[抜書き]『修羅維新牢』


『修羅維新牢』山田風太郎・ちくま文庫
山田風太郎幕末小説集
二〇一一年四月十日 第一刷発行
目次
江 戸・明治元年
一人目・沼田万八
二人目・橋戸善兵衛
三人目・寒河右京
四人目・曽我小四郎
五人目・大谷十郎左衛門
六人目・桑山軍次郎
七人目・早瀬半之丞
八人目・鰻谷左内
九人目・久保寺民部
十人目・田代主水
牢の中・いのち十人
牢の外・いのち一人

解説 中島河太郎
編者解題 日下三蔵


     江 戸・明治元年

     〔だんぶくろ〕と称するズボンに筒袖(つつそで)羽織を着た姿は可笑(おか)しいが、太い白木綿(しろもめん)の帯で吊(つ)った大刀はことごとく太目(ふとめ)で恐ろしかった。 とくに隊長格らしい、赤、黒、白の長い毛をなびかせた〔かつら〕は、まるで別世界からやって来た怪物そのもののようであった。赤熊(しゃぐま)が土佐(とさ)兵、黒熊(こぐま)が薩摩(さつま)兵、白熊(はぐま)が長州(ちょうしゅう)兵ともいうし、あるいは官軍全体としての階級をあらわすともいう。 ただそれらすべてが、筒袖に錦(にしき)の一片−−いわゆる〔きんぎれ〕を縫いつけているのは同じであった。
     三月の半ばごろから、そんな異形(いぎょう)のむれが江戸に続々とはいり出し、以後、町々を横行闊歩(かっぽ)しはじめた。−−
    (《修羅維新牢》P.7)


     それを見て、玄関先の用心棒たちが駈(か)けて来る前に、押しかけた侍たちにとり囲まれ、勝は苦笑いを浮かべつつ、しかし平気な顔で、馬を横へ歩ませてゆこうとしていた。
     「お城はもう明け渡したんだ。 負けるときは、負けっぷりをよくするもんだ
     下から何かいったやつに、は答えた。 旗本たちは昂奮(こうふん)して、火の渦(うず)みたいになった。
     「お城を明け渡されたのはあなたではないか、われわれに断わりもなく−−
     「お前さんたちに相談して何になるかよ、旗本八万騎、それだけ頼り甲斐(がい)があれア、いままでに徳川はこんな〔ざま〕になってやしねえ
     いま身分がどうなっているのかわからないが、ほんのこの間まで幕府の陸軍総裁、海軍奉行並であった人間とは思われない伝法な口調であった。
     「いまごろになって、上野にたてこもって一騒ぎしようってえ馬鹿(ばか)どもがいるそうだが、この中にそれに吊り込まれたおっちょこちょいがいるかえ?
    (《修羅維新牢》P.14〜15)


     用心棒たちを見て、やや鼻白みつつ、それでも悲憤の声をしぼった者があった。
     「お手前には、武士の意気地というものがおわかりでないのか!
     「それを見せたきゃ、江戸から離れてやってくれ
     と、勝はいった。
     「とにかくいま、江戸であばれられると、ますます徳川家に具合が悪くなる。 なんとかして、おれは上様のおいのちだけはお助けしたいと苦心して来たんだが、お前さんたちゃ、徳川を滅ぼし、そのうえ上様を殺す気か
     そのときやっと追いついて来た馬丁に、勝は手綱を渡した。 屋敷には用心棒がいるのに、どうやら勝は外出中、つれて歩いていたのはその馬丁だけであったようだ。その用心棒も、おそらく勝が望んで傭(やと)ったものではあるまい。
    (《修羅維新牢》P.15〜16)


     馬丁は、馬を厩(うまや)のほうへ曳(ひ)いていった。
     「いやさ、徳川や上様はともあれ、いたちの最後ッ屁(ぺ)みてえな武士の意気地で、罪もない江戸百万の町人を火で焼きつくすつもりか、この大べらぼうめ!
     勝は一喝(いっかつ)した。
     「まかりちがうと、江戸市民はおろか、日本一国が焼けつくすぞ。 だいたい幕府と薩長との間に勝つも負けるもない。 兄弟喧嘩(げんか)みたいなもんだが、それにのぼせあがって異人につけ込まれて、支那(シナ)や印度(インド)の二の舞いを踏んでいいのか。 いったん国が二つに割れてよその国のあと押しが始まると、あとあと大変なことになるってえことがわからないのか!
    (《修羅維新牢》P.16)


     用心棒たちが見張ってはいるが、それにしても十数人の殺気だった連中に包囲されて、全然恐怖というものを感じてはいないような勝安房だ。 こわい顔で頭ごなしに叱(しか)りつけた。
     「おれはいま大総督府に呼ばれてね、江戸市中の治安取締りを命じられて来た。 このごろ馬鹿に官軍を斬るきちがいが出て来たそうで、あちらさんも血相変えてこっちにねじ込んで来たわけだが、これでなお乱暴を働くやつがあって、それが徳川の侍であるかぎり、そいつをおれがひっくくらなけりゃならない責任が出来た。 ……まだ事の見さかいのつかないやつがあったら、泣いて馬謖(ばしょく)を斬るつもりで大総督府に引き渡すぜ、いいかえ?
     勝はそういって、つかつかと歩き出した。 本来なら、さらに聞き捨てならぬ宣言だが、その気迫に打たれて、旗本たちは思わず道をひらく。
    (《修羅維新牢》P.16〜17)


     その中を闊歩してゆくのは、〔だんぶくろ〕の官軍だ。 たいてい、四、五人が一団となり、酔っぱらっているやつが多く、これがうしろからやって来て、ゆくての邪魔になると足をあげて通行人を蹴(け)る。 蹴られて、泥の中に四つン這(ば)いになり、血相変えてふりむくが、相手が官軍だと見ると、急に卑屈な愛想笑いを浮かべる。
     −−虫けらどもだな
     隼人は切歯した。
     どちらに向ってもだが、とくに江戸市民に対しての怒りのほうが烈(はげ)しかった。 なるほどこれでは勝さんが見通したように、江戸で最後の抗戦をするなどということは夢物語であったにちがいない
    (《修羅維新牢》P.19〜20)


     とはいえ、悲憤しながらも、隼人は官軍と見れば注意深く道をあけ、傘を伏せてやり過している。江戸は頼むに足らず、と見たのは今になってのことではなく、だから彰義隊の誘いなどははじめから乗っていない。
    (《修羅維新牢》P.20)


