』/  農民と知識人
      民話を保持する世界
      文字なき社会/  語り物/  神事舞踏の解体/  民話のなかの人間像/  社会発展のなかで
      伝承者の系譜
      昔話の発掘と研究/  神の声をきく女/  巫女の行事/  男の伝承者たち/  口頭伝承の記録化/  昔話の伝承者
    七 底辺の神々
      憑(つ)きもの覚え書
      噂話の固定化/  不安の社会/  巫女(みこ)・祈祷師(きとうし)/  遊行神人(ゆぎょうしんじん)の定住/  通婚圏の成立/  狐つき俗信の分布/  民間信仰の俗信化
      残酷な芸術
      芸術の底辺に流れるもの/  オシラ神をさがし求めて/  貧しさの象徴/  時代への埋没/  民衆のなかの彫刻/  東北農民の造形力

      あとがき
      解説…田村善次郎


    はじめに

     わたしはたいへんなおしゃべりである。 しかし庶民の過去についてはいくらしゃべっても、しゃべり足らない気がする。すでに不明のままに過去のなかへ埋没(まいぼつ)しつつある庶民の歴史について見る目を柳田国男(やなぎたくにお)先生と渋沢敬三(しぶさわけいぞう)先生にひらいていただいてから二十五年の年月がながれ、ひたすらに農村漁村をあるいて来、その見聞と調査とを世に報告しようとしてきたが、やはり自己の力には限界があった。 そこで仲間づくりにも一生けんめいであるが、何としても思うにまかせぬものである。
    (《庶民の発見 はじめに》P.3)


     ことに女について語ることがすくない。 女の世界を知らないからである。 日本の人口の半分は女である。 日本の歴史の半分は女が占めなければならないのを、女について書かれたものはほとんどない。 女性史観というようなものさえ、ほとんどうちたてられてはいない。 そうした埋没(まいぼつ)したものはほりおこせないものだろうか。 かつては男のかげにかくれ、今またおしゃべりの女のかげにかくれて外に向かっては無口な働きつづけ子を育てつづけてきた女たちの歴史を明らかにしたいものである。
    (《庶民の発見 はじめに》P.3〜4)


     この書物も、未来社の西谷さんと松田さんに尻をたたかれてまとめた。 書きすてたものをまとめて本にするのは、一度つかった紙をあつめてシワをのばして、そろえて、もう一度つかうような気がする。 つい近ごろまで原稿用紙もお古の裏をつかうことが多かった。 そうするほうが紙に対してもよまあ役にたってくれたという気持がつよかった。 それとおなじことで、もう一度役にたってくれるのか、といった気持がわく。
     と同時に、私のまわりにいてたえず力になってくれる友だちや、私の調査に協力してくれた多くの人たちの好意にお答えできるような気がしてうれしい。
    (《庶民の発見 はじめに》P.6)


    (本書は、未来社刊『庶民の発見』(一九七六年二月、第1刷)を底本としました)
    (《庶民の発見》P.12)


    一 庶民のねがい

     土に寄せる心
     戦後、二度ほど丸山さんのうちをたずねていったことがある。 一度は夕方に丸山さんの家へ行って、その夜中に瀬野の駅まであるいた。 尾道(おのみち)から朝早く出る船で四国にわたりたいためであった。 夜十二時過ぎ丸山さんの家を出て、村の西境の峠(とうげ)のほうへあるいた。 三月の夜の野は冷たく静かだったが、煙のすっぱいようなにおいが一面にただようていた。そして田圃(たんぼ)のところどころから煙がたちのぼっているのが夜の目に見えた。 焼土(しょうど)をおこなっているのである。 夕方、田圃のそこここで大きな火をもやしているのを見かけた。 その上に土をかぶせておけば土がやける。 ここではそうして土を若がえらせている。そのほの白いけむりと甘ずっぱいようなにおいが私の心にしみた。 峠の上に立って見ると、その白いけむりが平らに海のようにただようて、村の家々はその下にかくされていた。 不思議にもの静かな、しかしその白さが星の光を反射してか、ほのあかるい風景であった。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.19〜20)


     丸山さんは村をよくしようとして仕事をはじめてもう三十年もたっている。 三十年もたって一つ一つは成功しておりつつ、そこから出てくる次の問題は実はまえよりももっと重大なものである。 そして少しずつ責任は重くなり、仕事はむずかしくなる。 その仕事を、責任をにないきるか否(いな)かに、先駆者(せんくしゃ)としての成功か失敗かがかかっていると言っていい。
     世の人々は農民を固陋(ころう)といい、頑迷(がんめい)というけれども、私は決してそう思っていない。 今のような生産能力と社会制度では、今のように生きてゆくことが一ばん安全であり安定している。農民を頑迷といい封建的というならば、自らの理想とするところを農村という場において実践するだけの情熱と勇気と責任と持続性をもってもらいたい、と私は農民を非難する人人にいつも要求したいのである。政治的な改革だけで村が新しく生まれかわるだろうか。 口さきだけの批判や、指導するなどといって手をつけてみても、すぐ投げだすようでは村は新しくならない。もしまた改革が手をつけがたいまでにむずかしいとすれば、そこにはそれを制約する問題がひそんでいるのであって、たんに村人の固陋によるもののみではない。 そして自らの理想を意志でうちたててゆき、それが周囲の人々を傷つけず幸福にしてゆくためには丸山さんのようなねばりが必要なのだ−−と思ってみた。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.21〜22)


     物いわぬ人々

     あるとき、私は西条高原の西高屋の近くをあるいたことがある。 そのとき川の岸で石垣をつんでいる石工(いしく)としばらくはなしをした。ヒガンバナが咲いていたから九月ごろだったろう。 何となく野をあるいてみたくなって、急に汽車をおりて田圃(たんぼ)の中をぶらぶらあるいていったのである。 すみきった空にチーンチーンと御影石(みかげいし)にタガネをうちこむ音がひびいていて心にとまったので、そのほうへあるいていった。石工たちは川の中で仕事をしていたが、立って見ていると、仕事をやめて一やすみするために上(のぼ)ってきた。 私そこで石のつみ方かせぎにあるく範囲などきいてみた。 はなしてくれる石工の言葉には、いくつも私の心をうつようなものがあった。
     「金をほしうてやる仕事だが決していい仕事ではない。 ことに冬など川の中などでやる仕事は、泣くにも泣けぬつらいことがある。 子供は石工にしたくない。 しかし自分は生涯それでくらしたい。 田舎(いなか)をあるいていてなんでもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。 こんなところにこの石垣をついた石工(いしく)は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思って見る。 村の人以外には見てくれる人もいないのに・・・・・・」と。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.24〜25)


     「しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。 二度とくずれないような……。 そしてそのことだけ考える。 つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁はきれる。 が、いい仕事をしておくとたのしい。 あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末(そまつ)なことはできないものである。 まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。 また親方(おやかた)どりの請負(うけおい)仕事なら経費(けいひ)の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬかと夜もねむれぬことがある。 やっぱりいい仕事をしておくのがいい。 おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふるときにはわいてくるものだ。 結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.25)


     四海皆同胞(しかいみなどうほう)

     沖にうかぶ小さい島々さえ実に見事に土地利用されている。能美(のうみ)・倉橋の島々の段々畑など、畦(あぜ)ぎしに草さえも生やさないでムギやイモをつくっているが、海岸にならんだゴミの山は遠くは大阪から積んできたものもあるという。周防(すおう)大島あたりまで海岸へうちよせられた藻(も)をひろいに来たことがあった。 それを能美のゴミトリ船と言ったが、この人たちは四、五里の海をこえてくることを苦にしなかった。 勤勉といえばこれほど勤勉な人たちはまれであろう。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.32)


     島々はまた早く木を伐(き)って裸(はだか)になり、肥料気が少ない上に土の流亡(りゅうぼう)がはなはだしいので、その補給に苦労した。生口島(いくちじま)の瀬戸田という所では対岸の能地(のうじ)からくる漁師たちがそのまま海に糞尿(ふんにょう)をたれ流しているのをおしがって、海岸に棟割長屋(むねわりながや)をつくってそこに住まわせ、その糞尿をくみとって畑地(はたち)を肥(こ)やしたとさえいう。 そのようにしてまで人々は自らの世界を充実しようとしたのである。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.32)


     故里の私の家へもよく音戸(おんど)からやってくる漁師がいる。 食うものの少ないころだったが、アナゴをもってきてイモとかえてくれという。 私の家にも十分なかったので、親戚にたのんで公定価でわけてもらってあげたことがある。 それから親しくなった。 「今どき手押しの船ではなかなか漁も十分にできまいから何とかして金をためてモーター船にしなさい」とすすめてあげたら、男は「なかなか稼(かせ)ぎが少なくて……」と言っていた。 海の魚のへったことが何より痛手(いたで)だった。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.33)


     あるとき、「もう久しく米をたべたことがないから米を一升ほどくれないか」と言ってやってきたことがある。 籠(かご)の中に少しばかりのアナゴとハゼを入れてもってきた。あとでそのハゼを見るとみんな尻尾(しっぽ)がきってある。 餌(えさ)にするためのものなのだ。 餌にする分までもってきてはたいへんだと思ったが、かえすのも何か心にかかるので、子供にミソ・ショウユ・ツケモノを持たせて波止のうちにつないでいる船のところまで行かせ、夜は風呂(ふろ)をわかしておくからはいりにこいと言わせた。 しかし漁師はこなかった。 雨になった夜を船の中でねたことだろう。 それから久しくこなかったが、ある日突然やってきて、たくさんアナゴをおいていった。お礼にきたのだといって食料はもってゆこうとしなかったが、米やイモやツケモノをあげた。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.34)


     「実はモーターにしまして……」という。 私はすっかりうれしくなって浜に出て見ると、そこには新しい船がついていた。 船には漁師の妻がにこやかにのっていた。 モーターをつけた船が見せたかったのであろう。 船はエンジンをかけて出ていった。 こんな漁師の働いてくれている海を私は心からなつかしく思っている。 考えてみると、村の旦那衆(だんなしゅう)をのぞいては、みんな貧しいくらしをたてており、その生活をすこしでもよくしようとし、また平穏(へいおん)でありたいと願った。 農民たちの神への祈り、年々おこなわれるいくつかの祭りを見ても、そのことがうかがわれる。 そしてそれは昔も今もかわりがなかった。
    (《庶民の発見 一 庶民のねがい》P.34)


    二 貧しき人びと

    王朝の庶民

     神仏をもとめて

     ただ山伏旅僧(たびそう)たちは食物をもたずとも、行くさきざきで物乞(ものごい)して旅はつづけられたようであるが、いずれにしても旅は不便なものであり、宿というようなものもなくて、たいていは民家にとめてもらっている。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.38)


     絵巻物など見ていると、貴族たちは広い開放的な部屋で夫婦で寝ている様(さま)が描かれているが、民間では王朝も終わりごろになるとぬりごめの中で寝たとある。ぬりごめというのは部屋の周囲の壁をあつくし、入り口を一ヵ所にもうけた寝室のことで、夜ねているあいだに盗賊などに命をとられ物をとられたりすることのないようにくふうしたものである。 こうした寝室は京都の洛北(らくほく)や丹波(たんば)あたりについ近ごろまでのこっており、ぬりごめといっていた。 そのぬりごめの話は『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』一六の「中間法師山伏鋳物師同宿し山伏偽りて遊女を侵し後朝争論の事」の中に出てくる。今日、全国の民家に見られる納戸(なんど)とよぶうすぐらい寝室の発達してくるのは、このころからのことであろう
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.38〜39)


     自然とのたたかい

     こうした人間関係による不安ばかりでなく、この国の自然のはげしさが辺地に生きる人々に与えた不安も大きかった。 そしてそれらを防衛しつつ、すこしでもよい生活をうちたてようとした努力やくふうも見られた。 洪水(こうずい)の多かった美濃(みの)のあたりでは、川のほとりに住む人は水の出るときに登っている料として、家の天井(てんじょう)を強く造って板敷のように固めておいて、水が出ればその上に登って炊事(すいじ)もし、男たちは船で外へ出ていくようにした(『今昔物語』二六)。 これが後には一戸一戸の家屋敷を地上げしたり、村の外に堤防をめぐらしたりするようになるのであろうが、それにしても天井裏を住居に使用するくふうがこのころから見られていたとすると、この地方の農民の生活も今日にいたるまで大した変化のなかったことに気づくのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.39)


     嫁の座

     嫁入り・婿(むこ)入り

     嫁入りが簡単であるということは離婚をもまた簡単なものにした。 対馬(つしま)などでは一生に十数回も離婚したという老女にあったことがあるが、それほどでなくても二度三度という例なら、瀬戸内海地方ではむずらしいことではなかった。 対馬では離婚することをテポをからうと言っているが、瀬戸内海地方ではテポをふるともホポロをふるとも言っている。テポホポロも藁(わら)でつくった籠(がご)のようないれもので、テポへ一ぱいほどの荷をもってきたものが、またそれを持ってかえるという意味である
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.43)


     さて、離婚の多いということは男女の不貞(ふてい)による原因よりも、男女の性格の差にもとづく場合が多かったようで、女が男にきらわれてかえされたのではなく、女のほうから出てきたことが多いようである。 それでなければテポをふるとは言わないで「ふらされた」というであろう。 それを女の意志によって、女のほうから出てくるのであるから、女の意志はかなり自由なものであったということができる
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.43)


     ではどうしてこの地方の女にこれほど自由があったかというと、京都を中心にして西日本には女が嫁入りするまえに聟(むこ)入りの儀式があって、男はしばらく女のもとへかよわねばならない義務があり、夫の家が気に入らねばあえて夫の家へいそいで入りこむ必要もなかったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.43〜44)


     新婚の夫婦をヨメ・ムコというが、この言葉は同時に発生したものではなく、ムコという言葉が古く、ヨメという言葉はずっと後におこったものである
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.44)


     ムコというのはムカエルという言葉からきたものと思う。 ムカエルは古くはムコウルである。 ムコウル人の意味であろう。 すでに九百年近いまえからある言葉である。 そのころの男は好きな女ができるとそこへひそかにかよったものである。 そして愛情が成立すると、女のほうではムコトリということをした。 男を正式に女の家に迎えいれるのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.44)


     『江家次第(ごうけしだい)』という書物によると、日を定めて女は男を自分の家へ迎えいれて正式の(ちぎり)をむすぶ。 そのとき女の両親はムコのはきものをとりあげて抱いてねるふうがあった。 これは若い二人の間がいつまでもつづくようにとの意味であろう。 夜があけると男は自分の家へかえっていく。 これを一夜の例といった。 さて、三日目を露顕(ろけん)といった。 ロケンというのはかくしていたことがあらわれるということで、男が女のところへかよっていることがあらわれたというわけである。 今日のヒロメとかヒロウにあたるものである。 ロケンがあると、もう大っぴらにかよっていいのである。 こうして男が女のもとへかよう日がつづくのである。 ふつう、男が部屋住みの間は女が男の家へ入りこむことはすくなくて、男が一家の主になると女は男の家へ入ったようである
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.44)


     ところが、鎌倉時代から室町時代にかけて武家の政治がおこなわれ、(いくさ)を事とする日々がつづき、男の権力がいちじるしくのびてきてからは、女の位置に変化が生じてきた。 男が正式に女のもとへかようということは、女とすでに特別な関係を生じているのであるから、男の家のいそがしいときには、女が男の家へも手伝いにいく習慣を生じたのである。 これがヨメであった。 ヨメというのはユイメという言葉のなまったものと思われる。 鹿児島の南の島々にはユウメという言葉ものこっている。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.45)


     ユウメというのはユイをする女ということであり、ユイとかヨイとか、またはユウというのは交換労働のことで、いまも民間ではひろくつかわれている言葉である。 つまり、手間(てま)〔がえし〕のことである。 手助けしてもらうと、それだけまた相手の手伝いをする。屋根をふいたり、田植えをしたりするとき、ユイでおこなうことは今日もなお多いのであるが、ムコをもった女はこうしてムコの家と自分の家の間を往復して家事をたすけるふうを生じた。 石川県能登(のと)地方では、このように両家の間を生き来する嫁を日をとる嫁と言っている。 こうしてヨメという言葉が一般にゆきわたってくるのであるが、それはいまから五百ねんばかり前ごろからのことと思われる。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.45)


     こうして、ヨメはムコの家と自分の家を生き来するはげしい労働の生活がはじまってくるのであるが、能登地方ではヨメが子供を生むと、その子をつれて正式にムコの家へ入りこむことになる。 これをマゴワタシという。 ヨメの家ではたくさんの餅をついてそれをヨメにもたせ、子をつれてムコの家へやる。 ムコの家ではそれを親戚や近所へ配り、また客をまねいてごちそうする。 それがまたヨメにとってはヨメイリでもあった。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.45〜46)


     佐渡(さど)の嫁

     ヨメという言葉が、いまもその内容をともなって生きているのは佐渡(さど)である。 そこで佐渡の嫁についてはなしてみたい。佐渡は女のよく働くところである。 田の中で草取りをしているのも、山から丸太を負いだしているのも、みんな女である。 納屋(なや)の中で話し声がするようだと思ってのぞいてみると、女が(たわら)をあんでいる。 軒下の日陰で草履(ぞうり)をつくっている。 ほんとうによく働く。そうしたはげしい労働のせいであろう。 年をとると、O脚になっている者が多い。 五十をすぎた女ならば左足か右足を少しずつひきずるようにしてあるいている。 一生を労働のためにつかいへらしているという感じが深い。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.48〜49)


     とくに若い嫁の労苦は大きい。 嫁という言葉がユイメ(結女)からきていることをこの島ではしみじみ感ずるのである。 島の北海岸では若い娘が嫁にいく場合は最近まで着のみ着のままであった。 着物も何もすべて親もとへおいてくる。 同じ村内へ嫁にいったものならば、夜フロへはいるのも親もとへ帰るし、休みの日に着物を着がえてあそびに出るような場合も親もとへ着がえにいくという。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.49)


