[抜書き]『明治バベルの塔』


『明治バベルの塔』山田風太郎・ちくま文庫
山田風太郎明治小説全集12
一九九七年十月二十三日 第一刷発行
目次
明治バベルの塔
  明治バベルの塔−万朝報暗号戦−
  牢屋の坊っちゃん
  いろは大王の火葬場
  四分割秋水伝
    作者口上

明治暗黒星

関連年表
解説−−橋本治

    明治バベルの塔−万朝報暗号戦−

     「万朝報がつぶれるかも知れんが、それでもいいか
     「黒岩さん
     と、秋水はしずかにいった。
     「ほんとうに、あなたにその覚悟がありますか?
     涙香の顔にちょっと動揺が走ったようであった。
     「いや、まったく私は黒岩さんの勇気に感心しておるのです。 土佐のイゴッソウの先輩として敬服します。 ただ、しかし……その弾劾(だんがい)は無効でしょう
     秋水は悲しそうにいった。
     「の行状は変わらんでしょうし、元老連中の無神経は癒(なお)らんでしょう
     ふとって、あから顔をした涙香にくらべて、幸徳秋水は痩せて、小柄で、寒々とした印象を与える男であった。 が、そう見えて、その内部に、自分よりももっと烈しいものを−−おっかない、と思われるようなものを蔵していることを、涙香は知っている。 その色のない炎が、いまめらめらと秋水の身体をふちどったような感じがした。
     「あいつらは日本をわがもの顔に心得、国民を虫ケラ同様に思っているんです。 そして、それよりもっとやり切れんのは、国民のほうでそれを当然と考えていることです。 この根性が癒らんかぎり、しょせん言論など盃一杯の酒でしょうな
    (《明治バベルの塔 明治バベルの塔−万朝報暗号戦−》P.13)


     明治三十四年七月下旬。 −−京橋弓町の万朝報社長室である。 そこに各種新聞紙、事務上の帳簿類などが積みあげてあるのは当然だが、異彩をはなっているのは、壁際の書棚にギッシリならんでいる洋書と、そして机のまわりにおいてある碁盤(ごばん)、小卓上のトランプ、花札のたぐいだ。 向こうには、撞球(どうきゅう)台まである。
    (《明治バベルの塔 明治バベルの塔−万朝報暗号戦−》P.13〜14)


     「黒岩さん、二六がいよいよ三井攻撃を始めるらしいですぜ
     「ふうん。……
     「私の見込みによると、これは当ると思います。 一般民衆にとって元老大臣はまだお国のため、と見のがすところがありますが、財閥にはみな反感をおぼえていのすからな。 の幹部連の豪奢な生活、女性関係の乱脈、役人との結託ぶりなどをあばけば、これは大きな憤激を呼ぶでしょう
     「そりゃそうだろう。 しかし、だからといっててまさらこっちもその真似をして、三井攻撃をやるわけにもゆかんが
     「もっと攻撃するに足るものがあります
     「なんだ
     「足尾銅山です
     「足尾か。 あれは鉱毒防御工事命令が出て、古河鉱業側が大々的にその通りやったはずだが。……
     「それが全然無効なのです
     秋水の髭(ひげ)がふるえた。
     「私、この間も何度目かの足を現地に運んで、その工事でかえって鉱毒の惨害がいよいよ広がり、いよいよ甚だしくなっているのに衝撃を受けました。 渡良瀬(わたらせ)川一帯、山河に生色なしといったありさまです。 ……大臣の獣欲はむろん、財閥の驕慢もまだ民衆には雲霧をへだてての現象ですが、あの銅山の害毒は現実の地獄絵として眼前にある。 万朝報はこれを大々的に報道し、これを徹底的に批判するために起(た)つべきです
     「いや、それは以前、何度も記事にしたつもりだが。……
     「あの程度では足りません。これこそ社運をかけてやらなくちゃいけません
     以外にも、こんどは涙香のほうがむずかしい顔をして、煙草のけむりを吐いているばかりであった。
    (《明治バベルの塔 明治バベルの塔−万朝報暗号戦−》P.14〜15)


     「しかし、その、赤坂の女漁りの大臣云々の問題は万朝報に出ているんですから−−その解答も恒例通り出さんわけにはゆかんでしょうから−−いいのがれは出来んでしょう
     「それが出来るんだ
     涙香の満面は笑み崩れんばかりであった。
     「幸徳君、二、三年前、万朝報で、いろは四十八文字を使って、古来のいろは歌ではないものを募集したことがあったろう。 その一等はこういうものだった
     彼は眼をつぶって吟じた。
     「鳥鳴く声す、夢さませ。 見よ明けわたる東(ひんがし)を、空色(そらいろ)映(は)えて沖つ辺(べ)に、帆船(ほふね)群(む)れゐる靄(もや)の中(うち)。−−つまり、いろは四十八文字を組み替えると、こういう文章も出来るという見本だね
     眼をあけて、
     「そいつをやったんだ。 おれが工夫が出来たというのはそのことだよ
    (《明治バベルの塔 明治バベルの塔−万朝報暗号戦−》P.46)


     その二十日には、本郷の中央公会堂で、足尾鉱害救済の演説会がひらかれ、田中正造の演説中、冬を迎える鉱害農民のために義金をつのる籠が聴衆席にまわされたが、その中で一人の帝大生がいきなり立ちあがり、着ていた二重外套と襟巻と羽織をみなぬいでこれを捧げるという出来事が起った。この大学生の名は河上肇(はじめ)といった。
    (《明治バベルの塔 明治バベルの塔−万朝報暗号戦−》P.66)


    牢屋の坊っちゃん

     神戸駅ですれちがつて、帝大出の夏目金之助は西へ、無期徒刑の小山六之助は東へ。
     漱石年表によると、彼が松山の外港三津浜に着いたのは、四月九日午後一時過ぎとある。
     「ぷうと云つて、汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕(こ)ぎ寄せて来た。 船頭は真つ裸に赤ふんどしをしめてゐる。 野蛮な所だ。 尤(もつと)もこの熱(あつ)さでは着物はきられまい。 日が強いので水がやに光る。 見詰めて居ても眼がくらむ。 事務員に聞いて見るとおれは此所(ここ)に降りるのださうだ。 見る所では大森位(くらい)な漁村だ。 人を馬鹿にしてゐらあ、こんな所に我慢出来るものかと思つたが仕方がない。 威勢よく一番に飛び込んだ」
     さて、一方の若者、国事犯小山六之助の運命やいかに。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.86)


     ぷうと云つて、汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。どの艀にも巡査が二、三人づつ乗り込んでゐる。 殺気立つたお迎へだ。 尤(もつと)もこつちの船に囚人が二百六、七十人も乗つてゐるのでは、巡査が見張りに出て来るのもやむを得まい。 四月末と云ふのに、海は冬の様(やう)な鉛色をして、砕ける波は氷の様(やう)だ。 ここが釧路(くしろ)の港ださうだ。 岸を見ると掘立(ほつたて)小屋みたいな家が、ぽつぽつと黒く連なつてゐる。 人を馬鹿にしてゐらあ。 こんな所に我慢が出来るものかと思つたが仕方がない。 威勢よく一番に飛び込んだ。
     −−思へば長い旅をして来たもんだ。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.86〜87)


     実は標茶から釧路釧路川と云ふ川が流れてゐて、発動機船が通つてゐるさうだが、何しろ囚人の数が多いもんだからそれでは間に合はず、巡査や看守に有り難く護られて、竹の子笠素草鞋(すわらじ)と云ふ姿で徒歩でゆくことになつた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.88)


     後に知つた所によると、この釧路監獄は十年前の明治十八年に作られたもので、敷地五百六十万坪、その中に庁舎、獄舎、作業場、倉庫などが散らばつてゐる。 獄舎だけでも十九棟、全体として百数十棟ある。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.88)


     また聞けば四年前、例の露国皇太子を襲つた大津事件津田三蔵が無期徒刑で送られたのがこの釧路監獄で、ここへ来てから津田は三カ月足らずで死んださうで、その死因はよく分らないと聞くと、おれと犯状が似たところもあるだけに少々薄気味が悪い。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.89)


     「ここへ来た者はみんな刑期が長く、一方でこの監獄の一見用心堅固(けんご)でないやうな模様、また周(まは)りのたいして険阻とは思はれない地勢を見て、妙な出来心を出して貰つては困る。 脱走を計れば斬殺も止(や)むを得ずと云ふ法になつてゐるし、外の曠野には到るところ底なしの湿地帯あり、などの獣(けだもの)も徘徊(はいくわい)してゐる。 これは徒(いたづ)らに諸君を脅(おど)す為ではなく、本心から諸君を悲惨な目に落さない為の親切心からの忠告である
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.89)


     労役は、雨が降つてなけりや、監獄の周(まは)りの山野の開墾(かいこん)だ。 鋤鍬(すきくは)を振ふのはいいが、両足をで繋(つな)がれてゐるのには往生(おうじやう)した。 それでも七、八年前迄はここから十里程離れた硫黄(いわう)山に駆り出されて、硫黄の粉(こな)と亜硫酸ガスのために囚人が片つぱしからばた/\倒れたと云ふ苦役に較べれば物の数(かず)でもないさうだ。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.90)


     雨の降る日は作業場で坐業だ。 坐業と云ふと尤(もつと)もらしいが、それが雑巾刺(ざうきんさ)しとは情けない。 天下を驚倒させたあれほどの大事件をひき起こした男児が、婆さんのやる様な雑巾刺しとはわれながら愍然(びんぜん)の極(きは)みだが、それより一々糸を切るのが歯を以てするよりほかないのには降参した。 小刀(こがたな)は愚か(はさみ)まで危険だと云つて与へられないのだ。 「監獄の労役は手足を動かすを以て必要かつ充分だ。 歯迄(まで)使用させるとは何事か」 と抗議したが取合(とりあ)つてくれない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.90)


     ただ粗悪なだけぢやない。 実に馬鹿げた事もある。
     これは後(のち)にあつた事だが、夏になると北海道ではオヒヨウと云ふ魚がよく獲(と)れる。 カレヒの一種だが、うんざりする程獲れるので、一貫目五、六銭と云ふ安価な魚である。 これが監獄では天下の珍味だ。
     ところが監獄ぢや切干(きりぼし)大根許(ばか)りの食事を三日でも五日でも平気でだす。 オヒヨウが出るのは十日に一遍(いつぺん)と云ふ按配だ。 ところが切干大根は北海道では一貫目五十銭するのである。
     そこで何故(なぜ)安くて囚人が嬉(よろこ)ぶオヒヨウを食はせないのか、何より不経済ではないか、と申し立てて見たが、これまた一向(いつかう)に取合(とりあ)つてくれなかつた。 きつと囚人が嬉(よろこ)ぶものを食はせるのが気に食はなかつたのだらう。
     しかし、もう一度思案して見ると、監獄に入れられて人間並(なみ)の御馳走を食はうなんて了見(れうけん)が間違つてゐる。 かう云ふ目に会つてこそ監獄と云ふもんだ、と、これも胃袋を撫で擦(さす)つて痩我慢(やせがまん)をすることにした。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.91)


     無論看守達が飛んで来て、「八釜(やかま)しい」「黙れ」「気でも違つたか」と怒鳴(どな)りつけ、更には殴る蹴るの暴行を加へたが、それでも黙らない。 雑居房とは大分(だいぶ)距離があるはずだが、そこまで届(とど)いたと見えて、そつちの方角から同じ歌の合唱や手拍子(てびやうし)があがり出した。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.96)


