[抜書き]『増補 幕末百話』


『増補 幕末百話』
篠田鉱造・岩波文庫
1997年10月6日 第9刷発行
    序文 昭和四年六月十六日 思出の日 胡蝶庵 篠田鉱造

    目次
    幕末百話
      一 江戸の佐竹の岡部さん / 二 上野山門に屯集の賊徒ども / 三 縁の下の力持(芝居の小道具) / 四 水戸御用千住の鬼熊 / 五 江戸勤番むかし懺悔 / 六 正月二十日初御成 / 七 近世名優病気の田之助 / 八 江戸仙台馬術の修業 / 九 大名大奥御老女の事 / 一〇 因縁探偵羅漢の殺人 / 一一 近世俳優時計の腹探 / 一二 御用出役異人の護衛 / 一三 武士気質由緒の具足 / 一四 将軍の御召料御茶壷 / 一五 昔の決闘室岡新十郎 / 一六 三つ人魂団十郎の実家 / 一七 昔の町人命拾い / 一八 天意人事江戸の落首 / 一九 芝翫の家庭籠の雀と猫のお玉 / 二〇 大昔の話安政の大地震 / 二一 徳川時代御大名の寝間 / 二二 御茶壷の御附旅日記 / 二三 音羽屋の滑稽旅芝居 / 二四 正月の夜江戸の物騒 / 二五 両国橋上老人の生活 / 二六 彰義隊の一人引張出され党 / 二七 江戸の花加賀鳶の喧嘩 / 二八 横浜芸妓の一昔前 / 二九 幕府の歩兵(綽名茶袋) / 三〇 お屋敷勤薩摩の大奥 / 三一 ズバヌケた女国定忠治の妾 / 三二 大名の大部屋下馬の闘い / 三三 南北の町奉行昔の裁判所 / 三四 むかしばなし御鷹匠の事 / 三五 狐つきのお話神田の能勢様 / 三六 渡り祐筆筆舐ピンコ / 三七 女太夫と袈裟懸けの辻斬 / 三八 貧乏酒井の用心征伐 / 三九 大火傷のあと夜の行列 / 四〇 横浜裁判所の引渡し / 四一 御関所女手形御手判 / 四二 江戸瓦解前の貧窮組 / 四三 高崎通い郵便御用早馬車 / 四四 鳶細川の家中芝居の人斬 / 四五 調練の太鼓関口と白石 / 四六 吉原通い武士の狂言 / 四七 維新以後馬車の乗初 / 四八 探偵実話強盗医者 / 四九 昔の交番「堀の辻番」 / 五〇 江戸名物折助の生活 / 五一 左団次の養母おことさん / 五二 一と昔前の吉原通い / 五三 黒船土産大コロリ / 五四 旧幕歩兵洋服の変化 / 五五 袖の下時代数奇屋坊主 / 五六 浮世床ちょんまげ話 / 五七 お姫様の御臨終 / 五八 銀座評判松田の二人斬 / 五九 老人の記録辰歳のあらし / 六〇 維新前後刀商と西洋人 / 六一 御成街道真夜中騒ぎ / 六二 旗本の制裁小普請人 / 六三 丑歳の火事と百人一首 / 六四 出羽の道楽隠居 / 六五 家督御礼の献上物 / 六六 亥歳の張札天誅紙 / 六七 血判起誓文のお話 / 六八 昔の新聞紙と外交 / 六九 伊藤軍兵衛の話 / 七〇 弓馬鎗剣是武芸 / 七一 公方様悪口の祟り / 七二 昔風な本町の奥向 / 七三 献上御松茸の御用 / 七四 世にも二つの愕き / 七五 日光例幣使の話 / 七六 清国に似た日本 / 七七 縁切と縁結び / 七八 昔の刑事の話 / 七九 昔の御馳走ばなし / 八〇 鈴木藤吉郎の話 / 八一 本郷た組の平三 / 八二 富国屋吉右衛門 / 八三 撃剣修業の道場 / 八四 御一新前後の肉食 / 八五 桜田門外血染の雪 / 八六 上野戦争靖共隊の一老 / 八七 役僧と二分の役徳 / 八八 大名の御婚礼 / 八九 森本岡右衛門 / 九〇 門閥打破(陸軍の濫觴) / 九一 林田小右衛門(稗蒔の元祖) / 九二 脇差刀と見せ羽織 / 九三 三田騒動薩州邸討入(上) / 九四 三田騒動薩州邸討入(下) / 九五 殿様のお供で道中 / 九六 糸店丁子屋(附たり昔の小僧) / 九七 両国橋の懐旧談 / 九八 お大名と雪隠 / 九九 伏見鳥羽の戦後話 / 一〇〇 九条家の昔

    今戸の寮
      一 錦絵のような生活 / 二 人力に曳殺さる / 三 看板娘菊ちゃん / 四 全盛期と没落期 / 五 三色の旗を立る / 六 寮へ田之助一座 / 七 その時の褒詞 / 八 刀とぎが米とぎ / 九 寮の日がな一日 / 一〇 弥生の節句 / 一一 根こそぎ真綿で / 一二 金口は旨くない / 一三 変な符牒みたい / 一四 女医附のお芝居 / 一五 白魚のかげ干し / 一六 御苦労に存ずる / 一七 相乗二人曳後押 / 一八 お前の旦那さま / 一九 下手な呉服店ぐらい / 二〇 大御新造の述懐 / 二一 おはちを背負て / 二二 大道へ古本並べ / 二三 モシお忘れもの / 二四 道化のはらみ女 / 二五 靴の音の小倉庵 / 二六 中島座の面灯 / 二七 隣家は贋金使い / 二八 浜中屋と私共 / 二九 離れ鴛鴦の別居 / 三〇 何たるみじ目さ / 三一 夜具三枚が真綿 / 三二 髷を持揚て洗う / 三三 八百善の取肴 / 三四 綽名三島オコゼ / 三五 植半で名乗らず / 三六 ヤドとは何です / 三七 惣菜では上れぬ / 三八 眼千両魚島の娘

    幕末百話の後に題す(武田鶯塘)
    解説 (尾崎秀樹)


    幕末百話

    三 縁の下の力持(芝居の小道具)

     政岡の道具
     また福助(なりこま)『政岡』を演(や)った時の黒棚も、実は寸分違(たが)わず、茶道具も皆揃(そろ)えたんで…… 黒棚は高さ四尺、間口四尺三寸、奥行一尺三寸、台子(だいす)は〔つわ〕塗(ぬり)、縁(ふち)は細く朱塗(しゅぬり)、高さ一尺九寸九分、前三尺四分、奥一尺三寸七分、台子屏風(びょうぶ)六枚折六枚、一枚一尺五寸、凝(こ)ったものなんです。
    (《幕末百話/三 縁の下の力持(芝居の小道具)》P.20)


     団菊座の品
     団十郎(なりたや)の忠臣蔵細川屋敷に用いる竹の花瓶(はないけ)は、堀津(ほりつ)にあった物で古いのなんのって〔カスガイ〕が三十四、五打(うっ)てありました(中にはしんちゅうや銀のなどもありました)。 ○菊五郎(おとわや)岩藤骨寄(いわふじこつよ)せを演(し)た時の〔コモ〕、あんな物でも軽石で磨(こす)ったり川の中へ投込(ほうりこん)だりしたのです。 ○左団次(さだんじ)梶原(かじわら)の「系図書(けいずがき)」は、わざ/\汚して虫の喰(く)ったようにしたもんです。 詰(つま)らん事に縁の下の力持(ちからもち)をしているんでさア……。
    (《幕末百話/三 縁の下の力持(芝居の小道具)》P.20)


    四 水戸御用千住の鬼熊

     馬士鬼熊
     どうだろうこの話をして鬼熊(おにくま)の孫でも現われ来たり「盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)優曇華(うどんげ)の春待ちえたる」などと名乗懸(なのりかけ)られたら大変だが……何故(なぜ)といって今なればこそ話すが、実はその鬼熊を斬(やっ)つけてしまったんだ……千住小塚原(せんじゅこづかっぱら)の貸座敷の老人達は定めて想出すであろうが、水戸(みと)御用馬士(まご)鬼熊といったら、恐ろしいくらい悪者で、そいつが斬(き)られたために、千住辺は寧(いっ)そ悪魔払(あくまばらい)を悦(よろこ)んだが、誰が斬(ばら)したか今日(こんにち)まで知るものはあるまい。
    (《幕末百話/四 水戸御用千住の鬼熊》P.21)


     水戸街道
     お話しよう安政(あんせい)二年の夏の事だ。 朋輩三人と打揃い、屋敷を出て、下谷広小路(したやひろこうじ)雁鍋(がんなべ)に登(あが)り、一杯傾けたが、傍(わき)にいた客が小塚原(こづかっぱら)に獄門の首があるという話から、一杯機嫌に乗じ、「サア見物に往こう」と、悪い思付(おもいつき)だ。 勘定を払い、雁鍋を立出(たちい)で、小塚原の御仕置場(おしおきば)まで往った。 その頃は大千住(おおせんじゅ)といって水戸街道だ。荷物問屋場(にもつとんやば)があって、諸藩の荷物小荷駄馬(こにだうま)が輻輳(ふくそう)しているが、多くは「水戸御用」の荷物で飛ぶ鳥を墜(おと)す威(いきお)い、虎の威を借る狐(きつね)の馬士(まご)達が威張(いば)り様(よう)、武士(さむらい)も糞もないのじゃ。
    (《幕末百話/四 水戸御用千住の鬼熊》P.21)


     悪口雑言
     三人は獄門を見て、小塚原貸座敷田中屋(たなかや)、大万(おおよろず)、辰巳(たつみ)、若松屋(わかまつや)を素見(ひやか)し来ると連(つれ)の岡氏(おかうじ)は、一人の馬士(まご)にハタと突当(つきあた)る。 酔(え)いが発したところだからで、馬士(まご)が手に持つ「御用」小田原提灯(おだわらちょうちん)はバタリ地に墜(お)ちて灯火(あかり)がプッと消えた。 サア承知しない「水戸様御用の字が分らねぇのは、田舎武士目腐武士(いなかざむれえめくされざむれえ)、頓痴奇武士(とんちきざむれえ)だろう」と悪口雑言、「サア千住の問屋場まで歩(あゆ)みゃアがれ」と、一応は詫(わび)もしたが聞入れないのじゃ。 詮方(せんかた)なく問屋場へ往く、一埒(いちらつ)を話し、「以後注意するように」と許されてしまって帰ると、馬士(まご)は後(あと)より追掛け来(きた)って、「役人が承知しても馬士仲間が承知出来ねエ。 誰だと思う千住の鬼熊だぞ。 この〔サンピン〕武士(ざむれえ)」と喰って懸り、酒代(さかて)にしようという剣幕(けんまく)。
    (《幕末百話/四 水戸御用千住の鬼熊》P.21〜22)


    五 江戸勤番むかし懺悔

     下谷一番鰌汁
     これには私(わし)も面喰(めんくら)って何所(どこ)をどう逃げたかまた大千住へ出てしまって、亀田屋(かめだや)という貸座敷へ飛込み、素知(そし)らぬ顔でいると、天王様前で駕籠舁を斬った侍があるとて、町役人が各々(てんでに)提灯(ちょうちん)を照(とぼ)し、貸座敷を軒別(けんべつ)改めに来るという騒ぎ。 居耐(いたたま)れず勘定ソコ/\邸(やしき)へと帰る途中、腹が減って怺(こら)えられず、トいって懐中(ふところ)が乏(とぼ)しい。 ソコで図々(ずうずう)しくもその頃有名の「下谷一番どじょう汁」というへ入ると、未(ま)だ夜明(あけがた)で鍋(なべ)の火が焚落(たきおと)しでした。 なか/\煮えやしない。 酒はまわって来るが、鰌(どじょう)は煮えない。 たちまち侍気質(さむらいかたぎ)が出て、「番頭/\、手前の家(うち)は火がないのか。 火の用心が余(あんま)りよすぎるぜ」、番頭手を揉(も)み、頭をペコ/\、「早朝の事でございまして焚落しで平(ひら)に御勘弁を」「御勘弁も糞もねえ、この鰌が喰えるか喰えねえか貴様試(ためし)に喰(くっ)て見ろ」と鍋を足蹴(あしげ)にすると、番頭の天窓(あたま)が鰌鍋(どじょうなべ)になってしまった。 「気をつけろ、払いは近日来て取らすぞ」。 今日文明の世にお話するさえ恥ずかしいが、実地(じっち)こんな事を演(や)ったもので、終(つい)に長(なが)のお暇(いとま)となりました……懺悔(ざんげ)ですから姓名(なまえ)は真平(まっぴら)。
    (《幕末百話/五 江戸勤番むかし懺悔》P.25〜26)


    六 正月二十日初御成

     市中は煙止
     旧幕府時代正月二十日初御成(はつおなり)と申して公方(くぼう)様が上野御霊屋(おたまや)へお成(なり)になります。 そのお話を聞いて頂きましょうか。 西丸城内(にしまるじょうない)は徹夜でそれ/"\準備をする。 暁(あけ)七ツ時より御老中若年寄始め御役人方が登城をします。 ソレから御供揃(おともぞろい)で明(あけ)六ツ時(今の四時)市中はいずれも火を焚くことが出来ず、『煙止(けむどめ)』となりますから、市中の御成筋(おなりすじ)はいずれも七ツ時(今の三時)家内中起きて御飯(ごはん)を焚き、御成前に喫(したため)了(おわ)る。 また二階のある家では窓を堅く鎖(とざ)し、戸の合せ目へは半紙を切って横に張ったもので、御老年(ごねんぱい)は皆御存知でありましょう。
    (《幕末百話/六 正月二十日初御成》P.26)


     下谷お徒湯
     御通筋(おとおりすじ)は御徒衆(おかちしゅう)がそれ/"\出張してセイシ声を上(あげ)る。西丸御城(おしろ)を御出門、上野黒門へお入りになり、御拝殿相済むと、直(ただち)に還御(かんぎょ)となります。 これから御成明(おなりあけ)となり、通行道に太き細引(ほそびき)を張りあるをば取退(とりの)けるのが例です。 下谷にお徒湯(かちゆ)というのがありますが、これは『御免湯(ごめんゆ)』といって、公方様御成中にも火を焚き、御徒衆が入浴したもの、言わばわがままな話なんです。
    (《幕末百話/六 正月二十日初御成》P.26〜27)


     先供の御徒
     御成が相済みますと、御三家御三卿を始め、諸大名御跡参(おあとまい)りと唱え、大紋風折烏帽子(だいもんかざおれえぼし)で、長棒(ながぼう)の駕籠(かご)に乗り、御霊屋(おたまや)へ参詣する。 上野広小路(ひろこうじ)に出(い)で、黒門が下馬(げば)ですから、御大名は双方行違いとなり、なか/\の混雑です。 御大名スレ違いには、挨拶(あいさつ)があるが、これは先供(さきとも)の御徒(おかち)が呼揚(よびあげ)をする、「松平何(まつだいらなん)の守(かみ)様」と、チョット節(ふし)をつけて間延(まのび)にいうと、また一方で「間部下総守(まべしもうさのかみ)様」と申す。 この時は駕籠脇の者が、殿様の御駕籠の戸前を引明(ひきあ)けるから、殿様同士挨拶があるんです。
    (《幕末百話/六 正月二十日初御成》P.27)


     袖武鑑売り
     御三家は遅く御参詣になり、「下に居(お)れ/\」でやって来るので、小大名(こだいみょう)は行合(ゆきあ)った日には駕籠から出て控え、下座(げざ)せねばならぬから、スタコラ横町へ逃げ込み、遣過(やりすご)してノソ/\出懸る情ない滑稽(こっけい)なお話で、サテまた上野広小路の賑(にぎや)かさ、市中は言うまでもない近郷近在(きんごうきんざい)より拝見の人々黒山を築きます。 店をズラリ列(なら)べるので、肩摩轂撃(けんまこくげき)という有様(ありさま)。 この日に日本橋通三丁目本屋にて「袖武鑑(そでぶかん)」という黄色の表紙で、横に細き武鑑を売ります。 これは武鑑の豊(とよ)と申す新橋網(しんばしあみ)の〔ヤシ〕親分が乾分(こぶん)を連れて「御大名御役人改り」と売歩く。 値段は銭(ぜに)二百文(もん)でした。 また出雲寺(いずもじ)にては「大武鑑(だいぶかん)」という青表紙のついたのを売りました。 四冊で代価金一分でした。
    (《幕末百話/六 正月二十日初御成》P.27〜28)


    七 近世名優病気の田之助

     珍しい病気
     神田今川橋(いまがわばし)の横に口入業(くちいれぎょう)(蝋燭(ろうそくちょう)町)有馬屋(ありまや)というがありました。 この有馬屋さんが田之助贔屓(びいき)で何から何まで世話をしました。 ところである時舞台で足の尖(さき)を撲(なぐ)った。 ソレからというものはズン/\痛(いたみ)を覚えて勤まりませんので、右の有馬屋さん−−当今もありますが神田五軒町(ごけんちょう)の小稲(こいな)てんぷら(これは有馬屋の娘分(むすめぶん)実は妾(めかけ)でした)で、田之助が有馬屋さんに逢(あ)い、恁々(かくかく)と話すと、ソレは良医(よいいしゃ)に診(み)て貰えとて名は忘れましたがさる御殿医(ごてんい)に診て貰うと、「これは越後(えちご)奥州地方にはあるが珍らしい病気だ。ダッソだから打捨(うっちゃ)っては置かれぬ。 といって私(わし)が療治はして上(あげ)られぬから、佐倉(さくら)の医者を呼んで療治して貰いなさい。 手紙をつけるから」 というので、番頭を佐倉へ立たせたのです。
    (《幕末百話/七 近世名優病気の田之助》P.29)


     美男が凄い顔
     佐倉の医者も表向(おもてむき)河原乞食(かわらこじき)だから診てやれぬ、どこかへ家(うち)を借りるなら療治をして見ようとなったので、両国(りょうごく)の大纏(おおまとい)(相撲(すもう))の二階を借りて診て貰ったが、五日間ソコに居るてえと、段々痛みが嵩(こう)じて体は痩(や)せる、足は腫(は)れる、美男が痩せたから凄(すご)い顔となりました。 で佐倉の医者の申すには「コレは脚を切断せねばならぬ。 ソレには縁者一同連判(れんぱん)して、横浜のヘボン氏に断(き)ってお貰いなさい」 となりました。
    (《幕末百話/七 近世名優病気の田之助》P.29〜30)


     鋸でガリガリ
     で親類縁者といえば故人助高屋高助(すけたかやたかすけ)と、田之助の姉のお歌(うた)さん、妹で品川の女郎屋青柳(あおやぎ)の家内、芝居茶屋(き)の国屋(くにや)等が連判で、横浜のヘボン氏の許へ往く、「造作(ぞうさ)もない」とてなか/\洒落(しゃらく)な西洋医師(いしゃ)で、いよ/\切断日は、「ドウです、田之(たの)さん痛いかネ」 と言いながら、ポケットから小さな瓶(びん)を出して鼻の所へやる。 今から考えると魔酔薬(ますいやく)ですな。 ですから田之助はグーと眠るてえと、脚を捲(まく)った上、下から切り皮をタルマして置いて、骨をば鋸(のこ)でガリ/\と切ってしまい、〔タルン〕でいる皮を被(かぶ)せ縫(ぬ)ってしまって「サアこれで宜(い)い」 との事、呆(あき)れぬものはなかったのです(今の外科手術ですな)。
    (《幕末百話/七 近世名優病気の田之助》P.30)


    八 江戸仙台馬術の修業

     それ/"\のお試
     この御用馬が済んでから、尾州(びしゅう)公、紀州(きしゅう)公、水戸(みと)様、土州(どしゅう)阿州(あしゅう)と順々に御覧になるのです。 もっともその間には伴内(ばんない)(賄賂(わいろ)のこと)を極(き)めねばなりませんし、御用馬になると第一に〔アテモノ〕という事をします。 これは高張(たかはり)、御馬印(ばれん)、腰差(こしざし)、長柄傘(ながえがさ)等を馬の顔や体へ当ててみて愕(おどろ)くかどうかを試(ため)すのです。 次に〔キッカケ〕といって、今日正午(ひる)に御用になると、翌日(あす)の正午(ひる)までお預けする。 ソレがすむと御勘定が出ます。 やはり周旋屋が多い。 俗に〔ヅキ〕というのが一割を取る。 仲間への御馳走、仇(あだ)や疎(おろそ)かじゃア済みません(しかし大恭悦(だいきょうえつ))。
    (《幕末百話/八 江戸仙台馬術の修業》P.33)


     伯楽の品評
     奥州馬品評(しなさだめ)伯楽(なかま)ではこう申します。最上馬(もがみうま)は芸妓で、初めは忌(いや)な所(とこ)があって乗手が甘いと見れば咬付(かみつい)たりしますが、いよ/\になると旨(うま)い芸をします。仙台馬は御新造様(ごしんぞさま)で落付(おちつき)があって〔アテ〕物をしても平気でいる。 南部馬(なんぶうま)と来たら華族の大奥様という風、鷹揚で、火事地震愕(おどろ)くこっちゃアない。鎌倉遠馬(かまくらえんば)なんぞには南部馬でなくては不可(いけ)ません。 イヤ馬の修業じゃア骨を折りましたが、今じゃア役に立ちません。
    (《幕末百話/八 江戸仙台馬術の修業》P.33)


