[抜書き]『民間暦』


『民間暦』
宮本常一・講談社学術文庫
1997年2月20日 第9刷発行
    目次
    新耕稼(こうか)年中行事
      はしがき
      タキギとり
      ワラ細工
      農具ごしらえ(1)
      農具ごしらえ(2)
      ムギ刈り
      ひるね
      よなべ
      稲刈りと稲扱(こ)き
      いもほり
      ムギまき
    民間暦
       はじめに
      第一部
       民間暦研究の跡
       年中行事と民間暦
       行事と日
       行事と月
       行事と風土
       行事の歴史性と地域
       行事の伝播と伝承
       行事の持つ意味
      第二部
       物忌(ものいみ)
       みそぎはらい
       籠居(ろうきょ)
       斎主(さいしゅ)
       神を招く木
       訪れる神
       神送り
       祝言
       年占い
       除厄
       むすび
       あとがき
    亥(い)の子(こ)行事−−刈上げ祭り
    後記
    解説 田村善次郎

    民間暦
      本書は、未来社刊『民間暦』(一九七四年十二月、第3刷)を底本とし、「新耕稼年中行事」「民間暦」「亥の子行事」を収録しました。 なお、著作権者の了解のもとに、随時振りがなを付けました。


    新耕稼年中行事

     タキギとり

     山間では農のひまな時期にこうして山に入って木をきり、それをキダナにつむのである。 一間ごとに柱をたて、その間に木をつんでゆく。 高さ一間ほどに。 これを「一タナ」という。 それを一年も山において枯れてくると、次の年はソリで里へはこび出す。きって二年三年というところがタキギとしてはいちばんよくもえ、火にも力があった。 そういう木を山間の村々では一年に五タナも六タナもたくのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.12)


     飛騨あたりでは春とるので「ハルキ」ともいっているが、こうした自家消費以外に町に出すタキギはさらにおびただしいのである。それが昔はほとんど川を利用して町に出されたのである。 タキギを船につんで出す場合もあるが、それを川に流すこともある。 春さきの雪どけ水の多いときには流木もまた容易であった。 山奥でキジルシをつけておいた木を川へ流す。 それを町近くで引きあげて、町の人々に商い、話がきまると、山人はいちいちその木を家々に持っていって割ってたけるようにした。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.12)


     山形県鶴岡などでは、そこからずっと奥の大島の村の人がそういう仕事をしたというが、新潟県長岡のタキギは会津境の六十里越の麓の人々の流したものであった。 町近くを流れている川をさかのぼれば、きっとそういう山里があったのである。 しかし江戸のような大きな町になると、荒(あら)川や利根(とね)川奥のタキギだけではまにあわず、早く和泉(いずみ)あたりから船で運んだという記録ものこっている。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.12〜13)


     こうして山の奥にも町につながるものがあったのだが、思ってみれば木のよく育つ国だけにそれほどの消費にもたえてきた
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.13)


     古い時代にタキギ山はほとんど村の共有だったものである。 そして村の協議でゆるされた範囲のタキギは自由にすることができた。 タキギに金をかけなくてすむことは百姓生活を安定させるばかりでなく、また、これを売って金にすることもできたのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.13)


     しかし、それが明治になって部落共有が法的にみとめられなくなると、個人に分けた所がすくなくない。 その結果、力のないものは所有を手ばなしていって、もう貧乏してもたち上がる力はなにほどもなくなり、そういうことが村逃亡の原因になっているものも少なくない。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.13)


     そればかりではない。徳川時代になってタキギのために山を乱伐することがきわめて多くなった。 瀬戸内海沿岸で入浜(いりはま)製塩がはじまると、それに要する燃料はことのほか多かった。 そして内海の周囲の山々がまるはだかになったころ、すなわち天明(てんめい)年間にやっと石炭の利用に目が向けられて、塩の燃料は解決ついたのだが、中国の山中には砂鉄が出て、その鉄を製造するために山の木がきられて炭にやかれた。木はきられ、山は掘りかえされたのである
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.13〜14)


     タキギさえ十分にあればイロリの火は親しみのあるもので、夏でも決して不要だというようなものではなかった。 そしてイロリの火は一年じゅうたやしてはならないものとされていたのである。 マッチもなく、ヒウチイシもない時代には火種(ひだね)はとくに大切にされたものである。 山形県湯殿山(ゆどのさん)の大日坊できいた話だが、そこの仏前の火は何百年ももえつづけており、村の家々があらたに分家するときにはその火をもらっていって家の火にするとのことであった。 そしてそれを家々では消さないようにしたのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.14)


     ワラ細工

     ごんずわらじに がまはばき
     知らぬお方に酒三升
     しかもその日は加茂祭り

    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.16)


     もう近ごろではワラジもあまり見かけなくなってきたが、もと旅人にとってワラジはもっとも大切な履物(はきもの)だったのである。 それにハバキはつきものであったといっていい。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.17)


     ワラジだけではない。 われわれの生活をふりかえってみると、ワラで作ったものはきわめて多かった。 履物ではゾウリアシナカワラグツをはじめ、ハバキコシミノケラフゴカマスムシロコモにいたるまで、われわれの生活のなかにはワラがすみずみにまで入り込んでいる感じである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.17)


     そういうものをととのえておくのがまた冬の仕事であった。 そしてそれはニワの仕事の一つであった。 日本じゅうたいていの所では、家をはいった土間の一隅に円頂の石がうずめてある。 ワラを打つための石で土地によっては「ジョウバイシ」とも言っている。 冬の日、雨の日などには、どこの家からも「トットットッ」というワラをうつ横槌の音がきこえてきた。 ものしずかななつかしい音である。ワラはうって使えばしなやかでつよくなる。 ナワになうにも容易である
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.17)


     『秋田民俗絵詞』によると、まず雪ふみをするための「フミダワラ」というのがあり、また長靴にあたる「サンベ」というのがある。 じつに美しく作ってあって、そのまま工芸品といってもいいようなものが多い。 「ハコスベ」というのは短靴と思えばよい。 スリッパにあたるものにクツがある。 だいたい村中を歩くのに用いている。 ところが山深く雪のなかで働くためにはそういう履物では都合がわるい。 足へぴったりくっついて歩きやすいものでなければならぬ。 それにはワラジにさきがけのようなものをつけてはく。 これを「ツマゴ」と言っている。 これにハバキをつければ足もとはしっかりとする。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.18〜19)


     このほかに「アグドスベ」というのがある。かがとを包む部分のついたツマゴ式のはきものである。 用途はツマゴと同じようだけれど作りがていねいである。 このようにして使用の目的の差によって型がちがってくる。 それが単に秋田だけでなく、少しずつ名をかえ、作りかたをかえて雪深い地方に分布している。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.19)


     そうした冬のものだけではない。 ゾウリアシナカは夏の履物である。 さらにナワムシロカマスともなれば農作物の運搬やら用器として重要な役割をはたす。 水田のひろい山形・新潟などの野ではそういうものの準備も容易ではなく、若い者たちは一所にあつまって作業にいそしんた。 そして一通りの準備もできて、野の仕事が忙しくなるまえには新潟地方では「ジョーバナガシ」といって、よりあつまってごちそうをこしらえてたべあったのである。 娘たちの「ユーミナガシ」や(お)うみナガシとともに若い者にとっては印象深い年中行事の一つであった。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.19)


     どうしても作らなければならぬのは、毛をとるための家畜をもたぬ日本では必然的なものであったことがよく分る。 対馬(つしま)の豆酘(つつ)という所には「ワラ小作」というのがある。小作人は地主の田をつくっては米を地主に納めワラだけをもらうのである。 日本一高い小作料のように思ったが、小作人にきいてみると、ワラがもらえればよいではないかと言っている。 もともと水田の少ない対馬で、ワラを手に入れることは困難な場合が多い。 そういう所では、ワラの入手を目的とする稲作をはっきりと知ることができる。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.19〜20)


     日本の茎皮繊維文化はまったくワラを中心にしていたといっていい。 それがいま少しずつ他のものにおきかえられつつある。 たとえば履物はゴムが多く用いられはじめている。 コシミノはゴム前掛に、ミノはマントにきりかえられている。 したがって冬間の仕事のうち、そういうものはいちじるしく減っている。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.20)


     しかしナワ、ムシロ、コモ、タワラなどは依然として消費量は多いのであるが、それは手工業的な美しさや、用いる人のこまやかな好みを必要としないものであり、画一的に作っても差し支えないものである。 このことから製作に動力が用いられ、漸次(ぜんじ)大量生産せられるにいたり、自家自給から米作地方においての重要な副業となりつつある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.20〜21)


     ワラムギワラに比較してみるとき、米作のしめる位置がおのずからわかってくる。 このように私たちの生活のなかにはワラを中心にしての労働が大きな位置をしめていたのである。 すなわち五人家内の五反百姓として少なくも延(の)べ五十日のワラ仕事は必要であったはずである。 そういうなかからわれわれはいま少しずつぬけだしてきつつある。 そしてその労務がいったい何にふりむけられつつあるのだろうか。 そしてまた自然物資購入物資にかわったとき、その代価はどのように生みだされていくであろうか
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.21)


      農具ごしらえ(1)

     三、四月ともなれば、またくる忙しさにそなえて農家では農具のいたみのつくろいに時をさく。 野鍛冶(のかじ)はクワスキサキの仕替えに忙しくなる。 野鍛冶は昔は村でも尊重らせれたものである。 もとは刀鍛冶などが多かったのであろうが、徳川時代になって世の中が平和になると、もう刀の需要はへってしまって農具の製造がさかんになったのである。いまでも有名な農具の製作者には武器を作っていたものの子孫が少なくない。 そしていっぽうでは紀州鍛冶河内鍛冶のように転々として村をめぐりあるいて、それぞれの土地におちついたものも少なくないが、カマのように切れ味が問題にするものは早くから一定の場所を根城(ねじろ)にしてそこで作った例も少なくない。土佐美作播磨越前信濃などのカマはそうして作られたもので、それぞれ様式と切れ味とを異にした。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.21〜22)


     ただ全般としての傾向からいうと、西南日本のカマは刃が鋭利であり、カマの柄がみじかく、左手で草を持ち右手で刈る形式のものが多く、東北にゆくにつれて、カマの柄が長くなり、かつ、ないで刈る形式のカマが多くなってくる。 それは草の茂り方によってそうなったものであると考えられるのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.22)


     農村に鉄器の多く用いられるようになったのは徳川時代になってからのことである。南部の鉄や中国山中の鉄が、それぞれの土地へ自由に売りさばかれるようになると、耕作農具はいちじるしい発達をみるのである。 ことに南部の鉄はあの黒いたくましい南部牛の背によって運ばれた。陸中の野田あたりから、鉄をつけた牛が、幾山河をこえて、会津越後あたりまでやってき、鉄ばかりでなく、牛もまたそこで売られたのである。 私の知っている範囲では南部牛は長野県の千曲(ちくま)川筋千葉県あたりまでその分布をみていた。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.22)


     近江(おうみ)から美濃(みの)へかけての水田で利用しているスキは、スキと柄とに角度をもたず、一直線をなしており、スキの肩のところを足でふんで土におしこみ、柄でおこすのだが、この柄にはさらにT字型の柄がついていて、土をかえすのに便利にしている。 どうしてここだけにこういう農耕法がのこったのであろうか。 この型の踏スキの分布はさらに広く奈良・京都・大阪・三重・愛知などにもわたっているから、もとはもっと広くおこなわれていたものかと思われる。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.24)


     深耕が増産の重要問題であることは昔からよく分っていたのである。クワでさえ唐古出土のものは台に柄が直角についているのだが、古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は秋田でクワの柄が台に直角についているのをスケッチにのこしている。
     とくに韮山遺跡のようにフォークまで出ているのは興味深い。
     それがどうして手まえに引くような農具が発達するにいたったのであろうか。 それは深く耕すというよりも、土を削るという感がふかい。 多分、温帯モンスーン地帯で、雑草のしげることがはなはだしく、それを除くための農具が耕起にも利用せられるにいたったのであろうか。 これは発達の様式からいえば退化といっていいものかと思われる。そしてそれが人々の腰をエビのようにまげてしまうものとになったのである。 この風土にあうために農具はそのようにかわることを余儀なくされたといえばそれまでだが、押す形式のものが中世の終わりまでは多かったことは事実である。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.24)


     いま北九州の島々や隠岐(おき)などにのこっているモッタテスキなども、もとは踏スキのようなものではなかったのか。 古川古松軒が豊後臼杵(ぶんごうすき)へんでみかけたウシグワというものは、モッタテスキの原型式ではなかっただろうか。長床スキとは明らかに系統を異にするものである。
     飛騨(ひだ)のヒツクワなどもスキとクワの結びついたようなものである。 長いクワの台のいっぽうの端に四十五度ぐらいの角度で柄がついている。 一人はその柄をもち、一人は台の端をもって二人して土にうちこむのである。こうしたものをにひかせればモッタテスキになる
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.25)


     農具ごしらえ(2)

     最後につけ加えておきたいことは、耕作農具についてはもっと農民の意志とアイデアが反映していいとおもう。 今日農民はメーカーの意志に支配せられて、農具を利用している場合が多いようである。 これがいたずらに多くの不要な農具を納屋のなかに蓄積させるものになっている。 機械化の道程において、農民がいつまでもメーカーをもうけさせる実験台であってはならぬ。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.31)


     ムギ刈り

     近畿地方の大阪・奈良附近を除いては、一般に根刈りになっているが、それさえ、それからさきの処理は土地土地でかわっている。 たとえば九州の熊本地方では、ムギを大束にしたものをナワでまき壁の前に丸太を横に地上三尺くらいの所に動かぬようにしておき、それに穂をたたきつけて実をおとしている。 小さいたば十把(ぱ)あまりを上手になわをしめつけて、調子をつけつつたたきつけるのだが、じつに見事に実がおちる。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.32)


     それが中国地方の広島・岡山では「ゴケタオシ」といわれるセンバでいちいちこいでいる。 ずいぶん労力を要することだ。 機械にたいして敏感なこの地方の人々がこんな古風な方法をとっているのは、茎をムギワラサナダに用いるためで、茎にきずをつけてはならないからである。茎はどうなってもよいという所では穂のやきおとしをしている例もある。 長野県の天竜川筋や千葉県などでみかけたが、その分布はひろいようである。 能率のあがる点では足ふみ輪転式の扱(こ)き機よりはよい。 しかし実が多少こげることがある。



     こうした根刈り地帯に対して、前記の奈良・大阪では、櫛(くし)型のホミシリで立っているままのムギの穂を扱(こ)き取る方法がみられる。穂をむしった上にあとから根刈りをするのだから手間もかかるようだが、穂だけにしておけばムギすり機にかけることができる。 ニ尺五寸ほどの高さの足がついた長方形の台の上にさらに長方形の深さ五寸ほどの箱をのせるのだが、この箱の底がトウシのようになっており、下の台との間の装置によって、ムギの穂は上の箱を前後に動かすごとに下へくぐりぬけつつ、台と箱の裏側ですられて実になるようにしてある。 二人差し向かいで動かしつつ、次々に穂を箱のなかに入れてゆけば、下へ実がぬけおちる。
     このムギすり機はいまも愛知から広島あたりまでの間におこなわれている。明治の初め、奈良県二階堂吉田氏によって始められたものである。 家普請(いえぶしん)にきた大工に、そのアイデアを話して造らせてみたのがことの起こりであったという。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.33)


     このムギすり機が各地に流行をみはじめたころから、満州から大豆粕が輸入されるようになったけれど、それをくだくのにみな苦心した。 多くはテオノ(手斧)などであらくだきをしておいて、それをツキウス(搗臼)でついた。 よくきく肥料だったけれど手間どって困ったのである。
     吉田氏はこの話を愛知県できかされて、岡山県ではなした。 すると岡山地方はもとタバコをたくさん作っており、その葉をきざむホウチョウ(庖丁)がどこの家にもあったが、タバコが専売制になって以来、不要になってもてあましていることから、これを利用して大豆玉をくだくことに工夫をするようになった。 これがあの大豆玉の真ん中へボルトで孔をあけ、そこへ軸を通し、大豆玉をまわしつつ、外円からしだいに削ってゆく機械を生み出したのである。 そしてそれは化学肥料の出現するまで、村々で重宝がられた農具の一つであった。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.33〜34)


     一つの発明は次々にあたらしい機械を生んだ。吉田氏の一族の者はムギすり機から思いついて、輪転式イネ扱(こ)き機を考えついたという。 それまで用いられたセンバは歯を定置させて扱くのであるが、歯を動かしたらもっと能率があがりはしないかと考えたのが動機であったという。 森周六博士によれば回転式脱穀機(だっこくき)は山口県人福原章一氏が稲田の間の細道を自転車で通ったとき自転車のスポークに稲穂がふれて脱穀されたのを見、発明のヒントを得て明治四十三年十一月足ふみ式回転脱穀機を考案し製作を開始したという。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.34)