     到頭引きずり出されて、今度は獄則処分としては手一杯の「闇室(あんしつ)五昼夜」といふ罰を申し渡された。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.96)


     「闇室」とは拷問にしても妙な名をつけたものだが、実に大変なしろものである。 三尺四方の岩乗(がんじよう)な木箱に人間をぎゆうぎゆう詰めに押し込んで蓋(ふた)をしてしまふ。 下に垂れ流し用の丸い穴が開いてゐるだけで、それでも飯は一日に三度、小さな握り飯を一個づつ投げ込んでくれるが、お菜(かず)は何もない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.96)


     二日目の朝、そのむすびを投げ込んでくれる時、蓋の隙間(すきま)から看守が、「どうだ、少しは反省したか」と云ふから、「何を反省するんだ」と云つてやつた。
     「教誨師の先生を愚弄するなど囚人にあるまじき僭上(せんじやう)な所業をしたことだ
     「愚弄はせん、おれは素直な質問をし、正直な返答をしただけだ。 第一囚人に何の愛情もなく、ただ偽善的に、或(あるゐ)は威嚇的に臨んでそれで教誨師と云へるのか
     「さう云ふ態度をここでは僭上と云ふんだ。 まあ、当分その暗い所で考へろ
     と云つて、またおれは四角な闇に閉(と)ぢ籠(こ)められた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.96〜97)


     それでも六日目が来た。
     後(のち)に聞くと大抵(たいてい)の奴(やつ)が出された後(あと)、一日二日は腰が抜けて動けないさうだが、おれは何でもなかつた。 身体が四角になつた様(やう)な気がしたが、二本足で立つて見ると立てる。 歩き出すと、何とか歩ける。 尤(もつと)も実を云ふとひよろりと蹌踉(よろ)けかかつたので、誤魔化(ごまか)しに反動をつけて一尺ほど飛び上り、序(ついで)にもう二回、三尺位(くらゐ)飛び上つて見せてやつた。
     「どうだ
     と、胸を叩いて見せると、周(まは)りで見守つてゐた看守達も呆れ返つたと見えて、眼をまん丸くしてゐたが、みる/\この野郎と云つた面憎(つらにく)さうな顔をした。
     さうなるとおれはいよ/\意地になつてしやん/\として見せる。 詰らない意地を張つてわざわざ憎まれつ子になるのは馬鹿げてるが、それがおれの性分(しやうぶん)だから已むを得ない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.97)


     雑居房は、廊下を中に格子越しに向ひ合つてずらりと並んでゐる。 一部屋辺り七、八十人入れられて、三方の板囲(がこ)ひには上下二段の蚕棚(かひこだな)が作られてゐて、これが寝床だ。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.98)


     一体監獄の様(やう)な、お互ひに遠慮がなく、誤魔化しも衒(てら)ひもなく、色気もなければ(かせ)ぐ必要もない世界では、裸の人間の善悪、利口馬鹿が剥出(むきだ)しに分る。赤裸々な人間を見たいと思ふなら監獄に来るに限る
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.98)


     それでおれは、「何びとも評判程の悪党はなく、評判程の善人もゐない」と云ふことを知った。
     ここで名を書けば誰でも知つてゐる、義賊で有名な男が丁度(ちやうど)入つてゐたが、実は看守に取入(とりい)るのに汲々として、同囚の言動を一々密告するので、みなから犬々と呼ばれてゐた。 何が義賊だ。 また色恋沙汰から芸者を殺して新聞でも大いに騒がれた男が、どんなに粋(いき)な奴(やつ)かと思つたら、薬缶頭(やくわんあたま)にひよろ/\薄毛が生(は)えて、〔でぶ〕で〔のろま〕で色気どころの騒ぎぢやない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.98)


     チヤク屋とは巾着(きんちやく)の着(ちやく)だけ取つた綽名(あだな)で、巾着切りすなはちスリだ。 商売はスリだが、それが東京の何処(どこ)かでスリにしくじつて追ひ詰められ、窮鼠(きうそ)却(かえ)つて猫を食(は)むの例(たとへ)ほ地でいつて匕首(あひくち)で一人刺し殺してしまつたとかで、これも無期で入つてゐる奴(やつ)だが、年は三十五、六、これが悪びれた様子(やうす)もなく、おれにいろんな話をした。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.99)


     聞くと、何でも元旗本の倅(せがれ)ださうだ。 道理でどこか垢(あか)ぬけをした顔をしてゐると思つた。 尤(もつと)も生れてから幼年の砌(みぎ)りは、箱館戦争に参加して降参した父親がその後(あと)箱館の路頭に迷つてゐた頃で、満足に飯も食へない貧乏の限りで育ち、このときにひもじさの余り隣家のお櫃(はち)から盗み食ひなどすることを覚えたと云ふ。 それが十を過ぎた頃、父親が箱館に出入りする異人船を相手にふと麺麭(パン)をやることを思ひついて、その商売を始めたらこれが大当りで、店の帳場にはいつも銀貨や銅貨がちらばつてゐる状態になつた。 何しろそれまで飯の盗み食ひさへする境遇で育つたのだから、その銭を盗んで買ひ食ひなどしてゐるうち、泥棒とは実に好都合なものだと云ふ信念を抱(いだ)くに至つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.99)


     そんな身の上話をしながら次郎は、
     「牢屋つてえとこは、元来悪い奴(やつ)を善人に仕立て直す仕掛(しかけ)の筈だが、反対に間違ひなく善人を悪党に仕立てる所ですね
     と、笑つたが、それ以前からスリや泥棒をやつてたのだからもともと善人と称するのは虫が良(よ)過ぎる。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.100)


     さて牢を出ると、その足で、横浜で有名なスリの親分の所へいつて弟子入りをした。
     次郎が初め驚いたのは、親分が毎日毎日兄貴分のあとを付けて出すけれど、彼自身には何もするなと固く命令したことで、ただ兄貴分の技(わざ)を見学させるだけだ。 そして帰ると親分みづから乾分(こぶん)達を引連れて、芸者買ひ女郎買ひにゆく。 或(あるひ)は豪勢な料亭を呑ませ、食ひ放題に御馳走を食はせる事だ。 これが毎晩の事で、しかもその金の使ひつぷりの綺麗(きれい)な事は感心する許(ばか)りだ。 尤(もつと)ももと/\盗んだ金だから感心するには当らないかも知れない。−−
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.100)


     これが半年続き、一年続く。
     「親分はあんなに奢(おご)つてくれながら、どうして仕事をしろと云はないんだらう
     と、兄弟子に聞いたら、兄弟子は笑つて、
     「そりやお前に遊びの面白さ、金使ひの面白さを肌で覚えさせる為さ。 丁度猫に鼠の味を教へ込む様(やう)なものだ。どうだ、お前も今親分から離れたつて、遊びの為にはどうしたつて大金が入用だと奮発しなけりや納まらないだらう
     と、云つたさうだ。全くその通りだ、と彼は肯(うなづ)いた。
     そして次郎は、こんな話をしながら皮肉に笑つた眼でおれを見て、
     「小山さん、あんた慶応とか云ふ学校へゆかれたつてえことだが、大学教授もこんなうまい教へ方は知らないでせう
     と、云つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.100〜101)


     そこでおれが云つてやつた。
     「まあ、うまくいつてお前さんがスリを続けてゐたとしても、それが本当に好(い)い商売かどうか疑問だ。 懐(ふところ)からスレる金なんて額が知れてらあ、今の話の親分と云つたつて、精々(せいぜい)場末の料理屋で酒を呑み芸者を揚げる程度の贅沢(ぜいたく)だらう。 それ位(くらゐ)の事なら町で小商売をやつている人だつて出来る。スリの親方で大富豪になつた奴なんて聞いた事がない
     「さう云はれりや、さうですがね
     「大体泥棒だつて割に合ふ商売とは思はれんぜ。 よその家へ忍びこむにも何回か下見をして、乗り込むにも徒手空拳で入(はひ)る奴(やつ)はないから必ず出刃包丁(でばばうちやう)位(くらゐ)は持つてゆく。 勢ひ、脅(おど)しから殺傷に及ぶ可能性は高い。 さうすると捕(つか)まりや死刑か無期の運命に陥(おちい)る。 そも/\、大金持が家に大金を置いておく筈(はず)がない。 それは大抵銀行郵便局に預けてある。 また家の防備も固いから成功の確率は低い。 金持でない家に泥棒に入(はひ)つても仕方がない。 仮(かり)に誰も傷つけなくて百円取つたとしても、あとで捕(つか)まりや少くとも十五年の懲役は喰ふ。 一年にすりや六円何十銭かの儲(まう)けだ。 一日にすりや二銭だ。 この監獄ぢや下等労役でも一日五十銭は呉(くれ)る。 この囚人より割りが悪い
     「へへえ、さうなりますかい。 流石(さすが)に学校にいつた人は違ふ。 しかしそれほど計算の達者な小山さんが、矢張(やつぱ)り無期を喰(くら)ふ様(やう)な罪を犯したつてえのはどう云ふ訳(わけ)ですかい
     「おれのやつた事は初めから損得抜きだ。 ほかの囚人みたいな低級な犯罪とは次元が違ふ
     と、おれはそつくり返(かへ)つた。
     「いや、恐れ入りやした。 それにしても小山さん、おいらの話に説教が混るのが面白いと茶化しなすつたが、あんたも結構説教するぢやありませんか
     二人は大笑いした。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.101〜102)


     この囚人の虐待に就(つい)てだが−−聞くところによると北海道の監獄の看守は、報告書もまともに書けない癖(くせ)に、唯(ただ)腕力だけで職に就いた連中が少なくないさうだ。 況(いは)んやその下で働く押丁(あふてい)に於てをやで、まるで雲助(くもすけ)だ。 この雲助共(ども)に、囚人が何か待遇に不満があつて抗議しても、唯お上の都合だといふ一言で悉(ことごと)く撥(は)ねつける。
     「食物は米麦(べいばく)の混炊(こんすい)と定まつてゐる筈(はず)ですが、ここ十日程、米の顔を見たこともありません。 連日芋許(ばか)り食はせると云ふのはどう云ふ訳(わけ)ですか
     「文句を云ふうな。お上の都合だ
     「お菜(かず)は規則で三銭以下となつてゐる筈ですが、幾ら推量しても五厘にも足りないお菜を出すのはどう云ふ訳です
     「三銭以下だから、五厘でも三厘でも差支(さしつか)へないではないか
     「そりや面妖(をか)しい。 三厘五厘でいいなら一銭以下とある筈です。 三銭以下と法文にあるのは少なくとも二銭以上を意味すると考へるのが常識です
     「つべこべ理屈を云ふな、お上の都合だ
     「監獄則によると、適時司法省から巡閲官と云ふ方が来て、囚人の訴へを聴いてくれることになつているそうですが、三年たつても四年たつても、そんな人の見えたことがありません。 これはどうなつてゐるのですか
     「来ることもある。 来ないこともある。お上の都合だ。 お前らが要求すべきことではない
     まあ、万事こんなていたらくだ。 こんな文句を云ふのは大抵おれか、チヤク屋の次郎である。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.103〜104)


