[抜書き]『天狗争乱』


『天狗争乱』吉村昭・新潮文庫
平成九年七月一日 発行

     例幣使一行の旅は、沿道の各町村から金を得るための旅でもあった。
     その年の例幣使である今城定国(いまきさだくに)が、わずか百八十石の小身(しょうしん)であることでもあきらかなように、経済的にめぐまれぬ公卿が任命されていた。 例幣使は、日光東照宮金幣をそなえると、前年にそなえた金幣を神前から下げる。 この古い金幣をこまかくきざんで一つずつ奉書紙につつみ、表に東照権現(ごんげん)様御神体と記し、帰路、江戸の大名たちにくばって初穂料と称するかなりの額の金を受け取る。 また、天皇が正月に神前にそなえた米飯を乾燥させたものを、菊の紋のついた紙につつみ、それを京都から八万包も持ってきていた。 それを御供米(ごくまい)として宿泊料にしたり、住民に金銭と引きかえにわたしたりする。 その御供米を住民は薬として使い、また、疱瘡(ほうそう)(天然痘(てんねんとう))厄除(やくよ)にもなるとされていた。
    (《天狗争乱》P.7)


     このような多額の金を得るので、例幣使は、京都に帰ると、以前とは比較にならぬほど豊かな生活をすることができるのが常であった。
    (《天狗争乱》P.7)


     朝廷から派遣された例幣使は威厳のある存在とされていて、その権威を利用した随員たちは、さかんに金をかき集めることにつとめ、それは目にあまるものがあった
     かれらは、徴用された農民のかつぐ駕籠(かご)に乗ってゆくが、途中、駕籠をゆすり、
     「相談せんか、相談せんか
     と、農民に声をかける。 それは、金をよこせという意味の言葉であった。
     金をわたせばよいが、そうでない時には激しく駕籠をゆすり、わざと駕籠からころげ落ち、
     「無礼者。 このままではすまさぬぞ
     と、声を荒げておどす。
     村役人などが詫(わ)びを入れて金銭をわたし、ようやくその場をおさめる。 このようなことがしきりに起こったので、沿道の者たちは、随員一同にもれなく入魂(じっこん)と称する金を用意し、わたすのが習わしになっていた。
    (《天狗争乱》P.7〜8)


     例幣使一行は、例年、栃木町で昼食をすませた後、合戦場(かっせんば)(都賀町)、金崎楡木(にれぎ)の各宿場をすぎて鹿沼宿(鹿沼市)で宿泊する定めになっている。 しかし、途中の金崎宿には天狗勢の本隊がいて、このまま進めば衝突することが十分予想された。
    (《天狗争乱》P.15)


     五ツ半(午前九時)頃(ごろ)、家並が揺れた。 九年前の安政二年(一八五五)に多数の死者を出した江戸を中心とした大地震以来、この地方でも地震がしばしば起こり、人々を不安がらせていた。 家々から人が飛び出し、のおびえたように吠(ほ)える声も町の所々に起こった。
    (《天狗争乱》P.17)


     八ツ(午後二時)すぎ、町の北木戸口から一人の若い男が駈(か)けこんできて、町役人の家に走った。
     男は、町の北方にある平柳新田の名主の使いの者で、男の報告に町役人は顔色を失った。 あきらかに天狗勢と思える二百名ほどの武装した男たちが、隊列をくんで栃木町にむかって進んできているという。
    (《天狗争乱》P.17〜18)


     隊列は、街道を進んで南の木戸をぬけ、天明宿へ通じる街道を進んでゆく。
     天明宿にむかうのかと思えたが、隊列は街道を右折し、西への道を進みはじめた。 それは、町の西方一里余にある大平山(おおひらさん)(標高三四三メートル)に通じる道であった。 天狗勢が栃木町をはなれたのは、旅籠屋その他の宿泊施設が不足で、茶屋や宿屋の多くある大平山にむかったものと推測された。
    (《天狗争乱》P.20)


     ただし、全員が大平山にむかったのではなく、二十人近くが町に残った。 かれらは、小荷駄(こにだ)の長谷川荘七、服部平次とともに旅籠屋の吉田屋を宿所にきめた。小荷駄方とは、食糧その他を調達する役職で、天狗勢が町を物資補給地にすることをしめしていた。 町の者が推測したとおり、天狗勢は、町の宿泊収容能力が不足しているのを知って大平山にむかったのである。
    (《天狗争乱》P.20)


     やがて、四カ村の名主たちが相ついで吉田屋に姿をみせた。
     長谷川は、平伏した名主たちに、飲料水をはこぶ人足四十名を昼夜交替で出し、その人数割りは四カ村の石高に応じてするように申しわたした。 農作業に追われている時期で、そのような暇はなかったが、後難を恐れた名主たちは承諾した。
    (《天狗争乱》P.23)


     今日からただちに水運びをするように、という長谷川の命令に、名主たちは宿屋を出ると人数割りをして急いで村にもどった。 その日の昼過ぎには、早くも四十名の男たちが、水をみたした(おけ)を天秤棒(てんびんぼう)でかつぎ、大平山へのぼっていった。
    (《天狗争乱》P.23)


     これら尊攘派の藩士は、家格の低い家の出の者が多く徳川斉昭の藩政の大改革を推しすすめる原動力になったが、家格の高い藩士たちで構成された門閥派は、尊攘派と鋭く対立していた。 そのため斉昭によって門閥派の重役は家老職を追われるなどしたが、斉昭の死後、藩主慶篤のもとに集まって、その勢力をもりかえしていた。
    (《天狗争乱》P.28)


    このように、藩内は、門閥派尊攘派がいがみ合い、しかも尊攘派は激派鎮派に二分するという複雑な様相をしめしていた。
    (《天狗争乱》P.28)


     門閥派は、身分の低い尊攘派の者が急に鼻を高くして威張りちらすとして、蔑(さげす)みの意味をこめて天狗(てんぐ)と呼ぶようになった。 これに対して、激派は、天狗は義勇に通じるものだと言って、自ら天狗と称する傾きがあった。
    (《天狗争乱》P.28)


     激派の中心人物は、藤田小四郎であった。
     かれは、天保十三年(一八四二)に父東湖とその(めかけ)さきとの間に生まれ、さきが縁を切られた後、東湖の正妻里子に実子同様に育てられた
     尊皇攘夷論の思想を確立した東湖の子であるだけに、その影響を全面的にうけ、十二歳の折には父にともなわれて江戸に出て、茅野伊予之介のもとにあずけられた。 茅野は、後に安政の大獄で井伊大老によって死罪の刑に処せられた尊攘派の重要人物で、藤田は、かれから学問の講義をうけ、同じ尊攘派の吉成勇太郎から剣をまなんだ。
    (《天狗争乱》P.28)


     十四歳の折に、父東湖安政大地震で圧死し、藤田は、水戸藩内の加倉井砂山の日新塾(じゅく)に入門して洋式教練、銃砲射撃、数学、天文、地理学をまなんだ。 さらに水戸の藩校弘道館に入り、十九歳の折に起こった桜田門外の変に刺激されてその思想は尖鋭(せんえい)化し、尊皇攘夷の激派の一人とされるようになった。
    (《天狗争乱》P.28〜29)


     事実、その頃(ころ)の京都は、朝廷をはじめ集まってきている大名と諸藩の藩士の間で、尊皇攘夷の熱が最もたかまっていた時期であった
    (《天狗争乱》P.30)


     かれは、それら全国の尊皇攘夷論者が、その思想を具体化させるのに水戸藩に大きな期待を寄せているのを知り、水戸藩士であることに誇りを感じた。 それに、かれが藤田東湖の子であることを知った公卿(くげ)や諸藩の藩士たちが、自分を畏敬(いけい)の眼(め)でみることにも満足していた。
    (《天狗争乱》P.30)


     さらに、かれは、京都につく以前の一月二十七日に、画期的な会合が京都東山の翠紅館(すいこうかん)でもよおされたことを知り、尊皇攘夷が全国的な規模をもつものであるのをあらためて感じた。 その会合は、長州藩士の呼びかけによって水戸熊本土佐対馬津和野の藩士数十人が集まるという大規模なもので、長州藩の次の藩主になることがきまっていた毛利定広も臨席した。 長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)、松島剛蔵、熊本藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)、土佐藩士武市半平太ら諸藩の尊攘派の指導的立場にある者たちで、水戸藩からは梶清次衛門大胡聿蔵(だいごいつぞう)、下野隼次郎(しものはやじろう)ら十四名が出席した。
    (《天狗争乱》P.30)


     会合の目的は親睦(しんぼく)をはかるためとされていたが、その席で、状勢の変化に応じて水戸藩を中心に攘夷決行で結束することを申し合わせた。
    (《天狗争乱》P.30)


     この会合があったことを知った藤田は、さらに三年前の万延元年(一八六〇)七月二十二日、長州藩士桂小五郎(木戸孝允)、松島剛蔵と水戸藩士西丸帯刀岩間金平らとの間で、品川沖に停泊(ていはく)中の長州藩軍艦「丙辰丸」の艦内で「成破の盟」がむすばれたことも知った。 それは水戸藩の尊攘激派が、幕府要人や外国人を暗殺する「破」の役目をにない、長州藩がそれに乗じて幕政の改革をはかる「成」の役をはたすという盟約であった。
    (《天狗争乱》P.30〜31)


     朝廷が、上京してきた将軍家茂横浜港閉鎖をふくむ攘夷決行を強くせまり、幕府は五月十日を期限として実行にうつすと回答した。 それを知った藤田は喜び、一橋慶喜にしたがって京都をはなれて江戸に戻った。
    (《天狗争乱》P.31)


     しかし、将軍家茂が約束した五月十日の期限がきても幕府は攘夷決行に動く気配はなく、さらに八月十八日に京都に政変が起こって、その実行が危うくなったことを藤田は知った。
    (《天狗争乱》P.31)


     浪人たちは諒承(りょうしょう)し、大津村に行って旅館の清水屋朝左衛門宅に泊まり、遊女を呼び入れて酒を飲んですごした。
    (《天狗争乱》P.35)


     これは金を奪うことに失敗した例だが、偽天狗党の者たちの脅迫にあって、多くの商人や豪農が多額の金をかすめ取られた。
     水戸の尊攘激派は、自分たちと偽天狗党の者を区別することに力をつくした。
    (《天狗争乱》P.35)


     筑波山の麓(ふもと)にある筑波村(つくば市)は、これら天狗党を名乗る無頼の徒によって被害が度かさなったので、町役人が激派のもとにおもむいて取りしまってくれるよう頼んだ。 承諾した激派千種太郎らがすぐにやってきて、偽天狗党の者たちを威嚇(いかく)する立て札を立てた。 その立て札には、天下の浪人や盗賊が天狗党の偽名を使ってしきりに押し借りゆすりをしているときくが、「(われら尊皇攘夷(じょうい)の激派の内にては乱暴狼藉(ろうぜき)等致候(そうろう)者一人も無(これなく)」と書き、さらに、これら偽天狗党の者は、水戸藩とわれら尊攘派の名誉をけがしているので、「(これらの者を見付次第天誅(てんちゅう)を加えるもの也(なり)」と、記されていた。
    (《天狗争乱》P.35〜36)


     しかし、一般民衆は、天狗党と偽天狗党の区別が次第につかなくなり、天狗というだけで恐怖心をいだくようになった
    (《天狗争乱》P.36)


     山田の泊まる旅館に行った七兵衛と三人の代理人に、山田は、
     「こちらから下妻に出向いてゆかなかったのは、天狗党をかたる浪人どもとまちがえられては当方も迷惑だからである。 その方たちからすすんで金を出してもらいたいと思い、この町に来てもらったのだ
     と、おだやかな口調で言った
     ついて、開港した横浜で外国の商人たちが木綿類をしきりに買いあさるので、品不足から価格が暴騰(ぼうとう)して庶民は苦しんでいる。 さらに農民たちが、高い価格で売れる木綿類の原料の棉花(めんか)を栽培する傾向が増し、米をはじめとした穀物を作らぬのでその価格も上昇しているこのような物価高騰は異国人がいるからで、私たちはかれらを追いはらうつもりであると述べた
     「それで、われらは、人民のために命をかけて異国人どもを打ち果たす所存である故(ゆえ)、その方どもは二枚着る着物を一枚にして、出来るだけ多くの軍用金を差し出して欲しい
     山田の言葉に、七兵衛たちは困惑し、口をつぐんで視線を落としていた。
     「差し出すのか、差し出さぬのか
     突然、山田が、大声をあげた
     七兵衛たちは身をあるわせ、頭をさらにさげた。
     柏屋長兵衛の代理人である瀬兵衛が、
     「お話のおもむき、もっともでございます。 私は長兵衛の分家の者で、長兵衛が眼(め)をわずらい、医者に行って留守をしておりましたところ、すぐに出頭せよという御命令でございましたので、私が代理として参上いたしました
     と、述べた。
     瀬兵衛は、顔に冷や汗をうかべ、
     「御用向きはよくわかりましたが、少しの間御猶予(ごゆうよ)をいただけませんでしょうか。 帰りまして親類の者どもとも相談の上、献納金を差し出すようにいたします。 なにとぞ、ご猶予を……
     と言って、平伏した。
     七兵衛と他の代理人も、瀬兵衛にならって額を畳にすりつけた。
     山田が、再び大きな声をあげた
     「その方どもの住む下妻までは、何里ある?
     「三里(十二キロ)でございます
     と、答えた。
     山田は、声を荒らげた
     「下妻に帰るのに三里、ここにもどってくるのに三里。 それでも明早朝までに返答できると申すのか。 瀬兵衛はここにとどめおき、長兵衛のもとにはこちらから十人ほど差し向ける
     十人の天狗勢が下妻に押しかけるという山田の言葉に、付き添いの七兵衛が身をふるわせ、
     「おいで下さらなくとも、まちがいなく軍用金を差し出します
     と、答えた。
     「よし、それでは瀬兵衛以外の者は、そうそうに下妻にもどれ
     山田が言うと、七兵衛たちは頭を深くさげ、部屋を出て行った。
     瀬兵衛は、一室に監視つきでとどめられていたが、呼ばれて山田の部屋へ行った。
     山田は、
     「天満屋与之右衛門、潮田孫左衛門、柏屋長兵衛にそれぞれ七百両ずつ、明早朝までに持参するよう手紙を書け。 飛脚に手紙を届けさせる
     と、言った
     やむなく瀬兵衛は、その場で手紙を書いて山田にわたし、再び監視つきの部屋にもどされた。
    (《天狗争乱》P.41〜44)


     飛脚から手紙を受け取った天満屋予之右衛門ら三人は、余りの大金に驚き、下妻陣屋に行って役人に仲介に立ってくれるよう頼んだ。 役人は、渋々とそれを引き受け、山田のもとに行って交渉した末、一人百両ずつということで決着がつき、三百両が山田のもとにとどけられた。
     監禁されていた瀬兵衛は、大胆にも山田に、本家の柏屋長兵衛にとって百両は身をけずられるような大金だと訴え、その嘆きに山田は二十両を瀬兵衛に返した。 瀬兵衛は、それを手に下妻へもどっていった。
    (《天狗争乱》P.44)


     山田は、たちまちのうちに千七百八十両の金を手にした。 さらにかれは、水海道村の十二人の商人から計七百三十両、栗原村(つくば市)の商人と農民九人から百六十両、大園木村(千代川村)の商人二人に五両と三両を差し出させた。
     その間、挙兵を知って筑波山にのぼってくる者が増し、わずか数日間に挙兵時の倍以上にふくれあがっていた
    (《天狗争乱》P.45)


     藤田小四郎は、軍議の折に、
     「われらの挙兵を知った幕府は、当然のことながら追討の兵をむけてくるだろう。 日光の東照宮に行って攘夷の先鋒になることを祈願すれば、幕府も東照宮には兵をむけることはないはずだ
     と、発言した。
    (《天狗争乱》P.45)