    一一 近世俳優時計の腹探

     お客と幇間
     一個の金時計で六人の役者の腹を抉(えぐ)ったという昔(ふる)いお噺(はなし)を一つ致しましょう。 何かこう落語家(はなしか)めいたようですが、ちょっと面白い。 −−大分(だいぶ)芝居の話も出ましたから宜(よろ)しければ致しましょう。 御存じの方があるかもしれないが、某客が吉原幇間(たいこ)を連れて往ったが、勘定が足りないで、金時計を出して、幇間に「お前どうだ、知ってる役者に金時計(こいつ)を四十両で売って来ないか、(わり)をやるぜ六十円程のものだ
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.39)


     時計の持廻
     幇間(たいこ)は大(おおい)に飲込み、早速ソノ金時計を大事そうに抱いて、ソレから自分の昵懇(じっこん)の役者の許へ駈付けた。 いずれも近世俳優の重(おも)なる連中でして、彦三(ひこざ)芝翫(なりこまや)菊五郎(おとわや)訥升(きのくにや)小文治(こぶんじ)左団次(たかしまや)です。 コノ連中を持廻って売れたかというに、到頭売れなかったんですが、一々その断わりようが性質(はら)を現しているから面白い。 偶意事(つくりごと)かも知れませんが、ソノ断り方が偶意事(つくりごと)にしても考えたものですよ。 こうなんです。
    (昵:りっしんべんに亙に似た字)
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.39〜40)


     彦三の気風
     最初彦三(ひこざ)の許へ持って往って、恁々(こうこう)の時計だが、「どうです、一番お買いになっちゃア」 と眼前(めさき)へ差出すと、彦三は「なるほどこいつは安そうだ。 綺麗だ。 ドレ/\、オイ己(おいら)の時計を持ってきな。 大分(だいぶ)物が違う、己(おいら)のは十円だ。 四十円でも十円でも見た所(とこ)じゃア同じ時を指しているね。 時に違いはありゃアしない。 マア時さえ違いがなけりゃア十円ので我慢して置(おこ)うよ」と断った。 彦三という優(ひと)は、衣装なんか金巾(かなきん)でも、ボロでも構わないという気風なんです。
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.40)


     芝翫の女房
     ソレから芝翫(なりこま)へ持って往くと、手に取って仔細に見て、涎(よだれ)が垂れるばかりに見ていたが「コリャア結構なものだ。 欲しいもんだな。 おみつさん(自分の家内です)に相談してから買う。 ソレまで持ってくんな」 どうして急場だからソウはいかぬ。 これで芝翫(しかん)一切悉皆(がっさい)女房のおみつさん任せだったという事が分りましょう。
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.40)


     菊五郎の語
     音羽屋(おとわや)へ持って往くといかにもまた欲しそうだ(後(のち)には百や二百の金時計ぐらい持ちましょうがその頃は貧乏だ)。 「(いい)時計だ。 どうだい二、三日貸してくれねえか。 お客に見せて買って貰うから。 もっとも時計は三つばかり持ってるけれど、此器(こいつ)は豪気(ごうき)と安かろう」。 これにて〔ケチ〕五郎と言われた当人の性質(はら)が語中に踊(おど)り出ていましょう。 異(おつ)なもので……。
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.40〜41)


     訥升の附物
     紀ノ国屋へ持って往くと、これはまた附物(つきもの)の婆(ばあ)さんがいる。 「買いたいが、婆さんが病気で時計どころじゃアない。 モチット後(のち)にしてくれると買って置くが、物は相談だ、そうはいくまいか」。 「どうしてどうしてそれで勘定を払い、割(わり)を貰いやすんで……
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.41)


     左団次の口
     高島屋へ持込むと、テンデ見もしない。 「こんな物買って見ろ婆様(ばあさま)が大目玉、怒(おこ)られねえがメッケもの、見るも毒だ」 と、ピタ断り、この優(ひと)に喧(やか)ましい婆(ばあ)さんがあったんです。 それがこれで分る。
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.41)


     小文治の腹
     最終(しまい)市川小文治(いちかわこぶんじ)へ持って往くと、「四十両安いナ。 買ってやろう。 五、六日貸してくれ。 質屋(しち)へ打込(ぶちこ)んでその金で博奕(ばくち)をやり、勝った金で買ってやろう。 割もやるぜ。 どうだ儲けさせねエか」 「どう致して……飛でもねエ」 と結局持って帰ったが、お客はこれを聞いて「ウム各優(みんな)の腹(はら)が読めた」と大悦(おおよろこ)びだったそうで……。
    (《幕末百話/一一 近世俳優時計の腹探》P.41)


    一四 将軍の御召料御茶壷

     旧暦四月頃
     御茶壷のお附添いをして宇治(うぢ)へ前後七回下りましたるお噺(はなし)。 概略(あらまし)をお話しすればこうで厶(ござ)んす。 江戸を出発しまするのは旧暦四月頃、そして土用三日前ぐらいに江戸へ戻るようにして行きます。 これに附添いまするのが、お坊主と、士分(やろう)打込みで、左様十三人ばかり、お坊主は御数寄屋御頭一名、茶道ニ名、士分(やろう)は十人、御朱印持組頭(ごしゅいんもちくみがしら)手伝(てつき)三名、お茶壷組頭(くみがしら)一名采領(さいりょう)五名という顔触(かおぶれ)でした。 いつも入梅頃で、出発といい、蕭々(びしょびしょ)雨を喰い毎度閉口をしまする。
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.47〜48)


     御壷は九つ
     この御茶壷と申しまするのは、小さな長棒駕籠(ながぼうかご)へ、チャンと箱が出来て据えまして、嵌(はめ)れば動かぬようにしてある。 まして御壷は羽二重で包み、綿入の(ふくさ)で裹(つつ)みますから、放出(ほうりだ)したって壊(こわ)れっこはありません。 将軍御召料(おめしりょう)の御茶で、持って戻ると、今の坂下の右の所に見えます、富士見(ふじみ)三重の御櫓(おやぐら)の一層(てっぺん)に納(おさま)ります。 あの御櫓ばかりですな、今に残って居ますのは。 ……この御茶壷は一つでない九つありました。 由緒がありまして、太閤様が寅(とら)の日に御覧になって、申(さる)の日に御買入になったなどいうものもありました。 太郎五郎など申す壷は、一番大きい方で、何しろ大手(おおて)を出ますと、モウ「下にいろ/\」でした。
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.48)


     戻りには干鯛
     我々采領黒縮緬無紋で、道中御徒士(おかち)の格でした。 本馬一匹人足五人というお許しで、道中の勢いといったら一通りでありません。 定宿(じょうやど)は極(きま)っています。 五十三次、駅々前触(つぎつぎまえぶれ)がありまして、また城主家老がその土地/\で出迎いを致しまする。 興津(おきつ)あたりでは生魚(いきうお)を沢山出しまするが、前途(ゆくて)を急ぐからといって置きますと、戻りには干鯛(ひだい)にして置いて土産(みやげ)に贈(くれ)ます。 小夜(さよ)では(たけのこ)のからしあえだとか、イヤ種々(いろいろ)道々の御馳走は喰飽(たべあ)きます。 道中の雲助達(くもすけたち)も知らぬものはありませんで、引眉(ひきまゆ)の大男が担(かつ)ぐ、威勢のよいものなんです。
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.48〜49)


     モウあの夢は
     さりながら御茶壷大名衆の鼻摘(はなつま)みで、道中で行遭う事なんかがあると、出迎えねばなりませんから、ソレと聞いて寺へ逃込み、逗留して遣過(やりすご)させる大名もあれば、鼻薬を配って無難を祈るのもあります。 これが役徳でした。 宇治へ着きますのは十三日目ぐらい、御茶壷は宇治へ持込み、我々は三条木屋町(さんじょうきやまち)へ陣取りました。 気楽で威張れて、下に居ろで、御入用お構いなし。 モウあの夢は二度と再び見られません。
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.49)


     初昔と後昔
     宇治の茶畑は実地を見分致すのです、土といい、樹といい、〔かれ〕切って居りまするが、宏大もなくあるかというに、左程でありません。 外(ほか)から(八幡(やはた)あたりから出る)参りますんで。 ……将軍の御茶詰(おちゃづめ)初昔(はつむかし)後昔(あとむかし)とありまして、前後二度に摘みまする。 不浄を忌み、なんでも五斤(きん)入三つぐらいだったかと思います。 この外(ほか)にはただの茶を沢山入まして、帰りには一町から続くぐらいでありまする。 また我々へは御風味(ごふうみ)と称して、小さな茶壷へ挽茶(ひきちゃ)を容れたのを贈(く)れますが、これは戻りに定宿で与(や)りますと、大層もない珍重。 ……ヤレ(おこり)が落ちるとか、寿命が延びるとか申したものです。
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.49)


     大井川川止
     その時は諸大名御茶壷に落合って、大分お腹(なか)が痛みます。 ソレは(たもと)の下を遣いますからな。 ……川が開いた時にも御茶壷が先へ渡らなければ渡る事が出来ません。 イヤ将軍の召喫(めしあが)る御茶すらこれでした。 …大した御威勢のもので……
    (《幕末百話/一四 将軍の御召料御茶壷》P.50)


    一六 三つ人魂団十郎の実家

     総取締大札
     猿若町(さるわかまち)一、ニ、三、に芝居のある頃、どなたも御存知の河原崎座(かわらざきざ)、今の団十郎(なりたや)の阿父(おや)河原崎権之助(かわらざきごんのすけ)太夫元(たゆうもと)で、この優(ひと)性来細かい、重箱を楊枝(ようじ)で洗う人物であったのを、三丁目総取締大札(そうとりしまりおおふだ)(名は忘れました)が、出方(でかた)や一同を押えて、蔭日向となって、庇(かば)っていたにも拘らず、どういう訳ですか、芝居茶屋鈴木屋(すずきや)猿屋(さるや)ソレと太夫元権之助とで申合わせて、大札をば失策(しくじら)かしてしまった。 ソコのいきさつは覚えません。
    (《幕末百話/一六 三つ人魂団十郎の実家》P.53)


     鯵切り庖丁
     大札は詰らない訳のもので、ある時芝居町(しばいまち)〔みさご〕鮨(ずし)の家(うち)の前を通りますと、ちょうど同家の小僧が鯵切(あじき)り庖丁(ぼうちょう)で〔コハダ〕をしきりと調(こしら)えていたんですが、大札がこれを見て同家へ立寄る。 勿論知った顔で、〔みさご〕の主人(あるじ)が「どうも大札さん、とんだ御気の毒な訳で」 と悔(くや)むと、「ナアに、反(かえ)って楽でいいのさ、時に済まねいが、小僧さんチョットその庖丁を貸してくんな」 と軽く出られたので、主人(あるじ)も「(よ)うござんすとも、二挺(ちょう)ありやすから」 と、これも何の気なし貸すと大事(おおごと)だ。
    (《幕末百話/一六 三つ人魂団十郎の実家》P.53)


     グサと横腹
     河原崎座狂言中仕切場(しきりば)に前の鈴木屋猿屋がいたんです。 ソコへ大札がツカ/\と入って、「(うぬ)、手前(てめえ)のために顔が潰(すた)ったぞ」 と言うより早いか、かの鯵切り庖丁でグサと鈴木屋の横腹へ文部大臣を極込(きめこ)んじゃったんで、ワッというその場の騒ぎ、これを大(おおき)くした日にゃア芝居に幕を打たねばならぬ。 ソコに居合した権十郎(今の成田屋の十二、三歳の頃)の男衆(おくり)で、大師亀(だいしかめ)というのが背後(うしろ)から忠臣蔵の本蔵を極める。 突(やら)れた鈴木屋は茶屋(うち)がスグ芝居の前だから、抱いて二階へ連込み、血はズウと筋を引くという始末、大札は番所へ縛(そびか)れたんです。 ……芝居は狂言中で知れずにしまいました
    (《幕末百話/一六 三つ人魂団十郎の実家》P.54)


    一七 昔の町人命拾い

     今の御時節
     申すまでもありません。 昔の商人は、一口(ひとくち)に素町人(すちょうにん)と呼ばれ、侍衆には頭があがらない。 罷(まか)り間違うと人斬庖刀(ひときりぼうちょう)で脅かされ、あんな圧制な、頭のあがらない時代もないもんでした。 ソレには中間(ちゅうげん)なんかが無理無心。 手がつけられないのです。 当今の御時節とは雲泥万里の差(ちが)い。 こうなくてはなりません。 同じ人民ですもの。
    (《幕末百話/一七 昔の町人命拾い》P.56)


     石をコツン
     ところで私というものが侍に危なく斬(やら)れ懸(かか)った、今でもゾッとする事があるんです。 マア聞いて下さいまし。 文久(ぶんきゅう)の頃です。 ある晩の事、四谷(今は金杉(かなすぎ)に住みますがその頃牛込です)の親戚へ呼ばれまして御馳走になり、ホロ酔い機嫌で、四谷大通りを夜のかれこれ十二時近く、帰(や)ってまいると、アトから石をコツンと蹴ってよこす者がある。 振返って見ると、お侍が三人大小(りゃんこ)が六本だ。 五体(そうみ)がゾッとして肉が硬固(しゃちこ)ばって、足が進まなくなりました。
    (《幕末百話/一七 昔の町人命拾い》P.56)


     無礼な奴だ
     三人の侍はバラ/\と私を取巻いて「無礼な奴だ。 石を後蹴(あとげ)に致したな」 と言うんです。 「ど、どう致しまして、左様の無礼を素町人の分際で致してよいものでございましょう」 と詫入れば、「黙れ、この方の臑(すね)に中(あた)ったぞ」 (嘘ばっかりいうんです)。 モウこの時は一人の侍、私の襟首を捉え、一人は手を押えているんです。 ヤッ試斬(ためしぎり)だなと思った時のヒヤッとした心持(こころもち)、胸はドキ/\ッと動悸の早鐘、蒼くなって震慄(ふるえあが)っちゃったんです。
    (《幕末百話/一七 昔の町人命拾い》P.56〜57)


    一八 天意人事江戸の落首

     風聞と落首
     昔は新聞という者のない代りに、評判というものが妙に伝わって来まして、風聞となります。 ソノまた風聞が落首(らくしゅ)となって、政治や、出来事や、何や彼(か)について風刺諧謔の意を洩(もら)しますが、天意人言(てんいじんげん)とはこれでしょうか。 各大名の家来にも随分旨(うま)く狂歌落首をやった連中もありますけれど、御城の御坊主衆のような訳にはいかない。 ソレと申すのは御坊主は何事も速く逸(はや)く聞きますし、悪口文才には老(た)けているから、鬼に鉄棒(かなぼう)、実に腹を抉(えぐ)るのがありました。 よく覚えていましたが、多くは忘れてしまい、筆記帳は焼いてしまいました。 惜しい事をしましたっけ。
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.58〜59)


     小林の狂歌
     私共の屋敷にも、狂歌の上手がありました。 こういうので。 ……コレは屋敷に小林(こばやし)といって、若いのに頭の禿(は)げた男がいたのです。 そうするとその狂歌先生が詠(よ)んだ「年ゆえか酒の故かは知らねどもまだ禿げるには少し〔こばやし〕」秀逸でしょう。
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.59)


     松平越前守
     落首の覚えた奴を考え出して見ましょう。 なんでも松平越前守春嶽(まつだいらえちぜんのかみしゅんがく)公が総裁の職につかれた時のが、
      越前(えちぜん)でおけばいゝのに二膳(ぜん)也惣菜(そうざい)しょくの胸の悪さよ
     そうかと思うと辛(ひど)い事を言ったのがあります。 「春嶽(しゅんがく)が山が外(はず)れて門(かど)が立つ」 獄門だといったので……悪い洒落(しゃれ)だ。
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.59)


     阿部伊勢守
     可笑(おか)しいのは御老中阿部伊勢守(あべいせのかみ)様が逝(な)くなられて、浅草西福寺(あさくささいふくじ)へ御葬(おほうむ)りになりましたが、間もなく右の西福寺が庫裏(くり)から火事を出して、丸焼(まるやけ)となったんです。 そうすると、たちまち世間へ飛出した落首がこうなんです。
      西福寺炭団(たどん)をいけて火事を出し
     これは阿部さんの御紋(くろまる)で真黒、炭団に似ているもんですから用いたんです。
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.60)


     桜田の一件
     恐らくあの井伊掃部頭(いいかもん)の時ぐらい落首の出た事はない。 あの桜田事件の噂さと共に「時にソレについちゃこういう落首があるんです」。 「イヤこういう狂歌もあります」という有様でした。 「桜田が桃の節句に赤くなり」とか、「紋所(もんどころ)やはり御難は辰(たつ)の口」 また「井伊鴨(いいかも)だ雪の朝(あした)に首を締め」 ソレもよいが、こんなのがありました。
      御道具の鞆(とも)は黄色で顔青し門は赤くて内はまっくら
     井伊家の一本道具、鞆は黄色に塗ってありました。 御門は今の参謀本部の所で、赤く塗ってあったんです。
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.60)


     嘉永の落首
     ソレにあるペルリがやって来た時、あの時も好材料で、いろんな落首がありました。 ちょうど今年みたいにコレラが流行(はや)ったもので、時の流行歌(はやりうた)にも「米国(あめりか)土産は大したものよペルリがコロリを置いてった」 また落首で今も覚えていますのは、
      日本を茶にして来たか蒸気船タツタ一ぱいで夜も寝られず
    (《幕末百話/一八 天意人事江戸の落首》P.60〜61)


    二三 音羽屋の滑稽旅芝居

     日光の見物
     俳優(やくしゃ)が旅へ出ると頤(おとがい)の外(はず)れるような滑稽が多い。 コレもその一つでしよう。 御維新間もなく、宋十郎(そうじゅうろう)菊五郎(きくごろう)寿三郎(じゅさぶろう)の一座で、宇都宮(うつのみや)へ出懸けたんですがこれが余程滑稽なんです。 別に給金がどうのこうのと言わず、女房を一所(いっしょ)日光見物を旁々(かたがた)宇都宮へ乗込むという話が纏(まとま)り、奥州街道を(すずめ)の宮(みや)とかいうのへ掛ると、土地の顔役床亀(とこかめ)というのが先達で、出迎いがあって、山駕籠へ花や毛氈(もうせん)を敷き飾り抜いて花々しく、これから乗込(のりこも)うというのでした。 役者衆も黒羽二重紋附に、仙台平(せんだいひら)秀調女形(おやま)ですから振袖姿
    (《幕末百話/二三 音羽屋の滑稽旅芝居》P.72)


     何と心得た
     床亀が先へ立って乗込む途中、明神がありまして、ともかくも神様へお参りしようとしたが、福草履(ふくぞうり)が見当らないので、一番景気よく俳優衆(やくしゃしゅう)を上げようという床亀の下知の下に、ワッといって石段を担(かつ)ぎ上げたまでは大した景気でしたが、神殿に向って一同柏手(かしわで)を打ち、額面を見ると、坂東亀蔵(ばんどうかめぞう)十二両、岩井何某(いわいなにがし)十五両という奉納があるから、「コリャ献(あ)げざアなるめえ」というと、音羽屋が「後にしようぜ」と言ったのを、神主が聞いてたものと見えまして、一同これから下山という間際になって、神殿へ鬼のような神主がヌッと現われ、「(おの)れなんと心得た。 河原乞食の風情として、下馬札のあるを心得ぬかこの分には置かぬぞ」、破鐘(われがね)のような声を発して怒鳴ったから、驚かないのなんではない。 皆青くなって担ぎ卸(おろ)させて見ると、石段の下には下馬札が立っているんでしょう。 誰も気がつかなかった。……。
    (《幕末百話/二三 音羽屋の滑稽旅芝居》P.72〜73)


    二五 両国橋上老人の生活

     橋の上
     両国橋(りょうごくばし)といえば江戸繁華の両天秤(てんびん)、向う両国との釣合(つりあい)を取っているようなもので、その橋の上の所に生活していたのが私共の老父(おやじ)であります。 幼年の頃聞いて居りましたが、真(まこと)にはや妙なお話をするようでございますが、頃は天保(てんぽう)五年でして、同橋の中央(なかほど)(後には橋袂(はしたもと)でした)に、自身番(じしんばん)で設けたところの橋番小屋(はしばんごや)がありました。
    (《幕末百話/二五 両国橋上老人の生活》P.77)


     放し鰻
     そこには老人の爺(じい)さんや婆(ばあ)さんが役目を吩付(いいつか)りて、見張や往来の注意をしまする。 一箇月の月給はというに、一分(ぶ)でした。 自身番で「どうだ両国橋の小屋が開いたが、入らないか」との話に、遊んでいるよりは宜(よか)ろうと雇われたんだそうで。 ……ところでもってここに一つの役徳とも申すべきは、(うなぎ)を売りますんで、これは黙許となって居りました。 放しうなぎと称(もう)して、大小の鰻を飼って置き、信心(しんじん)の人々善男善女が、月の朔日(ついたち)とか、十五日に、南無阿弥陀仏を唱えて放します。 これが大きい鰻で八文(もん)、小さいメソッコで四文ですが、このメソッコは、橋から下へスポンと放(なげ)るていと、下の水に撲(うた)れて、大概が死んでしまうもんだそうで、放しうなぎでない。 これじゃア殺しうなぎです。 ……それとも御存知なく後世(ごせ)をお願いになりますが、すべて浮世の物はこうなんです。 裏から見ると万事これ。
    (《幕末百話/二五 両国橋上老人の生活》P.77〜78)


