[抜書き]『虹の翼』


『虹の翼』吉村昭・文春文庫
2012年6月10日 新装版第1刷
目次
虹の翼
あとがき
参考文献
解説 和田 宏


     虹の翼

     日本の写真術は、十八年前の文久元年、オランダ海軍医官ポンペから学んだ長崎の上野彦馬が写真撮影に成功し、ほとんど同時に下岡蓮杖が横浜で開業したことにはじまる。 その後、写真を撮影する者が徐々に増したが、それは大半が大都会にかぎられ、八幡浜浦一帯では、その名称をわずかに耳にするだけであった。  西洋文明の影響はほとんどみられず、燈火も依然として行燈(あんどん)で、ランプを眼にしたものもいない。 そうした八幡浜浦で、平井が写真館を開くという話は、町の話題にもなっていた。
    (《虹の翼》P.15)


     少年少女にとって、七月のお盆は楽しい行事だった。 家々では、先祖の霊を祭るお棚(祭壇)を設け、位牌仏像などを並べ篠竹みそはぎかじ(くず)を柱にとりつけ、香華(こうげ)を供える。 そして、十三日の夕方には家族そろって戸口で迎え火をたき、
     「このあかりでおいでなさい
     と唱え、十五日の夕刻に、
     「このあかりでお帰りなさい
     と言って、送り火をたく。
     その間、町の人々は、夕方になると丘陵にある墓地にのぼっていって燈籠に灯明をともす。 夜の色が濃く町に落ちる頃、丘陵には灯が集落のように寄りかたまって美しい夜景をくりひろげた。 さらに少年たちは、町内の空地に集り、持ち寄った米で飯を炊いてにぎやかに食事をとる。 「盆まんま」と言い、それを食べると夏に病気にかからぬと言われていた。
    (《虹の翼》P.39)


     明治新政府が樹立されて以来、西洋の風俗が続々と流れこみ、明治初年頃から丁髷を切って散切り頭にする者がみられるようになった。 それに拍車をかけるように明治四年八月、「散髪……勝手たるべきこと」という政府の布令が発せられてから、殊に近畿地方を中心に散切り頭にする者が増した。 さらに六年三月には天皇も「頭髪ヲ斬リ給フ」という旨の発表があり、その傾向はさらにひろまっていた。
     しかし、丁髷をとることを嫌う者は多く、一度、髪を切ったが丁髷が恋しく、再び髪を伸ばして結う者もいた。 散切り頭は次第に地方へひろまっていたが、八幡浜浦一帯は男は一人の例外もなく丁髷を頭にのせ、散切り頭のことは人づてに耳にしているにすぎなかった。
    (《虹の翼》P.46)


     明治十年忠八は十二歳になった。 ……その年、西南戦争が起った。
     明治新政府の政策は、旧武士階級である士族の崩壊をうながした。 明治九年、政府は軍人と警察官以外の帯刀を禁じ、ついで士族のうけていた禄を廃止した。 このため士族の怒りはたかまり、その年神風連の乱秋月の乱、さらに萩(はぎ)の乱が相ついで起った。 それらは、新政府に対する士族たちの反乱であった。
    (《虹の翼》P.51)


     新政府樹立の最大の功労者である参議西郷隆盛は、これら士族の救済を企て、侮日運動のはげしい韓国に士族で編成した兵力を投入し、士族の地位を回復させることを企てた。 が、大久保利通木戸孝允らは国内の充実をはかるのが先決だとして強く反対した。征韓論にやぶれた西郷は、参議の辞表を政府に提出し、東京を去って鹿児島に帰り、西郷派の武官、文官約六百名もそれに従った。
    (《虹の翼》P.51)


     そうした折に、人を介して旧庄屋の平井深造から、写真館を開くが働く意志はないかという話が持ちこまれた。 平井にとっては道楽半分の事業で、四国地方ではわずかに徳島県の立木行義、高知県の今井貞吉が長崎に行き上野彦馬から写真術を修行している程度であった。
    (《虹の翼》P.57)


     忠八は、平井のすすめを喜んだ。 八幡浜浦では、わずかながら西洋文明流入の余波がさまざまな形になって入りはじめていた。 郵便取扱所郵便局に改称され、黒い饅頭(まんじゅう)笠に筒袖を着、草鞋(わらじ)をはいた郵便脚夫が手紙を籠に入れて町の中を小走りに歩くようにもなっている。 また、菊池清治という男が八幡浜裏で初めて外輪式の蒸気船ニ隻を建造し、大阪航路に就航させ、交通の便も飛躍的に向上していた。 そうした中で、男たちも丁髷を切って散切り頭にする者もみられるようになっていた。
    (《虹の翼》P.57)


     写真にとられると、魂がぬきとられるという話は、八幡浜浦にもつたえられていた。 明治時代を迎えても、江戸幕府がきびしく禁じていたキリスト教に対する一般の人々の恐怖は根強く残っていて、西洋から伝えられた写真は、キリシタンの魔法だと言って恐れる者すらいた。 写真にとられる者たちの間にも、どのようなことがきっかけなのか、
     「三人で写すと、中央の者は必ず死ぬ
     という説がまことしやかに流れていた。
     それは半ば定説になっていて、長崎のオランダ語研究家名村八右衛門の甥の話がしばしば話題にされていた。 その男は、三人の中央に立って写真をうつされたが、間もなく重病にかかり、臨終に、
     「写真にたたられた
     と、絶叫して息をひきとったという。
    (《虹の翼》P.61)


     日本で最初の写真師である長崎の上野彦馬は、坂本龍馬高杉晋作伊藤俊輔(博文)、大隈八太郎(重信)らを撮影したが、一般の人の中には写真をうつされることを恐れる者が多かった。 その好例として、写真をめぐる自刃騒ぎの話が伝えられている。 薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は、西洋の知識を積極的に導入することにつとめたが、かれは上野彦馬の写真撮影を耳にして強い関心をしめし、家臣市来(いちき)四郎正右衛門に命じ、家臣二人を長崎におもむかせ写真をうつしてもらうよう指示した。 斉彬は、どのように写るか見たかったのである。
    (《虹の翼》P.61)


     市来は、ただちに二人の家臣をえらび、長崎に行くよううながした。 家臣は、驚き、嘆いた。 かれらは、写真をとられると、魂をぬきとられるという説をかたく信じこんでいた。
     「武士の魂がぬきとられてしまっては、御先祖様に申訳が立たぬ。 と言って、君命にそむくこともできぬし……
     二人は身にふりかかった不運を嘆き合い、結局、板ばさみの苦しみを遺書に書きとめ、切腹して果てたのである。
    (《虹の翼》P.61〜62)


     薬は、胃散肺病の練(ね)り薬婦人病の水薬痛みどめなど種類が多く、それらが竹の皮におさめられて売られていた。
     (きゅう)に使われる(もぐさ)も、重要な商品だった。 もくざ燃え草の略語で、良質のよもぎの葉から作る。 葉を陰干しにして臼でつき、紙に巻いて切って売る。江州伊吹産のものが最も良いとされていた
     また、歯みがき粉も扱われていた。 材料は房州産の砂で、それに麝香(じゃこう)、丁子(ちょうじ)、白檀(びゃくだん)などで香りをつけ、に入れて売られている。 また、西洋風の歯みがき粉も問屋から卸(おろ)されていた。 その成分はわからなかったが、桃色の粉で、口の中がさわやかになった。
    (《虹の翼》P.68〜69)


     その頃、江藤らは、高知へと向っていた。 街道は危険なので、山中を選んだ。 寒気はきびしく、所々に雪も残っている。 餓えと寒さにおびえながら、かれらは、ひたすら高知を目ざした。 かれらは、松丸付近の間道をたどったが、三月二十五日、隣接した吉野村で、まず中島鼎蔵が捕えられ、ついで高知県に入った地で山中一郎櫛山叙臣が縛についた。
    (《虹の翼》P.72)


     江藤ら三人は、無事に県境を越え、高知県大宮村(現四万十(しまんと)市西土佐)に出た。 そして、小船を得て四万十川を下り土佐湾に面した下田(現四万十市下田)にたどりついた。 そこから高知に赴き、同志の林有造に助力を求めたが、いれられなかった。
    (《虹の翼》P.72)


     江藤の身辺に、追手がせまった。 かれは、名東県(現徳島県)をへて和歌山へ逃げようと考え、東進して野根川から甲(かん)ノ浦に潜入した。 そこは、和歌山へ渡海する港であった。 しかし、待伏せしていた高知県捜査員によって江藤ら三名は捕えられた。 かれらが捕えられたきっかけは、江藤の写真が手配写真として捜査員の手に渡っていたためであった
    (《虹の翼》P.72)


     江藤の身柄は、ただちに佐賀県に送られ裁判を受けた。 裁判官は、江藤が初代の司法卿時代の部下であった河野敏鎌(こうのとがま)であった。判決は、梟首(きょうしゅ)の極刑であった
    (《虹の翼》P.72〜73)


     その日、ただちに処刑されることになり、佐賀城二の丸大手門前で首を刎(は)ねられた。斬首の役を担当したのは、士族野口重正であった。
     江藤の首は、三日間刑場にさらされた。 その首は写真師によって撮影され、一般に市販されて大きな反響をまき起した。東京市では、元司法卿の痛ましい姿が庶民の眼にふれることは好ましくないとして発禁にした
    (《虹の翼》P.73)


     或る日、かれは都築温から珍しいものを見せてもらった。 それは、風船と呼ばれる軽気球で日本で初めて揚げられた折の情景を描いた明治十年五月版錦絵(にしきえ)であった。 軽気球の周囲には、天皇をはじめ多くの軍人、政治家たちが見守っている姿も描かれていた。 都築は、それを報道した古新聞もみせてくれた。
    (《虹の翼》P.79)


     忠八は興奮し、新聞記事に視線を据えた。 まず軽気球が天明年間フランスで発明され、その後、絵図や紹介文が日本にも伝えられたことが記されていた。 殊に明治三年にプロイセンとフランス間に普仏戦争が起り、プロイセン軍に包囲されたフランスの首都パリから内務大臣ガンベッタらが軽気球で脱出したことが大きな反響をまき起したという。
    (《虹の翼》P.79)


     明治十年西南戦争が起り、西郷隆盛にひきいられた大軍が熊本城を包囲した。 これに対し、政府軍は西郷軍を攻撃したが、抵抗は激しく包囲陣はくずれない。 政府軍は苦慮したが、中枢部内で普仏戦争にならい軽気球を利用すべきだという意見がたかまった。それを揚げれば上空から十分な偵察はできるし、城内に使者を送ることも、城内から重要人物を脱出させることもできるという。
    (《虹の翼》P.79)


     たまたま、米沢生れの海軍技師馬場新八軽気球を研究していることが判明したので、陸軍省は製作を依頼し、明治十年三月、馬場の手で二個の軽気球が完成された。 それは、ガス袋の長さが八間(約一四・四メートル)、幅六間(約一〇・八メートル)の気球で、袋はゴム引きにした百四十反の奉書紬(ほうしょつむぎ)を縫いあげて作られていた。 ガス袋にいれる水素ガスは、金杉瓦斯(ガス)局から気球をあげる海軍兵学校校庭まで管を六百五十間(約一・二キロメートル)の長さニわたってひき、蒸気ポンプで袋の中に送りこんだ。
    (《虹の翼》P.79〜80)


     ガス袋の下にとりつけられたに馬場がのることになっていたが、その直前に突然一個が破裂し、また他の一個は強風のため軽気球をつなぎとめていた綱が切れて飛び去ってしまった。 その軽気球は、堀江という漁村の上で浮力を失い、下降した。
    (《虹の翼》P.80)


     村の者たちは、初めて眼にする大きな浮遊物に驚き、女子供は恐れおののいて逃げた。 男たちは、(かい)を手に軽気球を遠巻きにしながら、風の神があやまって落した袋ではないかとか、ラッキョウの化物ではないかと叫び合った。 軽気球は、籠を地面にすりつけながら移動し、男たちは逃げまわっていたが、一人の漁師が櫂を手に打ちかかった。 それに勢いを得た他の男たちも軽気球を追いながら乱打した。
     そのうちに袋が破れ、水素ガスが噴出した。 その強い臭気に男たちは妖怪が毒をふくんだ息をはいたと思い、逃げた。 その中の三人は、ガス中毒を起して寝込んでしまったという。
    (《虹の翼》P.80)