     宇都宮藩は、攘夷派が強い勢力を持っていることで知られていたが、それは藩士の教育にあたった儒者の大橋訥庵(とつあん)の影響によるものであった。 大橋は、江戸の日本橋に思誠塾(じゅく)をひらき、書物も刊行して尊皇攘夷(じょうい)論を強く唱えた。 かれは、安政の大獄で死罪に処せられた頼三樹三郎の遺体が放置されているのを悲しみ、ひそかに塾生をつれて小塚原(こづかっぱら)におもむき、遺体を洗って衣服をつけさせ、回向院(えこういん)の墓地に埋葬した。
    (《天狗争乱》P.45〜46)


     教育者でもある大橋は行動家でもあって、老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変の計画を強く支援し、その斬奸(ざんかん)趣意書も書いた。 また、宇都宮藩士岡田信吾らが一橋慶喜を擁して日光で兵を挙げる計画にもくわわり、慶喜に渡す書状を書いたが、それが発覚して捕えられた。 その後、かれは宇都宮藩あずけとなって病死した。 遺体の顔がどす黒く変わっていたので、毒殺されたという噂(うわさ)がもっぱらであった。
     大橋は死去したが、かれの影響力は深く藩士たちの間にしみわたり、行動的な尊皇攘夷論者が多数いたのである。
    (《天狗争乱》P.46)


     県は、落ち着きを失った。宇都宮藩は、幕府の命令をうけて日光東照宮の警備を担当し、現在も藩兵が出張している。 そのような立場にある藩が、天狗勢の日光行きを知りながら傍観すれば、幕府に責任をきびしく追及されることになる。
     県は、苦慮した末、日光奉行に天狗勢日光におもむくことをつたえておくべきだと考え、奉行あてに書状を書き、使者を馬で走らせた。
    (《天狗争乱》P.51〜52)


     かれは、東照宮警備にあたっている宇都宮藩の藩兵に厳重警戒を指令すると同時に、館林藩にも出兵を要請し、さらに領内の猟師農民に至急集まるよう命令した。
    (《天狗争乱》P.52)


     日光についたは、小倉に会い、天狗勢の参拝を許可するようにもとめた。 しかし、小倉はこれを拒否し、二人の間で激論がつづき、結局、参拝は少人数にかぎるということで妥結した。
    (《天狗争乱》P.52〜53)


     八日に日光に近い今市宿に天狗勢が到着したので、県は今市宿に引きかえし、藤田に会って、小倉との話し合いの結果をつたえ、藤田は、一応諒承した。 しかし、天狗勢の真意は、日光を占拠することにあり、翌日、東照宮の警備状況をさぐることを胸に秘めて藤田ら十二人が参拝することになった。 すでに東照宮には、宇都宮、館林両藩兵と領内の猟師農民千三百人余が警備態勢をしいていた。
    (《天狗争乱》P.53)


     山国は、田丸と藤田に眼をむけ、
     「私も再びこの大平山に参ったわけだが、兵学をまなんだ者として感じていることを言う
     と、言った。
     田丸は、山国の顔を見つめた。
     「ここに集まってきている四百名の者たちが、同じ志を持つ情熱の士たちであることはまちがいあるまい。 ただし、水戸藩の者だけであるならよいが、各藩の脱藩士、それに神官医者郷士農民ら数多く集まり、いわば面識もない者の集まりとも言ってよいだろう
     山国の言葉に、田丸たちはうなずいた。
     「藤田は統制が乱れがちであることを憂慮していると言ったが、それが最も恐ろしい。 烏合(うごう)の衆であっては、期する目的も果せない。 これらの者を一つに強くひきつけまとめるには、扇にたとえれば強靭な(きょうじん)な要(かなめ)が必要だ
    (《天狗争乱》P.62〜63)


     田丸は、
     「大平山をおりるにしても、山麓(さんろく)の村々に迷惑をかけたまま去るわけにはゆかぬ。軍として行動する上で最も必要なのは、庶民の支持だ。 軍用金や食糧その他の調達と人足の徴用に反感をいだいている者が多いはずだ。 それらの者たちの反感をやわらげ、われらに好意をいだくようにさせねばならぬ
     と言って、村々の貧しい者にお救い金を、また、桶(おけ)で水を大平山にはこびあげた農民たちに酒代をわたすことを提案した
    (《天狗争乱》P.68)


     田丸の提案に、一同は賛成し、ただちに実行に移すことになった。
     五月二十三日、田丸の命をうけた軍監川俣茂七郎栗田源左衛門が、大平山麓の山田下皆川平井薗部川連志島皆川城内大皆川泉川新井の各村の名主を、大平山の本営運祥院に呼び寄せた。 川俣と栗田は、田丸の命令によってお救い金をあたえることをつたえ、夫を病などで失った後家と孤児、それに生活困窮者を救済の対象にする。と告げた。 喜んだ名主たちはそれそせれ村にもどって該当する者の名簿を作って提出し、それに対して計三百二十両一分二朱がわたされた。
    (《天狗争乱》P.68)


     また、飲料水を大平山にはこびあげることに従事した農民たちに対しても、酒代として計五十両二分が支払われ、さらに今後の労賃は、その日に支給されることもつたえた。
    (《天狗争乱》P.68)


     この思いがけぬ処置は、村々の者たちを驚かせた。 これまでは要求のみをしてきた天狗勢が、一転して恩情をしめしたことをいぶかしんだ。
    (《天狗争乱》P.69)


     村々の者たちは、天狗勢がこのような配慮をしたのは、大平山からおりる前兆だろうとささやき合い、中には下山して宇都宮を攻めるにちがいない、と言う者もいた。
    (《天狗争乱》P.69)


     五月下旬になると、栃木町にその噂(うわさ)を裏づける天狗勢のあわただしい動きがみられた。 深夜だというのに、人足が町の中の街道を通過して、大平山にむかう、その数は人足五十人五十頭に達した。
    (《天狗争乱》P.69)


     五月末日の朝、天狗勢の輜重奉行長谷川荘七から町役人に対して、今夜、天狗勢が大平山をおりて栃木町に泊まるから、町の主だった者は裃(かみしも)姿で出むかえるように、という指示がつたえられた。 その日は、夜明け前から小雨が降っていたが、五ツ(午前八時)すぎにはやんだ。
    (《天狗争乱》P.69)


     稲葉重左衛門、沼尾孫左衛門、宮杉縫右衛門が年番裃役であったので、かれらは町役人たちを指図して、四百余人という天狗勢を分宿させる宿所の割り当てをした。 町の中にある定願寺、近龍寺をはじめ宿屋、町家が宿所に指定され、それらの建物や道路が清掃された。 湿度が高く、蒸し暑い日であった。
    (《天狗争乱》P.69)


     重左衛門たちは、釜屋彦左衛門方にいったん集まった後、連れ立って町の南口木戸がある巴波(うずま)川にかかった木橋のたもとまで行き、天狗勢の到着を待った。
    (《天狗争乱》P.69)


     重左衛門たちは、木戸のかたわらに敷いた(むしろ)の上に座(すわ)った。
     行列は、武者絵巻を眼(め)にするような華麗なものであった。(やり)や鉄砲を手にした者がつづき、騎馬が蹄(ひづめ)を鳴らせてすぎる。 多くの鎧櫃(よろいびつ)や具足櫃がかつがれ、先頭には華やかな馬印がかかげられていた。
     金幣をしめす馬印の後に、馬にまたがった陣羽織をつけた藤田小四郎が進み、その後方に、
     「下にい、下にい
     という声とともに、徳川斉昭の位牌(いはい)をおさめた神輿(みこし)が、白装束の者によってかつがれていた。 その後から、総裁田丸稲之衛門の乗る豪華な引き戸駕籠(かご)が八人の者にかつがれてゆく。
     当時の記録に、「(その行列は)美々敷驚(びびしくめをおどろかし)」とあり、「殊之外(ことのほか)立派ニ御座候(そうろう)」とも記されている。
    (《天狗争乱》P.70)


     田中は、かれらに、
     「なんのとがもない娘を斬ったことは、部下の過失とは言え、まことに申し訳ない。 親の住吉屋勘兵衛に弔慰金を出して、それで我慢をしてもらいたいのだが、勘兵衛が我慢ならぬと言うのなら、どのような意向であるか、きいて欲しい
     と、言った。
     組合の者たちは、
     「意向をたしかめまして……
     と答え、田中の前をさがった。
     住吉屋にもどった組合の者たちからその話をはいた勘兵衛は、歯ぎしりし肩をふるわせて涙を流した。 組合の者をはじめ親戚(しんせき)の者たちは、田中の言う通りにしない場合は思いがけぬ災いがふりかかる、と必死になって勘兵衛をさとした。
     一同そろっての説得に、頭をはげしくふりつづけていた勘兵衛はようやくうなずき、弔慰金を受け取ってこの件を落着させることに同意した。 組合の者たちは、押田屋に行ってそれを田中につたえ、弔慰金百五十両を住吉屋にもどり、勘兵衛にわたした。
     殺された男は二十七歳であったが、この男については、無礼な行為をはたらいたために刺殺したということで、田中側は無視の態度をとった。
    (《天狗争乱》P.88)


     夜がふけ、隊員たちの騒ぐ声も絶えて町には深い静寂がひろがった。 町は闇(やみ)につつまれたが、町の者たちは恐怖で眠れず、家の中で息をひそめていた。
     深夜の八ツ半(三時)頃、突然、町の静寂がやぶれた。 隊員たちが、宿所を出ると、富裕な家の戸を荒々しくたたきまわり、出てきた当主に刀を突きつけ、万藤(まんとう)に百両、山崎百五十両、日野屋三百両、岡田二千両、麻茂千両、淀川百五十両の軍用金を差し出すようおどし、一人一人氏名と金額を書きとめた。 そして、それらの者に、田中愿蔵の宿所である押田屋に出頭するように命じた。
     万藤らは、連れ立って押田屋に出向いた。
     田中の前に平伏したかれらに、主だった隊員が、
     「申しわたした軍用金を差し出さぬ折には、一命をもらいうける。 とりあえず、その方どもで千両の金をまとめ、ただちに上納せよ
     と、怒声に近い声で言った。
    (《天狗争乱》P.88〜89)


     天狗勢が挙兵した折、朝廷内部に根強い勢力をもっていた長州藩はこれを支援し、徳川斉昭の子の岡山、鳥取両藩主も積極的に支持した。 幕府内でも天狗勢の挙兵目的に理解をしめす空気もあった。 しかし。京都で攘夷(じょうい)に批判的な公武合体派による政変が起こって、長州藩を中心とする尊皇攘夷派が駆逐され、岡山、鳥取両藩主の進言も取りあげられる可能性も薄らいでいた。
    (《天狗争乱》P.124)


     京都にまねかれて攘夷、つまり横浜港の閉鎖実行を約束させられた将軍家茂は、五月二十日に江戸に戻ると、天狗勢に対する態度を決定した。横浜港閉鎖の意志がない幕府は、それよりも、当面の問題である挙兵した天狗勢の鎮圧を優先することにきめたのだ。
    (《天狗争乱》P.124)


     幕府は、天狗勢が筑波山で挙兵した直後の四月二日に、水戸藩の家老に対して天狗勢を水戸藩領にもどらせるよう命じた藩主慶篤が、将軍家茂が京都へ行っている留守を託されているというのに、水戸藩士らによる挙兵などという物騒な行動を起こしたことは好ましくない、と判断したのである。
    (《天狗争乱》P.125)


     これに対して、横浜港の閉鎖を強く主張していた慶篤は、その閉鎖を実行さえすれば、天狗勢も目的を達したとして自動的に解散すると反論し、閉鎖実行をせまった。
    (《天狗争乱》P.125)


     その後、天狗勢の軍用金調達偽(にせ)天狗党による金品の略奪(りゃくだつ)等がつたえられ、幕府は、天狗勢の鎮撫(ちんぶ)にいっこうに努力することのない水戸藩に対して苛立(いらだ)った。 その結果、四月七日には、関東諸藩に対して警備をきびしくし、やむを得ない時には武力で天狗勢を鎮圧すべし、という通達を発した。
    (《天狗争乱》P.125)


     大将田丸稲之衛門は、京都にいる禁裏守衛総督一橋慶喜をはじめ、岡山、鳥取両藩主、さらには老中板倉勝静(松山藩主)に書を呈して、挙兵の意図をうったえ、すみやかに攘夷決行の命令を下すようもとめた。 また、天狗勢は、初めの頃は庶民から軍用金を集めていたが、宇都宮藩をはじめ関東諸藩に対して、武力行使をほのめかして強硬に協調するよう要求することを繰りかえしたので、その存在が幕府をおびやかすものとして考えられるようになった。 つまり、天狗勢の動きは、全国的な規模を目ざす軍事行動と判断されたのである
    (《天狗争乱》P.125)


     五月十一日には、幕府に忠誠をちかう桑名藩高野一郎左衛門が、会津藩士とともに老中板倉勝静に面会をもとめ、天狗勢が長州藩と呼応して事を挙げようとしている、と強く警告し、板倉はこれに同調した。天狗勢は、まず関東諸藩と提携し、全国の尊皇攘夷論者、ことに長州藩、さらには鳥取、岡山両藩と呼応して攘夷決行の争乱をまき起こし、幕府の存在を危うくするものと推断された
    (《天狗争乱》P.125〜126)


     幕府の内部では、天狗勢の挙兵によって朝廷と約束した横浜港閉鎖の実行を推しすすめようという意見と、挙兵と閉鎖を切りはなし、治安を守るために天狗勢を鎮圧するのが先決だという意見が鋭く対立した。 その結果、横浜港の閉鎖を実行するにしても、それが天狗勢挙兵によるものとされては、幕府の威信にかかわり、閉鎖を実行するためには、天狗勢を討つことが不可欠だという意見が大勢を占めた。
    (《天狗争乱》P.126)


     五月二十日、将軍家茂が京都から江戸にもどると、幕府は、天狗勢を鎮圧するための動きに出て、老中板倉勝静水戸藩家老を呼び出した。
     板倉は、水戸藩家老に対し、
     「天狗勢の挙兵は、水戸前藩主斉昭殿の遺志を現藩主慶篤殿がつぐことができないとあなどった不届きな行為である。 かれらは軍用金と称して押し借りゆすり同様のことをしている。 攘夷のためというならば、軍律をまきまえているはずだが、暴徒同然で、これでは水戸藩の恥辱であろう。 一刻も早く鎮圧するように
     と、きびしい口調でつたえた。
    (《天狗争乱》P.126)


     また、老中牧野忠恭(長岡藩主)は、関東諸藩に、
     「金銭の押し借りゆすりをする者が、たとえ水戸藩の者と名乗っても召し捕り、抵抗した場合は殺してもよい」
     と、命じた。
     この幕命は、水戸藩の内部に大きな変化をもたらした。五月二十八日、藩主慶篤は、天狗勢と思想の一致した尊攘派の家老武田耕雲斎、目付山国兵部らを罷免(ひめん)し、それに代わって尊攘派と激しく対立している市川三左衛門らの門閥派を要職に復帰させたのである
     また、天狗勢に同調する動きもみられていた宇都宮藩ほか関東諸藩も、一様に天狗勢と対決する姿勢をかためた。
    (《天狗争乱》P.126〜127)


     道のいたる所に篝火(かがりび)がたかれ、多くの兵が鉄砲、槍を手に警備にあたった。 空には冴(さ)えた星の光が散っていた。
    (《天狗争乱》P.136)


     七月七日の夜明けをむかえ、下妻の家並みからは炊煙がしきりだった。 幕府軍二千五百余名と水戸藩兵二百五十余名の朝食をととのえるため、下妻の宿場の者は、総出飯をたき漬物(つけもの)をきざんだ。
     全軍が朝食を終え、持ってゆく昼食用の握り飯もくばられ、筑波山にむかって進撃する支度がととのった。
    (《天狗争乱》P.136)


     その時、見張りの者が本営に走りこむと、下妻の北にある大宝(だいほう)村に偵察(ていさつ)らしき二名の者が馬を走らせている、と注進した。 それは、天狗勢の参謀飯田軍蔵斥候(せっこう)の梅村真一郎であった。 飯田は、下妻に近い木戸村の名主の子として生まれ、名主役にもついていたことがあって、下妻をはじめ付近の地理にくわしく、斥候の梅村とともに偵察に来たのである。
    (《天狗争乱》P.136〜137)