     番町は旗本街といっていいが、もう死の町のようであった。 ほとんど家人が、大あわてで、相州とか武州とか下総あたりへ逃げていってしまったからだ。
    (《修羅維新牢》P.20)


     その跫音(あしおと)を聞きつけたのであろう。 ゆくてから縁側に、一人の〔だんぶくろ〕が現われた。
     「誰(だれじゃ)、邪魔すッなといったのがわからんのか?
     どん、ぎゃっ、というような音が、その声を断(た)った。 どんは廊下を踏み鳴らしたひびきであり、ぎゃっはその男の断末魔の絶叫であった。
     一刀のもとにその官兵を庭へ切り落して、隼人は座敷にはいろうとした。
     中から、あわててもう一人髯面(ひげづら)が出て来た。 すでに抜刀した白刃をふりかざして出ようとしたのが、鴨居(かもい)に斬り込んで棒立ちになったのを、ほとんど胴を両断せんばかりにし、その血しぶきを浴びつつ隼人は中にはいった。
    (《修羅維新牢》P.23〜24)


     大男はふりむいた。 かつらの漆黒(しっこく)の毛が石橋(しゃっきょう)の獅子(しし)のように廻った。 〔しゃぐま〕をかぶっていたところを見ると、隊長らしい。 帯から手を離し、大刀をひきぬいた。 むろん、仲間が胴斬りになって崩折れたのと同時のことだ。
     「官軍に抵抗すッか!
     「けだもの!
     猛然と二人は相摶(あいう)った。 実際に二つの肉体はぶつかり合ったのである。
    (《修羅維新牢》P.24)


     二つの肉体は相重なったまま、お縫の立ちすくんでいた壁のすぐ横にどんとぶつかった。 隊長はみぞおちをつらぬかれ、壁に縫いつけられた
     刀身のなかばまでめり込んだ相手のからだに足をかけてひきぬくと、白く眼をむいた〔しゃぐま〕は滝のように血潮の中に転がった。
    (《修羅維新牢》P.25)


     「官軍の屯所(とんしょ)が、たしか小川(おがわ)町の講武所にあったな
     と、いった。
     それからまたしばらくして彼は、(おけ)を三つと、木札一枚を用意することを下男に命じた。
     その翌朝である。
     神田小川町の元講武所、いまは官軍の一屯所となっている門の向い側に、生首(なまくび)が三つ、その一つは〔しゃぐま〕をかぶったままで、雨の中ににかべられ、そばの地面に番傘が刺し込まれ、その下に何やら書いた木札が立てられているのが発見されて、大騒ぎになった。
     「薩賊入城以来、日夜民財を掠(かす)め、子女を姦(かん)し、暴虐いたらざるなし。 錦旗はそも賊旗なりや。 この醜骸(しゅうがい)もすなわち錦旗の一味にしてここに天剣を蒙(こうむ)らしむるものは、以後同様の所業を相働き候ものは、かくのこどく誅戮せしむべきもの也(なり)
     おそらく夜の間に運んで来られたものだろうが、昨夜も雨がふっていて、番兵もまったく気がつかなかった。
     三つの生首のは、いずれもスッパリ削(そ)がれていた
    (《修羅維新牢》P.26〜27)


     「首は小川町の屯所前に置いてあったちゅが、殺(や)られたのはどッかわからん。 首のそばにこげな文句を書(け)たものがあったと。首の鼻はみな削(そ)がれておったと
     中村半次郎は、木札の文章を読んで、激怒のために満面を朱に染めた。
     「ひとを馬鹿(ばか)にしちょッ。 −−例のやつじゃな!
     「旗本じゃな
     半次郎はうめいた。
     「こいで、薩摩だけで、何人殺(や)られたかのう
     「十一人……こいで十四人じゃ。 下手人はわからんが、徳川の侍にきまッと!
     半次郎のからだが庭を向いた。 かっと鍔(つば)が鳴ると、朱鞘から長刀がうなりを発して宙を一閃(いっせん)した。
     「こん儘(まめ)な、しちゃおられんが。 いったい親父(おや)ッどんがいかんとやッが。 大腹中じゃなか。 よか加減じゃッか。 一番始(いッぱんはツ)め、江戸へ入(へえ)ッ時(とツ)、幕軍に一大鉄槌(てつつい)を加ええんじゃッとが間違(まツげ)じゃった。 そいばッかいじゃなか。 江戸の鎮撫を勝安房なんぞ委(まか)すッちゅは何事(ないごツ)じゃ。 いったい親父(おや)ッどんな、勝、信用しすぎッが
     「半次郎、親父(おや)ッどんの悪口(あッこ)を言(ゆ)な
     と、重厚な声でたしなめたのは、村田新八(むらたしんぱち)であった。しかし、沈痛な表情だ。 親父(おやじ)とは、いうまでもなく西郷のことである。
    (《修羅維新牢》P.31〜32)


     一人目・沼田万八

     横浜運上所で万八は、主として生糸の輸出の検査に当っていた。 −−このころ日本の輸出品といえば、生糸くらいしかなかった。 輸入品は工業製品、特に鉄砲などの武器だ。
     こういう任務に就いてみて、万八は、貿易商人というものがいかにうまい汁(しる)を吸っているかを知った。 日本の各地から一両で二百五十匁(もんめ)くらいの生糸を買い込んで、外国商人にその三倍ないし五倍ぐらいの相場で売る。 その上、売糸にペケ糸を混合し、貫目をごまかす。−−
    (《修羅維新牢》P.42〜43)