     忠八は、一般的にとよばれているものが凧に使われていることに関心をいだいていた。  凧が空高く舞いあがった後、紙などで作った環を糸に通して手(た)ぐることを繰り返すと、それにつれて環がのぼってゆき、ついには凧の所まで達する。 その環の動きが、ちょうど木を登ってゆく猿の動きに似ているので、凧の猿と呼ばれている。 かれは、この現象を利用して人々を驚かすような凧を作ってみたいと思った。
    (《虹の翼》P.91〜92)


     空に舞ったチラシは、八幡浜浦の人々を驚かせた。 その光景を眼にした者は多く、年始回りで道を往(ゆ)き交(か)っていた人たちは足をとめて空を見上げ、家の中で正月酒を祝っていた者たちは、叫び声を耳にして路上にとび出した。  凧の装置からチラシが散った瞬間を眼にしていなかった者たちは、空から舞い降りてくるチラシに、幕末の頃大流行した「ええじゃないか」踊りを思い起していた。 それは、慶応三年八月、名古屋方面に皇大神宮の御札が空から降ってきたという噂が流れたことがきっかけになって、なにかめでたいことの前兆であるというので、庶民の間に流行した踊りであった。
    (《虹の翼》P.107)


     かれらは、「ええじゃないか」と節をつけて歌い、太鼓をたたき三味線をひいて踊り狂う。 そして、地主や富豪の家に土足で入りこみ、酒肴(しゅこう)をせびる。 かれらの中には、それらの家の品物をつかみ、「これ、くれてもええじゃないか」と持ち去る者もおり、家の者たちも「それ、やってもええじゃないか」と制止しようともしない。
     そのうちに、京都、大坂などでも諸神の御札が降ったという噂が流れ、豊年満作の吉瑞(きちずい)だとして、ええじゃないか踊りは、東は江戸、西は京都までの各地に大流行し、さらに四国あたりまでひろがった
    (《虹の翼》P.107)


     日本で初めて電信線が架設されたのは明治二年で、東京、横浜間であった。 それ以後、電報が一般化し、明治十二年には八幡浜浦でも電信機が設置され、松山、宇和島間に電報業務が開始されていた。
    (《虹の翼》P.111)


     徴兵制度は、明治五年十一月二十八日に詔書が発せられ、全国の成年に達した男子を兵籍に編入させることが決定していた。 それにともなって徴兵検査規則も公表されたが、兵役を免除されるのは、
     一、身長五尺一寸(約一・五四五メートル)以下の者
     二、身体虚弱なる者

     など十二項目に該当した者たちで、長男や養子など家の跡つぎも兵役をまぬがれることに定められていた。 この布告文の中に、
     「国民は、身も心も国に捧げるべきで、兵たちはその生血を以て国に御奉公しなければならない
     といった趣旨のことが記されていた。
    (《虹の翼》P.112)


     この一文が、思わぬ騒ぎをまき起した。 それまでは、戦争に参加するのは武家階級の者とされ、幕末から明治にかけて武士以外の者も兵として加わったが、一般的に庶民は兵役に無関係であった。 しかし、公布された徴兵制によると、健康な成年男子はすべて兵籍にくり入れるという。
     人々は狼狽(ろうばい)し、恐れおののいた。 そのようなかれらに、「生血を以て国に御奉公」という文句は刺激的であった。
    (《虹の翼》P.112〜113)


     文字を正確に読めぬ者たちの間に、「徴兵検査に合格した青年は一人残らず病院に送られ、血を絞りとられる」という噂がひろがった。 それは各地に流れて、徴兵をのがれようとする者たちを中心とした騒動が頻発した。
     そのうちに、男の血をしぼりとる制度ではないことがようやく一般の人々にも徹底したが、徴兵に対する恐れは強かった。
    (《虹の翼》P.113)


     成年に達した男たちは、徴兵のがれをするための方法を考え、実行に移した。 検査に合格するのは健康な肉体を持っている者にかぎられるので、故意に体を傷つける者もいた。 また、家の跡取りは兵役をのがれる規則になっていたので、次男以下の男たちはさかんに養子になる。 むろん、妻帯して分家した者も家長になり徴兵から除外されるので、徴兵年齢に達する直前に結婚する者も多かった。
    (《虹の翼》P.113)


     徴兵のがれをすることが一般の風潮になったが、新潟県下の或る男の話は、新聞記事にもなって広く知れ渡った。 男は寺の次男で、妻帯して徴兵のがれをしようとし、隣村にある寺のわずか六歳の幼い娘と婚約した。 そして、その書類を提出したが、娘が幼年ということで却下され、うろたえたかれは、他の寺の養子に入った。 しかし、寺の住職夫婦との折合いが悪く離縁され、やむなく徴兵検査を受けた。
     かれは、体格もすぐれていたので徴兵されることを覚悟していたが、検査の結果、三年前にかかった梅毒がなおりきっていないことがあきらかになり、不合格になったという。
    (《虹の翼》P.113〜114)


     訓練は、想像をはるかに越えたきびしいものであった。 重装備をして長い距離を行軍し、走る。 銃を両手で上下する運動も連日課せられ、いつやむとも知れぬほど銃の上げさげを命じられる。 また、銃を両手に捧げ持って匍匐(ほふく)前進も繰り返した。 軍服がなので、たちまち汚れ、訓練が終ると毎日洗濯しなければならない。 足腰も立たぬほど疲労しきった体で、洗濯することは辛かった。
    (《虹の翼》P.135)


     雨期がやってきて、気温も上昇した。 その頃、服装が厚いものに変り、苦痛が増した。 それは、新兵たちに暑熱にも堪えさせようとするもので、忠八たちは喘(あえ)いだ。
    (《虹の翼》P.135)


     夏の季節を迎えて、さらに苦痛が増した。 訓練がはじまらぬ前から全身が汗に濡れる。 容赦なく苛酷な訓練がつづけられ、炎熱のもとで昏倒する者が続出した。 新兵たちは、地獄だ、と口々に言い合っていた。 しかし、忠八はその苦しみにも堪えた。小学校しか卒(お)えぬ自分が、人にぬきん出た仕事を果すにはそれだけ多くの苦労も味わわねばならぬ、と自らに言いきかせていた。
    (《虹の翼》P.135〜136)


     日本で初めて軍隊専門の医学教育がおこなわれたのは明治二年で、オランダ人医師ボードインがそれに当った。明治四年には、兵部省に軍医寮が設けられ、本格的な軍陣医学教育の基礎がきずかれた。
    (《虹の翼》P.136)


     明治十年には西南戦争が起り、軍医監林紀が戦場に派遣され、野戦病院と大小の繃帯所を設け、戦場から後送されてくる病症兵を大阪の臨時陸軍病院に収容した。 前年の明治十九年六月には、陸軍省医務局長橋本綱常の提案で、陸軍省内に軍医学舎が設けられた。陸軍軍医学校の前身で、森林太郎(鴎外)、小池正直らが教官となり、医学全般について講義した。 陸軍の軍陣医学は急速に発達していったが、最大の功労者は石黒忠悳(ただのり)であった。
    (《虹の翼》P.136)


     連隊では、前年の十一月末日までスナイドル銃を使用していた。 それはイギリス製の小銃で、エンフィル銃の改良型であった。 しかし、十二月一日からスナイドル銃の代りに村田銃が全員に渡されていた。 それは、欧米の新鋭銃におとらぬ日本人が発明した小銃であった。 忠八は、明治維新以来わずか二十年で、すぐれた性能をもつ小銃が日本人の手で発明されたことに強い関心をいだいていた。
    (《虹の翼》P.137〜138)


     発明者は、鹿児島県生れの村田経芳(つねよし)であった。
     かれは、射撃の名手であった。 明治五年十月十五、六の両日、横浜本牧(ほんもく)で諸外国人に日本人もまじって小銃の射撃大会がもよおされた。 陸軍大尉村田経芳も参加したが、競技の結果、かれは第一位の成績をおさめ、優勝は確実と予想されていたスイス人ファーブラントを破った。 ファーブランドは世界的に有名な射撃手で、それよりもまさった命中率をあげた村田大尉に緒外国人は感嘆の声をあげ、見物の日本人たちは狂喜した。 名射撃手としてのかれの名はひろまり、明治天皇の前で射撃を披露した。 その折も十発射って標的の中央の黒点に全弾命中させ、列席していた人々を驚かせた。
    (《虹の翼》P.138)


     かれは西南戦争に参加して負傷したが、その後、傷も癒えてさらに射撃術の向上につとめた。 命中率は百発百中で、日本人はもとより外国人の射撃手も挑戦したが、かれに及ぶものはいなかった。
    (《虹の翼》P.138)


     明治十五年には東京の偕行社の庭で絶妙な射撃術をみせて、人々を驚嘆させた。 その折、かれは、まず二銭の銅貨を上空に投げあげさせた。 それにつづいて一銭銅貨碁石梅干と次第に小さいものを投げさせ、それらに弾丸を発射し、ことごとく命中させたのである。
    (《虹の翼》P.138〜139)


     このように射撃に天才的な技倆をしめしていたかれは、すでに幕末の頃から、小銃を自分の手で作り上げようとひそかに研究をはじめていた。 その後、政府の命令で外遊した折、諸外国の新鋭銃の調査に取りくんだ。 かれが研究した外国製の小銃は三千種以上にものぼり、それらの持つ長所を参考に、理想的な小銃を作り上げようとつとめていた。
    (《虹の翼》P.139)


     明治十二年末、村田経芳は陸軍少佐に昇進した。
     その頃、かれは、ようやく新式小銃の設計図を完成させ、陸軍省に提出した。 陸軍省では、外国製の銃にたよらなければならぬことを嘆き、将来、国産銃を使用したいと願っていたが、外国の科学技術を導入してから日の浅い日本では、その実現は、かなり先のことだと考えられていた。 そうした折に、村田少佐から設計図が提出されたので、試みに砲兵本廠(ほんしょう)に命じて銃を二挺試作させてみた。実用にはなるまいという意見が強かったが、予想ははずれた。 試作銃は軽く、試射してみると小銃としての機能を十分にしめした。
    (《虹の翼》P.139)


     その後、銃の性能試験が繰り返され、外国銃にも劣らぬ新式銃であることがあきらかになり、陸軍省はためらうことなく軍用銃に採用することを決定し、村田銃と命名した。明治十三年三月のことであった。
    (《虹の翼》P.139)


     陸軍省は、五年後までに村田銃十万挺を全軍に支給する目標を立て、製造に着手させた。 その間、外国の最新鋭の小銃と比較試験を繰り返したが、村田銃は重量が軽く、しかも諸性能がいずれも外国製銃よりも好成績であった。 それに力を得た陸軍省は、村田少佐に銃の改良を命じた。
    (《虹の翼》P.139〜140)


     村田銃の優秀性は、諸外国にもひろがった。 陸軍卿大山巌は、村田銃の性能試験をドイツ陸軍に依頼した。ドイツ陸軍は、小銃研究の第一人者であるベルムト陸軍少将に試験を命じた。 その結果、外国製の新鋭銃にみられぬ多くの優秀性が認められ、最終判定として「村田銃は甚(はなは)だよく軍用に適するもの也」と報告してきた。
    (《虹の翼》P.140)


     村田は、その後も銃に改良を加え、村田銃は世界最高水準に達した小銃という評価を受け、かれはその功績によって勲三等をうけ、千五百円を下賜された。
    (《虹の翼》P.140)


     村田銃の製造はさかんに進められ、前年の明治十九年末丸亀の歩兵第十二連隊の隊員すべてに支給されたのである。 その後、明治三十八年に村田銃の改良型が完成、三八式歩兵銃として昭和時代まで使用された。
    (《虹の翼》P.140)


     かれの眼は、烏の姿勢にそそがれた。 かれは、滑空する烏に共通している現象があることに気づいた。 それは、烏の両翼が、わずかではあったが空気をうけとめるように上むきに曲げられていることであった。
     一羽の烏が、水平に飛んでゆくのが眼にとまった。 烏は翼をあおりつづけ、それをとめたが、水平に飛んでゆき山肌のかげにかくれた。滑空する烏の両翼も、少し上向きになっていた
    (《虹の翼》P.145)