     こうして少しずつ機械化されたのである。 しかし、脱穀には比較的順調に機械化が進んでいったが、調整はなかなか容易でなく、西日本では穂をカラサオでうつということが広くおこなわれた。メグリとか、ブリキといっている所もある。 関東ではアオという槌(つち)でたたく所が多い。 新しい動力脱穀機で、一気に実になるまでになったのは近ごろのことで、それが一般化されているとはいえない。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.34〜35)


     かつて昭和初期の不況のおり、埼玉県の八基村は比較的その打撃の少なかった村であるが、経済基本調査をしてみると、畑作のこの村で、食料の七割までを村内でまかなっていた。 周囲のどの村よりも麦を多くたべていたのである。 大正の好景気以来、村はどこでも米食にきりかえられた所が多かったのだが、ここではそうではなかった。 そのことが収入を再生産へむける余力をもっていたのである。農家が食料を買わねばならぬというほど矛盾したことはないのだが、日本の農家の大半はそうであるといっていい。 それをどう克服するかが大切な問題であることを、この村の調査は示した。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.36)


     ひるね

     ハッサクの日につく餅のことをハッサクの「ニガモチとか、ヒルネの「トリアゲモチなどと言っている所が関西には少なくない。 その言葉が示すように、ハッサクの餅をたべると、それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなるのである。 そればかりでなく、それからはヨナベが始まるのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.37)


     よなべ

     ヒルネが止むとヨナベが始められるのが昔はならいであった。 ヨナベは夜業と書いているが、正しくは「夜鍋」ではなかったかと思う。 イロリに火をたいて、その火のあかりで男はナワをない草履(ぞうり)をつくり、そのほかのワラ仕事をし、女は糸をつむいだり裁縫をしたりしたのである。 イロリの火に鍋をかけ、仕事の終わったあとで、その鍋のなかで煮られた芋や豆を大ぜいでたべあったのである。 そのたのしみが夜の作業のつらさを忘れさせた。 それにしてもヨナベはつらいものであった。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.39〜40)


     「朝はドキツネ昼間はキツネ、夜さりなくのはキツネさん」という民謡が和泉(いずみ)の山の手地方にある。 朝のキツネがなくと働き人たちはおこされる。 もう少しねていたいのに……と朝のキツネの声はうらめしかった。 しかし夜キツネがなけば、もう仕事はやめてもよかったという。キツネニワトリと同じように時をしらせてくれる動物の一つだったのである
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.40)


     ヨナベにする仕事の量もきまっていた。 それはたいてい草履二足とか三足とかいうようなものであり、女はジンキの何本かを糸につむぐというふうになっていた。ジンキシノマキともいい、篠竹(しのだけ)に綿をまいたもので、その綿を糸車にかけて糸にするものである。シンキな仕事だったのでジンキとよぶようになったのであろうか。 「眠い目をしてほそらしゅうあけて木綿ひくの見りゃなおかわい」という民謡があるが、若い娘にとってはそれほど眠い仕事でもあった。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.40)


     このようなヨナベはまた藩の強制政策でもあった。『慶安御触書』に「男は作をかせぎ、女房はおはたをかせぎ、夕なべを仕、夫婦共にかせぎ申」などとみえており、佐賀藩には雇人(やといにん)の怠業や、不正をとりしまるための小頭(こがしら)が村におかれており、二尺の棒をさげて村々をまわり、夜分などあそびあるいているものがあると、ドラ声を出して叱りなぐり制裁したといわれる。 ヨナベはどうでもしなければならないものだったのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.40〜41)


     「それに電灯がついて夜も明るくなると若い者はヨナベひとつしようとはしなくなった」 と老人たちはよく愚痴(ぐち)をこぼすのだが、じつは機械がわれわれのヨナベ仕事の大半を奪ってしまったのである。 着物も履物(はきもの)も工場で生産せられてみると、われわれはしだいにそういう世界から解放せられるようになった。 そしてわれわれは働くだけでなくて考える余裕をもつようになってきた。 考える力があたらしい文化を生んでゆくのである。 よい休養とよい思考、それがよい文化を生むことになろう。 労働生産の計画化も生れてこよう。 ヨナベがそういう思考の時間におきかえられつつある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.41)


     稲刈りと稲扱(こ)き

     日本のはカマ(鎌)で根刈りするふうが久しくつづいているが、もとは穂首をつみとったものであった。 鋭利な刃物のなかったころには石庖丁(いしぼうちょう)が利用せられたのである。 したがって根刈りは困難であった。 このような方法はいまも東南アジアの地域にのこっている。 いまから千年ばかりまえでは頴幾許(えいいくばく)としるされてあるが、これは穂首をたばにしたものの謂(いい)であった。 大和唐古(やまとからこ)の弥生式遺跡からも、こうした穂首をくくった稲の出土したことがある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.42〜43)


     しかし平安時代に入って砂鉄を利用した鋭利な刃物ができるようになって、カマは稲を根刈りさせるまでに発達した。 もとよりそのようなカマは、そのまえの奈良時代にも存したようであるが、平安時代には一般化したのである。 承和(じょうわ)七年(八四〇)の太政官符(だいじょうかんぷ)には「大和国宇陀(うだ)郡の人は田の中に木をかまえ種穀をかけさらす。 その穀のかわくこと火炎に当たるに似たり。 俗に名づけて稲機という。 よろしく諸国に仰せて広くこの器を備うべし」 とあって、根刈りした稲イナキにかけて干すことをすすめている。 このようにして稲は地干しだけでなく木を横たえたものにかけて干すふうが京都を中心にして広がっていったのだが、気温も高く、雨の少ない西南日本−−すなわち四国九州には依然として地干しが盛んにおこなわれている。 しかし晩秋雨の多い裏日本や、この方法の初めておこなわれた近畿では掛干しが主になる。 近畿では「ダテ」といっているが、裏日本では「ハサ」「ハゼ」などとよぶ地が多く、「イナキ」という言葉は中国から四国の山間にきく言葉である。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.43)


     北陸地方ハサは田の畔(くろ)にならんでいるハンノキなどを利用することが多く、これに五段、七段と横木をくくりつけて稲をほしている風景はまことに見事である。 山陰地方ではそのようなハサは秋のくるごとに組み立てるもので、平生(へいぜい)はその材木を入れる細長い小屋にしまったり、または木におおいをしてしまっているのをみかける。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.43)


     これが秋田県男鹿(おが)地方に入ると一本の(くい)を中心にして稲束(いなたば)をはさんでつみあげてゆく干し方をする。ホニョとかイヤケシとかいっている。 方法は両者でやや違っているが、田の畔に立木をもたない所ではかかる方法がとられるのであろう。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.44)


     このように刈った稲は田のほとりで十分干されるのだが、それにはまたそれだけの効果があるといわれている。 文化がすすみ、稲扱(こ)きに動力が用いられるようになった今日、刈ってすぐ扱き、これを火力乾燥にしたらどうだろうと説いてまわったことがある。 しかしそれについてどこでも賛成してくれなかった
     まず越前平野の先覚者は私のいったように試みたそうだが、そうした米は四月からさきになると変質するというのである。 山形の人々はハサにつりさげて干しておくと米が水晶のようにすきとおってき、それに搗(つ)きべりが少ないといった。 広島県できいた所では稲を刈ってすぐ扱いたのと、イナキで十分干したものとではトリカが一割もちがうというのである。干しているあいだに茎のなかの養分が実へ移行するのであろうといっていた。 あるいはそれらは科学的に証明されることかも分らない。 とにかく機械化してきつつ、なおハサに一把(わ)一把をかけて干す労働がくり返されているには、それだけの理由があるようである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.44)


     しかし稲作のなかでもっとも多くの労働を要するのは稲刈り以後で、刈って俵に入れるまでに、一俵につき一人役はかかるといわれており、そのために、まずその部分の機械化がすすんできたのである。 徳川時代の初めまでは刈った穂を二本の竹に穂をはさんで扱いた。 これを「コキバシ」といった。『農業全書』にもその図がみえている。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.44〜45)


     これまた大へんな労力を要する仕事で、後家(ごけ)などが雇われてその作業にあたったのである。 その後にセンバがあらわれる。 和泉高石(いずみたかいし)の百姓が元禄のころ発明したとある。 木を横にして台とし、長さ三尺、四脚で斜めにささえ、前脚は短く、高さは台の長さくらい、これに平たい釘五、六寸くらいの歯のものを二十ほどならべて造るのである。 これによると能率はいちじるしくあがった。 そうして女たちの仕事がはなはだしく奪われたので、これを「ゴケタオシ」といったという。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.45)


     いもほり

     イモは畑作としては比較的豊凶の少ないもので、幕末当時でも反当り三、四百貫はとれたようである。毛利藩『風土注進案』によると、平均五百貫とれたことになっているが、そうすれば米を作るより、畑のひろい地方ではありあまった。中部瀬戸内海地方瀬戸田佐木の島々ではこうしたイモを北陸塩を積んでゆく帆船に托した。  北陸地方ではイモは珍重すべき食物であった。 こうして北陸の海岸にイモはひろがった。 越後地方ではサツマイモハマイモといっている。 このようにして、瀬戸内海においてはイモは換金化せられる価値をもったがゆえに、急速にアワ、ヒエ、キビなどの夏作を駆逐したのである。そして人はありあまるほどにふえた
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.49)


     日本にはずっと古くサトイモを常食とした時代があった。 山間にはまだそういう地方がのこっている。 いったんゆでたサトイモを串にさして、それをイロリの火にあぶってやいて食うのである。 串を手でまわしながら食うので、これをデコをまわすといった。 それがいつか瀬戸内海地方ではイモを箸につきさして食うのをデコをまわすというようになった。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.49)


     イモの食い方はいたって単調であった。 イモのままを煮るか焼くかするだけのもので、そのほか、切ってほして粉にし、それをダンゴにするくらいのものであった。カンコロダンゴというのがそれであり、九州地方ではコッパモチともいっている。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.49)


     ムギまき

     ムギ水田の裏作として、また畑の裏作として、重要なもので、食糧の上からいっても米についでいる。 いったいムギの作られるようになったのはいつからであろうか。 大分県国東(くにさき)町安国寺の弥生式遺跡からコムギの出土しているのをみると、米とほぼ同じころに日本に渡ってきたものであろう。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.52)


     しかしムギを作ることを一般にはこのまなかったようで、大同(だいどう)二年(八〇七)にムギ苗を刈ることを禁じているところからみると、穂の出るまえに刈ってマグサにするふうがあったようである。 弘仁(こうにん)十年(八一九)にも青ムギをに食わすことを禁じ、またムギをマグサとして売買することを禁じている。 この禁制は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)三年(七五一)に始まっているのである。 しかして弘仁十一年の太政官符(だいじょうかんぷ)にも大小ムギを植えるべきことをすすめているから、当時オオムギ・コムギ共に作られていたことがわかり、「ムギは絶えたるをつぎ、乏しきを救う事穀の尤もよきものなり」といっているから、コメの代用食のような役目をもっていたものと思われる。 つまり米と対等の位置で作られたものではなかったようである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.52)


     ムギは田や畑ばかりでなく、焼畑(やきはた)でも盛んに作られたらしい。 いまも対馬(つしま)では焼畑でムギをつくっているのである。 焼畑の分布は日本各地にわたっており、九州では「コバ」とか「ヤブ」または「ヤボ」といい、中国・四国では「キリハタ」またはただ「ハタ」ともいっている。 中部地方では「ナギ」の言葉がひろく、東北では「カノ」とよばれている所が多い。 東京・山梨附近では「サシ」とか「サス」とかいっており、武蔵の国の「サシ」は焼畑を意味する言葉だとの考証もある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.53)


     こうした焼畑では、種子はずいぶん多く用いられた。 それは散播だったからである。 対馬の上々木庭(こば)でまかれるムギは一坪に五勺(しゃく)であったというから一畝(せ)では一升五合になる。 一反では一斗五升もまいたことになる。 そして土質が悪いほど多くまいたのである。 したがって、まく量と収獲の量との差は必ずしも大きいものではなく、まいた二倍もとれればよいというようなことも少なくなかった。 ムギに限らず、ソバでもアワでも散播が主であったが、雑草が茂りやすく、除草の必要から条播(すじまき)がおこなわれるようになった
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.53〜54)


     ただ、でムギを作る場合には(あぜ)をたてる必要があり、そこにはおのずから条播がみられ、そういうことも畑の条播に影響したのであろう
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.54)


     いっぽう、火山灰土での凍土のつよい所では点播もみられた。 関東地方の台地にはこの方法がひろくみられるが、これはまた九州の山間地方にもおこわれた。 そこでも霜柱がひどいからである。 九州においては「マキゴエ」として十分くさった堆肥(たいひ)二駄にムギならば一升五合を入れ、これを三度きりまぜるのである。 するとムギ種は全体によく交じる。 一反について、これを三つ作るから、種子は四升五合ということになる。 これを桶(おけ)などに入れて一つかみずつ足もとに落としてゆくのである。 そうすると凍土にもつよく育ちもよい。 関東でもまたこれに似た方法がとられている。
     このように点播がおこなわれるにはまたおこなわれるだけの理由があった。 そしてそれはこのような特別の地帯を除いては一般化しなかったのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.54)


     ムギが田の裏作で盛んに作られるようになったのは、一つは年貢(ねんぐ)の対象にならなかったからだといわれており、いわゆる作りどりであったということは零細な小作人たちには魅力のあったものであろう。 しかし、そのことによって藩政府は安んじて重いコメ年貢をとりたてたのである。 ただ阿波(あわ)藩だけはムギの年貢もとっている。 それがどのように農民を窮迫させていたかは、すでに先人の研究もある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.54〜55)


     けれどもコメ・ムギの連作が土地をやせさせてゆくことを、進んだ農民たちはよく知っていた。 そこで、『農業全書』によると、元禄時代に上方(かみがた)では裏作にソラマメを多く作っている。 少なくも耕地の三分の一はソラマメを作ったようである。 それによって労力は節減でき、ソラマメはコメの代用としてムギ飯に加え、あるいはミソとし、ムギモチのあんにもなり、なら茶にも用いられると書いてある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.55)


     そのほかエンドウナタネなども裏作の作物として考えられる。 これらのうちエンドウやソラマメなどは、忌地(いやじ)性のつよいもので、そこにおのずから輪作(りんさく)の必要がおこってくる。 輪作はまた作付(さくづけ)の計画をうながすものであって、コメ・ムギの連作から、農業の進んでいる地帯では輪作への発展がみられたのである。 そしてそれらは換金作物としても意義があった。 こうして表作に地力をのこしておくことは表作を有利にした。 ことにコメのみをつくらず、ワタそのほかの蔬菜(そさい)などをつくる所では、これが大きな利益をあげるもとになったのである。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.55)


     これは今日の農業経営にもまた言いうることであった。 とくに酪農(らくのう)経営をともなう農業においては輪作による飼料自給化は、それを合理的に採算のとれるものにするために絶対に必要でもある。 そこにムギ作のおのずからなる限界もでてくるのである。 大和(やまと)地方では水田のムギはスイカの風よけとして、大阪地方では、キュウリ、トマトの寒風よけとして作られているのをみるが、かかる傾向は今日の蔬菜園芸地帯に多くみられるようになってきつつある。
    (《民間暦 新耕稼年中行事》P.55〜56)


    民間暦

    第一部

     民間暦研究の跡

     次に大正に入ってから、柳田先生によって雑誌『郷土研究』が発刊されると同時に、年中行事についての断片的な報告が各地からいくつか成された。 だが、まだ本格的な研究がおこっていたわけではなかった。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.61)


     雑誌としてもっとも強く年中行事に目を向けたのは大正十四年に創刊された『民族』であった。 これはこの雑誌の主宰者であった柳田先生が、ようやくこの方面にもその研究の歩を進めてこられたことを意味する。 しかしなお先生はその論考を試みることは控えて、ただよき報告を待たれたようである。  その第一巻ニ号には全国各地の正月行事が十五例報ぜられ、同三号には三月節供習俗春祭記事、同四号には田植時の行事その他、同五号には盆の習俗行事、第二巻二号には諸国新年習俗、同六号には八朔(はっさく)人形八月十五日、九月九日の行事、第三巻一号には山神祭亥(い)の子祭、同二号には正月および小正月行事、同四号には五月五日の行事、同五号には中元行事、第四巻二号には正月行事および道祖神祭、同三号には雛(ひな)祭が各地から報ぜられている。 不幸にしてこの雑誌は昭和四年に第四巻第四号をもって廃刊されたけれども、これらの多数の報告が人々の目をそのほうに向けさせた力は大きかったようである。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.61〜62)


     この雑誌の廃刊につづいて出た雑誌『民俗学』『民族芸術』にも年中行事の報告が目立って多いのをみる。 かくのごとくにして年中行事についての報告はふえ、その内容も充実して正確なものが多くなった。 そういうところへ昭和五年、長野県北安曇郡教育部会によって『郷土誌稿』が刊行せられることになり、その第三輯として年中行事が編まれたのである。 一地方の年中行事が、純粋な学問的意図によって一冊の書物として公刊されたのは、おそらくこれが初めてではないかと思う。 つづいて同県の南安曇郡教育会も年中行事を一冊にまとめて公にした。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.62)