     さきに述べたように、当時日本の輸出品で最重要なものは生糸であったから、幕府はその元資(もと)となる蚕の種紙が外へ大量に出て、外国でも大々的に生糸を生産されてはお手あげになるので、その出荷を厳に取締まった その禁輸品が、いまや船積みされんばかりにして、フランス倉庫に積まれているのを発見したのだ。
     万八は驚くとともに、大殊勲をたてる機会をつかんだことをよろこんだ。 ところが−−その倉庫に御禁制の蚕卵紙を運び込んだ商人が、だれかとしってめんくらった。 それは大和屋の平八であったのである。
     そうと知っては、黙って検挙も出来ないので、とにかくひそかに平八を呼んで事情を聞いた。 すると平八は笑い出した。
     「旦那、ありゃ種紙じゃありませんよ。 蚕の卵そっくりに見えますが、厚紙に菜種(なたね)を貼りつけたものでさあ
     「なに、菜種? そんなものを輸出してどうするのだ
     「むろん、蚕の種紙として売るんでさあ。 ……ふふ、洋銀の件を見てもわかるように、とにかく毛唐はあくどいからね、ときにはしっぺ返しをしてやらなくっちゃあ。 これで〔あいこ〕でさあ
     洋銀の件とは、当時外国商人が、あちらの貨幣と日本の貨幣の本来の価値がちがうのに、幕府の役人の無知からいいかげんな換算率を決めたために、買うときは洋銀を支払い、売るときは日本の大判小判を受けとり、怖(おそ)ろしいまでに儲けたというのだ。
     その仕返しのために、蚕卵紙と称してインチキの品物を売るという。 −−万八は、呆(あき)れかえった。 また平八の不敵さに舌を巻いた。
     「その……フランスの商人は知らぬが仏なのか
     「いえ、何もかも承知の上でさあ。 ……なにしろ、ゆくさきはイタリヤって国だそうでございますからね、わたしも儲けますが、日本も儲かることになります。 なに、いままでのお国の大損を少しでもとり返すだけのことでさあ。 あ、は、は、は
     この平八−−本名田中平八が、のちに「天下の糸平」と称された明治初年の豪商となる。 糸平とは生糸の平八という意味からそう呼ばれたのである。
     沼田万八は、平八をつかまえることをやめた。 ただ−−ずっとのちになって万八は、ふと思い出したのだが、このとき平八が菜種のインチキ品だなどといったのは嘘(うそ)っぱちで、あれはやっぱりほんものの蚕の種紙ではなかったか、という気がする。
    (《修羅維新牢》P.46〜47)


     やっと、あのとき銃口を押しつけられたおでこを撫(な)でさする余裕が出来るとともに、自分が命びろいをしたのは地震のおかげだと改めて思い出し、万八は自分を見舞う何度めかの奇蹟(きせき)について、しみじみと考えずにはいられなかった。 禍(わざわ)い以外の何者でもない悪疫や天変地妖(てんぺんちよう)が、自分の守護神になろうとは!
     −−おれには、神さまがついているにちがいない。
     沼田万八は、だんだん神がかりになって来た。
    (《修羅維新牢》P.59)


     「糸平、おまえ、わしに借りがあるなら、返すならこのときだと思え。 いや、拝む、土下座して頼む。……
     「何とかやってみましょう
     糸平は引受けてくれ、ニヤニヤしながらいった。
     「旦那、変ったでしょう。 世の中も、何もかも。 −−それにしても、三千石取りの旗本、すばらしい美男で名剣士、ふつうじゃ歯も立たない男が、ころっとくたばってしまうとは。 −−しかも、それが、旦那がお渡し下すったフランス銃の一発によるたア−−糸平が悪くはしないといったのがほんとうだったでございましょう、と威張りてえが、それにしても旦那は、ついてるねえ!
    (《修羅維新牢》P.72)


     二人目・橋戸善兵衛

     「人の性は善である
     と、信じて疑わない男に悪意をもって対する人間はまあいないが、その上、その性向のおかげで彼自身が決してトクをしていないのを見てはなおさらのことだ。
     あとさきのことを考えずに人に恵み、人のために奔走する男がトクをするわけがないが、そのわりに彼に恵み、彼のために奔走する人間はいなかった。 好意は禁じ得ないけれど、例えば上司が何かの役職につけてやろうと考えても、あれではかえって彼の負担が増すだけだろう取越苦労をしてしまうのだ。
     この点、彼はむしろつかない男といえた。 熱情的、楽天的にはずの彼の面上に、一抹(いちまつ)の悲劇性が漂っていたのは、そのせいかもしれない。
     にもかかわらず、橋戸善兵衛は、
     「人に善意をもって対すれば、人間は必ず酬いられるものである
     という信念をもって、そういう人にも説いてやまないのであった。
    ただし、それじゃあお前さんはどうだ、などとからかう者はいない。 その前に、本人が、
     「尤(もっと)も、そんなことを考えて善行をやるのは邪道じゃが
     と、断わり、その点についてもそう信じて疑わないらしいからだ。
    (《修羅維新牢》P.78〜79)


     三人目・寒河右京

     寒河右京は、自分に度胸があると思っていなかった。
     しかし、ときにちょいちょい、右に類したことをやるのだが、そんな元気が自分のどこから出るのだろう、と、われながらふしぎに思っていた。
     そして、ひまなとき、その根源力をみずから分析して二つに分けた。 いや、改めて分析するもへちまもない。自分の特徴、へんなものの感じかた考えかたは、彼自身にも以前からよくわかっていたのである。
     一つは、何をやっても臨時作業という気がいつもしていることだ。おれの本来やるべきことはこんなことじゃない、ほんとうはほかにやることがあるのだ、という気がしょっちゅうしているのである。 むろん、現在の安旗本という身分や小十人組という職務に満足していないことはたしかだが、この点はどうにもならないことは承知しているから、こういう問題で大それた望みをいだいているわけはない。 もっと別の次元のことだが、さてその本来やるべきことが何かというと、自分でもわからない
     とにかくそういう気持ちだから、何をやっても本気になれないし、不精にもなる。いまやっていることはいっときの遊びだ、臨時作業だと、思っているから、何がどうなろうとたいしたことはない、と、たかをくくり、そこで変な度胸が出てくるに相違ない。
    (《修羅維新牢》P.140〜141)


     もう一つの異常事は、他人の「我(が)」が、強烈に気にくわないことだ。 彼だって人間が「我」のかたまりであるくらいは承知しているから、全然それを認めないといったってはじまらないことはわかっているけれど、それが−−「分際」を超えると、がまんできなくなる衝動にかりたてられるらしい。 本人の「分際」以外の我ならいいのだ。
     その「分際」とは何かというと、自分でもよくわからない
    (《修羅維新牢》P.141)