     ふと、かれは、烏の少し上向いた翼となにかが似ていることに気づいた。 それは、少年時代の記憶と関係があるように思えた。 烏の動きを眼で追いながら記憶を手探った。 竹の皮をくわえた烏が素速い動きで飛んでゆく。
     石だ、とかれはつぶやいた。
     かれは、少年時代、海や川に行った時によく石を水面に向って投げた。水切りという遊びだが、石は、水面にふれるとそのまま沈むこともなくはね上って進み、再び水面に接してはね上る。 沈むまで石が何回水面からはね上るか、友だちと競い合った。石をにぎって投げる時、石を少し上向きにするのが常であった。その石の仰角と目の前を飛ぶ烏の翼の上向いた角度がひどく似ている。
     面白い現象だ
    、とかれは思った。
    (《虹の翼》P.145〜146)


     鳥のように空を飛びたいという人類の夢に、科学的な知識をもとに最初に挑戦したのは、イタリアのレオナルド・ダ・ビンチであった。 画家、哲学者であったかれは、偉大な科学者でもあり、その研究は、天文、建築、医学、植物、水力学、造船、機械、光学、造兵など多数にわたった。 殊に、飛行についての研究は熱心で、鳥の飛ぶ姿を入念に観察し、一五〇五年(永正二年)「鳥の飛翔について」という有名な論文を発表した。 それは四章にわかれ、羽ばたいて飛行する鳥の観察、鳥が羽ばたかず滑空する現象、蝙蝠(こうもり)、昆虫の飛行、一般的な飛行の原理がそれぞれ詳細に説明されていた。
     その論文の中で、
     「鳥は科学的な法則にしたがって動いている機械であり、人間もこの機械と同じものを作ることができるはずである
     と述べ、人類が空を飛ぶことは可能だと予言している。
    (《虹の翼》P.150)


     それから百数十年後の十七世紀後半に、イタリアのジョヴァンニ・アルフォンソ・ボレッリが、鳥の飛行についてさらに科学的に研究した。 かれは、果して人間が、鳥と同じような翼を作り、それを羽ばたかせて空を飛ぶことができるかどうかを考究した。
     かれは、鳥と人間の胸部の筋肉をしらべ、鳥の筋肉が全体量の六分の一であるのに、人間の筋肉は百分の一にしかすぎないことをたしかめた。 つまり、翼をうごかす鳥の胸部の筋肉はきわめて発達していて、人間の胸部より十五倍以上も強靭だ、という。 結論として、かれは、たとえ人間が巨大な翼をこしらえ、それを羽ばたかせて飛ぼうとしても絶対に無理だ、と断言した。 これによって、鳥のように羽ばたいて飛ぶという素朴な考え方は、完全に否定された。
    (《虹の翼》P.151)


     世界で初めて気球を発明したのは、フランスの製紙業者ジュセフ・モンゴルフィエと弟のエチアンヌ・モンゴルフィエであった。 一七八三年(天明三年)六月五日、かれらは麻布と紙で直径一一メートルの袋を作り、木屑を燃やした空気をみたして上昇させた。 空気を熱すると比重が軽くなる現象を利用した。 いわゆる熱気球である。 その気球は一、八〇〇メートル上昇し、二キロほどはなれた地点におりた。
    (《虹の翼》P.151〜152)


     すでに十数年前、水素が空気より軽いことが発見されていたので、その年の八月二十七日に、兄弟は直径四メートルの球に水素を入れて上昇させた。 場所はベルサイユで、国王をはじめ十三万人の観衆が見守った。
     兄弟は、気球のゴンドラに羊、鶏、家鴨(あひる)をのせて上昇させた。 それは四四〇メートルの高さに達しておりてきた。 その間に、羊が積みこんであった草を平然と食べつづけていたので、観衆は一斉に拍手した。
     人々は気球に熱狂し、それにこたえて2カ月もたたぬうちにモンゴルフィエ兄弟大型気球を作り、ゴンドラに薬剤師ピラートル・ロジェをのせて上昇させることに成功した。 人間が初めて気球に乗って空に昇ったのである。
    (《虹の翼》P.152)


     さらに一カ月後には、ゴンドラに二人の死刑囚をのせて気球をあげることになった。 無事おりられた場合には罪を許すことにしていたが、ロジェは友人とともにゴンドラに乗ることを志願した。 気球は一〇〇メートル以上ものぼり、パリの屋根の上を十キロ余飛んで下降した。
    (《虹の翼》P.152)


     一七八五年(天明五年)一月七日、気球はドーウァーから揚げられた。 舵は作動し、翅はボートのオールのように動いた。 それは見事に成功し、ドーヴァー海峡を横断して、二時間十五分後にカレーへ降りた。 初めて気球による定方向飛行に成功したのである。
     これに刺激されて、ロジェは逆にフランス側からイギリス側にドーヴァー海峡の横断をこころみたが、途中で水素ガスが発火、爆発して惨死した。
    (《虹の翼》P.153)


     気球に動力をつけて飛行させようという気運がたかまり、多くの失敗をへて、一八八四年(明治十七年)に、フランス人シャルル・ルナール、A・C・クレープスが「ラ・フランス号」を作り上げた。 それは長さ五〇・四メートル、直径八・四メートルの飛行船で、先端にプロペラ、尾部に昇降蛇方向蛇をそなえていた。 試験飛行は、その年の八月九日におこなわれ、七・六キロを二十三分間で飛んだ。
    (《虹の翼》P.153)


     難問を解決したのは、ブラジルの青年実業家アルベルト・サントス・デュモンであった。 かれは、長さ二五メートルの黄色い飛行船を作り、自らゴンドラに乗った。 動力はガソリンエンジンで、飛行船はパリ郊外の空を自由に飛行した。 むろん、風に流されることもなく、パリ上空をロンシャン方向に飛び、無事に着陸した。……それは一八九八年(明治三十一年)九月二十日のことで、忠八が樅ノ木峠で烏の滑空を眼にし、空を飛ぶ器械の発明を志した年から九年後のことであった
    (《虹の翼》P.154)


     日本にも、空を鳥のように飛ぶことを夢みた者はいた。
     まずあげられるのは、表具師幸吉であった。 幸吉は、備前国児島郡八浜(岡山県玉野)の船問屋桜屋の次男に生れた。 七歳で父を失ったため、親類にあたる岡山の上之町の紙屋児島屋善吉のもとに奉公した。 そのうちに手先が器用であったので、すすめられて表具師になった。
    (《虹の翼》P.154)


     かれは、鳥が飛ぶことに興味をいだき、鳩をとらえて体重や羽の具合を熱心にしらべた。 そして、自分の体に適したをつくり、足にのようなものをとりつければ飛べるはずだ、と考えた。 ただちにで自分の体重に適した大きな翼を作った。 表具師であるかれの手になった翼の出来栄えは素晴らしかった。
    (《虹の翼》P.154)


     幸吉が岡山の町の旭川に架った京橋の上から飛ぶことを試みたのは、天明五年(一七八五)とされている。ブランジャールが気球でドーヴァー海峡を横断した年である。 京橋の上から河原までは一〇メートル近くあったが、落ちたかれは怪我もしなかた。 翼に張られた紙は破れ、竹も折れていた。
    (《虹の翼》P.155)


     その後の幸吉の事蹟は、諸説あってあきらかではない。 再び安倍川の河原で翼をつけて飛ぶことを試み、役人に捕えられ、人心をまどわしたかどで死罪、または所払いにあったという説もある。 死罪説は疑わしく、飛ぶことを試みたという説も証拠はない。
     はっきりしていることは幸吉の子孫が静岡市江川町に居住していることが幸吉研究家竹内正虎によって確かめられ、さらに幸吉の墓が伊東正志の調査で静岡県見付の大見寺で発見されたことだけである。 戒名は演誉清岳信士、歿年は弘化四年(一八四七)八月二十一日、九十一歳の高齢であったという。
    (《虹の翼》P.160)


     幸吉が岡山で飛翔をこころみた頃、琉球(沖縄県)でも同じように空を飛ぶ仕掛けを作った男がいた。 沖縄本島中部の越来(ごえく)村(沖縄市)に住む安里(あさと)周祥であった。
     安里家は代々花火師で、かれは四代目であった。 かれの花火師としての評判は高く、琉球王の前で花火を打ち上げることもしばしばで、複雑な仕掛花火を考案して人々を驚かせたりした。
    (《虹の翼》P.160)


     江戸時代、空を飛ぶことを試みた者はほかにもいた。 三河国宝飯(ほい)郡御油町(愛知県宝飯郡御油町)の貸席戸田屋の主人戸田太郎太夫も、その一人である。 時代は、天明の頃である。
    (《虹の翼》P.162)


     寛政年間秋田市の南方にある河辺郡仁井田の一農民が鳥の体をしらべ、大きな翼を両腕にむすびつけて飛ぶことを試みたという記録(儒者・人見蕉雨「黒甜瑣語(こくてんさご)」)も残されている。 それによると、その農民は、むろん飛び立つことなどできなかったが、高い所から翼をあおって飛びおりることをつづけた。 練習を熱心に繰り返したらしく、七丈(約二一メートル)ほど滑空することができるようになり、怪我もしなかったという。
    (《虹の翼》P.163)


     また天保時代、伯耆国会見(あいみ)郡山市場(鳥取県米子市)の三刀屋某も飛行を企てた。 かれは、鳩の体を研究し、その翼に似たものを作って松の樹の上からはばたかせながら飛び出した。 が、たちまち落下して足を骨折し、断念した。
    (《虹の翼》P.163)


     伊勢の久居(三重県久居市)にも、鳥のように飛ぶことを夢みた者がいた。 かれは熱心に工夫をこらし、翼を作って身につけ飛行をこころみた。 それは失敗の連続であったが、屈することなく実験を繰り返した。
     近隣の者たちがそれを見物に集り、失敗つづきのかれを冷笑した。 そのうちにかれの実験が役人の耳に入り捕えられた。 役所では、変った器具を作り鳥のように飛ぶことを夢想しているかれを、行く末恐ろしい男であるとして死罪を申し渡した。 器具はもとより家財すべてが没収され、斬首された。
    (《虹の翼》P.163〜164)


     その他、九州の唐津、上総国君津郡久留里(千葉県君津市久留里町)にも、それぞれ飛ぶことを試みた者がいたが、詳細な記録は残されていない。
    (《虹の翼》P.164)


     あれこれ思案した末、聴診器のゴム管の使用を思いついた。 病院勤めであるかれには、その器具はなじみ深いもので、よじれると元にもどろうとする力が働く。 その逆回転する力を利用してみようと思ったのだ。
    (《虹の翼》P.174)


     しかし、聴診器のゴム管は太く、ねじりをあたえてもそれほどよじれず、従って逆回転する力も弱い。 それを解決する方法として、ゴム管を細く縦に切って、それを束状にし、ようやく十分に逆回転する力をもったゴム糸を作りあげることができた。
    (《虹の翼》P.174〜175)


     かれは、鳶凧(とんびだこ)の形を原型として両翼の形、大きさを定め、胴体の後尾につける尾翼を水平尾翼にした。 機首から尾翼の近くまでゴム糸を張り、四枚羽のプロペラに結びつけるよう設計した。 さらに、滑走装置も考案した。 丸亀に来てから外国製の自転車を眼にしていたので、それに似せた小さな車輪を前部に二個、後部に一個とりつけることにした。
    (《虹の翼》P.175)


     その頃、忠八は、初めて汽車に乗ってみた。明治五年九月新橋、横浜間に鉄道が開通したが、前々年の明治二十二年五月に、丸亀から多度津琴平間にも讃岐鉄道が開通していた。
    (《虹の翼》P.175)


     かれは、模型飛行器を取り上げるとプロペラをまわしはじめた。 束状になったゴム紐のコブが出来て、それが次第に数を増してゆく。 そのコブがゴム紐のすべての個所で出来上ったのを見とどけると、模型を地上に置いた。
    (《虹の翼》P.179)


     プロペラが勢いよく回転し、機が地上を走りはじめた。 そして、三メートルほど進むと、車輪が地をはなれ、機体がかすかに浮き上がった。
     機体は徐々に上昇し一メートルほどの高さで進んでゆく。 そして、機体をやや左方に傾けると、雑草の上に落ちた。 五間(約九メートル)ほどの距離であった。
     かれは、眼を大きく開いた。 いつの間にかかれは模型飛行器の周囲を走りまわっていた。 信じがたいことを眼にしたような気持であった。飛ぶ可能性があると考え、試作して実験してみたのだが、それが現実に飛ぶのをみると、不思議なことが起ったような驚きを感じた。 模型が、鳥のようにも思えた。
    (《虹の翼》P.179〜180)