     実に楽
     橋の上ですから、大風が恐いそうです。 吹き飛ばされないとも限らない、ヨボ/\の阿爺(おじい)さんに、ヤニッコイ小屋ですもの。 ソックリ河へ持って往かれないとも限らない。 ソンなこんなから橋際(はしぎわ)へ移すに至ったんでしょう。 ……ソレに幕府(おかみ)からはただ「葬礼(おとむらい)を数えて置け」との一命令があるばかり、外(ほか)にはなんにも用はない。 今の鉄道の踏切番なんかとは大違い、実に楽なもので……。
    (《幕末百話/二五 両国橋上老人の生活》P.78)


     一の袋
     よく夜中に鰻飯の残余(あまり)を与(く)れたり、大ザッパを極(き)める人があるてえと、きっと泥坊なんです。 ともなくば巾着切(きんちゃくきり)で、この巾着切でよく話しましたのは、両国の花火の時、その前よりよく深切(しんせつ)にしてくれた若い男が、その日に一つの袋を持って来て預けたから、預かって置くと、チョイ/\来ては何か容(い)れて往くから、ナニをするのかと思って、その袋を覗(のぞ)いて見たら、紙入(かみいれ)巾着がコテと入っていたそうです。 全く巾着切だったんで。……。
    (《幕末百話/二五 両国橋上老人の生活》P.78〜79)


     一人口
     隠居仕事にはしかし持って来いでした。岡引(おかっぴき)がよく見張に見える。投身(みなげ)を認(み)れば留(と)めるくらいですが、別に投身(みなげ)を留めた話も聞きませんでした。マア一人身の老人(としより)ならカツ/\喰べて往くというだけなんです……。
    (《幕末百話/二五 両国橋上老人の生活》P.79)


    二六 彰義隊の一人引張出され党

     どうなる事か
     私なんざアなにも彰義隊へ出る気はなかったんですが、出ないと斬(や)られて了(しま)いますんで、引張出(ひっぱりだ)され党なんです。 ……先日もどなたかのが出ていましたが、真にあの通り、彰義隊敗軍になった時には、どうなる事かと思いました。官軍は慥(たし)かに機先を制したので、御旗本や志ある者は立遅れとなって、どのくらい四方へ逃げたか知れやしません
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.79)


     下谷の空店
     もっとも裏切があったんです。 これも慥(たし)かで総崩れ。 ……私は坂本の所で鉄砲を撃っていたんですが、「ソレ裏切だ」となって、ドッと総崩れとなった時、モウこりゃア●(かな)わんと思いましたから、早速(さそく)の早術(はやわざ)野袴(のばかま)大小を脱し、袴はクル/\と丸めて捨(す)ててしまい、大小は(こも)包みになし、とある下谷空店(あきだな)へ飛込み、を剥(へが)してソイツを頭へ被(かぶ)り、手拭で上から鉢巻をなし、別に一畳の畳を持って、大胆にも官軍の陣へ飛込んで、鉄砲防ぎの畳を持っていった。 これが図に中(あた)って官軍の兵卒「イヤ御苦労/\」と言って、金を一歩(ぶ)(く)れました。助太刀(すけだち)をすると思ったんでしょう。
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.80)


     品川の沖へ
     これで自分の心を慰めて、菰(こも)へ包んだ大小を背負い、一旦屋敷へ帰って見ると、屋敷では大変、皆な奥州へ逃げる乃至(ないし)傷を受けて来て死んだ人や、自殺をした連中には御膳籠(ごぜんかご)へ容れて、魚藍(ぎょらん)から伊皿子(いさらご)へ出て、品川(しながわ)の沖へ石をつけて沈めたなんぞという間(なか)ですから、コリャア居られぬと、私も逃出して、上州(じょうしゅう)へ落ちました……。
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.80)


     姉ケ崎落ち
     上州の沼田(ぬまた)(赤城山(あかぎさん)の下)へ往きまして、お恥ずかしい話だが、身(からだ)が危険(けんのん)という点(とこ)から、丸新(まるしん)という料理店の板前となったもんです。 性来料理の事を心得ていたもんですから。 ……しかし段々考えて見ると詰(つま)らない。 ……馬鹿々々しい、人間に二つ命があるんじゃアなし、こんな田舎にいてどうなるものかと考え、江戸へ帰って見たんですが、イヤやっぱり捕(つか)まりそうで、再び上総(かずさ)へ落ちました。 ……上総の姉ケ崎へ……。
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.80〜81)


     六郷在の寺
     これは同所に大野喜十郎(きじゅうろう)という屋敷の幕府党が居たからで。 ……ここで白縮緬(しろちりめん)ヘコ帯に、小倉の服を買う(会津(あいづ)〔チン〕/\という金で買いました)。 また官軍と戦いましたが脆(もろ)くも負けた。 大野は額へ弾丸(たま)を受けてブッ倒れたが、「大井(おおい)(私のこと)官軍に首を取られちゃあ情けない。介錯(かいしゃく)してくれッ」 と虫の呼吸(いき)の下からこういうので、介錯したが、旨(うま)く斬れませんもんで、ヤッと首を取って山中へ逃込み埋(う)めました。 ソコでまた「エエ、殺されたら殺されろ」と江戸へ戻ったんですが、最初は六郷在矢口(やぐち)の渡(わたし)の寺に厄介になって、幸いにも無事平穏を得ました。
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.81)


     桜井仙之助
     夢のようですよ、こうして泰平(たいへい)の世に居るのは、なんとも申しようのない次第で。 ……上野の戦争の時なんぞも恐ろしいの何のと、散々(さんざん)のようでした。下谷坂本の酒屋の所では、榊原(さかきばら)の高弟桜井仙之助(さくらいせんのすけ)が水を呑(のも)もうとして脾腹(ひばら)を撃(うた)れ、アッといって落入る時なんぞは、芝居で見るようなもんじゃアない。 恐ろしい凄いもんで。 ……マア/\今じゃア御笑草(おわらいぐさ)ですが、実に骨灰(こっぱい)もんでした……。
    (《幕末百話/二六 彰義隊の一人引張出され党》P.81)


    二八 横浜芸妓の一昔前

     酒間の周旋
     廓外の料理屋へ呼ばれても、箱屋がつき、夜は十二時限りで帰宅します。 線香一本三十五分極(ぎめ)で、値段(ねだん)は十二銭五厘でした。 好(すき)なお話をしますが。 ……で良人(つれあい)があっても立派に務められたもんです。 反(かえ)って良人のある芸妓娼妓の方でも安心して呼んだもの。 全く酒間(しゅかん)御周旋(おとりもち)といった風で、昔の面影がありました。 意地も張(はり)もありました。 今のようじゃアありません。
    (《幕末百話/二八 横浜芸妓の一昔前》P.85)


     お客と芸妓
     お客さんに関係すれば、を止められ、商売は上(あが)ったり。 その頃杵屋(きねや)おつねというのが、亀善(かめぜん)番頭左七(さしち)さんと関係して止められ、三介(さんすけ)というのも相撲の旭嶽(あさひだけ)に関係して止められましたが、この方は相撲の家内になりましたよ。 その頃百人もあった芸妓の内で、名代の人々は大和屋(やまとや)お鉄(てつ)杵屋(こ)さんニ三(にぞう)、若手でおつねなどでした。
    (《幕末百話/二八 横浜芸妓の一昔前》P.85)


     横浜の道中
     横浜にお出(いで)の方は、お思出しでしょう。 ちょうど神風楼(じんぷうろう)小町(こまち)という花魁(おいらん)があって、妹分(いもとぶん)七町(ななまち)というを突出した時、道中をしたんです。 これが二十一日間で、道中の初めてです。 出入の者や茶屋などへ総四季着(そうしきせ)を出し、茶屋の花暖簾(のれん)から積夜具(つみやぐ)裏面(うしろ)に余程のお客がいたもんと思われました。ドル相場のドカ儲けのある頃ですから後楯になったんでしょう
    (《幕末百話/二八 横浜芸妓の一昔前》P.86)


     遊んだ人々
     その頃のお客で覚えています人々はこうです。
      天下の糸平(いとへい)郡内屋(ぐんないや)の旦那。松木屋(まつきや)の旦那。野沢屋(のざわや)の旦那。ともゑ屋(や)の旦那。会津屋(あいづや)(はま)さん薬屋の茂助(もすけ)さん。天麩羅屋(てんぷらや)の善助(ぜんすけ)さん。亀善番頭連(内にも佐助(さすけ)さんが一番の遊び手)。ばらき(せん)さん。
     弁天の祭礼などには、名妓二十七人総揚げ、三日間一人前十二円ずつでした。 そして忌(いや)らしくなかったのが今と大違いですよ。
    (《幕末百話/二八 横浜芸妓の一昔前》P.86)


    三四 むかしばなし御鷹匠の事

     広尾の屋敷
     種々(いろいろ)お話が出ましたが、自分が御鷹匠(おたかじょう)について少々習いましたお話を述べて見ましょう。 雑司(ぞうし)ヶ谷(や)に近藤(こんどう)という徳川の鷹匠がありまして、その家に厄介となっていますと、広尾(ひろお)の某御下屋敷へ、鷹がよく来るが捕れるかとの話となり、師匠近藤が捕(とり)に往く、供をしましたが、ドウして捕るものかと思っていましたら、その御下屋敷の原中に、一本の松がありまして、この松へ来るので、ソノ松の下を少し離れて、テグス網を張りますが、コレは上を開いて四角に屏風を囲ったようにして、中へ五十羽ぐらいのを置くのです。 朝それを出しちゃア、晩に仕舞う。 幾日となく行(や)っていました。
    (《幕末百話/三四 むかしばなし御鷹匠の事》P.99〜100)


     用意の頭巾
     スルとある日鷹が来たかと思うと、ツウと下へ降りるや否や、脇から斜(ななめ)に飛び来って、雀を奪おうとしたが、待設(まちもう)けた網へクル/\と包まれて引懸る。 コレが(はやぶさ)で、師匠近藤は駈付けるや、十二枚の尾翼(おばね)を直(す)ぐに押え(鷹も翼(はね)を大事がる鳥ゆえ、ジッとしています)、次(つい)で風切(かぜきり)をイタメ〆紙(しめがみ)のような厚紙で巻き、かねて用意の小さき頭巾をスポリ鷹の頭(かしら)へ被(かぶ)せますが、爪を網から取るのが難かしい。 第一に中指から取り、拇指(おやゆび)を取れば、アトは順よく外(はず)れます。 ソレから家(うち)へ連返って暗黒(まっくろ)な戸棚へ入れる。足皮というのを嵌(は)めまして、……帽子はチャンと被せたままです。
    (《幕末百話/三四 むかしばなし御鷹匠の事》P.100)


     咽喉の餌袋
     昼間は雀二羽結んで置いて、夜もまた二羽、コレが一日の御馳走です、夜に至ると昔の五ツ(今の夜八時頃)より夜中ニ時頃まで諸方をすえて歩く、こうして一箇月も仕込む。 どうやら馴れたかと思う時分、庭の雀なんぞを合わせて見ると、その鋭さが分ります。 ソレから馴らしてよい仕込(しこみ)にしようとします。 コノ捕えた鷹も大分(だいぶ)馴れたんですが、咽喉(のど)の餌袋(えぶくろ)が丸くなく尖(とが)っていたので、医者がコレは助からぬとの話に、「鷹が死ぬと七代祟(たた)」という言伝えがあるもんですから、逃がしました。
    (《幕末百話/三四 むかしばなし御鷹匠の事》P.100〜101)


     意趣がえし
     よく参りましたのは砂村(すなむら)疝気稲荷(せんきいなり)のワキの出雲(いずも)のお下屋敷。 −−イヤ広いのなんといって大だまりを覗(のぞ)くと、雁鴨が群をなしている。 実に面白いくらいで。 鷹の合間には伏網(ふせあみ)で沢山取りますが、コレは役徳だとかいうお話でした。 その頃公儀の鷹匠といっては、先日出ましたお茶壷同様、やはり威張りましたもので、その一例と申すと、こういうお咄(はなし)があります。 同じ仲間に正之丞(まさのじょう)というがあって、この仁(ひと)が詰らんお話をしますが、品川へ遊びに往き、百足尾張屋(むかでおわりや)という(うち)へ登(あが)り、娼妓お角(かく)というのを相方としたんですが、振られたものか、辛(ひど)い目に逢って残念で溜らないというので、いつか意趣返しをせにゃならぬと言っていましたが、果して意趣を返しました。
    (《幕末百話/三四 むかしばなし御鷹匠の事》P.101)


     職権の濫用
     ソレはどうしたかと言うと、品川の方へ御鷹を据えてまいる時百足尾張屋を御鷹の宿に定めたもので、コレが大変な難有(ありがた)迷惑で、その夜はお客が取れない、内々(ないない)内所(ないしょ)へ登(あ)げるくらい−−で、夜中になると内所で騒ぐ。 こっちはソレを待構えていたので「貴様の家(うち)では御鷹の宿をしながら、客を取ったな。 御鷹が目を覚したらどうする。 このままには捨置かれぬ」。 楼主も女房も皆平身低頭詫入って、恐しい御馳走をしましたが、今なら職権の濫用で免職でございましょうテ……。
    (《幕末百話/三四 むかしばなし御鷹匠の事》P.101〜102)


    三六 渡り祐筆筆舐ピンコ

     サンピン士
     旗本屋敷の渡り士(ざむらい)のお話、現在自分で演(や)った境遇をお話しいたしましょう。 よく芝居などでも申しますな。サンピン士(ざむらい)、アリャア旗本屋敷に抱えられると、給金が一年金三両、白米一人扶持。 ソコで三一だからサンピンといわれたもので、御刀番(おかたなばん)とか、供頭(ともがしら)と唱えましたがなか/\人の悪い連中の団体(かたまり)。 殿様が御役付となって、町奉行とか大目付とかになると、にわかに威光を冠(かぶ)って、肩で風を切ったもんです。 出入(でいり)諸商人(あきんど)を泣かす。 附渡(つけわたり)の用人(ようにん)というがあって、コレは俗に味噌摺(みそすり)用人で、賄賂を烈しく取る。 総て願い事をその配下から出すと、殿様は一向御存知ない。 用人任せとて至急の届(とどけ)袖の下が来ないと何日(いっか)でも延していたもんです。
    (《幕末百話/三六 渡り祐筆筆舐ピンコ》P.104〜105)


     御持恐入る
     その内に賄賂を持込む。菓子折とか、鰻の切手、箱の下には一分銀が並べてあります。「先般願いました件は何分共に……コレは途中求めました品で、御子様へ」 と差し出せば、まるで手の裏返したように変って「明日は必らず願済みになるよう取計らいましょう。 イヤこれは御持(おもたせ)恐入る。 かような事をなされては、いかにも心苦しゅうござるが、御厚意なれば受領致しまする」。 旨い事をいって公然と賄賂を取ったもんです。 就中(なかにも)大目付町奉行の渡り者と来たら、この役徳の福々しさ。 三一連(れん)はこの空(あき)を覘(ねら)って入ろうとしますが、なか/\空が出来やしません。
    (《幕末百話/三六 渡り祐筆筆舐ピンコ》P.105)


    四一 御関所女手形御手判

     裏道間道
     諸国御関所御番(しょこくおせきしょごばん)という役目がございまして、私はその掛(かかり)を致しましたから、詳しく申しましょう。 御婦人方は昔は窮屈千万、御手形(おてがた)と申す女手形を貰わねば一切通行は出来ません。 もっとも箱根(はこね)なんかには俗に木曾(きそ)と称(とな)えて、裏道間道(かんどう)がありましてすが、万一現われたら重罪に処せられまする。 この女手形と唱える者は、改役(あらためやく)とて、公儀から諸国御関所へ大名旗本を御遣(つかわ)しになります。 例えば箱根御番所大久保加賀守(おおくぼかがのかみ)様、今切(いまきれ)松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)碓氷横川(うすいよこがわ)板倉主計頭(いたくらかずえのかみ)上州川俣(じょうしゅうかわまた)松平下総守(まつだいらしもうさのかみ)、その他の関所は旗本の面々が持(もち)でございました。
    (《幕末百話/四一 御関所女手形御手判》P.117)


     盆暮の附届
     女手形の元締(もとじめ)は、御本丸御留守居持で、諸大名より願書にその云々を認め、御使者を以てお頼みになる。 御留守居は役高五千石(御用番(ごようばん)一人与力十騎同心五十人)で、文久(ぶんきゅう)二年は佐竹日向守(ひゅうがのかみ)加藤伯耆守(かとうほうきのかみ)堀伊豆守(ほりいずのかみ)酒井肥前守(さかいひぜんのかみ)戸川播磨守(とがわはりまのかみ)跡部伊賀守(あとべいがのかみ)関出雲守(せきいずものかみ)様六人で、国主大名は御頼付(おたのみつけ)といって、これら御留守居へ盆暮の御附届がありますが、殿様へは白木三方(しろきのさんぽう)へ小金一枚、公用人三名へ金千疋(ぴき)で、ソノ女手形を認めるのは、祐筆があります。 コレにも附届があります。 けれども三つ割で用人が二つ取り、祐筆へは一つだけなんで、この祐筆が三人ですが誠に詰りません。 御無礼ながら私共はそれゆえ〔きんたま〕祐筆といわれていました。
    (《幕末百話/四一 御関所女手形御手判》P.117〜118)


     御師匠番
     大名中でも、附届でなく、偶(ふい)に大名より頼まれると、殿様千疋、用人三百疋、祐筆もソレに準じますが誠に僅少(わずか)です。 しかし盆暮には収入(みいり)が多く、悉皆(しっかい)集めますと、餅カケ一つぐらいになりますが二十五両包みですから気が大きくなります。 また御留守居の新役が出来ますと、古い方は御師匠番となるのですから、我々を始め、用人が教えてあげるので、その新役の方は大した御馳走をします。 御膳籠(ごぜんかご)で御留守居部屋へ種々(いろいろ)と担ぎこんだものなのでございます。
    (《幕末百話/四一 御関所女手形御手判》P.118)


     一覧済
     御関所女手形の模様を申すと、文字を選み、御手判紙(おてはんがみ)という厚い紙で、別に紙屋で製しますのを使い、なるたけ文字を端から認めるのは、入墨の出来ぬよう、女という字ば襷(たすき)の出ぬよう書きますが、一つ書いて御覧に入れましょう(別書式の通り)。 これを御関所通行の際、御関所番人へ差出せば、一覧済にて「通らっしゃイ」というので、御関所が通れます。
    (《幕末百話/四一 御関所女手形御手判》P.118)


     弾左衛門
     浅草亀岡町(あさくさかめおかちょう)穢多頭弾左衛門(だんざえもん)より、御関所女手形の願い出がありますと、御留守居玄関敷台より外へ登ることは出来ません。 手形雁書を認め、白木三方へ載せ差出します。 公用人玄関の上で受取り、女手形出来(しゅったい)の上は、本人即ち弾左衛門自身駕籠に乗り、若党刀番(わかとうかたなばん)附添い、御玄関まで請取(うけとり)に出頭しまするが、さすが附届がない。 有っても受納されやしません。 これだけはムダで、骨折損だと思っていました。 アハハハまずこんなもの。
    (《幕末百話/四一 御関所女手形御手判》P.119〜120)


    四五 調練の太鼓関口と白石

     長崎の練習
     日本へ西洋の調練と同時、調練の太鼓が始まりましたが、ズッと前が阿蘭陀(おらんだ)式の太鼓で、各藩並(ならび)に旗本の子息(むすこ)達が、これを習い、盛んなものでした。 コレが初めての伝習については、可笑(おかし)なお話なんで、今でこそお話しします。 ……お笑い種(ぐさ)に。 ……以前は内密でしたろう。 国体に関するから……と申すのは、ソレを長崎幕命で練習に往った人というのは。御家人の関口鉄之助(せきぐちてつのすけ)白石大八(しらいしだいはち)の両人でござんした。 御家人がどうして選抜されたかというに、この両人は馬鹿囃子(ばかばやし)の名人で、役目は御鉄砲同心(おてっぽうどうしん)、道楽に馬鹿囃子を演(や)っていた。 何が幸いになるか分らんもんで、阿蘭陀式の太鼓を習うのには、どうしても早く覚えるだろうというので、選抜となったのです。
    (《幕末百話/四五 調練の太鼓関口と白石》P.127〜128)


     三種の太鼓
     この人々が長崎で半年阿蘭陀人から習い、覚え込んで江戸に帰り、小石川西富坂町(こいしかわにしとみざかちょう)御鉄砲方(おてっぽうかた)田村四郎兵衛(たむらしろべえ)方で教えました(これは関口がです)。 三百人から大小名(だいしょうみょう)並に旗本の子息が出懸け、太鼓を叩くその騒々しさ、耳も聾するばかり、太鼓はというに、胴の径尺(さしわたし)一尺三寸の大きさで、コレには三種類あります。真鍮(しんちゅう)というのが第一等の品、次がブリキ胴、下等になると桶皮(おけがわ)で、シンチュウが三両でした。ブリキが一両一分。桶皮だと三分から二分二朱でした。 太鼓のゴロウの袋へ入れてさげて歩いたものです(太白(たいはく)の赤、もえぎでくけたりして)。
    (《幕末百話/四五 調練の太鼓関口と白石》P.128)