     十町(一キロ)ほど退いた追討軍は、道の曲がり角の藪(やぶ)のかげに陣をしき、三挺(ちょう)の車台つき大砲をすえた。
     天狗勢は、大砲四挺をひいて追い、これに追討軍は砲撃をくわえ、天狗勢の砲も応じた。 たがいの鉄砲で撃ち合い、銃声がとどろき、白煙があたりにみちた。 この鉄砲について、追討軍側の「中山氏見聞記」には、
     「(ただ)鉄砲の烟(けむり)を目当に打候而巳(そうろうのみ) 敵(天狗勢)の様子は不相分
     とあり、また、天狗勢から筑波山の本営への注進状にも、
     「互ニ争ヒ候得トモ相互ニ的中無
     と記されていて、相手方の兵を殺傷するにはいたらなかった。
    (《天狗争乱》P.138〜139)


     田丸の意見に反論する者はなく、筑波山引きあげが決定した。
     その席で、幕府に横浜港閉鎖をふくむ攘夷(じょうい)決行をうながすため、土浦藩に幕府へはたらきかけてもらうことも決議された。 土浦藩主土屋寅直(とらなお)は、かねてから攘夷を決行すべきだという意見をいだいていることが知られていたからであった。
     これについては、根本新平須藤敬之進が担当し、交流のあった土浦藩士五十嵐儀一藤田十五郎に書簡を送って要請した。
    (《天狗争乱》P.151〜152)


     その間に、筑波山に立てこもる天狗勢の内部では、思いがけぬ変化が生じていた。 それは、水戸からの情報がつたえられたことによるものであった。 下妻から敗走した門閥派の中心人物市川三左衛門は、七月二十三日に門閥派の水戸藩兵とともに水戸に入ると同時に、城下町にひそむ過激な尊皇攘夷派の二十五名をとらえ、弾圧をくわえはじめたという。
     この情報は、天狗勢の水戸藩士や藩領出身の者たちに大きな動揺をあたえた。 かれらは、同志の身を案じ、残してきた家族に市川が危惧をくわえることを恐れた。
     ただちに評議がひらかれ、七月十日の軍議で決定したとおり、海岸から船を仕立てて横浜に攻め入るか、それとも水戸にいる同志と自分たちの家族を救うため水戸におもむいて市川と戦うか、いずれの道をとるかについて討議がおこなわれた。
    (《天狗争乱》P.152〜153)


     老いた兵が、
     「船乗りだと言っているのになぜ疑う。それなら身につけたものをしらべてみたらどうか
     と、声をかけた。
     「よし。 しらべてやる
     若い兵が、ひざまずいて身をふるわせている水主(ふところ)に荒々しく手を突き入れた。
     つかみ出したのは、守り袋であった。 袋の中には、宮古の神社の守り札が入っていて、他の者の懐にも同じようなものが入っていた。 それでも兵たちが疑わしそうな眼(め)をしているので、老いた兵が、
     「それならば、この者どもの(ふんどし)をおしらべなさい。敵の武士ならばもっこ褌、船乗りならば六尺褌だ
     と、言った。もっこ褌とは、布の前と後ろを縫いつけてそこに紐(ひも)を通し結ぶようにしたもので、形が物をはこぶもっこに似ていることからそのように名づけられたのである
     兵たちに槍を突きつけられた水主たちは、ふるえる手で着物の帯をとき、褌をみせた。 いずれも白い布でつくった六尺褌であった。
    (《天狗争乱》P.192)


     そこに見事な鎧(よろい)に鍬形(くわがた)の兜(かぶと)をつけた武士がやってきて、
     「その方どもは船乗りか。 船の中に(かん)(門閥派)武士(ぶし)はおらぬだろうな
     と、水主たちに言った。
     水主の幸治郎が、
     「かぼちゃは沢山積んであります
     と、声をふるわせて答えた。
     武士は、
     「かぼちゃではない。 奸武士かんぶしだ、敵のことだ
     と、言って笑い、兵たちも声をあげて笑った。
    (《天狗争乱》P.192〜193)


     頼徳は、思いもかけぬ窮地に立たされていた。 水戸藩の支藩の宍戸藩主ということで慶篤の求めをいれて水戸にむかったが、門閥派の兵と戦闘をまじえる破目におちいり、さらに幕府から危険視され、江戸の水戸藩邸の者たちからも冷たい眼をそそがれることになっていたのである。
    (《天狗争乱》P.198)


     頼徳は、思いもかけぬ窮地に立たされていた。水戸藩の支藩の宍戸藩主ということで慶篤の求めをいれて水戸にむかったが、門閥派の兵と戦闘をまじえる破目におちいり、さらに幕府から危険視され、江戸の水戸藩邸の者たちからも冷たい眼をそそがれることになっていたのである。
    (《天狗争乱》P.198)


     三木が江戸の水戸藩邸に入った日、幕府は、頼徳の父である前宍戸藩主松平頼位(よりたか)に対し、
     「容易ならざる事共(ことども)に関係致し
     として、一生、一室にとじこもって謹慎する永蟄居(えいちっきょ)を申しわたした容易ならざる事共に関係致し……とは、子の頼徳が、かえって事態を紛糾させたのは許しがたいこととして、頼徳に連座する意味で頼位を罰したのである。
    (《天狗争乱》P.198〜199)


     門閥派の市川は、二十日に水戸の西方十三里(五十一キロ)の結城に大軍を集結した追討軍田沼に、
     「水戸城下の神勢館に、松平頼徳天狗勢をひきつれて入り、城は危うい。 一刻も早く賊徒追討のため御来援を……
     という書状を急使に託して送った。
     その後、市川は、ひんぱんに支援要請の書状を田沼のものとに送り、そのはげしさは「急使織るが如(ごと)し」であった。
     第一の目的である筑波山の占領をはたした追討軍は、頼徳が天狗勢をひきつれ……という市川の事実とは異なる訴えを信じ、評議の結果、水戸に支援の兵を送ることに決定した。
    (《天狗争乱》P.208)


     門閥派は、天狗勢に対抗して自衛のために各地で組織された農民たちに動員をかけていたので、それに応じた農民たちがぞくぞくと城に集まってきていた。 代表的なものは、鯉淵村(内原町)を中心に周辺の数十カ村の農民によって組織された鯉淵勢と称されている集団であった。 かれらの天狗勢に対する反抗姿勢は強く、門閥派の傘下(さんか)に入ったのである。
    (《天狗争乱》P.209〜210)


     鯉淵勢は、農民二千六百名で編成され、竹槍(たけやり)を手にして天狗勢の分派とはげしく戦い、その戦闘力は高く評価され、門閥派から鉄砲を支給されるまでになっていた。農民の集団というより、農兵隊として門閥派の有力な戦力となっていたのである。
    (《天狗争乱》P.210)


     水戸城に入った鯉淵勢は、鯉淵村から百八十余名、近隣の村々から七百余名で、白だすき白鉢巻(はちま)きをしめていた。 かれらは血気さかんな者ばかりで、それまで農耕に従事していた身が、刀をおび槍をもち、さらに銃まであたえられて藩兵同様の扱いをうけていることに大きな喜びを感じていた。 しかも、これまで天狗勢の分派と戦い、敗走させたこともあって、戦(いくさ)をすることに強い興味をいだいていた。 鯉淵勢の参加は、門閥派の城兵を力づけた。
    (《天狗争乱》P.210)


     頼徳の水戸城入城をあっせんしようとした渡辺半介は、頼徳と敵対する意志はなかった。 門閥派にも嫌悪(けんお)をいだいていたかれは、前日に戦闘が開始されてからも、どちら側につくか迷い、傍観の姿勢をとりつづけていた。 しかし、この日、自分の立場を考え、門閥派の側につくことを決意して頼徳軍に対し戦闘行為に入った。
    (《天狗争乱》P.210)


     頼徳軍は全員、枝川村の岸に集結し、川ぞいに那珂湊方向へ動き出した。
     夜が明けはじめていた。
     門閥軍は、その日も早朝から神勢館にむけて砲撃を開始した。 小雨が落ちてきた。 砲声がいんいんととどろいたが、頼徳軍からの砲声は絶え、森閑としている。 神勢館は雨霧でかすみ、その中につらなるがかすかにみえるだけであった。
     門閥軍は、頼徳軍から発砲しないことをなにかの策略と考え、兵を進ませることはせず、砲撃をつづけていた。
     ようやく不審に思った門閥軍は、神勢館方向に斥候(せっこう)を出した。 斥候がもどってきたのは九ツ(正午)すぎで、各陣所はもとより神勢館とその周辺に人馬はいないと報告した。 これによって頼徳軍が全員撤収したことを知り、門閥軍は館の柵内(さくない)に入った。 そこには、燃えつきた篝火があるだけであった。
    (《天狗争乱》P.214〜215)


     城から多くの槍、鉄砲を手にした城兵が出てきて、数隊にわかれて家並みの中を進んだ。  かれらの行き先は、頼徳軍にくわわっている武田耕雲斎山国兵部、天狗勢の田丸稲之衛門斎藤左次衛門田中愿蔵の家で、市川三左衛門は、それらの家族の召し捕りを命じたのだ
    (《天狗争乱》P.215)


     城兵たちは、武田らの家を取りかこみ踏み込んで荒々しく家族に縄(なわ)をかけ道を引き立てて赤沼町(水戸市)の獄舎に投じた
    (《天狗争乱》P.216)


     市川ら門閥派尊攘(そんじょう)派との対立は古く、一方が他方を潰滅(かいめつ)させて藩政の要職を占めると、やがて巻きかえしに出て追いはらうことの繰りかえしであった。 そのため、たがいの憎悪は激烈で、藩政の権力をにぎった市川らは、武田耕雲斎らを賊徒として乳呑(ちの)み子(ご)をふくむ家族たちを牢(ろう)に投じたのである
    (《天狗争乱》P.217)


     獄舎の環境はきわめて悪く、あたえられる食物も劣悪で、病にかかれば治療もくわえられず死をむかえなければならない。 これらの者たちを投獄したことは、死を強(し)いることと同じであった。
    (《天狗争乱》P.217)


     田中は、立つと小屋の入り口に行き、蓆の間から外をうかがい、裏手の沢に行って顔を洗い、水を飲んだ。 周囲の樹葉は鮮やかに紅葉し、山肌(やまはだ)には淡い霧が流れていた。
     小屋の中にもどった田中は、伝兵衛が雑炊を入れてくれた椀を受け取り、すすった。
     「私の名は知っているであろう
     田中は、伝兵衛に顔をむけた。
     「へい、知っております
     「なぜ、逃げぬ
     少し黙っていた伝兵衛は、
     「ここは私の小屋ですから……
     と、答えた。
     田中は、かすかに笑い、
     「そうか。 たしかに自分の小屋から逃げ出す必要はないな。 私が出てゆかねばならぬ立場だ
     と、つぶやくように言った。
    (《天狗争乱》P.246〜247)


     八溝山を下山した田中隊の者たちは、悲惨な運命をたどった。 かれらは、空腹と冷気で足もとをふらつかせながら、一人または数人で山をくだった。 山麓には、幕命をうけた各藩が、要所要所に番所をもうけて見張り、農兵猟師を動員して待ちうけていた。
    (《天狗争乱》P.250)


     地理も知らずさ迷うかれらを目撃した村民は、番所に走って通報し、藩兵が農兵たちをひきつれてこれを追いまわし、捕らえる。 食物をもとめて人家に入った隊員にその家の者が食事をさせている間に、家族が家をぬけ出して番所に走る。 また、かくまうと偽りを言って土蔵に入れ、扉(とびら)をしめてとじこめる村民もいた。
    (《天狗争乱》P.250)


     また、地方の記録に散見している捕縛者は百五十六名で、それをくわえると三百二十八名になる。 隊員は三百余名なので、隊に雇用されていて捕らえられた人足が加算されたものと推定される。 これらのほとんどが、斬首の刑に処せられた。
    (《天狗争乱》P.251)


     捕らえられ処刑された者の中には十代の者が多く、棚倉藩の記録に、伊王野付近で捕らえられた大河内仙次郎と蔀幼君、竹松の名がみられ、いずれも十三歳と記されている。最年長は庄内浪人萩野栄吉四十八歳であった。
    (《天狗争乱》P.251)


     かれらの出身地は、奥州越後仙台羽州常州上総下総江戸野州上州尾張薩摩と多方面にわたっている。 職業も農民をはじめ僧侶(そうりょ)、髪結い大工などまちまちで、むろん脱藩士もいる。
    (《天狗争乱》P.251)


     九月二十六日朝、頼徳は、鳥居らを連れて那珂湊をはなれ、南への道をたどった。戸田の指示によって、途中、頼徳は幕府軍に妨害されることもなく夏海村の幕営におもむき、鳥居大久保とともに戸田に会った。
     戸田は、明日、江戸へ共に出発し、江戸についたらただちに頼徳水戸藩主慶篤に詳細な事情を申し述べるべきだ、と言った。 また、戸田は頼徳が幕府に弁明する機会を必ず作るようつとめる、と確約した。

    (《天狗争乱》P.256)


     小磯村をすぎ、川にかかった橋をわたって西郷地村に入った時、多くの騎馬が蹄(ひづめ)の音をひびかせて後方から近づいてきた。
     頼徳一行は、足をとめた。
     馬からおりたのは、田沼意尊からの急便で、戸田への指令書をたずさえていた。
     戸田がひらいてみると、頼徳一行を水戸に連れてくるように、という内容であった。
     軍監である戸田は、田沼の命令にしたがわざるを得ず、その旨(むね)を頼徳に告げた。 江戸へ行けぬのは残念だが、頼徳は、田沼に詳しく事情を説明して疑いをはらすのもよいと考え、江戸へむかうことをやめ、水戸への道を引きかえした。

    (《天狗争乱》P.257〜258)


     田沼が頼徳の江戸行きを阻止したのは、市川三左衛門の説得にしたがったからであった。頼徳が江戸に行って、幕府や慶篤に、市川らが慶篤の名代頼徳の入城を拒否し、藩政を思いのままに操っていることなどを告げれば、市川らの立場は悪化する。 そうしたことを恐れた市川は、田沼を説いて頼徳を水戸に引きかえらせたのである。
    (《天狗争乱》P.258)


     水戸に入った頼徳一行に対する扱いは、頼徳の意に全く反するものであった。 頼徳は、田沼に事情を説明しようとしたが、田沼は少しも耳をかそうとはせず、「賊魁(ぞっかい)」の汚名を着せて、頼徳とその家臣である宍戸藩士たちを下市会所に押しこめた。
    (《天狗争乱》P.258)


     さらに翌二十八日、田沼は、頼徳を水戸藩の支族松平万次郎邸預けとすることを申しわたした。
     頼徳が迎えの駕籠(かご)に乗ると、家臣の宍戸藩士たちは涙を流してそれを見送った。 その直後、宍戸藩士たちに、帯刀を水戸家臣に引きわたすことが申しわたされた。 これに憤慨した宍戸藩士小幡友七郎ら七人は、「君はずかしめらるれば臣死す」として、とじこめられていた二畳の小座敷で折り重なるように切腹して果てた。

    (《天狗争乱》P.258)


     松平万次郎邸に送られた頼徳は、刀を取りあげられて一室に幽閉され、藩兵と城兵が厳重な警戒にあたった。
     翌日、水戸藩は、田沼の命によって頼徳に随行してきた鳥居瀬兵衛大久保甚五左衛門らを一人残らず牢(ろう)に投じた。

    (《天狗争乱》P.258〜259)


     十月一日、幕府は、頼徳とその父である宍戸藩主頼位(よりたか)の官位を剥奪(はくだつ)し、頼位を羽前新庄藩邸に、頼徳の子と宍戸藩家老中野敬助以下家臣四十余名を、江戸の高松藩邸にそれぞれ預けた。 また江戸の宍戸藩邸も幕府に没収された。
    (《天狗争乱》P.259)


     幕府は、十月五日、大目付黒川近江守目付羽田十左衛門を松平万次郎の屋敷につかわし、頼徳に対して、
     「(水戸殿御名代として領内鎮静のためにつかわしたのに)郤而(かえって)賊徒並(ならび)ニ水戸殿脱藩之(の)士ニ加リ公儀(幕府)御人数へ及敵対(てきたいにおよび)不届之所業ニ付切腹
     として、切腹を申しわたした。