     剣を抜かなかつたのは感心だが、血塗(まみ)れの雑巾(ざふきん)みたいになつた二人は、やがて縄(なは)で括(くく)られて屏禁檻(へいきんかん)と云ふ別棟へ引きずつてゆかれた。 まるで話に聞く鰓(えら)に笹を通されて熊(くま)に引きずられる鮭(しやけ)同然だ。 その上、そこで今度は天井(てんじやう)から吊るされた鮭(しやけ)そつくりな目に合はされた
     それは手錠を嵌(は)め、格子(かうし)にくつつけて爪先(つまさき)立ちに立たされて、手錠に縄を巻いて高い格子に結(ゆは)へ付けると云ふ懲罰である。アラマキと称するさうだ。 これを何日か続ける。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.105)


     直立と云ふ姿勢も何日かやられると、血が下がつて足は膨(ふく)れ上(あが)つて樽(たる)みたいになる。 ましてや爪先立ちだ。一日に三度、格子の外から握り飯を口に放り込んでくれるけれど、下の方は垂れ流しだ。 折(をり)しも夏のことで、蚊(か)や蚋(ぶよ)がわーんとひしめいてゐるが、それに刺されても掻くことも出来ん。 睡眠が不可能なことは云ふ迄もない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.105〜106)


     −−このアラマキ刑の話は以前から耳にしてゐた。如何(いか)なる豪傑もこれにかけられると悲鳴をあげ、看守に放免を哀訴し、自分の罪を陳謝するさうだ。
     二人並んで塩鮭(しほじやけ)の如く吊るされること半日、流石(さすが)のおれも泣きたくなつた。 日が暮れて暗くなると、それ迄外から見張つてげらげら笑ひながら悪罵してゐた二人の看守が、眼を離しても大丈夫と判断したものか詰所に引揚げてしまつた。
     と見るや、隣のチヤク屋がひよいと所定の場所から離れた。 そして手首を妙に捻(ひね)つたと思ふと、手錠も外(はづ)してしまつた。 それからおれのところへ来ると、おれの縄も解き手錠も外してくれた。
     おれはその儘(まま)へな/\とへたり込んだが、すぐに眼をまるくして、
     「一体、どうしたんだ
     と、チヤク屋を見上げた。 まるで手品を見る様(やう)だ。
     「縄抜け手錠外(はづ)しが出来なくつて、東京のスリと云へますかい
     と、チヤク屋はへら/\と笑つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.106)


     それに、そんな酷(ひど)い目に合はされても、身体に何の異常もない。 お話にならない粗食の事は先に述べたが、それでゐて別に骨皮筋右衛門(ほねかはすぢゑもん)になりもしない。 おれ許りぢやない、囚人みんなが余り病気をしない。
     不思議な話だが、どうやらこれは決(きま)り切つた起床や就眠、その間の食事、労作など規則通りの生活と、そして右の粗食が却(かへ)つて健康に好いらしい。人間丈夫になりたかつたら監獄に入(はひ)るに限る
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.108)


     で、典獄が見廻りに来た時、そのひつかかりを持ち出して見た。
     「典獄殿。 ……この間、網走移送の事を承(うけたま)はりましたが、それに就て疑問の点があるのですが、聴いて戴けますか
     「お前か
     と、典獄は苦(にが)い顔をした。また騒動屋が出て来たと思つたらしい。
     「網走へゆくのが不平か。 そんな苦情は聴けんぞ
     「いえ、まさかそんな事に苦情は申しません。 唯(ただ)、先頃(さきごろ)からここの様子(やうす)を拝見してをりますと、官舎の増築、修繕など、どん/\続けてをられるやうですが、それはどういふ訳(わけ)でありますか
     「それはすべて以前からの計画に従つてやつてをる
     「この監獄はまだ充分に使用に耐へるやうに見受けられますが、看守どのに聞くと別に解体して運ぶと云ふ訳(わけ)でもないさうで、後(あと)は立腐(たちぐさ)れになる。 囚人たちが何十年も苦役して開墾した田畑山林も、放りつぱなしでまた荒野に戻るとのことで、まことに勿体ない話だと思ひますが
     「そんな事を云つても、移転は政府の御命令だからどうにも致し方がない。 第一お前風情(ふぜい)がそんな心配をする必要はない
     「いや、必要はあります。 特に、移転と決(きま)つてゐるのになほ新しい物品や道具をどん/\購入してをられる状態を見ては、黙つてゐられません
     「囚人の分際で出過ぎた事を云ふな
     「囚人だつて国民です。 国民の一人として憤慨に耐へんのです。 以上はすべて国民の財産であり、税金の結晶ですぞ。 あなた方お役人は税金に対して甚だ鈍感だが、国民は税金にのた打ち廻つてをるのです。 それをかくも無神経不経済に浪費されるとは−−
     「浪費はせん。 官舎も物品も、民間に然るべく払ひ下げられてその代金は受領することになつてをる
     「民間人と云ふのはつまり御用商人でせう。 さあそれが問題です
     「何が問題ぢや
     「曾(かつ)て北海道では官有物払ひ下げ事件と云ふのがありましたな。 開拓長官の黒田清隆が、膨大(ぼうだい)な北海道の官有物−−官舎、工場、牧場、農場、船舶などを御用商人に、只(ただ)みたいな値で払ひ下げようとして大騒ぎになつた。 それが何千人かの小黒田(せうくろだ)になつて、未(いまだ)に役人の世界に棲息してをる。 この釧路監獄にも御用商人と結託して役得を懐(ふところ)にしてをる連中がうよ/\してるつてえのが、われ/\囚人仲間の公然たる噂で−−
     「たはけものめが
     典獄は石炭を投げ込んだ機関車の鑵(かま)みたいに震動して、
     「官憲を侮蔑するか、云ふに事を欠き途方もないことを云ふ奴(やつ)だ。 おい、この無礼なカンシケツに然るべき懲罰を加えろ
     と、左右を振り返つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.111)


     四、五人の看守が雪崩(なだれ)を打つて、飛びかかつて来て、おれはまた「闇室」に荷物みたいに四角になつて詰め込まれた。
     このとき典獄は確かカンシケツと云つたが、何の事だか分らなかつた。 後(のち)に牢を出てからふと思ひ出して調べて見たら、乾屎●(かんしけつ)と書いて糞の乾(かわ)いた糞掻箆(くそかきべら)の事ださうだ。 酷(ひど)い悪口を云つたものだが、しかしおれの異議申し立ては決してあらぬ云ひ掛(がか)りではない、牢の中許(ばか)りぢやなく天下の正論だと今でも信じてゐる。
    (●(けつ):「木厥」で1文字)
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.112)


     実際おれは永い間牢にゐて知つてゐるが、アイヌの小屋を少し頑丈(ぐわんぢやう)にした位(くらゐ)の監房に、四、五千円掛けたり、豚小屋に等(ひと)しい炊事場に一万円費(つひや)したり、どこにそんな金が掛(かか)つたのか分らない。 一方で、一襲(ひとかさね)七、八円の夜具七十組、合計五百円前後のものを、七十円位(くらゐ)で、或(あるひ)は一頭百円以上の馬十数頭を、一頭五円程でどしどし御用商人払ひ下げたりしてゐる。 無論役人がそのホマチを取るのである。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.112)


     そしておれは、北海道の牢役人のみならず、天下の役人の大半が今でも国民の血税を只(ただ)で出る小便同様に心得てゐる糞掻箆(くそかきべら)同然の手合(てはひ)と見てゐる。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.112)


     標茶(しべちや)の監獄を立ち出(い)でたのは七月十九日朝であつた。 生憎(あひにく)小雨(こさめ)が降りしきつてゐた。 雨に烟(けむ)る監獄や周囲の山野(さんや)の景を見ると、ふと纏綿(てんめん)の情(じやう)とも云ふべき感情が湧(わ)いて来たのはわれながら可笑(をか)しかつた。
     何艘(なんさう)かの伝馬船(てんません)に一船当り十四、五人の看守、六、七十人の赤衣の囚人が分乗して釧路川を下り、夜に入(はひ)つて釧路に着いて一泊した。 無論普通の旅館などである訳がなく、魚の腐つた匂ひの染み着いた鰊(にしん)小屋だ。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.112〜113)


     網走監獄は以前から分監としてあつたものが、今度(こんど)正式に本監となつたもので、矢張(やは)り建物は新しく作られたものが多い。 幾ら監獄でも新しいものは気持ちがよく、到着の夜は旅の疲れもあつてぐつすり眠つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.113)


     はてな、何だらう、と見てゐると、毛蟹熊はその油紙の包みを解いた。 中から現はれたのは血まみれになり、ぺちやんこになつた物体だ。 それが紛(まぎ)れもなくアカの屍骸だと知つて囚人達は、人間の屍骸を見たよりも大きな悲鳴をどよめかせた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.117)


     元通りと云へば、あれだけの騒ぎを起して、監獄の人事には何の変りもない。 一体司法省にどう云ふ報告書を書いたのか、典獄も担当の課長も看守も、蛙の面(つら)に水と云つた顔で同じ職に就いてゐるのだから、日本の官庁と云ふ所は何がどうなつてゐるのか、まるきり瓢箪鯰(へうたんなまづ)のお化けみたいな気がする
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.126)


     そこへ、その翌年明治四十年の八月半ばだが、突然仮(かり)出獄を許されたのには面食(めんくら)つた。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.126)


     仮出獄の日迄いろ/\思案したが、そのうちだん/\不愉快になり、腹も立つて来た。有難いとはちつとも思わない
     おれは何が嫌ひだと云つて、人の犠牲の上に自分が得をする程嫌ひな事はないが、更にその上、平生の自分の持論とは逆な行為をやる事を余儀なくされるのは我慢が出来ない。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.127)


     いよ/\監獄を出される朝、おれはどうしても黙つてゐられなくなつて、見送りに出てゐた典獄におれの意見を聴いて貰ふ事にした。
     「何故(なぜ)無期徒刑の囚人を今仮出獄させるのですか
     ぽかんとしておれの顔を見てゐる典獄におれは持論を披瀝(ひれき)した。
     「私は以前から大赦とか仮出獄とかに疑問を抱(いだ)いてゐるのです。 そも/\裁判官が罪人に或る判決を下すのは、厳格にその犯罪を糾明(きうめい)し厳正に法文に照らした結果でせう。 それを後(のち)になつて、やれ皇室のどなたかが生まれたとか亡くなつたとか、やれ服役後の囚人の態度が一見しをらしいとか、元の犯罪とは全く無縁の理由で無闇(むやみ)に減刑したり釈放したりするのは、全く法律や裁判を愚弄(ぐろう)したものとしか思はれんのです。最初の刑量の正当性さへ疑はせます。 成程(なるほど)、減刑され仮釈放された囚人は喜び、有難がるでせう、しかしその犯罪者の犯罪によつて被害を受けた人々の不満や悲しみは全く無視されてゐるのではありませんか。 一般にその人々は犯罪者の数に数倍するでせう。一人の罪人を喜ばせる為にそれに数倍する人を悲しませて何が国家の恩典恩赦ですか。 私の場合、私の仮出所を悲しむ者はまあ少なからうとは思ひますが、唯(ただ)如何(いか)に何でも無期の刑が十二年で済むとは無茶です。 言語道断(だうだん)、正気の沙汰ではない。……
     典獄は猿か何かにひつ掻かれたやうな顔で手を振つて、
     「おい、早くこいつを監獄の外へ摘(つま)み出せ
     と、頭をふら/\させながら命令した。
    (《明治バベルの塔 牢屋の坊っちゃん》P.127〜128)