     それだけではなく、半年づかい」とよばれる嫁は、親もと婚家(こんか)で半々に働かねばならないのである。 つまり若い女は若い男と性生活をするためにいっしょになるが、それ以外のことでは、たえず親もとと婚家の間を往復して働かされるのである。 なかには婚家へかなり尻をおちつけている嫁もあるが、それとて婚家でただ働かされるだけで、小づかいもろくにもらえない。 ただ春先のひまなとき、盆まえ田の草取りのすんだとき、取り入れがすんで庭仕舞いも終わったとき、洗たく帰りといって婚家から親もとへ帰ることを許される。 二十日くらい帰っていられるのである。 若い嫁たちはそのとき家へ帰ってほんとにのびのびと足腰をのばして休むのである。 その帰るとき、よごれたものなどもって帰って洗たくする。 暑い日の照る下の川のほとりで、大ぜいの女たちがおしゃべりしながら洗たくしているのを見かけたが、その洗っているものを見ると、布団などひどくいたんだものにつぎを当てているものが多い。 生活のまずしさが目につくのである。 洗ったものは河原の石の上や稲架(とうか)(はさ)にかけてほしている。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.49〜50)


     時には、一人ぽつねんと水のとぼしい流れで洗たくしている女を見かけることもあった。 嫁の境涯(きょうがい)はまた寂しいものである。 親もとに親のいるあいだはよい。 しかし親が死んで兄の代になっているような中へ帰っていくのは、気のつまるものであった。 それでも慣習で洗たく帰りはしなければならぬ。 子供が二人あっても嫁であるあいだはこうして家へ帰るのだが、しゅうとからシャクシをわたされてカカ(主婦)になると、もう帰らなくなる。 洗たく帰りのとき気のつくしゅうとならば、金の千円や二千円を嫁にやることもあるが、それが嫁の小づかいで、そのほかにしゅうとに金をもらうことはほとんどない。 しかもその金だけでは子供に着物を買ってやることもできねば、白粉(おしろい)も十分に買えない。 そこでいきおい実親にねだるようになる。 そして子供の着物ばかりでなく、時には夫の着物の一枚もつくり、また洗たくモチとてモチをついてもらったものを持って婚家(こんか)へ帰るのである。 そしてまたはげしい労働にしたがわねばならない。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.50)


     このような慣習は佐渡(さど)から四十九里の波をこえた能登(のと)地方にもひろく見られたところであり、佐渡でいう嫁の半年づかいのことを、日を取る嫁といっている。 実家と婚家の間を往復して働かされるのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.50)


     さて、佐渡でよくよくきいてみると、男の場合も同様で、昔は聟養子(むこようし)もいたって多く、もまた嫁とおなじように亭主になるまでは里帰りがあったのである。 ただ帰って洗たくしなかっただけで、そのあいだ親もとで働かされた。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.50〜51)


     佐渡の南海岸はもともと土地のせまいところで、分家(ぶんけ)をふやす余地はなにほどもなかったから、二、三男に生まれた者は生涯(しょうがい)をオジボウズですごすか、またはに行くほかはなかった。 そして聟の口さえあればどこへでも行った。 いった先で女と気があわなかったり、女の親に気に入られなかったりしてかえされた例も少なくない。 そして家で働いていて、また聟入り口を見つけて出てゆく。 出たり入ったりで、二度も三度も聟入りする例はめずらしくなかった。 だから女だけが親もとと聟の家を生き来して暮らしたのではない。 そして愛情のない結婚だの、家と家との結婚だのといってみても、我(が)を張ってオジオバで暮らすよりは、まだ嫁や聟に行くほうが、そこに財産があるだけでもその生活に大きい安定があった
     もとより、家族の者それぞれが私有財産をもつふうはあったが。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.51)


    私有財産

     一家の財布

     家には家の財産というものがある。戸主(こしゅ)の名になっているが、よくみると、その中には家族の者が生きていくために用意せられているもので、だれでも一人で勝手に自由にすることのできないものがたくさんあった。 そこで家族の者の一人一人は、自分の意志で自由につかえる金や物が必要になるわけだが、それももとは家長から小づかいとしてもらうのではなく、自分でかせぎだすことが多かったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.53)


     東日本では、若い人たちはたいていは家からをもらっていた。 これを関東から東北へかけてはホマチとか、ホマチ田といっていた。 広さにして一反(たん)内外のものが多かったようで、そこからとれる米は自分で処分し、自分の小づかいにしたり、後に分家して独立するときの資金としてたくわえていたのである。 家の仕事の手伝いの余暇(よか)にまたそれほどの田をつくらねばならぬので、それはたいへんな努力を必要としたのであるが、それでもなお自分の自由になる財産ができるので、若い人たちはあえてその苦労をしたわけである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.53)


     二宮尊徳(にのみやそんとく)が、若いころ叔父(おじ)方万兵衛の家ではたらいているとき、余暇に荒地をひらいてをつくったり菜種(なたね)をつくったりした話があるが、それが実はホマチであったわけで、これはひとり二宮尊徳だけのことではなく、ひろく各地に見られた農家の家族たちの生きていく姿だったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.53〜54)


     さて、男の家長に家の権利のすべてがゆだねられているところでは、家の財布も主人がもつから、一家の主婦も主婦としての財産を必要とするようになる。 そこで主婦にも主婦としてつくる田があったわけである。 青森県の八戸(はちのへ)地方ではこれをヨマキ山といっている。夜まく田ということで、夜タイマツをとぼして耕作したともいわれるが、一家の主婦ともなればそのいそがしさはかくべつで、自分の田は夜でもなければ耕作できなかったのであろう。 そうして得た金は多く子供たちのためにそそぎこまれたという。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.54)


     ホマチとおなじような意味をもった言葉にホッタ、またはホリタがある。 中部地方と中国地方の山間にひろく分布をみており、東北地方にまでおよんでいる。 しかしこの地方では、ホッタはもう家族の者の私田(しでん)ではなく、ないしょ金のことになっているところが多い。 そして親のゆるしを得ないで、男と関係してできた子供をもホリタゴなどとよんでいる。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.54)


     このホッタやホリタとおなじような意味で、それとはずれてところによっては重なりあいながら近畿地方から中国・四国・九州にかけて、マツボリという言葉がある。 やはり私有財産を意味する言葉であるが、この地方ではまち私生児マツボリゴとよんでいるところが多い。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.54)


     荒地をひらく

     さて、このようにして働きつづけた親たちが、もう田畑の仕事も十分にできなくなったときどうしただろうか。 年とった母は家政のすべてを長男やニ男の嫁にゆずるが、それからはじめて、自分の世界がはじまるのである。 それまでは一家をひっかまえて一切のきりもりをしていたわけである。 しかし世をゆずってしまうと、あとは孫の守をしたり、あまった時間で麻糸(あさいと)をつむいだり、木綿(もめん)をつむいだりする。
     アサは、アサの皮をはぎ、〔あらかわ〕をとったものをよくさらしてこぎ、それをさいて細くしたものをひねってつないでいく。 そしてそれをまいて玉のようにする。 これをヘソという。ヘソをつくることをヘソをくるといったものであるヘソクリというのはそうしたことから出た言葉で、女の私有財産のつくり方には田畑をひらくほかにこうした方法もあったのである。 そしてしかも、西日本では年とって世をゆずった女たちの間にこれが多くみられたのである。 ではこうした金を何のためにつくったのであろうか。 たいていは自分たちの死んだときの葬式の費用にしようとしたのである。 だからこのヘソクリを、葬式金ともシボジの金ともいっているところがある。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.57)


     親は子に孝行を要求もしたが、こうした親たちの理想は子をりっぱに育ててその生活を安定させ、しかも子に迷惑をかけないで死んでいくことだったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.57)


     佐渡のシンガイ

     そしていつも問題になるのはシンガイであった。 シンガイというのは自分で自由に使える金のことである実親しゅうとにもらわねば、夫さえもシンガイを親からもらう身であってみると、シンガイの作りようはなくて、国中(くんなか)の水田の多い地方では、米びつの米を人に気づかれぬように少しずつもちだして売ったというが、畑の多い小木(おぎ)岬の村々では、畑作物(はたさくもつ)の食いあまし大豆(だいず)とか小豆(あずき)とかソバとか、自家用に作ったもののうち食いあましたものがあると、女たちはそれを小木の町までもってでて金にしシンガイにしたのである。 それでも戸主におおっぴらそれができただけに気がらくであった。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.58)


     佐渡の外海府(そとかいふ)地方ではシンガイ牛というのがあった。 娘が嫁に行くときメス牛を一頭もたせてやる。 牛は放牧地でオス牛と交尾して妊娠する。 そうしてできた最初の牛は親のところへかえす。 それをタネガエシといった。 嫁にいかぬ女−−すなわちオバたちにもシンガイ牛はあって、オバサン牛といっていた。 二年に一頭は子ができるから、それを売って小づかいにしたのである。 しかし昔は牛も安くてそれだけでは足らぬ。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.58〜59)


     いままでこの島ではイイとよばれる交換労働が盛んで、女たちはイイの組をつくって田植え草とり草刈りなどをしていた。しかしそれでは金にならぬ。 そこでイイを賃労働に切り替えつつある。 イイの場合は田も畑もほぼ等しくもっている者同士で組む場合が多いのだが、賃労働になると土地のせまい者が広もつ者の家にやとわれていくようになる。 そのためには、自分の家の仕事をなるべく早く自分の力で片づけておかねばならぬ。 そしてやとわれていくのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.59)


    人口問題

     貧しさとたたかう
     それにしても農民はまずしかった戦前、大きな地主がいてその勢力のつよかったころ、小作百姓(こさくひゃくしょう)は重い小作料にあえいだのであるが、それすら中小地主を必ずしも大きくはしなかったようである。 そういう家ではたいてい子供を上級の学校へやるために小作米を金にしてつかい、さてその子たちは学校をおえても村へかえってきて仕事をすることはほとんどなく、つかった金が直接村の役にはたたなかったのであるそれほどまた村は貧乏しなければならなかったわけで、それが明治・大正・昭和九十年近くもつづいてきたのであるから村のまずしさ、農業の進歩しないことも当然だといっていいのである。 むろん村人が貧乏したのについてはもっといろいろの原因があるが、そうした村の貧乏をすくおうとしたのが、まずしい農民の出稼(でかせ)ぎであったともいえよう。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.63)


     しかしまた、それはそれほど農業にはたらく時間をすくなくし、農業の進歩をおくれさせることにもしたといえる。 大工(だいく)や土工(どこう)や漁業などにしたがってたえず他郷ではたらいているようなところでは、家の仕事は女が主になってきりまわすが、そうした土地の田畑はまるで庭園のように美しく耕(たがや)され田畑に雑草のはえていないのがふつうであった
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.63〜64)


     では田畑につくられているものはというと、イネムギサツマイモなどで、お金になりそうな園芸作物果物(くだもの)を見かけることはすくないのである。 このような傾向は畑作(はたさく)地帯ではとくにはっきり出てくる。畑に園芸作物のないようなところなら、男が出稼ぎにでているところとみて、まずまちがいがないは勤勉ではあるがくふうが足らなかった。くふうの足らないということは、まず何よりも世間がせまいということからきていた。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.64)


     戦前には、村のまずしさを解決し、またニ、三男の処置をねらって、満蒙開拓(まんもうかいたく)をさけんだこともあったが、はたしてそれが賢明なことであったかどうかは、今度の戦争がはっきりとおしえてくれた
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.64)


     私はまずしい家に生まれたが、私のの若いころはもっとまずしかった。 そしてオーストラリアの近くのフィジーというところへ出稼ぎにいき、さんざん苦労したすえ病気になって帰ってきた。 そのときしみじみ考えたことは、もうどこにも行きようのなくなった自分を迎えてくれたのは故里(ふるさと)である。 その故里をよくしなくて、どうして本当に自分たちの生活がよくなるだろう。 まず故里をよくしなければならない、ということであった。 そしてみんなにすすめて(かいこ)を飼わせたり、ミカンをつくったり、信用組合をつくったり、いろいろ苦労をして生涯を終わったのであるが、ここに重要な問題解決のかぎがひそんでいるように思う。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.64)


     昭和三十二年、瀬戸内海の島々をあるいたとき岡山県の真鍋島(まなべしま)という島をおとずれて心をうたれたことがある。 海からみるこの島の畑には穀物もたくさん植えられているのであるが、その間にまたいろいろの草花が植えられている。 それは年額三千万円にものぼるとのことであるが、この花を、このようにつくるまでにいったのは家の主婦たちが主導力になっているのであって、六年まえにはまだ草花らしいものはなかったのを、丹精(たんせい)こめてここまで盛んにしたのである
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.65)


     いま一つ同じようなはなしをしよう。 これは広島山中のはなしである。 やはりまずしい農家の主婦たちがあつまって、そのまずしさからぬけでるくふうをはじめた。 その村は生活改善といっても世間なみに台所をなおしたり、水道をひいたりするほどの力を持った家すらそんなにたくさんはなかったが、みんなであつまってはなしているうちに村の中にはまだひらかれていないひろい山林のあることに気づいた他人の山だというので、その利用を考えてもみなかったのだが、だれの山だっていい、あそんでいるものなら本当に利用する方向にもっていかねばならない。 母親たちははじめて一つの方向を見いだし、自分たちでこの山地をあるき、そしてほんとにはじめて故里(ふるさと)を見直す機会をもち、山地開発の計画をすすめはじめたのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.65〜66)


    出稼ぎ

     発生と歴史

     日本民族の中で早くから出稼ぎをおこなっていたのは漁民杣人木地屋(きじや)などであるが、それは移住を主体とする人たちが定住を余儀(よぎ)なくされたことからおこったものである
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.68)


     農民の出稼ぎ

     江戸時代に入って、城下町その他都市の発達につれて、町は多くの労働者を必要とするようになった。 たとえば江戸だけでも「たのまれれば越後(えちご)からでも米つきに」という米搗(こめつ)き出稼人が年々一万人も越後地方から流れこんだものとみられている。 それほどの人がいないと、江戸市民は白米が食えなかったのである。 このほか運送関係・家事雑用などにおびただしい労力を必要とし、それらは常雇(じょうこ)の者も多かったが、一定期間の労力で間にあわすことも少なくなかった。 それらの多くが出稼者によってまかなわれたのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.76)


     つまり封建都市の発達が、田舎(いなか)の余剰(よじょう)労力季節的に吸収したことは実に多かった。 これは封建都市には今日のような企業としての工場や会社をほとんどもたなかったし、官庁の制度も未発達だったので、季節労力の利用で間にあう面が大きく、それらの労力も技術としてよりもエネルギー源として利用せられるのが大きかった
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.76)


     しかし労力を必要としたのは、都市だけでなく農村にもみられた。 河川(かせん)改修新田開発海岸干拓(かんたく)などの土木事業が相ついで各地におこると、そこにも多くの労力と技術を必要としたのである。 これらの労力は、たいてい工事場付近から徴発(ちょうはつ)されたのであるが、大分県の三河新田は、寛文(かんぶん)五年(一六六五)須崎五郎右衛門(すざきごろううえもん)が、三河国から百人の百姓をつれてきてひらかせたというから、ずいぶん遠方への出稼ぎもみられたわけである。 たぶんはその技術が問題だったのであろう。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.76〜77)


     冬仕事と夏仕事

     とくに中国西部・北陸・伊勢湾をかこむ地域・北九州に人口増加のいちじるしいのは、たんなる生産の増大によるものではない。 なぜなら江戸時代において、すでにそれらの土地は、多くの出稼者を出すに至っているからである。 つまり、ありあまる人口をかかえつつ、人口はなおふえていっている。 元来(がんらい)、江戸時代の農村では産児制限は常習とせられていたのであるが、この地方では産児制限がいちじるしくさしひかえられていたとみられる。 そして、この地帯が共通して浄土真宗の盛んにおこなわれていることから、この宗教が人生に及ぼした影響は、実に大きいものであったと考えられる。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.78〜79)


     つまり、産児を殺すことが罪悪と考えられる世界では人口はぐんぐんふえてゆき、やがて生産と生活のバランスがとれなくなる。 とくに北陸のように雪の深いところでは、冬期間の労力は浮いてくる。 これらがまずたんなるエネルギーとして都市その他にはきだされてゆく。 さきにのべた米搗(こめつ)きのごときはそれで、一、二月に入ってきた新米を農繁期(のうはんき)になるまでに搗きあげておいて、郷里の田植えにかえるのがならわしであったという。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.79)


     冬期に多くの労力を必要とする作業には、酒造(しゅぞう)・凍豆腐(こおりどうふ)・寒天(かんてん)・農業土木などがあり、とくに酒造は、能登(のと)・加賀(かが)・越前(えちぜん)などから多くの人が、京都・大阪の酒蔵へ稼ぎに出た。百日の稼ぎといわれたが、十二月に出て、三月までおり、正月は旅さきでする。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.79)


     「酒屋米搗は麦種の生れ、家で年越すことがない」と歌われるごとく、男は旅先で正月を迎えるので、村の正月はいたってさびしく、取り入れのあと、旅だちのまえにおこなう報恩講(ほうおんこう)が、はなやかになっていったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.79)


     寒天凍豆腐の人夫(にんぷ)は丹波(たんば)・但馬(たじま)のほうから多く出た。 これもやはり正月を旅さきですました。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.79)


     瀬戸内海地方の島々は、早くから人がふえて食料にはとくに困ったところだったので、春の田植え・秋の稲刈りなどにも女が群れをなして、地方(じかた)の米所へかせぎにゆくふうがみられた。 自分の村の田植えをはやくすまして、田植えのおくれる地方へ出かけてゆく。たいていは一月くらい稼ぐ。 秋もまた、自分の家の稲刈りをすますと出かけてゆく。 そして農家の納屋(なや)などにとめてもらって、食わせてもらって、米一升が一日の賃であった。四十日稼いで、正月まえに米一俵をもってかえるのは腕のよい女とされたのである。 これを秋仕働きといっている。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.81)