     かれは、模型をながめまわしながら、妙な物を作ったものだと思った。 もしも、それを他人に見せたら、どのような意味を持つ器具かわからないだろう。 奇怪な形態をしているが、その模型は飛翔理論から当然の結果として生まれ出たものなのである。 かれは、そのプロペラ式の模型飛行器が世界最初の記念すべきものであることには気づいていなかった。 アメリカのライト兄弟が世界最初の飛行機を飛ばすことに成功したのは、それから十二年後の明治三十六年(一九〇三)であった。
    (《虹の翼》P.180〜181)


     しかし、陸軍三等調剤手としての軍務も忙しく、飛行器研究に専念するわけにはゆかなかった。 その年の初夏、陸軍省医務局長石黒忠悳総監から全国の衛生部士官に糧食、治療法についての意見を具申せよという指令が発せられた。 忠八の上官である渥美薬剤官は、香川県産のを焼塩にして軍の携行調味料とすることを考え、調査を忠八に命じた。
    (《虹の翼》P.181〜182)


     忠八は、香川県の坂出に出張した。 坂出は、慶長、元和の頃(一五九六−一六二三)に赤穂の人が移住してきて塩田を開き、その後、製塩業のさかんな町になっていた。 かれは、坂出で製塩法やその副産物に関する調査をおこない、貴重な資料を得て渥美に提出した。
    (《虹の翼》P.182)


     かれは、設計、試作を繰り返している間に、ようやく一つの型式を考え出すことに成功した。 それは、鳥、昆虫の中で最も注目していた玉虫の飛行運動を徹底的に分析、研究した結果、生み出したものであった。 その名称を玉虫型飛行器としたが、玉虫の飛行運動からヒントを得たという意味で、決して形態が似ているというわけではなかった。
    (《虹の翼》P.199)


     その飛行器は、鳥形模型飛行器のように直線的に飛ぶだけではなく、空中で自由自在に方向転換できるものでなければならなかった。 人間の乗物であるかぎり、その条件をみたしたものであるべきだ、と思った。
    (《虹の翼》P.189)


     かれは、鳥が進む方向を変える時、翼の傾斜を変えることに注目し、飛行器の傾斜角度を変えることのできるものにしたいと考えた。 そして、模型を作ってさまざまな実験をかさねた結果、玉虫型飛行器の翼を複葉にした。 それは、玉虫が上下二枚の羽をもっていることからの連想であった。
    (《虹の翼》P.189)


     玉虫の上の羽は硬く、下の羽は軟らかい。 飛ぶ折には、上の羽が固定翼として両側に張られる。 それと同じように、玉虫型飛行器の模型も主翼を固定し、その下の翼は約二分の一の面積にした。 しかも、下の翼は、飛行器が自由自在に方向転換できるようにするため傾斜角度を変えられるようなものにしたかった。 つまり、主翼は、空気抵抗をうけて飛ぶ作用をし、下の翼は、飛行器の方向転換に使用したいと考えたのである。
    (《虹の翼》P.199〜200)


     日本は、明治維新以来、富国強兵を国是とし、工業をおこすとともに軍備の充実につとめ、着々とその整備につとめてきていた。 当然、軍の組織の改編、拡充がおこなわれ、明治十七年六月二十五日には丸亀の歩兵第十二連隊の分営がおかれていた松山に歩兵第二十二連隊が創立され、第一大隊が駐屯した。 その後、毎年一大隊ずつ増設されて、明治十九年六月十七日には、連隊の規模も全く成り、初代連隊長に杉山直矢大佐が着任した。
     明治二十一年二月一日、鎮台師団と改められて全国七師団制となり、丸亀に置かれていた歩兵第十旅団司令部も松山兵営内に移され、六万坪の練兵場が作られた。 これによって松山は、重要な軍の基地になった。
    (《虹の翼》P.202)


     午前十時、東郷艦長は人見善五郎大尉を「高陞号」に派遣し、臨検させた。 船長はイギリス人で、船はイギリス国籍に属し、清国政府に雇われて清国兵約千二百名、砲十三門等を大沽(タークー)でのせて牙山にむかう途中であることが判明した。
     人見大尉は、イギリス船長に、「浪速」の後からついてくるよう命じ、船長はためらっていたが、ようやく承諾した。 人見は、ただちに短艇で「浪速」にもどり、東郷艦長にその旨を報告した。
     東郷は、「高陞号」に投錨して随行してくるよう信号を発したが、「高陞号」からは、
     「相談シタキコトアリ、短艇ヲ送レ
     と、信号してきた。 そのため、東郷は人見大尉を再び短艇で「高陞号」に派遣した。
     イギリス人船長は、
     「船に乗っている清国軍の指揮官が、大沽出港の時に日本と開戦した話をきいていないし、またこの船はイギリス船籍なので日本軍艦の命令にしたがう必要はない。 このまま大沽に船をもどせと要求している
     と、告げた。
    (《虹の翼》P.207)


     この原田一等卒の行為が、後に「原田重吉玄武門破り」として有名になり、錦絵(にしきえ)に描かれ、歌舞伎座でも上演された。 戦後、原田は武功によって金鵄勲章(きんしくんしょう)をさずけられ、英雄視された。 かれは人々の賞賛につつまれ、いつしか酒色にしたしむようになり、やがて武知元良一座という地方回りの芝居に加わり、「玄武門」という芝居で城壁を越え門をひらく実演をしてみせた。
     その行為は、新聞に「玄武門の勇士原田重吉が、田舎回りの役者に」という見出しのもとに記事になり、一般人の目をひそめさせた。 その後、かれは賭博で逮捕されたこともあった。
    (《虹の翼》P.239〜240)


     軍医の指示で、忠八はヒマシ油を飲んだ。 ヒマシ油は唐ゴマの実から採取した粘り気のある油で、最も有効な下剤と言われていた。 臭気が強く飲むのが辛かったが、かれは嘔吐をこらえて飲みくだした。 一等調剤手である忠八は、赤痢の薬としてヒマシ油以外にゲンノショウコが有効であることを知っていたので、看護卒にゲンノショウコ五匁を三合の水で二合に煎(せん)じさせた。 そして、それを一日三回にわけて飲むことを繰り返した。 また、便赤痢菌の伝染源であるので、消毒のためその上に石灰をまかせ、さらに看護卒自身に焼酎で絶えず手をふくことを命じた。
    (《虹の翼》P.263)


     そうした処置もむなしく、かれの症状は悪化するばかりであった。便通は日に数十回にも及ぶようになり、意識もかすむ。 肉づきは落ち、体は衰弱した。 便通を終えて辛うじて藁(わら)ぶとんに身を横たえると、すぐに下腹が痛み、また便通のためふとんの外に這い出なければならない。 そのようなことが繰り返され、衰弱はさらに深まった。
    (《虹の翼》P.263〜264)


     「どうだ、気分は?
     軍医は、気づかわしげにたずねた。
     「なぜかわかりませんが、いい気分です
     忠八は、かすれた低い声で答えた。
     「腹痛は?
     軍医は、聴診器をとり出すと胸にあて、さらに腹部に移動させた。
     「ほとんど感じません
     忠八は、深く息をすった。
     「便通は?
     「まだ一度も……
     忠八の言葉に、軍医は表情をやわらげた。
     「きいたらしいな
     軍医はつぶやくように言った。
     「なにがです?
     忠八は、軍医を見上げた。
     「実を言うと、お前の命も長くはない、と思った。 それなら一つ賭けをしてみようと考え、昨夜、麻黄の粉末を多量にお前に飲ませたのだ。 夜半になって、お前が腹部の激痛におそわれ、嘔吐を繰り返したのもそのためだ。 おれは心配だったが、荒療治が効を奏したらしい
     軍医は、眼を輝かせた。
     忠八は、昨夜の腹痛と嘔吐の現象をようやく理解することができた。
    (《虹の翼》P.272〜274)


     忠八は、新聞、雑誌を読むことも許された。 紙面にはさまざまな戦争美談が紹介され、それにともなって多くの軍歌が作られ愛唱されていることも知った。
     それらの戦争美談の中で最も有名になっていた兵士は、玄武門破りをした原田重吉一等卒とラッパ卒の白神見源次郎であった。
     白神二等卒は岡山県浅口郡船穂村出身で、日清戦争で出征し、最初の戦いである朝鮮の成歓での戦いで戦死していた。 白神は、かれの所属する第五師団歩兵第二十一連隊第九中隊が突撃する折に、突撃ラッパを吹いて走っていたが、その途中、敵弾を胸部にうけた。 が、かれはそれにも屈せず銃を杖に体を支えてラッパを吹く姿勢をとった。 それもわずかな間のことで倒れ、絶命した。
    (《虹の翼》P.278)


     この話はすぐ内地に伝えられ、全国民を感動させた。 かれは、原田一等卒とともな英雄的存在となり、「勇敢なラッパ卒」として錦絵にえがかれた。 また、かれの哀切きわまりない行為を近衛軍楽隊楽手の菊間義清「喇叭手(らっぱしゅ)の最後」という題の歌詞にまとめ同じ楽手の萩野理喜治の協力で作曲し、それが大評判になって全国にひろまっていた。 それは、「渡るに易き安城の 名はいたづらのものなるか」という歌詞にはじまり、「このとき一人の喇叭手は 取り佩(は)く太刀(たち)の束の間も 進め進めと吹きしきる 進軍ラッパの凄まじさ」とつづき、被弾した状況が歌われ、
     「弾丸のんど(咽喉)を貫けど
      熱気気管に溢るれど
      ラッパ放たず握りつめ 左手(ゆんで)に杖つく村田銃
      玉とその身は砕けても 霊魂天地を駆けめぐり
      なほ敵軍を破るらん あな勇ましのラッパ手よ

     この歌は、後に「喇叭の響」と改題され、大流行した。
    (《虹の翼》P.278〜279)


     また、歌人佐佐木信綱白神源次郎に捧ぐ……として短歌を発表、著名な文学博士外山正一「我は喇叭手なり」と題する軍歌を作詞したりした。白神ラッパ卒の行為は小学校高学年向けの教科書にものり、かれの名はさらにたかまった。
    (《虹の翼》P.279)


     翌明治二十八年三月三十日に日清両国間で休戦が決定し、五月十三日には講和条約が公布された。船穂村では白神ラッパ卒が唯一の戦死者であったので、村人はこぞってその墓前に香華(こうげ)をささげた。 しかし、それから半月後、新聞に意外な記事がのせられた。 それは、広島の第五師団から発表されたものらしく、
     「……諸調査の結果、(勇敢なラッパ卒は)白神源次郎にあらずして木口小平喇叭卒なること判明
     というものであった。
    (《虹の翼》P.280)


     白神の故郷である船穂村の人々は呆然とし、それとは対照的に木口の出身地である成羽村の人々は沸き立った。 しかし、白神源次郎の名は全国の人々の頭に刻みつけられていたので、木口小平が「勇敢なラッパ卒」であると訂正されてからも白神ラッパ卒の名は人々の脳裡からはなれなかった。 殊に船穂村の者たちは白神を「勇敢なラッパ卒」と信じて疑わず、翌明治二十九年十二月には大きな記念碑を建て、除幕式で人々は、軍歌「喇叭の響」を声を和して歌った。 その後、上官の証言も新聞に報道され「勇敢なラッパ卒」は木口小平二等卒に確定した形になったが、それでも白神がラッパ卒だという主張も残され、現在に及んでいる
    (《虹の翼》P.280〜281)


     木口の郷里でも、陸軍少将明石元二郎の筆になる「陸軍喇叭手木口小平」が建てられ、その命日には小学生たち「喇叭の響」を合唱した。 やがて、木口の死は小学校の国定教科書にものせられた。 戦前の「修身巻一」には、
     キグチコヘイハ イサマシク イクサニデマシタ。テキノ タマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲクチカラ ハナシマセンデシタ
     と記されている。
    (《虹の翼》P.281)


     相つぐ勝報に、全国各地で戦勝祝賀大会がもよおされ、東京市では日比谷ケ原に各区の団体が旗をかかげて参集し、二重橋前広場にむかい、万歳を連呼した。 さらに、かれらは列をくんで祝賀会場上野公園に向った。 銀座日本橋神田下谷等の大通りには国旗がつらなり、人力車はホロに小旗をつけて往き交う。 商店は雇人に外出を許し、かれらも婦人、子供たちとともに上野公園へ続々と集った。 祝賀会場では、一斉に国旗がふられ、万歳の声が上野台地にとどろいた。
    (《虹の翼》P.286)