     志摩守は五十年配で、もともと品のいい顔だちの人であったが、そういう役目を勤めた経験のせいか、細長い顔はめだって皺(しわ)が深まり、しかも貫禄(かんろく)がついて銅製の能面みたいな感じであった。
     「突然、呼びたてて驚いたことと思う
     と、彼はいった。
     「ゆるせ。……が、いろいろ思案しておるうち、ふとお前のことが頭に浮かび、やがてこの仕事をひき受けてくれるのはお前よりほかにない、と考えるに至ったのじゃ
     「へへえ。……何御用でござります?
     「お前、西潟鶏斎(にしがたけいさい)という名を聞いたことがあるか
     「西潟鶏斎? いや、耳にしたことはありませんが
     「いや、聞いたことはあるまい、会津(あいづ)の人間じゃから。 ……去年春ごろまで京の守護職に従っていて、あちらでいわゆる志士とやら称する凶徒どもを数多く斬(き)り、剣鬼という評判さえ立てられた人物じゃ
     志摩守は、こんな思いがけない名前から話し出した。
     「それが、江戸に参って、あることから当家に出入りするようになった。……
     会津は親藩(しんぱん)で、いま志摩守がいったように京都守護職の大任にあたっているくらいだから、その家臣がここへ出入りするのもふしぎではない。
     「それで?
     「みるからに精悍(せいかん)重厚、会津侍の典型のような男で、わしもすっかり信用しておったのじゃが、それがこのごろまことに当惑すべき要求を持ち出したのじゃ
     「……と、仰せられますと?
     「どこで聞いたか、幕府がこのごろフランスから入手した数千挺(ちょう)の鉄砲、それをひそかに会津に渡せ、という
     「ほう?
     「わしはいかにも軍艦奉行とやらを勤めたことはあるが、いまはお役御免となっており、左様な権限も力もない、と申したら、いや、あなたからお譲り願おうとは思っておらぬ、ただその鉄砲のある場所さえお教え下されば、当方で然(しか)るべく処置する、と申す。 小栗上野介どのと親しく、ほんのこのあいだまで軍艦奉行をやっていたあなたが、その鉄砲の所在を存ぜられぬことはあるまい、と−−
     「ふうむ。……
     「ただいまの政情から見て、西潟の気持わからぬでもない。 が、左様なことはもとより金輪際(こんりんざい)相成らぬ
     「では、拒絶に相成ればよろしかろうに
     「それが、そうはならぬのじゃ
     「なぜ?
     「西潟が、当家の死命をにぎっておるからじゃ
     「えっ、御当家の死命?
    (《修羅維新牢》P.146〜148)


     志摩守はつづける。
     「この役、果してくれる者は、お前のほかにない、と、わしは信じる
     右京は、夢かうつつか、といった状態でこの声を聞いていた。 ……いつか、某旗本の美人に難癖(なんくせ)をつけにいったことがあるけれど、これはいかなる眼をもってしても、一髪の毛ほどの文句もつけようがない、と、見とれずにはいられなかった。
     「右京、ひきうけてくれるな? これ真砂、お前からも頼め
     女人は眼をあげて、右京を見た。 その蝋色(ろういろ)の頬(ほお)にぼうと薄紅(うすべに)がさしたかと思うと、妙に遠い−−夢みるような声が聞こえた。
     「どうぞ……頼みますぞえ。……
     いったいその人斬り鶏斎と呼ばれる男を自分が斬れるのか、というような疑問は天空のかなたへ飛び去って、この虚無的な男が、のぼせあがったような声をはなっていた。
     「かしこまってござる!
     つまり彼は、ここでようやく、自分本来やるべき仕事、決して臨時作業ではない仕事を見つけ出したような気がしたのである。
    (《修羅維新牢》P.152〜153)


     はじめて寒河右京はまなじりを決して起(た)った。
     −−数日のうちに、彼は、和田倉門(わだくらもん)内の会津藩江戸屋敷を出入する人間のうち、問題の西潟鶏斎という男を知ることが出来た。
     人斬り鶏斎、とは聞いたが、改めて右京は見て、これは、と吐胸(とむね)をつかれた。 人はおろか、牛でも素手で殴(なぐ)り倒しそうに思われる。 背は六尺を越え、筋肉は瘤(こぶ)のごとくふしくれだち、肌はあぶらを流したように黒びかりして、顔はというと、毛虫にまがう眉(まゆ)、燃えているような眼、ふいごみたいな息をもらしている巨大な鼻、それにぶきみなくらい厚い粘土色の唇−−など、志摩守は、精悍重厚、といったけれど、それより獰悪(どうあく)狂猛と形容したほうがいい。
     この男が、幕府が輸入して隠匿(いんとく)している大量の鉄砲を、いまのうちに会津に渡せと要求したという。 不穏な薩長に対して、なぜかよろめいている幕府に向って、会津がそんなことを要求する気も右京にはわからないでもないが、しかし僭越(せんえつ)であり、無礼であると思う。「分際」を超えている
    (《修羅維新牢》P.153)


     西潟掲載は、あごをしゃくると同時にぶんと大刀をふりあげ、容赦のない一撃を相手の頭上からふり下した。
     その刹那。−−
     右京の左手は鞘をうしろにひき下ろし、腰が左にひねられて半身(はんみ)となったと見るや、右手から抜き出された刀は、電光のごとく鶏斎の右の脇腹(わきばら)から右肩へ、ななめに斬りあげた。
     鶏斎の大刀はまだ右京の頭上にあった。 そのまま泳ぐように低く地を駈(か)けた右京とすれちがい、凄(すさま)じい血しぶきを落しつつ鶏斎はつんのめっていって、地ひびきたてて転がった。
     転がって、大地に激突した人斬り鶏斎の顔は、驚愕(きょうがく)の相をたちまち凝固(ぎょうこ)させて動かなくなった。 −−見ていた志摩守もしばし声もない。
     「……やりおった!
     ようやく色のない唇でつぶやき、
     「……それほどの腕の持主とは思わなんだぞ。……
     と、右京のほうを見やった。 寒河右京は一見恍惚(こうこつ)とした顔で立っている。
     伯耆(ほうき)流抜刀術のうち、逆流(さかなが)れの抜き討ち。−−
     と、いうと、まるでこの道の大名人のようだが、右京としてはその昔この居合抜きだけは熱心に修行したことはあるけれど、べつに人に知られた達人というほどではない。 いま一見恍惚と見えたのは実は自失状態で、自分のやってのけたことが信じられないくらいであったのだ。
     抜刀術は、勝負を一瞬に決する。 腰の反動を利してやるので、なまじ頭上からふり下ろすより迅(はや)い。 二人だけの立ち合いのときに限り、これは恐るべき刀術だ。 −−むろん居合抜きのことは西潟鶏斎だって承知していなかったはずはないが、承知していてやはり大油断としかいいようがない。
     いや、こちらの術より相手の油断より、何よりこの結果を呼んだのは、右京自身の捨身の度胸であったろう。
     「……これでよろしいか
     と、右京は嗄(しゃが)れた声でいった。われながら恰好(かっこう)はいいという自覚がきざしていた。
    (《修羅維新牢》P.157〜158)