     社会発展とともに

     元来(がんらい)、草屋根は村内の者が共同してふきあうのが一般であった。 ところが、その技術のすぐれた者が、しだいにその周辺の農家の屋根をふいて歩くようになった傾向は各地にみられる。 関東平野へやってくる屋根ふき会津(あいづ)の者が多い。 関西の村々は、紀伊柱本の者がやってくる。 北九州では広島からの屋根ふきが多いという。 草屋根が瓦(かわら)屋根になるにつれて、屋根屋の出稼ぎもしだいに減少してきつつあるが、技術の精緻(せいち)が出稼ぎをよびおこしたよい例である
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.84)


     日本における出稼ぎの大きな飛躍は、明治十七年(一八八四)であった。 明治十年(一八七七)の西南戦役(せいなんせんえき)に端を発して、日本経済はインフレーションになり、明治十五年(一八八二)幣制(へいせい)の改革によって引き締めをおこなったが、その打撃は実に大きかった。
     と同時に、窮民(きゅうみん)の対策が考えられてくる。 一方では北海道移民が活発になり、他方、ハワイへの出稼ぎがこの年からおこってくる。 ハワイへの出稼ぎは農業移民で夫婦を単位とし、三ヵ年間の契約ではたらき、それからさきは自由契約になるものであり、サトウキビの耕作にあたった。 これに応募したのは出稼者の多い瀬戸内海地方のものであった。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.85)


     農民たちが、自らの労力を唯一のたよりにして生きてきた日は長かった。 機械らしい機械すらもちあわさなかった時代には、「稼ぐに追いつく貧乏なし」という言葉が、掛け値なしに人々の心にしみていた。 いま一つは、「爪に火をとぼす」という言葉の示すような、きりつめた生活が、周囲の人々をしのいでゆく力になったのである。 いわばケチのかたまりのようなものがあった。 そして商人につよい執着(しゅうじゃく)をもち、農民土地につよい執着をもった。 が一方、それだけではすまされないものを感じた。 出稼ぎその他の旅の見聞(けんぶん)や村里生活の中で、金銭や土地をこえて大切なもののあることにも気づいていた。 そして、そういうものが村を方向づけていったのである。
    (《庶民の発見 二 貧しき人びと》P.86)


    三 変わりゆく村

    土地所有意識

     小さな境争い

     すると、カシがなくなってブンゴガヤのしげみは南にひろがり、カシの切り株をつつんでしまった。 つまり、このブンゴガヤのしげみの南の端は私の家のほうへ一間ほどくいこんだのだが、北隣りの山主はその南側が境だといいだした。 そこから見あげると、二本の桜が完全に北のものになるのである。 母は争うのはいやだから仲人(ちゅうじん)をたてて、一本を北隣りへ、一本を私のうちにとって、伐ってしまったらどうだろうといっている。
     いっそのこと、石でも埋めておけばよいのだが。昔から山の境はほんの少々の心覚えで話しあってきたという。 そして争いなどのあって調停のたったときに境石(自然石)を建てたといっている。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.90)


     境の移動
     私は古文書(こもんじょ)で境争いなどにぶつかかると、よく自分の家のことを思いだす。 どっちがどっちかわからない。役場の台帳などでは絶対にわかるものではない。 ……奈良県大塔村篠原の調査をしたときも、山の境は立木くらいが心覚えで、石を埋めるのは新しいことだといっていた。 藩領(はんりょう)の入り乱れていた河内滝畑などでは、境の一間以内に大きい木を残してはならないといっているが、これらも新しいことで、古くは境木(さかいぎ)の例に見られるように境には大きい木をのこしたのだろうが、国境などは別として、個人同士の場合にはその境木もどちらのものということがみなきまっていたと、岡山県円城村できいた。そして個人山の境は、決して尾根谷川が境とはきまっていなかった
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.90〜91)


     いったい人々は何を基準に境をきめたのであろう。 しかもその境は私の家の例でもわかるように、しばしば移動するのである。 二十歳すぎのころ、このことを父にはなしたら、「人がだんだんふえてくるにつれて、境はだんだん明らかになったもので、そのときに力のあったものが少しずつよけいに取ったためではないか」 といった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.91)


     田の(あぜ)のようにはっきりしたものでも、ずるい人が出ると相当に変るものだということを山の上から田を見おろして話してくれた。まっすぐでなければならぬところがゆがんだり、ある一ヵ所がふくれでたりしているのは、何代か前に欲深い人が畦を少しずつ削って、相手方の土地を侵略したものだといった。 「あの田はもと何家のものだった。 その何爺さまのとき、あんなに畦(あぜ)を曲げた……」 等々と父はいちいち話してくれた。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.91〜92)


     これとともに、中世以来開田(かいでん)したと思われる田のに、むやみに曲がっているものの多いのは、田の面積をごまかすためであったということをところどころで聞いたが、あるいはこの伝承の通りかもしれない。畦があまり曲がっていると、どうしても、打ち余しが多くなるというのである。 ごまかす余地はいくらもあった。 年貢(ねんぐ)のきびしかった阿波藩(あわはん)なんかは、この打ち余しがとくに多かったようで、淡路地方では通称一反(たん)が実測では一反(たん)四畝(せ)ぐらいあるものは少なくないという。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.92)


     他藩のことはくわしく知らぬが、毛利藩(もうりはん)下の私の島では、最近まで田に旧畝(きゅうせ)と新畝(しんせ)とがあった。 旧畝の田はずっと古くから開けた田で、六尺五寸四方一坪としたものである。 新畝は六尺四方が一坪であった。
     ただし六尺五寸の古検(こけん)が六尺の新検(しんけん)に改められたのは貞享(じょうきょう)以後のはずで、貞享以後の検地にはすべて六尺竿(さお)ではかったように思われるが、かならずしもそうでない点があるらしいのである。 そして山間の田を見のこしたというならわかるが、平野の田にも「あれは旧畝だから」などど、よく話していた。それが明治初年の地租(ちそ)改正のときもそのまま受けつがれたという。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.92〜93)


     「もし旧畝を新畝で定量するなら一揆(いっき)をおこそう」とみんなで話しあっていたとは、外祖父(がいそふ)のはなしである。 そして旧畝の田は新畝の竿ではかられることはなかったようである。 しかし古文書(こもんじょ)に旧畝(きゅうせ)だの新畝(しんせ)だのと書かれたものは一つもない。そして土地の価格は小作料できめたのである。 はなしが少し脱線したが、おそろしくルーズ融通性(ゆうずうせい)のあったものらしい。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.93)


     境をきめてゆく
     土地の堺なんかもときどき移動したのであろう。 それを移動させないために、隣との堺の(あぜ)にそうて稲株(いなかぶ)を一列ずつのこすふうが近江(おうみ)の湖北にある。 この稲株をサイナイ様といい、畦をタツという。 毎年、植えつけ前に草の生えないように、またつくりもののよくできるように上の田の作人がつきかえ、あるいはぬりかえるが、その用土は上田六分・下田四分を出す
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.93)


     そしてサイナイ様畝(うね)のかわらぬように気をつけるのである。 この稲株は畝をつきなおすと、その土でかくれがちになるから、田植えのときに手でさぐりだして株と株の間にまた苗を植えてゆくという。 堺をまもるということは、それほど重要なものであったのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.93〜94)


     西日本では、だいたい段々になった田の場合、上の田の畝のはしが堺のようである。 多くアブチといっている。 そしていちばん上の田と山との堺は、丹波山中などでは田(た)の面(も)から一間とか二間とか上のところにきめていたようで、これをワチといった。 古証文(こしょうもん)に「ワチ一間、ワチ二間」などとある。 ワチのひろいほど田の値はよかった。 いちばんよい草のはえるところであり、刈敷(かりしき)にした。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.94)


     ところが、能登(のと)半島の前波というところできくと、田の堺は田のキシの下と田のの接する線であったという。上の田がアブチから下までもっていたのである。 ここにはワチのような採草地(さいそうち)がない。 しかし隣の沖波というところはアブチが境であったという。 前波の人にいわせると、土地が狭かったから前波は田の下の端を堺にしたのだというが、はたしてそうだろうか。あるいは開墾(かいこん)に関係がありはすまいか
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.94)


     田畑の堺に木を植えることは、管見(かんけん)では関東・東海道・近畿にみられる。 東海道沿線の平塚附近では畑の堺にマサキなど植えているが、私はこのような例を大和(やまと)山中の大塔村でもみた。ムクゲを植えていた。シヤメノキといっている。極目(きわめ)の木であろう。 遠州・伊勢の平野の田では畦(あぜ)をもたない場合、堺のしるしに川柳(かわやなぎ)を植えている。 もとは一枚の田を分家か何かのときに分けたのであろう。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.94)


     土地の広い新田地帯など、畦(あぜ)はいと鷹揚(おうよう)に広いものであったと思う。 奥羽山脈中のささやかな谷に、まるい田のいくつもあるのに感心したことがある。 畦はいたって広い。これがだんだんひらけてゆくと、一すじの畦になるのだろう。 秋田角館(かくのだて)近くの田でも畦はいたって広い。 このような傾向は東北日本各地にみられたところらしく、越後蒲原(えちごかんばら)平野の真ん中でさえ、明治の初めまでは田のほとりに稲干場(いなほしば)といって、広い空地(あきち)があったという。 その稲干場というのはハサバのことではなく、稲一把(いねひとたば)ずつをならべてほすほどのひろさであったという。いまは屋敷になり、また川になっているとのことである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.95)


     東京のような日本一の進歩した都市に、羽根木町・宇奈根町・鎌田町・玉川町・等々力(とどろき)町(以上世田谷区)、徳丸町(板橋区)、東栗原町(足立区)など、飛地(とびち)をもつ町がある。 区制のしかれるとき、なんとかして整理のつけられなかたったものであろうか。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.96)


     所有意識の確立

     における神をまつる習俗や、禁忌(きんき)その他のことはしばらくおく。 大は一国の堺から小は個人所有の土地の堺まで、無数の堺があり、権利が錯綜(さくそう)し、それがたえず多少の移動をみる。私は中世から近世へかけての歴史は、記録の上からすれば、年貢(ねんぐ)の減免嘆願(げんめんたんがん)と境界決定の歴史であったといってもいいとさえ思っている。 残っている記録の大半がそういうものなのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.97)


     年貢減免はしばらくおくとして境界決定が人々の争いのもっとも大きな部分をしめるということは、それ以前にはほとんど堺を意識しない生活があったはずである。 村と村との間には、そのどちらでもないという土地があったはずである入会地(いりあいち)などその例なのであるが、おそらく昔の人々の意識した村意識は、ごくせまいものであったと思う。 近畿地方には、村はずれにシメを張る村がたくさんあるが、おそらくもとはそこまでを村の中と考えたのではあるまいか。 そしてそれは古い垣内(かいと)の区画のなごりかもしれない。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.97)


     地積図(ちせきず)などを見ていると、垣内の外に垣外というのがいくつもある。 やはりカイトとよんでいる。 村はずれのようなところに多い。 その字のごとく垣の外だったものであろう。 いわゆる出屋敷であるが、いま一つづきの村落でありつつ、なぜそこを垣外と感じなければならなかったか。 たんに土地だけではない。 海の上にもはあった。 いや年齢にも年中行事にもそれぞれ堺を考えたのである
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.97)


    伊勢参り

     宝島(たからじま)からの伊勢参り
     さて、それでは伊勢信仰はいったいどこまで分布していたものであろうか。 私の知っている範囲では、鹿児島県の南につながる薩南諸島の宝島(たからじま)あたりまでではないかと思っている。 この島には鎮守(ちんじゅ)神社という島の氏神(うじがみ)がまつられているが、御神体(ごしんたい)は伊勢から勧請(かんじょう)してきた大麻(たいま)であった。 この島に伊勢の大神(おおみかみ)のまつられるようになったのは、はっきりした記録がないのでよくわからないが、口碑(こうひ)によると二百年あまり前のことであったらしい。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.100)


     伊勢参りがもたらしたもの

     もっと別のことが原因ではなかったか。 伊勢参宮の盛んになるまえに古代から中世へかけては熊野参詣(さんけい)の道者がきわめて多かった。 そして、それは戦国動乱の中もつづいたのであるが、それが伊勢へと転じてきたのは、一つは伊勢から(こよみ)を出したことにあった。 暦はその日が何月何日であるかを示すばかりでなく、日の吉凶(きっきょう)を知るものとして尊(とうと)ばれた。 人々はそれによって日をえらび、方向をえらび、仕事をおこなっていった。 しかもその暦が、日本では早くから一本に統一せられた。 そしてそれが古くは京都から出されていたが、江戸時代になって幕府で貞享暦(じょうきょうれき)がつくられると、それが伊勢に送られ、そこで版行(はんこう)して全国にくばられていった。 この暦によって日々は運営せられていった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.104〜105)


     伊勢暦のほかに三島暦舞暦などもあったが、そのおこなわれた範囲はわずかであった。 しかも伊勢暦百姓暦であった。 農業を中心にしてつくられたもので、武家たちの年中行事にくらべてみると、それが暦面にしるされているのはなにほどもない。 日本の農民が伊勢に結びついた原因もこうしたところにあったであろう。 そして農民の知恵は、この暦によって日常生活をどのようにうちたてていくかというくふうの中にみられた。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.105)


    言語生活

     発言代表者
     子供の世界だけでなく、大人の世界も、どこかヒステリックであった。 何か事があると怒声(どせい)をきいたものである。 仕事をしていても酒の席でもよく喧嘩(けんか)があった。 これは考えてみると、人々の言語表現が自分の思うようにできないもどかしさがそうさせていたようである。 思っていることを思いのままに表現できないほど、もどかしいものはない。 それがああしたはげしい感情のたかぶりにもってゆくのだと思う。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.108)


     もとは村のうちには無口な人が多かった。 とくに人のまえへ出ると、まったくといっていいほど口をきかぬ人があった。 主張する自己をもたなかったということになるが、必ずしもそうではなかった。 村内の生産が農業などの単一なものであり、同じようなくらしをたてていると、だれの考え方もほぼ相似たものとなる。仲間の一人がいってくれさえすれば、自分は何にもいわなくてもすむというような気持ちがつよかった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.108)


     ちがった職業、ちがった階層が入りまじっている世界では、お互いが自己を表現しなければならないほど一人一人の立場はちがう。 そういう世界では言葉のやりとりは発達するが、そうでなければ、お互いの世界には自己の立場や自己の主張を説明するような言葉は大して必要なかった。 それが人々を口下手(くちべた)にし、そんなことが、激情にかられたときなどには、そのまま感情を行動にあらわすよりほかに方法をなくしたものであろう。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.108)


     一方、村の中には村人の意見を代表する人とでもいいうるような、表現もたしかであり、村の事情をわきまえた老人が一人や二人はあったものである。 これらの人々は全国ほとんど共通しているといっていいほど、温厚篤実(おんこうとくじつ)で中正な意見をもっていた。
     「あのじいさんにききなさい。 あのじいさんは村のことをみんな知っている。 −−あのじいさんのいうことにはまちがいはない」 などと、村人に教えられてたずねていった相手は、ほとんどそういうタイプの人であった。 そういう人は村内の隅々までのことを知りつくしているのである。 −−しかも決して村を不利にするようなことはいわないし、また村を育てることに心をくだいている。
     一般の人々は、そういう人に自分の言いたいことをいってもらって、安心していたのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.108〜109)


     井戸端会議

     そういう村の人々の品定(しなさだ)めは実は日常たえずおこなわれている。田植え稲刈りミカンとりなどに女をやとうと、必ずいろいろと人のうわさ話が出る大師講(だいしこう)・たのもし講などの集まりも同様である。 男同士の世界とはまったく別で、大半は人のうわさであり、村のトピックである。 しかしきいていて、ただ興味本位ではなしにちゃんと批判のあることに感心する。 ということは、そういう知識が村で生きてゆく上にはぜひとも必要なのである。 社会に新聞や雑誌が必要なように、そして、そういうことが本当にわかっていないと、他人の応対もできないし自己の行動をきめることもできない。このようにして、女は村のすみずみまで知っている。 それを知らない人には住みにくいし、どこまでいっても感情のとけあうことはない。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.112〜113)


     かつて秋田の山村で体験したことだが、三里ばかりの谷に百八十戸の農家が散在しているところで、ある家の主婦がその一軒一軒のドブロクの味の特徴を知っているのにおどろいた。 自らのんでためしたことはないはずである。 いったいどうしてそれを知ったのだろうかと、いまも不思議に思っている。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.113)


     しかもそこまで知っていないと、村の円満(えんまん)なつきあいはできないものだという。 そして、他人を非難したり批判したりするような場合には、通常相手の名を露骨(ろこつ)にいわないシコナ(醜名(しゅうめい))というか、独得なよび方をする。 そして会話の中にも多くの隠語(いんご)がはいり、また比喩がはいる。 これは全国共通といっていい。 そのことゆえに他人の非難もできたので、面と向かって相手をせめることも少なかったが、かげで物いう場合にも悪意にみちたものではなかった。 そうしたところに、ささやかながら村の散文的な文学が存在した。 家々のシコナは各地とも盛んに用いられている。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.113)


     こうした女たちのはなしはたいてい村の長老たちに通じている。 自分の亭主には話さなくてもそういう人には話す。 なぜなら、そういう人が困ったときの相談相手になってくれるからである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.114)


     そういうことによって村の統制はとれていたのである。 土佐の山中で逢った老人が「人間の悪いところばかりあばいていたのでは村はよくならん。 何もかも知っておって、しかも人を傷つけぬように気をつけねば村のくらしはうまくゆかぬものだ……」 とはなしてくれたことがあったが、味わうべき言葉である。 しかも、こうした長老と目(もく)される人々は決して大家の旦那(だんな)ではない。 百姓女たちの相手になる程度の家の老人で、ともに働き、ともに苦しんできた仲間である。それは村の政治の外に立っている井戸端会議はたいていそういうところへ直結している。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.114)


     言葉の権威

     村で尊(とうと)ばれたのは(ことわざ)である。 土地によってはタトエともよびテーモンなどともいっている。 それは一種の警句として、いう人によって一般の心をうった。村の長老といわれる人は警句がうまかったが、これは大ぜい心得ていて、それが村の一つの生き方を規定している事が多かった。 旅をしていると、よく道づれができる。 するとたいてい相手が「旅は道づれというで……」という。 それで不思議に心がなごやかになって、他人めいた感じがうすれる。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.114)