     『北安曇郡郷土誌稿』の刊行とほぼ時を同じくして、昭和五年の八月からは雑誌『民俗学』誌上に折口信夫(おりぐちしのぶ)博士の年中行事が、六回にわたって連載された。 これは長野県東筑摩郡東部教育部会での講演の筆記で、その小題によれば、神迎え、同じく神送りほがいびと農事祝禁忌(きんき)・成年戒女性の秘事祓除(ふつじょ)・祭礼の分化犒(ね)ぎ祭り祭式舞踊およびその芸術化魂祭り仮作正月圧服行事異郷人の呪力夜の行事について述べられたもので、一年のうちにおこなわれる祭りと、祭りにともなう諸行事の意味を明らかにせんとせられた。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.62〜63)


     折口博士のこの方法と態度は、のち北野博美『年中行事』によって継承された形をとり、北野氏はその論考を分冊の形式によって発表し、これに附加するに、それまでの報告資料を日次によって整理したものと、年中行事関係書目の解説をもってした。 しかし不幸にしてこの計画は、予定の半ばで挫折(ざせつ)した。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.63)


     いっぽう柳田先生は、昭和八年三月から雑誌『旅と伝説』「年中行事調査標目」を連載せられ始めた。 これは先生が久しくその蒐集蓄積せられた資料を独自な方法によって整理したものであって、年中行事の資料取扱い態度はこれによってほぼ定まったとみていい。
    (《民間暦 民間暦研究の跡》P.63)


     年中行事と民間暦

     東北六県にみられるオシラ様という多くは桑(くわ)の木で作った二体の神様を、山形県・岩手県ではオクナイ様またはオコナイ様といっている所があるが、この神様は一年に一度は、イタコなり近所の子供たちにあそばせてもらわないと祟(たたり)があるといわれていて、多くは春先にその祭りをおこない、遊ばせるといって手にもってふりまわすようにしたり、またイタコの祭文(さいもん)につれて舞わせる行事がある。オコナイまたはオクナイという言葉も、この所作からきたものではないかと思う
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.72)


     祭りをコトという所も多い。十二月八日事納めといい、二月八日事始め、またはオコト八日という地方は多い。 また、春ゴトといって三月ごろに祭りをおこなう風が関西には広くみられる。
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.72)


     かくのこどくオコナイコトも平常の日のものではなく、行事という熟語のなかにもマツリという意味が含まれている。 したがって、『民間年中行事』に納められた徳川時代の年中行事の採録の態度をみると、有名な神社仏閣の祭礼や縁日までを含めている。 ゆえにその範囲は相当に広いのであって、一種の祭礼暦をもって年中行事といっているのである。
     それがさらに大正・昭和の今日においては、虫歯予防デー交通安全週間まで年中行事と心得るに至っている。 無論これらも平常とは改まった気持ちがみられるのではあるが、もはやそれは祭礼的な意味をもたない。
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.72)


     さて、年中行事という文字を使った徳川時代の人々の心持ちは、普通でない日、神仏の祭祀に関係ある日と、その行事を定義していたようであった。
     ところが、これに対して民間暦という言葉を用いるについては少々変わった心持ちが含まれている。 年中行事といい、民間暦というも、しょせんは年中恒例(こうれい)の晴(ハレ)の日を定めて、これを守ろうとしたにほかならぬが、民間暦はむしろ制定暦に対するもので、制定暦が数理的であり、同時に国の政治と深い関係をもっているのに対して、国の固有の信仰と深い関係をもっており、これを守ることによって一村一郷の安寧(あんねい)を保持しようとしたものであった
     なお、これだけでは説明が不十分であるから、私一個の私見をのべてみると、民間暦の意味は制定暦以前の行事と思われるものを基準としたものであると考える
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.72〜73)


     暦法の制定されたのは単に日を読むに便なるためのみではなくて、日には吉凶(きっきょう)があり、その吉凶にしたがってことを処すれば、おのずから生活の安定を保ちうるものであると考えたところにも大きな理由があったと思う。干支(かんし)・九曜(よう)・二十八宿(しゅく)・五行(ぎょう)が暦制定の一つの思想となっているのはこのためであった。
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.73)


     これが新しく暦法の制定とともに、われわれの祖先はまずその暦にみずからの生活をあてはめてゆかねばならなかった。 その努力は相当に苦しいものであったと思われるが、常民は、かつてもっていた習慣を捨てることなく、むしろこれを新しい制度に結びつけようとした。 したがって、新暦法にともなう行事とともに古い習慣は複雑さをましていったと思われる
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.73)


     暦法は最初支那より太陰暦(たいいんれき)が輸入せられたのであるが、明治五年太陽暦制定までに、なお幾度かの変改があり、暦本京都以外に、のちには伊勢会津三島その他の地より発行され、複雑化していった。  三元とか五節句とよばれる行事は、かかる暦法とともに大陸から輸入せられたものである。さらにまた仏教の伝来によって、その儀礼の混入したものもある
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.73)


     一方にはまた、かかる行事の分化もおこなわれていた。 たとえば一村一郷の行事として祭り営まれていたのが、一神社一寺院の行事となったものなどがそれである。 これは神社と氏子(うじこ)の関係がうすくなってきた都会地か、神社の勢力が強大になって、ある行事が村中心というよりも神社中心になって、氏子はむしろこれに従うというような有様になってきた場合で、過去の年中行事の書物には、これらをもすべて年中行事に含めているけれども、民間暦という立て前からすれば、むしろこれらは神社の祭礼として民間暦から省くべきであると思う。 とくに民間暦が民間における自然発生的な習慣暦であると考えるときは、官祭などは当然除外されることになる。
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.73〜74)


     しかし神社の祭礼も、もともとは民間暦の節日(せちにち)であったものが多いので、両者を厳密に区別することはむずかしい、また民間暦を考究していく上には祭礼は当然参照しなければならない。 今日の何々デーの如きものをも当然除外する。 これは古人の遺産でもないし、民間に発生したものでもない。 そうして民俗学の対象には、なおなりにくいものだからである。
     民間暦は、かくのごとく年中行事という言葉よりは内容をいちだんと限定して使用してみたい。 つまり民間という言葉に深い意味をもたせたいのである。
     しかし、その研究にあたっては民間暦的なもの以外を除外するのではない。 むしろその助けを借りなければならない。 また今日の民間暦を形づくるには多くの後来のものの混入、変遷のあったことはいうまでもないのであり、それを見ていくことにも深い意義がある。
    (《民間暦 年中行事と民間暦》P.74)


     行事と日

     しからば民間暦とはいかなるものを指すかということを、さらに深く見ていきたい。 これには『歳時習俗語彙(ごい)』をひろげてその目次を見るとき、一つの目安を得る、目次は七十一項目からなっている。 これを、そのおこなわれる目次にあててみると次のようになる。
    (《民間暦 行事と日》P.75〜76)


     正月元旦 年神棚・年宿年縄・年木新木・幸木と懸魚・年男の役目・身祝(みいわい)と年玉
    (《民間暦 行事と日》P.76)


     正月二日 門あけ門おとない・わざ始め・初山踏み
    (《民間暦 行事と日》P.76)


     正月十五日 田打正月・花正月・物作りと皐月(さつき)祝・祝箸祝棒(いわいばしいわいぼう)・世の中ためし・木まじないと嫁祝い・墨塗り臼隠(うすかく)し・鳥追(とりおい)土竜(もぐら)送り・小正月の訪問者・火祭りと小屋生活者・もちの粥(かゆ)
    (《民間暦 行事と日》P.76)


     七月一日 釜蓋(かまぶた)朔日(ついたち)
    (《民間暦 行事と日》P.77)


     七月七日 七月盆と眠り流し・七夕(たなばた)
    (《民間暦 行事と日》P.77)


     七月十三日−十六日 盆花迎え・吉事盆・宵盆・盆棚飾り・荒棚と無縁棚・精霊火(しょうりょうび)・送り盆・盆釜と門飯・盆の終わり
    (《民間暦 行事と日》P.77〜78)


     以上の日時は太陰暦によるものであって、その日の一定せざる行事には節分・仏の正月・初午(はつうま)と春亥(い)の子(こ)・社日と春彼岸・春ごと・半夏生(はんげしょう)・亥の神祭りなどがあって、そのうち節分彼岸半夏生太陽暦からきたものであり、初午亥の子等は干支(かんし)によっているものであり、その面よりすれば一定しているといえる。
    (《民間暦 行事と日》P.79)


     さて一定したものをみると、行事の大部分はまず正月に集まっている。 これはわれわれが実地に採集してみても同様であって、年中行事の三分の二までは、正月と盆のことで、他ははなはだうすくなる。
    (《民間暦 行事と日》P.79)


     そして、その残りの行事の日次を見ると十五日におこなわれるものが多い。 すなわち六月十五日・八月十五日・十一月十五日がそれであり、十五日に近い十三日節日(せちにち)とするものに、九月十三日・十二月十三日がある。 これらも、もとは十五日におこなわれていたものかも分らない。 なお二月十五日のネハン会(え)は仏教行事であるが考慮される。
    (《民間暦 行事と日》P.79)


     次に、七日または八日に行事のおこなわれることが多い。 二月八日・四月八日・七月七日・十二月七日がこれである。 いま三月三日・五月五日・九月九日におこなわれている節句も、もとは月の七、八日ごろにおこなわれていた行事が節句とよばれ大陸の文化に結びつき、日次の改まったものではあるまいかといわれる。
    (《民間暦 行事と日》P.79)


     十五日といい八日といわれる日は、に関係がある。 月の円(まる)くなるときが十五日であり、その半ばなるときが七日または八日である。本来、行事のおこなわれたのはかくのごとく月の明らかなときであったらしい。
    (《民間暦 行事と日》P.79〜80)


     その他では一日が多いのであるが、これは官暦が制定されてからとくに重要視されたのではなかろうかという(「民間暦小考」)。 一日に行事のあるのは二月一日・六月一日・七月一日・八月一日・十二月一日などである。 また神送りと神迎えを十月十一日と十一月一日におこなう地がある。
    (《民間暦 行事と日》P.80)


     一日・十五日がとくに大切にされたのは、別に行事のない月でも、広く各地で神社参拝の日であり、都市では休みの日であった。 休みは今日では単に休養のみの意味しかもたなくなっているが、もともとは忌(い)みつつしむべき日であったのである。忌みつつしむ日こそじつは祭りのおこなわれる日であった
    (《民間暦 行事と日》P.80)


     かくのごとき一日・七日・十五日などのほかに、いったん円(まる)くなったが、ちょうど半ばに欠けてきたときもまつるべきものであったらしい。二十三夜待の石塔は関東を中心にして多く分布しているが、九州の屋久(やく)島では一月二十三日夜の二十三夜待は、一年中のいちばん大切な祭りであった。 伊豆七島の一月二十四日の海難法師のくる夜などとも関係があるだろう。 六月二十四日は津軽地方では地蔵祭がおこなわれ、七月二十四日は瀬戸内海地方ではウラ盆といって、盆の最後の日であり、十一月二十三日は大師講といって北日本では大切な日であった。
    (《民間暦 行事と日》P.80〜81)


     これに加うるに、大陸より渡り来たった最初の暦が太陰暦であった。 したがって、それ以前のわれわれのもち来たった行事と、この暦との結びつきは比較的円滑であったと思われる。 従来の民間暦官暦の真の融合を見ざる行事の一つとして、柳田先生大正月小正月をあげておられる。 大正月は正月元日を中心としたものであり、小正月は正月十五日を中心としたものである。 小正月は現今は東北地方では女の正月などといっている所もあるが、その行事のあり方からみると、農耕に大いなる関係をもち、かつ行事の価値もこのほうが大きいようである。 すなわち民間にとっては、どうやら小正月のほうが大切であったらしいのである
    (《民間暦 行事と日》P.81)


     かくのごとく二つの正月のおこなわれていることは、さらに今日われわれが太陽暦の正月をおこないつつ太陰暦の正月を併用しているものと同じ理由にもとづくものであろうという。 すなわち、官暦によらないころの名残の正月が十五日であり、一日の正月は官暦以来のものであろうというのである。 これはまことに示唆(しさ)に富み、肯綮(こうけい)にあたる説であって、しかも古いものを捨て得なかった理由は、かくのごとき行事が毎年くり返しておこなわれたのであって、その慣習的な力が長くこれを亡(ほろ)びさせなかったのであろう。
    (《民間暦 行事と日》P.81〜82)


     ところが、冬のもっとも寒い季節に、田植えの所作などしてなぜ予祝(よしゅく)するようになったかは、また一応考えてみなければならない。 それより何よりも、なぜ寒い時期を一年の境目にしたかということである。 これを万物四時の変遷からみてゆけば、むしろ草木の芽吹くときこそ、一年の境目ではなかっただろうかということになる。
    (《民間暦 行事と日》P.82)


     それは、われわれの生活を規定する農耕のうち、稲作は南方よりきてこの国にまでおちついたもので、南方に於いては、ちょうどわれわれが正月を迎えるころに稲の植付けをしている所が多い。 単に稲耕種(こうしゅ)だけでなく台湾の諸蕃(ばん)などでも粟(あわ)を蒔(ま)くのが、一月ないし二月ごろで、ここを第一の月としている。年の変わり目と耕種とが一致しているのは南方諸族の実例に微しても明らかであるが、この記憶と慣習が、稲を日本にもたらして耕種が四、五月の候におくれるようになっても、なお南での耕種の季節を守っているものではなかろうかとも考えられるのである。 これは単なる一つの疑いにすぎないのであって、これ以上に深い根拠をいま考えてはいない。
    (《民間暦 行事と日》P.84〜85)


     いずれにもせよ、寒い冬の最中を年の変わり目としたことは少なくも日本人には大いなる不便であったが、官暦の制定もあってみれば、この寒空のころに、一応は春の田植えの物真似をしてこれを予祝し、また春らしい気分をも味わおうとしたのである。
    (《民間暦 行事と日》P.85)


     しかし、われわれは月だけでその一年を規定したものではなかった。 春夏秋冬のある地帯では太陽もまた一年を規定する上には大きな意義をもっている。 したがって民間暦のなかにも太陽の運行にもとづく行事の混入がある。 まず土用とよばれる日の設定がこれであり、前述せる春秋の彼岸夏至冬至半夏節分などはみなこれである。 そのうち節分は正月と同じような意義をもつ日で、これを基準に八十八夜二百十日までを計算するに至ったが、かかる暦法の混入流行はおそらく徳川時代に入ってのこと、すなわち西欧文化が近世初頭に流入をみて以来のことではなかろうかと思う。
    (《民間暦 行事と日》P.85)


     太陽暦の制定は明治五年十一月であって、すでに七十年以前に属する。 これによって五節句を廃して三大節が制定され、また祭日の制定をみた。 しかし、その祭典の儀礼はまだ十分に国民一般にいきわたっていない。 多くは学校の行事になっているにとどまっているのをみる。 そして久しく旧暦がおこなわれているのである。今次の戦争で大きな変改があろうが、今日までは旧暦のおこなわれている地帯のほうがその面積からすれば新暦よりはるかに広かった。 二、三年前まで大阪市附近は一歩郊外へでればほとんど旧暦であり、国の祝日には人が田野で働いているのを見かけた。
    (《民間暦 行事と日》P.86)


     これはその儀式が直接われわれの農耕生活に関係をもたなかったこと、とくに正月は仕事の都合上太陽暦では都合の悪い点などもあったが、何よりも不孝なことは、国民生活に即した奉祝の方法の示されなかったことである。 そのために学校では式に列した子供も卒業しては式に列することが稀になったのである。
    (《民間暦 行事と日》P.86)


     広く全国を歩いてこの問題にはとくに心をひそめるところがあるが、ただ一つはなはだ愉快に思ったのは、宮崎県南那珂郡北方村の二月十一日の天皇講であった。 国民学校の式後、村人一同は校庭に筵(むしろ)を敷いて酒食を設け歓談するのである。 教師も村人も一つになって睦(むつ)みあい、最後に東方に向かって陛下の万歳を三唱して解散する。 村人にとってはもっとも楽しい行事の一つになっているという。 なおかかる風習は西南日本の所々に見られるようである。
     祝事にはその後に飲食のともなうものである。 結婚のような式でさえ、まず食物によって結ばれている。 村祭のたのしさは、その日の食物であった。 たまたまこの地方ではそのことに気づき、この上なく明るくたのしい奉祝をしているのである。
    (《民間暦 行事と日》P.86〜87)


     行事と月

     正月が大切な一年の変わり目として考えられているのに対して、盆の十五日もそういう日ではなかったかと思う。 盆はいまでは仏をまつる月になっているけれども、その仏教的と思われる行事のなかにも、じつはそうでないようなものが多い。 正月の松迎えと盆の盆花迎え年徳棚盆棚、正月のオミタマ様と盆の無縁仏、正月十五日のトンドと盆の柱松火あるいは阿波(あわ)地方の盆のトンド小屋の如き、名は違うけれどもその形式ははなはだしく相似ているのである。 そして、とくに正月と盆を相近いものであると感じたのは薩南の宝島においてであった。今日一年として区切っているものも古くは、あるいは盆および正月の二つの区切りがあったのではなかろうかと思われる。
    (《民間暦 行事と月》P.87〜88)