     四人目・曽我小四郎(そがこしろう) 五人目・大谷十郎左衛門(おおたにじゅうろうざえもん)

     ところで大谷十郎左衛門は、決して寡黙(かもく)のほうではない。 むしろ大言壮語型だ。 ただ道徳的説教や空理空論ではなく、実際戦争をやった人間の手柄話なので、聞いていて面白く、かつ人を納得させた。
     彼はおととしの水戸(みと)の天狗党(てんぐとう)騒ぎの際、幕軍が討伐に向ったとき、出動を命じられないのにわざわざ志願して参加し、この戦闘を体験して来たのである。 ただ体験して来ただけでなく、そこで徳川旗本に大谷十郎左衛門ありと勇名を鳴りひびかせたので、むとろこのことが小四郎ら若い心酔者を集めるもととなったといっていい。
    (《修羅維新牢》P.173〜174)


     討伐に出動したものの、へっぴり腰の幕軍はしばしば天狗党の反撃を受けて潰乱(かいらん)した。 それを見てとった十郎左衛門は、幕府総督田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)に談判して、そんなみっともない敗走をやった幕軍の指揮者のみならず、あきらかに戦意のない隊長数名を切腹させた。−−
    (《修羅維新牢》P.174)


     そして彼はみずから一隊の指揮をわかされたが、これがいつも進んで決死隊ともいうべき役割をひき受けた。 中でも彼の面目躍如としているのは那珂湊(なかみなと)近くの「人首(ひとくび)橋」の焼落しであった。
     ほかに目撃者もあるから、法螺(ほら)ではない

    (《修羅維新牢》P.174)


     このときの戦闘で味方が負け、算を乱して退くのを敵が猛追してきた。 それを人首橋という橋でくいとめなければ、あとにもう一つの渡し船しかない河があり、そのときの様相では全滅のほかはなかった。
     味方は、ともかく人首橋を渡り切った。 あとその橋を(おの)や(のこぎり)で切り落す余裕はなかった。
     十郎左衛門はその敗軍の中にあったが、渡ったばかりの橋のたもとに油屋があるのに気づいた。 むろん一帯の住民はみな逃げ去っていた。 橋に油をまいて焼き払うことを考えたが、風向きの関係で、油をまきながらもういちど向うへ戻り、そちらから火をつけなければならないことがわかった。 しかしもね一人や二人ではできる仕事ではないことはあきらかであった。
     そこで彼は配下の十人余りにその作業を命じたのである。 彼らは即座に応じ、これをやってのけた。
     しかし、やった配下のすべてはみずから退路を絶つことになり、殺到する敵軍にみな殺しになったのである。
     「……おれはいった。 みんなに、いのちをおれにくれと。 −−すると、一同はニッコと笑い
     この話をするとき、十郎左衛門はいつもふとい腕を眼にあてて泣いた。 すると、これを聞くいまの「配下」たちは、盃(さかずき)をとめてみなもらい泣きするのであった。
    (《修羅維新牢》P.174〜175)


     二人目の浪人は、背から腹へ刀身の半ばまで刺されてのけぞり返り、ついで海老(えび)みたいにからだをまるくした。 そのおかげで刀がぬけて、その刀で小四郎は、まだのた打ちまわっている最初の男に、血みどろのきちがい踊りみたいに斬りつけた。
    (《修羅維新牢》P.188)


     六人目・桑山軍次郎(くわやまぐんじろう) 七人目・早瀬半之丞(はやせはんのじょう) 八人目・鰻谷左内(うなぎたにさない)

     軍次は百姓の中でも頑丈(がんじょう)なからだをしていた。どんな労働にでも耐えられるから、江戸へ出ても当分食うだけには困るまいと思っていた。 だから、大吉と別れることになっても、それほど失望もしなかったのである。
     それが、最低の食扶持(くいぶち)もかせぐことが出来ないのが江戸だと知って、彼は狼狽(ろうばい)した。 どこの家、どんな商売のところへいっても、知り合いでなければ、口入屋(くちいれや)以外から人を傭ってくれないのだ。 そこで口入屋に働き口の世話を頼みにゆくと、これも身許(みもと)引受人がなくては相手になってくれないのだ。
     知り合い、身許引受人というと、いまのところ大吉しかいないが、江戸へ出て来たばかりの大吉がそんなものになれるだろうか? いや、それよりも、
     「侍になったらまた逢おう
     と、高言した手前、大吉のところへはゆきたくなかった。 軍次は変に〔いこじ〕なところがあった。
    (《修羅維新牢》P.221)


     「やいやい、この野郎
     「見たことのねえ面(つら)だが、だれさまのお許しを得てこんなところでお貰(もら)いしてやがる?
     顔をあげると−−乞食(こじき)のむれだ。 ボロボロの着物を着た髯(ひげ)づらが、七、八人もぐるっととり巻いている。 役人を見たよりも、軍次は肝(きも)をつぶした。
     「はあ、こりゃ……どなたさまのお許しがいりますんで?
     「車善七(くるまぜんしち)さまよ!
     「くるま……?
     「江戸の非人のおん大将よ!
     そこではじめて軍次は、江戸の乞食はことごとく非人頭(ひにんがしら)車善七という者の支配下にあって、その仲間にはいらなければ勝手に乞食もできないということを知ったのである。
    (《修羅維新牢》P.222)


