[抜書き]『歴史を考えるヒント』


『歴史を考えるヒント』
網野善彦・新潮文庫
平成二十四年十月五日 三刷
    目次
    T 「日本」という国名
      歴史と言葉   国名が決まった時   倭人(わじん)と日本人   日出づるところ  
    U 列島の多様な地域
      日本国の範囲   すべての帝国は道を作る   日本は孤立した島国ではない   平将門の新国家  
    V 地域名の誕生
      「関東」と「関西」   自立していく九州   広域的地名と神仏   気づかれていない地域意識  
    W 「普通の人々」の呼称
      「人民」と「国民」   手垢にまみれない言葉   柳田学と渋沢学   納税の義務を負う「平民」   「土」が意味するもの  
    X 誤解された「百姓」
      「ひゃくしょう」と「ひゃくせい」   さまざまな生業の「百姓」   多様な人々を指す言葉   一変した江戸時代像   誤解は江戸時代から   「農」の陰に隠れたもの   農本主義と重商主義   貧困な歴史学の用語  
    Y 不自由民と職能民
      古代・中世の不自由民   「奉公人」の出現   博奕の道、好色の道   聖なるものの直属民  
    Z 被差別民の呼称
      差別意識の東と西   ケガレにどう対処するか   伝染するケガレ   ケガレのキヨメ   非人・放免という職能民   死とのかかわり方   ケガレから汚穢へ   差別される人々   今後の課題  
    [ 商業用語について
      商業取引の高度な伝統   市はどこに立てられたか   「手形」と「切符」の誕生   「手」は何を意味するか   聖なる金融から、俗なる金融へ   「接待」と「談合」の歴史  
    \ 日常用語の中から
      誰のものでもない「落とし物」   神の意思を集約した「落書」   土の中は異界だった   「募る」の三つの意味   「がいな」と「あたん」   中世における「自由」とは   失われた日本語の豊かさ  
    ] あとがき
    解説 輿那覇 潤


    T 「日本」という国名

     国名が決まった時

     「建国記念日」が二月十一日に決まった時、当時の歴史家たちはこぞって反対しました。神話の世界の話をあたかも事実であるかのごとく扱って、いよゆる「紀元節」を戦後に復活させたわけですから、それは当然だと思います。 私自身も全く反対です。 ただ、今から考えると、その時の閣僚や国会議員たちに、「日本という国の名前が決まった日を知っているのか」と質問を浴びせればよかったと思います。 恐らく、誰一人しらなかったのではないでしょうか。 「知らないくせに、よく日本の建国について議論ができますね」と、今でもそう言いたいくらいです。
    (《歴史を考えるヒント T 「日本」という国名》P.14)


     倭人(わじん)と日本人
     それでは、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと、現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された六八九年とされています。 浄御原令は天武天皇が編纂(へんさん)を開始して、死後その皇后の持統が施行した、はっきりと存在が確認されている法令です。 その前に近江令(おうみりょう)があったという説もありますが、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です。
    (《歴史を考えるヒント T 「日本」という国名》P.15)


     いずれにしてもはっきり言えることは、このとき以前、つまりから日本に国名を変えた時より前には、日本国という国は地球上に存在していなかったということです。 存在していたのは倭国であり、それは倭人という集団を中心とした国でした。 倭王という称号で中国大陸に使者を送るようになったのは、三世紀の卑弥呼の頃からだといって間違いないと思います。 それ以後は、厩戸皇子(うまやどのみこ)、のちに「聖徳太子」といわれた人の時に送った遣隋使(けんずいし)も倭国王の使いと言っており、決して日本国の使いとは名乗っていません。 ですから、こう言うと驚かれますが、「聖徳太子」は日本人ではなかったのです。 自分で倭人と言っていたのですし、倭人イコール日本人では決してないのですから。実際、関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人南九州人は倭人ではないのです
    (《歴史を考えるヒント T 「日本」という国名》P.17)


     日出づるところ

     そうなると、日の出る方角つまり東とは、どこから見ての話なのかが当然、問題になってきます。 ハワイから見れば日本は日の沈む方角になるでしょうから。 結局、これは中国大陸からみて東ということになるわけです。
     これは余談ですが、聖徳太子が出した「日出づる処(ところ)の天子」という言葉で有名な国書に、なぜ隋の皇帝が怒ったのかについて、かつては「日の没する処」と言われたことに対して腹を立てたといわれていましたが、中国大陸にはそれほど強い太陽信仰はないようで、最近ではこれは誤りだといわれています。 日本列島人には太陽の出る所をプラスと考える発想がありますが、中国大陸人は日が沈む所といわれても軽蔑(けいべつ)されたとは考えないようです。 隋の皇帝を怒らせた理由は「天子」という言葉をこの国書が使っていたからで、天子は世界に一人しかいないのに、東の野蛮人ごときが何を言うか、と隋帝は怒ったのだと、最近の学者は考えています。
    (《歴史を考えるヒント T 「日本」という国名》P.20)


    U 列島の多様な地域

     日本国の範囲

     それまでは自らを朝貢(ちょうこう)国と位置づけていた倭(わ)国が、小さいけれどもそれなりの自立した小帝国を作ろうとした当時のヤマトの支配層の、肩を張った姿勢の中で、「日本」という国号と「天皇」という称号も定めたのです。中国大陸の帝国の「天子」に対し、自らも「天」を称したこの称号はやはり、大陸の帝国を強く意識した称号ですが、それ以来、千三百年にわたって「天皇」は「日本」という国家の頂点に存在し続けました
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.25)


     さて、小さいながらも「帝国」として確立した日本国は、当時はもちろんまだ日本列島全体を支配下には置いていませんでした。 具体的に言えば、東北中部から北の地域は支配下に入っていません。 また、九州南部も入っていません。 いうまでもなく北海道と沖縄は入っていないのですが、言い方を換えるなら、東北人も南九州人も、まだ日本人ではなかったということになります。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.25〜26)


     そうした状況の中で、当時の日本国の支配層は、自分たちが受け入れた新しい「文明」を、自分たちから見て「未開」の「異種族」たちにも広めようという意欲を強く持ったのです。ヤマトの支配者たちは、東北には「蝦夷(えみし)」、南九州には「隼人(はやと)」という「異種族」がいると考えていました。 そして、そうした未開の世界に文明の光を及ぼしていくことに、ある種の使命感を抱いたと考えることもできると思います。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.26)