    いろは大王の火葬場

     山高帽は髭をひねっていった。
     「古いのは、昔ながらのやつで、新しいのはこの二月に出来た。近代式になっとるだけに、早く、よく焼ける。 待合室などの設備もいい。 どっちを使うか
     洋服を着た一人が首をかしげながら、前の親戚のほうへいったが、すぐにひき返して来て、
     「昔のほうを使うそうだ。 古いほうは五円と七円。 新式のほうは三十円かかるようで……その古いほうの一番安いのを頼みたいそうで、こいつは昼近くなると先客がつくっているかもしれんから、それでこんなに早く出かけて来たんだそうだ
     と、いった。 こちらの二人は苦笑した。
     「それはいかん!
     山高帽がいった。
     「それはいかんぞ
     「なぜですか?
     「仏は肺病じゃろ? 肺病がバイキンによるっちゅうことは、いまを去んぬる明治十五年に、ドイツ医学界の泰斗(たいと)ドクトル・コッホが発見したところである。 従ってじゃな、肺病の亡者は出来るだけ迅速に、かつ安全に焼かんと、バイキンが煙とともに火葬場の煙突から逃げ出して空中にひろがり、雨風とともに地上に舞いおりる危険がある。 肺病の亡者は、すべからく新式のほうで焼いてもらわんけりゃならん
     「肺病の亡者とおっしゃったな
     と、着流しの男がいった。
     「それじゃ、仏を御存知ですな
     「あ、そりゃ……知っとる。 文士の斎藤緑雨じゃろ
     「あなたはどなたです
     「我輩は。……
     相手はちょっとためらったが、すぐにフロックコートの内かくしから、大型の名刺をとり出した。 文士は受取って読んだ。
     「警視庁官許、東京博善株式会社営業所長、広木新七
     顔をあげて、
     「なんだ、お役人じゃないのか。 博善社、というと……
     「つまり、火葬をとり扱う会社で。……
     「馬鹿っ
     と、満面を朱に染めて、文士はどなった。
     「どうもおかしいと思っていたが……そんなら、お前さんは火葬会社の社員じゃないか。 自分の商売に、えらそうな口をききくさって。……
     フロックコートは、突然ふるえ声になった。
     「しかし、警視庁官許で。……
     「警視庁官許? 何だか変な言葉だな。 こりゃお前さんのほうで勝手に印刷したものだろう。 いや、ほんとうなら、いよいよ御免(ごめん)こうむる。 故人が聞いたら怒り出す、いや笑い出すよ
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.135〜136)


     このときに、薩摩の川路利良(としよし)と知り合いになり、かつひそかにその人間と腕を見こまれたらしい。 のちに初代警視総監となった川路に荘平が呼ばれたのは、明治十一年の春であった。
     川路の用件は次のようなものであった。
     「御一新以来、上方(かみがた)でもそうじゃろうが、東京でも牛鍋がはやり出してな。 これから人民がますます牛の肉を食う習慣がすすみ、政府としてもこれは奨励せんけりゃいかんと思うちょる。 しかるに牛の屠畜は、あちこちでたくさんの業者がばらばらにやっちょって、中には病気で死んだ牛の肉さえそ知らぬ顔で売られちょるていたらくじゃ。 衛生上はむろん、流通上も具合悪か。 でな、ここはどげんしても政府が監督せにゃならんと思って、実は先年千束(せんぞく)に官営の屠畜場を作ったんじゃが、そもそも牛の仕入れからしてして、役人じゃうまくゆかん。 役人ばかりじゃなか、改めて見まわして、どうもいまの東京じゃ、安心してまかせられる者がおらん。 そこで、はたと思い出したのがおはんじゃ。 あの男ならやれる。 いや、この仕事、やれるのは木村荘平しかなか、とな。 ……おはん、上方(かみがた)での仕事やめてもらわんけりゃならんので相すまんが、そのほうの補償はする。 どうか東京に出て、一肌ぬいでくれんか
     荘平は、数日の思案ののち引受けた。
     そして、政府の補償は補償として、自分の事業はぬかりなく巨額の金で売り払って、東京に乗り出した。
     一年ほど官営の千束屠殺場を預ってみたのち、彼はお上に、やはりこの仕事は官営ではやりにくい、民営として、一切自分にまかせてもらえまいか、と陳情した。 そして払下げ金一万七千円、三年年賦という好条件でこれを自分のものとした。
     ついで荘平は、政府の三田育種場の一劃を個人用に借用して、食肉の畜産そのものに手をつけ、さらに馬匹(ばひつ)改良を目的として、競馬会社も作りあげた。
     本来の屠畜場の事業の拡張に邁進(まいしん)したことはいうまでもない。 屠畜の個人事業はむろん、相当規模の屠畜業をやっている業者も、当時あちこちにあったのだが、これを逐次(ちくじ)、潰(つぶ)し、吸収し、日本家畜株式会社なるものを設立した。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.140)


     と、ハーン夫人−−小泉節子は、眼を学生たちにもどした。
     「どうでしょうか。 ……あのね、主人はねえ、最初の心臓の痛みを訴えたとき……あれは、たしか十九日の午後のことでした。 私が書斎にはいると、主人はいつものように部屋の中を歩いていましたが、蒼(あお)い顔をして、胸に手をあてておりました。 私が、あなた、御気分でもお悪いのですか、と尋(たず)ねますと、ワタシ、ビョウキヲ、エマシタ、と申しました。 それから主人はいうのです、コノイタミ、モウスコシ、オオキイノ、マイリマスナラバ、タブン、ワタシ、シニマショウ。……
     節子は、ひとり追憶の述懐をしている調子でいった。
     「ワタシ、シニマストモ、ナク、ケッシテ、イケマセン。 チイサイ、カメ、カイマショウ。 三セン、マタハ、四センクライノ、デス。 ソレニ、ワタシノホネ、イレテ、ドコカ、イナカノ、サビシイ、チイサナテラニ、ウメテクダサイ。 ワタシ、シニマシタノ、シラセ、イリマセン。 モシ、ヒトガ、タズネマシタナラ、ハア、アレハ、サキゴロ、ナクナリマシタ、ソレデ、ヨイデス。 ……主人はこういったのです
     彼女の眼に涙が浮かんだ。
     「どんな火葬場がいいか、そんなことまで指図はしませんでしたけれど、私、あの主人の心を考えますと、そんな、煉瓦のカマにレールで運びこまれるなんて新式の火葬場で第一番に焼かれるなんて、そんなことを望んでいたとは思われないのです。 みなさんは、どうお思いでしょうか?
     「その通りです!
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.155)


     「いろは大王」という名は、ただ二十数軒のチェーン店経営者ということからではなく、この威風あたりをはらう異彩ぶりから出たものであろう。
     彼は、各支店をめぐって、前日の売上金を受けとり、鞄(かばん)にいれる。 みずからまわるのは、間違いのないよう、また従業員の働きぶりに活をいれるためだ。
     そして、催すところあれば、その美しい支店長を抱く。 それも、盛大に寵愛する。
     実に荘平は、この明治三十七年、数え年で六十六歳であったが、本妻のマサ以下いろは各支店長に生ませた子供が、男十三人、女十七人、計三十人あった。 上京以前、関西にいたころだって、ますます壮(さか)んな年齢だから、何もなかったはずがないが、ふしぎなことにそのほうの子供は実子として認知せず、記録に残っていない。  さて、その認知した子供の名も、はじめは男の子のほうは、荘蔵荘太とか、女の子のほうは、栄子信子とか、まず尋常(じんじょう)だが、やがて男は、荘五荘六と番号順になり、荘十二(そとじ)、荘十三(そとぞう)に至り、女もまた、五女(いな)、九女(くめ)、十女(とめ)と、これまた番号順になり、以下士女(しめ)、十二(とじ)、十三(とみ)、十四(とよ)、十五(とい)、十六(とむ)、十七(とな)、とつづくが、なるほどそういう読み方も出来るのかと、その点にも感心する。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.158)


     ところが、この曾恵子に、思いがけない事件が起こった。 三、四年前、この美人が、あろうことか男と密通し、駆落ちしたのだ。 その男は外国語学校の学生だか卒業生だかの、武林男三郎(おさぶろう)という不良青年で、公園で曾恵子を誘惑してから野口家に出入するようになって、とうとう曾恵子を妊娠させ、手に手をとって駆落ちしたというのだ。 父代りの兄寧斎は激怒したが、妹が妊娠したという事実はどうすることも出来ず、ついに折れて両人を呼び出し、結婚させ、男三郎を野口家の人間として入籍させた。
     それが去年のことだが、その後やはり寧斎は男三郎に釈然とせず、そのうち男三郎が外国語学校へいっていたというのもでたらめだということが判明したとかで、さきごろついにまた放逐(ほうちく)したという。−−
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.164〜165)


     岸田吟香は、開港後の横浜で、ドクトル・ヘボンのもとで、日本最初の和英辞書を作る手伝いなどやった人だが、さらに慶応四年、これまた新聞の草分ともいうべき「横浜新聞・もしほ草」を出したその道の大先達であった。
     維新後、彼は「東京日日新聞」に主筆としてはいり、明治七年の台湾征討にはじめて従軍記者として参加し、現地から送ってきたその戦況報道は読者を熱狂させ、「東京日日」の紙価を高からしめた。 ところが、そこに福地桜痴が入社して来て、岸田の倍の月給二百円をとり、彼をおしのけて主筆の地位についたのである。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.174〜175)


     吟香は天性報道記者であり、桜痴は論説記者であった。 当時は大新聞小(こ)新聞とあり、前者が重んじられ、後者が軽んじられていたが、雑報の名手吟香はしょせん小新聞タイプと見られたのである。 これに対して桜痴の論説は、その小気味いい切れ味で、これはこれとして世の喝采(かっさい)をあび、翌年に彼は社長にまでなった。 論説もさることながら、過去に幕府外国奉行調役格(しらべやくかく)までやった経験が、この人事をあえて異としないものにさせたのである。 一方、吟香のほうは、若いころ風呂屋の三助、女郎屋の牛太郎までやった男であった。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.175)


     どちらも当時の大ハイカラであることは軌を一にしながら、才気煥発(かんぱつ)の桜痴と、豪快だがどこかぶきっちょな吟香とは、肌も合わなかったようだ。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.175)


     日露戦争は、日本の存亡をかけたいくさであったが、後年の太平洋戦争にくらべると、特に国内は直接戦火を受けなかったせいもあって、はるかに牧歌的なところがあった。 旅順戦の最高潮時に、与謝野晶子が、「君死にたまうことなかれ。 ……旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事ぞ」 と歌い、同じく漱石が、のんきといえばのんきな「吾輩は猫である」を書き出したことでもわかる。 それをまた世も許したのである。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.184〜185)


     しかし、この戦争に国民すべてが頭に血をのぼしていたことにまちがいはなかったから、旅順を落し、奉天で勝ち、日本海海戦で敵艦隊を全滅させて戦争が終ったのに、九月五日のポーツマス会議で、眼に見えて日本が得たものはたった樺太の南半だけ、という結果を見ると、日本は渾身の力を使い果していたということを知らない国民は、総逆上の観を呈した
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.185)