     日本マルス
     最初習いますのがディンストマルス(早足の時叩くもの)で、ソレからヤパンマルス。 これは関口らが長崎で阿蘭陀式から割出して、例の馬鹿囃子を加味したものか。 日本人の発明に係わる曲なんです。 ヤパンマルス即ち日本軍行進曲といったようなもので。 ……次がコロニヤルマルス。 その次がフランスマルス。 さて難しいのがレジントマルス。 これを合せて五マルスと称しました。 幕府では築地(つきじ)講武所で練習させましてす。 小石川の関口の宅では月謝が五百疋(ぴき)でした。 申し残したが太鼓の皮はヤギが上等で五十銭。 外の皮は二十五銭。 下手がやるとコイツがよく破れます。マズいろはを申すロップルとて二つ叩(うち)を教える。 次に五つ叩ホロロム。 次に九つ叩ホロロンロン。 次にエンテイ(うち方です)。 そして段々と重複したものにする。 これが慶応(けいおう)には仏蘭西(ふらんす)式となって、阿蘭陀は廃(すた)れて来ました。 ソレから英吉利(いぎりす)となったんで、今じゃア独逸(どいつ)のようですな。 私は太鼓の係で、銃人太鼓調理方(じゅうじんたいこちょうりかた)という書付を貰い、今なお保存しています。 御目見得以上(おめみえいじょう)は、年白銀二枚です。 関口白石は、慥(たし)か後に指図役(さしずやく)となり、陸軍士官ぐらいでしたろう。 イヤいろ/\な事がありました。 一番叩いて御覧に入れましょう(ホロロン/\と初まったけれど、コレは翻訳が出来ませんからそのまま)。
    (《幕末百話/四五 調練の太鼓関口と白石》P.128〜129)


    五四 旧幕歩兵洋服の変化

     歩兵の内幕
     幕府の歩兵西丸下(にしまるした)大手前(おおてまえ)三番町(さんばんちょう)小川町(おがわまち)と四個所にありまして海陸戦総奉行(かいりくいくさそうぶぎょう)松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)で陸海軍を兼ねた大臣という振合(ふりあい)、私は大手前の歩兵指図頭取(ほへいさしずとうどり)を致しましたが、詳しい事は知る人ぞ知る、敗残の将は兵を談ぜずとやら、幕府の歩兵の内幕、別に申すことはないと言っておきましょう。 ただコノ写真で服装の変化を御覧下さいまし。
    (《幕末百話/五四 旧幕歩兵洋服の変化》P.149〜150)


     素人の写真
     第一の写真は私二十一歳の時で、長州征伐に赴く前でありました。元治(がんじ)年間で、講武所奉行(こうぶしょぶぎょう)渡辺甲斐守(わたなべかいのかみ)(五千石)の子息(むすこ)さんが写したもので、素人としては感心によく写しました。 和洋折衷という服で、窮屈なもんで、しかし勇ましい点もありましょう。 手前味噌ながら……。
    (《幕末百話/五四 旧幕歩兵洋服の変化》P.150)


     オランダ式
     第二の写真は長州征伐の時で、私共大手前は御中軍(ごちゅうぐん)と称して、将軍警衛で、大阪表(おおさかおもて)まで赴きました。 大阪表の写真師は、天満橋向(てんまばしむこう)の「九一」というがその頃名人でした。紙写(かみうつし)三枚で代価は三分(ぶ)を払ったです。 この時はまたさした変化(かわり)もありませんでしたが、時代の趨勢は恐ろしく、第三の如く態(さま)を変えさせます。 もっともこの時分は阿蘭陀(おらんだ)であった。
    (《幕末百話/五四 旧幕歩兵洋服の変化》P.150)


     サアベル魂
     しかるに阿蘭陀式は新式でないというところから、仏蘭西(ふらんす)が採用され、幕府歩兵の大改革根本から変るという事になってから、頭はちょん髷(まげ)胴脚(どうあし)仏蘭西という風になりましたので、御覧の通りの第三の写真ですどうですな。大和魂サアベル魂となった。 この時は大鳥圭介(おおとりけいすけ)さんや岡田善長(おかだぜんちょう)(豊後守(ぶんごのかみ))の支配でこの服装はというと仏人教官シャノワン氏の服を模造して拵えさせたもので、「膝取(ひざとり)マンテル」といいました。
    (《幕末百話/五四 旧幕歩兵洋服の変化》P.150〜152)


     陸軍の編制
     ソレが明治に入って幕府滅亡の暁、聖天子の下(もと)陸軍が組織された。 明治元年の四月江戸城が薩長の収むるところとなり、陸軍を編制された。 第四の写真は四年三月中旬名古屋藩定備兵(ていびへい)仏式歩兵科教官の時に写したんですが、ちょうど広沢参議(ひろさわさんぎ)が刺されて評判の頃でありました。 この歳(とし)の八月に一般の散髪脱刀を命ぜられて、私共はソレより先きに御覧の通り散髪となっていました。
    (《幕末百話/五四 旧幕歩兵洋服の変化》P.152)


    五五 袖の下時代数奇屋坊主

     殿様替玉
     賄賂の利目はソレばかりでない。 諸大名で嫡子がなく、殿様が逝去(なくなら)れたとなった日には、御養子の極(きま)るまでこれも大層の黄金(かね)が懸るんです。 御死体は朱詰(しゅづめ)として秘密になし、跡目(あとめ)養子が極ると、病気の御届を老中へ進達する。 若年寄大目付御判元見(ごはんもとみ)と唱え屋敷へ来られます。 この際御頼付(おたのみづけ)の御坊主が諸事万端取扱い、種々御馳走を勧め、御坊主の指図で、殿様御居間に若年寄大目付が通られると、六枚折の枕屏風(金屏風)が折廻してあって、生存中の態(てい)に倣(な)し、御屏風の裡から用人(ようにん)がソッと殿様の替玉で願書を差出す。 用人の役こそ大仕事。 ソレで公辺無難に済みますが、実際は賄賂の力でした。 なんでも金の世の中です。
    (《幕末百話/五五 袖の下時代数奇屋坊主》P.154)


    五六 浮世床ちょんまげ話

     徳利手拭膝頭
     昔の方はちょん髷(まげ)ですからオックウでした。 ソレに髪結床(かみゆいどこ)の亭主といったら見識を持っていて、御客さんに一様尋常(とおりいっぺん)のお世辞。ヘイ/\なんかしません。 コレは御客の方がヨク結(ゆ)って貰おうという考えと、ちょん髷(まげ)という奴が結人(ゆいて)が代わるとカラッキシ顔違いがするので、滅多に床(とこ)を換えませんからで。 ……サテそのちょん髷(まげ)を習うのには、十年から年季を入れます。 初め小僧の時にちょん髷の稽古するには、徳利(とっくり)の口へ髪の毛を結(ゆわ)いて置いて、ソレで形(かた)を稽古します。 起用不器用もありますが二、三年は徳利がお客様なんで、剃刀(かみそり)だってそうです。ホウロクの尻を剃(そ)らされ、大概穴の開くまで毎日々々剃らなくっちャ一人前になれません。 ホウロクに穴が出来てから自分の膝頭を剃るんですが、下手を剃ると銭湯に往って疼(しみ)るの疼(しみ)ないのじゃない。 眼から火が出ます。 これが修業で……。
    (《幕末百話/五六 浮世床ちょんまげ話》P.154〜155)


     西瓜を殺いだよう
     膝頭が剃れ、徳利(または手拭(てぬぐい))が結(ゆえ)るようになると、徐々人間(そろそろほんもの)へ懸るんてすが、初(はじめ)は脅えて不可(いけ)ません。 当今は顔だけですが、昔のは頭を剃るのが実に難しい。 始終剃るから青々として髪の硬(こわ)い人と来たら三番泣せ。 三番とは通例床屋には床師(とこし)といって髪を結うのと中床(なかどこ)といって、顔や頭を剃るのと、三番小僧とで、順々にお客様を取扱(あつか)うのですが三番の頃がエテ失策(しくじり)ます。 ソレも頭で遣損(やりそん)じて、脳天をヨク西瓜(すいか)を殺(そ)いだようにゲッソリ殺(や)ってしまうんですが、中にゃア「イヤ金が身に入ったのだ。 縁起がよい」と苦い顔をしながら親方を論(なだ)めて下さる方もあるが、ソウばかりはゆかない。 烈火の如く憤(おこ)り、辛い目に遭い/\して修業を積んだものです。
    (《幕末百話/五六 浮世床ちょんまげ話》P.155)


     九段の百貫床
     ちょん髷の名は銀杏(いちょう)(ほそ)銀杏くずし(おし)まげ銀杏等であります。奥州の士分(さむらい)押まげを結い、九州の方は(ほそ)で、その賃は二十八文取ります。〔とまり〕仕事といって、旅の人だと三十二文取ったもので、江戸市内で一日百貫取る床(みせ)といったら九段中坂(くだんなかざか)いかり床(どこ)ぐらいでしょう。百貫床と申しました。芝赤羽根(しばあかばね)瓢箪床(ひょうたんどこ)というのがあって、公儀普請−−公儀で家(うち)を下すったもんです、その代り御成(おなり)の時には、ここへ詰懸けたものなんで。 税はない代り(後にはそうでもない)種々(いろいろ)役目、火事に駈付けるとか、高札を護るという掟(おきて)がありました。 その頃髪結床のかかりは、今から見るとなにも要りません。 早いお話がびんだらい尻敷板(しりしきいた)(お客がしくもの)、毛受(けうけ)(扇面形で髪やふけを受けるもの)、手水盥(ちょうずだらい)等、今日日(きょうび)じゃアに金目(かねめ)が懸りますが、ソンなものは要りゃアしません。
    (《幕末百話/五六 浮世床ちょんまげ話》P.155〜156)


     髪切り二十五銭
     これが御一新後散髪となるので、皆さん呉服橋(ごふくばし)床司(しょうじ)で二十五銭取られ、ちょん髷を切って来る。 慥(たし)かその頃です。銀座原床(はらどこ)築地徳次郎床(とくじろうどこ)本町(ほんちょう)川名床(かわなどこ)海運橋(かいうんばし)二階床(にかいどこ)なんぞいうのがあって、横浜仕込(しこみ)で、官員様(かんいんさん)の頭を刈る。 で従来の髪結も(はさみ)を持たざアならぬという事になって、前記の床屋へ覗(のぞ)きに往き、鋏と櫛(くし)を買って初めたが、刈手も刈られるお客も御存知のない方だから、どんなのがよいか、ソンな事は分らない。 ソレに刈手はただ鋏をチョキ/\音させるのが上手らしく見えるので、無闇矢鱈(むやみやたら)チョキ/\やってお客の耳をチョキと切ることが度々(どど)あるんです。 間(ま)が悪いと日に三人四人の耳を鼠(ねずみ)の歯の痕(あと)ぐらいにチョギッたもので、お客さんは恐怖吃驚(おっかなびっくり)でしたろうが、こっちは一生懸命でした。 どうも左はよいが右が手勝手(てがって)悪く、アッと思う内切りましたよ。 散髪の初めはこんなものでした。
    (《幕末百話/五六 浮世床ちょんまげ話》P.156〜157)


    五九 老人の記録辰歳のあらし

     時刻は十時頃
     今度の暴風雨(あらし)について思出しますのは、安政辰歳(あんせいたつどし)の暴風雨(あらし)で、七十からの方なら御存知でありましょう。 あの時の辛(ひど)さといったら、どうして今度の暴風雨(あらし)なんか孫玄孫(まごひこ)ヤシャゴでしょう。 時刻は今で申す夜の十時頃から辛(ひど)くなって、払暁(あけがた)に及びました。 もっとも日の内から雨と風で天候恐しく不穏でしたが、空模様も悪く、イヤに暖い風が吹いていると思ったら、ソレが大南(おおみなみ)−−俗にいう〔イナサ〕という風で、サアその吹き荒れたことといったら、雨戸や何かで防げたものでない。 雨戸の後へ畳を積懸けて置いても、雨戸は弓の如くシナッてしまう。 その内に水が出る。
    (《幕末百話/五九 老人の記録辰歳のあらし》P.162〜163)


     永代橋の中央
     水なんか出た事のないのに台所の揚板(あげいた)が浮き出すという騒ぎ。 その時には亀島町(かめじまちょう)に住んでいましたが、雨戸がシナッてアナヤという内二つに折れると、その一つは何所(どこ)へ飛んだと思召す。 床の間の天井をブチ抜いて天井裏から何所(どこ)かへ突抜けていってしまった時の恐ろしさといったら忘れやしません。 何が何だか知らぬがゴオー/\という響きからギーミシ/\、ガラ/\/\瓦は飛ぶ樹は折れる。 物干なんかは二町も三町もデングリ返しを打って行方知れず。 出入の者が来ての話に、「永代橋(えいたいばし)を親船が中途から切ってしまった」との事で、よく聞いて見ると、大きな親船が吹飛されて、永代橋を中央(まんなか)頃から千断(ちぎっ)て何所(どこ)へか沈んでしまったというのです(築地(つきじ)本願寺(ほんがんじ)がつぶれ死人がありました)。
    (《幕末百話/五九 老人の記録辰歳のあらし》P.163)


     高輪へは親船
     アトでまた聞きますと、深川(ふかがわ)の仮宅に遊んでいた商人は言うまでもない、武士(さむらい)連もこの暴風雨(あらし)に遊んでいる所でないから、我家、吾が屋敷を目懸け駕籠を飛(とば)して帰る途端に、永代橋が中央(まんなか)から断(き)れているとは心付かないから、スポン/\陥落(おっこ)ってしまったという話でした。 この時です高輪(たかなわ)へは親船がブチ上げられて、品川(しながわ)の沖が海嘯(つなみ)だったので、築地小田原町(おだわらちょう)辺もその御招伴で、水びたしとなりました。 アスコに青柳(あおやぎ)米三(こめさん)などいう料理屋がありましたが、ミナ災難を喰う。 家の顛覆(ひっくり)かえった事は数えきれません。 どんな頑丈な家(うち)でも動いたと言います。
    (《幕末百話/五九 老人の記録辰歳のあらし》P.163〜164)


     色々の取沙汰
     安政三年ですから、前の歳に地震で、辛(つら)い目に遭っている江戸が、またこの大暴風雨(おおあらし)ですから、イズレも世は末になって、徳川様も永いことはない。 この世はどうなることやらと思っていました。 ソレに迷信の深い時代ですから、色々に取沙汰を致しました。 コノ暴風雨(あらし)には、死人が割合に尠(すく)のうございました。 暴風雨というものは外へ出なければよいし、外へ出るなら出るように身拵(みごしら)えをして居ればよいからでしょう。 払暁(あけがた)となって漸次(ようよう)静りましたが、サア家(うち)を出て見ると立樹なんかありゃアしません。 ソレに恐いこったと思ったのは瓦の飛ぶのが木の葉のようで、ソレが粉微塵(こなみじん)となってチラばって居るのです。 ソレから庭へ落ちて居る物干や、雨戸や何(なん)の彼(かん)のが何所(どこ)のやら主(ぬし)が知れない。 問合しても分りませんでしたが、コレでその力の強さがお分りになりましょう。 今に一つ話に致して居ります。
    (《幕末百話/五九 老人の記録辰歳のあらし》P.164)


    六一 御成街道真夜中騒ぎ

     歩兵の脱走
     上野(うえの)の戦争の前でした。下谷(したや)御成街道(おなりかいどう)で、真夜中に大騒ぎのあったお話を致しましょう。あの辺に住んだ人々は皆逃出しましたが、手前は好奇心に駆られ、物干の闇から覗(のぞ)いていましたので、容子をよく知っているようなものです。 ソノ騒動はと申すと、西丸(にしまる)の歩兵の脱走でござんした。 元来御成街道というのが狭い。 今よりは狭いもので、先の方は大名の屋敷ばかり、こっちが堀に石川黒田(いしかわくろだ)、向うが鳥居小笠原(とりいおがさわら)(中やしき)、広小路(ひろこうじ)までは今と違って淋しいものでした。
    (《幕末百話/六一 御成街道真夜中騒ぎ》P.167〜168)


     多人数の靴
     慥(たし)四月でした。 その頃(ころお)いの四(よ)ツ、かれこれ今の十時過ぎでもありましたろうか。 フト耳を済すと、テッテケ/\/\テという調練の時ならぬ音がしたかと思うと、手前共の近所の家(うち)を「起ろ起ろ」と叩く音といったら凄じいので、ハテなと家内中不審を打ち、「強盗かしら、近来物騒だから強盗かも知れん。 どうだあの叩きようは、啻事(ただごと)じゃアないぜ」といっている内に、段々その叩き方が辛(ひど)く烈しくなる。 「(あけ)ろ/\」の声が幾つにもなって、諸方に起るかと思うと、ドタ/\/\多人数の靴の音がする。 そうかと思うとスポン/\と空砲をば空へ向けて撃つのだか知れんが、鉄砲の音まで響くという物騒千万の事になって来た。 愕(おどろ)かずには居られない。
    (《幕末百話/六一 御成街道真夜中騒ぎ》P.168)


     手丸の提灯
     どうも余り変だから、家内の者には「イザといったら裏から逃げろ」というて、手前は裏の物干へ登(あが)り、ソッと闇夜を透(すか)して見て、愕(おどろ)いたのは大層な人数で、葵の紋のついた手丸(てまる)の提灯が大道を星の数ほどズーッとつながっている。 四十七士の夜討どころでない。 そして打壊(ぶちこわ)して提灯が飛込む家(うち)といったらあの界隈の刀屋なんです。 刀屋へ入って、刀剣を奪い出す訳なんで。……擬勢を張るのかスポン/\と放つ実丸の鉄砲危いこと夥しい。 スルと御使番(おつかいばん)ともいうような人が馬で駆けずりながら、「発砲するな/\」と制止した。 やはり同じ仲間らしい。 なんでも二時(ふたとき)今の四時間ほどというものの騒動と申したら割れるばかり、夜が明けてから起きて見ますと、刀屋は大概雨戸を叩き壊されましたが就中(なかんずく)辛いのがあります。
    (《幕末百話/六一 御成街道真夜中騒ぎ》P.168〜169)


     恐しい壮観
     石川(いしかわ)という両替店が壊されましたが、コレは家内の者に穴蔵へ案内させ、古金(こきん)を大層持って往ったそうで、ソレに田代町(たしろちょう)(その頃は花房町(はなぶさちょう)の代地)の尾張屋(おわりや)という刀屋は、出来の刀があるので、悉く荒されましてす。鉄砲の台尻で雨戸なんかは壊して入込んだそうで、愕きましてしょう。 サア御成街道には提灯のコワレや、帽子の破れたのや、匕首(あいくち)なんかが打捨(うっちゃ)ってありました。 夜が明けてから市中廻り大岡(おおおか)が家来一同に抜身の槍を持たして、お出懸でした。 「脱走隊は会津(あいづ)へ往付いた頃だろう」と悪口を申しましたが、何を申すにも恐ろしい壮観(みもの)でした。
    (《幕末百話/六一 御成街道真夜中騒ぎ》P.168〜169)


    六四 出羽の道楽隠居

     長持に幾棹も
     有名な御茶人松平不昧(ふまい)の孫に当られた松平斉貴(なりたか)瑶光(ようこう)と申されたのが、いわゆる出羽(でわ)の道楽御隠居、名代の仁(ひと)であった。 御内室は鍋島閑叟(かんそう)公の妹御でした。 十三、四歳に世継となって二十前後には発明の殿様と世にも人にも知られたが、同時に道楽も段々と芽を出し初めたのです。 幼少より御城へ出たゆえ、柳営(りゅうえい)の事は一々実際を目撃し、それをまた一々御納戸(おなんど)や、御小姓(おこしょう)に口授(くじゅ)筆記さして置いたその書物だけでも、長持(ながもち)に幾棹(さお)もあった。 後には御老中でも五節句の御儀式などは、「出羽守(でわのかみ)に聞かねばなるまい」とて、御城坊主(おしろぼうず)が伺いに来るという風でありました。
    (《幕末百話/六四 出羽の道楽隠居》P.174)


     御儀式の問屋
     何を申すも家康(いえやす)公の直(じき)系統と、越前(えちぜん)家の御近親の問屋というところから、諸大名御老中達も、一目二目を置く。 ソコで我儘(わがまま)から、道楽に事を欠いて、馬鹿囃子(ばかばやし)が御好き、中目黒(なかめぐろ)道玄坂(どうげんざか)辺から馬鹿囃子の名人が五人十人と昼夜詰切で囃(はや)し立てる。 御当人の瑶光翁も頗(すこぶ)る御上手で、馬鹿囃子の知音(ちおん)であられた。 この事が幕府へも聞えたが、ただそれだけなら幕府も仕様がなかったけれど、参勤交代をしない。江戸好(ずき)で国許へ御帰りにならんから、御親類な鍋島公や、家来からも時々諌(いさ)められるけれど、一向に聞入れない。
    (《幕末百話/六四 出羽の道楽隠居》P.174〜175)


     即ち押込隠居
     これがためには、家老が二人まで切腹をしました。 最初野は代々家老で三千五百石の柳田四郎兵衛(やなぎだしろべえ)というが諫言(かんげん)をしても聞かれず、御長屋(おながや)へ帰ると腹を真一文字に切った。 殿様も愕(おどろ)いて国へ帰られたが、再び出府の上、またぞろ馬鹿囃子の道楽で、年限が来ても交替をせず、今度は千石の家老で、塩見小平(しおみこへい)というが切腹するスワというので、殿様二度までも家老の切腹だから、その翌朝御国へ帰られた。 二月や三月前から支度するものを一夜で帰国だ、サアそれこれで幕府も捨て置かれず、出雲(いずも)へ蟄居(ちっきょ)即ち押込隠居(おしこめいんきょ)となった。 これより先十一代将軍の御孫定安(さだやす)(作州津山(さくしゅうつやま)に在住す)を急養子とされたのです。 普通大名なら御家は断絶で、瑶光翁には御国で閑山御殿(かんざんごてん)というに入られた。
    (《幕末百話/六四 出羽の道楽隠居》P.175)