     それ故(ゆえ)、国家ができ上がるや否(いな)や、日本国は軍隊を発して、東北や南九州に攻め込んでいきました。 それが本格的になるのは、八世紀から九世紀初めにかけてのことです。 その戦争のことを、かつては「蝦夷」の「反乱」あるいは「蝦夷征伐」、そして「隼人」の「反乱」などと称していましたが、これは決して「反乱」などではありません。 もちろん、東北人も南九州人も自分たちとは異質な国家の影響力が、武力を背景に自分たちの独自な世界に及んできたのに対して、自立的な動きをしたのは当然ですが、それでもこれを「反乱」ということはできません。その原因は日本国の側にあると言わなくてはなりません
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.26)


     つまり何もしない人々に向かって、日本国は軍隊を動員して攻め込んだのですから、それは東北、南九州に対する「侵略」とはっきり言うべきで使用。 いつの時代においても、帝国主義の国家は「文明」を広げようという意識を持って動きます。 古代でも同様で、遅れた「未開」な国に「文明」を広めようとするのです。しかし一方の広められる方の立場になってみれば、それは明らかに侵略になります。 それなりに独自の文化を持ち、自立した秩序を持って生活をしているところへ、勝手に「未開」の生活をしているなどと言われて、軍隊が攻め込んでくるのですから。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.26〜27)


     こうした「古代帝国主義」による侵略に対して、東北人は一世紀にわたって頑強に抵抗を続けます。 その結果、日本国はついに東北全土を領土にすることはできなかったのです。 現在の岩手県の南部から秋田県のあたりは、九世紀の初め頃までに、東北人の自立的な秩序を認めた上で一応、形だけは日本国の中に入ったことを承認させて、ようやく支配下に入れました。奥六郡(胆沢(いざわ)、江刺(えさし)、和賀、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ)、岩手)、仙北(せんぼく)三郡(山本、平鹿(ひらか)、雄勝(おがち))がそれです。 しかしながら、東北の最北部にあたる今の岩手県の北部から青森県の下北・津軽の地域は、十一世紀の後半あるいは十二世紀に至るまで、そのまま日本国の外にあったのです。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.27)


     すべての帝国は道を作る

     日本国は、自分の支配下に入った地域に(最初は里)という行政単位を設定しましたが、東北最北部はついにその枠組に入らず、そこにある集落は日本国からは「村」と呼ばれていました。「村」は中世まで公的な国制の外にある集落の呼称だったのです津軽下北に郡ができて陸奥(むつ)国の中に入るのは十二世紀以降のことです。 ただ、日本国全体としては国・郡の制度は九世紀前半には確立・固定したと見られています。 そして、現在の東京・埼玉のあたりを武蔵国、主に神奈川県を相模(さがみ)国と呼ぶような、「国」の名前もその頃には確定していきました。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.28)


     「国」の名前は、例えば古い吉備(きび)という地名の“備”を使って、郡に近い方から備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)という国名をつけています。 あるいは、毛野(けの)という地域の名から上毛野(かみつけぬ)、下毛野上野(こうずけ)、下野(つもつけ))という国名を定めるというように、それまで存在した歴史的な地名を、ある程度取り入れた形でつけられていきました。 そして、八世紀には「よい字を用いよ」ということになり、例えば三野(みの)国は美濃国、山背(やましろ)国が山城国になっていますが、最終的には六十六国、二島ということに落ち着きます。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.28)


     この時点で確立した「国」の枠組は非常に強固で、ついに現在に至るまで破られていないと言うこともできるほどです。 明治政府が二つないし三つの国を合わせて作った県もありますが、その大部分が完全には融合できていないと思います。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.28〜29)


     日本国は、その「国」の上に更に広域的な支配のために、「道」という行政単位を作りました。 都を中心とした五箇国(最初は四箇国)が畿内、その東は東海道、東山道、北陸道、西は山陰道、山陽道、南海道、そして九州は西海道の七道が設定され、五畿七道といわれました。 それらの「道」は行政単位でしたが、実際にその地域を走る道路も同時に作られたようです。 最近、武蔵の国分寺、府中のあたりを通る東山道の跡が発掘されています。 考古学の成果によって、それは十数メートルの幅をもつ舗装された直線的な道であることが明らかにされました。 これはだいぶ前に発掘された山陽道でも同様で、地理学の木下良氏が明らかにされている通り、当時の日本国の支配層は本気で計画的に直線的な大道を作ろうとしていたのです
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.29〜30)


     日本に限らず、ローマにせよペルシャにせよ、古代の帝国は領土を拡張するための軍事的な目的で、必ず直線的な道路を作りました。 インカ帝国にも細く真(ま)っ直(す)ぐな道がありますが、三千五百メートルの高地にあるクスコまで使者がその道を駈け登っていったそうです。 ローマや中国大陸の帝国の場合は、戦車が通れるだけの広さの道になっています。 しかし日本の場合、江戸時代まで本格的に戦車を使った形跡はまったくありません。 それ故、どうしてこのような広い道を作ったかについては、議論があるようですが、軍事的な目的であったことは間違いないと思われます。 東への道は東北人との戦争のためですし、西への道は朝鮮半島の新羅(しらぎ)との戦いを予想して作られたものと考えられています。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.30)


     ただ、この時期においても日本列島の交通体系の基本、生活に即した交通路は、海と川でした。 ですから、当時の国家、日本国は非常に不自然な事業を行ったということができるのです。 実際、二、三十年でこの道は荒れはじめ、百年もたたないうちに、直線道路は荒廃してしまいます。 そしておよそ七、八十年ほどの間に、狭くなったり消えてしまったりして、元の自然な道へと戻ってしまいました。 自然な道は、やはり海や川との接点を持ちながら通っていく道だったのです。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.30〜31)