     九月五日、ポーツマスで、日本全権小村寿太郎とロシア全権ウイッテの間で、その日露講和条約が調印されたのと同じ日、日比谷公園で、講和条約反対の国民大会がひらかれたが、激昂した数万の民衆は、午後一時ごろから四方にデモ行進として溢れ出し、たちまち暴徒と化して、公園の正面にあった内務大臣官邸、条約調印を是(ぜ)とする国民新聞社などを襲撃する一方、ついにいたるところ交番電車焼打ちをはじめた。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.185)


     「やあ、お鯉の家か。 なるほど。 −−だいたい戦争をしとる国の総理大臣が、戦争中も大っぴらに妾に目尻を下げとるのがけしからなんだのじゃ。 じゃからこの始末になるんじゃよ。 よか、おれもいって火つけの手伝いをしたる!
     木村荘平は怒髪(どはつ)天をついて、赤い人力俥をそちらにまわした。
     お鯉とは、時の総理大臣桂太郎の愛妾である。 これは有名なもので、この数日前からそこには全国から手紙が雲集し、妖婦、奸婦、淫婦、金毛九尾の狐等の罵言をつらね、中には、いままでの罪ほろぼしに即刻桂を殺して、女ながら日本臣民の義務を果せ、などという物騒なものもあった。 −−事件後、お鯉がその手紙の束を官邸に持っていって桂に見せたところ、桂は笑いながらあごで近くの卓上をさした。 そこには彼女宛のものに数十倍する手紙が、封も切らずに山積みされてあったという。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.188)


     さて、千五、六百人から成る暴徒は、「桂を殺せ!」「お鯉を殺せ!」とわめきながら赤坂榎坂へ襲来したが、事前に配備された警察隊と合戦となり、そのうち近くの東京電車敷設(ふせつ)工事場から工事用の空樽数十個を運んで来て、これに火をつけ、坂を転がし出した。 −−警官隊は抜剣しているのだからいのちがけだが、一面、さぞ面白かっただろうと思う。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.188)


     「桂の同類だ。あいつもやっつけろ!
     ちょうど荘平は第十七支店の前に到着していたが、殺到して来る暴徒に仰天(ぎょうてん)し、窮鼠(きゅうそ)かえって猫をはむの勢いで、俥から飛び下りると仁王立ちになり、ピストルをとり出して片手にふりかざした。
     −−実は彼は、だいぶ前から芝区会議員であり、かつ怪傑星亨(ほしとおる)一派の資金源の一つとなっていた。 一方で、東京市塵芥(じんかい)処理場東京湾埋立工事などの利権にからむ疑獄事件には、星亨とともに荘平の名もなんどかチラチラした。 そして、四年前、星亨はついに公益の巨魁(きょかい)として暗殺された。 荘平は大いに戦慄して、それ以来何かといえばピストルを携帯するようになっていたのである。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.189)


     「あの肺病やみのヒョロヒョロ野郎め、東郷どんや乃木どんの必死の手柄を、みんな狐の葉っぱにしてしまいおった。 いや、二十二万っちゅうわが忠勇の兵隊の血を、みんな水の泡にしてしまいおった。 あれは国賊じゃ! 売国奴じゃ!
     関羽髯がふりたてられた。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.191)


     翌日、小村寿太郎は、アメリカ船エンプレス・オブ・インディア号で日本に帰って来た。 横浜はちょうど雨であった。
     「一天暗澹(あんたん)として風全く死し、時に細雨あり。 乾坤(けんこん)陰雨に鎖(とざ)されて、天も亦(また)遺恨に堪(た)えざるが如し
     と、時の朝日新聞は伝える。
     横浜は、数日前入港したイギリス東洋艦隊を歓迎するために日英両国旗で市中を飾っていたが、この日ことごとく旗を撤去(てっきょ)してしまった。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.193)


     むろん政府関係者は出迎え、伊藤博文のごときは小村の肩を抱いて労をねぎらったといわれるが、小村もすでに国内の大不平は充分承知していたのであろう、出迎えの中に長男の帝大生欣一の姿を発見すると、驚いたように、「お前、生きておれたのか」と、いったという。 実際、あの日比谷暴動の日、小村一家の住む外相官邸も襲撃のまととなったのである。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.193)


     それからまた十日ばかりたったある夜、その板前の見習いが駈けて来て、さっき小村さまがお越しになった、と伝えた。
     −−やっと小村大臣も、熱し易(やす)く冷(さ)め安い国民の定式通り、例の逆上のほとぼりも一応さめたと見て、この夏以来の心労をいやしに来たものと見える。
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.195)


     しかし、それももう十何年かも昔のことだ。桜痴が府会議長をやめ、芝居の作者となってからはつき合ったこともないし、手紙をもらったこともない。
     そして賀状などよこしたのは、これがはじめてのことであった。
     「御慶(ぎょけい)」とまず書いてはあった。 しかし、ただの賀状ではなかった。 それには、自分も病気で、そうながくはないだろうと思う。 ついては、貴君(きくん)のところの牛肉が食いたい。 鍋ではない。 今生の想い出に、自分のところでビステキというやつにして食って見たい。 年が明けたら、なるべく早く、なるべくいいところを−−フィレという、牛の脇腹にあたる肉をとどけてもらいたい。 それも小僧ではなく、貴君みずから駕(が)をまげていただけまいか。 実は貴君のやっていられるという火葬場の件についてお話したいことがある、云々としるされてあった。
     「こいつは春から縁起がええわい!
     と、荘平は、荘平らしくもない芝居もどきのせりふを吐いて、しかしまた顔をしため、頬髯をおさえた。 また歯痛が脈を打ったのだ。
     「牛肉を一貫目持ってゆけ。 それ、ここにある通りの牛の脇腹じゃ
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.201〜202)


     「実は、さっきもいったが……お前さん、軍人勅諭(ちょくゆ)なるものを知っとるじゃろ。一ツ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし……と、いうやつだがね。 ありゃ明治十四年、山形卿に頼まれて、わしがその草案を書いたものじゃよ。 もっとも、その一方で、わしはちょうど同じ年、それ吉原の大門を知っとるじゃろ、あの大門の看板に、春夢正濃、満街桜花、秋信先通、両行燈影と書いてあるが、あれもわしが二千円で書いてやったものじゃよ。 エーヘッヘッヘ!
     「……
     「それはともかく、わしとしては、あの攘夷(じょうい)時代、開国を唱えたのと同じ心情、同じ信念で政府方についたのじゃが、これがわしを不評のまととした。裏切者変節漢二股膏薬(ふたまたこうやく)、反薩長はどこへいった、福地は政府に魂を売って府会議長を買った、などいわれてね。東京日日御用新聞になったとして売れゆきも激減し、わしはとうとう東京日日を放り出された。 それまでわしにチヤホヤしておった政府のおえら方も、このときはまるで助けてくれなかったよ。 ……エーヘッヘッヘ!
     「福地先生。……
    (《明治バベルの塔 いろは大王の火葬場》P.207)


    四分割秋水伝

     上半身の秋水
     その男が傍聴席に上半身を現わしたとき、法廷には異様などよめきが渡った。
     明治四十一年八月十五日午前九時ごろ、東京地方裁判所第二号法廷で、「赤旗事件」の第一回公判がひらかれようとして、ちょうど裁判長らが着席して、裁判所特有の重っ苦しい空気がみなぎったときに、記者席の背後のドアがまたひらいて、一人の男が立った。 その姿にまず近くの傍聴人たちが気づいたのである。
     「−−秋水だ!
     「−−幸徳秋水だ!
     禁じられているのに、低声のざわめきは木の葉のさやぎのように、しばしやまなかった。
     年は四十前後か、一メートル五十にも至らぬ小男で、しかも瘠(や)せている。 口髭(ひげ)ははやしているが、黄ばんだ顔色で、風采(ふうさい)は甚だあがらない。 しかもその男の全身からはただならぬ精悍(せいかん)の気が放射されていた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.214)


     明治二十年夏、数え年で十七のとき、彼は高知にゆくとうそをついて東京に出て、自由党の残党の壮士となった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.216)


     ところが、その年の暮、保安条令が出て、自由民権論者はすべて東京から追放されてしまった。 少年壮士の彼までその網をのがれることが出来なかったが、その追放者の中にむろん大物の中江兆民の名があった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.217)


     兆民もまた土佐の大先輩だった。 で、伝次郎は、大阪に落ちてそこで新聞を出しはじめた兆民の書生となった。 それも、辛辣(しんらつ)放胆な中江兆民が心を許した最高の愛弟子(まなでし)となり、その後追放令が解除されて兆民が東京に帰ると行をともにし、明治三十四年には師の死水(しにみず)をとっている。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.217)


     その間に、明治三十一年には彼は黒岩涙香「万朝報」に入社していた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.217)


     秋水というペンネームは兆民から与えられたものであった。 兆民にきたえられた秋水の文章は「万朝報」の読者をうならせた。
     特に、明治三十三年夏、旧自由党の血をひく憲政党伊藤博文政友会吸収合併されたときの「自由党を祭る文」は有名だ。
     「歳は庚子(こうし)に在り八月某夜、金風淅瀝(せきれき)として露白く天高き時、一星忽焉(こつえん)として墜ちて声あり、嗚呼(ああ)自由党は死す!」云々。
     かつて自由のために政府とたたかった自由党の末路を悲憤する文章だが−−あるとき兆民が彼に、「お前は政治運動をやるより文学者になったほうがいい」 といったが、この師はまさしく弟子の本領をよく見ていたといわなければならない。 しかし、稀代の文章家ではあるけれど、その才能は文学というよりアジテーションに最適のものであった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.217)


     「万朝報」の読者以外に、幸徳秋水の名を天下に知らせた事件が起った。
     明治三十四年十二月十日貴族院に臨んだ天皇の帰途、その馬車の前に駈けていって白い奉書をささげた老人があった。 それが栃木県選出の田中正造という代議士で、足尾銅山の鉱害の惨を天皇に訴えようとしたものであったことがすぐに判明したが、ついで、
     「草莽(そうもう)ノ微臣田中正造誠恐誠惶(せいこう)謹ミテ奏ス。……」
     にはじまる、渡良瀬(わたらせ)川流域の人民の苦難と役人の非情冷酷を訴えた直訴状の書き手が、三十一歳の「万朝報」記者幸徳秋水であったと知って、みなあっと眼をむいた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.217〜218)


     やがて人々は、この人物がたんなる慷慨(こうがい)の文章家ではないことを知る。
     日清戦争の勝利で自信を得、しかも三国干渉の屈辱をなめて、いわゆる「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に国をあげて軍国主義につきすすみ出した日本人に対し、幸徳秋水ら数人が「万朝報」で公然反戦の論陣を張ったのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.218)


     秋水は、万一戦争となった場合の兵士の惨苦、遺族の悲哀、戦地住民の災難、国費の蕩尽(とうじん)等を列挙し、国民にあえてこの道を進ませようとしている指導者の姿勢カライバリ的、飴(あめ)細工的帝国主義だと痛罵(つうば)した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.218)


     こういう論説をあえて掲載することを黙認した「万朝報」社長の涙香も相当なものだが、しかしその涙香も、日露の風雲急を告げる最後の段階に至ると、さすがに方針を変えざるを得なくなった
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.218)


     秋水と、彼ともに「万朝報」論説委員で同じく非戦論者であった内村鑑三堺利彦は退社した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.218〜219)


     内村の反戦は宗教的信念によるものであったが、幸徳と堺は社会主義の思想から来たもので、二人は「万朝報」を退社すると、わずかな退職金と借金で、週刊「平民新聞」という新聞を出して社会主義を鼓吹するとともに、いよいよ激越に非戦論を唱えた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.219)