     太鼓は三吉だ
     十年の後種々(いろいろ)運動の結果江戸へ出られたが、例の馬鹿囃子は禁じられた。 仕方がないから火燵櫓(こたつやぐら)へ畳を載せ、叩かせたというくらい斯道好奇者(すきもの)でした。 その頃(安政の頃)は御上屋敷(おかみやしき)赤阪見付内(あかさかみつけうち)(今の閑院宮御邸(かんいんのみやおやしき))御下(おしも)屋敷は今井谷(いまいだに)で、御上屋敷には御内室が被在(いらっしゃ)れど、瑶光翁は今井谷で滅多に御出になる事はないが、ただ山王(さんのう)氷川(ひかわ)の祭礼には朝から御上屋敷へ往かれる。 というのはかの数十本の山車(だし)が、溜池(ためいけ)へ繰込み、見付の御上屋敷の方へ向いて囃し立てる。 瑶光翁はソレを聴いて昔の調子を忘れず、「あの太鼓は三吉(さんきち)だ。 あの笛は伝兵衛(でんべえ)だぞ。シャギリは誰。 何は彼」と、一々当てられるのが外(はず)れなかったんです(熱心というものは酷(ひど)いものです)。 実に不思議なくらいでした。
    (《幕末百話/六四 出羽の道楽隠居》P.175〜176)


     不思議はない
     なれども大名の殿様としては非凡の点(ところ)があった。 旧弊ということを嫌われ、下々の者でも、一芸ある者は挙げ用いられ、「小者でもなんでも、役に立ったのは余の傍(そば)に召使うに不思議はない」という主義でした。 また漢語を使い、実に六(むず)かしい言葉を用いられた。 蝙蝠傘(こうもりがさ)、金銀の時計、その頃は珍しく莫大の金目でしたが、チャンと用いて「西洋にはこんな物がある。 調法な物だ」と言っていられた。 今から申すと頗る平民的の人格で、至って進歩的の人物と申して宜(よろ)しいでしょう。 但し酒の上は悪かった。 御酒(ごしゅ)を飲(あ)がると気短(きみじか)で御殿は上を下へと混雑。 何か被仰(おっしゃ)って愚図々々していたら、撲(なぐ)り飛ばされる程でした。
    (《幕末百話/六四 出羽の道楽隠居》P.176)


    六五 家督御礼の献上物

     イザ知らず
     昔の家督というものは無雑作で、今と違い、面倒なことはありません。 御届さえ済めば故障はないので。 先達(せんだって)のお話の大名はイザ知らず、その頃は相続は容易(たやす)いものでした。 当今はこの間も孫を養子にするので、区役所へお百度を踏みましたよ。 ホイ余計な愚痴を申した。 ソコで家督のお礼というのは弁じようか。 その御礼の前にこういう御書付が上(かみ)からまいるんだよ。
    (《幕末百話/六五 家督御礼の献上物》P.177)


     小、播磨守
     ようがすか、読みますよ。 お書きなすって下さい。 紙はこの通り虫が喰っているが大奉書(だいほうしょ)横半裁(よこはんきれ)だ。
       明(みょう)二十三日四つ時西丸へ罷出(まかりいで)家督之御礼可申上(もうしあげべしく)(もし)病気候(そうら)はゞ献上明朝以使者(ししゃをもって)御納戸(おなんど)へ可相納(あいおさめべく)旨美濃守殿(みののかみどの)被仰渡(おおせわたされ)依之申述候(これによってもうしのべそろ)
        十二月二十二日          小播磨守(こはりまのかみ)
          ○ ○ ○ ○ 殿
         尚以為請自宅に不及相越受書可被差越候

     ここで少しく弁ずるが、小(こ)、播磨守(はりまのかみ)と書いてありましょう。 コレは威厳を保ったもので、実は小出播磨守(こいではりまのかみ)というところなのを、出(いで)の字を略したもので、この頃は御大名でも往復手紙は皆これでした。 支那流なんで。……小出播磨守と申すと呼捨のようだからで。
    (《幕末百話/六五 家督御礼の献上物》P.177〜178)


     太刀と青銅
     ところで献上物というと五百石以上の吾々が御太刀(おたち)の代五百疋(ぴき)青銅(あおどう)二百文。 コレを白木の台へ御坊主が載せてくれます。 ソレを御納戸へ献上しまする。 どうしてこうした相場に極ったものか知れませんが、やはり賄賂(わいろ)の一種でしょう。 文句の内に「病気候はゞ献上物明朝納めよ」とあるなんぞはアケスケだけど、御催促とは恐入る次第。
    (《幕末百話/六五 家督御礼の献上物》P.178)


     咳がエヘン
     当日出頭すると本丸(ほんまる)菊の間というへ、奥坊主(おくぼうず)が案内する。 恐る/\出て、待つ間程なく上段の間の襖(ふすま)が開きます。 マズ御芝居なら御簾(みす)が揚(あが)るところで、同時にシーシーせいし声が聞ゆる。 将軍は御出になるかどうか左様の事は分りゃアせぬ。 ピタリ御辞儀をしているばかり。畳の縁(へり)へ手足がついてはいけない。 縁へ手がつかぬようにするのです。 手がつくと御目付(おめつけ)エヘンと咳(せき)をして注意してくれます。 ソレで首尾よく御礼が済み、帰りますが、恐れ多い心持がしていました。
    (《幕末百話/六五 家督御礼の献上物》P.178)


     入費は多い
     首尾よく家督が済むとお頭(かしら)や奥坊主がソレ/”\へも礼をしますが、随分な金が懸ります。 この点は今の方が安値(あんちょく)でまことによいが、手数は判で捺(お)したようなものなんでした。 菊の間というのは菊花の御襖子(おふすま)で真に神々(こうごう)しい。 ソレへシー/\声蹕(せいひつ)の声が懸ると、チリ毛元がザバ/\としたもんです。 その実将軍は全くお出になるのやら、ならないのやら分りゃアしませんのサ。
    (《幕末百話/六五 家督御礼の献上物》P.178〜179)


    六六 亥歳の張札天誅紙

     諸方の張札
     御維新の模様の見え初(そ)めましたのは文久(ぶんきゅう)亥年(いどし)でした。 亥歳ぐらいいろ/\の事を聞いた歳はありませんし、幕府の政治向(むき)もこの歳が不行届で、どうやら影が薄いようでした。 その頃は落首もありましたが、別に諸々方々へ張札をしたもので、今なら新聞の投書籠の御厄介になろうというのが、その頃はベタ/\と張札をして、通行人の眼から耳へと訴えたもので、私の覚えていますのが、上野(うえの)三橋中の板札へ張付けてあったのがこうなんです。
    (《幕末百話/六六 亥歳の張札天誅紙》P.179)


     可天誅者也
     ソレは、「本所相生町(ほんじょあいおいちょう)二丁目箱屋惣兵衛(はこやそうべえ)、右之者(みぎのもの)商人の身ながら元来賄金(まかないきん)を請(こ)ひ府下の模様を内通いたし、剰(あまつさ)へ婦人を貪り候(そろ)段、不届至極(ふとどきしごく)に付き、一昨夜加天誅(てんちゅうをくわえ)両国橋上に梟(さら)し候所、何者之所業(しわざ)に候哉(そうろうや)、取片付(とりかたづけ)候段、不届に且(かつ)不心得に付(つき)、必ず遂吟味(ぎんみをとげ)、可行同罪者也(どうざいおこなうものなり)。 亥九月二十四日、報国有志、此(この)高札三日の内取片付候もの有之(これあら)ば、役人なりとも探索の上、必ず可天誅(てんちゅうすべき)もの也」と、つけ加えてありましたが、日本橋高欄にも張ってあったそうです。 ソレに「天誅」という語(ことば)が流行したものです。 武士のみでない町人にまで天誅でした。
    (《幕末百話/六六 亥歳の張札天誅紙》P.179〜180)


     三井を怨む
     ソレから九月の十七日でした。 本町(ほんちょう)一丁目の所に自身番があって、ソコの北手の雨樋筒(あまどい)に三井(みつい)を攻撃したいわゆる天誅紙が張ってあったんで、自身番の番人が通行人黒山の如く集(たか)って読んでいたものをヒッペがして町奉行へ御届をした。
                    糸会所取立所 三井八郎右衛門
                         其外組合の者共
      此者共(このものども)銘々(めいめい)世界中名高き巨万之分限(きょまんのぶげん)に乍在(ありながら)不知足事(たることをしらず)、無限強欲非道之者共(ごうよくひどうむげんのものども)身分の程顧みず報国は成らず共、皇国之疲労(こうこくのひろう)に不相成様(あいならざるよう)心掛くべき所開港以来諸品高価之内には糸類は未曾有(みぞう)の沸騰に乗じ諸国糸商人共へ相場状にて相進め頻(しき)りに横浜表へ積出させ候(そろ)に付(つき)糸類悉(ことごと)く払底(ふってい)高直(こうじき)に成行き万民の難渋少なからず畢竟此(この)者共荷高に応じ広大の口銭(こうせん)を貪り取り候欲情より事起り皇国(みくに)の疲労を引出(ひきいだ)一己の利に迷ひ他の難渋を顧みず不直(ふちょく)の所業権家(けんか)へ立入り賄賂を以て奸吏(かんり)を暗(くらま)し公辺を取拵へ口銭と名付け大利を貪り奸吏へ金銭を差送り糸荷(いとに)を我が得手勝手(えいかって)に取扱ひ神奈川関門番人(かながわかんもんばんにん)(ならび)積問屋(つみといや)共へ申合せ所謂(いわゆる)世話料受取り荷物運送迄荷主に拘らず自儘(じまま)取扱不正の口銭貪り取候事右糸会所(いとかいしょ)取立所(とりたてじょ)三井八郎右衛門始め組合之者(くみあいのもの)他の難儀を顧ず非道にて所持之金銀並に開港以来貪り取る口銭広大之金高に付今般不残(のこらず)下賎困窮人共に為合力(ごうりょくのため)配当つかはし可申(もうすべく)若し欲情に迷ひ其の儘捨置(すておか)ば組合之者共一々烈風の折柄天火を以て降(ふら)し風上より焼立て申すべく其節に至り隣町之者共火災差発(さしおこ)り難渋に有之(これある)べく候間前記会所組合之者共名前取調置き類焼之者は普請金並に諸入用共存分に右之者より請取(うけとり)可申(もうすべく)且火災差発(さしおこり)候はゞ困窮之者共早速駈付彼等貯置(たくわえお)き候非道之財宝勝手次第持去可申(もちさりもうすべく)右之趣前以(ぜんもっ)て示し置候間一同疑念致間敷事(いたすまじきこと)
     好きなことを言ったもんです。
    (《幕末百話/六六 亥歳の張札天誅紙》P.180〜181)


    六七 血判起誓文のお話

     一同血判
     血判のお話をしよう。 昔はを重んじて他言を忌(い)。 アレが喧(やかま)しく申すと徳義を重んずるためその誓いとして、誓文を書き、一同血判をした。慶長(けいちょう)年間乃至(ないし)戦国の時代には、印(いん)の持合せがなく、血を絞(しぼ)って捺(お)したに違いない。 その余風が後世に伝わり血判という一つの判(はん)が押されることとなったのであろう。 イヤこれは憶測なんだ(嘘かも知れぬよ)。
    (《幕末百話/六七 血判起誓文のお話》P.181〜182)


     左の薬指
     で、ソノ血判と申すは口でいい、字で書くと恐ろしいもののようだが、以前は恐ろしいものかも知れんが、拙老(わし)共の捺(す)る頃には、至って詰らんもので、左の薬指の爪の下の所(とこ)−−そこの肉を突いて血を出し、指尖(ゆびさき)の腹を拇指(おやゆび)で推(お)しながら、染(にじ)み出る血を捺(お)したものだ。 剣術の入門などにも他門に入らずと誓うのである。皆痛いから、木綿糸で、堅く縛っておいてから突(つつ)くなんかんと、真(まこと)にハヤ徳川の末世は、腹を切るどころでない、血判も痛いという訳であった。 血の出た跡へ墨を入(さ)して、入墨の痕にしたりする悪戯(いたずら)もあったりして重々しいことでなくなってしまった。
    (《幕末百話/六七 血判起誓文のお話》P.182)


     即ち文例
     色々の文例が出たから、拙老(わし)も一番起請文(きせいもん)の例を御覧に入れよう。 昔はどうして/\十襲(じっしゅう)したものだ。
        起請文之事
     一高島流諸大砲の事
     一銃陣之事
     一御流儀に差加一流より立申間敷事
     一御秘事一切他派之秘事より取替仕間舗事
     一御流法永相守実用専一仕事
     一御秘事一切親子兄弟たりとも他見他言仕間舗事
       右の条々可相守若於相背日本国中大小之神祗冥罰可被蒙者也仍起請文如件
      文久元辛酉年三月二十七日       多 川 光 太 郎
                           正 定(かき判)
      同年同月同日             真 野 覚 之 丞
                           正 固(かき判)
                             以下略之

    (《幕末百話/六七 血判起誓文のお話》P.182〜183)


     義の一字
     かき判(はん)の所へ薬指を突いて、血判を捺(お)すが、ホンの儀式でして、またなかに面白半分にやるのもありました。血判したから命を投出すというほどの決心もありませんでした。 しかしながら一概にそうとも申されず、他言乃至他流を習ったため面責されて、宅へ帰り腹を切った青年もあったのだ。 ソレに「徳義」という二字ではなかったが、「」という一字のためには随分と肩を入れて争ったもので、しかるに当今は「徳義」の二字はサテ置いて、「義」の一字のためにも力を尽す人はない。 「」の一字のために一生懸命で、真(しん)に我々老人株から見ると、行末が案じられます。 どうか年取苦労(としとりくろう)であってほしいと思いますよ。
    (《幕末百話/六七 血判起誓文のお話》P.183〜184)


    六八 昔の新聞紙と外交

     三大新聞
     御差障(おさしさわり)があるかも知れませんが、一つ御職掌柄の事を申しましょうなら、ソレは昔の新聞のお咄(はなし)で、実地に演(や)った側から申して見ようなら、明治五、六年の交(ころ)で、その頃の新聞といったら、先ず東京日々郵便報知読売新聞三大新聞であって、しかして実は三つしかないといってもよいのでした。 この外にブラックの阿父(おとっ)さんが発(だ)していた日新真実誌(にっしんしんじつし)と週刊の新聞雑誌、ソレに朝野(ちょうや)新聞の前身なる公文通報(こうぶんつうほう)とかいうものがありました。 ところでその発行高といったら数百部に過ぎないので、新聞の活字も四号でした(日々はその頃から五号でしたが)。は西洋紙が時々きれて、和紙を用いるなんという騒ぎでした。
    (《幕末百話/六八 昔の新聞紙と外交》P.184〜185)


     越前屋敷
     そのころのタネ取(とり)がいかにも面白い。 やはり「外交」と申して政治向(むき)も雑報も一つに探(や)ったもので、外交が出掛ける先はというに、常磐橋(ときわばし)内に各府県出張所というがありましてソコには越前屋敷(えちぜんやしき)のアトへ、各府県から四、五人の藩士が出て来て、小使の二人もつかい多勢の人がいました。 長局(ながつぼね)なんかにギッシリ詰っていたもので、ソレへ探報に出懸けていろ/\探知するといったところで、御触出(おふれだし)のようなもの。−−言わば今の官報へ出るようなのを聞出して帰社しますが、三日や四日の遅れぐらいはなんでもないです。
    (《幕末百話/六八 昔の新聞紙と外交》P.185)


     羽織に袴
     右の出張所や、丸の内の陸軍や、太政官や、後の元老院、その頃の左院へも往きましたが、私共は羽織に袴という扮装(いでたち)でした。 日々(にちにち)御用商人という風で、着流(きながし)の至って直(ちょく)の方でした。 そして朝吾々外交が出懸けるには、風呂敷へその日の新聞を包んで持出したのです。 朝になっても未(ま)だ刷っているので、「印刷(すれ)のよいのを持って往きなさい」とて、良(い)いのを選(え)って数十枚持出す。 コレは〔タネ〕をくれた人に御礼として差出す。 また長官と見れば「どうか御一覧下さい」と御機嫌を取ったものです。 なか/\骨は折れましたよ。
    (《幕末百話/六八 昔の新聞紙と外交》P.185〜186)


     嫌われ始め
     雑報を探(と)るのは一番骨が折れました。 東京へ往き区長戸長(こちょう)の御機嫌を伺い居ると、ソコへ御届(おとどけ)が来る。 ソレが喧嘩だとか捫着(もんちゃく)だとかいうものゆえ、折々は「今日の新聞をご覧なさい」と、一葉差出しながら「只今のは喧嘩でございますか」と、ちょっと大略を聞き、ソレから区役所へ赴(おもむ)いて調べる。 どうしてその日などという機敏には行かない。 ニ日三日掛(がかり)です。左様新聞屋の嫌われ始めましたのは、諸官省で新聞を与(や)っては官吏に馴染み、テーブルの上の書類を見せてくれというなら未(まだ)しも、披(ひら)いて見たりして新聞へ出したところから、大蔵省の如きは、第一に「諸新聞記者不可入(しょしんぶんきしゃいるべからず)」という張札を出しましたよ
    (《幕末百話/六八 昔の新聞紙と外交》P.186)


     深切機敏
     その内で御世辞をいうじゃアありませんが、その時から報知(ほうち)深切でした。 現にその頃火事がありますと、翌日チャンと探報して小さい紙へ何日何時何所何所(いっかなんどきどこそこ)より出火し、全焼何戸と掲載して報告したものです。 アレはさすがに読者のためを思い、深切で、そうして機敏(そのころの機敏)といってもよろしい。 アノ具合を今日は大発揮したといってもよろしい。 売れるはずです。 アノ深切と機敏というものは新聞の宝でありましょう。 イヤ決して媚(こび)るのではありません。
    (《幕末百話/六八 昔の新聞紙と外交》P.186〜187)


    七〇 弓馬鎗剣是武芸

     流儀の伝授
     私は頑固者じゃから、面白いお噺(はなし)は出来ん。 武芸の事を言おう、弓馬鎗剣(きゅうばそうけん)これ武芸じゃ。 士分(さむらいぶん)とも言わるる者がこれらを知らんと風上には置けぬ。 各自流儀に従うて伝授ゆるしともいう)をなし、階級を与える。目録準免許免許、これらの巻物を授かるんじゃ。
    (《幕末百話/七〇 弓馬鎗剣是武芸》P.188)


     練胆百物語
     これ武芸を磨く中(うち)が花じゃ、同時にまた胆(たん)を練るというて百物語をする。 忘れもせん、万延(まんえん)元申年(さるどし)二十六夜の晩じゃ。 小石川竹島町(こいしかわたけしまちょう)某氏邸で執行(やった)ことがあったが、私はまだ十六歳、三十有余人の年輩が夜会合して夜食に〔ヤミ〕汁という一品持寄(もちより)の料理。 ソレが百物語に因(ちな)み、干瓢(かんぴょう)を出して百ひろだとか、唐茄子(かぼちゃ)の輪切を骸骨などと出す。
    (《幕末百話/七〇 弓馬鎗剣是武芸》P.191)


     段々は番附
     ソレから番附(ばんづけ)を拵える。 大関が湯灌場(ゆかんば)行。 関脇が位牌取(いはいとり)。 小結白切取(しらきりとり)と色々極って取って来ねばならぬが、怖いと思うと木の根へ躓(つまず)いて敗北し、白猫に脅えて思わぬ不覚を取る。 この不覚を取(とっ)た男が当夜の費用跡片付をするんじゃ。 イヤ面白いのと練胆の一方法であったよ。
    (《幕末百話/七〇 弓馬鎗剣是武芸》P.191)


    七一 公方様悪口の祟り

     今の公方様
     入牢後十九日間疑団(うたがい)が解けやしません。 スルてえと、十九日目に牢から引出されて、御取調(おとりしらべ)になって、驚いたのは屁(へ)みたいな事が原因(もと)なんでした。 徳川の末だったんで、こんな事を気に懸けゃアがったんです。 お話するのも馬鹿々々しいくらいでさア。 豊島町(としまちょう)どん/\湯というのがありましてソノ前の晩、仕事を仕舞って一風呂(ぱい)あびにいったと思召せ。 同町内の芋屋の主人で、長谷川(はせがわ)というのが、こうなんです。 こう言いやがったんで、いろんな話の末に、「今の公方様じゃア納まりませんや」というから「そうですなア」と相槌を打ったんです。 コレが探偵(おかっぴき)の耳へ入って入牢なんで。 ところが長谷川は私が話し掛けたと申上げていたんで、謀叛人のように思われたんです。
    (《幕末百話/七一 公方様悪口の祟り》P.193)


     実に情けない
     牢内でも名主(なぬし)の友三郎(五十年輩)というのが、「お前は公方様を罵ったそうだが、軽くって遠島だ。 当分娑婆(しゃば)の風にゃアあたられねエ」というので、実に情けないの、なくないのじゃアありません。 涙が雨垂(あまだれ)のようにポタリ/\と落(おち)やがるんで、阿母(おふくろ)や女房の事が思われ、決心の上「白状しますから母と女房に遭わして下さい」と嘆願に及ぶと、数日経って拷問所へ引出されましたが、母と女房が手拭(てぬぐい)を顔に宛てて泣いている。 ソレを見ると、その悲しさといったら、涙の留度(とめど)がありませんでした。 母も女房も私を見て、唏嘘(しゃくりあげ)て泣いたというのは、牢の(やつれ)と毎々(まいまい)の拷問で脚に水気(すいき)を持ち、ビードロのように脹(は)れ、人の肩につかまって出たんで、絶えて久しい面会、縋付(すがりつ)きたい程の心を耐え忍ぶ辛さ女房はこの姿を見て気絶する騒ぎ。
    (《幕末百話/七一 公方様悪口の祟り》P.193〜194)