     老人のうちへ話をききに行って少しかたくなっていると、必ずといっていいほど「郷(ごう)に入れば郷に従えだ……」といって、同じ気分にとけ込むことをすすめる。 食べものを出されて手をつけずにいると「遭うたとき笠をぬげだ」という。 そういう言葉が遠慮しようとする心をときほぐする。 ただ強(し)いられたのでは手の出せないような場合でも気らくになる。 またもてなされるほうでも、そういう言葉を一つの契機(けいき)にして行動の調子をあわせるようである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.115)


     昔から農村社会では、酒盛りなどのとき強(し)いあうのが一つの儀礼になっていて、強(し)い方の上手なものが客もちがよいとされたものであるが、そういう場合にも、こうした言葉をたたみかけても、相手が言いのがれできないようにしてしまうのが、一つの手であった。 つまり、相手にイヤといわせないことがもてなし言葉のコツであったが、実はそれにはお互いの融和(ゆうわ)が最初から約束されているといってもよかった。 つまり、お互いの感情が一つにもりあがってくることが何よりも大切だったのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.115)


     若いころ瀬戸内海を汽船で旅行したことがあった。 音戸の港へ夕暮れについたが、その船に人でいっぱいになった伝馬船(てんません)をこぎよせてきた。 乗船の客である。 人々は伝馬が汽船に横づけになると争って乗りこもうとした。 すると伝馬船の船頭(せんどう)が「せきさんな、せきさんな、せえた清兵衛が三年まえに死んだげな」といった。 それはたいへんユーモラスであったが、同時にみんなをギクリとさせたようであった。 人々は急におとなしくなって、順序よく船にのった。 いまもあざやかに印象にのこっているが、こうした言葉が私たちの生活を規制していた力は大きかった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.116)


     村の寄り合いなどでこうした言葉をたくさん知っているものが、要所要所で要領(ようりょう)よくつかうことによって、たいてい意見はまとまっていった。 議論が現実からうき上がると「足もとを見て物を言え」とたしなめたものであるが、実に適切な言葉で、たいていはまた本すじに話がもどったものである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.116)


     たしかに、こうした言葉には権威があった。 また人々も権威を感じていた。 同時に言葉は行動でもあった。 村人の多くの感情も、そういう言葉によって統一せられていたといっていい。 それらの言葉からはみだす感情を人々はもっていた。 それが言葉以外の表現となり、泣いたり、わめいたりになったであろう。 つまり村人の多くは言葉を符牒(ふちょう)として自らの意志や感情を自由に発表するまえに、むしろ言葉に服従していたといっていい。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.116)


     柳田国男(やなぎたくにお)先生の「綜合民俗語彙」は、こうした農民の言葉をとりあげてわれわれに示してくれたものの一つであり、いかに多くの言葉が民間におこなわれていたかを知る手がかりになるのだが、私自身の経験からすれば、むしろ一地域における語彙(ごい)は必ずしもゆたかではなかった。 生活語−−とくに感情をあらわす形容詞などは、かなりこまかに分化はしていたが、それとて、地方によって大きな差があった。 また語られる話にしても、同じ話が何回となくくり返されていたのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.116〜117)


     そして感情のこまかな分化がよろこばれるよりも、お互いが同一感情をもつことが要請(ようせい)せられた。 日本の庶民社会に俳句の流行したのも、もっともなことであるといっていい。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.117)


     変わるもの・変わらぬもの

     こうした村生活の統一は日本では村落生活の内部の矛盾(むじゅん)からというよりは、外からの刺激によってこわされていった。 まず学校教育による「よい言葉」のしつけがあり、ラジオ放送がおこなわれるようになって、ラジオ言葉が人々の言葉を支配するようになってきた。 村の生産も農業以外に多く分化してきた。 そのことが、いきおい新しい感覚と新しい言葉をもたらした。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.117)


     戦後、村々をあるいてみて、若い人たちの間からはいちじるしく方言がきえつつある。それだけではない。権威ある言葉が凋落(ちょうらく)してしまっている相手をときふせるに短い言葉では不可能になってきたことである。 それは一つの進歩であっただろうが、たえず外部のものに刺激され、外部社会によって左右せられる感情生活がうまれつつある。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.117〜118)


     ところが、いまはどの家からもラジオの声がながれでている。 そして、それはどの家もどの家もみんな同じものなのである。家々がうみだす声ではなく、中央からの単一の声である。 村を一わたりあるいてみても、「三つの歌」のあるときは村じゅうみんな「三つの歌」の放送をかけている。人間生活の思想や愛情はこまやかに分化してゆくようにみえつつ、実は逆に、全国的に一つのものに統一されつつあるのだな……としみじみ思う。 同時に古い村の生活も急に遠い過去のものになりつつある。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.118)


     そうした二、三十年まえを遠いものに思わせるようにした力は、戦後、物の考え方が急に変ってきたことにあった。 戦前までは民衆は枠(わく)の中で物を考え、物を見ようとした。 枠をやぶることはいけないことであり、ゆるされないことでもあった。生きていく一つの苦悩は自分を枠の中へ入れることであった。 そういう世界では経験が何より尊(とうと)ばれた。経験をこえることは突飛(とっぴ)なことで、警戒しなければならないことであった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.118〜119)


     それが敗戦による占領政策から、経験による知識の権威というものが根底(こんてい)からつきくずされた。民主主義民主化という言葉が村の隅々までいきわたった。 そして農民はそれを農地解放という事実でうけとり、漁民は漁場解放という事実でうけとった。 山村においても同様で、山林の地主がだれであろうと、それを開拓しようと思えば、政府を通じて開墾地(かいこんち)指定の名目(めいもく)のもとにそこに入りこんで開墾することができ、またその土地を安い値で買いとることができた。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.119)


     明治以来、政府も知識人も農村における古い慣習をつきくずすことには全力をあげてきたのであったが、為政者(いせいしゃ)たちに都合(つごう)のよいものだけは温存せられてきた。 そういうものも占領政策では大きく、つきくずされてきたのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.119)


     といって、農民のすべてが古いものをすてたのではない。 経験にたよるものは新しい主張に対して危惧(きぐ)をもった。 新しいほうの側はいわゆる理論的であったが、自己の行動に自信があったわけでもない。 お互いに自信のない者同士が対立すると、相手を非難し罵倒(ばとう)し攻撃することに終始する。 自分たちの立場が弱くもろいことをカバーしなければならないからであり、いつも自分たちの立場が絶対に正しいと主張することによって、すべてを押し通そうとするようになる戦後の民主主義はこうして出発したのである。 そして、すべてがかつて経験しないことばかりであったといっていい。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.119〜120)


     が、話しあいということは、ただ相手を非難攻撃するだけのものでもなければ、仲間うちだけが仲よくするための便法(べんぽう)でもなかった。言葉には行動の裏付けが必要であり、また対立するものを包摂(ほうせつ)することによって自己の世界を拡大することでなければならなかった。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.120)


    村の民主化

     くずれゆく秩序

     私は昭和二十五年に対馬(つしま)を歩いていたとき、二日もかかって村のいろいろの取りきめのための寄り合いをしているのをみて心をうたれたことがある。 そこではみんなの者が納得(なっとく)のいくまで話しあっているのである。 しかもそれは多数が少数の意見を黙殺して、多数はこうだから、といって多数の言い分を通すのではなく、一人の反対者もいなくなるまでに話しあうのである。(未来社刊「忘れられた日本人」参照)。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.120〜121)


     もともと共同体的な社会では、一人の反対者があっても、その社会は秩序を保っていくことがむずかしいものである。 なぜなら共同社会が成立するには、そこで一応は自立自営していくだけの目安(めやす)と組織が必要で、反対者があると、共同体の運営はむずかしくなる
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.121)


     対馬伊奈(つしまいな)の明治中ごろの記録をみると、村からはじめて徴兵として若者が出ていったとき、その若者をどう待遇したらよいかと協議したものがある。 そのころ兵役は三年であり、若者は戸主になるべきものであるが、軍隊へいっているあいだは村夫役(そんぷやく)へ出ないことになる。 いままで村人で三年も村をはなれていて、またもどってくるという例はなかった。 出ていけばもどってこないことが多かったし、かりに出ていっても、それは村の仕事のために出ていくので、軍隊へいくというのはそれらと事情を異にする。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.123)


     この村では村夫役といわれるものは共有山薪(たきぎ)取り、海の寄藻(よりも)・切藻(きりも)取りワカメ・テングサ・ヒジキ取り、その他網漁をはじめ道普請(みちぶしん)・家普請など、各戸から一人または一人以上出ておこなう共同または一斉(いっせい)作業のことで、一年間通じて百日以上に達するといわれた。一斉作業の場合は、そのとったものがそのまま自分のものになるのであるから、出たくなければ出なくてもよさそうに思われるが、それはゆるされなかった。 そうしたことのために一軒が貧乏すれば、その処置は村全体でしなければならぬ。 つまり、共同体の中では各自が精いっぱいかせいでもらわねば、共同体の維持はできないというわけである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.123〜124)


     そういう中へ一人の男が兵隊として出ていくことになった。彼は村夫役(そんぷやく)に出なくなるのであるから、その権利を失うことになる。百姓仲間からは当然はずさねばならぬ。 ただし彼の家族はそのまま村にとどまるものであり、またお国のために出ていくものであるから、その弟を村夫役に出る代表としてみとめ、三年間代理させようということにきめている。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.124)


     ところがそれから数年後に、別の一人が小学校の先生として村を出ていくことになった。 そのさい先生になったのは本人の意志であり、また先生としてつとめるかぎりは村夫役へは出られないのだし、彼はまた別に月給をもらうのであるから百姓仲間からはずし、村夫役へ出さないようにしようときめている。 そのさい、村夫役が一人減ることになるので、二男で兄の家の仕事をしている新戸を村夫役に参加させようと付帯(ふたい)取りきめをしている。
     さらにまた、村の者が村役場へつとめるようになった場合には、村夫役とりはずしの決議をした例がある。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.124)


     一軒の家で村夫役代表者以外のものが村を出ていく場合は問題ないが、こうして代表者または代表者になるべき者の移動には大きい制約があったし、また、そうしなければ共同体の維持が困難だったのであるが、村夫役をつとめるには支障の多い職業にたずさわる者がふえるにつれ、村夫役の日数が少なくなり、また代理の者を出すようになり、しだいに共同作業や一斉(いっせい)作業がくずれていったのである
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.124)


     村と村のあいだ

     さらに困ったことは、村と村との争いである。 とくに二つの村の間に通婚関係の少ない外海府(そとかいふ)の村々では、二つの村が対立すると、その争いは深刻であった。 つまり理屈だけではどうしても話はつかないのである。 しかしそれまでは、両方から世話焼きが出て話をすれば、何とか解決の方法もあった。 ところが法律ができてからは、古い型の世話焼きでは法律の解釈さえできない。 しかしそこへいくまえに解決したい気持ちはだれにもあって、それには両方の言い分をきいて、どちらが正しいかを判断してもらう人が必要であった。仲裁役(ちゅうさいやく)である。法律によるのではなく、もっと生活に根ざした解決をもとめるのである。 この老人はその仲裁役によく引きだされた。老人が報徳宗(ほうとくしゅう)の信者でウソもいわず、また私腹(しふく)をこやそうとする人でなかったからである。 そしてそれは農民の大半が文字を理解し、また法律がほぼわかるようになる日までつづいた。 と同時に、今までほとんど通婚のなかった二つの村に通婚のおこったことによって、対立する意識が急速に失われていくようになったという。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.135)


     ところが、通婚圏が拡大してくると結婚が華美(かび)になっていった。 村内での通婚時代には結婚はいたって簡単で、結婚式というようなものもないといってよいほどであった。 それが村外からもらうようになると、必ずしも相手の気心(きごころ)を知っているわけではなく、中に立つ人や、相手の家柄を信ずるほかになく、同時に、約束を固いものにするために結婚式が華美になってきたというのである。
    (《庶民の発見 三 変わりゆく村》P.135)


    四 山村に生きる

    山の生活

     山に住みつく

     山の中には、いたるところに落人(おちうど)の村というのがある。 そのなかには平家の落人というのが少なくないが、しらべてみると平家はともかくとして、どうしても山の中で住まねばならないような事情のあった人々である。 この人たちはまず周囲の村ともあまり通婚していないし、往来もしていない。 なかには川上(かわかみ)のほうから椀(わん)がながれてきたので、川上に人が住んでいることがわかったという村もある。 これは川下(かわしも)から谷をさかのぼっていったものではなく、反対側の谷をのぼり、山をこえて谷のいちばん奥へ住みついたものである。孤立は必然的なものであったといっていい。 かりに川下からさかのぼって谷奥に住んだとしても、途中の村が農業を主としているのに対して、谷奥のものは狩猟(しゅりょう)や林業で生計(せいけい)をたてている場合が多かった。職業がちがうということで、周囲の村とちがった生き方をし、そのため通婚しあわないという例もすくなくない。 そういう村ならば、おかみ(為政者)からの税や夫役(ぶえき)をのがれることも、それほどむずかしくはない。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.141〜142)


     落人(おちうど)ばかりでなく、椀や杓子(しゃくし)や曲物(まげもの)をつくる木地屋(きじや)たちは山で生活をたてていたが、それでいて山役銀をおさめることはほとんどなかった。 そのくせ山間の者には、「山七合目から上は木地屋のもの」などといって自由に木を伐って、木地ものの原料にしていた。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.142)


     山に働く人々

     いま一つ山へ積極的に住みついたものに、山の信仰者たちがいた。 高い山の麓(ふもと)や谷間には、必ずといっていいほど山の信仰に関係ある村がみられる。私たちは山を信仰する古い習俗をもっていた神が山の頂(いただき)に天降(あまくだ)りするという信仰は早く『古事記(こじき)』にもみえているが、それは一篇の神話というようなものでなく、ひろく民族の間に生きていた信仰であった。 そのため山をまつり山に祈り、また山にのぼることを職業とする者もすくなくなかった。山伏(やまぶし)とよばれる仲間はそのよい例であり、その数のおびただしかったことも、山をまつる社寺(しゃじ)の分布(ぶんぷ)などからみて十分に推定されるのである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.142)


     このような信仰の生まれてくるについては、古い生活の中にその芽生えがあったはずであるが、その一つとして、われわれの祖先が農耕を主として生活をたてるようになる以前に、狩猟によって生きていた時代があり、そのころの人々の自然に対する畏怖感(いふかん)も原因の一つであったかと考える。 もとより狩は山間のみでなされたものではなく、その初めは平地の原野が多く利用せられたはずであるが、そこがおいおい牧(まき)となり、また畑にひらかれ、水田となってからは、野獣の多くは山間へ追いつめられていった。 と同時に、これを追う者も多く山間で暮らすようになったのである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.142〜143)


     狩人(かりうど)のことを東北地方ではマタギというが、それに近い言葉のマトギが、四国の西南部、愛媛(えひめ)と高知の国境付近の山間に今ものこっているのは、一方の言葉が他方へ流入していったものではなく、もとは広く分布していたものが、狩猟(しゅりょう)の盛んな両地方に残存し、他は消えてしまったものではないかと思われる。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.143)


     木地屋(きじや)もマタギも一定のところに居住することはすくなく、多くは山から山をわたりあるいたのである。 秋田のマタギにきいたところでは、熊を追うて秋田から奈良県吉野(よしの)の山中まで、ほとんど里へおりずにあるくというが、美濃(みの)の木地屋の話では近江(おうみ)・美濃(みの)へかけて、七十年のうちに十一ヵ所住所をかえたという。 このほうは木地にするよい材木をさがしての移動であった。 そんな有り様だから先祖のすら一ヵ所にはなかった。われわれは山中をあるいているとき、よく木の下やくさむらの中にまつる者のない墓を見かけることがあるが、それはたいていそうした山の漂泊者(ひょうはくしゃ)のものである
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.143)


     愚(おろ)か村

     こうした山奥の村には「愚(おろ)か村」の話のつたえられているものが少なくない。 「愚か村」話というのは文化のおくれているために、とんだ失敗をした話である。 その一つをあげてみると、「ある村へ代官様がくることになり、村人は相談して大きな家にとめることにした。 さていよいよ代官がきて、宿となった家では光栄のいたりだと考えて、いろいろご馳走(ちそう)をしてもてなしたのであるが、代官が『便所へ行きたいからチョウズをまわせ』といわれて困ってしまった。 チョウズというのがわからないのである。 あわてて庄屋のところへききにいくと、チョウズとは長い頭のことであるといったので、さっそく村いちばんの頭の長い者をさがして代官様のまえへ出すことにした。 ちょうど、代官様が便所から出てきたところだったので『チョウズをもってまいりました』と長い顔の男をさしだすと、代官様は『そんなのじゃない、手洗い水のことじゃ』といったという」(岡山県柳津郡今村)。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.146)


     これに似た話は全国各地に分布しているが、このほかにも愚か話は多いのである。 葱(ねぎ)をもってこいといって禰宜(ねぎ)をつれていった話、鏡見所(かがみけんじょ)とあるのを嬶(かか)見所と勘(かん)ちがいした話、蚊帳(かや)を逆(さか)さに釣ってとびこんでねた話、人があやまって芋(いも)をころばしたのを見て自分もころばして拾って食べた話、そうめんを鼻にかけて食べた話など、いずれも誤解からくる失敗か、物真似(ものまね)の失敗を笑った話であるが、それらの話の語られているところでは多くの場合、その近くの山村の名があげられる。 栃木県地方の栗山話、新潟県の秋山話、山梨県のうきさ話、鳥取県の佐治谷話、広島のおっぱら話、山口県の山代話、徳島県の祖谷山話、福岡県の野間話寒田話、大分県の津江山話、熊本県の五箇荘話、宮崎県の米良(めら)・椎葉山(しいばやま)の話がこれである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.146〜147)


     若勢市(わかぜいち)