     日本は孤立した島国ではない

     しかし、八世紀には日本国が作った「道」の行政単位は、現在でも東海、北陸、山陽、山陰など、広域地名として使われ、JRの鉄道の名称となっています。 今も使われている地域呼称が、律令制の行政単位を継承しているわけです。 山陽、山陰などは範囲もその当時のままといってよいと思います。 現在、それらの呼称が新幹線の名前をはじめ、JRの幹線名として使われているところが、さきほどの陸上の直線道路のことを考えると面白いことだと思いますが、重要なことはこの広域地名は畿内、つまり現在の奈良、京都を中心として作られた地名であることです。 そのことは、ここで改めて確認しておく必要があると思います。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.31)


     これは、日本列島を、通常とは異なり南北を逆転させて、大陸から見る形にしただけの地図ですが、これで見るとよくわかるように、日本海はほとんど湖同然の内海です。 その周囲の列島は、実は全部狭い海で繋(つな)がっていると考えることができます。 対馬(つしま)と朝鮮半島の間は非常に狭く、対馬からは朝鮮半島がよく見えますし、サハリンと大陸との間も氷結したら歩いて渡れる狭さです。 サハリンと北海道の間の海峡も、流氷に乗って動物が渡って来ることは容易であろうと思われます。
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.32〜33)


     それを断ち切って、現在の領土の範囲で「島国」であると意識したのは、日本の近代国家です。 明治政府は、近代国家として国境を明確に定め、その範囲の中で国民国家を形成しなければなりませんでした。 したがって、四方の海は「国境」として守るべきものという考え方を国民に徹底的に擦り込み、私自身も日本は「孤立した島国」だと教え込まれて育ちました
    (《歴史を考えるヒント U 列島の多様な地域》P.33〜34)


    V 地域名の誕生

     「関東」と「関西」

     しかし、とにかくこの頃に関東」に対する言葉として、「関西」が用いられたことは確かです。 そして「関西」とは、東の国家である鎌倉幕府の視点に立った呼称であることは、間違いないことだと思います。 この場合の「関」がどこの関所を指すのかは不明で、さきほどの三関だったとも考えられますし、或(ある)いは碓氷足柄の関だったかも知れません。 おそらく三関の方だと思いますが、そこから西の地域を「関西」と呼んだわけです。 これは東に視点を置いていなければ絶対に出てこない言葉ですから、それまでは畿内中心だった日本の地域呼称が、ここで大きな変化を遂げたと言えるでしょう。
    (《歴史を考えるヒント V 地域名の誕生》P.42〜43)


     「関西」は、その後の使用例はさほど多くは残っていないものの、ずっと生き続けました。 「くわんぜい」という呼び方で、室町時代の記録にも出てきます。 江戸時代には「上方」という言葉の方が多く用いられますが、「関西」もなお消えることはなく、近代に入って東京が都になったことから普遍的な言葉として定着し、むしろ大阪を中心にした地域をさす語として広く用いられるようになっていきました。
    (《歴史を考えるヒント V 地域名の誕生》P.43)


     また、東国」という言葉も、当初は西からの視点で用いられていました三関を越えた美濃尾張あたりから東を東国と呼んだり、さきほどの関東と同じく三河信濃越後以東を指す呼称として使われていた形跡も古代には残っています。 それに対して「西国」は、最初は「日本国」のさらに西にある国という意味で使われており、中国大陸を指したり、天竺(てんじく)を表す言葉として記録に現れます。 やがてそれが、日本列島内の地域呼称として西海道、現在の九州を指す言葉に変わっていきますが、もちろんそれもやはり畿内の視点からの「西国」でした
    (《歴史を考えるヒント V 地域名の誕生》P.43〜44)


     気づかれていない地域意識

     私が申し上げたいのは、我々の中にそのような地域意識があり、それにはそれなりの歴史があることを、日本人は深層まで掘り下げて認識できていないのではないかということです。 何年か前に、さる洋酒会社の社長が、「東北は〔熊襲〕が住んでいた未開の地域」などと発言して、物議を醸(かも)したことがありました。 悪気はなかったにしても随分ひどい話ですが、これは関西人あるいは西国人の発言であり、東北人関東人は決してこのようなことは言わないでしょう。 まさしく、それぞれの地域に固有の歴史があることに気づいていないがゆえの失敗だと思うのです。 そして、この出来事は、日本人が決して一様ではなく、多様な歴史を持っていることについての認識の欠如が、時として人の心を傷つけてしまうことも有りうる、という事実を示す好例だと思います。
    (《歴史を考えるヒント V 地域名の誕生》P.53〜54)


     十五世紀にはさらに、北海道に「夷千島王(えぞちしまおう)」と名乗る人物が出現し、一方では琉球(りゅうきゅう)王国も誕生します。 つまり、この頃になると日本列島には「日本国」以外の国家が現れ、列島全体に実に多様な地域が分立していたことが明瞭(めいりょう)になってくるのです。
    (《歴史を考えるヒント V 地域名の誕生》P.54)


    W 「普通の人々」の呼称

     手垢にまみれない言葉

     ご存じの方も多いと思いますが、渋沢敬三は明治の大実業家・渋沢栄一の孫にあたり、栄一の創立した第一銀行に入った後、戦争中は日銀総裁、敗戦後は大蔵大臣にまでなった実業家です。 その傍ら水産史、民具学、民俗学、民族学などの研究の援助にも巨額の私財を投じ、アチックミューゼアム日本常民文化研究所を設立して優れた研究者を育てると共に、自らも水産史の研究の上で大きな業績を残されました。 若い頃、生物学を志しながら家庭の事情で止(や)むなく実業界に身を投じた経験があり、その志をこうした学問の分野で生かされたと言ってよいと思います。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.60〜61)


     柳田学と渋沢学
     私は一九九八年三月まで、神奈川大学の付属研究所となった「日本常民文化研究所」の所員でしたが、この研究所を創設したのが今のべたように渋沢敬三さんでした。 渋沢さんは、柳田国男のやり残した分野に取り組もうと考えたのです。 柳田さんがお年寄りからの民間伝承聴き取りなどを資料として重視したのに対し、渋沢さんは民具というマテリアル・カルチャーに注目して、民具学を提唱されました。 当初は、ご自分の家の屋根裏を研究所にして数多くの民具を並べ、「アチックミューゼアム」(屋根裏博物館)という一風変わった名前をつけていましたが、横文字の名前は具合が悪いという戦時中の風潮により、止むなく現在の名称に変更されました。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.61)