     夫婦の拷問
     呼吸(いき)を吹返した女房は恐しく気が強くなり、「御役人様良人(やど)は決して御上様(おかみさま)を悪(あし)く申しは致しません」という。 役人「黙れ、サア万吉(まんきち)、白状しろ」。 女房「ない事は決して被仰(おっしゃ)るな」といったばっかりに、女房よねも拷問に掛けられたんですが、どうです。(みもち)の女を撲(なぐ)る/\。 ヒー/\泣き叫ぶ。 ソレを聞く私と母の心中、お話しは出来ません。 私も同じく拷問です。夫婦責殺されると思い、殺されたら佐倉宗五郎(さくらそうごろう)になって公方様を取殺してくれようと思いましたが、長谷川が拷問でとうとう白状に及んだため、私は無罪となりましたが、長谷川は死刑になったと言いますよ(牢死だとの話もありました)。 なんと恐ろしい政治向(むき)じゃアありませんか。
    (《幕末百話/七一 公方様悪口の祟り》P.194)


    七三 献上御松茸の御用

     御禁制山
     上州仁田太田(じょうしゅうにったおおた)金山(かなやま)、有名な大行院呑竜(だいこういんどんりゅう)様のある土地(ところ)、アスコが昔は公儀へ松茸(まつだけ)を献上する場所なんです。 この松茸は御城の御膳所(ごぜんしょ)へ送り込み、将軍が召料(めしりょう)になるというほどの物ですが、ソレについては土地の心配一通(ひととおり)でありません。 ちょうど八月八日が開山期。 松茸の出始める時節となりますから、公儀の御禁制山(おとめやま)と申して、誰も金山へ登ることは出来なくなるんです。 平生(ふだん)は新田義貞(にったよしさだ)の城跡なんかありまして、緒人の遊び場となっていたのが、この月この日からは足を入れるどころか、土地の者は松茸も喰べられません。松茸の匂いでもさせようものなら、スグ赤総(あかぶさ)の十手が入って来て、ソレこそ踏縛(ふんじば)られてしまわなければなりません。
    (《幕末百話/七三 献上御松茸の御用》P.197)


     葵の御紋
     コノ松茸を公儀の御膳所へ持込むのが宿々駅々(しゅくじゅくつぎつぎ)の問屋で受取って、一昼夜に太田の金山から御城まで担ぎ込むんですが、松茸の荷の作りもリュウキュウで包み、その上を紺の染麻(そめあさ)で結(ゆわ)い、ソレに青竹を指し、御墨附封印(おすみつきふういん)という厳重さ。葵の御紋が添わります。 大したもので、松茸ともいえません。 松茸なんと呼捨(よびすて)にもされない。 「御松茸御用(おまつだけごよう)」と申したもので、ソレから問屋々々も明日の何の刻には御松茸がお通りになるというので、人足を出し、いずれも肩を揃えて先の宿から来るのを待受けて、スグ担ぎ出す趣向にしているんです。
    (《幕末百話/七三 献上御松茸の御用》P.197〜198)


     ヤニ煙管
     一番先へ「御松茸御用」という木の札を押立てて来るんで、「ソレ御松茸だ」と人足は肩を揃える。 スグ受取る。 駈出す。 その忙しさ、慌(あわ)てさ加減は、咄嗟(とっさ)の間なんですが、フトした事で飛んだ間違いの起ったお話を申しましょうか。 妻沼(めぬま)熊谷(くまがい)の間の、弥藤吾村(やとうごむら)須戸(すど)という御百姓が、人足に徴発されて、ヤニ煙管(ぎせる)を啣(くわ)え、煙草を呑んでいた途端に、御松茸が来たから、煙管を仕舞う間もなく、肩を出して担いだ。 で啣えていたヤニ煙管をチョイと松茸の荷へさしたのを、ワッショイ/\と担ぐ騒ぎで、とうとう忘れて次の宿へ渡してしまったんです。 御松茸はヤニ煙管を連(つれ)て御城へ乗込む次第となったんでさ。
    (《幕末百話/七三 献上御松茸の御用》P.198)


     百姓泣せ
     他の宿々でもチョットも気がつかない。 なぜと申せば名主(なぬし)百姓代が立ち会って検(み)るけれども、検る点(とこ)はチャンと極っている。 封印の点(とこ)だけで。 「御封印手摺無之(ごふういんてずれこれなし)」と記してやるから周囲(まわり)に煙管の挟んであるのに気の注(つ)く人はありませんでした。 御膳所へ担ぎ込む人足は板橋(いたばし)ですが、板橋人足は皆好んだものだそうです。御城で甘酒が出たからですとの事。 ソノ板橋宿(いたばしじゅく)も気がつかず持込んだから、御松茸の籠の一つに煙管が挟まったなりだから、喧(やか)ましくなり、宿々の役人人足の御詮議となったんですが、ソレより先、弥藤吾村の須戸の爺さん家(うち)へ帰ってから煙管を抜(ぬこ)とすると、ないからハッと思うと、御松茸へ挟んだ事に気がつき、蒼くなっていると、御詮議が厳しい風説(ふせつ)に、居ても起(た)ってもいられず逐電しましたが、函根(はこね)で首を縊(くく)って死んだそうです。 昔はこうした百姓泣(なか)せが多うござんした。
    (《幕末百話/七三 献上御松茸の御用》P.198〜199)


    七四 世にも二つの愕き

     各藩で鋳造
     私は題を「二つの愕き」一名二度吃驚(びっくり)とでもして置いて頂きたい。 第一はかの天保銭(てんぽうせん)が二厘方(がた)下落をした時であります。 あの天保銭というのが、こういう訳なんです。天保通宝(てんぽうつうほう)と申して当百(とうびゃく)の頃は実にツヤ/\したよい銭(ぜに)であったのが、幕末になってから各藩で鋳造して、その質(たち)の悪い事といったら大変。瀬戸物を交(まぜ)というくらいですから、叩くとスグ欠けてしまう。 こうした粗造の貨幣が出来たので勢い価格が下らなければなりません。 その以前は通例一両六貫でしたが、銭の相場がだん/\下落して来て、どうです。 一両十二貫五百までなりました。最も御維新後が甚だしい。 明治二、三年の頃でもありましたろうか。 ……終(つい)に政府(おかみ)では天保銭をは八厘にお下(さげ)なすったような訳ですが、コノ影響を蒙ったものは、一般の社会でありました。
    (《幕末百話/七四 世にも二つの愕き》P.199〜200)


     キリホドキ
     今一つは御維新後の大赦令(だいしゃれい)の時でさア。 俗にキリホドキといい、物騒千万の男がノコ/\サイ/\と牢から出されると、国へは帰れず、何かモクロマねばならぬという考えでもあったのかしら、近在へいろ/\の名義で巡回して来た。 「関東巡察(かんとうじゅんさつ)」「奥羽探題(おううたんだい)」「八州鎮撫(はっしゅうちんぶ)」等の旗を押立てて来たが、人心恟々(じんしんきょうきょう)の折柄とて、幕府の倒れたことは知っているが、新政府がどうい事をなさるやら、民間には一向不分明。 いわば闇雲でいるところへ、旗を押立て探題だ、鎮撫だ、巡察だというから、代官や村役人あがりの連中は、ペコ/\する外はなかったんですが、キリホドキの浪人なんかとは夢にも知りませんでした。
    (《幕末百話/七四 世にも二つの愕き》P.200)


     総掛で馳走
     石塚(いしづか)某、山田(やまだ)某なんて今じゃ知名の方がソレでしたが、アトで聞けばショウコトナシの一工夫だったそうで。悪い噂(うわ)さの男や、姦通、詐欺師のようなものは村の往来で首を斬られたのがありました。 何の事はない、ソレに脅えて徳川様に代った方々と崇(あが)め奉って、代官の屋敷へ請じ入れ、村中総懸(そうがかり)で御馳走をしましたが、ソノ愕きといったらなかった。 いずれもこうした方々が立烏帽子(たてえぼし)納豆烏帽子(なっとうえぼし)を冠(いただ)いているんで、ヤケに痴者脅(こけおど)しの真似をしたもんなんです。 世が開けるに随(したが)ってその人達の素情が知れ、阿房(あほう)らしいと今に一ツ話に出るんですよ。 国が乱れると実に情ないものです。
    (《幕末百話/七四 世にも二つの愕き》P.201)


    七五 日光例幣使の話

     釈迦に説法
     日光へお下(くだ)りの例幣使(れいへいし)というのが、実にハヤお話にならん者でがす。 「御松茸御用」を拝見して思出しましてすが、なんと申したら宜(よ)いやら、お話にも何もなりません。 申し上げるのも釈迦に説法ですが、例幣使というて、古くは伊勢参宮新嘗祭(いせさんぐうにいなめさい)へ、奉幣(ほうへい)の御使(おつかい)が京都から出ますので、ソレが絶えていましたのを、三代将軍家光公が再興され、同時に日光東照宮へも奉幣という事になったんですが、コイツが恐ろしいことになったんで。
    (《幕末百話/七五 日光例幣使の話》P.201〜202)


     旱歳の黒雲
     毎年四月でござんす。 京都から公卿(くげ)が一名、例幣使として仲仙道(なかせんどう)を下(くだ)られるんですがコイツのお供(とも)が大変者(たいへんもの)。 ……例幣使を一生に一度勤めると、お釜を起すというくらいで、貧乏公卿が皆コレを望むことは、旱歳(ひでりどし)の黒雲もただならずであります。 コノまた公卿さんが平生御不如意で、豆腐屋豆屋薪炭屋米屋に借(かり)を拵えていられたのが、一度(ひとたび)その債務者たる御公卿さんが例幣使になると極(きま)ったら騒ぎ。 債権者たる一同が、吾も彼も供奉(ぐぶ)になりたいとて、クッつきヒッつくんです。
    (《幕末百話/七五 日光例幣使の話》P.202)


     下向の途中
     勢い御公卿もその債権者を連出さん訳にまいりませんで、ゾロ/\この一まきを後に例幣使出発となって、下向の途中イヤモウ辛(ひど)言懸りをする。 特(こと)には米屋、薪屋、豆腐屋、豆屋が烏帽子直衣(ひたたれ)の扮装(いでたち)ゆえ、威張り散(ちら)すのみか、役徳をしよう/\と目懸けて、人足の百姓に辛(えら)い無心を引掛けたもんです。 一、二例を挙げますが、コノ御供廻りが言合したように皆駕籠から落ちるのでがす。 ソレが無理やりに落ちるのではない飛出すので、落ちて置いて「誠にその方共は怪(けし)からぬ。公儀へ申上げ、何分の御沙汰に及ぶ」という難題。 一同恐入って「何分共(なにぶんとも)に御内済(ごないさい)」と、両の袂(たもと)へ若干金を入れると、渋い顔がニコ/\顔となり、「以後注意せイ」。
    (《幕末百話/七五 日光例幣使の話》P.202)


     大層な収入
     コレが殆んど例になってしまった。 例幣使仲間でコノ墜(おち)ることをパタルといい「(わし)は何所其所(どこそこ)でパタッて、幾干(いくら)になった」とか、「此村(ここ)は私(わし)のパタリ場所じゃ」と、日記へチャンと控えて置いたんで、例幣使の親玉は勿論下廻りの役者偽家来(にせけらい)までが大層な収入(みいり)で、京へ帰るんですが、日光へは金(きん)の御幣(ごへい)を差上げる。 新らしいのを置いて、去年の古いのをば持返る。 帰途(かえり)には江戸へ乗込み、各大名へコマカク切って配り、「例幣使御見舞に上る」といって来るから、来られては大痛事(おおいたごと)と、いずれも黄金(こがね)の遣物(つかいもの)をして、敬して遠ざけるんです。 油虫どころか、ヘバリ虫で、一名小判喰虫(こばんくいむし)とでも申したい。 こうした不都合がマアいくらあったか知れやしません。
    (《幕末百話/七五 日光例幣使の話》P.203)


    七六 清国に似た日本

     唯一の手段
     昔のハイカラが一番お話をしよう。 御維新前後の日本といったら清国(しな)に実際よく似ちょった。 勤王(きんのう)の火の手は薩長(さっちょう)に揚って、九州の方から大怒涛となって寄せて来る。 同時に海外からは文明の潮流が寄せては返し、返しては寄せるではないか。 なんとしても日本という那(くに)に人心の大変化を来たさねばならなかった。 徳川の末とはいい条、幕府の政治家も辛(つら)かったに違いない。 勤王家はソノ尾について、幕府の忌(いや)がる外国人殺しが唯一の手段らしかった
    (《幕末百話/七六 清国に似た日本》P.203〜204)


     母の養育料
     清国に似ているのはソレ万延(まんえん)元年十二月じゃ。 米国公使館附の書記官ヒュースケンという和蘭陀(おらんだ)人を殺したものがある。 アレが北清戦役(ほくしんせんえき)に日本の公使館附書記官杉山(すぎやま)氏を殺したのによく似ているではないか。 アレがためには幕府はヒュースケンの母の養育料というもの一万元(どる)から取られているんだ。 清国だってそうじゃろう、弔慰使まで来たくらい。
    (《幕末百話/七六 清国に似た日本》P.204)


     勤王の飛火
     次にソレ文久(ぶんきゅう)元年には、水戸(みと)の藩士前木新八郎(まえぎしんぱちろう)有賀半弥(ありがはんや)が十四人徒党して高輪の東禅寺(とうぜんじ)へ斬込んで、英人二人を斬った。 アレがまた金を取られたり、義務を負わされたりして、重荷に小附(こづけ)、幕府はなんだかんだと異人から責めつけられた。 京都から責付けられた。 水戸に勤王の飛火が燃え出すという絶体絶命じゃアないか。 ココで清国の内閣と幕府の内閣と違って居ったのは頑冥なのと、比較的文明なのとの相違であった。 日本の幕府は開港主義であったからじゃ。
    (《幕末百話/七六 清国に似た日本》P.204)


     英人を胴斬
     サテまた文久二年八月には、島津三郎(しまづさぶろう)が江戸から神奈川生麦村(なまむぎむら)へ警護に立った途端英人四名が騎馬でやって来たのを、藩士達無礼とばかり有無を言わせず切り捨てた。 たしか岡野新助(おかのしんすけ)という薩藩の従卒が一名の英人を胴切にしたという噺(はなし)だ。 無闇(むやみ)異人と見ると斬りたがったものだが、その頃の話に「異人一名斬ると、幕府がグラ/\と揺(うご)くぞ、百人も斬ったら潰れるじゃろう」といったそうな。 幕府はそう/\異人殺しのたんびに償金じゃ、妻子養育費じゃといって、剥(は)がれた日には耐(たま)らんから、たちまちコスリツケ主義を取り初める。
    (《幕末百話/七六 清国に似た日本》P.204〜205)


     倒幕の運命
     異人の談判に対して、「イヤ其件(それ)は幕府の関するところでない。 薩藩の所業(しわざ)じゃ。 京都禁裏裡(きょうときんり)に係わる事だ」と、遁策(にげ)を張った。 コレが抑(そもそ)も幕府の権力が薄くなる根本で、自ら箔を剥(はが)したも同様じゃ。 終(つい)に幕府がコノ遁策(にげ)を張ったため、異人に将軍の上にまた天皇のある事が知れた。 威信地に墜ち、倒幕の運命に接した。 ソレでもまだ浪人の異人征伐は絶えず、明治元年二月各国公使が初めて天皇に謁見の折にも、三枝真洞朱雀貞固(さえぐさとんどうしゅじゃくていこ)ら斬って出(い)で、英公使パアクスの馬車馬を斬(や)ったが、目的は遂げ得なかった。 何しろ異人を憎む心といったら、あの当時清国(しな)と選ぶ所がなかったテ。
    (《幕末百話/七六 清国に似た日本》P.205)


    七七 縁切と縁結び

     天朝と幕府
     老人の今の腑(ふ)に落(おち)んのは、和宮(かずのみや)様御降嫁さ。 今更改めていうじゃアないが、アノ時の解(わか)らなさ加減といったら、御城に出ていても、五里霧中。 十四代の将軍へ京都から被入(いらせ)られたので、文久元年十月と覚えています。 あの時は老人など世の中がどうなるやら愈々(いよいよ)以て分らなくなった。 しかしながらコレで天朝も幕府も納り、再び天下泰平になるとばっかり覚えていましたが、時勢に暗いというものは〔カラ〕仕様のないものです。
    (《幕末百話/七七 縁切と縁結び》P.206)


     道に縁切榎
     ソレについてあの当時面白いお話があります。 というのは御降嫁が東海道を御下りにならず、どういうものか中仙道をいらせられた。 その件について御城では御迎いの準備やら、人数の差出(さしだし)、ソレは/\ゴッタ返しといって、アレ程の騒ぎはなかったんで、老人は道順を調べる役目さ。 スルてえと御道順の板橋(いたばし)に、ヌッと往来へ出張ってる榎木(えのき)があるんだ。 ソレが縁切り榎木というじゃアないか。 縁起を祝うこの度の御降嫁の途(みち)縁切榎(えんきりえのき)があっては、ソリャこそ大変と、早速切らせることにしたが、大きな樹ではあるし、勿体(もったい)ないとかなんとか、人民の苦情もあるので、到頭目張(めばり)をする事になった。 板囲いをする。 なれども大きいからソレもにわかにやり切れないとなって、ソレじゃア御道順を変更しろとなって、(わらび)から荒川(あらかわ)の堤(どて)を切れて、武州川口(ぶしゅうかわぐち)へ出て、赤羽根(あかばね)の渡(わたし)へ御出になる事となり、まるで弓と弦、彼所(あれ)から王子(おうじ)へ出て、本郷(ほんごう)へ御乗込になるという騒ぎでした。
    (《幕末百話/七七 縁切と縁結び》P.206〜207)


     縁結びの椿
     スルとまたここに面白いお話が湧いたのは、縁切榎に反対して、埼玉県大里郡久毛(おおさとごおりひさげ)、コレはまた熊谷(くまがや)東吹上(ふきあげ)の西で、権八地蔵(ごんはちじぞう)を去る西へ三町の土地(ところ)縁結び椿と言う、枝の連理になった椿の木があるんでしょう。コレは縁起のいい樹(き)だ。 ソレはこの際御城に申上げて、御墨附を給わるよう取計うという事になる。一方は断(きら)れんとし、一方は培養の料が出るという恐しい違いさ。 ついに幾千(いくら)かコノ椿へつく事となりました。御一新後荒川の堤を修繕の時でしたが、郵便馬車の交通上妨害になるといって(き)っちまったそうで。
    (《幕末百話/七七 縁切と縁結び》P.207)


     灘の「花嫁」
     モ一つあの時のお話は、江戸近在−−中仙道方面へはいうまでもなく御酒下(ごしゅくだ)されがあって、ソノ時摂州灘(せっしゅうなだ)「花嫁」という酒が醸造(でき)て、一般に京、江戸へ出ましてす、やはり宮様に御祝意を表したものなんです。 なか/\旨(おい)しゅうございました。 よく頂きまして、ソレに名称(なまえ)が大層よろしく、パッと評判になりましたっケ。
    (《幕末百話/七七 縁切と縁結び》P.207)


    七八 昔の刑事の話

     良心の責苦
     「ハアえんやら巻いた。 ドッコイさ。 えんやらやあの、ドッコイしょ。 えんさか巻いた白状しろイ」と面白半分にやるていと、黄(きいろ)い声を出して、「ア痛(いた)々々、私は知りま……せん……全くア……痛(いた)々々々」そんな事はお構いなし、「えんやら巻いた。 マダ白状しねエ、どっこイ巻いた」というので、到頭恐入る。 コレを刑事が乱暴をすると見れば、この上の乱暴はありゃアしませんが、良心の責苦、かの肉体を絞って、悪心を退治(たいじ)るんだと私共はマア平気で勤めましたものです。 警部さんもその声を聞いて刑事部屋へ見え、感心して「イヤ刑事というものは鬼だな。コレでなくっちゃア悪者共は恐がるまい」と被仰(おっしゃ)ったくらいなもんで。
    (《幕末百話/七八 昔の刑事の話》P.209)


     下卑たお話
     ソリャア刑事だって眼もありゃア涙もあります。 ナニも良心をこうしようてんではない。(ぴん)から六(きり)までこうはしやしません。 が蛇野郎はコノくらいの事をせず、公判廷で刑事の乱暴を訴えたソレ免職にしろ、ソレ罰しろといった日にゃあ、蛇野郎増長しやがって、無闇(むやみ)とそれを持出し、裁判(おさばき)にお手数が掛るばかり。 今の刑事(ひと)達ゃア遣辛(やりづら)いことッてしょう。 縛って置いて転(ころが)し、「棚の達磨(だるま)さんをチョット卸(おろし)」と洒落(しゃれ)ながら責るくらいの悠暢(ゆとり)がなくなっちゃあ、なんぼ鬼でも辛うごす。 その頃下卑(げび)たお話ながら、手長女中(てながじょちゅう)陰部(しも)を見るといえば大概白状したもの、「手前(てめえ)隠す所に事を欠いて、飛んでもねエ所に隠しているだろう」と持掛ければ、恐入るから可笑(おかし)い。 マアこんなもの。
    (《幕末百話/七八 昔の刑事の話》P.209〜210)