     横手盆地から山一つ南へこえた新庄(しんじょう)盆地は昔から最上(もがみ)と通称されたところだが、ここでは食糧確保のために食う口をへらすことが考えられ、八、九歳から十二、三歳までの子供が関東平野へ年期(ねんき)奉公に売られるふうがあった。 これを最上っ子とよび、これを売りあるくのは多くは女で最上婆といった。 子供たちをにげないように数珠(じゅず)つなぎにして、牛を追うようにして関東平野へやってきたものだという。 このような風習は、さらに南の会津(あいづ)盆地にもまたみられたという。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.152)


    米良(めら)紀行

     米良荘の由来

     私がこの山中に足を入れたのは、昭和十五年二月二十二日であった。 屋久島(やくしま)・大隈(おおすみ)半島・日向南那珂郡(ひゅうがみなみなかぐん)と歩いて、いよいよ九州の旅行を終わるべく最後に訪れたのが米良(めら)であった。 米良についてはそれまで何の知識ももちあわさなかったが、椎葉(しいば)のほうは早く明治末年に柳田国男(やなぎたくにお)先生がおいでになって、この地での狩についての聞書(ききがき)を『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』と題して公(おおやけ)にせられているので、一度は訪れてみたいと思ったのである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.155〜156)


     山民皆郷士(さんみんみなごうし)

     近世初期の検地(けんち)のとき、役人は当然この秘境にも竿(さお)を入れをうってその田畑をはかるために、東臼杵(うすき)郡南郷村よりこの村に入るべく五郎ガ越をのぼった。 そのとき、この山中の武士たちは峠の上で待ちうけて、いとも丁重(ていちょう)に「ごらんの通りの山国で、山は嶮(けわ)しく谷は深い。 その谷には橋らしい橋もない。 たまにあれば葛蔓(くずつる)の橋丸木橋、それを渡りこれを渡り、山また山を越えての御検地は容易であるまい。 そしてもし、みなさまの身の上に異変があってもわれわれには責任がもてない。 むしろ、ここからお引き返しになるほうがよろしくはなかろうか。 見らるるとおり、この峠の上からは家一軒も見えぬ。 もし強(し)いて御入国とあらば、土地の者は気があらいから、どういうことをいたすかわからぬ。 それでも−−というのであればお入りなさい」と挨拶(あいさつ)すると、さすがの役人もだまって引きさがったという口碑(こうひ)がのこっている。 したがって、ついにこの山中は無高のままで明治に入ったのである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.159)


     けだし、このような異例は他になかったかと思う。米良氏の隠然(いんぜん)たる勢力は容易(ようい)に他の人々を近づけなかったし、しかもこの勢力を保持させるために、この山険はきわめて有利であった。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.159)


    芸北(げいほく)紀行

     酒屋

     戸河内はささやかな盆地の中心地になっていて、いわゆるコミュニティー・センターをなしている。三段峡の入り口にあたっている町だ。砂鉄精錬用の木炭は、主としてここの周囲の山々で焼いたものである。 雑木がよく繁り、西方の五里山には、いまもオノを入れたことのない原始林がみられ、その木材を利用して那須のような木地屋(きじや)の村もできていた。宮島シャクシも、もとはこの山中でつくられたといわれている。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.167)


     板ヶ谷

     その板ヶ谷の村をバスで通りすぎる。 山の茂みのなかに、ネムの花の薄紅色が美しい。 山はひっそりしていて、空気がすみ、木々のみどりが深い。 そして、すこしゆるやかな傾斜面には民家がある。 たいてい草ぶきで、周囲は畑、屋敷のうしろの茅野(かやの)にいま茅(かや)が実に美しく茂っている。毎年秋になると、それを刈って納屋(なや)や母屋(おもや)の天井裏にしまっておいて、屋根のいたんだときふきかえるのである。 水田の上にも草刈り場がある。 これは田の肥草(こえぐさ)にするものである。自然に対して農民の生産的な意識の加わった風景は、実に美しいものである。 きちんとした秩序と人間的な愛情を、そこにみることができる。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.168)


     谷から山腹へかかるあたりから、カキツバタの野生が目につく。柴(しば)の花が雑草の中に美しい。ゴーロユリの黄色も目にしみる。 このあたりの山々は、もとクリのすばらしい原生林(げんせいりん)であったが、明治三十年代、鉄道の枕木(まくらぎ)として多くは伐(き)られてしまった。 その残りもクリタマバチにやられて、枯れてしまったという。 その枯木が、ササの茂った山肌に点々としてたっている。ほとんど変化のないと思われる山中の植生(しょくせい)にも、やはり大きな移り変わりはあるのである
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.168〜169)


     樽床(たるとこ)

     ところが、電力会社がこの盆地に目をつけた。 盆地から三段峡に下(くだ)るところにダムをつくれば、広い盆地はそのままダムになって貯水量も比較的多い。 中国地方では、これほど条件のよいところはそんなに多くはない。こうして一度目をつけると、資本家はどんなにしても食い下がってくる。はじめは抵抗が大きくても、いつかは崩れてしまうことをよく心得ている。 ダムの話の出たとき村人はこぞって反対した。 そういう交渉にやってくる者は村へ一歩も入れまいとすごんでみた。 何百年というほど汗水たらしてつちかってきた土地に対する愛着は、はかり知れぬ深さをもっている。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.171)


     しかし補償金話がチラホラ出るようになると、人の心は動揺しはじめた。一千万円、二千万円という金はさか立ちして働いてもたまるものではないだんだんみんなの気持ちがバラバラになり、ついにこの土地を捨てる決心をするまでになった。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.171)


     八幡高原

     延宝(えんぽう)七年(一六七九)の地詰帳(じづめちょう)に、東八幡で柏原新左衛門の家族が三十四人とあるほかは、いずれも家族十人以下で、なかに家族二人が一戸、三人が二戸あるが、他は五人以上で、いずれも自家労力で経営していたことがわかる。 この三十四人というのも下男下女(げなんげじょ)の多かったためのようで、それは村として異質にみえるが、実は村が村としての生命を守るためには、一軒だけつよい力をもち、凶作(きょうさく)などの打撃の支えになってもらわねばならぬためであった。 それが武家のくずれである場合もあったが、たんに階級文化というだけでなく、自然の脅威(きょうい)のつよい社会には、これがどうしても必要だったようである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.175)


     家と民具

     よもぎ屋の家の前の田の畦(あぜ)には、イナグイがならんでいる。 これに横木(よこぎ)を六段くくりつけて稲をかけて干すのである。 イナグイはクリの木がよいという。 イナグイばかりでなく、建築用材にももとはクリが多く、百年以前の家は、ほとんどクリで建てられているという。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.175)


     家普請(いえぶしん)の技術にも古いものが残っている。木鼻(きばな)はその先端がすべてさしこみになっていて、さしこんで先が出ると、そこへカンヌキをしてぬけないようにしてある。 屋根はまず合掌(がっしょう)を組んで、上端(じょうたん)に近い所を削(そ)ぎちがえてでくくり、下方は家の前と後ろのケタに穴をあけて、そこへ木鼻をさしこむ。 こうした合掌を五つか六つたてて、ヤナカとよぶ横木を四尺おきにくくりつけていく。(つま)のほうはムコウダスを三本、棟木(むなぎ)へたてかける。 間隔は下がひろく上がせまくなる。 横木をくくると、その上に一尺五寸おきにタル木をくくりつける。 これに横に(さん)をつけて(かや)をふいていく。 いわゆるサス造りとよばれる古い屋根組み技法がそのままみられる。 家はたいてい南向きで、東の破風(はふ)は煙出(けむだ)しになり、西の破風は破風板をあてる。 破風板には丸い窓があけてあるが、吹雪のときはナンバ(滑車)でこれをしめるようになっている。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.175〜176)


     もとは天井のない家が多く、あっても細い丸木を梁(はり)の上にならべてわたし、その上に土をのせていた。天井板は百年くらいまえから用いるようになったという。家の壁ももとはが多かったが、近ごろ土壁になってきた
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.176)


     ワラビセン(澱粉)をとるフネなど大きな丸太をくってつくったもので、丸木舟そっくりだが、やはり地元の大工がつくったものである。 こうした道具類も中部地方や東北地方の山中ならば、それほどめずらしくもないが、ここはそれらの地方のものと、ほぼ同じ様式のものがのこっている。ツマゴツキツマゴなどとよぶワラグツも、東北のものと共通している。 家財道具をわれわれは民具とよんでいるが、これらの民具を通じての印象は、ここの文化の多くは日本海側から来て、ここへ落ちついたということである。
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.177)


     山間の文化

     しかし南からの文化もみられるのである。 この地方でつかわれていた長床(ちょうしょう)スキなどは、きっと瀬戸内海方面からもたらされたものであろう。肥後(ひご)スキをまねてつくったと思われるものも南から移入したものであろう。 広島県では明治中期、九州からスキ耕の教師をまねいて、しばしば講習をおこなっているから−−。 また、カマも土佐からきているという。 しかし信州ガマもきている。同じ山つづきの作州ガマがきていてよさそうだが、それのきていないのはどうしたことであろうか。文化の伝播(でんぱ)は距離の遠近のみによらないものがあるので、興深いとともに、その理由をさぐるのに一苦労する
    (《庶民の発見 四 山村に生きる》P.177)


    五 村里の教育

    群(むれ)生活の場

     言葉と文字

     村における教育の根本問題は、生活技術の伝承である。 生活技術は大きく二つにわけることができる。 その一つは、若い人々に社会的な存在としての性格をうえつけてゆくことであり、その二は、個人個人が生きてゆくための方法や手段を身につけてゆくことである
     この場合、教育にあっては前者のほうが基本的な意味をもってくる。 つまり、教育と名づける作用は、人間を、社会が必要とするようなタイプにそだてあげることから始まるものであり、社会とは人間のもっているいろいろの経験や知識を集積し保存し継承(けいしょう)することによって、個々の生活はほろびても無限に累積(るいせき)発展させてゆく場である
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.188)


     この生活技術の累積発展のために、若い世代は古い遺産をうけつぐとともに、さらに大ぜいの協力によって訂正と添加(てんか)をおこないつつ、次の世代へ引きつがせなければならない。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.188〜189)


     群と連合体

     さて、人は一人では生きてゆけないものである。 ロビンソン・クルーソーの話はあるが、彼とても完全に一人ではなかった。 本質的には群(むれ)をなし、たすけあって生きてゆかねばすまないものである。山中の一軒家も、社会からきりはなされて一軒きりで住んでいるのではなく、たとえ遠くはなれているとしても、その付近の家々と何らかのつながりによって、くらしをたてているものである。 そして、そのはある一定の大きさが必要であった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.189)


     秋田県仙北(せんぼく)郡平鹿(ひらか)地方の平野は、いまでも家が三戸、五戸と、ばらばらにちらばっているのをみかけるが、こうしたところでは小さい村は飢饉(ききん)などにあうと、たすけあう力がよわく、きわめてほろびやすかった。 このことは、享保(きょうほう)(一七一六−一七三六)のころに出た『郡邑記(ぐんゆうき)』と、それから六十年あまりのちに書かれた菅江真澄(すがえますみ)の『雪の出羽路(でわじ)』とをくらべてみるとよくわかる。 真澄は『郡邑記(ぐんゆうき)』によりながら文化(ぶんか)(一八〇四−一八一八)のころの秋田の農村の姿を書いているが、地域によれば、二戸、三戸の村の半ばがほろびているのをみかける。 こうした地方では、やや家数がまとまったところが親村(おやむら)となっていて、そこに肝煎(きもいり)がおり、その村が中心になって、二戸、三戸ずつの小さい村を枝村(えだむら)として統一していたのであるが、これは小さい村が自らの力で生きぬくには弱すぎたためであろう。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.189〜190)


     このようなことはについてもいえることであった。 愛知県北設楽(きたしたら)郡名倉の二百年にわたる「宗門人別帳」をみていると、一家の人員が四人以下になると、みるみるうちに絶家(ぜっけ)しているのである。 また淡路郡家(あわじぐうけ)の「棟別帳」についている「系統録」という一戸一戸の系図を書いたものをみても、そこに住んだ家の半ばが絶家になっているが、たいていは少数家族であった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.190)


     今日のように社会保障制度も十分でなく、生きることにも多くの不安や障碍(しょうがい)のあった時代に、群をなして住むということは、そういう不安や障碍を克服する上にもっとも大きな効果をもっていた。 しかも群をなすためには、必然的にその秩序が必要であった。 個々ばらばらに住んでいたのでは、群としてこの効果はないばかりでなく、内輪(うちわ)争いのみがおこってくる。
     さて、人々はそれぞれの環境とその文化的な伝統によって、一つ一つの群がそれぞれの生き方をたててきたものであるが、だからといって、一つ一つの群がまだ個々ばらばらに存在したのではなくて、何らかの関連によってある連合体をかたちづくりながら生きてゆく
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.190〜191)


     助けあい制度

     さて、このことから、もう一度日本の古い村々について考えてみると、親村を中心にして、その周囲にいくつかの枝村のある例はいたるところにみられたばかりでなく、同じような二つの村が共同しあっていったり、また村がいくつか連合して惣中(そうちゅう)をつくったりして、助けあう例がきわめて多いのである。 これは小さな個々の力では、凶作や天災から村をまもることがきわめてむずかしかったからであり、より多くのものが連合して助けあうことが、そういう災害をきりぬけてゆくために必要であったことを物語るのである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.192)


     ではなぜ他の村と連合しないで、自分の村の家をふやさないのか、ということになる。 それは生活の手段が農業に限られている中世以前の村では、家だけふえていった場合、耕地がこれにともなわなければ共倒れになってしまうおそれがある。 住民と耕地の関係は、いつもバランスがとれていなければならないのである。 そこで、一村の人口は開墾(かいこん)の余地のすくないところでは、なるべく戸数をふやさないようにしなければならない。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.192)


     村々が人口をふやさないために、いろいろ苦心したという伝承は各地できかれるところである。 沖縄県与那国(よなぐに)島は、琉球(りゅうきゅう)列島のうち台湾にもっとも近い島であるが、そこには人桝田(ひとますだ)というのがあって、島じゅうの人がその田に入ってみて、ちょうどいっぱいならば、それだけの人数をささえる食料が島内から得られることを物語っていて、人々は生存をゆるされるが、もしはみだす者があると、それは島の食料では生命を保障することができないとして、殺したといわれている。 たんなる口碑(こうひ)にしてもいたましい話であるが、これほどでなくても、一定の人数以上に人口がふえると、神さまの怒りにふれて、多くの人が死にたえるような事変がおこると信ぜられているところは多い。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.192〜193)


    伝承の位置

     言葉による伝承

     つぎに村里を一見ある停滞(ていたい)においたものは、村里にすむ人々の多くが文字をもたず、知識や技術の伝承(でんしょう)が言葉によらねばならない場合がきわめて多かったことをも考慮しなければならない。文字による伝承は記憶から失われているものでも、文字を読めば思いおこされるものである。 そしてまた文章をみることによって、考えを発展させてゆくこともできるが、言葉による伝承は、それを正しく記憶する事がまず一苦労である。 同時にそれは何人(なんぴと)にもできるものではない。 よほど記憶のすぐれた者をして、村に伝承してきたもろもろのことを言いつたえさせることがまずなされにければならないが、その場合、記憶はできるだけ正しくなされなければならず、記憶をあらためることは伝承を混乱させることが少なくなかった
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.195)


     記憶を混乱せしめないためには、年々おなじことをくり返す必要が生ずる。 したがって停滞は必然的におこってくる。 そのうえ過去についての時の観念はおそろしくぼやけてくるものであり、過去はすべて昔という言葉であらわされるようになる。 そうした伝承の中に、われわれが新旧の序列を見いだすのは、多くの場合、他の地域の伝承と比較することによるのである
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.195〜196)


     これらの行事の内容はイイキカセという十五章の口頭伝承からなっており、それは文字にして原稿用紙四百字詰八十五枚からなる膨大(ぼうだい)なものであるといわれているが、もともとこれは文字にかかれたものではなく、まったく口から口へつたえられたものである。 それを正月二日に若者入りして、正月十五日のケンサの日までに暗誦(あんしょう)してしまわなければならぬ義務があり、先輩の口授(くじゅ)によっておぼえていくが、たいていは十五日までにおぼえてしまったといわれる。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.196〜197)


     生活技術の伝承

     しかし、熟練をそれほど必要としないもの、生活をわずらわしくしないものは、なお村人一般によっておこなわれた。 死者の埋葬(まいそう)、土木工事共同採取共同祭祀(さいし)を必要とする雨乞(あまごい)、虫送り・病神送り・風祭りのような行事がそれである。 また村人一般が共同しておこなうのではないが、歩調をそろえて個々におこなう行事や仕事も多い。農作業漁業草刈りなどもそういうものに属する。 それはみんなが同じ時期に同じように働くことによって、はずみもついていき、働きがいも感ずるものである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.203)


     このようなことが強い団結のもとにスムーズにおこなわれるためには、そのまえに人々は村共通の観念をまなびとらなければならない。 つまり、社会生活の仕方をまなまねばならない。 しかも文字をもたない世界では、それをまず言葉としてまなび、さらにフォームとして身につけてゆく。 論議をたたかわしていたのでは、古い伝承がほろびるだけでなく秩序がなくなってくる。テキストがないからである。 だから古いものをうけついで発展させるためには、一応それをしっかりと身につけ、また言葉としておぼえ、さらに新しい行為や考え方が付加(ふか)せられることになる。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.203)


     物の理をといて不合理なものを排除して知識をふかめてゆく今日の教育とは、およそちがったものであるが、こうした実践を通して生き方を一つの型として身につけてゆくことをシツケといった。 「躾」と書いたが、これは中国にはない字で、日本でつくられたのである。 つまり日本の庶民社会におけるシツケという感覚は、中国の文字をもつ社会にはなかったのであろう。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.203〜204)


     シツケがよいというのは、その社会における共通感覚を身につけ、動作の上にそつのないことである。 着物を縫ったあと、キチンと折目をつけ、縫いくずれしないように上縫いした糸をシツケイトというが、人間にもそのような、くずれない折り目をつけることがシツケであると思えばよい。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.204)