     しかし、「常民」の話が研究所の名称になった頃には、この語はすでに柳田さんが著作の中で使っておられました。 柳田さんはこの言葉を最初に使ったのは渋沢さんだと言っていますが、柳田さんと渋沢さんとでは、「常民」に込めた意味が明らかに違います。 柳田さんは、歴史学が世の中の変化を追求する学問なのに対して、たとえ政治の変動などによって時代が変わろうとも、簡単には変化しない普通の人々の生活の問題を追求するすることを、民俗学の使命と考えておられました。 そうした考え方に「」の字が適合したのでしょう。 その民俗学のキーワードとして「常民」の語を使われました。 しかし、その中には職人漁民、さらには定住せずに各地を遍歴する人々などは含まれていなかったと考えてよいと思います。 このように、柳田さんの「常民」には、「農民」という意味が濃厚に込められていたと言えると思うのです
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.61〜62)


     これに対して渋沢さんは、はっきりと常民」は「コモンピープル」の訳であると言っておられます。 まさしく「普通の人々」という意味であり、その中には職人や商人が含まれており、後ほどふれる被差別民も、渋沢さんははっきりとは言っておられませんが、含めておられたと思います。 そのように、同じ民俗学の世界でも「常民」の語に込める意味合いには、学者の立場によって差違が生じていますが、この言葉が民俗学の用語として定着していることは間違いありません。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.62)


     ただ、実はこの言葉自体は元来、日本語ではないと私は思います。 辞書や様々な文献で調べてみましたが、「常民」は日本語の語彙(ごい)には存在せず、元をたどると朝鮮半島において普通の人々を意味する言葉でした。 朝鮮半島では、特権的官僚の階級である両班(ヤンパン)あるいは被差別民以外の普通の人々を「常民(サンミン)」と呼んでいます。 朝鮮史の専門家に聞きますと、それは両班から見ると低い身分ですが、普通の人々を指す言葉として用いられていたと言われています。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.62〜63)


     柳田さんも渋沢さんも、この朝鮮半島の言葉を積極的に使ったのではないかと思われます。 その理由は先ほどふれたように、人民にせよ国民にせよあるいは庶民にせよ、後に述べる「平民」や「百姓」にせよ、既存の言葉は日本の社会の歴史の中でいわば“手垢”にまみれてきた感があり、それぞれにいろいろなとらえ方がされているために、学問上の用語として使うことに抵抗を感じたからであろうと推測できます。 当時、朝鮮半島は日本の植民地になっていましたが、明治前半までの「日本人」の中でほとんど使われていない言葉で、最もよく普通の人を表現しうる語として柳田さん、渋沢さんが「常民」を選ばれたことは、ほぼ間違いないと私は思っています。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.63)


     納税の義務を負う「平民」

     現在、テレビで話す時に「百姓」という言葉を何も注釈を加えないで使おうとすると、テレビ局にチェックされます。 そして、学問的な問題以外で使う場合には規制を受けて使えなくなってしまうのですが、「平民」も恐らく一種の差別語とされ、今のマスメディアでは使えないでしょう。 しかし、それは言葉の本来の意味から考えると、非常に奇妙な話になっているのです。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.65)


     中世の荘園では、百姓を支配し、田畠を基礎に徴税するための基本的な単位を「名(みょう)」と呼んでいましたが、年貢公事の両方を負担している名が「平民名」、「百姓名」といわれています。 この「平民百姓名」は、年貢は払うが公事は免除されている公文(くもん)、下司(げし)、田所(たどころ)などの荘官(荘園の管理者)の「荘官名」や「地頭名」と区別されていました。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.67)


     その当時は、「平民」は「百姓」とほぼ同義だったと言えると思います。 ただ、課役を負っている人間であることを強調する場合に「平民」が使われたのに対して、「百姓」にはそれほど積極的な意味合いはなかったようです。 一九八〇年に刊行した拙著『日本中世の民衆像』(岩波新書)の中では、私はあえて「百姓」は使わず「平民」を使いました。 「百姓」の語からは多くの日本人が農民を考えてしまうので、誤解を招くと思ったためです。 「農」の意味が刷り込まれてしまっている「百姓」に代えて、どういう言葉を使えばよいか悩んだ挙げ句に落ち着いたのが「平民」でした。 ですから、それを差別語などと言われると大変困るのですが、私はそのまま使い続けていくつもりです。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.67)


     「土」が意味するもの

     江戸時代になると、「土民」に代わって「土人」という用例が多くなってきます。 私が子供の頃、『冒険ダン吉』という漫画があり、その中の真っ黒な登場人物が「土人」であると頭に刷り込まれた記憶があります。 ですから、「土」の字には「黒」の印象がいまだに残っているのですが、なぜ「土」という字を使ったのかは非常に難しい問題です。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.68〜69)


     今でもみやげを「土産」と書くことからもわかるように、「」には「その国の」「その土地の」といった意味が込められています。 ですから、その国の特産物が土産になるわけです。 「土風」は「くにぶり」といわれており、この「土」も同様です。 先ほどの「平民名」は「土名」と書かれることもありましたが、それもまったく同じ理由だと思われます。 また、「廻船鋳物師(いもじ)」とは移動する鋳物師のことですが、それに対して「土鋳物師」という言葉があり、この「土」には、その土地に根拠を置いているという意味があると思われます。 従って、本来は「土」には「黒い」という意味など全く含まれていませんでした。 むしろ「土」という字には、元来は力強い積極的な意味が含まれていたのではないでしょうか。 その意味も、中世・古代まで遡(さかのぼ)ってさらに考え直してみる必要があると思います。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.69)


     明治以後、北海道のアイヌのことを「旧土人」と呼んでいましたが、これも本来は決して侮蔑(ぶべつ)的表現ではありませんでした。 本州から北海道に渡った人を指す「新土人」という言葉に対して、元からいる人をそう呼んだのです。 もちろん、新旧と分けた点に、さきほどの「新平民」と同様、差別があったことは間違いありません。 しかし、「土人」という言葉自体には差別的意味は全く含まれていなかったと考えるべきでしょう。
    (《歴史を考えるヒント W 「普通の人々」の呼称》P.69〜70)