     −−のちに軍次が、おれのいのちはもう終りか、という大苦悶(くもん)の運命におちいったとき、ここで暮した二年ばかりを、生れてからいちばん愉(たの)しかった、身もふるえるほどのなつかしい記憶として甦(よみが)えらせるのだが、はじめてつれてゆかれたときには驚いた。
     彼の甲州の家も恐ろしいあばら家(や)であったが、それでも土間もあり、三つ四つの部屋もあり、そしてまわりは広い畑であった。 ところがこの江戸の長屋たるや−−三尺の通路をはさんで、両側に間口(まぐち)九尺、奥ゆき二間(にけん)の小屋がズラリとならんでいる
     通路のまんなかは(みぞ)になり、その上にドブ板は張られているが、両側から流れ込む汚水はむっとするような悪臭をたてている。 いわゆる九尺二間の長屋の一軒分は、それだけなら六帖(ろくじょう)分にあたるが、これだって台所と押入は要るから、正味は四帖半分くらいしかない。便所は路地の奥に共同のものが一つあるだけだ。
     そこに子沢山な、いわゆる長屋人種が−−ふだん男はふんどし一本、女は腰巻一枚で、ウジャウジャとドブの中の〔ぼうふら〕みたいに暮しているのであった。 ぬか味噌(みそ)の匂(にお)い、安魚を焼く匂い、小便の匂い、泣く声、笑う声、喧嘩(けんか)する声、その他もろもろの怪しき声も、みんなつつぬけだ。
    (《修羅維新牢》P.223〜224)


     中間というと武家奉公のうち最低のものだ。  足軽ならまだ雑兵のうちにはいるが、これは武士ですらない。苗字(みょうじ)もなければ刀も与えられない。紺看板(こんかんばん)に梵天帯(ぼんてんおび)、それに木刀を差しているだけだ。 給金は一年に二両二分、長屋の日傭取(ひようと)りだってその倍くらいの稼ぎはあるだろう。
     「おい、軍次。 ……そういや、おめえ、侍になるとァいってたが、中間は侍じゃねえんだぜ
     と、棟梁(とうりょう)源六は呆(あき)れ返った。
    (《修羅維新牢》P.233)


     おびただしい浪人が世に溢(あふ)れているのに、中間になる法があるか。 −−ある。 決してだれもかれもやれることではないが、まったく不可能ではない。 それは金で侍の株を買う方法である。 真下専之丞がその見本だ。
    (《修羅維新牢》P.233)


     それ以外にも、軍次はその例を、ニ、三見た。 むろん軍次の知った例ではないが、この物語の冒頭に登場した勝安房守さえも、もとはその祖父だか曾祖父(そうそふ)だかの男谷検校(おだにけんぎょう)という人が高利貸をやって儲(もう)けた金で、子に御家人(ごけにん)の株を買ってやったのがもとであったのだ。
    (《修羅維新牢》P.233〜234)


     そして彼らは再会したが、そのときの話では直参(じきさん)の最下級−−いわゆる御家人のいちばん安い株でも、いまの相場は二百五十両はするということであった。 樋口八十之進も同じことをかんがえていたのである。
     樋口の給料は年に四両一人扶持だという。 江戸へ出るとき女房の腹にあった子供はあれからすぐ生まれたが、それは里子(さとご)に出して、女房のあやめは湯島(ゆしま)の某旗本へ乳母に奉公に上っているという。夫婦共稼ぎで、少しでもたくさんの収入を得ようとしているらしかった。
     ましてや二両二分の給金の軍次には、気の遠くなるような話であった。それだけにとどまるなら、百年以上はかかる見込みだ。
    (《修羅維新牢》P.234〜235)


     しかし軍次は絶望しなかった。 彼は一心不乱に金をためるのにかかった。
     とにかく早瀬家にいれば、飯だけはくわせてもらえるから、給金は一分(いちぶ)も使わない。 ひまさえあれば、内職にせいを出す傘(かさ)張り提灯(ちょうちん)張り竹細工わらじ作り古釘(ふるくぎ)拾い紙屑(かみくず)拾い蝋燭(ろうそく)の流れ買い−−近所の屋敷の雑用足し吉凶の手伝いはいうまでもない。
    (《修羅維新牢》P.235)


     九人目・久保寺民部(くぼでらみんぶ) 十人目・田代主水(たしろもんど)

     安政の大地震とは、安政元年六月の南海から十一月の東海翌年十月の江戸にわたる一連の大地震の総称で、中で東海沖のものが一番大きく、六十九年後の関東大震災のマグニチュード七・九を上まわる八・四のものであったが、規模としては最も小さい江戸のものが、震源地がその直下であったために、死者一万人以上と推定される最も惨事の大きいものとなった。
    (《修羅維新牢》P.279)


     −−こういう体験があった。
     彼はこの大地震で、おびただしい人間が虫ケラみたいに死んでゆくのを見た。 いい人間、尊敬すべき人間、美しい人間が、この世の地獄の中にのたうちまわって死ぬのをまざまざとみた。
     人間は、その値打ちとは全然無関係な死にかたをするものだ
     と、彼は考えた。
     それどころか、気のせいか、悪いやつ、ろくでもないやつ、醜悪なやつばかりがつつがなく生き残ったような気がする。
    (《修羅維新牢》P.287〜288)


     椿沢蘭朴先生と奉仕の娘たちは、病人ばかりでなく、たしか近所一帯の尊敬のまとであった。 それがあのとき、だれも手伝いに来ないばかりか、必死に呼びかけても、みんな雲を霞(かすみ)と逃げ去ってしまった。−−
     要するに、あれだけの大天災にぶつかっては、たとえかたちは万人万様にしろ、こんな衝撃はだれも受ける破目になったろうし、またあとになって、だれでも彼と大同小異の感慨は持ったにちがいない。
    (《修羅維新牢》P.288)


     つらつらこの世の人間どもを見るのに、どうにも気にくわないやつばかりといってよかった。 自分が感心しないばかりではない。 どう客観的に見たつもりでも、どいつもこいつも生きていても何の役にもたたない。 むしろ有害なだけの存在に思われた。
    (《修羅維新牢》P.296)


     たくましくて、能力のある人間は、それだけ世のため人のために尽すかというと、なるほど大いにやるけれど、それ以上に自分のために尽す。 そうでなければ、勝手に火をつけておいて勝手に水をかけるような、結果的にははじめから何もやらないほうがましであったようなことをやって、威張ることだけは能力の三倍くらい威張る
    (《修羅維新牢》P.296)


     おとなしくて無能力な人間は、何もやらないのはいいが、その代りひとの働きにぶら下がって厄介な重荷になり、そのくせそれを当たりまえと考えている。 それどころか、あっちへいってはおべんちゃら、こっちへいっては人の蔭口(かげぐち)、弱者なりの武器を使って、こそこそ〔かすり〕を取るのに余念がない。
    (《修羅維新牢》P.296)