     そういえば、六月の晦日(みそか)と十二月の大晦日には大祓(おおはらえ)があった。大祓は本来、祓ではなく(みそぎ)ではなかったかといっている学者もある。 禊は汚(けがれ)をはらって神を迎える準備をすることである。 六月と十二月の大祓にはそうした意味がみられる。
    (《民間暦 行事と月》P.88)


     次に三月八月も相似た行事がある。 三月の節句は上巳(じょうし)の節句といって雛(ひな)をかざり桃酒を祝って女児のある家では振舞事(ふるまいごと)もするのであるが、この節句の雛が今日のようにまで美しくなる以前は、われわれの身につく災をこの雛に托して流すべきものであったらしい。 すなわち形代(かたしろ)であったのである。 今日、神社の祭典に形代を奉って拝んでもらい除災する風をなお各地に認め、現に私の住んでいる和泉鳳(いずみおおとり)町の産土神(うぶすながみ)である官幣大社(かんぺいたいしゃ)大鳥神社でもおこなっているが、三月三日はこれをおこなう日であったと思われる。
    (《民間暦 行事と月》P.88〜89)


     由来、節句は中央地方ではめでたしとして遊ぶ日になっているが、青森県あたりでは悪い日であるといっている。悪い日であるから忌(い)みつつしまなければならないとするのである。
     節句はもともとわれわれの身につく災いを祓徐(ふつじょ)する日であったようだ。 節句の行事をみると三月も五月も八月も九月もそういう心持ちが強い。
    (《民間暦 行事と月》P.89)


     かくのごとく見ていくと、日本における古い行事は、六月と十二月の晦日(みそか)を境にして切半(せっぱん)し、その各六ヵ月中におこなわれる行事も互いに相似ていたらしいのである。
     つまり、支那よりの暦によって春夏秋冬の四季の概念の入りくる以前においては、もともと夏と冬に大きく分けられていたのではないかと考える。 この考えを裏づけるものは、台湾諸蕃の時の概念であって、アタイヤル族は一年を夏冬の二季に分け、夏を木の葉の繁茂する季節、冬を冷たい風の吹きくる北方の季節とよんでいる。 そして夏は四月から九月ころまで、冬は十月ころから三月ころまでである。 パイワン族は一年を乾湿の二季に分け、冬を乾燥季、夏を雨季としている。
     その他、南方諸蕃中にも一年を二期としたものは多いようである。 かくのごとき分け方が、ただちに日本の古代にもあったであろうとすることは危険であるが、いちおう参考になるものがある。 ただ、どうして一年を切半していたものであるかということについては、私には今後の宿題として残されている。
    (《民間暦 行事と月》P.93〜94)


     行事と風土

     自然崇拝があらゆる宗教的感情の起原であったとは、ただちに考えられないものがあるにしても、この言葉ははなはだ多くの暗示(あんじ)をあたえる。 ことに民間暦は自然現象のなかにわれわれの世界の安寧(あんねい)を処していこうとする規範であるだけに、自然と深い関係をもっている。
    (《民間暦 行事と風土》P.95)


     山中暦日(れきじつ)なしという言葉があるが、暦書はなくても、われわれの祖先は生産生活を営むすべを知っていた。 自然運行の理の妙は、その長い訓練によって知悉(ちしつ)していたといっていい。 そうしてしかも数理的に割り出された暦書によるよりも、この自然の暦によるほうが安全だったのである。
    (《民間暦 行事と風土》P.95)


     まず気候がわれわれの生産生活を規定した。峰の雪の消え残りが、馬の形にも見え、また朴(ほお)の葉にも見えるというようなことによって、田のこしらえを始めた地方は、東日本に多い。長い雪のなかの冬籠(ふゆごもり)の生活から黒い土の色の見えてくることがどんなにたのしいものであるかは、雪国を歩いてしばしば聞いた。 そしてその雪消(ゆきぎえ)とともに田耕の労働が始まるのであるが、遠山の雪がまずその時季を知らせた。 青森県八甲田山では、この雪の形が老爺(ろうや)の物を蒔(ま)く姿に似ているのでタネマキオッコといっているといい(『分類農村語彙(ごい)』)、長野県爺ケ岳にも種蒔爺という雪形ができる。
    (《民間暦 行事と風土》P.95〜96)


     次には動植物の目覚めがわれわれに時を知らせる。『農業語彙』に「辛夷(こぶし)の花を、東北では種蒔桜といふところが方々にある。 ちやうど此の花の咲く頃が苗代(なはしろ)種まきのしほになるからである。タウチザクラ又はイトザクラの名も同様の理由に出てゐる」とあるが、春早く咲く花をもって、種蒔の目安にした所は多いようである。 島根県邑智郡田所村でも「某家の背戸の桜が咲いたから種おろしをしなければ……」というのを聞いたことがある。
    (《民間暦 行事と風土》P.96)


     単に開花によって時期を知るだけでなく、その状態によって豊凶を予見したのである。 青森県五戸付近では「田打桜が一杯咲けば世の中よい」といわれている。 田打桜は白木蓮(もくれん)のことで、ちょうど新暦四月末ごろの田打ち時に咲き始める花だが、寒さも身にしみて、皸(ひび)もたくさんきれるのに、ひとりこの花だけが咲き誇って年の豊穣(ほうじょう)を人々に告げている。
    (《民間暦 行事と風土》P.96)


     また、「うつぎの花が一杯咲けば世の中よい」ともいわれている。 長野県北安曇地方でも「こぶしの花がよく咲くと豆が豊富だ」「こぶしの花の咲かぬ年は大豆が不作だ」「こぶしの花が上向に咲くと豊年で、下向に咲くと凶作だ」(『旅と伝説』一一ノ七)といっているが、秋田角館(かくのだて)地方ではコブシ種蒔桜とよび、「上向に咲くとその年は天気、横向は風、下向きは雨」などといっている(『鳥虫草木の民俗学的資料』)。
    (《民間暦 行事と風土》P.96〜97)


     行事の歴史性と地域

     宮座とは神社を中心にして一村または一部落の者が組をなし、神前に侍(はべ)って祭りをおこなうものであって、祭祀者は通常今日のごとき神官があたらず、老年の者または家格による者がなり、年齢による場合には組内の者が輪番におこなっている。 そうして神前の座席にも厳重な序列のあるのが普通で、その祭祀儀礼は今日の官祭とは趣(おもむき)を異にしている。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.105)


     しからばなぜ商業座の研究が宮座の研究に先行したかというに、商業座は古記録による資料が宮座よりもはるかに豊富だったためである。 また、その記録の古さからしても商業座のほうが宮座よりさかのぼることが遠い。 かくのごとく記録のみによるとすれば座の発生はむしろ商工業の座のほうにあり、このほうが盛行したものと思われがちであるが、これを現実においてみるとき、宮座のほうがはるかに根強くかつ分布も広いのをみる。商業座のほうが、徳川時代には株仲間という言葉になり、また今日のようにまで変遷したのに対して、宮座は依然としてその旧態と言葉を残している。 滋賀県甲賀郡地方の宮座の古い記録と現行のものとを比較してみても、まったく形式の上では変化がないといっていい。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.106)


     かくのごときものは、じつにこの伝統を維持させたものが信仰の力であって、物質的な利害になかったことが根本的条件であるためであろう。 しかも商業座の記録が早く文書にあらわれたのは、利害関係にもとづく事柄が中心で、こういうものは記録に残して後世の証拠物たらしめる要が多分にあったためと思われる。 宮座においてはほとんどその要がなかった。 ただ祭式の記録その他の多いのは儀式の方法を正しく守らんがための手段であって、それ以外に記録することも大してなかった。 ゆえに記録にあらわれることの前後によって、ただちにその起原の新旧を決定することはできないし、記録せられたことの量によって実質的な量を計ることは難(かた)い。 宮座は商業座ののちに発達したもののようにいわれるけれども、実際にはこのほうが先であったと思われる。 なぜなら宮座とよばれずして、これとほぼ儀礼を等しくする行事が、さらに広く宮座のおこなわれている地方および周辺に介在しているのを見、ほとんど全国に及んでいることによって推察せられる。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.106〜107)


     たとえば長野県地方における祝殿を中心にした地類または地親類とよばれる集団の祭祀、九州南部の氏神とその(カド)との関係、東北地方の内神カマドとの関係などはなはだ近いものがあり、琉球における氏神の祭祀もほぼ相似た形式をみるのである。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.107)


     かくのごとく、祭祀団体が同時に村の結合の母体ともなるのであって、これが祭と政のもと一つなりし名残であることが察せられ、宮座は事新しく発達したものではなく、古き祭祀形式へ新しい名称が付いたものであると思う。 そして宮座という言葉も、そのおこなわれている地方において必ずしも一般的通名ではなく、滋賀県東部ではシウシといっており、その他ではという地帯も広いし、(トウ)とか頭屋とかいっている所もある。 また単に座とのみいっている人々も多い。 したがってわれわれが実地の採集にあたっても宮座があるかと聞く場合よりも、お宮で座をすることがあるかと聞くようにする。 一般の人にはこのほうが通じやすいのである。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.107)


     かくのごとく人々の口の端(は)にのぼる名称が不一致であり、ごく軽く使用されているのは、それが他と対立的なものでなかったからで、一つの神社を中心にしていくつかの氏族が属するような場合には、荒木座とか大川座とかはっきりした名をもっているのをみてもわかる。かくて宮座の名称は名とともに行事が起こったのでなく、そうした祭祀行事をよぶのに、この新しい言葉が、その内容によく合うことから借用せられたものであると思う。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.108)


     かかる祭祀形式が、一般でありつつも、その祭祀があまりに一般であったからこれを記録しなかったのである。 しかしその不文律(ふぶんりつ)は厳重をきわめ、大阪・奈良地方で他村からの養子の軽蔑される風のあるのは、多く宮座の関係からである。 座仲間には生まれると同時に入って年齢の成長につれて村内における社会的位置を高めていくのであるが、他村からの養子はその養子として来ったとき、赤子同様に座に入るのであって、在村二十年に及ぶとしても、その村生まれの二十歳の若者の位置にあたるわけである。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.108)


     同じ白木村の長崎という部落にはカンマイという宮座(みやざ)形式のものがあった。 このカンマイとトンドの組との関係はいま知る由もなくなっているが、カンマイは神舞であり、神楽(かぐら)のことで、カンマイの座は十一月十五日におこなわれた。 この日神楽を村内でおこなって、一年中の祭納めとしたのである。 そうして組内のものは集まって飲食したのであるが、いまから七十年も前に神楽は止んで酒宴だけが残り、これをカンマイといっていた。 それがさらに二十年もたつと止んでしまって、いまではこの日村人たちが米一升をもって氏神へ参ることになっている。 するとその一人一人のために神主は太鼓をたたいて簡単に拝んでくれる。 されば終日太鼓の音が神社から聞え、この行事をケンジョウといっている。 ケにアクセントがあるから献上とは考えがたいが、気持ちからすれば米を献上するにある。 ところがこの米は、もとは部落内で取り集めて、神官の所へもっていったのである。 カンマイ組の解体が個々の献進になってしまった
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.110〜111)


     ゆえに、年中行事一つをみていくにしても、その分布地域を知るのみでは、その目的を十分に達せられないのであって、そのおこなわれ方に十分留意しなければならない。 そしてとくに組共同か個々か、まただれがおこなうかについては細心の注意をはらうべきであろう。 ところが、なかには早く団体的なものから個々の家の行事になったものがある。 正月に各戸がをたて、注連飾(しめかざり)をなす類はこれであって、個々の思い思いにおこなう有様である。 これが家によって少しずつの差を生ぜしめ、そうしてすっかり村の行事から家の行事に変わっている
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.111)


     鹿児島県大島郡宝島では、神社の祭りを三人のオヤシュという男神主と、ネイシとよぶ二人の女神主でおこなうが、そのとき神饌(しんせん)田を作る家、神主を補佐(ほさ)する家、その他いろいろの祭礼関係の役目がきまっていて、みずからの家の行事はきわめて厳重に守ってするが、他の家のことはほとんど知らないのである。 かくのごとき祭祀組織のもしくずれたときといえども、その家々における行事は個々のままで残るものではないかと思う。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.112)


     これがくずれていく形に今まで出会ったことがほとんどないので如何(いかん)とも言いがたいけれど、正月に餅を搗(つ)かぬ家のあるなどは、あるいは祭祀団のくずれゆく名残ではなかろうかと思う。 餅をつかぬことについてはそれぞれ伝説をともない、あるいは大晦日(おおみそか)に人を殺して金をとったために臼(うす)から血が出たとか、落人(おちゅうど)を密告して捕えさせたために恨(うら)みがかかって餅を搗くと血が出るなどと、いろいろにいわれているが、もとは正月の神を迎えるために、とくに村の一戸が選ばれて、忌みつつしんだ生活をしていた名残ではないかと思う。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.112)


     『島根県邑智郡誌』をみていると、代官が真宗信者も神を信仰し、祭りもおこなわねばいけないというお達しを出したのに対して、「民衆にそういう異信の神をまで祭らせるのであればわれわれは宗教の取締をすることができない」と寺方から反駁(はんばく)している記事を見いだす。真宗の盛んな所では異信の神々の祭祀は全然おこなわせなかったのである。伊勢の大麻でさえ、いまもってまつることを拒んでいる所がある。 したがって年中行事はいたって簡単なものになり、逆に報恩講なるものがじつに盛んにおこなわれている。 真宗信者には盆正月よりも報恩講のほうが大切な行事なのである。 一村真宗であればともかく、そうでない場合には、真宗徒と他の宗徒の間には必ず行事の差が見られる。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.114〜115)


     年中行事の濃厚にみられるのは、修験道(しゅげんどう)の盛んであった地方が第一である修験道は一部神道(しんとう)になったが、他は真言天台両宗になって現今にいたっている。 真言宗・天台宗のおこなわれている地帯にも行事は多い。 日蓮宗においても同様である。これらの僧侶たちが、年中の行事の解釈にみずからの宗教の教義を応用したところから少しずつその宗教の色彩が入り込み、また祭祀の方法にもそういう法儀の影響をみる。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.115)


     一村一郷のなかにおける個々の差は貧富によって生じてくる。 これも見のがせないことである。島根県八束郡の片句浦は行事の濃厚に残っている地の一つであるが、ここに住むある一族の人々は正月に餅をつかないでお萩(はぎ)餅を作った食べていた。 この一族の祖先は、時化(しけ)にあって大晦日(おおみそか)にここに漂着し、そのまま住むようになったのだが、そのために正月餅を搗くこともできず、お萩餅で間に合わせたというのである。 これは単なる口碑(こうひ)で別に証拠はないのであるけれども、もとはこの一族が他の者より貧しかったことは事実であった。貧しさのために間にあわせのものですましたというようなこともありえたのは、諸方にそうした口碑があるのでもわかる。
    (《民間暦 行事の歴史性と地域》P.115)


     行事の伝播と伝承

     民間暦を地域的に研究していく上には、その伝播(でんぱ)も問題にしなければならない。甲の地の行事と乙の地の行事が相似ているということをもって直ちに、甲の地から乙の地へ伝播されたと考えることはできない。 その逆であるかも分からない。 よしまた伝播が事実であるにしても、いかに伝播していったかも問題になる。行事の変遷ということの裏には、小さなる伝播がいくつも見られるようである。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.117)


     伝播は右のような場合のみでなく、中央の政府から、また遊行人(ゆぎょうにん)すなわち祈祷師(きとうし)や巫女(みこ)たちによってなされた場合も多かったと思われる。ことに強力なる信仰の中心地が地方にあたえた影響は中央の政治的文化とともに強大であったと思う
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.122)


     たとえば熊野の信仰の伝播などはこれであって、東北を歩いてみるとその行事に山伏(やまぶし)的な色彩のはなはだ濃厚であるのを感じる。 これは明らかに熊野との交通が頻繁(ひんぱん)であって、今日もなお両地の関係は深いのである。 いまでも関東以北の者で和歌山県田辺の町で、熊野へ参ってのかえりの精進落(しょうじんお)としをしていくものが千人内外もあるという。東北におこなわれているオシラ様という神様の信仰のごときも折口博士熊野の巫女の運搬のようにいっておられるが、オシラ様の信仰に山伏も関係していたことは事実である。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.122)


     伊勢信仰のごときはさらに強力で、伊勢講は本州全般各地に見られ、遠く薩南の宝島にまでも及んでいる。 そして各地で伊勢講が年中行事の一つとして村の大切な行事になっているのを見かけるのである。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.122)