    X 誤解された「百姓」

     「ひゃくしょう」と「ひゃくせい」

     そもそも「百姓」の「」には、「非常に多くの」「あらゆる」という意味があります。 また、」は姓氏、われわれの名字とは多少違いますが、血縁集団の名前ということになります。 そして、姓には職能が結びついていることもあるのです。 従って、字義通りにとらえれば「百姓」は「あらゆる姓を持つ人々」あるいは「あらゆる職業の人々」が本来の意味であり、一般の普通の人々を指す言葉なのです。 そこには先ほども述べたように、「農民」の意味はまったく含まれてていません。
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.73)


     私がこう言いますと、ある学者は、「百姓」の読みは本来は「ひゃくせい」で、普通の人という意味だったのが、中世に近づくと「ひゃくしょう」と読むようになり、農民を指すようになったと言って、「百姓(ひゃくしょう)」はやはり農民だと強調し、私を批判されました。 しかし、これは全くの俗説といってよいと思います。 漢字の音には呉音漢音があります。 日本列島の社会で漢字が用いられるようになってから、七世紀末に日本国が成立するまでは呉音が広まっていました。 日本国成立後は、公(おおやけ)の記録では漢音が使われるようになりますが、しかし、当時の明法家法律家たちは呉音を使い続けたようです。
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.73〜74)


     「百姓」を呉音で読むと「ひゃくしょう」、漢音では「はくせい」ですから、一つの言葉に対して同じ時期に二通りの読み方があったのであり、六国史(りっこくし)などでは漢音、律令では呉音でよまれたのではないかと思います。 ですから、「ひゃくせい」が「ひゃくしょう」に変化したのではなく、ましてそれが意味の変化を呼び起こしたなどということはあり得ません。 何となくもっともらしく聞こえるこうした説は、きちんと根拠を調べてその当否を明らかにしておく必要があります
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.74)


     例えば、「百姓」は農民というとらえ方が十六世紀からされていたことを証明する根拠にされてきたのは『日葡辞書』です。 確かに、『邦訳 日葡辞書』(岩波書店)を引きますと、百姓は「農夫」となっているのです。 私も最近までこれに従っていたのですが、ある時フッと気がついて、本来のポルトガル語の辞書ではどうなのかを調べようと思いました。 しかし、邦訳が出たためにどこかにしまいこんで見つからないので、笠松宏至さんにお願いして引いてもらったところ、百姓については「Lavrador」とあったのですが、「農人」については「Lavrador、que lavra、ou cultiva os campos」とあり、「農人」には耕地を耕すという意味がつけ加えられていました。ポルトガル語を翻訳する時には今も「Lavrador」を「農民」と訳すのが当然ということを聞いていますが、本来、古く遡(さかのぼ)るとこの語には労働の意味はあっても、農業の意味はないのではないでしょうか。 素人(しろうと)なので、専門家の教えを請(こ)いたいと思っています。
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.102〜103)


     その他、経済史の用語には「豪農」「富農」「中農」「小農」など「農」のつく用語が圧倒的に多く、支配者に関しても「封建領主」「私営田領主」「在地領主」など、すべて農業に関連した捉(とら)え方で用語が作られてきました。
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.103)


     前にも述べましたが、海民山民さらに商工民などの非農業民の歴史を語るためには、歴史学の用語は極めて貧困であると言わざるをえないのです。やむなく私は「非農業民」という言葉を使ってみましたが、多くの方々から批判を受けたように、この用語は消極的な意味しか表現していません。 しかし、これに代わる言葉で、農業以外の生業に主として従事する人々を表現する言葉はなかなかないのです。 「海民」や「海の領主」はどうやら世の中に通用するようになりました。 また、林業に従事する人々は「林業民」とでも言うのでしょうが、それに関わる支配者と従属民を表現する言葉は、「海奴」とか「富漁」では通用しませんので、「奴隷的海民」や「富裕海民」のような用語を新しく創(つく)り出さなくてはなりません。
    (《歴史を考えるヒント X 誤解された「百姓」》P.103〜104)


    Y 不自由民と職能民

     博奕(ばくち)の道、好色の道

     は、政府に納めるためにだけ生産していたのではなく、百姓自身の衣料ともされ、また交換手段にもなったのです。 ですから、ふつうの機(はた)織りは間違いなく百姓の女性が身につけていた技術だったのですが、中国大陸から伝わってきた綾(あや)、錦(にしき)などの織物を織ることは百姓にはできませんでした。 そういった高度な織物は、特別な職能民、男の織手が織っていたと思われます。
    (《歴史を考えるヒント Y 不自由民と職能民》P.111〜112)


    Z 被差別民の呼称

     差別意識の東と西

     また、沖縄では、かつての琉球(りゅうきゅう)王国の時代に「アンニャ」と呼ばれる一種の芸能民がいて、差別をされていたということを安良城(あらき)盛昭氏が指摘しています。 「アンニャ」はおそらく「行脚(あんぎゃ)」から来た言葉で、あるいは本州から渡っていった人々ではないかとも考えられますが、差別といっても、本州・四国・九州の被差別民とは異なる要因によるものだったようです。 それ故(ゆえ)、沖縄にも「被差別部落」といえるような集落はないと言ってよいと思います。
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.122)


     ケガレのキヨメ

     ケガレが都を中心として社会的に大きな問題となるのは、九世紀半ば頃からです。 平安京が作られた当初は、貴族と官人だけの町で人口密度も高くありませんでしたが、やがて各地から商人を始め多様な人々が出入りするようになります。 こうした都市化の進行とともに、ケガレの「キヨメ」が京都において重大な意味を持つようになっていきます
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.130)


     九世紀半ば頃、飢饉(ききん)によって多くの餓死者が出て、賀茂(かも)川の河原に沢山の死体や髑髏(どくろ)が放置されるという事態が生じました。 その処理と葬送、つまり死者のキヨメを、政府は悲田院という、孤児や重病人を救済するために設けられた国家的施設の人々に命じました。
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.130)