    (《天狗争乱》P.259)


     白い衣服を着て切腹の座についた頼徳は、江戸にむかって三回頭をさげ、
      思ひきや野田の案山子(かかし)の竹の弓
       引きも放たで朽ち果てんとは

     という辞世を口ずさみ、切腹した。
    (《天狗争乱》P.259)


     門閥派市川三左衛門らは、頼徳にしたがった者の家族に対する処分も断行した。  鳥居瀬兵衛養父忠蔵榊原新左衛門父新蔵等を捕らえて投獄し、家屋敷家財没収し、家族を親類あずけとした。 また、三木左大夫福地政次郎らの家族他家あずけとし、家屋敷家財没収の処置をとった。
    (《天狗争乱》P.259)


     部田野村の戦いで敗退した幕府軍は、那珂湊に立てこもる頼徳軍側の戦闘力が強大であるのを知り、作戦の変更をせまられた。 大敗した福島藩兵は水戸に引きかえし、代わりに二本松藩兵が戦列にくわわった。
     幕府軍側の軍勢は、遠くから那珂湊を包囲する態勢をとり、昼夜、砲撃をおこなって頼徳軍側の疲労をはかった。
    (《天狗争乱》P.268)


     戦いの翌十一日、若年寄三木左大夫から、天狗勢潮来勢をのぞく軍幹部に対し、暮れ六ツ(六時)に日和山の本営で軍議をひらくので参集して欲しい、という指令が出された。
     三木は奥右筆頭取鮎沢伊太夫らと、那珂湊に立てこもって戦うのは不利、という意見をいだいていた。
    (《天狗争乱》P.268)


     第一に、食糧問題に対する不安があった。二カ月前に水戸の入り口で入城を阻止された頼徳一行が、食料調達にも有利だとして那珂湊に移動したことは、たしかに賢明であった豪商の蔵には米その他の食糧が多量に入っていて、これらを入手でき、さらに藩の土蔵があって莫大(ばくだい)な量の穀物その他が貯蔵されていた。 それは天保元年(一八三〇)から十五年間にわたって郡奉行(こおりぶぎょう)の任にあった吉成又右衛門が、外国の軍艦来襲にそなえてつぎつぎに貯(たくわ)えていったもので、それを頼徳軍は活用していた。
    (《天狗争乱》P.268)


     しかし、頼徳軍は、いずれにしても三千名の兵を賄(まか)わなければならず、ようやく食糧の不足が表面化してきていた。 それに那珂湊は平坦(へいたん)な地形で防御には不向きで、さらに海上からは幕府軍艦の砲撃にさらされている。
     三木らは、防御に適した北部の山間部に陣営を移し、そこで食糧を得て戦うべきだと考えていて、軍議はそれを決定するためのものであった。
    (《天狗争乱》P.268〜269)


     福地は、色をなして、私は反対である、と強い口調で言い、
     「数万の敵が押し寄せようと、この地をはなれる気持ちは一切ない。この地は頼徳様からあずけ置かれた地であり、頼徳様から他の地へ移れとの御命令がないかぎり動くわけには参らぬ。 市川ら門閥派の兵が攻めてきた折には、命のあらんかぎり戦い、もしも幕府の軍勢が押し寄せてきたなら、陣営の前に進み出て敵対する意思のないことを訴えるつもりだ。 この地をはなれる者は勝手にはなれよ。 私は、一騎になろうと北方などにはゆかぬ
     と、甲高い声で言った。
    (《天狗争乱》P.270)


     かれは、三木たちの顔を見まわし、
     「それに、北へ落ちてゆくというが、四十人にも余る傷を負った者たちをどのようにしてはこぶつもりか。手負い一人をはこぶのに人足四人はいるが、この那珂湊に人足は一人もいない。 結局、みなが背負ってゆくことになろう。 どこに落ちてゆこうと勝手だが、手負いの者を大切に連れてゆかれよ
     と言いはなち、席を立った。
    (《天狗争乱》P.270〜271)


     翌十三日、鮎沢は、福地を旅館に訪れ、かさねて北方行きを主張、食糧もあと十日ぐらいしかない、と言った。
     福地は、
     「この那珂湊には、塩をまぶした魚と干し魚があり、それを食べれば、五、六カ月は十分持つ
     と反論し、鮎沢は口をつぐんだ。
    (《天狗争乱》P.271)


     岩船山の陣所にいた久木に、幕府歩兵頭平岡四朗兵衛からぜひ会いたいという申し出があり、それに応じた久木は、夜、那珂川の岸にもやってある舟の中で平岡に会った。 平岡は、講武所砲術方出役から歩兵頭並として砲兵隊の総指揮にあたっていた。
     平岡は、
     「この度の戦(いくさ)に、幕府はすでに五十万両もついやしているが、いまだなんの効果もない。 軍議を繰りかえし、那珂湊まで地下道を掘って地雷火をしかけて爆破せよという意見と、江戸からあるかぎりの大砲、小砲を取り寄せ、那珂湊の軍勢を皆殺しにすべしという意見が出て、結局、後者の意見が採用になった
     と、言った。
     久木は、平岡が幕府軍の重要な作戦計画を自分にもらしたことをいぶかしく思った。
     平岡は、
     「江戸から大、小砲を取り寄せることになれば、さらに莫大な軍事費がかかる。 そのような金をついやして攻撃しても、勝つことができるとはかきらない。 貴殿になにか妙案はないか。 あるならうけたまわりたい
     と、言った。
     久木は、戸田銀次郎榊原新左衛門らを救いたいと常に口にしていることを想い起こしながら、
     「莫大な金をついやし多くの人命を失わなくとも、戦を終わらせる策がないわけではない。 敵軍と言っても、天狗勢だけではなく、他の者は市川三左衛門門閥派の策略によって苦しい立場に立たされている。 こちらからそれらの者におだやかに仕向けて自首させれば、両軍の人命をそこなうことなく平和の時をむかえることができましょう
     と、答えた。
     平岡は、手を打って、
     「それは妙案だ。 大、小砲を江戸から取り寄せる前に、一刻も早くその案を実行に移したい
     と、喜びの声をあげた。
    (《天狗争乱》P.275〜277)


     久木は、同志の笠井権六を呼んで平岡に会わせ、二人で努力することを約束した。 が、松平頼徳が切腹した前例もあるので、
     「かたくお約束いただきたいことがある。 それは、榊原殿たちが自首した後、決して斬首(ざんしゅ)などなさらぬと……。 自首した者たちは、蝦夷地(えぞち)(北海道)に移して開拓に従事させて欲しい。 私たちも、この策が成功すれば必ず市川らの憎しみを買って、処刑される恐れもあるので蝦夷地に行く。 多くの者が開拓に従事すれば国家の役にも立ち、また、蝦夷地開拓を悲願とされていた烈公前藩主斉昭)様の御遺志にそうことにもなります
     と、言った。
     平岡は、久木の言葉に深くうなずいた。
     久木と笠井は、かさねて、
     「斬首など決していたさぬこと。 必ず保証するとお約束ねがいたい
     と、強い口調で言った。
     「お約束いたす
     平岡は、きっぱりとした口調で答えた。
     「それでは、全力をかたむけて努力いたしましょう
     久木と笠井は、言った。
    (《天狗争乱》P.277〜278)


     追討軍は、大子東方一里半(六キロ)の生瀬(なませ)に布陣。 それを知った武田耕雲斎は、翌二十七日、自ら指揮をとって一隊をひきい、袋田村をへて生瀬にむかった。 途中、月居(つきおれ)峠の急な坂道をたどったが、峠の上から追討軍が銃砲を乱射し、さらに大きな石をころがし落として防戦した。
     武田は、翌日も攻撃をかけたが、地勢上、進撃は不利と判断し、兵をまとめて大子村に引きかえした。
     幕府軍は追うことをせず、月居山に布陣して動かなかった。
    (《天狗争乱》P.297〜298)


     京都への出発をひかえ、十月二十九日に天狗(てんぐ)勢は、大子村とその周辺の農家から多量の糯米(もちごめ)を調達し、これを各宿所にはこびこませて(もち)をつかせた。 旅中の携行食にするためであった。
    (《天狗争乱》P.298)


     夜が明け、そこを出発して宇都宮藩領の大宮村(塩谷町)に入った。 そこまで間道を案内してきた石上村の者たちは、報酬の金を押しいただいて受けとると、足早に道を引きかえしていった。 大宮村では炊(た)き出(だ)しをさせ、朝食をとった。
    (《天狗争乱》P.306)


     その頃から雨が降り出し、次第にはげしさを増した。
     雨中を、天狗勢は出発した。風見村をぬけると、前方に鬼怒川が近づいた。 雨は大降りとなり、早くも川は増水しはじめているようにみえた。
     鬼怒川は、その名のとおり暴れ川で、早目にわたる必要があった。 しかし、渡船場に舟は少なく、渡河ははかどらない。 舟に乗せた馬は、流れる水をおそれてあばれ、重い大砲を舟にひきこむのも容易ではなかった。
    (《天狗争乱》P.306)


     川をわたるのに多くの時間を費やし、その夜は、対岸の小林村(今市市)泊まりとなった。
     突然のように入ってきた天狗勢の姿に、女、子供、老人は逃げ去り、天狗勢は村人の家々はもとより雨小屋にまで入りこんで、それらを宿所とした。
    (《天狗争乱》P.306)


     小林村の記録には、天狗勢の人数千七十六名馬百六十九頭と記されている。 老女や乳飲み子を背負った女たちは、村の与頭(くみがしら)粂蔵の家などに泊まった。
    (《天狗争乱》P.306)


     小林村は旗本大久保氏が支配する天領で、名主小林家の記録に、
     「(板蔵を造築して明七日棟上げがきまったので)近隣の者集り、餅搗(もちつき)をいたし、最早(もはや)仕舞際に相成り、然(しか)るに突然右不浪人鬼怒川向(むこう)より参る由(よし)に付、集り合へる者皆逃失(にげうせ)たり
     とある。 おだやかな村は、天狗勢の出現に大混乱となり、恐怖におののきながらも村にとどまった村の男たちは、天狗勢に食事や酒を出し、馬に大豆、刈豆などの飼料をあたえた
    (《天狗争乱》P.307)


     天狗勢が鬼怒川をわたって小林村に入ったことは、西方五里(二十キロ)の日光に大きな衝撃をあたえていた。日光では、四月に天狗勢が押しかけてきて警備の兵と交戦寸前にまでなった記憶が、生々しくのこっていた。 それに、鬼怒川をわたった天狗勢の目的地が日光で、水戸藩の宿坊である養源院で全員が切腹して果てるという噂(うわさ)が流れていた。
    (《天狗争乱》P.307)


     日光の町では、天狗勢が、明日にも押し寄せてくるという話がひろまり、住民たちは、近在の知り合いのもとに箪笥(たんす)、長持ちその他をはこんで逃げ、町は全くの無人になった。 住居の(ふすま)、障子まではこび出し、柱だけがのこっているという有り様であった。
    (《天狗争乱》P.307)


     日光奉行小倉正義は、奉行所同心総出仕を命じ、日光警備を担当していた館林三春両藩に至急増援を要請、農兵隊非常召集して、小林村方面に陣をしいた。 また、火力の不足をおぎなうために木挽(こびき)、大工桶(おけ)屋を集めて、夜を徹して松材大筒製作にあたらせた。 七日朝六ツ(六時)頃には、筒口五寸(十五センチ)の大筒三挺が完成し、ついで筒口八寸(二十四センチ)の大筒二挺も出来て、試射した上でニ挺を観音寺前に、三挺を本宮下番所にすえた。
    (《天狗争乱》P.307)


     このように防備態勢をとったが、天狗勢千余名が押しかけてくれば、たちまち日光が占拠されることはあきらかだった。 そのため小倉奉行は、六日夜、ひそかに同心の村上角弥横地秀ニ郎を小林村の天狗勢本陣におもむかせて二百両を差し出し、神域である日光に入らぬよう要請した
    (《天狗争乱》P.308)


     もとより天狗勢のおもむく目的地は京都で、天狗勢は、翌七日朝、小林村をはなれて南下した。 行列の長さは一里(四キロ)近くにもおよび、徳次郎宿をへて新里(にっさと)村(ともに宇都宮市)で昼食をとり、栃窪をすぎ、鹿沼宿(ともに鹿沼市)に入った。
    (《天狗争乱》P.308)


     鹿沼は、日光例幣使道の主要な宿場で、宿泊施設もととのっていた。 これまで旅館らしい旅館もない地を進んできたかれらは、ようやく満足すべき酒食にありつき、ふとんに身を横たえた。
    (《天狗争乱》P.308)


     翌朝、出立した天狗(てんぐ)勢は、例幣使道を南下し、奈佐原村をへて金崎宿(西方村)にいたり、それから間道に入って大柿(おおがき)村(都賀町)で宿営した。
    (《天狗争乱》P.308)


     横尾が、臼井に近づいて丁重に挨拶(あいさつ)し、
     「わが藩は小禄(しょうろく)(一万石)であり、その上、主人(前田利豁(としあきら))は江戸に行っていて留守です。 藩士は少数で、わが陣屋のある七日市の町を御通行されては、公辺(幕府)に対し申しひらきができませぬ。 なにとぞ町の通過は御容赦いただきたい。そのかわりに、われらが間道をご案内いたす
     と、言った。
     臼井がこの旨(むね)を総大将武田耕雲斎につたえると、武田は、もっともな申し入れだ、として、
     「いずれの道なりとも通行できればよい、と答えよ
     と、命じた。
     臼井が引きかえしてそれをつたえると、横尾は安堵の色をうかべ、間道を先に立って案内した。
    (《天狗争乱》P.311)


     下仁田は山間部の町で、古くからゆたかな商家が多く、甘楽(かんら)郡随一の宿場であった。 東に小坂(おさか)峠の山なみがあり、西牧(さいもく)川と南牧(なんもく)川が合流して鏑川となって町の南をながれ、そのあたりは断崖(だんがい)絶壁になっていた。
     下仁田に到着した天狗勢は、本陣で軍議をひらいた。追ってくる高崎藩兵に対して、どのように対処すべきかをはかるためであった。
     町の者が呼ばれ、町周辺の絵図を座敷にひろげ、高崎藩兵が町へ侵入する場合の筋道をたしかめた
    (《天狗争乱》P.315〜316)


     その結果、小坂峠、梅沢峠、白山峠と大崩からくる以外に町へ入れぬことを知り、それらの地に騎馬斥候(せっこう)と歩哨(ほしょう)をはなった。
    (《天狗争乱》P.316)【地勢】


     武田は、ただちに各宿所に伝令を走らせ、深夜の町は、突然あわただしい空気につつまれた。 寝ていた天狗勢の者たちは飛び起きて、急いで身なりをととのえ、武器を手に外に走り出て宿所の前に整列する。 警備のため、日没後から篝火(かがりび)が町のいたる所にたかれていた。
    (《天狗争乱》P.316)【警備の篝火】


     その間に、斥候がつぎつぎにもどってきては情報をつたえ、陣太鼓が打ち鳴らされた。 武田らは、地面にひろげられた絵図を見つめ、本陣づめの者が、進んでくる高崎藩兵の動きを絵図にしるしていた。
    (《天狗争乱》P.317)【絵図】


     その頃から討ちとった高崎藩兵のをさげて帰陣してくる者がつづき、中には首の髪をにむすびつけて帰ってくる者もいた。
    (《天狗争乱》P.321)【首級】


     戦場で討ちとった首級は十一で、本陣の前にはこばれた。 それらは、水をはった樽(たる)の中で洗いきよめられ、しいた蓆(むしろ)の上にならべられた。 薄井蔵人が、生けどりにした高崎藩士を連れてきて、首級を見せて氏名を確認し、記録した。 それらの首は、町の本誓寺の墓地に埋葬された
    (《天狗争乱》P.321)【首級の扱い】


     捕らえた高崎藩士高月鉄三郎以下七名は、河原につれてゆき、をしいて列座させ切腹させた。 また、人足三名は斬首(ざんしゅ)した。
    (《天狗争乱》P.321)【武士は切腹】