     由来、日本は中央の文化が早く地方に向かって伝播して、国の隅々をまで中央化していったもので、文化のいくつかは京都を中心にして波紋のように四方に拡がっていった例が多い。 このとは柳田先生が早く「蝸牛考」によって、蝸の方言が古いものは外辺に、新しいものは内部にと、ほぼ分布していることを指摘されて以来、多くの人々の注意をよんだものであるが、一般文化においてもこれがいわれ、年中行事においても同様の現象が見られる。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.123)


     たとえば東北地方に見られる、正月十五日にくるナマハゲとかナモミタクリとかスネカとよばれる鬼は、ずっと南の鹿児島県屋久(やく)島あたりにもあって、ここでは元日にナマハゲと同様な姿をした山の神が子供のいる家々を訪れ、行(おこない)のよからぬ者あればたしなめてゆくのであった。 かくのごとき国の両端の一致は相当に多く、これが中央からの伝播でないまでも、広く国内に分布していた残存であるとはいいうる。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.123)


     同じく鹿児島県地方におこなわれている正月十四日のカセダウチまたはカセドリウチという行事は男女が変装して門に立って祝言をとなえて祝儀をもらっていくのであるが、これと相似た言葉と内容をもったカサドリとかカセギドリとかよばれる行事が千葉県から北の諸所におこなわれている(詳しくは「祝言」の項を参照)。
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.123)


     しかし文化は伝播して伝承されるのみでなく、地方に発生して伝承される場合も多い。 これは未開人の社会においてしばしば見られる現象であり、部族や氏族の結社を異にすることによって言語ばかりか、あらゆる習俗にわたっているいちじるしい相違を見る場合がある。 その信仰する神々もまたおのずから異なっている。 これらはその部落部落が本来は一つの習俗や言語をまで異にしていったのではないかとも思われる。
     同様な現象はかすかながら内地においても見られる。東北にのみ存して西南にない行事もあり、西南にのみあって東北にないものもある
    (《民間暦 行事の伝播と伝承》P.124)


     行事の持つ意味

     世の中のよいというのは、いまの人々にの感覚にも多分に残っているが、豊作であるということだった。世だめしというのは豊凶を占うことであり、寿言(ほぎごと)は要するに世の中よかれと祈る言葉であった。 「めでたし」という言葉の〔たし〕も「ありたし」「行きたし」等の〔たし〕と同じ願望をあらわすもので、賞(め)で得(う)る世を希求する言葉であったと思う。 そうして目出度(めでた)き世、すなわちわれわれの求めるものは豊作の世であった。 しかも、かくのごとき世にしていただきたいとの願望を、その所作に盛って神に寿言したのが正月の行事であった。
    (《民間暦 行事の持つ意味》P.127〜128)


     太陰暦による影響がいちじるしいとみられるものには、干支(かんし)によって六十日ごとにおこなわれる庚申待(こうしんまち)や甲子待(こうしまち)があり、正月の子(ね)の日土用丑(うし)の日四月卯(う)の日二月初午(はつうま)十二月酉(とり)の市、七月および十月の亥(い)の日など、十二支によって行事をおこなっているものが多い。 これらは大なり小なり、本来はなかった思想の混入をみるのである。
    (《民間暦 行事の持つ意味》P.129)


     そのほか諸々の雑節俗信がある。半夏生(はんげしょう)、土用(どよう)、社日(しゃじつ)、八専(はっせん)、十方暮(じっぽうくれ)、天赦日(てんしゃにち)、五墓日不成就日(ふじょうじゅにち)、十二直(じゅうにちょく)、九星(きゅうせい)などがこれであって、かかる思想は暦書の普及とともにおこなわれたもので、存外広く分布しているのである。 南部田山で出されていた盲暦(めくらごよみ)なるはんじ絵式の絵暦にも、かくのごとき雑節(ざっせつ)が出ているのを見かける。
    (《民間暦 行事の持つ意味》P.129)


    第二部

     物忌(ものいみ)

     まず正月を迎えるための物忌生活の初めは十二月十三日ではなかったかと思う。 この日を正月初めといっている地方は多い。 土地によってはコトハジメともいっている。 ところが、別に十二月八日コトの日またはコトハジメといっている所があるから、土地によっては十二月八日を正月初めと考えたものもあったのではなかろうかと考える。
    (《民間暦 物忌》P.134)


     門松はいまでは正月の二、三日前に迎えにゆく所が多いが、もとは十三日に迎えたものではなかっただろうか。 新潟県三面村の川内神社の氏子は、十二月二十日に門松を迎えにゆくというが、正月初めが十三日であったころにはどうであっただろうか。 鹿児島県百引村では門松にそなえるワリキ年木といい、これを伐るのが十三日で、トシキリといった。 今これをおこなう家も少ない由であるが、さらにさの以前には門松もこの日に迎えたものではなかったかと疑っている。
    (《民間暦 物忌》P.136)


     七月の盆行事の物忌はその朔日からではなかっただろうか。 この日を釜蓋(かまぶた)朔日というのは関東地方の風であるが、関西でも地獄の釜の蓋のあく日だといわれていて、先祖が戻ってくるのに道が悪くてはいけないとて、盆道作りをする所は静岡、愛知の山中より、遠く九州日向の山中にまで及んでいる。 また高知県では六月三十日夜、トボシゾメとて新仏のある家では燈籠(とうろう)をとぼしはじめるが、中部地方から関東へかけては高灯籠の竿をたてる。この竿は檜杉の六、七間もあるものを梢に生葉の枝を残してほとけが空からかえってくる目じるしにすると長野県北安曇(きたあずみ)地方ではいっている(『郷土誌稿』)。 こうした物忌の生活は関西から中国にかけては七月二十四日までつづけられ、東日本では七月二十日までであった。
    (《民間暦 物忌》P.137)


     田植えは期日の一定したものではないが、その本質においては単なる労働ではなく、立派な儀礼であったことは各地の諸報告をみれば分かる。 そうしてこの物忌の初めはいつからであったかはっきりしないが、田植えの初めをサオリまたはサビラキとよび、その終わりの日をサノボリといったことからすれば、その間が祭事だったのであって、五月四日(節句の前夜)などはその物忌に入るべき日ではなかったであろうか。
    (《民間暦 物忌》P.137)


     四月八日柳田先生多分四月十五日におこなわれた祭りのための物忌に入った日であろうといっておられることは、さきに掲げた。
    (《民間暦 物忌》P.138)


     そういう物忌がただ一日で終わることも少なくない。 行事のある日を休む風はこうして起こったのであると思う。 これにも深浅の度があって、全然あらゆる仕事を休む場合と、ある仕事を休むだけの場合とがある。 三月節句、四月八日、五月節句、彼岸、十一月十五日などは全然仕事をしないという所が多いが、二月九日または十二月九日におこなわれる山の神祭りには、山に入ってはならないとされているのみで他の仕事はしてもよいのである。 この日は山の神が木を数えなさる日で、山に入ると人が木のなかへ数えこまれてかえれなくなるのだなどと近畿の山中ではいっているが、山の神の下りたもうゆえに山に入ることは許されないのである。 中国辺で亥(い)の日に菜畑に入るなというのも田畑の神が、この日に家へかえっておいでになる日だからである。
    (《民間暦 物忌》P.138)


     大阪附近では、雨が降ると雨喜びとて田仕事を休む風があるが、これとて上代にあっては「アマツツミ」とて忌みつつしむ日であった。梅雨には毒が降るという地は相当に広く、四国から九州へかけて歩いたときしばしば聞き、「霖雨忌(りんうい)」心はみられたのである。 それが大阪附近では梅雨が降れば田仕事は休まないまでも同じく雨喜びといって心祝をするようになっている。梅雨が田のしつけをさせてくれるから、その喜びのためとも解せぬではないが、一面、梅雨を毒と感じた気持ちも無視できないばかりか、古くからこれが忌まれたものであるとすれば、起原はそのほうにあったとみるべきである
    (《民間暦 物忌》P.140)


     みそぎはらい

     出羽三山にも、御岳にも、白山にも、大峰にも、石鎚山にもみなかくのごときみそぎをおこなって、登山した。 そしてこの間、家族の者も家にあって忌みつつしみ、決して争いごとをしてはならないといわれる。 狩人の山に入るにも垢離は必要であった。 秋田のマタギ(狩人)たちは、冬の水なき山中では、シバゴリとて青柴をとって両肩にふりかけ、垢離をとる形式をおこなったという。『阿仁マタギの山詞その他』早川孝太郎)によると、笹の葉にてこれをおこない、唱えごとがあった
    (《民間暦 みそぎはらい》P.149)


     籠居(ろうきょ)

     さて正月をすぎてからの忌みこもる日をみてゆくと、一月の下旬から二月初旬にかけてそういう日があった。『佐渡年中行事』には「忌(いみ)の日」となっている。 忌は暮れと二回あって暮れのほうは十一月末から十二月卯(う)の日まで(徳和)、あるいは十一月二十九日と卯の日の前晩(大崎)、十一月二十九日のみ(鷲崎)等と土地土地で多少違っている。 春のほうは正月二十九日から二月四日まで(徳和)、あるいは一月末日(河内、西三、梅津、金泉、松崎)、二月二日、二月四日、二月五日(西野)などといろいろあるが、要するにこの夜は仕事を休み、とくに麻をうんだり縄をなったりしない
    (《民間暦 籠居》P.156)


     ところが忌籠の言葉は出雲のほうにもあって、旧十月二十一日から二十五日まで佐陀神社では厳粛な祭りがあり、一般民は忌みこもって物音もたてなかった。 そしてちょうどこのころよく天気が荒れるが、これは神様がかえってきなさるときに起こる風だと考え、オイミアレといった。 二十五日は神が佐陀の社を発(た)ってそれぞれの社へかえる日でカラサデといい夜は便所へもゆかなかった。 そして二十六日は神様が氏神の社におちつく日とて村人は氏神におこもりした。
    (《民間暦 籠居》P.160〜161)


     福島県の海岸ではこの小屋を鳥小屋という。 雪の深い越後では雪の室(むろ)を作ってユキムロとよび、このなかに子供たちがこもって鳥追いの行事をしている。秋田カマクラという雪室なども水神様をまつる小屋であり、また鳥追小屋であったというから、もとは忌小屋であったのだろう。徳島県地方では盆に盆小屋というものを造って子供たちがこもった風のあることは前述した。
     亥(い)の子(こ)の日福岡県地方の島では海辺に子女が集まって御幣(ごへい)で家を作り、菊の花を飾ってともに食事したというのも忌小屋の1つであろう。
     若者宿(わかものやど)の起原も、本来はかかる忌小屋からの発達ではなかったかとさえ考えられるふしが十分にある。 これについては後述したい。
    (《民間暦 籠居》P.167〜168)


     人々が神になるために俗界から絶たれねばならぬとする風習の強く残っているのは、沖縄県である。 この島々の習俗がその特殊なる事情のもとに古来、日本と同一の文化をもちつつ漸次(ぜんじ)日本現代の文化との間に差を生じていったことについての諸研究は、この県が生んだすぐれた学者伊波普猷氏をはじめ多くの方々、および内地における柳田折口両先生以下の諸先輩によってなされ、日本の古代を知るためには、どうしてもこの県の文化を解さなければならない重要なものであることが明らかにされてきつつある。
    (《民間暦 籠居》P.168)


     折口博士の『古代研究』によると、沖縄本島人海の彼方にニライカナイという楽土を考えた。神はここから海を渡って人間の村にくるものと信じた。 南方先島列島のほうへいくとこの浄土をマヤとよんでいる。 また、八重山の石垣島宮良という村の海岸洞窟(どうくつ)から通う地底の世界にニイルというのがある。この洞からニイルビトまたはアカマタクロマタという二体の鬼のような巨人が出て酉(とり)年ごとに成年式をおこなわせることになっている。 暴風などもニイルから吹くといわれる。
    (《民間暦 籠居》P.168)


     祭りの前夜をヨミヤという地方は相当広いが、あるいは、これはイミヤ(忌屋)の転訛(てんか)ではなかろうか柳田先生はいっておられる。 神社の祭りをおこもりとか夜ごもりといっている土地も、日本海沿岸一帯に広くみられる。
    (《民間暦 籠居》P.171)


     斎主(さいしゅ)

     前節にも時にふれてきたが、神を迎え、神をまつる人は必ずしも全村人ではなく、特殊な人が選ばれる場合が多い。 これは村人全体が、かくのごとき厳重な生活には従いがたいためであろうが、別にまた神の示現(じげん)はこれを容易に見うる人と然らざる人があった。 ここにそうした特殊なる人が選ばれて全体に代わってことをおこなった。 特殊なる人はであることもあり、主人であることもあり、また老人若者子供であることもあった。 そうしてそれは土地によって違い、行事によって違う。
    (《民間暦 斎主》P.171)


     正月の神を迎える人は年男(としおとこ)であった。 栃木県那須地方ではワカオトコといい、伊豆賀茂地方ではセチオトコといっている。 そのほかマンリキオトコイワイタロウなどの名もある。
    (《民間暦 斎主》P.171)


     早乙女たちが通行人に泥打ちした習慣は各地にみられ、とくに相手が男のみと限っていないで、花嫁花婿たちに泥をかけた地もある。 宮城野信夫(みやぎのしのぶ)の仇討(あだうち)の話も、このような習俗を基にして作られた芝居ではなかっただろうか。 いずれにもせよ、女の地位が男より高かったらしい痕跡は十分にみられる。 さらに盆にもボンガマまたは辻飯などといって、女の子たちが相集(あいつど)って屋外に竈(かま)をついて煮炊きして食う風習があった。 だいたい中部地方以西に見られた行事で、東北地方ではごくまれになる。 男の子の参加した地もあるが、多くは女の子の行事であり、これは精霊(せいれい)とともに飲食する意味をもっているのではなかろうか。この飯を食うと夏に病気をしないと各地でいっている。
    (《民間暦 斎主》P.175)


     新嘗(にいなめ)の忌(いみ)にこもったのもであった。 そうした女の位置の零落したのは、一つには男の権力的進出、とくに祭政の分離したこと、二つには仏教や儒教の思想の影響によるものかと思う。 女は罪業(ざいごう)深く穢(けがれ)多きものとする考え方は、仏教的な考え方であり、七去三従(しちきょさんじゅう)などという考え方は儒教的である。 かかる思想は文字の流入と同時にみられ、漸次(ぜんじ)これが拡がっていって、天平(てんぴょう)時代までは女帝きわめて多く、平安期文学はほとんど女の手によって牛耳(ぎゅうじ)られたほど女性の世界が広かったのに、鎌倉以後はまったく女性の文学も位置も転落してしまっている
    (《民間暦 斎主》P.175〜176)


     新春にくる大黒舞(だいこくまい)、恵比須舞(えびすまい)、万歳(まんざい)、春駒(はるこま)、鳥追(とりおい)獅子舞(ししまい)の徒の行事はもともと特殊なる村の人たちの役目ではなく、村のなかの選ばれた人たちの一つの祭事であったはずである。 それが漸次(ぜんじ)職業化していったのである。
    (《民間暦 斎主》P.184)


     神を招く木

     次に、二月八日には関東地方から新潟県へかけてオコトとよび、一つ目の鬼のくる日になっている。その鬼をおどすために、竿の先に目籠(めかご)を高く吊(つ)っておく。 これは鬼が目の多い目籠をみておどろいて逃げかえるためだといい、また入り口にワカサギまたは(いわし)の頭を豆の木にはさみ、これに(ねぎ)、ニンニクラッキョーの類を四角に切って添え、家の要所に挿しておく風が那須地方にあった。 これは関西の節分とはなはだ近いものになる。
    (《民間暦 神を招く木》P.191)


     オコトの日の目籠神を迎えるものではなく、むしろ恐れさせるものになっていて、何人もこれを信じており、神を避ける木になっているが、最初からそうであったかということについては疑いをもっている。 なぜなら日本におけるは、むしろもと神の姿であったと考えるふしがあるゆえに。 なお鬼については後述したい。
    (《民間暦 神を招く木》P.191)


     四月八日にはテントウバナの行事がかる。 竿の先にウツギツツジシャクナゲなどをくくりつけて高くたてるのである。 お釈迦様にあげるのだというところは多いが、和泉山村では天道(てんとう)にあげるのだといっている。 そうして縁側に団子を供えるのをみると、七夕(たなばた)の星祭りや、八月の名月の祭りにも近い似たものがある。 この花立ての行事は、京師(けいし)では屋内の花瓶にたてたもので生け花の根源であるといわれる。天道花(てんとうばな)は四月八日にたてるものに限らず、畿内の野の村や大和(やまと)の山村では家々の入り口に花瓶をかけて花をたてている。 これをテントウ花ともニチリン花ともいっているのはやはり日の神に捧げたものであることを知りうる。 大和の山村では竹の竿を家の前にたて、その先を花立てに利用しているのをみかける。
    (《民間暦 神を招く木》P.191〜192)