     非人・放免という職能民

     ところが、時代が降って十六世紀頃になると、非人が自らを人非人と言い、浅間敷者(あさましきもの)」などと言うようになり、我々は賤(いや)しめられていると自ら認めるようになっていきます。 江戸時代になるとさらに露骨になり、最初からわれわれは「穢れ」た者なのだと自分で言うような状態にまでなっていきますが、鎌倉時代の中頃までの非人にはそういった意識は全くなかったことが史料を読むとはっきりわかります。
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.134)


     死とのかかわり方

     同時に十五世紀まで降ると、河原者は、大きな石や樹木を動かしたり、井戸を掘ったりする仕事にも携わっていました。人間の社会と自然との間の均衡が崩れた状態からケガレが発生することは前にもお話ししましたが、井戸を掘ったり石や樹木を動かすことは、自然に大きな変更を加えることになります。 ですから、そういう状況そのものがケガレと同様の事態と、当時の人々は考えていたようで、河原者はそうした仕事に携わることのできる職能集団でもあったと思われます。
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.139)


     差別される人々

     あわせて注意しておきたいのは、十四世紀までは朝廷の官司に統轄(とうかつ)され、天皇や貴族とも芸能を通じて関わっていた遊女の社会的な地位が低下し、次第に賤視されるようになっていったことです。 十五世紀以降、遊女は傾城(けいせい)屋という家を持って客をよび、「辻子(ずし)君」と呼ばれていました。 また、京都などの道で客をとる「立君」と呼ばれた遊女もいましたが、いずれもそのころになるとケガレた生業に従事する女性として扱われるようになってきます。 身売りによって遊女に「身を落とす」女性が現われるのもこのころであり、傾城屋の集まっているところは「地獄辻子」「加世辻子」(カセは女陰のこと)など、明らかに差別された名称で呼ばれるようになります。宮廷への出入りを許されていた時代からみると、遊女の地位は劇的に低下したということができるでしょう。
    (《歴史を考えるヒント Z 被差別民の呼称》P.147〜148)


    [ 商業用語について

     商業取引の高度な伝統

     そのことを証明しているのが、商業に関わる言葉や、実務的な取引の用語には翻訳語がないという事実です。 例えばこれから延べるように、「小切手」「手形」「為替」などは中世から古代にまで遡(さかのぼ)ることができる古い言葉なのです。
     一方、経済学の用語は資本労働価値などほとんどが翻訳語です。 「経済」という言葉自体、もともと江戸時代には用いられていた言葉ですが、生活の中で生きていた言葉というより、儒学の流れをくむ言葉です。 余談ですが、今は全く違うとはいえ、かつての大学において、経済学部の人たちが西欧の言葉の翻訳語を使って恰好良く議論しているのに対して、商学部は“暖簾(のれん)と前垂れ”のような旧(ふる)い感覚を残していると見られていたところがあったのではないでしょうか。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.153〜154)


     市はどこに立てられたか

     古代から中世にかけて、」は人々が何かの作業や生産、あるいは芸能を行う場所を意味していました。 狩猟を行う場は「狩庭」、網を引く漁場は「網庭」、塩を焼く浜は「塩庭」、収獲した稲を共同で干す広場は「稲庭」など、さまざまな「庭」が存在していました。民俗学の調査によると、現在も全国各地に「ニハ」という言葉が残っていますが、家の中の土間や家の外で共同作業をする仕事場を指し、地方によっては共同作業をする組織そのものを指すこともあります
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.156)


     また、鎌倉時代後期の非人たちは、諸国に乞食(こつじき)を行う場として「乞庭」を持っており、多くの鋳物師(いもじ)や商人たちは自らが活動する場として、それぞれに「売庭」あるいは「立庭」を確保していました。 また獅子舞(ししまい)は「舞庭」を持っており、このように、「庭」は諸国を遍歴する人々が自らの芸能を演ずる場であるとともに、その縄張りを意味する言葉にもなっていました。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.156)


     さらに、は最高の権力者に直結する場でもありました。 「朝廷」も本来は「朝庭」であり、天皇が口頭で訴訟を裁決したり、人々に命令を伝達する広場だったのです。 中世に見られる「庭中(ていちゅう)」という言葉は将軍に直訴する手続きのことでしたし、室町時代の「御庭者」も、庭の造園を媒介に天皇や将軍に直接結びつく人々でした。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.156)


     このように、庭は本来、私的な関係を超えた、特異な空間を表現する言葉だったと考えられます。 個人の家の塀や垣根に囲い込まれた現在の庭園とは性質の異なる場と考えなくてはなりません。 ですから、「市庭」も、「市が立つ庭」つまり共同体を超えた交易の行われる場を示す言葉だったのです。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.157)


     市が立つ場については近年研究が進み、河原や川の中洲(なかす)、海辺の浜坂の途中などに市が立ったことがわかってきました。 これらの場所は川と陸の境海と陸の境、そして山と平地の境であり、いずれも「境界領域」ととらえることができると思います。 古代に遡ると、椿(つばき)、(とち)などの大きな木の下にも市が立っていたという例が知られていますが、これも天と地との境と考えられます。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.157)


     また、勝俣鎮夫氏によると古来、(にじ)が出た場所には必ず市を立てるという慣習がありました。 例えば十一世紀初めの藤原道長の日記にそのことが書かれており、その後も室町時代くらいまで、この慣習は続いていたようです。 その理由について勝俣氏は、あの世とこの世天の世界と人間の世界との架け橋であり、その下で交易を行うことによってを喜ばせなくてはならなかったのだと言っておられます。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.157)


     私もこの考え方に全く同感で、人々が市を立てた場所はみな、人間の力を超えた聖なる世界と世俗の人間の世界との境であったと見てよいと思います。 それらの場所は私流に言えば世俗の縁の切れる場所」、「無縁」の場であり、そこでは人も物も、神仏の世界、聖なる世界に属し、誰のものでもなくなってしまうのだと考えられます。 物と物とを商品として交換するためには、そのようにして一度、物を「無縁」の状態にしなくてはならないと、考えられていたと思います。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.157〜158)