     「ああ、朝野戦争のために狂せざるなく、国民の眼はこれがためにくらみ、国民の耳はこれがために聾(ろう)するのとき、ひとり戦争の防止を絶叫するは、隻手江河を支うるよりも難(かた)きは吾人これを知る。
     しかも吾人は、真理正義の命ずるところに従って信ずるところを言わざるべからず。 絶叫せざるべからず。 ああわが愛する同胞、今においてその狂熱より醒(さ)めよ。……戦争ひとたび破裂するときはその結果の勝と敗にかかわらず、次に来(きた)るものは必ず無限の苦痛と悔恨ならん。……」
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.219)


     しかし、日露戦争の火ぶたは切られ、ひたすら満州における戦況に一喜一憂している「わが愛する同胞」から見れば、このような論は異和感を越えて、憎悪憤激の的(まと)以外の何物でもなかった。 政府はむろんいくたびか発行禁止を命じた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.219)


     が、秋水は屈せず、凄(すさま)じい「イゴッソー」ぶりを発揮する。
     「吾人は断じて非戦論は止(や)めじ。 吾人はこれがために如何(いかん)の憎悪、如何の嘲罵、如何の攻撃、如何の迫害を受くるといえども、断じて吾人の非戦論を止めじ。……」
     それどころか、旅順戦の最高潮時に、「平民新聞」はマルクス「共産党宣言」を日本ではじめて訳載する「怪挙」をやってのけ、ついに秋水は禁錮(きんこ)五カ月に処せられるに至った。 「平民新聞」は一年二カ月にして廃刊に追いこまれた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.219〜220)


     彼の「終刊の辞」は、当然のことながら例のごとく悲壮であった。
     「ああ、わが平民新聞、短くしてかつ多事なりし生涯よ、だれか創刊の当時においてしかく短き生涯なるを思わんや。 独座燭を剪(き)って終刊の辞を艸(そう)すれば天寒く夜長くして風気蕭索(しょうさく)たり
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.220)


     明治三十八年二月末から七月末まで巣鴨監獄にぶちこまれた秋水は、出迎えた同志たちに挨拶(あいさつ)した。
     「下獄の時の十二貫の体重は、いまはわずかに十貫三百匁(もんめ)となりました。 ……多謝す、巣鴨監獄、それは私をして層一層不忠不良の臣民たらしめました
     彼はいよいよ社会主義の殉教者(じゅんきょうしゃ)たる決意をかためて出獄して来たのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.220)


     社会主義は天皇制を根底からゆるがすものと見た政府は、それが燎原(りょうげん)の火とならないうちに社会主義を絶滅すべく、秋水はもとより日本じゅうの社会主義者やそのシンパたちにきびしく監視の眼をひからせていた
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.222)


     その中で秋水は巣鴨村に小さな家を借り、「平民社」の看板をかかげた。 そこには遠近から社会主義に共鳴する人々が訪れた。
     盟友堺利彦によれば、「秋水は五尺に足らざる小男であったが、精悍の気、眉宇(びう)に現われ、文章、弁論ともに殺気をおび、常に後進の渇仰(かつごう)を博していた
     若い連中に人気があったのだ。
     訪問者たちは、近くでウロチョロする巡査の前を、皮肉な笑顔をむけながら肩をそびやかして出入した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.222)


     一人は、箱根大平台(おおひらだい)の林泉寺の内山愚童という三十六の禅僧で、これがやはり「平民新聞」に心動かされ、秋水にも二、三度遭いにきたが、そのうち不敵にも寺に印刷機械を運びこみ、革命鼓吹の秘密パンフレットを作りはじめた。
     「なぜにお前は貧乏する
      わけを知らずば聞かしょうか
      天子金持大地主
      人の血を吸うダがおる

     などいう歌や、
     「今の政府や親玉たる天子というのは、諸君が小学校の教師などよりだまされておるような、神の子でも何でもないのである。 今の天子の先祖は、九州の隅から出て、人殺しや強盗をして、同じ泥坊仲間のナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊坂長範や酒呑(しゅてん)童子の成功したものである
     などという文章を印刷したもので、これを「平民新聞」から借り出した読者名簿を参考にして発送した。 むろん差出人の名は記さず、ただ受けとった人々が民衆に散布してくれることを期待したのである。
     ところが、期待に反して、受けとった人々の大半は戦慄し、あわてて焼きすてるか、警察にとどけた。 彼らはみな自分たちに警察の眼がそそがれていることを承知していたのだ。
     −−実は秋水自身、愚童からその配布を依頼されたのだが、それをことわったくらいである。
     果せるかな、内山愚童自身が、探知されてつかまった。明治四十二年五月のことだ。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.230)


     爆弾の作り方は、秋水との手紙のやりとりで、その昔自由党に籍をおいたこともある秋水が、自由党の大先輩奥宮健之(けんし)から聞いたことを教えてくれた。
     またこのころ新村忠雄は、秋水の紹介で前記紀州の新宮在住の医師大石誠之助の薬局に書生として移り住んでいたが、そこから塩酸カリ一ポンドを送ってもらい、また宮下みずから、鶏冠石鋼鉄片筒形の鑵などを入手した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.231)


     「私の予定では、ことし秋、観兵式か何かへゆく天皇の馬車にやって見ようと思うのです
     と、宮下が不敵な眉をあげていった。
     秋水はしばらく黙っていたが、やがて、
     「とにかく正月だ。 それでも酒は買ってあるらしいな。 きょうはお正月らしくチクと一杯やるとしよう
     と、笑ったが、そのひょうしに烈しくせきこみ、手拭いで口をおさえた。 彼が肺に持っている痼疾(こしつ)が、去年の秋ごろからいちだんと病勢を深めていることはだれの眼にも明らかであった。
     が、酒とともにその黄ばんだ頬が妖(あや)しいあからみをおびてくると、
     「ことしの勅題は、たしか新年雪(しんねんのゆき)、だったな。 それじゃガラにないが腰折れを一つ
     と、秋水はいい、笑みを浮かべて、
     「爆弾の飛ぶよと見てし初夢は
      千代田の松の雪折れの音

     と、口ずさんだ。
     みんな笑って、拍手した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.233)


     「しかし、よくこんなものを番犬に見つからなかったもんだな
     と、秋水はあらためて表のほうをふりむいていった。
     この千駄ヶ谷の平民社の前の空地には、このころ二つのテントが張られ、五、六人の巡査が常時つめていて、来訪者をいちいちつかまえて、住所氏名来意をたずね、それどころか懐中、たもとを改めるのはもとより、帯を解かせ足袋までぬがせて検査するというありさまだったからだ
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.233〜234)


     須賀子は入獄前夜を千駄ヶ谷の某家で過したが、その前の連絡で、古河力作も、信州屋代町の実家に帰っていた新村忠雄もわざわざ上京して来た。
     そして彼ら三人は、例の天皇暗殺の爆弾の投擲(とうてき)者の順番のクジ引きをやった。 不在の宮下太吉をふくめ、白いコヨリのクジは四本で、宮下の代わりに新村が二本ひいた。
     第一の投弾予定者管野須賀子、二番目が古河、三番目が新村、四番目が宮下ということになった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.236)


     元気者の宮下太吉は、番犬ども」をなめすぎていた
     警察は、千駄ヶ谷平民社へ出入するときのみならず、信州における彼の動静を−−いや、彼がまだ愛知県の亀崎にいたころから、危険人物として見張っていたのだ。 彼は信州明科の製材工場に転勤したのだが、この工場の仲間の一人は当局から命令を受けた警察官の息子であり、守衛の一人は元巡査であったとは。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.236〜237)


     ただちに製材所が捜査され、塩酸カリ、鶏冠石、その他の火薬原料をつめた容器が発見され、同日のうちに宮下が逮捕された。 実に東京で管野須賀子らが、爆弾投擲(とうてき)のクジをひいた一週間後である
     これが一世を震撼(しんかん)させたいわゆる「大逆事件」発覚のはじまりであった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.237)


     新村忠雄古河力作をはじめ、一週間前「新聞紙法違反」で入獄したばかりの管野須賀子も、前年五月「出版法違反」でつかまって入獄中であった内山愚童も、あらためて大逆の俎上にのせられた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.238)


     秋水が上京の途次立ち寄った紀州新宮の医者大石誠之助も、秋水に爆弾の製法を教えた老壮奥宮健之も、用途を知らずして爆弾材料をわたした者も、次から次へといもづるのように、その親族友人まで−−いもづるではない飛火のように、まったく無縁でも、ただ社会主義者というだけで、その後数カ月にわたって全国各地で検挙され、その総数は数百人に及んだ
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.238)


     中でも気の毒であったのは、幸徳家にいちど書生をやっていた坂本清馬で、彼は宮下も古河も知らず、管野須賀子といれちがいのように、しかも秋水に離反して去った青年なのに、その後放浪中であったのを逮捕された。
     −−結局彼は、事前に幸徳家に居候をしていただけで、無期懲役の判決を受け、在獄二十五年、大正を越えて昭和九年に至ってやっと仮釈放されることになる
     以後彼が、昭和五十年九十歳で死ぬ日まで、西へ走り東へ走って自分の無罪をさけびつづけ、最高裁に再審請求したことを記憶にとどめている人もあろうが、この大逆裁判が全体として政治的なデッチアゲであったことが白日のもとにさらされた昭和戦後に至っても、なお最高裁はこの再審請求を斥(しりぞ)け、坂本は一生を棒にふった恨みをのんだままこの世を去ったのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.238)


     ましてや国家権力が最高潮に達した明治の末だ。司法は政治と一体となって、反体制者根絶の方針をたて、この事件を機に社会主義者を掃滅しようと決意していたのだ。 その背後には、政治はもとより司法すら超越した大元老山県有朋の怖るべき鉄の意志があった
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.238〜239)


     当時、「明治叛臣伝」の著者として知られる田岡嶺雲(れいうん)が−−実際に筆をとったのは弟子の田中貢太郎(こうたろう)だが−−やはり天野屋のとなりの部屋に滞在していたが、「信州で社会主義者を逮捕」という新聞記事を見て、「困ったことをしてくれた」と秋水がつぶやいたのを聞いたが、それはまだ例の「赤旗事件」などにも及ばぬ小さな記事で、まさか大逆につながるとは思わず、秋水もまたそれが自分につながる事件とは思っていなかったようだ、という印象を述べている。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.239)


     彼は東京へ連行された。
     暑い夏の間、東京地方裁判所検事局で、秋霜の取調べがつづけられた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.239)


     八月に、日本は韓国を併合した。 この明治四十三年夏、日本は外に帝国主義の鉄の足を踏みかけ、内に同じ鉄の足で反体制者群を踏みつぶしたのだ。
     これが、日本が一つの大いなる坂をのぼりつめたときであった。 西暦にすれば一九一〇年、以後、日本は次第に坂を下ってゆくのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.239〜240)


     予審における取調べに、当然、秋水は協力的というわけにはゆかなかった。 それでも、十四回に及ぶ調書で、彼の反応はだいたい三段階に変わった。
     第一段階では、爆弾製造その他についての検事の追及を否認あるいは不得要領の返答をすることが多かった。 これはその返答一つで同志を罪におとす怖れがあったのみならず、事実彼は、宮下らの陰謀から一歩離れていたと思っていたからだ。
     しかし、そんなことでは通らなかった第二段階では、さすがに狼狽(ろうばい)し、混乱した。
     −−逮捕以来、外部との連絡はいっさい絶たれていたが、検事の訊問内容からおびただしい人間が検挙されていることが判明し、それらの人々の自供から、自分のこれまでの過去の言動が酒談の片言隻句に至るまでつかまれていて、なまじ言いのがれは通用しないことを思い知らされたからだ。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.240)