     天道花は目にとまった範囲では畿内一円と瀬戸内海の岡山県海岸のあたりにまで及んでいて、その分布は京師(けいし)に近い所からみると、その淵源は四月八日の花折行事にあったにしても、今日のごときテントウ花の形式の発達をみたのは新しかったと考える。 しかしながら、かくのごとき形式は行事のもつ目的や意識が自然に発生せしめたのではなく、柱立(はしらだて)行事の流用であったと思う。
    (《民間暦 神を招く木》P.192)


     五月五日の幟竿(のぼりざお)について、これが神を招く枝であっただろうということは、折口博士「髯籠の話」(『古代研究』)のなかで詳しくのべておられる。 幟竿の先に髯籠をつけたり、杉の青葉をつけたりするのも単なる飾りではなかった。
    (《民間暦 神を招く木》P.192)


     山口県大島では幟竿の先にはボンテン(幣の一種)をつけるのが普通で、そうでないものは杉葉笹葉をくくりつけた。もともと幟がたてられる目的物というよりも、ボンテンのほうに目的があって、一種の幣束(へいそく)なのであった。 おそらく幟がこのボンテンの下につけられるようになったのは、五月節句が武家の行事として重んぜられるにいたって以来のことで、それまでは西欧における五月一日のメイポールと同一の意味があったのであろう。
    (《民間暦 神を招く木》P.192)


     訪れる神
     
      陸前の気仙(けせん)地方には正月に入つてから新仏の家のオミタマを拝みに行くといふ例もあるが之は察するに二つの行事の接合であつて、ミタマは清浄の家でも正月に之を祭る例が、奥羽にも信越にも現在まだ多いのである。 盆の精霊と正月のミタマとは本来一つものゝ和語漢語であつて盆に用ひる語を正月には避けたものと思はれる。 現に埼玉県では新盆をアラミタマの盆と謂(い)つてゐる(『祭時習俗語彙』)。

     との柳田先生の言葉は示唆(しさ)にとむ。 いま『赤城山西南麓農家の年中行事』によれば、
     
      茶の間の神棚の相ひ向ひに四本の竹を渡した棚があります。 これは机や、糊板などを乗せておく所ですが、その上手の端に(つまり神棚の年神様と向きあって)一枚の木板がありその上に神様が居ります。 この神様は正月は、年神様と共に新しい鉢で飯を上げ下げし後灯明(とうみょう)を上げる重要な神様なのですが、残念乍ら私は分明なる名を知らないのです。……只(た)だ古くからゐる年老いた作番頭が私に説明してくれる事はこの神様は「オミタマ様」と云って家の先祖の霊をまつるのだと云ふのです。それなら仏壇があると思ふのですが、この老作男の言によれば村方の古い家では皆この神様を正月だけ祀るのだと云ふのです。 私が推察しますのに、お盆に先祖の霊は盆棚の上に特に迎へられるのですが、仏教信仰と別に先祖の霊は、夏冬二期かうした棚の上に迎へられる古い習慣があつたのではないかと思ふのです。お盆棚はこの「オミタマ様」の棚の下のすぐ隣に作られるのです。

     とある。オミタマ様年神様とともに重要な神様であった。 そうして、われわれが仏壇に祖先を祭る以前の形式がこのミタマ様や精霊棚ではなかったかと思う。
    (《民間暦 訪れる神》P.196〜197)


     東北地方一帯にはミタマの飯なるものを正月に供える風があるが、多くは年神様に供えるものとして、年棚の片端にあげる。握り飯でその年の月の数だけで、これにたくさんの箸をたてる。 鳥海山麓の村ではこの飯を藁の苞(つと)に入れて吊りさげ、正月の神に供えるだけで、正月餅は飾らないようになっていた。
    (《民間暦 訪れる神》P.197)


     秋田県河辺郡などではニダマといい、まんまるな形の握り飯を十三こしらえ、それに一本ずつをさして(み)の上に並べるという。ミタマの飯になっている所もある。とにかく東北ではこれが正月の大切な供物(くもつ)であったことが分かるのである
    (《民間暦 訪れる神》P.197〜198)


     ところが南へとんで薩南宝島の七島宝島正月(十二月におこなわれる)をみると、正月には仏棚の前に戸板一枚がおかれて、これに菰(こも)を敷き、供物を供えてオヤダマ様をまつる。 これが正月祭事の中心になるもので、年神様はその隅にまつられるにすぎない。 オヤダマ様は祖霊(それい)であって海の彼方からくる。 このオヤダマ様のおかえりになる日に、ある男がカネク(砂丘)の畑へ仕事にいっていると話し声がきこえる。 「どうもていねいにまつってくれないから子供をいろりへ突き落としてきた」と言っているのである。 かえってみると、わが子がいろりにおちて大火傷(やけど)していた。 かくのごとくオヤダマ様はまったく祖霊の感が深い。 ただその棚が盆棚と差のあるところは、盆棚のときは仏壇から位牌(いはい)を下ろすが、正月の場合はそうでないことである。 そして盆は精進(しょうじん)になる。
    (《民間暦 訪れる神》P.198)


     正月の神が歳徳神であるとしたのは中国からの影響であろう。 そして正月の神ミタマ様歳徳神と二つまつらねばならなくなり、西日本のように仏教も濃厚におこなわれている所では、ミタマの祭りは十二月にはみ出してしまって、歳徳神ばかりが祖霊にかわって神棚に坐るようになったとみられるべきではないかと思う。
    (《民間暦 訪れる神》P.199)


     かくのごとくに考えると、正月の祭りに比して盆の祭りははなはだしく近いものになる。
    (《民間暦 訪れる神》P.199)


     かくて、われわれはもと祖霊を迎えて年を改めたのである。 新年の意義は古年を捨てて年を若がえらせることである。若水はわれわれを若がえらせる水と考えており、トシボタまたはトシギといわれるいろりにたかれる大きな木も、これをたくことによってわれわれを若がえらせると考えた地が多かった。新年は年を若がえらせる新しくする意味をもっていた。 その新しくする力のあったものが祖霊であり、歳徳神と考えられた。
    (《民間暦 訪れる神》P.199)


     改まった年を迎えるとともに、われわれにその年の予言をおこなう神がやってきた。 これは季節神すなわち自然神であったと思う。 沖縄の島々では、ニライカナイからきた神がやはり予言してゆくようであるが、内地では予言の神は早くから祖霊や歳徳神(季節神)とは別ものに考えられていたようである。 なぜなら、神が言葉をもたらすものであるから、必然に目に見えざる神を迎えるようなわけにはゆかなかった。予言の神は早くから人格化してきた。身をかくし顔を包んで家々を訪れ、予言や祝言をおいていったところから、われわれは大陸思想の鬼の姿をそこに見、または、これをほがいびとにまで堕落(だらく)せしめるようになった。
    (《民間暦 訪れる神》P.199〜200)


     関西を中心にして、神社にみられる初春の追儺(ついな)の行事は悪鬼退散、すなわち鬼やらいの行事と考えているが、神戸市長田神社の追儺では、鬼は追い払われていない。 神社の周囲を何回も松明(たいまつ)をかざしてまわり、最後に神前で餅割の式をする。人や神に追われざる鬼のいることは私たちに深い暗示(あんじ)を与えるとともに、これを民間においてみれば追われざる鬼はいくらでもいた。
    (《民間暦 訪れる神》P.200)


     男鹿半島の正月十五日の行事として有名なナマハゲは、真山本山の赤神様の降り来(きた)って里人を戒(いまし)めるものとして、子供たちはことのほか恐れているが、家々で酒肴(しゅこう)を供えてもてなしたことは、一年の予言をきくべき真に迎えられたゆえにほかならぬ。
    (《民間暦 訪れる神》P.200)


     釜石の近くではこの神をスネカ様といい、ナモミタクリといっている所もある。ナモミというのは火にあたっているとできる火ダコのことで、タクリはぎとること、ナモミをはぎとるとは、いわゆる怠けを戒める意である。 同時にこの恐ろしき形相(ぎょうそう)は悪霊をを追い払う力を有したのである。 あの異様な面相をした獅子頭(ししがしら)が、われわれをおどすものでなく、われわれを守るものであって、春さきわれわれの家の邪気をはらっていってくれたのと同じような意義をもっていた。
    (《民間暦 訪れる神》P.200)


     ナマハゲは東北ばかりでなく、南の島々にもあらわれた。屋久(やく)島では年の夜にくるものであって、オタケから下りてくる山の神だといっている。頭をつつみ蓑(みの)をまとい、腰に大刀をさしているあたりまで、ナマハゲとそっくりである。 これが家々を訪れて、いうことをきかない子供があると戒めていった。甑(こしき)島トシドンも支度は同様であったが、これは首のない馬にのってやってきて、心よからぬ者を戒めるとともに、よい子には年玉をおいていったというから、サンタ・クロースに近くなる。沖縄先島マヤの神トモマヤの神もこれと同系とみられるのである。
    (《民間暦 訪れる神》P.200〜201)


     かくのごとく、はもと神の姿にほかならなかった。 しかし鬼の恐れられたのは古くからであった。 『日本霊異記(りょういき)』以来の書物が一様に鬼を恐ろしいものにしているのは、インド中国の思想の結果と思われる。 そうして、節分の夜の鬼まで恐るべきものにしてしまった。 節分の鬼もこのときを一年の境とする人たちのために新しい年をもたらした神の姿ではなかったか。豆をまいたのもこれによって鬼を打つのが目的ではなかった。 この神への供物(くもつ)であった。豆まきは節分のときばかりでなく、家新築のおりにもこれをおこなっている所があるから、棟上(むねあ)げの餅まきと同様の意味があったことが知られる。
    (《民間暦 訪れる神》P.201)


     八月十五日、九月十三日はをまつったが、別に月待の行事があって、正、五、九の月の二十三日、または二十六日夜の月の出をまつる例が多い。
    (《民間暦 訪れる神》P.202)


     日月の祭りに対して風雨も祭られている。雨風祭りなるものは、盆すぎて冬にかけてのあいだに多くの土地によってその日の一定していないのは、風雨のはげしい時期が土地によって一定していないからである。
    (《民間暦 訪れる神》P.202〜203)


     武家階級の風伯(ふうはく)は六月十五日であった。新潟県東蒲原(かんばら)郡大田村では旧六月二十七日におこなわれた。この日大風が吹き起こされるというので村人が二、三人朝早く部落の入り口の上下に小さい木の小屋を建て、小屋の屋根に麦をのせ、わずかの風にも吹きとばされるようにしておく。 小屋の高さは一尺五寸か二尺くらいのものである。 通りかかった人はこれを風が吹きとばしたと同じようにこわしておく。 これによって風の神が部落をよけて両端をお通りになったと信じた。 風の神は新羅(しんら)三郎という。
    (《民間暦 訪れる神》P.203〜204)


     同村石畑部落では三郎山の頂上に木小屋を作り、部落から一人ずつおまいりして御神酒(おみき)をいただきオカラクを焼いて食べ、仕事を休む。 また、風が吹くと子供たちはいっせいに「風の三郎様、よそ吹いてたもれたもれ」と山のほうを向いて叫ぶ(『高志路』五ノ六)。
    (《民間暦 訪れる神》P.204)


     神送り

     関東における目籠(めかご)をあげるのは、一つ目をおどすためでなく、山の神の降臨を迎えるものであり、長野南部や中国では、田の神として野へ送る行事のほうが強く残存したのではなかっただろうか。 すなわち、コトの神も本来は恐るべき神ではなかったらしいのである。それが恐るべき神になっていったのについてはいろいろの原因があろうが、その一つとして考えられることは信仰心の喪失である
    (《民間暦 神送り》P.218〜219)


     神は本来、恐れつつしんで迎えねばならぬものであり、これがまた長くとどまっていては、われわれはその謹慎のために生活の制約を受けることが多い。 そこで祭りがすめばまた神の国へかえっていただくわけだが、神をまつるにさいしてその戒律は正しく守られざるとき、不慮の災厄にあうことがあった。 もともとこれは別個の現象なのだが、そういう災厄をわれわれの行為の結果だと考えたのである。かくて畏敬(いけい)の念のなかにはつねに畏怖(いふ)がふくまれており、信仰心の衰退は逆に畏怖の念を強からしめるにいたる
    (《民間暦 神送り》P.219)


     信仰心の衰退だけでなく、悪霊退散(あくりょうたいさん)と神送り混同がみられる。 ここで悪霊というのは不慮あるいはむごたらしい死に方をしたものの霊で、むしろ怨霊(おんりょう)とでも名づくべきかと思う。そういう霊は祖霊(それい)にならなかった魂の妣の国すなわち常世(とこよ)へゆくことができなくて、巷(ちまた)をさまようか、物に憑(つ)き、動植物になったのである。 学者としても偉大で人徳もまた高かった菅公(かんこう)が、藤原時平のために追われて大宰府に謫死(たくし)すると、雷となって京都にいたり、時平公を殺したという伝説がある。 また、化して虫となって天井板を食うたという話は、たしかに『大鏡』にみえていたと思う。浮かばれざるこの霊を慰めなければ、その恨みは後世にまで及ぶであろうために、天満天神(てんまんてんじん)がまつられたのである。
    (《民間暦 神送り》P.219〜220)


     高野山は諸社寺のなかでもっとも広い荘園(しょうえん)をもっていたが、その初めには源頼朝の寄進(きしん)にまつものが多かった。 これは(だん)ノ浦合戦(うらがっせん)に亡びた平氏の霊をなぐさめる心からであって、寄進せられた荘園も平家の領有だったものである。 日本歴史の上では逆臣である平将門(たいらのまさかど)や弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、民間では神にまつられているのもやはり同じような理由からであろう。 むろんこれらは別に唱聞師(しょうもんじ)や道饗祭の附会もあるが、ただそれだけではなかったと思う。
    (《民間暦 神送り》P.220)


     加賀篠原の合戦に戦死した斎藤実盛が化して稲虫となったという伝説は各地に存し、実盛虫別当虫の名をきくが、虫になったのは実盛様だけでなく、九州では熊谷弥五郎という悪党が殺されて弥五郎虫になったという話がある。 播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)のお菊はお菊虫になり、近江(おうみ)では玄徳という僧がになっている。 そうしてずっと北のほう、下北半島には半太という侍の子が盗人の嫌疑で非業(ひごう)の死をとげて虫になった話がある。これらはみな(わざわ)したのである
    (《民間暦 神送り》P.220)


     かくのごとくに怨霊(おんりょう)となって(たたり)をなすのは、知名の士悪党ばかりでなく、餓えて行き倒れとなったものをはじめ、殺された動物伐られた植物にまで及んだ。 さればその慰霊(いれい)のために、海辺では(ぼら)供養塔(くじら)供養塔いるか供養塔鳥供養塔、野の村では虫供養塔などがたてられたのである。 また寺々では万霊塔をたてたのも同じ理由からである。
    (《民間暦 神送り》P.220〜221)


     は精霊をまつるとき、精霊棚(しょうりょうだな)の端、または縁側などに目に見えざるこれらの霊に食物を与える風が各地にある。フスケジョーともホーカイスジョーともフケジョロともムエンボトケなどともいっているが、家の仏をまつるとともにこの霊をまつらねばならなかった。 かの六月と十二月の道饗祭も結局、いま個々の家でおこなっているこれらの行事の根源であったとも思われる。
    (《民間暦 神送り》P.221)


     このような霊を、その神送りのときに、神々に連れていってもらったここに悪霊退散神送り混同がみられるにいたったと考える。 この過程を示すものに田植えののちの虫送りがある。虫送りの行事はほとんど全国的といってもよいほどおこなわれている。鉦太鼓(かねたいこ)を鳴らし、旗をたて、または松明(たいまつ)をたいて村はずれまで送ってゆく所が多いのであるが、このとき藁人形を作ってかついでゆく地もある。
    (《民間暦 神送り》P.221)


     この人形を斎藤実盛(さねもり)だといっている所が多いのだが、和歌山県の南部では虫送りというほかに、サナボリ送りなどともいっているところから、実盛はおそらく、サノボリの転訛(てんか)と考える田の神の義であろう。 田の植え初めの行事をサビラキともサオリとも言っているところが多く、植終いを、サノボリサナボリサナブリなどと呼んでいる。のぼってゆくであろう。 サののぼるのを送るのがサノボリの行事であった。 これがサネモリに転じたことはいちおう考えられるわけである。 そうした田の神ののぼってゆくのに対して、害虫を託したのである。
    (《民間暦 神送り》P.221〜222)


     祝言

     土地によっては、ハガタメの餅をたべたあとで、すぐまた雑煮をくうという例のあることをきいたが、その所をいまはっりと覚えていない
    (《民間暦 祝言》P.231)


     正月の行事は、じつは一年じゅうおこなわねばならぬことの理想的な相(すがた)を一度予習しておくものが多い。 つまり、その理想の型をおこなって、かくあれかしと祈ったのである。 これを予祝という言葉はあたらないが、かりに私はこう呼んでおく
     したがって予祝は食物の上にのみではなかった。(まき)も一年じゅうゆたかなのがよかったのである。門松(かどまつ)をたてるとき、その根もとの周囲にたてかける丸太や割木をサイギとかサエギという地があるが、山口県大島郡久賀町では、もとはサエギは十二本または十三本にきまっていたというから、十二ヵ月の薪を象徴したものであっただろう。 いまではこの木を、門松を支える木のように思っているところが多いが、もとはそうではなかったことが宮崎県南那珂郡酒谷村での、サイギは百余本も門松の周囲にたてかけたものであったことなどから肯定される。 つまりはただ門松の根におけばよかったらしいのである。
    (《民間暦 祝言》P.233〜234)