    七九 昔の御馳走ばなし

     祇園豆腐と五色
     浅草蔵前(あさくさくらまえ)に「祇園豆腐(ぎおんどうふ)」というのがあって、家作(やずく)りは田舎家という風、太い大黒柱が表から見えました。 豆腐は朱の大平椀(おおひらわん)へ盛って出したもので、古風なゆき方。 だが実に安いもの。 飯(めし)附二十八文(もん)。 その頃の飯は十二文。 即ち青銭(あおせん)三つでした。 両国米沢町(りょうごくよねざわちょう)、アノ界隈はモウ飲食の巷、アスコに「五色(ごしき)」という茶漬屋がありまして、五つの色の煮〆(にしめ)を出したもので、なか/\繁盛しましたが、やはり二十八文から三十文もあれば入って鱈腹(たらふく)なんです。
    (《幕末百話/七九 昔の御馳走ばなし》P.210)


     両国の蕎麦
     埋堀(うめぼり)鰌汁(どじょうじる)、今は片なしになりましたが、一時の流行(はやり)といったら大した景気でした。駒形(こまがた)のは今もありますが、蔵前中橋(なかばし)両国など沢山ありまったッけよ。 ソバときたら回向院前(えこういんまえ)田舎蕎麦(そば)、何かの時で入って喫(やり)ましたが、イヤモウ八文で一杯喰い切れません。色の黒い生(き)蕎麦だとかいうて、大変なもんですが、労働者(はたらくひと)にゃア持って来いでしょう。
    (《幕末百話/七九 昔の御馳走ばなし》P.211)


     朱塗の湯筒
     今は取払いになりましたが、上野広小路の「(かわ)むら太くって真黒、俗に馬方(うまかた)蕎麦という奴なんでさア。一石橋(いっこくばし)今の日本銀行のワキ、四谷御門外(よつやごもんそと)その外(ほか)に沢山ありました。蕎麦をふるいもせず、ヌカのままという打方(うちかた)でさア。馬がカイバを喰(や)るように喫(ぱく)つくンで。……サテ異(おつ)だったのは鎌倉川岸(かまくらがし)豊島屋(としまや)(有名の酒店)の隣が居酒屋で、ソコでは湯筒(ゆとう)で酒を呑ましました。朱塗(しゅぬり)の湯筒へ御燗酒(おかんざけ)が入っていて(ぱい)一をキメルと、酒は豊島屋仕込み腹の虫がギュウと鳴きますくらいでした。 年寄った上戸(じょうご)連は御存知でしょう。
    (《幕末百話/七九 昔の御馳走ばなし》P.211)


     名代芋酒屋
     ソレから親父橋(おやじばし)のワキの芋酒屋(いもざかや)、コレはまた有名(なだい)なもので、新川(しんかわ)の若衆(あらしこ)が来て飲(あおる)んですがら、酒といったら天の美禄でした。 芋酒屋というのは芋が名物、男の手代が紺の揃衣(そろい)で、酒をつぐンでさア面白い腰付(こしつき)で、調子を取るんで。……そのまた誂(あつら)い物に対する懸声がこうなんです。 「あたり〕コロ一、デクナダ一枚」「ヤタつき一枚」なんの事かと思ったら「〔あたり〕コロ一」というのは突当りで、芋を一皿(ひとつ)だということで、〔デクナダ〕というのは腰掛の出張(でばっ)た所へも品物一皿(ひとつ)という略し、ヤタとは豆腐の事なんでした。 何だか余り饒舌(しゃべ)って咽(のど)がグビ/\して来ました。 ココラで一杯飲(や)りましょう。
    (《幕末百話/七九 昔の御馳走ばなし》P.212)


    八〇 鈴木藤吉郎の話

     ○式を出す
     両国吉川町(よしかわちょう)三吉(さんきち)という遊人(あそびにん)がありまして、ワルサをなし、南の与力に捕まったんですが、その御係りは橋場花川戸鈴木藤吉郎……「その方は何を致した」、「ヘイ手なぐさみを致しまして、御上(おかみ)に御厄介を懸けまして、ヘイ済みません」と申しますと、藤吉郎さん「よろしい」とて直様(すぐさま)、手錠(てじょう)を施して町内預けとなりましたが、ソコは昔で(今でも利目(ききめ)は同(おなじ)ですが)○式(しき)を出すから手錠といったところで、ユル/\なんです。 両手がヌキサシのなるようになっている。 当今でいう予戒令みたいな風で、手錠を抜いて置いて遊びに出られる。
    (《幕末百話/八〇 鈴木藤吉郎の話》P.213)


    八一 本郷た組の平三

     松平右京様
     本郷の老人鳶(とび)で、なか/\面白い伝記のある男でした。 一代の事を探ってお書きになったら、桃川実(ももかわみのる)の口演(こうえん)となりそうな男でした。 先年歿(な)くなりましたが、火事場喧嘩場(でいりば)で練った胆玉(きもったま)はまた格別でした。 なんでも子供の時に家の前で、しきりと水をばザッサと撒いていた途端に、通り合したのが松平右京(まつだいらうきょう)様の士分(さむらい)でして、アナヤという間に、ザンブリ手桶の水を掛けてしまったのです。 サアどうなることかと皆胆を冷(ひや)してしまった。
    (《幕末百話/八一 本郷た組の平三》P.215)


     不埒な奴だ
     士分は見る/\顔の色を変えて、「(ふ)、不埒(ふらち)な奴だ。 かりそめにも武士へ懸水(かけみず)をしたからには、刀の手前許して置かれぬ。 手打に致すッ」という権幕なんですが、平三は子供ながら、「叔父さん。 ナニも態(わざ)と懸けたんじゃアないから勘弁しておくんなさい。 ツイ為(し)ちゃったんで、出逢頭(であいがしら)だ、ツイ夢中で為ちゃったんだよ」といえども聞入れぬ。 曲り根性の士分と来たら見得(みえ)に大小へ手を掛ける奴ですが、どうしても許さぬと見た平三は、どうせ許されぬなら皆懸けちまえと観念するや、ドウと外(ほか)の手桶一杯の水を士分の頭からブッ掛けて雲を霞と逃げ出した。
    (《幕末百話/八一 本郷た組の平三》P.215)


     抜刀の隊長
     士分は(おこ)ったの怒らんのでないが、子供の逃げるのに逐付(おいつ)かれず、逐懸(おいか)ける振(ふり)していずれへか往ってしまった。 で平三の名は揚がったくらいです。 ソレから大きくなってからも、彰義隊(しょうぎたい)の戦争の際に、山下の某商家の留守を申しつかった。 大砲の響きや、鉄丸(てっぽうだま)の飛交う間(なか)で、留守番をしていたが、戦争が見たいので、表へ出て見ると、ソコへ首と酒樽を持った抜刀の隊長がやって来て、「首を持ってくれそうして俺と一所(いっしょ)に来い」というので平三は愕(おどろ)いたが「(わっち)は首は忌(いや)だから、酒樽を持とう」と言って持って往くと、途中で酒樽を開けて酒樽を振舞った上、隊長はどこかへ往ってしまったとの話でした。 普通の者じゃア出来る芸当でない。
    (《幕末百話/八一 本郷た組の平三》P.216)


    八三 撃剣修業の道場

     夜鷹蕎麦屋
     ソレに毎夜寒いから私共は、互(たがい)に一塊(ひとかたまり)となり、誘い合って道場へ往く途中腹が減るので、餅菓子大福焼芋などを買い、腹さえよければ大事ないと威張ったものですが、よく夜鷹蕎麦(よたかそば)というのを喰う。 一杯青銭(あおせん)四つ十六文にて、一番あったまるし旨(うま)。 ところがある夜明の事、夜鷹蕎麦を呼止め、喫(や)っていると、一人の友達が「(つゆ)を少しくれ」といったら、「ヘイ」と夜鷹奴(め)返事をしながら、用心桶の水を汲んで出したから、「(おの)れ馬鹿にするなッ」という声諸共(もろとも)、脳天目掛けて峰打(みねうち)を喰(くら)わす、夜鷹奴(め)愕いて荷を置いて逃出したので、友達同士「サア構わねエ、喰ってしまえ」と腹一杯詰込み道場へ出ていたが、翌日事面倒になり、夜鷹奴道場へやって来たところから、私共一同寒稽古差止めを喰いました。 昇先生は御存知だテ。
    (《幕末百話/八三 撃剣修業の道場》P.221〜222)


    八四 御一新前後の肉食

     二日間晒す
     今では牛肉といえば実に衛生上といい、飯(めし)の進むことといい、はたまたソノ匂いの旨さといったら、鼻がモゲそうでありますが、御一新前と来たら、七里ケッパイ牛肉を喰うというのが、精根つきた病人ぐらいで、薬だというから、鼻の穴へセンをかって置いて喫(た)べたもので。 喫(た)べた以上は神様仏様へ、一周(ひとまわり)の御遠慮を申す。 万一家で喰べる段になりますと、神棚仏壇へ目張(めばり)をしたものです。 そうして置いて煮た鍋はというていと、庭の中央(まんなか)へ持出して、煮湯(にえゆ)を懸けて二日間晒(さら)という手数のかかったお話なんでした。
    (《幕末百話/八四 御一新前後の肉食》P.222)


     味噌漬牛肉
     ソレも薬だからで、ナニを苦しんで晩飯のお采(かず)なんぞに致しましょう。 ヨク私共は胡麻(ごま)の油でイタめて喫(た)べました。 匂いがイヤでネ。 今ではビフテキだとか、シチュウだとか言いますが、(ぎゅう)の胡麻油煮(ごまあぶらに)というのは召喰(めしあが)った方は恐らく少ないでしょう。 もっとも彦根(ひこね)からは牛肉の味噌漬というて貰った事が有(あり)ましたが、牛肉だと聞くと喰べる気がしませんで恐しく忌(いや)がったものです。 肉を喰べると煙草(たばこ)も呑みません。火を涜(けが)というので……。
    (《幕末百話/八四 御一新前後の肉食》P.223)


     大皿に一杯
     けれども獣肉茶屋(けだものぢゃや)といって、両国駒止橋(こまどめばし)の所に、今でいえば牛肉屋然たるものがありまして、もみじやともいい、ココへ参ると(いのしし)(やえん)鹿、何でも喫(た)べられました。ももんじやというもあって、獣肉を販売しました。軍鶏(しゃも)なんというのはありませんで蹴合(けあい)につかうくらい。 たまにコレも養生喰いにするからといって買えば二朱で(十二銭五厘)大皿に肉(み)が一杯あるんです。 女は噛(か)んで見て「オオ忌(いや)」とホキ出したもんですが、ソレをどうです。 当今では婦人方でも牛肉屋軍鶏屋で(ぱい)をきめて被在(いらっしゃ)る。 変れば変るものです。
    (《幕末百話/八四 御一新前後の肉食》P.223)


     豚鍋へ切餅
     は御一新前に大(おおい)に流行(はやり)ました。 ソレというのは徳川慶喜(とくがわけいき)候が召喰(めしあが)ったというので、十五代将軍様すら召食るんですから、皆喰べたって差支(さしつかえ)はない(慶喜公の事を豚一(ぶたいち)といいました豚を召食る一ツ橋ということです)。 私共もよく上野広小路松坂(まつざか)の横町(大門町(だいもんちょう)ですな)彼家(あすこ)に豚屋があって、鍋一枚が天保(てんぽう)一枚でした。 ところが切餅を持っていって、煮て喰べると、豚と一緒で馬鹿に柔らかくなり、旨いンですが汁もコッテリとなり、鍋にコビリツクもので、豚屋は忌(いや)がり「餅をお煮なすっては困ります。 豚屋ですから豚を願います」と小言(かす)を喰ったもので。 ・・・・・・犬鍋屋(いぬなべや)というもありましたそうですが、ツイゾ参りません。 柳原(やなぎはら)にあったそうです。
    (《幕末百話/八四 御一新前後の肉食》P.223〜224)


    八五 桜田門外血染の雪

     赤合羽仲間
     ソレ/"\用意をいたしまして、殿様は奥で御支度中だ。 供廻は皆雪を蹴(け)って出掛けるばかり。 かかる所へ供廻の仲間(ちゅうげん)で、赤合羽(あかがっぱ)を着た男が、トッ/\/\と、雪の間(なか)を転(まろ)びつ起きつ、駆込んで来まして、慌(あわただ)しく「(た)、大変(たいへん)、大変でございます」と顫(ふる)え声。 「ナ、ナニが大変だ」と問いますと、「ただ今桜田御門(さくらだごもん)で、大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)様が水戸(みと)の浪士に首をお取られ遊ばした。 大変な騒ぎでございます」と顔の色を青くして、唇の色まで変えていうのです。 「ナニを馬鹿なことをいうのだ。 ソンな事があって耐(たま)るか。 井伊様は御大老だ。ソウ胡瓜(きゅうり)や唐瓜(かぼちゃ)のように首をもがれてどうなるものか」。
    (《幕末百話/八五 桜田門外血染の雪》P.225)


    八六 上野戦争靖共隊の一老

     大童信太夫
     私もこれで旧幕府の一人。 お話をして見たいと思うことは一朝一夕につきない。 私は御存知でもありましょう。 松平太郎(まつだいらたろう)を大隊長とした靖共隊(せいきょうたい)の一老であって、彰義隊(しょうぎたい)とは意見を異(こと)にしましてす。 彰義隊が東叡山(うえのやま)を根拠として、官軍と戦うというのには、すこぶる不賛成。 私は何所(どこ)までも「仙台(せんだい)は大藩であるし人物も居る。 かの大童信太夫(おおわらわのぶだゆう)(今は黒川剛(くろかわごう)と名乗って仙台の何所(どっか)に居るとの事であるが)などがいるから、仙台(あっち)へ引揚げて、奥羽(おうう)を堤(ひっさ)げ天下を割拠せよ。 なにも寛永寺(おてら)の残飯を喰って、旗揚するには及ばぬ」という持説であった。 大童の事は予々(かねがね)聞いていたし、大胆の男で、(しば)の仙台屋敷の如きも官軍に渡すよりは焼払えといって、焼いて順道丸(じゅんどうまる)へ乗込み逃げた先生である。
    (《幕末百話/八六 上野戦争靖共隊の一老》P.227〜228)


     自分兵糧
     しかるに彰義隊はこの説に反して訳もなく上野で逐払(おいはら)われた。 持説では勝利を得たが、窮迫は運命を同じうする旧幕脱奔(だっぽん)連中だ。 靖共隊を組んで、本所馬場(ほんじょばば)妙源寺(みょうげんじ)にいたが、コレは残飯を喰いやせぬ。 自分兵糧だて。……ところで上野が破れたから、同士四十五人と近藤勇(こんどういさむ)の新選組(しんせんぐみ)と合(がっ)して、大鳥圭介(おおとりけいすけ)の跡を逐(お)い(過半は先へ往った)奥羽へ往こうと思っている内に、出後(でおく)れとなり、大総督御使番太田慶太郎(だいそうとくおつかいばんおおたけいたろう)(後(のち)海軍裁判所理事をしていた)乗込んで来て、やはり本所大徳院(だいとくいん)で縛られた。
    (《幕末百話/八六 上野戦争靖共隊の一老》P.228)


     終に揚屋入
     是非がない首がないと、観念していたが、縛られた時が可笑(おかし)い。 同士に伊藤隼之助(いとうはやのすけ)という仁(じん)があって、「何人(なんぴと)が捕縛に参ったか」と官軍に問いますと、町奉行与力というので、「町奉行与力とは火付(ひつけ)強窃盗を捕縛する役であって、我々武士を扱う役でない。戦争(いくさ)で負けたというのじゃから、宜(よろ)しく陸軍へ引渡せ。 さもなくばこの場に割腹し相果てる」と、大音声(だいおんじょう)に叫ぶ。 私も成程それもそうだと思っていましたが、官軍も持余(もてあま)してその時説得役に出たのが、小野正之助(のちに小松(こまつ)何某といい判事になったとの事)が出て来て、色々論(なだ)め、喧嘩も止手(とめて)があって花とやら、一同は引かれて、欺(だま)し/\伝馬町(てんまちょう)の揚屋(あげや)入りとなった(全くこの会所へ往くところをかようの際ゆえ頼んだから入ってやった)。
    (《幕末百話/八六 上野戦争靖共隊の一老》P.228〜229)


     その頃の人物
     たちまち牢中の人となったが、なんでもその牢は水戸の浪士も収容したものだという話。 ソコに二棟あって、一棟の牢名主が伊藤準之助、一方の牢名主が私であった。どうせ首がないというので乱暴千万さ。 その内に世運一転して、出牢となったが、その間のお話はどうしてなか/\つきる訳のものでない。 アノ頃の人物と私の感心した仁(ひと)は、勝海舟(かつかいしゅう)は勿論(しかしつかまえどころのない人物だった)尾州(びしゅう)の大目付で畑那之助(はたくにのすけ)、見た所(とこ)は小作りな頭の禿げたスガ目の御爺さんだったが、しかし大胆であった。 桶川(おけがわ)岩倉具視(いわくらともみ)を刺そうとして、事成らかった岩佐源一(いわさげんいち)、彼(あれ)も人物であった。 ソレに下総野田(しもうさのだ)亀甲万(きっこうまん)の家元(今じゃア亀甲角(きっこうかく)だか)アノ茂木七郎左衛門(もぎしちろうざえもん)先代、義侠家であって、よく世話をしてくれた。 その後打絶えて礼にも往かんが、珍しい人物でしたヨ。 いずれまた詳しくお話する期(とき)がありましょう……。
    (《幕末百話/八六 上野戦争靖共隊の一老》P.229)


    八七 役僧と二分の役徳

     上野へ使者
     旧幕の頃上野のお山というものは、治外法権とでも申したような風で、武士は勿論、大名でもアノ領(りょう)へ入りますと、まことにハヤ一泡ふかされるようなことが多い。 で、かの御山にはいろ/\の珍談がございますが、実地を見た訳ではなは、他聞(ひとぎ)きですから、お話もできません。 先ず差当り自分で出遭った話をいたしましょうなら、上野へお使者に参ると、奥の方に御簾(みす)が下(さが)って居ります。 ソレをば恐れ入りながら、潜(くぐ)って伺候(しこう)するものですが、いかにもその御簾が低く下っています
    (《幕末百話/八七 役僧と二分の役徳》P.229〜230)


     二分の差紙
     なぜこんなに低いンだろう。 モット高くして置いたら、よさそうなものをと、思っていましたが、ここに愕(おどろ)いたのは、ある時伺候をすると、チョン髷(まげ)が御簾へ障(さわ)ったんです。 「コレは失礼した」と口の中(うち)で呟(つぶや)き、首尾よくその場は済(すま)して、帰邸しますと、どうでしょう屋敷へ二分(にぶ)の差紙が来ました。何も買物をした覚えがないが、なんだろうと愕きますと、役僧の申しますには、「御簾に障った罰金である」というので、コレには大きに臆(きも)を抜かれました。どこで役僧が見ていたのか、実に恐入りました。
    (《幕末百話/八七 役僧と二分の役徳》P.230)


     這い込んだ
     道理で御簾が低く下っていると思ったが、役僧奴(め)、二分にありつこうという計略か、辛(ひど)いことをしやがると悔(くや)んだが、屋敷からは粗忽者(そこつもの)とお叱りまで受けました。 まるで陥穴(おとしあな)を据えて置いて、落ちるのを待っているような事をしたものです。 コレが彼所(あっち)にも此方(こっち)にもあるんで、辛い世の中でした。 ソレからというものは上野へ使者に往く時オッカナ吃驚(びっくり)、同僚には「カク/\だから注意さっセイ」と注意を与え、一同頭を抱えて帰って来る。誰もいなかったから這い込んだなんて連中がありましたっけ。
    (《幕末百話/八七 役僧と二分の役徳》P.230〜231)


    九六 糸店丁子屋(附たり昔の小僧)

     旦那は発狂
     日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)三丁目十四番地、昔通旅籠町通(とおりはたごちょうどお)、あすこに『丁子屋(ちょうじや)』という大きな糸屋のあった事を、御老人方は御承知でございましょう。 間口(まぐち)六間(けん)半、店蔵(みせぐら)中蔵(なかぐら)奥蔵(おくぐら)となって、糸店としては立派な繁昌の家でした。 雇人はというに、小僧十二、三人、大僧(おおぞう)十人、番頭手代と居りまして、奥は女中の五人も使って、ソレはソレは大家内(おおかない)大町人(おおちょうにん)と申して差支えありませんでしたのが、明治十年頃に亀井町(かめいちょう)から出た大火事で、土蔵をスッカリ墜(おと)し、旦那は発狂をしました。 それこれで段々代替りがして、潰れてしまったンですが、私は同店の小僧を勤めましたから、その当時の模様をお話し申しましょう。
    (《幕末百話/九六 糸店丁子屋(附たり昔の小僧)》P.252)