     高崎藩兵が遺棄した大砲三門のうち二門は、再び使用できぬように薪(まき)をつんで火をおこして鋳(い)つぶした。 他の一門は持っていったが、途中で捨てた。
    (《天狗争乱》P.322)【大砲を鋳潰す】


     岩村田藩では、幕府の討伐令が出た翌日の十四日に、領内の小田井宿(長野県佐久市)の主だった者を一名ずつ呼び出し、天狗勢の動きをさぐるよう命じた。 それにしたがって小田井宿では、上州方面に探りの者を出し、天狗勢が十六日夕刻、本宿に宿営したのを知り、本宿に五人の探りの者をむかわせると同時に岩村田藩に報告した。
    (《天狗争乱》P.326)【地元民の探り】


     小諸藩は、十六日に初鳥屋(はっとや)峠に進んで陣をしいたが、天狗勢の戦力がきわめて強大で、下仁田で高崎藩兵を大敗させたという情報を得た。恐怖にかられた藩兵は、その夜九ツ(十二時)頃(ごろ)、夜道を追分宿まで引きかえし、さらに小諸方面にしりぞいた。
    (《天狗争乱》P.326)【藩士の恐怖心】


     香坂(こうさか)峠をこえて天狗勢の宿営する本宿方面にまで進出した岩村田藩の藩兵も、小諸藩の藩兵と同様だった。 かれらは、前進してくる天狗勢の打ち鳴らす太鼓の音を耳にし、多くの旗印を眼(め)にして恐怖にかられ、急いで道を引きかえした。 その折、狼狽(ろうばい)のあまり武器その他を捨て、家老は馬にも乗れず歩くことすらできず、足軽に背負われて逃げるありさまであった。
    (《天狗争乱》P.326)【藩士の恐怖心】


     里村は、峠に近い内山村平賀村(ともに佐久市)をはじめ六カ村農民猟師四百名動員して、内山峠の守備についた。 農民は鉄砲竹槍(たけやり)、鳶口(とびぐち)、(おの)、(かま)、(のこぎり)、(くわ)などを手にしていた。 かれらは、郷土をまもろうという意気に燃えていた。
     里村は、農民たちをはげまして渓流(けいりゅう)にかかった橋を切り落したり、伐り倒した大木を道に横たえたりした。 しかし、天狗勢が強力な高崎藩兵を討ちやぶって多くの藩兵を殺傷したことをつたえきいていた農民たちは、すでに戦意をうしなっていた
    (《天狗争乱》P.326〜327)【農民兵と猟師】


     天狗勢は、十七日早朝、本宿を出発して西に進み、荒船山の峠である内山峠にさしかかった。 が落とされている渓流には大木を伐り倒してかけ、その上に戸板ふとんを敷き、さらにまでかぶせてわたれるようにし、道をふさいだ大石や大木を手ぎわよく除去した
    (《天狗争乱》P.327)【工兵隊】


     峠に陣をしいていた里村は、先発の天狗勢が見えたので、猟師に発砲させた。 が、先発隊の打ち鳴らす太鼓の音と旗差し物に、農民たちは浮き足立った。 さらに先発隊が大砲を一発発射し、その音響に仰天したかれらは、悲鳴をあげて山道を駈(か)けくだった。
    (《天狗争乱》P.327)【大砲】


     峠を駈けくだった各村々の名主組頭たちは、麓(ふもと)の内山村に集まった。 かれらの顔に血の気はなく、天狗勢に対抗する気など全くうしなわれ、峠をくだってくる天狗勢の機嫌(きげん)をそこねぬために、どのようにすべきか話し合った。 その結果、天狗勢におだやかに通過してもらうよう懇願する以外にないということになった。
    (《天狗争乱》P.327)【村の対応】


     かれらは、農民たちに鉄砲、竹槍などを急いで土中に埋めてかくさせ、峠の下り口までおびえながら出向いていった。
     やがて、太鼓を打ち鳴らし旗差し物をひるがえした天狗勢の先発隊が、山道をくだってくるのがみえた。名主組頭たちは、道のかたわらに土下座してむかえた。
     先発隊の隊長が、かれらの前に立つと、名主の一人が、ふるえをおびた声で六カ村の名主、組頭の者たちであることを告げ、
     「お指図どおりにいたします故(ゆえ)、なんなりとお申しつけ下さい
     と、言った。
     「それはありがたい。 それでは荷をはこぶ人足を出してくれ
     隊長のおだやかな声に、名主たちは頭をさげた
    (《天狗争乱》P.328)【村の対応】


     内山村から馬をひいた農民たちがぞくぞくとやってきて、恐れおののきながら天狗勢本隊をむかえ、荷を馬の背にくくりつけたり、荷をかついだりした
     千余名の天狗勢は、整然と列をくんで内山村に入った。 列の中には、戸板にのせられた手負いの者もまじっていた。
    (《天狗争乱》P.328)【村の対応】


     内山村で昼食をとることになり、村では総出炊(た)き出(だ)しをおこなった。 天狗勢からは、握り飯味噌汁(みそしる)のみでよいという指示があり、昼食が出来るまで隊員たちは、ごろ寝をしたり、柱にもたれて休んでいた。
     やがて握り飯味噌汁漬物(つけもの)がはこばれてきて、隊員たちは昼食をとった。 天狗勢は、食費として村に過分の金をはらい、主だった者が名主や組頭をはじめ炊き出しにつとめた男女に丁重にを述べた
     恐れていた天狗勢の者たちが、意外にも一様におだやかな態度をしめしたことに、村の者たちは大いに安堵(あんど)し、感激した
    (《天狗争乱》P.328〜329)【村の対応】


     天狗勢は整列し、再び太鼓をたたいて村をはなれ、西へとむかった。内山村の者たちが荷を馬ではこんだ。  華やかな行列は進み、夕刻、平賀村に入った。 村役人は、村をすぎて野沢村(佐久市)に宿泊するよう懇願したがききいれられず、天狗勢は平賀村泊まりとなった。 本陣は定右衛門宅で、総大将武田耕雲斎以下が入り、隊員は民家五十一軒に分宿した。内山村の農民たちは村に引きかえしていたが、人足と馬代が天狗勢から支払われた
    (《天狗争乱》P.329)【村の対応】


     天狗勢は、四方にきびしい警戒をおこなった。 村のいたる所に篝火(かがりび)をたき、宿泊した民家でもを焚(た)いて、大小の蝋燭(ろうそく)をともす。 そのため、村は明るい光につつまれていた。 また、村の周囲に警備の者たちを配置し、さらに騎馬武者四人を一隊とした偵察(ていさつ)隊が、半径ニ里(八キロ)から四里余の遠くまで偵察してまわった
    (《天狗争乱》P.329)【篝火】


     その夜、平賀村の西方にある野沢村から、問屋の弥左衛門と藤兵衛が、天狗勢本陣に挨拶(あいさつ)にきた。 本陣では、明日、野沢村で昼食をとって休息する旨(むね)をつたえ、人足二百人と馬八十頭を用意するよう指示し、弥左衛門らは承諾して夜道を村に引きかえしていった。
    (《天狗争乱》P.329)【村の対応】


     その折、本陣をはじめ各宿所の内部はきれいに後片づけされ、武田耕雲斎以下隊員たちは、宿所の主人や雇い人にまでいんぎんに礼を述べ、列をくんで去った。 むろん、宿泊代その他すべてが支払われた
    (《天狗争乱》P.330)


     天狗勢が千曲川をわたって四ツ(午前十時)頃、野沢村に近づくと、村の主だった者たちが村の入り口まで正装してむかえ、村に案内した。 村では、内山村、平賀村での天狗勢の思いがけぬおだやかさをききつたえていたので、近くの親類、縁者に避難していた女たちも村にもどってきていて、炊き出しに精を出した。 天狗勢と村人たちの間に和気あいあいとした雰囲気(ふんいき)がかもし出され、隊長の冗談に村の男女の間に笑い声も起こった。
    (《天狗争乱》P.330)


     昼食をすませた天狗勢は、すぐには出発せず、負傷者の手当てをおこなった。 負傷者たちは、呉服商の江島屋の家に集められていた。 手当てに必要な布などがあったからであった。
    (《天狗争乱》P.330)


     刀傷や槍で突かれた傷口を焼酎(しょうちゅう)で洗って消毒し、その上から布でしばる者、うちこまれた鉄砲玉を、自ら小刀で肉を裂いて出したり、同僚に出してもらったりしている者もいた。 その世話をする村の女たちは、大釜(おおがま)で湯をわかして負傷者の体をふいたり、汚れた下着をぬがせて呉服屋にある下着に着替えさせたりした。
    (《天狗争乱》P.330)


     また、隊員たちの中には、農家から鎌をとぐ砥石(といし)を借りてきて、刀や槍の穂先をとぎ、下仁田の戦いで具足や衣類にしみついた血を洗う者もいた。
    (《天狗争乱》P.330)


     駄馬(だば)の背には武器食糧のほかに高崎藩兵から分捕った鉄砲脇差(わきざし)、さらに野営をする折に使う(おけ)、(なべ)、などがくくりつけられていた。 手負いの者は、村の農民にかつがれた駕籠(かご)に乗ったり戸板にのせられたりしてはこばれてゆく。
    (《天狗争乱》P.331)


     「松本、高島両藩兵、ことに松本藩兵は街道の前方から接近中で、夜討ちをかけてくることも十分考えられる。 この宿場に宿泊はするが、合戦準備をおこたらぬように……
     この命令によって、各宿所では部屋の畳をすべて裏返しにして土足で歩けるようにし、さらに隊員は武具を身につけたまま就寝し、夜襲をかけられた場合、ただちにとび出して合戦できるようにした
    (《天狗争乱》P.334)


     その夜は、篝火の数を多くし、宿所にも蝋燭がともされ、(まき)がたかれた。 要所に見張りの者が立ち、大砲は、街道の前方に砲口をむけてすえられた。遠見の者が、四人一組で馬に乗り、四方にはなたれていた。
    (《天狗争乱》P.334)


     その夜、天狗勢は、近くの富裕な者に軍用金の借用を申し入れた。 野沢村の豪農並木七衛門には、隊の軍用金収集係がおもむいて三百両の借用をもとめた。 これに対して、並木は、村民に少しも迷惑をかけぬ天狗勢に金を貸すのではなく、献納すると申し出て要求額より多い五百両を差し出した。 その他、平賀村岩崎喜平二百両、八幡宿依田仙右衛門二百両などの献納があった。
    (《天狗争乱》P.334)


     小諸藩の密偵のまよりには、宿場の者たちがむらがっていた。
     主だった隊員が近づき、集まっている者たちに、
     「この二人は、小諸藩の探りの者だ。 もうすぐわれらは出発するが、その折に二人を血祭りにあげるから見物せよ
     と、言った。
     それをきいた密偵の顔から、血の気がひいた。
     しかし、その隊員は、宿場の役人に、
     「あの者たちは、われらが出発した後、縄をとき、小諸へ帰してやってくれ
     と、ひそかにつたえた。
    (《天狗争乱》P.334〜335)


     朝食がすむと、各宿所では、裏返した畳を元どおりにし、同行してきている女もまじって部屋を清掃した。 使用した寝具も、たたんで積みあげた
     各宿所の宿泊代が支払われ、隊員は、防寒用の真綿を買いもとめる者が多かったが、それらの代金もすべて支払った
    (《天狗争乱》P.335)


     総大将をはじめ隊員たちは、宿所の家の者たちに礼を述べ、道に整列した。
     出発の太鼓が音高く打ち鳴らされ、隊列が街道を西にむかって動き出した。その太鼓の音に、の狂ったような吠(ほ)え声(ごえ)が所々で起こった
     華やかな隊列は、ゆっくりと西の方に遠ざかっていった。
    (《天狗争乱》P.335)


     稲村は、いぶかしみながらもむかえ討とうとして兵をひきいて和田宿をはなれ、中山道を東北方に進んで長久保宿(長門町)につき、本陣に入り、兵は分宿した。
     宿場の者は、仰天した。 かれらは、わずか三里(十二キロ)しかはなれぬ望月宿に天狗勢の先ぶれが姿をあらわしたことをつたえきいて恐れおののいていたが、逆の方向から松本藩の軍勢が入ってきたので、宿場が戦場になるおそれがあると思ったのである。
     町役人たちは血の気も失(う)せた表情で本陣におもむくと、稲村の前にひれ伏した。
     かれらは、口々に、
     「当宿場に宿営なされませぬよう、伏してお願い申し上げます。 当宿場に御宿陣なされますと、望月宿まできております浪士勢と合戦となり、当宿場は戦(いくさ)の場となり消滅いたします。 老いた者も女子供も悲しみなげくこととなります
     と、必死にうったえた。
     しかし、稲村はきき入れようとはしなかった。
     他の町役人も、
     「戦の場となりますと、家は焼きはらわれて悲惨なことになります。 なにとぞ私どもをあわれとおぼし召され、御慈悲をもって御陣替え下さいますように……
     と、涙をながして請願した。
    (《天狗争乱》P.337)


     和田宿には灯(ひ)が絶え、人影はなく深い静寂がひろがっていた。 宿場の者たちは、天狗勢が近づいて戦争が起こることは必至と考え、家財とともに宿場の外へ一人のこらず避難していたのである。  稲村は、宿場の要所要所に篝火をたかせて警備の兵を配置し、藩兵を無人の家々で休息をとらせた。
    (《天狗争乱》P.339)【避難の村】


     それも短い時間のことで、稲村は出発を命じて和田峠にむかい、夜明けに峠の手前の東餅屋村についた。 そこには五軒の茶屋があって、難所である峠ごえの旅人たちの休息所になっていた。 家は七、八軒のわびしい村であった。
     腹をすかしていた藩兵は、村の者が急いでととのえた握り飯を口にして朝食をすませた。
     稲村は、軍議をひらき、この村に陣をしいて天狗勢をむかえ討つことを決意した。 ただちに樹木を伐(き)って逆茂木(さかもぎ)を道に立て、橋をこわし土塁をきずいて大砲をすえた。 その陣地構築中、四ツ(午前十時)頃(ごろ)、突然のようにはげしい雨が降ってきた。
    (《天狗争乱》P.339)【土塁と大砲】


     東餅屋村を引きあげるに際して、稲村は、進んでくるであろう天狗勢が東餅屋村を足だまりとしないよう、家を焼きはらうことを提案した。 高島藩側は、これに賛成し、千野新左衛門を火付奉行に命じた。
    (《天狗争乱》P.345)【村を焼く】


     千野は、夜道を人足三十名をつれて東餅屋村におもむき、家々に火をはなたせた。 さらに桶橋村にもどる途中、峠のこちら側の西餅屋村の本陣をはじめとした四戸の家にも松明を投げさせた。 降雨の中で、炎は風にあおられ、家は燃えさかり、ことごとく焼け落ちた
    (《天狗争乱》P.345)【村を焼く】


     千野らが桶橋村にもどると、入れかわりに人足たちが松明を手に出発した。 かれらは、桶橋村と西餅屋村との間の山道に、伐り倒した大木を横たえ、岩石をころがし、橋を落とした。 雨はようやくやんで、雲間から月がのぞいた。
    (《天狗争乱》P.345)【防御線】


     高遠藩では、むろん、天狗勢が下仁田で高崎藩を敗走させたのにつづいて、和田峠で堅固な陣地を構築して防戦した高島、松本両藩勢を撃破したことを知っているはずであった。 天狗勢の勢力は、予想以上に強大で、しかも作戦も巧みでむかうところ敵なしといった状態であった。 それに敵対する力は高遠藩になく、戦闘を回避して陣をとき、しりぞいたにちがいなかった
    (《天狗争乱》P.357)【負け戦回避】


     武田らは、再び馬にまたがっり、前進を命じた。
     前方に平出宿の家並みがみえ、隊列は、宿場の中に入ると停止した。その宿場でも老人子供は一人残らず避難していて、宿場の主だった者その他が残っているだけであった
     天狗勢は、かれらに命じて食糧を集めさせ、連れてきた人足たちに米を炊(た)かせ味噌汁(みそしる)をつくらせて、昼食をとった。 その間に銃後の者もおいおいやってきて、宿場に人馬がみちた。
    (《天狗争乱》P.357)【避難】