     ところが、このカセドリは東北地方にも広くみかけられる行事であって、一様に蓑笠で顔をかくし、餅をもらってあるいた。 その差というものはごくわずかで、「祝います」というかわりに物を鳴らしたり、鶏(にわとり)の鳴き声をしたりしている。 だから岩手県水沢ではケッコロともいっている。
    (《民間暦 祝言》P.245)


     このカセドリとそっくりの行事を山口県ではトエトエともトイトイともいっている。 支度も一つ、銭さしをもってくることも一つ、ただ穂状のものはもってこないが、その他はすべて一つであった。 ただ大きな差は相手の注意をよび起こす言葉で、それがトイトイとかトエトエとかいわれたのである。トイトエ柳田先生賜え」であろうといっておられるが、これはまったくそのとおりであろう。 トイに近いトビとかトメとかいう言葉はずいぶん広くあって、中国から四国では、ものをもらったときのおかえしのことであるが、九州の東海岸地方では、正月十一日の田打ち始めのとき田へもっていって供えるのがトビであり、お年玉トビであった。
    (《民間暦 祝言》P.245)


     ホトホトの行事は中部地方にはうすいが、関東に入ると、トタタキバタバタとよばれ、東北ではカセドリとなり、またナマハゲナモミタクリスネカサマなどとよばれて、ほぼ同一の行事が全国に分布している
     この行事について考えてみねばならぬのは、これに携わるものが多く青少年であったことである「訪れる神」の項においても延べたごとく、単なる物乞いではなかった。 すなわち神の零落(れいらく)した姿であった。
    (《民間暦 祝言》P.247)


     山口県玖珂(くが)郡の山間ではトエトエにくるのは村の若者子供および貧しい人々であったという。 しかし若者や子供は自分の村の家々をもらって歩いても、大人だけは他の村へ出かけたという。 そうして若者や子供がやめたあとも、他村からくる分は、まだ当分つづいたそうである。 なお、この仲間はほんの少々ていねいな祝言を述べていったという。職業化するまでにはならなかったが、ゆくゆくはそういう仲間が門付(かどづけ)の羞恥(しゅうち)をはなやかな祝言で包んで、しだいに芸能化していったのではなかろうか
    (《民間暦 祝言》P.247)


     六日はオニゴモリといい、小さいを拾ってきて床に供える。 次に(しば)をいろりでたく。 これは音のするものがよい。 次に豆をいって、主人が、
     「福は内 福は内 福は内
     と豆まきをすると、家の者が、
     「鬼は外 鬼は外 鬼は外
     とて床に供えた石を投げつける。 こうして外に向かって、
     「鬼をたたき出した
     というと、外へ子供がきていて、
     「たてこうこう、ビョウ ビョウ ビョウ
     と鶏のなきまねをする。 部落の子供は四十人ほどおり、これが二組に分かれていて家々をまわるのだが、豆まきをする家は全部ではなく、豆まきをしたいものが子供たちにあらかじめたのんでおく。 子供はそっとやってきて、どこかで息をころしてひそんでいて、豆まきのあとでなきまねをするのである。 そうするとその家では子供たちに豆をやる。 この行事はむかし鬼がやってこようとするとき鶏がないたので逃げていった。 それをまねるのだという。
    (《民間暦 祝言》P.249)


     年占い

     (からす)占いはだいたい西日本ではなかなだめずらしい行事になってきているけれども、同じ山口県玖珂郡の正月に訪れ来る万歳の祝言のなかに、「烏になんぞ、さしやかざりて」という文句があるから、ずっと以前は決してまれな行事ではなかったと思われる。
    (《民間暦 年占い》P.260)


     かくのごとくにして、占いはやはり正月行事として大切なものであり、はもと尊ばれたる鳥であった。 明治初年日本にきて、動物学や考古学の創始に力をつくし、かつ日本を深く敬愛したモールス教授『日本その日その日』をよむと、日本人が烏ときわめて仲のよかったことを描いており、北上川を下る船での見聞では、川岸につないだ小舟で物をあらっている女の三尺もはなれていないところに、烏がとまって女の仕事をみているところをスケッチして、人と烏の親善ぶりに驚嘆しているが、人と烏の親しくならなければならぬ理由はこういうところにもあった。 なお烏占いについては、柳田先生がかつて東京朝日新聞に「烏勧請のこと」という興味深い話を書かれたことがある。
    (《民間暦 年占い》P.260)


     鳥をもって占ったのは烏だけでなく、能登(のと)の気多神社(う)祭りにはをもって占っている。かくて占いはもと神事であった。 すなわち神の御声を聞こうとしたのであるが、とくに正月の神一年をも予言する神と考えられていたのである。
    (《民間暦 年占い》P.261)


     除厄

     予祝(よしゅく)(祝言)・予見年占い)が多く正月におこなわれたのに対して、除厄は時々の行事におこなわれている。 そして折り目の日の行事は、正月以外は除厄を中心としたものであったといって差し支えない。 正月に予祝し、予見し、かくあれかしと予定したものを、時に来ってくずそうとする災厄(さいやく)に対して、これを祓(はら)おうとする行事は臨時にもおこなわれたが、多くは定期の節日(せちにち)であった。
    (《民間暦 除厄》P.261)


     それらの節日には神の降臨があったからで、神の威力を借りて災厄を祓うことは常民としては意義のある方法であった。 むろん正月にも除かねばならぬ災厄は多かった。 そうしてここにも農耕を中心にした多くの行事をみる。 農作物をわざわいするものはまずの類である。 そこで虫の口焼ということをした。
    (《民間暦 除厄》P.261)


     大阪府南河内(かわち)郡滝畑では、大晦日(おおみそか)と節分の夜これをおこなった。 この日の夕飯は麦飯で、麦のない家は麦の葉を入れて飯をたいた。 麦を食べる理由は、麦は二年にわたって作るものであるゆえ、麦をたべることによって無事に越年しようとしたのであるという。 この日はまた(いわし)をたべた。 これは焼いて膳にすえるのである。 その家内の夫婦にすえた鰯の頭をとり、それを萩(はぎ)の串(くし)をこらえてさし、一つは大戸口に、一つは石垣にさす。 鰯の頭だけでなく、モッコクメッコユズリハをも添えて串にさすのである。 すると日が暮れてから子供たちがきて、石垣にさしてある鰯を焼く。 その臭気で魔を祓うのである。
     「ナムシのクチヤコに来たでえ」と年上の者がいって、

      ナムシの口焼こ
      (いのしし)やの鼻を焼こ
      おんごろもち(土竜)の鼻を焼こ
      盗人のホデを焼こ
      げんし坊主の寝言には
      剃刀(かみそり)持て来い砥(と)を持て来い
      尻ひげまらひげ剃ったるぞオ
      焼いたるぞオ焼いたるぞオ


     と唱えつつ子供たち大ぜいで焼く。 焼くには肥松(こえまつ)か竹の松明(たいまつ)を用いた。
    (《民間暦 除厄》P.262〜263)


     虫焼きの行事は各地に広く分布していて、和歌山県有田郡にも相似た行事があった。 ここでは節分の晩に鰯の頭大根の尻とをにさしたのを道の辻にて、(わら)と虎杖(いたどり)の枯茎で焼くのである。 このとき、

      やくやく 金亀の虫口焼く
      猪猿の口焼く
      菜虫の口焼く
      浮塵子(うんか)の口焼く


     と、農産物に害のあるものの名をならべたてる。 焼き焦がした大根の尻鰯の頭と、(ひいらぎ)の小枝とを、その道の辻にたてておき、半分はもちかえって軒にさす。
    (《民間暦 除厄》P.263)


     その他では『歳時習俗語彙』にみえたものだけでも、対馬(つしま)のクチイビリ(一月六日)、壱岐(いき)および馬渡島の虫焼き(一月二日)、淡路物部組の虫の口焼き(節分)、徳島県和食町のコウの口焼き(一月二十日)、奈良県吉野郡山辺地方の蚊(か)の口焼き(一月十五日)、長野県北安曇(あずみ)郡のジリジリ坊および口焼き(一月十四日および十五日)、長野県佐久郡および山梨県北巨摩郡の虫除け行事(一月二十日)、新潟県東蒲原(かんばら)虫除けの火(毎月一日焚く)、川越市附近の虫焼き(節分)、栃木県野上村の万(よろず)の虫の口を焼くという唱えごとなど多数にのぼっている。
    (《民間暦 除厄》P.263〜264)


     長野県南安曇郡では十二ヤキともいい、節分の晩におこなった。(かや)の木松の木または豆の木の一尺くらいな棒の先を二、三寸さいてその先に田作りの頭をはさみ、その木の皮を削って、十二月と書いたものをいくつかこしらえ、そのはさんだほうを下にして、豆をいるときの火か、夕飯をたいた残りの火の中をかきまわしながら、

      の虫もじゃもじゃ
      の虫もじゃもじゃ
      大根の虫もじゃもじゃ
      茄子(なす)の虫もじゃもじゃ
      (うり)の虫もじゃもじゃ
      の虫もじゃもじゃ
      の虫もじゃもじゃ


     と四十二の作物の名を呼んで虫を焼き、そのあとで戸口に左右二本をさしておく。 家によっては一束にして、大黒(だいこく)様の棚の隅にあげておいて、翌朝下げて食べる所もある(『同郡年中行事』)。 このようにしてまず虫を祓(はら)
    (《民間暦 除厄》P.264〜265)


     次に鳥が追われる鳥はだいたい二度追われた。 一度は七草(ななくさ)をきざむときであり、一度は正月十四日または十五日である。 七草をきざむときに、七草を俎板(まないた)の上にのせて摺子木(すりこぎ)、火箸(ひばし)または庖丁(ほうちょう)の裏などでたたきながら唱えごとをする。 川越市附近では、

      七草なずな
      唐土(とうど)の鳥が
      日本の国に渡らぬ先に
      ストトントントン


     と唱えるという。 この言葉は土地土地で少しずつ違うが、「唐土の鳥が日本の国に」という言葉だけはどこにもたいてい残っているようである。 ただ新潟県下あたりではセンタロタタキなどとよび、

      千太郎たたきの太郎たたき
      宵の鳥も夜中の鳥も渡らぬさきに


     と唱えて七種の品をたたくというが、北魚沼地方では、七草はたたかないで摺鉢メグリボウでたたきながら唱えている。 そして七草の行事は、ほとんど全国に及んでいるといってもよいほどであって、きわめて分布が広いのである。 それをきざむのにあたって、物でたたいて唱えたということは多分に鳥を追う意味があったのである。 たたくなり、土を踏みならすなりするようなときには、十五日の土竜(もぐら)追い鳥追い、六月の虫送り、十月の(い)の子(こ)をはじめ、その他臨時の行事についてみても、物を追うているのである。
    (《民間暦 除厄》P.265〜266)


     では、なぜ七日に鳥追いをしたかというに、多分この日をある時代には大正月の終わる日として、大正月の神を送るにつけて、鳥の祓徐(ふつじょ)をしたものかと思われる。 青森県三戸地方では正月七日を大正月の終わりとしていることは前述した。 それから小正月までのあいだの数日をモチアイと言っている所は同じ地方にもあり、新潟県の古志(こし)郡では、七日から十四日までをモチナカといったという(『歳時習俗語彙』)。
    (《民間暦 除厄》P.266〜267)


     七日の鳥追いが家の中での俎板(まないた)たたきと簡単な呪文(じゅもん)にすぎないのに対して、小正月の鳥追いは本当に賑やかな行事になっている。 しかし、この日の鳥追いは中部地方以東が盛んであって、西日本にはあまりみられない。 その分布の範囲からみると、のちに起こったものかとも思われる。 その追うのが晩である場合と朝である場合とがあり、朝であるときはアサドリオイといい、夜の場合はヨノトリオイといっている。 また宮城県地方ではエジロワリともいっている。 新潟県の魚沼地方はことのほか雪の深い所であって、六、七歳から十二、三歳までの子供たちは丈余に積もった雪に穴を掘ってユキムロとかユキアナとかいうものを作り、十四日の夜は一軒一軒を歩きながら、

     はんにゃほうほう
     はやりまつの鳥奴(とりやっこ)が
     追っておくりゃれ塞(さい)の神
     やーい、ほい


     と唱えて餅をもらい、これで雑煮(ぞうに)など作ってユキムロで食べてたのしむという。 土地によっては一軒一軒を歩かないで鳥追櫓(とりおいやぐら)というのを作って、そこで追うたともいう。 雪のなかの子供たちは、これがまたとないたのしい行事であったという。
    (《民間暦 除厄》P.267〜268)


     秋田県の阿仁地方も鳥追いはていねいにおこなう所であった。 七、八歳から十四、五歳までの子供たちが小さい部落であれば一組になって、十五日の晩おこなう。 手に手に柳の若枝の皮をはいで模様をつけたものをもち、これで板を打ちながら、

     朝鳥ほいほい
     夜鳥ほいほい
     長者殿の裏地(カチク)で
     稲食う鳥コと
     粟(あわ)食う鳥コと
     いっち憎い鳥コに
     頭割って塩つけて
     塩俵に打ち込んで
     上下に流せ
     能代のおじゃちゃ(若い娘)
     鳥追ってたもれ


     と唱えてあるく。暗い雪夜のこれはさびしい風景であるという。
    (《民間暦 除厄》P.268〜269)


     秋田県平鹿(ひらか)地方の子供たちも、カマクラという雪室(ゆきむろ)を作って一戸一戸鳥を追ってあるいた。 鳥追いの言葉が山形県田川地方では「よの鳥ホオエホエホエ とうどの鳥といなかの鳥と 渡らぬさきに・・・・・・」というから七草(ななくさ)の唱えごとに近くなる
    (《民間暦 除厄》P.269)


     福島県の海岸地方鳥小屋行事は子供たちが小屋を作ってこもり、鳥追いの詞(ことば)をとなえて村をまわり、しまいには火をかけて焼くことになっているが、その小屋は、新潟のユキムロや秋田のカマクラと同じような意味をもったものであろう。
    (《民間暦 除厄》P.269)


     鳥追いの行事は西日本にもないことはなかったが、京都附近では早く職業化し芸能化した。 これは十五日のほうからきたものか、七日のほうからきたものかはっきりしない。上方(かみがた)の鳥追いは多く女だったようである。編み笠をかぶり、三味線を小脇にかかえた女が門付(かどづけ)をしてきた。 そうしてもう野の鳥を追う呪言をきくことはできなかったが、その名はみとめていた。 作物を荒らすのは、虫や鳥ばかりでなく土竜(もぐら)もまた想像以上に人を苦しめたものらしく、土竜追いの行事はほとんど全国にわたっている。
    (《民間暦 除厄》P.269〜270)


     九州地方では、正月十四日の晩に藁(わら)を束(たば)にして土を打ってまわる行事があった。 これをモグラウチといった。 佐賀市に近い農村では子供たちが家々の前を打ってまわったといい、宮崎県南那珂(なか)郡市木村あたりでも同様であったが、若い娘をみると娘の尻も打ったので、この日は娘たちは家にかくれていたという。
    (《民間暦 除厄》P.270)


     ところが、実際には女たちを打ってまわるほうが九州には断然多くて、「少くとも福岡・佐賀・長崎の三県を通じて、是を土竜の害を防ぐ呪法だと思って打つてゐる者はない様にみえる」(『歳時習俗語彙』)といわれるまでに行事の意味はかわり、むしろこれで若妻などが尻を打たれることにことによって児が生まれると考えるにいたった。 そうして鹿児島県地方では、これをハラメウチともハラメッソともいっている。 土竜打ちハラメウチとは、もと別の行事であったと思われるが、九州ではいちじるしい混乱をきたしているのである
    (《民間暦 除厄》P.270)


     これが本州に渡ると、土竜追いは立派に呪言をもった土竜を追う行事になる。 近畿以西の各地では、正月十五日に、「もぐらどん内にか、トウラゴどんお通りだ」と唱えて歩く風があり、東北地方では実際に海鼠(なまこ)をひいて歩いている。 トウラゴは海鼠の方言で、山口県大島では十五日にはこの行事はなくなっているが、呪言のほうは童謡になってのこり、土竜の害がはなはだしくなると海鼠の煮汁を畑にそそぐ風があって、年中行事ではなくなっている。 近畿から中部へかけては、海鼠のかわりに横槌(よこづち)に縄をつけて、畑をひいてまわり、「もぐらもちはおうちにか、なまこどんのお見舞いだ」と唱えている。 むろん、呪言は土地によって違うが、追わねばならないものが土竜であったことは一致している。 そうしてこれが京都や大坂の市中にまでおこなわれていた。 大阪市では大正に入ってまでおこなわれていたというから、あるいは地方から移ってきた人がおこなったかとも思われるが、年始の一風景であったらしい。
    (《民間暦 除厄》P.270〜271)