     強食のほうも臆面(おくめん)もないが、弱肉のほうもなかなかしたたかだ。
     正義はやきもちの仮面をかぶったものであり、秩序は権力者側の弾圧のからくりであり、慈悲は特権意識の変形したものであり、平和と安穏は結局だれかの犠牲の上の白い城であった。 儒教も武士道も、よくよく考えると支配者のための奴隷と道徳としか思われなかった。
    (《修羅維新牢》P.296〜297)


     だいたい、殺人者が自分の犯した罪におののいているなどいうことは、人を殺すなど思いもよらない人間の得手勝手な想像だろう。 またどんな奸智(かんち)にたけた殺人者でも、どこかに不手際を残していていつかつかまるものだというが、それはそんな不手際を残してつかまった殺人者にあてはまるだけの話で、この世にはつかまらない人殺しはウジャウジャといる。 −−げんにおれなど不手際を残すどころか、ゆきあたりばったりに殺しているが、全然つかまる気配もない、と、民部は考えた。
    (《修羅維新牢》P.300)


     彼は、自分の暮しや人生がいやでいやでたまらず、たしかに死のうと思って努力してはいるのだが、まだ不徹底な気味があるのは否めなかった。
     可笑(おか)しいことに、家名とか家の存続などいうことにとらわれるところがあって、首吊りなど出来なかったし、また死ぬのはいいが、あまり痛かったり、苦しかったり利するのは困る、など考えることもあった。 彼は自分の欲望にコンプレックスをいだいていて、だれにもこのことをもらさなかったほんものではある証拠だ。
    (《修羅維新牢》P.310)


     あくる日、町はこの人殺しの噂(うわさ)で持ち切っているようであったが、その中に「また例のやつだ」という恐怖のささやきがあった。
     −−例のやつ
     主水は、ここ数年、江戸で頻々と起っている辻斬り−−まったく動機のない殺人の数々を思い出し、改めてぎょっとしていた。
     あの下手人は久保寺民部であったのか?
     民部なら、やりそうな気がした。−−しかし、その動機に至っては、依然見当もつかない。
     ただ、民部はだいぶまえから道場で手首を打ったといって左手が不自由に見せているが−−いや、そういえば釣りのとき、彼がその不自由な左手を、ヒョイ、ヒョイと使っているのを、何度か見たことがある。
    (《修羅維新牢》P.313)


     そして、ただひたすらに死ぬ日を待った。
     ところが−−なかなかその日が来なかった。 牢屋敷の中は、何か、囚獄以外のことで浮き足立っているようであった。 世の中のことにあまり興味のない彼も、出入する囚人の話から、幕府が危いという話を聞いて驚いているうちに−−とうとう幕府がひっくり返った、と聞いて茫然(ぼうぜん)としないわけにはゆかなかった。
     翌年の春のことだ。
     なんと彼は−−ほかの揚屋の囚人の大半とともに、牢屋敷から解放されてしまったのである。
     考えて見ると、せっかく死のうとしているところを突然牢屋敷に放り込まれて助かったようなものだが、瓦解(がかい)の騒動でたくさんの幕臣がいのちを失ったのに、彼は牢にはいっていて難を免れ、そしてまた当然斬罪(ざんざい)になるところを、こんどはわけもわからず放り出されてしまったことになる
    (《修羅維新牢》P.328)


     牢の中・いのち十人

     −−この物語の翌年、函館五稜郭(はこだてごりょうかく)で官軍に抵抗し、降伏して東京に護送され、伝馬町の揚屋牢(あがりやろう)にいれられた幕臣大鳥圭介(おおとりけいすけ)が書いている。
     「揚屋の戸口に到り、錠をひらき、内にはいりみれば、揚屋は幾局にもわかち、多くの人数群居せり。 われらは最奥なる一番室にはいりたり。
     牢内にはいるとき、小吏どもことごとく所持の物を改めしにより、是非なく用意の金子(きんす)、小刀、矢立(やたて)等を渡せり。
     室内にはいりみれば、四方は四ツ谷丸太(まるた)の二重格子をもってこれを囲(かこ)い、六畳敷きなれども囲いの中に●(かわや)と流しの箱とあれば、畳は四畳半なり。 この中に七人いれられたり。
     飯時には竹の皮に飯をつつみ、沢庵(たくあん)の切りかけたる一片をそえ、小使持ち来れり。 四方窓暗く、残熱も甚(はなは)だしきゆえ、いずれも少しばかり食して箸(はし)を投ぜり。
     夜にはいりそのまま臥(ふ)せしに、蚤(のみ)は肌を刺し、蚊(か)は耳にひびき安眠する能(あた)わず。
     牢内に●(かわや)一か所にて甚だ小なり。 人数多きゆえ、大小便をもって汚す。 毎日臭気にたえず
    (●(かわや):“口”に“青”の似字)
     ともかくも士分の者をいれる揚屋(あがりや)にして、かつ一応戦争は終った明治二年にして、この始末だったのである。
    (《修羅維新牢》P.333〜334)


     〔しゃぐま〕をかぶったその一人が、高札をぶら下げていて、それを格子の前で読んだ。
     「過日以来、しばしば官兵を暗殺し、凶暴を逞(たくま)しうするの条、実に国家の乱賊たり。 右の者見付け次第誅戮(ちゅうりく)すべきはもとより、萬一これを知りて扶助隠匿(いんとく)いたし候者は、賊と同断、厳刑に処すべきもの也。
      慶応四年四月十五日             大総督府参謀

    (《修羅維新牢》P.335)


     「        告
     さきに官兵二十余人を殺害せる凶賊あり。 あまつさえ近日また不敵にも三人の官兵を虐殺して、神田小川町屯所前に晒(さら)すの大逆をあえてせり。 その下手人いまだ不明なりといえども、ただその手並よりして旗本の一類たることは明白なり。
     ここにおいて大総督府、右下手人の身代りとしてここに旗本十人を馘(くびき)らんとす。 この者ども罪あるにあらず、ただ右凶徒を罪して爾後(じご)の累悪を防がんがためなり。
     よってこれより一日一殺の刑を万衆に曝(さら)し、下手人名乗り出づればすなわちやむ。
     下手人、ひそかに見て、その惨に己の罪を悔ゆれば名乗り出よ。 また下手人を知る者あらばただちに届け出づべし。以上。
                    大総督府参謀  中村半次郎」