     つまりそのような世俗の縁の切れた場所、「無縁の場」に物を投げ入れることによって初めて、人間は物を商品にすることができたと言うこともできると思います。 普通の生活の中で物と物とを交換すると、その二人の関係はより強く結びつくことになります。 例えば、古代では男女がお互いに許し合う仲になると着物を交換し合う風習がありましたが、そのように物の交換、贈与互酬によって人と人との関係はむしろ深く繋(つな)がるようになります。 特定の人の持ち物にはその人の心がこめられており、それを相手に渡すのは、自分の心を渡すことだったのです。 また、物をもらうのは相手の心をもらうことになりますから、こうした物の交換は贈与・互酬であり、商品の交換にはならなかったのです。 しかし、市庭で交換される物はすでに世俗の縁の切れた物、人の世界から切りはなされた神仏の世界の物になっていますから、全く後腐れがなく、商品として交換することが可能になったのだと考えられます。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.158)


     聖なる金融から、俗なる金融へ

     中世に入ると、初穂は「上分(じょうぶん)」とも呼ばれるようになります。 例えば、日吉(ひえ)神社の神に捧(ささ)げられた初穂は「日吉上分物」「日吉上分米」「日吉上分銭」、熊野三山の神への初穂は「熊野御初尾物」「熊野上分銭」などと表現されており、十二世紀頃からそうした上分米や上分銭を元本とした貸し付けが広く行われ、その行為も古代と同様に「出挙」と呼ばれ、また「借上(かしあげ)」ともいわれました
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.170)


     このような出挙、借上は神仏の物である上分、初穂、初尾を貸し付ける行為ですから、俗人が携わることはできなかったのです。 それ故(ゆえ)、日吉上分物は日吉神人(じにん)や山僧、熊野上分銭は熊野神人山臥(やまぶし)のように、神仏の直属民によって運用されていました
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.170)


     そこに変化が現われるのは、銭貨が本格的に流通し始める十三世紀後半以降です。 この頃から月利で利息を取って銭を貸し付ける「利銭」の金融が始まりました。 これは金融の世俗化ともいえますが、本来は聖なる倉庫である「土倉」を管理する人々が、私的な銭の貸し出しを始めたと考えられるのです。 月利は百文につき五文、六文くらいが通常で、五文子(ごもんこ)、六文子と呼ばれました。 銭は子を生むととらえて、利息を「子」と呼んだものと思われますが、そこから「利子」という言葉も生まれたと考えられます。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.170〜171)


     さきほども触れたように、古代以来の金融は神物・仏物の貸付ですから、過度に高い利息をとることは認められず、「利倍法」によって規制されていました。 利息は元金と同額の一倍、つまり十割までと定められていました。 神仏の権威によって、一定限度以上に利息をとることは認められていなかったのです。 ところが、十四世紀になると、この法の規制を超えて複利などの暴利をとる「高利貸」が盛んになってきます。 そして、室町幕府は金融を公認、奨励しており、『建武式目』には「無尽銭土倉を興行せらるべき事」という一個条があります。 金融を活発にしなければ緒人が困窮するので、無尽銭、土倉のような金融業者を認めたのですが、ここには天皇家延暦寺(えんりゃくじ)の京都の酒屋土倉に対する支配に、幕府がとってかわろうとする意図もありました十五世紀後半にはこれに対する反発も強まり、高利貸は人間の道に反すると痛烈に批判した大乗院門跡の尋尊(じんそん)のような人も現れ、徳政一揆(いっき)が盛んに起こり、借金を破棄する「徳政令」も発せられることになります。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.171)


     こうした事態は、神仏の権威の失墜の結果であるということもできますが、一方で同じ頃、禅宗系の寺院を中心に、仏物として管理している銭を低利で貸し付ける「祠堂銭(しどうせん)」と呼ばれる金融も行われており、また神物である上分銭の貸付もなくなったわけではありません。 そして、そうした金融は徳政令の対象にはなっっていないのです。 このように、室町時代はそれまでの聖なる行為だった金融が、世俗化していく過渡期と捉(とら)えることができると思います
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.172)


     「接待」と「談合」の歴史

     またこの頃には、新見荘の市庭は多くの在家の集中している都市になっていますが、十五世紀になると酒肴を売る飲み屋も生まれていたようです。 そして、代官はそこで近辺の有力者を接待するようになっっています。しかし、過度な接待を行うと罷免(ひめん)されてしまいますから、そこには自(おの)ずからある節度が保たれていました
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.175)


     近年、「官官接待」が問題となりましたが、それが節度なく行われていた点が世の非難を浴びたのだと思います。 しかし、接待の否定的な面のみを強調するのではなく、日本の社会の中で接待がどのような時に、どのようなやり方で行われ続けてきたのかを考えることも、必要なのではないでしょうか。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.175)


     同じことが「談合」についても言えると思います。 この言葉も中世以来、広く使われていますが、民俗学者の宮田登氏の調査によると、中央自動車道の「談合坂」のように、談合という地名は全国に何箇所もあり、元来は相談事が行われた聖なる場所なのだそうです。何かを相談し取り決める時には、神仏に関わりのある場所で行われ、しかもその場合に宴会が伴うのが普通でした。の前で共食しながら、談合を行い、神に互いの約束を誓うという伝統があったことは間違いありません。
    (《歴史を考えるヒント [ 商業用語について》P.175)


    \ 日常用語の中から

     誰のものでもない「落とし物」

     勝俣さんはまず、中世の記録や文書でしばしば用いられている「落とし取る」という言葉に注目しています。 「細川方へ罷(まか)り上る四国船の雑物、紀州海賊落し取る、畠山(はたけやま)下知と云々(うんぬん)」(「大乗院寺社雑事記」明応三年二月二十五日条)などの用例からわかるように、「落とし取る」という語は何物かを奪う、没収するの意味で使われていました。 それでは、なぜ「落とし取る」ことが「奪う」ことになるのでしょうか。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.177〜178)


     中世においても、「落とす」は基本的に現在と同様に、物が上から下へと空間的な位置を急激に変化させる、落下の意味で使われていました。 しかし、さらにその根源をたどると、ある物を「落とす」という行為には、それによってその物に対する所有者の権利を切り離すという意味が含まれていたようです。 「切る」とは世俗の縁を切る行為であり、「切られた」物は、様々な因縁から自由になり、流通可能になると述べましたが、それに共通する感覚が「落とす」にもあると言えると思います。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.178)