     しかも、それらの片言隻句は、検事の明らかな故意の誤解によって、怖るべき大陰謀の構築材料に使われていた。 たとえば、自分が唱えた労働者の「直接行動」という言葉は戦術としてのストライキを意味していたのに、これがテロを指向したものだときめつけられたのだ。
     そして、当局の構築した自分たちの大陰謀は「大逆罪」であることを秋水は知った。
     刑法第七十三条。 「天皇、太皇太子后、皇后、皇太子又(マタ)ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又(マタ)ハ加へントシタル者ハ死刑ニ処ス」−−これを大逆罪という。
     これには教唆(きょうさ)犯や従犯はない。 この刑にかかわるものは、すべて主犯で、しかも処刑は死刑ただ一つである。 その上、この刑法第七十三条を裁くのは大審院(いまの最高裁)だけで、もはや上告の道はない。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.240〜241)


     秋水はまさしく自分が、この大逆罪「天皇ニ対シ危害ヲ〔加ヘントシタル者〕」あてられていることを知った
     自分の法律的知識では、自分の言動程度では決してそれにあてられるものとは思われず、宮下、菅野らにしてすらせいぜい「鉄砲火薬取締罰則違反」か「爆発物取締罰則違反」にあたるものとしか思われないが、権力側は強引に、「超法規」をもってしてもそれにあてはめようとしていることを知った。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.241)


     ことここに至って、秋水の態度は平静なものにもどった。第三段階で秋水は、内山愚童大石誠之助奥宮健之ら関係者をかばい、宮下らの理論指導者は自分であると認め、かつ自分たちの立場について、「外に言論出版の自由を奪い、内には生活の糧道を絶つ政府の異常なまでの迫害に対する人間としての正当防衛である」と反論した。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.241)


     下半身の秋水

     すでに、結婚した年の暮の日記に、「積陰暗澹(あんたん)、年まさに暮れんとして嚢中(のうちゅう)一銭なし」と、秋水自身が書いている。 母があまりこぼすので、心みだれて原稿が書けず、冷酒をあおって高言し、社に出かけたが乱酔していてだれも相手になってくれず、俥で家に送り返される。
     「又妻を拉(らっ)して出(い)づ。 酔歩蹣跚(まんさん)八官町の川島に至りて又飲む。 夜に入りて雨蕭々たり。 十二時に至り泥濘(でいねい)を歩して帰る
     飲み代は借りにきまっている。 おそらく夫婦とも全身雨にぬれ泥まみれになっていたであろう。 彼みずから「不孝の子、不仁の夫なり」 と、白状している。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.246)


     それでも秋水は気にかかり、数日後、別れるなら獄中の荒畑に手紙をやり、はっきり別れる返事をもらえ、と提案した。
     須賀子はそうした。 何日かたって、牢屋から荒畑の返事が来た。
     「手紙の趣きよくわかりました。 御相談とか何とかいうわけでなく、通知の形式なのですから、まことに返事のしようもないわけですが……僕はただここで、つつしんで秋水兄とあなたとの新家庭の円満幸福を祈るのみです
     秋水はこの手紙を、鬼の首でもとったようによろこんで吹聴(ふいちょう)した。
     そして、須賀子との同棲以来彼を責めてやまない同志たちに、「須賀子は荒畑から絶縁状をもらった」と強弁した。
     しかし、同志の反感は解けなかった。 かつて坂本清馬が「自分は主義のためなら恋も捨てる」といったとき秋水は、「おれは絶世の美人と恋をしたら主義は捨てるよ」と揶揄(やゆ)したことがあるが、この挿話まで持ち出されて、「秋水は女に溺(おぼ)れてまさしく主義を捨てた」と罵られた。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.259)


     須賀子は「妖婦」と呼ばれた。淫蕩な前半生を持つ女、獄中の恋人を裏切って捨てた女。 そしてわれわれの指導者の気の毒な妻を追い出し、彼を堕落させた女
     この妖婦はしかし、四カ月ばかりのち、例の「自由思想」発行人として、牢へ、ニッコリ笑って曳(ひ)かれていったのである。
     あとには、狐つきが落ちたような幸徳秋水が残された。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.259〜260)


     明治四十三年十二月十日にはじまった「大逆事件」公判は、ほとんど連日つづいて、わずか二十日後の十二月二十九日には結審した。 公判とはいえ、社会の安寧秩序に害があるとして、一人の傍聴人も許さぬ秘密裁判であった。
     弁護士の一人今村力三郎はいう。
    裁判所が審理を急ぐこと奔馬のごとく、一の証人をすらこれを許さざりしは、予の最も遺憾とするところなり
     あとは判決を待つばかりであった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.260)


     背中の秋水

     このとき秋水の心をとらえていたのは、裁判のなりゆきより、母のことだった。 公判のはじまる前−−十一月二十七日に面会に来た母の多治子である。
     土佐中村の実家はすでに秋水が売り飛ばしたので、親戚に養われていた母は、六月に事件が発覚したのち、いちど往来で、「あれ見い、明智光秀の母が通りよる」という声を耳にして以来、一歩も外に出ないと聞いて、秋水は胸もふさがる思いがしていたが、十一月十日、接見禁止が解かれると、七十一の身で、何日もかかって土佐から出て来たのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.260)


     逢ったのは、市ヶ谷監獄の面会所であった。 「赤旗事件」で牢にはいったが、このときは出獄していた堺利彦が連れて来た。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.261)


     大逆事件の判決が下ったのは、公判終結後、二十日目の明治四十四年一月十八日のことであった。
     幸徳秋水以下二十四名、刑法七十三条の罪により死刑。
     被告の一人飛松与次郎は書く。 「裁判官の退廷の足音が−−それもきわめて物静かな足音が、およそ音するものの終わりであった。 息をのむ音も聞こえなかった。 すべては空虚であった。 荘厳とかを超越して、一切が尋常であった。 雷のような沈黙であった。 疾風(はやて)のような静けさであった
     突然、看守の手で編笠が、銀杏(いちょう)返しに結(ゆ)った被告管野須賀子の頭にのせられた。 入廷の逆順に、彼女がいちばん先に法廷を去るのである。
     須賀子は居合わせた弁護人たちに黙礼をしたのち、椅子を立った。 白い手に手錠がはめられ、腰縄がかけられた。
     出口のところで、彼女はふりかえり、手錠のままで編笠をとった。 その背がずっと高くのびたように見えた。 暗い法廷にその顔がまぶしいまでにかがやいた。 彼女は透きとおるような声でさけんだ。
     「みなさん、さようなら!
     一息おいて、内山愚童が錆(さび)のある声で答えた。
     「ごきげんよう!
     須賀子はふたたび笠をかぶせられ、小走りに出ていった。
     突然、被告たちは両手をあげた。 声は法廷にこだました。
     「革命万歳! 万歳! 万歳!
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.276〜277)


     大脳皮質の秋水

     翌十九日、天皇陛下の御仁慈により、その中(うち)なかばの十二名に対し、罪一等を減じて無期懲役に処する、という発表があった。 その中に坂本清馬の名もあった。
     桂内閣有松警保局長談話。
     「惟(おも)うに彼らのごとき悪逆無道の徒も、この恩命(おんめい)を拝して必ずや御聖徳の大なるに感泣せしこと疑いなかるべし
     しかし、昭和戦後のみならず、すでに当時から、二十四名全員の大半は無罪だという声があった。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.277〜278)


     前年暮れに「一握の砂」を刊行したばかりの二十六歳の石川啄木は友人への手紙にいう。
     「宮下太吉を首領とする管野須賀子新村忠雄古河力作の四人だけは明白に七十三条の罪に当っていますが、自余の者の企ては、その性質に於(おい)て騒擾罪(そうじょうざい)であり、しかもそれが意志の発動だけで予備行為に入っていないから、まだ犯罪を構成していないのです
     彼は、幸徳秋水すら罪にあたるものと見ていないのである。
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.278)


     十二人の減刑−−といっても無期懲役だが−−は「御聖徳」を売物にしようとする権力側の計算であった。 秋水はその一月十九日に、友人堺利彦に最後の手紙を書く。
     「まずは善人栄えて悪人滅ぶ。 めでたしめでたしの大団円で、僕も重荷をおろしたようだ。 これから数日間か数週間か知らないが、読めるだけ読み、書けるだけ書いて、そして元素に復帰するとしよう
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.278)


     書きながら、ふっと秋水は宙に眼をあげた。 法廷で、「さようなら!」と透きとおるような声でさけんだ、まぶしいまでにかがやいていた須賀子の顔が明滅したのである。
     彼女も元素に帰るのか?
    (《明治バベルの塔 四分割秋水伝》P.278)


    作者口上

     しかし、あんな気ッぷの持主なら、まちがって牢にはいるような運命をたどる可能性もあります。もし「坊っちゃん」的人物が牢にはいったらどうしたろう? そういう空想に叶う人物が、「坊っちゃん」の物語と同時代に実在していました。 日露戦争の講和談判で、清国全権李鴻章(りこうしょう)を狙撃するという短絡的行為をして北海道の監獄に放りこまれた小山六之助という男です。
     この物語の素材は、小山六之助自身の手記「活(いき)地獄」に得ました。
     私はこれを漱石の「坊っちゃん」とそっくりの文体で書こうと試みました。

    (《明治バベルの塔 作者口上》P.284)


     「いろは大王の火葬場」
     いつのころからか、小説を書くときその参考にした文献を表示するならいが生じました。
     おそらく参考にされた諸著の著者からの要求の結果だろうと思いますが、学問的著作なら知らず小説の場合、原著の特別のアイデアをそっくり盗用したり、非常識なほど長文を引用したりした場合は別として、私はそれは料理の材料や仕込み先をならべたてるようなものではないか、と首をひねっています。

    (《明治バベルの塔 作者口上》P.284)


    明治暗黒星

     「想太郎君、もう剣の修行はむだじゃよ
     「今は、ただ銭を持ってるやつのほうが強い。 この世は、銭だ、銭だ
     「それから、やるなら、新政府への尻っ尾のふりぶりの修行。−−
     何かといえば、その金を儲けた某々、また金や色で傍若無人な政府の大官某々、その大官への恥も外聞もない幕臣の阿諛(あゆ)者某々の話が出て、その末におちるのは自分たちの落魄ぶりへの愚痴だ。 元幕臣の困窮は、想太郎ひとりの話ではなかったのである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.304)


     数日後、彼は大蔵省租税寮に出かけていって、星亨に面会を申し込んだ。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.313)


     明治三十一年真夏の夕方であった。 駐米公使星亨とその夫人津奈子がその日帰朝して、新橋から二頭馬車で進むのを彼は見たのである。 この星公使の帰朝は当時騒然たる話題のまとであったから、往来はそれを見るための群衆でいっぱいであった。
     ときに星亨は四十九歳である。 肥体躯にシルクハット、金ぶち眼鏡に葉巻をくわえたまま、悠然と群衆に会釈する姿、また羽根飾りのついた帽子に洋装の津奈子の、ほっそりとしているが優雅な姿は、すでに衆議院議長の栄職さえも極めた名流の人とし、余裕たっぷりの華やかさであった。(躯:“身”に“區”)
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.325)