     芝居も戦争劇がさかんで、歌舞伎は新作をつぎつぎに上演し、川上音二郎一座は高田実一座とともに皇太子殿下の前で戦場を舞台にした劇を演じたりした。 広島でも同様の催しがあり、大本営が置かれた地であるだけに、市民の喜びもきわ立っていた。 軍に協力する気持ちはきわめて強く、傷病兵の収容されている予備病院には、連日、多くの人々が慰問の品々や手紙を持ってきていた。
    (《虹の翼》P.286)


     全国的に、軍歌が大流行していた。 明治十九年に山田美妙斎の発表した歌が、日清戦争の開始とともに評判を呼び、
     「敵は幾万ありとても、すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ(後略)」
     と、人々は歌った。 また、加藤義清は、その年の十月に「婦人従軍歌」を発表し、奥好義(よしいき)の作曲を得て、たちまち全国にひろがり、
     「火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず、吹きたつ風はなまぐさく、くれない染めし草の色
     にはじまる歌が人々の共感を呼んだ。 このほか多数の軍歌がうまれ、戦勝気分を一層たかめた。
    (《虹の翼》P.286〜287)


     また煙草には凱旋煙草無敵煙草などの名称がつけて売られ、婦人の髪かざりに勝利掛などが流行し、大勝利という名の石鹸も店頭にあらわれた。 子供の遊び道具にも、行軍将棋が流行した。 それは、後に軍陣将棋に改められたが、戦場の戦闘に模したものであった。
    (《虹の翼》P.287)


     それら各地の商人たちは、必ずその地の政治家たちの紹介状を手にし、売り込みをはかってくる。 かれらと応接するのは薬品係の忠八で、名士の紹介状をもっているので会わぬわけにはゆかず、多くの時間をさかれた。
    (《虹の翼》P.289)


     商人たちは、薬品を並べて懇願し、ひそかに取引に尽力してくれれば、金品等の謝礼を渡すことをほのめかす。 商家に生れた忠八は、かれらの熱意が理解できぬわけではなかったが、賄賂(わいろ)を贈ろうとしてまで運動するかれらの気持が腹立たしく、素気なく帰させた。 それでも、かれらは屈せず忠八の借家にやってくる。 忠八は連日夜おそく帰るが、家の前で提灯を手に人力車を待たせて立っている商人の姿をみると、気分が重くなった。 忠八は、声を荒げてかれらの差し出す贈物に手もふれず、戸を音高くしめるのが常であった。
    (《虹の翼》P.289)


     治療の結果、李の生命には別条がないことが判明した。
     小山録之助は、厳重な取調べをうけた。
     録之助の生家は、村内の財産家で、父幸八郎は、県会議員をしたこともある名士であった。 録之助は長男で、上京し三田慶応義塾に入学したが放蕩に明け暮れてすぐに退学し、父にも見かぎられ廃嫡(はいちゃく)された。 かれは放浪をつづけ、壮士講談師伊藤痴遊の門人となって痴狂という名をあたえられたが長続きせず、その後、壮士と称して暮していた。 かれは警察の取調べで半狂乱になっていたが、戦争継続論者で講和使節の李鴻章を殺せば、戦争がつづくと思い凶行に及んだと答えた。
    (《虹の翼》P.293)


     小山録之助の裁判は、国際的配慮のもとに凶行のおこなわれた翌々日に早くも予審がおこなわれ、三月三十日に鶴岡琢郎裁判長によって無期徒刑の判決が言い渡された。
    (《虹の翼》P.294)


     二日後の二十五日、日本政府と軍首脳は御前会議をひらき、伊藤博文首相の提出した三つの案について協議した。
     第一、戦争を覚悟で三国干渉を拒絶する。
     第二、列国会議をひらいてその問題を処理する。
     第三、ロシア、ドイツ、フランスの要求を承諾し、遼東半島を清国に返還する。

     この三案について、討論が繰り返された。
     第一案は、日本の滅亡にもつながるという意見が支配的で、採択することは不可能であった。 精鋭部隊は清国の戦場に派遣されていて、国内に兵力は乏しかった。 また、兵員は疲労し軍需品は欠乏していて、殊に連合艦隊は三国のみならずロシア艦隊に比べてはるかに劣勢であり、もし武力衝突が起れば惨敗することはあきらかであった。 また第三案は余りにも屈辱的であるので、結局、第二案を採択することになり、会議を終えた。
    (《虹の翼》P.299)


     伊藤は、当時舞子で病臥していた陸奥外相を訪れ、会議の結果を報告し、意見を乞うた。 陸奥は、列国会議を開くことは至難であり、もし開くことができたとしても、遼東半島以外の問題も討議の対象になり、一層日本に不利な結果を招くおそれがあると指摘して、反対した。
     伊藤は、五月四日、京都で閣僚と樺山(かばやま)海軍軍令部長をまじえて御前会議をひらいた。 その席上、陸奥外相の意見が紹介され、討議の末、やむなく三国の要求を全面的にのむことに決定し、翌五日の早暁、その旨が電報で三国に伝えられた。
    (《虹の翼》P.299〜300)


     このような政府のひそかな動きは、むろん新聞記者にかぎとられていた。 それは、国家として大きな屈辱であり、新聞は一斉に三国の横暴に対する激しい憤りをしめした。
    (《虹の翼》P.300)


     新聞紙上に三国干渉に関する記事が大々的に掲載されはじめたが、それに対して政府は治安を乱すものとして強硬な抑圧策に出た。 政府は三国干渉を記事にした新聞をただちに発行停止にし、四月下旬から五月にかけて処分をうける新聞が続出した。
    (《虹の翼》P.300)


     徳富蘇峰が社長をしている「国民新聞」は、「何事か? 新聞の弾圧頻々」という見出しで、愛媛新報」、栃木県内紙の「関東」、「福島新聞」「山形日報」「高知毎日新聞」がそれぞれ発行停止を命じられたことを報じた。 それ以外に「二六新報」は三回にわたって、また政府系新聞と言われていた「東京日日新聞」ですら三日間の停刊処分をうけた。
    (《虹の翼》P.300)


     そうした中で、天皇は国民の感情をしずめるため、五月十日、詔勅を発表した。 その中で、天皇はロシア、ドイツ、フランスを友好国であるとして、その忠言をいれて遼東半島を返還した、と述べた。
    (《虹の翼》P.301)


     勅語が発せられたが、国民の感情は大きく揺れ動いていた。 東洋の植民地化をねらう列強三国の弾圧に屈しなければならなかったことを憤り、或る者は政府の弱腰を非難した。 そして、各地で遼東半島還付の屈辱外交を責める演説会が、多数の聴衆を集めて開かれたが、講師が演説をはじめると会場に派遣されていた官憲ただちに中止を命じた。 そのうちに、武力の乏しい日本が欧州列強の要求に屈するのはやむを得ないという考え方もひろまり、今後列強の圧力をはね返す軍備をもつまで、堪えねばならぬという声がたかまった。 新聞は、論説で臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」すべきだと説き、その言葉が国民の間に流行した。
    (《虹の翼》P.301)


     日本政府は、台湾平定のため近衛師団(長、陸軍中将北白川能久親王)に征討を命じ、師団は五月二十九日に台湾のサンチャオに上陸した。 近衛師団は、六月二日から進撃を開始し、敵の抵抗を排除しながら進み、六月三日には基隆、七日には台北を占領し、二十二日に台北で台湾総督府の開庁式をおこなった。 初代総督は、海軍大将樺山資紀であった。
    (《虹の翼》P.303)


     八月二十日、日本軍は台湾南部に上陸作戦をおこない、翌日台湾をおとし入れ、二十九日には安平も占領して、ここに全島を平定することができた。日本軍の死傷者は約七百にすぎなかったが、病気におかされて死亡、または内地送還された者は二万以上にも及んだ。 殊にマラリアにかかった者は一万五百十一人にも達した
    (《虹の翼》P.303)


     近衛師団長北白川宮能久親王風土病にかかったが、轎(きょう)に乗って指揮をとっているうちに病勢が悪化、十月二十八日に台南で死去したと発表された。 この死について台湾人の史明が著した「台湾人四百年史」には、北白川師団長の死因は風土病によるものではなく、草むらにひそんでいた台湾人ゲリラに襲撃されて重傷を負い、それが死につながったという説を紹介している。
    (《虹の翼》P.303)


     石油のことが初めて記録されたのは、「日本書紀」である。
    (《虹の翼》P.307)


     天智天皇七年(六六八)のくだりに、「越國獻燃土與燃水」とある。 越国とは越後(新潟県)で、撚土は石炭、撚水とは石油のことである。 さらに、「和訓栞」によると、石油は臭水(くさみず)といわれ、黒川村の十間四方の池に臭水がうかんでいることが記されている。 が、それは灯火などに使うことなく、神秘的なものとして扱われているにすぎなかった。
    (《虹の翼》P.307)


     江戸時代に入ると、正保元年(一六四四)に真柄仁兵衛という男が、越後の蒲原(かんばら)郡柄目木村で石油が出ることを確認した。 かれは、二年後に南蒲原郡妙法寺村庄右衛門という旧家の敷地内で、地中から異様なガスが出ているのを見出した。 かれは、試みにそれに火を近づけたところさかんに燃えはじめたので、大いに喜んだ。 そして、その湧出孔のところに臼をかぶせ、臼に穴をうがって竹筒を突き入れ、筒から出るガスに点火した。 その火の明るさは、三百目ローソクと同じ程度であったという。
    (《虹の翼》P.307)


     幕末になると、石油の存在が外国人の口からひろくつたわった。 岸田吟香は、医師ヘボンに師事して辞書の編纂にしたがっていたが、ヘボンに越後の臭水のことを話した。 ヘボンは、それは石油かも知れぬと言い、岸田はすぐに越後から取り寄せ、鑑定を求めるためアメリカへ送った。 その結果、それはペンシルバニア産のものよりも上質の石油であることがあきらかにされた。 ついで、越後の人である石坂周造が、新潟県の石油について鋭意研究し、明治六年、油井を開く機械をアメリカから買い入れ、石油採取に着手した。
    (《虹の翼》P.307〜308)


     その頃にはアメリカのスタンダード社から石油が輸入されるようになり、明治七年にはランプも輸入されて灯火油として普及していった。 しかし、木造家屋ばかりの日本では使用をあやまって火災事故が続発し、安達徳基が発火性の少ない安全火止石油と称するものを売り出したりした。 石油は灯火用とされていたが、石油発動機はすでに明治十七年に初輸入されていた。 忠八は、そのことに気づいてはいなかった。
    (《虹の翼》P.308)


     ドアが開き、和服姿の大島義昌少将が姿をあらわした。 忠八は、姓名を口にし、敬礼した。 大島は軽くうなずくと、椅子に腰をおろした。
     忠八は、直立不動の姿勢で部屋の隅に立っていた。 大島は、嘉永三年長州藩士の長男として生れ、明治四年大阪青年学校(後の士官学校)を卒業、大阪鎮台歩兵第八連隊第一大隊長として西南戦争に出陣した。 その後、士官学校次長東京鎮台参謀長等の要職を歴任し、混成旅団長として日清戦争に出征、全軍の中心として武功をあげたのである。
    (《虹の翼》P.321)


     軽気球による空への上昇の成功につづいて、自由に移動できる蒸気動力の飛行船が、イギリスのケイレーらによって研究が進められていた。 かれらの関心はもっぱら飛行船に注がれ、新聞、雑誌には多くの乗客をのせた巨大な飛行船が大西洋を横断し、アルプスを超える想像図とともに、将来、そのような高性能をもつ飛行船が出現するにちがいないという予測記事がのせられ、人々の関心をよんでいた。 人々は、空を遠くの地まで飛ぶことを空想し、熱狂していた。
    (《虹の翼》P.326)


     そうした中で、軽気球や飛行船のように大きな袋にガスをつめて上昇させることをせず、鳥のように単純な形と構造で空を自由に飛ぶことが可能であるはずだ、という考え方もひろまっていた。 発明家たちは、その器械を自分の手で作り上げたいと激しい情熱をそそいでいたが、その先駆者であったのは、ドイツ人のオットーグスターフリリエンタール兄弟であった。
    (《虹の翼》P.326)