     しばらくして、はるか後方で銃声が数回つづけてきこえた。 それは、陣を撤収してしりぞいた高遠藩が発砲した銃声で、天狗勢と対抗したということを、後に幕府に弁明できるようにしたのである。
    (《天狗争乱》P.357〜358)【対抗事実弁明】


     先発隊が進み、やがて前方に伊那部の宿場が見えてきた。 その宿場の入り口に、十数名の男たちが立っているのが見えた。 男たちは、羽織を着て正装していた。
     先発の隊員たちが、いぶかりながら近づくと、男たちは、深く頭をさげて宿場の中に先に立って案内した。 驚いたことに、宿屋のならぶ道の両側には、歓迎を意味するがもられ、道も掃き清められている。 ぞくぞくと天狗勢の列が、宿場に入ってきたが、隊員たちの顔にも、呆気(あっけ)にとられた表情がうかんでいた。
    (《天狗争乱》P.358〜359)【歓迎する村】


     総大将武田耕雲斎らも到着して本陣に入り、隊員たちも宿屋に分かれて入った。 それらの家々も、すべて清掃されていた。
    (《天狗争乱》P.359)【歓迎する村】


     さらに天狗勢を驚かせたのは、すでに昼食が用意されていたことで、もまじってそれぞれ隊員の前にはこんできた。 副食物には、川魚を焼いたものや野菜の煮物などが味噌汁とともにととのえられていて、隊員たちには、ことのほかの御馳走(ごちそう)であった。
    (《天狗争乱》P.359)【歓迎する村】


     これまで通過してきた町村では、ほとんどの住民が恐怖にかられて一人残らず逃げていて、残っている者がいる地でも、かれらはおびえきった眼(め)をして顔に血の気がなく、体をふるわせている者が多かった。 しかし、伊那部の宿場の者たちは、恐れる様子もみせず、むしろ歓迎している節さえみえる
    (《天狗争乱》P.359)【歓迎する村】


     宿場の者たちのこのような態度は、伊那谷に深く根づいた平田篤胤(あつたね)の興した国学の影響によるものであった。伊那谷には、ことのほか平田学派の者が多く、それらはほとんどが豊かな町人や百姓たちであった。 国学は尊王思想にもとづくもので、尊王攘夷(じょうい)の目的をもって行動する天狗勢に、思想的に共感をいだいていたのである。
    (《天狗争乱》P.359)【思想風土】


     それに、和田峠で松本、高島両藩勢を撃破したことをつたえきいている宿場の者は、抵抗することなどせずに、おだやかに通過してもらう方が得策と考えていた。 また、栃木町での焼き払い事件がこの地にまできこえてはいたものの、信州を通過した天狗勢が、軍律がきびしく、宿泊した地では宿料を支払い、泊まった部屋などを清掃して去ったという話もつたわっていた。 そうしたことから、宿場の者たちは、丁重に天狗勢をむかえ入れたのである。 さらに、天狗勢との衝突を極力避けようとしている高遠藩は、ひそかに町役人に手厚く扱うようにという指示もあたえていた。 そのため、町では、公然と天狗勢を歓迎したのだ。
     昼食のもてなしをしただけではなく、町では天狗勢に多量の米その他の兵糧(ひょうろう)を差し出して、賄(まかない)を担当する者を喜ばせた。
    (《天狗争乱》P.359〜360)【地元藩の裏工作】


     今村は、藩の諒解(りょうかい)を得て昼食の用意をととのえていた。 その地に住む男をはじめ女も総出で炊(た)き出(だ)しをおこなっていて、隊員たちに握り飯と煮しめをくばり、馬にも飼料をあたえた。 隊員たちは、温かいもてなしに表情をゆるめ、美しい女が多い土地だ、とささやき合ったりしていた。
    (《天狗争乱》P.374〜375)【歓迎する村】


     天狗勢を恐れていた住民たちは、華やかな行列に眼をみはり、隊員たちの統率がとれていて礼儀正しいことに気持ちもうちとけ、親しげに話しかける男もいた。 隊員たちの中には、故郷の子を思うのか、子供に菓子をあたえたり、頭をなでたりしている者もいた。
    (《天狗争乱》P.375)【歓迎する村】


     駕籠からおりた北原が、今村とともに小野の前に立つと、
     「ここから駒場宿までは、一本道です。 御城下を通らずにすみましたが、これも小野様をはじめ天狗勢の皆様の御好意によるものであり、心から御礼を申し上げます。 道案内の役目も、これではたせました。 私は、ここで失礼いたします
     と、別れの挨拶をした。
     小野は、馬からおり、
     「御苦労であった。飯田藩と戦(いくさ)をまじえることもなくすぎ、私たちも喜んでおる。 その方に貸した陣羽織は、案内役をしてくれた記念に、その方にとらす
     と、言った。
     「お言葉はありがたく存じますが、百姓の身としては分不相応のものです
     と言って、北原は陣羽織をぬいで小野に渡した。
    (《天狗争乱》P.375)【記念品】


     その時、飯田の西方で砲声がとどろくのがきこえた。 それは、羽場(はば)方面に繰り出していた飯田藩の藩兵が大砲を撃った音で、後日、幕府に対して藩が天狗勢を砲撃して追いはらったとよそおうためのものであった
    (《天狗争乱》P.376)【対抗事実弁明】


     今村は、死を覚悟した。 駒場宿に出頭すれば、天狗勢を愚弄(ぐろう)したとして、ただちに斬首(ざんしゅ)されるだろう。今村の嘆願をいれて飯田城下を避けて通った天狗勢は、槍の穂先に鞘をはめるなどして誠意をしめしたのに、それを裏切った今村に名誉をきずつけられたと思うにちがいなかった。 憤るのは無理もなく、自分は逃げることなどせず出頭して命を捨てよう、と思った。 それが、自分の人間としての道だ、と自らに言いきかせた。
    (《天狗争乱》P.379〜380)


     かれは、新しい下着にかえて衣服を身につけ、台所に行って、釜(かま)の飯で握り飯をつくり、その包みをにむすびつけた。
    (《天狗争乱》P.380)


     今村は、朝の陽光がひろがりはじめた飯田の町に入ったが、思わず足をとめた。
     前夜は森閑としていた町が、意外にも騒然としている。家財をつんだ大八車が、城下町の外に通じる道をむらがるように進み、風呂敷包(ふろしきづつ)みをかついだり手にしたりしている男や女が、顔色を変えて道を急いでゆく。 子供のはげしい泣き声がし、の狂ったような吠(ほ)え声(ごえ)がきこえている。
    (《天狗争乱》P.380)【犬の存在】


     今村は、天狗勢が飯田の城下町を避けて通ることを条件に軍用金三千両をとどける約束しながら、それを果たせなかったことに心を痛めていた。 天狗勢に対する好意をいだいているからであったが、それよりも人間として恥ずべきことだという思いが強かった。
    (《天狗争乱》P.402〜403)


     天狗勢が去った後、かれは、飯田の城下町の町役人や豪商たちの間をまわって、
     「町が兵火にさらされなかったのは、天狗勢が申し入れにしたがって、間道をえらんでくれたからだ。 その折、あなたたちは、すすんで三千両の金を献納すると言いながら、それを果たそうとはしない。 道理にそむくことである
     と、説いてまわった。
    (《天狗争乱》P.403)


     十一月二十九日、慶喜は、朝廷に次のような天狗勢追討の願書を提出した。
     「この度、天狗勢が多人数、中山道を進んできており、容易ならざる様子であるときいております。 もしも、京都にせまるようなことがありましては、朝廷をお守りする禁裏守衛総督として、手をこまぬいているわけには参りません。 右の人数の中には、私の実家である水戸藩の家来もまじっている由(よし)。 まことにもうしわけなく、すみやかに近江まで出向いて追討したいので、なにとぞおひまをいただきとう存じます
     しかし、朝廷では、禁裏守衛総督の出陣は、かえって人心を動揺させることになる、と却下した。
    (《天狗争乱》P.418)


     慶喜は納得せず、さらに強く要請をくりかえしたので、朝廷は、翌三十日の八ツ半(午前三時)頃、ようやく許可することをつたえた。 その許可書には、「追討」の文字はなく「出馬」とあり、しかも、「降伏した折には、相当の取りはからいをするように……」 と、寛大な扱いをすることをほのめかしてあった。  この請願にともなって、慶喜は、大場ら水戸藩士がつかえている慶喜の弟松平昭徳を先鋒(せんぽう)にすることを朝廷に願い出て、これも許された。  慶喜は、京都にいる諸藩の重役を呼び出し、用人黒川嘉兵衛を通じて出兵をつたえ、加賀藩一千、会津藩五百、小田原藩五百、福岡藩二百、水戸藩四百と京都所司代の百の兵が参加することになった。
    (《天狗争乱》P.418〜419)


     大場は、水戸藩士の吉成恒次郎川瀬介三郎を呼び、
     「これよりひそかに水戸勢のもとにおもむき、武田耕雲斎殿に会って、われらが出陣した意図をつたえよ。われら水戸藩の軍勢に降伏すれば、よろしいよいに取りはからう、と申せ
     と、命じた。
     二人は、ただちに大津をはなれ、夜道を天狗勢がむかったという方向に急いだ。
     中山道を東に進み、大垣から北上して根尾川ぞいの曾井中島村(本巣町)にかかった時、早くもそのあたりに進出していた尾張藩兵不審尋問(ふしんじんもん)をうけた。水戸なまりがある二人は、京都で朝廷守衛にあたる水戸藩士と答えたが、その付近を歩いているのを疑われ、天狗勢であるとして捕らえられた。
     二人は、名古屋へ護送され、その任務をはたせなかった。
    (《天狗争乱》P.419)


     慶喜は、諸藩の配置をさだめた。松平昭徳ひきいる水戸藩兵を先頭に立てて、加賀会津福岡の各藩の軍勢を中山道にむけて進ませ、小田原藩兵を琵琶湖の北端にある海津(かいづ)(滋賀県マキノ町)を守備させることにした
    (《天狗争乱》P.419)


     翌四日、慶喜は、各藩の主だった者を集め、天狗勢追討の軍議をひらいた。
     まず、会津藩士が、口をひらいた。
     「天狗勢は、なんのために京へのぼろうとしているのか、実情はわかりかねます。おそらく朝廷に嘆願するためであろうと思います。 その理由をきかずに討つことはよろしくあるまいと存じます
     慶喜は、
     「たしかにその通りである
     と、同意した。
    (《天狗争乱》P.419〜420)


     小田原藩士の渡辺大允が、反論した。
     「かれらは、すでに幕府にそむく賊徒であることは明白であり、京に入る理由などたずねるまでもなく、出あい次第、討ちとるべきです。 もしも、それをためらえば、追討軍の士気の低下をまねくことになり、わが小田原藩は、容赦なく討ちとる所存であります
     慶喜は、
     「会津藩の言うことが正しい
     と言ったが、渡辺は承服しない。
    (《天狗争乱》P.420)


     「加賀藩はどう思う
     慶喜がたずねると、加賀藩の永原甚七郎が、
     「会津藩の言われることが、至当と存じますただし、相手の出方次第で、討つか討たぬかきめるべきであります
     と、答えた。
    (《天狗争乱》P.420〜421)


     「その方どもは、どのように思う」  慶喜は、用人の黒川嘉兵衛と水戸藩士の原市之進に意見をもとめた。  二人は、同意見で、  「討つか討たぬかは、天狗勢とむかい合った軍勢の指揮者の判断にまかせるべきである」  というもので、慶喜はそれを最終決定とし、軍議を閉じた。
    (《天狗争乱》P.421)


     かれらは、美濃との国境にある縄帽子峠が、どのような性格をもつ峠であるかをよく知っていた。
     そこは諸国にきこえた名高い難所で、ことに十月以降、春の雪どけまで、積雪のため通行は完全に途絶する。 その峠を大砲をひき、多くの馬に荷をつけさせて越えることなど絶対に不可能であった。 それに、関東の天狗勢は、に対する支度もしていないだろうし、寒気をふせぐ方法も知らず、もしも峠を目ざしても、待っているのは凍死しかない
     重役たちの顔には、ようやく安堵(あんど)の色がうかんだ。
     「越えられはせぬさ
     かれらは、口々に言い合った。
    (《天狗争乱》P.442〜443)


     しかし、福井藩からの内報もあったので、縄帽子峠方向に探索の者を出すことになった。  藩では、前年の十一月に藩士に命じてその方面の実情をしらべさせる目的で猪狩(いのししが)りをさせたことがあり、その折に参加した小林貢、吉田拙蔵、内山介輔、中村東、岡田一学を探索方に任命した。 かれらは、翌二日早朝、縄帽子峠方面にむかって出発した。
    (《天狗争乱》P.443)


     大野藩では、一応、備えだけはかためておくことにし、朝になって藩士一同に、
     「大砲を三発打ちはなしたならば、腰兵糧(こしびょうろう)(弁当)を持って、早速、城の鳩御門(はとごもん)の前へ集まるように……
     という通達を出した。
    (《天狗争乱》P.444)


     その日の夜四ツ半(十一時)、天狗勢の先発隊は、ようやく上秋生(かみあきゆう)村下秋生村(ともに大野市)にたどりつくことができた。下秋生村では村人の多くが、松明の列が近づくのを眼にして山中に逃げこんでいたが、三十四人の男が、恐れおののきながらも残っていた
    (《天狗争乱》P.448)


     全員が集結し、出発することになった。 村に残っていた三十四人の男たちには、世話になった謝礼として金一分ずつが渡された。
    (《天狗争乱》P.449)


     天狗勢が上秋生、下秋生をはなれた後、両村落で悲惨な出来事が起こった
     大野藩では、縄帽子峠をこえた天狗勢が大野の城下町に近づかぬための処置をとった第一は、通行を困難にすることで、を落とし、道に伐り倒した大木を横たえたり逆茂木(さかもぎ)をかまえたりする。 第二は、天狗勢が宿営できぬように通過を予想される村落をことごとく焼きはらい、それによって、食糧の入手を不可能にさせる
     その方針にしたがって、前日の夕方、大野藩士が上秋生、下秋生に入りこんで来たが、天狗勢が近くにきているということをきいて、あわただしく逃げ去った。 その折に、藩士は、藩営の中天井鉱山の下役人である山口勇助に上秋生、下秋生の焼き払いを命じた
     やがて天狗勢がやってきて宿営し、その日の夕方、後続の隊員たちも到着したので出発していった。 上秋生は、村人たちが全員、山の中に逃げ込んでいて無人で、天狗勢が去るのを山中から見まもっていた山口は、夜になって上秋生村に入り、松明で家に火をつけてまわった
    (《天狗争乱》P.449〜450)


     ついで、かれは、下秋生村に行き、民家に火をはなった。 村には三十四人の男が残っていて、かれらは、思いがけぬ山口の行為に驚き、かれを取りかこんだ。
     「なぜ、このようなことをなさる
     村人は、山口をなじった。
     「藩の御命令だ
     山口は、藩が天狗勢の宿営地にさせぬよう各村々を焼きはらっている、と説明した。
     「天狗勢はすでに通りすぎていった。 焼く必要はないはずだ
     村人たちは、反発した。
     「藩が焼けというのだから焼くのだ。 御命令にそむくわけにはゆかぬ。 もしも焼かなければ、私はおとがめを受ける
     山口は、一歩もひかない。
    (《天狗争乱》P.450〜451)


     「藩への申しひらきは、私たちがする。 なにとぞ焼かんで欲しい
     村人たちは、雪の上に膝をつき、手を合わせて懇願した。 しかし、山口は、それを無視して火をはなって歩き、家々が炎につつまれた。
     激昂(げっこう)した村人たちは、山口から松明をとりあげ、松明をうばいかえそうとする山口を袋ただきにして殺害した。 村人たちは、後難をおそれて山口が自害した口裏を合わせることを申し合わせ、遺体を近くの葦原(あしはら)にはこんで埋めた。
    (《天狗争乱》P.451)