     明治六年、星は横浜税関次官になった。
     このとき、横浜税関の旗がロシヤの国旗にまぎらわしいので、ロシヤ領事が旗のデザインを変更してくれるように抗議を申し込んだ。 星はいった。
     「そんなことが気にかかるなら、ロシヤの国旗を変えたほうがよかろう
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.326)


     翌年税関長官になったが、西郷をはじめ幕末維新にかけて日本の大官たちを戦慄させた英国公使パークスと大喧嘩をして、この職を免じられている。
     が、その年のうちに彼は条約改正理事官に任ぜられ、イギリスに派遣を命じられた。
     「別に公用を課せず、もっぱら学問修業せよ」という、政府も使い方を持てあました、彼にとっては願ってもない条件であった。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.326)


     明治十年、彼は帰朝して、司法省付属代言人となった。 代言人とは、弁護士の前身だが、その職業がそれまであたかも江戸時代の公事宿(くじやど)の手代のごとき怪しげなものであったのを、断然、政府保証つきの権威ある存在に変えるため、彼自身が望んで「司法省付属」の名称を獲得したのである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.326)


     やがて彼は「福島事件」の弁護人として立った。 福島事件」とは、福島県令三島通庸(みちつね)の弾圧によって蹶起(けっき)した県民有志が国事犯として裁かれた事件である。 国家の強健が非道といっていいほど猛烈な時代で、被告たちはついに禁獄に処せらたれが、当時一般から「謀叛人」と見える被告たちを弁護する星の堂々たる弁論は聴く者を驚かせた。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.327)


     これはのち話になるが、星はまた「相馬事件」の被告側の弁護人を買って出ている。 「相馬事件」とは相馬子爵家のお家騒動だが、一般の眼からはこれが草双紙のお家騒動さながらに、忠臣奸臣に色分けされて喧伝されたのに、あえて彼は奸臣側の弁護人になってその無実を説いたのである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.327)


     これらは弁護士として当然な行為だが、逆賊の味方、奸物の味方をするように見えて、民衆の好悪を逆なでして平気な面だましいは、彼を怪物視させるのにあずかって力があった。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.327)


     右のような弁護士行為ならまだしも、やはり怪物視されていた自由党後藤象二郎が、炭鉱をあてそこなって大借金をし、その債権者から依頼されて債権取立人となった星が、後藤を追いつめているうちに、ふいに後藤と握手して自由党に入党することになったのは、まことにたんげいすべからざる行動としかいいようがなかった。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.327)


     当時の自由党は、むろん現在の自民党とはまったくちがう政府に対して民権を主張するために結成された日本最初の政党であって、党首は板垣退助で、この板垣が古風な刺客から国賊視されて刺され、「板垣死すとも自由は死せずとか何とかさけんで倒れたというのが明治十五年のことである。 これは物語にしても、当時の国民の自由党観、また自由党の気概を知るべきである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.327)


     この自由党に、星は一陣笠として入党した。
     そのころの自由党は、矯激(きょうげき)な壮士の集団であって、それを実質上支配していたのは、壮士中の壮士ともいうべき大井憲太郎であった。 まったくの親分肌で、よく飲み、よく使った。乾分に頼み込まれると、羽織をぬいでも放り出すといった東洋風の豪傑であったから、乾分は集ったが、当然いつも金に困っていた。
     そこに星が入党したのである。後藤ほどの人間が「星君には多少の資産もあり」と保証して入党させたくらいだから−−実はそのころ代言人としてすでに相当儲けていたのであろう−−壮士たちはわっとこれにも集まった。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.328)


     むろん、金だけがめあてだ。 ところが、星はこれら餓狼に対して簡単に金をばらまかなかった。 たちまち星はケチだという噂がたった。 大井一派は冷笑した。
     しかも、このケチな星が、たちまち自由党の首領的存在となる。 星は、金の要求に対してその理由を問い、納得出来れば、要求以上に出すということがわかったからである。 その見積りの精密、成否の見込みの正確は党員を心服させ、いっぽう大風呂敷をひろげ、ただ無計算にばらまくだけの梁山泊(りょうざんぱく)的な大井憲太郎は、かえって真に頼むに足らずという印象に変って来たのである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.328)


     実に星は、金だけではなく、狂暴といってもいい自由党の壮士連の将に将たる不敵な男でもあった。
     自由民権の遊説で、政府を弾劾し、臨監の警部が「弁士中止」をさけんでも、平然としてとりあわず、かえって警官を愚弄した。 得意の法律を盾にとって、警察を金しばりにするのである。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.328〜329)


     実際に星の演説を聞いた自由党員伊藤痴遊はいう。
     「星の演説は決してうまいとはいえなかった。 けれどもよく人を傾聴させる演説であった。漢語もあまり使わず、英語もほとんど用いなかった俗談平語で、ジリジリと決めつけてゆく、という風の演説であったが、イギリスの法律学者であるから、議論のロジックはよく整って、識者が聞いても首肯出来るものであった。
     それに、悠々として演壇に現われ、テーブルのそばに立って、ジロリと満場を見わたすときに一種の威力を持っていて、我輩はこう考えるが、諸君は何と思うか、などいってニヤリとしたときの調子に何ともいえぬ凄味があった

    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.329)


     明治十七年五月新潟における星の演説は、日本の貴族制度に対しての論難激越をきわめ、ついに警察によって中止解散を命じられたのみならず、彼自身の出頭も命じられた。 これに対して星は自分が「従六位」の有位者だからと一蹴して、平気で次の演説地へ向った。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.329)


     当時の評に、「星の演説は、あたかも奇形の嘴(くちばし)を有する怪鳥が悪声をはなつがごとし。 その性格は猛獣の血液を混じたる人中の悪魔なり。……」云々とある。
     いよいよ恐怖した警察は、理も非もなく新発田(しばた)で星を逮捕し、「官吏侮辱罪」で六ヵ月監獄に放り込んでしまった。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.329)


     星が不信任案をつきつけられたのは、取引所問題にからむ収賄(しゅうわい)ということであったが、これは誤解であり、自分は潔白であると駁(ばく)し、
     「折角(せっかく)諸君の勧告でござりますけれど、星は疚(やま)しいところがござりませぬから、受けることはお断わり申しまする
     といって、不信任案が可決されても、悠然と議長席から動かなかった。
     そのあげく、ついに議員さえも除名されて衆議院から追放されるに至るのだが、数ヵ月後の総選挙にはまた当選して、平気で議場に姿を現わしている。 ために−−。
     「あれは星亨ではない。〔押し通る〕だ
     と、呆(あきれ)れかえった評を捧げられた。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.330〜331)


     その後彼は韓国に赴(おもむ)き、視察の結果、「韓国には日本の金と人が必要である」と現代の韓国ロビーのような意見を具陳したり、日清戦争に際しては、事前に三国干渉を予言したりしたが、明治二十九年駐米全権公使としてアメリカに赴いた。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.331)


     その在任中−−明治二十九年−−アメリカのハワイ併合問題が起ったが、このときの星公使の剛腹ぶりは戦慄的である。 彼は、当時ハワイ在留邦人がハワイ人につぎ、アメリカ人の四倍にも達することを指摘し、またこれがアメリカの有に帰せんか、「太平洋上における均整を失するに至りては帝国の決して遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)すべき秋(とき)にあらず」として、事前にハワイを占領すること外務省意見具陳をしている。 結局ハワイは日本に賠償金を支払ってアメリカのものになるのだが。−−星はその賠償金をとるためにこの強硬策を述べたものともいわれる。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.331)


     星公使の下にあった松井慶四郎書記官はのちにいう。
     「……容貌といい、言葉づかいといい、はたその態度といい、米国の交際社会の好評なきは当然なり。 しかるに君は米国の政治家よりたしかに人物なりと認められたり
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.331)


     そして明治三十一年夏、日本で最初の政党内閣いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立したと聞くと、彼は勝手に自分がその外相になるものと決めて帰国の途についた。 外務省は驚いて「帰国を許さず」と命じたが、彼は強引に帰って来て、横浜に出迎えた外務省の役人にニコリともせず、
     「電報はサンフランシスコで受け取ったが、まだ見ていないよ
     と、その電報をそこで開封して見せて、役人を唖然たらしめたという。
    (《明治バベルの塔 明治暗黒星》P.331〜332)


     右の製紙業や提灯屋は、いっときうまくゆくように見えたが、しかし槿花(きんか)一朝の夢であった。 やがてまもなくそれは潰れて、彼はもとの塾に引き籠(こも)らざるを得なくなった。 残ったのは、少なからぬ借財と、二人の妾だけである。 誠実さという点では疑えない想太郎は、妻と同様、妾が逃げ出さない以上、彼女たちを捨てることは出来なかった。
     女たちと、貧しさのあまりの諍(いさか)いを繰返しながら、彼はますます沈鬱な男になっていった。 ただ、毎日の慣習として木刀の何百回かの素振りをやりながら、彼は自分だけにいい聞かせた。
     「……いまに見ておれ、おれは兄に恥じない弟だということを思いしらせてやるぞ。 死ぬときだけは、世のため、人のため−−武士道のため、壮絶な死にようを見せてやるぞ!
    (《明治バベルの塔》P.335)


     明治三十四年六月二十一日、この日は東京市参事会の例会日であった。
     午後三時、会議の終った参事室では、星が松田市長や助役や参事会員などと談笑していた。 三時半ごろ給仕がやって来て、星に面会者がある旨を伝えた。 テーブルに左肘で頬杖ついていた星は、名刺を見てちょっと首をかしげ、眉をひそめ、「きょうは多忙だといってくれ」といった。
     そのとき、ほとんど給仕と踵(きびす)を接して一人の男がはいって来た。 黒絽(ろ)の紋付羽織に仙台平(ひら)の袴をはき、口髯を生やした長身の立派な顔をした男で、ゆったりと歩いて来て、星亨のそばに立つ。
     「天下の逆賊星……まだ悪を悔いぬか
     と、ほかの人間には聞こえない低い声でささやいた。
     星はけげんそうに見あげ、それから相手が袴のかげに持っているものを見て、がばと起って、
     「君は……退がれ
     と、大喝した。
     とたんにその男の袴のかげから電光のようにひらめき出したものが、星の右腹をつらぬいた。
     翌日の「読売新聞」にいう。
     「伊庭は、仕すましたりと、今まで事もなげに穏容をつくろいたる形相一変し、満面阿修羅のごとく怒髪逆立ち、眼光を炬のごとく血走らせ、ヒラリとふりあげたる一刀の血はすでにその鍔際までしたたるを見たる一座は、さてはと驚愕したる一刹那にに、伊庭は、天下の道のために奸賊を誅す、といいざま三度その左脇を刺し、なおあき足らずして半ば死したる星氏をひきずり寄せ、またもや三刀を加えたり。 この間わずかに十数秒時
     星が絶命したのを見ると、伊庭想太郎は立ち騒ぐ人々に、
     「あなたがたに危害を加えないから安心なさい
     と、神色自若としていった。
     「ただ、願わくば、拙者にここでみごとに割腹させていただきたい。……
     狂乱した人々は、あり合わせの器物を雨のように投げつけはじめ、それに打たれて血をながしながら、明治の剣客伊庭想太郎は、宙にだれかの幻を見るように眼をあげて、銅像のように立っていた。
    (《明治バベルの塔》P.338〜339)