     つまり、「落とした」物は誰のものでもない無主物となり、いうなれば神仏の物となってしまうのです。 「落とし取る」とは、本来はある物の所有権を一旦(いったん)切り離して、無主物にしてから取るという行為でした。 従って、「奪う」「没収する」と同義の語として使われたものと考えられます。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.178)


     また古来、落とし物」は無主物なので拾った者の得になるとされてきました。 「落ち穂拾い」も同様で、収獲の後に田畠に落ちている稲などの穂は、誰の物でもなく神の物なので、貧しい者が拾うことを咎(とが)めることはできないと考えられたのです。 しかし、同時に落とし物無主物であり、神の物であるがゆえに好き勝手に使うことはできませんでした。 現在の社会でも、落とし物はまず警察に届けて、一定の期間を経過すれば拾い主の物になると定められていますが、これもその感覚を継承していると思います。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.179)


     神の意思を集約した「落書」

     更には、嵐(あらし)などで破損した船が港に近寄ってきた際に、港の人がその船を引っ張りこんで、積荷を全て「寄物」として差し押さえてしまうような事態も生じています。 漂着した船が無人である場合には、「漂蕩(ひょうとう)船」としてその浦の人々が所有して構わないという慣習があったのですが、人が乗っており、しかも漂蕩までいかない状態でも、無理矢理「漂蕩船」にして港に引っ張り込んでしまうこともあったようです。 それに対して、荷物を差し押さえられた側が不当だとして訴訟を起こした事例もいくつか確認されています。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.182〜183)


     「がいな」と「あたん」

     次に、中世に起原をもち、普通に使われていた言葉が、「方言」として現在まで地域に残っている事例についてお話ししたいと思います。
     たとえば「がいな」「がいに」という言葉ですが、これはどちらかといえば西国地域の言葉であり、東日本の人々には馴染(なじ)みが薄いと思います。
     しかし西日本の人々が「あの男はがいな奴(やつ)だ」と言えば、それは「あの男は乱暴者だ」あるいは「あの男は強情でわがままな奴だ」という意味になります。 興味深いことに、この「がい」という言葉の起原をたどると「雅意」という中世の言葉に辿(たど)りつくのです。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.192)


     中世の文書には、しばしば「雅意に任せて」という表現が見られます。 「我意」と表記されている場合もありますが、むしろ「雅意」の方が普通なのです。 この「」の文字には「もとより」「本来」などの意味が含まれています。 従って、「雅意」の本来の意味は「普段から持っている気持」だったのですが、それが、「思い立った心のままに」の意で使われるようになり、さらに「自分勝手な考え」「勝手気まま」などの意味へと転化していったものと考えられます。 実際、中世においても「雅意に任せて」は、「わがまま勝手に」というマイナスの感覚で用いられた表現でした。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.192〜193)


     その「雅意」の文字がいつの間にか忘れ去られて、「がいな」という音(おん)だけが主に西国地域の言葉の中に残り、今でも使われているのです。 東国でも私の出身地の山梨では、「げに」という言葉が使われます。 非常に程度の甚だしい状態を指す場合に使われるのですが、この言葉なども恐らく「がいに」から派生したのであろうと私は考えています。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.193)


     中世における「自由」とは

     「自然」という言葉には古くから、「しぜん」と「じねん」の二通りの読み方がありました。 これも文書を読む場合に注意が必要とされる言葉の一つです。 「しぜん」と読む場合を挙げると、例えば「自然上野佐渡守恣之儀雖申之」(自然、上野佐渡守ほしいままの儀、これを申すといへども)という文章が、ある文書の中に出てきます。 この「自然」を現在のわれわれが使っている通りに「おのずから」と訳し、「おのずから上野佐渡守が勝手なことを言っても」では、全く意味が通らないのです。
     この場合にはむしろ逆に、「もしも、万が一」の意味で用いられており、「万一、上野佐渡守が勝手なことを言ったとしても」と訳すべきなのです。 そして、中世の文書の中ではこの意味で使われているケースが圧倒的に多いと思います(前掲、佐藤氏『[新版]古文書学入門』)。 岩波書店の『古語辞典』では、「人力で左右できない事態を表わして」「万一のこと。不慮のこと」の意味が生じ、副詞として「万一。ひょっとして」の意味で用いられたと説明されていますが、まったくその通りだと思います。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.199〜200)


     ところが、「じねん」と読む場合には、「おのずからそうであること」という現在の意味に近い語として用いられています。 ですから、いずれの意味で用いられているかを古文書の文脈の中で判定することは、実はなかなかむずかしいのですが、中世文書の場合、「自然」は「もしも、万が一」と訳した方が間違いは少ないと思います。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.200)


     「自然」がそのような「おのずから」という意味を一面で持っていたことを考慮に入れると、英語のネイチャーの翻訳語として「自然」が使われたのは、不適切ではなかったと考えることもできます。しかし、現在の「自然」という語から、「万が一、もしも」という意味が消えてしまったことも間違いのない事実です。 このように、欧米の言葉を翻訳する際、それに対応させたがゆえに、かつての日本の社会の中に存在した言葉の多様な意味が消えてしまった場合が実際に少なからずあるのです。 日本語の持つ豊かさを理解するために、このことをわれわれは十分に考えておく必要があるのではないでしょうか。
    (《歴史を考えるヒント \ 日常用語の中から》P.200〜201)


    解説 輿那覇 潤

     解説 変えてゆくためのことば−−二〇世紀体験としての網野善彦

     想像してみてほしい。 リベラリズムなりフリーマッケットなりを擁護する体制が、自由主義ではなく「無縁主義」と訳されていたかもしれない、私たちにとってのもうひとつの過去を。 そうだとすれば、冷戦体制の構図が「自由主義・対・共産主義」などとして語られることもなかったことを。 おそらくそこには実際に二〇世紀の日本で語られたものとはまったく別の現実認識が生まれ、したがってこの国の現代史の展開もまた、まるでちがった様相をていしたであろうことを。
    (《歴史を考えるヒント 解説 輿那覇 潤》P.215)