     かれは、大阪に出た。 目的は、道修町(どしょうまち)を見ることであった。
    (《虹の翼》P.334)


     道修町は日本の薬業の中心地で、その発生は秀吉時代にさかのぼる。 その後、江戸時代にも薬の町として隆盛をつづけ、明治に至っている。 薬種商人として組合に登録している者は千人にも及び、大小の店が軒をつらねている。 夏期の取引はさかんで、町は活況をきわめていた。 せまい道を、大八車や馬車が荷を満載して往き交い、店にはひんぱんに人が出入し、丁稚(でっち)たちが発送する薬品を入れた大きな瓶を藁で巻いたり、車に積んだりしている。 忠八は、道から道へと歩いた。
    (《虹の翼》P.334〜335)


     道修町の薬業御三家といわれる大問屋は、武田長兵衛田辺五兵衛塩野義三郎がそれぞれ経営する問屋で、忠八は、それらの店の前にも立ったが、さすがに大問屋らしい規模であった。 一見して輸入洋薬品を入れたものとわかるドラム罐、樽、ブリキ製の罐などがさかんに運びこまれ、輸入商らしい外国人が店内から出てきたりする。 その傍を肥えた男をのせた人力車が走っていった。
    (《虹の翼》P.335)


     明治維新後、日本古来の和漢薬以外に化学物質を主原料とした洋薬の輸入がさかんになった
    (《虹の翼》P.347)


     新政府は西洋医学の採用を決定し、明治八年には医師の資格試験である>医術開業試験の課目をすべて西洋医学と定め、また医学校での授業も西洋医学に統一した。 このような政府の方針にともなって、洋薬の輸入が積極的に推し進められたのである。
    (《虹の翼》P.347)


     製薬業者は、それまで和漢薬に洋薬をまぜて売薬として売り出した仁丹ロート目薬龍角散太田胃散中将湯浅田飴六神丸などが登場する。
    (《虹の翼》P.347)


     洋薬はすべて輸入にたよっていたが、外国人の悪徳輸入商日本人の無智につけこんで悪質な薬品を売り、暴利をむさぼる者も多かった。 そのため政府は、薬品の試験をおこなう司薬場をもうけた。 これは明治十六年、衛生試験所と改称され、現在に及んでいる。
    (《虹の翼》P.347)


     明治十年の夏、全国各地にコレラが流行した。 発生源は、イギリス軍艦の乗組員であった。 同艦は、コレラが大流行していたマカオに寄港後、長崎に入港した。 上陸した乗組員から一般の人々にコレラが感染し、西南戦争の基地であった長崎に人の出入りが多かった関係でそのためコレラ菌が全国にばらまかれ、死者は、六千八百十七名にも達した。 政府は、輸入した石炭酸で消毒することにつとめたが、たちまち品不足になり、価格が暴騰した。
    (《虹の翼》P.347〜348)


     このコレラ流行がきっかけとなって、政府は洋薬を国産化することを決意し、明治十六年、半官半民の大日本製薬会社が設立された。
    (《虹の翼》P.348)


     東京とともに薬品業の中心地である大阪でも、会社創立の気運がたかまった。 これは、政府の力を借りるものではなく、大阪道修町の有力な薬品問屋が協力し合い、明治二十一年、大阪薬品試験株式会社を興した。 事業としては、医薬品の試験を目的としたものであった。
    (《虹の翼》P.348)


     故郷の八幡浜町は、大きく変貌していた。 町の海は江戸時代から埋立がおこなわれ、明治維新後は一層さかんに工事がすするられていたが、故郷をはなれてから七年の間に、新・旧港船つき場と潮焼浜が、約七千坪も埋立てられていた。 商況はさらに活気を呈しているらしく、商店の数がふえ、店がまえも大きくなっていた。
    (《虹の翼》P.350〜351)


     道修町には、大別すると問屋注文屋店売り屋があった。 問屋は、輸入品の洋薬と漢薬、和薬を仕入れ、注文屋、店売り屋に卸す。 注文屋はそれを買って地方の薬店に売り、店売り屋は主として大阪の小売りの薬局などに売る。 さらにそれらの店の間を仲買人が往き来して売買に介在していた。
    (《虹の翼》P.361)


     道修町には、大阪の商家の制度がそのまま取り入れられていた。
    (《虹の翼》P.362)


     店の雑役をするのは丁稚(でっち)で、地方などから奉公人として雇われた少年たちであった。朝は暗いうちに起き、夜寝るのは午前一時か二時頃で、店の内外の清掃や使い走りをしたり、大八車をひいて荷を運び休息をとるひまがない。 三度の飯は、水気の多い粥で、副食物は塩分の濃い漬物二切れときまっていた。 ただし、月に一度、サバ、アジなどの魚が一尾ずつつけられ、それが唯一の御馳走であった。 小遣いは月に十銭程度であったが、自由に使うことは許されず店であずかる。 盆と正月の帰郷も許されず、わずかに訪れてくる肉親と会えるだけであった。呼ばれる名前も本名ではなく、それぞれの店で古くから受けつがれてきた名前があたえられていた。
    (《虹の翼》P.362〜363)


     丁稚奉公を数年つづけると手代に昇格する。 さらに誠実に勤めると番頭になり、ようやく本名で呼ばれるようになる。 羽織を着、白足袋をはくことが許され、外出もできる。 しかし、食事はほとんど丁稚、手代と同じで、依然として住み込みであった。
    (《虹の翼》P.363)


     奉公してから十年目に、別家の資格を得る。のれん分けをしてもらったり仲買人になったりすることができるのだが、そのまま店にとどまって大番頭になる者もいた。 別家の資格を得た者は、一年間御礼奉公をし、その間に妻帯の準備をする。 と言っても、自由に妻をえらべるわけではなく、主人が店に勤めている女中などを指定する。 別家の折には、かなりの額の別家料があたえられ、衣料、寝具なども贈られ、借屋で妻になった女と新所帯をもつ。 そのような夫婦は、店の主人の親戚の末席につらなり、毎月一日に妻が正装して店に挨拶に行く。 むろん冠婚葬祭の折には店に集るならわしになっていた。
    (《虹の翼》P.363)


     大日本製薬は、洋薬の国産化をくわだてた政府が、品川弥二郎山田顕義(あきよし)、小室信夫新田忠純大倉喜八郎久原庄三郎ら政財界の有力者の協力のもとに、明治十六年九月に創立した会社であった。 本社は、東京の木挽町(こびきちょう)に置かれ、社長は男爵新田忠純、副社長には久原庄三郎が就任していた。
    (《虹の翼》P.364〜365)


     冬になって、棚卸しの時期がやってきた。
     その日、取締役、監査役が集り審査したが、在庫量が余りにも多いことに一様に激しい驚きをしめした。 それは、経営危機に確実にむすびつく現象であった。 かれらは、あらためて半年前に忠八と堀の発した警告を思い出したようであった。
     かれらは、十二月二十五日、重役会を開いた。事業家であるかれらは、またたく間に一つの結論を出した一日も早く在庫を一掃するため、各地に販売員を派遣して製品の売り込み運動を展開するか、それとも大阪と並んで薬業のさかんな東京に出張所を開設するか、いずれかの方法をとることであった。
    (《虹の翼》P.379)


     長井の顔に、苦笑がうかんだ。 忠八は、口に開いた。
     「東京の問屋も、むろん信用のあるマルP印の薬品を扱いたいとは思っているのです。 問題は、感情だけなのです。 それを柔らげることさえできれば、すすんでマルP印の薬品を仕入れてくれるにちがいないのです
     「そうでしょうね
     長井は、おだやかな眼を忠八に向けた。
     「そこで、いろいろ考えました結果、総会の会場入口で、思いきって東京出張所を開設した旨の挨拶をみなさまにお手渡ししたらどうか、と思いついたのです
     忠八は、熱っぽい口調で言った。
     「辞を低くしてですね
     長井が、頬をゆるめた。
     「その通りです。 この度東京へ出張所を設けましたが、なにとぞ御好誼をいただきたく、とお願いするのです
     長井は忠八の言葉にかすかにうなずくと、しばらく黙っていたが、
     「そのようにすれば、問屋の主人たちも気持をやわらげるかも知れません。東京の商人は、利益を無視してでも意地を張る傾向がありますから、辞を低くして頼めば、あっさりと理解してくれるかも知れない
    (《虹の翼》P.389〜390)


     東京の江戸本町が、大阪の道修町とともに日本の薬業の中心地になったのは、天正十八年(一五九〇)八月、徳川家康が江戸城を経営した頃にさかのぼる。 その頃、相州(神奈川県)小田原の薬種商益田友嘉江戸本町四丁目に店をひらき五霊膏という目薬を売り出したが、それが江戸の薬店の初めであった。 その後、薬店が増していったので、幕府は江戸本町三丁目に薬種問屋を集めさせ、商取引をさせるようになった。 明治に入ると、和漢薬以外に輸入される洋薬を扱う問屋も増した。 その中で、西洋式の専門薬局を初めて開設したのは、福原有信が経営する資生堂であった。 東京には、各種の薬が市販されてそれぞれ好評を得ていたが、薬の広告がさかんになり薬業者は人目をひこうとしてさまざまな工夫をこらしていた。 語学の才に恵まれていた岸田吟香は、ヘボン博士から伝授された目薬を売りに出した。 それまでの目薬は練り薬であったのを岸田は水薬にし、精リ水という商品名をつけた。 それは透明な水薬で、点眼すると少し眼にしみるような刺激があり、香りもするので特効薬として売れた。
    (《虹の翼》P.392〜393)


     堀内伊太郎薬舗が売っていた浅田飴も人気があった。 従四位浅田宗伯が作り出した飴で、良薬口ににがしをもじって「良薬にして口に甘し」という宣伝文句が人の眼をひいた。津村順天堂中将湯(ちゅうじょうとう)も、好評だった。 それは、子宮病血之道薬と称され、同じ婦人病薬実母散と売行きをきそっていた。 また、この一族からロート目薬が売り出された。
    (《虹の翼》P.393)


     東京で最高の売上げをしめしていたのは、高木与兵衛薬舗の作っていた清心丹で、懐中必携薬と称されていた。銀色の粒状をした丸薬で、口にふくむと爽やかになるので人気があったが、やがて同系統の新製品を売りに出した大阪の森下仁丹に駆逐された。 また胃散薬としては、太田製のものが大好評であった。
    (《虹の翼》P.393〜394)


     忠八は、問屋側が多量の発注をする理由を理解することができた。 東京の薬業問屋は、大日本製薬合資会社から大日本製薬株式会社にひきつがれたマルP印の薬品に対して強い魅力をいだき、入手したい気持はかなり激しいものであった。が、東京の商人の意地として、自分の方から仕入れたいと申し出ることはしなかった。 そうした折に、忠八が日野社長とともに上京し、辞を低くして取引をさせて欲しいという態度をとったことによって、かれらの面目は十分にみたされ、気持も一時になごんだ、と言うよりは、かれらはその時を心待ちしていたのだ。
    (《虹の翼》P.398)


     翌日は、大阪から小磯取締役も加わり、石黒忠悳実吉安純両軍医監、高橋順太郎ら医学、薬学、薬業家三百余名を帝国ホテルに招待し、東京出張所開設披露会をもよおした。 これらの宣伝によって、大日本製薬株式会社東京出張所開設は、ひろく業界のすみずみにまで知れ渡った。
    (《虹の翼》P.403)


     日本の薬品開発は、ようやく目ざましい業績をあげるようになっていた。
     まず長井長義が、明治二十年に堀有造を助手としてエフェドリンの単離に成功し、ついで高峰譲吉が、明治二十七年、麹(こうじ)から強力な消化剤タカヂアスターゼの製造に成功していた。
    (《虹の翼》P.423)


     高峰は、明治十二年東京帝国大学応用化学科を首席で卒業後外遊し、グラスゴー、アンダーソニアンの両大学で薬学を学んで研究生活をつづけ、ニューオリンズでアメリカ女性カロライン・ヒッチと結婚した。 その後、かれは、の研究に専念し、消化剤として特効のあるタカヂアスターゼを完成した。 それは、世界の薬学会の注目を浴び、製薬権が著名な製薬会社の間で争われ、結局パーク・デビス社がその権利を得た。 日本では、薬業者塩原又策らが同社から輸入し、後に三共薬株式会社で製造されるようになった。
    (《虹の翼》P.423)