     この放火によって、上秋生では一軒残らず下秋生では六戸が消失した。 山口を殺したことについて村人の自害の申し出を藩はそのままうけいれ、追求することはなかった。
    (《天狗争乱》P.451)


     天狗勢は、はげしい降雪の中を進み、夜四ツ半(十一時)にようやく黒当戸(くろとうど)村(大野市)にたどりついた。 その村でも家がことごとく焼きはらわれていて、わずかに竹薮(たけやぶ)の中にある羽田三郎右衛門の板蔵が焼けのこっているだけだった
    (《天狗争乱》P.451)


     降雪の中で、村人たちは、茫然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。 隊員がたずねると、村人は、大野藩士が来てすべての家に火をはなち、羽田家の板蔵だけは竹薮の中にあったので気づかず、消失をまぬがれたのだという。 さらに、山道をくだった中島村上笹又(かみささまた)村下笹又村も、藩士たちによって焼きはらわれた、と言った。
    (《天狗争乱》P.451)


     隣村である中島村は、その付近で最も大きい村落であるので、武田耕雲斎ら幹部をふくむ本隊はそこにおもむくことになり、松明の火をつらねて黒当戸村をはなれ、中島村に入った。
     黒当戸村の者が言っていたように、その地の九十三戸の家は、すべて焼け落ちていた。 わずかに林又蔵宅の土蔵が一つ焼けのこっていて、そこに林と沢山庄助、宮崎権兵衛の三人が逃げることもせずにとどまっていた。
     武田ら幹部は、その土蔵に入った。
    (《天狗争乱》P.452)


     降雪は、さらにはげしさを増し、黒当戸と中島の両村に分散した隊員たちは、泊まる家はなく、蔵の軒下や大野藩士によって焼かれた橋げたの下に身を寄せ合っていた。 寒さはきびしく、隊員たちは、所々で火を焚(た)き、それをかこんで暖をとった。 体は雪におおわれ、足が冷たくなっているので足ぶみをつづける。 衣服は濡(ぬ)れて、凍りついていた。 眠気がおそい、かれらは立ったまま居眠りをし、膝がくずれて倒れる者もいた。
    (《天狗争乱》P.452)


     土蔵の中では、林たちが火を起こし、武田たちにをすすめた。(むしろ)をしき、その上に武田たちは、身を横たえた。
     夜が明けだが、雪は相変わらず降りつづけている。
     飯が炊(た)かれ、隊員たちは、携帯していた梅干しを口にふくみ鰹節(かつおぶし)をかじって朝食をとった。にあたえる飼料がなく、やむを得ずをあたえた
    (《天狗争乱》P.452)


     黒当戸村では、羽田三郎右衛門の板蔵に泊まった隊長が、草鞋(わらじ)がすり切れてしまったので、羽田に草鞋をわけて欲しいとたのんだ。保存しておいた草鞋は家とともに焼け、編むにも藁(わら)がないので、羽田は炭俵をほぐしてそれで編み、隊長に渡した。 隊長は、謝礼として百文を羽田にあたえたが、草鞋はすき間だらけで、焚火にすかした隊長は、
     「百文の草鞋で火が見える
     と笑い、羽田を恐縮させた。
     隊員の大半は草鞋もはかず、布で足先をおおっていた
    (《天狗争乱》P.452〜453)


     武田は、世話をしてくれた林ら三人にを言い、謝礼として(よろい)と(かぶと)をあたえた。 従者に持たせてきたが、従者の苦労を少しでも軽くしようとしたのである。 また、家を焼きはらわれた黒当戸村と中島村の村人に同情し、若干の金を贈った
    (《天狗争乱》P.453)


     中島村の雲川にかかったが二つ、大野藩士によって焼き落とされていた。 隊員たちは、田にある稲架(はさ)をはこんできて、それを横に並べ、通行可能にした
    (《天狗争乱》P.453)


     上笹又村にたどりついたが、その村の家々もすべて焼きはらわれ下笹又村も同様であった。
    (《天狗争乱》P.453)


     源兵衛が、店の者とともに馬にを背負わせて木ノ本村杉本家に入った。 武田耕雲斎は、源兵衛の労をねぎらい、筆をとると、「奚疑焉(いずくんぞうたがわん)」と書き、それをあたえた。
    (《天狗争乱》P.461)


     杉本家をはじめ隊員が分宿した家々に宿賃その他が支払われ、家々も清掃された。武田は、道中に必要な地図をたずさえていたが、その二枚を杉本家に残した。 水戸から持参した、いずれも八畳敷きほどの大きさのもので、街道間道をはじめ宿場河川などが克明に記され、藩領も色分けされている華麗な絵図であった。
     それは道をたどるのにきわめて有効であったが、嵩(かさ)ばっていて運ぶのに難儀をした。 京までの道は案内人を先に立てればよく、親切に遇してくれた杉本家への感謝のためその絵図を残したのである
    (《天狗争乱》P.461)


     天狗勢の進路変更によって戦闘を回避できた大野藩は、深い安堵を感じたが、軍用金を差し出して天狗勢に間道を進むようにはからったことを、幕府には知られたくなかった。 大野藩としては、十分に追討のかまえをしめし、それに恐れをなした天狗勢がそうそうに退散したという形にしたかった。
    (《天狗争乱》P.462〜463)


     藩では、ただちに福井藩敦賀藩その他に対する書状を用意した。 その中で、木ノ本村を発した天狗勢が西への間道を進み、「一同脱走之由(のよし)」と記した。 さらに、「(当藩では)追ひ討ち」したいのだが、「敵ハ大人数」なので、当藩の軍勢では「討洩(うちもら)し」も予想され、諸藩と協力し一人も残さず討ちとるつもりである、と書いた。 それは、ただちに諸藩へ急送された。
    (《天狗争乱》P.463)


     加賀藩勢は総勢一千余名で、葉原村へ進出する準備がととのい、藩兵は、鉄砲隊の武田金三郎の手勢を先鋒(せんぽう)に、朝五ツ半(九時)から追々くり出した。 前夜からの雪で、積雪が三尺(九十一センチ)ほどあり、大砲を台車でひくことができず、かついで坂道をのぼってゆかねばならなかった
    (《天狗争乱》P.471)


     途中の村々では、天狗勢が近づいてくることがつたえられて、ひとかたならぬ騒ぎになっていて、村人たちは衣類道具はもとより障子までもはこび出し、一人残らず山中の炭焼き小屋などに逃げていた。
    (《天狗争乱》P.471)


     藩兵は、雪中の行軍に苦しみ、ようやく夕七ツに葉原村にたどりついた。
     村人はほとんど逃げてしまっていたので、葉原村から敦賀寄りの越坂(おつさか)村炊き出しをおこない、糧食を葉原村にとどける始末だった。 これによって加賀藩勢は、新保村に入った天狗勢とむかい合う形となった。
    (《天狗争乱》P.471)


     また、総指揮をとる慶喜の命令によって追討諸藩の軍勢も敦賀方面へ大移動していて、天狗勢を包囲する態勢をかためていた。 加賀藩勢を一番手として、越坂村に二番手の小田原藩勢六百五十、その後方に三番手の桑名藩勢五百五十、四番手大垣藩勢千五百、五番手会津藩千二百。 大津にいた慶喜も、海津に八百の兵とともに進出して本営をおく準備をすすめていた。
    (《天狗争乱》P.471〜472)


     海津から敦賀方面にかけて疋田(ひきだ)村には大洲(おおず)藩勢、山中村には京都の本圀寺につめていた松平昭徳ひきいる水戸勢。 その他、敦賀付近に福岡藩勢三百、津藩勢二百、敦賀藩勢三百、それに小浜藩勢二千五百が結集していた。 さらに新保村の北方からは、彦根藩勢七百、福井藩勢三百、鯖江大野府中藩勢それぞれ二百がせまり、それに丸岡藩も兵を繰り出していた。
     天狗勢は、新保村にいたって、恐るべき大軍勢にとりかこまれることになったのである
     これら追討諸藩に対して、薩摩藩からの陰湿な工作がおこなわれていた。 薩摩藩は、朝廷と幕府に大きな影響力をもつ慶喜の存在をうとましく思い、その失脚をひそかにねらい、慶喜が天狗勢追討の任に命じられてから、その動きは活発になっていた。
    (《天狗争乱》P.472)


     追討諸藩が敦賀方面に移動をはじめた時、慶喜失脚の工作を担当したのは、薩摩藩士河田十郎であった。
     河田は、追討諸藩に遊説(ゆうぜい)してまわった
    慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、追悼総督として出陣はしたが、天狗勢総大将武田耕雲斎を深く信頼し、胸の中では天狗勢の動きに理解をしめしている。 慶喜には、天狗勢を討伐する意志はなく、降伏させて寛大な処置をとるつもりでいる。 もしも天狗勢が強硬に押し通ろうとして諸藩がこれを阻止するため戦闘をまじえれば、慶喜の意思にそむくことになる
     このようなことを河田は熱心にといてまわり、話の道筋が一応通っているので、その説に耳をかたむける者が多く、諸藩の中に動揺が起こった。彦根藩などでは、天狗勢と対戦しなければならぬような場合になっても、戦いは避けるべきだという空気が強まった。
    (《天狗争乱》P.472〜473)


     これを知った慶喜は、狼狽(ろうばい)した追討の任をあたえられながら戦闘を回避しようとしている、とみられては、幕府の怒りをまねき、自分の立場が危うくなる。 そのため慶喜は、追討諸藩に対し、
     「流言浮説にまどうことなく)ニ念(にねんなく)(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候
     という指令を発した。
     これによって、諸藩の動揺はしずまり、天狗勢追討に兵を進めたのである。
    (《天狗争乱》P.473)


     その日、一橋慶喜の用人である榎本享蔵原市之進から、永原甚七郎不破亮一郎あてに緊急の密書がとどいた。 内容は、左のようなものであった。
     初めに「加賀藩は『無比之御大藩』なので天狗勢を討つには『尊藩而己(のみ)にて御十分』と、慶喜は『大悦(おおよろこび)』している」と賞賛(賞賛)の言葉がつづられていた。それにつづいて筆致ががらりと変わり、「天狗勢が、『嘆願之筋』があるということで、加賀藩の『英気も少しく相弛(あいゆる)』んでいる気配がみられる由(よし)で、戦意をうしなっていることが事実なら、『後日、天朝、幕府』によって処罰されるようなことにもなり、慶喜は『甚だ心痛』している」と記されていた。
    (《天狗争乱》P.482)


     最後に、このような密書を送るのは「慶喜が『深く心配』のあまり『内々申上』げるわけで、『御覧後御火中』に投じて欲しい」と、むすばれていた。
     この密書を読んだ永原も不破も、不快な気分になった。慶喜は、ひたすら身の安全のみをねがい、加賀藩に「英気」をふるって天狗勢を攻めよ、とほのめかしている。 永原たちは、慶喜の冷酷さに肌寒(はだざむ)さを感じ、そのような慶喜にとりすがって嘆願しようと願っている天狗勢を哀れに思った。
    (《天狗争乱》P.482〜483)


     翌十四日、天狗勢の本陣から、永原のもとに連絡があった。新保村は小さな村なので食糧が尽きてしまい、甚だ困惑しているという。
     英原は、ためらうことなく三日分の米と馬の飼料を無償で送りとどけるよう命じ、人足が馬でそれらを新保村にはこんだ。
    (《天狗争乱》P.483)


     天狗勢本陣では、武田耕雲斎が書状をしたため、息子の魁介にそれを葉原村の加賀藩の本陣にとどけさせた。 その書状には「微志(自分たちの志が)貫徹いたし」たならば、「如何様被仰付候共不(いかようおおせつけられそうらえどもくるしからず)」と、記されていた。 「如何様……」とは、万一、切腹を命じられても慶喜の意向であればやむを得ない、という武田耕雲斎の気持ちが秘められていた。
    (《天狗争乱》P.492)


     加賀藩の軍勢は、総攻撃を実行にうつそうとしていたが、その書状がとどけられたので中止を決定した。 そのため、帰山仙之助を木ノ芽峠に急がせ、福井藩総攻撃を見合わせることをつたえさせた。
     監軍の永原甚七郎は、使番(つかいばん)の井上七左衛門武田耕雲斎書状を持たせ、慶喜がいる海津の本営にむかわせた。
     翌日、天狗勢本陣から加賀藩の本陣に、降伏の第一陣を送りたいという申し出があり、永原は承諾し、不破亮三郎が藩兵とともに新保村におもむいた。
    (《天狗争乱》P.492)


     第一陣は馬七、八頭をひいた四十人ほどの隊員で、不破のひきいる藩兵に護衛されて新保村をはなれ、葉原村にむかった。 途中、にわかに霙(みぞれ)が振ってきた。不破たちは笠(かさ)をもっていたが、笠をもたぬ天狗勢の者たちが霰に打たれたままでいるので、一人も笠をつけず葉原村にむかって進んだその心づかいに、天狗勢の者たちは不破らに感謝した
    (《天狗争乱》P.492)


     このように投降がすでにはじまっているのに井上武田耕雲斎の書状を手に海津の慶喜の本営に行ったまま帰らぬことに、永原は苛立(いらだ)ちをおぼえていた。 葉原村から海津までは七里(二十八キロ)ほどで、積雪が三尺(九十一センチ)以上あって歩行が困難であることはわかっていたが、すでに帰ってきてもよいはずであった。
     ようやく井上が葉原村の加賀藩本陣にもどってきたのは、翌二十日であった。
    (《天狗争乱》P.493)


     永原は井上の報告をきき、立ちもどるのがおくれた理由を知った。 井上が海津の慶喜の本営に武田耕雲斎の書状を持っていって差し出すと、本営では、慶喜受け取れぬと言っている、と告げ、突きかえした。 理由は、その書状が前に武田が差し出したものと同じ内容で、「微志貫徹いたし」たならば、という条件をつけていることがもってのほかだ、というのである。
    (《天狗争乱》P.493)


     さらに、この書状について、目付の由比図書は、きびしいことを口にした。
     「このような書状は、なんの意味もない。 紙屑(かみくず)同様のものである。 天狗(てんぐ)勢の主だった者ニ、三名を呼び出し、その面前で焼き捨てよ
     と、由比は命じ、それを慶喜も同意している、と言った。
    (《天狗争乱》P.493)


     井上は途方にくれたが、慶喜の用人黒川嘉兵衛原市之進がひそかに接触してきた。
     二人は、井上に、武田が条件つきではなく、幕府に対して恐れ入っておりますという書状を差し出しさえすれば、慶喜もそれを受理するはずだ、と助言した。 さらに黒川と原は、書状の下書きを書き、これと同文のものを武田に書かせて提出させるように、と言った。
     「これが、それです
     井上は、下書きを取り出した。
     そこには、条件は一切なく、「降伏」という文字が記されていた。 これまでの書状では、どのような御処置をうけても異存はありません、と書き、それは降伏を意味しているが、慶喜も幕府もそれでは承服せず、「降伏」と明記することをもとめたのである。
    (《天狗争乱》P.493〜494)


     やむを得ないと思った永原は、藩兵を連れて新保村の天狗勢本陣におもむいた。 そして、武田ら幹部に会って事情を説明し、黒川と原がしたためた下書きをわたした。
     武田らは別室で協議し、すでに降伏を決意していたので、その下書きをもとに降伏状を提出する、と永原に回答した。
    (《天狗争乱》P.494)


     武田は筆をとり、加賀中納言様御内永原甚七郎殿あてとし、左のような降伏状を書き、永原にわたした。 まず、前に提出した書状の通り嘆願を目的にしてこの地までやってきたことを述べ、道中、諸藩を動揺させたことは「実に天下之(の)大法を犯し(申し訳なく)、深く恐入奉(ぞんじたてまつり)と記した。 ついで、いささかもかれこれ申し上げる筋はないが、純粋な目的をもって行動した次第で、「賊之汚名」をこうむっては死ぬにも死にきれない。 「武門之情け、此(この)段尊藩において」この事情をおくみとり下さり、よろしく御配慮下さるようにお願いいたす。 最後に「決死之覚悟 他に申立」てることはありません、とむすばれていた。
    (《天狗争乱》P.494〜495)