     十年の奉公
     店の名代なのは房州(ぼうしゅう)、相州(そうしゅう)から上京する地方の人が、通旅籠町の大丸(だいまる)へ買物に来るのに、船の上から丁子屋の家根(やね)を目当に上陸(あがっ)て来たものだと言いますくらい、店は大家の小僧ですから、種々(いろいろ)習慣(ならわし)仕形(しきたり)御家例(ごかれい)があって、ソレに随わねばなりませんでしたが年季と申すのは十年でして、三年目に『半元服(はんげんぷく)』となって、鰌鼻緒(どじょうはなお)雪駄(せった)が穿(は)けるようになります。 それまでは貧乏鼻緒といって、竹の皮のよった奴です。 また五年経ちますと『本元服(ほんげんぷく)』といって、駒下駄を宛がわれます。 そして薮入(やぶいり)には羽織の一枚も下さる。 俗にいう『中若衆(ちゅうわかしゅう)』という者になります。 それから逐次(しだい)に出世するのですが、十年の年季を勤め上げたところで一年御礼奉公をして、下され物といったら百円暖簾(のれん)を分けて貰うのが関の山でした(ただ今から見るとなか/\十年の御奉公は大変なものでした)。 御奉公中も月々お小遣いを下さるじゃアなし、薮入に旦那からマア三十銭、おかみさんから二十銭、お袋様から二十銭下さいます外に、分配金がありますが、これは平生祝儀物を持って参ると、それ/"\心付(こころづけ)が貰えましょう。 ソレを溜めて置きます。 コレは怨みッこのないように、小僧が順番にお使いに参るンです。 そんなものです。 こんな風ですから、番頭となって世間へ出るにしても、資本のない人は通番頭(かよいばんとう)で、宛行扶持(あてがいぶち)で縛られているより外はないンです。 イヤハヤ哀れなものでした。 ソレでも小僧になり手は多かったンですが、世が悠暢(のんき)だッたせいでしょう。 その頃丁子屋の向いに『森清(もりせい)』という菓子屋があり、また、大丸(より)に『亀屋(かめや)』というのもあって、競争の姿でした。 十月十九日のベッタラ市の日に、双方で売出すのが森清で切山椒(きりざんしょう)(五色(ごしき)のやつです)、亀屋が柏餅でした。 どっちの旨さも今に忘れません。
    (《幕末百話/九六 糸店丁子屋(附たり昔の小僧)》P.253〜254)


    九八 お大名と雪隠

     黒塗の桶筥
     越後(えちご)の人が昔江戸へ来まして、旅店(やどや)に着き、暫(しばら)くして亭主の前に出(い)で、「御亭主勘定が仕(し)たい」と言ったら、「御勘定は明日(みょうにち)になされまし」と答えたが、越後の人「なか/\堪(こら)えられぬ」との事に、亭主やむを得ず十露盤(そろばん)を与えたので、越後の人、喜んで二階の梯子(はしご)段の下へ持込み、左〔ネジリ〕を放(し)た上、曳出して「ヤレ/\御膝下(おひざもと)の勘定は調法だ。 車仕掛(くるまじかけ)でござるよと言ったお話がありますが、雪隠の事については、種々(いろいろ)のお話があります。 名称(よびな)も同じく種々あって、(かわや)と申し、手水場(ちょうずば)後架(こうか)、越後の柏崎には閑処(かんしょ)とあったと言います江戸の大町人、お大名をお招き申して、便所(はばかり)には香を沢山焚き、余程贅沢を尽した積りであったところ、お大名は頻(しきり)に鼻をヒコツカせ、「恐ろしく便所(はばかり)の匂いが強いと言った話もありますが、ココに私共の親戚に中仙道(なかせんどう)に庄屋がありまして、お大名の本陣となった時の容子をよく聞きましたが、その模様をお話ししましょう。 お大名が今夜お泊りと申す時には、「先番(さきばん)」と号する士(さむらい)が、長持(ながもち)雪隠の抽出筥(ひきだしばこ)を納めたのを持たせて参りまして、上雪隠(うわせついん)へ仕掛けて置きます。 もっとも大抵の家(うち)で本陣にでもなろうという処では、そうしなくとも御間(おま)に合うようにはしてありました。黒塗の桶筥(といばこ)の雪隠です。 先番衆は本陣へ乗込むが早いか、乾いた砂をソレへ敷き、両便を受けるようにしたものだそうで、サテ殿様が御到着の上両便を達しられると、先番衆は、再びその砂をば樽詰にし、御在所へ持帰ったもので、サゾ大変の物であったろうと思われます。
    (《幕末百話/九八 お大名と雪隠》P.257〜258)


    九九 伏見鳥羽の戦後話

     御札が降る
     ちょうどあの頃(明治元年伏見鳥羽(ふしみとば)の戦争時分)私は大阪天満(おおさかてんま)古着屋に奉公をして居りました。 天朝(てんちょう)様の御威勢が盛んになって参り、幕府は傾いて来ました。古着でヨク売れましたのは錦の布(きれ)で、陣羽織にされたんだそうです。 商人(あきんど)は商いも相応にありましたが、恐い渡世(よわたり)で、いつ戦争が持上るか知れません。 コノ前歳(慶応(けいおう)三年の暮)イカイ事御札が振りまして、アレが誠に妙でした。 夜になると颯(さっ)々々と降ります降った商店(うち)では大層祝いまして、附景気(つけけいき)にもせよ、御札のお庇(かげ)で店が繁昌する。天狗様の御指図だというので降らない店は悄然(しょげ)て、罰(ばち)でも中(あた)ったような始末。 スルと前晩(ゆうべ)降ったというので、俄(にわか)縮緬の揃いで、市中を練歩き、酒盛をする、まるで夢中でした。 古着屋(てまえども)では天狗を染めた模様物を用意しまして、来春になったら大した景気であろう、善(よか)ろうと思っていましたところ、一夜明けて春となった正月の九日、明日は十日〔ゑびす〕という前日に、戦争(いくさ)が始まって、幕府は鳥羽、伏見の敗軍(まけいくさ)となって、薩、長、土が大阪へ繰込みました。
    (《幕末百話/九九 伏見鳥羽の戦後話》P.259〜260)


     入城勝手−−実は地雷火の瀬踏
     サア商家は景気どころか、滅茶々々で、家内子供は在方(ざいかた)へ逃がして、主人(あるじ)は脚袢甲懸(きゃはんこうがけ)で商売をしていますンで、開戦(はじまっ)たら逃出そうという始末。 その内に誰いうとなく「一橋様(さん)(慶喜(けいき)公)は淀(よど)から紀州(きしゅう)へ落ちて、官軍が乗込んで、今大阪城を取囲んでいる。御城内には誰でも入れる。 こういう時に入らないと拝見は出来ない」と触散(ふれちら)したもので、私なども一番に出懸けました。 スルと薩、長、土の軍隊は入城しないで取巻いています。 見物はドシ/\御城内へ繰込む。 ただ繰込むばかりでありません。 コレに欲が手伝った。 御城内の長屋では幕府の人々が周章(あわて)て逃出したから、夜具葛籠(つづら)、衣裳葛籠その他そのままに投出してありまして、(ぬし)があるンじゃないので、皆我勝(われがち)に奮取(ぶんど)って引揚げましたが、これを見て軍隊では何とも咎めません。ソコは大阪人ですからこの機逸すべからずで、市中の評判となって見物は附けたり、物品奮取(ぶんどり)に出懸けますと、二日目に到頭地雷火(じらいか)が破裂して、見物の男女は真黒焼(まっくろこげ)になって、御濠へ刎飛(はねと)ばされました。 嘘か本統か存じませんが地雷火の瀬踏(せぶみ)のため、見物を入れたのだそうです。
    (《幕末百話/九九 伏見鳥羽の戦後話》P.260〜261)


     入城禁止
     ソレから入城禁止となって、同時に持帰った品々を寺町の宝春院(ほうしゅんいん)(コレは仁和寺宮(にんなじのみや)様の御詰所でした)へ届出ろ、さなくば見当り次第厳罰とのお触(ふれ)で、皆顫え上り、奪(とっ)て来た物を御返しに参ったんです。 何の事はない。 地雷火の犠牲(ひとみごくう)に上って、褒美の金を召上げられたような始末。 立派の家(とこ)から葛籠(つづら)をお返しに往ったものです(アスコも泥棒の仲間でオヤあの家もという訳です)。
    (《幕末百話/九九 伏見鳥羽の戦後話》P.261)


     入札
     スルとこの物品が葛籠から天満宮(てんまんぐう)のお庭へ蓆(むしろ)を敷いたその上へ、ドシ/\開(ひろ)げられて入札という事に定(さだま)りました。 衣物(きもの)類が多いので、私も主人と共に駈付けます。 大阪の古着商は近傍の家(うち)を借りまして、西南(にしみなみ)と別れて入札をしましたが、根印は相対ずくですから、双方へ旨く落ちるようにしまして、第一回は大した儲け。 第二回の時も五百両からの入札で、品物は踏倒しても二千両が物はありましたが、開札の上、何の知らせもありません
    (《幕末百話/九九 伏見鳥羽の戦後話》P.261)


     旨い事をします
     コレは変だと探りますと、川へ附(つい)ている萩(はぎ)の船頭が、悉(ことごと)く船へ運んでいます。 オヤと思って調べますと、役人が余り安いというので、萩の船頭に買わせ、長州(おくに)へ持込んだものらしい。 イヤどうも一同指を咥(くわ)え涎(よだれ)を垂らして、千両以上の儲物(もうけもの)に翼(はね)が生えて飛んで行くのを眺めている始末なんでした。長州には、さすがにこれを見ても智恵者がいましたなア。 地雷火の瀬踏といい、古着の買込(かいこみ)といい旨い事をしましたンで、感心しました。 コレが伏見鳥羽の戦争後、私の出遭ったお話でございます。
    (《幕末百話/九九 伏見鳥羽の戦後話》P.262)


    今戸の寮

     二 人力に曳殺さる
     おばさんは十五の春、今戸の寮へ御奉公に行くことになって、日本橋小網町(にほんばしこあみちょう)の我家を立出たのが明治五年のある日であった。 お話は私が技巧を加えるよりは、やはりおばさんを引張り出して、皆さんへ生のままのお話をした方がよいと思う。
     「私の家(うち)は魚屋で江戸ッ子のチャキ/\でした。 私が家を出際(でしな)に、父親(てておや)の惣兵衛(そうべえ)−−魚惣(うおそう)が『おまさ坊、気をつけて行きねエヨ、昨日も馬道(うまみち)で人力車に三人曳殺(ひきころ)されたッていうから、ヘマを喰って怪我(けが)でもしたら、江戸ッ子の面汚しだ、気をつけて往くんだぜ』と注意をしてくれました。 秋葉大助(あきばだいすけ)という人が人力車というものを発明して、東京中をゴンサイ/\と曳きあるかせたのはその頃でした。 『人力車』という旗を辻々に立てていたものです。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.269)


     三 看板娘菊ちゃん
     浜中屋黒板塀見越(みこし)の松新内明烏(しんないあけがらす)浦里時次郎(うらざとときじろう)舞台面ソックリの風でした。 浜中屋でもソレを自慢にして自分のところの手拭(てぬぐい)には、黒板塀見越の松を染出していました、浜中屋のおばがよく申していましたのは『山県(やまがた)さん木戸(きど)さん、船越(ふなこし)さんという一粒どこの方々はいらっしゃるが、ツイゾ天下の糸平(いとへい)という人が来たことがないが、誰か連れて来て下さる人はないかしら』と申していました。糸平柳橋(やなぎばし)が遊び場で、今戸までは泳ぎ出して見えなかったものですから……。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.269〜270)


     六 寮へ田之助一座
     ソレから山県卿ばかりではありません、卿の奥方達も寮へお招きする、ある日山県卿の奥方、木戸公の奥方達がお出(いで)になった時には、当時評判の田之助(たのすけ)一座−−名人田之助がダッソにかかって、両脚をヘボン博士(はかせ)の手術で切断してしまって、モハヤ舞台の人ではないかと思っていましたら、田之助は狂言作者黙阿弥(もくあみ)にせがんで、座ってできる狂言をつくってもらい出演したのが国性爺(こくせんや)錦祥女(きんしょうじょ)で、両脚切断後の田之助が、再び舞台へ出たというので大評判、その時堀の小さん櫓下(やぐらした)の小せんの煎入(きもいり)で、芸妓連中が狂言半ばに両花道へ居ならび『田之助さんをほめやんしょ』といって褒言葉(ほめこどば)の〔ツラネ〕を述べたことがありました。 大入大当りの芝居が芝居町にあったのをソックリ三谷の寮へ移して、田之助に錦祥女をさせ、小さんが堀の芸妓をひきつれて(ほ)めやんしょをやって両奥方に観せられました。 その一時の余興の費用(かかり)が弐百五十両かかったそうです。 その頃の二百五十両は大したものです。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.273)


     九 寮の日がな一日
     ソコで寮の女中で一人前といわれるには、竹屋(たけや)の渡船(わたし)を呼ぶ声と、屋根船(やねぶね)に巧(うま)く乗る作法とを心得ぬといけないので、例えば御新造様(ごしんぞさま)にお供して向島へ秋の七草を見物に行く時、今日(きょうび)なら自動車というところを、その頃は竹屋の船宿から別仕立の船で向う土堤(どて)へ渡してもらい、船を戻してサテ終日(いちにち)遊んで、イザお帰りとなって向島の土堤へ来ると、竹屋ア』と船頭を呼ぶのに、無暗(むやみ)に大きな胴間声(どうまごえ)を出して呼ぶなどは新米の女中と見くびられるんです。 『竹屋ア』とか『吉田屋(よしだや)』とか声を清く細く、水の上を辷(すべ)らして呼び、先方からオーイと返事をとるんです、こうした清元歌沢(うたざわ)のような声を出すようになると、寮で一人前の女中に数えられ、『アレは三谷のおまささん』とか『どこの誰さんだ』とか評判されたもンです。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.277)


     一六 御苦労に存ずる
     お話が前後しますが麹町(こうじまち)富士見町一円が三谷家の御地所で、ソノ一廓の屋敷にお住居(すまい)の頃は、御新造様夫婦と、お嬢ちゃまと、私と女中達、モトヨリその頃は何不自由のない御生計(おくらし)で、今戸が寮で、春秋の眺めに、御寮へ参りました、実に御大家でした。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.287)


     招魂社(しょうこんしゃ)の御用は、三谷で申しつかり、何でも招魂社を盛(さかん)にしろという御趣意で、その向(むき)からのお薦めでした、ソコである界隈を繁昌させようと、いろ/\計画(もくろみ)があったものです。 古くは私共何も知りませんが、『招魂場(しょうこんば)』と申しましたのを、明治八年十月に招魂社と改まりました。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.287〜288)


     ソコであすこらへ、商家を建てて、花柳界(いろまち)をこしらえましたが、陸軍卿の仰(おっしゃ)ったことというのを伝え聞くと『芝居寄席は火の元不安ゆえ、何としても許されんがソノ外はよい』とのことでした。 しかし芝居はあまりに多人数集り、廻り舞台、楽屋、奈落などで、大仕掛とあるから、火の恐れがないとも限らぬが、寄席ぐらいは土地繁昌のため、お許し下さいと嘆願に及び、結局許可になりました、斧三郎さんの配下の徳田清助(とくだせいすけ)さんのお名前で、寄席興行を願い出(いで)て早速許可になりました。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.288)


     ソノ頃富士見町の屋敷、シモタヤの方へ、戸籍の巡査(おまわり)さんが威張って来ては、変にからむんです、癪に障(さわ)ってたまらないンです、『お前のとこは何をしちょるか』と眼下に見下し、権柄ずくなんです。 その頃の巡査(おまわり)さんは、薩摩坊(さつまっぽう)が多くって、頭(てん)から官員風を吹かすのです、三谷の大番頭ともいえず、今でいう支配人なんかともいえませんし、どうしてやろうと考えていたことがあるんです。 ある晩旦那が御酒をめしあがっていらっしゃる傍(そば)で『旦那様、巡査(おまわり)が参って、お前のとこの主人は何しちょるかと、申しますンで、何と申したら宜(よろ)しゅうございましょうかしら』とお伺いしたら、アハハハハハとお笑いになって『招魂社御用係というがいい』と仰(お)しゃった、よし来た、いいことをうかがったと、手ぐすね引いて待っていると、やって来ました、例の権柄ずくで、『いつもいうが、お前のところの主人は、何しちょるんか』と来ました、待ってましたとばかり『ハイ、主人は招魂社御用係です』とやったら、巡査さん面喰(めんくら)って『左様か、御苦労に存ずる』と引下って往きました、あとでこの話をして、御新造様と手を拍(う)って笑ったことじゃアございません、御苦労に存ずる』はよかったねと腹(はら)を抱(かか)えましたよ。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.288〜289)


     全く招魂社御用係みたいなもので、招魂社の御祭礼には、三谷といえば幅の利(き)くのなんのって、威張れたものでした、ソノ頃招魂社の競馬といえば大景気なもので、馬場の周囲(めぐり)(今の大鳥居の一廓)へ桟敷(さじき)がかかりました、これが三谷の受持ですから『三谷の宅のもの』といえば、東側の桟敷は、大手を振ってあがって拝見が出来ました、全く御用係で、三谷の威勢ったら恐ろしいくらいのものでした。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.289)


     二〇 大御新造の述懐
     何と申しても三谷の全盛は、御維新前でしょう。 十二代三谷三九郎へ、鹿島から大御新造様が御輿入(おこしいれ)の頃(ころあ)いは、宵から木戸の締るまで、深川(ふかがわ)から両替町まで『新川(しんかわ)』という提灯をつけて、しっきりなしに荷物を運んだもンで、鹿島は町人、三谷は十人衆で御用達(ごようたし)ですから、玄関式台つき、御用提灯が飾ってあったくらい、ソレだのにいよ/\三谷が瓦解の時、鹿島は、裁判所で『親戚ではありません』と言い切ったそうです、ですから私がお供してお芝居へ参った時、うずらへ入っていると、大御新造様へ茶屋の男衆が『新川様も入らしってます』というので、大御新造様が『オヤそうかえ、あちらで御挨拶があったら』との事でしたが、あちらは高土間(たかどま)にいたのに、ツイに御挨拶がなかったものです、大御新造様は独語(ひとりごと)のように『鹿島は三谷に用はないと見える』と御述懐されました。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.292〜293)


     二九 離れ鴛鴦の別居
     お話がまだ/\後や先になりますが、今戸の御寮話も大体荒筋を申し上げました。 とりとめもないお話でしたが、ソノ間に今戸の寮の有様がお分りになりましたらお慰み、まだ/\細かいお話は、いくらでもありますが、三谷のお家の最後をお話するのは、何だか恐いような、寒気がするような心持ちがします、御新造様がよく被仰(おっしゃ)いました。
     『本統にお姉さまは羨しい、若死をなされた代りに、三谷の全盛の時に、全盛の三谷を背負って立って育ち、斧三郎の全盛の間に、皆(み)ンなから惜しまれ死(じに)、好きな真似仕度(したい)三昧をなすって、盛りの花を咲かしたり、散らしたりしておしまいになったのに、私はなんという不仕合(ふしあわせ)なんだろう、こんな地獄を見るような目に遭うなンて、おまさ、察しておくれ
    と沁々(しみじみ)被仰ることかあると、地の底へ心も身もめり込んでしまいそうになるんです。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.302〜303)


     御新造さまがお亡くなりになったのが、四十二の秋、その二年前に、斧三郎さんが亡くなられました、勿論遠(と)うから御別居で、御本家の手前、御夫婦御一所にいらっしゃる訳にまいらず、斧三郎さんも焼糞(やけくそ)で女狂い、トント御新造さまを見向もなされず、離れ鴛鴦(おしどり)の片寝入り一人寝る夜は二人が寒い』という御情合(ごじょうあい)があれば結構ですが、肝腎の殿方に離れた御新造さまの御心中、逢う人ごとに、昔を語って泣かないものはありませんでした。
    (《幕末百話/今戸の寮》P.303)


    幕末百話の後に題す(武田鶯塘)

     幕末という言葉は、徳川幕府の末期を指した略語である事は、ここにいうまでもないが、このいわゆる幕末ほど、混沌かつ物寂しさを感ずる時代はないであろう。 それは明治の黎明期であるとはいうものの、幕府三百年の基礎が覆って、其処(そこ)にはまだ文化の曙光が稀薄であり、不安と危惧と憂悶と暗殺と、闘争と、そうしたあらゆる忌(いま)わしい空気が天下に瀰漫(びまん)した時代なればである永井荷風氏はその随筆に、「余の平生好んで幕府遺臣の随筆を読むは、時に遇はざるの感慨、平々淡々たる行文の中、自ら言ふべからざる悲調をなせるものあるが故なり」と書いて居るが、こうした、感慨は独り荷風氏のみではないであろう。
    (《幕末百話/幕末百話の後に題す》P.317)


     幕末百話は随筆ではないのである。 幕末の世態を凝視した人々の実話を網羅したものである。随筆には往々にして与太があるけれども、実話には与太がないのである。 しかもそうした時代の実話には、時として史実を覆すものがあり、時としてまた史実を裏書するものがある。 この意味において幕末百話は当時の秘録ともいうべきである。
    (《幕末百話/幕末百話の後に題す》P.317)


     「今戸の寮」の談話者は井沢まさ子刀自といい、かつて故安田善次郎翁が日本橋小網町玉蝶といえる鰹節問屋に養子たりし日、隣家魚惣の子娘として熱愛されたる人であり、更に三谷家に仕えて今戸の寮の秘事をまで知悉して居る老女である。 しかもこの刀自は胡蝶のみならず、妻女もまた面識浅からざるところから、胡蝶の問の足らざるは妻女にこれを補いて正し、妻女の質疑足らざるは胡蝶これを補足して、刀自が記憶を完全に搾取し得たるものであり、実地踏査に当っても妻女の助けに待つところ甚だ多かった事はここにいうまでもない。 彼はいう。此編一つに亡妻安具の賜物であると。 『幕末百話』はここに増補校訂を告げて華々しく復活したけれども、同趣味の下に行き得た妻女は今春三月十六日を以て溘然易簀(こうぜんえきさく)されたのである。 今にして復活すべきようもないのである。 此書刊行の暁、本証院安具妙徳大姉の霊に香を捻じつつ、これが一巻を捧ぐる彼の姿は淋しいに相違ない。 (昭和四年六月稿)
    (《幕末百話/幕末百話の後に題す》P.320〜321)