    シツケとあそび

     シツケ・シオフミ・オカゲ

     このような奉公をシツケ奉公とよんでいるが、大阪を中心にして東は滋賀、西は岡山東部にかけてシオフミといっている。 古くは江戸などでもいっていたようで、「シオふんで来い」といえば、苦労して人間らしい人間になってこいということであった。 シオフミからきた言葉ではないかといわれる。 砂浜のつづく海岸地方にみられる揚浜(あげはま)製塩の潮のくみあげは、もっともつらい仕事の一つであった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.205)


     さて、シツケは津軽では、旧家の特殊な習慣をさしている例もある。その家の主人が正月元旦に口をとがらして若水(わかみず)をくみ、その水をカリコ(奉公人)に一口ずつのませる。 そのあとお祝いをし、餅をたべてはじめて笑う。 また別の家では十二月十二日に餅を背負わせ、みんなで笑う行事がある。 これらのことをシツケといっており、シツケをまもるので、古くから家がつづいているのだと信じている。 これはもと仕来(しきた)りといわれるものと通ずるものだが、一般にシツケといえば、もっと基準になるモラルをその底にもっている。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.205)


     西日本で、その基準になるものは、「モッタイナイ」「オカゲ」「バチ」「義理(ぎり)」「恥(はじ)」などであろう。 これらのなかには、古い時代の祭祀(さいし)儀礼から出たと思われるものもある。バチなどはそれであって、ご飯をこぼすとバチがあたるとか、文字を書いた紙で尻(しり)をふくとバチがあたるとかいうように、そのなかには物忌(ものいみ)の気持ちが強く含まれている。モッタイナイオカゲにも神祭的な感覚が含まれている。 人がものをそまつにしないのは、モッタイナイからであり、われわれが日々を安穏(あんのん)にくらしてゆけるのは、天地や祖先のオカゲだと信じていた。 オカゲというのはとはややちがった意味をもっていた。恩はかえさなければならないが、オカゲをうければ喜びあえはよいものであった。 伊勢神宮へのオカゲまいりなどがそのことをよく物語っている。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.205〜206)


     三つ子の魂六十まで

     シツケは幼時からおこなわれるものである。言葉はシツケによって覚えてゆく。 言葉の一つ一つの意味が何であるかを教えられるのではなく、言葉は言葉としてそのまま教えられ体験を通して、それが何を意味するかを学びとるのである。 人によばれて「アイ」または「ハイ」と答えるのは「アイ」という言葉が何を意味するかを吟味(ぎんみ)するまえに、人によばれたら「アイ」と答えるように訓練づけられる。 あぐらをかくことが不作法で、正座するのが行儀(ぎょうぎ)がよいというのも理由がわかっていてそうするのではなく、あぐらが不作法だと初めからきめてかかるところに、古い伝承方法がそのままみられる。 それは封建制以前からの伝承形式である
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.208)


     言葉づかいや行儀などの訓練は「三つ子の魂六十まで」ということわざの示すごとく、とくに幼少期がたいせつとされたのである。 そして、このような訓練にあたるものは親をはじめ一家の者であり、また子守であった。 東北地方では、満一歳ぐらいになるまで子供は多くエズメの中で育てるが、いくら泣いても(病気以外のことでは)ほったらかしにしておくと辛抱づよい人間になると信じられており、むつきをたびたびかえてやれば、きれいずきの人になるとも信じられ、それがよくまもられているが、西日本では子供はもと子守の背中で大きくなった。子守のよしあしが子供に影響するというので、伊豆新島や三宅島では、子守をたいせつにするふうがあるが、瀬戸内海地方でも、子守は多く親類の年長の子供をやとうた。 貧しい家の子が子守奉公にゆく風習は各地にひろいが、それとて子守はだれでもよいということはすくなかった。 年寄りのいる家ならば、たいてい年寄りが子守にあたったものである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.208〜209)


     親の職業につながるあそび

     このようなことは、山間の杣稼(そまかぜ)ぎの村でもみられる。 奈良県吉野山間の子供たちのあそびは、小さい流れをせきとめて小さな木片(もくへん)をうかべ、クダ流しイカダ流しをまねているものが多いが、十歳をすぎた子供たちは、小さいトビグチ木馬をつくってもらって、集材・運材のまねをしてあそんでいるのをみかける。 これらの作業はもともと多くの危険をともなうもので、直接に作業の手伝いをさせることができないため、物まねによって作業のコツをおぼえさせようとするものであろう。 これは雪国の子供がソリ遊びによって、ソリひきの技術を身につけるのと通ずるものである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.213)


    一人まえの完成

     一人まえの意義

     職業は本来個人に属するものであり、一人一人のくふうによって伝承せられた古いものが、さらに発展してゆく場合がきわめて多い。 それまでに進むまえに、旧来の技術をまず身につけなければならない。 そうすることを「コツをおぼえる」とか「コツをのみこむ」とかいう。コツをのみこめば、まず一人まえである。コツをのみこむというのは、体験を通じて本質を知ることである
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.214)


     まず農耕についてみてゆくと、田をうちおこして畝(うね)たてができ、肥桶(こえおけ)をかつぎ、牛馬をつかうことができるようになれば一人まえで、十六、七歳になればその能力をもつ。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.214)


     漁撈(ぎょろう)ならば、船の櫓(ろ)を十分に押すことができ、曳網(ひきあみ)ならば大曳網をみんなにまじって腰と肩をそろえてひくことができるようになれば一人まえである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.214〜215)


     ならば、糸つむぎ機織(はたおり)ができるようになり、着物がぬえるまでになれば一人まえであった。 中国地方では、女の子守をするのはたいてい十二、三歳までで、十三歳になるとはじめて機を仕立ててもらって織ることをならったという。 そのときは隣り近所の女をまねいてかんたんなご馳走をつくり、娘としての門出(かどで)を祝ったものであるという。 そして機織裁縫の技を身につけたが、十七、八歳になると、ひととおりのことはできるようになり、機も二日に一反は織れるまでになった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.215)


     一人まえの労働量については、寛政(かんせい)年間(一七八九−一八〇一)の白河藩(福島県)のものがあるから、その一部をあげてみると、一日の労働量−−すなわち一人まえは、

      (男) (女)
      畦塗(あぜぬ)り(麦田) 四十五間(けん)
      同 (水田) 六十間
      田荒起(あらお)こし 六畝(せ) 四畝
      田ならし 一反(たん) 六畝
      苗代拵(なわしろこしら)え 三斗播(とまき)(一畝)
      田植代 二反
      田植え 二畝 二畝
      田の草取り 六畝 五畝
      稲刈り 四十束(たば) 三十束
      俵拵(たわらこしら)え 六俵(ぴょう) 四俵
      縄(なわ)ない 十五房(ふさ) 十房
      稲こき(竹歯扱) 三俵 二俵
       (鉄歯扱) 五俵 四俵
      米つき ニ俵 一俵
      牛耕起こし 四反
      同 ちらし 七反
      畑荒起こし 五畝 四畝
      くれ砕き 二反 一反
      麦刈り 四十五束 三十束
      麦搗(つ)き 一・五俵
      綿摘(つ)み 二・五〆(しめ) 二〆
      夜なべ菰(こも) 四枚
        ぞうり
      二足(そく)
        わらじ
      三足
        荷なわ
      一掛(かけ)
        なわ
      百間(けん)
        馬くつ
      五足(そく)
        稲こき
      二駄(だ)
        さんだら編み
      二十俵
        大豆打ち
      一駄
        糸ひき
      十匁(もんめ)

    となっている。 この標準は隣国(りんごく)の常陸(ひたち)(茨城県)でもほとんど変わっていないし、その他の地方もほぼ相似たものであったが、農具が発達するにつれて、田の草取り稲こきなどは、いちじるしく能率が上がるようになってきた。 が、いずれにしても農耕についての男女の一人まえとしての能力は、ほぼ右のような有り様であり、力のあるものは、さらにこれ以上の能率をあげたのである。力持ちについてみるならば、米一俵を負えばだいたい一人まえと見たてた。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.215〜216)


    文字の教育

     文字の必要性

     村の中ではもともと文字は必要としなかったが、村と村との交渉、農民と農民以外との交渉にあたっては、契約が重要な意味をもってくる。 契約には契約のしるしとなるものが必要であり、文字はそのしるしとしては、もっとも確実なものの一つであった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.221〜222)


     村の中で文字を必要とするものは、他村民との商売をするものか、政治的な交渉にあたっている村役人のたぐいであった。 しかしその村役人たちすら、中世の終わりごろまでは文字を解するものはすくなかった。 これは中世末まで百姓文書(ぶんしょ)のほとんどのこっていないことによっても知ることができる。 かりに百姓文書がのこっているとしても、百姓自身が書いたのではなくて、文字を解する者をやとってきて書かしめたものが多い。 対馬(つしま)などあるいてみると、いまもこのおもかげをとどめている村がいくつかのこっている。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.222)


     村人の大半は文字を解せず厳原(いずはら)の城下から文字を解する者が書役(かきやく)としてやってきて、そのままおちつき、明治になってそれが小学校の先生になったり、村の面倒な書類をつくる仕事をひきうけている。 また能登(のと)の漁村の幕末の文書(ぶんしょ)をよんでいると、この村には文字を解する者がおらず、自分は他村からやとわれて、書役としてきたものだが、できるだけ忠実に村のことを書きとめておきたいと、もののはしに書いてあるのをよんだことがある。 今日、村々にのこっている庄屋文書なども、そうした書役によってしるされたものが多いと思われる。庄屋の名はかわっても、書体が一向かわっていない文書など、書記が別にいたよい証拠であると思われる。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.222)


     寺子屋の発達

     その教科書も多くは往来物(おうらいもの)であった。 往来物というのは、書翰体(しょかんたい)をなした文章であって、今川状(いまがわじょう)・商売往来庭訓(ていきん)往来消息(しょうそく)往来証文(しょうもん)・百姓往来(ひゃくしょうおうらい)などが古いものである。 それらは文字による意思表示の方法を教えるものとして興味ふかい。 このほか諸職往来大工番匠(だいくばんしょう)往来問屋(とんや)往来呉服(ごふく)往来諸国名産往来地方往来などがあり、こうした手紙文を通じて生産に対する知識を学びとったのであるが、職業とともに多いのは地理関係の往来物で、駿府(すんぷ)・江戸洛陽(らくよう)・摂津(せっつ)・大和(やまと)・東海道中山道(なかせんどう)・隅田川都(みやこ)名所松島箱根など、重要都市・街道・名所について書いている。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.223〜224)


     また庶民のモラルをのべたものには、童子教(どうじきょう)・実語教(じつごきょう)・孝行(こうこう)往来養育往来があり、女のためには女大学百人一首女今川(いまがわ)・女庭訓(ていきん)往来などがあった。 このほか、いろは歌名頭(ながしら)・国づくしなども字をならう手段としてまず教えられたのであるが、これらの教科書を通じて実用的なものが尊(とうと)ばれていたことを知るのである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.224)


     しかも寺子屋の設立は、文化(ぶんか)−安政(あんせい)(一八〇四−一八六〇)の五十余年間に圧倒的に多く、その数は七千をこえたとみられ、江戸時代に存在した寺子屋の八割はこの時期にできたといってもいい。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.225)


     文字教育の進展

     学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることであったが、それは庶民自身がその子に要求する教育とはちがっていたということにおいて大きなくいちがいがあり、しかも両者の意図が長く調整せられることがなかったために、学校における道徳教育が形式主義にながれ、村里のそれが旧弊(きゅうへい)として排撃せられつつ今日にいたったために、村人たちは苦しみつづけてきたのである。 つまり明治以来の日本人の道徳教育が、日本人の日々の民衆生活の中から必然の結果として生れたものでなかったということにおいて、公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象を生みだすにいたった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.228)


     それにもかかわらず、文字による教育は人々を記憶にもとづく伝承から解放し、思考と探求を自由にし、国全体の文化を飛躍的(ひやくてき)にたかめていった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.228〜229)


     それは一つには、村里の慣習や教育を学校教育が目の敵のようにして排撃したことによるともいえる。 そして民衆は自らのもつ文化を否定することによって、国家的権威に服していったのである。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.229)


     しかし学校教育そのものの中に、日常生活の機微(きび)について教えることはなかった。 それらは依然として村里生活の中にあったといっていい。 祖父母が孫に、親が子に、村民が一人一人に村里生活の規範として教えるよりほかに方法がなかった。民話の伝承なども学校教育以外の場でなされるよりほかに方法がなかった昔話や盆踊りは下品であるといって学校でとめた例も少なからずあった。 そのことから農民たちは忘れることに、どれほど努力したかわからない。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.229)


     いまそれがもう一度ほりおこされようとしているが、それは農民の生活の手引きとしてではなしに、新しい価値を見いだし、また意義づけようとする人々の手によってあった。
    (《庶民の発見 五 村里の教育》P.229)


    六 民話と伝承者

    生活規範としての民話

     民話と昔話

     民話という言葉は新しい。 それはフォルク・テールズの訳語として使用せられはじめたものと思われるが、日本ではまだ十分に定着していない。 つまりその概念がはっきりしていないのである。 民話に近い言葉として昔話がある。 主として柳田国男(やなぎたくにお)先生によって使用せられ、したがって先生の系統に属する学徒の多くがこれをつかっている。 しかしそれ以前には童話という言葉も用いられ、おとぎばなしともいわれてきた。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.230)


     戦前に民話という言葉をつかった人に関敬吾(せきけいご)氏がいる。 氏の『島原半島民話集』がそれである。 しかし氏の民話どこまでも昔話の意であり、伝説と区別していた。 そして伝説のほうは「島原の伝説」と題して雑誌「旅と伝説」に久しく連載していた。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.231)


     昔話は雑談ではない。その場で話しすてられ忘れられるような話は昔話ではない。語りつがれてゆくものでなくてはならない。 しかもそれは文字をもたない世界で語りついで、記憶の喪失(そうしつ)は同時に伝承の喪失になるから、できるだけ記憶を失わないために、一定の型とモチーフとリズムをもって語られる。 そしてその冒頭に「」という言葉がつく。 その上その話は民衆の生活感情にピッタリするものである。 感覚的に異質なものはうけつけない。 だから昔話の中には武勇談は少ない。 それは語り手が多くの場合農民だからである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.231)


     『平家物語』が民間で語られていたことは『天草本平家物語』でもわかるが、それは琵琶(びわ)をひきつつ語るものではなく、もっと散文的になっているが、これを昔話と思っているものはなかったであろう。 なぜなら『平家物語』の流れをくむ話は民間にいまも語りつがれているが、それを昔話と思っている者はないからである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.231〜232)


     人は多くの口頭(こうとう)伝承をもち伝えてきているが、そのなかで農民には農民のみに必要な物語があって、それが「昔」というかたちで語られたものと思われる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.232)


     伝説

     伝説は、これとややおもむきを異にする。それはまず定型がない。 しかし話の媒体(ばいたい)になるものがある。 山川鳥虫草木のようなものをはじめ、家・人その他あらゆるものについて話されているのである。 伝説は昔話のように農民のみが必要とするようなものではなく、武士町人もみな語り伝えている
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.232)


     これが家に関するものについてみると、家の中に伝承せられているものと、周囲の者がある家について語り伝えているものとがある。武家の社会には多くの伝説が伝わっている
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.232)


     いったい、なぜこうした暗い話が伝わっているのだろうか。 そしてこれは、この町のみの現象なのであろうか。 どうもそうではなさそうである。 気をつけてみると、武家の家にはそうした暗い話が実に多いのである。 それらは、その家がその土地から退転(たいてん)してゆくことによって多くは消えてしまっているが、杵築のように残っている例もある。 農民の目には武士もまた特殊民としてうつっていたことがはっきりわかるのである。 そして権力をかさに着た行為は感覚的にゆるせなかった。 このことは昔話のほうをみるとよくわかる。昔話のほうでは権力の座にいる者や物まねするにせ者はたいていカリカチュアされているか、失敗することになっている。 昔話の中では弱い者いじめはゆるされていない。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.233)


     由緒書(ゆいしょがき)と系図

     家に関するいま一つの伝説は、その家々で語り伝えられたものである。 古くからつづき、かつてははなばなしく栄えた家ならば必ずといってよいほど由来談(ゆらいだん)をもっている。 豊後(ぶんご)の緒方(おがた)一族に関する祖母岳のヘビとその家の婚姻(こんいん)の話などは、今もひろく語り伝えられているが、その筋目(すじめ)の家では祖母岳大明神(だいみょうじん)をまつり、また由来記を保存しているのをみかける。 つまりそれは家の祭祀(さいし)につながるものであるが、同時にそれは今は衰えている家も、かつてはすぐれていたということを権威づけようとするものであった。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.233〜234)


     語りつぐべきもの

     しかし昔話がほんとうに生きていた時代には、語る人と語る場所・時などにはきまりがあった。 いまでも「昼むかしはネズミが笑う」といって、昼の日中は昔話はするものではないといっている老人もすくなくない。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.237)


     北上山中の場合も、もっともすぐれた伝承者は、巫女婆様(みこばあさま)といわれた人であったというから、オシラ神などのまつりのとき語られたものと思われる。 近ごろ出た『とんと昔があったげど』(未来社刊)にも新潟県古志郡池谷では、小正月の十四日の晩サクヅケの予祝(よしゅく)儀礼のときに、おとな同士が輪になって昔話を語りあったという。 また鹿児島県黒島では昔話を語る日がきまっていて、十二、三歳の子供たちが伝承者の老人の家をたずねていって、着物を頭からかぶりながらきいたという。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.238)


     伝説を生むもの

     さて、ひとりによって信じられるものが公の場で公認せられると、村全体のものになってくる。 公の場とは村の中での集りである。 村の中には、伊勢講(いせこう)・観音講(かんのんこう)・庚申講(こうしんこう)・甲子講(こうしこう)・太子講(たいしこう)・大師講(だいしこう)などもろもろの講がある。 その中には御師(おし)や遊行僧(ゆぎょうそう)などによって始められたものもあるが、日待ち月待ちのように、もっと古い自然信仰に発するものもある。 人々はそうした集まりの夜に話をしあう。
     そうした会合(かいごう)へ何回となく参加してみて、もっとも多く耳にしたのは、やはり信仰談であり奇瑞談(きずいだん)であるが、「そういうこともあろうか」と、みんなが承認しあえば、村人はそれを話題にしていくようにみうけられた。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.242)