     その書状を読んだ永原は、涙ぐみ、
     「たしかに受け取り申した。 夜もふけておりますので、明朝、私が葉原村を出立し、幕府御目付役様にお見せし、それから海津におられます一橋公様におとどけいたします
     と、言った。
     「なにとぞ、よろしく
     武田は、低い声で言った。
    (《天狗争乱》P.495)


     慶喜の用人黒川嘉兵衛原市之進が応接し、永原降伏状を二人にわたした。 黒川と原は、慶喜に見せる、と言って部屋を出ていった。
    (《天狗争乱》P.495)


     やがてもどってきた二人は、慶喜が降伏状の内容に満足して非常に喜び、永原を連れてくるように、と言っている、と言った。
     永原は、二人の後から廊下を進み、慶喜のいる座敷に入ると平伏した。
    (《天狗争乱》P.495)


     奥の座敷に坐った河村は、
     「これを貴殿にわたそうと、馬を走らせてきた
     と言って、書面を不破に渡した。
     文面に視線をすえた不破は、顔色を変え、
     「これは……
     と言ったまま、絶句した。
     書面には、昨日、慶喜田沼意尊と話し合った結果、天狗勢の身柄(みがら)を田沼に引きわたすことに同意した、と記されていた。
     「なぜ、このようなことに……。 思いもかけぬこと
     不破は、体をふるわせて言った。
     河村の顔もひきつれていて、
     「実は、私は所用があって外出し、黒川(嘉兵衛)殿も原(市之進)殿も八ツ(午後二時)頃に所用のため退出したのですが、その直後に田沼殿がお邸に来られ、公は、田沼殿に天狗勢が引きわたされたら、押し並(な)べて縛り首にもするであろう、とことのほか御心配なされておられた
     と、言った。
     「それほど案じておられたのに、なぜ
     不破は、もどかしそうに言った。
     「ところが、田沼殿は、このように話された由(よし)である、この事件には、天下の世評というものがある。 公平に扱わねばならず、世の人々が納得するような処置をとりたい……と。 公は意外なことを田沼殿が言われたので、喜びの余り、熟慮することもせず、引きわたすことに即座に同意したのである
     河村は、情けないような表情をした。
     「なんという軽率な
     不破は、悲痛な声をあげた。
    (《天狗争乱》P.508〜509)


     なんとしてでも天狗勢を田沼に引きわたすことを阻止しなければならぬ、と思った不破恒川とともに慶喜の邸に急いだ。 かれは、半ば走るように歩きながら、いったん慶喜が承諾したからには、それをひるがえすことはとうてい不可能だ、と思った。
    (《天狗争乱》P.509)


     かれの頭は、混乱していた。 深く考えることもなく、田沼の言葉に感激して承諾した慶喜のあさはかさが、腹立たしかった。田沼は、天狗勢を自分の掌中におさめれば、慶喜が危惧(きぐ)したように押し並べて縛り首にもしかねない。 どうしたらよいか、かれはうろたえながら思案した。
    (《天狗争乱》P.509)


     ふと、一つの考えが頭にうかんだ。天狗勢を救う道はこれしかない、と、かれは思った。
     不破恒川は、慶喜の邸に行き、用人の原市之進に面会した。
     「浪士方(天狗勢)を田沼殿に引きわたすことを御承諾なされた由、河村恵十郎よりおききしました。一橋公は、まことに軽率……
     不破は、原に悲憤にみちた眼をむけた。
     「言われる通り
     原は、うなずいた。
     「浪士方が田沼殿に引きわたされれば、苛酷な扱いをうけることはまちがいなく、それを阻止するには、公の御用人が立ち会われる以外にありませぬ。 なんとかして、敦賀に御出張いただきたい
     不破は、原にせまった。
     原は、困惑しきったように顔をしかめていたが、
     「一応、公にお話いたしてみる
     と言って、席を立った。
    (《天狗争乱》P.509〜510)


     やがて、部屋に原が戻ってきた。 原は、
     「公は、かなり微妙なお立場におられる。 幕府との関係は好ましくなく、ささいなあやまちをおかせば、たちまち身が危うくなる。 田沼殿に引きわたしを承諾しながら、われら用人が敦賀におもむけば、公が干渉したとして、幕府から疑いの眼をむけられる。 このような事情から、公は、われらが出張することをお許しにならぬ。 その代わりに、京都につめておる滝川殿と織田殿を敦賀に出張してもらうようにする。 それなら、幕府も手荒な処分はできぬと思う
     と、言った。
     不破は、失望した。天狗勢を救うことのできるのは慶喜のみだが、慶喜は、身の安全をまもるために動こうとはしない
     不破は、慶喜が少しもあてにならぬことをはっきりと知った。慶喜に嘆願するため水戸藩領から長い旅をつづけて新保村にたどりつき、降伏して今では敦賀の三つの寺にとじこめられている天狗勢が哀れであった。 かれらが敬い慕っていた慶喜は、冷淡にもかれらをはらいのけたのだ
     不破は、言葉もなく恒川とともに頭をたれて坐っていた。
    (《天狗争乱》P.510〜511)


     かれらが連れてゆかれたのは、船町につらなって建てられている(にしん)の肥料を入れておく土蔵であった。 道の左右の家々は、すべて表戸をしめ、道の両側には抜き身の槍を手にした藩兵が並んで警戒にあたっていた。
    (《天狗争乱》P.517)


     本妙寺の天狗(てんぐ)勢引きわたしで、一名が見あたらず、手札でしらべてみると、本多兵五郎という隊員であった。 そのため、加賀藩兵二十八名が手分けしてさがし、ようやく夕七ツ半すぎに、江守新八郎の手の者が発見してとらえた。 本多は、寺の床下にもぐりこんでいたが、床下もさぐりはじめたので這(は)い出し、(かわや)にひそんでいたのを見つけられたのである。 かれは縄をうたれ、鰊蔵に引き立てられていった。
    (《天狗争乱》P.517)


     引きまわしの列は、清流の備前堀(ぼり)にかかった消魂(たまげ)橋の近くにある広小路に入り、制札場の前でとまった。 棒の先端のにのせられたがはずされ、制札場におかれた台の(くぎ)に刺しこまれた。
    (《天狗争乱》P.528)


     武田耕雲斎山国兵部田丸稲之衛門藤田小四郎の首がならべられ、そのかたわらにそれぞれの捨て札が立てられた。 そこには、紙幟と同じ内容の罪状が簡略に記されていた。 警護の同心たちが、火縄(ひなわ)つきの銃を手にその周囲をかためた。
    (《天狗争乱》P.528)


     その付近は商家が多く、家々から人がとび出し、通行人も駈(か)け集まってきて、見物人がひしめき合った。 かれらは、顔をこわばらせて首をみつめた。 武田らの顔は白く、すこししなび、鼻孔にはつめられたがみえた。
    (《天狗争乱》P.528)


     午後になると、(うわさ)をきいた近在の者たちもやってきて、人の数は増した。 顔を青ざめさせ、気分が悪くなって人の群れからぬけ出る者も多かった。
    (《天狗争乱》P.528)


     日没が近づき、首は塩の入ったに再び入れられ、におさめられてでかつがれ、警護の列がくまれて制札場をはなれた。 列は、往(ゆ)きの折とは異なって、足早に赤沼の牢屋敷にもどった。
    (《天狗争乱》P.528)


     その日、武田らの首が牢屋敷を出て間もなく、三個の首桶をおさめた俵が同心の警護のもとに門を出た。 その桶には、前日に斬首(ざんしゅ)された耕雲斎の妻とき、倅桃丸、同金吉が入っていた。
     罪状をしるした紙幟をかざした列が家並みの間を進み、消魂橋をわたった。 そこは江戸への街道の起点で、街道を進んで両側松並木のつづく藤柄町をすぎた。 見物人は、耕雲斎の妻と九歳と三歳の男児の首の引きまわしであることに、悲痛な表情をし、涙を流している女も多かった。
    (《天狗争乱》P.528〜529)


     引きまわしの列は、吉田の原でとまり、から首がだされてさらされた。 さすがに顔は藁(わら)で編んだ袋におおわれ、頭髪が上部からのぞいているだけであった。
    (《天狗争乱》P.529)


     ときらの遺体と前日斬首された三郎金四郎熊五郎の遺体は、野原に捨てられた
     翌二十六日、武田、山国、田丸、藤田の首が再び上町で、二十七日には吉田境橋でさらされ、さらに二十八日には、武田らが松平頼徳軍に加勢して幕府、門閥派連合軍と戦った那珂湊にはこばれ、その地で引きまわしの上、さらされた。 それによって梟首(きようしゅ)は終え、武田らの首は長岡原で野捨てにされた。
    (《天狗争乱》P.529)


     投獄された武田らの家族も、悲惨な運命をたどった。 すでに前年の六月には山国の妻なつが、八月には娘ちえ獄死。 その後、耕雲斎の妾う免、彦衛門の妻いく、田丸の母いを、娘まつやすむめ、倅清次郎もことごとく牢内で死亡し、耕雲斎の娘およしは、明治元年赦免となったが、下脚萎縮(いしゅく)で歩行不能になっていた。
    (《天狗争乱》P.529)


     武田耕雲斎ら四人の首が四日間にわたってさらされたこととその遺族に対する残忍な処分は、水戸藩内に強烈な衝撃をあたえた市川三左衛門門閥派が、攘夷派に根強い憎しみをいだいているとは言え、かれらのとった行為は、余りにも神仏を恐れぬ非道なものと考えられた。
    (《天狗争乱》P.529〜530)


     しかし、藩の実権は完全に門閥派がにぎっていて、少しでもそれに対して批判の態度をしめせば、武田らと同じ運命におとしいれられることは疑いなく、それを恐れてひとしく沈黙の姿勢をとっていた。 門閥派に対する(いきどお)りは、地下に深く蓄積されていったのである。
    (《天狗争乱》P.530)


     敦賀での三百五十二人という例をみない大量の斬首は、大きな波紋となってひろがった。
     この斬首がおこなわれたのは、一橋慶喜天狗勢田沼意尊にその身柄(みがら)を引きわたしたことによるもので、慶喜に対する非難が一斉(いっせい)におこり、その側近すらも慶喜が人情に欠けている、と顔をしかめていた。天狗(てんぐ)は、慶喜ならば自分たちの意志を必ず理解してくれると信じ、京を目ざして長い苦難の旅をつづけたが、結果的に慶喜はすげなくそれをふり払った。 慶喜は、幕府の心証を好ましいものにするため、自分にとりすがってきた天狗勢を冷たく突きはなしたのだ
    (《天狗争乱》P.530)


     幕府に引きわたされた天狗勢は、重い処分をうけると予想されていたが、大量処刑はそれをはるかに上まわるもので、幕府の苛酷(かこく)な処分に対する強い批判がまき起こった。
    (《天狗争乱》P.530)


     尊攘派に対して反感をいだく賀陽宮(かやのみや)朝彦すらも、天狗勢の処刑を耳にして、
     「幕府の……国家を憂(うれ)へざるの処置、誠に悪(にく)むべし
     と、はげしい憤りを日記にしるした。
    (《天狗争乱》P.530)


     薩摩藩小納戸(こなんど)頭取の大久保一蔵(利通)は、その日記に、天狗勢が土蔵に押しこめられて苛酷な扱いをうけ、その上、処刑されたことをつづり、
     「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである
     と、記している。 大久保のこの感慨は、心ある人の気持ちを代弁するものであった。
    (《天狗争乱》P.531)


     尊王攘夷の思想を信奉する者も反対する者も、思想からはなれて、釈明の機会を一切あたえずに大量処刑した幕府の残虐(ざんぎゃく)さに、その政治態勢があきらかに末期にあるのを強く感じたのである。
    (《天狗争乱》P.531)


     敦賀では、二月四日、十五日、十六日、十九日、二十三日と五回にわけて処刑が終了したのを確認した田沼意尊は、二十五日に敦賀をはなれ、江戸へむかった。 また、翌日、大目付黒川盛泰も本陣の永建寺をはなれて京都へ引きかえし、幕府の役人はことごとく去った。
     天狗勢が接近して以来、各藩の軍勢が繰りこみ、大量処刑もあって騒然としていた敦賀の町にも、ようやく静寂がもどった。
     二十四日、永建寺永覚寺永厳寺真禅寺から、斬首された者の回向(えこう)を処刑場でおこないたい旨(むね)の願書が出された。 それはききとどけられたが、控え目に執行するという条件がつけられ、三月四日と十五日に法要がいとなまれた。
    (《天狗争乱》P.531)


     遠島刑を申しわたされた武田耕雲斎の長男彦衛門の長男金次郎をはじめ百三十人は、そのまま一棟の鰊蔵(にしんぐら)に、水戸へ送りかえされる水戸藩領民は、二棟の鰊蔵にそれぞれ収容され、小浜藩が監視にあたっていた。 寒気はゆるみ、町に春の気配が濃く、梅の花がひらいた。
    (《天狗争乱》P.531)


    あとがき

     どの部分から書くか、史料を点検した末、天狗勢の田中愿蔵(げんぞう)が栃木町(栃木県栃木市)を襲った事件から書くのが適切と考え、その事件を研究している稲葉誠太郎氏を栃木市に訪ねた。 氏は、著書である『水戸天狗党 栃木町焼打事件』を私に渡してくれた。 氏の家は町の旧家で、氏は町に残された文書を丹念に収集し、それを著書にまとめていたのである。 私は、地道な努力を積みかさねた氏の研究態度に敬意をおぼえた。
    (《天狗争乱 あとがき》P.541)


     さらに那珂湊市に行って関山豊正氏を訪れた私は、ここにも秀(すぐ)れた史家がいるのを知った。 氏は、天狗勢の参加した那珂湊の戦いについて、精力的に史料をあさり、それを分厚い私家版の著書にまとめていた。 このように基礎資料をもとに考察する史家が、地方史を正しく、より豊かにしているのをあらためて感じた。
    (《天狗争乱 あとがき》P.541)


     その他、史料を求めて水戸、筑波、宇都宮、長野、大垣、岐阜、金沢、敦賀、福井、大野の各市と福井県今立郡池田町を訪れた。
    (《天狗争乱 あとがき》P.541)


     印象深かったのは、天狗勢が雪の中を通過した大野市の南部にある山間部であった。 ジープで行ったが、積雪のため途中までしか行くことができなかった。 そのような地を駄馬(だば)をひき大砲をかついで通った天狗勢の労苦が身にしみて感じられた。
    (《天狗争乱 あとがき》P.541)


     尊王攘夷思想は、当時、全国の有能な人々に強烈な影響をあたえたが、それは時間の流れとともに変形し、消えていった。 その中で天狗勢のみは、信奉の姿勢をくずさず、それが悲劇となったと言うべきである。
    (《天狗争乱 あとがき》P.541)


     解説 田中彰  −−吉村文学の手法と視座

     小説の場合、主人公を現場に立たせて、情景や季節などを具体的に描写し、早馬がそこを駆け抜けていったというとき、舞い上がる土ぼこりの色まで書かなければいけない、と吉村さんは語る。 歴史研究者も現地主義をとることは多いが、取材ノートの取り方はおそらく異なっているだろう。 氏は現場をカメラで撮るのではなく、もっぱらスケッチをするという(吉村昭・田中彰対談、『日本の近世』18〈中央公論社〉『月報』18、一九九四年五月、参照)。
     それは歴史小説と歴史叙述とのちがいといってしまえばそれまでだが、そこに吉村文学の手法の大きな特徴がある、といってよい。

    (《天狗争乱 解説 田中彰》P.549)


     本書の、第二十一回大佛(おさらぎ)次郎賞受賞に際して、氏はつぎのように語っている。
     「私も見ているんですよ。 天狗勢の一人としてではなくて、そこにいるだれかとして立っている。 降伏の話し合いがあった新保(しんぼ)村の部屋でも、隅(すみ)に立っていました。 たからこひ、登場人物が何を思ったかを書ける。 それはフィクションではないんですよ」(『朝日新聞』一九九四年十月一日)
     「それはフィクションではないんですよ」といい切れる歴史小説家がどれだけいるだろうか。
     この一語に吉村歴史文学の真骨頂が示されている、と思う。

    (《天狗争乱 解説 田中彰》P.549)