     群馬県南甘楽(かんら)地方では、十月十日に藁棒(わらぼう)で土をうってまわるのをむぐら追いといい、川越市附近では同じく十月十日のいわゆる十日夜(とおかんや)を田の亥の子といい、子供たちが藁鉄砲で家々の庭を打ってまわるが、この庭固め鼠や土竜を封じるためといっている。 またこの日イノコボタモチモグラボタモチを作って飽食すべきものだともいっている。
    (《民間暦 除厄》P.271〜272)


     みずからが富むということも理想とする幸福の一つであろう。 しかし、そういうことを希求する行事は資本主義経済のおこなわれた都市において盛んになってきた。 正月十一日の帳祝いまたは金祝いといわれるものはこれである。 これらの行事は除厄というよりも招福の心が深い。 そして招福の思想はむしろ後来のものであったと思う。 われわれは理想とする生活を予定するとき、悪しきものさえ祓えば、そこによき生活はあったのであり、招福の気持ちはむしろ個々の希求が強くなって起こったものであろう。 一例をあげれば厨房(ちゅうぼう)の神としてしかめつらをしていた大黒天−−火の神の顔が笑みはじめの上に坐り小判を打ち出すにいたったのは後世である
    (《民間暦 除厄》P.278)


     年(とし)の夜の床のけがれ、悪しき夢を祓(はら)うために、船の絵を書き、また歌などを書いてこれを床の下にして寝、翌日そっと流した夢流しの船かくれ蓑(みの)をのせ、俵をのせ、小判をのせ、ついには七福神までのせて宝船に発達させてきた過程も歴史のほうで明らかになる
    (《民間暦 除厄》P.278)


     かくして招福の思想および行事は、自由意識のともなう個人思想の発達につれて他人よりはよい生活をとの希望とともに漸次(ぜんじ)強くなったものであろう。
    (《民間暦 除厄》P.278)


     いまひとつつけ加えておきたいのは、われわれの身を幸ならしめんとしたものに食物がある。 食物のもつ霊威をわれわれの祖先は早く感じていた。 とくに神に供えた食物に威力ありと考えた。
    (《民間暦 除厄》P.278〜279)


     神との共同飲食はかかる意味から大切な行事で、神を迎えてともに食する風は単に神社の祭礼(とくに宮座(みやざ)において)ばかりでなく、節日(せちにち)の行事にもこれをみる。 宮の祭りに列したものが宮より持ちかえって家族近隣と頒(わか)ち食うものを宮笥(ミヤゲ)とよび、これがいまの土産(みやげ)の語になったのである。 ミヤゲは持ちかえり配らねばならなかった事情は、要するに幸を多くに頒(わか)たんとすることにほかならなかった。
    (《民間暦 除厄》P.279)


     一月十五日はモチの粥(かゆ)をたべた。 この粥は果物(くだもの)の木にまでたべさせて豊穣(ほうじょう)ならしめんとしている。 二人の者が一人は(おの)をもち、
     「なるかならぬか、ならぬと伐るぞ
     といえば一人はをもって、
     「なります。なります
     と、その粥を木の幹にふりかける行事が全国にわたっておこなわれている。 ナリキいじめともナラキドともキマイリとも、その他いろいろにわたっておこなわれているが、木に粥まで食わせようとしたのは、この粥の威力が信じられたからで、人食(しょく)すれば無病息災であると思ったのである。
    (《民間暦 除厄》P.280)


     四月八日には甘茶をのむ。甘茶で種子物をあらって蒔(ま)と発芽がよく豊作だというのは正月十五日のキマイリを思わせる。
    (《民間暦 除厄》P.281)


     五月五日には菖蒲酒(しょうぶざけ)をのみ、(ちまき)をたべた。 粽の霊力は、これを吊っておけば、長虫が入らぬということでも分かる。 また大阪府の和泉(いずみ)山中では、妊婦が産をするときたべさせると産がかるいともいう。 青森・岡山などで産のときに力米とて産婦に生米(なまごめ)をかませる風がするが、それと同じような意味をもったものであろう。
    (《民間暦 除厄》P.281)


     六月一日にはハガタメ餅とて、正月についた餅をのこしておいてこの日たべる風が関西にはあった。 正月のハガタメと同じ心持ちがあったのであろう。
    (《民間暦 除厄》P.281)


     六月十四日の祇園(ぎおん)祭りには逆に胡瓜(きゅうり)をたべてはいけないとて、たべてならないものもあった。 これは胡瓜の切り口が祇園の神紋に似ているからだという。
    (《民間暦 除厄》P.281)


     半夏生(はんげしょう)にはハゲ団子とて小麦の団子を食う地が近畿・中国にみられたが、大阪附近ではむしろ蛸(たこ)を多くたべている。
    (《民間暦 除厄》P.281)


     八月一日の八朔(はっさく)には、餅または団子をたべた昼寝の取上げ餅とて河内(かわち)などでは、この餅をたべると、もう昼寝は許されなかった。 だからたべるほうでは、ネブタ餅という。
    (《民間暦 除厄》P.282)


     九月節句には(くり)をたべ、または菊酒をのむ風があった。魔を祓(はら)うものであるという。 山口県大島地方は出稼ぎの多い所で、女もずいぶんたくさん出ていった所である。 そしてときには春をひさぐような境涯にまでおちていったものが多い。 そこで女たちは、その故郷を出るときは必ず、三月の桃の花、五月の菖蒲(しょうぶ)、九月のを少しずつ肌身につけて出ていったという。 もし身をおとして女郎(じょろう)にでもなるようなときは、いちど獣と交わらねばならぬということを女たちは真面目に信じていた。 もしそのとき獣の子を孕(はら)むようなことがあれば、この三つのものを煎じてのめば、下りるものだという。 多分は人蛇交歓の昔話の影響ではないかと思うけれども、明治初期の出稼ぎにはこんなさびしい決心もして出ていったのである。
    (《民間暦 除厄》P.282)


     むすび

     節日(せちにち)のそういう歓楽(かんらく)もじつは神に示すべきわれわれの幸福の象徴ではなかったかということは、これが多く神の降臨を仰いだ庭でおこなわれたことによって考えられる。 必ずしもこれを不道徳だとは考えていなかった。 そういう日の解放によって後日男女の恋愛はあっても、それは多く健全なものであった。 村人がその男女の関係の成立をみとめたときは、終わりが不首尾になることをきわめて強く戒(いまし)めている。
    (《民間暦 むすび》P.285)


     しかし都会の発達や新しい暦の流入、新しい文化は、こうした晴の日と平生(へいぜい)の日の区別をしだいになくした。 大都会の盛り場などはいつみても美しく、いつ行っても田舎の祭りよりは御馳走が食えるのである。 かつては、また、田舎では買い物は市日ときまっていたのが、いつでも買えるようになった。戒しむべきは、のべつなきこの消費であって、村人が時折の晴の日に、ややはなやかに振る舞うそれではなかったはずだ。
    (《民間暦 むすび》P.285)


     あとがき

     この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦(ふくしょう)しているようなものである。 それも悪くすると誤っているところが多いであろう。 いわば先生から教えられたことを、学校における答案のようなつもりで書いたのである。 そして、この書のテキストとなったものは『歳時習俗語彙』である。
    (《民間暦 あとがき》P.287)


     ところで、この書物がこんな形になってしまった事情は、いちおう述べておく必要がある。 ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていたことから、これを調べてみたく思って、四、五年前、民俗関係雑誌のなかから、子供に関する記事を書きぬいていた。 それが、書きぬいてみると不思議に年中行事に関する報告が多かった。 しかしこの仕事はあまり進まないで、ノートの紙に四百枚ほども書いて中止になった。
    (《民間暦 あとがき》P.287)


     そのころ『高志路』を編纂している小林存翁と、新潟県下におこなわれるインノコツイタチ(二月一日)について議論したことがある。 私はこれを春亥(い)の子(こ)だろうといったのに対して違うという抗議があって、若僧のくせにこの闘志満々たる翁に喰ってかかったのである。 結局知見のせまいものの議論はそれこそ議論倒れになるもので、もっとよく調べてから出直しますと旗を巻いた。
    (《民間暦 あとがき》P.287〜288)


     これらの方法によるには年中行事全体がいちおう頭のなかにはいっていなければならない。 すなわち全体観をもっていないと大へんな思い違いをすることがある。 そこでやはりいちおうは概観から入るべきものである。 公刊して人に示すというよりも、まずみずからの態度をきめてかからねばならないと考えて、『歳時習俗語彙』を中心にして、折口博士の年中行事を参考に、自己流に組みたててみる気になった。 そうして前半で概観しておいて、後半で亥の子行事のやや綿密な考証をおこなってみようとする案をたてたのである。 これは序論において述べたような方法によって……。 ところが書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしまうことを知った。
    (《民間暦 あとがき》P.289)


    亥(い)の子(こ)行事−−刈上げ祭り

     元来、亥の子なる名称は文献にみえるところではあまり古くないようであるが、十月は中国では下元にあたり、また亥の月であった。 日本でも十月の亥の日を祝う風は平安時代からあったようで、『源順(みなもとのしたごう)集』に「天元六年十月初の亥の日、右大臣の女御のもひをけどもに、もちひくだりものもりて、うちの女房どもにつかはす次でに、大臣にもひをけ一つ奉らせ給ふ。 銀にゐのこ、かめのかたを作りて」とあって、この日、餅をつくり、また、いのこの形を作ったことがみえており、『源氏物語』でも「ゐのこのもちまゐらせたり」とある。 何故に亥の子の形を作ったものであろうかとのことは、『蜻蛉日記』の左記事によって察せられる。
       当代の御五十日に猪の子の絵を作りたるけるに
      よろづ世をよばふ山辺の猪の子こそ君が栄ゆるよはひなるべし
        (円融)

     すなわち亥の子は多産なるがゆえ、産育の祝いには亥の子に因むものが贈られたのをみるのであるが、亥の日の祝いにもかかる産育の祝いがふくまれていたようである。 『下学集(かがくしゅう)にも「十月亥日食餅、令人無病、又説、亥能生多子、故女人豕之日餅祝」とあり、『節用集(せつようしゅう)にもほぼ同様な記事をみかけるのである。
    (《民間暦 亥の子行事》P.303〜304)


     ところが室町時代に入ってから、漢字で書かれたものをそのまま漢音でよむふうが流行するようになって亥の子玄猪と書いてあったものだから、ゲンジョとかゲンジョウとよむようになったようである。そしてまた、これが誤られてゲンジュウともいわれた。
    (《民間暦 亥の子行事》P.304〜305)


     こうして玄猪餅をのちには御厳重というようになった。
    『御湯殿の上の日記』にも、
      慶長三年十月七日、たんばののせこゝろみに、長はしよりとりよせ候て、十二がうまゐる。 十一日御ゐのこにて、いつものごとく御げんじやう、中いだしあり、のせ久しくまゐり候はぬとて、たんばへ尋ね候へば、こしらへこんよし申候て、長橋より百講申つけ候(中略)ゐのこてんのかちん、いつものごとく二折参る。 (中略)八年十月五日、御ゐのこにて、御げんじやうはう/”\より参りていづる。 夕かた御さか月三ごん参る。 つく/\いつものごとく、そとへぎぬにて参り、女中をとこたち御とほりあり、御げんでうくださるゝ、しやうぐんへ御げんでう、うすやうにつつみて参る。 十七日御ゐのこにて、御げんでうはうばうより中に参りていださる。 夕かた御さか月いつものごとく、女中をとこたち御とほりあり。 廿九日御ゐのこにて、御げんでうどもはうばう中に参る。
     とあって、亥の子餅を「御げんでう」といっている。 そうして亥の日には必ずおげんじょうなる餅の献上があったようである。 そしてその餅を献上したのが丹波能勢(たんばのせ)の里ということになっている。 ただし、能勢の里は丹波の国ではなく、摂津の国である。
    (《民間暦 亥の子行事》P.305〜306)


     時代は再び現代にかえるが、遠州地方では牡丹餅(ぼたもち)をつくり、稈心ミゴ)二本を一升枡(ます)の底にしき、黄粉餅(きなこもち)を下に、小豆粉餅を上にしてミゴで切って食うという。餅をミゴで切って食うふうは大和地方の秋の宮座(みやざ)にもみられるところであるが、やわらかい餅はこうしてちぎるのがいちばんよい方法であったばかりでなく、農業祭としての性格がそこにみられる。 尾参遠におけ亥の日はかかる意味をもっていたようである。
    (《民間暦 亥の子行事》P.309〜310)


     案山子あげは通常十月十日におこなわれる。 十月十日はこの地方では十日(とおか)ン夜(や)といわれているが、関西では十夜(じゅうや)とよばれる仏教行事のおこなわれる日である。 そしてこの十日ン夜が関東では亥の子ともよばれており、関西の亥の子と同様な祭りをおこなう日であった。
    (《民間暦 亥の子行事》P.317)


     信濃(しなの)地方では十日夜は純然たる田神祭りになる。 長野県下伊那富村では、「山の神は田に稲のあるうちは暇なものだから、山から下りて田へ出てきてカカシとなって田を見張っているオバシアゲ(刈上げ)の御祝いのときには座へカカシをつれてきてかざる。 餅をついて小豆(あずき)をつけ、新しいツトに二つ入れてあげる」(『案山子号』)。 同郡川島村では「昔は、とおりの所へ臼をすえ、其処(そこ)へ道具を寄せ、それに蓑笠(みのかさ)をつけてうまく案山子の形につくり、餅をついて藁のツトッコにのせそれを斗枡(とます)に入れて進ぜた。 今はもうほとんどやる所がないようだ。 それでも餅ぐらいはついて神様へは進ぜる家はあるらしい。」(『上伊那郡川島村郷土誌』)という。けだし十日ン夜作神(さくがみ)の祭りかくのごときものであったと思われる。 同県南安曇(あずみ)では案山子をソメといった。
    (《民間暦 亥の子行事》P.317)


     次に、ツトスボキも食物を入れる用具の名であり、運搬すべき食物は古くはによったものである。藁棒の形が苞の形に似ているゆえにこうよばれたものであろうけれど、この藁棒が土を打つものであった前に送るべき神の供え物を入れる用具ではなかったかと考える。 すなわち前述せる鹿児島県伊藤村の亥の日の餅は苞に入れてイボタの木の枝にかけるものであり、宮崎県阿多村や鹿児島県日置(ひおき)郡の例および長野県下伊那郡の案山子(かかし)祭りに供える苞の餅がこれを物語る。 また同県南安曇(あずみ)郡では苞に餅を入れて田の畦にかけてくる風もあった。
    (《民間暦 亥の子行事》P.327)


     このように、送るべき精霊または神のために苞が用意され、かつ、石で鎮魂をおこなうのがこの日の本来の儀礼ではなかったかと思うのである。
    (《民間暦 亥の子行事》P.327)


    後記

     年中行事に含まれている問題は大きく、そこに民衆の生活が如実に出ていると思い、その追及をしてみたいと考えたこともあったのであるが、まだ念願をはたしていないことを校正刷をよみつつしみじみ反省した。 むしろ若い日よりも今のほうが退歩している。
    (《民間暦 後記》P.338)


     学問は息の長い仕事であり、飽くことなく一つのことを見つめてゆかなければならないものである。 世の中が騒しくなればなるほど逆に静かな情熱をもやさなればならないことを痛感する。
     昭和四十五年一月十七日
                      宮本常一


    (《民間暦 後記》P.338)


    解説 田村善次郎

     渋沢敬三アチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)の同人の協力を得て収集した二万点ほどの民具の寄贈によって設立された民族学協会博物館の民具の七割近くがワラ製品であることから、日本人の暮らしの中に占めるワラの重要性を知り、日本の稲作の特徴は主食としての米だけではなく、ワラ細工に適した良いワラを得ることにあったのではないかということなどは、宮本先生ならではの鋭い指摘ということができる。 やさしくわかりやすい文章であるから見のがしてしまいがちであるが、こういった先生独自の視点、見解はたくさんちりばめられているのである。
    (《民間暦 解説》P.344)


     この文章が書かれた昭和二十六年から二十七年にかけての時期は、日本が第二次大戦後の混乱期で、食料不足の時期をようやくのりこえ、農業が大きく変わってゆこうという芽生えの時代であったといってよいと思うのだが、その時代に宮本先生が推定された方向性や危惧は、いま読んでみてもそれほど大きくくるってはいないように思われるのだがどうであろうか。
    (《民間暦 解説》P.344)


     ともあれ、「新耕稼年中行事」の一篇は民俗学者であると同時に生涯を百姓として日本の農業や農民が如何にあるべきかを自らの問題として考えつづけた宮本常一先生の面目が、最もよく表れている文章のひとつである。
                        (武蔵野美術大学教授)

    (《民間暦 解説》P.345)