     文字と伝承

     では、どうしてそんなにまでして、現実の生活の中に過去を生かさなければならなかったのであろうか。 実はそれが生きるための具体的な規範になったのである。 ということは、そのように思い出を必要とする過去は決して永遠のものではなかった。思い出す必要のなくなるときは、また消えていったのである。 たとえば毛利藩(もうりはん)が天保(てんぽう)年間に編集した『風土注進案(ふうどちゅうしんあん)』は村々の現状を明細にしるした膨大(ぼうだい)な資料であるが、その中にみえる伝説など、わずか百年あまりのあいだに大半消えているのに気づくのである。 と同時に、新しい話が無数におこっている。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.243)


     このことは江戸時代に記憶せられた由来書などにも共通した現象で、そこには古代中世を通じて先祖の活動がしるされているが、記事を通じて古代や中世的なものを感ずることのできないのは、近世に入って近世の感覚で書いたということである
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.243)


     しかし、いったん書きしるされると、それは動かないものになる。 忘れていても読めば再生せられてくる。 その固定化が逆に伝説−−民衆の歴史−−を固定化し、生活と遊離(ゆうり)するようになったのであった。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.243)


     民衆のあいだにおける過去はどこまでも現在の生活を権威づけるためのものであったが、民衆の生活感情を育てあげていったのは昔話であった。 昔話は伝説や世間話のように、はげしい変化はなかった。 しかし、これも文字の普及が特定の話者を必要としないまでになってき、文字を解しない子供たちのための話になりさがったのである
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.243〜244)


     民話を生む人々

     村の中を流れている中核をなす思想や人間の行動は、おそらくこうした健全で順応性(じゅんのうせい)のあるものであったと考えるが、それが外部との接触によって、その秩序が改められたりこわれたりしはじめると、それに一種の軋(きし)みを生ずる。 それは外部との接触面においてまずおこってくる。 それが外からくるものに対して抵抗または順応のいずれの形式をとるにしても、村の内部における軋みそのものは共通した現象をとることが多い。 なぜなら長いあいだかけて築きあげた世界は、必ずしも新しい文化をうけ入れることを予想して組織せられたものではないからである。 むろん徐々にその訂正が内部でおこなわれてきたとしても、外部から急激な変化を強(し)いられた場合、ただちにこれに対応できないのが村の実情である。
     そうした場合に人々に考える余裕を与えたり、共通の話題を提供してくれる契機(けいき)になったものが民話であったと思う。 ここにいう民話は広い意味での民話である。山代さんの本にある老婆が耳の不自由なまねをして酒と竹をききちがえて、役人を竹のある山に行かせておいて濁酒(どぶろく)の始末をさせる話などそのよい例であるが、このような話は、すでに機智(きち)話として昔話の笑い話の中の重要な部分を占めていたものと同系の話である。 しかもこのような機智話は各地にひろく分布しており、豊後(ぶんご)の吉四六(きっちょむ)さんなどは有名な主人公である。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.247)


     こうした笑い話にかぎらず、出世譚(しゅっせたん)・長者没落譚(ちょうじゃぼつらくたん)・婚姻譚(こんいんたん)・継子譚(ままこたん)・愚(おろ)か聟(むこ)などをはじめ、物語ふうに語られている数々の話が、すこしずつかたちをかえつつ全国に分布していることは考えてみなければならぬ重要な問題をはらんでいる。 というのは、これらの話がほとんど文字を媒介(ばいかい)せず、また命令せられたり、強(し)いられたりしないでごく自然にいきわたっている事実である。 そこにはこれらの話を理解し、また興味をもちうる共通した生活と意識の場がなければ、このような現象はおこらない。 そして、それらの話のある部分はこわれていながらも、時代に応じて再生してゆく力ももっている。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.247〜248)


     民話は生きている

     われわれは、そういう話の中から昔話をかぎわけ、見つけ、それを整理して雑誌にものせ、また書物にもする作業をしてきたのであって、今日書物になっているようなかたちで昔話が存在していたのではない。 それらは伝承のある部分の整理せられた姿である。 そしてその整理せられたたものの中から問題をみつけようとしたのである。 むろんその中に多くの問題のあることは否定できない。 類型による整理、話の分布、モチーフの変遷(へんせん)過程などが、それらによってなされていく。 このような作業は関敬吾氏が永年かかってとりくみ、昭和二十五年から三十三年まで九年の歳月を要して、『全国昔話集成』全六冊を公にし、日本における昔話の全貌(ぜんぼう)とそのタイプを明らかにした。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.249)


     ところが最近、垣内稔氏によって採集せられた中国地方の民話が、つぎつぎに「中国新聞」に連載されているものをよんでみると、いわゆる純粋の昔話はすくなくて伝説かまたは狐狸譚(こりたん)が多いのである。 しかもこのような話は、私の想像をこえるほどに豊富にのこっている。 このことは同氏のあつめたものがさしあたって百五十話ほど、『安芸(あき)・備後(びんご)の民話』(上・下)として未来社から刊行せられたことからも推定できる。しかしこれで芸備(げいび)の民話がつきるわけではない。 採集すれば無尽蔵(むじんぞう)といってもよいのである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.249〜250)


     さて、さきにもいったように、書物に集録せられた話は、その一つ一つが孤立して話される場合はすくなく、多くの話がつぎつぎに語られるものであって、それが昔話である場合もあれば、たんなる世間話(せけんばなし)である場合もある。 またその語られる場もいろいろあるし、話者によって話の内容もかなりちがうものである。 そして、きき手が必ずしもつぎの時代の話者となるともかぎっていない。 が、多くの場合、きき手はそれらの話の一部を利用して、自分の話題を豊富(ほうふ)にするとともに、相手と共通の感覚に立って話をすすめる手段にする
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.251)


     たとえば『昔話の研究』の最後にある「隣で餅をついている音をきいていて、爺はあの餅をもろうたら煮て食うといい、婆は焼いて食うとけんかをしていた。 隣のおばさんが来ての話を聞けば藁(わら)を打っておったんと」という笑い話は、趣向(しゅこう)をかえていろいろに語られているし、また、とりとめのない世間話には主人公を村の何某にきめると実感も出てくる。人のエピソードといわれるものにはこうした話も多く、それがどれほど真実であるかはわからないが、それにしても、その人の半面をつたえる場合がすくなくない。 「江戸の小咄(こばなし)」に、田舎者が町へ出て八百屋の店先で蓮根(れんこん)をみて、「この大根は実に上手に穴をあけてある」というと、そばにいた娘が「お父さんそれは蓮根ですよ」とたしなめた。 すると、おやじは「蓮根にしても上手に穴があけてある」という話が出ているが、これが私の村では半可通(はんかつう)の実在人の話として語られていることがあった。 こうした事実らしきウソが一つの事実に付着しつつ語り伝えられ、話題となっていく例は多いのである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.251〜252)


     庶民生活を知るために

     が、いずれにしても世話話に興(きょう)をおぼえて筆録(ひつろく)しようとした人のあったことは事実で、昔話が語り口調(くちょう)に一定の型をもって伝承せられる話は一般に固定する。 「書物にはこうある」と、書物にあることをいつも事実と考えるようになるからである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.253)


     しかし、こうした話し捨てられる噂話世間話は、多くの場合、書きとめて保存することがなくなった。 とくにその噂話が事実と異なる場合には、それは間違いとして斥(しりぞ)けられる場合がすくなくない。 それにもかかわらず、噂話は民間ではなお盛んにおこなわれている。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.253)


     これらの噂話も実はそのまま記録して、事実と比較しどのように虚飾化せられていくか、また、それにはどうした法則が存在するかをみていく必要があるが、噂話・世話話の学問的な取り扱いはまだおこっているとはいいがたい。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.254)


     さて、以上のべてきたような昔話伝説世間話のようなものを一応民話と規定しえると思うが、このほかに、口頭によって伝承せられるものには民謡ことわざなぞ(となえ)え言(ごと)・語りものなどがあり、それらはいわゆる口承(こうしょう)文芸とよばれるものであるが、昔話・伝説・世話話などとともに口頭で伝承せられることを条件とするために、深い親戚関係をもっている。 これらのものも昔話などとからんで話題になる場合がすくなくない。 とくに伝説は民謡になりやすい性質をもっている
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.254)


     さらにまた、これらの口承文芸はそれが社会的な行事や個人的な行動にともなっている場合がすくなくない。 たとえば盆踊りにおける口説節(くぜつぶし)のごときは、それが一個独立した物語でありながら、をつけてうたわれるとき、踊りをともなってくる。 また昔話の語られるとき、昔話以外の口承文芸が同時に語られることもすくなくない。垣内稔(かきうちみのる)氏は芸備(げいび)山中において、昔話採集にさいし多くの「わらべうた」をあわせて採集している。松岡利夫氏はまた多くの民間信仰の伝承をも採集しておられる。つきものの話なども、こうした口頭(こうとう)伝承採集の途中、世間話として語られる場合がすくなくない。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.254)


    農民の発見を

     農民と知識人

     農民は気の毒なもので、ほうぼうからいろいろにいためつけられる。 この書物によると、農民は権力者から圧迫され搾取(さくしゅ)され、そうしたことから今日採集されたような民話をもってきたのだということになっている。 それは一応そうした面もあったであろう。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.260)


     では民話をほろぼしつつあるものも、外からの圧迫といっていい。 農民一般が農民の立場から正しく発言をゆるされたことはいまだかつてない。 明治・大正へかけては、中央や官僚のシステムに従わされるために、自分らのもてるものは旧弊(きゅうへい)とよび陋習(ろうしゅう)と考えさせられて、すてることを強要せられた。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.260)


     戦後はまた、封建的という言葉のもとに知識人との間の感覚のずれたものは知識人から憎悪(ぞうお)をもって否定されようとしている。しかも困ったことに、進歩的な人たちは農民の味方のような顔をしている。 農村にも進歩的な人は多い。 しかし、その人たちは半(なか)ば農民ではない。 本当の百姓をしようとしているよりも、洋服を着たがり、自分も知識人といわれたいものが多い。 そして、本当の百姓はいよいよ無口になり、いよいよ真剣に土ととりくんでいる。 しかしそこにはまだ民話が生きている。 民話は農民が自分たちの生活を愛することによって保持した。 戦争中も戦後も無数の民話をつくりだしている。 しかし、それを知識人に話すと笑われるのであるただし悲惨(ひさん)な話や抵抗した話だけはとりあげてくれる。 そして自分達が封建的であるということが、何か深い罪悪をおかしているように思いこまされている。 だからそれはそれとしておいて、新しいものに従おうとしている。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.260〜261)


    民話を保持する世界

     文字なき社会

     まず、明治自体以前において文字を解するものはきわめて少なかった。 今日の歴史学は多く書かれたものを対象としているけれども、江戸末期3千万の大衆のうち、文字を解するものは十分の一にも達してはいなかったと推定せられる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.263)


     今日、村々の経済的な調査をやってみると、江戸時代の数字がまったくでたらめといっていいほど、実数とくいちがっているのは、たんに租税のがれのためのみではなくて、文字をもつ世界と一般農民の世界とは、その生活のあり方について別個なものをもっており、異質なものを農民生活の中へたち入らせようとしなかったからだと思う。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.263)


     昭和の初め、私が小学校の教員になたとき、初めて仕(つか)えた校長は独学で教員になり校長にまでなった力行型(りっこうがた)の人であったが、役所から命令質問布達(ふたつ)がきても回答復命書(ふくめいしょ)を書いたことがなかった。 「暇な奴らの相手はしておれん」といって、督促(とくそく)の赤紙がきても紙屑籠(かみくずかご)に入れていた。 それでいてその時代には校長がつとまり、表彰もされていたのである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.263)


     そして、こういうことは最近までまだみられた。 村の役場の書類をしらべてみると、産業統計上の数字などまったく整っていないところが多い。 ところが県の統計書などには、ちゃんと数字が出ている。 どこでどうして辻褄(つじつま)をあわせたものか、とにかく上にゆくほど、もっともらいしい数字や報告ができあがっている
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.263〜264)


     現実に生きている村は、そうした書かれたり、報告せられたりする文字の彼方(かなた)にかくれているのである。 そして村を生き生きさせ、村を動かしてきたモラルや規則は村人自体の生活の中にあった。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.264)


     文字をもたない世界にあっては言葉は神聖なものであり、威力あるものと考えられた。呪言(じゅげん)が相手の人間に不幸を与えると考えたのもそのためである。 また、人々が不幸について語るとき「これは自分のことではないが……」と前置きして話しだすのも、その不幸が身にかからぬためであった。 同様によい言葉が幸福をもたらすものであると考えた。 このような考え方が、言葉に含みをもたせたのである。 特に凶事(きょうじ)や不幸について、それを露骨(ろこつ)に表現することはすくなかった。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.264)


     村における隠語(いんご)もそうした性格をもっていた。 たとえば放火のおこなわれたときも「何某は放火した」というような言い方をしなかった。 「赤馬を放した」といった。 「どうも雨らしい」といえば「どうも死にそうだ」ということを意味していた。 せまい村の中で秩序を保っていくためには、一面またそのような配慮も必要だったのである。 そして村里における教育は、一つの村落共同体が共有している知識をまず身につけることであった。 それは村里の中に存在する言葉を覚えることからはじまり、村落のもつ人生観を学びとることが最初の条件とされていたからである。民話の中には多分にそのテキスト的な要素が含まれていた
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.264〜265)


     昔話の特色は何回も何回もくり返して話されたことである。 そしてその中で人を喜ばせたり、悲しませたりするところもちゃんときまっていて、そこを省(はぶ)いたりいい加減に話したのでは、聴衆は承知しなかった。 話をはじめてきく喜びではなく、おなじことをくり返してきくのは、それがある安定感を与えてくれる喜びであった。 それは農民生活の年々歳々のくり返しとも共通したものであるといえる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.265)


     そして、そういうくり返しが一方にあると、一方では耳あたらしいものが新鮮なひびきをもった。 いわゆる世間話というものが喜ばれたのはそれである。 この場合、自分たちに縁のないものは容赦(ようしゃ)なく忘却(ぼうきゃく)していった。 彼らはこうした自分に必要なものだけを身につけた。 文字をもたない世界では伝承すべき知識には取捨選択(しゅしゃせんたく)が必要であり、それは伝承され記憶せられた知識が基準になったのである。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.265)


    伝承者の系譜

     昔話の発掘と研究

     明治四十三年、柳田国男(やなぎたくにお)先生は岩手県遠野(とおの)の人、佐々木喜善氏から郷里の話をいろいろきかされ、これを筆記して『遠野物語』と題して公刊された。 再版の序文によれば、三百部ほど刷って多くは知友に頒(わ)けられたというから、一般市場にはほとんど出なかったが、一人の青年からいままで文字にもならなかった話を何百というほどきいて驚嘆と感慨(かんがい)を深くしたのである。 その初版の序文にも「我が九百年前の先輩今昔物語(こんじゃくものがたり)の如きは其当時に在りて既に今は昔の話なりに反し此は是目前の出来事なり。 仮令(たとひ)敬虔(けいけん)の意と誠実の態度とに於ては敢(あへ)て彼を凌(しの)ぐことを得と言ふ能(あた)はざらんも、人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩(こ)ひたること甚だ僅かなりし点に於ては彼の淡白無邪気なる大納言殿却(かへ)つて来り聴くに値せり」と感動のほどをしるされている。 この感動が先生を民族学へ向かわしめた一つの大きい動機になっていると考えられる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.276)


     そのころまで、日本では文字はいちじるしく尊(とうと)ばれ、文字で書かれたものは批判なしに信じられるほどの威力をもっていたが、言葉で話しすてられるもの俚諺俗語(りげんぞくご)としてかえりみられなかった。 そして一般民衆は無知蒙昧(もうまい)なものと考えられていたのである。 しかしそこには、民衆の生きぬくための精神的なエネルギー源となる文化があり、秩序(ちつじょ)があったのである。 しかもそれは深い根と、想像をこえるほどのひろがりをもっていた。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.276〜277)


     われわれはその中から昔話をかぎわけて分類する。 つまり、そこにあるものは雑多(ざった)なものなのである。 しかしたんに雑多ではなかった。 それはちょうど連歌(れんが)や俳諧(はいかい)のおもむきに似ている。 一つ一つの話は独立しているが、何らかのかかわりあいをもちながら話しあわれるのがふつうである。 こうした話題となるもの、それは村人たちがその祖先から語りつたえたもの、村人以外のものがもたらしたものを織りまぜて、その生活のリズムにあうものにしたのである。 そこでこれらの民間に伝承せられる話は、どういう系譜(けいふ)をもってそこにつたえられているかを明らかにすることも重要である。 ここでそういう問題にふれてみたい。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.278)


     神の声をきく女

     今日のように文字のもつ比重が大きくなってみると、われわれはつい文字をもたなかった社会をも文字の世界の感覚で律しがちになるが、文字をもつ社会と否(いな)とによっては社会構造や伝承の方法に差がみられてくる。 文字なき社会、とくに農耕社会にあって尊(とうと)ばれる者は神の声自然の声をきく能力をもった者であった。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.279)


     農耕に豊凶(ほうきょう)をもたらすもっとも大きな動力となるものは気温と天候であった。 これを予知し、また避けることができるとすれば、たえず豊作がもたらされる。 そして豊作世がよいということは、もともと一つことであった。 しかも神の声をきくことのできるものはかぎられた少数の者であり、薩南(さつなん)諸島や琉球(りゅうきゅう)列島では、それが女である場合が多かった。 いわゆる巫女(みこ)であるが、これに二つの階級があった。 琉球ではその上層のものをノロとよび、首里(しゅり)では王の姉妹または王女がノロとなり、これを聞得大君(きこえおおきみ)とよび国王夫妻の上にたった。 地方のノロは王府から任命せられたもので、祭祀(さいし)の統一が村落社会を統一して民族国家をつくりあげていく力にもなったのであった
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.279〜280)