     忠八の手がけたクレオソートは、ブナ材のタールを蒸留して得られる油状の液体で、殺菌力の強い消化器系統の医薬品として適していることが知られていた。 ただし、思うままの量の水では、十分に溶解しないことが欠陥になっていた。 かれは、クレオソートの欠陥を改良しようとし、退社後家に帰ると入念に実験を繰り返した。 その結果、思いのままの率の水でも完全に溶解する濁りのない液を作ることに成功した。
    (《虹の翼》P.423)


     忠八は、ロシアとの開戦をおそれていたが、二月十日、宣戦が布告されたことを新聞紙上で知った。 と同時に、すでに五日には日本が、六日にはロシアがそれぞれ動員令を下し、八日に仁川沖で日本海軍とロシア海軍の兵力が遭遇、瓜生(うりゅう)外吉少将指揮の第二戦隊が二等巡洋艦「ワリヤーク」、砲艦「コレーツ」に大損害をあたえ、それぞれ自沈に追いこんだことも知った。 また、九日夜半には駆逐戦隊が旅順港内に突入して魚雷攻撃をおこない、ロシアの戦艦二隻、二等巡洋艦一隻に損害をあたえた記事も読んだ。
    (《虹の翼》P.428)


     日露戦争の勃発によって薬品の需要は増加し、大阪薬品試験株式会社の鑑定依頼も増し、収入はふえた。
    (《虹の翼》P.428)


     日露戦争は、忠八の不安とは逆の経過をたどっていた。
    (《虹の翼》P.429)


     陸軍は、鴨緑江(おうりょっこう)を渡河して満州に進撃、遼東半島の上陸にも成功してロシア艦隊のとじこもる旅順に迫り、沙河(さか)の会戦では大勝利を博していた。 また、海軍も黄海海戦蔚山(うるさん)沖海戦に連勝していた。 しかし、乃木希典大将指揮の第三軍は、旅順攻略に失敗をつづけ、将兵の犠牲は増すばかりであった。
    (《虹の翼》P.429)


     日清戦争の折に日本軍は旅順を容易に占領したので、第三軍も旅順攻略を短い期間で成功させることができると予測していた。 が、旅順の防備はロシアが領有後、一変していた。ロシアは多くの人夫を使用しておびただしいセメント鉄材を投入して、旅順を大要塞に作り上げていたのだ
    (《虹の翼》P.429)


     すでにロシアの大艦隊は、日本艦隊の撃滅を期して本国を出撃、日本近海にむかっていた。 旅順港内には極東のロシア艦隊がとじこもり、本国から来攻する艦隊と合流すれば、日本艦隊は粉砕される。 本国から艦隊が接近する以前に、第三軍は旅順を攻略し、港内のロシア艦隊を全滅させる必要に迫られていた。
    (《虹の翼》P.429)


     八月二十一日、第三軍はロシア陣地に猛砲撃を浴びせた後、総攻撃を開始した。 激戦は四日間にわたってつづけられたが、一万六千名というおびただしい死傷者を出しただけで失敗した。 乃木大将は、九月十九日、第二回目の総攻撃を命じたが、それも死傷者四千八百人を出しただけで終った。
    (《虹の翼》P.429)


     そうした苦戦の状況は新聞につぎつぎに報じられ、国内に重苦しい空気がひろがった。
     忠八に、生来の研究心が頭をもたげた。 日本軍将兵は、陣地壕に身をかくしているロシア軍守備隊の強硬な抵抗にあって前進をはばまれているという。味方が損害をこうむることなく、壕の中のロシア兵に痛烈な打撃をあたえる方法はないか、と、かれは思案した。
    (《虹の翼》P.430)


     不意に、頭にひらめくものがあった。
    (《虹の翼》P.430)


     かれは立つと、大きな紙をひろげて筆を走らせた。 原理は、簡単だった。長いホースに竹竿をつけて敵陣地の方向に放水口を伸ばしてゆく。 竹竿に竹竿をつなげてゆけば、ホースはかなりの距離まで伸ばせる。 ホースの先端が敵陣地に接近したのを見はからって、ポンプで石油をホースに送りこみ、敵陣地に放つ。 石油は壕の中にあふれ、その折をのがさず、一斉射撃する。 それによって石油は燃え上がり、壕の中は火の海になる。 むろん敵兵は狼狽し、その間に突撃すれば占領することは可能であるはずだった。
    (《虹の翼》P.430)


     かれは、あらためて図面を清書し、説明を付して、表題に攻城火焔砲と記した。 それは、後の火焔放射器に似たものだが、かれは、図と説明書を大きな封筒に入れ、作戦指揮をつかさどる大本営参謀本部宛に速達で郵送した。
    (《虹の翼》P.430)


     その頃、忠八は、新聞に京阪電気鉄道株式会社の路線測量が開始されたという記事を読んだ。
    (《虹の翼》P.435)


     関西では、まず阪堺鉄道株式会社が明治十七年に創立され、翌年十二月に営業が開始されたのをはじめとして、阪神電気鉄道株式会社が明治三十八年から運転をおこなっていた。 その二社についで、明治三十九年十一月十九日、渋沢栄一を創立委員長に関西、東京の財界人を発起人として資本金七〇〇万円で京阪電気鉄道株式会社が創立されていた。大阪、京都をむすぶ電車で、大阪天満橋から京都五条までの二八マイル余の路線計画であった。所要時間は約一〇〇分、路線を八区とすることが予定されていた。 用地買収がすすめられ、それも終ったので線路敷設予定地域での測量がはじめられていたのである。
    (《虹の翼》P.435)


     かれは、新聞にのっていた自動車の記事を思い起した。 初めて日本に自動車が姿をみせたのは、八年前の明治三十三年であった。 アメリカ在住の日本人によって組織されている日本人会が、皇太子に自動車を贈呈するため解体して船便で日本に送ったのである。
     日本では諸機械輸入商の古河商会が組み立て、宮内省が依頼した技師の手で運転が試みられた。 自動車が走り出し参謀本部付近にきた時、道の前方に老婆の姿がみえた。 老婆は、
     「馬のない馬車が来た
     と見ほれて動こうとせず、老婆をさけようとした自動車は、お濠の土手に乗り上げてしまった。
     その報告を受けた宮内省では、
     「そのような危険な乗り物を使うわけにはいかぬ
     という結論をくだし、自動車をそのまま倉庫内にしまった。
    (《虹の翼》P.440〜441)


     その後、明治三十六年に三井呉服店(三越デパート)がフランスから自動車を一台輸入したが、その後自動車が輸入されることは少なく、二年前の明治三十九年三月に伊東仲之助が日本人として初めてフランス人カルパンティエから運転技術を習得して運転した程度であった。
    (《虹の翼》P.441)


     忠八の自動車についての知識は乏しかったが、とりつけられた発動機が十馬力以上であることは知っていた。
     かれは、軽量の飛行器を地上から浮揚させるには少なくとも十二馬力以上の動力をもつものでなければならぬと考え、石油発動機輸入商に手紙を出してその馬力をもつ発動機の重量を教えて欲しい、と依頼した。 一カ月後に返信がとどいたが、それには四十貫(一五〇キロ)という回答が記されていた。 そのような重い発動機をそなえるには、当然それを固着させるため強靭な台や支柱もとりつけねばならず、それによって重量もそれだけ増す。結局、人体をのぞく飛行器の総重量は百二十貫(四五〇キロ)以上になると予想された。
    (《虹の翼》P.441)


     気球を基礎にした飛行船が初めて人々の前に姿をあらわしたのは、ツェッペリン号が飛行に成功する五十六年も前の、一八五二年(嘉永五年)であった。 それはフランスのジファールの手になるもので、二人の技師の協力を得て製作された。 その飛行船は全長四二メートルで、三馬力の蒸気機関をそなえ、三枚プロペラを回転して進む仕掛けになっていた。 型は、巨大な鯨のような紡錘形(ぼうすいがた)をしていた。
    (《虹の翼》P.447)


     九月二十四日、飛行船はパリの競馬場から飛び立ち、一、八〇〇メートル上昇するとゆるやかな動きでパリ上空を移動し、無事に着陸した。 ついで、十五年後の一八六七年(慶応三年)、ジファールは、第二号飛行船を作りあげ実験したが、気嚢(きのう)が爆発し蒸気機関もこわれて失敗に終り、ジファールはゴンドラとともに墜落し重傷を負った。
     かれは、その後も飛行船製作の夢を追いつづけたが盲目になり、さらに精神異常にもなって五十七歳で自殺した。
    (《虹の翼》P.447)


     かれの死後二年たった一八八四年(明治十七年)、フランスのミュードン飛行船学校の士官ルナールクレープスが、国費で「ラ・フランス号」という飛行船を建造した。 その飛行船には重い蒸気機関を避け発明されたばかりの電動モーターが備えつけられていた。 全長五〇メートルで、ルナールとクレープスが搭乗した。 ラ・フランス号は七・五キロの距離を二十三分で飛び、その後六回実験が繰り返され、パリ上空を横切ったりして市民を驚嘆させた。 が、動力が弱く、風が起ると飛行船は流され、速度もおそすぎるという欠陥があって実験は打ち切られた。
    (《虹の翼》P.447〜448)


     飛行船は着陸しようとしたが、エンジンが停止し、風にあおられてブローニュの森の方向に流された。 観衆たちは飛行船を眼で追っていたが、突然胴体が折れ曲り、墜落するのが見えた。 人々は、その方向に走った。 飛行船は人家の庭にある大木の枝にひっかかり、死亡したと思われていたサントス・ジャモンが、無傷で樹の上にまたがっているのを見出した。
     その失敗にも屈せず、サントス・デュモンは飛行船を二十日間で修復し、再度の挑戦をこころみた。
    (《虹の翼》P.449)


     文字を眼で追っていた忠八の顔は紅潮したが、たちまち蒼白になった。理想とする空の乗り物は、鳥と同じように翼をもち、それを機械力で運転し、力学的に平衡(へいこう)をたもって空中に上昇し飛ぶ方法で、これを空中飛行器と呼ぶという。
     忠八は、十九年前に樅ノ木峠で烏の飛ぶ姿を眼にして以来工夫を重ねてようやく設計を終え、機体製作にとりかかっている飛行器の機能と全く同じ説明で、余りにも一致していることに、愕然とした。 と同時に、解説者がなぜそのような構造と機能について知識をもっているのか不審に思った。
    (《虹の翼》P.457)


     記事を読み進んでいった忠八は、疑惑がとけるのを感じたが、自分の顔から血の色がひいてゆくのを意識していた。 解説者は、まず飛行器の研究にとりくんだのはドイツ人技師リリエンタールで、ついでアメリカのラングレー教授が改良を加え、さらに現在ではイギリス人ヘンリー・ファーマン、フランス人ブレリオ・フェルベ大尉、アメリカ人ライト兄弟が、それぞれ積極的に工夫を加えて競い合っているという。
    (《虹の翼》P.457)


     それにつづく文章を読んだ忠八の口から、短い叫び声がもれた。 眼が、解説記事に据えられた。 そこには、
     「過日ライト兄弟の一人ウイルバー・ライト氏が其(その)工夫に成れる飛行器により、殆んど一時間鳥の如く自在に飛翔し得たる事は、最近の外電にて伝えられたり
     と、あった。
    (《虹の翼》P.457)


     ウイルバー・ライトオーヴィル・ライトの兄弟は、アメリカのデイントンに住む司祭ミルトン・ライトの子として生まれた。 兄弟は、忠八と同じように幼い頃から凧に興味を持ち、長じて技師見習いになった。
    (《虹の翼》P.460)


     かれは、まず職務上の規律を秩序立ったものにし、能率の増進をはかるため、社員の服務規程を作成した。 殊にそれは、試験部。製薬部に属す技師たちを対象としたものであった。技師たちは、依然として官僚的な意識からぬけきれず、職務以外の仕事をすることを嫌い、残業なども避ける。 かれらには、自分の仕事に対する責任という感覚が欠けているように思えてならなかった。
    (《虹の翼》P.472)


     外国では、その年の一月下旬、フランス育ちのペルー人ゲオ・シャヴェス飛行機を操縦し、二、四〇〇メートルの高度で四十二分間ついやしてアルプスを越えたというニュースがつたえられた。 が、着陸に失敗、ジャヴェスは重傷を負い、五日後に死亡した。
    (《虹の翼》P.474)