    (《修羅維新牢》P.339)


     「おれは上野(うえの)へゆかねばならん。 ここで、こんなことで死んではならん。……
     「それは、わかります……
     小四郎はさけんだ。
     「しかし、こうなっては、もうどうしようもありません。 私は覚悟しました。……はじめ馬鹿馬鹿しいと思いましたが、今はそう思わなくなりました。……とにかく、暴虐な官軍を制裁した者がある。 その身代りとなって死ぬのだ、と思えば、幕臣としてまた本望だと
    (《修羅維新牢》P.350)


     牢の外・いのち一人

     官軍がこの暴挙を思いついたのは、以前からの二十余人に上る官兵殺傷によるものだが、それに踏み切ったのは、先日の神田小川町の屯所(とんしょ)に晒(さら)した隊長をふくむ三人の殺害であることは、そこに立てられた高札から明らかであった。
     進駐以来の殺傷は知るところではない。 しかし小川町屯所前の晒し首はまさに自分の所業だ。
     −−そのために、あの男は無実の罪で殺されようとしているのだ!

     事実、その牛のような男の首は斬られた。
     戸祭隼人はその光景に眼を覆ったが、しかし、さればとて自分が名乗り出る気にはなれなかった。
    (《修羅維新牢》P.358)


     おれは名乗り出るべきであろうか、という考えがちらっときざしたのは、その日がはじめてであった。
     しかし、すぐに彼の顔に、母と恋人の姿がうかんだ。
     もとより隼人は、その母や恋人と、これから暮そうとは思ってはいない。 こんな事件が起らなくても、事態はそんなことを許さない。 彼は、やがて、十中八、九まで江戸湾を脱走する幕艦に乗って蝦夷(えぞ)へゆくつもりだ
     そして隼人の怖(おそ)れていたのは、そのことをちゃんと母が見ぬいていて、自分の脱走とともに自殺するのではないかということであった。 だから、それを防ぐために恋人のお縫によく世話を頼んで、母とともに川越へ落ちてもらおうと考えていたのだ。
    (《修羅維新牢》P.360)


     自分から見ても、あっぱれな母であり、頼み甲斐(がい)のあるお縫という娘であった。
     その二人が、まだそばにいるというのに−−彰義隊(しょうぎたい)にでもはいってはなばなしく戦うというならまだしも、伝馬牢に自首し、あのように乱暴至極な官軍に、大根のように斬られるとは? それを知ったら、あの二人は発狂するだろう。
     そんな愚行は、断じて出来ぬ!
    (《修羅維新牢》P.360〜361)


     しかし、戸祭隼人は、その翌日、憑(つ)かれた人のように、またそこへいった。−−
     そして、大谷十郎左衛門の死を見た。 大谷は旗本の中でも有名な男であったから、隼人も知っていた。 勇者として聞こえていたその男が、縛られたまま地面を転がりまわり、押さえつけられて悲鳴をあげながら首を切断されるという、無惨とも酸鼻(さんび)ともいいようのない光景を目撃させられたのである。
     隼人はそれに軽蔑(けいべつ)を感じるどころではなかった。
     当然なことだが、人間が死ぬとは大変なことだな、と、こみあげる嘔吐感(おうとかん)とともに嘆声をあげずにはいられなかった。
    (《修羅維新牢》P.361)


     「隼人、お前。……官軍を斬ってまわっておる旗本を知らねえだろうなあ?
     と、聞いてきた。 隼人は、はっとして、とっさに口もきけなかった。
     「いや、まったく馬鹿なやつがいるもんだ。 おめえなんか、知らねえだろうなあ。……また大総督府に呼びつけられて、例のきちがいがまだつかまらねえ、江戸市中の治安取締りを命じたはずだが、どうしたって、さんざん中村ってえ参謀に油をしぼられて来たから、つい聞いただけなのさ
    (《修羅維新牢》P.368)


     「下手人は、旗本にちげえねえ、と中村参謀はいう。 おれもそう思う。……それに、せんだって、また三人を斬って官軍の小川町屯所(とんしょ)の前に鼻まで削(そ)いで晒(さら)し首にしたやつがあったってねえ。 その中に薩摩(さつま)の隊長格がいたそうで、参謀はかんかんになっているのさ
    (《修羅維新牢》P.368〜369)


     「それで、五、六日前から、手当たり次第につかまえた旗本を、一日一人ずつみせしめに斬ってるそうだな。 その話はおれも聞いて、ひでえことをしやがると呆(あき)れていたんだよ。下手人が出ねえからしょうがねえって中村参謀はいうんだがね。 これ以上官軍の犠牲者を出さねえためにも、一殺多生、とか何とかいってたが、そいつが、一殺どころの騒ぎじゃねえ
    (《修羅維新牢》P.369)


     解説 中島河太郎

     本書ははじめ「侍よさらば」と題して、昭和四十九年四月から翌年一月にかけて、「小説サンデー毎日」に連載され、その二月に毎日新聞社から刊行された。 文庫版刊行に際して「修羅維新牢(しゅらいしんろう)」と改題された。
    (《修羅維新牢》P.183)


     元版では題名に添えて、「江戸・明治元年」とある。 まさに天地逆転の年で、三月中旬には西郷隆盛と勝海舟との江戸城明け渡しの談判が薩摩屋敷で行われた。 四月に入ると将軍慶喜の死罪を減じて幽閉と決し、東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は江戸に入城する。 こういう刻々と激動しつつある時期をとらえてこの物語は展開する。
    (《修羅維新牢》P.383)


     官軍の江戸接収は無事平穏に進捗するはずがなかった。 勝ちに乗じた田舎侍の暴行に対して、徳川方の武士の一部には彰義隊を結成して抵抗しようと策謀がめぐらされていたが、それに加わらぬものや一般市民が反感を抱き、反撃の機を窺(うかが)っていたのは当然であろう。
    (《修羅維新牢》P.383〜384)


     著者がこの設定について、「戦争中、ほんとうにドイツ軍がやったんです。 パリを占領して、ドイツ兵が殺されると、それをヒットラーのことだから全然関係ないフランス人を五十人、百人集めておいて、殺していく。 そういう布告をだしてやるならやってみろという。 そういう話を日本に置きかえてやったんだけど」(「別冊新評」昭和五十四年七月)と、インタビューで答えている。
    (《修羅維新牢》P.384)