     ところがノロに対して、ノロとは別にユタとよぶ巫女があった。 これは王府から任命せられることのない巫女で、主として家の幸・不幸を占った。 そして家々の不幸の多くは祖霊(それい)のまつり方の足りないことをといたのであるが、ノロもユタも、もとは相似たものであったと推定せられるが、身分的には両者の間には大きなひらきがあった。 そしてユタは二百年あまりもまえに王府から禁止せられたのであるが、今日もなお村々にみられる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.280)


     男の伝承者たち

     山伏(やまぶし)もまた有力な伝承者であった『義経記(ぎけいき)』は、この仲間によって成立された物語であろうといわれるが(『雪国の春』参照)、この仲間は祈祷ばかりでなく、法螺貝(ほらがい)をふいて祭文(さいもん)を語ってあるいている。 いわゆる法螺祭文がこれである。 法螺祭文の内容についてはつまびらかにしないが、それが物語であったことは現実に祭文をきいた人々の語るところであり、また東北地方では農民で熊野参りをしたものが、これをならってきたとも伝えられる。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.289)


     東北地方はとくに出羽三山を中心にした山伏の多いところである。 この山伏たちは檀那場(だんなば)によって村人につながることは他の巫女・神人たちと同様であるが、宿を多く民家にもとめ、その炉辺(ろへん)では昔話のよき話者であったという。 山伏の昔話と祭文で語られる語り物に、どういうつながりがあるかを十分にたしかめていない。
    (《庶民の発見 六 民話と伝承者》P.289)


    七 底辺の神々

    憑(つ)きもの覚え書

     噂話の固定化

     人類の歴史はそれが歴史的には解明せられつつも、なお現実には解決のつかないものがすくなくない。 未開放部落や憑(つ)きもの筋の問題なども、その重要なものの一つである。 多くの学者、研究者たちによって、ある程度までそのよってくる所以(ゆえん)は明らかにされつつ、現実にはその差別感が、なかなかぬぐいきれないままになっている。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.299)


     これには日本人自体の論理をこえた物の感じ方なども、大きく原因していると思う。 理屈ではわかっておりながら、感情処理のしかたが、これにともなっていない場合がすくなくない。 あるいはまだ本当の意味で、パブリック・マインド(社会心とでもいおうか)ができていないともいえよう。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.299)


     たとえばデモなどのときに警官をののしったり、交通妨害を平気でやってのける心理、それはまた農民たちのおくれを封建的などという言葉できめつけて、自分たちとは別の世界であるかのようにみる愚民思想がそれであって、一般に世の先頭にたつ者には「選ばれたる民」の意識がつよく、そのため足弱なものは、おのずから劣等感をもつようになる。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.299〜300)


     したがって、こういう問題を根底から解決していくためには、目ざめた者がまず選民意識あるいは優越意識からぬけださなければ、物の実態は明らかにされても、問題の解決は容易になされないのではないかと思う。要は重い負担を不当に背負わされている者の身になって物を見、考えていくことでなければならないであろうが、お互いの心の中にあるこだわりが、たえず物をこじれさせていっている
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.300)


     民間信仰の俗信化

     元来、憑きものといっても一様ではなかった。(きつね)(山陰)、犬神(いぬがみ)(中国・四国・九州)、蛇神(トウビョウ)(西海地方)、猿神(さるがみ)(内海地方)、ゴボウダネ(中部)、イヅナ(中部・関東・東北)などがあり、憑きものの家を外道筋(げどうすじ)ともいっている。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.314)


     犬神の場合は、京都の犬神人に端を発するともいわれるが、祈祷にあたって犬の頭蓋骨(ずがいこつ)を呪法(じゅほう)に用いたことに由来するかと思われる。 はしばしば呪法に用いられたようであり、しかもそうした呪法を必要とした仲間も多かった。 たとえば『鉄山秘書』によると、「安部正重という者が、金屋子神(かなやごがみ)の神託によってタタラを用いて製鉄をはじめたが、正重は狩人で多くの犬をつれており、金屋子神は犬ぎらいで、犬に追われ、麻苧(まちょ)の乱れにつまずいて倒れ神去りました。 そのため、タタラへは犬を入れない」という話がのっている。 しかも安部氏はもと陰陽師(おんようじ)で「吉凶善悪をさすことたなごころを指すごとし」といい、その占いには「往古(おうこ)の降下の髑髏(どくろ)に向って祈念加持する」ともある。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.314)


     安芸(あき)・備後(びんご)・備中(びっちゅう)・石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)は、古くから砂鉄の産地であり多くのタタラがあったが、これには技術の如何(いかん)によって失敗に終わることがすくなくなく、そのための祈祷がしばしばおこなわれたのである。 それらの多くがこうした犬神づかいの人たちでありながら、犬そのものはタタラに近づけなかったということに問題が含まれていた。 タタラは明治後期に入って急速に消滅したが、祈祷師たちは村にそのまま定住したものが多かった。そしてその伝承だけはのこり、それがお互いを拘束(こうそく)しているのである
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.314〜315)


    残酷な芸術

     芸術の底辺に流れるもの

     私がこの得体(えたい)の知れない神を初めてみたのは、アチック・ミューゼアム(現日本常民研究所)の二階の片隅においてであった。 二階の一部屋に台湾紅頭嶼ヤミ族の民具が三千点も収蔵せられていて、そのまま未開社会を思わせるものがあったが、その隅にほこりのかかった石油箱があって、その中にこの神体がはいっていた。ヤミ族の民具とは感覚的にちがうから、別の世界のものだろうとは思ったが、しかしなんとなく共通する原始性があった。 私より古くからいる研究員に「これはなんでしょう」ときくと、「それはオシラ神」という。 「台湾の神さまですか」「いやそうではない、東北の神さまですよ、さわっているとたたられますよ」「へえ、それは一大事」と、それでとりあげてみることもせず、「さわらぬ神にたたりなし」ときめこんだのである。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.319)


     ところが昭和十五年の夏だと思うが渋沢敬三(しぶさわけいぞう)先生から、「もと盛岡銀行の専務をしておられた太田孝太郎氏からオシラサマという神さまを四十組ほど贈られているのだが、研究してみないか、とても大事な問題をもっていると思う。 第一、その神体が男であったり女であったり、馬であったりにわとりであったりする。 素材は(くわ)の木が多い。 この神に毎年一枚ずつ布をきせるならわしがあって、百枚もきせたものがある。 いちいちしらべてみると染織(せんしょく)の歴史がわかって来(き)はしないかと思う。 またこれは盲目(もうもく)の巫女が両手にもって踊らせるようなことをする。人形芝居と関係があるかもわからない」とご指示をうけた。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.320)


     オシラ神をさがし求めて

     さて、八十体をああでもない、こうでもないと毎日ながめくらしてみたが、やはり手のつけようがない。これは実地にあるいて、オシラサマがどんな人々によって信仰せられているかを、まずみてくることが大切だと思って、その年の十一月の初めに東京をたって、新潟県村上からオシラ神をさがしもとめてあるきはじめたのである。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.320)


     さて、新潟県では木棒のオシラ神に出あうことはなく、新潟から山越えに山形へはいって庄内の城下鶴岡(つるおか)まできたが、ここでもぶつからなかった。 しかしこの平野には、オシラ神と同系のものがたしかにあるはずである。 大正六年一月の雑誌「郷土研究」に、羽柴雄輔という人が「オクナイ様の事」というのを書いている。オクナイ様オシラ神と同系の神である。 ただここでは庄内の藩主酒井宮内大輔(くないたいふ)が善政をしいたために、藩民が宮内大輔の徳をしたってお宮内様を神としてまつったのだと、いかにももっともらしい口碑(こうひ)がある。 実物はついにみなかった。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.320〜321)


     それから鳥海山北麓を亀田まであるき、男鹿(おが)半島をまわり、米代(よねしろ)川をさかのぼって津軽に出、木造というところから北へ向かってあるきだした。 そして豊冨というところでこの神にぶつかり、金沢フデというカミサマ(目のあいた巫女)から、この平野におけるオシラ神のあらましの様子をきき、自分のあるいてきた道すじがオシラサマの巣窟(そうくつ)のようなところであることを知った。 しかもそれをどうしてしらなかったのか。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.321)


     私のあるいたところでは、どうやらみなかくしていたようである。 津軽平野では、これをおおっぴらに信仰しているところと、ひそかに信仰しているところがある。 あるいてきたのは、ひそかに信仰している村々であったようだ。 ひそかといっても深くかくしているわけではない。 その家にかつて巫女がいたが、またはまずしくくらしていてこれをもって家々の門付(かどづけ)をしてあるいたかのいずれかで、その家としては、そういうことはあまり名誉でもないことだから、家が再興したあともまつってはいるけれども、人にはあまり知られたくないのである。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.321〜322)


     貧しさの象徴

     昭和十六年は、東北地方の太平洋岸を冷害がおそっていた。 七月の末ごろここをあるいて、寒々とした野の稲の葉が白く枯れているのをみた。 夏の支度ではガタガタふるえるほど寒かった。 古間木(ふるまき)というところで、雨をみながら百姓たちが「わしら何一つ悪いことした覚えもないのに、どうして神さまはこういう雨をふらすのだろう」となげいているのをきいて、心をいたましめたことがある。冷害すら気づかぬ不徳をおかしていることが原因のように解しており、そのためにも神霊の声はたえずきかねばならなかった。 そのおり別の百姓が「わしら悪いことをしなくても支那(シナ)のほうでたくさん人を殺している。よくないこともあるだろう」といっていた。日支事変のことをさしているのである。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.325〜326)


     時代への埋没

     ところがオシラサマをもっていたものが死んだり、また面倒(めんどう)くさくなると捨てることがある。下手(へた)なことをするとたたりがあるので、他家の屋根や神社の森の木の枝にそっとかけておく。 これをみつけたものはオシラサマがとんできなさったといって、家へもってかえってまつる。 とんできたオシラサマをまつった例は、青森県下には実に多い。 板柳地方のものは、大半がとんできたオシラサマである。 そのため講を組んでまつるようなこともおこったのであろう。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.327)


     古い時代につくられたと思うものは、やはり桑(くわ)の木であるが、新しいものになると木はなんでもよくなっている。 北上地方では、オシラサマは実によくたたる神さまになっている。 そしてもとは、一軒のうちで二十体近くもまつっている家があった。 長いあいだにその家に何人もの巫女(みこ)が出て、それぞれ別にオシラサマをまつったものらしい。 そうすると、それらのオシラサマを統率(とうそつ)する親オシラサマも必要になったようで、そういう家では親オシラサマをまつっていた。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.328)


     ところが、遠野地方では、このオシラサマに、毎年一枚ずつ布片(ぬのきれ)をかぶせていく習慣があった。 アチック・ミューゼアムへ送られてきているもののなかにも、百枚以上をきせたものが二体ある。 それも途中で若干ぬがせてあるが、下へいくほど古風な布が多いので、年代順になっていることがわかる。 その布地を四十体についてみると、千四百枚ほどになる。 これは染織(せんしょく)史上、重要な資料になるであろう
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.329)


     この布地の地質を上からみていくと、モスリンナイスモス機織木綿(はたおりもめん)・金斤(カナキン)・手紡織木綿(てつむぎおりもめん)・絹薄地絹経細緯太(きぬたてぼそよこぶと)・マダ布麻布真綿(まわた)の順になっていて、そのうち絹経細緯太の地のものがもっとも多く四百七十枚、つぎが機織木綿四百三十二枚、つぎが手紡織木綿二百八十五枚となっている。 原則としては、この地方で用いられた晴衣(はれぎ)のようなものがこの神にきせられたことがわかり、農民たちが日常きるものをきせることは少なかったらしく、日常着と思われるマダ布は四十枚、麻布はわずかに二枚にすぎないのである。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.329)


     そして機織木綿から上にあるものはほとんど例外なしに化学染料が用いられていて、植物染料をみかけない。 一般に日常着には、植物染料が用いられていたと思われるが、晴れ着とよばれるものは手織手染(ておりてぞめ)を用いることなく、ほとんど店売りのものを買ったと考えられる。 日本に化学染料の入ったと思われるのは明治初期である。 そしていちはやく化学染料のものが、オシラサマに用いられている。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.330)


     元来、信仰は保守的なものと思われるが、半面、それが長くつづいていくためには時代に即応する新しさをもっているのである。 つまりオシラサマは、東北地方でいちばん最初に、東京や大阪で流行の布地を身につけた神さまのようである。 と同時に、地方における晴れ着もまた自製はすくなくて、呉服店(ごふくてん)から買われるものであったと思われる。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.330)


     民衆のなかの彫刻

     さて、このオシラサマが津軽地方へくると、これを刻むものに大工表具師ろくろ師などが参加してくる。 つまり宗教人以外の職人である。 この人たちは手先も巧みであり、この小さい神像を見ばえのあるものにしようとする。 そのため、その容貌は(ようぼう)はたいへんととのったものになってきているが、古いものにみられるような気迫は、いちじるしく欠けてくるのである。 とくに、ろくろ師の手にかかったものは、頭も胴もまるくなり、それがコケシときわめて近いものになる。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.332)


     コケシはろくろ師(木地屋(きじや))たちがつくったものである。 東北の木地屋は、古く蒲生氏郷(がもううじさと)につれられて近江(おうみ)の国から会津(あいづ)へ移住したものである。 その初め会津若松を中心にして、その周辺の山中に住んだ。 そこには木地挽(きじひ)きに適するブナトチなどの巨木が多く、彼らはそれをつかって丸膳(まるぜん)・丸盆(まるぼん)・(わん)・杓子(しゃくし)などをつくった。 そして人口の増加につれて山づたいに北へ北へとのびてゆき、人の比較的よくあつまる温泉場付近に居をしめて木地挽きをした。 そのかたわら温泉場での土産物としてつくりだしたのがコケシ人形であったといわれるが、それは子供の玩具であったとともに、子供たちを災害から守るための神でもあったようだ。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.332)


     東北農民の造形力

     さて厨房(ちゅうぼう)にまつられる(えびす)・大黒(だいこく)は今日ではニコニコ笑っているが、古い大黒像はむしろおそろしい顔をしていたことは、九州大宰府(だざいふ)観世音寺の大黒像によってうかがうことができるが、鎌倉時代の初めごろまではこうして決して笑ってはいなかった
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.334)


     その名残はいまも東北にみることができる。 東北の北上山中では庭の大(おお)カマドのあるそばの柱にカマド神をまつるふうがあるが、これを火男(ひおとこ)・ヒョートクなどともいっている。 私のみたものは、いずれも農民のつくった素朴なしかめつらのものであった。煙がかかってしかめつらをしているのだとのことであるが、除災のための斜視(しゃし)であろう。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.334)


     山伏も僧も中央の教学に従ったものはすくない。 そこではすべての神がつよい民衆神的な性格をもつとともに、宗教と芸術の未分の世界がながくのこった。 そして彼らは自然のもろもろのものの中に神を見、またそれを素朴に造形した。 正月十五日におこなう鳥追(とりおい)行事の棒にも、麻をこぐこぎ箸(ばし)のさきにも人の顔を彫り、村に病魔の入らぬために村境に注連(しめ)をはるかわりに、人形をつくってたてておいたり、田植え後におこなう虫おくりの虫を竜にしたてて村はずれにかけておいたりする庶民的な造形品には、彼らがその生活をまもるためのつよい意欲をくみとることができる。
    (《庶民の発見 七 底辺の神々》P.336)


    あとがき

     この書物の初版の奥書をみると一九六一年(昭和三十六年)とある。 もう十五年もまえになる。 いろいろのものに書いたのをまとめて一冊にしたものである。 それから今まで重版されることもなかったし、私自身何をかいたのかあまり記憶になかった。 しかし著作集の一冊になることになって、拾い読みをしてみると、そのころ興味をもっていた問題が何であったかを思いだすことができ、世の中は大きくかわっているようにみえても、われわれが問題にしなければならないようなことは大してかわっていないことに気づくそのころ問題にされたことの多くは解決されることはなく、むしろひずみは大きくなっているものが多い。 ただ限られた枚数で書かされたものが多く、それだけに言い足りないことに気づく。
    (《庶民の発見 あとがき》P.338)


     自分の言いたいだけのことを言い、書きたいだけのことを書いてみることが何より大切なのだと思う。 しかし考えてみると、こうした発言の場を与えられたということだけでもありがたかったのである。 この書物の書評が新聞などに出ているのをよんだ中に、所詮(しょせん)これは百姓の言い分から一歩もでていないではないかというような言葉があった。 つまり文化人としての垢(あか)ぬけがしていないということであったと思う。 その言葉が私の心にとまった。私はこの書物を書いたころは兼業農家として百姓をしていた。 そういわれることはあたりまえであるとともに、私が文化人というものにならなければならない理由はなにもない。 いつまでもどこまでも百姓の仲間の一人として、その代弁者であるべきだと思っている。 しかし百姓としては仲間に対して必ずしも忠実であるとはいえない。 つとめをやめたら郷里へでもかえって百姓をしながら余生(よせい)をおくろうと思っていたのが、年をとって就職したために十年もおくれてしまった。 もう一年半もすれば自由になれるから、それからは静かに考えたり、見直すべきことも見直したいし、百姓もしてみたい。 本書の最後にかいた「私のふるさと」(本文庫には未収録)の続きも書いてみたい。
    (《庶民の発見 あとがき》P.339)


    解説…田村善次郎

     一遍の遊行(ゆぎょう)がつねに民衆のなかにあって、民衆と共に歩きながら念仏を勧(すす)めることであったのと同じく、宮本先生の民俗学の旅とその研究は生涯、民衆・庶民でありつづけた先生が、自分の仲間である民衆・庶民の歴史、文化を発見し、見いだしたものを仲間や、仲間に代わって他の人々に知らせ、訴えることであった。 先生は、仲間が仲間でありつづけ、おたがいが手を取り合ってより良く生きるために、自分がしなければならない使命は、そのことであると考えておられた。 そのように私には思える。
    (《庶民の発見 解説》P.345〜346)