     忠八は、会社の改革に日を送っていたが、十二月に日本でも初めて飛行機による飛行実験がおこなわれたことを新聞で知った。 それは、日野熊蔵大尉の試乗であった。
    (《虹の翼》P.474)


     日野は、明治十一年六月九日、熊本県球磨(くま)郡人吉(ひとよし)に生れ、十八歳で陸軍士官学校に入学、卒業後、千葉県佐倉歩兵第二連隊連隊旗手になった。 少年時代から発明に興味をもっていたかれは、独創的な拳銃を試作し、日野式拳銃として特許出願され、登録された。 と同時に、歩兵科の将校として異例の陸軍技術審査部員に任命された。
    (《虹の翼》P.474)


     明治三十七年、日露戦争が勃発し、日野は砲兵工廠(こうしょう)で自動車の研究に専念し、ついで手榴弾の研究に没頭した。 それまで日本軍が所有していた手榴弾は、牛肉の罐詰の空き罐に火薬とこまかく切った鉄綿を入れ、導火索にマッチで火をつけて投げる初歩的なもので、日野はこれを改良し、戦場に送ったのである。
    (《虹の翼》P.474〜475)


     明治四十一年には、自動歩騎銃軽機関銃三八式小銃新弾薬歩兵砲迫撃砲などの研究に従事、明治天皇の前で小銃の改良について講演したりした。 また、その頃、かれは日本で二番目に輸入されたオートバイの練習をはじめ、馬で行く将校たちの中をオートバイで出勤し、人々を驚かせた。
    (《虹の翼》P.475)


     飛行機については、陸軍運輸部から発動機が提供され、日野熊蔵大尉と海軍の中技師である奈良原三次が研究にあたった。 さらに、日野は、独力で飛行機の設計、試作にとりかかっていた。 かれがまず入手したのは、水冷式八馬力の自動車用発動機で、それにもとづいて独自の機体設計にとりくんだ。
    (《虹の翼》P.475)


     設計を終えた日野大尉は、牛込五軒町の林田工場で機体の製作に入った。 工場主の林田好蔵は「洗米機」を発明するなどした技術者で、日野に積極的に協力した。 やがて、機は出来上がった。 翼長八メートル、全長三メートルで、工事は三カ月、制作費は二千円であった。 費用は、日野が私財を投じたものであった。
    (《虹の翼》P.475〜476)


     日野は、個人的な研究を中止し、会長命令で新たに気球研究会委員に任命された徳川好敏陸軍大尉と、ヨーロッパへ飛行機研究と購入のため、四月十一日に出発した。
    (《虹の翼》P.476)


     徳川好敏は、明治十七年七月、徳川家御三卿の一つである清水家の末である伯爵徳川篤守の長男として生まれた。 かれは陸軍士官学校卒業後、近衛工兵大隊付になって日露戦争に従軍、志願して気球隊に属した。 そして、臨時軍用気球研究会の仕事を手伝い、大尉に任官と同時に委員に任命されたのである。
     二人は、シベリヤ鉄道を経由してヨーロッパへ渡り、日野はドイツ、徳川はフランスに入った。 それを追うように飛行機理論担当の技術陣の総指揮者である田中館愛橘理学博士も渡欧した。
    (《虹の翼》P.476)


     日野と徳川は、飛行機研究と操縦法の習得につとめ、日野はハンス・グラーデ式単葉機、徳川はアンリー・ファルマン式複葉機をそれぞれ購入、二人は連れ立って十月二十五日に帰国した。 一足先に帰っていた田中館は、所沢飛行場の整地が終っていなかったので代々木練兵場を飛行実験場に指定した。
    (《虹の翼》P.476〜477)


     日露戦争後の不況が日を追って深刻さを増していた。
     明治四十年には多くの銀行で取り付け騒ぎ支払停止が起り、さらにアメリカの不況の影響が波及してきて、経済界は恐慌状態におちいった。 社会不安も表面化し、企業の倒産がつづき、社会運動のひろがりとともに労働争議も頻発していた。 薬業界でも売り上げの低下と、戦後急にいちじるしくなった外国からの薬品輸入によって悲観的な空気が濃くなっていた。
    (《虹の翼》P.483)


     日本で最初の飛行に成功した日野熊蔵、徳川好敏両大尉は、その後、所沢飛行場が完成をみないため再び飛行機操縦をする機会がなかった。 そうした折に、マニラで公開飛行をこころみたボールドウィンを団長とした操縦者J・C・マース、シュライバーのアメリカ飛行団が、来日したのである。
    (《虹の翼》P.485)


     それを知った大阪朝日新聞記者小山荘一郎は、かれらの宿舎である北野の東亜ホテルに一行をたずねて取材、同社販売部長小西勝一に同社主催の公開飛行をもよおすことを進言し、社長村山龍平の許可を得て、一万円の謝礼で大阪城東練兵場で公開することになった。
    (《虹の翼》P.485)


     翌朝の新聞は、この記事を大々的に掲載し、第三回目の飛行の妙技を「マースのプロペラ止めの曲乗り」とたたえた。
    (《虹の翼》P.489〜490)


     人々は、その話題を口にし合い、飛行機熱はたかまった。 それにこたえるように、飛行団は汽車で東京につき、帝国ホテルに投宿して、四月一日から四日間にわたって目黒競馬場で飛行機を披露した。
    (《虹の翼》P.490)


     日本の飛行機操縦もようやく軌道に乗ったが、それらは外国から輸入した機によるもので、それを不満とした者たちの間で国産機を作る気運がたかまっていった。 それを最初に手がけ成功させたのは、複葉機の研究に没頭していた海軍中技師の奈良原三次であった。
     かれは、木製の複葉機を作り上げ、奈良原式第二号機と命名した。 エンジンは空冷ノーム式五十馬力であった。
     五月五日、試験飛行が所沢飛行場でおこなわれ、機は二〇〇メートル滑走後離陸し、七〇メートル近くまで上昇した。 それは、日本人の手で作られた機体による初めての飛行であった。
    (《虹の翼》P.492)


     当然のようにエンジンも日本人の手で製作しようという声がたかまった。 最初にそれに応じたのは、日野熊蔵大尉であった。
     かれは、東京工科学校内で発動機製作に打ちこみ、六十馬力の水冷式エンジンを作り上げた。 そして、機体の製作にもつとめ日野式一号機を完成した。 高翼式単葉機で、郷里の土地、建物を売却した代金をつぎこんでいた。 かれは、五月二十三日午前三時、機を解体して東京工科学校から青山練兵場に馬車で運び、組み立てを完了した。 発動機の試運転も良好だった。
    (《虹の翼》P.492〜493)


     日野は七時頃から飛行準備に入ったが、発動機が始動せず、午後二時半まで調整につとめた。 が、結果は同じで、ついに飛行は中止になった。 会場には北白川中将宮殿下をはじめ高官が臨席していた。
    (《虹の翼》P.493)


     所沢飛行場では徳川大尉の指導のもとに、陸軍の将校たちが飛行機の操縦訓練にはげんでいた。 たまたま帝国議会が開催中であったので、陸軍省では飛行機についての関心を深めてもらうため、議員たちを招待してその飛行と離着陸を見てもらう計画を立て、さらに飛行機以外にパルセバール式飛行船も参加させることにした。
    (《虹の翼》P.499)


     一同が空を見守っている中で、午前十時二十三分、鉄道線路沿いに所沢から飛んできた木村砲兵中尉操縦、阪本少尉同乗のプレリオ式単葉機が着陸、ついで岡中尉操縦、徳田中尉同乗の国産機『会式』三号、二号機が到着し、さかんな拍手をうけた。
    (《虹の翼》P.499)


     やがて、パルセバール式飛行船が巨大な姿をあらわし、降下してきた。 が、飛行船から垂れている着陸用の綱が、市電の架線にからみつき、電柱を二本ひきぬいてしまい、また架線もショートして火花を放った。 飛行船はその事故で落下し、大破した。 が、三〇メートルの低空であったので、幸いにも二人の搭乗員は無傷であった。
    (《虹の翼》P.500)


     約三十分後、所沢飛行場の上空に木村機の機影があらわれた。 機は、三〇〇メートルの高度から機首をさげた。 その直後、左翼が飛び散り、機は麦畠の中に墜落した。
    (《虹の翼》P.500)


     飛行場の者たちは、畠に走った。 機は大破し、木村中尉はハンドルに額を打ちつけ、徳田中尉は全身に内出血を起していずれも絶命していた。 木村は金沢市南町出身で二十八歳、徳田は山口県吉敷郡宮野出身で二十九歳、いずれも第一期飛行術練習生であった。
    (《虹の翼》P.500)


     翌日、両中尉に対して正七位勲六等単光旭日章祭祀(さいし)が下賜された。日本内地での最初の飛行機殉難者であったので、全国から弔慰金が寄せられ、四万円にも達した。
    (《虹の翼》P.500)


     忠八は、それらの記事を丹念に切りぬき、日本人飛行家最初の死者である近藤元久の死亡記事と同じように仏壇におさめ、灯明をあげた。
    (《虹の翼》P.500)


     忠八は、民間飛行家武石浩玻(こうは)が四月七日帰国したことを新聞紙上で知った。 武石は、茨城県水戸在の勝田村の出身で、飛行家を志し、明治四十五年二月十七日にアメリカのサンディエゴにあるカーチス飛行学校に入った。 かれは天性の才にめぐまれていて、五月一日には早くも飛行士免状を取得した。 かれは、さらに技倆をみがき飛行家としての名声もたかまった。
    (《虹の翼》P.501)


     全国の人々は、かれの飛行を待っていたが、五月一日の大阪朝日新聞に、新帰朝の飛行士第一人者である武石が日本初の京阪神の都市連絡大飛行をおこなうことになり、それに成功した折には朝日新聞社が賞金一万円を贈るという記事がのせられた。
    (《虹の翼》P.501)


    解説 和田 宏

     吉村さんの戦史小説は、可能なかぎり証言を収集することから成り立っている。 あるとき戦艦の元艦長を取材して、自分の艦に山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官が来訪したという話を聞いて愕然とする。 その時点では山本長官はすでに戦死していたからだ。 それを元艦長に指摘すると、驚いて「そんなはずは……」と絶句したという。 戦後二十数年もたつと、記憶は化学変化を起こす。
    (《虹の翼 解説》P.522)


     そのようなことが増えてきたので吉村さんは戦史小説をあきらめ、歴史小説に転身する。 ここには証言者はいない。 そこで徹底した史料の渉猟と現地調査で事実に肉迫するのが吉村流である。 忘れてはいけないのは、一分一秒の誤差も許されない戦史小説から、吉村さんの歴史小説が出発していることである。
    (《虹の翼 解説》P.522〜523)


     この『虹の翼』は、人が空を飛ぶなど夢でしかない時代に、実現への具体的な手法を見つけ出した人物の軌跡を追う小説である。 同時にこの人物を鏡にして、明治・大正期の内外の情勢の推移を追い、世相史、庶民史をたどる小説でもある。 そういう書き方をしたについては理由がある。
    (《虹の翼 解説》P.523〜524)


     なぜ二宮忠八の世界に先駆けた「飛行器」は挫折したか。 それは根底に日本が貧しかったことがある、とはあからさまに吉村さんは書かないが、随所でそれを暗示したいために多く筆を費やしているのた。 明治維新で世界の一員になったが、売るものは生糸くらいしかないのに、海には軍艦を浮かべなくてはならないのであった。
    (《虹の翼 解説》P.524)


     貧乏な小国であるがゆえに、ついには戦争にいたる大国の清国やロシアに対して猛烈な怯えがあった。 忠八が「飛行器」の模型を作っているとき、国内では食べていけずに多くの人たちが海外へ移民として出ていく。 そればかりか女たちは世界各地に売られていき、男たちは酷寒のシベリア鉄道建設工事にまで出稼ぎにいった記録がある。
    (《虹の翼 解説》P.524)


     さらに吉村さんがこの作品で示唆しているのは、日本人には飛躍した発想をする者を排除する傾向がありはしないかということだ。 奇異な説をなして人心を惑わし、和を乱すものとして、社会から除外するのではないか。 「人さまに後ろ指を指されることはするな」。 これがこの国の庶民の掟なのであった。
    (《虹の翼 解説》P.524)